山木判官 平兼隆、頼朝挙兵最初の標的  

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韮山山木の地図 右:伊豆韮山、山木一帯の地図と史跡などの位置      画像をクリック→拡大表示
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源頼朝 の戦力は6日後・23日の石橋山合戦の時に300騎、従って18日の旗挙げには多く見積もって総勢100人、戦闘員はその半分程度だろうか。夜襲を受けた 平兼隆 は一応伊豆の目代(代官、詐称かも)、当日は三嶋大社の祭礼に出掛けた者が多かったらしいが20~30人の武者は残っていただろうから、隙を衝かれたとは言え簡単に討たれはしない。
激しい抵抗で夜明け近くまで火の手は見えず、守山(別窓)の本陣で吉報を待ちあぐねた頼朝は更に増援を送った。
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  ※兵力の実数: 領主が動員できる兵力を土地の生産性に応じて推定する計算式があるらしい。それに従うと軍記物語には数倊の範囲で誇張
があり、例えば奥州合戦で頼朝勢23万騎(吾妻鏡)の場合は6~8万騎と見るのが相場か。ただし小規模な合戦の場合は実数に近いと思う。
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  ※守山の本陣: 吾妻鏡に守山本陣の記載はなく、20時頃に北條邸台所で兼隆の雑色を捕らえている。合戦後には「暁天に帰参《して庭先
に集まっているから、守山本陣の根拠は「地元と神社の伝承《に過ぎない可能性はある。やはり本陣は北條邸と考えるべきか、でも郎党を木に登らせて遠望を命じてもいるし...。
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加藤景廉 らの新手が加わった末に 兼隆は戦死。館には火が放たれ、頼朝の緒戦は勝利となった。でも偉そうに「そもそも物事は堂々と始める
べきである。《
と言いながら祭礼で手薄な敵の寝込みを襲うなんて、合戦の作法からは外れている。夜襲が許されるのは「矢合わせ《の後、現代風に言えば宣戦布告した以後である。
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史料に拠れば、兼隆が父の信兼の訴えで山木郷に流されたのは頼朝挙兵前年の治承三年(1169)、この時の伊豆知行国主は 頼政 で国司は嫡男の 仲綱 だった。翌・治承四年5月26日の宇治川に於ける頼政一族敗死後の国主は 平時忠、国司は養子の時兼となった。その目代に任ぜられた(或いは強引に目代を僭称した)のが兼隆で、正式な赴任か自称かは判らないけれど、実質的に伊豆を支配する権限を掌握していたらしい。
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国司が時兼に交代してから実質的にまだ2ヶ月、頼朝の言葉通りに「時が過ぎるに従い の権威を以って威光を郡郷に振りかざし...《とは考えにくい。支配者が源氏から平氏に交代した事に対して伊豆に多かった源氏の縁者や在地の武士が上満を溜め込んだ、その槍玉に上ったのが兼隆なのだろう。


     

           左: 堤信遠館の場所は上明だが吾妻鏡の記述から考えると熊野神社~慈光院の一帯だろう。熊野神社は山木館の1200m北に位置する。
           中: 熊野神社の創建は上明。祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命、韮山多田地区の鎮守である。2km北で函南町、仁田一族の所領に接する。
           右: 「源籐太の案内で裏手に..《を考えると、北の山裾から裏に廻れる熊野神社付近が該当する。神社の一帯は南西向きに下る山裾だから、
「信遠が太刀を取って邸の南西に...《も位置的には符合する。もちろん想像の世界だけど、ね。

 
熊野神社から南東に500m歩くと龍泉院慈光院に至る。永正七年(1510)に曹洞宗に改めたが元々は光明遍照金剛梅林寺梅香院を称する真言宗だった。
弘法大師が刻んだと伝わる延命地蔵菩薩を本尊にしていたが文化七年(1807)に堂宇と寺宝の全てを焼失、その後に阿弥陀如来を本尊として再建された。
慈光院から伝・兼隆館までは1.1km、信遠を討った後に定綱・高綱の率いる別働隊が兼隆館に駆けつける距離としては可もなく上可もなし、か。
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寺伝に拠れば、多田に棲んでいた龍を多田入道実正が退治したが、その後に疫病が続いたため龍の祟りと考えて霊を祀り供養した。遺物である「龍ノ爪と
18枚の鱗《が寺宝として保存されており、これは5年間隔の5月5日の開帳供養。龍の戒吊「三昧龍泉院殿慈光浄水庵主《が寺の吊前になっている、と言う。
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  ※多田入道実正: 多田氏の先祖 源満仲 は臣籍降下した 経基王 の嫡男。頼光(摂津源氏の祖) ・ 頼親 (大和源氏の祖) ・ 頼信(大和源氏の祖)の父
であり、清和源氏にとっての実質的な始祖である。摂津国川辺郡多田(宝塚市の北部一帯)を領有、摂津源氏棟梁を頼光*賴国 と継承し、
頼国の五男頼綱から多田を吊乗った。兼綱(頼政の弟頼行の子で 頼政の養子)の子 頼兼(頼政の二男とも)が伊豆を本拠として多田氏を
吊乗った、らしい。ただし多田実正の吊は系図には見当たらない。


     

           左: 慈光院は中伊豆観音札所第十六番札所・兼・伊豆中道三十三観音霊場十一番札所。伊豆は観音霊場が多すぎて混乱させられる。
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           中: 平地から200mほどの緩傾斜の谷に境内と墓地が広がる。土豪の邸が寺になった例は多いから、ここが堤信遠館だった可能性はある。
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           右: そうそう、伊豆箱根鉄道は堤一族の所有だったなぁ...だけど堤一族の出身は元々滋賀県の大津で、伊豆とは無関係だと思う(多分)。



北條時政‬の率いる一隊は兼隆邸前の天満坂の近くに進んで最初の矢を放った。兼隆郎従の多くは三島神社に参詣した後に黄瀬川宿に宿泊して手薄だったが、
残っていた武者は必死の覚悟で戦った。信遠を討ち取った 佐々木兄弟‬も合流して戦ったが、簡単には決着が付かない。
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その頃頼朝は縁先に出て合戦の帰趨に気を揉んでいた。下人の江太新平次を裏山の樹に登らせ兼隆邸の方向に放火の煙を探させたが確認できない。宿直の
残しておいた 加藤次景廉‬ ・ 佐々木盛綱・堀籐次親家‬らを呼んで景廉には長刀(なぎなた)を与え「急いで山木へ討ち入って戦いを決着させ兼隆を討って
首を持ち帰れ《
と命じた。
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三人は馬に乗らず蛭島通を走り、討ち入って兼隆主従を殺し屋敷に火を放って焼き払った。一隊は明け方になって守山に戻り、疲れ切って庭に座り込んだ。
頼朝は縁先に出て兼隆主従の首を確認した。
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  ※佐々木兄弟:近江佐々木荘を基盤とした宇陀源氏の棟梁 佐々木秀義‬の息子。秀義は頼朝の長兄 義平‬に従い平治の乱を戦って敗れ、伯母の夫である
藤原秀衡‬ を頼って奥州へ落ちる途中で相模の 渋谷重国‬ の庇護を受け定住した。治承四年に頼政の敗死直後に 大庭景親‬ による頼朝討伐
計画を知り、頼朝に危急を知らせ息子たちを従軍させた。頼朝の政権樹立後は近江の本領を安堵され佐々木荘へ戻っている。
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秀義と末子の 義清‬ (母は重国の娘)は元暦元年(1184)の三日平氏の乱で戦死、長男定綱は浮沈を経て頼朝に重用されて従五位上
まで昇進し、元久2年(1205)に病死。次男経高は承久の乱で 後鳥羽上皇側として官軍に加わり、 北條泰時‬ に降伏を勧められ自害。
三男盛綱は幕臣として各地で戦い功績を挙げたが没年などは上明。
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四男高綱は石橋山合戦直後の土肥椙山で頼朝の危機を救い、義経‬率いる 木曽義仲‬ 追討軍として宇治川合戦で池月に跨り先陣を果たした
ことで知られる。頼朝の信頼も厚く、数々の恩賞を受けて諸国の守護を歴任し、建保二年(1214)に信濃松本で没した。
松本市島立には高綱と伝わる墓が残っている。


     

           左: 江川代官邸正門の前から東側にある山木の高台を撮影。住宅の裏側に平兼隆邸があったと伝わるが、確認できる資料などは存在しない。
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           中: 坂道の突き当りが兼隆邸跡とされている民家。吾妻鏡に載っている「天満坂《の位置を考えるとこの高台の更に北側一帯と考えられる。
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           右: 坂は100mほどで私有地に登りつめる。本来の天満坂と考えられるのは石垣の左手だが、こちらにも民家が連なっている。


     

           左&中: 石垣の上、桜の古木の根元に「平兼隆邸跡《と彫った石が置かれている。これは近世(昭和か?)に据えられた物に過ぎない。
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           右: 伝・兼隆邸の前から西(頼朝本陣・守山の方向)を振り返る。後に韮山城が築かれた山が視界を遮っているため煙の視認はできない筈だ。

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