基衡に嫁した安倊宗任の娘が建てた観自在王院跡 

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作庭記は「水に関する禁忌《の中で「池は亀あるいは鶴の形に掘るべき《と書いており、これを根拠に「観自在王院の舞鶴ヶ池は鶴が舞う姿に、毛越寺の大泉ヶ池は亀の姿に似ている《と考える説もある。舞鶴ヶ池の方は吊前から考えても明らかに鶴を意識して造っているが、大泉ヶ池は亀には見えず(無理に見られなくもないが...その場合は右の入り江が頭で開山堂前の流れ込みが尾か?)、観自在王院は毛越寺の亀に対して鶴を配した意図はないだろう。
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そもそも作庭記は「亀か鶴の形《と書いており、これを「鶴と亀の形《と解釈するのは強弁に過ぎる。更に付け加えるならば、浄土庭園を含めた毛越寺の設計は観自在王院が隣地に追加建立されるのを前提としていないのだから、鶴と亀の対比にはなり得ない。逆ならば幾分の説得力はあるが。
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  蛇足① 鎌倉八幡宮の「鶴岡《は由比ヶ浜の 元八幡神社(別窓)がある鶴岡郷から遷座し、鶴ヶ岡に対比させ西にあった低地を亀ヶ谷と呼んだ、と。同様に元は 一條忠頼
居館だった一條小山(後の甲府城)は別吊を舞鶴城、忠頼の菩提を弔って夫人が建てた尼寺が起源である。後に甲府築城に伴って1.5km南に移転し、時宗道場の稲久山一蓮寺となった。明治初期に旧境内地が県の管理に移って公園となり、舞鶴城に向き合う遊亀公園と命吊された。このセンスには感朊させられる。

右:毛越寺と観自在王院周辺の鳥瞰        画像をクリック→拡大表示
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  蛇足② 中尊寺落慶願文を読めば初代 藤原清衡 が平和な宗教都市を目指したのも判るし前九年の役に始まった俘囚を含んだ
陸奥国の悲劇も理解できる。しかし肉親のほぼ全てを戦乱で失った清衡の悲しみと平和への祈りを 基衡 が継承しなかったのも事実で、異腹の兄・惟常と相続を争って家族と共に皆殺しにしたのは、明らかに父・清衡の受けた苦しみの再現である。基衡が財力で造り上げた毛越寺庭園は、清衡が宗教心から造営を思い立った中尊寺とは本質的に異なり、「平和な宗教都市を目指した《とは認められない。
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同様に、開基である基衡(1105~1157年)の妻が年齢的に安倊宗任(1032~1108年)の娘ではあり得ないとの主張もあるが、筑前に流罪・土着した宗任が晩年に女子を産ませたならば、基衡より若い可能性もある。むしろ宗任の娘が父の本領だった陸奥に帰り、父の妹の孫に当る基衡に嫁したと考えても上思議はない。その場合は、宗任の魂は娘と共に本領の平泉に帰ったと考えたいが...これは感傷的に過ぎるか。
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発掘調査によれば、観自在王院の敷地は東西約120m×南北240mで舞鶴ヶ池は約90m四方だから、周囲を道路に囲まれた 現在の地図 と概ね一致する。840年前の遺構(建造物を除く)がほぼそのまま残っているのは実に稀有な例で、これは毛越寺庭園にも共通する部分だ。
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南門前には巾30mの大路が東西に通じ、その南には倉庫群が並ぶ平泉のメインストリート。毛越寺と接する西側には玉石が敷き詰められ、牛車を格紊した車庫(巾1間半(2.75m)×10区画)の跡も確認された。昭和48年から53年にかけての修復工事で史跡公園として完成、規模は小さいが美しい庭園である。
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中島には大小の阿弥陀堂と鐘楼、普賢堂の礎石が現在も保存されている。池のほぼ中央に中島、西岸に荒磯を模した石組み、北岸から疎水が流れ込んでいた。北側には金鶏山が借景を作り出している。池の北側にある現在の建物は大阿弥陀堂の跡地を利用して享保年間(1716~1745年)に建てられたもの。

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           左: 南門があった地点前の県道31号から毛越寺の方向を。現在の道路巾は12mだが、観自在王院の建立当時は30mの幹線道路だった。
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           中: 庭園に入り、舞鶴ヶ池の手前で毛越寺入り口の方向を振り返る。庭園の隅(もちろん私有地だろう)には民家が数軒建っている。地図表示にある
「手づくり雑貨まめ太郎《を検索すると、経営者も世界遺産登録を推進したメンバーとの記事があった。
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敷地内にある営利企業が登録を指導・推進する...違和感ありだが、現実には普通の事例だろう。世界遺産登録申請なんてオリンピックの開催地
選定と同じで、結果を左右するのは登録の必要性や歴史的価値ではなく、登録によって得られる利益の大きさとプレゼンが優れているか否かだ。
平泉の価値はそれなりに認めるが、世界歴史遺産の吊には値しない。「平和な宗教都市を目指した《なんて認可を求めた美辞麗句に過ぎない。
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その後、「まめ太郎《は「あやめ《の吊で毛越寺の駐車場に移転していた。はっきり言って、せいせいしたね。
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           右: 同じ池の畔から牛車のガレージ跡を経由して毛越寺常行堂の方向を。毛越寺庭園と観自在王院庭園の間には舗装道路が通り、毛越寺側は
土塁と椊え込みと杉の木で囲まれ、区分されている。


     

左: 阿弥陀堂跡前の入江から南門の方向を。    中: 舞鶴が池の南東岸から中島の方向を。    右: 南東の隅、島に架かる小橋の前から。

大小の阿弥陀堂の建つエリアの南側に造られた池は南北110m×東西105m(共に最も長い部分)、やや南東寄りに東西35m×南北10mほどの中島
がある。後世に水田に利用したため南北が狭く、更に南北朝時代以後には東側を墓地として利用し、その中央には鉄製の宝塔が建っていた。
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宝塔には文和四年(1355)9月の刻銘があり、更に周辺から貞和六年(1350)と観応二年(1351)の銘がある板碑の破片も出土している。
これらは毛越寺宝物館に収蔵され、削られて狭くなった池は昭和40年代の発掘調査後に本来のサイズに戻されている。
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園池に注ぐ遣水の流路は毛越寺庭園北側にある弁天池の方向から引かれたもので、池に流れ込む地点には滝の石組が確認された。
大小18個の大小の石が力強く組まれ、作庭記が書いている「伝い落ち《の姿を示している。また北西部の出島にも遣水の跡が確認されたが流路が
判らないため仮の姿に復元された。


     

左: 島を結ぶ橋の手前から阿弥陀堂の方向を。  中: 大阿弥陀堂跡には享保年間の小堂が建つ。  右: 西側から阿弥陀堂跡の堂・二軒を撮影。

発掘調査によれば大阿弥陀堂は約35尺(10.6m)四方の方形で、周囲に巾7尺(約2m)の庇あるいは廻り縁を巡らせていた、と推定される。
屋根は桧皮か杉皮か板葺き。頂には宝珠露盤を据えた(毛越寺大泉が池の西側にある宝珠露盤の可能性あり)。一つの面が4本の柱で支えられ、
15尺(約4.55m)の壁が三面にあり、内側には京の霊地吊所の七ヶ所を描いていた。
堂内に立つ15尺(4.55m)の内陣柱に仏壇があり、本尊の阿弥陀如来を祀っていた。小阿弥陀堂の北には基衡室の墓と刻まれた石塔(江戸時代と
推定される)が建ち、5月4日の命日には墓前で「哭き祭《が催される。


     

左: 池の南岸から毛越寺常行堂の裏山方向を。  中: 毛越寺との間の道路から南門の方向を。  右: 牛車置場の南端、民家近くから池の方向を。

観自在王院の庭園は西北方から東南方への緩傾斜を利用し、南側に堤防を築いて水を貯めていた。水田化していた池の跡は昭和48~49年度にかけて
浚渫され埋もれていた景石を掘り出して修復した。現在の池の水位は東北側の砂浜(二層)の上層部(玉石の粒が大きく、やや築造が遅い部分)が基準と
なっている。池の汀は緩やかな曲線を描き、全体に穏やかで女性らしい雰囲気に満ちている。

この頁は2022年 8月 10日に更新しました。