吾妻鏡の数ヶ所には挙兵当初から頼朝が甲斐源氏を従えて平家と戦ったような表現が見られるが、実際には概ね対等の立場だった。寿永三年(1,184)1月の
木曽義仲 滅亡と翌年3月の平家滅亡を経て頼朝の動員力が強化され、幕府体制の組織整備が進むに従って甲斐源氏も弱体化し、更には一族内部の分裂などに伴って主力の武田信義や安田義定が滅び、甲斐源氏は東国の覇権を握った
頼朝の御家人として生き延びるか滅亡するかの選択を強いられることとなった。
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同じ甲斐源氏の武田信光、信濃の名族
海野幸氏 や
望月重隆 と並んで弓馬四天王と称された小笠原長清も、頼朝に従属する道を選んだ一人で、26歳で頼朝の弓馬術礼法の師範となり鎌倉幕府御家人として一族発展の基礎を築いた。嫡流は甲斐から信濃国に伴野荘(佐久市・
地図)に移り、更に10kmほど東の平賀郷 (
地図)を新領として獲得、弘安八年(1285)の霜月騒動に関与して粛清されるまで繁栄を続けた。
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子孫は武芸礼法に長けた
小笠原流 (wiki) として発展し、現代に至っている。
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ちなみに、安土桃山時代に信州深志(松本)の城主で小笠原長時の孫に当たる小笠原貞頼(徳川家康の家臣)が小笠原諸島を発見したという伝承がある。