大太刀稲荷神社と新田軍が進んだ古道のルート  

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 四」 の記載ヶ所へ     「索引」 へ  当サイト 「旅と犬と史跡巡りと」 トップへ


.
極楽寺坂の北條貞氏軍を破った脇屋義助軍は現在の「星の井通り」を経て「坂ノ下の稲村路」を突破した部隊と合流、稲瀬川を渡り「塔ノ辻」を経由して「下馬橋」を
目指した(下記、リンク先地図の青点線部分)。このルートが当時の鎌倉中央部と極楽寺坂を結ぶ古道である。
.
少し脇道には染谷時忠邸の跡や安達盛長邸(甘縄神社)(別窓)や ビブリア古書堂の事件手帖(公式サイト)の撮影に利用された 鎌倉彫 わや もある。
文庫本→ 漫画を経た、結構楽しめるTVドラマだった。たまには鎌倉の喧騒を離れてこんな道を歩くのも面白い。若宮大路の下馬橋まで、各ポイントの画像と
多少のコメントは 由比ヶ浜古道(別窓)で。大太刀の名は大舘(おおたち)氏の討死を記録した名残りだと思うが...。


     

              左: 大太刀稲荷神社の由来は不明だが極楽寺坂へ向う古道と坂ノ下に向う国道の合流点にあり、約100m東で稲瀬川が海に流れ込んでいる。
現在は由比ヶ浜との間に国道134号が通っているが境内の標高は7m、鎌倉時代の海岸線はこの社殿付近だったと推定される。
石段の下に見えるのは鎌倉散策には欠かせない私の愛車 オレンジバード。平均時速15km前後の高速モデルだが、登坂能力の低さが難点。
.
              中: 神社と極楽寺坂の距離は約800m、大舘宗氏が大仏貞直軍の防衛線を突破して討たれたとしたら境内から稲瀬川にかけてのエリアだろう。
.
              右: 年代記載のミスを指摘した稲瀬川碑の前から見た稲村ヶ崎に続く山ノ下の埋立地。霊山山の鞍部に登る道の白いガードレールが見える。
山裾の平地は全て昭和時代に完成した埋立地で、鎌倉時代の本道は霊山山の直下を通っていた。
材木座海岸の和賀江島近くから撮れば霊山山から稲村ヶ崎まで1枚の画像に納まりそうだ。次回に試してみよう。

この頁は2022年 9月 12日に更新しました。