河津の義朝山と小鍋神社 

 
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三島と下田を結ぶ旧街道には二つの難所があり、その一つが天城を越える峠である。文覚が生きた時代のルートは不明だが、江戸時代には古峠・新山峠・中間業越え
などが利用されていた。そして幕末が近くなった文政二年 (1819) には新たに二本杉峠が開通した。
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これは通商条約交渉に向うアメリカの初代総領事タウンゼント・ハリスや、密航に失敗して唐丸籠で江戸に護送される吉田松陰と金子重輔が通った道である。
松平定信が谷文晁を従えて下田を訪れたのは二本杉峠が開かれる前なので、中間業峠を越えたのだろう。
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そして明治38年 (1905) には旧天城トンネルが完成、昭和になって国道414号が開通して現在の新天城トンネルがメインルートとなった。
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今では二本杉峠 (標高815m ) ルートは天城で最も人気の高いハイキングコースになっている。路線バスの場合は湯ヶ島温泉側 (北側) の大川端キャンプ場バス停
から峠まで2.2km (60分) 、峠から河津側の宗太郎園地まで3km (80分) 、園地から登尾バス停までは20分程度。どちら側にも駐車スペースはあるが...
犬を連れて峠越えをしたら、また歩いて出発地に戻らなければならないのが辛い。
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さて、もう一ヶ所の難所が現在の国道414号の逆川から北上して踊り子所縁の湯ヶ野へ下る小鍋峠。最高点の標高は290mだから二本杉峠ほどの難所ではないし、
こちらは国道の開通に伴って完全な廃道になった。古道に興味があってここを歩く人もいるらしいが今ではハイキングにも使われていないらしい。
いずれにしても 頼朝文覚 がこの地を訪れた事の真偽は別にして、伊豆半島の南端までを往来する下田街道が小鍋と大鍋の部落を通っていたのは間違いない。
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伊豆東海岸の河津から下田までは海沿いに断崖絶壁が続く地形である。鯉名(現在の南伊豆町小稲)から舟で駿河の平家軍に合流しようとした 伊東祐親 も...
いやいや、祐親は河津一帯には詳しい筈だから谷津の南禅寺から山越えのルートを選んだだろう。ただし鯉名で祐親を捕えた 天野遠景 は黄瀬河 (沼津) の頼朝陣屋に
連行しているから、この場合は間違いなく天城越えの旧街道を通ったに違いない、と思う。
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         小鍋神社の地図はこちら(道が狭いので要注意)、旧下田街道(三嶋大社〜下田港)の天城峠周辺図は こちらで。


     

           左: 湯ヶ野温泉周辺と国道414号。小鍋神社の更に左手(北)が大鍋の集落、福田屋と共同湯は川端康成の「伊豆の踊り子」で知られている。
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           中: 小鍋神社近くから南東を。旧下田街道は湯ヶ野へ下り南の小鍋峠を越えて稲梓から下田へ、反対側の三島への道は小鍋神社から義朝山の東を
迂回し、大鍋集落を経て二本杉峠に向う。吉田松陰 や初代米国公使 ハリス (共に wiki) も通った旧街道である。
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           右: 河津川から離れて下田へ南下する国道414号から湯ヶ野を撮影。左奥が義朝山、正面左奥(北)に続く人家が天城峠の方向になる。


     

           左: 小鍋の集落から義朝山を見上げる。神社周辺は道路が狭い上にカーブも多いため途中の適当な空き地などに車を停める方が良い。
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           中: 義朝山麓の小鍋神社。最も古い棟札(慶長十七年・1612)に頼朝の名が見られ、江戸初期には既に伝承が定着していたらしい。
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           右: 髑髏を埋めた樫がどれか不明なので注連縄のある樹に決めた(笑)。この根元に 義朝 の偽髑髏が埋まっているのか、いないのか。