真鶴岩浦 萬寿冠者伝説の残る兒子(ちご)神社 

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岩地区で訪問した寺社は三ヶ所。曹洞宗の多寶山瀧門寺、帰名山如来廃寺跡、惟喬親王(平安時代初期、五十五代文徳天皇の第一皇子)とその子を祭神とする兒子(ちご)神社、
である。瀧門寺の創建は毛利元就が活躍した戦国時代の弘治元年(1555)、如来寺の創建は江戸時代初期の元和六年、兒子神社のみが平安中期の延喜年間(991〜922)
の創建と伝わっている。兒子神社はともかく、前の二ヶ所は「鎌倉時代を歩く」とは無関係に思えるのだが...兒子神社と瀧門寺と土肥遠平の養子萬寿丸に関して、伝承と
「新編相模風土記稿」と「源平盛衰記」(本文で記述)は面白い物語を展開している。
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瀧門寺参道の右手にある五層の石塔は江戸時代初期の承応三年(1654)の造立で重ねた構造ではなく一つの石から彫り上げた精緻な作として知られている。萬寿丸を葬った
岩松山光西寺(既に廃寺)にあった塔を移したと伝わっている。光西寺の遺構に関する資料は皆無だが、新編相模風土記稿が 萬寿丸の魂を祀ったのが兒子神社 と書いているのを
考えれば光西寺と兒子神社が神仏習合の関係だった可能性もある。岩浦の各スポットの位置図を参考に。


     

           左: 海岸に建つ「開帆の碑」を背にして真っ直ぐに100m進むと民家の脇に兒子(ちご)神社参道があり、すぐ石造りの一之鳥居に至る。
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           中: 更に右へ折れて境内へ。大きな神社ではないが参道は長い。7月中旬の例大祭は貴船神社ほどではないがそれなりに賑わうらしい。
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           右: 社伝に拠れば創建は延喜年間(901〜922)、祭神は惟喬親王(第55代文徳天皇の第一皇子)とその子だが「新編相模風土記稿」では
土肥遠平の養子・萬寿が祭神だと書いているらしい。惟喬親王は生母の出自が高くなかったため天皇になれなかった悲運の人物で、この地を
通った際に連れていた2歳の子が死に、親王と共に祀られたと伝わっている。親王が真鶴を通った必然性はないし萬寿伝説の信憑性も高くは
ないが、頼朝の行動に関連した情報があるため立ち寄らざるを得ないのが正直なところ。


     

           左: 境内右手に置いてある北海道沙流川産の「さざれ石」。国歌君が代の さざれ石の いわお(巌)となりて 苔のむすまで と歌われる石だ。
「さざれ石」の学名は石灰質角礫岩、「石灰石が長年の間に雨水で溶解され発生した粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が小石を凝結して
次第に巨石となり、河川の浸食作用で地表に露出して苔むしたもの」だという。「君が代」は天皇の治世を意味している以上、私は国歌としての
扱いを承服しない。厳密には、教職員の規律を強要するのは政治信条や信教の自由を保障した憲法に抵触する、と考える。
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           中: 境内左手に竜宮神を祀る社がある。もちろん竜宮と直接の関係はなく漁港の近くには珍しくない海の安全を守る神である。
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           右: 社殿は天保年間(1830〜1843)と明治26年に火災で焼失し、昭和八年に再建・整備されたもの。岩浦を一望するほどではないが見晴らしは
悪くない。本殿から直線で100m下に民家を転用した民俗資料館がある。社殿は天保年間(1830〜1843)と明治26年に火災で焼失し、
昭和八年(1933)に境内と共に再建・整備されたもの。

この頁は2022年 8月 2日に更新しました。