谷戸(逸見)城址 2007年11月


〜写真をクリック→拡大表示〜                当サイトのトップページは こちら から、どうぞ

武田氏の家系は
清和天皇--貞順親王--源経基--満仲--頼信--頼義--義光(義家の弟)--義清--清光--信義---と続き、信義から16代目が信玄、17代目の勝頼で滅亡する。

義光(新羅三郎)は常陸国で勢力を伸ばし、二男(三男とも)の義清(寛治五年・1091〜久寿二年・1155)は常陸武田郷(現在のひたちなか市)を領有して武田冠者と名乗った。しかし後に地元の豪族・大掾氏らと領地を争い、勅勘を受け嫡男の清光と共に甲斐に流されて土着、八ヶ岳南麓の大泉に住んで甲斐源氏となった。
義清を継いだ嫡男の清光(逸見を名乗る。天永元年・1110〜仁安三年・1168)は更にここで勢力を伸ばして多くの男子を残して逸見・武田・加賀美・安田・浅利などの一族として各地を領有させ甲斐源氏の祖となっている。
さらに清光のニ男(双子の弟)信義は頼朝挙兵に加わって平家討伐に功績を挙げ、後の戦国大名・武田一族の基礎を築いた。吾妻鏡の治承四年9月15日には「武田信義と一条忠頼が信濃の平家を討伐して逸見城に戻り、北條時政が到着して頼朝の意向を伝えた」旨の記載があり、この谷戸城であると考えられている。

現在残されている土塁や空壕・郭跡などの遺構は築城当時ではなく、出土品から推測して14〜15世紀(鎌倉末期〜室町時代)のものと考えられている。また西側の山裾には館が置かれていたと思われる「六の郭」跡が残されており、ここは現在は農家の住居となっている。
西側の搦め手虎口(裏側の重要な出入り口)の小山部分(西の出丸)には清光の墓と伝わる宝篋印塔がやや崩れかけて残されているが、この真偽は明らかではない。
城郭は地元で「流れ山」と呼ばれる小山に築かれ東西を流れる衣川と北に造られた横堀で区画されている。山頂の一の郭を中心にして五の郭まで同心円に配置し、それぞれの出入り口には食い違い虎口が築かれ等高線に沿って空堀(横堀)が巡らされている。     現地の地図はこちら


〜写真をクリック→拡大表示〜


     

北側にトイレと駐車場、歴史館が建つ   北側駐車場から八ヶ岳をのぞむ   北側からの遠望、背景は南アルプス   歴史館を経て大手虎口へ続く道


     

南側搦め手虎口近くから南の斜面を   搦め手から更に南へ伸びる城址   南東側の低地から城址を見上げる   南側から。斜面に一軒だけの人家


     

南側駐車場への道路から城址を見る   道路で分断された搦め手虎口    虎口に残る祠と崩れかけた宝篋印塔    清光の墓とも言われるが真偽は不明


     

北側横堀の前から大手虎口の方向を   西の帯郭から大手虎口を見下す   山頂、整備された一の郭部分−1   山頂、整備された一の郭部分−2


     

一の郭から三の郭にかけて巡らされた土塁と横堀。傾斜はかなりきつく、登るには手を突く必要があるほどだ


     

北側は八ヶ岳に向ってなだらかな斜面、南は釜無川へと緩やかに落ち込む傾斜。周辺には農地と別荘地が混在する