敗れた頼朝が自刃を覚悟した自鑑水 、自害水とも 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ      「索引」 へ  「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
源平盛衰記には「自鑑水・自害水」の記述はない。土肥の大椙や堀口合戦場と同じく、湯河原の鍛冶屋地区に残る伝承である。
.
町営の「さつき公園」から 小道地蔵堂(別窓)の方向へ登らず、左側の白銀林道を南郷山南麓を西へ進むと3km弱で「自鑑水」の標識が現れる。この道路脇に駐車して荒れたハイキングコースを500m登り杉林を抜けた左が「自鑑水」、敗残の 頼朝 が乾いた喉を癒そうとして惨めな姿を水に映し「源氏の大将軍がこのザマか」と嘆いて自刃しようとした、それを土肥實平が制止したと伝わる場所である。当初は自害水、後には余りに生々しいので自鑑水と改めたという。
.
湧き水ではなく林間に降った雨水が溜まっている窪地なので、晴天が続くと干上がってしまう。すぐ先には「大多賀窪」と呼ばれる更に広い窪地があり、鍛冶屋地区の伝承ではここに繁っていたススキの穂が頼朝の目を突いて傷つけた。頼朝は「大多賀窪の鬼すすき 丈になりても 穂は咲かず」と詠んだという。その後のススキは(頼朝のクレームに従って)穂の数が少なく、春から秋にかけては牛馬の餌にする草刈り場となっていた、というお話。


     

           左: さつき公園近くの白銀林道から南をる。眼下は湯河原CC、岬の先端は千歳川河口、尾根を越えると 伊豆山権現(別窓)に至る。
.
           中: 白銀林道の入口から南郷山の南麓を。微かに見える林道が嶺を回り込んだ辺りが「自鑑水」に向かうハイキングコースの入口。
.
           右: 白銀(しろがね)林道からは荒れた山道なので出来れば晴天続きを選びたい。「自鑑水」の標識横には一台分の路駐スペースがある。


     

           左: 現地を歩いたのは2007年、その後は整備されただろうか。登り500mのハイキングコースは行き交う人もなく、かなり荒れていた。
.
           中: 山道を登り詰め杉林を少し下った窪地が「自鑑水」。湧き水ではなく、降雨直後のしばらくの間だけだけ見られる溜まり水である。
数日前の石橋山合戦は(多分)台風に伴う豪雨だったから顔を映せる程度の池だったとしても不思議ではない。
.
           右: 標識がなければ何も知らずに通り過ぎてしまうだろう。頼朝がこの場所を通ったのは果たして史実か、それとも只の伝承か。

わずかな人数となった頼朝主従は@の石橋山から南へ逃れ、Aの堀口で追っ手の 大庭景親 軍と戦い、辛うじて土肥の椙山へ逃げ込んだ。その後のルートの詳細は明らかではないが、小道地蔵堂で僧純海の機転で穴倉に匿われた。純海は追手に自白を迫られながらも頑として頼朝の所在を言わなかったため殺されている。追手が移動した後に頼朝主従は南郷山を経て西へ、箱根方向を目指したらしい。
.
南郷山の西斜面にある小さな池で一息つき喉を潤したとき頼朝は水に映った己の敗残の姿に絶望し最早これまでと自害を考えたが、先導していた実平が「土肥の椙山の隅々まで私の知らない場所はありません。敵の追及が緩むまで幾日でも隠し通します。これぐらいで源氏の棟梁たる者が志を捨ててはなりません。」と諌め励ましたと伝えられる。その後は しとどの窟(別窓)や 箱根権現(別窓)などを逃げ回り、真鶴半島「岩海岸」から小舟で安房を目指して漕ぎ出した。

この頁は2022年 8月 2日に更新しました。