足柄路は駿河国と相模国を結ぶ最も古い官道で、峠に至る道を足柄坂と呼んでいた。ここから東を「坂東」称する、その語源になったルートである。
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治承四年(1180)には既に箱根を越える新しい官道が整備されていたが、
頼朝 の率いる鎌倉軍は先鋒の
下川辺行平 を派遣して、挙兵への参加を拒んだ
波多野義常 を追討、
さらに義常の叔父に当る波多野一族の河村秀高が守る山北の河村城を制圧して足柄路を進軍した。
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箱根路に比べるとやや遠回りになる足柄路を選んだのは、このエリアの制圧が主な理由と考えられるが、偉大な祖先が残した事跡に拘泥する頼朝が例の如く
八幡太郎義家 の弟
新羅三郎義光 と足柄路の故事(後述)に倣った可能性もまた、考えられる。
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日本紀略(平安時代編纂の歴史書)には
「延暦十九〜二十一年(800〜802)に富士山の大噴火による降灰が足柄路を塞いだため新たに箱根路を拓き、翌年の旧ルート復旧に
伴って箱根路を廃し足柄の旧路に復した」と書かれている。ただし、近年の研究では足柄峠の周辺には同時代の大規模な降灰や熔岩流の痕跡が見られず、西側の御殿場周辺で河川
が被害を受け往来に支障が起きたのが原因と考える説も発表されている。日本紀略の原文は下に記載した。
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富士山嶺自焼 晝則煙気暗冥 夜則火光照天 其聲如雷 灰下如雨 山下川水皆紅色也
廃相模国足柄路 開筥荷途 以富士焼碎石塞路也 廃相模国筥荷路 復足柄舊路
昌泰二年(899)前後には足柄の峠道で強盗事件が頻発し、朝廷への荷駄強奪事件も起きたため足柄の関が設けられたが鎮圧後には廃止された。
1500年代初頭には小田原北条氏が駿河の今川氏を牽制するため足柄城を築いた。足柄路の利用頻度はこの頃がピークで、江戸時代に入って箱根道の整備が進んで通行量も
減り、間道として利用される程度になったらしい。メジャーな観光地・箱根周辺に比べると辺鄙で見所も少ないが、ルート上の古道も復旧・保存され特に秋の行楽シーズンには
紅葉狩りの観光客も観られるになった。何よりも混雑しないのがありがたい。
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峠の最高地点は759mで箱根峠の846mに比べるとやや低く道路の巾は全般に狭い(特に静岡県側)が、箱根に比べると交通量が極端に少ないためドライブは快適だ。
峠の周辺には無料駐車場やトイレ・茶屋などが整備されており「足柄山の金太郎伝説」に関わる観光スポットを辿るのも面白い。ルート上の花形スポットは足柄城址から見る
富士山の絶景と、奥州に向う新羅三郎義光が笙の秘曲を吹いた伝説の場所が残っていること。義光が笙の名手だったのは事実らしいが、それ以外の物語は捏造の色彩が濃い。
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今回の訪問は猛暑の7月だったため歩き回るのが苦痛で...取りあえずの撮影を済ませるだけの手抜き行脚だった。義光が笙を演奏した夜は仲秋の名月だった伝承にちなんで
峠では毎年9月の第2日曜日に静岡県小山市と神奈川県南足柄市が共催して「足柄峠笛まつり」が催される。雅楽を始め様々な伝統芸能が演じられるから、スケジュールを調整
して訪問するのも面白い。紅葉には早過ぎるのが少し残念だけれども。
義光は後三年の役で苦戦する兄の義家を助けるため官職を辞して陸奥国を目指した。一方で笙の名門に生まれた
豊原時秋 (wiki) が足柄峠まで
同道し、義光と陸奥まで行くと申し出る。義光は時秋の父・時元に笙を学んで秘伝の名曲「大食調入詞」を会得していたが、幼い頃に父と死別した
時秋はその曲を知らない。討ち死にして名曲が失われるのを恐れた義光は足柄峠でこの曲を演奏し時秋に伝授して帰洛させた、と伝わる。
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しかしこの物語は古今著聞集
※に載っている話で、実際に義光が師事したのは時元の父・時光。義光と同道したのが時元であり、別れた場所も
足柄峠ではなく逢坂の関だったらしい。逢坂の関は山城国(京都)と近江国(滋賀県)の国境で、現在の大津市にあった古跡。
その他、伝えたのは笙の名器・交丸だったとか、この石の上で秘曲を伝授したとか...伝説は尾鰭に次ぐ尾鰭を生んでいる。
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※古今著聞集: 建長六年(1254)前後に成立した説話集。編者は
九条道家の近習として多彩な才能を発揮した
橘成季 (wiki) 。