武田勝頼 終焉の地 天目山 2008年3月

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平安末期に甲斐に土着して勢力を伸ばした武田信義から数えて16代目が武田信玄(若い頃は晴信だが、信玄に統一)、その嫡男が一族最後の将・勝頼。
天文十年(1541)、信玄は有力家臣団の後盾を得て父の信虎を駿河へ追放し、武田家十九代(信義を三代遡り義家の弟・義光を初代とする)の家督を継いだ。信虎は甲斐を統一した勇将だったが、一説には信玄の弟を溺愛し戦費捻出のため領内に過酷な政策を布いていた、と伝えられている。
 
信玄は各地を転戦し天文二十二年(1553)には北部を除いた信濃を征服、数度に亘る川中島の戦い(対・上杉謙信)や駿河の今川・相模の北条との戦闘を経て勢力を拡大し、元亀ニ年(1571年・信玄50歳の頃)には信濃・駿河・上野(群馬)西部・遠江・三河・飛騨・越中を領有する巨大勢力を作り上げた。そして翌・元亀三年10月、信長と不仲になった将軍足利義昭の求めに応じ、総勢3万の大軍を率いて天下統一を目指し、京に向けて進軍を開始する。
 
11月に三方が原の戦いで家康軍を撃破した信玄は朝倉義景(信長軍牽制のため北近江に布陣していた)の撤兵を知り三河で進軍を停止。病(結核だったとも)を得た信玄は喀血のため4月まで長篠で療養するが病状は好転せず、撤退途上の三河街道で病死した。嫡子である勝頼は信玄の遺言「3年間は自分の死を隠せ」に従って、後に居城躑躅ヶ崎東の 円光院 に葬った、らしい。

さて・・・元亀四年(1573)に家督を継いだ勝頼は信玄以上の勢力拡大を目指して遠江の徳川領に兵を進めるが...
天正三年(1575)5月21日早朝、長篠の設楽ヶ原で武田軍1万5千と織田徳川連合軍3万5千が衝突、武田軍は防御線を突破できず総崩れとなって有力な家臣を失い1万以上の死傷者を出す惨敗となった。重臣の意見を無視・無謀な突撃・鉄砲3段撃ちの餌食・無能な跡継ぎ・・・など諸説が語られるが、「突然の家督相続などで家臣団を結束させる余裕がなく、長篠の戦い以前に一部の離反を招いた。有力な親類も含めて複雑に絡み合った利害関係のために中央集権を強化できなかった」のが基本的な背景と言えるだろう。勝頼自身も決して愚鈍ではなかったが特に有能な器ではなく、まぁ優れた親を持った凡庸な子と言う事か。
 
わずか数騎に守られて甲斐にもどった勝頼は宿敵上杉謙信と同盟し、北条氏政の妹を正室に迎えて領国の再建を目指したが上杉家の内紛に絡んで北条との関係が悪化。織田徳川連合軍の侵攻が本格化すると共に領内の動揺も激しくなって家臣団や一門の離反も頻発した。居城の躑躅ヶ崎は特に防御施設がなく、やがて攻め込んでくる織田徳川連合軍を防ぐため勝頼は韮崎郊外に新府城を築城して防御を固め、併せて軍団の再編成を目指すが...天正十年(1582)2月には築城に伴う負担の増大などが原因で信玄の娘婿・木曽義昌が織田信長に寝返り、即座に送った討伐軍も苦戦が続いてしまう。
 
すでに大勢は決しており、織田軍が伊那から・金森軍が飛騨から・徳川軍が駿河から・北条軍が関東から甲斐への進軍を開始、武田側の将兵は次々と逃亡して女子供を含め700名を残すのみとなった。勝頼は未完成だった新府城に火を放って放棄、躑躅ヶ崎を素通りして僅か一日のうちに35km離れた勝沼まで逃れ、武田家所縁の 大善寺 に宿泊。翌朝に甲州街道を東へ向い、受け入れを表明した都留勝山城主・小山田信茂領の岩殿城(地図)を目指す。しかし信茂も織田方に寝返って勝頼の進路を塞ぎ、後方には滝川一益の兵が迫る。逃げ場を失った勝頼一行は日川上流の 天目山栖雲寺 (武田十三代当主・信満の墓あり)を死に場所にしようとするが敵兵に阻まれて引き返し、天正十年(1582)3月11日、笹子峠に近い田野で一族と共に自刃。勝頼は37歳・正室(継室)は19歳・嫡子信勝は16歳、500年近く続いた武田家の正統はここで途絶えた。大善寺の理慶尼が勝頼最期の様子を「理慶尼記」として残している。
 
理慶尼の俗名は松葉、勝沼信友(武田信虎の弟)の娘で武田の家臣である雨宮一族に嫁した。天文五年(1535)に北条氏綱と戦った信友の戦死により跡を継いだ信元は上杉との内通により信玄に滅ぼされ、勝沼家は絶えた。疑われるのを恐れた雨宮家を離縁された松葉は近くの大善寺で剃髪し、理慶尼を名乗った。実家の勝沼家を滅ぼし兄を殺した信玄の子が勝頼だったが、危険を承知で敗残の一行を労わった。一説に、一時期の彼女は勝頼の乳母を務めたともされている。彼女の墓と「理慶尼記」の底本は大善寺所蔵。ただし理慶尼記は江戸時代の成立と考える説もあり、文学作品と考えるべきなのかも知れない。
 
勝頼自刃の50日後の天正十年6月2日、信長が京都本能寺で横死して以降の甲斐は徳川家康が領有した。家康は武田終焉の地・田野に勝頼の菩提寺建立を命じ、天正十六年(1588)に完成、当初は田野寺と称したが後に勝頼の法名・景徳院と改めた。数度の火災を経て今に至っており、最古の建物は安永八年(1779)再建の山門である。
 
124年後の宝永三年(1706)、甲府藩主柳沢吉保に招かれて仕えた国学者の荻生徂徠(当時40歳)は「峡中紀行」で次のように記述している。年代から考えて住僧から直接聞いたのではなく、伝聞だとは思うが...。
 
(景徳院の)住僧に墓の場所を尋ねたところ「既に(戦闘から)7日が過ぎており、死体には血がこびり付いていた。主君も家臣も入り乱れているため(今は甲将殿が建っている場所の)同じ穴に葬った。従って手厚く葬ったような場所はない。」と答えた。



甲府周辺の地図


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        左:東側の甲州街道新笹子トンネル近くから田野の集落方向を眺める。敗残の勝頼一行は右手を流れる日川(にっかわ)に沿って北へ逃げた。
 
        中:岩殿城へ逃げられなかった一行が次に目指したのは日川上流の栖雲寺。寺の前に立つと、山並みの遥か南に富士山が眺められる。
 
        中:栖雲寺の本堂。境内横の山腹には見事な自然石が連なる石庭が造られている。庭の観覧は有料・400円だが、無料の休憩所もある。
 
        右:本堂左手の墓地には武田十三代当主・信満の廟所がある。ここを死に場所にするつもりだった勝頼一行は敵兵に阻まれて引き返した。


     

        左:信満墓所の近景。鎌倉公方の元で関東管領となった上杉氏憲は後に辞任し応永二十三年(1416)に乱を起こした。甲斐守信満は氏憲の舅
           だったため味方に加わり都留で戦ったが武運つたなく敗れ、翌年2月に天目山で自刃している。
 
        中:柵に囲まれた廟所には高さ3尺ほどの宝篋印塔が2基、その周辺を家臣の墓と思われる五輪塔が囲む。
 
        右:栖雲寺と田野の中間にある「土屋惣蔵片手切」。栖雲寺へ向った勝頼らは追撃軍と遭遇して再び田野へ。側近の土屋惣蔵昌恒は狭い崖道で
           蔓に掴まり片手で敵兵を次々と崖下に斬り落として時間を稼いだ。勝頼は辛うじて田野まで逃げ戻り、最期の時を迎える。


     

        左:大正3年撮影の土屋惣蔵片手切。炭俵を積んだ馬が通る姿が写っている。谷川は斬り落とされた兵の血で三日間も赤く染まったという。
           このために当初は三日血川と呼ばれ、後に日川と改められたと伝わる。
 
        中:すぐ横を流れ下る日川の清流。川沿いの道は大菩薩嶺の西南を迂回して裂石集落で青梅街道(国道411号)に合流する。
 
        中:四郎作古戦場の碑。讒言により蟄居していた武田の重臣小宮山内膳は勝頼の危急を知り「譜代の臣が主家最後の戦いに加われなければ
           末代までの恥辱」として決戦前夜に追い付き参戦、勝頼は己の不明を彼に詫びたと言う。内膳は数刻の激闘の末、この地で主家に殉じた。
 
        右:鳥居畑古戦場。勝頼自害の地から僅かに100mほど、追撃する滝川一益の兵を防いで側近たちが最後の時間を稼いだ。


     

        左&中:伝承では勝頼夫人は侍女16人と共に日川の淵に入水したとも伝わる。景徳院前の無料駐車場横に記念碑が建てられている。
 
        中&右:日川(にっかわ)の流れ。上流にダムが造られたため水量が減り、既に往時の面影は失われた。


     

        左&中:家康が建立した勝頼の菩提寺・天童山景徳院(当時は田野寺)の入り口。境内が武田一族終焉の地である。
 
        中&右:甲将殿右奥の没頭地蔵尊。首無地蔵とも呼ばれ、首級を失った勝頼と妻子を村人がここに葬ったと伝わる。


     

        左:壮麗な姿を見せる山門は数度の火災を経て安永八年(1779)に再建された。景徳院では最も古い建造物だ。
 
        中:本堂の前から山門を見る。勝頼の嫡男信勝は新府城での篭城抗戦を主張したが受け入れられず、ここで元服の儀式を行った。
 
        中:景徳院の本堂。勝頼らが末期の水を飲み交わした武田菱水瓶や勝頼親子と家臣たちの位牌が収蔵されている。
 
        右:信勝元服に際して武田の重宝・御旗を松の根元に立てた、と伝わる。甲斐府中の鬼門・塩山にある 菅田天神社が楯無鎧と共に御旗を保管し、
           事ある毎に出し入れを受け持った。国旗日の丸はこの御旗が元になっている。「御旗・楯無も御照覧あれ」の御旗である。


     

        左:勝頼の法名を寺名とした景徳院の本堂内部。宗派は曹洞宗で山号は天童山、釈迦如来を本尊とする。
 
        中:甲将殿から慰霊墓と山門を撮影。山門の内側は石碑や歌碑が建つ現代的な佇まいだが、ここは清浄な空気に包まれている。
 
        中:甲将殿を背景にして中央に勝頼・右に夫人・左に信勝の墓。没後200年の安永四年(1775)に遠忌を行った際に建立された。
           勝頼一族の位牌などが残る甲将殿の裏が本来の墓石の位置だが、この時は周辺整備のため甲将殿の左に移設中だった。
 
        右:2010年夏には整備が終わって墓石群が甲将殿の裏に戻った。建物本体も多少の補修が加わったらしい。


     

        左:本来の位置である甲将殿の裏側に戻された墓石群。
        中:勝頼夫妻の生害石遠景。左側が正室(継室)の北条夫人(北条氏康娘・享年18歳)、右側が勝頼(信玄の庶子・享年36歳)。
        中&右:勝頼の生害石。   辞世・・・おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは


     

        左&中:勝頼の正室・北条夫人の生害石。  辞世・・・黒髪の乱れたる世ぞ果しなき思いに消ゆる露の玉の緒
 
        中&右:直前に元服し甲斐の名門・武田氏の後継者として自刃した信勝(享年15歳)の生害石。新府城での篭城を主張したが容れられなかった。
              母は信勝難産の末に没した遠山夫人(信長の姪。信長の養女として婚姻)、この縁談は信長が申し入れた。
                辞世・・・あたに見よ たれも嵐の さくら花 咲き散るほとは 春の世の夢