茅ヶ崎 御霊(ごりょう)神社 

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元々の御霊神社は西運寺の境内地にあった毘沙門堂が始まりで、大庭景義(景能)がこの堂に曽祖父の 鎌倉権五郎景政 の霊を祀った、と伝わる。景義は景宗の長男だったが、源義朝 に従って戦った保元の乱で 為朝 の矢に膝を砕かれて歩行困難になり、家督を弟の 景親 に譲って隠居した人物。平家に味方した二人の弟(景親と 俣野景久)が没した後に家長に復帰し、鎌倉幕府の重鎮として貢献を続け承元四年(1210)に82歳の天寿を全うした。
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建久四年(1193)に 大景義 出家に伴って家督を継いだ嫡子景兼は建保元年(1213)の和田合戦で 義盛 に与して失脚、同年に備後国(広島県東部)の地頭に着任した記録が残る大庭景連は景兼の近親者らしいが詳細は不明。和田合戦後の懐島郷は三浦一族の所有となり、更に宝治合戦(1247)で三浦氏が滅亡した後は北條本家が領有、鎌倉幕府の滅亡後は復活した三浦氏傍流(三浦(佐原)義連 の末)を経て後北条氏の領有と変遷した。
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室町時代以降に義経記や源平盛衰記などの人気が高まり、5kmほど東の八的ヶ原(辻堂駅近く)に義経怨霊が現れたのなら「通り道の懐島でも義経の霊を祀って怨霊を鎮めよう」と義経守護神の毘沙門天を祀った、その堂が明治初期の神仏分離運動に伴って西運寺から独立して現在に至っている、という事か。
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  ※八的ヶ原:
頼朝死没13年後の吾妻鏡に「去る建久九年(1198)に 稲毛重成 が橋の新設工事を完成させた折、落成供養に将軍が来臨した帰路に落馬事故があり程なくして崩御した」とあるから、そのまま受け取れば頼朝死没の原因になった事故が 相模川の橋 と鎌倉の間で発生したのは間違いない。
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南北朝時代の1356年前後に編纂の歴史書・保暦間記(保元から暦応まで、の意味)では吾妻鏡の記述を更に脚色して「八的ヶ原(現在の藤沢市辻堂)で 義経 の亡霊を、稲村ヶ崎で 安徳天皇 の亡霊を見て落馬。これが原因で病没した。」と書いている。これを根拠にして辻堂の八松地区(地名が八的ヶ原→ 八松ヶ原→ 八松 と転訛)の郷土史家たちが「頼朝落馬の地」を主張している。「この辺」ではなく「ここ」と断言しているのが凄い。


     

           左: やや判りにくい場所に参道が伸びる(地図)。西運寺に参詣用駐車場はあるが、判りにくいので約400m東の「スーパーたまや」の
無料駐車場から歩くほうが間違いない。社の左を抜けるとすぐ西運寺、明治初期に分離するまでは典型的な神仏習合だった。
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           中: 例大祭は毎年2月の初旬、現在は典型的な鎮守の宮として地域に溶け込んでいる。狭い鳥居を抜ける神輿の宮出し風景は YouTube で。
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           右: 元々の鎌倉権五郎景政と後に追祀した九郎義経の二柱を祭神とする。現在の神社は無住だが軒を並べる民家が管理人みたいな存在か。


     

           左: こちらは地続きの御霊山浄祥院西運寺(浄土宗)。慶長元年(1596)の創建と伝わるが詳細は不明、御霊神社の原型となった毘沙門堂も
起源は同じ頃だろう。とすると、九郎義経が合祀されたのは江戸時代に入ってからか?
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           中: 本尊は阿弥陀如来、現在は相模国準四国八十八ヶ所の86番札所となっている。ちなみに、結願の88番は藤沢の普門寺(wiki)。
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           右: 500mほど北西の鶴峯八幡宮参道に沿った民家に建つ弁慶塚。参道左側にある石柱の碑は民家の迷惑に配慮して最近建てた、らしい。
現在の弁慶塚は昭和五十七年(1982)地元有志が再建した碑で、当初の姿や創建年代は判らない。頼朝落馬の原因となった 義経行家
安徳天皇 の怨霊出現伝説が喧伝され、弁慶 まで引っ張り出したのだろう。せめて旧い塚がどんな姿だったか程度は記録して欲しいものだ。
弁慶塚 (現在地地図) は参道がやや広いので辛うじて路駐できるが、民家に迷惑を掛けない配慮が必要。

この頁は2022年 8月 12日に更新しました。