丹那盆地に残る北伊豆地震の痕跡 

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太古の丹那は全体が湿地帯あるいは池だったらしい。気の遠くなるような年月を経て樹木や土や火山灰などが積もって徐々に浅くなり、最終的には盆地を
形成したと考えられている。軽井沢には地下に埋もれた巨樹を掘り出して工芸品に加工し展示している 神代杉博物館(紹介サイト)もあるので、興味があれば
立ち寄るのも面白い、かも。丹那断層についての地質学的な資料は静岡大学小山研究室のサイトを参考に。断層保存公園の地図はこちら
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それにしても伊豆山一帯の海岸は大きく陥没しているし函南周辺は断層の巣だし、更に駿河湾は大規模地震が確実視されているし...嫌だねぇ。


     

           左: 断層は画像中央を縦に走っている。手前左右の半円は、元は円形だったゴミ捨て場、その先は横に走る排水溝の跡。共に約2mずれている。
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           中: 地中を掘り下げて展示する屋内の施設。中央のマーク部分がズレを生じた断層部分。芦ノ湖から修善寺まで30kmにも及んでいる。
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           右: 断層の痕跡を斜めから。昭和5年11月26日早朝に発生したマグニチュード7.3の烈震は函南と韮山だけで113人の死者を出した。


     

           左: 丹那盆地から3km北、田代の玉楠(タブノキ)の巨樹がある火雷神社。低い丘陵を隔てているため丹那とは別に田代盆地とも呼ぶ。
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           中: 何の変哲もない村の鎮守だが、鳥居の前を丹那盆地に続く断層が走っており、北伊豆地震の傷跡を鮮明に残していることで有名。
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           右: 断層は石段の直下を走り、鳥居と石段に2mのズレを生じさせた。現在は左側に新しく石段を設けて地震の痕跡を保存している。


     

           左: 断層のズレ(杭の部分)を石段の上から。続日本後記・承和八年(841)の「伊豆国大地震」の震源も丹那だった事が調査で判明している。
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           中: 発生直後の農道に左右1m以上のズレが見られる。背景などから判断すると、現在のオラッチェから熱函道路方向を撮った画像だろうか。
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           右: 火雷神社の西、民家の裏が田代城址(狩野茂光の外孫・田代信綱の砦)。この山裾を日金に登る旧街道だった。火雷神社の地図は こちら
砦の配置図はこちら。田代城址も砦も遺構の殆どは後北条氏時代のもので(東海道の山中城ほどではないが)、当時は小田原城と韮山城を結ぶ
要衝だった。秀吉による小田原攻めの際には丹羽長重と堀秀政の兵が向けられたが、戦わずに小田原に撤退したらしい。

この頁は2022年 7月10日に更新しました。