真鶴の岩浦周辺 瀧門寺と如来寺の痕跡 

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岩地区で訪問した寺社は三ヶ所ある。曹洞宗の多寶山瀧門寺、帰名山如来廃寺の跡、惟喬親王(平安時代初期、五十五代文徳天皇の第一皇子)とその子を祭神とする兒子(ちご)神社、である。瀧門寺の創建は 毛利元就(wiki)が活躍した戦国時代の弘治元年(1555)、如来寺の創建は江戸時代初期の元和六年(1619)、兒子神社のみが平安時代中期の延喜年間(991〜922)と伝わっている。
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兒子神社はともかく、前の二ヶ所は「鎌倉時代を歩く」とは無関係に思えるのだが...兒子神社と瀧門寺と 土肥遠平 の養子萬寿丸に関して、伝承と「新編相模風土記稿」と「源平盛衰記」(本文で記述した)は 土肥實平 が嫡子遠平の内通を疑って斬ろうとしたと、実に面白い物語を展開している。
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瀧門寺と如来廃寺が鎌倉時代初期の 頼朝 と関わっている接点は只一つ、「無事に海岸に着いた頼朝が嬉しさの余りこの集落を「祝村」と名付けた」 という地元の伝承のみである。吾妻鏡は 北條時政 らが土肥郷岩浦から舟を出した」と書いているから、もし頼朝が「祝村」と名付けたのが史実だとしたら「岩」が「祝」に変り、後に再び現在の「岩」に戻った、と推定できる事になる。
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瀧門寺には「相州祝村 宝永二年(1705)」の銘が入った半鐘が現存しており、この半鐘は明治44年(1911)に廃寺となった如来寺から瀧門寺が継承したものである。つまり、この鐘が鋳造された江戸時代中期(1705年)の「岩村」は「相州祝村」だった事実の物証となる。
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瀧門寺参道の右手にある五層の石塔は江戸時代初期の承応三年(1654)の造立で、石材を積み重ねた構造ではなく一つの石から彫り上げた精緻な作として知られており、元は萬寿丸を葬った岩松山光西寺(既に廃寺)にあった塔を移した、と伝わっている。光西寺の遺構に関する資料は皆無だが、新編相模風土記稿が「萬寿丸の魂を祀ったのが兒子神社」と書いている事から推測すると、光西寺と兒子神社が神仏習合の関係だった可能性もある。
岩浦の各スポットの位置図は こちら を参考に。


     

           左: 平成17年に新設の「まなづる小学校」に統合され廃校になった岩小学校の校庭から瀧門寺を。ここは正式な駐車場ではないが町役場は観光用
など短時間の駐車を黙認している。もちろん海水浴シーズンには閉鎖される、と思う。最も離れた「開帆の碑」まで徒歩400mだから
瀧門寺・如来寺跡・兒子神社・民俗資料館などを訪問する際には貴重な存在だ。
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           中: 瀧門寺参道入口の巨大な宝篋印塔は基台を含め6.8m、明和四年(1767)に十三世鳳洲了悟和尚が万民の幸せを祈って建立したもの。
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           右: これが冒頭に書いた、萬寿丸を葬った岩松山光西寺(既に廃寺)にあった石塔。高さは3m弱ほどか、江戸時代初期の承応三年(1654)に、
しかも一つの石から彫り出したとは信じられない精緻さだ。


     

           左: 小松石を中心に真鶴で発展した石材業を連想させる石貼りの参道と石造物群。 小松石の詳細 を参考に、近くの民俗資料館でサンプルや資料を
展示している。入館無料、10〜12時と13〜16時・月水金曜は休館(祭日の場合は翌日)、駐車場なし。
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           中: 宗派は曹洞宗、多寶山瀧門寺の本堂。この画像はやや古いが、最近の2011年5月に茅葺き屋根を葺き替え見違える様に新しくなった。
庫裏も鐘楼も萱葺きなので補修維持が大変らしい。弘治元年(1555)に発心寺として開山、元亀元年(1570)に中興し瀧門寺となる。
寺名の通り、かつては見事な瀧があったというが、現在は僅から湧水が見られるだけ。応安七年(1374)開山説もある。
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           右: これが萱葺きの鐘楼で、「相洲 祝村」の銘があると思ったのだが、銘を読むまでもなく近年の鋳造で、肝心の半鐘は本堂に鎮座している。
頼めば拝観できると思うが面倒になってパスしてしまった。まぁ実在を確認できたのだから良し、とする。


     

           左: 帰名山如来寺跡。元和六年(1620年・徳川三代将軍家光の頃)に天台宗として創建されたと伝わるが規模などは不明、後に瀧門寺(曹洞宗)の
末寺となったらしい。明治44年(1911)に全焼し廃寺になった。「新編相模風土記稿」によれば本尊は但唱が彫った石の阿弥陀如来。
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           中: 木喰但唱(1579〜1636)は摂津で産まれた江戸初期の仏師で天台宗の遊行聖(ゆぎょうひじり)だった。15歳で木喰但善の弟子となり、
寛永十二年(1635)には江戸高輪に帰命山如来寺(現在の養玉院如来寺・公式サイト)を創建した。五体の如来像を彫ってここに納めたが、
薬師如来の石像を残して焼失した。但唱は石仏を良く彫ったらしいから、小松石を産出する真鶴地区と接点があったとも推測できる。
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           右: 如来廃寺の洞は人工ではなく、海岸線が後退して残った海食洞らしい。奥行き約10m、閻魔像を中心にした手前側と如来像を据えた奥の部分に
10cmほどの段差がある。突き当たりの右上に窓が彫り抜いてあるが暗くて薄気味悪い。
昔は崖から入口前の平地に堂が建ち、その奥に位置する洞に本尊と諸仏を安置していたと考えるのが最も自然だろうか。


     

           左: 左には閻魔王を中心に、死者に裁定を下す十王像が並ぶ。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・
五道転輪王である。死者の魂は各王の裁きを順に受けて来世の場所を定められる。右の地蔵菩薩は地獄に落ちる霊魂を慈悲により教え導き
救済する役目を負う。地蔵信仰は平安時代中期以後に全国に広まり定着した。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ像が多い。
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           中: 正面は真言密教の根本仏である大日如来像と聖観世音菩薩像(数多い観音の頂点で、いわば観音本来の姿)が並んでいる。
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           右: 入口右手の石像物。表示は檀拏頭だが正しくは壇拏幢(だんだとう)。これは閻魔王の杖で、頭頂部に「見る目」と「嗅ぐ鼻」の二つの頭を持つ。
生前の悪行が多ければ男の顔が口から火を吹き、善行が多ければ女の顔から芳香が漂う。閻魔王はこれで罪の軽重を計ったという。

この頁は2022年 8月 2日に更新しました。