浅利与一義成の墓所

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浅利与一は武田清光の11番目の子として久安五年(1149)に誕生し浅利郷(現在の旧豊富村一帯)を領有して浅利を名乗った。武田清光は父の義清と共に甲斐に土着し、甲斐源氏として勢力を広げた人物。「観光スポット訪問記」の谷戸(逸見)城址の項を参照)。治承四年(1180)には頼朝の挙兵に応じて駿河に南下し富士川の合戦に加わり、文治元年(1185)に壇ノ浦で平家が滅びるまで、頼朝の御家人として義経に従い西国を転戦している。武勇に優れ、特に豪弓の使い手として名を馳せ那須与一・佐奈田与一と並び「三与一」として称えられた。
頼朝の死後は二代将軍頼家に仕え、建仁元年(1201)の越後平氏の乱に出兵し捕虜となった女武者の坂額御前を頼家に願って妻とし、承久三年(1221)に73歳で没した。本領の浅利とは別に、戦功によって比内(現在の秋田県大館市比内町。比内地鶏で名高い。)の地頭として任官している。子孫は信玄の家臣である甲斐浅利氏の右馬頭信種、出羽浅利氏らが有名。
墓所は菩提寺の大福寺近くにあり、大小の五輪塔を従えた3mを越える層塔が与一義成の墓と伝わっている。五輪塔は一族あるいは家臣団と思われるが並び方に作為が覗われ、やや信頼に欠けるようだ。