源義朝 の郎党として保元の乱を戦った
斎藤實盛 は養父の實直から武蔵国幡羅郡(埼玉県熊谷市)の官牧・長井庄の別当職を継承、新田の開発や灌漑施設の整備に手腕を発揮し、東国の武士からは敬意を込めて長井別当、斎藤別当と呼ばれていた。
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久寿年間(1154〜1156)の長井庄は相模を本拠として北関東に触手を伸ばしつつあった義朝の勢力と、父
為義 の指示を受けて異母兄義朝の勢力拡大を阻止するため上野国に進出した
源義賢、同じ河内源氏の兄弟が支配権を争い周辺の武士団を巻き込んで対立
※を深めていた。武力に依拠した義朝の専横も問題だが、父 為義の無能さによる失策が主な原因である。
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※為義と義朝: 対立の発端は為義と郎党による無計画・粗暴な行動にある。これを嫌った鳥羽上皇が解官に近い対処をした
上に(地盤を固めるため)東国に下向していた義朝に替えて後継者に指名した二男の義賢(東宮帯刀先生、東宮の警備隊長)が失策により罷免された。
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上皇に遠ざけられた為義は摂関家に接近して体勢の挽回を図ったが、久安二年(1146)頃に都に戻って妻の実家の熱田神宮家を通じて鳥羽上皇に接近した義朝が仁平三年(1153)には不祥事を重ねた為義を抜いて下野守に任じた。為義は義朝の勢力基盤を切り崩すため義賢を上野国多胡荘に下向させ、更に秩父氏とのタイアップを目指して武蔵国大蔵館に南下させたのだが...
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義朝に従って保元の乱を戦った實盛だったが義賢は秩父氏の棟梁重隆の娘婿となり、長井庄から僅か20km南の大蔵館(
大蔵館と義賢の墓(別窓)を参照)に拠点を置いて勢力を広げ始めた。秩父重隆と連携した義賢の勢力が北関東に広がるのを危険視した義朝は久寿二年(1155)に長男の
悪源太 義平 に命じて大蔵館を襲撃、義賢と共に
秩父重隆(
畠山重能の叔父)も討ち取ってしまう。大蔵合戦には、秩父氏の嫡流を争う代理戦争の側面もあった。
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義平の配下には秩父重綱の長男として秩父氏棟梁を継ぐ筈だった重弘の嫡子
畠山重能
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重忠の父)や、重隆にも多少の恩顧を受けていた實盛も討手の中に加わっていた。義賢一族を特に憎んでいる訳でもない人物が居た事が幼い義仲には大きな幸運だった。
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義平から「義賢と共に息子も殺せ」と指示された實盛は数え年二歳の駒王丸を殺さず、乳母夫の
中原兼遠 に預けて兼遠の本領・信濃国木曽谷に逃がした。この駒王丸が25年後に
木曽義仲を名乗り、平家一門を京都から追い落とす立役者となる。
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義賢の滅亡と共に實盛は義朝の支配下に入るが、一度は戻った平和もわずか4年で破綻してしまう。保元の乱(1156)で
清盛 と共に勝者となり勢力を維持した
義朝 だったが、続く平治の乱(1159)では壊滅的な敗北を喫して敗死。共に戦った敗残の實盛は長井庄に戻り、新たな荘園領主となった
平宗盛 から荘園管理の実績を高く評価され、継続して長井庄の別当職に任じられた。以後の實盛は生涯で最も穏やかで平和な20年間を過ごすのだが...
元禄二年(1698)7月25日、奥の細道を辿る旅の途中で多太神社(小松市のサイト)に詣でた松尾芭蕉は義仲が奉納したと伝わる伝・實盛の兜を見て 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」 と詠んでいる。
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【 實盛の最期について、概略 】
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治承四年(1180)8月に伊豆で
源頼朝 が挙兵、緒戦は惨敗したが下総を経て勢力を回復し大軍と共に鎌倉に入って相模と武蔵一帯を制圧した。同年10月に實盛は追討軍の大将
平惟盛 と次将の
藤原忠清 に従って富士川に進出、決戦の前に
「東国の敵は誰もが實盛ほどの強い弓を引くのか」と問われ、
「私の弓などを強いとお考えか。肉親が討たれても屍を乗り越えて戦うのが東国武士、それに比べて都の武士は...」などと東国武士の勇猛さを語った。
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元より遠征途中の寄せ集めで補給も不足していた平家軍は戦う前に恐怖で瓦解し、平家物語に拠れば
「水鳥が飛び立つ羽音を夜襲と思い込んで」 京都に逃げ帰った。この直後には
海野宿(別窓)で挙兵した
木曽義仲 が信濃を制圧し、北陸道から京に攻め上る気配を見せる。実盛は20年間受けた平家の恩義に死をもって報いる覚悟である。
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寿永二年(1183)の4月、総大将の維盛(惟盛)と大将軍通盛の率いる10万騎が義仲追討のため京を出発した。斎藤實盛や
俣野景久 や
伊東祐清 ら落日の平家に忠誠を尽くす東国武士も従軍し、5月11日に栃波山の倶利伽羅峠で義仲軍の急襲を受け惨敗してしまう。
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平家軍は13日には加賀篠原に退却して防御ラインを構築した。義仲軍は21日に総攻撃を開始、10万余騎で京を出た平家軍は散々に打ち破られ、わずか2万騎になって京に逃げ帰った。平家物語は
「逃げる平家軍の中で踏み止まり奮戦する武者が一騎」と伝えている。これが斎藤別当實盛だった。
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「良き敵なり」と駆け付けた義仲の側近
手塚光盛 は名乗りを上げて一騎討ちを挑んだ。しかし實盛は問われても名乗らず「木曽殿に首を見せれば判る」と答えて光盛の郎党を討ち取り、その隙を突いた光盛に首を討たれた。皺がある老人の顔なのに髪が黒いのを不審に思った義仲が洗わせると白髪となって實盛と判明した。最後尾を守った73歳の実盛は老齢を侮られるのを恥とし、白髪を墨で染めて最期の合戦に臨んでいた。義仲は恩人の死を深く悲しんだ、と平家物語は伝えている。
富士川の合戦、
倶利伽羅峠の合戦(各、別窓)も参照されたし。
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實盛の子息 異聞:伊豆山の伝承に拠れば、實盛の遺髪は五郎六郎の兄弟が
密厳院(別窓)に葬って供養した。なぜ本領の長井荘ではなく伊豆の密厳院に葬ったのかは判らない。
五郎と六郎兄弟には
頼朝 と
八重姫 の間に産まれた
千鶴丸 の命を救い、その後は伊東の新井にある
広誓寺(別窓)を建立した、との伝承もある。
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弘誓寺縁起によれば、斎藤五郎・六郎兄弟に救われた千鶴丸は奥州に逃げたのだが目的の和賀城(岩手県)には着けず、白石(宮城県)で疱瘡を病み23歳で他界。千鶴丸の子息忠明が奥州和賀義治の後継として迎えられた。どこかに斎藤一族と伊豆との接点があったのだろうか。
更に沼津の千本松原には惟盛の嫡子と斎藤兄弟の関わりについて、平家物語が伝えている。
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右:斎藤六が維盛の遺児六代の首を埋葬したと伝わる沼津「六代松」の碑 (別窓)
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實盛は息子の五と六に
「主人の 維盛(惟盛) に忠誠を尽くせ」と言い残し出陣したと伝わる。五と六の名は宗貞・宗光・實途・實長・範房など様々に記録されているが「五と六」または「五郎と六郎」なのは共通している。
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寿永二年(1183)7月、平家一門は義仲に追われて都を捨て西へ逃れた。平家物語に拠れば維盛は「妻子を守れ」と「五と六」に言い残して一門に合流したが、翌年2月の一ノ谷合戦直前には戦線を離脱して高野山で出家し、熊野三山に参詣した後に那智の沖で入水自殺した事になっている。偽装自殺その他の風説は兎も角として、親交のあった建礼門院右京大夫
※が維盛の死を悼む歌を詠んでいるから、真実だった可能性は高い。
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春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちぬる
かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける.
※建礼門院右京大夫: 建礼門院徳子に仕えた女流歌人で平資盛(
重盛の二男、維盛の弟)と恋愛関係にあり、資盛が壇ノ浦で入水
した後は供養の旅に出た、と伝わる。
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さて肝心の斎藤五と斎藤六は(平家物語に拠れば)維盛の嫡男六代が
北條時政 に囚われ鎌倉に護送される際にも付き従った。沼津の千本松原で斬られそうになった時に
文覚 が頼朝の助命指示書を携えて駆け付け、辛うじて六代の危機を救ったという。
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頼朝没後の文覚は庇護者を失い、内大臣として朝廷の権限を握った
源(土御門)通親 に疎まれて勢力争いに巻き込まれ、佐渡配流となった。三年後に赦免され京に戻った時には、既に六代は連座により処刑されており、斎藤六は六代の首を因縁のある沼津の千本松原に運び松の根元は埋葬、これが平家物語が伝える六代の悲話概略である。
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また文覚自身も
頼朝 の没後は庇護者を失って
後鳥羽上皇 の憎しみを受け、元久二年(1205)に対馬に流される途中の鎮西で死没した。ただし文覚の墓は全国数ヶ所にあるから何が真実かは判らない。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185) 12月17日 】 この年4月25日に壇ノ浦で平家一門滅亡
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重盛の息子で捕虜になった丹後侍従忠房は 後藤基清に預けられた。また 北條時政 は頼朝の指示により 宗盛 の幼い息子二人と三位 通盛(清盛 の弟 教盛 の嫡子)の息子を探し出した。また大覚寺の北で 維盛 の嫡子・六代を捕え(鎌倉に連行するため)野路宿に向ったところ、神護寺の文覚上人が 「私とは師弟なので鎌倉に問い合せるから結果を待つように」 と申し出たため保留した。宗盛の息子※は斬首となる。.
※宗盛の息子:長兄清宗(15歳)は宗盛と共に近江篠原で斬首、異母弟能宗(七歳)は六条河原で殺された。記録にはないが他の幼児二人も同様か。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 4月21日 】 9年も過ぎて呼び出したのは俗人なら元服する年齢に達したから、だろうか。
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故・小松内府 平重盛 の孫で維盛卿の息子である六代禅師が、高尾神護寺の文覚上人の書状を携えて鎌倉に到着した。文覚は、既に温情を受けて助命され鎌倉に敵対する意思は持たず出家した身である、と大江廣元を通じて言上した。 .
【 吾妻鏡 同じく、5月14日 】.
六代禅師を、暫く関東に留める旨の沙汰が下った。平治の乱の際に平重盛が頼朝助命を望む発言をした、その恩を頼朝が覚えていたからである。
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【 吾妻鏡 同じく、6月15日 】 これが六代が吾妻鏡に現れる最後となる。
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頼朝は六代禅師を招いて対面、異心がなければ寺を与えて別当職に任命しようとの言葉があった。