大庭塚と豊田郷、大庭御厨の範囲 

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【 吾妻鏡 文治四年(1188) 11月27日 】
大庭景能(景義の父・景宗の墳墓は相模国豊田庄にある。群盗がこの塚を掘り起こして内部に納めてあった財物を盗み出し、追い掛けても行方知れずになってしまった。これは18日に狐の死骸が見つかったのと同じ頃で、人々は不思議な事件だと噂した。
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大庭景宗は桓武平氏 平良文 の末で三浦氏や梶原氏とは広い意味の同族にあたる。後三年の役で有名を馳せた祖父の 鎌倉権五郎景政 親子が開拓して伊勢神宮に寄進した大庭御厨の庄司を務めた。途中の継承には多少のトラブル或いは系図の錯綜も見られるが、いずれにしろ平治の乱で 源義朝 に従った相模国の三浦氏や中村氏は義朝の敗北によって力を失い、平家に臣従した三男の 大庭景親 が大庭御厨の管理権を継承することになる。

大切岸 右:修禅寺の桂谷山墓苑入口に安達盛長の墓がある。  画像をクリック→拡大表示
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元々は長男の景義(景能)が大庭御厨を継承していたが、景義は保元の乱(1156)で 鎮西八郎為朝 の強弓を受けて膝を砕かれ歩行困難になっていたため、三男の景親に家督を譲ったらしい。長男景義と二男(豊田)景俊の生母は横山隆兼(愛甲三郎季隆の父)の娘、三男景親と四男(俣野)景久の生母は確認できないが、異腹の可能性が考えられる。父・景宗の墓(大庭塚)が大庭御厨中心部の大庭城址近くではなく西端の豊田郷にあること、平治の乱(1160)では長男と次男が源氏方で三男と四男が平家方に加わったこと、降伏して 頼朝 の捕虜となった景親の助命を景義が願わなかった(源平盛衰記だったか?正確な記憶なし)こと、などから考えると円満な関係ではなかった可能性もあるし、兄弟が源平に分かれたのは一族が生き残る保険だったかも知れないし...全ては推測の域を出ない。
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大庭御厨の範囲は東端の境川(古名は俣野川)から西端の相模川流域まで、北は海老名領や榛谷(はんがや)領と接するまでだが正確な境界は判らない。また本来なら岡崎領か二宮領に含まれる筈の豊田郷が大庭一族の勢力範囲にあった経緯も確認できないのが残念ではある。
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2015年4月現在、大庭景義が本拠を置いたと伝わる懐島館(現在の神明大神宮)も、未訪問のままになっている。なるべく早く画像を含めて掲載したい。


     

        上: 道が狭くてすぐ上には新幹線の高架が通っており、お世辞にも環境が良いとは言えない。昔はかなり大きな塚だったと伝わっているが、
現在は頭頂(空輪)を失った五輪塔が2基と残欠らしい石塊が積み重なっているだけで、かなり惨憺たる状況である。

この頁は2019年 7月18日に更新しました。