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左:東側の甲州街道新笹子トンネル近くから田野の集落方向を眺める。敗残の勝頼一行は右手を流れる日川(にっかわ)に沿って北へ逃げた。
中:岩殿城へ逃げられなかった一行が次に目指したのは日川上流の栖雲寺。寺の前に立つと、山並みの遥か南に富士山が眺められる。
中:栖雲寺の本堂。境内横の山腹には見事な自然石が連なる石庭が造られている。庭の観覧は有料・400円だが、無料の休憩所もある。
右:本堂左手の墓地には武田十三代当主・信満の廟所がある。ここを死に場所にするつもりだった勝頼一行は敵兵に阻まれて引き返した。

左:信満墓所の近景。鎌倉公方の元で関東管領となった上杉氏憲は後に辞任し応永二十三年(1416)に乱を起こした。甲斐守信満は氏憲の舅
だったため味方に加わり都留で戦ったが武運つたなく敗れ、翌年2月に天目山で自刃している。
中:柵に囲まれた廟所には高さ3尺ほどの宝篋印塔が2基、その周辺を家臣の墓と思われる五輪塔が囲む。
右:栖雲寺と田野の中間にある「土屋惣蔵片手切」。栖雲寺へ向った勝頼らは追撃軍と遭遇して再び田野へ。側近の土屋惣蔵昌恒は狭い崖道で
蔓に掴まり片手で敵兵を次々と崖下に斬り落として時間を稼いだ。勝頼は辛うじて田野まで逃げ戻り、最期の時を迎える。

左:大正3年撮影の土屋惣蔵片手切。炭俵を積んだ馬が通る姿が写っている。谷川は斬り落とされた兵の血で三日間も赤く染まったという。
このために当初は三日血川と呼ばれ、後に日川と改められたと伝わる。
中:すぐ横を流れ下る日川の清流。川沿いの道は大菩薩嶺の西南を迂回して裂石集落で青梅街道(国道411号)に合流する。
中:四郎作古戦場の碑。讒言により蟄居していた武田の重臣小宮山内膳は勝頼の危急を知り「譜代の臣が主家最後の戦いに加われなければ
末代までの恥辱」として決戦前夜に追い付き参戦、勝頼は己の不明を彼に詫びたと言う。内膳は数刻の激闘の末、この地で主家に殉じた。
右:鳥居畑古戦場。勝頼自害の地から僅かに100mほど、追撃する滝川一益の兵を防いで側近たちが最後の時間を稼いだ。

左&中:伝承では勝頼夫人は侍女16人と共に日川の淵に入水したとも伝わる。景徳院前の無料駐車場横に記念碑が建てられている。
中&右:日川(にっかわ)の流れ。上流にダムが造られたため水量が減り、既に往時の面影は失われた。

左&中:家康が建立した勝頼の菩提寺・天童山景徳院(当時は田野寺)の入り口。境内が武田一族終焉の地である。
中&右:甲将殿右奥の没頭地蔵尊。首無地蔵とも呼ばれ、首級を失った勝頼と妻子を村人がここに葬ったと伝わる。

左:壮麗な姿を見せる山門は数度の火災を経て安永八年(1779)に再建された。景徳院では最も古い建造物だ。
中:本堂の前から山門を見る。勝頼の嫡男信勝は新府城での篭城抗戦を主張したが受け入れられず、ここで元服の儀式を行った。
中:景徳院の本堂。勝頼らが末期の水を飲み交わした武田菱水瓶や勝頼親子と家臣たちの位牌が収蔵されている。
右:信勝元服に際して武田の重宝・御旗を松の根元に立てた、と伝わる。甲斐府中の鬼門・塩山にある
菅田天神社が楯無鎧と共に御旗を保管し、
事ある毎に出し入れを受け持った。国旗日の丸はこの御旗が元になっている。「御旗・楯無も御照覧あれ」の御旗である。

左:勝頼の法名を寺名とした景徳院の本堂内部。宗派は曹洞宗で山号は天童山、釈迦如来を本尊とする。
中:甲将殿から慰霊墓と山門を撮影。山門の内側は石碑や歌碑が建つ現代的な佇まいだが、ここは清浄な空気に包まれている。
中:甲将殿を背景にして中央に勝頼・右に夫人・左に信勝の墓。没後200年の安永四年(1775)に遠忌を行った際に建立された。
勝頼一族の位牌などが残る甲将殿の裏が本来の墓石の位置だが、この時は周辺整備のため甲将殿の左に移設中だった。
右:2010年夏には整備が終わって墓石群が甲将殿の裏に戻った。建物本体も多少の補修が加わったらしい。

左:本来の位置である甲将殿の裏側に戻された墓石群。
中:勝頼夫妻の生害石遠景。左側が正室(継室)の北条夫人(北条氏康娘・享年18歳)、右側が勝頼(信玄の庶子・享年36歳)。
中&右:勝頼の生害石。 辞世・・・おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは

左&中:勝頼の正室・北条夫人の生害石。 辞世・・・黒髪の乱れたる世ぞ果しなき思いに消ゆる露の玉の緒
中&右:直前に元服し甲斐の名門・武田氏の後継者として自刃した信勝(享年15歳)の生害石。新府城での篭城を主張したが容れられなかった。
母は信勝難産の末に没した遠山夫人(信長の姪。信長の養女として婚姻)、この縁談は信長が申し入れた。
辞世・・・あたに見よ たれも嵐の さくら花 咲き散るほとは 春の世の夢
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