伊豆一之宮 三嶋大社と周辺の風景 

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三島鳥瞰 左:伊豆国府があったとされる三島市の中心部   画像をクリック→拡大表示
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三嶋大社(公式サイト)は平安時代の中期、下田・白浜の伊古奈比当ス神社(通称・白浜神社)から、当時の伊豆国府近くに分祀創建されたのがほぼ定説となっている。ただし国府の位置については主に二つの説があり、一つは豆州誌稿に記載がある小久保・長谷の一帯(大社の南東、本妙寺と妙行寺の周辺・地図)、もう一つは古い瓦が多く出土している芝本町(大社の西500mの一帯・地図)で、確定するに足る根拠はないがこの範囲内にあったと考えて良いだろう。
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弘安二年(1279)、相続に関する訴訟のため鎌倉に趣いた阿仏尼(藤原為家 の側室)が紀行文「十六夜日記」の記述に従えば、老女が短時間に歩ける圏内にあったのは間違いない。
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田子の浦 (約22km西) を過ぎて伊豆国府に着いた。まだ夕陽が残っているため三島明神に参詣して和歌を詠んだ。
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三嶋大社の創建については、面白い伝承が残っている。
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三嶋大社の現在地には、元は譽田別命(ほんだわけのみこと・第十五代応神天皇)を祀った若宮神社があった。この地にやって来た三島明神が「藁一束分の土地を譲ってくれ」と頼んだため、その程度なら構わないと考えて承諾すると、三島明神は束を解き藁をつなげて広大な土地を囲ってしまった。そのため追い出された若宮八幡は1km以上離れた現在の西若町に移転を余儀なくされ、腹を立てて大社に背を向け社殿を構えた、と。
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現在は大社と同じく南向きの社殿だが、当初は本当に西向きだった。伊豆国分寺史蹟も近いから大社から足を伸ばす値打ちは高い。三嶋大社の駐車場と伊豆国分寺跡と若宮神社を経て富士山の伏流水で知られた柿田川公園までを結んだ歩行者用のルート地図(片道約3.3km)を参考に。
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  ※三島大社P: 普通車1時間200円、宝物館(500円)利用なら200円は払い戻し。半日程度を費やして周辺を見物するなら逆コース(柿田川公園Pまたは
国道を挟んだショッピングタウン(サントムーン柿田川)の無料Pか、ヨーカドー(日清プラザ)の無料Pを利用しての回遊が経済的だ。


     

           左: 昭和初期に撮影した三嶋大社前の下田街道。川端康成が「伊豆の踊り子」を発表したのが大正十五年(昭和元年・1926年)だから概ね同じ頃
だろう。右側の看板にある「綿文呉服店」は既にここから移転し、500mほど西の三島南町で営業している。
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           中: 現在の旧・下田街道、大社に向って一方通行の車道も両側の歩道も石畳、電線などは地中に埋設されすっきりした風景になっている。
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           右: 三嶋大社一の鳥居前。左右に旧東海道と撮影場所の背後に続く下田街道との交差点である。
宝物館では弘安五年(1282)に 一遍上人 が参詣した様子を描いた聖絵のCGを見ることができる。境内の様子は現在と殆ど変らない。


     

           左: 神池を左右に見て総門へ。境内は犬の立ち入り禁止だが、総門の外側は黙認されている。私はいつも総門の左側に繋いで参詣している。
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           中: 神池手前の右には百日詣の時に 安達籐九郎盛長が宿直した跡、ただし真偽の程は不明。左の神池には政子が信仰した厳島神社がある。
家内繁栄・商売繁盛・安産・裁縫などに霊験あり、とされている。
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           右:頼朝に関する史蹟の定番、左が 頼朝 で 右が 政子 の腰掛石。左手の神門(慶応三年・1867年築)の先が神域となる。


     

           左: 拝殿と、奥に続く本殿を撮影。安政元年(1854)の地震で倒壊し明治二年(1869)に再建官僚、平成十二年には国の重文に指定された。
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           中: 神門と本殿の中間に建つ拝殿。以前は祓殿として神楽や祈祷が行われ、昨今の吉日には神前結婚式なども行われている。
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           右: 樹齢1200年の金木犀は国の天然記念物指定である。9月中旬と10月初旬の二度花を開き、数kmの先まで芳香が届いたと伝わる
昭和の頃に比べると、流石に樹勢は弱まってしまった。境内には金木犀の他にも樹齢500年を越す巨木が多く聳えている。


     

           上: 神池の周囲を枝垂れ桜が囲み、3月下旬には池に写る姿が美しい。枝垂れ桜に続き4月上旬には染井吉野が満開となり夜桜も楽しめる。
ただし、参道に並ぶ露店と花見客による混雑と酔客の横行はかなり酷い。まぁ観桜の名所だからしょ〜がないけど。


     

           上: これが悪辣な(笑)三島明神に本拠から追い出された若宮神社。三島市街地の西半分、11ヶ町の総氏神である。
祭神は誉田別命(応神天皇)で例大祭は5月14日〜16日、昔は国司勧請の八幡神社として在庁(国衙の官吏)が奉幣した、と伝わる。
宝暦三年(1753)に三島の代官・山本平八郎が社殿を改築して三嶋大社の境外摂社若宮八幡宮となり(この時点で三嶋明神と和解か?)、
明治12年(1879)若宮神社と改称した。


     

           左: 伊豆国分寺の推定復元図。天平十三年(741)の聖武天皇詔勅により全国に建造された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。
創建当時の敷地は東西150m×南北180m、南から南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が並び、中門と金堂が東西の回廊で繋がっていた。
昭和三十一年(1956)の発掘調査によって塔の基壇と礎石8ヶが発見され、回廊の南西に塔を置く国分寺様式の配置が明らかになった。
創建当時の敷地を現在の地図に当て嵌めた画像も参考に。
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           中: 当初の堂塔は間もなく焼失し真言宗として再建、戦国時代の兵火で再び焼け、江戸初期に日蓮宗として再建。安政の大地震(1854年)で再び
失われ大正十二年(1923)に日蓮宗称蓮寺に改めて創建、昭和二十九年(1954)に最勝山伊豆国分寺(公式サイト)に改称した。
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           右: 現在の伊豆国分寺山門と、傍らの聖武天皇詔建之霊域碑。三島駅周辺は道路が狭く一方通行も多いから手近な有料Pを利用する方が良い。


     

           上: 本堂裏手の塔基壇跡と8ヶの礎石。塔芯礎石は当時の三島町から献上され、小松宮別荘(現・楽寿園)茶室の蹲踞(つくばい)となった。
その後は東京浅草の本邸に運ばれて行方不明、現在残っているのは四方の柱などの礎石(80〜140cm前後)らしい。
基壇の高さは推定60cmで一辺が18mほど、礎石にはいずれも表面に柱の基部を受ける10cm前後の孔が穿かれている。

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