守山北麓の北條館跡から山裾を東へ迂回して300m、政子の産湯に使われたとされる古井戸が私有地に残っている。大石を掘り抜いた四角い枠の部分はそれっぽいが実際には江戸時代の井戸で、
政子 云々は伝承に過ぎない。北條一族が日常生活で使った井戸は小山を隔てた館の敷地内にあったと考えるのがノーマルで、館跡の発掘調査で確認されていると思う。
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元仁二年(1333)に鎌倉幕府が滅亡した時、北條氏の館は第九代執権
貞時 の側室だった覚海圓成(安達一族の娘で十代執権
北條高時の生母)による相続が認められた。彼女は生き残った一族の女たちと共に父祖の地である北條に移り住み、館を尼寺(圓成寺)に改めて戦没者の菩提を弔っている。
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2010年春には圓成寺跡の発掘作業がほぼ完了したが、確認された遺跡や遺物には平安末期から鎌倉時代初期の痕跡は見られず、圓成寺時代以降のもの、と推定されている。更に加えて井戸のある一帯は堀越御所の敷地だったし、13世紀初頭から14世紀末期の戦乱時代を経ているため、平安時代末期に使われていた井戸が当時のままに残っている可能性も低い。観光資源としては貴重だろうけどね。「おっ!あの尼将軍政子はこの水で産湯使ったんだ!」って。
右:北側から見た堀越御所周辺の鳥瞰 画像をクリック→拡大表示
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【 堀越(ほりごえ)御所について 】.
正直言って肉親が騒乱に明け暮れる室町時代は良く判らないし、あまり好きじゃないんだけど...
鎌倉幕府滅亡後に実権を握った
足利高氏 (尊氏) の子孫は内紛が絶えず、関東支配の拠点だった鎌倉でも混乱が続いた。幕府の追討令を受けた鎌倉公方足利成氏は下総に逃げて古河公方となり、八代将軍義政の弟で追討使の政知も残存勢力の抵抗によって鎌倉に入れず、韮山に館を建てて堀越公方となった。
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政知には長男の茶々丸がいたが、素行の悪さを理由に幽閉し後妻が産んだ潤童子を後継にしようとした。延徳三年 (1491) 4月、政知の死去直後に逆襲に転じた茶々丸は義弟の潤童子と義母の円満院を殺し、重臣の多くを粛清して堀越公方の座を奪った。
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この混乱に乗じた駿河興国寺城の伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が堀越御所を急襲して実権を掌握し、さらに伊豆全域を支配下に置いた。ただし、鎌倉北條氏と後北条氏の間には何の血縁関係もなく、盛時自身が北条を名乗った例もない。覇権を確立した後も小田原には移らずに終生に亘って韮山城を拠点にしている。天下に号令した北條氏にあやかって北条の姓を使ったのは、盛時の跡を継いだ嫡男の氏康が最初である。
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【 異説やら新説やら、いろいろ 】.
1.堀越は「水路を越えた地」の意味で、当時の狩野川は守山の東を流れていた。現在の流路は鎌倉時代初期の開削による、との説あり。
2.その説に従うと、頼朝流刑地の蛭ヶ小島周辺に残っている「土手和田」や「西土手」「東土手」「和田島」「五つ島」の地名が気になってくる。
3.最近の研究では茶々丸は韮山で殺されずに追放され、後に再起を図った甲斐で殺された、らしい。すると願成就院裏手にある墓は何だ?
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更に妙法寺記※は明応四年か (1495) の春に茶々丸が伊豆大島に逃げ、武蔵から甲斐に入って富士山に登ったと書いている。伊勢新九郎の伊豆討ち入りは明応二年 (1493) の夏または秋が史実だから、その一年半後に逃げるのは計算が合わない。噂話が紛れ込んだ、と思う。
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※妙法寺記:河口湖畔の妙法寺(
地図)に伝わった年代記で、
勝山記(wiki)とも。