頼朝主従は真名鶴(真鶴)の岩浦から安房国へ 

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岩浦の地図 左:真鶴の岩浦周辺に残る史跡の地図   画像をクリック→拡大表示
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【 能や謡曲に描かれた七騎落ちとは..】
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石橋山で敗れた 源頼朝 は安房に逃げようとして 土肥實平 に舟の用意を命じた。漕ぎ出したところで人数を確認すると主従合わせて八人(頼朝、土肥實平、安達盛長、新開忠氏土肥遠平岡崎義實土屋宗遠田代信綱だった。
謡曲では盛長の代りに何故か土佐坊昌俊が入るらしい。
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祖父の為義が勅勘を受けて九州へ落ちた時も八騎で、父の義朝 が平治の乱に敗れ美濃の 青墓 に逃れた時も八騎。「八」は源氏にとって不吉な数字だと考えた頼朝は「一人選んで下船させろ」と實平に命じた。悩んだ末に實平は最年長の岡崎義實を選ぶが拒否され、やむを得ず嫡男の遠平を下船させて出航した。
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翌日、沖合いで 和田義盛 の舟と遭遇、實平は「頼朝は死んだ」と語って義盛の心を試すが自刃しようとした義盛を見て忠義心に納得し頼朝に対面させた。義盛の舟には救出した遠平が同乗しており、頼朝主従と實平親子が涙の対面を果たした。
酒宴では實平が喜びの舞いを舞う。全体的にかなり御都合主義に溢れた筋立てだが、脚色の多い軍記物がベースだからね。

右:真鶴道路(有料の新道)から見た岩海岸   画像をクリック→拡大表示
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小田原早川方面から湯河原に向かうと真鶴道路は二つに分岐し、右は有料(200円)の新道・左は有料期間が終わって無料開放になった旧・真鶴道路になる。真鶴駅前を通る旧道も(湯河原の合流地点以外は)滅多に混雑しないし、海水浴シーズンや旧盆は新道も渋滞するから200円払う費用対効果は低い。本格的な渋滞になったら湯河原から裏道(伊豆山を経て熱海駅に下る)か、場合によっては湯河原パークウェイで十国峠に登り伊豆スカイラインまたは国道一号逃げる手もある。まぁ国道135号が渋滞する季節には最初から海岸を避けるのが常識だけど。
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  ※新開忠氏: 謡曲では土肥實平の二男としているが、正確には實平の二男実重が新開氏の養子に入って
荒次郎忠氏を名乗った。新開氏は新羅から渡来し信濃の豪族として発展した秦氏の庶流で、平安末期に武蔵国新戒(榛沢郷大寄郷・現在の埼玉県深谷市)に定住した開発領主。
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一族は土肥實平の縁戚として相模中村党と連携し勢力を保ったが、建暦三年(1213)の和田の乱で土肥氏と共に義盛方に加わったため、ほぼ族滅している。
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  ※土肥遠平: 吾妻鏡では出航した日の遠平は頼朝の無事を知らせるため、政子が避難した伊豆山権現を目指している。源平盛衰記では遠平は頼朝の舟に同乗しており、
能と謡曲だけが「八騎が不吉なので一人を降ろし七騎にした」としている。そもそも土佐坊昌俊の名があるのは可笑しいし、湯河原城願寺の「七騎堂」
には 狩野茂光 と共に函南へ逃げた筈の 田代信綱 が加わっている。いくら物語だと言っても食い違いが過ぎる、NHKの大河ドラマといい勝負だ。

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           左: 安房に向って舟を出す前に館が燃え落ちるのを見ながら舞った土肥實平の「焼亡の舞」は、能や謡曲では「岩海岸へ下る坂」である。
「謡い坂バス停」の前に建つ謡い坂の碑(土肥道・標高40m)がその現場なのだが、実際には真鶴駅南側の高台(標高60m)が邪魔をして
湯河原駅(標高40m)そばの土肥館が燃えるのは見えない。源平盛衰記に触発された捏造で、当然謡い坂も根拠のないフィクションだ。
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           中: 岩海岸に建つ源頼朝開帆處の碑。「誓復父讎擧義兵石橋山 上決輸贏佐公雖昔開帆 處謡曲長傳七騎名」
意訳すると、「父の報復を誓って石橋山に義兵を挙げた頼朝が再起のためここから船出した。従う七騎の名を謡曲が伝えている」と。
文学博士鹽谷温の書だ。元々は東側の漁港近くにあった碑をここに移設した、らしい。
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文学博士 鹽谷 (塩谷) 温: 1878〜1962年、著名な漢学者で帝大名誉教授。近世中国文学の紹介に大きな業績を残している。
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           右: こちらは裏側にある平易な文章の「源頼朝船出の浜」碑。船出に協力した村民の鮫追船(鯨を獲る舟)2艘の税が免除され、その内容は
後の小田原北条氏にも受け継がれた、と彫ってある。


     

           左: 岩海岸は波の静かな海水浴の人気スポット。砂浜のすぐ先に弁天島、200m沖を高さ30mの真鶴道路(新道・200円)が横切っている。
東京方面から真鶴道路を利用する場合は料金所の手前で左分岐して旧道に入ると無料、時間も距離も大差ないし特に悪い道でもないのだが
なぜか圧倒的に利用者が少ない。左の崖の上に通っているのが旧道で、まぁたかが200円の節約に過ぎないけどね。
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           中: 平安時代末期の海岸線は現在よりも3〜4mほど高く、堤防の上に人家が建っている付近まで海だったらしい。
地元の伝承に拠れば、無事に海岸に着いた頼朝が嬉しさの余りこの集落を「祝村」と名付けた、後に「祝」が「岩」に転訛したと伝えている。
吾妻鏡は「北條時政 らが土肥郷岩浦から舟を出した」、としているから頼朝が名付けたとしたら、岩→ 祝→ 岩に変遷した、という事か?
「祝村」の銘が入った江戸時代中期の鐘が真鶴に現存している。このレポートの詳細は次項の「真鶴の岩浦周辺に残る史跡」で。
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           右: 最も風波を防げる湾南側の岬が防波堤やテトラで補強され、漁港の船溜りやマリーナが集まっている。右の崖上に真鶴道路の岩ICがあり、
夏の海水浴シーズンの休日には動きの取れない渋滞になるんだよね、何しろ首都圏から近いから。

この頁は2022年 8月 2日に更新しました。