討ち取られた
山木判官平兼隆 の首は
頼朝 の待つ守山(または北條邸)の本陣に届けられ首実検の後に香山寺に葬られた...と書くのが通例なのだが、死没後の兼隆に関する情報は皆無である。恐らく首を失った兼隆の屍体は一族郎党の屍骸と共に館で焼かれ、首は守山周辺か狩野川にでも打ち捨てられたと思われる。
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寺伝に拠れば、兼隆が祈願寺として真言密宗・香山寺(
地図)を開いたのは久寿元年(1154)とされるが、京都で乱行を続けた兼隆が父・和泉守信兼の訴えで伊豆山木郷に流されたのは、頼朝挙兵前年の治承三年(1179)と記録されている。従って以前から存在した寺を兼隆が祈願寺に改めたか、没後に兼隆の縁者が菩提寺に改めたか新たに建立したか、その三択になる。
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父の信兼が元暦元年(1184)に伊勢平氏を糾合して挙兵(三日平氏の乱)した事から推測すれば治承四年当時の兼隆(長男)は30〜40歳ほどか、山木合戦の26年も前に香山寺を開くのは年代が全く整合しない。
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ただし兼隆の菩提を弔った香山寺と伝・兼隆館は直線で300mの距離にあり、平家縁戚のコネを生かして伊豆目代を名乗った兼隆が古い寺を氏寺に近い感覚で支配下に置いていたと考えても違和感はない。その前提で考えれば以下の寺伝が正しく歴史を伝えている可能性がある。
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兼隆没後に荒廃した堂宇は元徳二年(1330)に足利氏が再興した。南北朝時代後期には足利氏が零落して再び庇護を失ない荒廃、更に天正十八年(1590)の秀吉による
小田原征伐の際に韮山城攻防の兵火で焼失し寺宝文物を失った、と伝わっている。香山寺の南西500mにある江川氏菩提寺の本立寺から常念寺にかけて韮山城攻略用の付け城
(攻城の拠点)が築かれた、その影響もあったのだろう
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関ヶ原合戦直前の慶長二年(1597)には韮山城主内藤信成(徳川家康の異母弟)が再興し、元禄五年(1692)には鎌倉建長寺の末寺となっているが...
幕末の嘉永六年(1853)10月25日に類焼し、堂塔も寺宝も古文書も全て灰燼に帰した。唯一残るのが兼隆室(これは誰だ?)の持念仏だった薬師如来坐像だという。
せめて古文書の一部でも残っていれば頼朝挙兵前後の情勢が少しは明らかになったかも知れないのに、残念。