狩野城は東を流れる狩野川と北を流れる柿木川に挟まれた独立峰を利用して築城されている。攻撃を受けた時に立て籠もる「詰めの城」で、平時は城跡の西側・本柿木周辺の
平坦地が館だったらしい。本城あるいは古屋敷の地名が残って、垣を巡らした館があった事から垣城→柿木に転じた、と。
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また流人時代の頼朝が訪れた伝承もあり、城址西側の月見山で開いた狩野茂光の観月会には頼朝も再三招かれた、と。狩野城址の地図は
こちら。
柿木に築城する以前は狩野川東岸の日向(ひなた)館(
地図・旧日向区公民館(道路造成のため移転)の北側)を本拠にしていたが、工藤維景か維次の頃に更なる要害の地を
求めて柿木に移ったらしい。
平安中期の仁寿年代(850年前後)、宮廷の建築や家具調度の製作から土木まで担当する「木工助」を務めた藤原南家の為憲が、職責を称する「工藤大夫」(木工の藤原)
を名乗ったのが工藤氏の始まり。為憲から四代後の工藤維景が駿河守となり、その子の維次が在庁官人として狩野城を築いた。
嫡子の祐隆(呼称は 家継・家次・工藤祐隆・狩野四郎太夫、など)は四男の茂光に狩野荘(当時は後白河院領)の管理権を譲って伊豆東海岸に移り、伊東氏の祖となった。
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伊東一族の本家筋に当る
狩野茂光 は狩野川流域に勢力を広げ、伊豆屈指の牧草地だった牧之郷を領有して多くの良馬を産出し伊豆介(四等官の二位(守→介→掾→目)。
通常は守は領国に赴任しない(遙任と称す)ため、実質的には現地での最上位権力者である。
本来の支配地に含まれた伊豆大島に流されてなお乱行を止めなかった為朝征伐の総大将を務めた実力者だったが、時勢は彼に味方しなかった。
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頼朝 に従った打倒平家の緒戦
石橋山合戦(別窓)は壊滅的な負け戦となり、落ち延びる途中の
函南で自刃(別窓)、同行した
北條時政 の嫡男
宗時も落命した。
伝承に拠れば平家軍は伊豆一帯の残兵を掃討して狩野城も攻め落とし、女子供も全て殺されるか狩野川に入水して果てたという。
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茂光の長男宗茂は頼朝御家人として重用された。その二男 (推定) は丹那盆地北部(現在の函南町)を領有して
田代信綱 を名乗り、同様に御家人として働いた。
宗茂二男の兼光の詳細は不明、三男行光は養子に迎えた甲斐分家の工藤景任の曾孫、との説がある。詳細は左フレームの「伊東氏系図」で。
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茂光の四男
五郎親光 は文治五年 (1189) 8月の奥州 阿津賀志山合戦で戦死、同行した行光は奮戦して功績を挙げた。この五郎親光の三女が
満劫、曽我兄弟の母である。
伊豆目代の源仲成(
源三位頼政 の嫡男
仲綱 の乳母子)に嫁して一男一女を産み4年目に離別、孫を愛する余り任期を終えて都へ戻る仲綱との同行を許さなかったらしい。
満劫は
河津三郎祐泰に再嫁して一萬(後の
十郎祐成)と箱王(後の
五郎時致)の兄弟を産み、夫の横死後に
曽我祐信 の後妻となった。
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その後の狩野一族についての史料は少ないが、室町時代の明応ニ年 (1493) に伊勢新九郎(後の北条早雲)が堀越御所を襲って足利茶々丸を殺し伊豆の覇権を得た際に、
狩野介を名乗っていた柿木城主の狩野道一が抗戦の末に自刃した記録があり、以後の一族は後北条氏に従ったらしい。現在残っている土塁などは殆どがこの頃の遺構だろう。