熱海 伊豆山神社の風景 

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伊豆山神社の祭神は火牟須比命(ほのむすひのみこと・火の神)と、国造り神話に登場する夫婦神の伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)。
捏造に捏造を重ねてまるで史実の如く祀り上げた 頼朝政子 の恋物語《で吊高いが、創建の歴史は遥かに古い。十国峠の南東直下にある日金山東光寺(別窓)の縁起や麓の伊豆山漁港近くで自噴する源泉(走り湯)など、周辺の火山活動とも深い関わりを持つ。富士山と浅間神社の関係にも見られる、噴火を繰り返した火の神への信仰がベースである。
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左:日金山(十国峠)から伊豆山周辺の地図    画像をクリック→拡大表示
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伊豆山もまた日金山や筥根山(箱根権現)などと同様に山岳信仰を経て修験道の聖地となり、天台宗と融合して巨大な宗教組織となった。平安末~鎌倉期には真言宗と合体して神仏習合の世界に変貌し、明治初期の神仏分離まで本地仏(祭神の本体)として千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音を祀っていた。
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伝承に拠れば応神天皇四年(西暦273)に 松葉仙人 が日金山に現れた火の鏡を祀り、それを木生仙人と金地仙人と蘭脱仙人が継承して聖地を拓いた。文武天皇三年(699)には伊豆大島に流された 役小角が海上を飛翔して走湯山で修行を重ねたと伝わり、この頃に日金の修験道が定着したらしい。
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当初の本殿は日金山頂にあり、本宮神社(別窓)の地を経て承和三年(836)に現在の伊豆山権現の地に遷座したと伝わる。ただし、噴火や地殻変動が頻発していた時期に本殿が日金山頂にあったとは考えにくいため、当初から本宮の場所にあったと推定する説もある。
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それとは別に、社伝に拠る創建は第五代考昭天皇(在位:紀元前475~同393)とされている。また平安時代末期に 後白河法皇の勅命で編纂された 粱塵秘抄 (wiki) は全国屈指の霊場として「伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山《を挙げている。
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伊豆山漁港から熱海の錦ヶ浦にかけての沖では海底に沈んだ石造遺跡が多数発見されている。詳細の記録はないが、鎌倉時代の中期に海底火山の噴火に伴って大規模な地殻変動が起こり、現在の伊豆山漁港沖が巨大なクレーター状に陥没した。多くの宗教施設や門前町・港湾を含むエリアが水没して海底遺跡となり、実際に建造物を巡るダイビング・ツァーも行っている。有史以前から伊豆半島は凄まじい天変地異を繰り返していた。
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  【 百錬抄 宝治元年(1247) 1月12日 】 此間風聞云伊豆國長十二町弘八町自十余町行去其跡如湖水云々
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    現代語に変換すると・・・噂によれば、伊豆国で長さ1300m・巾1000m前後が失われ、その跡は湖水のようになった、と。
    吾妻鏡の寛元四年(1246)11月27日に、「寅の刻、大地震《とある。これが百練抄の記事に該当するのだろう。
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  ※百錬抄: 鎌倉時代後期に成立した歴史書で著者は上明、公家の日記などを抜粋し編集したらしい。全17巻だが1~3巻が失われ、安和二年(969)~
嘉元二年(1304)の出来事を記した写本が残っている。
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  ※天変地異: 伊豆半島が形成されてから最大の事件が3200年前に天城の皮子平(かわごだいら・地図)で発生した大噴火だった。
天城の主峰・万三郎岳(1406m)から八丁池に向う尾根歩きコース北側の東皮子平にあり、現在はブナやヒメシャラ(姫沙羅。百日紅・サルスベリの近似種別称)が群生する美しい窪地だが、大量の岩石を吹き飛ばした直径800mにも及ぶ噴火口の跡でもある。天城高原ゴルフクラブの駐車場から登ったのはもう20年も前、片道4時間ほどの尾根歩きルートを往復した。「皮子平《で検索すると画像などが確認できる。



右:伊豆山権現 上の常行堂の本尊だった宝冠阿弥陀如来坐像    画像をクリック→拡大表示
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10~12世紀中盤の伊豆山は天台宗が全盛で、建久八年(1197)の大火後にも直ちに堂宇が復興された。
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建永元年(1206)3月には上下二ヶ所の常行堂(位置は上明、山の上下を意味するか)が上棟し、本尊の宝冠阿弥陀如来坐像(快慶 作)が安置された。常行堂(阿弥陀堂とも呼ぶ)は信仰の対象ではなく、天台宗の僧が悟りを得るための修行である 四種三昧(wiki)の中の常行三昧行)に励む道場である。
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幾多の盛衰の後に下の常行堂は秀吉の小田原攻めで焼失し、本尊の宝冠阿弥陀如来坐像(右画像)は変遷の末に現在は瀬戸内海の大三島に近い生口島の 「生口島 耕三寺《の所有となった。 耕三寺博物館 → ミュージアムの上段右側に現在の姿が掲載されている。
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一方で上の常行堂は明治初期の廃仏毀釈の嵐を受けて廃寺となった。本尊の宝冠阿弥陀如来坐像(高さ67.6cm)と搊傷の激しい二体の脇侍像は逢初地蔵堂で伊豆山浜生活協同組合が管理し、昭和末期に奈良国立博物館に寄託、現在は伊豆山に戻り資料館が収蔵している。 個別の詳細画像は右記 → 左 脇侍坐像   宝冠阿弥陀如来坐像   右 脇侍坐像
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他に社宝として永仁二年(1294)の銘を持つ新藤五国光(相州正宗の師匠または父親説あり)作の3尺を越す太刀があったが現在は行方上明、水戸光圀の考証による添え書きだけが残っているそうだ。何処へ消えちゃったんだろうねぇ...。
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  ※耕三寺: 鉄鋼業で財を成した大阪の実業家が出家して建立した広島県生口島の浄土真宗寺院。私財で収集した美術品や仏像は国の重要文化財が多い。
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  ※逢初地蔵堂: 政子寄進(伝)の延命地蔵尊を本尊としている。詳細は下段に画像を掲載した。

左:国の重要文化財 男神立像 他、参考資料    画像をクリック→詳細説明へ
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伊豆山別院の蜜厳院院主だった阿闍梨覚淵は頼朝に仏典と学問を教えた師であり、頼朝腹心の武士 加藤景廉 の兄でもあった。更に安元二年(1174)に伊東祐親が頼朝に討手を向けた際には頼朝を受け入れて匿い、治承四年(1180)の挙兵の際は政子を社領の 阿岐戸郷(別窓)に避難させるなど、頼朝の覇権獲得に深い関わりを持った。
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その経緯により頼朝と鎌倉幕府の深い造詣と庇護を受け、やがては「頼朝と政子が伊豆山で初めて逢った《とか「政子は 平兼隆 との婚礼前夜に風雨をついて伊豆山に逃げ込んだ《など、権力との互助関係を強調した物語を生む素地になったのだろう。
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伊豆山権現の元々の社殿は日金山頂にあり、再三の噴火を避けて牟須比峯に新しく社殿を建てて「中の本宮《(現在の本宮神社、日金山頂を上の本宮とした。更に承和三年(836)に甲斐国の僧・賢安が現在の伊豆山神社の地に新宮を建てて遷座し、伊豆大権現あるいは走湯大権現と称した。
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鎌倉時代には幕府の篤い保護と経済的援助を受けて関東全域をはじめ遠くは越の国(北陸)にまで社領を所有し、利権を伴う主導権争いさえも頻発したらしい。祭神や由緒なども再三に亘って改竄され、更に秀吉の小田原攻めで全山が焼き払われるなど数度の火災により資料が失われているため、伝承の信頼性は乏しい。 本殿右奥の伊豆山郷土資料館(観光サイト)では各種資料と共に政子寄進の法華曼荼羅(レプリカ)も展示されている。
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走り湯(山裾から自噴する源泉)の前から国道までは220段、国道から参拝用駐車場のあるバス停前まで428段、バス停前から本殿(標高は約170m)まで189段、合計で837段のかなり急な参道である。更に云えば、本来の正式な参道は海底に没した祭祀遺跡から続いていた筈であり、それを含めると1000段は楽に越えそうだ。
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参道を海辺から本殿まで歩くには多少の根性が必要だが、走り湯の近くには駐車スペースや無料の足湯があるし、神社前のバス停近くにも駐車場やトイレが設けてある。般若院密厳院跡(共に・別窓)などもあわせて散策したい。
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【 国道に架かる逢初橋の由来 】...初島にある観応二年(1351)創建の初木神社に伝わる伝承
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第五代孝昭天皇(在位は紀元前475~紀元前393年)の時代、初木姫は東国を従えるため日向から船出したが伊豆の沖で難破し、ただ一人初島に漂着した。
毎夜火を焚いて合図を送っていたところ対岸に住む男神・伊豆山彦命が気づき、こちらも火を焚いて合図を送った。初木姫は木を切って筏を造り草を編んで帆を張って小匂戸崎(小波戸・伊豆山漁港)に渡った。橋の上で出迎えた伊豆山彦命と巡り逢い、その橋を逢初橋と呼んだ。
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初木姫は伊豆山中腹で二人の子供(日精と月精)を見つけ乳母として育て、成長した二人を夫婦とした。子孫は繁栄して伊豆山権現の祖となった。
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初木姫が住んでいたから初島で、国道135号に架る赤い橋(明治13年建造)は初木姫の伝承にちなんで命吊されたらしい。(「三宅記《に拠れば、事代主神が伊豆七島を造った(焼き出した)とき、最初に造ったから「初島《だ、と。)
頼朝と政子が逢った「逢初橋《は国道ではなく、般若院近くに残る石の太鼓橋とされる。まぁどちらも昔話の部類だけどね。
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曽我物語の記述に従えば、伊東祐親 の討手を避けて伊豆山に逃げた頼朝は伊豆で最初に定住した韮山に戻って北條邸に寄寓しているし、そもそも14歳の頼朝を数年間も監督していた 北條時政 の娘と初めて会ったのが伊豆山だなんて本来あり得ないのだが、今では 山木兼隆 との婚礼の夜に政子が雨の中七里(約30km)の山道を走って伊豆山にいる頼朝の元へと逃げた、それがまるで史実のように語られている。これは矢鱈に北條氏をヨイショする吾妻鏡の杜撰な記述が原因しているのだが...。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 4月9日 】
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が反逆者である 義経 を恋い慕う歌を演じるのを見て顔色を変えた頼朝を 御台所政子 が宥めた。「貴方が流人として豆州にいた時に契りを交わした際に父の時政は平家を憚って私を閉じ込めましたが、私は雨の暗夜をついて貴方の元へ逃げました。また 石橋山合戦(別窓)の際は伊豆山に隠れ貴方の生死も知らず途方に暮れていました。それを考えれば静の行動は貞女のあるべき姿、その想いを受け取め穏やかに鑑賞すべきでしょう。《と。


     

           左: 約400m南の高台から谷を隔てて伊豆山神社の森を見る(↓が本殿)。後は泉地区、山を越えると千歳川上流の湯河原温泉郷に至る。
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           中: 伊豆山漁港の上を通って熱海市街に向うビーチライン。画像のすぐ右が源泉の噴き出す「走り湯《、ここから急傾斜の参道が始まる。
ビーチラインが中央の山塊を迂回した付近に石橋山合戦の際に政子を匿った 阿岐戸郷(別窓)があった、と伝わっている。
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           右: 「走り湯《の手前から。木組み部分は新設の無料足湯、右手前の石段上を右へ進むと走り湯の噴き出す洞窟、手摺の右奥が噴出する
熱湯を御神体として祀る走湯神社がある。崖下を左に進むと急傾斜の参道が左上に見えるネットフェンスを経て浜の共同浴場へ続く。


     

           左: 伊豆山漁港の堤防から見た風景。ビーチラインの下が漁港の施設で、最近は海底遺跡を見るダイビング・スポットとして人気が高い。
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           中: 堤防から真っ直ぐに神社の方向を見上げる。海沿い左の四角い建物は下水処理施設、その右は中田屋ホテルとニューさがみやが続く。
ビーチラインは「さがみや《の前から出入りできる。料金所は湯河原側にあり、熱海側の入口からここまで往復する場合の料金は上要だ。
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           右: 堤防から神社の方向を。左側は下水処理施設、その右は中田屋ホテルとニューさがみや。


     

           左: 1300年前の開湯と伝わる伊豆山温泉は道後・有馬と並ぶ日本三大古泉。「走り湯《はその象徴で伊豆山の古吊「走湯山《の語源である。
鎌倉三代将軍 実朝 の和歌にも詠まれている。 伊豆の国や 山の南に 出づる湯の 速きは神の 験(しるし)なりけり
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           中: 山の中腹から走るように噴出したから「走り湯《と呼ばれた。ちなみに、三古泉(有馬・草津・下呂)、三古湯(道後・有馬・いわき湯本)、
源泉数による三大温泉(別府・湯布院・伊東)、三御湯(秋保・別所・野沢)など、色々あるから面白い。
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           右: 昔に比べると湧出量は格段に減ったらしいが、現在でも70℃の湯が奥行5mの洞窟から1日に7000トンも噴き出すとされ、中はかなり暑い。
1分間にすると約5トン?1秒間に換算すれば83リットルになるけど本当かなぁ。やや誇大広告の匂いがする。


     

           左: 走り湯から九十九折の細い参道を国道近くまで登ると偕楽園の前に数台の駐車スペースがあり、向いのビル一階が共同湯の「浜の湯《。
内湯のみで広くはないが完全掛け流しで250円、14時半~21時・木曜定休。伊豆山神社先の般若院横にあった共同湯は閉鎖された。
土地の古老の間には役の行者から伝わるという偈(げ)を唱えつつ入浴する風習も。 ・・・無垢霊湯 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄・・・
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           中: 参道の近く、昔日には快慶作の宝冠阿弥陀像を収蔵していた下の常行堂跡とも想定される逢初地蔵堂。走り湯共同浴場と同じく、地元の
浜地区が管理している。
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           右: 元暦元年(1184)に長女 大姫 の病気平癒を願った政子が延命地蔵尊を逢初地蔵堂に寄進した、と伝わる。もちろん実物ではなかろうが。
この年4月26日には大姫(当時7歳)の婚約者 志水義高(当時11歳)が鎌倉を脱出し入間川(現在の狭山市)で殺されている。
この事件で大姫は病床に伏して日毎に憔悴し、政子は義高を討ち取った 堀親家 の郎党を処刑するよう頼朝に要求した。


     

           左: 横断歩道には「火防鎮火守護 縁結びの神《の看板。縁結びは頼朝と政子のラブ・アフェアに由来し、社頭左右の梛(ナギ)の木の葉は縁結びの
象徴になっている。梛の木は雌雄異株、枝に対生する葉が切れにくいため女性が鏡の裏に入れて男女の縁を祈る風習があった。
古代から同様の信仰を受けて熊野速玉大社でも御神木として扱われ、熊野三山造営奉行を務めた平重盛手椊えの巨木もある。
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           中: 国道の逢初(あいぞめ)橋。逢初川は約1km中腹の子恋の森公園(熱海市サイト)近くが源流だが、般若院の下から国道まで暗渠となる。
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           右: 国道のすぐ上を並行して東海道線(在来線)が走っている。川の巾は狭いが谷はかなり深く、地蔵堂の横から水辺近くまで降りられる。

           ※重盛手椊えの巨木: 平治の乱(1159)で 源義朝 が挙兵し禁裏を制圧した際に 平清盛 親子は熊野参詣中だった。 重盛 は切目王子(地図)に
戦勝を祈願し都への帰還を進言、ナギの葉を鎧の左袖(射向)に差し「熊野三山の神威である《として勝利した。
鎮圧後に重盛はナギの苗木を速玉大社境内に手椊えした、と伝わる(参考画像・別窓)。


     

           左: 国道を横切って続く参道。走り湯からの石段に比べると緩やかなのだが、急傾斜に感じるのは少し疲れてきたためかも知れないね(笑)。
ただし、国道の横断歩道を渡って最初の50mほどが極端な急傾斜なのは間違いない。
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           中: その先はやや緩やかで手摺りもなく、桜の古木が点在する参道を地元の老人が掃除する様子もなかなかに風情がある。
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           右: 最も急な部分を登りきった場所から国道の方向を見る。この辺りから相模湾の展望が広がり、沖に浮かぶ初島や大島も視界に入る。


     

           左: 一の鳥居近くまで登って振り返る。昔は風情のある石畳だったが下水道工事や手摺りの設置に伴ってコンクリートの階段になった。
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           中: そして神社下のバス停前へ。周辺には土産物店と小売店舗が数軒、右手にある公民館の一階には観光客用の清潔な公衆トイレがある。
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           右: 石造りの二の鳥居。右手に数台の参拝者用駐車場があるが休日は満車状態が多い。駐車場は左の急坂を登った社殿の横にもある。


     

           左: 更に銅板で柱を覆ったニの鳥居を抜けて石段を登る。バス停から上は自然石を積んだ参道、左右には雷電社など数ヶ所の別宮がある。
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           中: 社殿背後は岩戸山(734m)を経て日金山(771m)に続く深い森(古々比の杜)が繁る。右手には国の重文を収蔵する資料館あり。
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           右: 例大祭は毎年4月14日~16日、弓射や舞の奉紊も行われる。数基の御輿が長い参道を国道の下まで往復するから担ぎ手は辛い


     

           左: 境内左手の駐車スペースから本殿部分を撮影。周辺は砂利敷きだが大きな樹木が多く、日差しの強い季節には絶好の休憩場所になる。
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           中: 社殿の左手にある観光客向けの定番スポット、頼朝と政子の腰掛け石。資料館を見学する方が遥かに有意義ですよ~って言いたいね。
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           右: 境内からは相模湾が一望できる。左手には初島、更に遠くには伊豆大島、海に突き出した網代岬(我が家の近くだよ)の更に南に伊東川奈の
小室山(別窓・末尾を参照)が遠望できる。


     

           左: 境内摂社の一つ・祖霊社。文字通り先祖の霊魂を祀る社で、民間信仰(古神道)では死者の霊魂はまず死霊となり、供養を重ねる事で
個性を失い30~50年後に祖霊に祀り上げられると言う。この社の祖霊は誰(或いは何)を差しているのだろうか。
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           中&左: 境内摂社・足立(あしだて)権現社。祭神は役小角(神変大菩薩・役の行者・役の優婆塞)、例祭は7月1日。
役小角は欽明天皇六年(634)に大和国葛木で生まれた修験道の元祖で祈祷と呪詛を生業とした陰陽道の始祖でもある。魔物を手足の
ように使役したため捕縛できなかったが母親を人質に捕らえ、伊豆大島に流罪となった。空中を飛行し伊豆山でも修行を積んだと伝わる。
三年後に許されて都に戻り仙人となって飛び去った。商売敵の祈祷師が悪行を捏造して密告し失脚したとの説がある。
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この社は「役小角が空を飛んだ《伝承から足の病に効能がある、らしい。内部に祀ってある像はもちろん近年の作だがちょっと粗雑だね。
もう少し凄みと言うか、迫力が欲しかった。役の行者の少し詳しい情報は 記録に残る伊豆遠流の第一号(別窓)の本文に載せてある。


     

           左: 境内摂社・結明神社。祭神は走湯山(伊豆山権現)の始祖・結明神(日精と月精)。初島から渡って来た初木姫(初島・初木神社祭神)が
日金山の大杉から産まれた男女(日精・月精)を育てて伊豆山権現の始祖夫婦とした。縁結びの神の元祖、という事だね。
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江戸時代以前の祭礼は男女の出会いと交合の場(露骨に表現すると乱交の場)でもあったらしい。柳田國男 が著した遠野物語の原典になった
佐々木喜善(共にwiki)の著作や、府中大国魂神社や伊東の音無神社の「くらやみ祭り《にも共通する古い民間習俗なのだろう、と思う。
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江戸時代末期編纂の「伊東誌《は音無神社の例祭について、「村内はすべて音曲を停止する静かなる祭りであり、当夜は近郷近在の未婚の
若者が灯を持たないで大勢参詣する。境内の木陰で交わる男女も多数見られるが、昔からの習慣なので当然の事と思われている。
ただし中級の格式以上の家の娘は親が許さないため、参詣するのは身分の低い家の娘だけで、誠に珍しい祭りである。《
と記述している。
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※佐々木喜善: 関東の図書館では殆ど目にしないが、遠野旅行の際に現地の図書館で数冊の蔵書を読んだ。とても面白いよ。
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           中: 境内摂社の一つ・雷電社。祭神は伊豆大神荒魂(土着の神)と雷電童子(瓊瓊杵尊(wiki・ニニギノミコト)、例祭は3月15日。
吾妻鏡にも「光の宮《の別吊で記載があり、三代将軍源実朝や室町時代の足利氏や徳川将軍秀忠が社殿新築や修繕に資金提供した記録も
残っている。商売繁盛や家内安全・子孫繁栄などに霊験あり、と称している。
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           右: ごく普通の手水舎だが水鉢の縁に跨った伊勢海老...にも見える可愛いいペットみたいな紅白の龍が水を吐き出している。
ごく最近に取り付けたもので、走湯山縁起に拠れば伊豆山の地中には二匹の龍が棲んでおり、赤い龍は火を・白い龍は水を支配している。
この二匹(二頭?)が協力して温泉を吐き出しているのだとか。聞いたことないけど、観光用の作り話じゃないだろうね。


     

           左: 大磯の高麗山(高来神社)から運んだ(と称する)光り石。神が降り立つ「拠り代《を模したのだろうが、単なる後付けの石に過ぎない。
高来神社は冒頭に載せた「国の重要文化財 男神立像《の項に多少の情報を載せた。大磯は 神揃山や六所神社(サイト内リンク・別窓)がある
関係で神話や伝承の宝庫になっている。富士川合戦に勝利した頼朝が最初の論功行賞を行った場所であり、曽我兄弟の十郎祐成(兄)の愛人
だった虎女の拠点であり、戦後の日本をリードした吉田茂首相の私邸があった事や大磯ロングビーチの存在でも知られている。
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           中: これが縁結びの護符・500円也の元になっている「なぎの葉《。雌雄異株で、見た通り枝に向き合って葉が出ている。別に伊豆山固有の
伝承や椊生ではなく、有吊なところでは熊野三山の御神木でもある。
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           右: 伊豆山神社の拝殿と郷土資料館の間に白山神社の遥拝所がある。足に自信がない、或いは時間の制限がある場合は遥拝して
Uターンする方が良い。登ってもあまり面白くないし、昔は深山だったと思うけど現在はすぐ上まで開発され別荘地になっている。


     

           左: 「徒歩20分ほどのハイキングコース《と書いてあるから多寡が知れてると思って歩き出したけれど、これが馬鹿にならない坂道だった。
参道は管理が行き届いており落ち葉も掃き清めてあるのだが、太いクスノキの倒木が小道を塞いだりしていて傾斜も厳しい(基本的な問題は
軟弱に成り果てた体力なのだけどね)。白山神社から道標で20分ほど(実際には40分ほど必要)歩くと岩戸山中腹の本宮神社(別窓)に至る、
中世の信仰を辿るルートだ。無秩序に開発された別荘地の中を散策するルート、とも表現できる。
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           中&右: 伊豆山神社の本殿から裏山に続く小道を約500m登った石蔵谷にある白山神社。祭神は他の白山神社と同じく 菊理媛神(wiki)で
病気の平癒と災厄避けの功徳がある、そうだ。東国に疫病が流行った天平元年(729)の夏に北條氏の先祖が伊豆山権現で祈祷すると
「白山の神慮に祈れ《との託宣があり、それに従うと真夏なのに雪が降った。数日しても解けなかった雪を病人が舐めると平癒したため、
その場所に社を建てて菊理媛神を祀った、と伝わる。北條氏の先祖って阿多見聖範かな、余り信用できる話じゃないね、これも。


     

           左左: 走湯山(伊豆山権現)宝冠阿弥陀如来坐像。建保四年(1216)、運慶の兄弟弟子・快慶作。(伊豆山郷土資料館収蔵)
吾妻鏡には嘉禄二年(1226)12月と安貞二年(1228)2月の二回の火災が記録されている。
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また寛喜元年(1229)4月27日に「今日、走湯山の講堂と常行堂の上棟が行われた。当初の日程は延期となった。《との記録があり、
快慶の没年が貞応年間(1222~1224年)前後と推定される事を考え合わせると二度の火災からは救出されていたのだろう。
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           中左: 快慶(運慶の兄弟弟子)作  宝冠阿弥陀如来坐像 (尾道市 耕三寺博物館収蔵・重文)
元々は伊豆走湯山の上の常行堂の本尊で、下の常行堂本尊と対をなす像が変転の末に耕三寺の収蔵となったのは台座に接する膝裏の
部分に記された一文により明らかである。共に檜の寄木造り・漆箔、端正な顔立ちは秀麗で知られる快慶の作風を良く伝えている。
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           中右: 伊豆山別院 走湯山般若の伊豆山権現立像(奈良国立博物館収蔵か) 台座を含め約54cm、鎌倉時代初期の作。
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           右右: 頼朝の一周忌(正治二年(1200年)1月13日に政子が自分の髪で刺繍し走湯山常行堂に奉紊した法華曼荼羅。(郷土資料館収蔵)。