守山八幡宮 別名を旗挙げ八幡宮、とも 

 
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守山鳥瞰 右:守山八幡宮周辺の鳥瞰図       画像をクリック→拡大表示
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拝殿の由緒に拠れば創建は大化三年(647)、祭神は大山祇神。延喜七年(907)に豊前(大分)の 宇佐神宮(公式サイト)から八幡神を勧請し約1km西の雄徳山(現在の大男山)山頂に合祀し石徳高神社と称した。
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※八幡神: 武運を司る神「弓矢八幡」として武家・特に清和源氏や桓武平氏の崇敬を受けた神。現在の神道では第15代応神天皇
(4世紀末から5世紀初頭に実在した大王と推定)を差す。
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東大寺大仏を鋳造していた天平勝宝元年(749)に宇佐八幡の禰宜(神職)の妻が朝廷を訪れ、八幡神が聖武天皇の大仏鋳造を助けるとの神託託宣を受けた、と申し出たのが神仏習合の始まり。
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朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈り、これ以後は神仏習合思想(神佛は一体、例えば「八幡神は本地仏である阿弥陀如来の仮の姿」とする思想)が定着した。
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厳島神社は本地仏の観世音菩薩と大日如来が垂迹(民衆を救うため仮の姿で現れる事)、出雲大社は勢至菩薩、伊勢神宮は大日如来、箱根神社は文殊・観音・勢至菩薩、などなど。要するに宇佐八幡宮は日本に定着した仏教の興隆を予見し、早く擦り寄る事で八幡宮の温存を図ったらしい。
状況次第で簡単に変節する宗教家の恥、創価学会みたいな処世術だね。
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源頼信の頃(平安末期の西暦1000年前後)に現在の地に遷ったと伝わる。従って 北條時政 が文治五年(1189)の創建した 願成就院とは比較できないほど古い由来を持つ。 (大男山と守山八幡宮の地図上の位置 を参照)
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当初は守山総社八幡と呼ばれ、上條・下條・中條・南條の四郷を束ねる総社だった。覇権を握った後に 源頼朝 が社殿を寄進しており、現在の本殿は寛永九年(1632)の築造、徳川家康譜代の家臣・榊原清政の嫡子で久能城々代を務めた榊原大内記照久の造営による。
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隠居した家康の居城だった久能城は家康の死後に久能山東照宮となって照久が初代神主を務め、彼の子孫が代々の神職を世襲するのだが、照久が遠く離れた守山八幡の社殿を造営した経緯は判らない。今でこそ同じ静岡県だが当時は伊豆と駿河に分かれていた...源氏の末裔を僭称した家康に阿って頼朝の挙兵地に寄進した可能性はありそうだ。
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本殿の左右には祠の痕跡と思われる崩れた石積みがあり、かつては境内社として枚岡神社・香取神社・鹿島神社・松尾神社・松川神社・塩釜神社・若宮八幡社などが祀られていた、らしい。石垣の傍らに置かれた変った形の石はその祠の名残だろうか。
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頼朝旗挙げの地とされるが、吾妻鏡には守山八幡宮に関する記述はない。挙兵当日(17日)の記事には「戌の刻(20時前後)、北條邸の下女の元に通って来た 山木兼隆 の雑色(下級家臣)を捕えた」との記述あり、更に合戦の準備などを考慮すれば兼隆討伐の舞台は北條邸から出発したと判断される。
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ただし同日後半の記載には「放火を命じた兼隆邸の煙が見えないため厩舎人(馬の世話係)の江太新平次を樹に登らせたが、やはり確認できなかった」とあり、神経質な性癖の頼朝が本陣を置いたのは兼隆邸(韮山の山木地区)の方向が眺められる場所だった、事になる。当時の北條邸敷地からは守山の北麓に遮られて韮山山木は見通せないから、兵を送り出した後に守山東側中腹の八幡宮本殿(北條邸から直線で200m弱)に移動し、2km東の兼隆邸方向に目を凝らしていた、と考えられる。
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挙兵から15年が過ぎた建久六年(1195)、思いがけず吾妻鏡に守山八幡宮の記述が現れる。勿論、願成就院が建立された以後である。
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【 吾妻鏡 建久六年(1195) 12月16日 】
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伊豆国の願成就院について頼朝から鎮守の宮を崇敬するべき旨の指示があった。石礫が飛んで願成就院の扉を破ったり天井が揺れて人が歩く気配がするとの報告があったためである。神仏を崇敬すれば妖魔など恐れることはない、と。


     

           左: 頼朝挙兵当時にはもちろん建っていなかった願成就院の山門前から。突き当りに守山八幡宮の鳥居と舞殿の屋根が見える。
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           中: 守山八幡宮の古名は石徳高神社。雄徳山(大男山)山頂にあった祠を遷した経緯を意味する名称で、例祭は10月10日とされる。
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           右: 石垣上の平場に建つ立派な舞殿は拝殿を兼ねている。正直言って参拝のたびに本殿前にある正式な拝殿まで登るのは辛い。


     

           左: 10月の例祭には舞殿で五穀豊穣を願った三番叟が演じられる。左側は足利茶々丸の墓所を経て願成就院の裏手へと続く。
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           中: 舞殿の平場から本殿までは杉木立の中の石段を約100m登る必要がある。中央に手摺りはあるが傾斜が急なので息が切れる。
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           右: 本殿前に登りつめて舞殿を見おろす。神社の周辺は良く管理され、単なる史蹟ではなく現役の鎮守として維持されている。


     

           左&中: 拝殿の左右から撮影。詳細は不明だが本殿は寛永九年(1632)の建立。約280年を経て補修を重ね、屋根は葺き替えられている。
周囲に残る崩れた石垣は境内社の残骸と思われるが、治承四年の頼朝はここで戦勝報告を待っていた...のかも知れない。
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           右: 本殿前に残る異形の石(便器みたい)は縦横とも約50cm。中央の凹部は基礎材の受けにも見えるが素性は不明、既に調べる術もない。

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