平貞能が重盛の姉 妙雲禅尼を葬った那須塩原の妙雲寺  

 
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右:那須塩原の甘露山妙雲寺 周辺の鳥瞰画像   画像をクリック→ 拡大表示
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宇都宮頼綱 の援助があっても、800年前にこの山奥に定住するのは困難の連続だったろう。栃木〜茨城の伝承に拠れば貞能の一行は亡き重盛の妹(姉説も)妙雲禅尼と重盛の妻得律禅尼を伴い、朝綱の家臣である塩原家忠の配慮を受けて草庵を結び定住した。
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建久五年(1194)に妙雲禅尼が没すると九重塔を建てて弔い、重盛 の念持仏を納めて草庵を甘露山妙雲寺に改めて供養した後に塩原を離れ、現在の益子町大平に移住した、と伝わる。
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道の駅「湯の香しおばら」から国道400号(20km先で国道121号(会津西街道)に合流する)をひたすら西へ、約10kmで参道入口に到着する。ここには駐車できないから、手前約300mの信号(塩原小学校前)右の観光案内所(清潔なトイレあり)の敷地を抜けた所に観光客用の広い駐車場があるし、そのまま進んで妙雲寺通用門を右折すると参拝者専用の駐車場もある。
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5月中旬の「ぼたんまつり」(観覧は400円)はそれなりの見応えがある。同じ時期には境内のフジやツツジを楽しめるのも嬉しいが、休日には駐車場の確保に要注意だ。カーブの多い国道400号は全線追い越し禁止で走りやすい。箒川の景観を楽しめる駐車場付きのスポットも点在している。
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東北道や国道4号ルートから南会津に抜けるには白河から西へ、平成20年に全通した甲子 (かし) 道路が最も快適なのだが、箒川に沿って西に進み尾頭トンネルを抜けて会津西街道を北上するのも味がある。私は往復で違うルートを選ぶよう心掛けている

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           左: 国道400号と併行して流れる箒川には滝や奇岩や吊り橋など見所が点在する。源流は会津西街道に抜ける尾頭トンネル(約1.8km)付近だ。
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           中: 真っ白な川底や巨大な岩が連なる箒川、緑色凝灰岩と呼ぶらしいが詳しい事は調べていない。絶景ポイントには駐車場も備えられている。
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           右: 左側に橋を見ながら「塩原温泉ホテル」を過ぎると久しぶりに現れる信号。右側の観光案内所(白い建物)の隣が無料駐車場に入る道路がある。


     

           左: 信号の約200m先に妙雲寺の標柱石と大門がある。ここまで来てしまったら門前の消防団施設前でUターンして駐車場に戻ろう。
消防施設のシャッターには平家の揚羽蝶紋(画像)が描いてある。貞能らが庵を営んだだけが平家との接点だが、観光に寄与する企画ではある。
揚羽蝶の紋は平家の公達、主とし て清盛 の系統が馬印や甲冑の金物を美しく彩った経緯が広く知られている。
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           中: 大門から石畳の参道を進んで山門へ。本堂は5mほど高い平場にあり、左手の小道を登って妙雲禅尼の墓所と墓苑に至る。
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           右: 手前の駐車場から参道を寺域へ。この更に右手を登ると参拝者専用の駐車場が設けてある。


     

           左: 貞能と重盛夫人らが庵を構えたのは元暦元年(1184)7月、現在の本堂は江戸時代末期の元文五年(1740)に再建されたもの。
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           中: 正式には甘露山妙雲寺。現在は臨済宗妙心寺派だが、創建当時は天台宗か真言宗か。本尊の釈迦如来像は重盛の念持仏と伝わる。
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           右: 本堂の左手奥に妙雲禅尼の石塔に登る石段が設けてあり、二つの墓標と数個の五輪塔が並んでいる。さらに左に進むと一般の墓苑に至る。


     

           左: 右が塩原城主塩原八郎家忠、左が塩原城主小山越前守刑部太夫の墓。塩原城跡は妙雲寺から約3km上流(地図)で、治承二年(1178)に
塩原家忠が居館を置いた。宇都宮氏の傍流が塩谷氏、その傍流が塩原氏。鎌倉初期に 小山 (長沼) 宗政 の支配となり、慶長二年(1590年、
豊臣秀吉死没の前年)に改易となった。小山越前守刑部太夫は過酷な徴税が原因で同じ年に殺害された人物と伝わっている。
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           中: 妙雲禅尼の九層石塔に登る石段の左が塩原氏らの墓石、右側には大正元年(1912)に塩原を訪れた夏目漱石の漢詩が刻まれている。
「蕭条たる古刹が岩山に寄り添う。名月の夜に眺めた滝は銀蟒(銀の大蛇)となって仏前に流れ下っている。」ほどの意味か。
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           右: 基台を含めて約2mの九層石塔は樹齢500年を越す杉の巨木に囲まれている。妙雲禅尼の死没は建久五年(1194)、彼女を埋葬して菩提を
弔った後に那須塩原を離れて常陸に向かったと伝わっているから、貞能らがここに住んだのは長くても二年前後か。


この頁は2022年 8月 8日に更新しました。