栄西 尊号は栄西禅師、諡号は千光国師 永治元年(1141)~ 建保三年(1215) 享年 74歳
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臨済宗の開祖。南宋に2度渡航留学し、鎌倉幕府の庇護と援助を受け権力を利用して禅宗の布教に努めた。寿福寺住職・京都建仁寺建立・東大寺勧進職等を経て建保元年(1213)には権僧正に進んでいる。政治権力に追従する例が多い事(創価学会&公明党っぽいね)、徳の高い僧の敬称である大師号を得るため幕府に働きかけた事などが強い批判を受けた側面は見逃せない。
役 小角(役の行者) 伝・舒明六年(634)~ 伝・大宝元年(701) 享年 伝・68歳
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飛鳥時代~奈良時代初期の呪術者で修験道の開祖とされる。続日本紀(文武元年(697)~延暦十年(791)までの95年間を記録した史書)に拠れば葛城山に住んで呪術を良く使い、弟子である韓国連広足の讒言で伊豆遠流となった(実際には宮廷の祈祷に関する既得権争いの結果らしい)。噂では葛城山の鬼神を使役し、従わないと呪術で縛ったという。
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他の資料を併せると、奈良元興寺での修行時代に孔雀明王(密教の信仰対象)の呪法を学んだ後に葛城山(金剛山)で山岳修行を続け、更に熊野や金峯山で修行して修験道の基礎を築いた。20代で藤原鎌足の病を呪術で回復させ神仏の同体を唱えた、と伝わる。
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文武三年(699)に謀反の嫌疑で伊豆大島へ流罪、大宝元年(701)に赦免されて葛城山に戻り、大阪北部の箕面で死去。平安時代の山岳信仰興隆と共に「役の行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれて崇敬を受けるようになった。呪術の伝承は、もちろん全てが後世のフィクション。
圓 暁 大治五年(1130)~ 承元二年(1208) 享年 78歳
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第71代後三条天皇の第三皇子輔仁親王(親王の生母は源基平(従二位・参議)の娘基子、異母兄が第72代白河天皇、同母兄が実仁親王)が源義家の娘に産ませた園城寺の法眼行恵(別称を中納言法眼・宮法眼)が鎌倉に招かれ、寿永元年(1182)9月20日に鶴岡八幡宮寺の初代別当(宮寺と八幡宮を統括)に就任した。系図上では頼朝の従兄弟に当たる行恵は名を圓暁と改め、草創期の幕府を宗教面で支えた。
吾妻鏡の正治二年(1200)10月26日には
>「鶴岡八幡宮の別当法眼圓暁(宮法眼と号す)入滅す」との記事が載っている。
延朗(松尾上人・元は源義実) 大治五年(1130)~ 承元二年(1208) 享年 78歳
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義家→義親→義信→義実(延朗上人)と続く河内源氏長男の家系だが義親の乱行が原因で義信は家督を継げず、異母弟(妾腹)の為義が棟梁となった。15歳で出家した義実は延暦寺と園城寺(三井寺)で天台宗を学んで知識を高め、安元二年(1176)に京都
最福寺(廃寺・外部サイト)を建立、かつてこの地にあった松尾山寺にちなんで松尾を称した。文治元年(1185)に義経が恩賞として平重衡の所領だった丹波国篠村庄を拝領して延朗に寄進、延朗は領内の年貢を廃止し念仏宗を布教したが義経の失脚に伴って篠村庄の返上を申し出ている。翌文治二年3月、頼朝は豊島有経を使者として改めて篠村庄を上人に寄進した。
大内(平賀) 惟義 不詳~ 建保七年?(1219?) 享年 不詳
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源氏の重鎮であり門葉として重用された平賀義信の長男で新羅義光の曾孫。挙兵直後から頼朝に従って転戦し、平家滅亡後は伊勢平氏の地盤だった伊賀の治安維持の目的もあって伊賀国守護に任じられ同国大内荘の地頭職を兼任して大内を名乗った。文治元年(1185)9月に勝長寿院で行われた義朝供養の法事には義信・惟義・源頼隆(義家七男である陸奥七郎義隆の三男)の3人だけが遺骨に付き添うのを許されている。
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元久二年(1205)閏7月の牧氏事件後に異母弟の平賀朝雅が殺され朝雅の伊勢・伊賀守護職を継承したが武蔵国の国司と守護は北條時房が継承、以後は北條義時が惟義よりも上位を占めた。
没後の建久三年(承久元年・1221)の承久の乱に際しては近畿六か国の守護を相続した嫡男の惟信が後鳥羽上皇側に味方して敗北、源氏一族の名門だった平賀氏・大内氏は滅亡した。
大井(兵衛次郎) 実春 生没年不詳 歿年令 不詳
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武蔵国荏原郡大井郷を本領とした武士で本姓は紀氏、品河氏は同族に当たる。吾妻鏡での初見は元暦元年(1184)3月22日に勃発した伊勢平氏の乱で、伊賀守護だった大内惟義に従い、山内首藤経俊・波多野盛通らと共に志田義廣を討ち取る勲功を挙げ、伊勢国に地盤を築いた。
大江廣元の因幡守就任と共に目代を務め、文治元年(1185)勝長寿院落成供養には随兵として参列、義経の舅河越重頼の失脚に伴って没収された伊勢国香取五ヶ郷を得た。廣元に仕えつつ義経の監視を続けた恩賞らしい。その後は奥州合戦に従軍、建久二年(1191)閏12月7日の三浦邸での相撲や翌年11月の永福寺の庭石運び、建久六年(1195)2月からのの頼朝上洛に伴う随兵などに記載がある。
大江 公朝 不詳~ 正治元年(1200) 歿年令 不詳
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後白河院の北面武士。養和元年(1181)1月には反平家の嫌疑で囚われるが、翌月に清盛が死去したため罪には問われなかった。義仲と後白河院が対立した寿永二年(1183)の法住寺合戦後に院の使者として伊勢に進出していた義経に義仲の無法を訴えている。
平家滅亡後の文治元年(1185)8月30日には院の命令で見つかった義朝と鎌田政清(正家)の首を運ぶ勅使として鎌倉へ下向し歓待を受け、その後も数度、院と鎌倉の使者を務めている。正治元年(1199)1月の頼朝死没に伴う朝廷の緊張と騒動に関与したらしく、5月に勘当を受けて失脚した。
大江 廣元 久安四年(1148)~ 嘉禄元年(1225) 享年 77歳
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鎌倉幕府の初代政所別当。寿永三年(1184)に頼朝の招きで公文所(後の政所)別当となって辣腕を発揮した京下りの有能な官僚。源義家の兵法の師である大江匡房の曾孫で後白河院に仕えた後に頼朝に仕えた中原親能(大江維光の子)の弟と伝わる。母が中原広季に再嫁したため中原姓を称したが、後に学問の大家大江維光の養子となって建保四年(1216)大江姓に戻した。
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寿永四年(1185)には守護地頭の制度導入を進言した功績で肥後山本荘を領有。建久元年には頼朝上洛に同行し、翌年には政所別当・従五位下・明法博士・左衛門大尉となる(後に辞任)。頼朝死後も北條一族に協力して重用され、幕府の安定運営に大きく貢献し、本領を相模国毛利庄とした。
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その後も二代将軍頼家の失脚や畠山重忠・平賀朝雅・比企能員・和田義盛らの滅亡にも消極的ながら関与。建保四年(1216)に陸奥守となりその後出家、承久の乱(1221)では朝廷への軍事力行使を強く主張、圧倒的な勝利により武士政権の安定をもたらした。
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宝治合戦(三浦の乱・1247)では廣元四男毛利季光が三浦に味方して一族の大部分が殺され家勢は著しく衰退したが、越後にいて乱に関与しなかった季光四男の経光の系が残り、その子孫は後の毛利氏・海東氏・酒井氏・長井氏・越後北条氏・寒河江氏などの血筋に繋がったとされている。
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廟所は頼朝の墓の裏手・大蔵山の中腹にあり、毛利季光の墓や島津忠久の墓と並んでいるが、ここは廣元の末裔・毛利元就の子孫にあたる長州藩(萩藩)が江戸時代に建てたもの。埋葬墓は明王院裏山の石塔と伝わっている。詳細は
こちら(サイト内リンク)で。
大庭 景義(景能) 不詳~ 承元四年(1210) 享年 不詳
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桓武流坂東八平氏の一つ・鎌倉氏の一族で大庭景宗の嫡男、勇猛さで知られた鎌倉権五郎景政は曽祖父。石橋山で頼朝と戦った大庭景親は腹違いの次弟、俣野景久は同・末弟にあたる。保元の乱(1156)では源義朝に従って戦い、為朝の矢に膝を砕かれて歩行困難になったため家督を弟の景親に譲り、相模の懐島郷(現在の茅ヶ崎)に隠居した。頼朝挙兵の際は一族から分かれて頼朝側に参戦、後に弟の景親が捕らわれた時に頼朝から「助命を願うか」との打診を受けるが特に主張はせず、全て頼朝の裁断に任せたため景親は斬首されたと伝わる。兄弟間に何らかの諍いがあった可能性もある。
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後の奥州出兵に際し朝廷の藤原氏追討宣旨を得られなかった頼朝に「藤原は既に鎌倉殿の臣下であり、臣下の討伐に宣旨は不要である」と進言するなど、幕府古参の武将としての存在感を随所に示している。建久四年(1193)8月29日の吾妻鏡には
「大庭景義と岡崎義實が出家した。特に理由はないが老齢のため以前からの願いを遂げた」と書かれているが、建久六年(1195)2月12日には
「大庭平太景能(景義)入道が上申書を提出。「挙兵の時から功績を挙げたが罪を疑われて鎌倉を追放され、憂いのまま既に三年を過ごした。余命がどれ程かも判らない。御上洛の供に加わって老後の栄誉としたいため許して頂たい。」と申し述べ、罪を許され供奉の命令を受けた」と書かれている。
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建久四年の事件なら「曽我兄弟の仇討」か「蒲冠者範頼追討事件」だから、景義と義實に何かの過失があったと考えられるが正確な事情は不明。墓所は茅ヶ崎懐嶋郷(茅ヶ崎駅北西の鶴峰八幡宮一帯)の円蔵付近らしい。家督は嫡子景兼が継いだが、和田合戦で義盛に味方して滅亡した。
大庭 景親 不詳~ 治承四年(1180) 享年 不詳
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鎌倉氏の一族大庭景宗の次男で大庭景義の弟、俣野景久の兄。
保元の乱(1156)では兄景義とともに源義朝に従って戦い、兄の嫡男景義が為朝の矢を受けて歩行困難になったため代わって相模国大庭御厨の家督を相続した。のちに京で罪を得て斬られる筈を平氏に許されたのを契機に臣従した。
治承四年(1180)の頼朝挙兵に際しては相模の平家与党軍を指揮して戦い石橋山で頼朝軍を破るが、頼朝が再起して東国を制圧した後に出頭し片瀬で斬首された。
俣野 景久 不詳~ 寿永二年(1183) 享年 不詳
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平安末期の武将で大庭景義と景親の弟。鎌倉街道(上道)沿いの相模国俣野郷(現在の藤沢市)を相続し剛勇の名が高かった。曽我物語に拠れば伊東奥野の巻き狩り(安元ニ年・1176)の最終日に行われた相撲で21連勝し、最後に河津祐泰に倒されている。石橋山合戦では佐奈田与一と組み合って戦い、郎党の助力もあって辛勝した、と伝わる。頼朝の鎌倉入り後は京都に落ち延びて平家軍に合流し北陸で木曽義仲軍と戦い、倶利伽羅峠敗退後の加賀篠原の合戦で戦死した。平家物語には「情勢に応じて主人を変える者もいるが、東国で人に知られた武者として見苦しい真似はしない、この合戦で平家の武者として討ち死にする」と語らせている。
小笠原(加賀美) 長清 応保二年(1162)~ 仁治三年(1242) 享年 80歳
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新羅義光→二男逸見義清→嫡男清光→三男加賀美遠光→四男長清と続く甲斐源氏の吊門。滝口武者(内裏の警護職)だった父遠光の所領小笠原郷(甲府盆地南西部、現在の富士川町一帯)を相続して小笠原を吊乗った。妻は上総廣常の娘、兄に頼朝に粛清された秋山光朝、弟に南部氏の祖となった光行・加賀美氏を継いだ光経・於曽氏の祖となった経行などがいる。
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治承四年の頼朝挙兵の際は平知盛に仕え在京していたが、母の病気を口実に兄の光朝と共に下向して平家追討に功績を挙げ、信濃守に任じられた。武芸と儀礼を軸とした小笠原流の始祖としても知られ、従兄弟の武田信光・義高の臣だった海野幸氏や望月重隆とともに頼朝側近の中軸・弓馬四天王として活躍し武名を残した。承久三年(1221)には承久の乱首謀者の一人・公卿の源有雅を所領の稲積荘小瀬村(現在の甲府市小瀬町・有雅の慰霊墓あり)で斬罪に処している。
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二代将軍頼家の時に嫡男の長経が近臣となり比企の乱に連座して一時期は没落するが、後に復権した。二男の時長(伴野氏とも名乗る)が家督を継ぎ、娘が安達義景の室として泰盛を産んでいる。信濃国伴野荘(現在の佐久市)に加え滅亡した平賀氏の本領平賀郷(同じく佐久市)を継承し、霜月騒動(弘安八年・1285)に関与して粛清されるまで繁栄を続けた。
大見 家政(家秀・實政) 不詳~ 文治六年(1190) 享年 上詳
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大見氏の出自は諸説あって不明な部分が多い。平将門を追討して常陸国で勢力を伸ばした平貞盛の支族が越後に定着し、更にその支流が伊豆に土着したと考える説が主であり、ここでは伊豆の史蹟や伝承を基本とする。大見家政以前の系は不詳だが、大見郷の八幡(現在の伊豆市)に
大見古城を築いた人物とされる。保元物語に拠れば、家秀(家政)は嘉応二年(1170)には狩野介茂光に従って伊豆大島の為朝追討に従軍している。
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鎌倉期に入っての系譜も更に不明確で、家政の実子・政光と実政は吾妻鏡には「宇佐美姓」で記載されている。「宇佐美には藤姓と平姓の二流がある」と考える説などがあるが、吾妻鏡の石橋山合戦前後に載る宇佐美平次実政と大見平次家秀は同一人物と考えるのが妥当らしい。同年10月23日にも
「・・・實政・家秀など、ある者は本領を安堵され或る者は新恩(新たな領地)を得た」と記載している。
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文治六年(1190)1月6日、奥州藤原氏滅亡後に津軽に駐留した實政は藤原氏残党(大河兼任の乱)と戦い部下と共に討死した。家政に関しては、河津祐泰の横死と
曽我兄弟の仇討ちに関係する物語が二つあるのが面白い。
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まず、曽我物語の原点になった河津三郎祐泰暗殺(安元二年・1176)実行者の一人・大見小藤太成家が家政の係累であったこと。成家の素性は不明だが「家」の通字と「小藤太」の名乗りを考えると嫡流に近い存在だった可能性がある。もう一つは家政の娘が仇討ちの敵役である工藤祐経の祖母の可能性があること。家政の娘・玉枝は大見の西部に住む
八田八郎宗基に嫁した後に死別し、娘を連れて工藤祐隆に再嫁した。祐隆は玉枝の連れ子に手を出して祐継(祐次)を産ませ(表現は良くないね)、長男の祐家が早世していたため祐継を嫡子とした。
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ところが祐継も早世してしまったため、まだ幼かった祐継の嫡子祐経を後継者と定めた(大見の伝承では祐隆は玉枝の産んだ子を祐継の嫡子とした、と)。ところが...早世した祐家には既に成人した祐親(つまり祐隆の嫡孫)がいて、下世話な書き方をすれば「嫡孫ではなく、後妻の連れ子に祐継を産ませ、祐継の子供に本領を相続された」ことになる。結果が後日の伊東祐親による所領独占を招き、それを怨んだ祐経が郎党に祐親暗殺を命じた、その郎党が祐親を狙った放った遠矢が目標を外し、三郎祐泰(曽我兄弟の父)の命を奪う悲劇を招いてしまう。
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大見郷300余町は嫡子の政光が地頭職として継承し、次男の實政は頼朝御家人として信任を受け恩賞に得た宇佐美と津軽・越後の一部を領有した、らしい。大見古城址近くの墓所「大見塚」が中学校校庭の拡張工事に伴い破壊され、一部が
実成寺に移設され、家政の墓石として残っている。
大見 小藤太成家 不詳~ 安元二年(1176) 享年 不詳
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大見一族には初期の系譜がないため出自は不明だが小藤太を名乗っているため家政の子か、それに近い存在と推測できる。曽我物語では工藤祐経の家臣とされるが、その主従関係も祐経と大見一族の関係も曖昧で、確たる根拠は見当たらない。
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祐経の意を受けて八幡三郎と共に伊東祐親をつけ狙い、安元二年10月に
伊東奥野の巻き狩りを終えて河津に向う伊東祐親一行を
伊豆赤沢で襲撃、「椎の木三本」から射た遠矢が祐親嫡男の祐泰を殺してしまう。これが18年後に起きた曽我の仇討ち事件の原点となる。
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伊東館に帰った祐親は二男祐清に30騎を与えて暗殺者の追討を命じた。祐清は激戦の末に八幡三郎を討ち取り、狩野領近くまで逃げた成家を捕えて首を刎ねた。討手が大見の本領まで攻め込んで親族を殺したのに本格的な合戦に至らず、二人の追討だけで終わったのは何故か...4年後の頼朝挙兵の際は源平に分かれて戦った伊東と大見なのに、この結末には謎が残る。
祐親は検分の後に家臣の網代家信に命じて二人の首を大見に届けさせた。曽我物語は八幡三郎の奮戦と勇気を誉めているが、成家に関しては「元より心根の卑しい男なので狩野境まで逃げて...」と描いている。
成家の塚は大見川の支流・冷川沿いにあったが対岸に移転し、一族の本領に近い製材所(廃業)の片隅に残っている。詳細は
こちらで。
大見(宇佐美) 實政 不詳~文治六年(1190) 享年 不詳
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家政の次男あるいは三男で政光の弟とされる。頼朝挙兵の当初から参戦し、平家追討に功績を挙げた。文治五年(1189)8月の奥州藤原氏追討では北陸道の大将として軍勢を指揮したと伝わっている。
吾妻鏡には宇佐美實政の名で記載されており、奥州平定後は津軽に新領を得て治安維持に任じたが同年末に挙兵した泰衡の旧臣・大河次郎兼任と戦った末に戦死した。子孫は津軽・越後・伊勢・下野などに所領を得て繁栄している。
岡崎 義實 天永三年(1112)~正治二年(1200) 享年 88歳
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三浦義継の四男で義明の弟。中村宗平の娘(土肥實平の姉妹)を妻とし、平塚の北部と伊勢原の南部(岡崎)を領有して岡崎氏を名乗った。三浦一族は代々源氏に仕えており、義實も鎌倉の義朝館跡(旧跡には後に政子が寿福寺を建立)に慰霊の祠を建てている。鎌倉入りした頼朝はここに館を新設する意思があったが敷地が狭いため大倉に定めている。義實は頼朝挙兵から従軍し石橋山合戦では嫡男の佐奈田義忠(所領は真田郷)を失った。もう一人の子・義清は妻の実家宗平の三男宗遠の養子となり土屋義清を名乗っている。
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東国平定の後も御家人として働いたが、老齢のため平家追討や奥州征伐には参加していない。正治二年(1200)春には政子を訪ねて窮状を訴えており、幕府草創の古参御家人としては恵まれない晩年を過ごしたらしい。
緒方 惟栄(惟義、惟能) 生没年 不詳
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宇佐神宮領の豊後国大野郡緒方荘(豊後大野市緒方・
地図)荘官を務め、平重盛と主従関係にあったが、元々は宇佐氏と宇佐神宮の大宮司職を争った神官・大神氏の子孫で、約100km南の大野川中流域の緒方荘に土着した。緒方氏はその子孫と伝わる。
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養和元年(1181)には国人の佐伯氏・臼杵氏・長野氏らと協力して挙兵し平家の豊後目代を追放、松浦党・菊池氏・阿蘇氏らを糾合して戦った反平氏勢力の中心となった。本来の領主で平家に与していた宇佐神宮大宮司の宇佐氏を攻撃し社殿の一部を焼いたため流罪を命じられるが、平家追討の戦功と協力した義経のバックアップを受けて赦免された。文治元年(1185)1月26日には国司難波頼経の命令を受けて周防国に駐屯していた範頼軍に船を提供、平家一門を九州太宰府から駆逐し彦島を経て壇ノ浦合戦に至る滅亡に大きな役割を果たした。
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頼朝と離反した義経が都を脱出して吸収を目指した際には大物浦からの出航に同船して難破、捕縛された惟栄は上野国沼田に流され、後に赦免を受けて佐伯に帰った、あるいは途中で病没したとも伝わる。大物浦で難破せず九州の勢力を集結させて鎌倉と争ったら面白かっただろうに、ね。
佐奈田 義忠(与一、余一) 久寿二年(1155)~治承四年(1180) 享年 25歳
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岡崎義實の嫡男で父の所領(現在の平塚市北部の岡崎)西隣の真田郷(現在の鶴巻温泉付近)を領有した。父に従って頼朝挙兵に加わり、緒戦の
石橋山合戦で豪勇で知られた大庭景親の弟俣野景久と組み合い、応援に加わった景久の従兄弟長尾定景に討たれた。真田の近くには居城跡と伝わる真田神社や後世に菩提を弔った天徳寺がある。
岡部 忠澄 不詳~建久八年(1197) 享年 不詳
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小野妹子の子孫で小野篁の末裔を名乗る猪俣党(武蔵国那珂郡(現在の児玉郡美里町を本拠とした武蔵七党の一つ)の祖・猪俣時範(横山党の時資の子)→長男忠兼→四男忠綱が平安時代に榛沢郡岡部(大里郡岡部町普済寺)に住んで岡部を名乗った。嫡孫の岡部六彌太忠澄(行忠嫡男)は義朝・義平に従って保元・平治の乱を戦い、平家追討では一ノ谷で平忠度を討ち取って荘園六ヶ所の地頭職を得た。平家滅亡後には古参の御家人として奥州藤原氏追討にも参戦している。深谷市の
普済寺とその周辺には本拠跡や土塁の痕跡、岡部一族代々の墓所や忠度の慰霊墓が残っている。
駿河国志太郡岡部郷を領有した藤原南家岡部氏とは系譜の違う別の一族。
岡本 綺堂 明治五年(1872)~昭和十四年(1939) 享年 67歳
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大正~昭和前期の劇作家・小説家・演劇評論家。東京芝高輪生れ、父は旧幕臣だった岡本敬之助の子。明治23年に東京日日新聞に入社して各紙の劇評を書き、同35年の岡鬼太郎との合作「金鯱噂高浪」で劇作家に。明治37年には東京日日新聞の記者として日露戦争に従軍。帰国後の1911年に書き上げた「修禅寺物語」が明治座で初演され出世作となった。大正2年に記者生活をやめて作家活動に専念。代表作に「半七捕物帳」など。
長田 忠致 生年不詳~治承四年(1939年・異説あり) 没年齢 不詳
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桓武平氏良兼流、忠致は藤原道長に仕えた
平致頼(wiki)から五代後の子孫を称している。
尾張国野間(サイト内リンク)を本拠とし、平治の乱に敗れて東国へ逃げようとした義朝を謀殺した事で知られる。平治物語では累代の主筋を裏切ったとされるが、源氏に従ったよりも平家に仕えた期間が長く、必ずしも裏切りとは言えない可能性もある。娘が義朝の郎党として最後まで付き従った鎌田政清に嫁していたため悪役のイメージが増幅されたのだろう。
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古くから悪行が誇張されて伝わっており、例えば義朝を殺した勲功で任じた壱岐守に不満を申し立てた事、後に頼朝に降伏して戦功を挙げ「身の終わり」を得た事などは明らかに捏造と思われる。吾妻鏡の治承四年(1180)10月14日に記載された
「甲斐源氏の一行は神野と春田路を経て正午の頃に鉢田に着いた。駿河目代の軍は狭い道で突然遭遇したため動きがとれず、防御に努めたが長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。」と書かれた長田入道が忠致だと判断すべきだろう。また同年8月9日にも大庭景親が長田忠致の手紙で頼朝が挙兵に動いているとの情報を得ている。それぞれ、「吾妻鏡を読む」の該当ヶ所を確認されたし。
小野 成綱 生年不詳~没年不詳(1211年より前) 没年齢 不詳
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通称は野三刑部丞、治承・寿永の乱の勲功として頼朝から阿波国麻殖保の地頭職を得たが、文治四年(1188)に保司の平康頼からは年貢の横領を訴えられている。その後に尾張国の守護も務めた。吾妻鏡の記載を根拠にすれば、建暦元年(1211)6月21日より前に前に死去している。
小野 義成 生年不詳~承元二年(1208年) 没年齢 不詳
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小野成綱の嫡子で通称は野三左衛門尉あるいは小野大夫判官。弓術に優れ、,建久三年(1192)の的始では射手を勤めている。建久十年(1199)に源通親襲撃を企て捕らえられて配流、後に放免され建永元年(1206)の延暦寺衆徒蜂起の際には院の御所を警護している。
小山田 有重 生年不詳~治承四年(1180年・異説あり) 没年齢 不詳
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秩父重弘の子で畠山重能の弟、重忠の叔父にあたる秩父一族の武者。稲毛重成と榛谷重朝(二俣川一帯を領有)の父で、小山田荘(八王子南部~町田市一帯を領有して平家に仕えた。治承四年(1180)の頼朝挙兵の際は大番役として重能と共に京にあり、平家の家臣として各地を転戦した。本家の秩父一族が頼朝に従ったため宗盛に捕われ拘束されたが平貞能の尽力で釈放され、兄弟は宇都宮朝綱と共に東国に戻って以後は頼朝に仕えた。元暦元年(1184)6月には頼朝の命を受けて一條忠頼の謀殺に加わっている。
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それ以後の詳細は記録にないが、元久二年(1205)に畠山一族が謀反の嫌疑で討伐された後に稲毛重成親子と榛谷重朝親子が讒言で重忠を陥れたとして討伐され。一族の中ではわずかに宇都宮頼綱に嫁した重成の娘が残ったが、彼女の産んだ宇都宮時綱も宝治合戦(1247)で妻の実家三浦一族に加わり2人の子と共に自害している。町田市西部に小山田の地吊が残り、館跡とされる大泉寺には供養塔が残る。地図は
こちら、詳細は
参考サイトで。子孫は南北朝時代に新田義貞に従って転戦した、と伝わる。
快慶 生年不詳~没年は不詳だが、他の銘札により嘉禄三年(1227)より前と推定 享年 不詳
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運慶とともに鎌倉時代を代表する慶派の仏師で安阿弥陀仏とも称し、繊細な作風は安阿弥風とも呼ばれた。三尺前後の阿弥陀如来像を彫った在銘の作品が多く残っている。初めて名が現れたのは寿永二年(1183)の運慶願経(運慶の項を参照)で、繁栄を願う結縁者の一人として記載されている。
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残された史料などから推測した仏師の系図に従えば、康慶の弟子(運慶の弟弟子)と考えるのが自然だろう。熱心な阿弥陀信仰者であり、「工匠」を名乗っている事から高度な技術者を自覚していたと想像できる。運慶とともに鎌倉時代初期の南都復興の造像に参加し、特に東大寺復興の大勧進(総責任者)だった重源と親しかったことから東大寺造像の幾つかを手がけている。
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その中の一つとして
地蔵菩薩像(法橋に叙任した元久二年(1205)前後の作・木造彩色・約90cm・重文・東大寺公慶堂)の拡大画像)と、
巧匠安阿弥陀仏を称していた建仁元年(1201)作の
紅玻璃阿弥陀像(木造漆箔・約75cm・重文・東大寺公慶堂)を載せた。
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後者は広島の
耕三寺(公式サイト)収蔵、伊豆山(下の)常行堂本尊として制作した像が明治維新の廃仏毀釈運動に伴って流失したと考えられる。明確な根拠はないが、建久九年(1198)に没した愛娘・大姫の三回忌に政子が発願したと考えれば辻褄は合う。(
伊豆山権現の項を参照)。運慶との共同制作である
金剛力士阿形像(東大寺南大門蔵・国宝・木造彩色・約839cm・1203年作)も参考に。 (耕三寺以外はサイト内リンク)
加賀美 遠光 康治二年(1143)~寛喜二年(1230) 享年 87歳
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甲斐源氏武田清光の四男(清光の弟説もある)。加賀美郷(現在の南アルプス市の東部・旧若草町、南アルプスIC付近)を領有して加賀美氏の祖となった人物。滝口武者(内裏の警護)を務めた後に頼朝挙兵に呼応して二男の長清を連れて挙兵、鎌倉幕府樹立後は門葉(頼朝一族の重臣)として重用された。晩年には所領の加賀美郷周辺に多くの寺を創建した、と伝わる。館の跡は
法善寺として現存し、周辺には廟所の
遠光寺や供養墓などが点在する。(青字は共にサイト内リンク)
長男の光朝は平重盛の娘を娶っていたため頼朝に滅ぼされたが四男の光経が加々美氏を継承し、二男の長清は小笠原氏・三男の光行は南部氏・五男の経行は於曽氏の祖となり、それぞれの系が各地で繁栄している。
葛西 清重 応保元年?(1161?)~暦仁元年(1238) 享年 78歳前後
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秩父平氏一族の庶流・葛西氏の初代。父清元は武蔵国の広範囲を領有し、その一部葛西御厨(現在の葛飾~江戸川区一帯の33郡を長寛三年・1165年に伊勢神宮に寄進)を相続して葛西を吊乗った。母は畠山重能の娘で、重忠の義理の兄弟に当たる。頼朝が上総から隅田川まで進んできた際に合流し、重忠らと共に傘下に加わった。その後は富士川合戦や常陸の佐竹氏討伐に転戦、常陸からの帰路には妻女を夜伽に侍らせて満足した頼朝から丸子荘(川崎市の一部)を与えられている。更に義高遺臣の追討・平家追討・奥州藤原氏追討などに転戦、阿津賀志山合戦でも功績を挙げ、奥州の数ヶ所に所領を得て実質的な奥州の国主を務めている。
その後も畠山重忠追討・和田義盛追討などに参戦し北條側として幕政に加わり優遇された。子孫は奥州石巻を拠点にして主に宮城県一帯を支配したが小田原攻めに加わらなかったため秀吉の改易を受け衰退した。
梶原平三 景時 不詳~正治ニ年(1200) 享年 不詳
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藤原秀郷の子孫を称する。伊勢藤原氏である平家の武将平景清の嫡男で鎌倉幕府樹立後は侍所所司を務めた。梶原姓は坂東七平氏の一流で本拠地は鎌倉の西部、鎌倉権五郎景正の子孫なので大庭一族や岡崎一族とは近縁になる。
治承四年(1180)の石橋山合戦では平家軍にいながらも頼朝の危機を救った。その後は頼朝に重用されて平家追討に功績を挙げ、壇ノ浦での「逆櫓論争」などで義経を中傷、その後も義経と後白河法皇の接近を頼朝に知らせるなど機を見る行動が多く「卑劣な密告屋」の印象が強い。ただし頼朝の代わりに憎まれ役を務めて「治世の持つ負の側面を担当した側近」だった、と考える説もある。
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頼朝の命令を受け寿永二年(1183)に上総介広常を暗殺、建久四年(1193)には伊豆修禅寺に幽閉されていた源範頼を攻めて自害に追い込み、その後も安田義定追討などに任じた。頼朝没後は幕政の合議スタッフに加わるが三浦義村ら古参の幕閣と対立、結城朝光の謀反を捏造しニ代将軍頼家に讒言したのが結果的に命取りになった。朝光は多数の御家人と連署し誣告を主張して反撃、景時は弾劾を受けて鎌倉から追放された。
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正治二年(1200) に武田有義(武田信義の次男で一條忠頼の弟)を将軍に擁立する目的で上洛する途中(この疑惑の信頼性は乏しい)、駿河国で嫡子の景季(宇治川先陣争いに登場)・次男の景高と共に討たれる。実際には幕府を離れて朝廷に仕えようとしたらしい。三男景茂は尾張・四男景義は播磨に逃げ、その子孫が現存している。
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墓所は鎌倉の御霊神社に近い深沢小学校裏手の山裾のやぐらにある(見学には小学校の許可が必要)。館跡は相模一之宮の
寒川神社(公式サイト)南にある一之宮小学校東の天満宮で、奇しくも頼朝が落馬した相模川橋供養場所の約2km北である。ここには景時の家臣であった梶原七士の墓も残っており、彼らは駿河で共に討死したとも、信州に逃れて後日に復権が許されず自害した、とも伝わっている。
梶原 景季 応保二年(1162)~正治ニ年(1200) 享年 39歳
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父の景時と共に平家の家臣だったが、石橋山合戦の後に頼朝に従って御家人に列し重用された。
義経の部将として参戦した義仲追討の宇治川合戦では頼朝に下賜された磨墨に跨って同じく生月を下賜された佐々木高綱と先陣を争い、その後も平家追討・奥州藤原氏追討で活躍した。父が侍所別当に任じられるとともに景季も有力御家人として重用されたが、正治元年(1199)1月の頼朝死没後は御家人連合の弾劾を受けて景時が失脚、翌年1月に上洛を図った途中の駿河国清見関(静岡市清水区)で在地の武士と戦い自害した。供養墓は鎌倉の御霊神社に近い深沢小学校裏手の山裾のやぐらにある(校庭内のため許可を要す)。
梶原 景高 永万元年(1165)~正治ニ年(1200) 享年 35歳
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父の景時と兄の景季と共に平家の家臣だったが、石橋山合戦の後に頼朝に従って御家人に列し重用された。
寿永三年(1184)の一ノ谷合戦では大手の範頼軍に所属し生田口で平知盛軍と戦って軍功を挙げた。親子三人の奮戦は「梶原の二度駆け」として知られる。更に文治五年(1189)の奥州合戦にも従軍、父が侍所別当に任じられるとともに有力御家人として重用されたが、正治元年(1199)1月の頼朝死没後は御家人連合の弾劾を受けて景時が失脚、翌年1月に上洛を図った途中の駿河国清見関(静岡市清水区)で在地の武士と戦い自害した。供養墓は鎌倉の御霊神社に近い深沢小学校裏手の山裾のやぐらにある(校庭内のため許可を要す)。
梶原 景茂 仁安二年(1167)~正治ニ年(1200) 享年 33歳
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父の景時と兄の景季と共に源平合戦を転戦、奥州合戦でも功績を挙げて建久元年(1190)には左兵衛尉に任じた。父が侍所別当に任じられるとともに有力御家人として重用されたが、正治元年(1199)1月の頼朝死没後は御家人連合の弾劾を受けて景時が失脚、翌年1月に上洛を図った父と共にの駿河国清見関(静岡市清水区)で在地の武士と戦い吉川友兼に討ち取られた。供養墓は鎌倉の御霊神社に近い深沢小学校裏手の山裾のやぐらにある(校庭内のため許可を要す)。
梶原 刑部丞朝景(友景) 生年不詳~建保元年(建保1213) 没年齢 不詳
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梶原景清の次男で景時の弟。生涯の大部分を兄の景時と共に過ごしているが、正治二年(1200)の景時追討の際には降伏して生き延び、建暦三年(1213)の和田合戦で義盛に味方して討死している。
上総 廣常 生年不詳~寿永二年(1183)12月 享年 不詳
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房総から安房一帯に広大な所領を持った上総一族の長であり、実質的な国司だったと言われる。元々は頼朝の父義朝の郎党であり義平の配下として保元の乱を戦い、平治の乱で敗れた後に領国に戻り勢力を整え維持した。石橋山から落ち延びた頼朝が安房に逃れた時は国内の平家を討伐し2万の兵と共に参陣したが逆に遅参を咎められたと伝わる。
幕府樹立後の頼朝とは政策面での差異が目立ち、平家を打倒するよりも朝廷から関東を独立させるのを望んだ事に加えて強力な武力を背景にした傲慢さも目立ち、頼朝の命を受けた梶原景時に殺された。嫡男は自害し所領も公収されたが直後には謀反の疑いが晴れ、一族は赦免されて所領の一部の相続を許された。本領の地は現在の大原~御宿周辺と考えられている。
糟屋 有季 生年不詳~建仁三年(1203) 歿年令 不詳
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相模国大住郡糟屋荘(領家は安楽寿院・現在の伊勢原市から平塚市の一帯)の庄司を務め、現在の丸山城址公園(
地図)に本拠を置いた御家人(妻は比企能員の娘)。頼朝挙兵の際には大庭景親の平家方として戦い(石橋山合戦の条に父・糟屋盛久の名がある)、その後に降伏して頼朝に従った。寿永二年(1183)には義経配下として宇治川合戦で義仲軍と戦っている。義経失脚後の文治二年(1185)11月には比企朝宗の手勢として上洛し、義経郎党の佐藤忠信と堀景光を自刃に追い込んだ。
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文治五年(1189)7月には奥州合戦に従軍、更に正治二年(1200)1月には梶原景時追討にも加わっている。建仁三年(1203)9月の比企の乱では能員の娘婿として北條氏と戦い、頼家の嫡子・一幡を守って小御所に立て籠り奮戦、投降の呼びかけに応じず討死した、と伝わる(愚管抄の伝聞)。
片岡 常春 生没年 不詳 享年 不詳
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桓武平氏
平忠常の子孫である上総氏や千葉氏と同族の武士で下総国三崎荘(
地図)を本領とし、常陸国鹿島郡片岡(石岡市片岡・
地図)を姓の地とした。平氏に与した常陸平氏の佐竹氏と縁戚(妻が佐竹氏当主秀義の兄義政の娘)だったため、佐竹氏当主の秀義が金砂城で討伐された後に頼朝に召喚され、その使者を捕縛して罪が重なり所領を没収された。
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その後に許されて義経の陣に加わり、平家物語によれば「壇ノ浦で神璽(勾玉)を掬い上げる」功績を挙げている。文治五年(1185)10月には佐竹義政に与してして謀反を企んだ容疑で没収された三崎荘の所有権は千葉常胤に移った。常春は直後に謀反人の立場になった義経に合流して平泉まで同行したらしいが、その後の消息は伝承の域を出ない。資料により、弘常・弘綱・弘経・為春とも表示されている。
加藤 景員 生年不詳~没年不詳 享年 不詳
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伊勢国出身の武将で通称は加藤五。一族の初代は藤原正重の子で頼義の郎党を務めた藤原景道(景通)、加賀介に任じて加賀の藤原=加藤を名乗ったのが最初らしい。系図では、正重--景道--景季--景清--景員と続いている。源平盛衰記に拠れば、本領の伊勢で平家の武士を殺したため伊豆に逃れ工藤氏(狩野氏)の庇護を受けて土着したと伝わる。息子の光員・景廉兄弟と共に参戦した石橋山合戦と堀内合戦に敗れて土肥椙山に逃げ込み、足手纏いになるのを恐れて出家した。頼朝の鎌倉入りと共に本拠とした伊豆牧之郷を安堵された。
加藤 光員 長寛年間?(1163?)~没年不詳 享年 不詳
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伊勢国出身の武将加藤景員の嫡男。景廉と同じく頼朝旗揚げ当時からの家臣で修禅寺北の牧之郷を景員から継承した。元久元年(1204)の三日平氏の乱で功績を挙げ西面の武士として検非違使に着任、後に伊勢守となったが承久の乱(1221)で朝廷側となったため、所領の牧之郷は公収されて景廉に与えられた。その後間もなく没したらしいが詳細は不明。
兄弟の一人に覚淵(頼朝の経典の師で走湯権現の中心・密厳院東明寺の初代院主として最高位の僧)、弟が加藤氏を継承した景廉、他の兄弟に延暦寺で仏法を学び走湯山における天台宗の中心となった源延がいる。
加藤 景廉 仁安元年(1166)~承久三年(1221) 享年 56歳
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伊勢国出身の加藤景員の次男。景員の祖父・景道は為義の郎党七騎の一人で、一族は以前から源氏と主従関係にあったとらしい。景員が伊勢で平家一門の武士を殺したため兄の光員と景廉は父に従って伊豆に逃れ狩野氏の庇護を受けた。治承四年の頼朝挙兵には当初から参加し、山木合戦第二陣として平兼隆を討ち取っている。
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石橋山合戦で敗れた後は甲斐へ逃れ、甲斐源氏の武田信義・一條忠頼・安田義定の軍に合流して駿河に南下し、波志田山合戦で駿河目代の橘遠茂・長田入道らを討ち黄瀬川で頼朝軍に合流、富士川合戦に勝利する遠因を作った。その後も平家追討・奥州合戦などに従軍し、甲斐源氏の安田義資(義定の子)を討つなどの功績により美濃遠山を与えられ要衝・岩村城を築いた。
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頼朝没後は親しかった梶原景時謀反嫌疑に連座して一度は失脚したが、比企氏討伐に伴う仁田忠常謀殺や和田合戦などで北條氏に協力し、立場を強化した。兄の光員が承久の乱(1221年)で朝廷側に加わったため狩野牧は景廉の所有となり、景廉が一族の長となっている。
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晩年には嫡男の景朝(遠山氏の祖)に家督を譲り牧之郷へ戻って源平合戦などの死者を弔って余生を過ごした、と伝わる。
墓所は牧の郷の狩野川近くにあるが、室町時代の狩野川洪水で散逸したため五輪塔の組み合わせなどは本来の姿を失っている。
狩野(工藤) 茂光 生年不詳~治承四年(1180) 没年齢 不詳
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藤原南家流狩野祐隆の四男、伊東祐親の叔父(父祐家の弟)、工藤、伊東、宇佐美など伊豆各地の豪族にとって本家筋にあたる。良い牧草地の牧之郷一帯を領有して多数の良馬を育て、その結果伊豆半島で最大の勢力を築いた。保元の乱(1156)に敗れて大島に流された為朝の監視役を務め、さらに反乱を起こした嘉応二年(1170)には院宣に従い討伐軍を率いて為朝を自害に追い込んでいる。
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治承四年(1180)の頼朝挙兵に参加し、石橋山から敗走途中の函南で自害。負傷した肥満体のため馬にも輿にも乗れず、逃げ切れないと判断して孫の田代信綱に介錯させた、と伝わる。墓は東海道線函南駅の近く、共に戦死した時政の長男宗時の墓と並んでいる。
狩野(狩野介) 宗茂 生年不詳~没年不詳 没年齢 不詳
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狩野(工藤)茂光の嫡子で頼朝に仕えた御家人。建久四年(1193)5月の富士野巻狩りでは工藤祐経を討って捕獲された曾我兄弟の弟・時致の尋問に立ち会っている。平家物語巻十二の一・重衡被斬に拠れば一の谷合戦で捕虜になった平重衡は狩野宗茂に預けられて伊豆国に交流された事になっているが、吾妻鏡は「鎌倉に抑留」と書いている。鎌倉大町の教恩本尊寺は頼朝が重衡に与えた阿弥陀如来を本尊としており、ここが館跡と伝わっているため吾妻鏡の方が正しいように思える。詳細は元暦元年(1184)4月20日の条を参照されたし。
狩野五郎 親光 生年不詳~文治五年(1189) 没年齢 不詳
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狩野茂光の四男で狩野介、兄に狩野氏棟梁を継いだ宗茂と兼光と行光がいる。息子は嫡男の為広と親成、女子は岡崎義室の後室・渋谷重成室・河津祐泰室(最初は源仲成(頼政の嫡男仲綱の乳母子)の室、祐泰の没後は曽我祐信の後室。曽我兄弟の生母)、和田義盛の室などがいる。
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頼朝挙兵当初から父と共に参戦しており、治承四年8月に伊豆を出て土肥に向う頼朝勢の中に五郎親光の名が見える。茂光は石橋山合戦の後に自刃、介錯した親光はその後も各地を転戦して功績を挙げたが、文治五年(1189)8月に奥州藤原氏追討緒戦の阿津賀志山攻防戦で兄行光と共に戦い、国衡軍木戸口の攻防で討死した。
鎌倉権五郎 景政(景正) 延久元年(1069)~大治五年?(1130?) 享年 60歳前後? 不詳
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桓武平氏鎌倉党(梶原景時と同じ系統)の平景成の嫡子で平良文から五代目。父の代に現在の鎌倉一帯を領有して鎌倉を名乗った。一説に、父の代には村岡(現在の藤沢市宮前の村岡御霊神社の南)に住み、景政は後に鎌倉の大倉に移ったが義家鎌倉入りの際に邸を献じて甘縄に移ったとされる。ただしこの件は義家とその父頼義の二代が関係しており、区分が不明瞭なため確実性には欠ける。
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景政は16歳で源義家に従い後三年の役(1083~1087)に参戦、金沢の柵攻防戦で右眼を射られながら奮戦し、刺さった矢を抜くため顔に足を掛けた三浦為次を殺そうとした逸話が知られている。
長治元年(1104)前後から相模国高座郡の開発に着手し、永久三年(1116)に現在の藤沢市一帯に跨る荘園を伊勢神宮に寄進して大庭御厨とした。相模国で最大級のこの荘園は後に大庭→三浦→鎌倉時代中期以前には北條一族の所有となった。
鎌倉長谷観音に近い江ノ電線路横の
御霊神社が主祭神として景政を祀っている。
鎌田 政清(政家・正家) 保安四年(1123)~永暦元年(1160) 没年令 37
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源義朝の乳母子で同い年、一の郎党とされている。藤原秀郷流・山内首藤氏一族で出自は相模山内庄(北鎌倉)。保元・平治の乱を通じて義朝に従って戦い、敗戦後は義平・朝長・頼朝・大叔父の義隆・従兄弟の重成らと共に大原~近江を経て東国を目指して落ちた。青墓で朝長が没した後は分散し義朝・政清・金王丸と舟で尾張国野間内海荘の庄司長田忠致(褄の父)を頼ったが裏切られ義朝と共に殺された。「平治物語」に拠れば、
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義朝に風呂を勧め弥七兵衛・浜田三郎・橘七五郎の三人で押さえつけ刺し殺した。従者の金王丸と道案内の玄光房が三人を斬り伏せて金王丸は馬で脱出、忠致と酒を呑んでいた政清は忠致の息子景致が背後から首を落とした。政清の妻は夫の刀で自殺した...後略
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墓所は知多の
大御堂寺、京で探し出された義朝の頭骨と政清の遺骨は文治元年(1185)9月3日に新築の鎌倉雪ノ下
勝長寿院(共にサイト内リンク)に埋葬された。勝長寿院(大御堂寺・南御堂)は遠い昔に焼失して廃寺となり、昭和に建立した義朝主従の慰霊墓が建てられている。
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ちなみに、殺害した長田親子のその後については様々な伝承があるが、富士川合戦の直前に甲斐源氏と駿河目代が衝突した鉢田合戦で討ち取られた「長田入道と子息《と推定される。「吾妻鏡を読む」の治承四年10月14日を参照されたし。
亀の前 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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伊豆流人時代からの頼朝の愛人。吾妻鏡は
「良橋太郎入道息女也。自豆州御旅居奉昵近。匪顏貌之濃。心操殊柔和也。」と記しているが、詳しい素性も父の良橋太郎入道についても詳細は全く判らない。頼朝は寿永元年(1182)の早期に彼女を鎌倉に呼び寄せ、磯遊びの際に通う事ができる中原小中太光家の逗子小坪邸に住まわせた。これは政子が頼家(同年8月12日誕生)の出産間近だったのも契機になっていたらしい。頼朝は彼女を更に少し離れた逗子飯島の伏見広綱(祐筆)邸に遷したが、政子は出産後に牧の方(時政の後妻)からこの経緯を知り、11月10日に牧宗近(牧の方の父または兄)に命じて広綱邸を打ち壊し、亀の前は辛うじて葉山鐙摺の大多和義久邸に逃れた。
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この事件に激怒した頼朝は12日に牧宗近を鐙摺に呼び出し髻(もとどり)を切って恥辱を与え、宗近は泣いて逃げ去った。これに腹を立てた時政は一族を率いて伊豆に帰国、吾妻鏡は時政に同行せず鎌倉に残った義時を頼朝が褒めるという余波まで引き起こしている。翌月10日に亀の前は小坪の光家邸に戻され、頼朝の寵愛は更に深まったという。ただし政子の怒りは収まらず、伏見広綱は遠江国に配された(元々遠江国掛河・現在の掛川出身だから流罪ではなく配置転換程度か)。亀の前のその後については記録が残っていない。また妾の家や家財を破壊する行為「うわなりうち(後妻打ち)」は平安時代から記録があり、特に珍しい事件でもなかった、らしい。
吾妻鏡には政子の嫉妬深さとそれに手を焼く頼朝の姿を再三描いており、編纂者が何かの意図を持って加筆した可能性も考えられる。
河越(太郎) 重頼 生年不詳~文治二年(1186)没 没年令 不詳
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秩父平氏一族で父の葛貫能隆が開発した河越荘の荘官。秩父重隆(秩父氏棟梁・武蔵国留守所総検校職)の嫡孫で葛貫能隆の嫡子に当る。重隆は久寿二年(1155)に大蔵館で義平に討たれたが、重頼は翌年の保元元年には弟の師岡重経と共に義朝の陣に加わっている。大蔵合戦後の葛貫能隆は大蔵を追われて河越を開発、永暦元年(1160)には後白河法皇に寄進(後白河は更に新日吉山王社に寄進)して河越氏の祖となり、嫡男の重頼が祖父の武蔵国留守所総検校職と共に河越荘を継承した。妻は頼朝の乳母である比企尼の次女(後の河越尼)、長女の夫である安達盛長や三女の夫である伊東祐清と供に伊豆流人時代の頼朝を助けている。
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治承四年(1180)の頼朝挙兵には平氏方の畠山重忠に呼応し秩父一族の惣領として江戸重長らと衣笠城で三浦義明を殺したが、同年10月には大軍を率いて上総から武蔵に入った頼朝に帰伏し、以後は御家人として重用された。
寿永三年(1184)の一ノ谷合戦直後には義経らと朝廷から官位を受けて頼朝に叱責されたが、翌月には頼朝の命を受け娘を義経の正室として嫁がせた。翌・文治元年(1185)に義経が頼朝と対立して失脚、舅の重頼は同年末には所領を没収され武蔵国留守所総検校職は畠山重忠が継承、その後嫡男重房と共に追討された。その時期は明らかではないが、吾妻鏡の文治三年(1187)10月5日の条に
「義顕(義経)の縁に繋がるため誅され、本領の河越荘は尼に与えた」と記載されているから、文治二年~文治三年だろう。
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館跡は入間川西岸の東武東上線霞ヶ関駅北東
(地図)、墓所は4km東の川越市中心部・養寿院
(地図)。開基は河越尼を相続した重頼二男・重時の嫡子経重。墓所と本領のレポートは
こちら(サイト内リンク)で。
河村 義秀 生没年不詳 没年令 不詳
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藤原秀郷の末裔を称する波多野氏の一族。義朝の郎党として保元の乱を戦った波多野氏当主遠義の次男秀高が足柄郡河村郷を相続し、次男の義秀がそれを継承した。兄の義常(義経)は頼朝挙兵の際に協力を拒み富士川合戦の直前に討手を向けられて自刃、河村義秀は大庭景親らと共に捕虜となった。
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義秀は斬罪に処すとして大庭景義(娘が義常の妻)に預けられたが彼の武芸を惜しんだ景義は殺さずに保護し、10年後の建久元年(1190)8月16日の八幡宮放生会の流鏑馬で妙技を披露し罪を許された。その後は御家人として頼朝の二度の上洛や富士野の巻狩りにも同行した記録がある。承久三年(1221)の承久の乱では幕府軍に従って転戦し勲功を挙げている。
義勝房成尋 生没年不詳 没年令 不詳
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桓武平氏の末で横山党の武士で俗名は中条兼綱。吾妻鏡の初出は治承四年(1180)8月20日、伊豆韮山から土肥に向かう頼朝勢の末尾近くに義勝房成尋の名前がある。この時点では既に出家しており、息子の家長(1165年生まれ)は八田知家の養子になっている。成尋の姉妹が知家を産んだとの説があり、これは多分事実だろうと思うのだが、系図では確認できない。八田知家は保元の乱(1156)当時から義朝に与して戦っており、宇都宮氏・小山氏・横山党・三浦氏や中村氏との協力関係に基づいて挙兵当初から合流していたらしい。
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文治元年(1185)9月には梶原景時と共に上洛し義経糾弾の使者を務めるなどの公務に従い、無断任官を咎めた頼朝による建久元年(1190)12月の家長解官、翌年6月7日の幕府南門再建の差配などを経て永福寺の供僧(法橋)に任じた。。
木曽(源) 義仲 久寿元年(1154)~寿永三年(1184)1月没 享年 31歳
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平安末期の武将で幼名は駒王丸・通称は木曽次郎義仲。為義の意向を受け義朝に対抗して北関東に勢力を伸ばそうとした帯刀先生・源義賢(義朝の弟)の次男で源為義の孫にあたる。2歳の時に父が
大蔵合戦で義朝の長子・悪源太義平に討たれ、辛うじて義平の配下である斎藤實盛や畠山重能の助力で木曾へ逃げ中原兼遠に育てられた。治承四年(1180)に以仁王の平氏追討令旨を受け挙兵して木曾から北陸道へ進み、寿永二年(1183)5月には加賀と越前の国境・倶利加羅峠で平維盛軍を壊滅させ、翌7月には平氏を西に追い落として入京した。その後は京都の治安維持に失敗し、平家追討の命を受けて遠征した備中水島の合戦で惨敗したため法皇に見放され、朝廷と対立した。
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寿永三年(元暦元年・1184)に義仲は法皇に強要して征夷大将軍に着任し頼朝追討の院宣を書かせたが、法皇の意を受けた頼朝は範頼・義経連合軍を派遣。宇治川合戦と六条河原の合戦で敗れた義仲は僅かな兵と共に北陸へ逃げようとしたが近江の粟津で甲斐源氏一條忠頼軍に追撃され、兼遠の子で腹心の今井兼平と共に粟津の松原で戦死。首は六条河原に晒された後に京都法観寺に葬られた、と伝わる(法観寺には義仲の首塚と伝わる石塔がある)。鎌倉で人質となっていた嫡男義高も鎌倉を脱出した後に
入間川で追手に殺された。
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京都縄手通三条下りの有済小学校校庭には愛妾山吹御前の墓と伝わる石塔もあるが真偽は疑わしい。義仲の墓所は戦死した琵琶湖畔の大津膳所(ぜぜ)の
義仲寺にもあり、これは胴塚だった跡に建てられたと推測される。落飾した愛妾の巴が庵主だったとも伝わっており、巴や山吹の塚も残されているが山吹の墓は終焉の地・武蔵大蔵にあり、その信頼性には疑問が残る。義仲の生き様を愛しつつ大坂で没した松尾芭蕉も、遺言に従ってこの寺に葬られている。
清水(志水・源) 義高 承安三年(1173)~元暦元年(1184)没 没年令 12歳
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信濃源氏・木曽義仲の嫡男。生母とされる山吹御前の出自は不明確で、中原兼遠の娘または今井兼平の妹らしい。誕生は槻井泉神社(松本市清水町)付近の可能性が高いだろう。寿永二年に信濃で挙兵した義仲は越後から北陸にかけて勢力を広げ、さらに志田義廣と行家を傘下に加えたため頼朝が追討軍を派遣、源氏同士の交戦直前まで関係が悪化した。結果として敵対しない担保として義高を人質として鎌倉に送る条件で和議が成立、義高は海野幸氏や望月重隆を伴い大姫(6歳)の婿という立場で鎌倉に入った。幼い二人ながら仲は睦まじかった、と伝わっている。
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義仲は都から平家一門を追い落としたが治安維持に失敗して後白河法皇と対立、元暦元年(1184)1月に大津で範頼・義経軍に討たれた。義高は頼朝の殺意を知った大姫の手引で鎌倉を脱出したが追跡した堀親家の郎党籐内光澄に殺され、4月26日には首が鎌倉に運ばれた。深く悲しんだ大姫は病床に伏して日々憔悴。母政子の激しい怒りを受け、頼朝は6月27日に籐内光澄を斬って首を晒している。病弱のまま20歳で死んだ大姫の不幸がこの事件から始まった。義高の墓所は大船の常楽寺(北條泰時の墓もある)裏手の丘の中腹にあるが、これは西南100mほどにあった木曽塚を移設されたもの。所縁の地として、
斑渓寺と鎌形八幡および
真水冠者終焉の地や
常楽寺などを参照されたし。
吉彦(きみこ) 秀武 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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父は出羽の豪族で吉美侯(きみこ)武宗、母は清原武頼の娘・妻は清原武則の娘。吉美侯氏は古代の毛野(栃木・群馬)に土着していた蝦夷の子孫と考える説が多く、後に出羽に移り俘囚の長として勢力を伸ばしたらしい。「陸奥話記」では清原一族として前九年の役に従軍し、安倊氏追討に功績を挙げたと記録されている。阿部一族を滅ぼすまでの出羽清原氏は支族の長老がそれぞれの系を率いて緩く連合する同族集団だったが、武貞を継承した真衡は棟梁に権限が集中し一族を家臣として従える組織に変革しようとしたため、徐々に内紛が生じ始めた。
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真衡は陸奥国磐城郡の桓武平氏・平安忠の次男成衡と頼義の娘を夫婦養子に迎えて婚礼を行ったが、出羽から参席した秀武は献上の砂金を捧げたまま長く待たされたため激怒し、砂金を投げ捨てて出羽に帰った。底流には天皇の血を引く夫婦に清原氏を継承させて家格を高め繁栄を図りたい真衡と、清原の血脈を守りたい秀武の相克があったと考えられる。体面上もこれを放置できない真衡は吉彦追討軍を率いて出羽に向ったが、秀武に誘われた清衡(真衡の異父弟)と家衡(真衡の異母弟)が真衡館を襲撃したため引き返し、義家の応援を得て二人を降伏させた。これで目前の危機は回避できたのだが、再び出羽に向った真衡が病死。義家の調停によって陸奥六郡は清衡と家衡による分割継承となった。
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この後に調停内容が不満だった家衡が清衡館を攻めて清衡の妻子を殺し、この内乱に奥州での権益確保を目指す義家が本格介入して後三年の役が勃発した。家衡と叔父の武衡は難攻不落とされた金沢柵に籠って抗戦したが、秀武の策を入れて兵糧攻めを行った清衡・義家軍の勝利となった。秀武と吉彦一族のその後は不明、史料にも残されていない。「奥州藤原氏の系図」を参照されたし。
清原 武則 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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出羽(東北の北西部)俘囚(朝廷の支配に服した蝦夷)の長・清原光方の子で当主光頼の弟。陸奥(東北の北東部)の俘囚長・安倊氏一族が陸奥国司と争った前九年の役(1051~1062年)で、単独では阿倍氏を倒せなかった源頼義の懇請を受け、光頼の指示で大軍を率いて参戦し阿倍氏を滅亡させた。この合戦で頼義は奥州での権益を失い伊予守に転任したが、功績が大きいと認められた武則は朝廷から陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、清原氏はこの後20年間の繁栄を迎える。
援軍派遣を依頼するに当たって頼義は清原一族当主の光頼(武則の兄)に臣下の礼を取り、これが後三年の役(1083~1087年)で武則の子・武衡と頼義の子・義家が対峙した伏線となる。ちなみに、光頼の子・頼遠は後三年の役で義家に滅ぼされている。
武則の男子は武貞と武衡(娘が城資国の妻)、女子は吉彦秀武の妻となった。
清原 武貞 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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出羽の豪族で俘囚の長・武則の子。源頼義の求めに応じた父と共に前九年の役に参戦、陸奥の阿倍一族を滅ぼした。
阿倍貞任に味方して頼義に捕われ処刑された敵将藤原経清の寡婦(安倊頼時の娘)を妻にし、経清の遺児(後の藤原清衡)を養子に迎えた。これは安倊氏の滅亡後に奥州全域を掌握した清原一族が阿倍氏に従った旧勢力を取り込む意図だったらしいが、武貞には既に嫡男の真衡がいた。後にはこの後妻(経清の寡婦)が家衡を産んだため深刻な相続争いとなった。家衡は武貞の弟・武衡と協調して義家・清衡勢力に対抗し、この対立構図が後三年の役を引き起こした。
清原 武衡 生年不詳~寛治元年(1087)没 没年令 不詳
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武則の子で武貞の弟、家衡の叔父。母は安倊頼清(頼時の一族らしいが詳細は不明)の娘。
異父兄の清衡と相続を争った家衡が沼柵(横手市)で清衡・義家の連合軍を破ると家衡の味方に加わり、要害の金沢柵(横手市)に籠って戦った。金沢柵は兵糧攻めによって陥落、逃亡して蛭藻沼(柵の約2km南)に隠れているのを捕縛され斬首された。武衡は助命を嘆願し義家弟の義光も降伏した者として助命を薦めたが、義家は「降伏とは違う」として許さなかった。
籠城中に家臣を使って「前九年の役で頼義が家臣の礼をとり清原光頼に援助を懇願したのに不忠・不義だ」と義家を罵ったため強い憎しみを受けたという。金沢柵については
こちら(サイト内リンク)に詳細を記述した。
清原 真衡 生年不詳~永保三年(1083)没 没年令 不詳
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武貞の長男で武貞没後の清原一族棟梁を継承した。家衡の異母兄、清衡の異父兄にあたる。母は安倊氏の一族。
出羽国司の次男成衡(海道平氏・岩城氏)と源頼義の娘を夫婦養子に迎えて家柄を高め、棟梁として一族の家臣化を図ったため兄弟の清衡・家衡や叔父吉彦秀武が離反し、後三年の役(永保三年・1083~)を引き起こす結果となった。
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成衡の婚礼に出席するため砂金を携えて陸奥の真衡館を訪れた出羽国の豪族・吉彦秀武(妻は清原武則娘)を長時間待たせたため怒った吉彦は所領に引き上げた。真衡は討伐軍を率いて出羽に出陣したが吉彦秀武は同じ不満を持つ家衡と清衡に真衡館を襲わせようとしたため真衡は引き返し、家衡と清衡も軍を引いて義家の仲介により休戦した。
同年秋に真衛は再び吉彦秀武討伐に向うが、家衡・清衡連合軍も再び館を襲撃したため引き返し、義家の応援を得てこれを降伏させた。その後に再び出羽へ向う途中で病死、遺領は義家の裁定により家衡と清衡が分割相続するが間もなくこの両者が覇権を争い始め、本格的な後三年の戦役となった。
清原 家衡 生年不詳~寛治元年(1087)没 没年令 不詳
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武貞の子で真衡の異母弟、清衡の異父弟にあたる。母は阿倍氏の一族。
真衡が出羽討伐に向う途中で病死したため罪を許され、義家の仲介により真衡の遺領である陸奥六郡(現在の岩手県中部・南部)を半分の三郡づつ分割継承(清衡に南部の和賀郡・江刺郡・胆沢郡、家衡に北部の岩手郡・紫波郡・稗貫郡との説あり)する結果となった。家衡はこの裁定に不満を持ち、応徳三年(1086)に清衡館を襲い妻子を殺した。
清衡は義家の援軍を得て沼柵(現在の雄物川市)の敗戦を経て金沢柵(現在の横手市)に籠った家衡・武衡軍を攻撃し、吉彦秀武の献策による兵糧攻めで陥落させた。家衡は下人の風体で沼柵まで逃げたが見破られて討たれ、武衡は同様に沼柵で捕縛され助命嘆願したが許されず斬首された。
後三年の役によって陸奥と出羽を支配していた清原氏は滅亡し、前九年の役で阿倍一族と共に滅ぼされた藤原経清の遺児清衡が奥州全域を支配する藤原氏の祖となった。
清原 清定 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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鎌倉幕府初期の文官(図書允、左衛門尉)で清原満定の父。幕府公事奉行人に任じて政所寄人(発生業務ごとに集合し兼務)となり、重要な政務や訴訟の判決に関与した。建久五年(1194)には大庭景義らと共に鶴岡八幡宮の寺社奉行を務め、建仁三年(1203)11月15日には同職に再任されている。
行基(諡号は行基菩薩・行基大徳) 天智七年(668)~天平二十一年(749)没 没年令 81歳
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父は百済系渡来氏族で王仁の後裔とされる西文氏一族の高志氏。河内に生まれ15歳で出家、
法相宗(wiki)に帰依して24歳で受戒。薬師寺に移ったのち山林修行に入り呪力・神通力を身につけた、とされる。37歳前後に民間布教を始めたらしい。
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和銅三年(710)の平城遷都前後には過酷な労働からの逃亡民の多くが行基を慕って僧になったため治安と労働力の維持に支障が起きて霊亀三年(717)には布教活動を禁圧された。しかし行基集団は更に拡大し、養老六年(722)には平城京に寺を建て信者を広げていったため、影響力を無視し得なくなった朝廷は天平三年(731)以後の布教活動を容認した。天平17年(745)以後は聖武天皇も行基に帰依して戒を授け、全国の巡回布教を許した。各地に残る行基伝説と行基が刻んだとされる数多くの仏像はこの経緯による。また光明皇后は行基らに新薬師寺を建立を許している。
空海(諡号は弘法大師) 宝亀五年(774)~承和ニ年(835)没 没年令 61歳
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平安前期の宗教家で真言宗の開祖。佐伯田公の三男で幼名は真魚。阿刀氏を母に讃岐国(香川県)多度郡屏風ヶ浦に誕生した。
延暦七年(788)入京し外舅阿刀大足に儒書を学ぶ。延暦十年(791)大学に入るが中退して僧とならず、在家の信者(優婆塞)となって四国各地で修行し、延暦十四年(795)に受戒して教海から空海と改名した。
延暦二十三年(804)遣唐使に加わり5月に入唐、同年12月長安に入る。一説には2年余で全てを習得したため大同元年(806)に帰朝、暫くは大宰府に留められたが大同四年(809)に入京を許され52代嵯峨天皇と53代淳和天皇の知遇と支援の約束を得た。
天長四年(827)大僧都、天長五年(828)に綜芸種智院(庶民と学芸習得のための私立学校)を開設、高野山に隠棲して没した後の延喜二十一年(921)に弘法大師の諡号が追贈された。嵯峨天皇・橘逸勢とともに三筆の一人。全国各地には布教や修行の跡など(フィクションを含め)民間信仰が無数に残っており、崇敬者が絶えない。
久下 直光 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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は武蔵国大里郡久下郷(現在の熊谷市南部・
地図)を領有した武士で、熊谷直實の母の姉を妻にしていた関係から、早くに父を亡くして孤児となった直實を養育し所領の北部・熊谷郷の管理権を与えた。後に直光の代官として大番役に任じ上洛した直実は直光の家人として処遇される事に耐えられず、平知盛に熊谷郷を寄進し臣従してしまう。この結果、熊谷郷の所有権をめぐって直光と直実は激しい所領争いを繰り広げることとなった。治承年間からの源平合戦での直實は源頼朝の傘下に加わって勲功を挙げ、寿永元年(1182)6月5月の頼朝下文により直光は熊谷郷の押領停止を命じられ熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を与えられた(この時まで直實は所領を持たない朝夕恪勤(住み込みで米の支給を受ける下級の武士)の立場だった)。
直光はこれを納得せず、建久三年(1192)には境界争いの形で訴訟となり、同年11月には頼朝の御前で直接対決となった。口下手なため答弁に窮した直實は立会人の梶原景時が直光に加担していると思い込み、書類を打ち捨てて出家してしまった。元々の立場としては直實の側に正当性が欠けていたと推定される。ただし、この後も所有権争いは長く続き、久下氏と安芸熊谷氏は正安二年(1300)になって和解を果たしている。 直光の墓所・東竹院と直實の墓所・熊谷寺についての詳細は
こちら(サイト内リンク)で。
工藤 景光 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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治承四年(1180)12月12日の吾妻鏡に、頼朝新邸完成式典に「工藤庄司景光」の名前が載っており、系図から判断すると狩野茂光の祖父・維職の弟で甲斐に土着した景任の子孫・工藤庄司景光(陸奥の御家人か)と推定できる。富士川合戦の頃から頼朝の家臣となり、奥州藤原氏追討にも功績を挙げ陸奥の西岩手郡と棚倉(盛岡平野の大部分)を得て厨川工藤一族の祖となった。元は駿河が本領だった工藤氏も各地に広がっているんだね。
工藤 行光 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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景光の嫡男で父と共に転戦し同様に陸奥に所領を得た。地名は明確ではないが行光の所領は岩手郡33郷とされており、巌鷺山(岩手山)権現縁記には
「文治五年に泰衡を追討した後に軍功のあった武士36人に奥州54郡を与えた。この時工藤小次郎行光は頼朝から岩手郡33郷と貞任の古城を与えられ、同時に巌鷺山の阿弥陀・薬師・観音を授け大宮司に任じた、建久元年(1190)5月には家臣と共に岩手山に登って祈祷した」と伝えている。この行光は狩野茂光の三男行光と同一人物で養父が景光。同じ甲斐出身の南部氏同様に、本領よりも新領奥州で栄えているのが面白い。
工藤 祐経(一臈) 左衛門尉 久安六年(1150)前後~元久四年(1193)没 没年令 43歳前後
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幼名は金石、父は狩野祐隆の次男祐継とされるが、中伊豆の伝承では狩野祐隆が後妻の連れ子に祐継を産ませ、祐継の子が祐経だとしている。また、後妻の連れ子に産ませた子を祐継の子とした、との伝承もある。祐隆は工藤維職の嫡男で伊東祐親から見ると直系の祖父。後妻は大見家政の娘玉枝で、初めは大見の八田八郎に嫁したが死別し、娘を連れて祐隆に再嫁した。二つの伝承はどちらも、祐隆はその娘に手を出したのだ、と。
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若い頃に京に登り平家の家臣として重盛に仕えた。後に祐親と祐経は伊東庄の所有権を巡って争い、安元二年(1176)には祐親を狙った祐経の郎党が祐親の嫡男河津三郎祐泰を遠矢で殺してしまう。祐泰の遺児2人は母が再嫁した曽我祐信の所領で育ち、18年後の曽我の仇討ち事件に至る。
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寿永元年(1182)に祐親が自刃した後に伊東の領有権は祐経に移った。祐経は寿永三年(1184)前後から頼朝に仕え、京の事情に明るい御家人として重用されている。建久四年の5月28日、富士裾野での巻き狩りが行われた夜に曽我兄弟に宿舎を襲われ、同宿していた王藤内と共に殺された。所有権争いの詳細は
こちら、
仇討ち事件の詳細は
こちらで(共にサイト内リンク)。
伊東の家督は嫡子の祐時(幼名は犬房丸)が相続した。祐時は日向伊東家の祖、又は奥州に土着して工藤家の祖になったなどの説もあるが、本拠を西国に移したと推定される。
熊谷(次郎) 直實 出家後は蓮生 永治元年(1141)~建永二年(1207)没 没年令 67歳
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平国香の嫡男貞盛の子孫(平家の系図を参照)を称し、父直貞の時から大里郡熊谷郷に住んだ(領有ではなく寄寓説が有力)。直貞の経歴には諸説あるが、赤子の頃に父の盛方が罪を得て処刑され、乳母に抱かれて熊谷郷に逃げ17歳(直實が数え年2歳の頃)で没しているから居候に近い状態だったと推定される。父が早世したため伯父(母の姉の夫)の久下直光が養育し、元服後に久下郷に接する熊谷郷を与えた。伯父の代官として上京した際に周囲から直光の郎党に見られるのが不満で勝手に平知盛に仕えたため両者は断絶し、その後の熊谷郷の支配権は久下氏に移ったらしい。
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保元の乱では義朝、平治の乱では義平に従って参戦。石橋山合戦の後になって頼朝に従い、平家追討や常陸の佐竹氏追討に転戦して軍功を挙げ、熊谷郷の領有を安堵された。しかし久下氏側はこの措置を納得せず、その後も長く争論を続けることになる。
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沖の軍船に逃げようとした平敦盛を呼び戻して討ち取った逸話が平家物語の「敦盛最期」に美しく描かれているが、これは史実をベースにした軍記物の脚色と考えられる。直前には嫡子の直家が平家の矢を受け重傷を負っているため報復の意味もあり、敦盛と対峙した時点の直實に躊躇などなく、功名を挙げて恩賞を受ける欲望に満ちていただろう事は容易に想像できる。實盛が法然に帰依して出家したのは敦盛を討ってから8年が過ぎた元暦元年(1184)2月なので直接の動機だとは考えにくい。
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頑固・依怙地・単純で思い込みの激しい武士としての逸話が数多く残る。文治三年(1187)には八幡宮放生会流鏑馬で的立役を命じられ、徒歩役なのが不満で役目を拒み続け、所領の一部を公収された。また建久三年(1192)には久下直光との境界争い裁定の場で上手に主張できなかった末に憤激し、書類を投げ捨てて髻(もとどり)を切り逐電している。その翌年に家督を嫡子直家に譲って法然の弟子となり出家、蓮生を名乗った。
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以後は美作国に誕生寺・藤枝に蓮生寺・京に法然寺・粟生(兵庫)に光明寺などを建立。晩年には本領の地に庵(後の熊谷寺)を建てて念仏三昧のうちに没した、と伝わる。子孫は三河・陸奥・安芸などに広がっているが特に繁栄はしていない。久下氏と安芸熊谷氏は正安二年(1300)に和解している。久下直光の墓所・東竹院と直實の墓所・熊谷寺についての詳細は
こちら(サイト内リンク)で。
建礼門院徳子 落飾して真如覚 久寿二年(1155)~建保元年(1213)没 没年令 58歳
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父は平清盛・母は平時子。承安元年(1171)に16歳で入内し翌年には第80代高倉天皇の中宮、治承二年(1178)には第81代の安徳帝を産んだ。高倉天皇は治承三年に安徳帝に譲位し、翌治承四年(1180)に逝去している。
3年後の寿永二年(1183)7月には義仲軍を避けて平家一門と共に安徳天皇を奉じて都から西へ逃れ、更に文治元年(1185)3月の壇ノ浦合戦で安徳天皇と時子に続いて入水するが渡辺允に救出された(平家物語)。同じ平家物語の「大原御幸」や「閑居友」(鎌倉時代初期の説話集)では「入水する前に時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と命じた」としている。
同年5月に落飾して真如覚と吊乗り東山長楽寺で仏門に入り、後に鎌倉幕府から平宗盛の遺領である摂津真井の嶋屋荘(豊中市島江か)を贈られている。従って毎日の暮らしにも事欠くような境遇ではないのだが...
その後の徳子は静かな暮らしを望み、大原の寂光院で余生を送った。平家物語に拠れば、徳子の甥・資盛の恋人だった歌人の建礼門院右京大夫や時子の舅だった後白河法皇も勝林寺への参詣を表向きに何度か訪れている。平家物語は粗末な佇まいの大原寂光院で語り合う後白河と建礼門院の姿を美しい文章で描き、幕を閉じている。
勾当内侍 延慶年代?(1310頃?)~没年不詳 没年令 不詳
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御所に勤める高位の女官の官職名だが、ここでは後醍醐天皇に仕えていた女性(伝・世尊寺経尹の娘)を指す。
鎌倉幕府を倒して建武の中興の基盤を築いた恩賞として新田義貞に下賜され(義貞が従四位上に叙された元弘三年(1333)頃か)、義貞が足利尊氏に追われて北陸へ落ちる延元元年(1336)までの3年間を共に過ごしたと伝わる。
義貞の深い寵愛を受けたが、太平記には同年の2月に京都の合戦で敗れた尊氏が九州へ逃げる際に、内司との別れを惜しんだ義貞が追撃の機会を逸したため、結果として義貞滅亡の遠因を作った女性として描かれている。
義貞戦死を知って琵琶湖畔の今堅田で入水自殺した、京都嵯峨野の庵に住んで義貞の菩提を弔った、義貞の首を盗んで新田に葬った、などと伝わっている。太平記以外には彼女に関する記載が皆無に近いため、存在自体をフィクションと考える説もある。
今堅田の野神神社に残る勾当内侍の墓は
こちら、新田荘に残る墓所は
こちらの中段に記載した。
河野 通信 保元元年(1156)~貞応元年(1223)没 没年令 68歳
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河野通清の子で伊予水軍の棟梁。妻は北條時政の娘、二男の通広(別府姓、出家して如仏)が時宗(じしゅう)の開祖一遍上人の父。頼朝挙兵に呼応し挙兵した父に従って平家目代を討ち伊予を支配下に置いた。翌・治承五年(1181)には平家方の田口成良と奴可西寂に攻められ、高縄山城(愛媛県北条市)で父の通清は討ち死に、通信は脱出して更に抵抗を続けた。
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文治元年(1185)2月には義経の平家追討軍に軍船を率いて屋島合戦に合流し、更に壇ノ浦合戦で功績を挙げ伊予国で強い権限を得た。文治五年(1189)には奥州藤原氏討伐にも従軍している。
承久の乱(1221)では後鳥羽上皇側として幕府軍と戦い、上皇側が敗北すると伊予へ逃げて再び高縄山城で篭城するが翌年に降伏。嫡子の通政は斬首され、通信は多くの功績に免じて陸奥国江刺に流罪となり2年後に没した。墓所は北上市の水越にあり、一遍上人の行脚を描いた絵巻に祖父の墓で供養を行う様子が描かれているのが手掛かりとなって発見された。詳細は
北上市のサイトで。
後白河法皇 大治二年(1127)~建久三年(1192)没 没年令 65歳
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鳥羽天皇の第四皇子で第77代天皇。在位は久寿ニ年(1155)~保元三年(1158)9月5日。久寿ニ年に近衛天皇を継ぎ、立太子しないまま即位した。この即位には崇徳上皇系の皇族の継承権を否定し二条天皇への中継役をさせたい鳥羽法皇と関白藤原忠通の意向があり、資質の優れた守仁親王(鳥羽天皇の第一皇子で後の二条天皇)が幼少だったため、やむを得ず取った措置と思われる。
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久寿三年に鳥羽上皇が死んで保元の乱が勃発し、後白河天皇・平清盛・源義朝の側が崇徳上皇・源為義・源頼賢・源為朝側を駆逐。その後の平治の乱で平家が勢力を伸ばし後白河の院政は停止されたが、各地の源氏が蜂起すると院宣を下してこれを支援、平家 → 義仲 → 義経 → 頼朝と、武家の力を利用しつつ邪魔になると切り捨てて権力を維持した。保元三年に二条天皇に譲位した以後は二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代の天皇に亘って院政を行ったことになる。頼朝の征夷大将軍と九条兼実の関白就任を拒み続けて建久三年(1192)に死去、頼朝には「日本国第一の大天狗」と評された。
覲子内親王 (宣陽門院) 養和元年(1181)~建長四年(1252)没 没年令 71歳
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後白河天皇の第六皇女で生母は高階栄子(丹後局)。建久三年(1192)1月には後白河院(同年3月崩御)から長講堂領などの膨大な所領を譲与された。権力に拘泥して毀誉褒貶を繰り返した母を反面教師にしたのだろうか、結婚もせず権力にも関与せず元久二年(1205)に25歳の若さで出家、空海が真言密教の道場とした東寺に帰依し、信仰の世界で生涯を送ったらしい。
後鳥羽天皇の皇子雅成親王を養子とし、関白近衛家実の娘長子(鷹司院)を養女として後堀河天皇に入内させている。承久の乱で没収された長講堂領は翌年に返還を受け、死没直前に分割して上西門院領を幼女の良子に、他の長講堂領は後深草天皇に譲渡された。
後鳥羽天皇(上皇) 治承四年(1180)~延応元年(1239)没 没年令 60歳
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80代高倉天皇の第四皇子で第82代の天皇(生母は坊門信隆の娘殖子・後の七条院)、81代安徳天皇(生母は清盛の娘殖子・後の建礼門院院)の異母弟。在位は寿永二年(1183)8月20日~建久九年(1198)1月11日。寿永二年(1183)10月に安徳天皇を奉じた平家の都落ちによって帝が不在となり、状況の打開に苦慮した後白河法皇が決裁し、先帝の退位も着位に必要な神器もないままに満三歳で帝となった。
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後白河は学者に諮問した中から都合の良い部分を選んで辻褄を合わせたが、この経緯は安倍総理が横畠内閣法制局長官に憲法解釈を変更する根拠を捻出させた例に良く似ており、「権力を掌握した政治家の卑しさは平安時代並み」と考えると苦笑を禁じえない。歴史に汚名を残すのを恐れない蛮勇か。
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ただし正当な着位の手順を踏まなかった事が後鳥羽のコンプレックスとして長く尾を引き、強引な政治手法や承久の乱(1221)を引き起こす遠因になったと考える説はそれなりの説得力を持っている。壇ノ浦合戦から32年後の建暦二年(1212)
になって検非違使の藤原秀能に宝剣の捜索を命じているのも面白い。
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建久七年(1196)11月には関白の九条兼実を排除、建久九年(1198)に土御門天皇に譲位して院政の強化に着手した。兼実排除に協力して権力を掌握した土御門通親は建仁二年(1202)に死没、通親の協力者だった丹後局も朝廷から去り頼朝も既に没している。ブレーキ役がいなくなった後鳥羽は独裁の傾向をさらに強め、承久四年(1221)に情勢判断の甘さから義時追討の院宣を下し鎌倉幕府打倒に失敗(承久の乱)。多くの有能な人材を死なせる結果となった。隠岐に流されて18年後に没している。
後醍醐天皇 正応元年(1288)~暦応ニ年(1339)没 没年令 51歳
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後宇多天皇の第二皇子で第96代の天皇、懐良親王の父。在位は文保ニ年(1318)~正慶元年(1332)だが、その後に復権した。徳治三年(1308)に皇太子となり、文保二年(1318)に即位。後宇多院政の後に元亨元年(1321)から天皇親政となった。
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鎌倉幕府から政権の奪取を企て、正中元年(1324)の正中の変や元弘元年~元弘三年(1331~1333)の元弘の変を経て、足利尊氏・新田義貞らの協力で鎌倉幕府を滅ぼした。元弘元年(1331)9月の笠置山合戦で幕府軍に敗れて隠岐に流されにも関わらず翌年隠岐を脱出して逆転勝利したのだから、ここまでは幸運に恵まれたのだが...。
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倒幕後に建武の中興を行ったが専制が原因で失敗して離反者が続き、最終的には足利尊氏と対立して吉野に南朝を樹立し、多くの将兵を失って病没した。実務能力に欠けていたのに専制を目指し帝位に拘泥した結果が皇統の分裂と長い争乱をもたらした。
御所五郎丸 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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京都で生まれ比叡山で育った、と伝わる。その後一條忠頼(武田信義の嫡男)に仕え、忠頼が鎌倉で暗殺された後は小舎人童(こどねりわらわ・武家に仕え雑用に従事する少年)として頼朝の近くで働いた。
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吾妻鏡の建久四年(1193)5月28日条は
「(工藤祐経を殺した後に)頼朝の狩宿に踏み込んだ曽我五郎時致を小舎人童の五郎丸が組み付いて捕らえた」と記録している。伝承などに拠れば五郎丸は75人力の強者だったが女人の薄衣を羽織って五郎を油断させたため、事件後に武士らしくない振る舞いだと咎められ、鎌倉を追われて甲斐国八田村(現在の南アルプス市)の野牛島に住み着き生涯を送ったと伝わる(但し吾妻鏡などには鎌倉を追われた記録はなく、フィクションの可能性が高い)。同所の諏訪神社近くにひっそりと
墓石(サイト内リンク)が残る。
後藤 基清 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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尊卑分脈は実父が藤原秀郷流の佐藤義清(西行)の兄弟である佐藤仲清で、後藤実基の養子になった、としている。源平合戦の初期から頼朝に仕え、義経に従って元暦二年(1185)の屋島合戦に参加した。同年の京都凱旋の際に頼朝の許しを得ず任官し、吾妻鏡の元暦二年4月15日には頼朝に
鼠目で、ただ従っているだけの奴が任官など飛んでもない と罵倒されているが、建久元年(1190)の頼朝上洛には右近衛大将拝賀に従う七人の御家人に選ばれて供奉をしている。
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京都守護に任じた一條能保の家人を兼ねた在京御家人として活躍したが正治元年(1199)の三左衛門事件で源通親への襲撃を企てた嫌疑で讃岐国守護を解任され、後鳥羽上皇との関係を深め西面武士・検非違使に、建保年間(1213~ 1219)には播磨国守護に復帰した。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇方に味方して敗北し、幕府方として参戦した嫡子基綱に処刑された。
近衛 基通 不詳~承久三年(1221) 没年令 不詳
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異母弟の松殿基房を継いで摂関に任じた公卿。清盛の六女完子を正室に迎え、更に後白河法皇の後援も受けて安徳天皇の摂政を務めたが、関白としての評価は高くなかった。平家との関係が深かったにも拘らず平家を見限り、寿永二年(1183)の平家都落ちには同行を拒んだ。更に後白河の側近に任じて後鳥羽天皇の擁立にも貢献した。
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義仲失脚後は平家と密着していた関係に加え、文治二年(1186)に頼朝追討の院宣を義経に与えた仲介者とされて失脚した。基通と不仲だった叔父の九条兼実が後任摂政に任じたが彼もまた朝廷内の勢力争いに勝ち残れず、最終的には頼朝にも見限られて建久七年(1196)に失脚、基通は再び関白に返り咲いて土御門天皇の摂政を務めた。九条(藤原)兼実は日記「玉葉」で「後白河の男色相手として出世した」と評し、慈円は愚管抄で「能力の乏しい人物」と評している。
小山 政光 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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藤原秀郷の直系子孫を称する太田行政の子で弟に下河辺行義がいる。嫡子が小山朝政、次男が長沼宗政、後妻・寒河尼(頼朝乳母の一人)の産んだ三男が結城氏の祖となった朝光。下野国府の周辺に広大な所領を持ち、宇都宮氏・源姓足利氏と並ぶ強力な武士団を組織していた。頼朝挙兵の際は政光と嫡男朝政は大番役で在京していたが寒河尼は朝光を連れて下総から墨田まで進出した頼朝の宿舎を訪ね、頼朝は朝光の烏帽子親となって一族を味方とした。三兄弟はその後も頼朝に臣従し、野木宮合戦で志田義広と足利忠綱(籘姓)の連合軍を破り、幕府の安定に貢献すると共に籘姓足利氏の領地を侵食している。
小山 朝政 仁平四年頃(1154頃?)~嘉禎四年(1238) 没年令 85歳前後
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武蔵国の在庁官人で小山政光の嫡男で長沼宗政の同母兄、結城朝光の異母兄。吾妻鏡は藤原秀郷の子孫としているが、小山氏系譜では武蔵国の太田氏の系統が下野国小山に移って小山政光を名乗った、としている。吾妻鏡の治承四年(1180)10月2日には頼朝の乳母だった政光の妻が息子を伴い隅田川の頼朝宿舎を訪れて昔話を楽しみ、頼朝は息子の烏帽子親になり朝光と名付けて召し抱えた、との記事がある。
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同様に藤原秀郷の子孫を称して所領を接していた藤姓足利氏との主導権争いもあって、小山一族は比較的は早くから頼朝に与する姿勢を明らかにしていた。吾妻鏡は寿永二年(1183)の2月に鎌倉攻撃の兵を挙げた志太義廣と野木宮で合戦し、鎌倉から駆けつけた弟宗政らの応援を得て敗走させて功績を挙げた。
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その後の小山氏は興亡を繰り返し、天正三年(1575)に小田原北条氏の侵攻を受けて本拠の祇園城(小山城)が陥落、400年続いた名門の幕を閉じた。
小山(長沼) 宗政 応保二年頃(1162)~仁治元年(1241) 没年令 79歳前後
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小山政光の二男で朝政の同母弟、結城朝光(生母は寒川尼)の異母兄。父から長沼荘(真岡市南西部の鬼怒川東岸・
地図)を相続して長沼氏の祖となった。
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頼朝挙兵後は兄朝政と共に野木宮合戦・平家追討・奥州藤原氏追討を転戦し信濃国善光寺地頭職→美濃国大榑荘地頭職などを転任、その後も比企の乱→畠山重忠追討→承久の乱などを戦って摂津国守護→淡路国守・守護に任じた。寛喜二年(1230)の隠居に伴って嫡子の長沼時宗に遺した所領は本領の長沼荘と下野国御厨別当職・淡路国守護職の他に武蔵・陸奥・美濃・美作・備後などに点在する膨大なものだったと伝わる。吾妻鏡に拠れば頻繁に問題発言を繰り返す気の荒い人物で、建保元年(1213)には「当代の本業は蹴鞠で、武芸は廃れている。主は女性、武士などいないようだ」と実朝を批判し、出仕停止の措置を受けている。
金王丸 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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義朝に仕えた郎党だが、後の土佐坊昌俊と同一人物説がある。資料の裏付けが皆無なのでこの稿では別人として記載した。
金王丸に関しては確認できるのが軍記物と伝承だけで出自も明確ではない。辛うじて「平治物語」が描いた部分だけが多少は信頼できる、のかも。
下記は細かい部分を省いた意訳。最後の「出家して云々」から土佐坊昌俊の話が生まれたのだろう。もちろん、真実の可能性も皆無とは言えない。
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【義朝の野間下向のこと 忠致の心変りのこと】 平治二年(1160)1月3日
長田忠致の命令を受けた弥七兵衛・浜田三郎・橘七五郎が湯殿に入った義朝の隙を窺ったが、金王丸が太刀を持って垢摺りに入ったため手が出せない。暫くして金王丸が「衣服を差し上げろ」と言ったのに応える者が誰もおらず、腹を立てた金王丸が出て行ったのと擦れ違いに三人が走り込み、剛力の橘が義朝を組み伏せ残る二人が左右から二度づつ刺した。さすがに勇猛な義朝も「鎌田は、金王丸はいないか...」と、言いつつ絶命した。戻ってきた金王丸は「おのれ、一人も逃がすものか」と三人を斬り倒した。 ~中略~
(義朝主従を道案内した)幻光房※と金王丸は多くの敵を斬り伏せたが頑丈な部屋に逃げ込んだ長田親子を討てないため厩から馬を奪い、幻光房は(本領の)鷲栖(湖西市新居)へ、金王丸は都へと去って行った。
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【金王丸が尾張から駆け上ること】 平治二年(1160)1月5日
早朝、義朝の郎党金王丸が常磐(義朝の愛妾・義経の母)の元に馬で駆けつけ、暫く涙を流してから「去る3日の朝、尾張国野間で長田四郎忠致に討たれました」と報告した。 ~中略~ 朝長様も死に毛利義隆さまも討たれ、義平様も頼朝様も捕らえられたと思います。幼子たちの行く末も頼りないし、この上は出家して亡き方々の菩提を弔います」と言い置いて走り出た。ある寺で出家し諸国で修行しつつ義朝の後生を弔った、と伝わっている。(書物により、「出家して土佐坊昌俊と名乗った」と)
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※幻光(源光)房:吾妻鏡の建久元年(1190)10月29日(頼朝上洛の途中)の条に次の記載がある。
青波賀の驛で長者大炊(延寿)の娘らを召して引出物を与えた。故為義が東国と京を行き来する度に寵愛する大炊の元に止宿した縁を重んじたためである。また、故為義の最後の妾(乙若以下四人の幼子の母で、大炊の姉)も、保元の乱で死んだ長子の内記平太政遠も、四人の子(13歳の乙若・11歳の亀若・9歳の鶴若・7歳の天王)も、義朝の命令で波多野義通に斬首された。
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平三真遠(平治の乱に敗れた義朝を野間に送り、その後出家して鷲栖禅師光、と)を含む四人(つまり、為義の妾・平太政遠・大炊・平三真遠)は内記大夫行遠の子女で、兄弟姉妹である。
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大炊一族と源氏の関連を表示する系図は
こちら(サイト内リンク)で。岐阜県養老町に鷲巣の地名があり、鷲巣幻光が義朝を柴舟に乗せて野間へ逃げたとの伝承がある。鷲巣は青墓の南14kmだから真遠の本拠と考えて良いだろう。牧田川から揖斐川に下れば真っ直ぐ50kmで伊勢湾、義朝の逃走ルートに合致する。
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【渋谷の金王八幡宮(公式サイト)の社伝を添付する】
渋谷金王丸常光は渋谷平三家重の子で永治元年(1141)8月15日生まれ。重家に子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かった。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付ける。金王丸は17歳の時、源義朝に従い、保元の乱(1156)で大功を立てその勇名を轟かせたが、続く平治の乱(1159)で義朝は敗れ......という事になっている。
渋谷を名乗った最初の人物は重国、祖父の基家と父の重家は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)を本領として河崎を名乗り、重国は応保年間(1161~1162)に渋谷庄司に任じて渋谷を称しているから保元の乱云々は年代が合致しないし「重家に子がなく云々」も条件が合わず、重国と同世代の親族にも重家の名は見当たらない。
西園寺公経 承安元年(1171)~寛元二年(1244) 没年令73歳
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父は藤原北家閑院流の正二位内大臣の藤原実宗、北山に立てた西園寺(北山殿・後の金閣寺の地)に因み、西園寺家の実質的な祖とされる。
鎌倉四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・鎌倉五代将軍藤原頼嗣の曾祖父という、実に錚々(そうそう)たる肩書きを持ち、朝廷の政治を操って従一位太政大臣まで昇叙した。
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正室は頼朝の姉妹である坊門姫と一條能保の間に産まれた全子であり、更に頼朝の厚遇を受けた平頼盛の曾孫でもあったため鎌倉幕府と近い距離を保ち、三代将軍実朝の暗殺後は外孫の頼経を後継として下向させる中心人物となった。また1221年の承久の乱では後鳥羽上皇によって幽閉されるが、朝廷の情報を内通して幕府の勝利に貢献している。乱の後はさらに鎌倉との連携を深め、更に関東申次(六波羅探題に相対する朝廷側の窓口)を西園寺家の世襲とし、朝廷の人事を思うままに操って生涯を送った。幕府に追従して権力掌握と保身を最優先にした人物・奸臣と評されることが多い。
斎藤別当 実盛 天永二年(1111)~寿永二年(1183) 没年令73歳
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越前国南井郷(鯖江市南井町)の河合則盛の子で後に武蔵国幡羅郡長井荘(現在の熊谷一帯)の庄司・斎藤実直の養子となり、同所を本拠とした武士。実直の父・実遠の頃から源氏と主従関係にあり、實盛も相模国を地盤にしていた義朝に従っていたが、後に地理的に近い武蔵大蔵の義賢側に出入りするようになる。義賢の存在を危険視した義朝は長男・義平に命じて義賢を殺し(1155)、実盛も義朝に服属したが、義賢の旧恩に報いるため義賢次男の駒王丸(後の義仲)の助命に尽力し、信濃国木曽の中原兼遠に送り届けた。
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保元の乱(1156年)では義朝に従って為朝側の悪七別当を討つなどの功績を挙げたが平治の乱では義朝が敗死、長井荘に戻った實朝は新たに領主となった平宗盛に荘園管理の実績を高く評価され、継続して別当職に任じ有能な荘官として名を馳せた。この後は頼朝が挙兵する治承四年(1180)までの20年、長井荘で充実した日々を過ごしていた。
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治承四年の10月、平惟盛・忠度らが指揮する頼朝追討軍に加わり富士川合戦で敗走、寿永二年(1183)には平家の武将として北陸の義仲軍と戦い、生まれ故郷に近い篠原(加賀市)で宗盛拝領の赤地錦の直垂を着用、老いた武者と侮られぬよう白髪を黒く染めて奮戦し義仲の臣・手塚光盛に討たれた。義仲は命の恩人を殺したのを深く嘆き、実盛の兜・鎧・大袖などを小松の
多太神社(公式サイト)に奉納して供養と共に戦勝を祈願した、と伝わる。
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500年後の元禄二年(1689)、「おくのほそ道」を辿った芭蕉は次のように書き、有名な一句を詠んでいる。
此所、太田(多太)の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給(賜)はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から(唐)草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真(実)盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、此社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使せし事共まのあたり縁起にみえたり。 むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす
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庄司だった埼玉県妻沼には治承三年(1179)に実盛が開いた
妻沼聖天宮(公式サイト)、鯖江市南井町に実盛の墓と伝わる五輪塔や手植えの柊が残り、一族の末裔も住んでいる、らしい。その他、
斎藤實盛と長井荘、外伝として...息子の五郎と六郎が遺髪を葬ったと伝わる伊豆山別院の
密厳院跡、若い日の頼朝が
伊東祐親の娘に産ませた千鶴丸を斎藤兄弟が奥州に逃がした伝承が残る伊東の
弘誓寺、平家物語が書き遺した惟盛の嫡子六代と兄弟の接点を物語る
伝・惟盛の墓と六代松を参照されたし。
最澄(伝教大師) 神護景雲元年・異説あり(767)~弘仁十三年(822) 没年令 54歳
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天台宗の開祖。大津で産まれ、12歳で近江国分寺(甲賀市の紫香楽宮跡。大津市説あり)に入り14歳で最澄と改名した。19歳で東大寺の戒を受けて修行を続けて35歳で遣唐使の短期留学生に任じて空海と共に入唐した。弘仁三年(812)に47歳で空海に帰依したが、翌年に宗教上の見解差から交流を絶っている。7歳年上の空海とは同じ天台宗(空海は後に真言密教を確立)概ね同じ時代を生きたため影の薄さは否めない。
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弘仁九年(818)に山家学生式を定め、天台宗の得度定員に入った者は比叡山で戒を受けて菩薩僧となり12年間の山中修行を続けることを義務付けた。貞観八年(822)に清和天皇が日本初の大師号を遺贈した。
西行法師 元永元年(1118)~文治六年(1190) 没年令 72歳
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出家する前の俗名は佐藤義清、藤原秀郷から九代目に当たり、代々衛府に仕える裕福な家計の武士で保延三年(1137)には鳥羽院の北面武士に任じていた記録が残っている。保延六年(1140)に23歳で出家し、諸国を巡る漂泊の旅を重ね各地に草庵を構えて多くの和歌を残した。
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出家の直後は鞍馬山など京都の北部に棲み、天養元年(1144)前後の陸奥を経て久安四年(1149)前後には高野山へ、仁安三年(1168)には中国から四国の旅を続け、弘法大師空海の遺蹟を辿っている。その後は再び高野山に戻り治承元年(1177)には伊勢二見ヶ浦に移り、文治二年(1186)には東大寺再建の勧進願うため二度目の奥州下りの旅に出発、途中の鎌倉に立ち寄り、8月15日の吾妻鏡には頼朝と長時間語り合ったとの記載が残っている。
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伊勢国に戻った後は河内国の
弘川寺(河南町のサイト)に移り、建久元年(1190)2月16日に没した。家集(個人の歌集)に載っている
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ の願い通りだった事から多くの感動と共感を呼び名声を博した、と伝わる(山家集は西行50歳の頃の編纂らしい)。良寛や芭蕉や、その他多くの漂白詩人の先駆者、だね。
坂上 田村麻呂 天平宝字二年(758)~弘仁二年(811) 没年令 54歳前後
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奈良時代末期には陸奥征朊を狙う朝廷軍と陸奥の土着民蝦夷の争いが激化しており、延暦八年(789)には征東将軍の紀古佐美が阿弖流為(アテルイ)の指揮する蝦夷軍に大敗するなど戦況は悪化していた。
田村麻呂は延暦十二年(793)から更に本格化した蝦夷との戦いで征夷大将軍大伴弟麻呂の副将として功績を挙げ、延暦十六年(797)征夷大将軍に着任。延暦二十一年(802)に
胆沢城(現在の奥州市)を築いて拠点とし、阿弖流為と腹心の母礼(モレ)を降伏させて京に連行、蝦夷との戦いを終結させた。田村麻呂は二人の赦免を願ったが、朝廷は「野性獣心、反復して定まりなし」として斬首に処した。
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延暦22年(803)には更に
志波城(岩手県盛岡市)を築いて更に蝦夷支配を強化したが延暦23年(804)には第三次の征討軍派遣が中止され、田村麻呂は参議→中納言→大納言→右近衛大将と順調に昇進、この頃に寺地を下賜された
清水寺を中興した、と伝わる。
弘仁元年(810)に平城上皇と嵯峨天皇が対立した
薬子の変では嵯峨天皇側として政権の安定に寄与した。墓所は京都山科の
西野山古墳とされている。
佐々木 秀義(秀能) 天永三年(1112)~元暦元年(1184) 没年令 72歳
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蒲生と神崎を本拠として近江に勢力を持った古代豪族・狭々城山君(孝元天皇の皇子大毘古神の子孫。沙沙貴山君とも)の子孫を称する宇多源氏の系が近江に土着して近江源氏となり、蒲生郡佐々木荘を領有して佐々木を名乗った。秀義は源為義の娘を妻とし、伯母が奥州の藤原秀衡に嫁いだほどの実力者だった。
保元の乱(保元元年・1156)では義朝の元で勝利したが、義平に従って戦った平治の乱で敗戦、所領を失ったため義理の叔父にあたる秀衡を頼って奥州へと落ちる途中の相模で渋谷重国(桓武平氏・秩父氏の支族)の婿となり定住。渋谷で生れた末子の義清と大庭景親軍に加わって平家に味方する体裁を整え、定綱・経高・盛綱・高綱の四兄弟を頼朝挙兵に参加させた功績で本領の佐々木荘を回復した。元暦元年(1184)に勃発した三日平氏の乱では末子の義清と共に鎮圧軍として派遣され甲賀上野で戦死、近江権守を遺贈された。
佐々木 定綱 康治元年(1142)~元久二年(1205) 没年令 63歳
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秀義の長男で嫡子、母は源為義の娘。治承四年の韮山挙兵から頼朝に従った歴戦の臣で、兼隆討伐の時は弟の経高や高綱と共に兼隆の後見である信遠を討ち取った。10月20日の富士川合戦で平家軍を敗走させ、23日には功績により父秀義と共に旧領の近江佐々木荘を安堵された。建久二年(1191)に年貢と水利権を巡って延暦寺と争い罪を得て薩摩に流されるが、翌年赦免され幕府の重臣として復権。実朝が三代将軍を継承した翌年に病没し鎌倉西山(湘南町屋付近か)に葬られた。
佐々木 経高 康治四年?(1145?)~承久三年(1221) 没年令 77歳前後
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定綱の次弟で秀義の二男、母は源為義の娘。韮山挙兵から兄弟と共に頼朝に従った歴戦の臣。幕府の樹立後は淡路・阿波・土佐三ヶ国の守護職を務めた。元々佐々木氏は朝廷との関係が深く承久の乱(承久三年・1221)では後鳥羽上皇側に加わって敗れ自害した。嫡男の高重も討死、阿波の鳥坂城を守っていた二男の高兼も、新たな阿波守に任じた小笠原長清に追い詰められて自殺した。
佐々木 盛綱 仁平元年(1151)~承久三年?(1216?) 没年令 65歳前後
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経高の次弟で秀義の三男、母は同様に源為義の娘。韮山挙兵当時から兄弟と共に頼朝に従った歴戦の臣。富士川合戦・常陸国府での佐竹秀義との合戦・備前国児島での平行盛との藤戸合戦などに従軍、頼朝没後は出家したが越後の城資盛の乱や平賀朝雅追討などに参加し、大過なく御家人の務めを果たした。死没の経緯は不明だが、所領だった群馬県安中市磯部の松岸寺には盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔が残り、倉敷市にも盛綱のものとされる墓が残っている。
佐々木 高綱 栄暦元年(1160)~健保二年(1214) 没年令 54歳
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盛綱の次弟で秀義の四男、母は同様に源為義の娘。韮山挙兵から兄弟と共に頼朝に従った歴戦の臣。義経に従って参戦した義仲追討の宇治川合戦で頼朝が与えた名馬・池月に跨り、同じく頼朝の与えた名馬・磨墨に跨った梶原景季と先陣を争った逸話(平家物語や源平盛衰記)で名高い。戦功により備前、安芸、周防などの守護となった。後の建久六年(1195)に家督を嫡子の重綱に譲り高野山で出家(恩賞が少ないのを怒って出家の説あり)、西入と名乗った。10年後に信州の松本で死去したと伝わり、高綱建立と伝わる大宝山専修院正行寺の近くに墓が残る。
ちなみに名馬・池月(或いは生月、生食)は沼津に近い函南の野生馬「円通寺の暴れ馬」だったとも、宮城県玉造郡岩出山町の産だったとも伝わる。函南の旧家である川口家には池月のものと伝わる轡(くつわ)が保存されている。相手構わず噛み付く野生馬だったため「生咬」の名だった、とも。
佐々木 義清 平治三年頃?(1162頃?)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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高綱の弟で秀義の五男、母は渋谷重国の娘。大庭景親の娘を妻とし、石橋山の合戦では父と共に平家側として参戦、黄瀬川の陣に至って頼朝の元に参じた。以後は伊勢平氏の乱(元暦元年・1184)や奥州藤原氏追討(文治五年・1189)を転戦し有力御家人として重用され隠岐守に補任、子孫は山陰の各地に領地を得て
出雲源氏の祖となった。
佐竹 隆義 元永元年(1118)~寿永二年(1183) 没年令 65歳
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佐竹氏の初代当主昌義(源義光の孫)の嫡子で二代当主、母は藤原清衡の娘。頼朝挙兵の時は在京しており、嫡子(二男)の秀義・庶長子の義政が常陸国最大の平家与党として金砂城に籠城したが陥落した。隆義はその後も散発的な抵抗を続けたらしい。
佐竹 秀義 仁平元年(1151)~嘉禄元年(1226) 没年令 75歳
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佐竹氏の二代当主隆義の二男で嫡子。佐竹一族は源義光の子孫ではあるが平家との縁が深く、更に千葉・上総とも所領を争っていたため頼朝の挙兵に参加せず、富士川合戦の後に攻められ金砂城(常陸太田市)が落とされ逃亡した。後に許されて頼朝の御家人に加わり、一族が承久の乱などで功績を挙げた。相馬御厨の支配権を巡って千葉氏・上総氏・佐竹氏は長年争っており、これが遠因となって上総廣常は富士川合戦後に京への進軍より佐竹討伐の優先を進言している。
佐渡(源) 重成 不詳(不詳)~文暦二年(1234) 没年令 不詳
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清和源氏満政流の武士で父は義朝の側近を務めた美濃源氏の八島(源)重実、本領は美濃国八島郷(大垣市八島町)。京武者(京に常駐)として久安三年(1147)の延暦寺衆徒の鎮圧に参加、保元の乱(1156)では後白河天皇方として第二陣の頼政らと共に戦って勝利に貢献、平治の乱(1159)では義朝に与して敗戦した。「平治物語」に拠れば、義朝と共に少人数で※で東国へ逃げる途中の美濃青墓で宿の武士2~300人に襲われ矢戦の末に義朝と名乗り、顔の皮を剥いでから自刃した、と伝わる。これによって義朝は取り敢えずの危機を逃れ、知多の野間へと落ち延びた。
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※少人数で:長男義平は青墓から飛騨へ落ち、次男朝長は青墓で死亡、三男頼朝は途中で脱落、源義隆(陸奥六郎)と佐渡(源)重成は戦死した。
斎藤實盛と平賀義信は分散し、生き残って野間に辿り着いたのは義朝・鎌田政清・渋谷金王丸・途中で合流した玄光法師の4人。
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9月3日の南御堂での義朝の遺骨埋葬には義信と嫡男の大内惟義・義隆の三男頼隆の三人が立会を許されている。吾妻鏡 11月20日の条には「京都を出た義経と行家らは大物浦から出航したが暴風で難破したらしい。八島冠者時清(重成の四男)が帰京して義経も行家も生存、と報告した《と書いている。時清が義経の郎党なのか追手側なのかは判然としないが、深い縁があるにも拘らず南御堂の義朝紊骨に立ち会っていない事を考慮すると義経の側だったかも知れない。
佐藤(信夫庄司) 基治 永久元年(1113?)~文治五年(1189?) 没年令 76歳前後
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奥州信夫郡(福島市北部の飯坂地区周辺)を領有し
大鳥城(サイト内リンク)に本拠を置いた武将で通称は信夫庄司または湯の庄司。男子は正室との間に前信と治清・継室の乙和子姫(藤原清綱(基衡の弟)の娘)との間に継信と忠信、長女の藤の江を秀衡三男の忠衡室として奥州藤原氏との関係を強化した。佐藤一族と義経の強い関係は、基治の二女・浪の戸が平泉時代の義経側室だったため、と考える説もあるが、この確証はない。
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文治五年(1189)8月の奥州合戦では奥大道(奥州街道)の石那坂(飯坂の南)に布陣して敗北(合戦は大鳥城と考える説もある)、8日の吾妻鏡は
「伊佐為宗(頼朝の妾で貞暁を産んだ大進局の兄)が兄弟と共に佐藤庄司らを討ち取り、主な者18人の首を阿津賀志山の経岡に晒した」と書いているが、同年10月2日の条には
「捕虜になっていた佐藤庄司・名取郡司・熊野別当らが許され、それぞれ本処に帰った」とあり、正確な没年は確認できない。吾妻鏡の阿津賀志山合戦の条には地名などの錯誤も多く、どこまで信頼を置けるかは疑問である。
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奥州合戦の直前には秀衡の跡を継いだ泰衡が義経と忠衡を殺しており、更に泰衡は信夫荘を見捨てる形で14km北の
阿津賀志山(厚樫山・サイト内リンク)に防衛線を築いたため基治は本隊と別行動を取り、飯坂の南15km南での
石那坂合戦(サイト内リンク)、または大鳥城での決戦を選んだ、と推定される。
廟所は飯坂の
医王寺にあり、佐藤一族と乙和子姫・義経、そして500年後に奥の細道を旅した芭蕉の記録など多くの物語に彩られている。
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白河の関近くには治承四年(1180)に義経と継信・忠信兄弟を見送った基治の杖が根付いた
庄司戻しの桜(共にサイト内リンク)がある。
佐藤 継信 保元三年(1158?)~元暦二年(1185) 没年令 27歳前後
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治承四年(1180)に鎌倉の頼朝と合流するため平泉を発った義経に秀衡が付き添わせた信夫庄司基治の三男で、忠信の兄。義経郎党として義仲追討・一の谷・屋島を転戦し、元暦二年(1185)2月19日の
屋島合戦で平家側の越中盛継・上総忠光らと戦い矢を受けて没した。深く悲しんだ義経は後白河院拝領の名馬を僧に与え、菩提を弔うよう依頼したと伝わる。
佐藤 忠信 応保元年(1161?)~文治二年(1186) 没年令 25歳前後
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治承四年(1180)に鎌倉の頼朝と合流するため平泉を発った義経に秀衡が付き添わせた信夫庄司基治の四男で、継信の弟。義経郎党として義仲追討・一ノ谷・屋島・壇ノ浦を転戦し、平家滅亡後の元暦二年(1185)には兵衛尉に任官して「秀衡の郎党風情が衛府に任じるなど...」と頼朝に罵倒された。その後も土佐坊による堀河夜討ちなどを経て義経の都落ちに同行し、大物浦の難破後に宇治で分散して都に潜伏、文治二年(1185)11月に潜伏先を御家人の糟屋有季らに襲撃され、郎党二人と共に自害した。
里見 義成 保元二年(1157)~文暦二年(1234) 没年令 78歳
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新田義重の庶子(長子)で里見氏の祖となった里見義俊の嫡男。上野国碓氷郡里見郷(現在の高崎市西部、中里見一帯)を領有した。頼朝挙兵当初の義重は独自路線を選んで頼朝と距離を置いたが、平家に従って在京していた義成は「頼朝を討つ」と偽って鎌倉へ馳せ参じた(治承四年(1180)12月22日の条)。その後の新田一族は冷遇されたが義成は幕府の樹立後も頼朝に重用され、その没後は二代将軍頼家・三代将軍実朝にも仕えている。地頭に任じた土地の一つ阿志土郷(小山市網戸)から網戸尼とも称された
佐貫 広綱 不詳(1157)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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藤姓足利氏の武士で上野国佐貫荘(現在の館林市一帯を本領とした。当初は本家筋の足利忠綱(藤姓)に従って以仁王と頼政の追討軍に加わったが後に頼朝御家人となり、範頼に従って平家追討に従軍した。力の強い武士として知られている。
佐野 基綱 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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藤姓足利氏の棟梁俊綱の弟有綱の嫡男。足利の東・佐野に土着して佐野太郎を名乗り、佐野氏の祖となる。本家である俊綱と忠綱父子は志太義廣に従って鎌倉に対抗し野木宮合戦で滅亡したが、有綱と基綱父子は早くから頼朝に従い、その後も転戦して御家人の地位を保った。奥州藤原氏討伐・承久の乱にも出兵し功績を挙げて淡路国にも所領を得た、と伝わる。栃木県佐野市地域に志水義高(義仲の子)生存伝説があるのは義仲の庇護を受けた志太義廣を介した俊綱親子の縁から派生したらしい。
寒河尼 保延三(1137)~安貞二年(1228) 没年令 91歳
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北関東の雄・八田宗綱の娘として京都で生まれ近衛天皇に仕えた経歴を持つ。頼朝の乳母の一人であり、小山政光の後妻として小山朝光を生んでいる。頼朝挙兵の際は政光と嫡子の朝政(当時22歳)が大番役で在京していたため当主の代理として一族を束ね、14歳の朝光を伴って頼朝の元に参上した。朝光はこの時に頼朝を烏帽子親として元服し、翌々日には秩父平氏を束ねる畠山重忠も合流している。
下野の小山一族と武蔵の秩父平氏の合流によって頼朝の関東制覇は確実となり、寒河尼はその意味で大きな貢献を果たした事になった。
続く寿永二年(1183)2月には野木宮合戦で常陸の志田義広と籘姓足利氏の嫡子・忠綱らの連合軍を破り、恩賞として思川と巴波(うづま)川に挟まれた広大な新領を得た。小山一族は南北朝時代を経て次第に零落するが、鎌倉時代の隆盛は寒河尼の存在に拠るところが大きい。
地頭に任じた中の一ヶ所・阿志土郷(現在の小山市網戸)から網戸尼とも称された。
慈円 久寿二年(1155)~嘉禄元年(1225) 没年令 70歳
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摂政関白藤原忠通の六男。摂関を継いだ九条兼実は同母の兄にあたる。幼い時に天台宗青蓮院(最澄の開基)に入り、12歳の仁安二年(1167)に天台座主明雲により受戒し38歳で天台座主に任じた。朝廷と鎌倉が協調関係を保つのを理想とし、後鳥羽上皇が倒幕の動きを見せた際には西園寺公経と共に反対した。史論「愚管抄」は上皇を諌めるために書いた、ともされる。歌人として優れた業績を残しているが宗教家としては物足りない部分があり、政治や史論への関与も物足りない印象を受ける。
静御前 仁安二年?(1167?)~文治三年?(1187?) 没年令 20?
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母は著名な白拍子だった
磯禅師(wiki)。娘の静も京都の白拍子を経て義経の側室になった。
旱魃が続いた寿永元年(1182)に後白河上皇が舞姫を集めて開催した祈りの宴で舞い、見事に雨を降らせたため褒美として「蝦蟇龍」(あまりょう・幼い龍)の御衣を拝領した。この時15歳、この前後に義経と出会った、と伝わる。
文治元年(1185)土佐坊昌俊により堀川館が襲撃され頼朝と義経との関係が悪化、その後の都落ちを経て吉野で義経と別れるが従者に金品を持ち逃げされ、追っ手に捕らわれて鎌倉へ送られる。妊娠していたため出産まで鎌倉に軟禁され、文治二年(1186)の4月8日に鶴岡八幡宮で舞って観衆に深い感銘を与えた。同年7月29日に産んだ男児は頼朝の命令で由比ヶ浜に沈められ、9月16日の赦免後に引出物を受け京都に向ったがその後の消息は不明。
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最も信頼性の高い伝承に拠れば、義経を慕って奥州を目指す途中で病没し栗橋に葬られた。同所に慰霊墓が残っており、利根川対岸の光了寺には蝦蟇龍の御衣と短刀などが寺宝として保存されている。また新潟の栃尾にも奥州へ向う途中で死んだ伝説があり、墓所が残されている。各地に静女ゆかりの伝承があり、長野県の美麻村大塩地区(現在の大町市)の伝説が面白い。静女は「大塩を奥州と聞き間違えて」ここまで来た、というお話。
實 慶 生年不詳 没年不詳 没年令 不詳
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平安末期から鎌倉時代初期に東国に工房を構えて土着し(あるいは長期滞在し)、伊豆や相模の御家人の需要に応えて造像を続けた仏師。確認できる作例がごく少ない事と、存在が立証できる資料が寿永二年(1183)の運慶願経(写経・
真正極楽寺(wiki)蔵)に48人の結縁者として載っている「快慶・実慶・宗慶・源慶・静慶...」のみだったため、存在は確実ながら長い間「幻の仏師」と呼ばれていたらしい。
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現在では和田義盛が発願し大仏師・運慶が造った横須賀浄楽寺の阿弥陀三尊像
阿弥陀三尊像の銘札に小仏師として實慶の名がある事、建久七年(1196)頃の造像と推定
※される函南
桑原薬師堂の阿弥陀三尊像(年代記載なし)に實慶の銘札がある事、承元四年(1210)に政子が寄進した伊豆修禅寺の大日如来像に大仏師實慶の銘札が確認された事、などが確認されている。無銘の例はあるが、今後は更なる発見の可能性もある。
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※年代推定:弟弟子と推定される宗慶が彫った埼玉県保寧寺の阿弥陀三尊像(建久七年・1196年)と作風・素材などが近い、らしい。
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桑原薬師堂の仏像群は現在は
かんなみ仏の里美術館(公式サイト)に移されており、この阿弥陀三尊像は治承四年(1180)8月に函南で戦死した長男宗時の菩提を弔って北条時政が建立した墳墓堂の本尊として實慶に造らせた像だろうと推定する説もある。
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宗時の墳墓は
宗時神社にあるが墳墓堂の詳細は不明。桑原薬師堂が元々は
箱根権現の開祖万巻上人の菩提寺だった新光廃寺(桑原薬師堂の末尾に記載)の本尊と推定される薬師如来像を収蔵している事から考えると、北條氏との関係と新光寺との関係を、それぞれどの程度に評価すべきなのか判らない。暫くの間は修禅寺の大日如来を彫った後の實慶を追いかけて見たいと思う。
渋谷 重国 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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武蔵国(現在の多摩川下流地域)を領有した秩父平氏・川崎重家の子で渋谷荘(現在の高座郡。多摩川下流から綾瀬に至る広大な地域)を領有した。平治の乱では義朝に従って戦った後に渋谷に戻り、同様に敗れて近江の所領を失って奥州へ向う佐々木秀義親子を庇護し、秀義を婿にした。頼朝挙兵の際には平家の恩を重んじて娘が産んだ五男の義清のみを従え大庭景親に従ったが他の兄弟4人が頼朝に従うのは妨げなかった。
幕府の樹立後は所領を安堵され、嫡男の高重と共に重用されている。
渋谷 高重 不詳(不詳)~建保元年(1213) 没年令 不詳
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渋谷重国の次男で嫡子、妻は横山時廣(時兼の父)の娘。頼朝挙兵の際は父と共に大庭景親軍に加わったが後に帰服して御家人に列した。忠誠心と穏やかな人柄が頼朝に愛され、養和元年(1181)には所領の渋谷下郷(現在の藤沢市長後・
地図)の年貢を免除されている。平家追討・義仲追討・奥州合戦を転戦して勲功を挙げ幕府での地位を確保したが、建保元年(1213)の和田合戦ではの縁戚関係の深い横山一族と共に和田義盛勢力に加わり討ち死に、一族の滅亡を招いた。
下河邊 行平 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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下河邊氏は藤原秀郷の子孫で小山氏の一族。行平は行義の嫡子で弟が政義。父の行義(八条院領・下川辺荘(現在の古河市)の荘官)は頼政の家臣として以仁王挙兵に参戦したがその後の消息は不明。行平は頼政挙兵を頼朝に知らせ、頼朝挙兵後は寿永二年(1183)の野木宮合戦・寿永三年(1184)の一ノ谷合戦・翌年の壇ノ浦合戦・豊後葦屋浦の合戦・文治五年(1189)の奥州討伐の阿津賀志山合戦などで功績を挙げた。
弓の名手で頼家に弓を教え、建久二年(1195)には源氏一門と同等に遇されるほど頼朝の信頼を受けた。頼朝没後の元久二年(1205)には畠山重忠討伐の軍にも加わり二俣川合戦を戦っている。
下河邊 政義 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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行義の二男で兄が政義、川越重頼の娘を妻にしているから厳密に言えば義経とは義理の兄弟となる。通称は四郎。兄の行平は頼政挙兵を頼朝に知らせ、頼朝挙兵後はの兄弟は寿永二年(1183)の野木宮合戦(藤姓足利氏の俊綱の首実検に参加)・寿永三年(1184)の一ノ谷合戦・翌年の壇ノ浦合戦・豊後葦屋浦の合戦・文治五年(1189)の奥州討伐の阿津賀志山合戦などを転戦している。
元暦元年(1184)4月には歴戦の勲功により常陸国南部を与えられたが、舅の河越重頼に連座して所領没収、2年後の文治三年には御家人として復帰し同六年(1190)の頼朝上洛にも随行した。子孫の政宣が大和国長谷川(長谷寺の周辺・
地図)に移って長谷川を称し、子孫からは長谷川平蔵が出ている。
島津 忠久 不詳(不詳)~嘉禄三年(1227) 没年令 不詳
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父は従五位下の官人・惟宗広言(同族で正七位上の京侍・惟宗忠康説もある)、生母は頼朝の乳母子だった丹後内侍(比企尼の娘)、妻は畠山重忠の娘。
元々は摂関家に仕えた京侍で、頼朝の台頭と共に縁故を頼り鎌倉に下り比企能員の手勢として平家追討に参戦した。元暦二年(1185)6月には恩賞として伊勢国須可荘の地頭職に任じ、同年8月には摂関家領島津荘の下司職に任じた。これが忠久と島津の最初の接点となった。
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奥州合戦の後も順調に出世を重ね、建久九年(1198)の左衛門尉任官と共に島津(嶋津)左衛門尉を名乗った。建仁三年(1203)9月に比企の乱によって比企氏一族が滅亡、忠久は比企氏縁者として連座し、大隅・薩摩・日向の守護職を没収された。
その後の建暦三年(1213)には御家人として復帰、6月の和田合戦では北條側に加わって薩摩国地頭職→ 同守護職に戻った。嘉禄元年(1225)に検非違使、翌年に豊後守に任じ、翌年に没している。
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墓所は頼朝の墓の東側の高台にある。島津家では忠久=頼朝の落胤としており、これは丹後内侍が母(頼朝の乳母)と共に在京していた経緯から後世に系図を捏造し僭称した、と考えられている。現在の頼朝の墓は江戸時代に島津藩が修造しており、この際に作った香台には丸に十字の島津紋が刻まれている。
定豪 仁平二年(1152)~嘉禎四年(1238) 没年令 86歳
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真言宗の僧。大和国の
忍辱山円成寺で潅頂を受け、文治元年(1185)に法橋に任じたのは34歳、恵まれない昇進に見切りを付けて鎌倉に下り(詳細な時期は不明)鶴岡八幡宮の供僧に補任された。翌々年に宿老僧10人に加わり、頼朝没後の正治元年(1199)に文覚失脚に伴って勝長寿院別当の性我が神護寺に入ると共に勝長寿院別当の地位を譲られた。
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承久二年(1220)の実朝暗殺によって鶴岡八幡宮別当の公暁が殺された後に八幡宮別当に就任して八幡宮での実権を掌握、翌年の承久の乱での祈祷の功績で熊野三山検校・新熊野検校・高野山伝法院座主を与えられ、仏教界に対する鎌倉幕府の姿勢を指導する立場となった。幕府の権威を利用しつつ、幕府との関係を安定させたい朝廷の意向も背景にして野心的に行動し、安貞二年(1228)に東大寺別当に就任している。
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文暦元年(1234)四代将軍九条頼経の正室竹御所死産による母子の死没で祈祷の失敗による引責辞任を挟んで嘉禎元年(1235)には大僧正、翌年に東寺の貫主、翌々年には四条天皇の護持僧になるなど、仏教界の頂点に君臨した。
城 資永 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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平国香の次男繁盛→ 次男維茂→ 三男繁成→ 嫡男資国→ 嫡男資永と続いた越後平氏の名門で母は清原武衡の娘、妹に坂額がいる。
保元の乱では清盛に従って参戦し、北陸で平家に与する豪族として筆頭の存在となった。養和元年(1181)に勅命を受けて従五位下に叙され、軍兵一万を指揮して木曽義仲を攻めようとしたが出陣直前の2月25日に卒中で死没、ここから城一族の没落が始まる。
城 長茂(助職・資職) 仁平二年(1152)~建仁元年(1201) 没年令 50歳
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資国の次男で資永の弟、坂額の兄、通仕様は四郎。資永が急死した後の城一族を率いて信濃を攻め木曽義仲と戦うが軍事的才能に乏しく、横田河原(長野市・養和元年(1181)6月)の合戦で大敗し、更に会津へ入ったが更に追撃されて没落、文治四年(1188)には頼朝に降伏して梶原景時に預けられた。
文治五年には従軍を許されて奥州藤原氏追討に参戦し、功績を挙げて御家人に加えられた。正治二年(1200)1月に梶原一族が討伐されると翌年には京都で倒幕の兵を挙げたが小山朝政らの幕府軍に攻められ、吉野で討たれた。
坂額御前 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年令 不詳
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資国の娘で長茂の妹。女ながら建仁の乱では鳥坂城の籠城戦に加わり得意の弓で多くの敵を射殺した。最後には背後から信濃国の武士藤沢清親に股を射られて捕虜となり鎌倉に連行された。頼家の前に引き出されても臆せずに堂々としていた、と伝わる。
甲斐源氏の浅利与一義遠が坂額を妻にしたいと申し出て頼家に許され、与一の所領である八代郡浅利郷で生涯を送った。与一もまた弓の名手であり、その経緯もあって中央市浅利(旧浅利郷)の周辺では弓道が盛んに行われている。
付近には下屋敷跡と伝わる
坂額塚などの地名がある。ちなみに坂額が生んだ娘は武田信光(与一の甥)の七男に嫁いでいる。
上西門院 (統子内親王) 大治元年(1126)~文治五年(1189) 没年令 64歳
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第74代鳥羽天皇の第二皇女で生母は中宮の藤原璋子(待賢門院)、同母の兄弟に崇徳天皇・後白河天皇などがいる。賀茂神社の斎王となり、32歳で後白河天皇の准母として立后し翌年に院号宣下を受けた。この時に頼朝は上西門院の蔵人として彼女の昇殿に従っている。平治の乱後の頼朝が死罪を免れ伊豆流罪に減刑された背後には政治的には上西門院の口添えもあった、らしい。
同母弟の後白河と親しく、権力を失った前摂政関白松殿(藤原)基房の次男・家房(後に従二位権中納言)を猶子(相続権のない養子)としている。
城 資盛 不詳(不詳)~治承五年?(1181) 没年令 不詳
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資永の嫡男(資国の嫡孫)。叔父の長茂が降伏した後は再起する機会を狙って潜伏し、建仁元年(1201)に叔母の坂額と挙兵(建仁の乱)。周辺の御家人を圧倒し鳥坂城(新潟県胎内市)に籠って善戦するが佐々木盛綱率いる幕府の大軍に攻められて5月9日に落城した。坂額は捕虜となって鎌倉に送られ浅利与一の室となり、資盛は脱出して行方知れずとなった。
信 円 仁平三年(1153)~元仁元年(1224) 没年令 71歳
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摂政関白太政大臣藤原忠通の九男、太政大臣松殿基房の同母弟、太政大臣九条兼実は異母兄、天台座主慈円は異母弟にあたる。興福寺に入り、治承四年(1180)末の南都焼き討ち後に平家棟梁を継いだ宗盛による処分撤回に伴う政治的配慮を受け、養和元年(1181)に第44代別当に任じた。生涯を南都復興に尽くした功績により興福寺中興の祖とされる。また修験道や真言宗との交流も深く、金峯山検校職も務めている。
親鸞 承安三年(1173)~弘長ニ年(1262) 没年令 89歳
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浄土真宗の開祖。9歳で出家し比叡山に入るが抗争に明け暮れる姿を見て失望、29歳で山を降り京都六角堂で百日の参籠をし菩薩の夢を見る。「行者宿報にて設ひ女犯すとも我れ玉女の身となりて犯せられむ。一生の間能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ」と。この夢が親鸞の性に関する思想のベースになった。
専修念仏の法然の弟子となり、法然が流罪になると同様に僧籍を剥奪されて越後に流され、ここから浄土真宗が始まる。流罪の地で恵信尼と結婚、親鸞にとっての恵信尼は六角堂の夢で見た観音の化身に等しい存在であったと言われる。
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1211年の赦免後は関東で布教につとめ、教行信証・唯信鈔文意・愚禿鈔など多くの著作を書く。最も重要なことは、法然がひたすらに念仏を唱えれば阿弥陀に救済されると説いたのに対し、阿弥陀仏に絶対帰依する信心の心により救われるとしたこと。「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」(善人でさえ阿弥陀の浄土に往生できる。悪人は最も救済が必要なものであるが故に、阿弥陀如来様の本願からすれば真っ先に阿弥陀浄土に往生できるはず)と。
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室町時代に蓮如が出て本願寺を真宗の中心にし真宗教団の基礎作りを行うが、信長や家康による弾圧を受けた。現在は本願寺派・大谷派・高田派・仏光寺派・木辺派・興正派・出雲路派・山元派・誠照寺派・三門徒派の10派に分かれ、東本願寺が本山の大谷派と西本願寺を本山とする本願寺派が主流となって多くの信者を擁している。
諏訪(金刺)盛澄 生没年 不詳 没年令 不詳
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諏訪大社下宮の神官で、諏訪地方を支配した諏訪氏一族の武士。弟の手塚光盛は義仲に最後まで付き従った四騎の一人で、北陸篠原の合戦では斎藤実盛を討ち取っている。盛澄も弟と共に義仲郎党として転戦し、義仲敗死後に捕縛され、梶原景時に預けられた。盛澄の武芸を惜しんだ景時は死罪の前に彼の武芸を見て欲しいと頼朝に願い、文治三年(1187)8月15日に鶴岡八幡宮で初めて行われた流鏑馬に出場させ見事な技を見せて頼朝を感嘆させた。
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この褒賞として盛澄の郎党たちも赦免を得たと伝わる。その後は頼朝御家人として流鏑馬などの催事に再三出場している。
崇徳天皇 元永二年(1119)~長寛二年(1164) 没年齢 45歳
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第75代天皇(在位は1123~1142年)で鳥羽天皇と中宮藤原璋子(待賢門院)の第一皇子、后は関白藤原忠通の長女藤原聖子(皇嘉門院)。譲位して院政を開始した鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して産まれた体仁親王への譲位を迫って近衛天皇とし、体仁親王を崇徳の弟(天皇が弟の場合は退位した上皇は院政を行えない)と宣命したため、二人の間には深い溝が生まれた。
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鳥羽上皇は崇徳院の第一皇子重仁親王を美福門院の養子とし、近衛天皇に子が生まれなかった場合には重仁親王が皇位を継げる可能性を策して崇徳を宥めたが、久寿二年(1155)近衛天皇が病没すると後継は美福門院のもう一人の養子で14歳の守仁親王(後の二条天皇)となり、更に中継ぎとして実父の雅仁親王が立太子しないまま後白河天皇となった。これによって崇徳が院政を執れる可能性は皆無となった。
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保元元年(1156)7月の鳥羽法皇崩御と共に朝廷の政争が熾烈となり、後白河天皇グループ(摂政関白太政大臣藤原忠通+源義朝+平清盛+源頼政etc...) vs 崇徳上皇グループ(忠通の異母弟左大臣藤原頼長+源為義+平忠正+平家弘etc...)による保元の乱が勃発した。結果として惨敗した崇徳上皇は讃岐国へ配流、8年後の長寛二年(1164)に流刑地で崩御した。
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保元物語に拠れば、
「流刑地での崇徳は仏教に帰依して極楽往生を願って写経を続け、完成した写本を京都の寺に納経して欲しいと朝廷に送ったが後白河はこれを拒み送り返した。崇徳は激怒して舌を噛み切り血で「祟ってやる」との内容を写経に書き込み、生きながら天狗になった」と記述している(比較的穏やかな晩年だったとの説あり)。
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10年ほどが過ぎると諸国に天変地異や騒乱が頻発し、公家の日記に「崇徳の怨霊」の記述が多発してくる。やがて戦乱と共に怨霊のイメージが定着し、事件が起きる毎に「崇徳の祟り」が噂されるようになる。慶応四年(1868)8月に即位の礼を行った明治天皇は勅使を讃岐に派遣し、崇徳の御霊を京に帰還させ白峯神宮をした。また昭和天皇は1964年の崇徳800年祭に坂出市の陵に勅使を派遣して式年祭を行っている。
蘇我 蝦夷(えみし) 用明元年?(586)~大化元年(645) 没年齢 60歳前後
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飛鳥時代の大臣(おおおみ・大王(帝)を補佐する高官)で、蘇我馬子の子。第33代推古天皇(在位593~628年)の末期から第35代皇極天皇(在位642~645年)にかけて権勢を振るった。政治を私物化し皇族に対し暴虐の行為を犯した罪で嫡子の入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らに帝の前で斬り殺され(大化の改新前夜の乙巳の変)、自邸に放火して自殺した。実質は蘇我一族の専横と言うよりも朝廷内の権力闘争の末にクーデターで殺された、と考えるべきだろう。勝者が記録した歴史を鵜呑みにはできない。
蘇我 入鹿(いるか) 不詳(不詳)~大化元年(645) 没年齢 不詳
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飛鳥時代の大臣(おおおみ・大王(帝)を補佐する高官)で、蘇我蝦夷の子。第35代皇極天皇(在位642~645年)の即位に伴い父蝦夷に代わって国政を掌握した。政治を私物化し皇族に対して暴虐の行為を犯した罪で暗殺されたが、この事件は皇統や政治の主導権を巡る権力争いに過ぎず、蝦夷と入鹿の「暴虐」はクーデターの正当性を強調するための歴史改竄と考える見方も根強い。
曽我 祐信 不詳(不詳)~正治二年(1200) 没年齢 不詳
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相模国曽我荘(小田原市北東部)を本領とした桓武平氏支流の武士。最初の妻は伊東祐家(祐親の父)の娘、後妻は伊東祐泰の寡婦満江とされ、伊東一族との血縁関係はかなり深い。石橋山合戦では大庭景親軍に加わって頼朝勢と戦い、その後に投降して許され御家人に加えられた。平家追討の合戦でも活躍したが、むしろ曽我兄弟の養父として知られている。
安元二年(1176)に兄弟の実父・河津祐泰が殺された後に妻の満江は幼い兄弟を連れて祐信に再嫁した。祐信には既に実子の祐綱がおり、文治五年(1189)頃には祐信の跡を継ぎつつあった。一説には相続財産のない兄弟が将来に希望を持てず仇討ちに走る一因になった、ともされる。曽我物語と吾妻鏡によれぱ祐信が「兄弟に与えられるほどの財産がなく、弟の五郎時致の元服費用も出せなかった」と述懐したと書いているが、元々五郎は箱根権現で出家する約束を母と交わしており、祐信が元服を許すのは筋が通らない。
曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げた後は連座を免れ、曽我荘の年貢を免除されて兄弟の菩提を弔うように命じられた。墓所は旧街道沿いの
宝篋印塔とも言われるが、根拠には乏しい。嫡子祐綱は土佐の地頭に任命されている。
曽我 祐成(十郎) 承安二年(1172)~建久四年(1193) 没年齢 19歳
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父は伊東祐親嫡男の河津祐泰、母は狩野親光娘の満劫、祐泰の姉は北條時政の最初の妻。従って曽我兄弟と政子・義時とは従兄弟同士。
安元二年(1176)に父の祐泰が工藤祐経の意を受けた郎党に殺された時は5歳(幼名は一萬)、母は祐親の指示で曽我荘荘官の祐信に再嫁したため養子扱いで成長した。祐成が祐信の家督を継いだとする説もあるが、祐信には既に実子の祐綱がおり分割して継承できる財産や所領もなかったため兄弟はかなり貧しい暮らしを強いられたらしい。父が殺された遺恨だけではなく将来への不安と絶望も仇討ちに走った一因と考えられる。曾我物語にある「松明が買えず、唐傘を焼いて富士の裾野へ向った」とか「時政の手を借りて弟を元服させた」などの記述は誇張ではなかったのかも知れない。
しかし...祖父の祐親には自分が後見し萬劫と兄弟を河津に置くという選択肢はなかったのだろうか。この疑問は拭いきれない。
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ともあれ兄弟は建久四年5月28日の深夜、頼朝が催した富士裾野の巻き狩りで白糸の滝近くの狩宿に討ち入り、同宿していた備前国吉備津宮の王籐内都と共に工藤祐経を斬り殺した。本懐を遂げた兄弟は続いて頼朝の宿舎に向って走り、吾妻鏡は「平子平右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、加藤太、海野小太郎、岡部彌三郎、原三郎、堀籐太、臼杵八郎が手傷を負い、宇田五郎などが殺害された」と書いている。
兄の祐成はその途中で新田忠常に討ち取られたが弟の時致は頼朝の宿舎まで侵入して捕縛され、頼朝の聴取の後に斬首された。頼朝の宿舎を目指したのは時政による陰謀説などあるが、個人的には頼朝に一矢を報いる意図があった、と思う。仇討ちとその後の詳細は
こちら、父の祐泰が殺された経緯は
こちらで。愛人は大磯の遊女・虎、子供はいない。
曽我 時致(五郎) 承安四年(1174)~建久四年(1193) 没年齢 19歳
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父は伊東祐親嫡男の河津祐泰、母は狩野親光娘の満劫、祐泰の姉は北條時政の最初の妻。従って曽我兄弟と政子・義時とは従兄弟同士。
安元二年(1176)に父の祐泰が工藤祐経の意を受けた郎党に殺された時は3歳(幼吊は箱王)、母は祐親の指示で曽我荘荘官の祐信に再嫁したため養子扱いで成長した。祐成が祐信の家督を継いだとする説もあるが、祐信には既に実子の祐綱がおり、分割して継承できる財産や所領もなかったため兄弟はかなり貧しい暮らしを強いられたらしい。父が殺された遺恨だけではなく将来への上安と絶望も仇討ちに走った一因と考えられる。曽我物語にある「松明が買えず、唐傘を焼いて富士の裾野へ向った《とか「時政の手を借りて弟を元朊させた《などの記述は誇張ではなかったのかも知れない。
しかし...祖父の祐親には自分が後見し萬劫と兄弟を河津に置くという選択肢はなかったのだろうか。この疑問は拭いきれない。
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ともあれ兄弟は建久四年5月28日の深夜、頼朝が催した富士裾野の巻き狩りで白糸の滝近くの狩宿に討ち入って同宿していた備前国吉備津宮の王籐内都と共に工藤祐経を斬り殺した。本懐を遂げた兄弟は続いて頼朝の宿舎に向って走り、吾妻鏡は「平子平右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、加藤太、海野小太郎、岡部彌三郎、原三郎、堀籐太、臼杵八郎が手傷を負い、宇田五郎などが殺害された」と書いている。
兄の祐成はその途中で新田忠常に討ち取られたが弟の時致は頼朝の宿舎まで侵入して捕縛され、頼朝の聴取の後に斬首された。頼朝の宿舎を目指したのは時政による陰謀切などあるが、個人的には頼朝に一矢を報いる意図があった、と思う。仇討ちとその後の詳細は
こちら、父の祐泰が殺された経緯は
こちらで。兄が「十郎祐成《で弟が「五郎時致《なのは兄の烏帽子親は曾我祐信・弟の烏帽子親が北條時政だから。
染屋 時忠 和銅年間?(710年頃?)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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フルネームは染屋太郎太夫時忠、半ば伝説上の人物で実在を疑う説もある。言い伝えに拠れば藤原鎌足の玄孫(孫の孫)であり、父親は東大寺の初代別当で大仏開眼和尚である良弁(ろうべん)僧正。良弁は持統天皇三年(689)生まれだから時忠は西暦710年頃以降に生まれたと考えられるが、伝承では文武天皇(在位697~707)の頃から聖武天皇(在位724~728)の頃まで約30年の間鎌倉に住んで由比の長者と呼ばれ、関東八ヶ国の総追捕使となり東夷を鎮めたと伝わる。これは年代的には整合し得ないが、良弁の出身地が相模なのはほぼ確定しており、相模周辺には幾つかの染谷時忠伝承が残っている。
長谷寺に近い甘縄神社は和銅三年(710)に行基が開山し染谷時忠が建てた(これも年代は符合しない)鎌倉最古の神社で、ここから大仏にかけての一帯が安達盛長の館だった。この神社は源氏の信仰も篤く盛長邸もあるため、頼朝や政子も再三訪れている。
高徳院の鎌倉大仏開眼は寛元元年(1243)で、創建当時は木像だった。これは宝治合戦で三浦一族が滅びた宝治元年(1247)に暴風雨で倒壊し建長四年に改めて鋳造が始まったが、三浦の怨霊を鎮めるため滅亡させた当事者の安達景盛が尽力して自邸内に創建した、との考えもある。染谷時忠の父が東大寺大仏の開眼→染谷時忠(由比の長者)は甘縄に住んだ→甘縄の安達景盛が自邸に大仏を...そんな発想だろうか。
長谷2の4の1の鎌倉文学館近くが染屋時忠舘跡とされ、石碑が建てられている。
桓武天皇 天平9年(737)~延暦25年(806) 没年齢 70歳
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光仁天皇の第一皇子で第50代の天皇。先代は光仁、次代は平城。在位は天応元年4月3日(781年4月30日)~延暦25年3月17日(806年4月9日)。桓武→ 葛原親王→ 高棟王→ 高見王→ 平高望と続く桓武平氏嫡流となる。桓武天皇の詳細については
こちら を参照。
葛原親王 延暦五年(786)~仁寿三年(853) 没年齢 67歳
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桓武天皇の子で母は多冶比真宗。天長二年(825)、子女が臣籍に降下し平姓を名乗る旨を願い出て許された。甲斐国馬相野空閑地五百町(現在の南アルプス市一帯)を領有した。伝承に拠れば、墓所と館跡は京都府の大山崎町とされる。(
こちら 。)葛原親王の詳細については
こちら 。
高見王 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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葛原親王の子で高望王の父とされていたが実在が疑われており、高望王は葛原親王の子と考える説が主流になっている。葛原親王は子女の臣籍降下を許されているのに高見王には平を名乗った記録がなく、さらに皇子にも拘わらず官位に就いた記録もない無位無官の人物はあり得ない、と考えるのがノーマルらしい。
高見王の詳細については
こちら を参照。
平 高望(高望王) 不詳(不詳)~延喜十一年(911) 没年齢 不詳
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寛平元年(889)に第59代宇多天皇の勅命を得て臣籍降下し平姓を名乗った。昌泰元年(898)に上総介となって長男国香・次男良兼・三男良将と共に赴任し任期の満了後も上総に留まった。国香と良将は常陸と下総の豪族の娘を妻とし在地勢力と連携、常陸・下総・上総の一帯を開拓しつつ武士団を形成して高望王流桓武平氏の基礎を築いた。延喜二年(903)に西海道国司として大宰府に赴任し9年後に同地で死没。
平 国香 不詳(不詳)~承平五年(935) 没年齢 不詳
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平高望(高望王)の長男で母は藤原良方娘、妻は源護の娘。清盛の系へと続く伊勢平氏の祖であり、常陸平氏の祖にあたる。
父に従って常陸に下り真壁郡を本拠に勢力を広げ、更に実質的な権力者である常陸大掾・源護の娘を娶り所領を受け継いで桓武平氏の地位を確立した。所領争いが原因で承平五年(935)2月に親族の扶(たすく・貞盛の叔父らしいが素性は不明)が将門を襲撃したが反撃され討死、さらに石田館が焼かれ、館とともに国香も死亡した。
平 貞盛 不詳(不詳)~永祚元年(989) 没年齢 不詳
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国香の嫡男。父死去の知らせで京から急遽帰国、事件の非は将門側ではないと判断し和睦を試みたが、結果として叔父(国香の弟)良兼らに説得されて共に将門と戦った。その後は長く苦戦が続いたが、天慶三年(940)に至り藤原秀郷の協力を得て将門を討伐、鎮守府将軍・従四位下に叙せられた。
平 良兼 不詳(不詳)~天慶二年(939) 没年齢 不詳
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高望王の二男で国香の弟。母は藤原良方娘、妻は源護の娘。父高望の上総介任期の終了後も任地に留まって次期の上総介を勤め、房総半島一帯に勢力を拡大し高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
平 良将 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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高望王の三男で母は藤原良方娘、妻は犬養春枝の娘。平将門の父。次兄良兼が得られなかった鎮守府将軍に任じられており、優れた人物だったと推測される。下総の豊郡を本拠地に荒地を開墾し私有の新田を拓いて勢力を拡大した。また2人の兄の妻は源護の娘であり、良将の妻は北相馬郡寺田郷(現在の取手市寺田)に牧を所有する犬養春枝の娘だったため経済的な基盤も強く、それらが遠因で将門と叔父たちの紛争を招いた、と考えられている。
平 良文 仁和二年(886)~天暦六年(952) 没年齢 66歳
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上総介平高望の四男で母は側室・藤原範世の娘。坂東平氏の始祖とされ、900年代の前半に関東で活躍していた。さらに妹は藤原維幾に嫁して為憲を産み、その子孫からも伊豆の狩野・工藤・伊東らの氏族が出ている。平高望は寛平元年(889)に上総介として関東に赴任したため良文は京で成長、延長元年(923)に勅命を受け相模国高座郡村岡郷を本拠に治安維持に当った。後に武蔵国大里郡に移り村岡五郎を名乗ったと伝わる。
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天慶二年(939)に鎮守府将軍として陸奥国俘囚の反乱を鎮圧、翌年関東に戻り下総から武蔵にかけて荘園を開発するなどして関東に勢力を伸ばした。その過程で関東の各地に子孫が定着し繁栄した、と考えられる。また将門の叔父として一時的には同盟関係にあったらしく、将門の子将国は良文が保護しその子孫は相馬氏となっている。渋谷・東郷・落合・畠山・小山田・稲毛・河越・豊島・江戸・葛西・千葉・相馬・三浦・大庭・長尾・梶原・鎌倉などの各氏族の系譜を遡れば良文に辿りつく。
平 将門 伝・延喜三年 (903)~天慶三年(940) 没年齢 38歳前後
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下総国佐倉を領有した平良将の三男。15歳前後から12年間在京して藤原北家の忠平に臣従、その後に関東に戻って同族間の紛争に巻き込まれ同族の長である叔父の国香を殺し、所領を継承した平良兼らとも戦った(この罪は大赦を受ける)。天慶2年(939)には地域紛争が拡大した末に国衙を占領、更に下野国府と上野国府を占領して関東一円を支配し、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いて「新皇」を名乗った。翌天恵三年(940)2月に平貞盛と下野押領使藤原秀郷の連合軍と戦って討死、首は京に運ばれ獄門に掛けられた。
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各地に多くの伝承が残されているが、これは関東の利権を代表して新皇を名乗り朝廷に反逆した衝撃の強さを表している。将門を追い始めると際限がなくなるが、ベースとしての資料は
こちら で。「将門」で検索すれば更に様々な資料・学説・伝承・郷土史などに触れることができる。
平 忠常 康保四年(967)または天延三年(975)~長元四年(1031) 没年齢 98歳または90歳
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平良文(村岡五郎)→ 平忠頼→ 忠常と続く武将の血筋で母方の祖父は平将門。祖父と父の地盤を継承して常陸・上総・下総に広大な領地を持ち、武蔵押領使(警察の総指揮官)に任じた。強大な武力を背景にして納税も怠った末に長元元年(1028)6月には安房国府を襲って国司の平維忠を焼き殺したため追討使として平直方が派遣された。
忠常は頑強に抵抗を続けたため東国が疲弊すると共に忠常軍も継戦能力を失い、長元三年(1031)に新任の追討使となった甲斐守源頼信の派遣を受けて降伏→ 病没した。子息のうち二人(常将と常近)は罪を許されて土着を続け、子孫の上総氏と千葉氏に繋がっている。
平直方 不詳(990頃?)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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肥前守・上総介を歴任した平惟将の嫡子で上総介を継承。平忠常の乱(1028)で追討使に任じられた後は能登守~上野介を歴任した。陸奥話記によれば頼義の武芸に感嘆して親交を結び、娘を娶わせたとされる。二人の間には武勇に優れた義家・義綱の兄弟が生まれている。鎌倉北條氏一族や熊谷直実は平直方の子孫を称しているが、これらは信憑性に乏しい。
平 清盛 元永ニ年(1118)~治承五年(1181) 没年齢 63歳
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平忠盛の嫡男で母は養母である祇園女御の妹。平家物語に拠れば白河法皇の寵愛を受けた祇園女御が妊娠5ヶ月で忠盛に下賜され、産まれたのが清盛。「女子が生まれたら院が引き取る、男子が生まれたら武士として育てよ」との命に従って忠盛の嫡男として育てられた。従って清盛は法皇の子であり、異例の早さで出世した理由も頷けるが...真実は判らない。
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清盛の子には重盛・宗盛・知盛・徳子・重衡・盛子がある。徳子は高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んでいるため清盛は安徳帝の祖父であり、経盛・教盛・頼盛・忠度から見ると異母兄にあたる。名高い「平家に非ざれば人に非ず」は実際には清盛ではなく、妻・時子の兄である平時忠が一門の堂上平氏の繁栄を誇って発した言葉とされる。また瀬戸内の各所に人工港を構えて中国宋朝との交易を盛んに行い財を成した事も知られている。
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仁平三年(1153)に父忠盛が没し平氏の棟梁を継いだ。保元の乱(1156)では源義朝とともに後白河天皇方につき勝利、平治の乱(1159)では義朝を破って源氏の勢力を中央政界から駆逐し、平氏独裁の基礎を構築した。仁安二年(1167)従一位太政大臣となり一門の公卿は16人・殿上人30数人、知行国は30余となった。仁安三年(1168)には病気のため辞任して出家するが承安二年(1172)には娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮とした。
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治承元年(1177)の鹿ヶ谷事件を契機に法皇を幽閉して独裁体制を確立する。治承四年(1180)には高倉天皇を退位させ徳子が生んだ安徳天皇が即位。天皇の外祖父として勢威を振い一族の繁栄は絶頂に達するが、同年4月に以仁王の令旨を受けた諸国の源氏が次々と蜂起、鎮圧できず失意のうちに病没。「供養は要らぬ、頼朝の首を墓前に据えよ《が遺言となった。
墓は各地に5ヶ所ほどあるらしいが神戸市の
能福寺にある層塔が最も信頼されている、らしい。
平 時子 (二位尼) 天治ニ年(1125)~文治元年(1185) 没年齢 60歳
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父は兵部権大輔平時信・母は大膳大夫藤原家範の娘。平時忠の姉。先妻高階基章娘の死後に清盛の後妻となり、宗盛・知盛・重衡・徳子(高倉天皇の中宮建礼門院)・盛子(近衛基実室)・寛子(近衛基通室)を産んだ。清盛の死後に落飾し従二位に叙せられたため「二位の尼」と呼ばれる。出世街道を進む清盛をよく助け、一門の栄華を実現した影の功労者。壇ノ浦では七歳の安徳天皇を抱いて神器と共に入水し最期を遂げた。当時の合戦のルールとしては女は殺さない筈、ましてや帝と無理心中とは...既に狂気の世界にいたのだろうか。
平 忠度 天養元年(1144)~元暦元年(1184) 没年齢 40歳
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平忠盛の六男で清盛・教盛・経盛の弟、官位は正四位下薩摩守。富士川合戦で頼朝軍と、倶利伽羅峠合戦で木曽義仲軍と戦い敗北した。歌人としても知られており、千載和歌集には詠み人知らずとして一首が載っている。
剛力で知られた忠度は一の谷合戦で岡部六弥太忠澄と組み合って討ち取ろうとしたが郎党に右腕を切り落とされ、左手だけで忠澄を投げ飛ばした。奮戦むなしく討ち取られ、忠澄は所領の中で最も景色の良い地に五輪塔を建てて菩提を弔ったと伝わる。現在の深谷市萱場の
清心寺で、近くには岡部六弥太忠澄の墓所があり、一族の五輪塔などが残されている。神戸の長田区には忠度の右腕を葬った腕塚
(参考サイト)がある。
平 時忠 大治五年(1130)~文治五年(1180) 没年齢 50歳
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父は兵部権大輔平時信・母は二条大宮(令子内親王)の下働きの女房。5歳上の姉が清盛の後妻である時子、妹の滋子は後白河天皇の女御となって憲仁親王(後の高倉天皇)を産んでいる。父親は五位・母親の身分も低かったが実務能力の高さに加えて時子の清盛の系累として優遇された。
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応保元年(1161)に陰謀加担の嫌疑を受けて出雲に流され、永万元年(1165)に二条天皇崩御に伴い召還。後白河院政の安定と清盛の実権掌握にともなって従三位に叙せられ、その後は再度の出雲配流などの曲折を経て承安四年(1174)には従二位に昇進した。平家物語に拠れば、この頃に「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(平家にあらざれば人にあらず)と発言したらしい。これは棟梁清盛が出た伊勢平氏ではなく、同じ桓武平氏ではあるが高棟流の堂上平氏である自分の一門の隆盛を誇った、とも考えられている。
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平家一門が徐々に衰退し元暦二年(1185)に壇ノ浦で滅んだ時に源氏の捕虜となった際は死罪を免れ能登へ流罪となり、同行した一族と共に比較的おだやかに遇されて生涯を終えた。壇ノ浦で神鏡を守ったこと・娘が義経室になったこと・平家ではあるが武士ではなく文官だったこと・などが減刑の理由と推定される。
時忠と子孫の墓は能登半島先端に近い珠洲市の北部、国道249号そばの山裾に残っている。
平 時実 仁平元年(1151)~建暦三年(1213) 没年齢 62歳
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平時忠の嫡男で時家の兄。妹に義経の側妾・蕨姫がいる。
平家都落ちに従って壇ノ浦で戦い捕虜となって周防国(山口県)へ流罪が決まったが義経に接近し京に留まった。その後は頼朝に追われた義経に従って船出し、摂津国大物浦(尼崎の淀川河口沖)で難破して源氏軍に捕えられた。鎌倉に送られ文治二年(1186)に上総に配流、文治五年(1189)に許されて京に戻り、建暦元年(1211)には従三位に叙された。上総と鎌倉で弟時家の足跡と擦れ違っているのが面白い。時家による何らかの配慮があったのだろうか。
平 時家 不詳(不詳)~建久四年(1193) 没年齢 不詳
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平時忠の次男で時実の弟。妹に義経の側妾となった蕨姫がいる。平家一門として順調に栄達を重ねたが治承三年(1179)に折り合いの悪かった継母(藤原領子)の讒訴を受け、無実の罪で上総国に流された。その後上総廣常の婿となり、寿永元年(1182)には廣常に従って鎌倉に参上し、以後は頼朝に仕えて忠節を尽くした。平家が滅亡し廣常が粛清された後も頼朝の信頼は変わらず、高位の位階(従四位下)を持つ政治顧問として穏やかな晩年を過ごした、と伝わる。ただし兄の時実が仁平元年(1151)生まれだから時家の死没は43歳以下の筈で、穏やかな晩年と表現するには抵抗が残る。
平 重盛 保延四年(1138)~治承三年(1179) 没年齢 42歳
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平清盛の嫡男で生母は右近将監(右近衛府の三等官で従六位上相当)高階基章の娘(藤原忠実の娘と考える説もある)。
宗盛(異母)・知盛(同母)・建礼門院徳子(同母)・重衡(同母)の兄だが、母親の身分が低く係累の支援が薄かったため政治的な後ろ楯は弱かった。保元の乱と平治の乱を通じて父の清盛を助けて平家の繁栄に寄与した。清盛を補佐するだけではなく諫められる優れた人材として将来を嘱望されたなどと伝わるが、これらは史実ではなく悪役の清盛に対比させた平家物語の脚色である、ともされる。
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晩年は政治に対する意欲を失って父が死ぬ1年半前に惜しまれつつ病没した。異母弟宗盛の毒殺説もある。墓所は全国数ヶ所にあるが元々は六波羅の近くに埋葬されていた。近臣の平貞能が源氏の兵に踏み荒らされるのを嫌って掘り起こし、遺骨の一部を高野山に納めて周辺の土を賀茂川に流し、残りの遺骨とともに茨城県城里町
普明院小松寺
(
地図)に埋葬した。従って、高野山都小松寺が本命だろう。慰霊墓は鑁阿寺近くの善徳寺にもあり、これは重盛に臣従した藤姓足利氏の建立と思われる。詳細は
鑁阿寺の末尾の条を参照(地図以外はサイト内リンク)。
平 維盛(惟盛) 保元三年(1158)~寿永三年(1184) 没年齢 26歳
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平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。平氏一門の嫡流であり、宮廷にある時は美貌の貴公子として光源氏の再来と称された。
治承・寿永の乱では大将軍として出陣し全軍を指揮したが武将としての力量には欠けており、平家の命運を決した富士川の合戦(治承4年10月20日・1180年)では戦う前に逃げ帰り、倶利伽羅峠の合戦(寿永2年5月11日・1183年)では木曽義仲に敗れ、更に敗走中の加賀篠原の合戦(同6月1日)では壊滅的な敗北を喫し、最後尾の老将斉藤實盛や伊東祐清・俣野景久も戦死している。
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父・重盛の早世もあって一門の中では孤立していた。平家物語に拠れば、一門都落ちの後に戦場を離れ那智の沖で入水自殺した、とされる。
その他、那智から京へ戻り鎌倉へ向う途中の相模で病没、或いは紀伊国色川(那智勝浦町)に落ち延びて在地領主色川氏の祖になった、或いは駿河に逃れて現在の芝川町
(墓所あり)に住んだ、などの伝承が残る。同じ静岡の沼津千本松原には嫡子六代の墓(伝承・芝川墓所の末尾に記載)もあり、富士川合戦に始まる縁の深い土地だったのかも知れない。
平 宗盛 久安三年(1147)~文治元年(1185) 没年齢 39歳
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平清盛の三男で母は正室・時子。1179年に嫡男の重盛(異母兄)、1181年に棟梁である父の清盛が相次いで死んだため一門を継いだ。政治的手腕にも軍事的指揮能力にも欠ける凡人だったらしく、平家物語は「愚鈊で傲慢」と酷評している。義仲の進軍に対して決戦もできず都を捨て、更に一の谷・屋島の戦いに破れ壇ノ浦での平家滅亡を招いた。
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壇ノ浦では入水後に死に切れず捕らえられた(降伏とも)。頼朝は壇ノ浦合戦の前に範頼に宛てて「内府は臆病な性格だから自殺はできない、捕えて鎌倉に連行せよ」と書き送っている。鎌倉で頼朝と面談した際には同席者に「これでも清盛入道の子か」と臆病を嘲笑された。義経に従い京都へ送られる途中の近江篠原で昔の家人だった義経の部下・橘公長の手で斬首。
墓所は竜王町に近い滋賀県野州市にあり、近くで斬首された嫡男清宗と共に葬られたため、地元ではここを「平家最期の地」としている。
頼政の子・仲綱との名馬の貸し借り(頼政の郎党渡辺競は宗盛の愛馬「何両」を奪いたてがみと尾の毛を剃り落として「昔は何両、今は宗盛入道」の焼印を押して送り返した。激怒した宗盛は「なぶり殺しにするから必ず生け捕れ」と命じた、と平家物語は書いている。若ハゲだったか?)。
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壇ノ浦での醜態、鎌倉での命乞いなど評判の悪い逸話が多いが、当人は「清宗のため恥辱に耐えた(平家物語)」などと弁解していたらしい。また「玉葉」の寿永三年2月29日には一の谷合戦に敗れて屋島に逃げた宗盛が後白河に宛てて「神器と安徳天皇と女院を返すから讃岐国の支配権を認めて欲しい」と申し出て無視されている。生まれる時代を間違ったか。
平 知盛 仁平ニ年(1152)~文治元年(1185) 没年齢 34歳
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平清盛の四男で母は平時子。重盛(異母)・宗盛(同母)の弟で建礼門院徳子や重衡の同母兄。
治承四年(1180)5月には弟重衡とともに源頼政と以仁王を宇治川合戦で滅ぼし、寿永元年には源行家を美濃の墨俣川合戦で破った。義仲攻勢の際には都での決戦を主張したが宗盛は決心できず、一ノ谷~屋島で一族と共に敗走、壇ノ浦で安徳天皇の後を追い入水して果てる。
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凡庸な兄・宗盛と違って政治的な能力も高く軍事の指揮能力も優れており清盛の評価も高かったが病弱のため後継候補から外れた、と伝わっている。清盛の判断力も衰えていたか。人形浄瑠璃「義経千本桜」の碇知盛、能の船弁慶など派手な筋立てが多い。平家物語は「乳兄弟の平家長(家貞(貞能の兄)の子)と手を取り合って入水した」と書いている。
平 重衡 保元二年(1157)~元暦ニ年(1185) 没年齢 34歳
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平清盛の五男で母は平時子。宗盛・知盛・建礼門院徳子と同母の弟。治承四年(1180)5月に父の命令を受けて東大寺と興福寺を焼き討ちにし、更に大仏殿も延焼させたため恨みを受けた。翌年には墨俣川合戦で行家軍を破って義円を討ち取り、その後も平家軍を率いて良く戦ったが、一ノ谷合戦で敗れて捕虜となり鎌倉に送られた。誇り高い態度を崩さなかったため頼朝の厚遇を受け助命も検討されたが、南都寺院の要求を拒否して対立するほどの余裕はなく、壇ノ浦で平家が滅びた翌・文治元年夏に東大寺衆徒に引き渡され斬首された。墓は東大寺の北1km、京街道に面した真言律宗般若寺門前の塚と言われる。
平 教盛 大治三年(1128)~文治元年(1185) 没年齢 58歳
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忠盛の四男で清盛の異母弟、母は待賢門院(74代鳥羽天皇の中宮・75代崇徳と77代後白河の母)の女官だった藤原家隆娘、子に通盛・教経・業盛がいる。保元・平治の乱を通じ清盛に従って戦い功績を挙げた。鹿ヶ谷事件では娘婿の成経が関与して鬼界ヶ島に流されたが教盛の尽力で翌年に赦免されている。
寿永二年(1183)7月には義仲に追われて一門は西海へ都落ち、その後は勢力を盛り返して讃岐国屋島を本拠に水島合戦と室山合戦に勝利するが翌寿永三年(1184)2月の一ノ谷で惨敗し、嫡男の通盛・次男の教経(異説あり)・三男の業盛を失い、更に妊娠中の通盛の妻小宰相も入水自殺、失意に沈んだとされる。翌元暦二年(1185)の3月には壇ノ浦合戦に敗れ、兄の経盛と碇を結びつけ手を取り合って入水した。墓所は赤間神宮の七盛塚、前列一番右が参議中納言平教盛の慰霊墓とされる。
平 通盛(公盛) 仁平三年(1153)~寿永三年(1184) 没年齢 32歳
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教盛の嫡男で越前守。母は藤原資憲の娘、妻は小宰相、弟に教経・業盛・教子(修明門院藤原重子の母)など。養和元年(1181)3月には重衡に従って墨俣川合戦に勝利したが9月には越前に反乱が起き国人の軍勢に敗れて都に逃げ帰り、義仲の勢力が北陸に広がる結果となった。
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寿永二年(1183)4月には維盛の率いる義仲追討軍の大将の一人として出陣、通盛は主力と別れ3万騎で能登の平定に向ったが維盛軍7万騎が倶利伽羅峠で大敗、合流して撤退した通盛軍と共に篠原の合戦で壊滅した。同年7月に一門は都落ち、その後は室山合戦と水島合戦で義仲軍を破ってやや勢力を回復するが寿永三年の2月に一ノ谷合戦で敗れ、湊川(一ノ谷の5km東)で佐々木俊綱に討ち取られた。首は京に運ばれ獄門に掛けられ、妻の小宰相は一ノ谷から屋島に戻る船から入水自殺している。
平 教経 永暦元年(1160)~寿永三年(1184) 没年齢 25歳
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平教盛の次男、通盛の同母弟で業盛の同母兄。平家物語には比類なき勇猛な武者とされており、水島合戦・六箇度合戦・屋島合戦で奮戦を重ね、屋島では義経の楯になった佐藤継信を射殺している。
壇ノ浦では敵将の義経を追い回して逃げられ、生け捕ろうとして組み付いた30人力の安芸太郎実光・弟の次郎・力自慢の郎党の3人と戦って郎党を海に蹴落とし右手に次郎・左手に太郎を抱き締め「汝らは死出の旅の供をせよ」と入水した、と書かれている。ただし吾妻鏡では一ノ谷合戦で経正・師盛らと共に安田義定軍に討ち取られており、たぶん吾妻鏡の方が史実を伝えていると思う。(吾妻鏡の壇ノ浦での平家戦死者リストには記載されていない)。
平 頼盛 長承二年(1133)~文治二年(1186) 没年齢 54歳
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忠盛の五男で清盛の異母弟。生母(藤原宗兼の娘宗子・後の池禅尼)の従兄弟が鳥羽法皇の寵臣藤原家成で一族の人脈も広かった。
長男の清盛にも生母(白河法皇晩年の寵姫だった祇園女御の妹)係累の後楯はあったが、頼盛の同母兄・家盛(清盛の2歳下)が嫡子として家督を継ぐ可能性があった、とされる。しかし家盛は久安三年(1149)に29歳で病没し、清盛の家督相続が確実になると同時に正妻の唯一の子である頼盛が異母兄の経盛と教盛を抑えて清盛に次ぐ序列2位となった。
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その後は保元の乱(1156)・平治の乱(1159)を経て棟梁清盛が一族を統率し頼盛と重盛(5歳下の甥)がそれを支える体制が整った。平治の乱直後に頼盛は尾張守となって東国へ逃げようとする源氏の武者を牽制、翌元暦元年(1160)2月には頼盛郎党の平宗清が頼朝を捕えた。本来であれば斬られる筈だったが、平治物語は「家盛に似ていたため池禅尼が清盛に助命を懇願した」ことにより罪を減じて伊豆蛭島流罪となった、と書いている。実際には頼朝の生母の実家である熱田宮司家が上西門院(後白河の実姉・頼朝の仕官先)を動かし減刑を働きかけた、と考えるべきだろう。その中で「亡き家盛に面影が似ている若者を...」なる話が出た可能性がある、と思う。
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平治の乱後には重盛の官位が上がり重用されるに従って頼盛はやや清盛と距離を置き、清盛に従順ではあるが政権中枢から遠ざかって協力する姿勢を保った。寿永二年(1183)5月には平家一門は義仲によって都を追われ西海に落ちた。このとき頼盛は京都北部の山科に出陣しており、都落ちの連絡がなかったため置き去りにされた格好になる。都に戻った頼盛は一門の後を追わず後白河に保護を求めた。
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10月に頼朝の東国支配を認める宣旨の発行直後に頼盛は鎌倉に亡命、一条能保(後白河の院臣・従二位・権中納言・妻は頼朝の同母妹)や持明院基家(藤原通基三男・頼盛の娘婿・後堀川天皇の外祖父・正二位・権中納言)もそれに続いた。
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寿永三年(1184)1月に義仲が滅ぼされ、頼朝に所領の荘園を安堵された後の6月に権中納言として朝廷に復帰。元暦二年(1185)3月の一族が壇ノ浦で滅亡した後は出家して引退同様の暮らしを続け、ひっそりと死没した。
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一方で平宗清は頼朝に招かれ鎌倉に向う頼盛の供を拒み、零落した平家を見捨てるのを恥として西に向い屋島の宗盛軍に加わった。以後の消息は不明だが多分 一ノ谷か壇ノ浦で平家に殉じたのだろう。吾妻鏡には「屋島に往き宗盛に仕える」と書かれたのが最後で、伊賀に住んで柘植氏の祖となったとする説もあるが、根拠には乏しい。
平 盛時 不詳~建暦二年(1212)? 没年齢 不詳
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頼朝の右筆を務めた幕府官僚。当初は同僚だった大江廣元が公文所や政所の業務に専従するに従って幕府の重要文書の殆どに関与するようになり、政所知家事として公文書発行の責任者を務めた。無断任官した在京御家人を罵倒した頼朝の手紙は、頼朝の意向を受けた盛時が書いたとも伝わっている。
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廣元のように政策に直接関与する職務ではなく、主として頼朝の政務潤滑化を図るための個人的秘書ないし補佐官の色合いが強い。頼朝の没後は徐々に活動する場が減少し、吾妻鏡への登場は建暦二年(1212)2月が最後となる。
平 家貞 永保二年(1082)~仁安二年(1167) 没年齢 79歳
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伊勢平氏譜代の家人として平忠盛と清盛の二代に仕え「一の郎党」(愚管抄)と称された歴戦の武士。平家物語には殿上人に叙した忠盛を公卿たちの闇討から守った逸話が載っている。忠盛の没後は清盛に仕えて九州での勢力拡大に貢献した。平家物語は一ノ谷合戦で戦死と書いているが「玉葉」は既に他界していた、と書いている。嫡男家継は元暦元年(1184)夏の「三日平氏の乱」を主導して散々に戦って討死、二男の貞能は重盛の遺骨と夫人を守って関東に下り、数奇な運命を送っている。
平 家継 不詳~元暦元年(1184) 没年齢 不詳
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「平家一の郎党」(愚管抄)と称された家貞の嫡子。清盛の忠臣として伊賀国を差配し、軍事面で清盛を支えた武士。治承四年(1180)に以仁王の令旨を受けて蜂起した近江国の源氏勢力を鎮圧、寿永二年(1183)夏には伊賀に進出した源行家と戦っている。平家の都落ちには同行せずに伊賀で戦力を温存、一ノ谷合戦後の元暦元年(1184)夏に伊勢・伊賀の平家残存勢力を糾合して平信兼(山木兼隆の実父)・伊藤忠清らと共に大規模な反乱(三日平氏の乱)を起こした。伊賀守護大内惟義の館を陥落させ、近江国に進出して佐々木秀義を打ち取るなど善戦した後に敗れて討死した。
平 貞能 康治元年(1142)(推定)~康治元年(1142)(推定) 没年齢 92歳(伝承)
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清盛の忠臣であり平家一門随一の郎党と呼ばれた家貞の子。清盛と重盛に仕え、保元・平治の乱には父と共に清盛配下として参戦した。
治承四年11月には近江で挙兵した山本義経を討伐、翌養和元年(1181)には九州の治安が乱れ、肥後の豪族・菊池隆直が大宰府を襲ったため鎮圧に向った。苦闘の末に乱を平定し寿永二年(1183)に京に戻ったが義仲の攻勢に遭遇し、重盛の遺骨を掘り出して高野山に納めた後に平家一門を追って九州に落ちた。その後も平家の再興を図ったが、豊後の有力武士である緒方惟栄の寝返りなどで絶望して戦線を離脱し出家した。
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文治元年(1185)に至り宇都宮朝綱を頼って鎌倉に出頭、かつて朝綱らが平家に仕えて京にいた時に頼朝挙兵の報を聞き、関東へ帰ろうとした際に便宜を図った経緯により鎌倉に敵対した罪を許され、宇都宮に隠棲した。頼朝は「もし貞能が叛けば宇都宮一族の子孫を絶つ」と宣言したと伝わる。北関東の各所に重盛に関連する墓が点在するのは貞能による供養らしい。平家物語には更に劇的な展開が書かれている。(以下、概略)
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貞能は手勢の30騎ほどを引き連れて都に戻った。西八条にある屋敷の焼け跡で野営し後に続く平家の兵を待ったが、誰一人引き返してはこなかった。翌朝に貞能は亡き重盛の墓所へ走り遺骨を掘り起こして周辺の土を賀茂川に流し、遺骨を高野山に納めてから東国に落ちた。寿永三年(1184)に至り貞能は重盛の念持仏・釈迦如来立像(1.2m)を背負い重盛の叔母(母の妹)・妙雲禅尼を伴って宇都宮朝綱を訪ね保護を求めた。東国武士の宇都宮朝綱は平家都落ちの際に拘束され斬られる筈だったが知盛に助命された経緯があり、その時に面倒を見たのが貞能である、と。
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栃木~茨城の伝承に拠れば...
貞能は重盛の叔母妙雲禅尼と重盛の妻得律禅尼を伴い朝綱の家臣塩原家忠の配慮で草案を結んだ。建久五年(1194)に妙雲禅尼が死去すると甘露山妙雲寺(那須塩原市塩原665)に九重塔を建てて弔い、重盛の念持仏を納めた後に塩原を離れて大平山(益子町)に住み、鶏足山安善寺(益子町大平202)を開いた。さらに重盛の遺骨(の一部)を白雲山に葬り普明院小松寺を開いた。重盛の墓標とされる宝筺印塔と、その傍らには得律禅尼の墓が残る。貞能はその後も供養と修行を続け、文暦元年(1234)に92才で没した。遺骸は安善寺境内の地蔵堂床下に葬られた(或いは墓の上に地蔵堂を建てた)と伝わっており、寺の本堂には安善院室中大岩居士の位牌が保存されている。
平 知康 生没年 不詳 没年齢 不詳
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後白河の近臣を務めた北面の武士で検非違使・左衛門尉に任じた。鼓の名手としても知られる。入京後の義仲とは後白河の使者として数度面談し兵士の狼藉を鎮めるよう求め、最終的には寿永二年(1183)11月19日に法住寺殿に兵を集めて義仲軍と対決し、敗北して解官された。
元暦二年(1185)に検非違使に戻って京に駐留していた義経に接近したが義経の失脚とともに再び解官、元暦三年(1186)の年末か翌年早々に鎌倉に入り、処分保留のまま定住して頼家の蹴鞠の相手を兼ねて側近を勤めている。建仁三年(1203)の頼家失脚に伴って帰洛し、その後の消息は不明。
大貳局 生没年 不詳 没年齢 不詳
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甲斐源氏・加賀美遠光の娘で母は和田義盛の娘(姉妹説あり)。文治二年(1188)4月に女房(女官)として大倉御所に入り、頼朝の嫡子万寿(後の頼家)の養育係に任じた。同年9月に頼朝に拝謁して大貳局の名を与えられた。建久三年(1192)8月には千幡(後の実朝)誕生に伴い、引き続いて養育を担当し実朝の女官として筆頭の地位を占め、建保元年(1213)には滅亡した和田義盛の遺領・出羽国由利郡を下賜されている。
称名寺に運慶作の大威徳明王像を寄進している程だから大きな財政的・政治的な基盤も確保していたらしい(「吾妻鏡を読む」の文治四年7月4日を参照)。
退耕行勇 (荘厳房行勇) 長寛元五年(1163)~仁治二年(1241) 没年齢 78歳
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臨済宗の僧。最初は密教に帰依して鶴岡八幡宮の供僧となり、永福寺と大慈寺(十二所明王院の東にあった廃寺)の別当に任じた。正治二年(1200)に栄西が鎌倉に入った際には門下に入って参禅している。頼朝夫妻の深い帰依を受け、正治元年(1199)には政子の、建保五年(1217)には実朝の正室坊門信子の、貞応三年(1224)には北條義時の継室伊賀方が落飾する際の導師を務めている。
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建永元年(1206)には栄西を継承して東大寺大勧進職(復興の総責任者)に就き、承久元年(1219)には高野山で禅密兼修の道場・金剛三昧院を開いた。鎌倉では泰時開基による常楽寺と東勝寺と、足利義兼開基による浄妙寺の開山和尚を務めている。鎌倉に於ける禅宗の開祖である。
高階 泰経 大治五年(1130)~建仁元年(1201) 没年齢 70歳
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近衛天王の蔵人を経て後白河天皇に仕え、河内守・出羽守・摂津守・少納言・右京大夫を歴任した後白河院の近臣。主として武家との折衝などに任じたが政権中枢近くにいたため毀誉褒貶も多く、治承三年(1179)には清盛による後白河院の鳥羽幽閉に伴って解官、寿永二年(1183)には義仲による法住寺合戦の際に解官、文治元年(1185)11月には頼朝追討の宣旨を行家・義経に与えた責任で12月に解官され同29日に伊豆に流罪。いずれの事件も彼の責任ではないのだが...すまじきものは宮仕え、か。
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義経が京を脱出した後に泰経は書状を送り
「頼朝追討の院宣に関しては私の企みではなく義経らの武威を恐れて奏上したに過ぎない。行家と義経の謀反は天魔の所業で、宣下がなければ宮中で自殺すると言うため当座の難を避けるため院宣を発行した。院の叡慮に拠るものではない。」と謝罪した。頼朝は返状を書き
「私の忠義がなぜ反逆なのか。叡慮と言えない院宣を発する方が大天狗である。」と詰め寄っている。大天狗=泰経説もあるが(間接的に)後白河を差すと考える方が自然だろう。大魔王あるいは大悪党ほどの意味か。
その後の泰経は文治五年(1189)に再出仕が許され、建久二年(1191)には正三位に昇進している。
高階栄子(丹後局) 仁平元年(1151)~建保四年(1216) 没年齢 76歳
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父は高位の僧、生母は建春門院(院政時代の後白河妃で高倉天皇の生母)の乳母を務めた平正盛(清盛の祖父)の娘とする説がある。
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後白河院の近臣だった平業房の妻となり、治承三年の政変で夫が清盛に処刑された後は後白河の愛人となって覲子内親王を産み、法皇の寵愛を得て政治にも関与するようになった。後に政敵となる九条兼実は玉葉で「朝務は偏にかの唇吻にあり」と書いて政局を嘆いている。
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平家都落ち後に後鳥羽を推して安徳天皇廃位を薦めたのが彼女だったと伝わっている。平家の滅亡後は頼朝や大江廣元と接点を持ち、文治三年(1187)には従三位・建久二年(1192)には覲子内親王の院号宣下(→宣陽門院)に伴って従二位となった。翌年の後白河死没後には山科に遺領を相続、同様に長講堂(三十三間堂)領を得た宣陽門院と協力し、九条兼実と対立した。彼女は兼実と対立しつつ贈物などを介して頼朝にも接近する老獪さも持っていたらしい。
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大姫入内を図った頼朝は結果的に兼実を見捨て、朝廷の実権は丹後局と土御門通親が握る結果となった。建仁二年(1202)に通親が死没した後は建久九年(1198)に土御門に譲位して本格的に院政を開始した後鳥羽によって急速に権威を失い、亡夫業房の所領だった浄土寺に隠居した。
武田(源) 義清 承保ニ年(1075)~久安五年(1149) 没年齢 74歳
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河内源氏で常陸介となった新羅三郎義光(源義光を参照)の三男(次男とも)、母は常陸平氏・平清幹(義光の命令を受け河内源氏の四代目頭領である義忠を暗殺したが口封じのため義光に殺された)の娘。兄の義業は久慈郡の武田郷を相続して佐竹氏の祖となり、義清は那珂郡武田郷(現在のひたちなか市武田)の管理を任され、武田冠者を名乗った。
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後に同じ地域の豪族大掾氏と争って勅勘を受け、嫡男清光と共に甲斐の市河荘(現在の市川大門)に流された。白河上皇が定めた「田畑の源義家等への寄附を禁ずる布告」(寛治五年・1091)に違反したためとされるが、長秋記(村上源氏の権大納言・源師時の日記)の大治五年(1130)の項には「清光濫行(乱行)」の記載があり、翌天承元年(1131)に武田郷を追われ別領の市河荘への移住を余儀なくされたらしい。
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義清は天永年間(1110~1113)に市河荘の下司(実務担当の荘官)に着任し、天治元年(1124)には目代(天治元年)を務めた。結果的には甲斐に土着して大きく勢力を伸ばし、甲斐源氏発展の基礎を築いた。子孫には武田・小笠原・浅利・三好・南部などがある。
市河荘のあった現在の市川大門平塩には館の跡、甲府市昭和町にも館の跡と義清塚(墓と伝わる)が残っている。史蹟の画像などは
常陸武田郷・
甲斐市河荘・
甲府の義清神社で(いずれもサイト内リンク)。
逸見(源) 清光 天永元年(1110~仁安三年(1168) 没年齢 59歳
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義清の嫡男。大治五年(1130)に父と共に常陸から甲斐の市河荘に流され、現在の清光寺(北杜市長坂町)一帯を本拠にして逸見(へんみ)荘に勢力を伸ばし逸見冠者を名乗った。父の義清や長男の信義と違い清光は武田を名乗っておらず、甲斐源氏の頭領は義清から嫡孫信義に継承されたらしい。
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武田信義・加賀美遠光・安田義定・平井清隆・河内長義・曽根厳尊・浅利義成・八代信清など息子の多くが甲斐国各地で勢力を伸ばし甲斐源氏諸流の始祖となった。清光は詰めの城として八ヶ岳山麓の大泉に築いた
谷戸城で没して北の出丸に葬られたが、菩提寺は館跡の清光寺に移されている。この付近には河内源氏の祖である甲斐守源頼信とその嫡男頼義が所有した私牧の荘園があり、義光が源氏の守護神を祀って神領と社殿を寄進した八幡大神社があったが、水害で流失し現在は水田の隅に小さな社殿が残されているのみ。詳細は
清光寺と八幡大神社で。
逸見(武田) 光長 大治三年(1128)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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清光の長男で武田信義の双子の兄とされるが異説もある。「同年生れの異母兄弟説《に拠れば光長は父の本領を継いで逸見氏の祖となり、庶子の信義は韮崎の釜無川西域(現在の
武田乃郷一帯)を与えられ武田の祖になった、と主張している。
清光が築城して一時期の本拠とした谷戸城(逸見城・北杜市大泉)南1kmにある深草館跡(金生遺跡の南側)は光長の館跡、また谷戸城の西300mの安楽寺は治承四年(1181)に光長が真言宗大通院として開いた道場だったと伝わる。
頼朝挙兵の際は上総介として上総にあり、甲斐源氏の挙兵に加わらなかった。その後も史料には現れず、甲斐源氏の主流は信義の系統に移ったと思われる。子孫には大桑氏や深津氏がある。
武田 信義 大治三年(1128)~文治二年(1186) 没年齢 58歳
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清光の次男。甲斐源氏の四代目であり甲斐武田氏として初代、一条忠頼・逸見有義・石和信光・板垣兼信の父。保延六年(1140)に武田八幡で元服し、武田太郎信義と名乗った。その時から武田八幡は甲斐武田一族の氏神となっている。
治承四年(1180)4月の53歳の時に以仁王の令旨を受け、頼朝に呼応して一族と共に石和で挙兵、9月には信濃国伊那の平氏軍を討伐し10月には駿河へと転戦、同月18日には頼朝軍と合流した富士川で平家軍を敗走させた。その功績により駿河守護に着任、その後は源義経の下で義仲追討・一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦して更に功績を挙げた。
幕府成立後は甲斐源氏の実力を警戒した頼朝の圧力を受け失脚。後白河法皇による信義を頼朝追討使に任じた噂(養和元年・1181に流布)が元で駿河守護を解任され、鎌倉で「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」との起請文を書かされた。 元暦元年(1184)6月に嫡子一條忠頼が鎌倉で暗殺され、文治二年(1186)3月9日に失意のまま病没、墓所は韮崎市の願成寺(
武田乃郷に記載)にある。
武田(一條) 忠頼 天養二年?(1145?)~元暦元年(1184) 没年齢 37歳
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甲斐源氏を率いた武田信義の嫡男。逸見有義・石和(井澤)信光・板垣兼信の兄。甲斐国一条郷(増穂町)を領有した。弓の名手で武芸に秀でたとされ、義仲と戦って粟津へ追い詰め「よき敵」と賞賛された。父や一族と共に平家追討に各地を転戦して功績を挙げたが、家督を狙う弟・信光と甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝の共謀によって鎌倉に呼ばれ、6月16日に小山田有重・天野遠景らにより謀殺された。その後も甲斐武田一族は再三にわたる頼朝の粛清を受けて勢力を減じられ、頼朝に協力した信光と二男信長(一條氏を継承)が引き継いでいる。
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後に一條氏の名蹟を惜しんだ信玄が異母弟の信龍に継がせて砦と館を設け甲府盆地の南西部を統治させたが、天正十年(1582)の武田氏滅亡に伴って徳川氏の支配下に入った。この館跡は浅利地区の西・笛吹川南岸の高台にある蹴裂神社(三郷町歌舞伎文化公園の北側・
地図)にあった。
本来の忠頼居館は一條小山と呼ばれた現在の甲府城一帯だと推定されている。夫の死後に忠頼夫人は菩提を衷うため館に尼寺に建て、後に家康の甲府築城に伴って甲府駅の南・遊亀公園の北隣に移り一蓮寺と改名された。
墓所は甲府盆地の南、増穂町の西・ 櫛形山に向う登山道の近く に残る。ここは妙楽廃寺跡であり、一條氏の出城・川久保城の跡とも推定されている。
武田(逸見)有義 不詳(不詳)~正治二年?(1200?) 没年齢 不詳
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甲斐源氏武田信義の長男または三男または四男(一条忠頼・板垣兼信・有義・武田(石和)信光の順か)。甲斐源氏の挙兵は頼朝挙兵(8月17日)とほぼ同じ頃と推定されるが、両者が事前に打ち合わせて連携したのではなく、平家の発行した「源氏の源氏追討令」に対応した時期が重なった、に過ぎない。
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吾妻鏡が9月15日に書いている
「甲斐源氏の武田信義と一條忠頼は石橋山合戦の情報を聞き頼朝に合流するため駿河を目指すのを考えたが、まず信濃の平家方の追討に向った。伊那郡大田切郷の城(駒ヶ根市)を落とし、神託に従って近在の平出郷・宮所郷など(現在の辰野町)を諏訪大社に寄進した。」は編纂者による曲筆だろう。ただし当時の甲斐源氏はアンチ平家に意思統一されておらず、やがて頼朝による分断・粛清政策を招いてしまう。
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一条忠頼は元暦元年(1184)6月に鎌倉で謀殺され失意の信義は実質的に失脚、板垣兼信は建久元年(1190)に隠岐配流、加賀美遠光の系(長男秋山光朝は粛清)と信義の末子石和信光の系統が頼朝に臣従して命運を保つことになる。小笠原氏・石和氏と並んで甲斐源氏の主流となった有義は文治四年(1188)に八幡宮の式典で頼朝の剣役(太刀持ち)を渋って面罵され、急速に求心力を失った。最終的には頼朝没後一年目の正治二年(1200)に起きた梶原景時一族の謀反嫌疑に同意したとの罪を問われ失脚した(末弟・石和信光の根拠の乏しい密告による)。
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こうして甲斐源氏は武田を名乗った信光、加賀美を名乗った遠光と二男小笠原長清と三男南部光行が生き残っていく。
武田(板垣) 兼信 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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甲斐源氏武田信義の二男。頼朝挙兵に呼応し父や兄弟と共に駿河で平家軍と戦い軍功を挙げ、一の谷合戦では範頼指揮下で戦い功績を挙げた。兄の忠頼が殺された後は武田氏棟梁として期待されたが同族を排斥する頼朝の政策は続き、文治五年(1189)には駿河国大津御厨(静岡県島田市)の地頭職を剥奪され、建久元年(1190)には遠江国双侶荘(静岡県金谷町)の地頭職も剥奪されて隠岐へ流された。以後の消息は不明。背後に弟・信光の策謀が推定される。
武田(秋山) 光朝 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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甲斐源氏 加賀美遠光の長男。弟に小笠原長清、南部光行、加賀美氏を継いだ光経、於曽光俊、姉妹に実朝に仕えて筆頭の女官となった大弐局らがある。甲斐国巨摩郡秋山村を本拠として住して秋山太郎を名乗り、治承四年(1180)の頼朝挙兵後は源義経の旗下に加わって屋島合戦や壇ノ浦合戦に従軍し、平重盛の娘を妻に迎えた。平家滅亡までは平家滅亡後は頼朝警護を務めるなど重用されたが、甲斐源氏の弱体化を図る頼朝の政策により謀反の嫌疑を受け、鎌倉で殺された。一説に、本領の西にある雨鳴城で鎌倉の討手と戦い自刃、鎌倉軍の先鋒は実弟の小笠原長清だったとも。実子の数人は加賀美氏の庇護を受けて生き延び、信玄の嫡子・勝頼が天目山で滅亡した際には秋山姓を名乗る多くの郎党が共に戦っている。光朝関連の情報は
(サイト内リンク・別窓)に詳細を載せた。
武田(井澤・石和) 信光 応保ニ年(1162)~宝治ニ年(1248) 没年齢 87歳
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甲斐武田氏の第五代当主で第四代武田信義の三男、一條忠頼と板垣兼信の弟。頼朝挙兵に呼応し父と共に駿河で平家軍と戦い軍功を挙げる。性格にやや問題があり(笑)、当初は義仲と親しかったにもかかわらず頼朝に讒訴し、それが遠因となって頼朝が義仲追討を決意した、とも言う。
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義仲追討や一の谷の平家追討にも功績を挙げ、嫡子ではなく三男だったが讒言と謀略によって兄の忠頼と兼信を暗殺・失脚させ、甲斐源氏の棟梁となった。頼朝と北條時政は甲斐源氏の軍事力を警戒して勢力の削減を企て、その代償に家督を相続したい信光の野望を認めた、と言われる。このため甲斐源氏の力は極端に衰退した。
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その後は頼家の命令による阿野全成討伐や北條時政の意向を受けた和田合戦などに加わり、承久の乱には東山道の大将として活躍した。後に出家して家督を子の信政に譲って引退し伊豆入道光蓮を名乗る。伊豆韮山の信光寺の縁起には「時政の命令で修禅寺に幽閉されていた頼家の様子を確認した信光が帰り道で暗殺されたのを知り、無常を感じて出家し信光寺を開基した」とあるが、当時の信光は42歳、資料に拠る信光の出家は延応元年(1239)・77歳なので、韮山信光寺の件は史実と異なる。墓所は北杜市須玉町の信光寺、位牌を収蔵している。
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現役時代には武芸の評判が高く、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆と共に弓馬四天王と呼ばれた。本拠とした石和館跡は甲府市小瀬町のJA集出荷場の裏にあったと伝わる
玉田廃寺付近で、現在では数体の石地蔵や墓石が残るのみ。その他信光の史蹟は
こちらに列挙した。
小瀬町一帯は小笠原長清(加賀美遠光の次男)の所領稲積荘があった地で、承久の乱で官軍の中心人物権中納言源有雅も
稲積荘で斬首された。
太夫坊覚明 生誕は諸説あり 1156年 1157年 1166年 など~仁治二年(1241) 没年齢 伝65歳~75歳
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信濃の名族滋野氏の嫡流海野氏13代海野幸親の次男・小太郎幸長が出家し、後に太夫坊覚明を名乗ったとされる(否定説あり)。元は興福寺の学生で後に比叡山で出家したらしい。平家物語に拠れば、以仁王を匿った園城寺(三井寺)からの応援依頼に援助を約束し、清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」と罵った。源平盛衰記に拠ればこの噂を聞いた清盛が暗殺者を向け信救(当時の名乗り)の殺害を狙ったため東国へ逃げた、と。
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1年後に三河で出会った行家と共に鎌倉に入った後に志田義廣の元を経て義仲の傘下に入り、祐筆と軍師を兼ねる役を務めた。倶利伽羅峠合戦前に白山へ送った「木曽殿願書」(所領寄進の約束)や義仲入京の直前、軍勢の進路にある比叡山に宛てた説得の書状は覚明の作とされる。
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法住寺合戦(寿永二年(1184年1月3日)義仲が院の御所法住寺殿を襲って後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉し政権を掌握)の頃に義仲と別れ、素性を隠して箱根権現の僧となった。吾妻鏡の建久元年(1190)5月3日には頼朝の妹坊門姫の追善供養に加わり、同六年(1195)10月13日には箱根権現への蟄居を命じられている(素性がバレたか)。後に親鸞や法然に帰依して仏道に専念したともされるが確証はない。
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文筆などの能力が特に優れており、箱根権現縁起の制作に関与したあるいは平家物語や曽我物語、義経記などの著者とする説もある。特に曽我物語は曽我十郎の愛人だった虎御前の語った由来を箱根の僧が広めたのが端緒であるとする説があり、それが覚明だと想像するのは実に面白い。
田代 信綱 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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生母は平安末期の狩野氏棟梁・茂光の娘、父は伊豆国司(とされるが確認不可)藤原為綱。茂光の元で育ち、大見郷との境にある
田代砦(サイト内リンク)を本領とした。伊東八幡野で河津祐泰を射殺した大見成家が討たれたのがこの近くで、曽我物語は
「狩野境へ追い詰めて首を刎ねた」と書いている。詳細は
大見小藤太の墓(サイト内リンク)で。石橋山合戦後は日金山を経て狩野へ落ちる途中で伊東祐親の兵に囲まれ自刃を覚悟した茂光を介錯、ここでは同行した時政の長男宗時も討死した。頼朝が覇権を握った後は函南の要衝・田代地区(
地図)も恩賞として領有している。鎌倉大町にある
安養院(サイト内リンク)の前身・田代寺を建てて持仏の観音像を祀っている。
多田(源・蔵人) 行綱 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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経基王→ 満仲→ 頼光→ 美濃守頼綱と続く摂津源氏は頼綱長男の明国が本領の多田荘(兵庫県川西市~猪吊川町一帯・
地図)を相続して多田を名乗り、二男の行政は京に留まって白河院・鳥羽両院に仕えて在京の軍事貴族となった。行政の嫡男が摂津源氏嫡流の三位頼政。
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一方の明国は乱暴が影響して佐渡流罪となり、更に国司を妨げて召喚され失脚したらしい。多田荘を継承した嫡子の行国は父と同じく摂関家に使えたが、多田源氏は明国の流罪などが影響して勢力を落とした。行国の没後に長男頼盛と三男頼憲は多田荘の支配権を巡って争い、保元の乱(1156)では頼盛が後白河方として勝利したが頼憲は崇徳上皇方の頼憲は嫡男盛綱とともに斬首された。
多田源氏嫡流を確保した頼盛の嫡男が行綱、摂津国多田の地に武士団を組織した満仲(全ての清和源氏に共通の先祖)から八代目である。
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その後の行綱は平家に従って勢力を維持していたが寿永二年(1183)には義仲に呼応して摂津と河内で挙兵、摂津では物資の輸送ルートを制圧して義仲や関東勢と共に京都包囲網を築き平家の都落ちを早める功績を挙げ入京を果たした。その後は義仲と後白河の関係悪化から11月の法住寺合戦となり、院御所を守っていた行綱は多田荘に籠って抵抗、義仲滅亡後は頼朝に与し一ノ谷合戦(1184年2月)では義経軍の武将として活躍している。この時期前後に義経と比較的近い関係が出来上がったらしい。
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平家滅亡後の元暦二年(1185)6月に頼朝は多田荘を没収し行綱を追放処分に処した。これは義経の与党と判断されたこと、頼朝にとっても先祖である満仲の本領多田荘を欲しかったこと、更には同族の有力者を排除したい意識があったこと、などが考えられる。文治元年(1185)11月5日に大物浜を目指した義経一行に川尻で矢を射掛けて戦った。義経との敵対関係をアピールし、所領返還を実現したかったと思われるが処分の撤回はなく行綱の消息は不明、多田荘は大内惟義預かりとなって一族が復権することはなかった。
橘(右馬允) 公長 生没年 不詳 没年齢 不詳
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元々は知盛の家人で武勇と智謀に優れた武士で、幼少の頃から京都の周辺で成長したため故実に詳しく、言葉も巧みだったらしい。富士川合戦後に平家を見限って京を脱出し加賀美(小笠原)長清の口利きを経て治承四年に頼朝の傘下に加わった(12月19日の吾妻鏡に記載あり)。30年ほど前に源為義の家人だった斎藤實盛らと粟田口で喧嘩した際に為義が實盛らを制して訴えなかった事があり、それを源氏から受けた恩と考えていたという。京の事情に詳しかったため頼朝に重用され、頼盛帰洛の宴に同席したり宗盛斬首を受け持ったり重衡最期の様子を頼朝に報告したりした。平家物語は、京の人々が旧主を裏切った変わり身の早さを憎んだ、と書いている。
橘(橘次) 公成(公業) 生没年 不詳 没年齢 不詳
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公長の二男で兄は公忠、父に従って平家を見限り頼朝の傘下に入った。弓の名手として名高い。奥州合戦の恩賞として出羽国小鹿島(現在の男鹿市)の地頭に補任され、大河兼任の乱後は更に秋田郡(潟上市~秋田市)を得た。承久三年(1221)には長門国守護となり、嘉禎二年(1236)には本領の伊予国宇和郡(愛媛西南部)を西園寺公経に譲り代替として肥前国杵島郡長島庄・大隅国種ヶ島・豊前国副田庄・肥後国球磨郡久米郷を与えられ子孫は肥前国(熊本県)を中心に勢力を広げ、旧領にちなんで小鹿島氏として繁栄した。
楯 親忠 不詳(不詳)~元暦元年(1184) 没年齢 不詳
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根井行親の六男で義仲四天王の一人。治承四年(1180)の挙兵から義仲に従って転戦し、寿永二年(1183)10月には平家を都落ちさせて入京した。寿永四年(1184)1月には鎌倉方の大軍と戦い、宇治川の合戦を経て六条河原で討死(母親と上野国に逃げたとする説あり)。根々井の行親館跡から南へ10km強にある舘集落が館の跡とされ、農地の中に多少の遺構が残る。地図は
こちら。
丹後内侍 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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頼朝の乳母である比企の尼の長女で頼朝の側近安達籐九郎盛長の妻。比企家に伝わる吉見系図に拠れば、二条院(藤原育子)の女房だった時に惟宗広言(平安の歌人)の子である惟宗忠久(薩摩家祖)を生み離縁、関東へ帰って安達盛長に嫁した。常に頼朝の身近にいたため男女の関係だった可能性があり、島津氏では忠久が頼朝の子であるとしているが根拠はかなり薄弱。「丹後局の墓」で検索すると実に様々な情報が得られて面白い。
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吾妻鏡に拠れば安達の嫡男・景盛を産んでいる。景盛の子孫である宗景が「私の曽祖父・景盛は頼朝の落胤だから源氏を名乗る」と主張し、弘安八年(1285)の1月に謀反を疑われて一族滅亡を招いた霜月騒動の引き金になった。
湛増 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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熊野三山(
那智・
速玉・
本宮)を統括する21代別当で18代湛快の次男、熊野水軍の指導者。為義の娘(頼朝の叔母、行家の姉)鳥居禅尼は湛増の妻の母にあたる。伊勢神宮は古くから源氏との関わりが深く、熊野は平氏のために祈祷をするなど縁が深かったが瀬戸内海での合戦を前にして源平双方から助力を求められた。
迷った末に田辺の神社(現在の
闘鶏神社)で赤い鶏と白い鶏7羽づつを戦わせて神託を求めたところ全て白い鶏が勝ち、意を決した湛増は義経が指揮する源氏軍に加わり、兵船二百余りと軍勢二千を従えて壇ノ浦合戦へ。これはそれ以前から京都に屋敷を構えて源平両方の情報を集めており、その結果を表したものと推定される。
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実際にはその数年前から熊野の僧兵が平家の拠点だった伊勢・志摩一帯を襲撃略奪しており、湛増は既に戦局の帰趨を見抜いていたらしい。ちなみに平家物語や源平盛衰記では弁慶の父親が湛増であり、弁慶は義経の命令で熊野水軍の助力を求めたとされるが根拠には乏しい。軍記物語の脚色だと考えるべきだろう。
秩父 重隆 不詳(不詳)~久寿二年(1155) 没年齢 不詳
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秩父平氏の一族で武蔵国の在庁官人秩父重綱の次男。畠山(現在の川本)へ移った畠山氏の祖となった長男の重弘に代って秩父平氏の棟梁となり、武蔵国留守所総検校職(不在国司の職を代行する在庁官人)として武蔵国有数の勢力を誇った。
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重隆は利根川を挟んで西の藤姓足利氏・北の新田氏と抗争を繰り返し、更に重弘の嫡男重能(重忠の父)とも対立していた。仁平三年(1153)には源為義の次男義賢を婿として大蔵館に迎え勢力の拡大を図っていた。当時の義朝は京都に駐在し、鎌倉で父の留守を預かる長男の義平が新田義重や畠山重能と連携していたため、義賢の行動は為義が不仲だった嫡男の義朝を牽制する意図による、と考えられる。
更に重綱の後妻が義平の乳母という複雑な縁戚関係だった。重弘と重隆が同母だったか異母だったか、もし異母なら重綱の生母だったか、などは判っていないが、重綱から重隆(二男)に続いた秩父平氏嫡流と、重綱→重弘(長男)→重能と続いた畠山氏の間に相続を巡る遺恨があったのは間違いない。それが周辺の武士団を巻き込み、源氏の内部抗争をも巻き込んだのが大蔵合戦である。
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久寿二年8月、父義朝の命を受けた義平が大蔵館を襲って秩父重隆と義賢を討ち取り、唯一生き残った幼い駒王丸が成長して木曽義仲となる。武蔵国留守所総検校職は畠山重能ではなく重隆の嫡孫河越重頼(父は葛貫能隆)が継承したが、秩父平氏の実質的な棟梁は畠山氏に移ったと考えて良い。そして治承四年10月、下総で兵を纏めた頼朝は住田河(現在の隅田川)を渡って武蔵国を経て鎌倉に向かい、父の重能が在京していたため秩父平氏を統括する立場にあった畠山重忠は同族の小山田・河越・江戸・葛西の諸氏を纏めて頼朝に帰順し、鎌倉入りの先陣を務めることになる。
千葉 常胤 元永ニ年(1118)~建仁元年(1201) 没年齢 83歳
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鎌倉幕府草創期の有力御家人で平常重の子。保延元年(1135)には下総相馬御厨を相続し支配権を争って国守の藤原親通や源義朝・平常澄らと対立したが、保元の乱では義朝の部下として参戦した。上総廣常とは又従兄弟にあたり、下総国千葉を本拠とし下総権介に任じられる。
治承四年8月に頼朝が挙兵し石橋山で敗れ安房へ逃げると一族を率いて従軍し平氏の追討に尽力した。富士川合戦後の佐竹氏討伐により相馬御厨の所有権を回復、幕府の樹立後は頼朝の深い信頼を得て下総守護となる。奥州藤原氏討伐にも従軍し功績を挙げて東北の各地や九州南部に所領を得た。上総一族の没落後は亥鼻城(現在の千葉城)を本拠に上総と下総を領有した。
千葉大学医学部周辺の「七天王塚」が常胤とその兄弟の墓とも言われているが将門七騎武者の墓説や古墳・土塁説もあり、明確ではない。
千葉 胤正 永治元年(1141)~建仁三年(1203) 没年齢 62歳
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千葉常胤の嫡男で千葉氏四代棟梁、母は秩父重弘(畠山重忠の祖父)二女。治承四年の頼朝挙兵の際は父に従って参戦し、その後も奥州合戦などで功績を挙げた。頼朝の信任が厚く、治承五年(1181)4月7日の吾妻鏡には
「御家人の中から弓術に優れ忠義心の高い者を選び毎夜寝所近くに詰めるように定めた」とされる11人の武者の中に名前がある。父常胤が没した2年後に死去した。
千葉(相馬) 師常(師胤) 保延五年(1139)~元久二年(1205) 没年齢 66歳
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千葉常胤の庶子(二男)で相馬氏の初代当主。父常胤と共に頼朝挙兵に参加し、源平合戦では源範頼の軍勢に従って転戦した。文治五年(1189)には奥州合戦に参加の勲功によりより頼朝から八幡大菩薩の旗を下賜された、と伝わる。建仁元年(1201)に父の常胤が没した際には家督を嫡男義胤に譲って出家し法然に帰依している。信心厚い性格は庶民からも深い敬愛を受けた。野馬追いで有名な福島県相馬市の相馬神社(1879年創建)は師常を祭神として祀っている。
千葉(武石三郎) 胤盛 久安二年(1146)~建保三年(1215) 没年齢 69歳
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千葉常胤の二男で母は秩父重弘の娘。千葉郡武石郷(現在の千葉市花見川区幕張駅一帯・
地図)を継承して武石氏の初代となった。父常胤や兄弟と共に頼朝挙兵に参加し、義仲追討・源平合戦・奥州合戦を転戦し、父が恩賞として得た陸奥国所領の宇多郡・伊具郡・亘理郡の一部を譲渡された。子孫は本拠を亘理郡に移して南北朝時代から亘理氏を称し、本領の武石に残った系は千葉氏・里見氏に仕えている。
千葉(大須賀) 胤信 永承五年前後(1150年前後)~建保三年(1215) 没年齢 65歳前後
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千葉常胤の四男で母は秩父重弘(重忠の祖父)の娘。治承四年の頼朝挙兵の際は父の常胤と共に参陣し、その後も富士川合戦・佐竹氏討伐・一ノ谷合戦などを転戦した。元々は多部田(千葉市東部)を相続して多部田四郎を吊乗っていたが頼朝の信頼が篤く、寿永二年(1184)12月の上総廣常の粛清に伴って廣常遺領の大須賀保(千葉県北東部)を与えられて地頭に任じ、大須賀氏の初代となった。文治五年(1190)の奥州合戦では東海道を北上する軍勢の大将を務めた。正治二年(1200)には軍功により陸奥国好島庄(現在のいわき市)を与えられ、老齢が近づいた承元元年(1208)には所領と預所職を二分して嫡子通信と四男胤村に分け与えた。建暦三年(1213)5月には和田合戦で挙げた勲功によって甲斐国井上庄を得ている。
千葉(国分) 胤通(胤道) 久安三年前後(1153年前後)~不明 没年齢 不明
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千葉常胤の五男で母は秩父重弘(重忠の祖父)の娘、通称は五郎左衛門尉。頼朝挙兵の際には父や兄弟と共に参戦、1189年の奥州合戦や1205年の畠山重忠追討にも加わっている。下総国葛飾郡国分郷(千葉県市川市国分・
地図)に住んで国分氏の祖となり、後に香取郡矢作郷(香取市本矢作・
地図)に本拠を移し、父からは矢作郷の北に隣接する大戸荘(香取市大戸・
地図)を譲られている。建久六年(1195)の東大寺大仏殿落慶法要にも頼朝に供奉、頼家から実朝まで三代の将軍に仕えた。
千葉(東) 胤頼 久寿二年(1155年)~安貞二年(1228) 没年齢 73歳
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千葉常胤の六男で生母は上明。以仁王挙兵の際には大番役として在京しており、宇治川合戦後に三浦義澄と共に関東に下って頼朝に情勢を報告した。この際に挙兵に関して何らかの打合せ或いは指示があったと推定される。その後は一族と共に上総と下総の平定から平家討伐・奥州合戦を戦い、常胤から東荘(橘荘とも。千葉県東部の旭市・東庄町・銚子市)を相続して東氏の祖となった。建久元年(1190)10月の頼朝上洛に随兵として従ったのが史料に現れた最後で、この直後に嫡子の重胤に家督を譲って隠居したらしい。晩年には出家して法然に帰依し、法阿弥陀仏を称した。
千葉 成胤 久寿二年(1155)~建保六年(1218) 没年齢 63歳
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千葉胤正の嫡男で千葉氏五代棟梁、母は上総廣常の娘。治承四年の頼朝挙兵の際は祖父の常胤と父胤正に従って参戦し、その後も奥州合戦などで功績を挙げた。建仁三年(1203)には父胤正の死没によって当主を継承、建暦三年(1213)には泉親衡の乱を未然に防ぎ、続く和田合戦では義時に味方して軍功を挙げた。
千葉(境) 常秀 不詳(1160年頃?)~仁治元年頃(1240頃) 没年齢 78歳前後か
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千葉胤正の次男で成胤の異母弟、生母は不詳。祖父常胤に従って範頼軍に加わり周防と豊後を転戦し、平家滅亡後の奥州合戦では常胤と共に東海道を北上し多賀城に入っている。境川(現在の村田川・市原市)流域を本領とし、他に現在の茂原市周辺に数ヶ所の所領を持った。
建久元年(1190)と建久六年(1195)の頼朝上洛には二度とも従っている。頼朝没後には頼家・実朝に仕え、実朝の右大臣拝賀後の暗殺事件にも遭遇し、更に四代将軍藤原頼経にも近侍した。官位などは千葉氏宗家を継いだ兄の成胤を越え、親王親刻である上総国衙のトップ・上総介に任じ、更には上総守護の地位も得て上総広常の遺領も継承したらしい。
中条 家長 長寛三年(1165) - 嘉禎二年(1236) 没年齢 72歳
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横山党小野氏の中条兼綱(義勝法橋盛尋)の息子で本領は斎藤実盛の本領だった長井庄(熊谷市北部)の南に隣接する中条。頼朝挙兵後は範頼に従って転戦し、一ノ谷合戦では藤次家長の名で記録されている。平家滅亡後は文治五年(1189)の奥州合戦・翌年の大河兼任の乱・元久二年(1205)の畠山重忠追討などに加わっている。建久六年(1195)には毛呂季光と喧嘩騒ぎを起こして出仕停止処分を受けた。頼朝没後の北條氏とは円満な関係を保ち、嘉禄元年(1225)には北條泰時が新設した評定衆の一人に選ばれ幕政に関与した。文官としての能力も高かったらしい。
土屋 宗遠 大治三年(1128)~建保六年(1218) 没年齢 89歳
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中村荘(現在の二宮町一帯)を領有した中村宗平の二男で、土肥實平の弟。長女が岡崎義實の室、次女が伊藤祐親の室(後妻)となっている。二宮町北部の土屋郷(現在の神奈川大学一帯)を開発し領有した。52歳の時に兄實平と共に頼朝挙兵に従って転戦、北條時政と共に甲斐源氏への使者として功績を挙げ、以後は幕府の有力御家人として北條氏に協力している。
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承元三年(1209)5月に梶原景時の孫家茂を殺し和田義盛に身柄を預けられたが将軍実朝は翌月に赦免、これは義盛の尽力もあったとされている。この恩義が4年後の建暦三年(1213)5月の和田合戦の際に養子(嫡子)の義清以下が義盛に味方し一族の滅亡を招いた。高齢(80歳)の宗遠は隠居して合戦には加わらず処分を免れている。
死期が近づいた頃に鎌倉を訪ね、実朝に窮状と嘆きを訴えた。実朝は金槐和歌集にその様子を書き、和歌を残している(これ、駄作でしょう)。
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相模の土屋から90歳にもなる法師が訪ねてきた。昔話とともに立ち居振る舞いも ままならない嘆きを涙ながら話した。
道とほし 腰はふたへに かがまれり 杖にすがりて ここまでもくる.
土屋宗遠ら一族の墓は平塚市土屋の大乗院裏手の
土屋氏館跡(サイト内リンク・別窓)近くに残る。地図は
こちら。
土屋 義清 久安六年?(1150?)~建暦三年(1213) 没年齢 63歳前後
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岡崎義實の次男で石橋山合戦で討死した佐奈田与一の弟。母は中村宗平の娘。宗平の三男である土屋宗遠の養子となり、土屋義清を名乗った。頼朝挙兵の際は義父宗遠・15歳の義弟忠光とともに当初から参戦し、その後も平家追討・奥州藤原氏追討などで功績を挙げている。
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養父宗遠が和田義盛の助言で助命された恩義もあり、建暦三年(1213)5月の和田合戦の際は副将として参戦したが討死し、一族は滅びた。吾妻鏡に拠れば
「壽福寺から巌谷小路を経て実朝が避難した頼朝法華堂に向った義清は赤橋の砌で八幡宮の方から飛んできた横矢を受けて死んだ。神が射た矢だろう。僮僕が義清の首は斬り落し壽福寺に紊めた。和田氏の祖・義明の弟岡崎義實が建てた堂の地だった故である。」と書いている。布陣した義盛の動きに対応して北條勢を挟撃する作戦だったと思われる。義清は若宮大路に鎌倉入りした頼朝が最初に政庁の設置を検討した場所である。
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義弟(宗遠の養子)の弥次郎忠光(宗光)が出雲国大東荘地頭となり、出雲土屋氏庶流の祖となった他には目立った子孫はないが、筆者が住んでいる伊豆には土屋姓が多い。粛清を逃れて土着した子孫だろうか。
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石橋山合戦の後日、堀口の合戦について義清が語った内容が実に面白い。出典も真偽も不明だが、なんとなく有りそうな話で...。
頼朝の作戦は自分が岡崎義實と共に後退して敵を引き付け、北條時政の部隊が突撃して敵を撹乱すると同時に中村隊と土屋隊が側面を衝き大庭景親を討ち取るという手順だった。ところが北條時政が臆病風に吹かれて頼朝を連れ逃げ出してしまった。数こそ多かったが敵の主力は大庭景親と俣野景久の兄弟だけで他の戦意は低かった。敗戦の原因は全て時政にある。北條は許し難い一族である。
手塚 光盛 不詳(不詳)~寿永三年(1184) 没年齢 不詳
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諏訪神社下社の神官・金刺氏の一族。同じく木曽義仲に臣従した手塚別当の二男で諏方盛澄(諏訪・金刺)の弟。手塚一族の本拠は上田市の手塚地区
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地図)、後に塩田北條氏が領有したエリアである。光盛は寿永二年(1183)6月の篠原合戦では斎藤実盛を討ち取り、翌年1月には近江の粟津に追い詰められた義仲が最後を迎える直前に戦死している。
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徳大寺 実貞(実定) 保延五年(1139)~建久二年(1192) 没年齢 53歳
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右大臣徳大寺公能の嫡子で正二位・左大臣。文治元年(1185)10月に頼朝追討の宣旨が義経に与えられ、翌月には義経が失脚・逃亡する結果となった。頼朝は宣旨への関与を激しく追求し、多くの公卿・官人が流罪を含む処分を受けたが、宣旨に賛同した一人である内大臣実貞は追求を受けなかった。のみならず頼朝の推薦を受けて議奏公卿(太政官の議決を奏上する)に任じ、実定は越前(弟の実家は美作)の知行国主を得ている。
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更に翌年10月には右大臣・文治五年(1185)7月には左大臣に昇叙した。これは頼朝と緊密だった一條能保の生母が実定の妹(異母?)だった事、頼朝が上西門院の蔵人だった時の上司が実貞だった事などが根拠で、実貞が宣旨発行に賛成を装いながら能保を通じて鎌倉と事態を報告していた可能性が高い。その後は翌年3月に藤原氏長者・摂政に任じた九条兼実の片腕として鎌倉との関係調整に活躍した。
豊島 清元 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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武蔵国豊島郡を本拠とした武士で前九年と後三年の役では義家の部下として従軍した。秩父氏の祖である平将恒の跡を継いだ武基の弟が武常、その嫡子常家が豊島郡を領有して豊島を名乗り、嫡子康家→ 嫡孫清元と続いた。同じ秩父平氏の江戸氏・河越氏は石橋山合戦で大庭勢に加わったが豊島一族は加わらなかったため頼朝に信頼され、安房で再起して上総から進武蔵国に入る時点で畠山氏らと共に参陣、鎌倉に入って御家人に列した。豊島氏を継いだ有常(孫説あり)は義経に従って紀伊・四国を転戦して紀伊国守護に任じ、もう一人の息子清重は父とともに奥州合戦に加わっている。豊島一族は鎌倉幕府の有力御家人として豊島・足立・多摩など武蔵国中部の諸郡に所領を広げ、室町時代まで繁栄した。
豊島 有常 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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武蔵国豊島郡を本拠とした清元の嫡子(孫説あり)。元暦元年(1184)には義経に従って紀伊国伝法院領(高野山の所領・根来寺)に入り、紀伊守護として兵役と兵糧米の拠出を賦課して撤回を要求され、同年12月に謝罪している。これは有常の独断ではなく、鎌倉の政策に従って西国の各地に起きた紛争の一環に過ぎない。
重衡の所領だった丹波国篠村庄が恩賞として義経に与えられ、義経はそれを延朗上人に寄進。義経の失脚後に延朗上人は頼朝に返却を申し出たが、有常を使者として寄進安堵の通達を受けている。有常の子孫は紀伊に土着して繁栄したらしい。
豊島 清重 応保元年1161)~暦仁元(1238) 没年齢 77歳
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武蔵国豊島郡を本拠とした武士。前九年と後三年の役では祖父の清元が義家の部下として従軍した。秩父氏の祖である平将恒の跡を継いだ武基の弟が武常、その嫡子常家が豊島郡を領有して豊島を名乗り、嫡子康家→ 嫡孫清元と続いた。同じ秩父平氏の江戸氏・河越氏は石橋山合戦で大庭勢に加わったが豊島一族は加わらなかったため頼朝に信頼され、安房で再起して上総から進武蔵国に入る時点で畠山氏らと共に参陣、鎌倉に入って御家人に列した。
土肥 實平 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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源義朝に従い、同じ相模で平家に朊属していた大庭景親と反対の立場にあった中村庄司宗平の二男で、相模国土肥郷(現在の湯河原一帯)を相続した。頼朝挙兵には嫡男の遠平と共に参戦、源平盛衰記は敗走する様子を「七騎落ち」として描いている。箱根にかけての地理に詳しいため(一説には修験行者でもあった、と)大庭景親の追撃から頼朝を守り通した。平家軍が引き上げるときに土肥の館に火を掛け、隠れていた山から降りた實平が「源氏が栄える徴の炎だ」と味方を励まして舞った焼亡の舞(延年の舞とも)は湯河原地域の伝承芸能となっている。
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その後も富士川の合戦や常陸の志田氏討伐・平家追討・奥州征伐にも参戦して早川荘(小田原一帯)を得て早川次郎を名乗ったが、何故か建久二年(1191)7月以後は吾妻鏡に記載がない。最初の館跡は現在の
五所神社付近、墓所は後の館跡と伝わるJR湯河原駅北側の
城願寺とされている。
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七騎落ちについての記憶は曖昧だが、真鶴から舟で安房へ逃げる頼朝の一行は8人だった。黄海合戦で破れた頼義も平治の乱で敗れた義朝も逃げた時には八騎だったため、頼朝は「八は上吉な数だから一人海に入れ」と命令、一緒にいた岡崎義実は既に石橋山で子の佐奈田与一を失っているため土肥実平は泣く泣く嫡子の遠平を海に入れたが...遠平は偶然三浦から落ち延びた義澄の舟に救われた、と。
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城願寺や頼朝主従が船出した真鶴の岩海岸周辺にも源平盛衰記を元にした謡曲の記念碑などが無責任に点在している。
土肥(小早川) 遠平 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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土肥実平の嫡男。挙兵当初から父と共に頼朝に従って転戦し土肥郷と早川荘を継承して勢力を広げ小早川氏を名乗った。早川荘に築いた館が後の小田原城のベースになったらしい。
建保元年(1213)の和田合戦には嫡子の惟平が和田氏側に加わって子息二人が討死、更に惟平も斬首となり、年老いた遠平が辛うじて本領を維持したがその後は衰退した。養子の景平(平賀義信の五男)が安芸国に移って沼田荘の地頭職を継ぎ、更に嫡子茂平と二男秀平が分割相続して小早川氏の祖になった、と伝わる。
道元禅師 正治ニ年(1200)~建長五年(1253) 没年齢 51歳
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曹洞宗の開祖。平安末期から鎌倉時代初期にかけて朝廷で権勢を握った内大臣土御門通親の嫡流とされる。臨済宗の開祖栄西に師事した後に宋に渡って経典を学び曹洞宗の印可を受け帰国、京都に興聖寺を開いて天台宗の比叡山延暦寺と対立した。
寛元二年に開いた越前の大仏寺をその2年後に永平寺と改称し、鎌倉幕府五代執権の北條時頼らに招かれて鎌倉に入り、関東での禅宗隆盛の基礎を作った。基本の教えとして、成仏とはある段階まで修行すれば得られるのではなく、更なる成仏を目指して修行を続けるのが本質(修証一如)であり、釈迦の教えに従って限りなく座禅を続けるのが本来の姿(只管打坐)である、とした。
常盤御前 保延四年(1138)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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源義朝の側妾で阿野全成(今若)・義円(乙若)・義経(牛若)の生母。近衛天皇の中宮九条院(1155年に天皇崩御により出家)に雑仕女(下級女官)として仕え、義朝に望まれて妾となった。都の美女千人から百人を選び更に10人を選んだ中で美しさが一番だった、とされる(出典は平治物語)。
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平治の乱で義朝が敗死した後は3人の幼子を連れて大和国に向かい宇陀の近くなどを逃げ回るが、実母が捕らえられたのを知り出頭して子供の助命を懇願した。平治物語などに拠れば、清盛は常盤の美貌に心動かされその願いを受け入れ、屋敷を与えて妾にしたと伝わる。
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その後は清盛の子(廊御方。ただし信頼性には疑問あり)を産み、さらに一條長成(藤原北家系の下級貴族)に与えられて後妻となり、嫡子・一條能成を産んだ。長成は奥州の藤原秀衡と縁戚関係にあり、義経(当時は牛若丸)が鞍馬寺を脱出して藤原氏の庇護を受けたのは常盤の願いを聞き容れた長成の助言と根回しがあった、と伝わる。常盤が産んだ能成は異父兄義経の側近も務め、後に復権して従三位まで昇進して父の官位を超えている。
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九条兼実(関白太政大臣)の日記・玉葉に拠れば、常盤は義経が失脚して逃亡した後の文治二年(1186)6月6日に京都で鎌倉方に捕縛された。吾妻鏡の同年6月13日には鎌倉に連行するか否かの問合せ記録がある。連行はされなかったようだが、それ以後の確かな消息は不明。
岐阜県関ヶ原町
(参考)・群馬県前橋市・埼玉県飯能市などに墓と伝わる場所が残っている。何が真実か確かめる術は、すでに失われた。
巴御前 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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信濃の豪族中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の妹、山吹の姉(異説あり)。平家物語や源平盛衰記などでは優れた女武者とされるが信憑性は乏しい。越後の城資国の娘坂額と同様に「女であるが弓の名手として実戦に加わった」程度までが事実で、「剛勇で知られた多くの敵将と組み合って討ち取った」の記述は軍記物語の脚色と考えるべきだろう。
平家物語で巴が登場するのは巻九「木曽最期」の条のみで、その他には全く描かれていないのも合理性に欠ける。
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生没年は不詳だが直近の兄今井兼平の生年は1152年、従って義仲が討死した元暦元年(1184)は30歳未満。源平盛衰記の「倶利伽羅峠合戦の時は28歳」は妥当だが、同書の「和田義盛の妻となり朝比奈義秀(1176年生れ)を産んだ」とする部分は明らかに捏造となる。
大津市膳所駅に近い義仲寺(ぎちゅうじ)には無名の尼僧が義仲の墓近くに庵を結び菩提を弔ったのが後の巴であり寺の縁起である、と伝わっている。義仲寺は義仲が討たれた粟津から約3km、胴塚と推定できるため、もしも巴が実在の人物だったと仮定すれば史実の可能性はある。
その他、各地に巴に関わる史蹟は多いが、いずれも眉唾レベル。
長尾 定景 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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鎌倉氏と並んで坂東八平氏の一つに属する長尾景弘の嫡子で大庭景義や景親の従兄弟とされるが、系図は複雑に交錯しており、景弘の素性も明確ではない。石橋山合戦では景親に従って頼朝軍と戦い、岡崎義實の嫡男・佐奈田余一義忠を討ち取ったが、降伏後の身柄は生殺与奪勝手として義實に預けられた。定景が毎日法華経を読む姿を見た義實は徐々に怨みを忘れて頼朝に赦免を願い、許されて三浦家の家臣として勇名を馳せた。
建保七年(1219)に至り、三浦義村から三代将軍實朝を暗殺した公暁追討の命令を受け、老齢(石橋山合戦の時に20歳と仮定すると60歳前後)を理由に固辞したが許されず、八幡宮裏手の塀を乗り越え三浦邸に入ろうとする公暁に遭遇し首を挙げた。
中原 兼遠 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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信濃国木曽を本拠とした武士で、第三代安寧天皇(欠史八代・実在しない天皇の一人とする説が有力)の皇子・磯城津彦命の子孫と称している。
久寿二年(1155)に義朝の弟義賢が武蔵大蔵で義平に討たれた際に斎藤實盛と共に二男駒王丸(後の義仲)を助命し、成人して挙兵する治承四年までは下級貴族出身の実務官僚として信濃権守に任じていたと考えられる。
源平盛衰記の「木曽謀反附兼遠起請の事」に拠れば、
「義仲謀反を知った宗盛は兼遠を呼び「義仲を連行せねば首を刎ねる」と迫り約束を守る起請文を書かせた。兼遠は木曽に帰り、懇意にしていた佐久の根井行親に義仲を預けて後事を託した。」と書いている。
息子の樋口兼光・今井兼平、娘の巴・山吹(清水冠者義高の生母)らは義仲に従い、末娘も高梨高信(義仲と転戦し備中水島で戦死)に嫁している。ただし、巴と山吹に関しては事実と伝承の境界が曖昧な部分が多い。兼遠一族の墓所は木曽中仙道沿いの林昌寺に残る(
木曽谷の史跡を参照されたし)。
中原 親能 康治二年(1143)~承元二年(1209) 没年齢 66歳
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頼朝に仕えた文官。明法博士中原広季の子孫で大江廣元の兄弟、または参議藤原光能の三男で中原広季の養子とされるが、確定していない。相模国波多野氏の所領で育ち、京に登って公卿の源雅頼に仕え、挙兵と同時に京を脱出して頼朝に合流した。波多野氏と源氏の関係が深かったため平家に召喚されるのを恐れたらしい。源雅頼には関東の情勢を知らせ続けているため、主従関係を保っていたと推測される。
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寿永三年(1184年・4月に改元して元暦元年)1月には義仲軍を掃討した義経軍と共に入京し、頼朝代官として朝廷との交渉に活躍、一ノ谷合戦にも従軍した。平家滅亡後は鎌倉に定住して公文所寄人に任じ、文治二年(1186)には失脚・逃亡した義経に替わって京都守護、建久二年(1191)には政所公事奉行、正治元年(1199)には頼家の権限縮小に伴って設けられた古参御家人13人による合議制※メンバーの一人に任じた。文治二年(1186)には頼朝の二女三幡(乙姫)の乳母夫となり、正治元年(1199)6月の死没とともに出家している。
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※13人の合議制:通説は頼家の権限を縮小し独裁を抑えるのが目的としているが、最近は頼家を補佐して体制を維持する目的だったとする説もある。
頼家が鎌倉殿を継承したのが1月26日で合議制のスタートが4月16日、頼家が失脚していく過程を考えれば「継承に対する好意的な対応」では有り得ず、合議などされないまま頼家失脚&時政独裁に突き進んでいる。歴史学者が個別の事例を根拠にして全体を判断する例は結構多く、こんな連中に限って歴史修正主義に対する警鐘すら鳴らしていないのは実に悲しい。補助金で暮らす御用学者だね。
中原 季時 不詳(不詳)~嘉禎二年(1236) 没年齢 不詳
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鎌倉時代初期の文官である中原(藤原)親能の子。父に倣って源頼朝に仕え、特に朝廷との交渉役を務めた。元久二年(1205)10月から京都守護に任じられ山門騒動の鎮圧などに活躍した。承久三年(1221)に出家して行阿を名乗り、同年6月に勃発した承久の乱では鎌倉の留守役を務めている。
中原 仲業 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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頼朝に仕えた初期の文官。明法博士中原親能の家臣から抜擢されて源頼朝の右筆となり、建久二年(1191)1月には新設の公事奉行人、建久六年(1195)には貢馬奉行人を務めた。元久元年(1204)鎌倉永福寺の公文職、後に政所寄人となり問注所寄人を兼任した。正治元年(1199)には三浦義村の依頼を受け、以前から折り合いの悪かった梶原景時の訴追状を起草している。
中原 (小中太)光家 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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出自は不明だが韮山挙兵以前から頼朝に仕え、幕府成立後も政庁の文官として公務に携わっている。吾妻鏡に記載された代表的な部分は下記。
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●治承四年(1180)6月24日 挙兵を前に、源氏累代の家人を召集する使者として安達籐九郎盛長に副えられた。
●治承四年(1180)8月20日、伊豆から土肥に向う頼朝勢の中に小中太光家の名が見える。末尾に記載されているのが面白い。
●養和二年(1182)6月1日、頼朝は愛人である亀の前を小窪(小坪)の光家宅に住まわせた。(後に伏見廣綱の飯島邸に転居)。
●文治二年(1186)3月12日、一条能保の息子の元服を祝う京への使節として馬3頭と砂金や絹を納めた長持二棹を届けた。
中村 宗平 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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桓武平氏良文流で相模国中村荘(小田原市)を本領として中村荘司を名乗った。本領が隣接している鎌倉氏と宗平の関係は父の笠間押領使常宗が権五郎景政に討たれた経緯もあって険悪で、天養元年(1144)の大庭御厨乱入事件にも義朝に従って積極的に参加している。
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長男の重平が中村氏を、二男の実平が土肥氏を、実平の子遠平が小早川氏を、三男の宗遠が土屋氏を、四男の友平が二宮氏を、五男の頼平が堺氏を称して相模国の穀倉地帯(現在の平塚~湯河原)に強力な武士団を形成した。更に二人の娘は岡崎義實と伊東祐親に嫁いでいる。
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義朝の勢力に属していたため、平治の乱後に平家と結び相模に勢力を伸ばした大庭景親を主軸とする鎌倉党(梶原・俣野・長尾など)に圧迫される結果となり、その意味で石橋山合戦には中村党連合と鎌倉党連合の争いの側面があった。これは三浦一族にも共通しており、両者が一族を挙げて頼朝の挙兵に参加したのはこの背景に因る部分が大きい。
那須 与一 嘉応元年(1169)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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那須氏の祖は藤原道長の曾孫・資家、下野国那須郡に下向して須藤(那須の藤原氏)貞信と名乗ったのが始まり。与一の父資隆が初めて那須を名乗って以後はその姓を継承した。妻は新田義重の娘と伝わる。
吾妻鏡には与一の記載がなく、平家物語あるいは源平盛衰記など軍記物にのみ記事が見られるため、実在は疑われている。元暦二年(1185)の屋島で扇を射る(審議には諸説あり、個人的にはフィクションと考える)などの軍功を挙げ、頼朝から丹波・若狭・武蔵・信濃・備中に荘園を得た。
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与一は文字通りの十一番目に生まれた男子だったが、源平争乱期に兄達が平家に味方するなどしたため繰り上がって家督を継ぎ、逃亡中の兄弟を赦免し領地を分け与えて那須氏発展の基礎を築いた、と伝わる。晩年については諸説があり、これも明確ではない。子孫は那須七騎と称されて独立性が強く、那須氏・芦野氏・福原氏・千本氏・伊王野氏・大関氏・大田原氏に分かれ繁栄したが室町時代に分裂し没落した。
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墓は那須の
:玄性寺(サイト内リンク・子孫による慰霊墓)・京都の
即成院・神戸の
那須神社・
井原市野上町の供養墓(観光協会サイト)などがある。
難波(藤原) 頼輔 天栄三年(1112)~文治二年(1186) 没年齢 74歳
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藤原北家の公卿で大納言
藤原忠教(wiki・別窓)の四男、難波氏と飛鳥井氏の祖。兄の教長が崇徳院の側近として保元の乱に関与したため連座して常陸に流され、復帰後は蹴鞠の才能を買われて後白河の近臣となった。永暦元年(1160)に豊後守に任じ、永万二年(1166)には嫡子頼経の壱岐守任官と引き換えに辞任するが豊後国に留まり国務を続けた。
治承四年(1180)の頼朝挙兵後は九州一帯も動乱状態になり、頼輔は在地の武士団を率いる緒方惟栄を支配下に加えて九州での大きな勢力を確保した。文治元年(1185)1月26日には周防国に駐屯していた範頼軍に船を提供して豊後上陸を側面援助し、九州の拠点を維持していた平家軍を彦島に追い払った。これによって退路を絶たれた平家一門は壇ノ浦で最後の戦いを迎えることになる。
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養和二年(1182)には九州での実績を評価されて従三位に叙され翌年に周防権守を兼任。歌人としても優れた実績がある。
難波(藤原) 頼経 不詳(不詳)~建保四年(1217) 没年齢 不詳
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難波(藤原)頼輔の嫡子。壱岐国司を経て豊後国司となり、父頼輔(知行国主)に命じられて豊後国武士団を反平家勢力として糾合した。寿永二年(1183)10月に都落ちした平家が九州に拠点を置くと在地武士団を率いる緒方惟栄らに院に従っての追討を命じ、太宰府から駆逐した。
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平家の滅亡後は頼朝と敵対した義経の同盟者として九州に一定の勢力を保ち、高階泰経らと協力して後白河に頼朝追討の宣旨を発行させて鎌倉幕府に対抗した。最終的に京を脱出した義経が九州を目指したのも、この時期に培った頼経や緒方惟栄の勢力と協力して幕府軍に対抗する意図があった、と考えられる。
義経逃亡後の文治元年(1185)12月に反鎌倉の姿勢を問われて安房国配流、翌年3月に赦免を受けて京に戻るが義経支援の態度を続けたため文治五年(1189)3月に伊豆配流となった。
南部 光行 永万元年?(1165?)~嘉禎三年?(1236?) 没年齢 72歳?
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新羅三郎義光~三男・源(武田)義清~三男・加賀美遠光~三男・光行へと続く甲斐源氏の傍流。甲斐国最南端、駿河国と接する南部牧一帯(現在の南部町)を相続して南部一族の祖となった。母は和田義盛の娘(異説あり)、兄は秋山光朝と小笠原長清。叔父の逸見光長・武田信義・安田義定・浅利義遠(与一)などがいずれも甲斐源氏諸流の祖となっている。
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地元には頼朝挙兵直後の石橋山合戦(治承四年・1180)で功績を挙げ頼朝から南部牧を与えられたとする説もあるが、甲斐源氏は石橋山合戦の時点では平家追討に加わっておらず、若年の光行が単独で加わったとは考えにくい。地域性を加味すれば、参戦したのは一族の棟梁武田信義に従った富士川合戦(10月20日)か、その前哨戦として駿河目代橘遠茂を討った波志田山合戦(10月13日)だろう。南部牧は兄長清が相続した小笠原領の南側であり、相続は甲斐全域に一族を扶植した祖父清光の遺訓に従ったと考えるべきか。
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文治五年(1189)の奥州藤原氏討伐で功績を挙げ、陸奥国糠部(青森~岩手の一帯)を得た。糠部周辺の伝承では一族を挙げて移住したとされているが、実際には御家人として鎌倉に在ることが多かったらしい。ただし6人の男子は糠部の周辺に定住し、明治まで繁栄した南部氏諸流の祖になった。長男行朝は一戸氏・二男(嫡男)実光は南部氏・三男実長は八戸氏・四男朝清は七戸氏・五男宗清は四戸氏・六男行連は九戸氏である。
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本領の甲斐国南部に残った一族の墓所は富士川東岸の
浄光寺(サイト内リンク)にあるが、元々は昭和41年の台風で埋没した裏山中腹の墓所を掘り起こして移設したもの。一族の菩提寺は300mほど北の妙浄寺だったとされる。
二階堂 行政 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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藤原南家の子孫で工藤氏・伊東氏に近い家系の文官兼武士で駿河を本拠にしていたらしい。生母が熱田神宮大宮司藤原季範の娘だった縁で鎌倉に招かれ、元暦元年(1184)前半から頼朝に仕えた。
当初は政所令(副)として大江廣元の補佐を務め、建久四年(1193)からは複数制になった政所別当に任じてその職を世襲した典型的な実務官僚。
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平泉を征服した頼朝が
中尊寺(サイト内リンク)の二階大堂(高さ15mと伝わる)を見て感動し、同じ二階建ての
永福寺(外部サイト)を建てた。その経緯から周辺の地名が
二階堂(地図)となり、そこに館を構えた行政が二階堂の姓を名乗った。当然、永福寺が完成した建久三年(1192)以後の名乗りとなるが、当サイトでは年代とは無関係に二階堂と記述している(本姓は藤原)。
頼朝死没後の正治元年(1199)4月に頼家が訴訟決裁権を停止され13人の古参御家人合議制となった際にはそのメンバーに加わっている。行政と嫡子行光・庶兄行村の残した書類が吾妻鏡の編纂に相当量が利用された、と考えられている。子孫は須賀川二階堂氏・薩摩二階堂氏として繁栄した。
二階堂 行光 長寛元年(1164)~承久元年(1219) 没年齢 55
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行政の次男で行村の異母弟、政所執事を世襲した実務官僚。吾妻鏡の初出は建保六年(1218)12月20日、実朝の右大臣就任に伴う政所始めで、右京兆(右京権大夫)北條義時の次席(実務官僚の長)として政所執事信濃守行光が載っている。行光が活動したのは主として三代将軍実朝の治世以後だが、政治の実権は御台所政子が掌握しており、行光は政子の意を受け側近として活動していた。
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承元元年(1219)2月13日の吾妻鏡には
「寅刻(早朝4時)に信濃前司行光が京に向かった。これは六條宮か冷泉宮(共に後鳥羽上皇の皇子)を関東の将軍として下向させて頂くための二位家(政子)の使節である」との記載がある。皇子の下向は後鳥羽院に拒絶されたが、この時期の幕府行政・特に朝廷との折衝実務は行光を中心に動いており、更に吾妻鏡の記述内容が行光の記述と資料を根拠にしている事が判る。
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行光の後任の政所執事は伊賀光宗だが、義時死没に伴って発生した元仁元年(1224)の伊賀氏の変で失脚した後任には行光の息子・行盛が任じている。行政と行光と兄の行村が書き残した資料が吾妻鏡の編纂者によって利用され、根幹の一部になった事は良く知られている。
仁田 忠常 仁安ニ年(1167)~建仁三年(1203) 没年齢 37歳
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新田あるいは日田とも。伊豆仁田郷(現在の函南と韮山の境界付近)の武士。出自は不明だが隣接して「肥田(ひだ)」の地名があり、平安時代に肥田を名乗る在庁官人の記録があるため、その系の可能性も考えられる。
頼朝挙兵には若干13歳で従軍し、平家追討や奥州藤原氏追討に功績を挙げ頼朝の信任が篤かった。建久四年(1193)の富士裾野の巻き狩りでは大猪を仕留め、更に井出の宿舎で起きた曽我兄弟の仇討ち事件では頼朝の宿舎へ向った兄の曽我十郎祐成を討ち取っている。
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頼朝の死後は頼家にも信任された。頼家の病状が悪化した建仁三年(1203)の9月には北條時政の命を受け北條邸で比企能員を刺し殺した。その後回復した頼家に時政追討の命を受けたが従う意思はなく、翌日には比企能員殺害の恩賞を受けるため時政邸に入った。しかしその後の帰宅が遅れたため怪しんだ弟らが斬り込みの準備をした事が謀反の企てと思われ、御所へ向う道で全員が加藤景廉の手勢に殺された。単純な行き違いではなく、北條時政による譜代の御家人粛清の一例と考えるべき、だろう。
新田邸の跡は伊豆箱根鉄道駿豆線の仁田駅に近い慶音寺、墓所は慶音寺の南に隣接する一族の子孫・仁田邸の庭に残されている。
忍性菩薩 建保五年(1217)~乾元二年(1303) 没年齢 87歳
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真言律宗の僧で通称は良観。建長四年(1252)・35歳のとき関東へ下り、まず常陸を拠点に布教活動を行った。その際に八田知家の協力を得て9年間布教の拠点とした跡が筑波山南麓に近い
三村山清冷院極楽廃寺(サイト内リンク)として残っている。
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弘長元年(1261)には五代執権北條時頼らの信頼を得て律宗・念仏宗の指導的存在となり、布教と共に非人の救済や飢饉の対策などに力を注いだ。その財源を確保するため和賀江島など港湾を利用する手数料や通行の木戸銭徴収の権利などを得たため、新しい仏教勢力として鎌倉に入った日蓮は政権と結託した腐敗と受け取り、宗派間の激しい抗争に発展している。要するに忍性が率いる律宗の集団は(現代的に表現すれば)土木・建築・教育・福祉・医療などを幕府から委託され、経済活動によって財源を確保しつつ専門家集団の技術を生かしていたらしい。
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理念としては、忍性の師である
叡尊(弘長二年・1262に鎌倉入り)は布教と並行してハンセン病患者を含む非人の救済を目指し、その実行を忍性に託していた。しかし忍性は非人を含め全ての階層の救済を目指したため齟齬が生まれ、忍性を中心とした真言律宗集団が
真言宗や
律宗と異なる道を歩む発端になった、とされる。墓所は鎌倉極楽寺境内奥の巨大な五輪塔で、毎年4月8日のみ公開される。機会があれば忍性の心に触れてみよう。
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後半生の忍性は極楽寺を拠点に活動し、鎌倉の西部から腰越にかけて多くの史蹟が残している。特に
極楽寺坂の合戦や
箱根精進池の石仏群や
安養院の宝筐印塔(いずれもサイト内リンク)などを併せて参照されたし。
新田 義重 永久二年?(1114?)~建仁二年(1202) 没年齢 89歳前後
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源義国の長男で母は藤原敦基(義家と親しかった正四位下の文官)の娘。義国は自ら開いた下野国足利荘は次男の義康に継承させ、義康の異母兄である義兼と共に上野国新田を開墾、平家寄りの藤原忠雅に寄進して新田荘を立荘し義重がこれを継承した。その後は義朝と提携して敵対する秩父氏や藤姓足利氏を破り北関東での地位を確立、義弟の足利一族はもとより甲斐の武田信義とも円満な関係を保った。
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立荘以後は平家に臣従しており、頼朝挙兵の直後には独自勢力として挙兵を志した。しかし長男の山名義範・孫の里見義成・足利義康の嫡子義兼らが同調せず頼朝側に参加したため結果的に合流が遅れ、挙兵から4ヶ月が過ぎた12月の末になって鎌倉に入ったが、頼朝の不興を招く結果となった。
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翌・寿永元年(1182)の夏に頼朝が義重の娘(頼朝の兄義平の未亡人祥寿姫)を望んだ際に即刻他家に嫁がせたため更に怒りを買い、新田と足利の待遇差に繋がって後代の義貞による倒幕の遠因となった、とする説もある。幕府に於ける義重個人は八幡太郎義家に最も近い血筋(孫)の源氏最長老として一定の敬意を払われていた。新田荘の郊外に
義重夫妻の墓残る。
新田 義兼 保延五年(1139)~元久三年(1206) 没年齢 67歳
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義重の三男(次男説あり)で新田本家の二代目当主となった。生母は大和源氏・源親弘の娘、異母兄に里見義俊と山名義範、同母弟に世良田義季、異母弟に額戸経義がいる。頼朝に嫌われて新田に蟄居した父に替り御家人として出仕したが特に目立った存在ではなく、嫡子の義房が早世したため義重と共に嫡孫政義を後見するが、間もなく死没した。後に三代目を継承した政義が数度の失態を重ね、新田宗家の権威と財力は更に低迷を続ける事になる。
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娘が足利義兼の庶長子・義純と婚姻して岩松郷に住み二人の男子(時兼と時明)を産んだが、元久二年(1205)の畠山重忠滅亡に伴い足利義純が重忠の後家(北條時政の娘)と婚姻して畠山の名蹟を継ぐ話が纏まり、義兼の娘は必然的に離縁となって新田一族に戻った。義兼と妻(後の新田尼)は二人の外孫を溺愛して多くの所領を遺贈し(
義重置文を参考に)、新田宗家のの財力は更に零落した。
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新田氏の子孫としては義兼の長兄・山名義俊の系、義兼の外孫となった岩松時兼の系、義兼の次弟・世良田義季の系が繁栄する事となる。新田義貞軍が北條軍を撃破した元弘三年(1333)5月の
分倍河原合戦場の跡には新田俊純男爵の嫡子で家督と共に爵位も世襲した新田忠純の揮毫による戦跡碑が建っている。元々は岩松氏の末裔だが、明治維新の義貞復権に伴って新田姓に復しているのが面白い。義兼の墓所は政義が建立した
金剛院円福寺の一族の廟所にある。
世良田(新田) 義季 生年不詳~寛元四年(1247) 没年齢 不詳
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新田義重の四男で通称は次郎または四郎。新田義重が溺愛し置き文(遺言状)で所領の多くを譲った頼王御前とするのが通説だが、やや釈然としない部分も残る。個人的には義季の子(義重の内孫)の頼有と頼氏の方が...つまり二人の「頼」が気になるのだが、そこまでの詳細は調べていない。
義季の兄弟は上から、異母兄の里見義俊、同じく山名義範、同母兄で宗家を継いだ新田義兼、弟に糠田経義、姉妹には源義平の室だった祥寿姫、足利義清室、武田(石和)信光室、那須与一室(伝)などがいる(清和源氏の系図→中段の新田源氏を参照)。
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父の義重から新田荘の世良田郷(現在の世良田町・
地図)を継承して世良田氏の初代となった。長男の頼有は世良田郷の南東に隣接する得川郷を継承して得川氏の祖となり、次男の頼氏が世良田を継承して世良田氏・江田氏の祖となった。この得川頼有の存在を利用した徳川家康が関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)に系図を改竄し一族の先祖は得川頼有で新田義重を介した遠祖は源義家である、とした。家康の父広忠または祖父の清康が源氏の末裔を称した事実はあるらしいが、もちろん新田源氏の子孫を称したのは家康が最初となる。
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ちなみに、世良田義季が得川を名乗った事実はない。世良田は世良田郷を差すと同時に得川郷を含む新田荘の南東部を包括する意味も持っており、義季が所領のごく一部を姓として名乗るとは考えられない。現在では得川の地名も徳川町に改められ、世良田義季が開いた菩提寺の横には日光を模した東照宮が建ち、郷土史家たちも家康の系図改竄など議論の隅にも載せていないし、史跡の名称変更など目に余る部分も少なくない。
詳細は
長楽寺と東照宮を参考に。
新田 義貞 正安三年(1301)~建武五年(1338) 没年齢 37歳
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鎌倉末期~南北朝時代の武将。幼名は小太郎、河内源氏一族である新田朝氏(朝兼)の子で上野国新田荘の人。元弘の乱の当初は北條氏に属し、元弘二年(1332)には鎌倉幕府の楠木正成攻撃に加わったが途中で帰国した。翌年には上野国新田で挙兵、幕府を支える有力御家人足利尊氏の子(後の足利義詮)の手勢が合流したのを契機に雪崩を打って参加した大軍で鎌倉を攻め、北條一族と150年間続いた鎌倉幕府を滅ぼした。
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建武の中興後は足利尊氏と並ぶ功労者として優遇されて越後守・上野介・播磨介・武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐・正四位上に叙せられた。建武二年(1335)以後の南北朝の争いには南朝方を指揮して転戦し一度は尊氏を九州へ追い落としたが、後に再起して東上した尊氏と兵庫で楠木正成と共に敗北した。8月には楠木正成と後醍醐天皇が画策した両朝の一時的和睦で義貞軍は切り捨てられそうになり、恒良親王と尊良親王を擁して戦うが劣勢は覆い難く、北陸で戦死した。政治的な総合力と人心掌握に秀でていた尊氏に比べて武将レベルの感性しか持たなかった義貞の限界か。
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首は京に送られ、遺骸は坂井市の時宗
称念寺(公式サイト・光秀所縁の寺)に葬られた。群馬県太田市に残る義貞所縁の寺社などは
新田荘の史蹟で、鎌倉攻めの詳細は「鎌倉時代を歩く 四」で、新田源氏の詳細系図は「清和源氏の系図」の中段(いずれもサイト内リンク)を参照されたし。
日蓮 承久四年(1222)~弘安五年(1282) 没年齢 59歳
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鎌倉中期の僧で日蓮宗(法華宗)の開祖。法名は蓮長、諡号(没後の贈り名)は立正大師、安房国小湊の漁師の子。12歳で
清澄寺(公式サイト)に登って16歳で受戒し蓮長と名乗る。その後各地を修行して仏法の本質は法華経にあると悟り、建長五年(1253)には清澄山頂で日蓮宗を開いた。
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正嘉元年(1257)に鎌倉で大地震
※に遭遇し、深刻な社会不安が蔓延たのを契機として辻説法で他宗を攻撃、「立正安国論」を著して他国侵略の難(蒙古襲来)を予言した。文応元年(1260)に前の執権北條時頼に同書を献上したが浄土教などを排撃したために弘長元年(1261)に布教中の鎌倉で捕らわれ伊豆に流された。この頃に草案焼き討ちなどの所謂「日蓮法難」が起きた。強引な布教が蒔いた種、みたいな側面もあるけどね。
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翌々年に赦免され鎌倉に帰るが文永五年(1268)に蒙古の牒状が鎌倉に届き、予言の適中を主張して文永八年(1271)に再び捕われ、日蓮宗の謂う「龍ノ口法難」(文永八年・1272年9月)では辛うじて死罪を免れ佐渡に流された。そして文永十一年(1274)には最初の蒙古襲来・文永の役が勃発する。
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文永十一年(1274)に赦免され鎌倉に戻るが幕府が自らの主張を容れないため失望し、甲斐の身延山に草庵を作って隠棲。7年後に武蔵国千束郷池上で病没し
身延山久遠寺(公式サイト)に葬られた。富士川中流の身延町周辺には日蓮所縁の社寺や日蓮宗の寺が信じられないほど多い。
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※正嘉地震:10月9日に起きた由比ケ浜の沖数kmを震源とするМ7~7.5の直下型地震。吾妻鏡は「戌刻大地震」とだけ記載しているが、直前の8月23日にも
同規模の地震があり、こちらは
「戌の刻(20時前後)に音を伴う大地震あり。倒壊を免れた神社仏閣は皆無、地滑り・家屋倒壊・築地塀も悉く破損した。所々で地割れがあり青い炎が吹き出した」との記載がある。9月と10月にも余震と見られる被害が続いており、鎌倉は末世の世界観に包まれていたらしい。
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自然現象は神仏の行為と考えていた日蓮が「末世からの救済」を説くのは理解できるが、公明党の太田国土交通大臣の演説を聞くたびに「こいつ現代の日蓮を気取ってるんじゃないか」と思うのは私だけか。公明党議員に盲目的な服従心は感じるけれど、信仰者としての矜持も政治に携わるポリシーも見られない。幹部の命令に従って憲法違反の疑いが濃い集団的自衛権行使に賛成するなど権力志向が強く、日蓮の爪の垢も継承していない詐欺師の集団あるいは猿の集団と評されるのが当然だろう。
野本(斎藤) 基員 保延(1140)~貞永元年(1232) 没年齢 92歳
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尊卑分脈に拠れば先祖は藤原釜足、藤原北家魚名流の子孫。武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本・
地図)を本領とし野本左衛門尉を称し頼朝の御家人として信頼を受けた。吾妻鏡に拠れば、建久四年(1193)10月には頼朝の前で養子(下川邊政義の子・時員)の元服式を行い、建久六年(1195)7月には頼朝の代官として大山寺に参詣、その後に所領の一部である越前国河口荘(福井県あわら市の春日大社領)を実子の範員に継承させている。養子の時員は能登守や摂津国守護などに任じ、もう一人の養子である時基は野本の西に隣接する押垂を継承して押垂氏の祖になっているが、一族の消息は十三世紀後半から途絶えている。何らかのトラブルがあった、可能性あり。
根井(根々井) 行親 不詳(不詳)~元暦元年(1184) 没年齢 不詳
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信濃の名族望月氏傍流の武士で義仲四天王(今井兼平・樋口兼光・行親六男の楯親忠)の一人。ただし年令を考えると四天王は行親嫡男の小弥太と推測する説もあり、更に滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。佐久郡根々井(長野県佐久市根々井)を本拠に牧を経営して実力を蓄えた。治承四年(1180)の挙兵以来義仲に従って転戦し、寿永二年(1183)10月には平家を都落ちさせて入京した。
寿永四年(1184)1月には鎌倉方の大軍と戦い、宇治川で討死。根々井館跡と伝わる正法寺の境内に行親の供養塔が建つ。地図は
こちら。
畠山 重能 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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桓武平氏秩父党の武者で秩父重綱の長男重弘の長男。秩父氏の家督は後継争いを経て次男の重隆が継承したため重弘は東へ進出して武蔵国畠山荘を本領とし畠山氏の祖となった。重忠の父であり、小山田有重の兄にあたる。三浦義明の娘を正妻とした。
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義朝は院近臣を後楯にして関東南部に勢力を広げ、義朝と不仲だった父為義は次男の義賢を上野国(群馬)に下向させ、摂関家を後楯にして北関東に力を伸ばそうとした。重能は重隆への不満から義朝と結び、義朝の命を受けた長男の義平は久寿二年(1155)8月に武蔵大蔵の重隆館を襲って義賢と重隆を殺した。一緒に殺されるはずだった義賢次男の駒王丸(後の義仲)は畠山重能と斎藤實盛の尽力で木曽に逃れて乳母夫中原兼遠に育てられ、嫡男の仲家は在京していたため殺されず摂津源氏・頼政の養子となった。
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この合戦で関東での義朝の地位は確立したが重能は秩父氏の惣領にはならず、平家に仕えたまま20年を過ごした。秩父氏惣領・武蔵国留守所総検校職の地位は重隆嫡孫の河越重頼が継承している
頼朝が挙兵した治承四年以後も重能は平家の郎党として各地の源氏と転戦しており、その経緯もあって重忠も当初は大庭景親軍に参加を余儀なくされた。長く平家に仕えていた重能は平貞能の尽力で東国に戻った後は重忠に家督を譲って隠居し、重忠の決裁を追認する立場を取ったと考えられている。一族の墓所は川本の畠山荘に残る史跡公園、傍らにある小さな自然石が重能の墓標と伝わっている。詳細は
大蔵館と義賢の墓および
畠山重忠の旧蹟(いずれもサイト内リンク)を参照されたし。
畠山 重忠 長寛ニ年(1164)~元久ニ年(1205) 没年齢 41歳
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桓武平氏秩父党・重能の子で母は三浦義明の娘、畠山荘司次郎を名乗る。頼朝挙兵に際しては平家の武将として同族の三浦勢と小坪浜で戦い郎従数十人を討たれ、翌々日には同族を纏めて衣笠城を落とし外祖父である三浦義明を討った。これは父重能が大番役で不在だったため、平家郎党としての従来の立場を踏襲せざるを得なかったのが理由、と言われている。
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その後は帰国した父重能から家督の継承を受け、頼朝の旗下に入って鎌倉入りの先陣を務め、平家討伐や奥州征伐に転戦した功績により陸奥国葛岡の地頭職を得た。頼朝の厚い信任により2度の上洛にも先陣を務め、さらに頼朝の遺言により頼家の後見役にも任命された。
北條独裁を目指す時政にとって邪魔な存在だったのは間違いないが、比企一族の追討には北條方として協力しており、更に頼家失脚にも異を唱えた記録がないことを考えると、政治的な知見には欠けていた可能性は否定できない。
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元久ニ年(1205)6月、嫡男の重保が謀反の冤罪を受け鎌倉で討たれた。時政の後妻・牧の方が産んだ娘の婿である平賀朝雅と口論したのが遠因とされるが、背後には北條一族による畠山氏排斥の計画があった。「鎌倉に異変あり」の連絡に誘い出された重忠主従は武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区鶴ケ峰)で義時が指揮する軍勢数万(実際には数千か)に襲われ、僅か135騎で4時間にわたり戦った末に愛甲三郎の矢を受けて討死した。
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重忠の高潔で筋を通す生き様は「鎌倉武士の典型」と賞賛されている。武蔵国の支配権と古参御家人の排除を目指した北條氏の策謀に対して何の対処もせずに見事な死に際を見せるのが「鎌倉武士の典型」だとは思えないけどね。多くの美談は武士道や忠義心を賞賛する目的で付加された、そんな認識も必要。
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居館は武蔵嵐山の
菅谷舘とされるが、南北朝時代の砦などに利用されたため鎌倉時代の痕跡は見られない。
墓所は誕生の地・埼玉県川本にあり、一族の墓や父重能の墓と伝わる自然石も残っている。嫡男重保の墓は鎌倉一の鳥居横の
舘跡と伝わる道路脇に残る。二俣川合戦の詳細は
こちら(いずれもサイト内リンク)。
波多野 義通 嘉承二年(1107)~嘉応元年(1167) 没年齢 60歳
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摂関家の相模国波多野荘(神奈川県秦野市)
※を本領とした。
※上総氏の庇護を受けて少年期を東国で過ごし、やがて近隣に勢力を伸ばした源義朝に仕えて康治二年(1143)には妹が義朝の二男・朝長を産み、保元の乱(1156)では義朝に従って戦っている。久安三年(1147)に熱田大宮司藤原季範の娘が頼朝を産み、官位が朝長を越えて
※嫡男の扱いを受けたため義通は義朝と不和になり、波多野に帰国している。ただし平治の乱(1159年12月)の際には京に戻って義朝郎党として戦っているから不在だった期間は短く、不和がどの程度だったかには疑問が残る。
平治の乱の後は波多野に戻って所領の管理に専念し、後継の嫡男義常も源氏とは没交渉に近い関係だったらしい。
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※波多野荘: 現在の神奈川県秦野市から松田町にかけての広大なエリア。松田郷には朝長邸もあったが、正確な場所は判っていない。
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※義朝と東国: 父為義からの伝領だった安房国丸御厨(現在の南房総市)を本拠として上総に移り上総氏の力を背景に相馬御厨(茨城県南部の
伊勢神宮領・千葉氏の寄進)や大庭御厨(神奈川県南部の伊勢神宮領・鎌倉氏の寄進)の支配権を巡る争いに介入して実力を蓄えた。
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※兄弟の官位: 私が確認できるのは保元三年(1158)2月「頼朝・皇后宮少進《と保元四年(1159)2月「朝長・従五位下中宮大夫進」のみ。
頼朝が保元の乱勃発とほぼ同時に任じられた兵衛府の右兵衛権佐は従五位上で破格の高位だが戦乱に伴う待遇であり、しかも義通が帰国した後の叙任だから無関係。いずれ機会があれば正確な官位の差を確認したい。
波多野 義常(義経) 不詳(不詳)~治承四年(1180) 没年齢 不詳
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義通の嫡男で妻は大庭景義の妹。平治の乱後に京に出仕し、義朝に味方して隠居した義通に替って平家との関係を修復した。右馬允(警察権を含む?従五位下か六位上程度か)に任じて波多野荘を継承し、相模国北部で有数の実力を蓄えた。
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吾妻鏡の治承四年7月10日(「吾妻鏡を読む」を参照)に拠れば、頼朝挙兵に協力を求めた使者の安達盛長に対して(相模の武士の多くが従ったにも関わらず)義常は「招集に応じないのみならず数々の暴言を吐いた」らしい。結果として富士川合戦に向って足柄道を進む頼朝が下河邊行平らを討手に派遣し、同年10月17日に松田郷で自殺した(「吾妻鏡を読む」を参照)。伯父の大庭景義邸にいた嫡子有常は助命されて景義預かりとなり、文治四年(1188)4月3日の八幡宮流鏑馬の妙技で許され遺領松田郷を継承して松田氏の祖になった。波多野氏の名跡と所領は同族の波多野義景が継承している。
波多野 義景 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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義通の弟あるいは従兄弟とする説があり、弟説の方が可能性が高そうだ。義常追討の際には頼朝に服従し、家督と所領の相続を許され御家人に加わった。吾妻鏡には元暦元年(1184)5月17日に息子の三郎盛通らが伊勢国で志田義広を討ち取ったこと、文治四年(1188)8月23日に波多野荘北部所領をめぐって岡崎義實と争ったこと、文治五年(1189)7月14日に奥州合戦出陣に際して所領を幼い息子に譲り戦場に向う気概を見せたこと、元久三年(1206)6月21日に御所南庭で実朝高覧の相撲で大野藤八と引き分けたこと、などが載っている。
波多野 義重 不詳(不詳)~正嘉二年(1258) 没年齢 不詳
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治承四年に頼朝の追悼を受けて自刃した波多野義常(義経)弟忠綱の嫡子で波多野義通の孫、越前国志比庄の地頭職を得て越前波多野氏の祖となった。本領の相模国波多野荘の南部が北條重時の所領となった関係から重時の被官となってその娘を妻とし、重時と息子の長時(六代執権の赤橋長時)および時茂が六波羅探題に任じていた時代には六波羅評定衆として補佐に当っている。曹洞宗の開祖道元と親しく交わり、越前国志比荘の土地を寄進して永平寺の建立に尽力した。義重の子孫は現在も永平寺の檀家筆頭であり、仏殿には義重の像が祀られている。
八条院(暲子(あきこ)内親王) 保延三年(1137)~建暦元年(1211) 没年齢 75歳
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鳥羽上皇と美福門院の娘。弟の近衛天皇没後に鳥羽上皇も没したため21歳で出家し、美福門院の養子となった甥の二条天皇の准母(天皇の生母ではない女性が母に擬されること)となり、25歳で女院(院は上皇、女院は上皇に準ずる待遇)となり、200ヶ所以上にも上る両親の遺領をも相続した。以仁王挙兵の背後には八条院の協力があり、院周辺の武士や所領の荘官の多くが源氏の挙兵に加わるなど、反平家のスポンサー役も果たしている。
八田(宇都宮) 宗綱 応徳三年(1086)~応保二年(1162) 没年齢 77歳
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父は下級貴族の藤原兼仲で母は益子氏初代とされる正隆の娘。兼仲は妻が宗綱を妊娠中に死没し、彼女は宗綱を身篭ったまま兼仲の兄弟である藤原宗円に再嫁した。宗綱は宗円の嫡子として所領の八田(現在の茨城県筑西市八田・
(地図))を継承して二代当主となった。
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その後は益子氏と真岡の芳賀氏らを支配下に従え毛野川(鬼怒川)に沿って北に勢力を拡大、宇都宮の神職を兼ねて宇都宮氏を名乗り一族の基盤を整えた。宗綱の正妻は常陸国大掾の平棟幹娘、嫡子の朝綱は宇都宮氏三代目を継承し弟の知家は八田姓を名乗って筑波山南麓に小田城(
(地図))を築き小田氏の祖となった。娘の一人は頼朝の乳母(寒河尼)を務め小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。
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頼朝没後は二代将軍頼家の権限縮小のため設けた宿老13人の合議制に加わり、建仁三年(1203)に頼家の命令を受けて預かっていた阿野全成を殺した。
八田(小田) 知家 康治元年(1142)~建保六年(1218) 没年齢 77歳
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宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。保元の乱(1156)では義朝に従って戦い、頼朝挙兵の際は当初から加わって従軍した。
一部の系図では父が義朝で母が宇都宮朝綱(知家の兄)の娘とされているが、やや無理があるようだ。祖父の宗円は平安時代末期に下野中部から常陸西部を支配下に置き、宇都宮氏・八田氏・結城氏・武茂氏・塩谷氏などの始祖となった人物。
寿永二年(1183)には鎌倉側として野木宮合戦で志田義広を追討、その翌年の元暦元年(1184)には源範頼軍に従って平家追討に加わった。文治五年(1189)の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道(福島の浜通り)の大将として従軍した。
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文治元年(1185)に常陸守護として小田城
(参考サイト)(地図)を築き、小田氏の祖となった。頼朝の没後は二代将軍頼家の権限を制限するため設けられた宿老13人による合議制に加わり、建仁三年(1203)には頼家の命を受け預かっていた阿野全成を殺している。
小田(八田) 朝重(知重) 生没年不詳 没年齢 不詳
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八田知家の嫡子で常陸国小田城を継承し、子孫は戦国時代まで勢力を維持した。朝重の事跡などは明らかではないが、建長四年(1252)に東国に下った真言律宗の僧忍性が小田氏の庇護を受け、常陸国小田郷に三村寺
三村山清冷院極楽寺(サイト内リンク先)を建てて布教の拠点にした事実がある。史料では八田知家から布教協力を得たことになっているが知家は建保六年(1218)に没しており、実質的に援助したのは朝重だと考えて良いだろう。
八田 宗基 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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伊豆大見郷の武士。八田四郎の子で八田八郎藤原宗基を名乗った他は全く史料に残っていない人物なのだが...大見氏系図と中伊豆&伊東に残る伝承と曽我物語の記述が一致している部分が実に興味深い。宇都宮氏系の八田氏とは全く無関係。
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宗基は大見家政の娘・玉枝を妻に迎え、娘を産ませた後に死没したことになっている。玉枝は娘を連れて伊東(狩野)祐隆の後妻(または妾)に入り祐継(工藤祐経の父)を産んだ、とされる。伊東本家系図に拠れば祐継の母は八田八郎藤原宗基の娘であり、更に祐隆と祐継は同一人物として載っている。
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つまり、「祐隆が息子祐継の後家である玉枝の連れ子に手を出して産ませたのが金石(後の祐経)で、外聞を憚って祐継の子として扱った」可能性が見えてくる。祐隆は年老いて生れた金石を溺愛して本領である伊東を継がせようとした、嫡孫である祐親はその処置に従わず伊東荘を独占し、曽我の仇討ちの原点「伊東の領地争い」を招いた...後世に残る遺産相続トラブルになった、と。曽我物語の原点の原点が祐隆まで遡る、か。
.
大見郷の西部には
八田屋敷の地名が残り、県道の横に一族の墓所とされる古い石塔が残されている。地図は
こちら。
葉室(藤原) 朝方 保延元年(1135)~正治三年(1201) 没年齢 66歳
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藤原朝隆の子で生母は葉室顕隆の娘。鳥羽法皇と後白河法皇の院政で院庁の別当として活躍し安元元年(1175)に参議、後に正二位大納言に登用され堤大納言と呼ばれた。最初は義仲と対立して解官、その後は義経に与したため頼朝に二回目の解官処分を受けたがまもなく復帰した。能書家としても知られている。
原田 種直 保延五年(1140)~建暦三年(1213) 没年齢 73歳
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太宰府の警察権を世襲統括した武士団の棟梁。重盛の養女を妻とし、清盛*頼盛に仕えて日宋貿易の現場を管理し北部九州の実権を掌握した。
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治承五年(1181)2月には平家追討の兵を挙げた肥後の菊池隆直らと戦い、寿永二年(1183)8月の平家都落ちに際しては自邸を安徳天皇の御所にした、とも伝わる。文治元年(1185)2月には豊後に上陸し北上した範頼軍と本領の葦屋浦(
地図)で合戦して弟の淳種を失い、続く屋島合戦と壇ノ浦合戦に敗れて領地(一節に3700町歩)を没収され鎌倉に拘留されたが、建久元年(1190)に赦免されて御家人に列した。新たに得た所領は筑前国怡土庄(博多湾の西側・近くに元寇防塁あり)、鎌倉建長寺の奥には拘留中の種直が処刑された平家の人々を弔った場所(地獄谷を称す)があった、と伝わる。
榛谷(はんがや) 重朝 不詳~元久二年(1205) 没年齢 不詳
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秩父平氏の一族で小山田有重の次男、兄に稲毛重成がいる。小山田一族は新たに開発した農地(横浜市保土ケ谷区~旭区一帯)を伊勢神宮に寄進して榛谷御厨とし、在地領主として支配、その一部である二俣川一帯を相続して地名の榛谷(
地図・半ヶ谷の地名あり)を名乗った。はんがや→保土ヶ谷に転訛したとの説もある。正治元年(1199)10月の梶原景時討伐や建仁三年(1203)の比企氏討伐にも加わり北條氏の権力維持に貢献したが、元久二年(1205)の畠山重忠討伐の謀議を図った冤罪で一族滅亡の憂き目を見た。重忠と共に相模の古参御家人の排除を狙った北條氏の計画、とされる。
比企の尼 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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源義朝に従って京都に上り頼朝の乳母となった武蔵国の武士比企掃部允の妻。頼朝の乳母は他に小山政光の妻・山内首藤俊通の妻・三善康信の伯母などが記録に残っている。平治の乱で捕らえられた頼朝が伊豆に流されると夫と共に本領の武蔵国比企郡に下り、韮山に近い
高源寺に拠点を置いて物心両面で頼朝を援助した。鎌倉入りの後は比企ヶ谷に館(現在の妙本寺の地)を与えられるなど厚遇を受けている。
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長女の丹後内侍は二条天皇に仕えて惟宗広元の子・島津忠久を生み、その後に母と共に関東に下り安達盛長に嫁して範頼の室などを産み、次女は河越重頼に嫁して義経の室などを産み頼家の乳母を勤めた。三女は伊東祐親の二男祐清に嫁し、夫の戦死後は平賀義信に嫁して平賀朝雅を産み頼家の乳母も勤めた。
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男子は産まれなかった比企尼は甥の能員を養子とした。夫の比企掃部充は頼朝の挙兵前に死没している。建仁三年(1203)の比企の乱で一族が滅亡した後は比企に隠居し、頼家正室の辻殿と共に余生を送ったとの伝承が残る。
比企 能員 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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出自は明らかでないが阿波の出身で、比企局から見ると夫の甥と伝わる。男子に恵まれなかった頼朝の乳母・比企局の養子となって比企一族を継承した。平家討伐・奥州藤原氏討伐に功績があって頼朝の信任が篤く、正治元年(1199)の頼朝死後は幕政を司る13人の合議制にも加わっている。
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その後は娘の若狭局が頼家の寵愛を受けて一幡を産み、将軍の外戚として勢力を振るった。しかし建仁三年(1203)8月に頼家が病で重態になった際に、執権北條時政は頼家の弟実朝と一幡との分割相続を決定。これに上服の能員は頼家と合議して北條討伐を企て、察知した時政に謀殺された。
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幼い一幡を含む比企一族も共に焼き殺されており、公式記録は謀反を企てたための討伐だが、実際には時政による対抗勢力の排除と、幼い実朝を擁立して傀儡政権を樹立する計画だったのは容易に想像される。
文応元年(1260)、比企の乱の時に既に出家していた能員の末子・比企大学三郎能本が一族の菩提を弔うために比企ヶ谷の館跡にあった法華堂を日蓮に寄進、日蓮は弟子の日朗を開山として長興山妙本寺とした。長興は能員の法名、「妙本」は能員の妻(能本の生母)の法名である。
比企 朝宗 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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頼朝乳母の一人・比企尼は比企郡司の掃部允との間に三人の娘を産んだが、男子がいなかったため縁戚の能員を養子に迎えて家長とした。朝宗は能員の一族で能員の弟ともされるが系図は錯綜しており、確証はない。義仲滅亡後に勧農使(守護の前身)として派遣され、若狭国・越前国・越中国・越後国の庄の管理に当っている記録がある。建仁三年(1203)年9月の比企の乱によって一族は滅亡するが、能員の息子の一人だけが助命され、後に出家して妙本寺の開祖(能本)となった。
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比企の乱戦死者リストの中には朝宗の名前がなく、娘の一人が北條義時に請われて正室(姫の前)となっていた関係で助命されたと推定される。ちなみに姫の前は義時の二男朝時と三男重時を産んでいるが乱に連座して離縁となり、上洛して従四位下の貴族源具親に再嫁している。
樋口(中原) 兼光 久安六年?(1150?)~元暦元年(1184) 没年齢 35歳前後
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中原兼遠の次男とされる。長男が誰かは不明で、今井兼平・巴御前・山吹御前の兄と考える説もある。軍記物の伝える義仲四天王(他に今井兼平・根井行親・楯親忠)の一人。伊那郡樋口村(現在の辰野町樋口・移設あり)を本領にしたため樋口を名乗った。
義仲に従って北陸を転戦して武勲を挙げ、上洛後は法住寺合戦で後白河法皇を拘束するなどの活躍をした。平家物語に拠れば寿永二年1月には裏切った行家を追って紀伊国に向っており、急を聞いて引き返した時には義仲と今井兼平は既に大津で戦死しており、義経に従い京の南を守備していた武蔵児玉党(兼光と懇意だった)に勧められて投降した。
義経らの尽力で一旦は助命の沙汰が出たが、法住寺合戦
※での怨みが強かった公卿らの要求で斬首された。1月24日に義仲・根井行親・楯親忠・高梨忠直らの首が都大路を引き回された時は懇願して非人の格好も厭わず付き従った、と伝わる。
墓所は辰野町樋口563のスタンド裏にあるが、多分後世の慰霊墓だろう。後世の上杉家家老・直江兼続は兼光の子孫とされている。
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※法住寺合戦: 後白河は水島合戦で敗れ帰京した義仲を見限り、頼朝に乗り換えようとした。法住寺殿(院の御所)に武装兵を集め義仲との対決に
備えたが、寿永二年(1183)11月に義仲軍に制圧され、20日には五条河原に100人を越える首を晒した。実権を掌握した義仲は藤原基房を摂政に任じて傀儡政権を樹立し最後の抵抗を試みる。翌寿永三年1月、鎌倉軍の総攻撃を受けた義仲と今井兼平は大津で戦死した。法住寺は東山区の蓮華王院(三十三間堂)すぐ東隣にある天台宗の寺院。後白河天皇陵と一体の寺院だったが明治初期に分離され、陵のみが宮内庁の管理下に入った。
常陸入道 念西 (伊達 朝宗) 大治四年(1129)~正治元年(1199) 没年齢 70歳前後
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初名は伊佐または中村とする説が多い。詳しい出自は不明だが、父は待賢門院非蔵人だった藤原北家の光隆、生母は源為義の娘とし、本姓は藤原朝宗と考えるのが通説である。娘の大進局は頼朝の寵愛を受け文治二年(1186)2月に男子(後の貞暁)を産んでいる。また文治五年(1189)8月8日には奥州藤原氏追討の石那坂合戦(現在は大鳥城攻略説が有力)で湯庄司佐藤基信親子らを討ち取り(または捕獲)、恩賞の伊達郡を得て伊達氏の祖となった。子孫は伊達郡に土着し、九代後の子孫に政宗が現れている。
平賀(大内) 義信(義宣) 康治二年(1143)~元久三年?(1206?) 没年齢 74歳前後
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父は河内源氏新羅三郎義光の四男で信濃国平賀郷を領有した平賀盛義。妻は比企尼の三女(伊東祐清の寡婦)、嫡男は大内惟義、次男が平賀朝雅。平賀郷は現在の佐久市南部・現在の小海線太田部駅近くに平賀城址がある。城山小学校南東(城の西麓)の平賀神社は建久四年(1193)に義信が頼朝の薦めを受け、鶴岡八幡宮を勧進したと伝わる。周辺の地図は
こちら。
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平治の乱(1159)では義朝に従って敗北し、東国へ落ちる途中で本拠地信濃に逃げた。その後の約20年は本拠地に雌伏したが養和元年(1181)には義仲に従って越後の城氏と戦い、翌年前後から頼朝に従って佐久一帯の制圧に重要な役割を果たした。
幕府の樹立後は頼朝の深い信頼を受け、源氏門葉として御家人筆頭の扱いを受け二代将軍頼家の乳母父を務めた。頼朝没後も源氏の長老として幕政に関与し、三代将軍実朝の烏帽子親も務めている。
平山 季重 保延六年(1140)~建暦二年(1212) 没年齢 72歳前後
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武蔵七党の一つで武蔵国府(府中)の西側一帯を勢力下に置いた西党の武士。鎌倉時代初期の戦乱での勇猛な活躍が知られる。本領は舟木田荘平山郷(日野市平山・現在の平山城址・
地図)とされるが、これが元々の本領安堵なのか戦功による新領なのかは判然としない。
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大内裏待賢門で悪源太義平率いる18騎に加わり、重盛の軍勢500騎を追い散らした(平治物語には「平山武者所(院の武士)」として載る)のが史書に現れる最初で、乱の終結後は平氏に従い所領の管理に従事した。治承四年には頼朝が挙兵に参加、その後は富士川合戦・佐竹氏討伐・義仲追討軍の宇治川合戦・一ノ谷合戦・屋島合戦・壇ノ浦合戦・奥州合戦などに転戦し、それぞれ目覚しい戦功を挙げた。
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平家滅亡後の無断任官(後白河による右衛門尉)で頼朝に罵倒され、この前後には筑前国原田荘(福岡県糸島市)の地頭職に任じている。義経に近い存在だったが処分の対象にはならず、子孫は鎌倉幕府滅亡まで幕臣としての地位を保った。戦国時代には後北条氏に従い、天正十八年(1590)の小田原征伐で滅亡した。
墓所は日野市平山の
大沢山宗印禅寺(平山薬師・
地図)、更に500m南の城址公園近くには
季重が先祖を祀ったのが最初と伝わる
季重神社
(
地図)がある(共に観光協会サイト)。
平賀 朝雅 不詳(不詳)~元久二年(1205) 没年齢 不詳
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河内源氏新羅三郎義光の四男平賀盛義の次男で母は比企尼の三女、北條時政の娘を妻とした。建仁三年9月の実朝将軍継承に伴い朝廷を抑えるため京都守護を務め、翌年の4月には三日平氏の乱を鎮圧して伊賀と伊勢の守護職に着任、後鳥羽上皇にも重用された。
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同年11月には実朝の妻を迎えるため朝廷との折衝窓口を務めた。この時の宴席で鎌倉の迎え役として上洛した畠山重保と口論、その直後に重保と共に迎え役の任にあった政範(時政と後妻牧の方の息子)が病没したため重保は牧の方の怨みを受け、讒言が契機となって畠山親子が謀反の嫌疑で討伐された(元久二年・1205年6月)。吾妻鏡は
義時は畠山追討に反対だったが「義母と思って軽視するか」と責められ不本意ながら出兵した」と書いている。義時はこの時点で周到な出兵準備を済ませ、討伐直後には畠山所領の分配も行っているため、吾妻鏡の代表的な曲筆の一つ、とされている。
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当時の朝雅は武蔵国司の任にあり、畠山一族が同国の最大勢力だった。北條時政は在京中の朝雅を後見して武蔵国の行政権を握っていた背景があり、(牧の方の私怨レベルではなく)源氏譜代の御家人を排除して武蔵国の実質的な支配権を握るための筋書きを書いたと考えるのが妥当だろう。
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同年の翌7月には実朝を廃し朝雅を次期将軍にしようとした時政が失脚、牧の方と共に伊豆に追放された。直後に朝雅も京都で殺され、義時・政子連合が実権を掌握する結果となる。一般的には先妻の子である義時・政子連合vs後妻牧の方・娘婿朝雅・時政の対立(政権の掌握と北條家の後継争い)に起因する政変とされているが、個人的には時政が目論んだ円滑な政権移譲計画だった可能性も捨てられない。
藤澤 清親 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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上伊那を本拠とした武将で諏訪大社上社の神官である諏訪氏の一族で現在の茅野市周辺を支配した千野光親の子親貞が現在の伊那市高遠町藤沢(
地図)を領有、親貞の嫡子清親は鎌倉時代の初期から御家人として仕え、吾妻鏡には弓の名手として再三登場している。
後に承久の乱(1221)にも勲功を挙げ、約30km西の天竜川西岸・箕輪(上伊那郡箕輪町・
地図)を得て本領とし、一族は室町時代まで繁栄している。
伏見 廣綱 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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遠江国掛河(静岡県掛川市)出身、寿永元年(1182)5月に安田義定の推挙を受けて頼朝祐筆の一人となった。吾妻鏡に登場しているのは下記の3ヶ所、何のことはない、頼朝の女性関係に振り回された半年間の記録のみ。
● 着任直後の同年7月、出家して新田荘に住んでいた新田義重の娘に頼朝の艶書を届けた。頼朝の長兄義平の後家である。
● 同年11月、頼朝の愛妾亀の前を住まわせていたのが政子に露見し牧の方の兄牧宗親が飯島(材木座に近い逗子市)の屋敷を打ち壊した。
● 同年12月16日、伏見廣綱は政子の強い要求により遠江国に流された。
藤原(九条) 兼実 久安五年(1149)~建元元年(1207) 没年齢 59歳
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摂政・関白藤原忠通の三男で従一位、摂政・関白・太政大臣を歴任した。平家の全盛時代には政権の対立軸である平清盛と後白河法皇の双方に与せず非協力の態度を続け、一定の距離を保った。政治姿勢は比較的故実を重んじる保守的な傾向が強かったらしい。
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鎌倉幕府成立後は頼朝の信望と協力を受け文治五年(1189)には太政大臣に昇進、建久元年(1190)には娘の任子を入内させ位を極めたが朝廷では孤立の傾向が続いた。建久三年の後白河法皇没後の一時期は頼朝の征夷大将軍宣下もあって権力を掌握したが、頼朝が兼実の政敵である通親を介して長女大姫の入内工作を進めたため関係が悪化し、頼朝の後ろ楯を失って源通親・高倉範季らと政争に敗れ失脚した。
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文治五年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼし建久三年(1192)に後白河院の崩御と自らの征夷大将軍就任を迎えた頼朝は幕府創立当時の「東国に依拠する姿勢」を明らかに失っており、大姫・乙姫の入内をステップにした京都回帰の夢に取り憑かれていた、ように見える。個人的には、建久十年(1199)の頼朝死没は「他殺」と考えているのだが、これはいずれ改めて別項で。
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それはさておき...失脚後の兼実は2人の子(良通と良経)が早世したため孫の道家(従一位・摂政関白・左大臣)を薫陶し育て上げ、法然に帰依して建仁二年(1202)に出家、5年後に死没、墓所は藤原氏の氏寺・東山区の法性寺跡に道家が建立した東福寺にある。兼実は歌人の藤原俊成・藤原定家らのパトロンでもあり、自らも優れた歌人だった。40年間書き続けた日記の「玉葉」は第一級の歴史資料として知られている。
藤原 璋子(待賢門院) 康和三年(1101)~久安元年(1145) 没年齢 44歳
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第74代鳥羽天皇の中宮で75代崇徳天皇と77代後白河天皇の生母。
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永久五年(1117)に白河院の養女として入内し五男二女を儲けたが、大治四年(1129)の白河院崩御後は鳥羽上皇が院政をスタート、後ろ盾のない10歳の幼帝崇徳は孤立した。鳥羽上皇は白河院が罷免した元関白の藤原忠実を復帰させて忠実の娘泰子(高陽院)を皇后に立て、更に璋子を遠ざけて藤原得子(美福門院)を寵愛した。そして永治元年(1141)末には崇徳天皇を退位させ、得子が生んだ体仁親王(満二歳)を第76代近衛天皇として即位させた。
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権勢を失った璋子は康治元年(1142)に落飾して
法金剛院(wiki)に入り、三年後に崩御した。10年後の久寿二年(1155)夏に17歳の近衛天皇が崩御、璋子の産んだ雅仁親王が第77代後白河天皇となる。やがて朝廷は後白河天皇派(藤原忠通、源義朝、平清盛ら)と崇徳上皇派(藤原頼長、源為義ら)に分裂し、保元の乱(1156年7月)を引き起こすことになる。
藤原 (中御門大臣、阿波大臣)経宗 元永二年(1119)~文治五年(1189) 没年令 70歳
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出世は早くなかったが76代近衛天皇が崩御して経宗の従兄弟に当たる後白河が帝位を継いだことから出世を重ね、平治の乱では清盛に協力しつつ二条天皇の親政実現に尽力し、結果として後白河によって解官され阿波に流された。
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応保元年(1161)に憲仁親王(後白河の第七皇子で後の80代高倉天皇)を立太子(つまり次期天皇)に画策した後白河が政治介入を停止され、二条天皇親政が実現すると共に経宗は政界に復帰し、長寛二年(1164)末には正二位・右大臣に昇進、実質的に太政官を取り纏める立場となり、寿永二年(1183)7月の平家都落ち後は後白河に全面協力して院政の確立に寄与した。
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文治元年(1185)10月の頼朝追討の宣旨には発行賛成の立場を執ったが追求を受けず左大臣の地位に留まり、高階泰経・平親宗ら12名が解官となった。清盛や後白河と対立しつつ結果として24年間も左大臣の地位を保ち重用されたのは、故実に詳しく実務能力に長けていた人物だった事が指摘されている。
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藤原 (筑後権守)俊兼 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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鎌倉入り後の頼朝の右筆。藤原邦通と入れ替わりながら幕府初期の文官・実務官僚を務めている。元暦元年(1184)11月21日に派手な朊装を頼朝に咎められて重ね着した小袖の褄を切られ、(実務者として)才能があるのに華美を好み倹約を知らぬ、と訓告されている。同じ京下りの文官である大江廣元や三善康信や二階堂行政らに比べるとトップクラスではないが、着実に業務を処理する実務官僚だった。
藤原 (判官代)邦通(邦道) 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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京を離れて伊豆にいた際に安達盛長の推挙で頼朝に仕えた元官人。頼朝挙兵直前には山木兼隆邸の酒宴に加わって内情を探るなどの貢献を果たした。鎌倉入り後は実務官僚を兼ねて初期の頼朝右筆に任じ、同じく京下りの藤原(筑後権守)俊兼に職務を譲りつつあったが、文官としては大江廣元に次ぐ頼朝の信頼を受けていたらしい。
藤原 季範 寛治四年(1090)~建元元年(1155) 没年齢 65歳
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尾張国目代を務めた藤原南家・季兼の嫡子で、母は熱田神宮の大宮司職を世襲していた尾張氏の娘。永久二年(1114)に当時の大宮司・尾張員職が霊夢と称して外孫の季範に大宮司職を譲り
※、以後は季範の子孫が同職を世襲、尾張氏は権宮司を世襲した。娘の一人が義朝の妻由良御前で頼朝と一條能保の妻を産み、末娘(養女)が村上源氏師忠流の官人源高保の妻になっている。
藤原 秀郷(俵藤太) 生年不詳~没年不詳 没年令 不詳
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平安時代中期の武将で出自は藤原北家(祖は藤原不比等の次男藤原房前)の魚名流(房前の五男・魚菜の後裔)とされるが確証はなく不明な部分も多い。俵(田原)藤太の吊も相模の田原説(秦野市)・幼時に京都田原に住んだとする説・近江の田原郷出身説などがあり、同様に不明。
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下野国の在庁官人(中級以下の実務官吏)として一定の勢力を持っていたが、延喜十六年(916)に上野国の国衙(国府)と争って罪に問われ、更に2年後には乱行により追討令を出されている。下野の伝承に拠れば、延長五年(927)には従五位下・下野国押領使(治安維持軍司令官)として下向し
唐沢山城(サイト内リンク)を築いたとされる。唐沢山西麓の小山が墳墓と伝わっているが更に古い古墳の可能性もあり、詳細は明らかではない。
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天慶二年(939)に平将門が関東八ヶ国を制圧する天慶の乱を起した際は平貞盛と協力して追討に赴き、翌年2月に将門の本拠地下総国猿島郡で将門を討って乱を平定した。この功で翌月には従四位下に11月には下野守に任じられ、更に武蔵守・鎮守府将軍も兼任した。龍神の頼みを受けて大百足を退治するなど各地に数多くの伝承が残っているが、いずれも後付けのフィクションである。
藤原(伊藤) 忠清 不詳(不詳)~文治元年(1185) 没年齢 不詳
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平家譜代の家人で伊勢国度会郡古市荘(現在の伊勢市中心部・
地図)に本拠を置いた武将。清盛に従い保元の乱と平治の乱を戦って功績を挙げ、その後は重盛・維盛父子に仕えた。承安年間(1171~1174)に上総流罪となって上総介廣常に優遇され、治承三年(1179)の政変に伴って失脚して殺された藤原為保に替って上総介となる。その後は上総での専横によって廣常の恨みを受け、これが翌年の頼朝挙兵に際して上総廣常が積極的に協力した遠因となった、とされる。
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治承四年(1180)5月には宇治川で 頼政軍を撃破し 頼政と以仁王を滅ぼした。この時は南都(奈良)を攻めようとした大将の重衡と維盛を制止している。更に同年10月の富士川合戦でも勝算なしと判断して撤退を進言し、京に戻ってからは清盛の激怒を受けたが損害は最小限に食い止めた。
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寿永二年(1183)7月の都落ちには同行せず義仲との和睦を試みて失敗、一ノ谷合戦後の寿永三年(1184)7月には鎌倉軍主力が引き上げた隙を狙って伊勢で大規模な反乱を起こした(三日平氏の乱)。翌・寿永四年(1185)3月の壇ノ浦後の5月に志摩で捕われ、16日に六条河原で斬首。
藤原(上総) 忠光 不詳(不詳)~建久三年(1192) 没年齢 不詳
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藤原忠清の二男で通称は上総五郎兵衛尉、平景清の次兄。譜代の家臣として平家の侍大将を務めた。壇ノ浦での平家滅亡後に行方不明となり、建久三年(1192)1月に鎌倉永福寺建立の土木工事の際に人夫の中に紛れ込んで頼朝の暗殺を狙ったが事前に発見され、2月24日に処刑された。
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ちなみに長兄の忠綱(上総介藤原忠清の嫡子)も平氏有力家人の一人で、治承四年(1180)5月の以仁王挙兵の際は源兼綱(頼政の養子)を討ち取る勲功により従五位下に叙されて上総大夫判官と呼ばれた。寿永三年(1183)に義仲追討のため北陸に派遣され、倶利伽羅峠の合戦で討ち死にしている。
藤原(平) 景清 不詳(不詳)~建久七元年?(1196?) 没年齢 不詳
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平家譜代の家人藤原忠清の末子で通称は上総七郎、悪七兵衛と呼ばれるほどの猛者と伝わっている。平家物語では壇ノ浦合戦で相手武者の錣(しころ・兜の裾部分)を素手で引きちぎる程の腕力だった、と書いている。壇ノ浦合戦後に捕虜となり、預けられた八田知家邸で絶食して絶命した、と伝わる。一説に、匿ってくれた叔父大日房能忍の密告を疑って殺したため、悪と呼ばれたのが通称になった、とも。
藤原 基成(基通) 保安元年(1120)前後~不詳 没年齢 不詳
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藤原北家の貴族で鳥羽院の近臣だった大蔵卿忠隆の次男。兄弟も院の近臣で異母弟には平治の乱で二条親政派を指揮して敗北し斬首となった信頼がいる。妹は近衛基実の正妻として関白の基通を産んでいる。
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康治二年(1143)4月に陸奥守に任官、6月には鎮守府将軍を兼任して平泉に下向した。以後仁平三年(1153)12月までの在任期間中は奥州藤原氏二代の基衡と親交を結び、嫡子の秀衡に娘を嫁がせている。基衡は前任の陸奥守藤原師綱と激しく対立し、強硬姿勢で臨んだ師綱によって腹心の佐藤季治(基治の父親説あり)を斬首刑に処されている(罪状は信夫郡の公田検注妨害)。師綱は朝廷の権威を高めたとして賞賛されたが以後の基衡は融和政策に転換、併せて朝廷との人的パイプが豊富だった基成を取り込む意図があった。
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陸奥守の任期が終る直前(久安四年(1148)秋?)に帰洛し廷臣に復帰したが、平治元年(1159)の平治の乱での異母弟信頼失脚→斬首に縁坐して陸奥流罪に処された。これ以後は平泉の衣河館に定住し、藤原氏当主となった三代秀衡の舅、また政治的顧問として大きな影響力を発揮した。
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基成の父忠隆の従兄弟が一條長成、義経ら三兄弟を産んだ義朝の妾常磐が再婚した相手である。幼い頃の義経(牛若丸)が鞍馬山から奥州平泉に逃げたのも、頼朝に追われた義経が平泉に逃げ込んだのも、この系累を頼った結果と推定できる。
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秀衡没後の基成は四代目を継いだ泰衡を補佐するが秀衡の願いは実現せず、泰衡による義経追討に続いて文治五年(1189)7月の奥州合戦によって平泉は陥落し基成は三人の息子と共に捕縛された。後に赦免されて帰洛するがその後の消息は不明。
藤原(亘理) 経清 不詳(不詳)~康平五年(1062) 没年齢 不詳
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藤原頼遠の子で、秀郷の子孫を称する。従五位散位(位階だけで官職なし)の在庁官人として陸奥国府多賀城に赴任していた。母は平国妙の姉妹。いずれにしても特に由緒正しい家柄とは言えないレベルで、前九年の役が起きなければ何の変哲もない生涯を送る筈だった。
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永承六年(1051)の源頼義奥州着任を遠因として康平五年(1062)まで続いた前九年の役の奥州側の主導者の一人。東北から北海道一帯の蝦夷(土着民)のうちで朝廷に降伏した陸奥俘囚陸奥守藤原登任に同行し陸奥に下ったとの説もあり、登任に従っていたこの頃に安倍頼時の娘(貞任の妹)を妻としている。登任に代わって源頼義が陸奥守に着任した後は頼義に臣従していた。
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しかし頼義には陸奥国への権益を確保する目的があり、安倍一族に対する挑発を続けた末に貞任の拘束を決定、これに反発した棟梁の頼時が決起して前九年の合戦が勃発した。間もなく経清と同様に頼時の娘を妻にしていた平永衡が内通を疑った頼義に殺されたため、「次は自分か」と身の危険を感じた経清は安倍一族側に走った。戦線は安倍氏優勢のまま膠着し、全土が戦場となった陸奥国では徴税も停滞、朝廷は頼義を解任して高階経重を派遣したが戦闘中の頼義は従わず、治安の改善は望めないため再び頼義に安倍一族征伐を命じた。
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頼義の劣勢は長く続いたが、最後には出羽俘囚長清原一族を味方に引き入れ、厨川(くりやがわ・盛岡市郊外)合戦で貞任は戦死・経清は捕らえられた。頼義の憎しみを受けた経清は苦痛を長引かせるため錆刀によって斬首され首は貞任と同様に釘で丸太に打ち付けられて京に送られた。
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前九年戦役の後に経清の妻は清原一族の長・武則の次男武貞に再嫁、経清との遺児は武貞の養子となって清衡を名乗り、後に陸奥六郡(現在の岩手県胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手など)を領有して奥州藤原氏の初代となった。
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経清の墓所(胴塚か)は奥州市江刺区岩谷堂の五位塚墳丘群
(参考サイト)と伝わる。時間があれば平安時代の奥州藤原氏文化を再現した歴史テーマパーク
えさし藤原の郷(公式サイト)も近いし、更に南2kmにある豊田館跡(
地図・経清が築き奥州藤原氏初代の清衡が生まれた)も徒歩圏内だ。
藤原(亘理) 清衡 天喜四年(1056)~大治三年(1128)没 没年令 73歳
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藤原経清の嫡子で母は安倍頼時の娘(貞任の妹)武貞。前九年の役で経清は敗死したが、母親(有加一乃末陪)が敵将清原武則の嫡男武貞に再嫁したため6歳で武貞の養子となり生き延びた。この婚姻が清原氏と阿倍氏の融和を目指したのか、或いは彼女が絶世の美女だったのか。
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武貞の嫡子真衡、清衡の異父弟家衡、更に武則の従兄弟で一族の長老・吉彦秀武を加えた複雑な血縁関係が後三年の役を引き起こしていく。清原氏を相続した真衡は海道平氏
※の平安忠(当時の出羽国司)の二男(改名して成衡)と源頼義の娘を夫婦養子に迎えて一族の格を高め、更に棟梁の権限を強化して親族の家臣化を図った。清原氏の血脈が絶えるのを嫌った吉彦秀武と真衡の異母弟家衡・武貞の養子清衡が背いて戦乱が勃発する。
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※海道平氏:国香の嫡子貞盛は秀郷らと協力して天慶三年(940)に将門を滅ぼし、恩賞として得た所領の常陸に養子の維幹(実父は弟の繁盛)を
赴任させた。維幹は多気(現在のつくば市北条)を拠点にして勢力を拡大、これが常陸(海道)平氏・岩城氏の最初となる。その後は国香流大掾氏として約250年も繁栄を続けたが、建久四年(1193)に北條時政と八田知家に所領を没収されて零落した。
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一族内部の反発に対して真衡は直ちに討伐軍を起こ、し陸奥守源義家の支援を受けて清衡と家衡を降伏させた。更に吉彦秀武追討軍を率いて出陣したが直後の永保三年(1083)に急死。降伏した清衡と家衡は義家の裁定を受けて真衡の所領を分割相続した。この裁定は清衡有利に偏っていると考えた家衡は応徳三年(1186)に清衡館を攻め、留守だった清衡を除く一族妻子を皆殺しにした。一度は沈静化した後三年の役は義家・清衡連合vs家衡・叔父の武衡に形を変え第二段階に入っていく。
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危機を逃れた清衡は義家の支援を得て横手市の
金沢柵(サイト内リンク)で家衡を滅ぼし、32歳の寛治元年(1087)に北上平野一帯の陸奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手)
※を領有して姓を藤原(前九年の役で安倍一族と共に滅ぼされた実父経清の姓)に戻し、奥州藤原氏の祖となった。
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※陸奥六郡:胆沢・江刺・和賀の三郡を清衡、紫波・稗貫・岩手の三郡を家衡が得たと考える説が多い。強いて考えれば清衡の得た南部三郡の方が
穀倉地帯と言えるかも。清衡館があった岩谷堂は江差郡、衣川一帯は胆沢郡に含まれる。家衡の北部三郡は山岳地帯がやや多いが紫波郡はブドウやリンゴなど果実の特産地、温泉も近いし旅行で訪れるには素敵なエリアなんだけどね。もちろん現代の話。
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後三年の役は義家が介入した清原一族の私戦と判断されて恩賞も戦費の補填もなく、陸奥守義家には滞った官物納入の補償まで求められた上に官位も据え置きとなった。恩賞がなかったのは清衡も同様だったが少し後には唯一の権力者として陸奥押領使に任じられ、嘉保年間(1094~1095)に本拠を平泉に移して中尊寺と金色堂を建立、奥州平泉文化の基礎を築いていく。出羽の清原氏が滅び頼義・義家も陸奥国から駆逐され、最初に滅亡した安倍一族の棟梁だった頼時の孫である清衡が陸奥六郡の覇者となったストーリーは実に面白い。
清衡の墓所は中尊寺金色堂内陣の中央壇、現在もミイラ状態で眠っている。
藤原 基衡 長治ニ年(1105)~保元ニ年(1157) 没年齢 52歳
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奥州藤原氏初代清衡(経清の子)の次男。大治三年(1128)に父の清衡が没した後に兄弟と相続を争い、長秋記(正三位・権中紊言の源師時の日記)に拠れば異母兄の惟常一家を殺して争いに勝ち、奥州藤原氏の棟梁を継承した。古事談(鎌倉時代初期(1215年頃)に村上源氏の源顕兼が書いた説話集)に拠れば
基衡は一国を押領し、国司の権威など無いと同様だったと伝わっている。
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康治元年(1142)に陸奥守として赴任した藤原師綱はこの状態を改善するため宣旨を得て信夫郡の公田検注を行おうとしたが、基衡は信夫庄司佐藤季治(たぶん佐藤基治の父、系図には載っていない)に命じてこれを妨害し合戦に近い状態となった。激怒した師綱は軍備を整えて基衡と戦う意思を見せ、基衡の謝罪を受け入れず出頭した季治を斬った。師綱は朝廷の権威を高めたとして高い評価を受けた、と伝わる。
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翌・康治二年(1143)には新陸奥守として藤原基成が着任。師綱事件に懲りた基衡は一転して服従を貫き、基成の娘を嫡男秀衡の妻に迎え朝廷との関係も良好に保った。同時に出羽と陸奥に点在する摂関家荘園12ヶ所の荘官も務め、奥州全域の実質的な支配権を維持発展させている。
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久寿三年(1156)には広大な庭園を含む毛越寺堂塔群を完成させ、その後には更に妻(安倍宗任(貞任の弟・鳥海三郎の娘))が観自在王院を建立するなど文化面でも平泉の繁栄に大きな足跡を残した。基衡の墓所は中尊寺金色堂内陣の左奥壇、現在もミイラ状態で眠っている。
藤原 秀衡 保安三年(1122)~文治三年(1187) 没年齢 65歳
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基衡の嫡子で奥州藤原氏の三代棟梁、出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守に任じた。弟は十三湊(とさみなと)を支配した津軽秀栄。後の奥州合戦に敗れた泰衡は蝦夷地を目指して逃げたと伝わっているが叔父の津軽秀栄に庇護を求めた可能性もある。もちろん事実は調べようもない。
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秀衡は保元の乱(1156)にも関与せず、更に平治の乱(1160)以降の平家全盛時代や源平合戦時代にも一線を画して独立を保ち内政に力を注いだ。産出する良馬と金は膨大な財力を支え、柳之御所・伽羅御所・無量光院などがこの頃に建造された。当時の平泉は平安京に次ぐほどの人口があったと伝わるが...承安四年(1174)に鞍馬山を脱出した義経を庇護し養育した事が結果として20年後の奥州を激動の時代に巻き込んでしまう。
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義経の生母・常磐が再嫁したのは一條長成、長成の従兄弟は院近臣の藤原忠隆、忠隆の次男が基衡の時代に陸奥守に任じた後に平泉に定住し娘婿・秀衡の政治顧問を務めていた藤原基成。義経はこの縁を頼って平泉に逃れ16年を過ごしている。そして16年後の治承四年(1180)10月、富士川合戦直後の頼朝宿舎に義経が合流、秀衡が与えた佐藤継信・忠信兄弟を従えていた
※。
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※義経の手勢:吾妻鏡は
若者が一人頼朝旅館を訪れ面会を求めたと書き、源平盛衰記は
20騎ほどを従えてと書き、義経記(正確な記憶なし)は単純に
80騎と書いている。佐藤兄弟が従っていたのは史実らしいから吾妻鏡の弱冠一人は修飾だろう。
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そして元暦二年(1185)3月に壇ノ浦で平家が滅亡し、頼朝に残された課題は先祖の頼義・義家も成し得なかった奥州制覇だけとなる。文治二年(1186)4月24日、かねて頼朝が要求していた件について秀衡からの返書が到着、
朝廷に献上する馬と金は鎌倉を経由せよとの理不尽な求めを承諾する内容である。この時点で秀衡は鎌倉との全面対決は避けられないと判断し、翌年2月10日には鎌倉都の関係が悪化するのを覚悟の上で義経を平泉に受け入れた。頼朝は秀衡に対し時には朝廷を介して間接的に、時には直接の圧力を加え始めた。
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文治三年(1187)10月29日、秀衡死没。後継は長男の国衡(母は蝦夷の娘)ではなく二男の泰衡(藤原基成の娘)、「玉葉」は伝聞として
「秀衡は自分の正妻(藤原基成の娘)を国衡に娶らせた※上で国衡・泰衡・義経がそれぞれ遺言に逆らわぬよう起請文を書かせ、三人が結束して頼朝の攻撃に備えよと言い残した」と書いている。秀衡の墓所は中尊寺金色堂内陣の右奥壇、現在もミイラ状態で眠っている。
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※正妻を国衡に: 国衡と泰衡を兄弟よりも絶対的な親子関係にして争いの芽を摘もうとした。死を前に兄弟の離反を防ごうとしたのだが...
藤原 国衡 生年不詳~文治五年(1189) 没年齢 不詳(推定で20代後半以上)
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秀衡の長男で泰衡の異母兄、母は蝦夷の娘ともされる。通称を西木戸(または錦戸)太郎、これは平泉館の西木戸に居を構えていたためだろう。都人である藤原基成の娘が産んだ泰衡より人望があり一族の期待も大きかったが、妾腹のため後継から外されたらしい。
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死期を迎えた秀衡は自分の正妻(藤原基成の娘)を国衡の正妻とて娶せ、
「兄弟が心を併せ義経を大将として鎌倉と対処せよ」と遺言して没した。国衡と泰衡の関係を兄弟から親子の形に変え、更に後家と義父基成の監督下で泰衡の独断を防ごうとしたのだが、秀衡没後の鎌倉と朝廷の圧力に耐え切れなかった泰衡は1年半後に義経を襲って自刃に追い込み、更に義経擁護派の弟忠衡も殺した。妾腹の立場だった国衡はこれを黙認するしかなかった、と伝わっている。
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そして文治五年(1189)8月に奥州軍の大将として阿津賀志山合戦に臨んで敗れ、出羽へ逃れる途中の大高宮(宮城県柴田郡大河原町にある現在の
大高山神社(wiki)・
地図・阿津賀志山から約28km)で和田義盛の矢を受け畠山重忠の郎党大串次郎に首を獲られた。経緯の詳細は同年の「吾妻鏡を読む」で。
藤原 泰衡 長寛三年(1165)~文治五年(1189) 没年齢 25歳 (長寛三年(1165)誕生説もあるが頭骨検査による推定25歳説を採用)
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奥州藤原氏三代秀衡の二男、母は陸奥守藤原基成の娘。基成は任期が終った後も秀衡の政治顧問を務め、奥州藤原氏の滅亡まで平泉に留まった。兄の国衡は母が異民族視された蝦夷出身だったため、文治三年(1187)の秀衡死去に伴い泰衡が嫡男として家督を継承した。
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秀衡は義経に従って戦えと遺言したが、泰衡は鎌倉の圧力と朝廷による義経追討令に屈し、文治五年(1189)2月に義経派の末弟頼衡を殺し同・閏4月(6月15日)に衣河館
※に攻めて義経を自害に追い込み首を鎌倉に送った。同時に義経擁護派だった弟の忠衡を殺し、6月には同じく擁護派の弟・通衡と頼衡も殺している。
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※衣川高舘: 義経が高舘で自刃したという記述の根拠は乏しい。吾妻鏡は
「泰衡の従兵数百騎が藤原基成の衣河館に義経を襲った。防戦した家人は
悉く敗れ、義経は持仏堂に入って妻子を殺した後に自殺した。」と書いている。高館の位置は衣川ではないし、基成の衣河館も高館近くではなく中尊寺のある関山北麓・衣川の北岸にある。更に詳細は
高館と金鶏山(サイト内リンク)で。
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頼朝は間を置かず7月19日に奥州征伐の大軍を率いて出陣し、緒戦の石那坂合戦(現在の福島市南部または飯坂の大鳳城)で佐藤荘司率いる防衛軍を破り、8月8日には国見の阿武隈川横に構築した4kmの防塁を巡る阿津賀志山合戦(サイト内リンク)で主力軍を壊滅させた。泰衡は平泉に火を放って北へ逃げ助命嘆願の書状を送ったが頼朝は許さず、結局は肥内郡贄柵(秋田県大館市)で家臣の河田次郎に殺された。首を届けた河田次郎は主殺しの罪で斬首。
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泰衡の首は中尊寺金色堂の基衡壇(左奥)の首桶に納められていた。義経擁護を主張した忠衡の首、あるいは経清の首などの諸説があったが、昭和25年の学術調査の結果、泰衡の首であるとされた。レントゲン検査による推定没年齢は20~30歳、または25歳。
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頭骨には刀創と鈊器による挫傷・頚椎への複数の刀創・額に打ち込まれた八寸釘の跡などが確認された。挫傷は河田次郎が昏倒させたもの、刀創は首を落した時のもの、釘跡は貞任の故事に倣った頼朝の命令で丸太に打ち付けた跡と推定される。
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吾妻鏡 文治五年(1189)9月6日の記載は次の通り。粘着質な性格と偉大な先祖の業績を越えた自慢が目に見えるようだ。
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頼朝は康平五年(1062)9月に先祖の頼義が前九年の役に勝利した時に貞任の首を斬った横山経兼(武蔵七党・横山党の武士)の曾孫時廣に命じて泰衡の首を受け取らせ、貞任の首を八寸の釘で丸太に打ち付けた頼義の郎従惟仲の子孫である七太廣綱を呼び出して釘を打たせた。
藤原 定家 応保二年(1162)~仁治二年(1241) 没年齢 79歳
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平安時代末期~鎌倉時代初期に活躍した公家で藤原道長の五代後裔にあたる。最終官位は正二位権中納言。多くの実績を残した歌人であり実務能力の高い官僚だったが摂関家嫡流から遠く、当人の渇望に拘わらず院近臣として活躍の場を得られず、政治家としての処遇は恵まれなかった。
18歳から74歳まで書き続けた日記「名月記」(国宝)は時代考証の貴重な資料であり、例えば北條時政の後家・牧の方の京都に於ける贅沢な暮らしを批判する記述などで知られている。
藤原(宅間) 為久 応保二年(1162)~仁治二年(1241) 没年齢 79歳
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平安末期の宅間派の絵師で大和絵や佛画の名手。頼朝にに招かれて勝長寿院や永福寺の仏画を手掛け定住した。為遠の三男で、兄に宅間派を継承した勝賀がいる。為久が屋敷を構えたことから報国寺(竹の寺・別名を宅間寺)のある浄明寺一帯は宅間ヶ谷(
地図)と呼ばれている。
藤原 範茂 文治元年(1185)~承久三年(1221) 没年齢 36歳
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藤原範季の次男。82代後鳥羽天皇の寵臣として仕え、その子である84代順徳天皇の近臣でもあった。
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建久九年(1198)従五位下に叙された後は肥前守・左衛門佐・左兵衛佐・左近衛少将の武官を歴任し承元三年(1209)ら従四位下、建暦二年(1212)左近衛中将、建保七年(1219)蔵人頭を経て承久二年(1220)には従三位・参議として公卿に列した。承久三年(1221)に丹波権守に任じた直後の承久の乱では倒幕計画に深く関与し、上皇方の敗北後に斬罪と定められた。
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都での処刑を避け、北條朝時が東国に連行する途中の足柄山東麓の早川に沈めて処刑。範茂は斬罪による五体不具では成仏に支障ありと考え自ら入水を希望したという。南足柄市怒田に範茂の墓と伝わる宝篋印塔(室町時代前期の作)があり
範茂史跡公園(サイト内リンク)となっている。
藤原 純友 寛平五年?(893?)~天慶四年(941) 没年齢 49歳前後
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藤原北家の貴族出身。当初は伊予(愛媛)国司藤原元名の部下として瀬戸内海の海賊鎮圧の任務に就いたが任期が過ぎても京に帰らず伊予に土着、承平六年(936)には自らが海賊の首領となった。その後は日振島(宇和島沖の豊後水道・(
地図)を本拠にして瀬戸内海の全域を支配下に置いた。
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平将門の乱が勃発した天慶二年(939)には攝津・淡路・讃岐の国府を襲撃し、更に大宰府を襲って略奪し本格的な反乱を引き起こした。朝廷は天慶四年に小野好古を指揮官として源経基・藤原慶幸・大蔵春実らを送り博多湾で純友の船団を壊滅させ伊予に逃れた純友を捕縛、純友は獄死した。
藤原 定長 久安五年(1149)~建久六年(1195) 没年齢 46歳
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藤原北家・光房の五男で母は丹後守藤原為忠の娘、正三位・参議。諸国の国司を歴任した後に実務官僚としての実績を積み、後白河院の側近として要職を兼任する信任を得た。これは兄の経房・光長と同様の栄誉で、三兄弟として類例のないことと賞賛された。
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実質的に後白河院の伝奏役を務め、特に文治年間には鎌倉との連絡・調整役として能力を発揮、文治三年(1187)には造東大寺長官を務めて東大寺の復興事業にも関与した。文治五年(1189)7月に参議、建久六年(1195)1月には正三位に昇るが、同年11月に死没。日記として山丞記を残した事でも知られている。
古庄(大友・中原)能直 承安二年(1172)~貞応二年(1223) 没年齢 51歳
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豊後大友氏の祖で幼名一法師。父は相模国愛甲郡古庄(場所は確認できず。かなり小規模だったらしい)郷司の近藤能成。古庄郷を継承し、後に母の生家・波多野氏所領の一部である足柄上郡大友郷(曽我郷の西に隣接・
地図)を本領として大友を名乗った。父が早世したため母の姉婿である
中原親能の猶子として中原姓も名乗っている。奥州駐在の時には満18歳、文治四年(1188)に元服して頼朝の側近に任じたのが初出である。
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大友氏の系図は、頼朝側室の波多野経家三女が中原親能に嫁して産んだ男子が親能の養子となり、長じて大友を名乗った、従って能直は頼朝の落胤である、としている。信憑性には欠けるようだが、頼朝は無双の寵臣として左近将監(左近衛府の三等官で従六位上)に推挙しており、何となく只の主従関係ではないような匂いは感じられる。建久四年(1193)5月に勃発した曽我兄弟の仇討ちでは、
「十郎祐成は新田四郎忠常と戦って討ち取られた。弟の五郎は頼朝宿舎を目指して走り、頼朝は剣を取って立ち向かおうとしたが左近将監能直がこれを押し止めた。」と、吾妻鏡は描いている。
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その後は豊前と豊後の守護を兼ねた鎮西奉行に任じ、九州・京都・鎌倉を往来していた。武蔵国横山党の系累に属したが建歴三年(1213)5月の和田合戦の際は在京していたため関与せず、以後の大友氏は九州で勢力を伸ばすことになる。晩年に名乗った大炊介入道は嫡男の大友親秀の呼び名でもある。
北條 時政 保元ニ年(1138)~嘉禄元年(1215) 没年齢 79歳前後
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時政以前の北條一族には信頼できる系図が見当たらず出自も漠然としている。同じ家系から分かれた同族も皆無であり、僅かに田方盆地の一部・東西3km×南北2kmほどを勢力範囲とした小規模な土豪であり、何の官位も持たない下級行政官に過ぎなかった。系譜は平直方→阿多見聖範→北條時方(直方の養子として伊豆北條へ移住)→時家→時政と続くが、傍流だった形跡や捏造の跡があり正当性には疑問が呈されている。
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最初の妻は伊東祐親の長女で宗時・政子・義時などを産み、後妻には駿河国駿東郡の大岡牧の荘官・牧宗親の娘(妹説あり)を迎えている。治承四年(1180)の頼朝挙兵の時は42歳。一族を挙げ全面協力し長男宗時を失うが、戦後は頼朝に嫁した政子と嫡男義時と共に御家人の主流となった。
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頼朝没後は源氏の係累を次々と粛清し、梶原・比企・畠山など挙兵以来の古参御家人を滅ぼして北條独裁の基礎を築いた。元久2年(1205)には畠山を滅ぼすと同時に将軍実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を次期将軍とする画策をして失脚、伊豆韮山に強制的に隠居させられ10年後に没した。
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ただし時政の失脚には北條氏の家督相続が複雑に関係しており、政子・義時連合が時政・牧の方・朝雅連合を駆逐するために筋書きを捏造した可能性は棄てきれない。16歳で早世した牧の方の男子政範の官位は従五位下、当時41歳の義時と同じ官位だった。政範は既に時政嫡子の処遇を受けており、彼の病死が時政失脚の半年前だったのを考えると、時政・牧の方・朝雅・政範の四人が「まとめて排除された」可能性も考えられる。
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政範の死について、吾妻鏡の記載は一行のみ。
元久元年十一月大五日癸亥。子尅。從五位下行左馬權助平朝臣政範卒。年十六。于時在京。と書いている
半年後の
畠山重忠追討に関して露骨な曲筆・捏造をしている吾妻鏡、しかも編纂したのは畠山事件同様に後年だから、文面のままには受け取り兼ねる。
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いずれにしても時政は智略と謀略に優れた人物であり、実質的には鎌倉幕府の創始者と評価すべきだろう。鎌倉幕府初期の最高権力者・頼朝は、ポスト頼朝を夢見ていた時政の掌で踊っていたに過ぎない、とも言える。
時政の墓所は氏寺として奥州合戦前後に建造した伊豆韮山の
願成就院にあるが、本来の墓だった 「六尺の自然石」 は江戸時代に失われた。
北條 (平六)時定 久安元年(1145)~建久四年(1193) 没年齢 48歳
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祖父は時政と同じく北條時方だが父は兼時とされており、兼時が時家の兄弟ならば時政の従兄弟、兼時が時家の子ならば時政の甥に当る。頼朝挙兵の際は時政親子らと共に従い、平家追討後の文治二年(1186)には時政の代官として洛中の警備に任じ、六波羅を拠点として都落ちした義経と与党の搜索を行い、源行家や源有綱(頼政の孫)の追討を指揮した。同年7月に左兵衛尉に任じられる。文治五年(1189)な左衛門尉、建久元年(1190)には左衛門尉を辞任している。同年8月には朝廷から「河内国の国衙領を陸奥所と称して選挙した」との訴えが発行され、頼朝から国司の指示を無視するなら地頭職を没収するとの命令が出された。
北條 宗時 久寿元年(1154頃・義仲と同じ年代か)~治承四年(1180) 没年齢 26歳前後
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時政の長男で生母は伊東祐親の娘。政子と義時の兄にあたる。石橋山合戦に敗れて桑原に下った後に平井郷(函南)で伊東祐親の兵に囲まれ、小平井の名主・紀六久重に射殺された。血脈を保つため父時政・二男義時とは別行動を選んで狩野川方面に向ったのが裏目となり、同行した狩野氏の棟梁茂光も逃げ切れず自刃。兄の家臣として一生を終える筈だった義時には家督を継いで才能を開花させる契機となった。
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逃亡していた紀六久重は翌年1月6日に相模の蓑毛(秦野市北部・大山の麓)で工藤景光の兵が捕え鎌倉に連行、和田義盛に預けられ4月に斬首された。宗時の墓は東海道線函南駅に近い
宗時神社の境内に茂光の墓と並んでいる。この墓所は地元で「ときまっつぁん」と呼ばれているが、これは久重が宗時を殺した際に時政と思い込み「ときまさを討ち取った」と叫んだのが訛った、と伝わっている。
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子孫の有無などは不明だが、成長した遺児=後の泰時と考える無茶苦茶な説もある。また
桑原薬師堂の本尊で現在は新設の
かんなみ仏の里美術館(公式サイト)が収蔵している實慶作の阿弥陀三尊像は時政が宗時の菩提を弔って寄進したとも言われるが、例えば
修禅寺の本尊・大日如来像を實慶が彫ったのは承元四年(1210)だから、實慶が東国で活動した時期とは年代的な齟齬がある、と思う。
北條 政子 保元ニ年(1157)~嘉禄元年(1225) 没年齢 68歳
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時政の長女で生母は伊東祐親の娘。頼朝の正妻・二代将軍頼家と三代将軍実朝の生母、他に大姫・乙姫を産んでいる。従三位に叙された建保六年(1218)4月に父の名を取って政子を名乗っている(同年10月には従二位に昇進)。他に御台所・尼将軍など呼称多数。
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一説に、伊豆韮山に流されて目代を名乗っていた平兼隆との婚姻を嫌って伊豆山の頼朝の元に逃げたとされているが、兼隆が伊豆に流された時期には既に大姫を産んでいる。従って伊勢平家の嫡流に比較的近い血筋の兼隆が源氏嫡流の子を産んだ政子を妻にする理由は見当たらない。
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頼朝挙兵後は父時政や弟の義時と協力して幕府を支え、頼朝の没後は剃髪し幕政に深く関与した。父の時政を失脚させた元久二年(1205)には弟の義時も既に43歳、二代執権として辣腕を振るえる環境にあるのだから50歳に近い政子が政権運営に関与する方がむしろ異常だろう。それなのに実質的な最高責任者として許認可権限を手放さないのはノーマルではない。関与が必要だったのではなく、関与しないと気が済まない性格だった、と思う。
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建久元年(1204)の頼家の失脚と暗殺、建保七年(1219)実朝の暗殺を悲しむ姿が知られているが、両方の事件には政子が関与していたか或いは暗黙の了解を与えていたと考える方が合理的だ。彼女にとって強い愛情を注ぐ対象は腹を痛めた娘と兄弟姉妹で、二人の息子(頼家と実朝)を失うのは嘆き悲しむ程の問題ではない...ひょっとして、頼朝に愛情など持っていなかったのかも。専門的な知識があったら精神分析してみたくなるような女性だね。
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元久二年(1205)には時政と後妻(政子の継母)の牧の方が娘婿の平賀朝雅を将軍にする陰謀
※を防いで時政を隠居に追い込み、朝雅を京都で殺して義時と共に幕府の実権を掌握した。嘉禄元年(1225)に没する直前まで泰時の政権掌握が順調に進むよう細かい配慮を行っている。その気配りの半分程度でも頼家に与えていれば状況は違っていたと思うのだが...そうしなかったのも政子の選択だったのだろう。
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※時政の陰謀:吾妻鏡は何回も「権力者による冤罪事件」を報道しつつ擁護しており、この事件が記述通りの展開だったかも鵜呑みにはできない。
信頼に足る史料ではなく北條家のPR誌だと思わないとね。東電と自民党が発行した原発の安全神話...みたいなものだ。
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建保六年(1218)に上洛して従二位に叙せられ、翌年に実朝が殺されると京都から頼朝の遠縁にあたる九条頼経(「清和源氏の系図」の公暁の下の方に記載)を迎えて四代将軍に据え後見人となり、その後の北條独裁の基礎を作る。承久三年(1221)に勃発した承久の変では自ら御家人を叱咤激励
※して動揺を抑え、結果的に鎌倉に敵対した上皇・天皇を島流しにし朝廷の反北條・反鎌倉の勢力を一掃した。
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※政子の演説:吾妻鏡は
二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罰朝敵。・・・
御台所政子は御簾の下に御家人を招き、安達景盛を介して意思を伝えた。「心を一つにして聞くように。これが私の最期の言葉である。頼朝将軍が朝敵を征伐し・・・。」つまり実際には「演説《などしていないし、保元の乱の頃から(古くは将門の時代から)天皇・上皇に弓を引く事件は珍しくもない。壇ノ浦で安徳天皇を殺した東国の兵が「朝廷と合戦するのを躊躇う」なんて、既に時代錯誤と言える。
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執権義時が死んだ翌年、北條一族の安泰を見届けたかのように死去した。ただし死没の一年前には義時の後家・伊賀の方と御家人伊賀光宗の謀反を捏造して政敵を一掃している。三代執権泰時も後に伊賀氏謀反を明確に否定しているし、伊賀氏も政子没後には政界に復帰しているから「政子の最後っ屁」と言えるだろう。
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嘉禄元年(1225)6月16日、病状が悪化し始めた政子は雪ノ下の
南御堂(勝長寿院)に新造した御堂御所に移り、7月11日に息を引き取った。ここで火葬し葬られたが、勝長寿院は康元元年(1256)12月に続いて室町時代にも焼失し、復興されないまま廃寺になった。
壽福寺(サイト内リンク)の「やぐら」に改葬されたのは、どちらの焼失後か記録には残っていないが、多分室町時代だろう。
北條(江間) 義時 応保三年(1163)~貞応三年(1224) 没年齢 61歳前後
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鎌倉幕府第ニ代執権、通称は江間小四郎、相州。北條時政の二男だが長男宗時が戦死したため嫡男となった。正室は姫の前(比企朝宗(能員の弟)の娘)、継室は伊賀の方(伊賀朝光の娘)、側室は阿波局(御所の女房)と伊佐朝政(常陸平氏系の御家人)の娘、泰時・朝時・重時・政村・実泰の父。姫の前が比企氏の縁者でなかったら離縁されず、四代執権を継いだのは多分泰時ではなかっただろう、とも想像できる。政子がゴネたら別だけど。
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17歳で頼朝挙兵に参加し、父時政と共に頼朝を助けて各地を転戦。元久元年(1204)に相模守に任じる。翌年の畠山重忠の謀反捏造に関与した責任を時政夫妻に転嫁し、更に陰謀事件を契機に時政娘婿の平賀朝雅を殺して時政夫妻を失脚・隠居させた。実質は北條氏の後継を巡るクーデターであり、父を追放して幕府の実権を握る権力闘争だった。牧の方が産んだ政範が嫡子扱いされ始めた1203年前後から、父親を追放する計画を練り始めていたのだろう。
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元久二年(1205)に畠山一族を討伐、建暦三年(1213)に政敵の和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼任、建保七年(1219)に二代将軍の実朝が暗殺(三浦義村首謀説もあるが、私は義時首謀説。)されると京から九条頼経を将軍に迎え、政子を後見人にして幕政の実権を握った。
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承久の変(1221)では嫡男泰時らの軍勢を派遣して朝廷を制圧し後鳥羽・土御門・順徳を流刑に処して政権の優位性を示し、同時に北條得宗(惣領の家系)に権限が集中する執権政治の基礎を築いた。ただし得宗専制は負の部分として一族内部の抗争を招き、三代執権泰時の弟である名越流の朝時・極楽寺流の重時・政村流の政村・金沢氏流の實泰・伊丹流の有時らがそれぞれに力を蓄えていく。
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寳治元年(1247)に最後に残った古参御家人の三浦一族が滅亡した後は外部の敵対勢力は存在せず(ただし元寇を除く)、新田義貞が鎌倉幕府を倒した元弘三年(1333)までの北條一族はひたすらに血で血を洗う同族の殺し合いを続け、義時が抗争の前例を作った形になった。
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伊豆地域の伝承と曽我物語の一部では、義時の最初の妻は伊東祐親の三女(四女とも)八重姫とされている。頼朝の元・愛人である。
ストーリーを要約すれば、
「平家を憚った祐親は八重の産んだ千鶴丸(頼朝の子)を殺し八重を江間小四郎(後の義時)と婚姻させた。八重は千鶴丸の菩提を弔うため夫に願って音無の森に西成寺(現在の最誓寺)を建てた」、と。既に肯定も否定も不可能だが、話としては面白い。頼朝の元に走った八重は頼朝挙兵の直前に韮山で入水自殺、この事件に義時の心は深く傷付き結果として暗い性格を醸成した...伝承が事実なら、芸能週刊誌っぽい展開となる。
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義時の死因は病没説の他に後妻による毒殺説、近習の若侍による刺殺説などがある。嫡子泰時の家督相続に関するゴタゴタと政子による冤罪・粛清事件「伊賀氏の乱」については「鎌倉時代 参」の
義時の生涯の項に記載した。墓所について吾妻鏡には
戌尅。前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。(頼朝法華堂東の山を墳墓となす)とあり、既に義時法華堂の発掘調査も完了しているが、地元で昔から「義時さん」と呼んでいる
中腹のやぐらを墳墓と考える向きも多い。分骨による墓所は義時の氏寺だった伊豆長岡の
北條寺にもあり、ここでは義時後妻・伊賀の方と墓石が並んでいる。
北條 (五郎)時房 安元元年(1175)~延応二年(1240) 没年齢 65歳
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北條時政の三男で義時の弟。政子や義時の異母弟とされるものの、生母は記録に残っていない。佐原(三浦)義連を烏帽子親に元服して時連を名乗り、建仁二年(1202)に時房と改名、頼家に重用され同じ側近だった比企能員の息子たちとも懇意にしていたが、これは時政の指示により頼家と比企一族の動静を探る目的だった、ともされる。建仁三年(1203)の比企の乱で頼家が失脚し一年後に謀殺された後も時房は連座せず、徐々に幕府内で頭角を表していく。
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元久二年(1205)の二俣川合戦では一方の大将軍として出陣して畠山重忠を滅ぼし、続いて時政と牧の方が失脚すると遠江守を経て駿河守に遷任、承元四年(1210)には武蔵守に任じた。義時の相模守と併せて関東の主軸となる両国の全権を北條氏が掌握したことになる。建暦三年(1213)の和田合戦でも功績を挙げ、建保七年(1219)の実朝暗殺後には上洛して朝廷と交渉し、後に四代将軍となる三寅(藤原頼経)を伴って鎌倉に帰還した。
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承久三年(1221)の承久の乱では泰時と共に鎌倉軍を率いて上洛、戦後は六波羅探題南方を務め、元仁元年(1224)の義時死没後には鎌倉に戻って三代執権泰時を補佐し、初代の連署に任じた。生涯を通じて義時と泰時を補佐し北條氏の覇権確立に尽力した影のヒーロー、と言うべきか。墓所は伊豆長岡の
北條寺(サイト内リンク先)を見降ろす一角にある。
北條 保子(阿波局) 不詳(不詳)~嘉禄三年(1227) 没年齢 不詳
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北條時政の娘で政子のすぐ下の妹。頼朝の異母弟・阿野全成(幼名は今若丸)に嫁いで嫡男時元を産み、後に実朝の乳母を務めた。
正治元年(1199)の頼朝死没直後には梶原景時の言葉を漏れ聞いたとして密告し、景時弾劾の端緒となる報告をした。建仁三年(1203)には立場が北條氏に近かった夫の全成が二代将軍頼家の討手(八田知家)に殺され、時政が頼家を失脚させてからは実朝に仕えた。嫡男の時元は建保七年(1219)に三代将軍実朝が殺された直後に源氏の正嫡を主張して挙兵したが、直ちに追討討されている。母親として時元を弁護した・あるいは助命を願ったとの記録はなく、これは北條義時によるアンチ北條系勢力の粛清と考えるべきだろう。要するに、かなり早い時期から時政・政子・義時ラインの意を受けて行動していたと推定される。
北條 時子 不詳(不詳)~建久七年(1196) 没年齢 不詳
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北條時政の娘で政子と保子の妹。治承五年(1181)2月に足利義兼に嫁して文治五年(1189)に嫡男の義氏を産んだ。
足利
法玄寺の伝承に拠れば...義兼の鎌倉滞在中に時子の腹が大きくなり、側女の密告もあって足利忠綱と密通した妊娠が疑われた。時子は「死後に身体を改めよ」と遺言して自殺、腹には大量の蛭(ヒル)が充満していた。義兼の庶長子(生母不詳)の義純(重忠の寡婦と再婚し畠山の名跡を継承)が法玄寺を建立し菩提を弔った。密通相手を源姓足利氏(義兼)と下野西部の覇権を争っていた藤姓足利氏(平家側)の忠綱を設定しているのが面白い。
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更に伝承は続き...時子が花見に出かけた際に飲んだ野水には無数の小蛭が泳いでおり、飲ませたのは義兼の寵愛を独占したい側女・藤野が足利忠綱と仕組んだ嘘と判明した。仔細を知った義兼は側女を殺し、出家して
鑁阿寺を開いた、と伝わる。
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野水は本堂の右手に古井戸となって残っており、反対側の一角には時子を祀った蛭子堂(鑁阿寺の項を参照)が建っている。時子が法玄寺に葬られたのは伝承に過ぎなかったが、昭和六年に無縁仏の墓所を造成中に巨大な五輪塔が出土し、これが時子の墓だろうと推定された。現在は「お蛭子さま」と呼ばれて足利市の重要文化財になっている。五輪塔は法玄寺、古井戸は鑁阿寺のコーナーに画像を載せてある。
北條 泰時 寿永ニ年(1183)~仁治三年(1242) 没年齢 58歳
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義時の長子、41歳で鎌倉幕府の第三代執権を継承した。生母は阿波局、記録では御所の女房だが出自など詳細は伝わっていない。幼名は金剛、通称は江馬太郎、一説に、頼朝の落胤とも噂された。優れた人材だったと伝わっているが、吾妻鏡が意図して美化した事跡を載せている事実を前提にして受け取る必要がある。特に政子に溺愛されていた様子が吾妻鏡の各所に散見できる。最初の妻は頼朝の仲介で娶った三浦義村の娘(後の矢部禅尼・離縁の理由は不明)、後妻は丹党の安保氏棟梁実員の娘。
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承久の乱(1221)には幕府軍を率いて京都を攻め、鎮圧後は初代六波羅探題となって叔父時房とともに戦後処理を担当した。時房は執権に就任した泰時に請われて初代連署(いわば副執権)に就任し、延応二年(1240)に没するまで泰時政権の安定に尽力している。
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泰時にとって最初の試練は義時死没(1224年)に伴う権力の継承で、既得権の安堵を願った程度の義時後妻伊賀氏一族の動向を政子は「謀反の兆し」と拡大解釈し、併せて対抗勢力となる可能性を持つ伊賀の方の息子・政村と彼を後見する三浦義村の排除を画策した。政村と義村は不問、伊賀の方の兄・光宗は信濃流罪となったが翌年の政子死没後に復帰、哀れな伊賀の方は伊豆北條に流されて四ヶ月後に変死しているが、政村も後に七代執権に就任している。要するに「伊賀氏の変」は政子が意図した政敵の排除で、「老齢の政子が死んだら元に戻そう」程度の合意があった筈だ。
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義時正室・姫の前(比企朝宗の娘)が産んだ二男朝時と三男重時は比企氏滅亡に伴って後継候補から外れた、継室の伊賀氏娘が産んだ四男政村と五男実泰は伊賀氏が幕府の実権を握る可能性があるから排除、六男有時の生母は特に強い系累を持たない常陸の御家人伊佐朝政の娘だから危険はない、泰時生母の出自は低いから、伊賀氏さえ抑えてしまえば北條政権を脅かす存在は排除できる...それが政子の選んだ行動の原点だろう。
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時房を連署に任じた泰時は翌・嘉禄元年(1225)には十三人の合議制を発展解消し評定衆を設置して北條一族による合議体制を整え、頼朝の鎌倉入りから45年間政庁を置いた大倉から北條邸の敷地(現在の
宝戒寺)に近い
宇都宮辻子に移し人心の一新を図った。更に北條嫡流家の家政を司る「家令」を置いて優位性を改めて示している。泰時が集団指導制に固執したのは義時の項の冒頭に書いたようにライバルの多い不安定な家督継承だった事が影響していた。泰時を全面的にバックアップし抵抗勢力に睨みを効かせていた政子は既に亡く、内部の抗争を乗り切ろうとした苦心の表れか。
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と同時に、政子の死没は泰時にとって重石が取れた意味もあった(背後霊(笑)が消えた)から、本来の能力を発揮できる環境が整ったことになる。貞永元年(1232)に三善康連らと協力し、武家政権初の法典(まぁ憲法みたいな基本法)である「御成敗式目」を定めて支配体制を確立した。泰時の長男時氏は27歳・二男時実は15歳で早世し三男の公義は二歳だったため時氏の長男経時が四代執権を継承、五代執権は時氏の弟・時頼が継承して得宗独裁を強化していく。
北條 朝時(相模次郎、名越次郎) 建久四年(1193)~寛元三年(1245) 没年齢 52歳
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義時の次男で泰時の異母弟、母は義時正室の比企朝宗娘・姫の前(比企の乱に連座して離縁)。祖父時政の名越邸を継承して名越流北條氏の祖となった。建暦二年(1212)5月に実朝の正室信子に仕える官女の元に忍んだため実朝の怒りを買って父に義絶され、駿河国富士郡に蟄居したが、翌年5月の和田合戦の際に呼び戻され御家人として復帰した。
義時正室の長男であり祖父の時政が名越邸を譲っている事を考えると義時の嫡子として三代執権を継承できる立場にあったらしいが、義時死没直後の動向は不明。朝時を中心にした勢力の動きがあった事が推定されている。義時死没の前年・貞応二年(1223)には同母弟の重時の官位が朝時を越えていた事を考えると父との関係が良くなかったと推定はできるが、名越流北條氏の家格は一族内でも高い地位にあり、特に排斥された様子はない。
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泰時との関係は決して円満とは言えず、泰時死没直後に兄弟の中では一人だけ出家するなど、権力を巡る暗闘があった可能性もあるが、具体的な権力闘争の形跡は見られない。男子6人の中の3人(長男光時・四男時幸・五男教時)が謀反絡みで失脚または殺害されているのを考えると名越流北條一族のアンチ執権意識が根深く残っていたと見るべきだろう。
北條 時氏 建仁三年(1203)~寛喜二年(1230) 没年齢 28歳
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三代執権泰時の長男で生母は三浦義村の娘(後の矢部禅尼)、泰時の執権在任中に他界したため執権には就任していない。承久の乱(1221)には父の泰時と共に東海道を進み宇治川合戦で功績を挙げ、貞応三年(1224)には六波羅探題だった泰時の執権就任と入れ替わって上席探題として上洛した。四代執権を継ぐべく期待を受けたが、六波羅探題在職中に発病し鎌倉に帰って死没。大慈寺(十二所の明王院東側にあった実朝創建の寺、既に廃寺)近くの山麓に葬られた。
北條 経時 元仁元年(1224)~寛元四年(1246) 没年齢 23歳
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三代執権泰時の嫡子である時氏の長男、生母は安達景盛の娘(後の松下禅尼)。泰時の長男時氏は早世、次男時実は家人により斬殺(仕事上のトラブルらしい)、三男の公義は幼いうちに出家しているため、早くから泰時を継ぐ執権候補と考えられていた。
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仁治二年(1241)に体調を崩した泰時は17歳の経時を評定衆に任じ、更に金沢流北條氏の実時との協調を指示している。この翌年には泰時が死没し四代執権を継承した。
若年の経時による政権運営には義時の三男で極楽寺流北條氏の祖・重時らが協力する体制が執られて初期には順調だったが、将軍の九条頼経を中心に北條光時や三浦泰村らの反執権勢力が台頭し始めた。
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これに対処するため寛元二年(1244)4月に経時は頼経の将軍職を解任し頼経の子・頼嗣(当時五歳)を元服させて五代将軍とし、更に寛元三年(1245)には妹を頼嗣に嫁がせて将軍の後見役を兼ねた外戚になり、反執権派を抑え込みに成功した。経時はこの頃から体調を崩し翌年3月に死没、弟の時頼に執権職を譲る指示を生前に下しているが、内部では何らかの抗争があったらしく、吾妻鏡にはこの措置を正当化する幾つかの恣意的な記述が見られる。
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経時の死没直後には北條光時らの反乱未遂と前将軍頼経の鎌倉追放(宮騒動)が勃発し、結果として五代執権時頼による反執権派一掃が成功するが名越北條氏を中心とする反得宗派は勢力を維持し、時頼の死後にトラブルが再発することになる。
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北條 時頼 安貞元年(1227)~弘長三年(1263) 没年齢 36歳
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三代執権泰時の嫡子である時氏の次男、生母は安達景盛の娘(後の松下禅尼)。経時の跡を継いで五代執権に任じた。嫡男は八代執権となった時宗、庶長子に時輔がいる。吾妻鏡には若い頃の俊英ぶりを示す挿話が多くあり、優れた人材であると強調する恣意的な記述を並べた可能性が高い。
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就任直後には宮騒動の勃発に伴う粛清で取り敢えずの反対勢力の押さえ込みに成功した。宝治元年(1247)には安達氏と協力して三浦一族を滅ぼし、更に上総千葉氏の二代目当主である千葉秀胤を滅ぼして反北條予備軍を一掃した。
更に建長四年(1252)には五代将軍藤原頼嗣を京都に追放して後嵯峨天皇皇子宗尊親王を擁立、その後は独裁傾向に対する反発を薄めるため評定衆の下に引付衆を設置して行政の迅速化を図り、京都大番役の任期を半年から3ヶ月に短縮するなど宥和政策も採用している。また民生の救済措置なども手掛けて善政への配慮を強化している。ただし、この辺は吾妻鏡の脚色による部分も大きく作用している。
北條 重時 建久九年(1198)~弘長元年(1261) 没年齢 63歳
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二代執権義時の三男(兄は泰時と朝時)で生母は比企朝宗の娘・姫の前、極楽寺流北條氏の祖。内紛の多い北條氏の中にあって異母兄の三代執権泰時と在任四年で早世した四代執権経時を支え、更に娘婿(葛西殿・時頼の後妻として時宗を産んでいる)の五代執権時頼を補佐して六波羅探題北方や連署などに任じて幕政の安定に大きな寄与を果たした。
泰時死没直後の朝時は後継を巡ってやや不穏な動きを見せたが重時と泰時の関係は良好で、重時の子孫は一貫して得宗家を支える立場を守っている。三浦一族が滅亡した宝治合戦(1247)での重時の動きは明らかではないが、重時の娘のもう一人は安達泰盛に嫁している。重時と安達氏の接点は深いため、何らかの関与があったと考える方が自然だろう。三浦一族滅亡後の重時は時頼の依頼を受けて鎌倉に戻り、五郎時房以後は空席になっていた連署に就任した。
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建長八年(1256)に連署職を弟の政村に譲って出家引退して自らが正元元年(1259)に創建した極楽寺に住み、弘長元年(1261)に没した。
北條 高時 乾元ニ年(1303)~元弘三年(1333) 没年齢 30歳
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九代執権貞時の子、正和五年(1316)に14歳で鎌倉幕府の第十四代執権に任じた。政務の実権は母の覚海円成(安達泰宗の娘)や内管領の長崎円喜・高資父子らに握られていたため闘犬や飲酒に傾倒し政務を怠って世の乱れを引き起こしたとされているが、実像は明らかではない。むしろ太平記が足利尊氏の評価を高めるため高時の無能を殊更に誇張して描き、時代が下るに従って更に拡大解釈されていったらしい。
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政治の混乱と元寇後の社会不安の中で正中元年(1324)に後醍醐天皇による北條討伐の計画(正中の変)が起きた際には後醍醐の釈明を認め、側近日野資朝の佐渡流罪などで済ませるなど寛大な対応をしたため、朝廷に倒幕の機会を残してしまった。正中三年(1326)には執権を金沢貞顕に譲って出家し引退している。実像は病弱で温和、ごく普通の能力だったと考える説が多いらしい。
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元弘元年(1331)に元弘の変が勃発、後醍醐天皇を隠岐に流して光厳天皇を擁立するが各地に打倒北條の蜂起が勃発した。最大勢力の古参御家人で幕府の屋台骨を支える存在だった足利尊氏が叛き、更に元弘三年(1333)には上野国で新田義貞が挙兵、
小手指ヶ原の合戦~
久米川の合戦~
関戸の合戦を経て鎌倉を攻められた。金沢貞将・長崎高重らに防戦させたが
極楽寺坂の合戦や
洲崎の合戦などで防御線を破られ、北條邸裏山の
東勝寺に入って一族と共に自刃した。太平記は「一族と家臣を併せると千人以上が自刃した」と、かなり誇張して描いている。
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東勝寺跡の発掘調査では瓦や石畳は見つかっているが遺骨は出土しておらず、時宗(じしゅう)の陣僧や新田の兵が由比ガ浜などに埋葬したと推定される。裏山の「高時腹切りやぐら」は何らかの形で東勝寺に関わっていた伝承と考えて良いだろう。また釈迦堂口切通し山頂から南東の稜線一帯には大小多数の「やぐら」があり、生焼けの人骨や東勝寺陥落初七日(5月28日)銘のある五輪塔基台が出土しており、一部をこの付近にも埋葬したらしい。ただし、大部分は宅地開発によって失われている。
高時の廟所は
円覚寺の塔頭
佛日庵(共に公式サイト)、ここは開基である八代執権時宗の廟所であり、九代貞時・十四代高時を合葬している。
堀 (彌太郎)景光 生没年 不詳 没年齢 上詳
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義経子飼いの郎党で、「平治物語」では金商人としており、秀衡が派遣した人物または金売吉次と考える説もある。元暦二年(1185)5月15日の吾妻鏡は平宗盛・清宗親子を連行して酒匂驛に着いた義経の使者として鎌倉に入り、同年6月21日には近江国篠原で清宗を斬首した。11月3日には都落ちした義経に同行して難破し、雪の吉野山まで弁慶、源有綱、静御前と義経に同行した。翌年9月20日に都で御家人糟屋有季に捕縛され、(「玉葉」に拠れば)義経が奈良興福寺に隠れていた事と、藤原範季が義経逃走に関与していた事を自白している。その後の消息は不明。
坊門 信清 平治元年(1159)~建保四年(1216) 没年齢 57歳
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坊門家の祖・藤原信隆(従三位・修理大夫)の次男で嫡子。同母(藤原通基の娘)の姉が80代高倉天皇妃(七條院椊子)のため82代後鳥羽天皇の外叔父として侍従を務め、法住寺合戦の際には義仲の襲撃を受けた院で三歳の皇子(後の後鳥羽)を守った。後鳥羽天皇の外戚として権威を振るうとともに末娘の信子が三代将軍実朝に嫁した(元久元年・1204年)ため朝廷と幕府の調整役としても活躍した。もしも信子が子を産んでいたら、四代将軍の舅で後鳥羽の叔父になっていたんだね。
堀籐次 親家 不詳(不詳)~建仁三年(1203) 没年齢 不詳
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伊豆牧之郷の東、大野郷(現在の伊豆の国市)出身の武士。郷土史では宗俊の二男とされているが詳細は不明。治承四年(1180)の韮山挙兵の当初から頼朝に従い、山木兼隆邸の襲撃では第二陣として加藤景廉・佐々木盛綱と共に討ち入り、石橋山合戦にも加わった。吾妻鏡の8月20日、伊豆から相模に出陣する頼朝御家人の中に堀籐次親宗の名が見えるが、これは親家の誤記だろう。
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頼朝の鎌倉入り後は文治五年(1189)の奥州合戦や建久元年(1190)の頼朝上洛にも加わっている。元暦元年(1184)に義仲の嫡男・義高(清水冠者)が鎌倉から脱出した際には追討を命じられ、郎党の籐内光澄が入間川で義高を殺して首を鎌倉に持ち帰った。義高の許婚者だった大姫が悲嘆し、結果として手を下した籐内光澄が斬罪・梟首される事件が起こった。吾妻鏡には政子の激しい怒りに頼朝が抗し切れなかった姿が描かれている。
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頼朝の没後は側近として頼家に仕えた。建仁三年(1203)に外戚の比企一族が北條時政に滅ぼされた直後に頼家の命令を受けて北條追討の書状を和田義盛と新田忠常に届けるが義盛が時政に報告したため捕らえられ、工藤行光(狩野茂光の三男)に刺殺された。
旧大仁町大野地区の奥にある辺鄙な一角が
籐次屋敷と呼ばれ、親家の出身地と伝わっている。地元有志による「北條を憚って長く供養もできなかった」と記された石碑が建てられ、近くの定林寺(じょうりんじ)には慰霊墓がある。
牧の御方 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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北條時政の若い後妻で駿河大岡牧(狩野川下流~愛鷹)の貴族系豪族の娘。愚管抄は「大舎人允宗親の娘」、吾妻鏡は「宗親の妹」と書いている。時政との間に産んだ男子に政範、女子に平賀朝雅室・藤原国通室・宇都宮頼綱室がいる。
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年令は政子と大きくは違わない筈で、例えば政子より5歳上と仮定すれば寿永元年(1182)11月に亀前を巡る事件で頼朝に髷を切られた時の宗親は30歳前後、吾妻鏡に現れた最後は建久六年(1195)に頼朝が大仏開眼供養のため奈良東大寺を訪れた時だから45歳前後となり、違和感はない。宗親が父親だと仮定すると、若くても70歳なので少し無理がありそうだ。やはり兄妹と考えるのが自然か。
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史料には重要なファクターとして数回現れる。主な事件は下記の通り。
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● 寿永元年(1182)11月に頼朝の愛妾亀前の存在を政子に密告。牧宗親が政子の命令で亀前の妾宅を打ち壊し、怒った頼朝に髷を切られた。
妻の兄を辱められた時政が頼朝に無断で本領の伊豆に帰国する事件が起きた。父と同行しなかった義時は頼朝に褒められている。
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● 元久元年(1204)11月、坊門信清娘を実朝の正妻に迎えるため上洛した御家人を歓迎する宴で娘婿の平賀朝雅と畠山重忠の嫡男重保が争論。
更に翌日には同行していた牧の方の息子政範が病死、娘婿の争論報告と息子死亡の報告が同時に届いたため畠山重保親子が災厄の原因であると、やや根拠の乏しい怨みを抱いた。
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● 元久二年(1205)5月、平賀朝雅は畠山重保が悪口を言ったと牧の方に訴え、牧の方は時政に「重忠親子に謀反の心あり」と讒訴。翌22日の
重保追討と重忠追討(二俣川合戦)に発展した。ただしこの事件は牧の方とは無関係に北條氏が計画した畠山氏滅亡計画と見る方が正しい。極論すれば、時政を失脚させると共に牧一族・稲毛一族・榛谷一族らを一挙に葬り去る義時の筋書きだった可能性もある。
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● 同年7月、時政と共謀して実朝を排除して娘婿の朝雅を次期将軍に据える計画を立てたが露見、政子と義時によって時政と共に隠居を強要され、
伊豆韮山に軟禁となった。ただしこの事件の本質は時政と義時親子の間で起きた権力闘争であり、一族の家長を失脚させる名目として謀反計画を捏造した可能性が高い。15歳で病没した政範は42歳の義時と同じ従五位の官位であり、実質的に嫡子として扱われていた。それを容認できない義時&政子連合が仕組んだのだろう。老獪な時政も実子の逆襲は予期しなかったか。
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● 建保三年(1215)の時政死没後は京の娘(権中納言藤原国通室)の元で優雅贅沢に暮らし、嘉禄三年(1227)に京都で時政の十三回忌を催している。
藤原定家は日記・明月記の中で一族を引き連れ豪勢に寺社詣をする様子を悪し様に、かつ僻みっぽく批判している。
松殿(藤原) 基房 久安元年(1145)~寛喜ニ年(1231) 没年齢 87歳
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平安時代末期の公卿で関白藤原忠通の次男。松殿氏の祖となり、従一位・摂政・関白・太政大臣を務めた。後白河法皇と連携して着実に権力を掌握したが治承三年(1179)に清盛と対立して失脚。翌年になって復権し、清盛の死後に平家が衰退すると入京した義仲の正室として娘の伊子を差し出して朝廷の権力を取り戻したが、義仲の滅亡に伴って政界から退いた。その後は博識の長老としてのみの存在となった。
松殿(藤原) 師家 承安二年(1172)~嘉禎四年(1238) 没年齢 67歳
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平安時代末期~鎌倉時代の公卿で正二位・摂政・内大臣。摂政関白・松殿基房の三男だが、生母の実家・花山院家が後白河法皇と平清盛の双方に接点を持っており、その背景もあって嫡男の扱いを受けた。治承三年(1179)には清盛による反後白河の意向を受けて基房・師家は失脚し、平家に近い近衛基通(基房の甥)に権力が移った。寿永二年(1183)に平家一門が都落ちして義仲が入京すると基房は娘の伊子を正室に差出し師家も復権したが義仲の滅亡と共に再び失脚、以後は歴史の舞台から遠ざかった。
松葉仙人 不詳(不詳)~仁徳57年(369・伝承) 没年齢 不詳
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熱海の日金山(
伊豆山権現の原型)を開創したとされる伝説上の人物。第十五代応神天皇二年(271)に伊豆山の浜に現れた光る鏡が西の峰に飛び、松葉仙人が山頂に小さな祠を建ててこれを祀った。この時から火が峰、後に日金山と呼ぶようになった、と。
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別の伝承では応神天皇四年(273)に伊豆山の浜に漂着した像を松葉仙人が伊豆山に祀った。これが走湯権現の神像である、とも。ただし伊豆山神社の神殿奥に祀ってある木造男神立像(国の重文)は平安時代後期の作なので整合性は乏しい。草創はもちろん仏教ではなく箱根に連なる山岳信仰であり、光る鏡が飛んだのは「熱海」の語源となった伊豆山沖の海底火山爆発と関連すると想像される。松葉仙人の没後に木生仙人、さらに金地仙人が堂を守り教えを広めた、と。
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三仙人を供養する宝筐印塔が
日金山東光寺の裏山に残るが、いずれも建武三年(1335)以降の建立による。日金山伝説は699年の役小角大島配流や承和三年(836)の甲斐国の僧賢安による伊豆山権現への遷座伝説につながる。
満江御前 久安六年?(1150?)~正治元年(1199) 没年齢 49歳前後
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狩野茂光の四男狩野介親光の三女(横山時重の娘説あり)。兄は親成、長姉は岡崎義実の後妻、次姉は渋谷重成の室、妹は和田義盛の室とされるが伝承が入り組んでおり確かな系図もないため確証はない。伊豆目代の源仲成(三位頼政の嫡男仲綱の乳母子)に嫁ぎ一男一女を産んだ。男子の源信俊は範頼謀反に連座し建久四年(1193)に25歳で斬首、女子は二宮朝忠(中村宗平の四男二宮友平の嫡子)に嫁した。概略系図は
こちらで。
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夫の仲成が仲綱の帰任に従って京に帰る時に父・親光の望みに従って伊豆に留まり、伊東祐親の嫡男で河津郷の三郎祐泰に再嫁した。
河津で一万(後の十郎祐成)と箱王(後の五郎時致)を産み、第三子(御房丸)の出産が近かった安元二年(1176)に夫が祐経郎党の遠矢により伊豆赤沢で横死、舅である祐親の指示で曽我祐信に再嫁した。
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一万は実子が幼かった祐信の猶子として曽我を継ぎ、箱王は箱根権現に入って成長後に出家する予定だった。御房丸は祐泰の弟祐清の養子となったが、祐清が北陸篠原合戦で義仲軍と戦い討死したため、祐清の寡婦は御房丸を連れて平賀義信に再嫁し、その所領だった越後の国上寺で成長し禅師坊を名乗った。彼は仇討ち事件後に事情聴取のため鎌倉に呼ばれ、死罪と思い込み甘縄の民家で自殺している。
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満江と夫の祐信は建久四年(1193)5月の曽我兄弟の仇討ち事件後に出家隠居し、兄弟の菩提を弔いつつ生涯を送った。墓所は下屋敷に近い
法連寺裏手の墓地にある自然石。その一年後には夫の祐信も他界している。下屋敷跡の横には満江御前に従い河津から移り住んだ武藤家と安池家の末裔が住んでいるが河津にその姓は伝わっておらず、一族で移住したと推測される。
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疑問点・・・祐成は承安二年(1172)生まれだから父の祐泰が殺されたときには数え5歳、伊東祐親が後見して河津を継承するのも選択肢になり得たのに、出産直前の満江に子連れ再婚を命じたのは何故か。祐信は決して広くはない曽我の他に所領は持たなかったため兄弟に分け与える財産もない。貧しかった兄の祐成は遠縁の北條時政の援助を得て弟を元服させた(出家させるつもりだった満江が元服を許さなかった可能性あり)。満江の亡夫祐泰の長姉が時政の最初の妻で、政子や義時を産んでいる経緯による。
三浦 義明 寛治六年(1127)~治承四年(1180) 没年齢 88歳前後
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三浦荘(現在の横須賀一帯)で経営の実務を司った世襲の官人。長男は和田一族の祖となった杉本義宗(和田義盛の父)、次男は家督を継いだ義澄、三男の佐原義連は庶流として衣笠の東南を領有、四男の多々良義春(由比ヶ浜小坪合戦で討死)は相模の鴨居を領有するなど、三浦半島一帯を支配下に置いて勢力を伸ばした。詳細は左目次の「坂東平氏の系図」で。
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また長女は義朝側室として義平を産み(異説あり)、次女は畠山重能室として重忠を産み、三女は上総廣常の末子(能常?)の室、四女は葉山一帯を領有した長江義景室など、近隣の豪族との縁戚関係を深めている。
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治承四年の頼朝挙兵の際は台風による風雨で石橋山合戦に間に合わず、三浦へ撤退する途中の由比ヶ浜で畠山重忠の軍兵と合戦して被害を与えた。当時の家長畠山重能は大番役で在京していたため決定権のなかった嫡男重忠は平家側として戦わざるを得ず、敗北の屈辱を晴らす報復戦として三浦の衣笠城を攻めて外祖父の義明を討ち取る結果となった。義明は単身で衣笠城に残り一族を安房へ脱出させて再起を命じたと伝わっているが、実際にそのような状況が有り得たかには疑問が残る。供養の墓所は鎌倉材木座の
来迎寺(建久五年・1194年建立の能蔵寺が前身)に残る。
三浦 義澄 大治二年(1127)~正治二年(1200) 没年齢 73歳前後
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三浦義明の次男で嫡男、正妻は伊東祐親の娘。一族は代々源氏の家臣で、平治の乱には義朝に従って参戦したが敗北に伴って三浦に落ち延び土着した。長寛二年(1164)には兄の杉本義宗が安房長狭氏との合戦で戦死したため家督を継承、義宗の子・義盛は分家して和田を称した。
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治承四年の頼朝挙兵の際は父に従い石橋山合戦に参加を図るが台風による出水で間に合わず、引き上げる途中の由比ヶ浜で畠山重忠勢と合戦、更に衣笠城を攻撃されて父義明を失い、一族と共に所領のあった安房へ逃げ延びた。
安房では同様に落ち延びた頼朝主従と合流し、鎌倉に入って幕府の樹立に貢献した。舅である伊東祐親が捕らえられた際には身柄を預かり、赦免されたにも拘わらず祐親は寿永元年(1182)に自刃。その後は平家追討や奥州藤原氏との合戦で功績を挙げた。
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正治元年(1199)の頼朝死去後は宿老13人の一人として決裁合議制に加わり、梶原景時一族の滅亡に関与した後に病没した。墓所は衣笠城址に近い満昌寺に首塚があり、近くの清雲寺には義明以前の三浦氏三代(為通・為継・義継)と伝わる五輪塔、佐原城址、巴の墓(義仲没後に和田義盛に再嫁し朝比奈義秀を産んだ、と。年代面では辻褄が合わない)などが点在する。
三浦 義村 不詳~延応元年(1239) 没年齢 不詳
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三浦義澄の次男で嫡男、正妻は甲斐源氏一條忠頼の娘。生年は不明だが頼朝の挙兵には53歳の父・義澄に従って参戦しているため、当時は20代後半前後と推定される。平家・奥州藤原氏・梶原一族・畠山重忠などの追討に参加し、北條氏と共に鎌倉幕府の安定に貢献、建暦三年(1213)に従兄弟の和田義盛が反北條の兵を挙げた際には直前に裏切って参戦せず、結果として和田一族の滅亡に手を貸した。後日、別件で口論した千葉胤綱(千葉氏六代当主)に「三浦の狗は友を喰らう」と罵られたと伝わる。説話を集めた古今著聞集(鎌倉時代中期に成立)に載った話だから全面的に信用はできないが、裏切りは事実だったらしい。義村側から見ると「分家なのに態度の良くない奴ら」程度の感覚だったか。
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建保七年(1219)1月の公暁による三代将軍実朝暗殺に関与したとの説もある。義村の妻が公暁の乳母であり四男の駒王丸が公暁の弟子として僧職の修行中だった事などが理由だが、経緯と結果を考えると北條義時による謀略と考えるのが妥当だろう。
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承久の乱前夜には後鳥羽上皇に近かった弟の三浦胤義に参加を求められたが義時に報告し、鎌倉側の大将として勝利に貢献した。また元仁元年(1224)の伊賀氏の乱にも裏で関わったが途中で翻意している。伊賀氏が実際に謀反を計画した根拠は乏しく、現在では政子が主導した政敵の排除と考える説が大勢を占めている。ただし義村は義時の五男政村の烏帽子親であり、義時没後の執権継承に関して何らかの策謀を巡らした可能性はある。公家の間でも「権謀術策の人物」として知られていたらしい。
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嘉禄元年(1225)の評定衆(宿老13人の合議制度が発展したシステム)の一人として幕政を支えた。人物像としては..卑劣・優柔不断・陰険・臆病・狡猾などの印象が強い。義村の気質の一部が嫡男の泰村に引き継がれ、宝治元年の一族滅亡を招いたかと思うのだが...これは100%私観。
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墓所と伝わるのは三浦半島金田漁港に近い岩バス停のそば。三浦氏と縁の深い南向院(廃寺)の跡で、再建された墓石が風化して崩れた五輪塔の横に建てられている。地図は
こちら。
三浦(佐原) 義連 不詳~建仁三年(1203) 没年齢 不詳
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義明の末子で義澄・義村の弟、正妻は武田信光の娘。衣笠城東南の佐原(現在の横須賀市)を領有し佐原十郎を名乗った。吾妻鏡には治承五年(1181)6月19日に頼朝の前で下馬を拒んだ上総廣常を咎め、同夜の宴席で水干について争った廣常と岡崎義實を仲裁した件などが載っている。
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その後は平家追討(平家物語の一ノ谷鵯越合戦に登場)や奥州藤原氏追討に転戦して会津にも所領を得、和泉国と紀伊国の守護も務めた。次代の息子たちは会津の所領を分割相続し長男経連は猪苗代・次男広盛は北田(湯川村)・三男盛義は藤倉(河東村)・四男光盛は黒川(会津若松)・五男盛時は叶庄(熱塩加紊村)・六男時連は新宮庄(喜多方)を領有した。
後に五男盛時は三浦一族が滅びた宝治合戦で北條方に味方し、三浦半島南部の継承した。墓所は横須賀市岩戸の
満願寺(公式サイト)に残る。
三浦 泰村 元暦元年(1184)~宝治元年(1247) 没年齢 63歳
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義村の次男で三浦惣領家最後の当主。承久の乱(1221)でも功績を挙げ、北條泰時の娘を正妻に迎え評定衆として幕政に参加した。強大な軍事力を背景に権力を伸ばしたが五代執権時頼との確執が深まり、同じ北條氏の外戚で三浦一族とライバル関係にあった安達景盛の軍勢に急襲され、頼朝法華堂に籠って自殺(宝治合戦)。共に自決した一族の墓は
三浦やぐらとして頼朝墓所の東に残っている。すぐ前の平場が
義時法華堂の跡。
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吾妻鏡などに拠れば、泰村が合戦の準備を始めたなど情勢が緊迫したため安達景盛が先手を打ったとされているが、合戦勃発(6月6日)の10日前には
服喪のため三浦邸に滞在していた時頼が合戦を準備する音を聞き...など、武将の行動としては考えられない恣意的記述が散見される。戦闘の経緯と決着などを併せて考えると、安達側(つまり時頼側)の周到な準備に基づく奇襲と考えるべきだろう。泰村側の抵抗も激しかったとは言えないレベルで、半ば諦めに近い状態の防御戦だったらしい。畠山重忠を滅ぼした
二俣川合戦前後から露骨さを増した吾妻鏡の曲筆は、この頃が絶頂である。
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つまりは、梶原一族追討でスタートした古参御家人粛清の締めくくりであり、三浦一族の滅亡によって北條独裁体制が確立された事件である。なぜこれ程無抵抗に近い状態で次々と追い詰められるのか、疑問には思うが。三浦合戦(宝治合戦)の詳細は
こちらで。
三浦 光村 元久元年(1205)~宝治元年(1247) 没年齢 42歳
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泰村の弟で義村の四男。出家する予定で公暁の弟子として鶴岡八幡宮に預けられたが呼び戻され、承応二年(1223)に三寅(後の四代将軍頼経)の近習となり以後20年間仕えた。寛元二年(1244)に頼経が引退して息子頼嗣が五代将軍に就くと補佐する意味もあって評定衆に加わっている。
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三代執権の泰時死去(仁治三年・1242)以後の幕府は執権派と将軍頼経派に分れて対立し、光村は五代執権時頼の排除計画(宮騒動・寛元四年・1246)に参加、この時には全面衝突を避けたい時頼の思惑もあり不問に処されたが抗争の火種は残り、翌年の宝治合戦(1247年6月)に至る。
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光村は永福寺に入って奮戦し、泰村に合流して戦うよう呼びかけたが泰村は既に戦意を失っており、最後には兄に従って頼朝法華堂に合流し自刃した。鎌倉武士としての潔さと武勇に関しては愚兄賢弟と言うべきところ、か。
宮道(国平・宮六兼仗)国平 生没年 不詳 没年齢 不詳
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斎藤實盛の外甥とされるが詳しい系譜は不明。實盛に従い平家の郎党として治承の兵乱を戦ったが、平家滅亡と共に捕獲され囚人として
上総廣常に預けられた。實盛に関わる伝承に頻繁に現れる「斎藤六」が宮六だった可能性がある。熱海の
密厳院跡や伊東の
弘誓寺、富士宮と沼津の
惟盛の墓と六代松碑などで平安末期の風景に思いを馳せよう。
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寿永二年(1183)の廣常謀殺後は
中原親能が預かり、養子の大友能直の補佐役を務めた。文治五年(1189)8月10日の吾妻鏡には
「国平は頼朝の寝所で宿直していた能直を密かに呼び出して共に阿津賀志山を越え、国衡縁戚の郎党である佐藤三郎秀員父子を討ち取った。」との記載がある。
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北陸篠原の合戦で實盛が戦死した後は遺領の長井庄を継承し、聖天山歓喜院を維持管理したと伝わる。詳細は
斎藤實盛と長井荘(サイト内リンク)で。
三善 康信(善信) 保延六年(1140)~承久三年(1221) 没年齢 82歳
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朝廷で太政官(太政大臣を頂点とする政権の最高機関)の書記官を世襲していた下級貴族。頼朝の乳母の妹が康信の母(複数いた乳母の誰かは不明)だった事から京都の情勢を定期的に頼朝に報告していた。治承四年(1180)4月に以仁王と頼政が挙兵して敗れた2ヶ月後に鎌倉に下向し「源氏追討令が出たので奥州へ逃げるべきである」と進言しているなど、頼朝の情報源として大きな役割を果たしている。
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元暦元年(1184)4月に鎌倉に入って訴訟事務を扱う問注所の初代長官を務め幕政に参加、頼朝の没後は古参御家人13人の合議制にも名を連ね、承久の乱(1221)が起きた時には病に耐えて会議に参加、大江廣元の即時出兵論を支持して幕府体制の強化に貢献した。
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子孫に町野・太田・矢野・佐波・布施・飯尾の諸氏があり鎌倉幕府~室町幕府の中堅官僚として活躍している。吾妻鏡には康信の功績に関する記載が多く一部には捏造もあるため、それなりの注意が必要。部分的に吾妻鏡の編纂に関与した可能性も指摘されている。
三善 (隼人佐)康清(隼人入道) 生没年不詳 没年齢 不詳
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康信の実弟。以仁王挙兵の際には兄の指示を受け伊豆へ下って京都の情勢を頼朝に伝えた。建久元年(1190)の頼朝上洛の際には奉行人、翌年の吉書始には公事奉行人、建久五年(1194)の薬師寺新造の奉行人などを歴任、有能な事務官僚として兄と共に草創期の幕府実務を処理した。吾妻鏡の正治元年(1199)以降には隼人入道の名で登場しており、記録には見えないが頼朝の死後に出家したらしい。二代将軍頼家の蹴鞠の相手を務めて吾妻鏡に載る事例も多い。
以仁王 仁平元年(1151)~治承四年(1180) 没年齢 30歳
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後白河天皇の第二皇子で、母は加賀大納言藤原季成娘。皇位継承の最右翼だったが平家に嫌われて冷遇され親王宣下も受けられず、挙兵前年の11月には清盛がクーデターを起こして後白河法皇を幽閉した。併せて関白の松殿基房を追放し、高倉天皇の対抗する立場だった以仁王の城興寺領
※も没収、これが直接の契機になって治承四年(1180)4月に源頼政と共に平家追討の兵を挙げた。同時に挙兵を促す令旨
※を発し、源行家が全国の源氏にこれを届けた。令旨に呼応して平家独裁に不満だった義仲・頼朝・甲斐源氏などが兵を挙げ、平家一門の凋落が始まった。
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令旨の発行:「王」あるいは「王女」とは親王・内親王の宣旨を受けていない皇子と皇女の称号。母の藤原成子は後白河即位前から寵妃だったが
高倉天皇の生母で後白河の退位後の妃・建春門院(清盛の妻時子の妹・滋子)の嫉みなどのため親王宣下を受けておらず、令旨を発する権限(皇太子・皇太后・皇太后・皇后のみ)はない。檄文に重みを持たせようとしたのだろう。
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城興寺領:高倉天皇系の経済地盤を弱める意図と共に、最雲法親王(堀河天皇の子)の城興寺領は以仁王が出家して継承するのが前提だった。
以仁王が俗人のまま継承するのは約束違反で、実際に平家は没収後に本来の所有者・梨本門跡(三千院門跡)に返還している。
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挙兵後は園城寺(三井寺)を経て南都を目指したが平家軍の追撃が予想よりも早く、宇治川の橋を落として頼政が防戦している間に興福寺に入ろうとし、光明寺鳥居(現在の山城町)付近で流れ矢を受け死んだと伝わっている。高倉神社に陵墓(
地図)。があり、宮内庁の管理下にある。
福島県檜枝岐村の伝承に拠れば以仁王は同地まで逃げ延びており、臣従した尾瀬大納言頼国が病のためこの地に残って住み着いたために「尾瀬」の地名が残ったと伝わっている。檜枝岐村の中土合公園には頼国卿の石像がある。
武蔵坊 弁慶 不詳(不詳)~文治五年(1189)閏4月 没年齢 不詳
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義経子飼いの郎党。平泉で自刃するまで義経に従ったと伝わる。ただし経歴の大部分は「義経記」などによるフィクション。頼朝に兵を向けられた義経が都を脱出した文治元年(1185)11月3日の吾妻鏡には
「平時實・良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成男)・伊豆右衛門尉源有綱・堀彌太郎景光 ・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘綱・弁慶法師ら総勢300騎」と記載されており、更に大物浦難破後の6日に
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従って五条大橋で牛若丸と戦った事、知盛の霊と対決した船弁慶・安宅関での勧進帳云々、衣河での立ち往生などは(残念ながら)全く信頼に値しない。ただし頼朝に追われた義経が比叡山に隠れて僧兵の庇護を受けた史実が拡大解釈されて弁慶伝説と結びついた可能性は指摘されている。ちなみに、義経記では熊野別当の息子とされており、熊野速玉大社の境内には
七つ道具を背負った弁慶像(サイト内リンク・別窓)が建っている。
武藤 資頼 永歴元年(1160)~安貞二年(1228) 没年齢 68歳
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藤原秀郷の後裔である武藤頼平の猶子として武藤氏の名跡を継承したが、元々の出自は判らない。当初は平知盛の郎党として戦い、一ノ谷合戦の際に知人である梶原景時を経由して降伏、三浦義澄の預かりを経て頼朝の御家人となった。文治五年(1189)の奥州合戦での勲功によって出羽国大泉庄(山形県鶴岡市・
地図)の地頭となり、在任期間中には修験道の本拠である羽黒山領を侵害し羽黒山の衆徒と紛争を起こしている。
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建久年間(1190~1198)に九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任、肥前・筑前・豊前・壱岐・対馬の守護に任命された。大宰少弐職は嫡子資能に継承されて世襲となり、資能の子孫は北九州の名族少弐氏として発展した。
陸奥(源) 義隆 不詳(不詳)~平治元年(1159) 没年齢 不詳
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義家の七男(末子)で、兄弟の中では最も長命だった。平治の乱(1159)では甥の義朝軍に加わって敗れ、東国へ逃げる途中の比叡山竜華越え(琵琶湖畔に下る峠)で義朝の盾となり、僧兵の矢を受けて落命した。相模国毛利庄(現在の厚木~愛甲一帯、森庄とも)を領有して毛利冠者を名乗り、嫡子義広が源姓毛利氏の祖となった。
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鎌倉幕府成立後に毛利庄を大江廣元に譲って大江氏が大江姓毛利氏となったが、廣元四男の季光(毛利季光)が宝治合戦(1247)で三浦氏に味方したため一族の殆どが滅亡、越後の四男経光の系のみが生き残り、後に安芸国に移り毛利元就の祖となっている。
源 邦業 生没年 不詳 没年齢 不詳
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第60代醍醐天皇の第十皇子で臣籍降下した源高明の曾孫である長季から五代後の醍醐源氏末裔。文治二年(1186)に頼朝知行国の下総国守に任じた。吾妻鏡には,建久元年(1190)には頼朝上洛に際して参内の前駆を務め、同・二年に公文所を政所に再編した際には大江広元とともに別当に着任している。建久五年(1194)の永福寺薬師堂新造供養には頼朝の供を務めた記録がある。
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源(土御門) 通親 久安五年(1149)~建仁二年(1202) 没年齢 53歳
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第73代堀河天皇の時代には外戚として繁栄した村上源氏の嫡流に生まれた。父雅通は鳥羽院政から後白河院政となり、高倉天皇の時代には平家の娘を妻にして関係を深め高倉院政を補佐した。清盛没後は平家と距離を置き、寿永二年(1183)7月の平家都落ち後は平家と決別して後白河に従った。当初は摂関の九条兼実と協力体制にあったが昇進が遅れた事で遺恨を持ち、頼朝・廣元ラインと互助関係を強める事と廷臣のネットワークを固める事によって建久六年(1195)には兼実を失脚させた。この時点で頼朝は大姫入内を通親と丹後局に了承させる見返りに兼実を見捨てた、と考えられる。
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その後は朝廷内に確固たる地位を築き、疎遠な関係にあった近衛と九条両家を融和させて朝廷内を安定させるとともに、鎌倉との良好な関係を構築した。通親の死が比較的早かったため後鳥羽上皇を諌める能力を持つ公卿はいなくなり、結果として承久の乱(1221)が勃発する結果となった。
源(大江) 親廣 不詳(不詳)~仁治二年(1242) 没年齢 不詳
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大江廣元の長男で生母は多田仁綱(源満仲の弟源満成の末裔)の娘、妻は北條義時の娘。
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源通親(内大臣・右大将)の猶子となり三代将軍実朝に重用されて寺社奉行を務め、義時の娘婿として北條一族からも信頼を受けた。建保三年(1216)には父・廣元の大江復姓に伴い大江姓に戻り、建保七年(1219)1月の実朝暗殺事件で出家し蓮阿を名乗った。同年2月に伊賀光季と共に京都守護に任じて上洛、承久三年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇に招かれて宮方に与して父の敵対する立場となり、近江で敗北して逃亡、祖父の多田仁綱が目代を勤めていた出羽国寒河江に隠棲、土着して寒河江の祖になった。
源 仲章 不詳(不詳)~建保七年(1219) 没年齢 不詳
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父に続いて院の近臣として後鳥羽上皇に仕え、正治二年(1200)頃から在京したままで鎌倉幕府の御家人として盗賊の追捕や幕府との連絡窓口に任じた。建永元年(1206)頃に鎌倉に下り建仁三年(1203)9月に三代将軍となった実朝の教育係となった。学識の豊かさを実朝に愛されて御所の近くに住み、時折上洛して鎌倉の情勢を朝廷に伝えるなどの諜報活動も担っていたらしい。建保四年(1216)には幕府の人材不足もあって政所別当の一人(当時は4~5人制)として幕政に関与し、同時に幕府の推薦名目で従四位上・文章博士を兼ねた順徳天皇の教育係を務めるという、かなり複雑な職務に任じていた。
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そして建保七年(1219)1月の実朝右大臣拝賀の鶴岡八幡宮で公暁らの襲撃を受け、実朝と共に殺害された。公暁に与した悪僧は義時と間違えて仲章を殺したと考えるのが一般的だが、八幡宮の供僧が執権の義時と実朝の側近仲章を判別できないとは考え難く、直前に義時が病気を称して仲章と供を交代した事と併せると、実朝と共に朝廷の出先となっている人物を始末する意図があった、と考えるべきだろう。この事件が承久の乱(1221)に続く朝幕対決の伏線になった。
源 光行 長寛元年(1163)~寛元二年(1244) 没年齢 81歳
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清和源氏満仲流または満政流の子孫で官僚・文学者・源氏物語の研究者。平家に味方していた父の源光季の助命嘆願のため寿永三年(1184)4月14日に鎌倉に下向し頼朝に面会したのが鎌倉との最初の接点。その才能を頼朝に愛されて側近となり、鎌倉幕府の成立と共に政所別当の大江廣元を補佐し、朝廷との関係を調整するため鎌倉と京都を再三往復している。
.一方で幕府の要職にありながら朝廷から河内守や大和守に任じられるなどの接点も深く、承久の乱(1221)の際には去就に迷い後鳥羽上皇側を選んで死罪になる筈だったが、この時も彼の才能を惜しんだ御家人や子息らの嘆願によって重罪を免れた。嫡子の親行も和歌奉行として実朝以下三代の将軍に仕えている。
村上 頼時 生没年 不詳 没年齢 不詳
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信濃国更級郡村上郷(現在の坂城町・
地図)を本拠にした御家人で清和源氏頼清流(頼信の系)の武士で父は村上経業、祖父は村上判官代源為国(白河院呪詛事件で信濃流罪となった叔父・村上顕清の養子。保元の乱で崇徳上皇方に加わり処罰を免れた)。一族は頼朝挙兵後から参戦、一の谷合戦では経業の名が確認できる。清和源氏ではあるが門葉として処遇されるほどではなく、幕府の中枢に関与することはなかったらしい。頼朝没後には検非違使として在京し、三代将軍実朝に仕え主として京都との連絡・調整役の補佐などに任じている。
毛利(源) 頼隆 平治元年(1159)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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陸奥義隆の三男。平治の乱で父が討死した時には二ヶ月にも満たない赤子だったが下総国の千葉常胤の監視下に配流された。頼朝が石橋山で敗れて房総へ逃れて千葉常胤の館に入った時に21歳の頼隆も引き合わされ、その後は源氏一門として優遇された。父の所領だった毛利庄は幕府成立後に長男の義広が相続し、後に大江廣元に譲られている。
毛利 季光 建仁二年(1202)~宝治元年(1247) 没年齢 45歳
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大江廣元の四男。相模国毛利荘を相続して毛利氏の祖となった。廣元は公卿の出身で文官だったが季光は武士として三代将軍実朝に仕え、北條泰時に従い承久の乱で転戦、功績により安芸国吉田荘の地頭職を得た。その後も幕府内で相応の優遇を得たが宝治合戦(1247)で滅亡。北條側に加わろうとして妻(三浦義村娘)に「武士の行いに非ず」と抗議され、三浦側に加わって4人の子と共に頼朝法華堂で自刃した。
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越後にいたため乱に無関係だった四男の経光が(本領の毛利荘は公収されたが)越後と安芸の領有を許された。経光四男の時親が安芸国吉田荘を継承、この家系が中国地方屈指の戦国大名毛利元就に繋がっている。
望月 重隆 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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生年は不明だが海野幸氏と同年代(承安二年・1172生れ)と推定される。信濃の名族滋野氏の支流で、優れた馬を育てた「望月の牧」を領有した佐久郡(現在の佐久市西部)の豪族望月国親の子。父と共に義仲の挙兵に参加し横田河原の合戦などを戦った。
その後は人質となった義高に従って鎌倉に入り、義高の没後は御家人として頼朝に従った。共に義高に従った海野幸氏と共に弓馬四天王と呼ばれた弓の名手であり(他の二人は武田信光と小笠原長清)、文治四年(1188)の奥州藤原氏追討や建久五年(1139)の安田義定追討・建保元年の和田の乱などで功績を挙げている。
毛呂 季光 不詳(不詳)~建永元年(1206) 没年齢 不詳
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正二位中納言の藤原経季から嫡子・正二位権中納言季清に続く四男季仲の庶子が季光、入間郡毛呂郷(現在の毛呂山町)に所領を得て毛呂氏の祖となった。中央貴族の名門藤原氏の血筋ではあるが、それよりも伊豆流人時代の頼朝の暮らしに便宜を図った事などから重用され、御門葉に準ずる処遇を受けた。文治二年(1186)には頼朝の推挙により豊後国司に任じ、建久四年(1193)には武蔵国比企郡の和泉・勝田などを与えられている。その後も側近として頼朝に仕え信頼された。吾妻鏡での記載は建久六年(1196)10月7日の鶴岡八幡宮臨時祭での供奉が最後。
文寿 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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西暦900年代(平安時代中期)に奥州で作刀に従事した伝説の人物。摂津源氏の祖である満仲が鍛えさせた二振りの刀が「髭切り」と「膝丸」だと伝わる。罪人の首と共に髭まで斬れたから髭切り、敵兵の両膝を一太刀で断ち斬ったから膝丸と命名し源氏の重宝となった、と。
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伝説は兎も角として、奥州刀鍛冶のルーツは一関市の北上川東南にある舞草地区(正しくは人偏に「舞」)の白山岳(別称・鉄落山)中腹にある舞草神社(
地図)周辺で、現在は草の中に辛うじて鍛冶遺跡の残骸が見られる程度らしい。平泉周辺では行き残した場所の一つで、辛うじて車が通れる未舗装道路(東参道)は通じているが、春夏は蛇が怖いし熊はもっと怖い。雪が降ったら歩くのが大変だし...臆病者の私は未だに訪問できない。
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武器の機能が「突く」から「切る」へ、つまり直刀から曲刀(初期の日本刀)に変わる時代となり、優れた技術を持った舞草鍛冶の存在は衛府の武者にとって垂涎の的になった。朝廷が執拗に陸奥の制圧を繰り返した理由の一つには陸奥国の作刀技術を手に入れる願望があったという。たぶん坂上田村麻呂あたりが舞草の刀工を都に連れ帰り、西国の各地に広がって「衛府の太刀」を供給するようになった、それが「文寿」の名に集約されていったのだろう。
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衛府の太刀と舞草神社などについては「鎌倉時代を歩く 壱」の
こちらに記載した。ここでは記述しきれない事柄が多く、今後も随時加筆したいと思う。
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文覚 俗名を遠藤盛遠 保延五年(1139)~建仁三年(1203) 没年齢 63歳
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真言宗の僧。元々は北面の武士で俗名を遠藤盛遠、出自は不明だが本来は渡辺党(祖は渡辺綱)の武者だったとも言われ、出家後は渡辺党の主筋である摂津源氏の棟梁・頼政の意を受け行動していたのだろう、と考える説もある。
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平家物語に拠れば、同僚の武士である左衛門尉源渡の妻袈裟御前に横恋慕し、結果として夫の身代わりとなった彼女を殺してしまう。その事件を契機に出家し、荒行を積んだ後の承安三年(1173)に御所に於いて高尾の神護寺再興を強請したため後白河法皇の勘気を受け伊豆に流された。
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西伊豆の大久保平に近い
大聖寺などを経て韮山那古谷で頼朝に面会し、義朝の髑髏を示して挙兵を促したと伝わる。治承二年(1178)に中宮徳子(清盛の娘)の皇子出産(安徳天皇)により恩赦されたが、その後は寿永元年(1182) に神護寺に荘園を追加して与える旨の後白河法皇裁許を得るまで消息は不明。頼朝の近辺にいたと推測される。また文治元年(1185)には平維盛の遺児六代の助命を頼朝に嘆願し、許されて神護寺に保護している。
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鎌倉幕府の成立後は頼朝の信任を得て重用されたが頼朝死後は庇護者を失い、朝廷に対して謀議を図った疑いで佐渡や隠岐へ配流された。文覚に関する伝承は多く、浄瑠璃や歌舞伎の題材となっている。墓所は京都神護寺の裏山と伝わるが、その他にも島根県の隠岐島や岩手県奥州市胆沢や鳥羽の恋塚寺(源平盛衰記に記載)や岐阜の加子母村にも墓が残っている。鎌倉の大御堂橋近くに館跡(
鳥瞰図)があり、極楽寺坂の成就院には文覚自作の荒行像もある。庭に置いてあるレプリカは
こちら、真偽は不明だが...。(共にサイト内リンク)
清和天皇 嘉祥三年(850)~元慶四年(881) 没年齢 31歳
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平安時代初期の第56代天皇。文徳天皇の第四皇子だが母が太政大臣藤原良房の娘だったため後見を受け、異母兄を退けて皇太子となった。文徳帝の死去に伴って9歳の天安二年(858)に即位し、政治の実権は良房が握った。文徳帝の死去が突然だったため、良房による暗殺説もある。
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27歳の貞観十八年(876)に突然譲位して出家、4年後に崩御した。皇后は業平の愛人だったと伝わる藤原高子、次の天皇は狂気の帝と呼ばれた陽成天皇。貞純親王(第六皇子)から源経基に続く子孫が所謂、清和源氏である。
陽成天皇 貞観十年(869)~元暦三年(949) 没年齢 81歳
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清和天皇の第一皇子で第57代天皇を継承。在位は貞観十八年(876)~元慶八年(884)。父は清和天皇、母は藤原高子、子には歌人として知られた元良親王と清和源氏の始祖説もある貞順親王がある。清和天皇の譲位を受け数え年9歳で着位したが14歳の時に清和天皇が死没、その後は急速に伯父の摂政藤原基経との関係が悪化して17歳で退位した。上皇の地位にあったのは64年間にのぼる。
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天皇在位中には狂気の振る舞いが多く、殺人を好んだため「狂気の帝」だったと伝わるが、政争の末に退位に追い込んだ摂政の藤原基経が事実を隠蔽すために意図的な記録改竄を行ったと考える説が強い。帝位は祖父・文徳帝の弟である光孝天皇が継ぎ、宇多→醍醐と続く。源氏の系譜は清和→陽成→貞純親王→源経基と続くため、本来は「陽成源氏」とするべきだろうが、狂気の帝の子孫とされるのを嫌って清和天皇が始祖であるとした、らしい。
貞純親王 貞観十五年(873)~延喜十六年(916) 没年齢 42歳
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清和天皇の第六皇子で母は棟貞王の娘。貞純親王の息子の経基王と経生王が源の姓を与えられて皇籍を離れ、経基王の系が清和源氏の祖となった。清和源氏の祖は清和天皇の次代・陽成天皇の血統と考える説もある。
源 経基(経基王) 寛平九年(897)~応和元年(961) 没年齢 54歳
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皇籍にあった時は六孫王。臣籍降下して源を名乗り承平八年(938)には武蔵国権守興世王の次官である武蔵介として関東に着任、清和源氏の直接の祖となった。この興世王が後に国司として赴任した百済王貞連と不仲になり、結果として将門に加担して天慶の乱首謀者の一人となる。
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興世王と経基が強引な収奪を行ったため在庁官人の武蔵武芝(足立郡の豪族)と争いになり、興世王は平将門の調停により和解した。狭服山(狭山、または比企郡)に立て籠もった経基は殺害を恐れ京都へ逃亡して謀反を訴えたが、将門・興世王・武蔵武芝は常陸・下総・下野武蔵・上野国府による事実無根の証言を揃えたため経基の讒言と判断され、逆に拘禁された。武士ではあるが臣籍降下した直後だったため、現実的な対応に未熟だったと推定される。
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後に将門が実際に反乱を起こしたため拘禁を解かれ、将門の乱と純友の乱の平定を命じられたが、どちらも着任前に鎮圧されたため実績はない。しかし行動の一部は武勲であるとされ、武蔵・筑前・但馬・伊予の国司を歴任した後に鎮守府将軍に任じられた。
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鴻巣市西部の大間3の11に経基の
館跡とされる史跡が残る。武蔵介時代或いは国司の頃の遺構の可能性は皆無ではないが信頼性は低い。
嫡男の満仲(摂津源氏の祖)が京都の
六孫王神社(公式サイト)を勧請し経基を祀っている。ここは経基王の館跡と伝わり、「霊魂が滅んでも神となって西八条の池に住んで子孫の繁栄を祈るからこの地に葬れ」と遺言した。本殿後方の廟が経基王の墓所とされている。
源 満仲 延喜十二年(912)~長徳三年(997) 没年齢 87歳
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経基王の嫡男とされているが根拠が乏しく、血筋の正当性は疑わしい。武蔵・摂津・越前・伊予・陸奥の受領(任地に赴く行政官の長)を歴任して力を蓄えた後に摂関藤原家の臣として摂津国に荘園を拓き、多田を名乗って土着した。初めて源氏武士団を組織し、鎮守府将軍にも着任した。
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嫡男の頼光が摂津源氏を継ぎ、次男の頼親が大和源氏、三男の頼信が河内源氏の祖となって分家している。
廟所は満仲を祭神として祀る兵庫県川西市の
多田神社にあるが、なぜか高野山奥の院にも
五輪塔(panoramio)がある。ただし五輪塔の形状が初めて造られたのは1140年代以降なので後世の慰霊墓だろう。
源 頼光 天暦十二年(948)~治安元年(1021) 没年齢 73歳
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満仲の嫡男(生母は源俊の娘)として父の拓いた摂津国多田(兵庫県川西市多田)を相続し摂津源氏の祖となった。20歳頃に出仕し、父と同様に藤原氏に仕え官職を得て美濃守、但馬・伊予・摂津の受領を歴任し、藤原摂関家(特に道長)と深く関わりを保ちながら財力を蓄えて源氏興隆の礎を築いた。
墓所は父の満仲と同じく多田神社にある。更に直線で南に2km(車なら迂回して約7km)の
満願寺(公式サイト)には頼光の家臣だった坂田公時(金太郎)の墓が見られるが、この真偽は判らない。
源 頼親 不詳(950前後)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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源満仲(多田満仲)の次男、母は左衛門権佐藤原致忠の娘。摂関藤原道長に仕えて数ヶ国の国司を歴任し大和に勢力を伸ばして大和源氏の祖となった。武勇の誉れが高く、藤原道長は「殺人の上手なり」と評している。
大和国司に再々任された時に春日大社・東大寺・興福寺などと所領を争い合戦を起こした責任を問われ、土佐に流罪となった。
源 頼信 安和元年(968)~永承三年(1048) 没年齢 81歳
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源(多田)満仲の三男、母は大納言藤原元方の娘と伝わる。摂関藤原道長を主人とし、河内石川郡(羽曳野市壷井)に荘園を拓いて本領とし、河内源氏の祖となった。武勇の誉れが高く、甲斐在任中に平忠常の乱
※を平定して勇名を馳せた。この事件によって坂東平氏の殆どが頼信の勢力下に入り、頼義→義家と続く清和源氏が東国での主流を占めるきっかけになった。
長元ニ年(1029)に甲斐守に任官し、後に孫の義光が甲斐で勢力を扶植する基礎を築いている。長元五年(1032)に美濃守、永承二年(1047)に従四位上の河内守を転任。墓所は羽曳野の通法寺跡にあり、周辺に嫡子頼義や嫡孫義家の墓が残っている。
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※平忠常の乱: 平良文(村岡五郎)の嫡孫忠常が東国に勢力を広げ、長元元年(1028)6月に国司を殺して上総・下総・安房を占領した反乱。
当初は平直方を鎮圧に向わせたが好転せず、頼信が追討使に任命された。忠常は降伏した後に病死、約3年続いた戦乱により房総三ヶ国の疲弊も激しかった、と伝わる。
源 頼国 不詳(972?)~長徳三年(1058) 没年齢 85歳前後
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頼光の嫡男、母は藤原元平の娘と伝わる。父の頼光、嫡男の頼綱に比べ資料が少なく人物像は不明確。武人としてよりも貴族社会の一員として活動したらしい。正四位下で美濃守を務めている。妻は藤原信理の娘。
源 頼義 永延二年(988)~承保ニ年(1075) 没年齢 87歳
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河内源氏初代頼信の嫡男、鎮守府将軍。八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光の父で、頼光・頼親の弟にあたる。武勇に優れ、長元三年(1030)には父に協力し房総で勃発した平忠常の乱を鎮圧し、東国での本拠を鎌倉に構えた。これが清和源氏が関東で勢力を伸ばす契機になった。
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永承六年(1051)に勃発した前九年の役で当初は劣勢が続いたが、最終的には出羽清原氏の応援を得て安倍一族を討伐した。陸奥国を勢力下に置く意欲を強く持っていたが、戦役後は陸奥守ではなく伊予守となり、陸奥の支配権は清原一族が握った。更に後三年の役を経て奥州藤原氏が繁栄し、源氏は頼義と義家が果たし得なかった陸奥制覇の夢を引き継ぐことになる。
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頼義の武勇に感嘆した平直方から鎌倉の屋敷を譲られ、直方の娘を娶って東国の拠点とした。鎌倉には壺井八幡宮を勧請して若宮(
鶴岡八幡宮の前身・
元八幡)を開き、後三年戦役から凱旋した康平七年(1064)には河内国香呂峰(羽曳野)の私邸東側に
壺井八幡宮(公式サイト)を勧請して河内源氏の氏神とした。晩年剃髪し伊予入道を名乗った。墓所は羽曳野の
通法寺跡にあり、周辺に父頼信や嫡子義家の墓も残る。
源 義家 長暦三年(1039)~嘉承元年(1106) 没年齢 67歳前後
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源頼義(河内源氏嫡流)の嫡男、鎮守府将軍、母は平直方の娘。幼名は源太、山城国石清水八幡宮で元服して八幡太郎を名乗った。子に義宗・義親・義国・義忠・義時・義隆・為義(義忠または義家の養子か)、弟に賀茂次郎義綱・新羅三郎義光がある。河内源氏棟梁の座は為義が継承した。
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前九年の役と後三年の役を戦い、優れた武将として源氏棟梁の地位を固めたが、後三年戦役への参戦は陸奥国への野心によると判断され恩賞は得られなかった。そのため部下への恩賞には河内の私財を当てざるを得ず、結果的に人望を高めたと伝わっている(ただし、これは伝承の域を出ない)。
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その後は名声と勢力の拡大を警戒した白河法皇に冷遇された。嘉承元年(1107)には嫡子の次男義親(長男義宗は早世)が謀反の罪で討たれ、次男の義国が常陸国で義光(義家の弟)と争って勅勘を受けるなどの苦境が続く中で病没、源氏凋落の始まりとなった。
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2歳で院に謁見した際に父が威した鎧である「源太が産着」と、前九年の戦いで捕虜の首と鬚を一度に刎ねた「鬚切丸」は源氏の重宝となり、平治の乱で頼朝が着用している。源太の産着は所在不明、鬚切丸は頼朝→政子→承久の乱直前に足利義氏に与えられ、現在は足利氏の氏寺・鑁阿寺の所蔵とも言われているが詳細は確認できず、これも伝承の域を出ない。墓所は羽曳野の
通法寺跡にあり、周辺に父の頼信や頼義の墓も残る。
源 義光 寛徳ニ年(1045)~大治二年(1127) 没年齢 59歳
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河内源氏の二代棟梁頼義の三男で生母は平直方娘、八幡太郎義家と加茂二郎義綱の弟。近江新羅明神で元服し新羅(しんら)三郎義光を名乗った。
後三年の役で苦戦した義家を助けるため官位を捨て奥州に転戦、役の後に常陸の豪族である平氏の娘を妻とし、常陸国を勢力範囲に収めた。後に遅れて常陸に進出してきた甥の源義国(足利・新田の祖)とも覇権を争い、義国は下野に拠点を移すことになる。
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義家の没後には河内源氏の棟梁の座を狙い、弟の快誉と共謀して義家の後継者だった甥の義忠と兄の義綱の両者を駆逐する策を練り、部下に命じて義忠を暗殺しその罪を義綱と嫡子の義明に着せて滅亡に追い込んだ。更に暗殺の下手人をも殺して証拠隠滅を図ったが真相が露見し、勢力圏である常陸へ逃れた。血で血を洗うような同族の暗闘で源氏の衰退を招いた張本人のような存在だが、義光の系累は佐竹・武田・南部・小笠原などに分かれて勢力範囲を拡大し、足利・新田へと続いた義国の系と共に鎌倉幕府の成立と存亡に大きく関与した側面は見逃せない。
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墓所は大津市園城寺町三井寺に近い市役所の裏手にあり、3kmほど西南の京阪膳所駅近くの義仲寺(ぎちゅうじ)には義仲の墓も残されている。河内源氏の本拠地だった大阪府羽曳野市の壷井八幡宮(頼信が河内守に任官して私邸を建て康平七年(1064)には嫡男頼義が石清水八幡宮を勧請した)には頼信・頼義・義家・義綱と共に祀られており、その南500mの通法廃寺周辺には頼信・頼義・義家の墓も点在している。
源(武田) 義清 承保ニ年(1075)~久安五年(1149) 没年齢 74歳
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河内源氏棟梁義家の弟で常陸介となった新羅三郎義光の三男(次男説あり)、母は常陸平氏の平清幹(義光の命令で河内源氏の四代目棟梁義忠を暗殺し、口封じのため義光に殺された男)の娘。兄の義業は久慈郡の武田郷を相続して佐竹氏の祖となり、義清は
那珂郡武田郷(現在のひたちなか市武田)の管理を任され武田冠者を名乗った。
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後に同じ地域の豪族大掾氏と争って勅勘を受け、嫡男清光と共に甲斐の市河荘(現在の市川大門)に流された。白河上皇が定めた「源義家等への田畑の寄附を禁止」(寛治五年・1091布告)に違反したためとされるが、長秋記(村上源氏の権大納言・源師時の日記)の大治五年(1130)の項には「清光濫行(乱行)」の記載があり、常陸での違法行為で翌天承元年(1131)に武田郷から別領の市河荘に移ったらしい。
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義清は天永年間(1110~1113)に市河荘の下司(実務担当の荘官)に着任し、天治元年(1124)には目代に任じた。後三年戦役後の義光は甲斐守に任じており、義光の末子(義清の末弟)は既に市河荘の御崎明神(現在の表門神社)婿となって平塩寺の隆盛に寄与し、その後も覚義の嫡子覚光と嫡孫の行房が平塩寺別当職に任じている。義清と清光親子が甲斐に土着して甲斐源氏の勢力を伸ばすベースは出来上がっていたのだろう。
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市河荘のあった市川大門には
平塩館の跡など、甲府市昭和町にも
館の跡と義清塚(墓と伝わるが実際には古墳の可能性が高い)が残っている。
源 義国 寛治五年(1091)~久寿二年(1155) 没年齢 64歳
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河内源氏の棟梁八幡太郎義家の三男で母は藤原有綱の娘。長男は新田氏の祖となった義重、二男は足利氏の祖となった義康。
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長兄の義宗が早世し次兄の義親が失脚したため河内源氏の嫡流と期待されたが、弟の義忠と連合して叔父義光と争った常陸合戦などの粗暴な行動が多く、父の義家に疎まれた。その後に常陸国から下野国に移り、康治元年(1142)に相続所領の足利を安楽寿院に寄進して足利荘とし、渡良瀬川南岸に開発した地を伊勢神宮に寄進して梁田御厨とした。この一帯は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の勢力圏でもあるため数度の合戦を引き起こしている。
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晩年は義重と共に渡良瀬川の南に移住し、現在の太田市南西部を開拓して新田を立荘した後に同所で死没。墓は新田岩松に残る
義重夫妻の五輪塔と、足利の
鑁阿寺の御霊屋(赤御堂)裏にある五輪塔の中の一つ、と伝わる。
源 為義 永長元年(1096)~保元元年(1156) 没年齢 60歳
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八幡太郎義家の嫡子・義親の子で義家の三男義忠の養子となっていたが、義忠が暗殺された後は河内源氏の棟梁を継承した。義家の庶子だったなどの説もあり、系譜は必ずしも明らかではない。当人を含めた周辺には乱暴狼藉による失態・罷免などの事例が多く、一門の棟梁に相応しい人物か否かには諸説がある。仁平四年(1154)に八男為朝の乱行が原因で官位を追われ、不仲だったとされる長男の義朝に家督を譲る結果となった。
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保元の乱(1156)では義朝を除く源氏一族を統率して崇徳上皇側に立ち、後白河天皇側の清盛・義朝連合と戦うが敗れて降伏。義朝の助命嘆願も許されず、四男頼賢・五男頼仲・六男為宗・七男為成・九男為仲と共に洛北の船岡山で斬首された。二男の義賢は前年の大蔵合戦で義平に討たれ、三男の義廣(志田)は常陸志田荘に下向したまま平家に接近、八男為朝は伊豆大島に流罪、十男義盛(行家)は熊野に逃亡という惨憺たる状況で、敵対した嫡男義朝も平治の乱(1160)で落命することとなる。
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政治的にも軍事的にも見るべき才能に欠け、同族の間で義朝の評価が高まると共に親子間は離反し、更に後継を二男の義賢としたため保元の乱では義朝に見捨てられ同族同士が敵として殺しあう結果になった。下京区朱雀裏畑町の権現寺山門の外にある五輪塔が為義の墓とされているが、京都駅拡張などで数回の移転を繰り返しており、元々が慰霊のため建てられた墓らしい。
源 義基 不詳(不詳)~治承四年(1180) 没年齢 不詳
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義家の六男・陸奥義時の三男。父祖伝来の河内国石川荘(羽曳野)を領有して石川姓を名乗った。治承四年に以仁王の令旨を受け全国の源氏が蜂起する中、河内石川源氏の勢力を警戒した清盛に誘い出され一族の主力と共に伏見鳥羽で討死した。嫡男の義兼は本拠地石川城(河南町)に残って生き延び、その後も平家追討合戦に加わっている。
源 義兼(足利義兼とは別人) 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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源義基の嫡男。治承四年(1180)に父を含む石川源氏の主力が伏見の鳥羽で討伐された時は石川城にあり、その後も叔父の紺戸義広・二条義資らと共に平家軍の攻撃に耐えて奮戦したが落城し捕虜となった。
寿永二年(1183)には木曽義仲入京に伴う平家都落ちの混乱に乗じて脱け出し石川源氏を再度結集させて頼朝の勢力に加わった。幕府の樹立後は河内源氏同族の頼朝御家人として本領の南河内を領有し、家名を存続させている。
源(逸見) 清光 天永元年(1110)~仁安三年(1168) 没年齢 59歳
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源(武田)義清の嫡男。大治五年(1130)に父と共に常陸国武田郷から甲斐国市河荘に移り、父の没後は現在の
清光寺(北杜市長坂町)周辺に本拠を移して逸見(へんみ)荘(北杜市)一帯を勢力下に収め逸見冠者を名乗った。父の義清や長男の信義と違って清光には武田を名乗った記録がなく、甲斐源氏の惣領は義清から孫の信義に継承されたらしい。
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息子の多くが甲斐国各地を継承して勢力を伸ばし、逸見・武田・加賀美・安田・浅利氏など甲斐源氏の諸流として繁栄した。詰めの城として八ヶ岳山麓の大泉に築いた
谷戸城で没し北の出丸に葬られたが、古い石塔は館のあった清光寺に移されている。
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清光寺の付近には河内源氏の祖である甲斐守源頼信とその嫡男頼義が所有した私牧があり、義光が源氏の守護神を祀って神領と社殿を寄進した八幡大神社があったが水害で流失して現在は水田の隅に小さな社殿が残されているのみ。
源(三位) 頼政 長治元年(1104)~治承四年(1180) 没年齢 77歳
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源氏の嫡流である摂津源氏・仲政の嫡男、武将であり和歌の名手としても知られている。頼朝の河内源氏が 満仲--頼義(三男)--義家--義親--為義--義朝 と続くのに対し、頼政の摂津源氏は 満仲--頼光(嫡男)--頼国--頼綱--義親--頼政 と続いている。
保元の乱では義朝と共に後白河天皇側だったが平治の乱では清盛一族と共に二条天皇に属して義朝を破り、摂津源氏が衰退する中で三位の地位を得て源氏の血脈を保った。同時に多くの源氏子女を養子として保護したことでも知られる。
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治承四年(1180)に以仁王と共に打倒平家の兵を挙げるが敗北し宇治平等院で自刃、嫡男の仲綱らも討死した。仲綱は当時の伊豆守で、伊豆に在った仲綱の嫡男有綱や頼政末子の広綱は生き延びて頼朝の挙兵に参加している。
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平家物語は「仲綱が宗盛に名馬・木の下を貸し、宗盛は馬を仲綱と名付けて辱めた」のが発端で以仁王に挙兵を提案したなどと書いているが、老齢の頼政がその程度の事件でリスクの高い平家打倒計画に加わったとは思えない。以仁王と頼政が4月9日に発行した令旨は5月初旬には平家に露見し、予定より早く合戦になったのは事実だが、ほぼ満ち足りた晩年を過ごしていた頼政が以仁王と共謀した根本的な理由が判らない。
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頼政の死により摂津源氏は零落して河内源氏頼朝の系に移り、その後は下野源氏の足利氏が摂津源氏嫡流を名乗るようになった。
源 仲綱 大治元年(1126)~治承四年(1180) 没年齢 55歳
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摂津源氏・頼政の嫡男で母は清和源氏・源斉頼の娘。頼朝が伊豆に流された永暦元年(1160)には伊豆守だったため同族として物心両面の援助があったと推測される。治承三年(1179)には 頼政が従三位に叙され52歳で家督を継いだが、翌年には頼政が以仁王と挙兵し一族と共に従った。平家の追討を受け宇治川合戦に敗れ平等院で自刃、嫡男の宗綱(自刃)や 頼政養子の兼綱・仲家(義仲の異母兄)も最期を共にしている。
以仁王が平家追討令旨を発した際に全国の源氏に向け蜂起を呼びかけた名義人が前伊豆守仲綱だった。
源 頼兼 生年不詳~没年不詳 没年齢 不詳
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摂津源氏・頼政の二男で仲綱の次弟、母は不詳だが菖蒲御前の可能性あり。治承四年(1180)5月の以仁王挙兵での動向は不明だが、義仲入京後に源三位入道の子息として父の跡を継ぎ大内守護(皇居を警備する職)となっている。末弟と広綱と同様に伊豆で難を逃れたのかも知れない。
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平家滅亡後は在京の御家人として大内守護を務めつつ平重衡を南都に護送するなど、鎌倉と京を往復している。文治元年(1185)には家人の久実が御所から剣を盗んだ犯人を捕縛し、10月にはこの功績で従五位上に叙された。文治二年(1186)3月には返還された父の所領・丹波国五箇庄(現京都府南丹市)を併合しようとした後白河に頼朝を通じて抗議している。大内守護としては再三の功績を挙げ建久六年(1195)の頼朝入京にも同行、元久二年(1205)には石見守(島根県西部)に任じた。
源 広綱 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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摂津源氏・源頼政の末子で、長兄である仲綱の養子となっている。頼政が嫡男仲綱と共に宇治川合戦で没した治承四年4月には仲綱次男の有綱と共に仲綱の知行国伊豆におり、同年8月には二人とも頼朝挙兵に加わっている。
寿永三年(1184)の平家追討や文治五年(1189)の奥州藤原氏追討にも従軍して功績を挙げたが、建久元年(1190)の頼朝上洛の帰路に逐電し出家したまま政務にも戻らなかった。処遇上での不満が原因らしい。摂津源氏の嫡流なのに頼朝の郎党扱いが続くのでは無理もないが...結局は武家社会に戻らず醍醐で出家して生涯を終えたらしい。子孫の資国が丹波国太田に住んで太田氏を称し、末裔の太田道灌が歴史に名を残している。
源 仲家 不詳(1145年前後?)~治承四年(1180) 没年齢 35歳前後?
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河内源氏・帯刀先生義賢(義朝の次弟)の長男で義仲の異母兄。父が久寿二年(1155)の大蔵合戦で義平に討たれた時は母親と共に京にいたため殺されず、源頼政の養子となって成長した。この合戦では同じく義賢の子・駒王丸(後の義仲)も斎藤實盛らに命を救われている。
治承四年(1180)5月に養父頼政が以仁王と挙兵、宇治平等院の合戦で敗北し嫡男仲光と共に討死した。
源 有綱 不詳(不詳)~文治二年(1186) 没年齢 18歳前後?
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摂津源氏頼政の嫡子仲綱の次男。祖父と父が宇治平等院で敗死した際には父の知行する伊豆におり、同年8月の頼朝挙兵に加わった。
寿永元年(1182)に平家側勢力追討の命を受けて土佐に出陣、その前後から義経の武将として転戦し、義経が頼朝の追討を受け都落ちした以後も従っている。九州へ逃げる舟が難破し吉野山へ向った際も弁慶・堀景光・静と同行したが後に別行動をとり、宇多に潜伏した。文治二年(1186)6月に北條時定(時政の甥)勢と戦って敗れ自刃。
源 則清 不詳(不詳)~不詳(不詳) 不詳
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清和源氏満政流(満仲の弟・満政が祖)の武士で白河院と鳥羽院の北面武士に任じた源重時の曾孫。平家の家人として宗盛に仕えた。平家に従って壇ノ浦合戦まで転戦した。源氏に敵対したと言うより京武者として院との関係の流れで平家に従ったのだろう。捕虜になってからの消息は判らないが共に戦った叔父の侍大将源(飯富)季貞が助命され後に鎌倉御家人に加わっているため、共に助命された可能性もある。
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吾妻鏡の建保二年(1214)12月17日の条に
「故宗盛の家人だった美濃前司則清の子・左衛門尉則種が丹後国(京都府北部)から参上し幕府に仕えたい旨を申請した。将軍実朝が「多少の問題はあるが右大将軍(頼朝)が建久年間に伊賀大夫(知盛の息子)を誅した(京で検非違使に囲まれ自刃)後に「平家の侍が(降伏して)参上したら召し使うように」と定めたのだから考慮すべきだろう。彼は歌人だから問題はない。」と指示した。」との記録がある。
源(飯富) 季貞 不詳(不詳)~不詳(不詳) 不詳
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清和源氏満政流(満仲の弟・満政が祖)の武士で清涼殿の庭を警護する滝口武者から検非違使に任じ、清盛の側近として右筆や家政を務めた後に領国支配の実務を担当した。源氏の挙兵後は有能な侍大将として各地を転戦、壇ノ浦で敗れる直前には九州の反平家勢力だった緒方惟義や菊池隆直を討伐している。清和源氏の一族だった事と息子の二人が所領の飯富(千葉県袖ケ浦市)で頼朝に仕えた事などで罪を許され御家人に加えられた。雰囲気としては平貞能に似たイメージの武者。
源 義朝 保安四年(1123)~永暦元年(1160) 没年齢 37歳
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源為義の嫡男で河内源氏の棟梁、母は藤原忠清の娘。若年の頃から関東に下って成長し、相模国を中心に勢力を広げた。父の為義は義朝の軍事的才能や出世の早さなどを妬んで深刻な不仲となり、動きを牽制する意味もあって弟の義賢(木曽義仲の父)を北関東に派遣したと推定できる。
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その後は長子の義平に義賢を討たせ、同じ河内源氏で北関東を制していた足利・新田連合と同盟。保元の乱(1156)では清盛と共に後白河天皇側に味方して崇徳上皇側の父や兄弟と戦って勝利し、降伏した父と五人の弟を斬るという凄絶な戦後処遇を経験している。
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やがて後白河院政派と二条天皇派の権力闘争が勃発する。平治元年(1159)12月、二条親政派の藤原信頼に加担した義朝は清盛が熊野参詣で京を離れた軍事的空白を狙ってクーデターを起こすが兵力の不足により惨敗。一族は壊滅し義朝は洛北を経て尾張に逃れるが、野間で庇護を受けた昔の家臣長田一族に殺された。勇猛ではあるが粗暴な武人、政治的な判断能力にはやや欠ける人物だった、らしい。
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男子に義平(乱の後に斬首)・朝長(敗走中に自害)・頼朝・義門(平治の乱で戦死か)・希義(土佐で挙兵し戦死)・範頼・全成・義円(墨俣で戦死)・義経がある。墓所は知多半島の
野間大坊にあり、頼朝が遺骨を納め法事を営んだ鎌倉雪ノ下の
勝長寿院(南御堂)跡にも近世の慰霊墓がある。
源 義賢 不詳(1124年前後?)~久寿二年(1155) 没年齢 33歳前後?
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源為義の二男で義朝の異母弟。東宮護衛官である帯刀舎人(たちはきとねり)の長を勤めていたが殺人事件の犯人に関与していた嫌疑で免職。関東で勢力を伸ばしていた義朝に対抗させるため父為義の意向で北関東に派遣され、上野国の
多胡館(現在の吉井町)一帯に本拠を置いた。
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その後に秩父重隆(武蔵国衙の実質的な長である留守所惣検校職重綱の二男で嫡子)の婿として武蔵国比企郡大蔵の重隆館に入った。重隆は河内源氏嫡流の貴種性を重んじて勢力の拡大を図り、義賢は南関東に進出する足掛かりにしたと思われる。この行動によって為義の代理を務める義賢と義朝の敵対関係が決定的となり、鎌倉を本拠にしていた義朝の長男悪源太義平が大蔵館に攻め込んで重隆と義賢を殺した(大蔵合戦)。
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これは源氏内部での主導権争いと同時に地域の覇権争いでもあった。利根川を挟んで衝突を繰り返していた重隆vs新田・足利連合の争いであり、同時に重隆に秩父平氏の嫡流を奪われたと考える重能(重隆の甥、重忠の父)の失地回復・報復戦でもあった。
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義賢の嫡男は母と共に京にいたため難を逃れ頼政の養子となって仲家を名乗った。大蔵鎌形の
義賢下屋敷にいた駒王丸(後の義仲)とその母・山吹御前は畠山重能と齋藤実盛の尽力により助命され、乳母夫の中原兼遠の所領
木曽谷で成長している。
武蔵大蔵の鎌倉街道沿いに
館の跡と墓所が残されている。墓石の素性は必ずしも確かではない。
源 雅頼 大治二年(1127)~元暦元年(1190) 没年齢 64歳前後
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白河院の近臣だった村上源氏(第六十四代村上天皇の皇子の系)の源雅兼(従三位・中納言)の子。母は源能俊(参議・大紊言)の娘。後白河天皇に仕えて中納言・正二位まで登った学識の深い公卿。摂関家の藤原忠通と親しく、忠通の子九条兼実(玉葉の著者)とも親交があった。
文官として頼朝に仕えた中原親能が京にいた頃には雅頼に仕えており、親能が雅頼の次男兼忠の乳母夫だった関係から頼朝と朝廷の調停役として働き、特に藤原(九条)兼実と頼朝との仲介役として欠かせない存在になった。
源(志太・志田) 義憲(義範・義廣) 不詳(1129年前後?)~元暦元年(1184) 没年齢 53歳前後
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源為義の三男で生母は六条大夫重俊の娘。若い頃には兄義賢と同様に帯刀先生(皇太子の近衛隊長)を勤め、後に関東へ下り常陸国志太荘(茨城県稲敷市)を本拠地とした。大蔵合戦で義賢が殺された後は志太荘の管理に専念し、保元と平治の乱を通じて常陸から動かなかった。頼朝が富士川合戦の後に佐竹秀義の金砂城を落とした時に頼朝に面会したが合流はせず、その後も常陸南部で勢力の拡充に努めた。
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寿永二年(1183)には藤姓足利氏と共にアンチ頼朝で挙兵したが下野で敗れて兄義賢の子・義仲に合流、義仲は生涯を通じて叔父にあたる義憲を庇護し続けた。元暦元年(1184)に宇治川で義経率いる鎌倉軍に敗れ、更に伊勢に逃れて抵抗を続けるが合戦の後に捕われて斬首された。
源 為朝(鎮西八郎) 保延五年(1139)~嘉応二年(1170) 没年齢 31歳
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源為義の八男、母は摂津国江口の遊女。義朝の異母弟で、強弓で名吊高い。粗暴さのため父為義により13歳で九州筑紫に追放され、鎮西八郎を名乗った。
更に続いた為朝の乱行が原因で 為義は久寿二年(1154)に検非違使を解任されている。
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保元の乱(1156)に際しては父為義とともに崇徳天皇・左大臣藤原頼長の陣営に加わり、後白河天皇・関白藤原忠通陣営の兄義朝・平清盛と戦って敗れた。この合戦で義朝の郎党大庭景義(景親の兄)の膝を鏑矢で砕き歩行不能にしたことでも知られる。
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保元の乱に敗れた父為義は斬首、為朝は伊豆大島へ流されたが島内を制圧し近隣諸島を従えて乱行を続けた、と伝わる。嘉応二年(1170)に伊豆の国司工藤(狩野)茂光の上奏により、茂光を大将とする伊豆近在武士団の討伐軍に攻められ自殺した。沖縄へ渡って鬼を従えたとの伝承も残されている。娘の一人が足助重長
※の室となり後の歴史に名を残している。
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※足助重長: 河内源氏の郎党で三河国加茂郡足助荘(豊田市の奥三河地区・三州街道沿い)の世襲荘官を務め治承五年(1181)の
墨俣川合戦で戦死または捕殺された
されたらしい。為朝の娘との間に産まれた娘が二代将軍頼家の正室・辻殿として三代将軍実朝を殺害した公暁を産んだ(正室は一幡を産んだ若狭局(比企能員の娘)説あり)。
鳥居禅尼 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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源為義の娘で義朝の異母姉または異母妹、十郎行家の同母姉。熊野新宮の社僧として神官などを束ねていた行範(16代熊野別当長範の嫡子)の室として6人の男子と4人の娘を産み、娘の一人は18代熊野別当湛快の次男湛増(21代熊野別当)の妻となり、夫の行範は19代熊野別当に任じた。夫の死後も一族に強い影響力を保ち、熊野水軍と僧兵によって平家追討に貢献した恩賞として各地の地頭職を与えられ、古参の御家人として処遇された。鳥居禅尼の存在によって新宮別当一族は鎌倉幕府の強い庇護を受け、生涯を通じて代々の別当を含む熊野三山に影響力を持ち続けた。
源 行家(義盛) 久安元年?(1145?)~文治二年(1186) 没年齢 41歳前後
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源為義の十男で義朝の末弟、頼朝の叔父、本名は義盛。熊野新宮に住んだ経緯から新宮十郎と名乗り、後に(十郎蔵人)行家と改名した。
平治の乱(1159)では義朝に従って参戦して敗れ逃げ延びて姉(後に熊野別当になる行範の室、鳥居禅尼、)の嫁ぎ先の熊野に雌伏して20年を過ごす。治承四年(1180)に源頼政に呼ばれ以仁王が発した平家追討の令旨を全国の源氏に伝える任に当った。
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頼朝の挙兵後は麾下に入らず独自の動きを続け、養和元年に墨俣川合戦・尾張と三河の合戦で平家軍に大敗し鎌倉に逃れた。褒賞を拒まれたため常陸の志田義廣に転じ、義廣が頼朝に敗れた後は共に木曽義仲軍に加わった。これが頼朝と義仲が疎遠になった原因の一つとなった。その後は義仲とも不和になり、頼朝に追われた義経と手を組んで頼朝追討の院宣を受け抵抗するが、和泉国で捕縛され嫡男らとともに斬首された。生涯を通じて行動が一貫せず、欲が深いにも関わらず才能の不足を感じさせる人物。
源(悪源太) 義平 永治元年(1141)~永暦元年(1160) 没年齢 20歳
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義朝の長男で頼朝にとっては長兄(異母兄)。母は三浦義明の娘とも、京都橋本の遊女が三浦の養女として義朝に侍ったとも伝わる。出自が低いため早くから嫡子として扱われていなかった。妻は新田義重の娘(後の妙満尼)。京都で成長後に13歳で東国へ下り、義朝と北関東で勢力を争っていた帯刀先生義賢(義朝の弟)を武蔵国大蔵合戦で殺した。14歳ながら、鎌倉悪源太義平として勇名を馳せている。
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平治の乱(1159)では父義朝に呼ばれて2人の異母弟朝長・頼朝と共に参戦したが敗北した。東国へ落ちる途中の青墓で父の命令を受けて別行動をとり飛騨へ向かったが、義朝死没を知って京都へ戻り清盛を狙って潜伏、近江石山寺近くで捕らえられ、六条河原で斬られた。首は妻である新田義重の娘が新田に持ち帰って葬ったと伝わる。古い墓石が新田の
清泉寺に残っている。
源 朝長 康治二年(1143)~平治元年(1160) 没年齢 17歳
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義朝の次男で頼朝にとっては次兄(異母兄)。母は波多野義通の娘とも、波多野氏の養女となった遊女とも言われる。当初は義朝嫡子の扱いを受け、義通本領の松田郷(御殿場線松田駅近く)には広大な屋敷があった
※。周辺には松田惣領、松田庶子などの地名があり、酒勾川沿いには義通の弟・秀高の居城・河村城址などが見られる。足柄峠に続く古道が通っていたルートである。
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※朝長の松田邸: 吾妻鏡の治承四年(1180)10月25日に
「(富士川合戦後に)頼朝は松田御亭(朝長の旧邸)に入った。中村庄司宗平が命令を
受け補修を済ませていた屋敷で、柱間のスパンは25、萱葺きである」と書いているから相当な広さだったらしい。
ただし頼朝は10月21日に黄瀬川の陣で義経と面会、23日には相模国府(大磯)で富士川合戦の論功行賞を行っており、松田邸に入るためには国府から20kmほど西に戻る必要がある(国府から鎌倉までは反対方向に27km)。黄瀬川驛と相模国府を結ぶ当時の主要道は足柄道だから、吾妻鏡が記録した順路には疑問が残る。
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平治の乱(1159)では父・義朝と兄義平・弟頼朝と共に参戦したが敗北、東国へ落ちる途中で傷を負い美濃青墓で自殺した。捕虜となるのを嫌って父に懇願し討たれた、あるいは足手纏いを嫌った父が殺した、とも伝わっている。頼朝の誕生によって嫡子扱いから外されたため義通が義朝と疎遠になり、一時的に関係は復活したが嫡子の義常は20年後の頼朝挙兵に協力せず、富士川合戦の直前に滅ぼされている。
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墓所は大垣市青墓の円興寺旧跡そば(義朝累代の臣・大炊家菩提寺)にあるがこれは胴塚あるいは供養墓で、円興寺に葬られた首は追討軍の兵士に掘り出され京に送られている。後に守役の大谷忠太が盗み出して本領の袋井市友永の積雲院(首塚がある)に葬った、とも伝わっている。
源 頼朝 久安三年(1147)~正治元年(1199) 没年齢 53歳
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河内源氏の嫡流、棟梁義朝の三男、義平・朝長の異母弟、義門・希義の同母兄、範頼・全成・義円・義経の異母兄、母は熱田の大宮司藤原季範の三女、誕生したのは京都(推定)、通称は佐殿・武衛など。朝廷が主導する貴族社会を倒して初の武士政権を樹立した。
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平治元年(1159)に平治の乱で敗北。長兄義平は敗走途中で京都に戻り清盛を狙うが捕らわれ斬首、次兄朝長は負傷して自決、父の義朝は元の家臣に裏切られ知多で憤死、関が原で捕縛されて六波羅に送られた頼朝は清盛の継母である池禅尼の嘆願で助命され14歳で伊豆の韮山に流された。実際には藤原季範や後白河院、主筋である上西門院らの意向があったとの推定、あるいは死罪に処するほどの存在ではなかったと考える説もある。
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乳母の比企尼(武蔵国の武士・比企掃部允妻)、その長女と夫の安達盛長、二女と夫の河越重頼、三女と夫の伊東祐清夫妻らの援助で数年を韮山で過ごし、20歳前後には伊東に入り伊東祐親の庇護を受けたと推定される。曽我物語によれば、この頃に祐親の四女と通じて承安三年(1173)には第一子となる千鶴丸を産ませたが、京都大番役から戻った祐親に討手を向けられ、祐清の手引きで伊豆山に逃亡した。
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その後は韮山に戻り、安元三年(1177)には時政長女(後の御台所政子)に女子を産ませた。頼朝にとっては第二子の大姫である。治承四年4月の以仁王・頼政の挙兵によって清盛が諸国の源氏追討令を発行、治承四年(1180)8月には近隣の武士を集めて挙兵し下総を経て鎌倉に入った。
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元暦元年(1184)1月には同族の木曾義仲を滅ぼし、同年の3月には壇ノ浦で平家を滅ぼし、文治五年(1189)には奥州藤原氏を滅ぼして全国を統一し、征夷大将軍に就任。その間には異母弟の義経と範頼を滅ぼし甲斐源氏の勢力を弱めて政権の基盤を安定させている。
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建久四年(1193)前後から朝廷への接近が見られ、翌年に大姫の入内工作・翌々年に一族で上京するなどの行動で関東武士団の反感を受けたとする説もある。建久九年(1199)12月に稲毛重成が亡妻追善のため架けた
相模川橋供養の際、あるいは帰路に落馬し、翌年1月13日に病没。吾妻鏡には死没前後の記録が欠落しているため死因と事故の内容については諸説がある。私は単細胞だから、東国武士団有志による暗殺説。幕府は既に安定期に入っており、担ぎ上げた独裁者が貴族社会への回帰を目指したら排除するのが最善と判断したのだろう。
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1204年には頼家、1219年には実朝も同様に殺されている。洋の古今東西を問わず、殺人によって最も利益を得た者を疑うのが鉄則だ。
墓石は鎌倉雪ノ下の高台にあるがこれは江戸時代に島津家が造ったものであり、当初の墓所は埋葬した上に立てた法華堂(後に焼失)とされる。現在の層塔は安永年間(1772~1780)に八幡宮寺25坊(房)の一つ荘厳院の僧が勝長寿院跡の荒廃地から運んだもの、らしい。
坊門姫 久寿元年(1154)~建久元年(1190) 没年齢 36歳 誕生は久安元年(1145)説もある。
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源義朝の娘で頼朝の同母妹。平治の乱で一族が没落した後は義朝の遺臣後藤実基に育てられ、成長して一条能保(当時は低位の貴族)の正室となった。仁安二年(1167)に娘(後の九条良経室)、安元二年(1176)に能保の嫡子となった高能を産んでいる。頼朝と同母の兄弟姉妹で生き残っていたのは坊門姫のみであり、この関係によって一条能保は鎌倉と朝廷の重要な接点として活躍し従二位・権中納言まで昇進することになる。
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更に彼女の娘の一人は九条良経(従一位 摂政・太政大臣)に嫁して九条道家と順徳天皇の中宮立子を産み、もう一人の娘は西園寺公経に嫁ぎ西園寺実氏(従一位・太政大臣)と倫子を産んだ。九条道家と倫子(共に坊門姫の孫)が結婚して産んだ子の一人が三寅、成長して嘉禄二年(1226)に鎌倉幕府四代将軍となった藤原頼経。その妻は15歳年上の竹御所(頼家の娘・生母は比企能員の娘若狭局)、頼朝の血を受け継ぐ最後の一人である。
源 義門 久安五年頃(1149頃)~平治元年頃(1160頃) 没年齢 12歳前後
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源義朝の四男で頼朝の同母弟とされているが資料が少なく詳細は不明。平治の乱が勃発した頃に官位(宮内丞・当時の宮内省)を受けているため、その後の戦乱の中で死んだと推測される。
源 希義 仁平二年頃(1152頃)~治承四年(1180) 没年齢 38歳前後
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源義朝の五男で頼朝の同母弟。
平治の乱の終結後に駿河香貫(沼津)で捕えられ土佐に流された。平家討伐の機運が高まった寿永元年(1182)、土佐国夜須荘の武将・夜須行宗を頼って挙兵を計画したが平家方に察知され殺害された。行宗は辛うじて鎌倉に脱出、頼朝の命を受けて鎌倉軍を先導し土佐の平家を討伐した。頼朝は西養寺を建てて希義の墓所とし、嫡男の希望に吉良荘を与え相続させた。希望は吉良氏の祖となっている。
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頼朝が挙兵した治承四年の8月には土佐国は平重盛の知行国であり、希義が頼朝に呼応するのを警戒して蓮池家綱、平田俊遠等に討たせたとも言われる。遺骸は放置されたが、介良荘の僧により葬られた。僧は鎌倉で頼朝に会い、援助を受け荘内に西養寺を建てた。西養寺は明治初期に廃寺となったが寺の跡には希義の墓が残Zている。詳細は
土佐の歴史散歩(参考サイト)で。
源 範頼 久寿三年頃(1155頃)~嘉応二年(1193) 没年齢 38歳前後
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源義朝の第六子、母は遠江国池田宿(磐田市池田。現在では天竜川の東岸だが当時の流路では西岸)の遊女とされる。妻は安達盛長の娘、源義平と頼朝には異母弟、義経には異母兄に当り、母の故郷遠江国蒲御厨で育ったため蒲冠者・または蒲殿と呼ばれた。
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治承四年に頼朝が挙兵すると直後に旗下に入って志田義広を下野に破り、義経と連合して元暦元年(1184)に近江で木曾義仲を討伐、翌年には平家を壇ノ浦で滅亡させた。そのまま九州に留まって特に問題も起こさず、義経のように頼朝の猜疑心を受けることはなかった。
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しかしその後に義経討伐命令を回避し、更に建久四年(1193)に富士の裾野で起きた
曽我兄弟の仇討ちの際に頼朝死没の誤報が鎌倉に届き、「私がいるから安心です」と政子を慰めたため(これは保暦間記のみの記事で信頼性は乏しい)後継を狙っていると疑われて
伊豆修禅寺に幽閉された。ただし範頼謀反嫌疑事件は捏造で、範頼排除は計画的なものと考える説がある。吾妻鏡は「頼朝の考えを探るため郎党を送って調べさせたのが露見し溝を深めた」と記述している。
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同年8月には頼朝の向けた梶原景時指揮の手勢に攻められ
庵(信功院)に火を放って自刃。慰霊墓は修禅寺の西に残るがバイパス工事のため移転・再建したもの。近くには舅であり友人でもあった
安達盛長の墓もある。舅の安達盛長の手引きで北本の石戸に逃れた、或いは相模の大寧寺(金沢区片吹・墓石あり)まで逃れて自刃、或いは河野氏を頼って伊予へ逃れた、などと伝わっているがいずれも伝承の域を出ない。
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埼玉県吉見町の伝承に拠れば範頼は平治の乱で父・義朝が敗れた後に岩殿山(東松山市)に逃れて比企氏の保護を受け、頼朝が鎌倉に入った頃には
息障院(吉見町御所)に居館を構えていた、とされる。範頼没後は嫡子範円(範国とも)~為頼~義春から義世が住み吉見を姓とした、と。
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「鎌倉年代記」の永仁四年(1296)11月20日には
三河守範頼の四代目であり吉見三郎入道頼氏の子・吉見孫太郎義世が謀反の罪で良基僧正と共に捕らえられた。義世は龍の口で首を刎ねられ、良基は奥州に流されたとあり、年代記を基礎に編纂された保暦間記にも同様の記載がある。
阿野 全成 仁平三年(1153)~建仁三年(1203) 没年齢 59歳前後
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源義朝の七男で生母は常盤御前、幼名を今若丸。頼朝と範頼は異母兄、義圓と義経は同母弟、廊御方は異父妹、一条能成は異父弟。
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父義朝の敗死後は醍醐寺で出家させられ全成と名乗った。頼朝の挙兵と同時に寺を脱出して関東を目指し、箱根権現で石橋山を敗走した佐々木兄弟に出会って海老名の渋谷重国の庇護を受けた後に鎌倉に合流、武蔵国長尾寺を与えられた。
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平家討伐後は駿河国阿野庄を得て井出に居館を構え、政子の妹保子(阿波局)を妻とした。保子は頼朝の次男千幡丸(実朝)の乳母となり、幕府での着実な地位を築いた。頼朝が没して頼家が将軍職を継ぐと妻の実家・北條氏寄りの立場だった全成は頼家に憎まれ、建仁三年(1203)5月19日に武田信光に捕縛され常陸国に配流、6月23日には八田知家に斬られた。墓所は所領だった沼津市井出の
大泉寺に残っている。
源 義圓 久寿二年(1155)~養和元年(1181) 没年齢 27歳
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源義朝の八男で生母は常盤御前、幼名を乙若丸。頼朝と範頼は異母兄、全成と義経は同母の兄と弟、廊御方は異父妹、一条能成は異父弟。
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父義朝の敗死後は圓城寺(大津三井寺)で出家させられ圓成と名乗った。治承4年(1180)の頼朝挙兵に呼応して加わり、翌治承5年に尾張で挙兵した行家の援軍として1000騎を与えられ、総勢3000騎で岐阜墨俣川東に布陣した。平重衡率いる平家軍7000騎と対峙したが功を焦り、夜間に渡河して潜んでいるのを発見され平家軍侍大将の一人・平盛綱に討ち取られた。
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大垣市の
墨俣川古戦場近くに墓所と義圓地蔵があり、毎年3月10日に慰霊祭が行われている。
ちなみに、この合戦で源氏軍は惨敗。両軍併せて700人近い戦死者を出す激戦だった。近くには鎌倉街道の旧跡があり西行法師の和歌や阿仏尼の十六夜日記にも記載がある。墨俣一夜城の跡も近い。
源 義経 平治元年(1159)~文治五年(1189) 没年齢 30歳
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源義朝の九男で母は九条院
※の雑仕女(雑役などを受け持つ下級女官)の常盤、頼朝と範頼は異母兄、全成と義圓は同母兄、廊御方は異父妹(父は清盛と伝わるが異説あり)、一条能成は異父弟。全成と義圓は同母兄。幼名は牛若丸→遮那王、
鏡の里で元服し源九郎義経・九郎判官。
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※九条院: 太政大臣藤原伊通の娘で生母は権中紊言藤原顕隆の娘。美福門院得子の養女となった後に関白藤原忠通の養女を経て20歳の時に
近衛天皇の中宮となった。雑仕女に美女を望み、1000人から100人、更に10人の美女をセレクト。その中でも屈指の美女が常盤御前だったと伝わっている。雑仕女の採用に普通はそこまでやるか?と思うけど。平治物語もいい加減な部分が多いからねぇ...
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母は平治の乱の後に平清盛の妾になり、後に一条長成に再嫁。牛若丸は出家を条件に死罪を免れ9歳で鞍馬寺に入り遮那王と改名、成長して一条長成の縁戚
※に繋がる藤原秀衡の許に逃げ庇護を受け約10年を過ごした。
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※長成の縁戚: 長成の母方の従兄弟藤原忠隆の息子が藤原基成。陸奥守に赴任して二代基衡と親しく交わり娘を秀衡に嫁がせて奥州藤原氏が
滅亡するまで政治顧問を務めた。吾妻鏡は「泰衡の兵が基成の衣河館を攻めて義経を殺した」と書いている。
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頼朝の挙兵に際しては秀衡の与えた佐藤兄弟を含む精鋭80騎(異説あり)と共に参戦して平家追討に多大な功績を挙げた。寿永二年に義仲を討伐、翌三年には
一の谷合戦で平家軍を破り京都に凱旋するが、頼朝の許可なく官位を受けたなどのため解任された。
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その後に源氏軍の戦況が悪化したため元暦二年(1185)には平家追討に再任され
壇ノ浦合戦で一門を全滅させたが、安徳天皇と共に神器も失い御家人との対立もあったため再び頼朝の信頼を失い、鎌倉入りを許されなかった。
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同年10月に京都堀河館で頼朝の刺客土佐坊昌俊(義朝の従者だった金王丸説あり。真偽は不明)に夜討ちされ頼朝と決別。叔父の行家と結んで後白河法皇から頼朝追討の院宣を得るが頼朝が直ちに兵を送ったため京都を脱出し、関西の各地を逃げ回った後に再び秀衡を頼って奥州へと落ちた。頼朝は大江廣元の献策を容れ、義経の捜索を名目にして各地に守護を置き、結果として政権の基盤を強化する副次効果をもたらしている。
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2年後の文治三年(1187)に秀衡が死に、翌々年には頼朝の強い圧力を受けた秀衡嫡男の泰衡が義経の
衣河館(高舘説・衣川北岸説あり)を攻め義経と妻子は自殺、首は鎌倉で確認されたのが最後となる。義経に関しては生存説を始め数々の伝説が生まれた。
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義経北行伝説は室町時代からあり、義経=ジンギスカン説は大正十三年(1924)の小谷部全一郎「成吉思汗ハ源義経也」が最初と言われるが、シーボルトが通詞の吉雄忠次郎から聞いた話を帰国後の1832年に著した「日本」で紹介しており、江戸時代末期には既に流布していたらしい。近年では高木彬光が1958年に著した「成吉思汗の秘密」が良く知られている。ただし、推理小説の域は出ていない。
千鶴丸 承安元年(1170)~承安三年(1173) 没年齢 数え3歳
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頼朝23歳での最初の子、母は伊東祐親の四女(三女説あり)八重。曽我物語に拠れば、頼朝は伊豆韮山で数年を過ごした後に伊東に移り、祐親の庇護を受けて
北の小御所に住んだ。JR伊東駅の北側、
松月院の山裾あたりと推定される。
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頼朝は祐親が大番役で在京の間に八重と通じ産まれたのが千鶴丸で、数え三歳の時に京都から伊東に戻った祐親は平家の思惑を憚り家臣に命じて松川上流の
稚児ヶ淵に幼児を沈めて殺し、頼朝に討手を向けた。頼朝は祐親の次男祐清の知らせで
伊豆山権現に逃げ、その後に韮山に戻り4年後の安元三年(1177)には北條時政の娘政子に大姫を産ませている。この事件の詳細は「鎌倉時代を歩く・壱」の
こちらで。
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千鶴丸が生き延びたとする伝承は多く、最も知られているのは奥州へ逃れて忠頼を名乗り、死後に息子の忠朝が陸奥国和賀の家督を継いで和賀忠頼を名乗った、とされるもの。伊東漁港に近い
弘誓寺の寺伝が詳しい。「誰々が実は生きていた」とする類は多く、その中の一つと考えるべき、か。
大姫 治承二年(1178)~建久九年(1198) 没年齢 20歳
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「大姫」は身分の高い人物の長女を指す普通名詞だが、この項では流人として伊豆韮山にいた頼朝が北條時政の長女政子に産ませた長女(通称は不明)を差す。頼朝の第一子は伊東祐親の娘が産んで三歳で早世した千鶴丸、政子が産んだのは二代将軍の頼家と三代将軍実朝、大姫、14歳で病死した乙姫、異母弟に藤原朝宗の娘が産んだ貞暁がいる。
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寿永二年(1183)・6歳の春に和睦して鎌倉の人質となっていた木曽義仲の嫡男義高と婚約して睦まじく過ごしていたが、頼朝は翌元暦元年に大津で義仲を滅ぼし、後の禍根を防ぐため鎌倉から逃亡した義高も殺した。この時から大姫は心身を病み、その後の縁談を全て拒んで病床に就く事が多くなった。
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大姫17歳の建久六年(1195)に家族を伴い上京した頼朝は大きな代償を費やして後鳥羽天皇妃として入内の工作をするが、大姫は病床のまま20歳で死没。この事件は肉親に甘い頼朝の性癖と共に、清盛同様に天皇の外戚として貴族の頂点に登りたかった頼朝の発想の限界とする説が多い。ひょっとしたら同年12月の末に起きた頼朝死没事件は朝廷との接近を警戒した関東武士連合による暗殺だったのかも...などと思わせる。
乙姫 (三幡) 文治二年(1186)~正治元年(1199) 没年齢 14歳
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字は三幡、頼朝の二女で頼家の妹、実朝の姉。頼朝は大姫の入内を計画していたが大姫が建久八年(1997)7月に病没したため乙姫を次の入内候補と考えた。女御(皇后は女御から昇進する慣例)の称を与え、共に上洛し併せて朝廷への関与を深めようとしたらしいが、建久十年(1199)1月13日に死没、同年3月30日には乙姫も病没した。急遽京都から戻った乳母夫の中原親能は出家し、乙姫の亡骸は亀谷堂(大姫の護持仏を祀った
岩船地蔵堂か)の傍らに葬られた。
源 頼家 寿永元年(1182)~元久元年(1204) 没年齢 23歳
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鎌倉幕府第ニ代将軍、幼名は万寿、源頼朝の嫡男、母は平(北條)政子。建久十年(1199)の頼朝の死によって源家棟梁を相続し、建仁二年(1202)に征夷大将軍となった。正妻は比企能員の娘・若狭局(吾妻鏡は正妻を足助重長の娘(公暁の生母・辻殿)としている。ただし嫡子扱いされているのは若狭局の産んだ一幡なので、誕生に伴って正妻の立場が辻殿から若狭局に移ったらしい。
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一幡を産んだ娘の一族である比企氏を重用し独断と気侭な決裁が多かったため反発を受け、家督相続の三ヶ月後には北條時政を筆頭とする御家人連合により訴訟決裁権を剥奪され、以後の政務は幕臣13人の合議制となった。ただしこの間の吾妻鏡には乱行の類が記録されておらず、「将軍に適さない性格」を捏造した可能性もある。体が弱く政治的な能力も乏しかった逸話が多く残されているが、これらは基本的に頼家を失脚させた時政サイドの情報であり、北條独裁を目指す動きが背景にあった事実を見る必要がある。資質ではなく、傀儡であれば殺されずに済んだということ。
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建仁三年の7月20日に突然の病気で重態に。8月27日に関東を嫡子の一幡・関西を弟の実朝が分割相続する重臣合議がされたが比企能員がこれに反発、9月2日には北條の兵による
比企邸焼き討ちで一族が全て討伐された。病気から回復した頼家は嫡子と舅が殺されたのを怒って北條討伐を計画するが、同年9月29日に全権を奪われて
伊豆修禅寺に幽閉、翌年夏に暗殺された。時政の送った刺客による犯行と推定される
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同所には廟と共に政子が慰霊のため建立した
指月殿や
頼家廟や庵の跡など旧跡が残っている。乱が集結した後の若狭局の消息は不明だが比企郡には
比企禅尼と若狭局の伝説も残っている。ただし、その真偽は不明。
貞 暁 文治二年(1186)~寛喜三年(1231) 没年齢 46歳
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頼朝の三男(千鶴丸、頼家、貞暁、実朝の順)、生母は大倉御所の女房で常陸入道念西の娘・大進局。政子の怒りを恐れた頼朝の配慮で家臣宅で出産したが政子に知られ仁和寺に入って出家、更に高野山で修行を続けた。一族が次々と落命する中で世俗に加わらず仏法を学び、甥にあたる公暁の師も務めている。晩年には政子も帰依し、出仕を命じて源氏一族の菩提を弔わせた。一説に、実朝の没後に四代将軍就任を政子に打診され、自ら片目を抉り出して拒んだと伝わる。政子は二度と貞暁を疑わなかった、と。高野春秋(高野山の編年史)は、自ら片腕を斬り落し出血のため死んだ、としている)。
最後に残った頼朝の男子の血筋は貞暁で途絶え、更に三年後の竹御所(鞠子)の死で女系の血筋も途絶えた。
源 実朝 建久三年(1192)~建保七年(1219) 没年齢 27歳
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鎌倉幕府第三代将軍、幼名は千幡、源頼朝の四男、母は平(北條)政子。建仁三年(1203)に失脚した兄頼家の跡を継いで12歳で将軍となったが政務の権限は執権北條氏が掌握しており、傀儡の権威に過ぎなかった。和歌に傾注したのも環境によるストレスからだろう。
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後半生は京都への傾斜を強め、内大臣坊門信清の娘を娶った。子はなかったこともあって晩年は官位の獲得に専念し、朝廷に接近する姿勢を強めたため北條専制を目指す執権の北條義時にとって好ましくない存在となった事が想像される。
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建保六年(1218)に右大臣に昇進。翌年の冬に鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式を行った帰路の境内で甥(頼家の子)の
公暁により暗殺された。三浦義村黒幕説や北條義時黒幕説があるが、個人的には義時が描いた筋書き通り、と考える。
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公暁が抱えていた首は三浦の家臣によって秦野の金剛寺近くに葬られ
実朝の首塚として残っている。胴は遺髪と共に勝長寿院(南御堂)に葬られたが後に
寿福寺に改葬された。暗殺前後の経緯に関して解明されていない謎が多く残っている。
一 幡 建久九年(1198)~建仁三年(1203) 没年齢 5歳
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鎌倉ニ代将軍頼家の嫡男。母は比企能員の娘若狭局で、吾妻鏡では側室と書かれているが一幡は嫡子として扱われている。一幡が産まれるまで正室とされていた辻殿(足助重長の娘)との立場の違いは判らない。
比企一族は将軍の外戚として急速に勢力を拡大し、それを危惧した北條時政は頼家が重病(毒殺未遂の可能性あり)になった時に一幡と千幡(後の實朝)による分割相続を画策、反発した能員を自宅に招いて謀殺し比企館(現在の妙本寺)を焼き討ちにして一族を滅亡させた。一幡は館で焼け死んだとも、若狭局が連れて脱出したところを時政の郎党が刺し殺したともされる。妙本寺には比企一族の墓と焼け残った一幡の衣類を葬った袖塚、若狭局所縁の蛇苦止堂などが残っている。この事件の詳細は「鎌倉時代を歩く・参」の
比企の乱の項を参照されたし。
公 暁 正治ニ年(1200)~建保七年(1219) 没年齢 20歳
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鎌倉第ニ代将軍頼家の二男(兄は一幡)で、生母は足助重長の娘(為朝の孫娘)。父が修禅寺で殺された後に伯父實朝の養子となり11歳で僧籍に入った。園城寺(大叔父義円も在籍した三井寺)で修行した後に17歳の建保五年(1217)に北條政子の意を受け、鎌倉八幡宮寺別当に着任している。
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建保七年(1219)1月27日、実朝が右大臣拝賀(任官を神に謝する事)のため八幡宮に参詣した退出の時を狙い、同行の源仲章と共に「親の仇である」として殺害し、首を持って八幡宮裏・御谷にある師・備中阿闍梨の坊に入った。その後三浦義村に仔細を伝え「今こそ自分が将軍職を継ぐべきである」旨の書状を送るが義村は北條義時に通報し即刻追討の指示を受ける。公暁は義村の返事が遅いため八幡宮の塀を越えて三浦邸に入るが、義村に追討の命令を受けた長尾定景と雑賀三郎らに遭遇し討ち取られた。
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本来は義時が実朝に従って拝賀に同行する筈だったのに直前に心身異常を訴えて急遽仲章に交代した事、実朝と朝廷の接近が幕府にとって好ましくなかった事、執権義時にとっては実朝と朝廷の仲介者である仲章も邪魔な存在であった事、公暁を捕縛せず即刻の殺害を命じた事などにより、暗殺を影で操ったのは義時だと推量されるが、三浦義村黒幕説や単独犯行説もある。
公暁の首は北條邸に運ばれ義時が実検したがその後の行方は上明、墓の存在も記録されていない。
栄 實 建仁元年(1201)~建保二年(1215) 没年齢 十四歳
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鎌倉第ニ代将軍頼家の三男。一幡と公暁の異母弟で竹御所の異母兄、禅暁の同母兄。母は一品房昌寛の娘。幼名は千寿丸。
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元久元年(1204)の頼家死没後は尾張中務丞の養子として育てられた。建保元年(1213)2月に信濃国の泉親衡が擁立して反乱を企てたが失敗し、日本臨済宗の開祖である建仁寺の開山・栄西の弟子として出家させられた。泉親衡の乱は御家人130人が関わった大規模な計画で、捕えられた使者役の阿静房安念の自白によれば和田義盛の子である四郎義直と五郎義重、更には甥の和田胤長も関係していたという。
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義直と義重は義盛の嘆願により釈放されたが胤長は陸奥国に流罪となり御所の東隣にあった胤長邸は没収され義時に与えられた。当時は公収された屋敷は近親者に与える習慣で、結果として同年七月の和田の乱に繋がったらしい。
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翌・建保二年には京都で和田一族の残党が栄實を擁立して六波羅襲撃を企てるが露見し追討軍を迎えて自刃した。
禅 暁 不詳(不詳)~承久二年(1220) 没年齢 18歳前後?
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鎌倉第ニ代将軍頼家の四男。一幡と公暁の異母弟で竹御所の異母兄、栄実の同母弟。母は一品房昌寛の娘。
父の死後は仁和寺で出家したが八幡宮で実朝を暗殺した公暁の企てに加担した嫌疑を受け、北條義時の討手に殺された。
竹御所 (鞠子) 建仁ニ年(1202)~天福二年(1234) 没年齢 33歳前後
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鎌倉第ニ代将軍頼家の娘。生母は諸説あるが、比企能員の娘若狭局と考えるのが一般的。誕生した翌年に北條時政により比企一族が滅亡し、父の頼家も暗殺された。建保四年(1216)に14歳で叔父実朝の正室信子の養子となり、実朝の死後は頼朝の血を受け継ぐ唯一の存在として、幕府の権威を象徴する役割を担わされた。
寛喜二年・28歳の時に四代将軍頼経(13歳)の正室となり4年後に妊娠するが男子を死産し翌年33歳で病没、この時点で頼朝の血脈は途絶えた。墓所は比企一族の菩提寺である
妙本寺に残る。
八重姫 久安五年?(1149?)~治承四年(1180) 没年齢 32歳前後
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伊東祐親の四女(三女説あり)、祐泰・祐清の姉、政子の叔母(母の妹)、頼朝の最初の愛人、千鶴丸の生母。別吊は「静《だが、これは少し作為っぽい。韮山の伝承は文治二年(1186)に赤子を鎌倉で殺された静御前が京に戻る途中で北條を訪れ、同じ境遇だった八重に同情して堂を寄進した、と。
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仁安ニ年(1167)に流人時代の頼朝(20歳前後か)と通じ、承安元年(1170)に産んだ男子(千鶴丸)は平家を憚った祐親に殺され、八重は江間小四郎(後の北條義時説あり)
※に再嫁させられた。その後に夫に願って千鶴丸の後生を弔うため伊東の音無に西成寺(現在の
最誓寺)を開基。
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治承四年(1180)7月に侍女6人と北條館の頼朝を訪ねるが会えず、狩野川の支流古川の真珠ヶ淵で入水自殺した。遺骸は自殺場所に近い満願寺に葬られたが後に廃寺となり、遺物などは近くの
真珠院に移された。侍女たちも伊東へ戻る途中の
田中山で自害、と伝わっている。
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※義時に再嫁: 義時誕生は長寛元年(1163)だから八重が嫁した時は満11歳前後で疑義は残る。ただし江間小四郎の名は曽我物語と伊東の伝承に
共通して挙がっており、同じ江間に小四郎を名乗り寺を寄進できる財力を持つ人物が二人存在するのも合理性に欠ける。更に伝承は「後に頼朝は江間小四郎を攻め滅ぼしてその息子を義時の養子にした」との、妙に辻褄を合わせたような伝承まで残っている。加えて江間の伝承は「義時の嫡男は北江間の
地場寺に通う途中で蛇に呑まれ、義時は菩提を弔って
北條寺を建てた」としているからねぇ...。
安田 義定 長承三年(1134)~建久五年(1194) 没年齢 60歳
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甲斐源氏源義清の四男。山梨市小原西(現在の山梨市役所付近)を本拠として甲府盆地北東部を支配した。
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治承四年(1180)8月には甲斐への進出を図った駿河目代と俣野景久の軍勢を波志田山(河口湖と西湖の間(
地図)。
甲斐九筋の一つ若彦路ルート)で破り、10月の富士川合戦では惟盛軍の背後を攻めて壊走させた。その後も遠江の守護職や京の警備を経て義経の軍に加わり宇治川の合戦では義仲を敗走させ、更に一ノ谷合戦や奥州征伐にも転戦し功績を挙げている。挙兵後二年間ほどの甲斐源氏の勢力は頼朝の軍事力を凌ぐレベルだったが同族の団結力にはやや問題があり、甲斐源氏には次第に粛清の波が押し寄せる。
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元暦元年(1184)に甲斐源氏の棟梁武田信義の嫡子一條忠頼が鎌倉で謀殺され信義も失脚、文治四年(1188)には信義の三男有義が失脚、建久元年(1190)には同じく二男の板垣兼信が失脚。それに続く安田一族の粛清である。甲斐源氏の勢力は零落し、頼朝に服従した加賀美遠光・浅利義成・石和(武田)信光・小笠原氏・南部氏などが御家人として生き残る道を選んだ。
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建久四年(1193)11月には嫡子の義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、翌年5月には義定も謀反の罪で殺された。吾妻鏡には
「子息義資の誅殺と所領の公収を嘆き謀反を企んだ」とあり、鎌倉で殺されたのか、本領の小田野山(牧丘町)で討死したのかは判らない。
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山梨市下井尻の
雲光寺にある五輪塔が一族の墓所と伝わる。他に恵林寺に近い菩提寺の
放光寺や
小田野山周辺に遺跡が残っている。
安田 義資 不詳(不詳)~建久五年(1194) 没年齢 不詳
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甲斐源氏安田義定の嫡子で通称は田中太郎。文治元年(1185)8月越後守に任じ、同五年(1189)秋の奥州合戦で軍功をあげて翌年の頼朝上洛に従っている。建久四年(1193)11月27日の永福寺薬師堂落慶供養の際に御所の女房(女官)に艶書を届けた件を梶原景時が密告、翌28日に頼朝に命じられた加藤景廉により鎌倉で梟首された。同様に、建久二年から頼朝お気に入りの女官・姫の前に艶書を再三送っていた北條義時が処罰されず、建久三年(1195)9月には頼朝の仲介で婚姻しているのを考えると明白なダブル・スタンダードで、背景に甲斐源氏の弱体化を狙う政治的な意味合いがあったと推測される。
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責任を問われて義定は遠江の所領を没収され、翌年8月に追討されている。元暦元年(1184)の一條忠頼謀殺から始まった甲斐と信濃の源氏粛清は安田義定親子の処分によって概ね完了し、一族は頼朝の支配下に組み込まれる結果となった。義定の五輪塔は
雲光寺の墓所で義定の墓石と並んでいるが死没に8ヶ月以上のズレがあるため真偽の判断はできない。
夜須 行宗 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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土佐国夜須荘(高知県香南市)を本領とした在地の武士。土佐に流されていた源希義が同母兄の頼朝に呼応し行宗の協力を得て挙兵を試みたが平家方に察知され、在地の蓮池家綱と平田俊遠に討ち取られた。行宗は鎌倉に逃れて頼朝の下に加わり、翌寿永二年(1183)に源有綱と共に土佐に入り菊池・平田らの平家与党を滅ぼした。
更に元暦二年(1185)の壇ノ浦合戦では岩国兼秀と兼季兄弟を生け捕る手柄を挙げたが行宗の実績ではないと主張する梶原景時と論争となり、景時は讒訴の罪で罰せられた。建久元年(1191)には正式に土佐の所領を安堵されている。
矢田(源・足利) 義清 不詳(不詳)~寿永二年(1183) 没年齢 不詳
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足利義康の庶長子で妻は新田義重の娘。家督は異母(藤原範忠娘)弟の義兼が継ぎ、義清は上西門院(鳥羽天皇第二皇女・統子内親王)に仕えた。
治承四年(1180)には源頼政に従って以仁王の挙兵に加わり、敗北後は義仲と行動を共にした。寿永二年(1183)7月には平家を追い落として義仲と共に入京、同年の11月に義仲代官として西海の平家追討に出陣、備中水島の合戦で大敗し、海野幸広や義長(同母弟)らと討死した。
矢部禅尼 文治三年(1187)~康元元年(1256) 没年齢 69歳
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三浦義村の娘。建久五年(1194)に北條泰時元服の席で頼朝が「この若者を婿にせよ」と三浦義澄に指示し、義澄は「孫の中から良い娘を選んで御意のままに」と答え、8年後の建仁二年(1202)8月に正室となった。翌年に執権を継ぐはずだった武蔵太郎時氏を産んでいるが、時氏は着任前に27歳で早世している。
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後に泰時とは離縁しているが正確な時期も理由も不明である。泰時が後妻に迎えた安保實員の娘が次男の時實(15歳で早世)を産んだのが建暦二年(1212)だからそれよりも前、わずかに10年弱の結婚生活だった。
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離縁した後に佐原盛連(佐原(三浦)義連の長男)に嫁して光盛(蘆名)・盛時(加納・三浦)・時連(新宮)を産み、夫の没後は所領の三浦矢部郷(三浦市大矢部一帯・
地図)に戻って落飾し矢部禅尼を称した。嘉禎三年(1237)6月には幕府から和泉国吉井郷(岸和田市)が贈与され孫の時頼が下文を届ける使者を務めているから、北條氏との関係が悪化していた可能性は低い。三浦一族が滅亡した宝治合戦(1247)では彼女が産んだ男子(光盛・盛時・時連)は北條側として合戦に加わり、後に盛時は三浦姓を名乗って三浦本家を再興している。矢部禅尼は宝治合戦の9年後に死没。なお再嫁した盛連は酒乱の乱暴者として知られ、嘉禄二年(1233)に京都で起こした暴行事件により翌・天福元年(吾妻鏡欠落)5月に誅された。
山木(平) 兼隆 不詳(不詳)~治承四年(1180) 没年齢 不詳
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伊勢平氏の庶流で三日平氏の乱(元暦元年・1184年)で戦死した平信兼の末子。3人の兄(いずれも義経により討伐)がいる。
治承三年(1179)に父信兼の訴えによって(乱暴狼藉が重なったか?)伊豆韮山の山木郷へ流罪となり、頼政に替わって国司に任じた平時忠の後ろ盾と平家の威光によって流人ながら伊豆目代を称し周辺に勢力を広げた。勝手な僭称ではなく公式な任命だったらしい。
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曽我物語には北條時政の娘政子を巡って頼朝と争ったとあるが、これは創作。政子は治承二年(1178)には頼朝の長女大姫を産んでおり、翌年に韮山に流された兼隆を含めた男女関係のトラブルが起きるのは時系列を考えても理屈に合わない。
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ただし吾妻鏡の治承四年8月4日の条には頼朝が
「且爲國敵。且令挿私意趣給之故。先試可被誅兼隆也。・・・国敵として、また私の意趣のため、まず兼隆を討つ」と語った記載があり、何らかの私怨があった可能性や、もちろん吾妻鏡の編纂者が勝手な加筆を行った可能性も残る。
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頼朝の兵が討ち入った8月17日は三嶋大社の祭礼で留守を預かる郎党が少なく、兼隆勢も善戦はしたが最後には加藤次景廉に討ち取られた。菩提寺は山木の香山寺、平成になってから建てた慰霊墓があるのみで、住職の話に拠れば墓所墓石の類は元々存在しなかったらしい。
山木郷高台の私有地が館跡とされているが、これも根拠に乏しい。子孫が秩父地域に逃れて山木または八巻を名乗ったとも伝わる。
山田(葦敷・源) 重隆 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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清和源氏満政流の武士で尾張を本拠とした山田氏の一族。父の葦敷重頼から春日井郡安食荘(名古屋市北区・
地図)を相続した。源平の戦乱では当初から反平家として戦い、寿永二年(1183)の義仲入京には同族の高田重家や山田重忠らと同行して京都守護の役目を果たし、先祖に縁のある佐渡守の官職を得た。
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ただし共に平家を追い落とした義仲との折り合いは非常に悪く、同年11月の法住寺合戦では多田行綱らと共に院に味方して義仲と戦い、佐渡守を解官されて袂を分かっている。その後の消息は判然としないが、
寿永三年(1184)10月に長門国に駐在する源氏葦敷と名乗る武将が平教盛の軍勢と戦って敗れた との記述が玉葉に見られるため鎌倉勢に加わって転戦していた、と考えられる。
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平家滅亡後は御家人に列して美濃国内の地頭などに任じたが、文治六年(1190)4月に公領の業務を妨げた罪で常陸配流の官符を下された。この時は配所に赴かないため拘束され、その後の処遇は判然としないが、所領没収に近い処遇を受けたらしい。これは重隆の一族が美濃から尾張にかけての要所を本拠にして非協力的な姿勢を貫いたため粛清の対象にされた、と考えられている。
山田 重弘 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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清和源氏満政流の武士で尾張を本拠とした山田氏の一族。山田重隆の父葦敷重頼の弟。
山名 義範 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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新田義重の庶子(二男)で上野国八幡荘の山名郷(現在の高崎市南部の山吊町。義範が勧請した
山吊八幡宮(公式サイト)の一帯)を継承し山吊氏の祖となったが所領も狭く、庶子の中でも弱い立場だったらしい。
父の義重は頼朝への合流が遅れて冷遇されたが、義範は同じ庶子の兄・里見義俊と同じく頼朝挙兵に早くから加わったため源氏一門として「父よりも殊勝である《と優遇され、その後も平家追討・奥州出兵にも加わって功績を挙げている。子孫は天正十八年の秀吉小田原攻めで北条氏に味方し滅亡した。
山内首藤(滝口) 経俊 保延三年(1137)~嘉禄元年(1225) 没年齢 88歳
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藤原秀郷の末裔で母は頼朝の乳母の一人・山内尼、相模国鎌倉郡山内荘(北鎌倉~横浜南部、かなり広大)を本領とした。病気のため平治の乱(1160)には参加せず、父俊通と兄俊綱が源氏勢に加わって戦死したため家督を継いだ。
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治承四年(1180)の頼朝挙兵に際して参加を促した使者
安達盛長に対して拒否したのみならず暴言を吐いた、とされる。ただし吾妻鏡は
「波多野義通と山内首藤経俊は招集に応じないのみならず多くの暴言を吐いた」とあり、暴言の内容とその当事者(義通か経俊か、或いは両者ともか)は書いていない。源平盛衰記などでは
「富士山と背比べ・鼠が猫を襲う、と侮蔑した」事になっているが、脚色だろう。
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更に
石橋山合戦では頼朝に射掛けた矢が鎧の袖に刺さり、後に捕獲されて斬られる筈だったが母の助命嘆願と父祖の功績に免じて許され、御家人に加わった(「吾妻鏡を読む」の治承四年11月26日を参照)。その後は文治元年(1185)4月の無断任官で「役立たず」と罵倒され、更に元久元年(1204)の三日平氏の乱鎮圧に失敗するなど頼朝の評価は低かったが、将軍の乳母子として辛うじて地位を保った。コネは強いねぇ...。
山吹御前 不詳(不詳)~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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大姫の婿として鎌倉に入った義仲の嫡男・清水冠者義高の生母と考えるのが通説で「生母は葵御前」との伝承も根強い。山吹の存在は
鎌形斑渓寺などの傍証で確認できるが葵と巴については殆どが伝承で、複数の女性を組み合わせたフィクションとも言われている。
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平家物語に拠れば、信濃から同行した便女
※の一人で義仲最後の合戦(宇治川~大津)には京都で病気療養中のため同行できなかった。その他、巴の妹とする説や弓の名手として名高い諏訪下社大祝金刺盛澄の娘、倶利伽羅峠での戦死説もあり、詳しい出自は確認できない。
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※便女(びんじょ): 妻妾とは別の存在で、戦場まで帯同し身辺の世話と共に妻妾の代理も務めた。平家物語は「巴も葵も山吹も便女」としている。
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義仲の父・義賢の下屋敷があった嵐山町鎌形の班渓寺寺伝に拠れば、寿永三年(1184)に鎌倉を脱出した義高が
入間川で殺害され、山吹は下屋敷跡に班渓寺を開いて義仲と義高の菩提を弔った、6年後の建久元年(1190)11月22日に病没し本堂の横手に葬られた、とされている。
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入間川は嵐山に至る鎌倉街道沿いにあり、義高が母山吹と落ち合うべく鎌形を目指して逃げた可能性は考えられる。更に想像(妄想?)すれば、母子は鎌形から2km北東の菅谷館
※に住む畠山重忠の庇護を求めた、のかも知れない。久寿二年(1155)に義平が大蔵館を襲撃した時、父の義賢らと一緒に殺される筈だった義仲(当時の駒王丸)を助命して木曽に逃がしたのは重忠の父の重能、両者の二代に亘る因縁を思わざるを得ない。
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※重忠の館: 当時の居館が
菅谷か川本の
畠山かは上明。川本の館だった場合は鎌形からは13km東になる。元久二年(1205)の二俣川合戦で
一族郎党が滅亡した時は菅谷館から出発している。
山本 義経 不詳(不詳)~治承四年(1180) 没年齢 不詳
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近江源氏の武士で父は源義業(義光の嫡男で佐竹氏の祖)の二男義定。父を継いで山本山城(東浅井郡湖北町)を根拠地とし山本を名乗った。
治承四年(1181)8月の頼朝挙兵に呼応し11月に弟の柏木義兼と近江源氏を率いて挙兵、水軍で琵琶湖西岸を制し京へ入ろうとしたが兵力が少ないため自重。翌12月には平知盛の軍勢により近江源氏と美濃源氏は敗北、義経は三井寺に入って戦った後に逃れて山本山城で籠城するが攻め落とされた。その後は鎌倉で頼朝と会見、更に義仲軍に加わったが、義仲が宇治川の合戦で範頼・義経連合軍に敗北した後の消息は不明。
柏木(山本) 義兼 不詳(不詳))~不詳(不詳) 没年齢 不詳
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近江源氏の武士で山本義経の弟。兄と共に平家軍と戦った近江で敗れ、その後は義仲軍に加わって北陸で転戦した。寿永三年(1184)に義仲軍が宇治川で範頼・義経連合軍に敗北した後の消息は不明。
吉田 経房 永治二年(1142)~正治二年(1200) 没年齢 58歳
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藤原北家吉田氏の祖。後白河妃の建春門院や姉の上西門院の側近を務め、更に六条・高倉天皇の蔵人に任じた。その後に清盛の知遇を得て実力を発揮し、治承三年(1179)までは平氏政権の実務官僚として順調な出世を続けるが、正三位に叙された寿永二年(1183)1月の前後から、突然に頼朝の友人として名前が取り沙汰され始める。これは頼朝が東国の支配権を握った頃と重なっているのは偶然とは言えないだろう。
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この理由については幾つかの説があり、兄の信方に続いて二代の伊豆守に任じたため頼朝の舅になっていた北條時政との接点があったこと、また経房と頼朝が上西門院の側近として面識があったことが指摘されている。つまり落日の平家を見切って早めに転身を図ったのだろう、と。
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平家滅亡後は鎌倉と朝廷の調整役をつとめ、頼朝の推薦を得て権中納言に昇進した元暦元年(1184)以後は鎌倉から院や朝廷への要請は大部分が経房を経由した。これが後に「関東申次」として朝廷の役職となり、幕府側の「六波羅探題《と並んで京と鎌倉の間を調整する機関に定着した。
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その後も大過なく、文治元年(1185)に議奏・大宰権帥、建久元年(1190)に民部卿、建久二年(1191)に正二位、建久六年(1195)に中納言、建久九年(1198)に権大納言と、順調に昇進を重ね、頼朝死没の一年後に病を得て死没。日記「吉記」が貴重な歴史資料として残っている。
結城 朝光 仁安三年(1168)~建長六年(1254) 没年齢 87歳
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藤原秀郷の子孫である小山政光の三男。政光の家督を継承した朝政の弟。治承四年10月2日に頼朝の乳母の一人だった小山政光の妻(八田宗綱)に連れられて隅田の宿舎に参上し、頼朝が烏帽子親になって御家人に加えられた。翌年2月の
野木宮合戦で志田義憲・足利(藤姓)忠綱連合軍を破った功績により結城の地頭職を与えられ、結城朝光を吊乗って結城一族の祖となった。頼朝の死没直後には景時の讒訴に反発して御家人の景時糾弾訴状をまとめ、景時追放の端緒を作っている(ただし景時追放は時政による古参御家人排除の一環だった可能性が高い)。
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晩年は出家して一線を退き、親鸞に帰依して
結城称名寺(結城市のサイト・朝光の墓所がある)を建てて信仰生活に入った。宝治合戦(1247)での三浦滅亡の際は80歳の老齢ながら鎌倉で執権時頼に会い、三浦一族の滅亡を嘆いたという。策謀が渦巻く幕府御家人の中では静かな晩年だった。
横山 時廣 生没年 不詳 没年齢 不詳
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平安時代後期に小野氏の末裔である小野義隆が武蔵権守に任じて武蔵国多摩郡の横山荘(東福寺領。中心は現在の八王子市横山町の八雲神社一帯・
地図)に置き、その五代後が時廣と言われている。ただし系図には仮借と思われる部分があり、実際には多摩郡の開発領主だったとする説が一定の評価を得ている。時廣の父小野成綱は治承からの合戦で尾張守護に補任され、時廣は軍功によって所領の横山荘を安堵された。
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一族は武蔵国一円に縁戚関係を広げ、秩父氏・波多野氏・梶原氏・和田氏・渋谷氏・海老名氏・山口氏・愛甲氏・古庄氏・本間氏・田奈氏などを含む武士団を結成して繁栄したが、その縁戚関係に従って和田義盛勢に加わり、嫡子の時兼をはじめとする一族が滅亡。吾妻鏡は「横山の人々」として主な戦死者31人の名前を記録している。合戦後の横山荘は大江廣元に与えられた。
隆 暁 保延年(1135)~元久三年(1206) 没年齢 71歳
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出自は不明だが本姓は源、一条能保の養子となり真言宗仁和寺の寛暁のもとで出家した。建久二年(1192)には法眼として頼朝の庶子(後の貞暁)を弟子に受け入れ、建久五年(1194)に法印に昇叙。正治元年(1199)に大僧都と東寺二長者。通称は勝宝院法印・宰相法印・弥勒寺法印、など。
和田 義盛 久安三年(1147)~建暦三年(1213) 没年齢 68歳
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三浦義明の長男で鎌倉二階堂の杉本寺近くに本拠を構えて三浦の最前線とした椙本(杉本)義宗の子。和田常盛・朝比奈義秀(母は巴御前とする無茶な伝承もある)の父で和田義茂の兄、鎌倉幕府侍所の初代別当。
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義宗は39歳で安房の長狭氏との合戦で受けた矢傷が元で死没し17歳の義盛は義明から三浦郡和田郷を与えられて和田小太郎義盛を吊乗った。三浦氏の棟梁は義澄に継承して嫡流となり、杉本城には義茂が入っている。義澄の生母は秩父重綱の娘で義宗の妻(正確な出自は不明)よりも格上だった事が義盛が三浦氏嫡流にならなかった理由の一つらしい。ちなみに義盛の生母は鎌倉景継(権五郎景政の子で景義の祖父)の娘。
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治承四年(1180)8月には三浦一族と共に頼朝挙兵に参加、鎌倉幕府の開設後も平氏追討や奥州征伐に功績を重ね、治承四年には新たに設置した侍所(軍事・警察を統括)の初代別当(長官)に任じた。建暦三年(1213)には北條義時の挑発に乗って打倒北條のため挙兵。当初は優勢だったが協力して決起を約束していた三浦義村(本家筋の従兄弟にあたる)が参戦の意思を翻し、更に実朝を確保した義時が官軍の体裁を整えたため追い詰められて敗死、一族は滅亡した。この騒動は和田合戦と呼ばれ鎌倉にある和田塚が一族の墓所とされているが、現在では古い古墳の跡と考えられている。
和田 常盛 承安二年(1172)~建暦三年(1213) 没年齢 41歳
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和田義盛の嫡子、弟に朝比奈義秀がいる。
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弓の名手だったと伝わる。二代将軍頼家と三代将軍実朝に仕え、建仁三年(1203)に勃発した比企の乱には父の義盛と共に追討軍に参加した。建暦三年(1213)義盛が決起して北条一族と戦った和田合戦で敗北し敗れて甲斐国まで逃れたが横山時兼らと共に自害した。和田(朝比奈)義秀の項に書いた小坪での相撲については義秀が経盛の行為を恥じたとする評価もあるが、兄弟の他愛もない意地の張り合いと見るべきだろう、と思う。
和田 (朝比奈)義秀 安元二年(1176)~不詳 没年齢 不詳
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和田義盛の次男で常盛の弟。母は巴御前とする伝承もあるが、(巴が実在の女性と仮定して)義仲が戦死した30歳の時に巴が22歳と仮定すると1158年生まれ、義秀を産んだのは木曽にいた18歳の頃という計算になり、辻褄が合わないし、そもそも伝説だけで全く根拠なる資料は存在しない。
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義秀の障害は伝説に彩られており、小坪の浜で兄の常盛と相撲で闘ったことや、鎌倉から六浦へ抜ける朝比奈(朝夷奈)切通しを一晩で開削したなど、様々な寓話を戦記物語が作り上げている。
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吾妻鏡が彼の武勇を伝えているのは建暦三年(1213)5月の和田合戦で、大倉御所南庭に攻め込んで御家人数人を斬り倒し、更に組み合って共に落馬した高井重茂を殺し、北條朝時を負傷させ、逃げ回る足利義氏の鎧の袖を引きちぎって主人を助けようと遮った野田朝季を殺した。
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翌日まで続いた合戦では疲れの見えた和田一族は次々に討たれ義盛も討ち死にしたが義秀だけは死なず、従兵と共に舟で所領の安房にのがれた、と伝わる。その後の消息は不明、幕府が作成した戦死者・捕虜の名簿にも義秀の名前は載っていない。
和田 胤長 寿永二年(1183)~建暦三年(1213) 没年齢 30歳
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和田義盛の弟義長の嫡子で弓の名手、通称は平太。
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建暦三年(1213)2月に勃発した
泉親衡の乱(wiki)の謀議に加わり、義盛の息子二人(四男義直と五男義重)と共に捕縛された。義盛の嘆願により義直と義重は許されたが胤長は許されず陸奥国岩瀬郡(現在の天栄村・鏡石町・須賀川市の西部)に流罪となった。更に没収された胤長の屋敷(荏柄天神社の近く)は通例なら親族に与えられるにも拘らず北條義時が得たため義盛の鬱憤が募り、これが和田合戦の引き金になった、とされる。結果は義盛方の敗北に終わり、胤長も流刑地で斬られている。