平安末期〜鎌倉時代初期の時代背景 

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古墳時代は各地の豪族がその国を支配していたが、大化の改新(645年)以降は大和朝廷が全ての土地と農民は朝廷の所有(公地公民)と定め、各地に国司を派遣して全国統治をスタートさせた。

   国司は地方豪族を郡司に任命し、20〜30村を管理させる。
   郡司は有力農民を里長に任命し、50戸前後の農家を管理させる。

同時に法律を全国共通の「律令」に改め、地域による格差をなくそうとした。その中でも「班田収授の法」は農地の管理と税制についての基本法である。

   年ごとに戸籍をチェックし、農民の数を把握する。
   男子農民には2反、女子にはその2/3の公地を貸し与える。
   税として租(穀類)・庸(布など)・調(特産物)・雑徭(労役)を納めさせる。
   農民が死んだ場合は、土地は国に返却させる。

現実には税の他に各種労役や強制的な兵役も課せられた。農民の暮らしは苦しく流民が増えて耕作できない土地が増えたため、自分が拓いた農地は親・子・孫の三代まで所有できる「三世一身の法」「班田収授の法」(732年)を定めて離農を止めようとしたが、顕著な効果は見られなかった。
この頃の伊豆は何度も大飢饉で苦しんでいたらしく、法相宗の僧 行基 が布教活動を続けて多くの信者を集めた、と伝わっている。
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朝廷は次に「墾田永年私財の法」(743年)を発布し、新しく拓いた農地の永久所有を認めた。その結果として有力な寺社や貴族や地方豪族が多くの農民を集め水路や耕地を整備して勢力範囲を広げ「荘園」の原型を作り上げた。荘園領主は租・庸・調を朝廷に納め、さらに勢力を拡大し続けていく。境界を巡る争いも多発し、私利を追う国司の過酷な取り立てなどに対抗して荘園自身が武装して戦闘に備える集団になった。武士の始まりである。
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   西暦800年前後は 空海(弘法大師)が全国を歩いたと伝わる頃。798年には伊豆の各地を遍歴したとされるが、実際の可能性は低い。
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大きな寺社や貴族が所有する荘園には「不輸の権」(租・庸・調の免除)や「不入の権」(役人の立ち入りを拒否する権利)も認められていたため、藤原道長(966〜1027)の頃には道長を含む一部の貴族が国土の農地を独占する状態になった。農地を開拓した地方の豪族が「不輸・不入の権」を持つ貴族や寺社に自分の領地を形式的に寄進し、税を逃れる代りに謝礼を払って「自分は単なる荘園の管理者」という立場をとった。こうして国の税収は減り、荘園は更に力を蓄え続ける。
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任期が終った国司の中には京都に帰らずに土着する者が増えてくる。京都ではたいした地位も収入もないが任地では天皇家の縁戚として尊敬され、高い教養を持つ文化人として新興武士団のリーダー「武家の頭領」の役割を果たした。第50代 恒武天皇 をルーツとする恒武平氏と第56代 清和天皇 をルーツとする清和源氏が代表的な集団で、更にその支流が各地で勢力を蓄えていく。
こうして特に関東地方の武士団も少しづつ横の連携を深め、大きなグループとして結集し始めた。小さな武士団は大きな武士団に吸収され、リーダーである「頭領」 、その一族である「家の子 、家臣になった有力農民などの「郎党」 、一般農民などの「下人」という階級が出来上がった。
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関東は都から遠く離れ朝廷の影響が薄かったため各地の武士団の団結が強く、特に 源義家(1039〜1108)は関東の武士団をよく纏めたと伝わっている。一つの戦役が終わっても命を賭けて戦った武士に与える朝廷の恩賞は微々たるものだつたが、義家は自ら恩賞を与えるなどして信頼を集めた。この実績が後日挙兵した同じ源氏である頼朝にとっては有利に働く結果となる。
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   京の都では武士の身分は一般的に低く、貴族につかえる者(さぶろう者)と見られていた。これがさぶらい→ さむらい→ 侍 の語源と言われている。
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保元の乱(1156)で藤原氏全盛の時代は終り、貴族の手足として働く存在だった平清盛源義朝が率いる武士団の実力が影響力を強め、更に 平治の乱(1159)によって権力が平氏に集中、貴族に代って清盛の率いる一族が支配者となる。しかし関東の武士団にとっては支配層が貴族から平家に変っただけで、実質的なメリットは何もなかった。
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やがて 源頼政(1104〜1180) と 以仁王(1151〜1180)が平家打倒の軍事行動を起こし(1180年5月)、これはすぐに鎮圧されたが以仁王が全国の源氏に送った令旨が漏れ、危機感をつのらせた平清盛は全国に源氏の追討令を出した。このニュースは当然 頼朝 にも伝わり、頼朝には奥州へ逃げるか・抵抗するか・座死するか、の選択を迫られる。
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結果として頼朝は韮山で挙兵を決行(1180年8月)、「頼朝に従って戦えば現在の所領は安堵し、今後は各地の豪族の待遇を改善する」という公約が大きな効果を発揮して、関東の武士団は雪崩をうって武家の頭領を名乗る頼朝の元に集結した。
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そして平氏の滅亡とともに朝廷の力も衰え、農地から得られる収益の所有権を認めて保護してくれる「御恩」 の代償として、幕府や将軍の命令ならば命も惜しまない「奉公」という利害関係が鎌倉幕府の柱として確立される。「いざ鎌倉」とは、幕府の御恩に報いようとする武士団の気概を表した言葉である。鎌倉武士の「御恩と奉公」は「忠義」ではなく「利害」であり極論すればギブ&テイクだったから、頼朝死没後の鎌倉御家人の「奉公」は相手が源氏だろうが北條氏だろうが構わない...所有権を認めてくれる力の有無が「奉公」を尽くすかどうかの判断基準という、実にドライな関係で推移するのが面白い。