坂額坂と坂額塚

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坂額は越後の豪族・城資国の娘で兄弟には資永、長茂がある。一族は平家に味方したため没落し潜伏したが正治三年(1201)1月に板額の兄・四郎長茂が挙兵、資永の子・資盛は鳥坂城(現在の新潟県胎内市)に拠って抗戦を続け、資盛の叔母板額も共に戦った。

吾妻鑑の記述
2月3日・・・平長茂(越後の城四郎)が鎌倉追討の宣旨を求め、兵とともに上皇の御所に乱入したが留守のため勅許を得られず、小競り合いの後に逃亡。
3月4日・・・京からの飛脚によれば、先月22日に城四郎長茂らは吉野の奥で出家した後に誅殺された。
4月2日・・・越後からの飛脚によれば、城小太郎資盛が反逆を企てて挙兵した。討伐の兵が向ったが激しい抵抗のため鎮圧できなかった。
5月14日・・・越後より書状が届き、詳細が報告された。資盛らとの合戦により死傷者が多数、中でも資盛の叔母・坂額御前は女性ではあるが弓の名手で
      百発百中の腕により味方の多くが殺された。このため信濃国の住人藤澤次郎清親が後の山から坂額の股を射抜いて生け捕り、敵軍も敗北した。
6月28日・・・藤澤次郎清親が負傷した坂額を連れて参上した。御家人が並ぶ中で頼家に面会したが気後れの気配もなく、堂々たる態度だった。
      容貌も普通の美女が醜く見えるほどであった。
6月29日・・・阿佐利與一が坂額の下賜を願い出た。坂額を妻として強い子を産ませ朝廷と武家の助けをさせたい、と。頼家は朝敵だったにも拘わらずこれを
      許可し、阿佐利は坂額を連れて甲斐に帰った。



  

信号の名は「板額坂」だがMapFanにもGoogleにも表示がない。住所は笛吹市境川町小黒坂、地図はこちら
坂額の墓は6kmほど南西の甲府市上向山大宮新田にある、とされる。いずれ追跡調査してみる予定。