城一族の領地 城地区周辺の風景 

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城地区は大見一族の惣領・平太政光の本領とされる。政光の弟は平次實政、この二人の名は 挙兵した源頼朝 に従って伊豆から相模に向う御家人のメンバーとして、
治承四年8月20日の吾妻鏡には宇佐美の姓で記載されている。宇佐美氏と大見氏の系譜は錯綜しているのが悩みの種だ。
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政光が記録に現れるのはこの一度だけだが、實政の方は20回ほど吾妻鏡にその名が見えるのが面白い。實政は奥州藤原氏滅亡(文治五年・1189年)の後に
津軽の総地頭となり治安の維持を兼ねて現地に駐在したが、建久五年(1194)2月2日に藤原泰衡の旧臣・大河兼任の乱で討死している。
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大見氏の子孫は柿崎氏・水原氏に継承され、宇佐美氏の子孫も恩賞を得て各地(特に越後)で栄えており、その頃には城の姓は使われなくなっている。
越後の柿崎家系図には城平太(大見政光=宇佐美政光)は大見家信の名で登場しており、7〜8代後に上杉謙信の有力部将である柿崎和泉守景家を出している。
この辺りが比較的信頼できる部分だろうか。
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伊豆大見に於ける城平太政光の館は現在の白山神社付近と推定されている(大見の地図 を参照)。屋敷の跡や平太の名が転じた「平」の地名が残るらしいが、
これはまだ確認していない。神社の北側の山頂には古い塚があり、中腹に造成した平地に物見台が置かれ、危急の際に法螺貝を吹いたため貝吹山と名付けられた
とされるらしいが、あまり深く追い掛けると郷土史の分野に入り込んで足が抜けなくなるのも怖い。
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  ※大河兼任の乱:諸説あるが、鎌倉軍に追われ平泉を捨て北に逃れた藤原泰衡 は津軽十三湊の総督府奉行だった大河兼任(父親が 秀衡の弟)に合流する
途中で家臣の河田次郎に殺された。頼朝による戦後処理政策に従って 宇佐美實政 が津軽の総地頭に任命されたが、これに不満を持った兼任が
総督府の部下や泰衡の残党を集めて叛旗を翻した、らしい。しばらくの間は善戦したが間もなく敗退し、建久六年(1195)の3月には
兼任も敗走途中で土民に殺され、反乱は終結した。

     

          左: 白山神社近くの塞の神(参照サイト)。隣接する地区の子供が取り合ったため2体置かれたという。右の像は合掌し左の像は笏を持っている。
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          中: 水田越しに白山神社の遠景。中央に境内に繁る樹齢350年・目の高さの周囲5mのクスノキ(市の天然記念物)が見える。
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          右: 水田右手の市道から神社の方向を。左奥の高みが貝吹山、右手は城の来宮神社を経て後北条氏五代の祈願所だった城富院に至る。


     

          左: 白山神社の祭神は白山比刀iひめ)神、一説には伊邪那岐・伊邪那美(イザナギ・イザナミ)ともされる。起源や由来などは明らかではない。
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          中: 急峻な高台を背にした狭い境内にはクスノキの他に銀杏の大木と杉が数本、高さを競っている。今では典型的な村の鎮守の風景だ。
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          右: 近くには如何にも古城址か館の跡っぽい崩れた石垣などが見られるが資料がないため素性は不明、単なる畑の石垣の可能性も(笑)。


     

          左: こちらは城地区の来宮神社。一時は大見の伝承にある「裏山に埋もれた五輪塔」の場所だと勘違いして本気で捜そうとした事もあったっけ。
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          中: この神社こそ全く何の変哲もない(と書いたら失礼だが)村の鎮守。集会場と広場があり、片隅にはBBQの鉄板が転がっていた。
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          右: 城の来宮神社から更に500m東の城富院参道から撮影。山の右麓には八幡の来宮神社があり、遠くには天城連山が眺められる。