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女性も子供も平然と殺す、ナチス以下の 差別主義国家イスラエル を強く非難する。
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他人の土地を略奪し 共存の努力もしない ネタニヤフ は戦争犯罪人、虐殺を支持するユダヤ人も同罪だ。
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.市民団体が 検察審査会に 安倍派幹部の再審査を請求検察は巨悪を無視するのか
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捜査権のない国会で議論しても結局は無駄、判断を裁判所に委ねれば済むのに、検察は与党議員の起訴を見送る
最悪の総理 安倍は人事権を内閣府に集中し、「巨悪を許さない」筈の検察は 政権の顔色を窺う腰抜けに堕落した。
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自民党と公明党、企業献金の継続で大筋合意か? 金権政治と宗教団体の堕落は公明党は創価学会の「子会社」です。更に続く?
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政権与党の腐敗は、連立与党 つまり公明党の責任でもある。
給付金の支給が増えたり 減税が実現すれば「公明党が頑張ったから」
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金権政治の横行、不正腐敗、政治の右傾、夫婦別姓不同意、海外派兵、
女性天皇反対、政治と宗教の癒着、これらは「自民党の責任」らしい。
要するに 協力したけど同じ穴のムジナと思われたくない のが公明党。
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政治は結果責任だ。20年以上も政権与党として甘い汁を吸い続けて、
憲法違反の指摘は筋違いの詭弁 で誤魔化し自民党と共に立法と行政を
支配し続けてきた。国交大臣の椅子を10年以上も独占し、創価学会の
利益を擁護し続け、宗教法人の一般法人並み課税にも反対してきた。
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国交大臣 (旧建設省) 関連で教団施設建築値引きの噂 もあったし。
100年安心年金 も公明党の坂口厚生大臣の無責任な嘘だったしね。
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当然の事だが 創価学会を「カルト (セクト)」と規定したフランス では
政教分離法で宗教団体と政治の関係を厳しく制限 (Wiki) している。
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連立を解消して政治には一切関与せず、まともな宗教活動に戻れば良い。
宗教と政治が利益を分け合って国を動かす時代ではないと、悟るべきだ。

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  東 重胤
足利 泰氏
足利(吉良) 家氏
足利(吉良) 満氏
足利(吉良) 貞義
足利(吉良) 義継
足利 頼氏(利氏)
足利 家氏
飛鳥井 雅経
足助 重朝
安積 祐長
安達 義景
安達 泰盛
安達 頼景
安達 時盛
安達 顕盛
安達 時顕
安達 時長
安達 長泰
 
 
安倍 国道
安保 実光
天野 政景
安東 忠家
伊賀の方
伊賀 光季
伊賀 光宗
一条 信能
一条 高能
一条 頼氏
一条 実雅
忠快
泉 親衡
伊東 祐時
宇都宮 泰綱
宇都宮 頼業
宇都宮 景綱
大内 惟信
大江(長井) 時廣
大江(源) 親広
大江 佐房
小野寺 通時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


  笠間 時朝
梶原 景俊
梶原 景綱
上総 秀胤
加藤(遠山) 景朝
金澤 実泰
金窪 行親
加地 信実
九条 良経
狩野 為光(為佐)
清原 清定
清原 満定
清原 教隆
九条 道家
後藤 基綱
後藤 基政
近衛 家實
近衛 宰子
小山 朝長
小山 長村
 
 
 
 
 
 
 
 


  斎藤 長定
佐々木 広綱
佐々木 信綱
佐々木 重綱
佐々木 泰綱
佐々木 氏信
佐々木 泰清
佐々木 時清
佐原(葦名) 光盛
佐原(三浦) 盛連
佐原(三浦) 盛時
塩谷 朝業
渋川 義顕
嶋津 忠綱
嶋津 忠時
嶋津 久経(久時)
嶋津 忠景
諏訪 盛重
世良田 頼氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 


  平 盛綱
平 頼綱
平 盛時
武田 政綱
武田 信時
丹波 良基
千葉 胤綱
千葉 秀胤
千葉 泰胤
土御門 定通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


  内藤 盛家
長井 泰秀
長井 時秀
中原 親實
中原 師員
中原 師連
中原 季時
二階堂 行村
二階堂 行盛
二階堂 行泰
二階堂 行頼
二階堂 元(基)行
二階堂 行義
二階堂 行久
二階堂 行方
二階堂 行綱
二階堂 行忠
二階堂 行有
二階堂 行章
二階堂 行佐
二階堂 行氏
二階堂 行景
二階堂 行宗
二階堂 行貞
二階堂 貞衡
二階堂 行清
 
 
新田 政義
 
 
 
 
 
 


 波多野 忠綱
葉室(藤原)光親
畠山 泰国
伴野(小笠原)時長
尾藤 景綱
尾藤 景氏
藤原 兼子
藤原 殖子
藤原 範茂
藤原 秀康
藤原 秀澄
藤原 頼経
藤原 頼嗣
藤原 親實
藤原 定員
藤原 親家
藤原 為家
法 然
坊門 忠信
坊門 信清
坊門 信子
堀内殿(覚山尼)
本間 元忠
 
 
 
 
 


北條 朝時
北條 有時
北條 重時
北條 朝直
北條 時直
北條 政村
北條 時盛
北條 実泰
北條 実時
北條(名越) 光時
北條(名越) 時章
北條(名越) 時長
北條(名越) 時幸
北條 資時
北條 實政
北條 時定
北條 長時
北條(名越) 公時
北條 時輔
北條 時宗
北條 宗政
北條 義政
北條 教時
北條 時茂
北條 時盛
北條 時親
北條 時広
北條 時村
北條 時基
北條 時忠(宣時)
北條 時村
北條 時隆
北條 貞時
北條 高時
北條 顕時
北條 宗長
北條 業時
北條 宗頼(宗顕)
北條 兼時
北條 義宗
 
 


  町野 康俊
町野(三善)康持
松下禅尼
源 斉頼
源 頼茂
源 有雅
美作 朝親
三善 康俊
三善(太田) 康連
三善(矢野) 倫重
三善(矢野) 倫長
三浦 胤義
三浦 盛時
三浦 家村
三浦 胤村
三浦 資村(未)
三浦 朝村(未)
武藤 景頼
宗尊親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 山田 重忠
矢木 胤家
結城 朝広
結城 広綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 蘭渓道隆
隆 弁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 若槻 頼定
若狭 忠季
和田 朝盛
和田 義直
和田 義重
 
 
 
 
 
 
 
 
 



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  東 重胤   治承元年(1177)~ 宝治元年(1247)  享年 70歳
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東(千葉) 胤頼の嫡男で三代将軍実朝の側近で本領は東荘(現在の千葉県香取郡東庄町・ 地図)、歌人としても知られている。胤頼の記録は建久元年(1190)で途切れているためこの前後に家督を譲られたと推定できる。重胤が吾妻鏡に登場するのは建久六年(1195)前後からで、正治元年(1199)に梶原景時を弾劾した御家人66人の署名にも名を連ねている。和歌の名手だった胤頼の指導や、師として薫陶を受けた藤原定家の影響で頭角を現し、実朝の近習として重用された。
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建永元年(1206)11月に本領の東荘に帰国した重胤は鎌倉への期間が遅れて実朝の怒りを受けたため義時に相談した。義時は和歌を詠んで贈るよう助言し、義時を介して献上した歌が気に入った実朝は重胤を許した。重胤は「子々孫々に至るまで従います」と誓っている。
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重胤は後に滝口武者(蔵人所に所属し内裏の警護を行った武士)として上洛し京都の様子などを実朝に報告、この中には熊谷直実が建永二年(1207)9月4日に京都で没した報告も含まれている。承久元年(1219)1月の実朝暗殺後に出家し嫡子の胤行に譲って隠居したらしい。

  安積 六郎祐長   生年 不詳~ 没年 不詳  没年令 不詳
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工藤祐経の三男。一部系図には次男の工藤祐長と三男の安積祐長の混同が見られて判りにくいが、ここではこの兄弟が全くの別人として記載しておく。
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次兄の祐長は伊勢平氏の残党を掃討(長兄の祐時が文治元年(1185)の生まれなのを考えれば、元久元年(1204)の三日平氏の乱後の措置だろう)するため伊勢国長野の地頭職に任じて安濃郡と奄芸郡を与えられ、その子息工藤祐政が長野(現在の津市美里町・
地図)に土着して長野氏を名乗ったのが「長野工藤氏」の起源となる。
三男の祐長は陸奥国安積郡(北部を除く現在の郡山市)に所領を得て薩摩守に補任(吾妻鏡の建長三年(1251)1月1日に薩摩前司祐長の記載あり)されている。六郎祐長は多分三男祐長で、安積荘(地図)に土着し、福島地区の歴史に名を残している。

  足利 三郎泰氏   建保四年(1216)~ 文永七年(1270)  享年 54歳
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足利氏三代当主義氏の次男で嫡子、生母は北條泰時の娘。泰時から一字を得て泰氏と名乗り、将軍頼経の側近として仕えた。庶兄の長氏と次弟の義継はそれぞれ三河吉良氏となって宗家と庶家の祖となっている。父の義氏は北條得宗の専制体制に従って宮騒動(1246年)と宝治合戦(1247年)にも全面協力し幕府首脳として重用されたが、泰氏は36歳の建長三年(1251)12月に幕府に無断で出家し、所領の埴生荘を没収され蟄居の処分を受けた。
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翌年3月には頼経が京都に強制送還されており、泰氏の出家には何らかの関係があったと推測される。出家後も泰氏の地位や本領に影響はなく嫡子頼氏への家督継承にも問題はなかったが、その後の泰氏が幕政に関与することはなかった。遺恨を残して引き下がったか。
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当初の正妻は名越流北條朝時の娘を迎え、後には得宗家の北條時氏の娘を正妻として迎えた。朝時の娘が産んだ嫡子の家氏は廃嫡されて尾張足利家斯波氏の祖となり、次男義顕は上野国渋川荘に入って渋川氏の祖となった。宗家足利氏の四代当主は時氏の娘が産んだ頼氏、その三代後(頼氏─家時─貞氏─高義と続く)の高義(後の尊氏)が鎌倉幕府を滅ぼすことになる。新田氏も足利氏もそれぞれに臥薪嘗胆の時代を経ていたらしい。
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泰氏が隠棲したと伝わる智光寺(廃寺)の跡が現在の
大岩毘沙門天・最勝寺(足利市のサイト)、鎌倉時代の足利氏が最も繁栄したのが義氏と泰氏の時代だったと伝わっている。

  足利(吉良) 家氏   建暦元年(1211)~ 正応三年(1270)6月  享年 59歳
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足利三代当主義氏の庶長子。母が側室だったため(あるいは、弟の泰氏を産んだのが泰時の娘だったため)家督を継げず、三河国吉良荘(現在の愛知県西尾市吉良町から西尾町の一帯・九条家領)の地頭職を相続して三河吉良氏の祖となった。この経緯から、足利一門の中で吉良家と支族の今川家だけが足利宗家の継承権を持つことになる。
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吾妻鏡での初出は安貞二年(1228)7月の将軍頼経の随兵として、以後は寛喜元年(1229)9月と10月の流鏑馬・同年12月の奉幣使・嘉禎三年(1237)4月の足利邸での将軍接待などに登場している。最終は仁治二年(1241)1月の椀飯の記事となり、この後に鎌倉を退去して吉良荘に定住したらしい。弘安八年(1285)には霜月騒動で越後守護だった嫡子の満氏を平頼経勢によって失い、嫡孫の貞義を養子に迎えて後継とした。この貞義が元弘三年(1333)の高氏(尊氏)挙兵を強く進言し、全面的にバックアップした、と伝わっている。

  足利(吉良) 満氏 (上総三郎)  従五位下・上総介・左衛門尉   不詳(1235年頃か)~ 弘安八年(1285)11月  享年 50歳頃か
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足利(吉良)長氏の嫡男。吾妻鏡に拠れば、建長四年(1252)4月に鎌倉入りした新(六代)将軍宗尊親王の随兵として登場したのが初見で、正嘉元年(1257)に廂番、正元二年(1260)に昼番衆に任じたとの記載がある。弘長三年(1263)8月には所領吉良荘に帰住したらしく、以後の吾妻鏡には記載が見られない。文永八年(1271)には吉良一族の菩提寺として実相寺(現在の西尾市・観光協会サイト)を創建している。
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文永の役(1274)後には防衛力再構築のため日本海沿岸諸国の守護職を入れ替える大規模な人事異動があり、満氏は足利氏庶流としては異例の越前守護に任じている。弘安八年(1285)11月の霜月騒動の際には鎌倉で平頼綱の軍勢に敗れて自害、所領の吉良荘は74歳の高齢だった父の長氏に返還され、満氏は祖父の養子となって所領を相続している。

  足利(吉良) 貞義 (弥太郎)  従五位下・上総介・式部丞・左京亮   不詳(1235年頃か)~ 康永二年(1343)  享年 不詳
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足利(吉良)満氏の嫡男。弘安四年(1281)の弘安の役では大将(当時は20歳前後か)として石見国に下向し、弘安七年(1284)には九代執権北條貞時の偏諱を受けて貞義と名乗ったと伝わっている。
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弘安八年(1285)11月の霜月騒動で父の満氏が戦死し吉良荘の領地が祖父の長氏に返還されたため長氏の養子となって所領を相続した。元亨三年(1323)12月に北條高時が父貞時の十三回忌法要を催した際には円覚寺法堂などを造営して同族の足利貞氏・斯波高経らと共に参列し砂金百両と太刀一腰を献上している霜月騒動以後に吉良氏が史料に乗ったのはこの時が最初で、満氏戦死以後の再出仕がようやく許されたらしい(霜月騒動が直接的には貞時の命令で勃発したためだろう)。
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元弘三年(1333)3月に足利高氏(後の尊氏)が幕命を受けて楠木正成らを討伐するため鎌倉を出立した際には三河国八橋(知立市の無量寿寺・市のサイト)で軍議を開いた。既に幕府離反を決意していた高氏は貞義に使者を送り倒幕の決意を述べて貞義の意見を求め、全面的な支持・支援を申し出を受けたた高氏は意を強くして倒幕行動を開始した、と伝わっている。150年間北條氏の後塵を拝した足利氏の逆襲がスタートするのだ!

  足利(吉良) 五郎義継   仁治元年(1240)~ 弘長二年(1262)4月  享年 22才
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  足利三郎 頼氏   仁治元年(1240)~ 弘長二年(1262・異説あり)  享年 22才?
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足利氏五代当主で初名は利氏、建長三年(1251)に12歳で元服、建長八年(1256)に北條時頼の偏諱を受けて頼氏に改名している。父は四代当主足利泰氏、生母は北條時氏の娘。上総国・三河国守護を歴任した。弓射の技術に優れており、流鏑馬などに再三の出場が記録されているが生来が病弱で、弘長元年(1261)7月19日には「翌月15日の八幡宮放生会の流鏑馬出場を病気により辞退」の記録を最後に史料から姿を消している。
その関係から死亡には弘長二年(1262)説・同三年説・永仁三年(1297)説がある。後足利氏嫡男は代々北條氏の娘を正室に迎えるのが通例だが頼氏の正室(北條時盛の娘)には男子が産まれず、側室(上杉重房の娘)が産んだ家時が六代当主を継承した。

  足利 (三郎→太郎)家氏   生没年 不詳  没年令 不詳
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足利宗家四代当主泰氏(義氏の嫡子)の長男で尾張足利氏の祖。生母は泰氏の正室(北條(名越)朝時の娘)で、家氏は足利氏嫡男の代名詞である三郎を名乗ったが後に父の泰氏が北條得宗家(北條時氏の娘)から正室を迎えて利氏(後に頼氏)が生まれたため後継から外れる結果となった。
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しかし時氏の三男・時定(時頼の弟)の娘を正室に迎えて検非違使・左衛門大尉に任官し将軍の供奉人を再三務めるなど幕府に重用されており、更に行列の序列が北條一門の重鎮に続くなど、廃嫡=失権ではなく有力御家人の地位を維持していた。
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更に宗家を相続した異母弟の頼氏が早世(22歳)し息子の家時が幼かったため一族の重鎮として後見役を務め、家時が元服する前後の文永六年(1269)頃まで当主代行を務めるなど、惣領に近い立場を続けることになる。文永二年(1265)には尾張守となり、更に陸奥国斯波郡(紫波郡・現在の盛岡市南部の紫波町と矢巾町)を領有して斯波氏の祖となったが当人は下向せず、終生足利を名乗り本家に準じた家格を保ち続けた。

  飛鳥井(二条) 雅経   嘉応二年(1170)~ 承久三年(1221)  享年 51歳
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公家で歌人、最終官位官職は従三位・参議。父の難波(藤原)頼経は義経を援助する姿勢を改めず、頼朝の命令で二度の流罪(安房・文治元年(1185)12月と伊豆(文治二年(1186)3月)に処された際のどちらか(たぶん初回)に連座して次男の雅経も鎌倉に連行されたが頼朝から和歌と蹴鞠の才能を高く評価され、頼家や実朝とも親交を結んだ。 結果として頼朝から猶子の扱いを受け、更に大江廣元の娘を妻に迎えるなどの厚遇を受け、建久八年(1197)に罪を許されて帰洛した。その後は後鳥羽上皇の近臣として仕え、和歌と蹴鞠の技術によって重んじられて「蹴鞠長者」の称号を与えられて飛鳥井流蹴鞠の祖となった。鎌倉幕府に招かれて鎌倉へも再三下向し、三代将軍実朝と藤原定家や鴨長明との間を取り持っている。死没は承久の乱が勃発する三ヶ月前だから直接の関与はしていないが、存命したと仮定しての動向は推測できない。

  足助 重方(または頼方)   生没年 不詳  享年 不詳
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清和源氏満政流の浦野氏一族。平安時代末期に浦野重長が尾張国山田荘から三河国加茂郡足助庄(現在の豊田市足助町・三河と信濃を結ぶ要衝・地図)に入り足助を名乗ったのが最初となる。一族の館跡の一つが戦国時代の足助城址(観光サイト)として復元されている。重長の娘の一人は鎌倉二代将軍頼家の室として公暁を産み、源氏との縁を深めている。
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元々の浦野一族は朝廷との結び付きが強く、二代重秀の次男重成は承久の乱の際には後鳥羽上皇側に加わって戦死している(系図は重長-重秀-重朝-重方-頼方-貞親-重範 と続く)。元弘元年(1331)の後醍醐天皇による最初の挙兵では七代当主の重範が宮方3000人の総大将として戦ったが幕府軍に鎮圧され、重範は六条河原で斬られている。更に元弘三年(1333)の鎌倉陥落の際には足助氏八代当主重信ら三人が戦死した記録が残る。

  安達 義景(城 太郎)   承元四年(1210)~ 建長五年(1253)  享年 43歳
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安達景盛の嫡子で生母は武藤頼佐の娘、姉に松下禅尼(泰時の長男時氏の室で四代執権経時と五代執権時頼の生母)がいる。正室は北條時房の娘、庶長子に頼景、正室との間に生まれた娘(後の覚山尼)が八代執権北條時宗の正室となって九代執権貞時を産んでいる。烏帽子親は晩年の二代執権北條義時、その没後は泰時→経時→時頼と続く三代の執権を支えて評定衆に任じ、四代将軍藤原頼経とも良好な関係を保った。
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当時の三浦氏は親将軍・反得宗(反北條)の立場であり、義景を当主とする安達一族は北條氏の縁戚として執権政治を支える立場にあった。両者の対立は徐々に深刻化し、寛元四年(1246)には北條(名越)光時の謀反未遂による失脚と前将軍藤原頼経の京都への追放(宮騒動)が勃発した。
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翌・宝治元年(1247)には三浦氏との覇権争いに業を煮やした父の景盛が高野山から鎌倉に戻って義景らの軟弱な対応を叱咤し穏便な解決を模索した、とも言われる時頼を説き伏せて三浦邸を急襲し、泰村以下の三浦一族を滅亡に追い込んだ(宝治合戦)。
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景盛と義景によって築かれた安達氏全盛の時代は弘安八年(1285)11月の霜月騒動で内管領・平頼綱に滅ぼされるが、頼綱もまた正応六年(1293)4月の平禅門の乱で討伐された。その後は再び得宗専制となり、泰盛の弟・顕盛の孫である安達時顕の一族と頼経の弟の子孫である長崎氏が競いつつ手を結び、元弘三年(1333)の鎌倉陥落により幕府と共に滅亡を迎えることになる。

  安達 泰盛(城 九郎・秋田城介)   寛喜三年(1231)~ 弘安八年(1285)  享年 54歳
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安達義景の三男で嫡子、生母は小笠原時長小笠原(伴野)時長の娘。三代執権北條泰時の偏諱を受けて泰盛を名乗った。宝治元年(1247)の宝治合戦(泰盛17歳)によって三浦氏が滅亡し、執権北条氏の外戚として五代執権時頼を支えて幕政に関与する安達氏の地位が確立した。
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建長五年(1253)6月に父の義景が死没し、泰盛は23歳で家督を継いで秋田城介に任じた父の後を受けて一番引付衆、康元元年(1256)には五番引付頭人と共に評定衆として従兄弟に当たる執権時頼を補佐した。
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康元二年(1257)には時頼の嫡子・時宗(後の八代執権)の元服に際して烏帽子を運ぶ役を務め、弘長元年(1261)には異母妹(後の覚山尼・九代執権貞時の生母)を時宗に嫁がせた。更には後に時宗に繋げる中継ぎの七代執権政村や北條実時と共に幕政の中枢として執権体制の維持に尽力した。
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文永三年(1266)には連署時宗・執権政村・実時・泰盛の協議により六代将軍宗尊親王を更迭し、3歳の惟康親王を将軍職に就けて執権独裁体制の強化を果たした。時宗は文永九年(1272)の二月騒動によって同族内の対抗勢力を粛清して独裁体制を強化したが、結果として体制を支えるのは唯一残った御家人の安達泰盛と急速に台頭してきた平頼綱を筆頭とする御内人(得宗被官)の二つとなり、早晩に衝突せざるを得ない不安定な状態となる。
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そして弘安八年(1285)に泰盛の子・宗景が源姓を称した事を契機として頼綱は「安達に将軍を狙う野心あり」と執権貞時に讒言、安達一族と得宗被官グループとの全面対決(霜月騒動)となって泰盛と一族の500人が全滅する結果となった。7年後の正応六年(1293)頼綱らは成長した執権貞時によって滅ぼされ、霜月騒動で失脚した御家人たちも徐々に復帰を果たしたが、泰盛の供養は頼綱が滅びてから許された、と伝わる。

  安達 時盛   仁治二年(1241)~弘安八年(1292)6月  享年 51歳
.
安達義景の四男で泰盛の同母(異説あり)の弟。兄の泰盛と共に幕政に参加し、弘長三年(1263)の執権北條時頼死去の際には出家して炉忍(後に道供)を名乗った。その後も泰盛と共に幕政に加わり、文永四年(1267)に評定衆に任じたが、建治二年(1276)9月には無届けでま寿福寺に隠棲した。
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この事件により時盛の所領は幕府に没収され、兄の泰盛からも義絶の処分を受けているため、隠棲せざるを得ない何らかの政治的な対立があった、と推定される。弘安八年(1285)6月に移転・隠棲後の高野山で死没、霜月騒動で泰盛らが滅亡する半年前だった。後継は長子の時長。

  安達 顕盛   寛元三年(1245)~弘安三年(1280)2月  享年 35歳
.
安達義景の六男で泰盛時盛の異母弟(生母は飛鳥井(二条)雅経の娘)。兄と共に幕政に参加し文永六年(1269)引付衆、文永十一年(1274)3月には従五位下・加賀守、弘安元年(1278)には評定衆に任じた。弘安3年(1280年)2月8日に死去した。後継の嫡子の宗顕は霜月騒動で平頼綱の兵に討たれ一族の多くが滅亡したが、幼児だったため殺害を免れた宗顕の子時顕は後に幕政に復帰、安達氏伝来の秋田城介を継いだ。また、時顕の娘は十四代執権の北條高時に嫁している。

  安達時顕 法名は延明  不詳(1284~85頃)~元弘三年(1333)5月  享年 48歳頃
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祖父の安達顕盛と父の宗顕は共に霜月騒動で殺されたが、幼児だった時顕は辛うじて難を逃がれ、政村流北條氏の庇護を受けて養育され、政村の嫡子時村を烏帽子親にして元服した。
永仁元年(1293)に平頼綱が滅びて安達氏の復権が認められると時村の後ろ盾を受けて徳治二年(1307)までには秋田城介を継承している。応長元年(1311)に九代執権の北條貞時死去の際には長崎円喜と共に貞時の嫡子高時の後見を託され、正和五年(1316)には14歳で執権を継いだ高時に娘を嫁がせて得宗外戚となのり、更に嫡子高景の妻には長崎円喜の娘を迎えて内管領とも円満な外戚関係を構築した。
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正中三年(1326)3月に高時が出家した際には後継として高時の側室(内管領の娘)が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対して泰家(高時の弟)を推す時顕と安達一族が対立し、北條一門を巻き込んで嘉暦の騒動(本文で後述する)となった。
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結果として暫定執権となった北條氏庶流の金沢貞顕がトラブルを恐れて在職10日で出家辞任、翌4月になって赤橋守時が鎌倉幕府最後の十五代執権となった。高時の嫡子邦時は守時が扶持して次の執権に育てる手筈となったが元弘三年(1333)に幕府は滅亡し、安達時顕る北條一門とともに東勝寺で最期を迎えることとなる。

  安達 頼景(城 次郎)   寛喜元年(1229)~正応五年(1292)  享年 63歳
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安達義景の庶長子で泰盛の庶兄。25才の建長五年(1253)に泰盛と共に引付衆、正嘉元年(1257)には丹後守に任じた。
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弘長三年(1263)に後藤基政と共に六波羅評定衆として赴任、同年11月の北條時頼死没の際に出家した。文永九年(1272)の二月騒動に連座して鎌倉に呼び戻されて所領二ヶ所を没収された。弘安八年(1285)11月の霜月騒動で安達一族が滅ぼされた際には関与せずと判断され、処分を免れている。

  安達(大曽祢) 時長  九郎藤次、藤九郎次郎、次郎兵衛   生没年 不詳
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安達盛長の次男で生母は丹後内侍。盛長を継いだ景盛の弟で、息子に長泰・盛経・長景がいる。安達氏の庶流として分家し大曽祢氏の祖となった。吾妻鏡での初見は建久元年(1213)5月の和田合戦で、戦功として武蔵国長井荘(斎藤実盛が別当だった 実盛と長井荘(サイト内リンク・別窓)を参照)を拝領している。その他に父の盛長から相続した出羽国大曽祢荘(山形市の西南部・摂関領・地図)を本領とし、景盛の嫡子 安達義景が本家を相続した後に分家し、息子長泰の代から大曽祢氏を名乗っている。

  安達(大曽祢) 長泰  太郎   建暦元年(1211)~弘長二年(1262)  享年 51歳
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時長の嫡子。長泰の代から父の所領大曽祢荘を相続して大曽祢を姓とし大曽祢長泰とも名乗っている。吾妻鏡の初見は嘉禄元年(1235)6月に将軍藤原頼経の大御堂供養で御剣役に任じた記録がある。寛元三年(1245)に左衛門尉に任官、宝治元年(1247)の宝治合戦では本家の安達義景らと共に三浦氏討伐に出陣している。同年8月に上洛して朝廷に状況説明する使者を務め、建長元年(1249)には引付衆に任じた。建長六年(1254)に上総介に任じ、これ以後の上総介は大曽祢氏一族の官職として固定した。

  安倍 国道   生年不詳~貞永元年(1232)  没年令 不詳
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当代屈指の陰陽師として安倍氏の氏長者に登り詰めた晴道の孫(晴道-晴光-国道と続く)。晴道の子孫は多くの実力者を輩出して「晴道党」となり、同じような由来の「宗明流」と共に安倍氏嫡流(晴明-吉平-時親-有行-泰長-政文-と続く)との勢力争いを繰り広げている。
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建久四年(1194)12月に陰陽少允、翌年には主計助、建仁二年(1202)に正五位下に叙された。早くから九条家に仕え、息子の晴吉は承久元年(1219)に九条家の三寅(後の四代将軍
藤原頼経)の護持陰陽師として三寅と共に鎌倉に下り小侍所に配属されている。国道は翌承久二年(1220)までに天文密奏宣旨を受け陰陽権助に任ぜられていたが、承久三年(1221)に陰陽権助在任のまま鎌倉に下り、息子の晴吉と交代する形で幕府に仕えた。
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翌年2月9日には北條義時の娘の出産に際し祈祷に任じている(吾妻鏡の初出)。承久の乱で勝利して政治的地位を高めた幕府は三寅の将軍就任の環境整備を進めており、国道の鎌倉下向は三寅を補佐すると共に自らの権威を高める目的もあったらしい。
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嘉禄二年(1226)に国道は突然京都に戻った。これは天文博士への就任を望むと共に陰陽権助の地位をライバルに奪われるのを防ぐ目的だったという。寛喜二年(1230)に陰陽頭兼権天文博士の安倍泰忠が辞任し、国道は陰陽正助の賀茂在俊と陰陽頭の地位を争って敗れるが陰陽助と権天文博士に任ぜられて面目を保った。その後は賀茂氏嫡流の賀茂在継および彼に協力した安倍氏傍流と覇権を争い、藤原定家は彼らの勢力争いを「僧兵の強訴に等しい」と批判している。
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最終的には九条道家の後援を受けた国道が陰陽頭となったが就任翌年の貞永元年(1232)に急逝、下向中の国道が鎌倉で行った多くの事例が鎌倉での陰陽道・天文道の先例として重視され、後に鎌倉幕府に仕える「鎌倉陰陽師」グループの基礎を築いた。

  天野 政景   生年 不詳~没年 不詳  没年令 不詳
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天野遠景の嫡男で生母は狩野茂光の娘。吾妻鏡の初出は治承四年(1180)8月20日、伊豆北條を出陣して相模へ向かう頼朝勢力の中に父と共に加わった記録が載っている。元久二年(1205)の時政夫妻失脚の際には閏7月19日に政子の指示を受けて将軍実朝を御所から義時邸に移しているから、この時点では生存中だった父の跡を継いでいた、と考えられる。
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承久の乱(1221)では東寺に立て籠った三浦胤義を攻撃し、更に嵯峨で山田重忠勢を掃討、戦功によって貞応元年(1223)には長門国守護に補任され、更に遠江国山香荘・武蔵国船木田荘由比郷・安芸国志芳荘などを得ている。天野氏の所領の大部分は父の遠景ではなく政景の世代に獲得したものだった。寛喜二年(1230)には和泉守に補任しているが、吾妻鏡の延応元年(1239)5月5日の条には五男の義景が長門国守護として記載されており、このころに死没したと推定される。宗家を継いだ長男の光景(肥後守)は早世し、次男の景氏が惣領を継いだらしい。

  安保 実光   永治二年(1142)~承久三年(1221)  没年令 79歳
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  安東 忠家 (次郎、兵衛尉)   生没年 不詳  没年令 不詳
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北條義時の側近で北條得宗家の被官(御内人)。安東忠家と共に義時の側近として頭角を現し、建仁三年(1203)9月の比企能員の乱で功績を挙げ、翌年には頼家の郎党を修禅寺で追討、建暦三年(1213)2月の泉親衡の乱では計画に関与した和田胤長を捕縛して没収所領を安東忠家と分け合い、同年5月の和田合戦終結後は義盛の首などを検分している。建保七年(1219)1月の実朝暗殺に際しては下手人公暁の首の検分に立ち会っている。
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承久三年(1221)には義時の命令に背いて駿河に蟄居となったが乱の勃発後には北條泰時の軍勢に参加を懇願し、拒否されながらも最後には許されて宇治川合戦などで奮戦した。寛元四年(1246)に泰時邸が新築された際には他の被官らと共に敷地内に住居を構えている。

  伊賀の方   生年不詳~ 貞応三年(1224)  享年 不詳
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藤原秀郷流の末裔である北関東の豪族伊賀朝光の娘。鎌倉幕府二代執権北條義時の後妻(継室)で兄弟に光季と光宗、義時との間に七代執権となった政村、金澤北條氏の祖となった実泰、一条実雅(能保の子)の室などがいる。義時が前妻の姫の前と離別したのちに継室となり元久二年(1205)に政村を、承元二年(1208)に実泰を生んだ。
貞応三年(1224)7月に夫の義時が急死し、兄の光宗と図って実子の政村を義時の後継として三代執権に・娘婿の実雅を将軍に擁立しようと画策して失敗し光宗と実雅は流罪、伊賀の方も伊豆流罪となった。これが「伊賀氏の乱」とされているが陰謀の実態はなく、単純に義時没後の政村の立場に配慮した多少の動きがあった程度と考えられている。余命が少ないと考えた政子が自分の没後に政敵になるかも知れない伊賀一族を一掃する計画を建てた、と考えるべきだろう。
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実際に政村は後に七代執権に任じているし、光宗も政子の没後に赦免されて幕政に復帰しているが、伊賀の方だけは伊豆に流された4ヶ月後に変死している。おそらくは政子による謀殺だろう。伊豆長岡の北條寺(サイト内リンク・別窓)墓地には義時の墓石に並んで伊賀の方の墓が建てられている。
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  伊賀 光季   不詳~ 承久三年(1221)  没年令 不詳
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藤原秀郷流の末裔である北関東の豪族伊賀朝光の長男。妹が北條義時の後妻(継室)となった関係から政所執事を務め、有力御家人として重用された。
建保七年(1219)2月に大江親廣と共に京都守護として上洛、承久三年(1221)には挙兵した後鳥羽上皇の招聘に応じず、再度の勅命には「面勅すべし、来たれ」と答えた上に「命を賭して敵に向うのは臣下の本分だが官閥に加わるのは知るところではない」と拒否したため官軍に高辻京極の宿舎を攻撃され、次男光綱と共に自害。後に北條泰時は遺領を長男の季村に与えている。
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  伊賀 光宗   治承二年(1180)~ 康元二年(1257)  没年令 77歳
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藤原秀郷流の末裔である北関東の豪族伊賀朝光の次男。妹が北條義時の後妻(継室)となった関係から政所執事を務め、有力御家人として重用された。貞応三年(1224)7月に義時が急死した際に、兄の光宗・伊賀の方らと図って伊賀の方実子の政村を義時の後継として三代執権に擁立しようと画策して失敗し流罪、伊賀の方も伊豆流罪となった。これが「伊賀氏の乱」とされているが陰謀の実態はなく、単純に義時没後の政村の立場に配慮した伊賀の方が多少の画策をした程度と考えられている。余命が少ないと考えた政子が自分の没後に政敵になるかも知れない伊賀一族を一掃する計画を建てた、と考えるべきだろう。
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実際に政村は後に七代執権に任じているし、光宗も政子の没後に赦免されて配流地の信濃から戻り幕政に復帰しているが、伊賀の方だけは伊豆に流された4ヶ月後に変死している。おそらくは政子による謀殺だろう。伊豆長岡の北條寺(サイト内リンク・別窓)墓地には義時の墓石に並んで伊賀の方の墓が建てられている。
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  一条 信能   建久元年(1190)~ 承久三年(1221)  没年令 31歳
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権中納言一条能保(頼朝の同母妹の夫)の次男。子に忠俊、異母兄弟に高能、実雅、尊長ら。官位は従三位・参議。
後鳥羽上皇の近臣として仕え鎌倉幕府打倒の謀議に参加、承久の乱(1221)では京方軍勢の指揮官として芋洗の守備に任じた。敗戦後は首謀者の一人として鎌倉に護送される途中の美濃国岩村で遠山景朝に斬られた。同地の岩村神社は信能の後生を弔うために建てた祠が発祥とされている。

  一条 高能   安元二年(1176)~ 建久九年(1198)  没年令 22歳
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父は権中納言一条能保、生母は頼朝の同母妹の坊門姫、異母弟に実雅、尊長らがいる。頼朝によって京都守護に任じると共に大姫との縁談が進められるが大姫に拒絶され破談となる。比企能員の娘婿・糟屋有季の娘との間に長男能氏、四条隆季の娘との間に能継、松殿基房の娘との間に頼氏を儲け、母親の出自に従って三男の頼氏が嫡子となった。朝廷の中枢として頼朝とは対立関係にあった土御門通親は鎌倉幕府が安定するに従って宥和政策に転じ、その影響を受けた高能も順調に昇進して建久八年(1197)には従三位に登るが、翌年に満22歳の若さで死没した。

  一条 頼氏   建久九年(1198)~ 宝治二年(1248)  没年令 31歳
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  泉 親衡 (親平)   生没年 不詳  没年令 不詳
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  一条(藤原) 実雅   建久七年(1196)~安貞二年(1228)  没年令 32歳
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一条能保の三男で姉の夫・西園寺公経の猶子、従三位・参議、伊予宰相中将。建保七年(1219)1月に源実朝の右大臣就任拝賀に随従し、鶴岡八幡宮で暗殺を目撃する。実朝没後に姉の孫にあたる九条頼経が次期将軍に決まったため補佐役として鎌倉に定住した。
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貞応元年(1221)には参議となって北條義時の娘を妻に迎えたが、元仁元年(1224)、妻の母である伊賀の方と兄の伊賀光宗が義時の後継者と目されていた北條泰時を倒そうとした伊賀氏の変が起こり、実雅を頼経に代わる新将軍に立てようとした罪により妻と離別させられ越前国に流刑となった。4年後に配流先で変死を遂げたとされる。実際には北條氏に敵対する可能性がある伊賀一族の失脚を狙った政子の画策だったらしい。

  伊東(工藤) 祐時   文治元年(1185)~建長四年(1252)  没年令 67歳
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工藤祐経の嫡子。富士の裾野で祐経を殺した曾我兄弟頼朝が許そうとした際に泣いて身柄の引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸(建久四年(1193)5月29日を参照)が成長して祐時を名乗り伊東の家督を継承、日向伊東氏の祖となった。祐経の最初の妻(伊東祐親の娘)は離縁させられて土肥遠平に再嫁、生まれた娘が祐時に嫁して祐朝を産み、祐朝が早川氏・長門伊東氏・安芸伊東氏の祖となった。承久の乱では東海道を進んだ軍勢に参加、嘉禎元年(1235)に従五位上検非違使左衛門尉・大和守に任じた。

  宇都宮 泰綱 (下野前司、弥三郎、宇都宮検校)   建仁二年(1202)~弘長元年(1261)  没年令 59歳
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  宇都宮(横田) 頼業   建久六年(1195)~建治三年(1277)8月  没年令 83歳
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父は宇都宮氏の五代当主の頼綱、母は:稲毛重成の娘(頼綱の後妻は北條時政の娘)。宇都宮氏六代当主は時政の娘が産んだ泰綱が継承し、長男の時綱は分家して河内郡(現在の宇都宮市全域と日光市の南部)の南部(上条)を領有して上条氏を名乗り、次男の頼業は北部(下条)の横田郷千余町を支配して横田氏の祖となった。
一族は泰綱を筆頭として北條得宗家に協力し、仁治元年(1240)には頼業も伊豫国守護職に任じていたが、宝治合戦(1247)では同母兄の時綱一族が三浦氏に味方して滅亡、三浦氏と距離を置いていた頼業は粛清を免れている。
その後の横田氏は浮沈を繰り返した末に秀吉の時代に改易された宇都宮本家と共に勢力を失い、嫡流は水戸家の家臣になった、とされる。

  宇都宮 四郎 景綱    嘉禎元年(1235)~永仁六年(1298)5月  没年令 63歳
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藤姓宇都宮氏の六代当主宇都宮泰綱の嫡子で七代当主、生母は北條朝時の娘、正室には安達義景の娘を迎えている。
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建長四年(1252)4月に六代将軍宗尊親王の近習に任じて幕臣としての勤務をスタート、正嘉元年(1257)に御格子番(格子の上げ下げ)、弘長三年 (1263)には御鞠奉行に任じるなど宗尊親王の側近として重用された。その後も下野守・引付衆・評定衆と出世を重ね幕政の中枢で活躍し、弘安六年(1283)には北條泰時が定めた貞永(御成敗)式目を基本にして一族の基本法である宇都宮家式条を制定している。
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弘安八年(1295)11月の霜月騒動では内管領平頼綱によって安達泰盛が滅亡し、泰盛の義兄弟だった関係から失脚するが、永仁元年(1293)に九代執権の北條貞時によって頼綱が滅ぼされると共に幕政に復帰した。歌人としても優れた才能を持っていたとされる。
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諱の景は義景の一字拝領したと推定されているが、景綱の父泰綱・嫡子の貞綱・嫡孫の高綱(公綱)は全て得宗家から一字(時・時・時)を受けており、別の理由があった可能性を指摘する意見もある。

  大内 惟信   生没年 不詳  没年令 不詳
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大内惟義の嫡男で生母は藤原秀宗の妹(藤原秀康(後鳥羽上皇の側近)の叔母)。元久二年(1205)に叔父の平賀朝雅が北條時政失脚に連座して討たれてからは朝雅の伊賀と伊勢の守護を継承した。同時に在京の御家人として京都の治安維持に任じ、帯刀の長と検非違使を務めて延暦寺との合戦で焼失した圓城寺(三井寺)の造営を差配するなどの功績を挙げた。
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実朝暗殺後の鎌倉幕府は北條氏の独裁となり、源氏の門葉だった平賀氏は幕政の中枢から排除された結果として承久三年(1221)勃発した承久の乱では後鳥羽上皇側として戦った。京都守護の伊賀光季を指揮したり東海道の防衛などに任じたが結果として敗戦、10年近く潜伏した後に比叡山の悪僧に捕らえられて幕府に引き渡された。西国配流となって死罪は免れたが、源氏の名門である大内氏(平賀氏)は没落し、二度と歴史の表舞台には戻らなかった。

  大江(長井) 時廣   生年不詳~ 仁治二年(1241)  没年令 不詳
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大江広元の次男。兄の大江親廣が承久の乱で院方に与して失脚したため大江氏の惣領を継承した。出羽国置賜郡長井荘(山形県長井市)を所領として長井氏の祖となり幕府中枢で活躍した。 当初は朝廷に仕え、建保六年(1218)に蔵人に任じられた。
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源実朝が左近衛大将に昇任した八幡宮拝賀の先駆を務めるため鎌倉へ下り、殿上人として随行した。8月には二階堂行村を通じて京都への帰還を願い出たが許されず、北條義時の執り成しによって許された。吾妻鏡には「10月19日に任官」との記録があり、右衛門大夫に任じたらしい。
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翌建保七年1月には右大臣に昇った実朝の拝賀に随行し、実朝が暗殺された後に兄親廣とともに出家した。貞応二年(1223)に備後国守護となり、暦仁元年(1238)には所領に米沢城を築いた、と伝わっている。嫡男の長井泰秀が出羽長井荘を、次男の長井泰重が備後国守護を継承した。

  大江(上田) 佐房   生没年不詳  没年令 不詳
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  小野寺 通時   生没年不詳  没年令 不詳
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下野国都賀郡小野寺(地図)を本貫とした武士。始祖義寛の子道綱(通綱)は足利忠綱(藤姓足利氏)と共に平家郎党として宇治川合戦で源三位頼政と戦っている。その後関東に下り、挙兵当初から頼朝に従った。奥州合戦の恩賞として出羽国に所領を得て一族の一部が土着、義寛-秀通-通時と続く。小野寺氏に関しては建保六年(1218)3月23日に関連記事を載せてある。

  忠 快   応保二年(1162)~ 嘉禄三年(1227)  没年令 55歳
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平清盛の弟教盛の息子で、比叡山の覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)の元で受戒し慈円などに師事した天台宗の僧。寿永二年(1183)に平家一門と共に都落ちし、2年後の元暦二年(1185)の壇ノ浦で捕虜となって伊豆国へと流され狩野氏に預けられた。頼朝をはじめ多くの御家人の帰依を受け文治五年(1198)に帰洛、父の所領・三条小川高畠を返還され宝菩提院(現在の願徳寺・wiki)を建立した。
建久六年(1195)には上洛した頼朝に従って鎌倉を訪問、三代将軍実朝にも招かれて鎌倉に数度訪れている。朝廷と幕府の双方から崇敬された天台宗の高僧として天台密教十三流の一つ・小川流の祖となった。

  笠間(塩谷・宇都宮) 朝時   元久元年(1204)5月~ 文永二年(1265)2月  享年 60
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塩谷朝業の次男で宇都宮頼綱の養子となり、義父の意向を受け常陸国笠間に進出して笠間氏を名乗り、嘉禎元年(1235)に築いた佐白山の笠間城を本拠として18代続く笠間氏の基礎を構築した。天福元年(1233)頃から幕府に出仕して頭角を現し、将軍の公式行事には20回以上も出席し仁治元年(1240)に検非違使に任じた。同三年の大嘗会には供奉訳として上京している。
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実父の朝業が没した宝治二年(1248)12月には本家を継いだ実兄の塩谷親朝(従五位下)を越える従五位上・長門守に任じている。武勇に優れると共に文化人としても功績を挙げ、宇都宮新和歌集には51首の和歌が載っている。建長五年(1253)と文永元年(1264)には京都蓮華王院(三十三間堂)に千手観音を一体づつ寄進、笠間市の寺には弥勒菩薩像・千手観音像・薬師如来像(いずれも国の重要文化財)を寄進、その他にも各地に数件の仏像寄進を行っている。

  梶原 景俊   生没年 不詳
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頼朝の腹心だった梶原景時の三男で、父と共に源平合戦・奥州合戦などを転戦した景茂の嫡子。
景時と子息3人(長男景季・次男景高・三男景茂)が駿河で追討された正治二年(1200)1月当時の年齢は定かではないが、史料では景時の次男景高の息子景継と三男景茂の息子景俊は殺されず再び御家人として仕えて承久の乱(1221)などを戦い、景俊は得宗被官(御内人)として北條氏に仕えている。
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承元三年(1209)5月28日の吾妻鏡に「西浜で土屋三郎宗遠が梶原兵衛太郎家茂を斬り殺した、云々」の記事があり、この家茂と景俊が兄弟だった可能性がある(梶原氏で茂を使っているのは景茂系のみ。)

  梶原 景綱   生没年 不詳
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梶原景俊の嫡子。父と同様に得宗被官として北條氏に仕え、吾妻鏡には供奉人などとして数回の登場がある。文応二年(1261)1月2日には献馬を引く上手として記載があり、下手の手綱を引いている五郎景方が息子なのか弟なのか、土屋宗遠に殺された兵衛太郎家茂との関係を含めて少し気になるところだ。景綱の子孫は得宗被官ながら元弘の乱で鎌倉幕府が滅びた後も生き残って勝者だった後醍醐天皇に仕え、更に室町時代には鎌倉公方の足利氏満に仕えたとの記録が見られる。

  上総・千葉・境 (太郎)秀胤   不詳~ 宝治元年(1247)  不詳
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千葉(境)常秀の長子上総千葉氏の二代当主。将軍(藤原頼経)の側近として寛元元年(1243)に従五位上、翌年には千葉一族では唯一の例である評定衆に加わった。幼少の宗家嫡男を補佐すると共に対外的には一族を代表して行動し、北條光時・藤原定員・後藤基綱・三浦光村・藤原為佐・三善康持らと共に藤原頼経を支持して四代執権北條経時に対抗する勢力となった。
寛元四年(1246)に経時が死んで弟の時頼が五代執権に就いた直後の宮騒動(北條光時の反乱未遂と、前将軍藤原頼経の鎌倉追放)によって北條光時と藤原定員が失脚、二ヶ月後には千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持の4人が評定衆から更迭されて反得宗勢力は一掃された。
更に秀胤は下総にあった所領を没収され、本領の上総に蟄居となった。ただし、この軽い処分は執権就任直後に決定的な対立を避けたかった時頼の配慮と考えられている。そして宝治合戦(1247年6月)によって三浦泰村光村が滅亡、直後の6月6日には執権の指示を受けた同族の大須賀胤氏らにより上総国玉崎荘大柳館(千葉県睦沢町)を攻められ、辛うじて助命された幼児を除き上総千葉氏は滅亡した。

  加藤(遠山) 景朝   不詳~ 不詳  享年 不詳
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頼朝の挙兵当初から近臣として仕えた加藤景廉の嫡子。建仁三年(1203)9月の比企氏の乱での仁田忠常追討、承久元年(1219)7月の頼経下向、承久の乱(1221年6月)後の一条信能斬首などが吾妻鏡に記載されている。歴戦の恩賞として父が得た荘園のひとつ・美濃国遠山荘(岐阜県中津川市と恵那市・地図)を相続して地頭となり、岩村城(観光協会サイト)に本拠を置いて遠山氏の祖となった。子孫は数流に分かれ、その一つ苗木遠山氏は苗木藩1万石の大名として明治維新まで続き子爵に列されている。別流の明知遠山氏は江戸幕府の旗本となり、子孫には江戸町奉行となった遠山景元(金四郎)がいる。

  金澤(北條) 実泰   承元二年(1208)~ 弘長三年(1263)  享年 55
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北條義時の六男で生母は伊賀の方、金澤流北條氏の祖。元仁元年(1224)6月の義時死没後に勃発した伊賀氏の変では粛清の危機を迎え、異母兄泰時の配慮で危地を逃れたが不安定な状態に耐えられず精神の安定を崩したらしい。自殺未遂や妄言などを繰り返した末に27歳で家督を11歳の実時に譲り出家した。

  金窪 行親 (太郎、兵衛尉、左衛門太夫、左衛門尉)   生没年 不詳  没年令 不詳
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北條義時の側近で北條得宗家の被官(御内人)。安東忠家と共に義時の側近として頭角を現し、建仁三年(1203)9月の比企能員の乱で功績を挙げ、翌年には頼家の郎党を修禅寺で追討、建暦三年(1213)2月の泉親衡の乱では計画に関与した和田胤長を捕縛して没収所領を安東忠家と分け合い、同年5月の和田合戦終結後は義盛の首などを検分している。合戦直後に義時が侍所別当に就任すると行親は翌日に次官の所司に任じている。
建保七年(1219)には阿野全成の遺児時元を追討、嘉禄三年(1227)にも謀反の容疑者を捉えるなど、北條氏の政権運営に大きく寄与している。

  加地 信実   安元二年(1176)~寛元元年(1243)  没年令 67歳
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平氏追討などに功績を挙げて恩賞の越後国加地荘(新潟県新発田市)に土着し加地氏の祖となった佐々木盛綱の嫡男。大倉御所で双六の催しが行われた建久元年(1190)7月20日(当時15歳)に工藤祐経に抱えられ座席を奪われた事に怒り、祐経の額を石礫で打つ流血事件を起こして父に義絶された。承久の乱で御家人に復帰し、承久三年(1221)5月には酒匂家賢ら後鳥羽上皇派が守る越後の願文山城(新発田市)を攻略し、結城朝広とともに北陸道に於ける軍勢の上洛を指揮した。この功績により備前国守護に補任された。子孫は磯部氏・倉田氏・新発田氏・竹俣氏などとして越後地方に勢力を伸ばしている。

  狩野 為光(為佐)   養和元年(1181)~ 弘長三年(1263)  没年令 82歳
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  清原 清定   生没年 不詳  没年令 不詳
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  清原 満定   建久六年(1195)~弘長三年(1263)  没年令 68歳
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  清原 教隆   正治元年(1199)~文永二年(1265)  没年令 66歳
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朝廷に仕えた明経道(儒学)の大家清原頼業(wiki)の孫。鎌倉に下って幕府に仕え、五代将軍頼嗣・六代宗尊の侍講(専任の講師)を務め、北條実時による金沢文庫(wiki)の創設にもに大きな影響を与えたと伝わる。
晩年には京都に帰って大外記(太政官に属し、奏文の起草・除目・叙位などを執する職の上位者)に任じている。

  九条 良経   嘉応元年(1169)~元久三年(1206)  没年令 37歳
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  九条(藤原) 道家   建久四年(1193)~建長四年(1252)  没年令 59歳
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摂政九条良経の長男で妻は太政大臣西園寺公経の娘、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父でもある。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。幼い頃から祖父の兼実に愛されて薫陶を受け、父の良経が急逝した後は後継として政務に尽力し昇進を重ねた。
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姉の立子が順徳天皇の皇子懐成親王(後の仲恭天皇)を産んで天皇家の外戚となり、更に太政大臣西園寺公経の娘を娶って鎌倉との関係を深めた事なども権利の確保に大きく寄与している。 後に仲恭天皇の摂政となったが承久の乱によって仲恭天皇は廃位となり、乱への関与がなかったにも拘らず連座の形で摂政を罷免され、一時的ではあるが権力を失った。
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その後は西園寺公経の失脚・政子の死没・頼経の将軍就任などの追い風を受け、安貞二年(1228)には近衛家実の後を受けて関白に昇り、翌年には長女の藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させている。寛元元年(1242)頃までは権力の頂点にあったが、将軍職を廃された頼経が失脚すると共に関係を深めていた三浦氏が宝治合戦で滅亡、更に建長三年(1251)には孫の五代将軍藤原頼嗣を中心に担ぎ上げた幕府転覆計画が露見した事などによって失脚した。

  後藤 基綱   養和元年(1214)~康元元年(1267)  没年令 75歳
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藤原秀郷の末を名乗った京武者後藤基清の子。武士としてより文官に近い実務官僚として能力を発揮し、また歌人としても「新勅撰和歌集」に二首、続後撰集に三首、続古今集に一首、続拾遺集に一首、新続古今集に一首選ばれている。承久の乱(1221)では軍奉行を務め、戦後には幕府の命令を受け後鳥羽上皇に与した父の基清を斬首した。恩賞奉行として基綱が残した記録の多くが吾妻鏡の資料に利用された、と推定されている。四代将軍藤原頼経の即金だった関係から寛元四年(1246)6月の宮騒動の後には京に送還された頼経に従って上洛、6年後には72歳の高齢ながら名誉職として引付衆に復帰している。嫡子の基政は引付衆を経て六波羅評定衆となり、子孫はこの職を世襲した。

  後藤 基政   建保二年(1214)~文永四年(1267)  没年令 54歳
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  近衛 家實(猪熊関白)   治承三年(1179)~仁治三年(1243)  没年令 64歳
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関白近衛基通の長男で生母は坊城顕信の娘・顕子、息子は兼経・鷹司兼平など。晩年に六条猪隈小路に住んだことから猪隈関白と呼ばれた。建永元年(1206)に九条良経の死去により藤原氏長者・摂政、間もなく関白に補任された。
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承久の乱(1221)には後鳥羽上皇に反対の立場をとって関白を解任されたが、乱の鎮圧後は仲恭天皇の廃位に伴って九条道家が失脚し、摂政・太政大臣に復帰、貞応二年(1223)に後高倉上皇が崩御した後は名実ともに朝廷の主導者となった。鎌倉幕府に協調して後鳥羽院政を否定し消極的な政治姿勢を採用、公卿の権限を強め財政難には成功(売官)での対処を試みたが、結果的に綱紀の下降を招いた。
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安貞二年(1228)12月には西園寺公経と組んだ道家によって関白辞任となり、この後は近衛家と九条家が交代で摂関を務める習慣となった。温厚な性格で幕府の信任が厚く、承久の乱前後の困難な朝幕関係の修復に努めた。日記「猪隈関白記」は後鳥羽院政や草創期の幕府を知るための重要な史料として貴重な存在である。

  近衛 宰子   仁治二年(1241)~不詳  没年令 不詳
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従一位・摂政 関白・太政大臣・藤原氏長者の近衛兼経の娘。文応元年(1260)2月に鎌倉に下り、相州禅室北條時頼(この時点では前任の執権だが実質は最高権力者)の猶子(一般的には相続権の伴わない養子)として六代将軍宗尊親王に嫁した。背景には将軍の舅として北條独裁体制の権威付けを目論んだ時頼の意思があったと考えられる。
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文永元年(1264)4月に宰子は後に七代将軍となる惟康王を出産、翌年9月には女子(倫子女王)を出産するが、文永三年(1266)5月または6月に出産の験者を務めた護持僧良基との密通事件が発覚した。6月20日に良基は逐電、同日には連署の相模守北條時宗邸で極秘の緊急会議が開かれた。
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23日には宰子と姫宮は山内殿へ・惟康王は時宗邸に移され、7月4日に将軍宗尊親王は鎌倉を発って20日に入洛、宰子も倫子を連れて京都に送還された。京都朝廷への公式通達は「将軍御謀反」だが密通と謀反が事実なのか、将軍更迭の名目だったのかは判然としない。宗尊親王も宰子も嵯峨野に住んだと伝わるが交流があった記録も謀反を裏付ける証言も状況証拠も確認できないから、密通が事実と受け取るべきか。
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後に宰子の娘・揄子は第91代後宇多天皇の側室となって禖子内親王を産んでいるから優雅に暮らしていたのだろう。一方で宗尊親王は文永九年(1272)の二月騒動で側近の中御門実隆が拘束され、更に父の後嵯峨法皇崩御が重なった事などから出家し、文永十一年(1274)8月に33歳で死没している。

  小山 (四郎)朝長   文治四年(1188)~寛喜元年(1229)  享年 41歳
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  小山 (五郎)長村   建保五年(1217)~ 文永六年(1269)  享年 52歳
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小山政光-朝政-朝長-長村と続く小山氏の四代当主で妻は北條実泰の娘。祖父や父と同じく弓馬の術に優れており、安貞二年(1228)5月10日には若干11歳で流鏑馬の射手として登場している。建長~弘長(1249~1267)の時代には宮将軍・五代宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣の供奉人を頻繁に務めていた記録があり、建長二年(1250)3月28日の吾妻鏡には長村が祖父下野入道生西(小山朝政)の十三回忌供養を催したとの記録がある。また同年の12月28日には十六代相伝していた下野国大介職が伊勢神宮雑掌の訴えによって改易され、職と所領の両方を失った事を愁訴した結果、評議によって返却の措置を得たとの記録がある。

  斎藤 長定(浄円)   不詳~ 承久三年(1221)  享年 不詳
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嘉禄元年(1225)に評定所創設されてから延応元年(1239)まで評定衆を務めた。貞永元年に制定された御成敗式目の起草者の一人で、評定衆連署起請文草案の作成にも関与した。吾妻鏡の建保元年(1213)5月3日・和田合戦の条に、「また丁度鎌倉に祇候していた出雲守定長は武門の人物ではなかったが防戦に力を尽くした。彼は刑部卿難波(藤原)頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である。」、更に5日には「出雲守長定同じく賞を蒙る。」との記事がある。祖父は藤原刑部卿頼経で父親は経長、頼経は豊後国知行国主として九州の反平家勢力の中心として働き、文治五年(1189)2月22日に安房流罪・更に伊豆流罪の記事がある。 頼朝には嫌われたらしいが、三代続いて能力の優れた人物だったらしい。

  佐々木 広綱(廣綱)   不詳~ 承久三年(1221)  享年 不詳
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頼朝挙兵の当初から臣従した佐々木四兄弟の長男佐々木定綱の嫡男。建久二年(1191)には近江佐々木荘の年貢をめぐるトラブルにより一門は流罪、広綱は隠岐国に流され二年後3月の後白河法皇一周忌に赦免された。頼朝死没後も御家人の中核として幕政に貢献し、実朝の鎌倉将軍継承後は在京の御家人として京畿の武士を統括し平賀朝雅の追討、西国へ落ちようとした和田一族の拘束、延暦寺僧兵による強訴の鎮圧に任じた。
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その後は元々朝廷に仕えていた京武者として徐々に後鳥羽上皇に取り込まれ、承久の乱(1221)5月には朝廷軍の将として尾張・宇治川で戦って敗れた末に捕獲され7月2日に斬られた。嫡男継綱は戦死し次男為綱と三男親綱は行方不明、四男で11歳の勢多加丸は助命されたが一族の支配独占を狙った弟の信綱に殺され、これ以後の佐々木氏は信綱が継承する結果となった。

  佐々木 信綱   養和元年(1181)~ 仁治三年(1242)  享年 61歳
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頼朝挙兵の当初から臣従した佐々木四兄弟の長男佐々木定綱の四男。承久二年(1220)に出家して経仏を名乗った。
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承久の乱(1221)で長兄の広綱は後鳥羽院に味方して敗北後に斬首され息子3人は戦死と行方不明、幼かった四男の勢多加丸は助命されるが、一族所領の独占を望んだ信綱によって殺された。幕府軍に属して宇治川渡河合戦で戦功を挙げ、た信綱は一族の本貫地である近江佐々木豊浦庄・羽爾堅田庄・栗本北郡の地頭職となり、佐々木一族の全てを得た。
本領の近江は四人の息子に分割され長男重綱が坂田郡大原荘を継承して大原氏の祖に、次男高信が高島郡田中郷を継承して高島氏の祖に、三男泰綱が宗家と江南六郡を継承、四男氏信が江北の六郡を継承した。彼らの子孫は各々大原氏・高島氏・六角氏・京極氏として戦国時代を生き抜くことになる。

  佐々木(大原) 重綱   承元々年(1207)~ 文永四年(1267)  享年 60歳
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佐々木信綱の三男で生母は北條義時の娘。高島高信・六角泰綱・京極氏信の兄。承久の乱では宇治川先陣の武勲を挙げ、将軍頼経の近習として仕えた。仁治三年(1242)の父信綱死没に際して生前贈与を受けていた弟の泰綱と争論が始まり翌年に訴訟、泰綱が継承していた近江国内の所領を手に入れた。これによって佐々木氏の勢力が細分化され結果として零落する端緒となったらしい。

  佐々木(六角) 泰綱   建保元年(1213)~ 建治二年(1276)  享年 63歳
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佐々木信綱の長男で大原重綱・高島高信の弟、京極氏信の兄。元仁元年(1224)に鎌倉幕府に出仕して検非違使、左衛門尉、壱岐守に任じた。文暦元年(1234)に父の隠居により近江佐々木荘の領地と六角東洞院にある京都屋敷を譲られ、家督を相続して近江守護となったが父から廃嫡されていた長兄の重綱が所領の配分をめぐって訴訟を起こし、結果として近江国の所領を一部割譲する結果となった。家督と家名は泰綱の継承が認められたが、これによって佐々木氏の勢力が細分化され結果として零落する端緒となったらしい。

  佐々木 (四郎)氏信   承久二年(1220)~ 永仁三年(1295)  享年 75歳
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佐々木信綱の四男(生母は北條義時の娘)で大原重綱・高島高信・六角泰綱の弟、京極流佐々木氏の祖。父の死没後に近江国北部の高島・伊香・浅井・坂田・犬上・愛智の六郡と京都の京極高辻館を相続した。文永二年(1265)に引付衆、翌年に評定衆、弘安六年(1283)には近江守に任じた。京極氏は外様大名として江戸時代を生き抜き、明治維新の際には華族に列している。209

  佐々木 (隠岐次郎)泰清   不詳~ 弘安十年(1287)  享年 不詳
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佐々木義清の次男。通称は隠岐次郎、左衛門少尉、信濃守、隠岐と出雲両国の守護職。兄の政義が無断で出家して職掌と所領の没収処分を受けたため兄の跡を継いで出雲と隠岐の守護に任じた。有力御家人との関係を円満に保ち自らも六波羅探題評定衆に列せられた。官位は検非違使、次いで従五位下大夫判官、信濃守に補任された。

  佐々木(隠岐判官・信濃次郎)時清   仁治三年(1242)~ 嘉元三年(1305)5月  享年 63歳
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佐々木泰清の次男。執権北條時頼の偏諱を受けて元服し、弘長三年(1263)1月に左衛門少尉・検非違使、翌年11月には従五位下に叙された。34歳で引付衆、弘安六年(1283)に評定衆に任じ、同十年(1287)と正安三年(1301)には東使(重要な政治的案件を朝廷や六波羅に伝える特使)を務めた。嘉元三年(1305)4月の嘉元の乱の12日後に襲撃の首謀者とされる得宗家執事・北條宗方(貞時の従兄弟)の追討に従軍、宗方と相討ちで死没した。
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※嘉元の乱: 執権を退きながら実権を握り続けた北條貞時の御内人(得宗被官)と一部の御家人が連署の北條時村邸を襲撃して殺害した事件。
北條一族の内紛だが、事件の真相は謎に包まれている。

  佐原 (蘆名)光盛   承久二年(1220)~ 永仁三年(1295)  享年 75歳
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  佐原(三浦) 盛連   不詳~ 貞永二年(1233)  享年 不詳
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  佐原(三浦) 盛時   生没年 不詳  享年 不詳
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三浦(佐原)義連の孫で盛連の六男、生母は北條泰時と離縁して盛連に再嫁した矢部禅尼、正室は北條時員(時房の長男)の娘。早世した北條時氏(泰時の長男)とは異父兄弟の関係にあり、母の矢部禅尼を介して北条得宗家との関係が強く、宝治合戦の際は兄弟を率いる形で北條氏に味方した。ただし合戦より前に執権の北條時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、この時点で既に時頼に取り込まれ得宗被官になっていたと考えられる。必ずしも血縁ではなく功利的な判断に基づく行動だった可能性も高い。三浦氏の滅亡後は三浦介として宗家を継承し三浦棟梁の処遇を受けたが、幕府内で重用されることはなかった。そして280年後、相模三浦氏を継承していた三浦道寸は北条早雲(伊勢新九郎)に攻められ、油壺に近い新井城で守兵と共に滅亡することになる。

  島津 四郎忠綱   元久二年(1205)~ 文永五年(1268)前後  享年 63歳
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父の島津忠久が越前国守護に補任された承久三年(1221)に17歳で守護代を務め同国の生部(現在の福井市・朝倉氏一乗谷遺跡の近く・地図)に住んだと伝わる。現在福井市生部町内に「越前島津屋敷跡」があり、平成22年(2010年)には同町会の要望によって当地に石碑が建立された。しかし安貞2年(1228年)には島津氏に代わって後藤基綱が越前守護となったため、忠綱も同時に守護代を退任したものと推測される。薩摩国揖宿郡(現鹿児島県指宿市)・知覧院(現南九州市)等に地頭職を有していたが、前者に関しては文暦2年(1235年)、郡司・指宿忠秀との間に所領問題を起こし解職された。嘉禎2年(1236年)~文応2年(1261年)、鎌倉にあって歴代将軍に近侍。宝治2年(1248年)、4代将軍・藤原頼嗣に高麗山のヤマガラを献じている。寛元3年(1245年)8月16日の鶴岡馬場の儀にて流鏑馬の的立を務め、また正嘉元年(1257年)6月1日旬鞠会では見証(審判)に列していることから、文武に優れた人物であったことが窺われる。 参考までに...朝倉氏遺跡訪問レポート(サイト内リンク・別窓)もどうぞ。

  塩谷(宇都宮) 朝業   承安四年(1174)1月~ 宝治二年(1248)10月  享年 74歳
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宇都宮氏三代当主朝綱の嫡男である四代業綱(成綱)の四男で、建久二年(1191)前後に嫡子のなかった清和源氏流塩谷朝義の用紙となって塩谷氏の名跡を継いだ。建久三年(1192)には実父の業綱が死没、建久五年(1194)には祖父の朝綱が公田横領の罪に問われて土佐流罪、兄頼綱は豊後流罪、朝業も連座して周防流罪に処されている(一説には赴かなかった、とも)。二年後には全員が赦免されて帰国した。
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その後は北関東における宇都宮一族の権益を広げるとともに三代将軍実朝に仕えて和歌の相手となり、身分を越えた親しい関係となった。建保七年(1219)1月の実朝暗殺後には塩谷に戻って出家、後に京都に住んで歌人と宗教人として余生を過ごした。法然を畏敬し弟子の証空に師事し、嘉禄三年(1227)には延暦寺衆徒から法然の遺骸に付き添い東山の廟所(知恩院・公式サイト)から嵯峨野の二尊院(京都観光ナビ)まで、遺骸移送の護衛に任じている。

  渋川(足利) 義顕(兼氏)   生没年 不詳  没年齢不詳
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足利宗家四代当主足利泰氏の次男で生母は北條朝時の娘。分家して上野国渋川荘を本領とし渋川氏の祖となった。泰氏の庶長子の家氏は分家して足利尾張家の祖となり、生母が得宗家の出身(北條時氏の娘)だった異母弟の頼氏が足利宗家を継承した。
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一門の中での家格は高く、庶兄の家氏と共に御家人として幕府に仕えた。寛元三年(1245)の八幡宮放生会に臨席する五代将軍藤原頼嗣の随兵を務め、康元元年(1256)には六代将軍宗尊親王北條政村邸訪問の供奉人を務めたのを最後に吾妻鏡から姿を消している。

  嶋津 忠時   建仁二年(1202)~ 文永九年(1272) 5月  享年 70歳
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嶋津氏の祖忠久の嫡子で島津忠綱の兄、二代当主を継いだ。承久三年(1221)に承久の乱で勲功を挙げ、一門が守護をしていた若狭国の守護職を兼任する。嘉禄三年(1227)に父の死没によって家督を継ぐが在国はせず、鎌倉に常駐し有力御家人として近習番役などに任じた。幕政に貢献した功績により伊賀・讃岐・和泉・越前・近江などに地頭職を得ている。

  嶋津 久経(久時)   嘉禄元年(1225)~ 弘安七年(1284) 4月  享年 59歳
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嶋津忠時の次男で嫡男、初名は久時、嶋津氏の三代当主。文永二年(1265)に家督を継承して鎌倉に入り有力御家人の一人として昼番衆に任じた。
建治元年(1275)には焼失した六条八幡(公式サイト)造立の基金40貫を拠出、同年に元寇に対応するため九州に戻り筑前(博多)の守備を命じられた。
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弘安の役(1281年)では嶋津軍を率いて奮戦し大きな功績を挙げ、弘安四年(1284)には鹿児島に 浄光明寺(wiki)を建立、同年4月に筑前の筥崎(福岡市)で没した。後継は嫡子の忠宗、弘安の役での奮戦は共に戦った竹崎季長が戦後に描かせた蒙古襲来絵詞(共にwiki)に描かれている。

  嶋津 忠景 周防五郎 法名は素信  仁治二年(1241)~ 正安二年(1300) 5月  享年 59歳
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島津忠綱の三男。学芸に優れ、宗尊親王の近臣として廂衆・門見参衆・御格子上下結番・昼番衆等の御所内番役を歴任、和歌の名手として鎌倉花壇の代表的な武家家人と称えられた。蹴鞠にも造詣が深く、弘長三年(1263)には旬御鞠奉行にも選任、文永二年(1265)12月に検非違使に補任された。
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気骨のある誠実な人物で、文永三年(1266)7月の宗尊親王の更迭の際には多くの近臣が親王を見捨てて将軍御所から逃げ出す中で忠景ら数名のみが御所に残留し、北條九代記などには高く評価されている。晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたらしい。

  諏訪 盛重 (蓮仏入道)   生没年不詳  没年齢 不詳
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諏訪社大祝職を務め、後に北條得宗家の被官である御内人として幕政に貢献した。承久の乱(1221)には諏訪大祝として戦勝を祈願すると共に、長男の信重を小笠原長清の下に従軍させ、戦後には被官として北條泰時に仕え始めた。
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得宗被官を取り纏めた長老的な存在であり、1247年の宝治合戦直前には五代執権時頼の指示を受け、鎌倉に集結した御家人を鎮圧し解散させる任を果たし、北條一門や外戚の安達氏などを含む幕府中枢の協議にも再三加わっている。その後も寛元四年(1246年)の宮騒動や宝治元年(1247年)の宝治合戦での勲功を含め、時頼からは「無双の勲功」との賞賛を得た。

  世良田(新田) 頼氏   生年不詳  没年 文永九年(1272) 6月   没年齢 不詳
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新田源氏の祖である新田義重の四男が新田(世良田)義季、その次男が世良田を継いだ頼氏で、兄には得川氏の祖となった頼有、息子には嫡流の教氏・同じく世良田を名乗った有氏・江田を名乗った満氏がいる。
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父の義重から上野国新田郡(新田荘)世良田郷(群馬県太田市世良田町)を継承して世良田弥四郎と称し世良田氏の祖となった。世良田郷近辺は新田荘の中で最も豊かな土地であり、一族は周辺の開発を進めて新田宗家を超える実力を蓄えた、と伝わる。
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寛元二年(1244)6月に新田宗家の当主政義が京都大番役を幕府に無断で放棄し、更に無届で出家する事件を起こした。幕府は政義と新田本宗家から新田氏惣領職を没収し頼氏および新田一族の岩松氏に分割して与えた。頼氏は将軍の近習として幕府に出仕し、この前後に三河守に任官、以後の吾妻鏡は頼氏を新田三河前司と呼んでいる。
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文永九年(1272)2月には名越流北條朝時の次男時章と六男教時が謀反の嫌疑で執権時宗に追討され更に時宗の異母弟時輔(六波羅探題)も討たれる事件(二月騒動)が勃発、頼氏の正室は北條教時の妹だったため連座して失脚し佐渡に流され、同年6月に死没した。ちなみに時輔と名越兄弟が共謀していた史料は存在せず、元寇を前にして得宗体制の強化を図った時宗が反対勢力の一掃を強行したと考える説が強い。

  平 盛綱 (三郎兵衛尉)   生没年不詳  没年齢 不詳
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北條得宗家の家司で内管領長崎氏の祖。執権が別当を務める侍所の所司として承久の乱(1221年)や伊賀氏の変(1224年)で高い実務能力を発揮し、三代の執権(泰時・経時・時頼)を補佐した。承久の乱後に「安芸国巡検使」として国人の動静を調べた事なども功績の一つとされる。元仁元年(1224)には泰時の指示を受けて北條氏の家訓を作成、御成敗式目の制定にも関与している。文暦元年(1234)には家令となり、後世の長崎氏が内管領として活躍する基礎を築いた。霜月騒動で安達一族を滅ぼし恐怖政治を敷いた後に九代執権貞時に滅ぼされた平頼綱は孫に当たる。

  平 左衛門三郎盛時   生没年不詳  没年齢 不詳
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北條得宗家の被官(御内人)。侍所の所司を務めた盛綱の息子で、霜月騒動で安達一族を滅ぼした頼綱の父。
暦仁元年(1238)に将軍頼経の随兵として上洛した頃から実務家として頭角を現し、寛元四年(1246)の宮騒動では諏訪盛重・尾藤景氏らと共に執権時頼に近侍し、将軍頼経の使者に対して時頼との面会を拒絶している。
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騒動後には事件の事後処理を担当し、翌年の宝治合戦で北條得宗が勝利した後は侍所所司として諏訪盛重と共に罪人の尋問や三浦一族自害の様子を目撃した僧から事情聴取を担当、恩賞の配分など戦後処理に任じた。弘長元年(1261)には三浦義村の十男良賢を捕獲、鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の正室として下向する近衛宰子の供奉奉行を務め、翌々年に出家して現役を退いた。

  平 頼綱   仁治二年(1241)~ 正応六年(1293)  享年 52歳
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北條得宗家の御内人で八代執権時宗と九代執権貞時の執事を務め、御内人の筆頭として時宗の得宗専制政治を補佐した。父は三代執権北條泰時・四代執権経時・五代執権時頼の執事を務めた平盛時。時宗死後に力を強めた御内人を危惧した有力御家人の安達泰盛を弘安八年(1285)の霜月騒動で滅ぼし、時宗の嫡子で幼少の貞時を補佐する形で御内人による専制恐怖政治を敷いた。
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文永八年(1271)には元寇に対応して御家人の鎮西出兵が行われ、同時に他宗と幕府を激しく批判した日蓮の流罪と門徒の弾圧を行っている。建治元年(1275)には父の盛時が死没し、翌々年には寄合衆(従来の評定衆の格上機関)に補任された。蒙古襲来に対応した戦時体制の強化によって得宗に権力が集中する中で御内人の筆頭である頼綱の権力も大きくなり、必然的に北條氏の外戚で最大の御家人勢力だった安達泰盛との対立も深まった。
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弘安七年(1284)1月には内管領(得宗家の執事、得宗被官・御内人の筆頭)に就任し、父の盛時から継承した侍所所司・寄合衆・内管領を兼ねる得宗被官最上位として長崎氏一門が得宗家公文所・幕府諸機関に進出している。弘安七年(1284)4月に頼綱と泰盛の関係を調整していた時宗の死没と共に関係が悪化、鎌倉に向かった六波羅探題北方の北條時村は三河国で阻止され、六波羅探題南方の北條時国は召喚されて殺害された。
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7月に貞時(14歳)が執権に就任すると外祖父の泰盛は将軍の権力強化と得宗御内人の権限を抑制する改革(弘安徳政)を行い、貞時の乳母父だった内管領頼綱との対立は決定的になった。弘安八年(1285)11月には鎌倉市内で武力衝突となり、執権貞時を擁した頼綱の専制攻撃を受けた安達一族と彼に与した御家人層の勢力は壊滅した(霜月騒動)。
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敵対勢力を一掃した頼綱は徐々に独裁傾向を強めて恐怖政治を敷いたが、やがて幕府内部と執権貞時にも不満が高まり、正応六年(1293)4月の大地震による混乱の中で経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され頼綱は自害、一族は滅ぼされた。晩年の頼経は家格を上げることと豪奢な暮らしを楽しむことに専念していた、と伝わる。独裁者って時代が変わっても同じことを繰り返すんだね。

  丹波 良基   承元二年(1208)~ 安貞二年(1228)  享年 20歳
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吾妻鏡に丹波氏の名が載った最初は正治元年(1199)5月7日、医師の丹波時長が頼朝の次女 乙姫(三幡)の治療に派遣された。丹波氏は医師の家系だが時長と良基の血縁は確認できない。その後は嘉禄二年(1226)1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の施薬院(wiki)から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
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建長四年(1252)には頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身の六代将軍になると朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は北條氏にも提供され始める。

  武田 五郎次郎 信時   承久二年(1220)~正応二年(1289)2月  享年 69歳
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武田氏五代当主信光-嫡子で六代当主信政-嫡男信時と続く甲斐源氏武田氏の嫡流で子孫は武田信玄へと続く。次弟に政綱(五郎三郎)、母は大内惟義の娘で息子に八代当主を継承した時綱がいる。寛喜元年(1229)1月に当時の執権 北條泰時を烏帽子親として「時」の偏諱を受け信時を名乗った。文永六年(1269)11月にし安芸国守護代として西国の御家人を統率し長門国へ出陣するよう、執権北條時宗から指示を受け、以後は建治二年(1276)まで西国で活動しているが、一時期は鎌倉に戻っていたと思われる資料も存在する(甲斐源氏の系図を参照)。
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  武田 五郎三郎 政綱   生没年 不詳   没年令 不詳
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武田氏五代当主信光-嫡子で六代当主信政-次男政綱と続く甲斐源氏武田氏の一族で得宗被官(御内人)として北條時頼・時宗に仕えた。弓の名手だったらしく、鎌倉時代中期の流鏑馬などに再三登場している。弘長三年(1263)11月の時頼臨終に際しては最後の看病を許された得宗被官七人の一人として名前が載っている。兄の信時は安芸国守護に任じて甲斐国から去り、石和を本拠にした政綱が甲斐守護に任じたが、南北朝時代になって信時の子孫が甲斐に戻って武田宗家を継ぎ、子孫は武田信玄に続いている。
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  千葉 胤綱   承元二年(1208)~ 安貞二年(1228)  享年 20歳
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千葉氏五代当主成胤の長子で第六代当主。承久元年(1219)7月の三寅(後の四代将軍藤原頼経)の鎌倉下向に供奉したのが吾妻鏡に乗った最初で、初陣の承久の乱(1221)で軍功を挙げ後鳥羽上皇に与した坊門忠信の護送に任じた(忠信は途中で釈放)。享年31歳とする説もあり、その場合は承久の乱には24歳だった可能性がある。吾妻鏡は胤綱早世の跡は弟の時胤が継いだ、としている。古今著聞集(鎌倉時代中期の説話集)は「胤綱が御所で三浦義村の上座に着いて「下総の犬は寝床を知らぬか」と言われ、「三浦の犬は友を喰らうぞ」と切り返して和田合戦で義盛を裏切った義村を罵った。」と書いている。ただし、この信憑性には疑義が呈されている。

  千葉(境・上総) 秀胤   生年不詳~ 宝治元年(1247)  享年 不詳
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千葉(境)常秀の嫡子で上総千葉氏の二代当主、正室は三浦義村の娘 (泰村の妹) 。寛元二年(1243)に従五位上に叙され、翌年には千葉氏では唯一の例である評定衆に任じている。秀胤は一族の長老として幼少の千葉氏宗家の当主・亀若丸(後の宗家八代当主千葉頼胤)を補佐する一方で北條光時・藤原定員・後藤基綱・三浦光村・藤原為佐・三善康持らに協力して九条(藤原)頼経の側に立ち、執権北條経時と対抗する立場を執った。
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寛元四年(1246)の経時死没に伴って勃発した宮騒動によって北條光時と藤原定員が失脚し、直後には後藤基綱・藤原為佐・三善康持と共に評定衆から更迭、下総埴生西・印西・平塚の所領を没収(北條実時に移管)され本領の上総国蟄居となった。これはやや寛大な措置で、新たに執権となった北條時頼が決定的な対立を避けて騒動の早期収束を図った結果らしい。
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そして宝治元年(1247)6月の宝治合戦(三浦合戦)で泰時らが滅亡すると秀胤にも討伐の兵が送られ、同族の大須賀氏・東氏の軍勢に攻められた玉崎荘大柳館(現在の千葉県睦沢町)で一族郎党163名と共に自刃した。東氏の当主胤行の娘は秀胤の三男泰秀に嫁しており、胤行は軍功と引き換えに外孫ら幼児の助命を許されたが、この事件により上総千葉氏は実質的に滅亡した。

  千葉 次郎 泰胤   生年不詳~ 建長三年(1251)  没年令 不詳
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千葉成胤または胤綱の息子。三代執権北條泰時の偏諱を受けて泰胤と名乗った。下総国匝瑳郡の千田荘(現在の香取郡多古町・地図・道の駅多古あじさい館(サイト内リンク・別窓)の近く、静かな穀倉地帯だ)を領有して千田氏の祖となり、また奥州千葉氏(千葉常胤が奥州合戦での勲功で得た陸奥国数ヶ所の地頭職が始まり)の祖ともされる。
幼少で千葉氏当主となった甥の頼胤後見人の一人として娘を嫁がせ所領を継承させた。当初は一族の中で最も勢力を持っていた評定衆の一人千葉秀胤が宝治合戦(1247年6月)で三浦泰村に味方して滅亡、泰胤の系が千葉氏庶流の中で最も繁栄する勢力となった。
建長二年(1250)に将軍近習結番に任じ、下総の千田荘・八幡荘および肥前国小城荘の地頭職を得て九州千葉氏の基礎を築いている。

  土御門 定通   文治四年(1188)~ 宝治元年(1247)  享年 59歳
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源通親の四男。後鳥羽上皇の側近として順調に出世を重ねると共に家柄としては遥かに各下の北條義時の娘・竹殿 (泰時の異母妹・生母は姫の前)を妻に迎えて鎌倉との関係も強化した。承久の乱(1221)には関与しなかったが御鳥羽院政に携わった一人として、また甥に当たる土御門上皇の流刑などによって政治的には失脚した。嘉禎二年(1236)になって北條氏との縁戚関係に依拠して内大臣に復帰したが政治的な影響力は失われていた。
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仁治三年(1242)になって第87代四条天皇(後堀河の次代)が12歳で急死し皇位継承可能な皇子が絶えた。やむを得ず御鳥羽上皇の系統から選ぶこととなり、有力公卿の九条道家らは順徳上皇の皇子・忠成王を推した。定通が執権泰時に働きかけた土御門上皇の皇子・邦仁王が結果として第88代後嵯峨天皇となった。定通は天皇の後見として、また鎌倉との緊密な関係を利用して権勢を維持し続けた。

  内藤 盛家   保延四年(1138)~ 嘉禄三年(1227)  享年 89歳
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藤原秀郷八代の子孫・内藤盛定の子。寿永四年(1185)から頼朝に従って御家人に任じた。吾妻鏡の文治二年(1186)3月27日の条に、京都守護に任じていた北條時政が鎌倉に帰還するに当たり、市中警護の武士を残すとの記載がある。残留した武士の中に「ないとう四郎(盛定か?)」が含まれ、彼の家人に左衛門尉(内藤六)盛家が記録されている。
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建久元年(1190)前後から地頭をつとめる周防遠石(といし)荘内(現在の山口県周南市遠石(地図)・東大寺領と石清水八幡宮領が混在していた)の東大寺領と石清水八幡宮領を押領したため、地頭停止の命令をうけた。系図では盛家嫡子の盛俊は承久の乱で戦死し、弟の有盛が周防遠石の地頭を継承しているから、退去以外に更迭などの罰は特になかったらしい。盛家は内藤を名乗った最初の人物で、各地の内藤氏の祖になったとされっている。

  長井 泰秀   建暦二年(1212)~ 建長五年(1254)  享年 42歳
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  長井(大江)太郎 時秀   仁治三年(1242)前後~ 没年 不詳  享年 不詳
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大江広元の孫・長井泰秀の嫡子。母は佐々木信綱の娘で妻は安達義景の娘。父が死没した翌・建長六年(1254)には引付衆五番として幕政に加わり数回の東使として上洛、文永二年(1265)には6月には評定衆に任じ、文永八年(1271)には備前守となった。評定衆でありながら三代の将軍(頼経・頼嗣・宗尊親王)の側近も務めていたのは優れた能力を持っていた証でもある。
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建治元年(1275)の京都若宮八幡宮再建の際には北條一門が500~200貫・足利氏が200貫の拠出に次いで多い180貫を負担しており、財力が豊かだった事も特筆できる。弘安七年の時宗死没と共に出家し以後の活動記録が見られないためこの頃に没したらしい。
嫡子の宗秀と共に吾妻鏡編纂者の一人と推定されている。

  中原 親実   仁安元年(1166)?~ 没年不詳  享年 不詳
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明経道の中原忠順の子で評定衆中原師員の叔父に当たる。四代将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で、将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。仁治二年(1241)の安芸厳島社神官らの申状によれば親実が70歳を超えていた、つまり仁安年代(1166~1168年)前後の誕生だった事を推測させる。
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確認できる官職は周防守、文暦二年(1235)の厳島社造営の人事として周防守護から安芸守護に転任し厳島神社の神主に任ぜられた。寛元二年(1244)には上洛して六波羅評定衆に任じ、その後は周防守護に戻って寛元三年(1245)から建長三年(1251)までの在職が確認できる。建長五年(1253)の法勝寺阿弥陀堂供養では在京の御家人として西二階門の警固を受け持った。

  中原 師員   元暦元年(1184)~ 建長三年(1251)  享年 66歳
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大江廣元の本家である明経道中原氏の庶流で、父の師茂は中原親能と大江廣元の従兄弟に当たる。その縁により、北條泰時の時代に鎌倉に下向し、元仁二年(1225)に設立された評定衆の一員に加わって重用され、連署時房の死没(延応二年・1240年)後の政所下文には泰時の次に署名押印している。四代将軍に就任した藤原頼経の側近でもあり、職責としては京都と鎌倉・評定衆と政所・執権と将軍の間を繋ぐと共に調整する接点の役目を果たしていたらしい。
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頼経の更迭などの政変にも幕府の中枢として活躍し、子孫も幕府中枢の事務官僚の役職を世襲した。嫡子の師連と共に実名で吾妻鏡に登場する例が多く、日記などの文書が吾妻鏡編纂の資料として利用されたと考えられている。

  中原 師連   承久三年(1220)~ 弘安六年(1283)5月  享年 63歳
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中原師員の息子で幕府の実務官僚を務め、外記を経て縫殿頭に任じた。五代将軍藤原頼嗣・六代将軍宗尊親王・七代将軍惟康親王の三代に仕え、弘長三年(1263)7月には二階堂行方を引き継いで宗尊親王の御所奉行を、同年11月には御息所(将軍の正室)奉行を務め、文永元年(1264)には評定衆に就任している。子孫は幕府中枢の実務官僚を世襲し、将軍側近を勤めながら北條得宗家の被官としても働いた。
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鎌倉滅亡の際に東勝寺で得宗一族と共に自刃した摂津刑部太夫入道道準は中原師連の直系の孫にあたる。吾妻鏡の後半には実名で登場する例が多く、編纂した際の資料として師連の遺した日記や記録が利用された可能性が高い。

  二階堂 行村   久寿二年(1155)~ 嘉禎四年(1238)  享年 83歳
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二階堂行政の長男で二階堂行光の兄。父の後継として評定衆に任じた実務官僚で、子孫は概ね評定衆を世襲している。文官でありながら検非違使にも任じたため山城判官とも呼ばれた。官職は隠岐守で官位は従五位下、伊勢国益田庄(三重県桑名市)の地頭に任じ、同地で没した。行政と行光と兄の行村が書き残した資料が吾妻鏡の編纂者によって利用され、根幹の一部になった事は良く知られている。

  二階堂 行盛   養和元年(1181)~ 嘉禎四年(1238)  享年 57歳
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二階堂行政の孫で二階堂行光の息子。行光没後の政所執事には甥伊賀光宗が着任したが光仁元年(1224)の伊賀氏の変で流罪に処され、その後任として行盛が就任。建久五年に没するまで政所執事として幕政に寄与した。以後は行盛の家系が政所執事を世襲している。

  二階堂 行泰   養和元年(1211)~ 建長五年(1265)  享年 54歳
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二階堂行盛の嫡子で評定衆。建長元年(1249)に引付衆、同五年(1250)に政所執事・五番引付頭人、正元元年(1259)に評定衆に任じた。弘長二年(1262)に政所執事を子息の行頼に譲ったが翌年に行頼が死没、再任となった。

  二階堂 行頼  加賀守、従五位下恵     寛喜二年(1230)~ 弘長三年(1263)11月  享年 33歳
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二階堂行泰の嫡子。建長二年(1250)に近習番、文応元年(1260)に加賀守、弘長二年(1262)に引付衆を経て父の行泰から政所執事を継承するが翌年に死没、行泰が還任する結果となった。

  二階堂 元行(基行)  法名 行阿   建久九年(1198)~ 仁治元年(1240)  享年 42歳
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二階堂行村の嫡子。暦仁二年(1239)~延応二年(1240)まで評定衆。益田荘の地頭で、実朝が暗殺された直後の建保七年(1219)1月27日に父と共に出家した。

  二階堂 行義  法名 道空   建仁三年(1203)~ 文永五年(1268)  享年 65歳
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二階堂行村の次男。暦仁元年(1238)~文永五年(1268)までの30年間評定衆に任じた。通称は出羽前司、吾妻鏡には文永三年(1266)3月6日の記載が最後になる。

  二階堂 行久  法名 行日   元久二(1205)~ 文永三年(1267)  享年 62歳
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二階堂行村の三男。建長元年(1249)~ 弘長元年(1261)に評定衆に任じた。通称は隠岐四郎左衛門尉、隠岐大夫判官、常陸入道。吾妻鏡には寛喜二年(1230)12月9日から弘長三年(1263)1月18日まで名前が載っている。

  二階堂 行方   建永元年(1206)~ 文永四年(1267)  享年 61歳
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二階堂行村の四男。6代将軍宗尊親王の御所中雑事奉行(御所奉行)を務めた。正元元年(1259)~弘長元年(1261)まで評定衆、同三年(1263)に中原師連と御所中雑事奉行を交替して出家した。この時期の吾妻鏡は行方の筆録をベースにしたと考えられている。

  二階堂 行綱  法名 行願   建保四年(1216)~ 弘安四年(1281)  享年 65歳
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二階堂行盛の次男。寛元三年(1245)に伊勢守、建長元年(1249)に引付衆、康元元年(1256)に執権の北條時頼の出家に従って兄の業泰・弟の行忠らと共に出家して行願を称した。文永元年(1264)~弘安四年(1281)に評定衆、文永六年(1269)には政所執事に任じた。後継は嫡子の頼綱。

  二階堂 行忠  法名 行一   貞応元年(1222)~ 正応三年(1290)  享年 68歳
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二階堂行盛の三男。(1264)~(1290)に評定衆、弘安六年(1283)~正応三年(1290)に政所執事を務めた。嫡子の行宗は引付衆まで進んだが行忠に先立って没しており、行忠の没後は孫の二階堂行貞が22歳で政所執事に就任している。

  二階堂 行有 法名を道証  出羽大夫判官、尾張守、備中守   承久二年(1220)~ 正応五年(1292)6月  享年 72歳
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二階堂行義の次男で父と同じく幕府実務官僚。と称し、文永七年(1270)に出家して道証と号した。嫡子は二階堂行藤、娘が北條時章に嫁している。 正嘉二年(1258)以前には検非違使に任じ、京都から下向した三代の将軍(藤原頼経→ 頼嗣→ 宗尊親王)に側近として仕えた。将軍家の鶴岡参宮・方違え・放生会などに再三供奉し、頼嗣が京都に更迭された建長四年(1252)4月には路次奉行を勤めている。
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官僚の実務のみならず武芸にも優れており、流鏑馬の射手や勝長寺院の寺門守護などにも名前が見える。文永二年(1265)に引付衆、文永七年(1270)年に評定衆、文永九年(1272)には安堵奉行(所領の安堵を司る)に任じている。

  二階堂 行章  和泉次郎左衛門尉、三郎左衛門尉、信濃守     嘉禎元年(1238)~ 文永十一年(1274)4月  享年 39歳
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二階堂行方の子で幕府の実務官僚。寛元二年(1244)から文永三年(1266)まで五代将軍藤原頼嗣と六代将軍宗尊親王に仕えて供奉人や随兵を務めている。文永七年(1270)に二階堂行佐と共に引付衆に着任している。

  二階堂 行佐  筑前四郎左衛門尉、法名は行円     暦仁元年(1238)~ 建治三年(1277)6月  享年 39歳
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二階堂行泰の子で幕府の実務官僚。寛元二年(1244)から文永三年(1266)まで五代将軍藤原頼嗣と六代将軍宗尊親王に仕えて供奉人や随兵を務めている。文永七年(1270)に二階堂行章と共に引付衆に着任している。

  二階堂 行氏  隠岐三郎左衛門尉。法名は道智。   承久三年(1221)~ 文永八年(1271)6月  享年 50歳
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実務官僚二階堂 元(基)行の子。仁治元年(1240)に相模国懐嶋(元は大庭景義の本領)の殿原郷など6ヶ所の地頭職を継承して幕府の承認をうけ、宝治元年(1247)には戦功によって三浦氏の旧領である安房北郡の地頭職を得た。弘長八年(1263)に出家して道智を名乗っている。

  二階堂 行景  筑前四郎左衛門尉、法名は道願     仁治三年(1242)~ 弘安八年(1285)11月  享年 43歳
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二階堂行氏の子、幕府の御家人で実務官僚。建治元年(1275)に引付衆。霜月騒動により安達泰盛一族と共に内官領(得宗被官の筆頭)平頼綱の軍勢に殺された。

  二階堂 行宗  信濃次郎左衛門尉、信濃判官  法名は行円     寛元四年(1246)~ 弘安九年(1286)4月  享年 40歳
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二階堂行忠の子、幕府の御家人で実務官僚、行貞の父。文応元年(1260)1月に御所昼番衆の名簿に載ったのが吾妻鏡での初出で、同年7月25日には後嵯峨上皇の病気見舞いの使者として上洛している。弘安元年(1278)に引付衆に任じ、同7年(1284)に出家、父の行忠に先立って没している。

  二階堂 行貞  左衛門尉、山城守、信濃守  法名は行暁     文永六年(1269)~ 嘉暦四年・元徳元年(1329)3月  享年 60歳
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二階堂行宗の子、幕府の御家人で実務官僚。九代執権北條貞時の偏諱を受けて行貞を名乗った。父の行忠宗が弘安九年(1286)に、祖父の二階堂行忠が正応三年(1290)に没したため22歳で政所執事に任じた。これは弘安八年(1285)11月の霜月騒動で平頼綱が実権を握った時期であり、頼綱の意思が働いたものと推定され、翌年に検非違使六位・尉に任じている。
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正応六年(1293)4月になって成長した北條貞時が平禅門の乱により頼経を討伐、頼経時代の人事を否定する方針を執ったため10月には政所執事を罷免され、二階堂行村系統の二階堂行藤が補任、行藤が乾元元年(1302)8月に没した3ヶ月後に行貞が政所執事に再任となった。
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この3ヶ月は執権貞時の人事政策が迷走し信濃流二階堂氏(行貞)と隠岐流二階堂氏(貞藤)の間で激しい対立があった、らしい。 行貞は吾妻鏡編纂者の一人と推定されており、吾妻鏡の後半部分に二階堂氏の姓名が頻繁に現れているのは行貞が先祖の栄誉を特筆する意図を持っていたと同時に、行村を祖とする隠岐流の貞藤に対して二階堂行盛を祖とする信濃流の正当性を主張する意図があったと思われるのが面白い。
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行貞は死没するまで政所執事を務め、その職は嫡子の貞衡が世襲している。二階堂行清213

  二階堂 貞衡  左衛門尉、美作守、検非違使、従五位下  法名は行恵     正応四年(1291)~ 元弘二年(1332)1月  享年 41歳
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二階堂行貞の嫡子で、父と同様に九代執権北條貞時の偏諱を受けて貞衡を名乗った。嘉暦元年(1326)3月に出家、父の死に伴って元徳元年(1329)に政所執事を世襲した。息子に高衡(行直)・高行・行光(六郷氏の祖)がいる。

  二階堂 行清  初名は行雄     寛喜三年(1231)~ 建治三年(1277)4月  享年 46歳
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二階堂行久の嫡子で引付衆、将軍家(宗尊親王)の近習。建治元年(1275)に同じく近習だった三善政康・伊賀光政らと上洛して同地で没した。

  新田 政義   貞応元年(1222)~ 正応三年(1290)  享年 68歳
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新田義重義兼-義房(34歳で早世)-政義と続く新田源氏の四代目で妻は足利義氏の娘。13歳で新田宗家を継いだ。15歳の年に曽祖父の義重が、19歳の年に祖父の義兼が没した後は祖母(義兼の妻)が後見役として補佐を務めたが、彼女が義兼から相続した所領の大部分は岩松時兼(新田源氏の系図を参照)に相続させたため宗家でありながら政義の所領は少なかったらしい。これらの経緯がその後の行動に影を落とした可能性はありそうだ。
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仁治三年(1242)4月には幕府から預かった囚人に脱走され過怠金3000疋(75貫文・単純換算で2~3000万円)を納付、更に大番役で在京した寛元二年(1244)6月には幕法に背いて朝廷に昇殿と検非違使任官を求め拒否されて出家、大番役を放棄して新田荘に帰り、幕府への出仕も拒絶した。
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通常なら所領没収の処分を受ける罪科だが妻の実家で同族の高位御家人である足利氏の働き掛けもあって所領の一部と惣領権の没収で許され隠居、正嘉元年(1257)の死没後は長男の政氏が新田宗家を継承した。惣領職は庶家の世良田 (新田)義季と岩松時兼が「半分惣領」として新田氏の実質的トップとなり、新田嫡流は新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすまでの約90年間を貧困と屈辱の中で過ごすことになる。

  畠山 泰国   文治三年(1187)~正嘉元年(1257)   享年 70歳
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足利義兼の庶長子義純の三男で生母は北條時政の娘(畠山重忠の寡婦)。重忠追討によって断絶した畠山氏名跡を継いだのが泰国だが実質的には北條氏と足利氏の縁戚関係強化だった。義純の先妻(新田義兼の娘)と二人の異母兄は離縁となり、新田に戻って岩松氏・田中氏の祖となった。
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源姓畠山氏の祖は義純とされているが最初に畠山姓を名乗ったのは泰国である。諱の泰は従兄弟にあたる北條泰時から偏諱を受けたもので、強い縁戚関係により鎌倉幕府から厚遇され、美濃にも所領を持ち、息子の義生は分家して美濃畠山氏の祖となり、子孫は後に日向畠山氏に繋がっている。

  波多野 忠綱   不詳 ~ 建保三年(1215)   没年令 不詳
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相模国波多野荘を本拠とした波多野次郎義通の次男。母は宇都宮宗綱の娘。伊勢国に住んで波多野小次郎を称し、養和元年(1181)正月には甥の波多野三郎義定と協力して伊豆江四郎(志摩国警護に任じていた平家の家人)と伊勢国で戦い江四郎の息子2人を討った。その後は鎌倉幕府の御家人として認められ、建久元年(1190)と建久六年(1195)の頼朝上洛に従っている。正治元年(1199)には梶原景時の鎌倉追放の御家人連合に加わり、建仁三年(1203)には比企能員謀殺の余波で北條時政を狙った仁田五郎を追討、元久二年(1205)には畠山重忠追討に参加した。その後は中務丞に任官し建保元年(1213)の和田合戦に際しては二ヶ所の戦場で先駆けを果たしたが、政所前で和田勢と戦った先駆けの功績を三浦義村と争い「盲目か」と罵ったため勲功と雑言が相殺される措置を受けた。

  葉室(藤原) 光親   安元二年(1176)~ 承久三年(1221)  享年 45歳
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後白河院の近臣として重用された実務に長けた公家(権大納言)藤原光頼の三男で正二位・権中納言、贈従一位、後鳥羽院の側近・順徳天皇の執事・近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。 承久三年(1221)の承久の乱では北條義時討伐の院宣を執筆するなど倒幕の中心人物として活動したが、実際は後鳥羽院の倒幕計画の無謀さを憂いて再三の諫言を繰り返していた、と伝わる。彼の言葉は最後まで聞き入れられることはなかった。
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清廉で純潔な心の持ち主としても知られており、同様に乱の首謀者として捕縛された坊門忠信の助命が(妹信子の尽力で)叶った際には自分が危機だったにも拘らず心から喜んだと伝わっている。乱の終結後は君側の奸として捕らえられ、鎌倉に護送される途中の甲斐加古坂(現在の篭坂峠)で武田信光により斬首刑に処された。法名は西親、衷心から諌めるが、主人の決裁後は黙して従う、封建社会の道徳を守り抜いた忠臣とされている。 北條泰時は光親の死後に光親が上皇を諌めるために書いた諌状を確認し、光親を処刑した事を酷く悔やんだという。

  伴野(小笠原) 時長   生年 不詳~ 没年 不詳  享年 不詳
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  尾藤 (左近(または右近)将監)景綱   生年 不詳~ 天福二年(1234)  享年 不詳
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  尾藤 景氏(法名浄心)   生没年 不詳  享年 不詳
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北條泰時の家令を務めた叔父尾藤景綱の養子となり尾藤氏を継いで得宗被官(御内人)に任じた。歓喜二年(1230)頃から吾妻鏡に名前が現れ、寛元四年(1246)には養父景綱と同じく、新築した泰時邸の敷地南門東脇に居宅を構えた事からも北條氏の全面的な信頼を受けていたらしい。同年6月10日には執権と幕臣中枢のみが参加する会合にも参加を許され、養父や諏訪盛重らと共に幕政の舵取りを行う寄合衆にも任じられた。弘長三年(1263)11月20日には時頼から臨終に立ち会う得宗被官七名(武田五郎三郎政綱・南部次郎実光・左衛門尉長崎次郎光綱・左衛門尉工藤三郎光泰・尾籐太(景氏)・左衛門尉宿屋光則・左衛門尉安東光成)の一人に選ばれている。

  藤原 兼子   久寿二年(1155)~ 寛喜元年(1229)  享年 74歳
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姉の範子と共に後鳥羽天皇の乳母を務めた。姉範子の夫・久我(源・土御門)通親は後鳥羽天皇の外戚として権勢を振るい九条(藤原)兼實を蹴落とした人物だが、土御門天皇を擁した通親、順徳天皇を擁した兼子と範光(兼子の弟で後鳥羽の寵臣)の間では対立が起きている。
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建仁二年(1202)の通親死没後の兼子と範光は権限を掌握し、明月記は「前年まで実権を握っていた助目は全て後鳥羽上皇の意思で行われ、権門女房(兼子)が取り仕切っている」と書いている。夫の宗頼は建仁三年(1203)1月に死去すると兼子は同年のうちに太政大臣大炊御門頼実と再婚し、更に権勢を高めている。
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健保六年(1218)に熊野詣を名目にして上洛した北條政子と面談を重ね、自分が養育していた後鳥羽上皇の第二皇子・頼仁親王(坊門信子の甥)を実朝の後継として東下させる約束を交わし、同年11月には兼子の推挙を受けた政子は従二位に昇叙した。
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承元元年(1219)1月に実朝が暗殺され幕府と朝廷の関係が悪化すると後鳥羽上皇は親王の東下を拒否し、兼子を遠ざけるようになった。結果として西園寺公経の努力によって摂関家の息子・藤原頼経が次期将軍として鎌倉に下るが、2年後の承久三年(1221)に後鳥羽上皇が挙兵して承久の乱へ、そして上皇方の惨敗となる。後鳥羽・順徳・土御門は流刑となり、倒幕派の忠臣だった兼子の一族は処刑や失脚して零落した。落ち目の兼子は延暦寺と所領の件で争い京都を追放されたり所領を没収されたりした没落後に死没している。

  藤原(坊門) 殖子 (七条院)   保元二年(1157)~ 安貞二年(1228)  享年 71歳
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高倉天皇妃で後高倉院(安徳天皇の異母弟で第二皇子の守貞親王。子の後堀河天皇の即位後は法皇)と後鳥羽天皇の生母。高倉天皇の中宮平徳子(建礼門院)に仕えた後に高倉天皇に召された。守貞親王が安徳天皇と共に西国へ落ちたため後鳥羽天皇が即位する結果となり、これが後高倉院が院政を敷く伏線となった。
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後鳥羽天皇から譲られた多くの七条院領を所有し、承久の乱(1221)で後鳥羽院と4人の孫(土御門院、順徳院、雅成親王、頼仁親王)が配流になった後も後堀河天皇の祖母として都に留まったが晩年には後高倉院にも先立たれ、後鳥羽院とも再開できないまま没した。遺領(七条院領)の大部分は修明門院(後鳥羽院の寵妃で順徳天皇の生母、晩年の七条院に尽くした)が継承した。
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  藤原 範茂   文治元年(1185)~ 承久三年(1221)  享年 71歳
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後白河法皇の近臣だった藤原範季の次男で後鳥羽上皇の近臣であり、同時に後鳥羽の寵妃だった姉の重子(修明門院)が生んだ順徳天皇の近臣でもあった。義経に協力的な姿勢を続けて伊豆流罪となった 藤原(難波)頼経の嫡子。父と共に流されたが後に許されて形部卿となり、健保二年(1214)には従三位に昇っている。蹴鞠の名手(名足)で難波流の始祖、飛鳥井流を起こした弟の雅経と共に二大流派となっている。左衛門佐・左兵衛佐・左近衛少将などの武官を歴任し承久二年(1220)に従三位に叙され翌年には丹波権守に任じた。同年の承久の乱には立案段階から深く関与し自ら宇治川合戦にも出陣、敗北後は六波羅に拘禁され死罪と決定、鎌倉に護送する名目で京都を離れ、足柄峠の東麓の早河で水死した。五躰不具で死んで成仏できない事を恐れ自ら入水を希望した、と伝わる。詳細は藤原範茂の墓(サイト内リンク・別窓)で。
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  藤原 秀康   生年 不詳~ 承久三年(1221)  没年令 不詳
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後鳥羽上皇に仕えた北面の武士で、下野守・河内守・備前守・能登守などを歴任し、承久の乱では倒幕計画に加わり、三浦胤義を説得して味方に引き入れ、挙兵の際には京都守護所を攻撃して伊賀光季を自刃に追い込んでいる。鎌倉からは乱の中心人物と考えられており、弟の秀澄とともに美濃国と宇治川合戦を戦って敗北した。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて乱を引き起こした悪臣として追補の院宣を下し、河内国で捕らえられ秀澄と共に京都で斬られた。著名な歌人だった別の弟秀能は出家して赦免され、後鳥羽院を慕って隠岐に渡っている。
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  藤原 秀澄   生年 不詳~ 承久三年(1221)  没年令 不詳
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兄の秀康と同じく後鳥羽上皇に仕えた機内の武士。北面・西面・帯刀・左衛門尉・右衛門尉・河内判官を歴任。承久の乱では倒幕計画に加わり、6月には美濃と尾張の国境を流れる尾張川に進出し、墨俣に布陣した。鎌倉からは乱の中心人物と考えられており、弟の秀澄とともに美濃国と宇治川合戦を戦って敗北した。山田重忠は兵力を集中して尾張国府の襲撃を進言するが弱気に陥った秀澄は承知せず、結局は大敗を喫して京都に逃げ帰った。承久記は「生まれつきの臆病武者」・「心の弛んだ武者」と酷評している。後鳥羽上皇は秀康と秀澄らを切り捨て、乱を引き起こした悪臣として追補の院宣を下した。奈良を経て河内国で捕らえられ、秀康と共に京都で斬られた。
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  藤原 頼経   建保六年(1218)~ 康元元年(1256)  没年令 39歳
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父は左大臣(九条道家・wiki)、生母西園寺公経の娘。寅年・寅日・寅刻なので幼名を三寅(みとら)。建保七年(1219)1月に三代将軍実朝が殺され、幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが上皇が拒否、頼朝の同母妹・坊門姫の曾孫で2歳の三寅を鎌倉に迎え、政子が尼将軍として政務を担当した。
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嘉禄元年(1225)に満8歳で元服して頼経を名乗り、翌年に将軍宣下を受けて鎌倉幕府の四代将軍に就いた。寛喜二年(1230)に二代将軍頼家の娘で15歳年上の竹御所を娶るが、天福二年(1234)には竹御所は死産した後に死没する。
頼経は傀儡将軍として政治的な実権を持てなかったが、成長と共に義時の次男朝時を主とする反得宗勢力と接近して幕府内の勢力基盤を強め、更に父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次(朝廷に於ける幕府との調整機関)の長として影響力を強めるに従って幕府にとっては目障りな存在となった。
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北條氏との円満な関係を保っていた公経が没して関東申次になった道家が頼経を介して幕政への関与を試みるようになり、寛元二年(1244)には四代執権北條経時によって将軍職を嫡男頼嗣に譲る結果となった。翌年には出家し行賀を称してそのまま鎌倉に留まり「大殿」として影響力を維持し、名越光時ら反得宗執権勢力の核となったが、寛元二年(1246)には五代執権時頼により京都へ強制送還される。
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宝治元年(1247)には三浦泰村と弟の光村が頼経の鎌倉帰還を画策したのが誘因となって宝治合戦が勃発し三浦一族が滅亡、父の道家も失脚した。更に建長三年(1252)には五代将軍頼嗣も京都に送還、失意の頼経は4年後に京都で死没する。

  藤原 頼嗣   延応元年(1239)~ 康元元年(1256)  没年令 17歳
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藤原頼経の嫡子で鎌倉幕府の五代将軍(九条家の出身の摂家将軍)、生母は藤原親能の娘大宮殿。 頼経の譲位に伴って6歳で将軍となり7歳で北條経時の妹檜皮姫(16歳・宝治元年(1247)死去)を正室に迎えた。寛元四年(1246)7月の宮騒動によって父の頼経が京都に追放され、翌宝治元年(1247)6月の宝治合戦で頼経と協力体制にあった三浦一族が滅亡した後も頼嗣は将軍として鎌倉に留まった。
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建長三年(1251)の謀叛事件に関与したと疑われ、幕府は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍に迎えると決定、頼嗣は翌年14歳で将軍職を解任されて母大宮殿と共に京都に追放された。同年には祖父の九条道家も関与を疑われ間もなく死没、四年後の康元元年(1256)8月の頼経死去に続いて頼嗣も同年9月に死没した。頼嗣自身が北條得宗家と対立した様子は見られず、父頼経の意思に引きずられた生涯だったらしい。

  藤原(三条) 親實   生年 不詳~ 没年 不詳  没年令 不詳
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鎌倉時代中期の幕府文官、周防守。明経道の中原忠順の子で評定衆に任じた中原師員の叔父に当たる。将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で、,御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。文暦二年(1235)に厳島社造営のため,周防守護から安芸守護に転任し厳島神社の神主を勤めている。寛元二年(1244)には上洛して六波羅の評定衆に任じた後に周防守護に戻り、建長三年(1251)まで在職している。建長五年(1253)の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固している。
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  藤原 定員(兵庫頭)   生年 不詳~ 没年 不詳  没年令 不詳
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  藤原 親家(兵庫頭)   生年 不詳~ 没年 不詳  没年令 不詳
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加賀守藤原親任の子。建長四年(1252)に六代鎌倉将軍となった宗尊親王に随行して鎌倉に下った近臣の公家。内蔵権頭・木工権頭などを歴任して側近として仕え、文永三年(1266)6月の親王謀反嫌疑の際は京都を往復して調整を試みるが結局失敗、京都送還となった親王に従った。官位は従四位下。

  藤原 為家 正二位・権大納言、中院禅師・冷泉禅門・民部卿入道   建久九年(1198)~ 建治元年(1275)5月  享年 77歳
著名な歌人藤原定家の嫡子。元服後に伯父西園寺公経の猶子となり、蹴鞠の縁で順徳天皇に近侍したが承久の乱(1221)後に佐渡配流となった順徳に同行を求められると一転して辞退する日和見の姿勢を見せた。
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乱の後に幕府に反発した勢力が朝廷から一掃されると鎌倉と親しかった養父西園寺公経の実権掌握に伴って順調に出世し、嘉禄二年(1226)に参議・嘉禎二年(1236)に権中納言・仁治二年(1241)には父の定家を越える権大納言に登った。以後は後嵯峨院歌壇の中心として活躍し、鎌倉時代中期の代表的な歌人として名声を高めた。
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正妻は歌人としても名高い鎌倉御家人宇都宮頼綱の娘で嫡子の二条為氏を得たが晩年は「十六夜日記」を書いた阿仏尼と同棲し彼女が産んだ為相を溺愛したため遺領の相続が訴訟に発展し、御子左家は嫡流の二条家と庶流の京極家・冷泉家に分裂した。
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「十六夜日記」は相続争いを訴えるため老齢に耐えて鎌倉に旅した阿仏尼が書き残した旅行記で、彼女と為相の墓所は共に鎌倉扇ヶ谷に残されている。この色恋沙汰がなければ「十六夜日記」も世に出なかったのだろうか。

  堀内殿(覚山尼)  堀内殿、松岡殿、覚山志道、潮音院殿   建久四年(1252)~ 徳治元年(1306)  享年 54歳
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父は安達義景で生母は北條時房の娘。父の義景が出生の翌年に死没したため21歳離れた兄泰盛の猶子として甘縄の安達邸で育ち、10歳になった弘長元年(1261)4月に北條得宗家の嫡子で後に八代執権となる時宗(11歳)に嫁ぎ、安達氏と北條得宗家の関係を深めた。
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後に時宗が帰依した無学祖元の記録に拠れば夫婦仲は睦まじく、20歳の文永八年(1271)12月に後に九代執権となる嫡男の貞時を産んだ。日蓮の回想録に拠れば、時宗は嫡子が生まれた喜びから日蓮を恩赦して死罪を許し(龍ノ口法難か?)佐渡流罪に減刑したらしい。
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弘安七年(1284)4月には死期を迎えた病床の時宗と共に無学祖元を導師として出家剃髪し覚山志道大姉と名乗り、翌年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立、これが後の駆け込み寺として現在につながっている。時宗の死後は貞時が執権を継承し兄の泰盛が幕政を主導したが、内管領の平頼綱が勢力を拡大、弘安八年(1285)11月の霜月騒動によって泰盛を含む安達一族の主だった者が滅ぼされる結果となった。
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霜月騒動は北條一族と有力御家人が覇権を争った最後の事件であり、覚山尼が安達一族の幼い子らを庇護した事が後の復権に繋がっている。正応六年(1293)4月には成長した貞時によって平頼綱は滅ぼされるが、覚山尼は徳治元年(1306)まで天寿を全うしている。

  北條 朝時 (名越次郎)   建久四年(1252)~ 徳治元年(1306)  享年 54歳
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北條義時の次男で生母は義時正室の姫の前(比企朝宗の娘)。祖父北條時政の名越邸を相続したことから名越流北條氏の祖となった。生まれた時には異母兄で11歳だった泰時がよりも正室の長男朝時が嫡子と考えられたが、建仁三年(1203)に勃発した比企の乱によって比企一族が滅亡し姫の前も離縁となり泰時が嫡子となったらしい。更に建暦二年(1212)5月に実朝の正室坊門信子の官女(佐渡守親康の娘)に艶書を送って誘い出したため実朝の怒りを受け、父の義時に義絶された。翌年5月になって和田合戦が勃発して呼び返され、その後は御家人としての復帰を果たした。
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承久の乱(1221)では北陸道の大将として転戦し、戦後は加賀・能登・越中・越後の守護を兼任、重鎮として幕政に貢献している。元仁元年(1224)6月の義時死去後の泰時への権限委譲前後の動きは不明、嘉禄元年(1225)には越後守に任じたが、嘉禎二年(1236)9月には評定衆に加えられて初参に辞退し、幕府の中枢と距離を置く姿勢を見せた。仁治三年(1242)5月17日に泰時が重病で出家すると朝時も翌日に出家、この頃に合戦の噂が流れ御所周辺と外部との交通路が封鎖された事から、朝時の関わった何らかの政争があったと推定されている。
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北條時政が朝時を後継者と考えていた可能性もあり、朝時は自ら北條氏の中で高い家格にあると考え、子孫が再三の謀反を企てた経緯などから名越流北條氏こそが本流との意識を持っていたのは間違いない。間違いない。

  北條 重時   建久九年(1198)~ 寛元三年(1261)  享年 63歳
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義時の三男で母は正室(比企の乱後に離縁)の姫の前、泰時の異母弟で朝時の同母弟。泰時と朝時の関係はやや距離があったらしいが重時は一貫して執権泰時を補佐し、さらに五代執権 時頼も補佐して幕府の安定に寄与を果たした。重時の家系はその後も得宗家を支え続けている。
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寛元四年(1246)の宮騒動で四代将軍藤原頼経が京都へ送還された際も六波羅探題として幕府と上皇の調整に努めている。宝治合戦(1247)によって生母の同族三浦氏が滅亡した際の動向は不明だが乱の終了後は六波羅探題北方を次男の長時(後に時頼の跡を継いで六代執権)に任せて鎌倉に戻り、時房の死後に空席となっていた連署に就いて執権時頼を補佐している。
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長女(葛西殿)は時頼の正室として後に八代執権となる時宗を生んでいる。建長八年に出家して引退し極楽寺に住んだことから子孫を極楽寺流北條氏を称した。熱心な念仏信者として晩年を過ごした、と伝わる。念仏信仰を悪し様に罵り続けた 日蓮も、重時を「優れた人物」と評しているのが面白い。

  北條 (六郎)有時   正治二年(1200)~ 文永七年(1270)  享年 69歳
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義時の四男で母は側室の伊佐朝政の娘、泰時の異母弟で朝時の同母弟ではあるが継室の伊賀方が産んだ弟の政村や実泰よりも下位、兄弟の中では最下位として扱われた。陸奥国伊具郡(宮城県南部、現在の丸森町・ 地図)を領有して伊具流北條氏の祖となった。承久の乱(1221年5月)では兄の泰時に従って東海道を進み、戦後は四代将軍頼経の近習などを経て仁治二年(1241)に評定衆に任じ二年後に引退、そのまま出仕せずに没した。伊具氏の家格は低く扱われ、幕府の要職に就いたのは嫡子通時の子斎時が二番引付頭人に任じたのみだった。

  北條 政村   元久二年(1205)~ 文永十年(1273)  享年 68歳
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義時の五男で母は継室の伊賀の方伊賀朝光の娘)、泰時の異母弟で朝時の同母弟、泰時--経時--時頼--長時に続いて(幼少の時宗に引き継ぐ中継として)七代執権に任じた。18歳になった時宗に執権職を譲った後も連署を務めて蒙古襲来の対応に尽力し、一族の長老として得宗家を支えている。
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文応元年(1260)10月には娘の一人が錯乱状態となって蛇のような狂態を見せた。比企の乱で殺されて怨霊となった讃岐局の祟りと思われたが政村は鶴岡八幡宮別当の隆弁の援助を受けて写経と供養・加持祈祷を行って辛うじて回復させた。政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、これが現在の妙本寺のベースとなっている。家族を思う政村の一面を語るエピソードだ。
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和歌や典礼に通じた教養人でもあり、没した際には亀山天皇が弔問の使者を送ったほどだったと伝わる。連署の職は異母兄重時の息子・北條義政が引き継いでいる。政村の連署就任は執権経験者として唯一の例である。

  北條 時盛  通称を相模太郎   建久八年(1197)~ 建治三年(1277)  享年 80歳
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義時の弟で初代連署に任じた時房の嫡男。佐介流北條氏の祖。
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承久の乱後に六波羅探題として京に駐在していた父の時房が貞応三年(1224)に連署に任じて鎌倉に帰還すると六波羅探題南方に就任し時房と入れ違いに上洛、探題北方の北條時氏や北條重時と協力して治安維持を担当した。
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仁治元年(1240)1月に時房が没すると鎌倉に戻り執権泰時に仕える事を申請するが許されなかった。その背景には時房流北條氏の惣領権を巡る暗闘があり、結果として時房の一族は異母弟の北條朝直一族(大仏流北條氏)との政争に敗れて幕政の中枢から脱落したと考えられている。
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京都に戻った時盛は仁治三年(1242)5月に六波羅探題南方を解任されて鎌倉に戻り、すぐに出家して幕政には全く関与しなかった。これは彼の息子たちも同様に政治の表舞台から遠ざかっている。時盛の家系は佐介流北條氏として続いたが長男時光の陰謀・失脚に加えて弟朝直の大仏流北條氏の隆盛などもあって凋落を続けている。

  北條 朝直  通称を相模四郎   建久八年(1197)~ 建治三年(1277)  享年 80歳
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義時の弟で初代連署に任じた時房の四男として佐介流北條氏の祖となった。生母は足立遠元の娘。 時房の長男時盛は佐介流北條氏の祖となり、次男時村と資時は10代で出家(共に生母は遠元の娘。家督争いに敗れたとも、実朝死没の影響とも)したため時房嫡男の扱いを受けた。
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正室は伊賀光宗の娘で、貞応三年(1224)6月の伊賀氏の変で光宗が失脚した際に離縁を勧められたが拒み続け、寛喜三年(1231)の吾妻鏡に「正室である北條泰時の娘が男子を出産した」とあり、父と泰時の圧力に屈したと思われる。三代執権泰時・四代経時・五代時頼・六代長時・七代政村(1264年着任)まで長老として補佐し続けたが、最後まで寄合衆(得宗を中心にした政策決定会議)には加われなかった。

  北條 時直  通称を相模五郎   不詳~ 元弘三年(1333)  享年 不詳
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金沢流北條氏の実質的な祖となった實時の四男。永仁五年(1297)に鎮西探題に任じた弟の實政を補佐して鎮西に下り、周防・長門の守護を経て長門探題に就任。元弘三年(1333)の後醍醐天皇の倒幕挙兵に伴う九州動乱を鎮圧するが後に敗北して孤立無援となり、朝廷方の少弐貞経に降伏して罪を許され本領を安堵されたが間もなく病死した、と伝わる。安貞二年(1229)から元服した御家人として頻繁に現れるが、この時に12歳と仮定すると死没は111歳、また次兄の顕時の生年が宝治二年(1246)なのを考えると、年令に関しては親子兄弟共に大きな誤りがあると考えざるを得ない。

  北條(金沢) 実泰   承元二年(1208)~ 弘長三年(1263)  享年 55歳
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義時の六男で生母は伊賀の方、泰時の異母弟で政村の同母弟、妻は天野遠景の嫡子政景の娘。実朝が烏帽子親となり当初は実義を名乗ったが義時死没直後の伊賀氏の変(1224年)の際に泰時の配慮により兄政村と共に連座を免れ父の遺領六浦荘(横浜市金沢区)を継承し、この直後に実泰と改名した。この頃から、将軍を烏帽子親として一字を与えられ元服するのは北條得宗家と赤橋流北條氏に限定され、金沢流と大仏流北條氏の当主は得宗家から一字を与えられて元服する、つまり得宗家と赤橋流より一ランク下に家格に位置づける習慣が定着した。
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寛喜二年(1230)3月には異母兄の重時が六波羅探題に就任、実泰は23歳で後任の小侍所別当に就任するが伊賀氏の変以降の立場の不安定さによって精神の安定を崩し、天福二年(1234)6月には「狂気の自殺未遂か」(名月記)と噂された。同月には病気を理由に家督を11歳の嫡男実時に譲って出家した。

  北條(金沢) 実時   元仁元年(1224)~ 建治二年(1276)  享年 52歳
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北條実泰の嫡子で母は天野政景の娘、金沢流北條氏の実質的な初代となった。文暦元年(1234)に出家した父から小侍所別当(将軍近習の長)を譲られ(当時10歳)、若年による反対もあったが執権泰時の意向により就任となった。泰時の男子二人(時氏と時実)が相次いで早世しため得宗家の家督は時氏の子・経時が継承する予定になっており、泰時は経時と同年齢の実時を腹心として育成する計画だったらしい。 実時は四代執権経時と五代執権時頼の側近として引付衆を務め、建長五年(1253)には評定衆、文永元年(1264)には得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人(再審などの審理官)となって幕政に関与し、更に八代執権の北條時宗を補佐して寄合衆も勤めた。
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文永の役翌年の建治元年(1275)には現役を退き六浦荘金沢に隠居、和漢の典籍を集めて金沢文庫を創設し翌建治二年に死去した。実務に長けた政治家であり、優れた文化人でもあったらしい。

  北條(名越) 光時   生没年 不詳  享年 不詳
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名越流北條氏の祖となった北條朝時の嫡男。四代執権北條経時が早世した後に退位した四代将軍藤原頼経に協力して新任の五代執権北條時頼から指揮権を奪おうとした計画(宮騒動・1246年閏4月)が発覚した。「保暦間記」は光時が時頼の執権継承に対抗して「私は義時の孫であり、時頼は曾孫である。」と主張した、と書いている。謀議の程度は判然としない部分もあるが結果として計画は失敗に終わり、頼経は時頼によって京都へ送還され光時は出家して弟らと共に時頼に降伏し、所領没収の上に伊豆国江間郷へ流罪となった。
名越流北條氏には「自分たちこそが北條嫡流」との意識があったため得宗家との対立はその後も続き、二月騒動(1272年)には弟の教時が再び謀反を起こして北條時宗に討伐されている。

  北條(名越) 時章   建保三年(1215)~ 文永九年(1272)  享年 57歳
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名越流北條氏の祖となった北條朝時の次男で光時の同母弟(異説あり)。兄の光時が宮騒動(1246年閏4月)により失脚したが関与しなかった時章は罪に問われず、宝治元年(1247)に評定衆に任じた。光時 の失脚後も反・得宗家の姿勢を強めた弟の教時(朝時の六男)は反抗を止めず八代執権時宗の文永九年(1272)の二月騒動で討伐され、巻き添えを受けて殺された。事後に無実が判明して殺害した5人は斬首、時章の嫡子公時は評定衆に、その嫡男時家も評定衆と鎮西探題に任じるなど幕府の中枢で重用されている。ただし、蒙古軍の襲来を目前にした時宗ら幕府の首脳部は体制の一元化を図るため時章と共に名越流北條氏の完全な排除を計画していた、とも考えられる。

  北條(名越) 時長   建保三年(1215)~ 文永九年(1272)  享年 57歳
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名越流北條氏の祖となった北條朝時の三男で光時の同母弟(異説あり)。父の朝時が幕政から阻害された存在だった事もあって名越流北條氏の一族は反得宗の傾向が強く、必然的に将軍頼経に近侍して関係を強めていた。寛元二年(1244)に朝時が没すると一族し信濃善光寺で法要を催し、頼経を担いだ得宗打倒をここで計画したと伝わるが、寛元四年(1246)閏4月の宮騒動での頼経更迭に連座して備前守の任を解かれた。長兄の光時は伊豆流罪・次兄の時章は殺害(冤罪の可能性あり)されたが弟の時長・時章・時兼らは罪に問われずに済み、その後の時長は得宗との協調に務め、幕政に復帰している。

  北條(名越) 時幸   不詳~ 寛元四年(1246)7月  享年 不詳
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  北條 資時   正治元年(1199)~ 建長三年(1251)  享年 52歳
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北條時房の三男で生母は正室の足立遠元の娘。承久2年(1220年)正月14日、22歳で兄時村と共に突然出家する。詳細は不明だが、兄弟間で家督争いがあったと見られ、最終的に資時の同母弟の朝直が時房の嫡男とされた。39歳の嘉禄三年(1237)に北條氏としては初めての評定衆となり、建長元年(1249)12月に三番引付頭人に就任した。建長三年(1251)5月に在職のまま死去した。優れた歌人であり、新勅撰和歌集や続後撰和歌集など複数の勅撰和歌集に22首歌が載っており、才能は藤原定家も高く評価したという。吾妻鏡には将軍が開いた歌会に出席した旨の記載があり、蹴鞠にも堪能だったが、政治的な手腕に欠けていたとの評価もある。

  北條(金沢) 實政   建長元年(1249)~ 乾元元年(1302)  享年 53歳
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北條實時の四男で生母は北條政村の娘。文永の役(1274)を鎮西御家人による奮戦で何とか乗り切った幕府は次の攻撃に備えて組織的な防衛戦略の必要に迫られ、翌・健治元年には鎮西軍の総司令官として29歳の實政を異国征伐大将軍に任じて九州に下向させた。九州の有力御家人である大友氏・少弐氏・島津氏や関東から派遣した有力御家人を指揮下に置ける実力と血筋から、父の實時や北條時政が選抜した、と伝わっている。
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翌年には實時の死没に伴って豊前守護に任じ、以後の生涯を鎮西で過ごしている。弘安の役(1281)には元軍の撃退に功績を挙げ、弘安六年(1283)に従五位上・上総介・長門探題、永仁四年(1296)には鎮西探題に転じて軍事と訴訟の全権を掌握し肥前と肥後の守護も兼任した。實政が赴任していた時代が鎮西探題の最盛期であり、博多の発展にも大きく寄与した、と伝わっている正安三年(1301)年9月に家督と全ての役職を長男の政顕に譲って引退、翌・乾元元年(1302)12月に没した。

  北條(阿蘇) 時定   安貞三年(1229)?~ 正応三年(1302)  享年 73歳
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北條泰時の長男で早世した時氏の三男、経時・時頼の同母弟(生母は松下禅尼)にあたる。後に北條時政から相伝された肥後国阿蘇社領の預所と地頭職を相続し、肥後に下向して阿蘇氏の祖となっている。宝治合戦(1247)では執権時頼の命令を受け大将軍として三浦勢と戦った。
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将軍の側近として仕え、弘安四年(1281)8月には二度目の元寇(同年)に対応するため肥前守護として現地に入り、弘安十年(1287)1月には鎮西奉行に任じて元寇後の蒙古対策に従事した(この頃に為時と改名している)。正応二年(1289)に養子の北條定宗(実父は北條時宗の異母弟・桜田時厳)に家督と肥前守護職を譲って隠居した。

  北條(赤橋) 長時   寛喜二年(1230)~ 文永元年(1264)  享年 34歳
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父は執権北條義時の三男で六波羅探題北方・連署を務めた北條重時、生母は四代将軍藤原頼経に仕えた女房で正室の平基親(平親範の子)の娘、極楽寺流の嫡家・赤橋流の祖。産まれた年に六波羅探題に任じた父と共に上洛し、宝治元年(1247)6月の宝治合戦で三浦一族の滅亡後に五代執権の時頼を補佐するため父重時が鎌倉に戻り、その跡を継いで六波羅探題北方に就任した。
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建長八年(1256)に引退した父の跡を継いで鎌倉に戻り評定衆に就任、同年7月には武蔵守に任官、同年11月に五代執権時頼が病気で退任するにあたり、嫡男時宗(5歳)に執権職を譲るための中継ぎとして選ばれ、六代執権に就任した。忠実な事務処理能力、権力欲が乏しく将来の時宗への権力継承に支障がない温和な人物だったのが選ばれた理由だったらしいが、実権は病気から回復した時頼が掌握していた。
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弘長三年(1263)11月には時頼が死没するとその跡を追うように文永元年(1264)8月に34歳で死没、59歳の北條政村が七代執権を継ぎ、文永五年(1268)3月には時頼の嫡子時宗(17歳)が八代執権を継承する。 長時が祖となった赤橋流の家格は得宗に次ぐ地位とされ、一族は引付衆を経ず評定衆に選出されている。最後の執権・十六代赤橋守時や足利尊氏の正室赤橋登子は長時の曾孫にあたる。

  北條(名越) 公時   嘉禎元年(1235)~ 永仁三年(1296)12月  享年 61歳
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北條時章の嫡男で名越流北條氏三代当主、生母は二階堂行有の娘。
弓の名手として再三の笠懸け・蹴鞠などに出場の記録がある。五代将軍藤原頼嗣と六代将軍宗尊親王の近習を経て文永二年(1265)には引付衆として幕政に関与し、伯父の北條光時の宮騒動関与で悪化した得宗家との関係修復に父と共に尽力している。文永九年(1272)の二月騒動で父の時章と叔父の教時が謀反の嫌疑(時宗による計画的な冤罪)で殺されたが公時の関与はなかったため罪には問われなかった。
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文永十一年(1274)に評定衆を経て引付頭人となり、死没まで任じた二番引付頭人として得宗家の補佐と名越流の復活に努力を続けた。弘安七年(1274)の時宗死没に伴い出家、永仁三年の死没には誅殺されたとの説もある。

  北條 時宗   建長三年(1251)5月~ 弘安七年(1284)4月  享年 33歳
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五代執権北條時頼の次男(幼名を正寿)で生母は北條重時の娘・葛西殿。この時点で既に3歳だった兄・時輔(幼名を宝寿丸)は生母は側室の讃岐局だったため、時頼の後継として正寿が指名された。 康元二年(1257)に満6歳で元服、加冠役は六代将軍宗尊親王で、偏諱を受けて時宗と名乗った。
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文応元年(1260)には将軍の身辺を司る小御所別当に就任、既に別当だった北條実時の指導を受けて執権に就任する場を時頼が与えたと考えられる。弘長元年(1261)4月に秋田城介安達義景の娘(城九郎安達泰盛の異母妹)と婚姻、文永元年(1264)7月に六代執権の北條長時の出家に伴って北條政村が七代執権となり、満12歳の時宗が連署に就任した。
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文永三年(1266)には倒幕を計画した嫌疑で宗尊親王を更迭して京都に送還し七代将軍として惟康親王を擁立した。文永五年(1268)1月、8年前にモンゴル皇帝に就いたフビライから服属を求める国書が届き、その年の3月には政村が執権職から退き、満17才の時致が八代執権に就任した。
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時宗は前執権の政村・安達泰盛・北條実時・御内人平頼綱らの補佐を受けて内政の充実と警護体制の強化に務め、モンゴルから再三届いた国書を黙殺、更に朝廷が立案した返状も採用せず、更にはモンゴルに滅ぼされた高麗の残存勢力からの援助要請も無視し、文永八年(1271)に届いた武力侵攻の警告も無視して少弐氏ら西国の御家人に戦争の準備を整えさせた。
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そして文永九年(1272)、二月騒動によって六波羅南方別当の異母兄時輔を殺害、同時に評定衆だった北條時章とその弟教時を追討し、教時の妹を正室にしていた世良田頼氏も連座として佐渡配流に処した。更に「立正安国論」を幕府に上程して政治改革を訴えた日蓮を佐渡配流に処し、国内与論にも幕政内部や同族に対しても強権・独裁体制を徹底強化した。
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文永十一年(1274)10月に元寇(文永の役)が勃発、激戦の末に内陸部への侵攻を阻止し、翌年に降伏を勧めに来日した使者を斬首、その対応に反対した連署の北條義政は辞任して出家し、弘安六年(1283)に北條業時が就任するまで連署は空席となった。
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弘安二年(1279)に再度来日したモンゴルの使者も太宰府で斬首した。その後は防衛策を強化して組織を改編し兵糧の調達や御家人の鎮西配備などを徹底し、更に優秀な得宗被官を各所に配置するなど得宗専制体制を徹底させた。
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弘安四年(1281)の弘安の役では時致名義で作戦命令が発せられ、得宗被官(御内人)も戦場で指揮を担当、約二ヶ月の激戦の末に台風と日本軍の奮戦によりモンゴル軍は壊滅したが、戦後には御家人の恩賞問題と財政難に加えて三度目の元寇に備える必要など、深刻な国内情勢に苦しむことになる。
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時宗は弘安七年(1284)4月に満32才で病没、円覚寺に葬られた。二月騒動では肉親を含めた一族を容赦なく殺したこと、誤殺だったと判ると自分が差し向けた討手さえ処刑したこと、更にはモンゴルの使者も問答無用で殺したこと、などから目的達成のためには過剰な殺戮も厭わない人物との評価がある一方で、周辺にいた有能な人物を次々に殺した結果として協力者をも失い、重圧の中で心身をすり減らした最後だったと評価する説も多い。時頼のような図太い神経を持たず、能力以上の決断を強いられた結果か。

  北條 時輔   宝治二年(1248)5月~ 文永九年(1272)  享年 24歳
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七代執権北條時頼の庶長子(幼名を宝寿丸)で生母は時頼側室の讃岐局だったため、弟の正寿(後の 時宗)が時頼の後継に指名され八代執権となった。六代将軍宗尊親王の側近として仕え、建長八年(1256)8月に足利宗家の五代当主頼氏を烏帽子親にして元服した。
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時宗に続いて時頼の正妻が産んだ男子(宗政)よりも下位の扱いを受けていたらしく、弘長元年(1261)正月の序列では相模太郎時宗>四郎宗政>三郎時輔>七郎宗頼(五男。宗政と宗頼の間の二人は不詳)となっているが、必ずしも冷遇ではなかったと考える説もある。しかし時頼自身が本来の嫡子ではなく、兄北條経時の早世によって執権を継いだ正当性の欠如と、時輔の存在自体が反得宗勢力と結び付く可能性を内蔵している事を危惧したためだろう。
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弘長三年(1263)11月に時頼が死没した翌年8月には14歳の時宗が連署に就任し、17歳の時輔は10月に六波羅探題南方に着任した。これは六波羅強化の意味合いと共に、反得宗勢力に利用される危険性を鎌倉から排除した可能性も考えられる。
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文永五年(1268)2月にモンゴルの国書が届き、元寇の危険に対応するための権力一元化として18才の時宗が執権に就任、文永七年1月に六波羅北方で得宗家に近かった北條時茂(北條重時の三男)が死没し、その後の二年間は後任が不在となった。このため六波羅は時輔の影響を強く受ける形となる。
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文永八年(1271)12月に赤橋流二代当主の北條義宗(北條長時の嫡子)が六波羅北方に着任、翌年2月には評定衆だった北條時章とその弟教時が謀反の嫌疑で追討され、その4日後には時輔も義宗の討手に殺された(二月騒動)。 「保暦間記」などは嫡子の座を時宗に奪われた後も冷遇され続けた積年の恨みが謀反となったと書いているが、事件の後には時章の無実が判明したことから時輔の謀反は捏造だった可能性が極めて高い。
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時宗を含む幕府の首脳は蒙古襲来を直前にして国論の統一と一元化を図る目的で計画的な異分子排除を実行したと思われる。ちなみに、時宗の命令で時章兄弟を殺した5人の武士は斬首されている。

  北條 宗政 (幼名福寿丸(命名は隆弁)、通称相模四郎、武蔵守、法名道明)   建長五年(1253)~ 弘安四年(1281)  享年 28歳
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北條時頼の三男で庶長子時輔・嫡子時宗の弟、生母は北條重時の娘・葛西殿。時頼は7人の息子の中で特に時宗と宗政を特に大切にし、宗政誕生の年の4月には時宗と宗政の幼名を冠した聖福寺を建立している。
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正元二年(1260)正月には8歳で将軍宗尊親王の八幡宮参拝に供奉、文永二年(1265)4月には13歳で右近将監、7月には北條政村の娘と婚姻、文永九年(1272)10月には20歳で引付衆を経ずに評定衆、翌年6月に三番引付頭人、建治三年(1277)6月には武蔵守、8月に一番引付頭人、更に同年にはサイドの元寇に備えて筑後守護に任じた。生涯を通じて兄時宗の幕政を補助し協力したが弘安の役で元軍を撃退した喜びの中で出家し8月9日に死没。
墓所は北鎌倉の浄智寺、死後に未亡人や嫡子師時によって創建された。

  北條 義政   寛元元年(1243)~ 弘安四年(1282)  享年 39歳
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北條重時の五男で兄弟は多数。六代将軍宗尊親王の近習として仕え、文永二年(1265)に引付衆、同四年に評定衆、同六年に二番引付頭と幕府の要職を順調に歴任した。信濃国塩田荘(現在の上田市西部の別所温泉一帯)を本拠とし、塩田流北條氏として嫡子時治─嫡孫の重貞の時に鎌倉滅亡に殉じるまで塩田平で多くの寺社を建立し、「信州の鎌倉」と呼ばれるほどの美しい繁栄を続けている。
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文永十年(1273)に叔父で連署だった北條政村が死没すると共に連署に任じて執権の北條時宗を補佐した。文永十二年に元のフビライから国書を届けた使者を斬首しようとした際には和睦を探るべきとしてこれに反対し、この頃から病気のため出家引退を望んでいたらしい。

  北條(名越) 教時   嘉禎元年(1235)~ 文永九年(1272)2月  享年 38歳
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名越流北條朝時の六男。 康元元年(1256)から文永二年(1265)まで引付衆、その後は文永九年(1272)まで評定衆に任じた。北條得宗家への反抗心が強く、文永三年(1266)6月に六代将軍宗尊親王が京都送還された際には北條時宗の制止を無視し、数十騎の軍兵を率いて示威行動を決行した。文永九年(1272)には兄北條時章と共に謀反を計画した罪で八代執権となった時宗の討伐軍(得宗被官)に討ち取られた(二月騒動)が、これは単に得宗の権限を強化するために時宗が計画した冤罪事件と考える説が主流を占めている。系図によれば息子の宗教と宗氏も共に討たれている。

  北條(名越) 時茂  陸奥弥四郎   仁治元年(1240)~ 文永七年(1270)1月  享年 29歳
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名越流北條重時の三男で母は正室の従三位・参議の公卿・平基親の娘。常盤流の祖で。六波羅探題北方を務めた。執権北條時頼の命を受けて摂津と若狭の守護職を務め、建長六年(1254)3月には北條実時と交替して小侍所別当に任じた。建長八年(1256)6月からは同母兄の北條長時が評定衆に任じたため、兄と交替する形で六波羅探題北方として上洛し、文永七年(1270)に死去するまでの14年間を探題職として在京した。足利尊氏は時茂の曾孫にあたる。

  北條(佐介) 時盛   建久八年(1197)~ 建治三年(1277)5月  享年 79歳
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初代連署北條時房の長子で佐介流北條氏の祖。弟には大仏流の祖となった北條朝直(時房の四男)らがおり、時盛は庶兄だった可能性もある。承久の乱(1221)には父に従って東海道を進み、翌年8月には掃部権助に任じた。貞応三年(1224)に時房が連署として鎌倉に戻った後は六波羅南方に任じて北方の北條時氏重時と協力して治安維持に努め、一時期は丹波守護も担当、嘉禎二年7月に従五位下越後守、翌年4月従五位、暦仁元年(1238)8月に正五位下に昇叙した。
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仁治元年(1240)1月に時房が没すると一旦はに鎌倉に戻るが7月には再び上洛、時盛は鎌倉で執権に仕えることを上申したが受諾されなかった。背景には弟朝直との間に時房流の惣領権を巡るトラブルがあり、時盛の一族達は朝直(大仏流)との争いに敗れて政治の表舞台から脱落したと考えられる。仁治三年(1242)5月に六波羅南方を解任されて鎌倉に戻り6月に突如出家、その後は幕政に関わらず政治から遠ざかった。時盛の息子も同様に、幕政の中枢から遠ざかっている。以後の佐介流は常に大仏流の風下に置かれ、零落の道をたどる事になる。

  北條 時村 (佐介・二郎、相模二郎、行念)   元久二年(1205)前後~嘉禄元年(1225)12月  享年 20歳前後
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初代連署北條時房の二男で佐介流の祖となった時盛の次弟。弟に資時・朝直・時直・時定など、姉妹に一条頼氏室・北條朝時室・安達義景室など。
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建保六年(1218)4月に当時は六波羅探題南方だった父の時房に従って後鳥羽上皇の蹴鞠会に出席したのが史書に現れた最初で、承久二年(1220)1月14日の吾妻鏡には「次弟の資時と共に突然出家して行念を称した」との記載がある。実朝の一周忌に出家した、或いは弟朝直との後継争いに破れたなどの見方があるが判然とせず、結果としては朝直が家督を継いでいる。
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出家後は上洛して親鸞に仕え、更に本願寺二世の如信・三世の覚如に仕えて興宗寺(福井市・wiki)を開いた...興宗寺の寺伝はそう伝えているが、真偽は不明。優れた歌人でもあり、玉葉和歌集・新勅撰和歌集・新後撰和歌集・続古今和歌集・続拾遺和歌集などには時村の和歌が残っている。

  北條 時隆 (八郎・相模八郎)   生没年不詳  享年 不詳
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北條時村の二男。官位は民部権大夫・民部大輔、正室は北條時氏の娘。父に倣って和歌の詠み手でもあり、後藤基政が 六代将軍宗尊親王に命じられて編纂した「関東近古詠」にも数首が載っている。子に宗房・泰宗・時員など。

  北條 時親   生年不詳~ 文永十年(1273)7月  享年 不詳
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北條時盛の次男。吾妻鏡に現れる時親の活動は(寛元三年(1245)~文永三年(1266)までで、一部の資料に続古今和歌集入選が記録されている事と、一芸に秀でた者が将軍側近として選ばれる昼番衆に時親が任じた記録があることから和歌などに長じていたと推定される。
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父の時盛は長期間六波羅の南方を勤めて晩年には京都で晩年を送り、五代将軍藤原頼経や六代宗尊親王らが更迭されて帰洛する際に時盛の館を中継しているなど京都との関係が深く、息子の時親も京都との関係が深かったと推測されている。

  北條 時広   生年不詳~ 文永十年(1273)7月  享年 不詳
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北條時房の次男・時村の次男。父が早世したため時房の養子となり、引付衆→評定衆→四番引付頭人の要職を務めた。男子がなく、兄時隆の子・宗房が後継となった。和歌が得意で将軍の歌席寄人や歌仙結番にも選ばれている。北條一門では突出した風流文化人でもあった。

  北條 貞時   文永八年(1272)~応長元年(1311)十月  享年 40歳
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八代北條時宗の嫡男で生母は安達泰宗の娘(後の覚海円成)、5歳の時に将軍(惟康親王)を烏帽子親として元服した。将軍を含めた同時代の年長者に「貞」を用いた者はなく、父の時宗が遠祖(系図詐称の可能性あり)の平貞盛に倣ったと考える説がある。
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弘安七年(1284)4月には父時宗の死没に伴い満12歳で執権に就任したが、8月には佐介流北條時光(時房の長男・時盛の子)の陰謀事件が勃発するなど政情は不安定だった。これは貞時に兄弟がなく、更に父の実弟・宗政など有力な親族が早世していたことが影響していたと考えられる。
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幕政の実権を握っていた叔父の安達泰盛が推進していた徳政令は経済の再建を目指す反面で得宗家の権限範囲を削減すると共に御家人の既得権益を犯す側面があったため孤立し、得宗家執事で貞時の乳母夫である平頼綱を主とする反安達グループとの対立が先鋭化する。
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弘安八年(1285)11月17日、頼綱に説得された13歳の貞盛が泰盛追討令を下して「霜月総動」が勃発、泰盛派は一掃され貞時を擁した頼経が幕政の実権を掌握した。正応二年(1289)に貞時は将軍(惟康親王)を更迭し、第89代後深草天皇の第六皇子久明親王(正室は惟康親王の娘)を擁立した。
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頼綱は御家人の権益保護を政策の目玉としたが得宗家の家政を司る事で強力な権限を持つ一方で将軍家に仕える御家人と北條氏に仕える御内人には明確な身分差があり、頼綱の支配体制には無理があった。頼綱は仲間の得宗被官に権限を付与して強権政治を更に強め、結果として泰盛グループの反発を招くと共に成長した貞時からも見捨てられ、正応六年(1293)4月の大地震の混乱の中で頼綱一族を追討する結果となった。
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実権を取り戻した貞時は有能な北條一門を抜擢するとともに泰盛派の登用を勧めて訴訟制度を改革して得宗専制政治の強化に努め、永仁五年(1297)の徳政令を発布するなどの努力を続けたが元寇による軍事費の出費が引き起こした経済の疲弊は深刻だった。
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貞時は正安三年(1301)11月のハレー彗星出現の混乱を憂慮して出家し執権職を北條師時に委譲、継続して実権は掌握していたがこの頃から政権運営の情熱を失った。徳治三年(1208)8月には将軍の久明親王を廃して子息の守邦親王を擁立し、三男(男子二人は早世)の高時に執権を継がせる地盤固めとして長崎円喜(得宗被官・内管領)と安達時顕(泰盛の弟宗顕の子。秋田城介)に補佐を委託、政務を放棄して酒宴を続ける例が多くなった。
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実際の政治は御内人の長崎氏らと外戚の安達氏・北條庶流による寄合衆らが主導して機能しており、北條得宗も将軍と同様に傀儡に近い地位に祭り上げられてしまう。貞時は失意のまま長崎円喜と安達時顕に高時(9歳)の補佐を命じて40歳で死没.、円覚寺の塔頭仏日庵に葬られた。既に得宗の地位は形骸化し、明確な指導体制を失ったまま元弘の乱(1333)の幕府滅亡を迎えることとなる。

  北條 高時   嘉元元年(1304)~ 元弘三年(1333)5月  享年 29歳
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九代執権北條貞時の三男で兄二人が早世したため9歳で得宗家を継承した。生母は霜月騒動での零落から復活した足立市の娘覚海円成。父が貞時を名乗ったのと同様に同時代の年長者の中で名前に「高」の字を使った者はなく、父が遠祖の平高望(高望王)から命名した可能性が高い。得宗の権力が将軍の存在に左右されないレベルに定着した証左だろう。
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9代貞時の死後は十代師時→ 11代宗宣→ 12代煕時→ 13代基時と続く四人の中継ぎを経て、正和五年(1316)に父貞時と同じ14歳で14代執権に就任したが、この時点で実質的な権限は長崎円喜の嫡子高資が掌握していた。安達氏を後ろ盾にした生母また文保二年(1318)から翌年にかけては諸宗と法華宗(日印)に殿中問答を行わせ、結果として法華宗の勝利により布教を許されている。
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高時の在任中には諸国の悪党跋扈や奥州での蝦夷の反乱に続く安藤氏の乱により治安が乱れ、正中元年(1324)には京都で後醍醐天皇が倒幕を計画、これは六波羅探題が未然に防ぎ近臣の日野資朝を佐渡流罪に処するなどしたが、元弘元年(1331)8月には後醍醐天皇が再び倒幕に動き、河内では楠木正成が挙兵した。高時は大軍を派遣してこれを鎮圧し翌年3月には後醍醐を隠岐島に流して近親の日野俊基らを処刑し、更に持明院統の光厳天皇を擁立して政情の安定を図った。
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元弘三年(1333)には隠岐島を脱出した後醍醐が伯耆国で挙兵した。幕府は北條一族の名越高家と御家人筆頭の足利高氏(後の尊氏)を派遣したが高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、後醍醐方に寝返った高氏軍により六波羅探題は滅亡する。
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更に関東では上野国で新田義貞(が挙兵、関東の武士を糾合して小手指河原の合戦→ 久米川の合戦→ 分倍河原の合戦→ 関戸河原の合戦で北條勢を撃破して5月22日には鎌倉市街に攻め込んだ。高時を始めとする北條氏主従は葛西ヶ谷の東勝寺に退いて自刃する結果となる。
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高時は闘犬や遊楽に溺れる暗愚な当主として描かれる例が多いが、物心がつく3歳の頃には父の貞時は政務を顧みず酒色に溺れた生活を送っており、政務は内管領と有力御家人と生母の覚海円成の手中にあった。もちろん優れた帝王学を受けることもなく、長く続いた血族結婚に起因する病弱の影響もあったと推測される。太平記などが愚かな悪役として暑かったことも考慮する必要は、ある。

  北條 時広   生年不詳~ 文永十年(1273)7月  享年 不詳
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北條時房の次男・時村の次男。父が早世したため時房の養子となり、引付衆→評定衆→四番引付頭人の要職を務めた。男子がなく、兄時隆の子・宗房が後継となった。和歌が得意で将軍の歌席寄人や歌仙結番にも選ばれている。北條一門では突出した風流文化人でもあった。

  北條 業時 普音寺流 五郎または七郎、法名は普恩寺全念(監忍)  仁治二年(1241)~ 弘安十年(1287)6月  享年 46歳
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重時の四男で普恩寺流の祖。建治三年(1277)に北條義政が出家遁世した後は連署を継承し、九代執権北條貞時の初期(弘安十年(1287)6月)まで連署を務めている。この結果、極楽寺流の中では義政の塩田流を抜いて嫡家の赤橋流の次席の家格となった。

  北條 時村 政村流 初名は時遠、通称は陸奥三郎   仁治三年(1242)~ 文永十年(1305)4月  享年 63歳
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北條政村の嫡男として奉行職を務めた後に建治三年(1277)12月に六波羅探題北方に任じた後に和泉・美濃・長門・周防の守護職および長門探題職や寄合衆などを歴任した。弘安七年(1286)に八代執権北條時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人の制止を受けて帰洛した。正安三年(1301)に甥の北條師時(北條宗政の嫡子)が十代執権に着任した際には連署に任じられ、宿老として執権の後見役を務めた。
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嘉元三年(1305)の4月23日に前執権北條貞時の命令と称する得宗被官と御家人が時村の屋敷を襲撃して殺害、葛西ヶ谷の時村邸周辺は焼失した。夜討の実行犯12人は5月2日に斬首、5月4日には一番引付頭人(連署に次ぐ職位)の大仏宗宣らが北条宗方(貞時の従兄弟で得宗家執事、侍所所司)襲って郎党多数を含めて追討し屋敷に火を懸けた(嘉元の乱)。
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保暦間記は「執権に就く野心を持った宗方が挙兵して時村を殺しさらに貞時殺害を計画したが、貞時の命令を受けた宗宣の軍勢に討ち取られた」と書いている。貞時を含む北條一門の内部で激しい暗闘があったのは事実だが、事件の詳細な真相は謎とされている。時村の孫・煕時(当時26歳)は生き残り、12代執権を務めた。

  北條 時基 名越流 通称は遠江七郎   嘉禄二年(1236)~ 没年不詳  享年 不詳
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北條朝時の七男。兄の光時時章は得宗家との紛争で滅びたが年少の時基は関与せず、朝時の名越流を代表する形で引き立てられた。正室は北條貞時の娘、側室として二階堂行久の娘がいる。文永十年(1273)6月に38歳で引付衆、弘安元年(1278)に評定衆、弘安三年(1280)に遠江守、弘安六年(1283)に三番引付頭人、弘安七年(1284)4月に時宗の死去に伴って出家した。その後も引付頭人に数回再任、正安元年(1299)4月1日に三番引付頭人を辞任したのが最後の記録となる。

  北條 時忠(宣時) 大仏流 通称は武蔵五郎、法名は永園寺忍照   暦仁元年(1238)~ 元亨三年(1323)6月  享年 85歳
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大仏流朝直の二男で初名は時忠、名乗りは武蔵五郎。文永二年(1265)6月に引付衆に任じた時点では宣時に改名している。建治元年(1277)に引付頭人、弘安十年(1287)に執権貞時の元で連署、その後は陸奥守や遠江守などを兼任し正安三年(1301)に出家した。優れた和歌を多くの歌集に残している一方で弘安八年(1285)11月17日の霜月騒動に関与し、平頼綱と結託して反安達勢力を扇動して討伐に導いたと考える説もある。

  北條(金沢・赤橋) 顕時 初名は時方、法名は恵日(慧日)、越後四郎、赤橋殿   宝治二年(1248)~ 正安三年(1301)3月  享年 53歳
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金沢流の実質初代当主北條実時の嫡男で三代当主、生母は北條政村の娘(異説あり)、正室は安達泰盛の娘・千代野。正嘉元年(1257)11月に元服して時方を名乗った。文応元年には庇番衆に任じて将軍宗尊親王に仕え、この頃に時顕と改名したらしい。
文永二年(1265)までに左近将監・伊勢国守護、文永六年(1283)に従五位上に任じた。
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弘安八年(1285)11月の霜月騒動で舅の泰盛が平頼綱討伐され、騒動には関与しなかった顕時も連座を余儀なくされ所領の下総国埴生庄(現在の栄町・地図)に隠棲・出家(実質は謹慎)を余儀なくされた。
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永仁元年(1293)4月の平禅門の乱で執権北條貞時が平頼綱を滅ぼした直後には鎌倉に戻って幕政に復帰し、同年10月には新設の執奏(引付の発展)に任じた。翌年に引付四番頭人、永仁四年(1295)には引付四番頭人に任じると共に貞時から赤橋館(若宮大路北端の西側(外部)と推定)を与えられた。晩年には病気により政務から退くが貞時からは幕政について再三の諮問を受け、また金沢文庫に成立に大きな役割を果たしている。後継は五男の貞顕、、金沢流北條氏は得宗家から厚い優遇を受けている。

  北條(名越) 宗長 備前二郎、備前前司   不詳~ 延慶二年(1309)7月  享年 不詳
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名越流北條時長の孫で長頼の嫡子。最初の通称である備前二郎は父の長頼(備前三郎)が備前守であったことから宗長が長頼の次男だったと推定されるが、父の長頼が三郎で嫡子の宗長が二郎を名乗った理由は判らない。後に宗長が備前守を踏襲して通称とし、能登国・安芸国・豊前国の三ヶ国の守護を兼任しているため幕府での地位は高かったらしい。

  北條 宗頼(宗顕) 曼珠、宗顕、相模七郎   不詳~ 弘安二年(1279)6月  享年 不詳
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北條時頼の六男で生母は辻殿(異説あり)、時宗の異母弟。兄弟の序列では時宗>宗政>時輔>に続く第四位とされる。将軍(宗尊親王)の外出などて供奉人を務める記事が多く、弘長元年(1261)4月の重時の極楽寺邸で笠懸が行われた際にはその射手を務め、文永三年(1266)6月の宗尊親王の京都送還の際にも供奉人を務めた。
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幕府中枢での引付衆や評定衆には選ばれず主として遠国の守護として働き、文永の役(1274)10月後の建治二年(1276)1月には次の元寇に備える形で長門と周防両国の守護に任じて九州に赴任した。得宗の近親者が守護に任じた国に直接赴任する例は初めてで、この例が以後の両国守護兼帯に続いた、とされる。最前線の防護を重視した時宗は庶弟でありながら信頼を置いていた宗頼を分身として派遣したらしい。
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赴任後の宗頼は九州の治安や元寇対策に努力を続けたが、弘安の役(1281)が勃発する2年前の6月に長門国で没した。子の兼時は初代の鎮西探題となり、時宗の猶子となった宗方(得宗家執事)は嘉元の乱(1305年・連署の北條時村の殺害)で追討されている。

  北條 兼時 曼珠、宗顕、相模七郎   文永元年1264)~ 永仁三年(1295)9月  享年 30歳
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父は北條時宗の異母弟・北条宗頼。弘安三年(1280)に長門探題だった父の死に伴って長門国守護となり、翌年に異国警固番役を任じて播磨国に赴いた。弘安の役から3年後の弘安七年(1284)に摂津国守護と六波羅探題南方に任じた。 正応六年(1293)1月に探題職を辞して鎌倉に戻ったが再び蒙古襲来の危機が近付いた同年3月に執権貞時の命令を受け軍勢と共に九州に下向した(これが初代の鎮西探題らしい)。この赴任直後に鎌倉で平禅門の乱が勃発して平頼綱が討たれ、兼時は九州の御家人の取りまとめに奔走することになる。永仁二年(1294)3月、兼時は北九州で採算の軍事訓練を行なって警固体制を強化したが元軍の襲来はなく、兼時は永仁三年(1295)4月に鎮西探題職を辞して鎌倉に帰還、翌年には北條実政が鎮西探題として派遣された。兼時は評定衆に任じて幕政に加わったが、5ヶ月後の9月に死没した。

  北條(赤橋) 義宗 従五位下、左近衛将監、駿河守   建長五年(1253)~ 弘安二年(1279)6月  享年 26歳
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六代執権北條長時の嫡子で赤橋流北條氏の二代当主。六波羅北方だった叔父北條時茂の下で働き、文永七年(1270)1月に没した時茂を継いで北方に任じ、翌々年の文永九年(1272)の二月騒動の際には八代執権北條時宗の命令を受けて時宗の異母兄時輔討ち取っている。建治二年(1276)12月に六波羅北方を退任して鎌倉に戻り、翌年6月には駿河守に転じると共に評定衆に着任したが、同年8月に早世した。光景は長男の久時。

  法 然 (源空、黒谷上人、吉水上人)   長承二年(1133)~ 建暦二年(1212)  享年 79歳
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美作国(岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国の子。生誕地は誕生寺 (久米郡のサイト) 、これは後の法力房蓮生(出家した熊谷直実)が建久四年(1193)に漆間時国の法然の生家を寺に改めたもの、とされる。9歳の時に父は土地争いから殺害されるが遺言に従って仇討を断念し出家の道を選んだ。
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最初は比叡山延暦寺で天台宗を学び源光に師事した後に皇円の下で得度、わずか17歳で天台座主行玄から授戒を受けた。久安六年(1150)に比叡山の黒谷別所に移り叡空の下で修行、保元元年(1156)に比叡を離れて嵯峨の清涼寺や醍醐寺などで学んだ。
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42歳の承安五年(1175)から「阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば死後は全ての人が平等に往生できる」という専修念仏の教えを説き(浄土宗の立教年)、やがて延暦寺から証空、隆寛、親鸞らが入門して次第に勢力を広げた。養和元年(1181)には前年に焼失した東大寺復興の大勧進職就任を求められ、辞退して俊乗房重源を推挙した。
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承元元年(1207)には後鳥羽上皇から「念仏停止」の院宣が下され、法然は還俗を強要されて讃岐国に流罪、同時に親鸞も越後国に流罪となった。直接の原因は同年の後鳥羽院熊野詣の留守中に院の女房らが法然門下の開いた念仏法会に参加し出家した事件が上皇の怒りを受けたため、とされている。
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讃岐流罪の10ヶ月間は75歳の高齢にも拘らず布教に務めた記録が残っている。承元元年(1207)12月に赦免され、摂津を経て京都に戻り京都東山大谷で死没。門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生らの僧と、帰依者・庇護者には式子内親王・九条兼実・宇都宮頼綱らが知られている。また武士から引退した熊谷直実や相馬師常・東胤頼(共に千葉常胤の子)が念仏行者として余生を過ごしたのも面白い。

  坊門 信清   平治元年(1159)~ 建保四年(1216)  享年 57歳
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正二位・内大臣まで昇った公卿。同母姉が高倉天皇妃の殖子(七条院)で後鳥羽院の外叔父として権勢を振るい、九条兼實は「外戚の権威を振り翳して神事にまで影響を与えている」と批判している。元久元年(1204)には末娘の信子が三代将軍実朝の正室となり、将軍の舅として鎌倉幕府との交渉役にも任じた。上皇と将軍双方の縁戚として重要な存在だったらしいが、承久の乱で双方が衝突する5年前に没している。

  坊門 忠信   建久四年(1193)~ 没年 不詳  享年 不詳
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正二位・内大臣の坊門信清の長男で三代将軍実朝と後鳥羽天皇女房の坊門局、順徳天皇女房の位子はいずれも姉妹、後鳥羽天皇の生母藤原殖子(七条院)は叔母にあたる。官位は正二位・大納言。建永二年(1207)に参議、建保六年(1218)に権大納言となり、後鳥羽天皇と順徳天皇の寵臣として仕えた。建暦元年(1211)9月には大納言への昇叙を求めた事から後鳥羽院の勅勘を受けている。
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また承久元年(1219)正月には義弟にあたる源実朝の右大臣拝賀の式典に出席するため鎌倉へ下向し実朝暗殺の現場を目撃している。承久三年(1221)6月に勃発した承久の乱では上皇方の大将軍として出陣し、敗戦により首謀者して捕縛され処刑のため鎌倉護送となったが妹・信子の嘆願により助命され、遠江国から都に戻って出家した。その後は越後国流罪を経て間もなく帰洛し太秦の辺りに籠居、寛喜二年(1230)の春には都に戻って一条大宮に住んだ。
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歌人としては新勅撰和歌集に五首、勅撰和歌集に十一首が選ばれている。

  坊門 信子   承元元年(1187)~ 文永十一年(1274)  享年 82歳
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正二位・内大臣の坊門信清の娘で三代将軍実朝の正室。元久元年(1204)に嫁して鎌倉に下向、子供は生まれなかったが夫婦仲は良かった、と伝わっている。承久元年(1219)1月に実朝が殺された際には寿福寺で出家して京に戻り、夫の菩提寺として九条大宮に遍照心院(現在の大通寺・京都観光サイト)を建立した。承久三年(1221)に勃発した承久の乱後には後鳥羽院に味方して斬首される筈だった兄の忠信と忠清の助命を嘆願し、忠信は越後流罪の後に赦免・忠清(妻は北條時政の娘)も助命(その後の消息は不明)されている。

  本間 元忠   生年 不詳~ 没年 不詳  没年令 不詳
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肩書きは式部丞・山城前司。出自は武蔵七党の横山党海老名氏流。本領は愛甲郡依知郷(現在の厚木市中依知・地図)。
国道246号と129号が交差する渋滞で悪名高い「金田交差点」のすぐ南側・妙純寺の一帯が本間氏の館跡と伝わり、見事な土塁が残っている。承久の乱(1221年)後に佐渡守護となった北條氏の被官として佐渡代官に任じた分家の子孫が地道な活動で勢力を蓄え、やがて出羽の富豪本間氏の系に続く。元忠・信忠は手元の系図では確認できないが、同族だろう。

  町野(三善) 康俊   生年不詳~嘉祥四年(1238)  没年令 不詳
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三善康信の長男で町野氏・門柱所氏の家祖。鎌倉幕府が幕政の最高決定機関としての評定所を設置した元仁二年(1225)から評定衆に任じ、嘉祥四年(1238)6月に病気で職を辞するまで継続して務めた実務官僚。近江国蒲生郡町野を苗字の地にしたとの伝説があるが、確認できる史料は存在しない。
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長男の康持は康俊引退の跡を継いで問注所執事や評定衆を務め、寛元二年(1244)には備後守に任じたが寛元四年(1246)5月には名越光時と前の将軍藤原頼経の陰謀に加担した嫌疑で解任され、問注所執事の職は同じ安伸の子孫である太田氏に継承されている。

  町野(三善) 康持   建永元年(1206)~正嘉元年(1257)  没年令 51歳
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  町野(三善・太田) 康連   建久四年(1193)~康元元年(1256)  没年令 64または65歳、と。
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三善康信の三男で太田氏の家祖。法制に詳しく、早くから幕政に参加した。父から備後国世羅郡太田荘の半分の地頭職を譲られ、同荘の桑原方(広島県世羅町)を領有した。貞応二年(1223)4月に玄蕃允に任じられ、嘉禄元年(1225)には兄の康俊と共に評定衆に任じ、同年に制定された御成敗式目の構成にも携わった。天福元年(1233)に民部大丞・従五位下、嘉禎元年(1235)に阿波守、寛元四年(1246)の宮騒動で失脚した甥の康持に代わって第四代の問注所執事に任じて65歳で没する直前まで務めた。

  松下禅尼      生没年 不詳だが弘安五年(1282)後半の死没か。  没年令 不詳。
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安達景盛の娘で北條時氏の正室、四代執権北條経時と五代執権北條時頼の生母。寛喜二年(1230)に夫の時氏が死没した後は出家して実家の甘縄邸に住み経時と時頼の養育に務めた。八代執権北條時宗も甘縄邸で誕生している。

  三浦 胤義   生年不詳~承久三年(1221)  没年令 不詳
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三浦義澄の九男(末子)で生母は伊東祐親の娘。元久二年(1205)の畠山重忠の乱と牧氏追討には兄の義村とともに出陣し更に建暦三年(1213)の和田合戦でも軍功を挙げた。建保六年(1216)6月の 源実朝の左大将拝賀にも参列し、その後は上洛して検非違使判官に任じた。妻は二代将軍頼家の愛妾(一品坊昌寛の娘)で、承久記は先夫(頼家)と息子の禅暁を北條氏に殺されて嘆き悲しむ妻に同情して倒幕計画に加わったと書いているが、実際には 後鳥羽上皇 の近臣藤原(足利)秀康に説得されて倒幕計画に参加したのが真相らしい。
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倒幕挙兵に参加を打診した兄の義村は日本国総追捕使に任じられるなら必ず味方すると確約したが途中で裏切り、計画は幕府に露見してしまう。吾妻鏡は藤原秀康と三浦胤義を逆臣の中心と書いており、敗戦と共に後鳥羽にも見捨てられ東寺で抗戦した後に太秦まで逃れて自刃、東国に残した幼児も処刑された。
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  三浦 盛時   生年不詳~没年不詳  没年令 不詳
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三浦(佐原)盛連の七男。生母の矢部禅尼は最初北條泰時に嫁ぎ、時氏を産んだ後に離縁(理由は不明)して佐原盛連に再嫁して(蘆名)光盛、加納(三浦)盛時、新宮時連の3人を産んだ。彼らは泰時の長男時氏と異父兄弟の関係にあり、更に矢部禅尼の仲介もあって得宗家との結びつきが強く、宝治合戦の際は三浦一族でありながら執権の北條時頼に協力し、宗家の滅亡に手を貸す結果になった。
その後の盛時は三浦介として三浦宗家を継承したが、棟梁としての待遇を受ける一方で、全盛期の三浦氏が受けていた当時の待遇は受けず、佐原氏時代の扱いが踏襲されたという。嫡子は六男の頼盛、三浦宗家を継承している。
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  三浦 家村(駿河五郎)   生年不詳~寳治元年(1247)?  没年令 不詳
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三浦義村の六男。寳治合戦の際に頼朝法華堂で自刃と推定されるが死骸の確認できず、生存説もある。 木曽御嶽山麓の伝承では、鎌倉から逃れて王滝村に土着し木曽三浦氏の祖になった、としている。確か、王滝村滝越地区の住民は全て三浦姓だった筈...良くある生存伝説だとは思うけど。確か和田義盛の次男朝比奈義秀も和田合戦での死体確認ができず、由比ヶ浜から舟で安房国に逃れ行方不明になった、との話があったね。
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  三浦 資村(駿河五郎)   生年不詳~寳治元年(1247)  没年令 不詳
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三浦義村の七男。
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  三浦 朝村   生年不詳~没年不詳  没年令 不詳
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三浦義村の長男。
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  三浦 胤村(駿河八郎)   嘉禄元年(1225)~永仁五年(1297)  没年令 72歳
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三浦義村の九男で泰村の異母弟。宝治合戦の際は奥州に滞在していたため三浦泰村・光村・家村の兄や毛利季光など一族郎党の大部分が自害や討死した中で死没を免れ、小山長村に捕縛されて鎌倉に護送された。結果として乱の責任は問われず助命された。その後は出家して親鸞の弟子となり、明空房を名乗って常陸国下妻に光明寺を開いた、と伝わる。子孫に駿河三浦氏(徳川旗本三浦氏)などの数流がある。
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  源 斉頼   生没年 不詳~没年令 不詳
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平安時代の官人で清和源氏満政流(満仲の弟満政→ 忠隆→ 斉隆と続く。「清和源氏の系図」を参照)の武将。前九年の役では源頼義の援軍として出羽守に任命されて下向したが頼義に対しては非協力的な態度に終始した、とされる。優れた鷹匠として知られ、朝鮮から渡来した鷹匠の兼光から秘伝を継承し、後に諏訪流として広まった。晩年には盲目となったが、鷹に触れるだけで産地を言い当てたと伝わる。
三男惟家の子孫が近江国高島郡に土着して善積氏を名乗り、斉頼の孫娘が源頼政に嫁して嫡子の源仲綱や二条院讃岐(女房三十六歌仙の一人)などを産んでいる。彼女の没後に頼政に嫁したのが菖蒲の前(詳細はこの辺(サイト内リンク・別窓)を参照されたし)。斉頼の墓所は高島市マキノ町牧野の斉頼塚古墳(実際は古墳時代の墳墓か?)と伝わる。

  源 有雅   安元二年(1176)~承久三年(1221)  没年令 45歳
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  源 頼茂   治承三年(1179)~承久元年(1219)  没年令 41歳
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祖父の源氏三位頼政、その次男頼兼に続いて大内守護(大内裏の警護職)を務めると共に在京御家人として幕府と朝廷を仲介する立場にあった。承久元年(1219)7月、内裏に駐屯中を後鳥羽院の命を受けた兵に襲撃され、抗戦した後に仁寿殿に放火して自刃した。火災は更に広がって複数の建物と内侍所の守鏡などが焼失した、と伝わる。襲撃の理由は不明確、朝廷側は「頼茂が将軍職に就く企てを抱いた」としているが、実際には後鳥羽上皇の倒幕計画を知った頼茂を経て情報が幕府側に漏れるのを危惧した措置だろうと推定されている。

  美作 朝親   生没年 不詳~没年令 不詳
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村上源氏または清和源氏の末裔とされる。承元三年(1219)12月11日に女を巡って筋向いに住む橘公業と争ってあわや合戦の状態に至り、北條時房が駆け付けて収拾する騒ぎがあった。
建暦二年(1212)には実朝の八幡宮参拝に随行、建保元年(1213)に設置された実朝学問所の警備担当に任じた事などから実朝に「朝」の字を与えられたらしい。承久の乱の恩賞として若狭国大飯郡本郷(現在の福井県大飯郡おおい町本郷・地図)の地頭職を与えられて下向、子孫は本郷氏を名乗って在京の御家人を続けた。

  宗尊親王   仁治三年(1242)~ 文永十一年(1274)  享年 32歳
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第88代後嵯峨天皇の第一皇子で鎌倉幕府の第六代将軍、在位は建長四年(1252)4月~文永三年(1266)6月。皇族として最初の征夷大将軍である。
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第五代将軍・藤原頼嗣(四代将軍
藤原頼経の嫡子)が京都に送還された後の建長四年(1252)4月に11歳で鎌倉に迎えられ、異母弟の後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受けた。長子でありながら母親の出自が低いため皇位継承は望めず、弟(後の89代後深草天皇)が産まれるまでは皇位継承権者のサブとして出家もせずに温存された存在だった。当時の朝廷は第五代将軍・藤原頼嗣の祖父九条道家が実質的に支配しており、九条家を政界から排除したい天皇周辺と、頼嗣を介して幕政に関与する道家を排除したい執権北条時頼の利害が一致し、「皇族将軍」が誕生する条件が整っていた。
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将軍に着任しても実質的な権限は持てず、和歌に傾倒した事が鎌倉歌壇の隆盛をもたらした、とされる。25歳になった文永三年(1266)には謀反の嫌疑により解任されて京都への送還が決定、次期将軍は嫡子の惟康親王となった。この送還が御家人を巻き込んだ騒動となり、送還に反対した名越流の北條教時が軍勢を率いて示威行為を行って執権時宗の叱責を受けている。この事件が文永二年(1272)の口火となり、名越流の時章と教時そして時宗の異母兄で六波羅探題南方の北條時輔の討伐に発展、結果的に北條得宗家の権力強化に繋がった。

  三善 康俊   生没年 不詳  没年令 不詳
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鎌倉幕府初代門注所の執事に任じた三善康信の嫡子で筑後国生葉郡を相続し、大友能直の後見としてに鎮西に下向した後に鎌倉に帰って門注所執事を世襲して問註所氏を名乗った。子孫の一方は近江国蒲生郡町野を本領として町野氏を名乗って問注所執事・六波羅評定衆などに任じている。

  三善(矢野) 倫重   建久元年(1190)~寛元二年(1244)  享年 54歳
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  三善(矢野) 倫長(法名善長)   承元四年(1210)~文永十年(1273)  享年 63歳
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  武藤 景頼   建仁四年(1204)~文永四年(1267)8月  享年 63歳
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武藤(大宰少弐)資頼-次男頼茂-景頼と続く。資頼の嫡男資能は太宰府を拠点にしたが景頼の家系は幕臣として活躍、宝治三年(1249)に引付衆、建長八年(1256)に大宰権少弐、正嘉二年(1258)には評定衆に任じて幕政の中心部で活躍した。四代将軍藤原頼経の更迭と追放、六代将軍宗尊親王の招聘、康元二年(1257)の北條時宗元服にも参列するなど、幕府での存在感も高かった。弘長三年(1263)の北條時頼死没の際に出家し幕政から退いた。

  矢木 胤家   生没年 不詳  没年令 不詳
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相馬(千葉)師常の孫で相馬氏二代当主義胤の子と推定される。下総国矢木郷(流山市芝崎周辺・地図)の地頭に任じ、文永年間(1264~75)の香取神宮遷宮に際し西回廊の造営を負担した。日蓮の有力な後援者となり、文永六年(1269)には直筆の「立正安国論」を与えられている。

  山田 重忠   生年 不詳~ 承久三年(1221)  享年 60歳
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尾張国一帯から出た武士で父の重満は治承五年(1881)4月の墨俣川合戦に源行家の軍勢に加わって戦死、重忠は寿永二年(1184)の義仲入京の軍勢に加わり、義仲の滅亡後は頼朝の御家人として尾張国山田荘(名古屋市北部+瀬戸市+長久手市)の地頭に任じた。一族は伝統的に朝廷との関係が深く、鎌倉幕府の成立後も御家人であると共に朝廷に仕え、後鳥羽上皇に近侍している。承久の乱(1221)の勃発に際しては一族を挙げて院方に加わり墨俣に布陣した。
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京方の指揮官藤原秀澄は鎌倉勢に比べ数で圧倒的に劣る兵力を各地に分散する愚策を取ったため重忠は鎌倉勢の機先を制して尾張国府を襲い、その勢いで鎌倉まで攻め上る策を進言するが、既に臆病風に吹かれていた藤原秀澄はこれを拒んだ。防衛線はすぐに突破され秀澄は逃亡したが秀忠は踏み止まり児玉党の100余騎を討ち取ったが衆寡敵せず、京都に引き上げた。
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京都での秀忠は藤原秀康・三浦胤義らと最後の合戦をするべく御所に駆け付けるが後鳥羽上皇は門を閉ざして彼らを受け入れず、秀忠は「臆病者の上皇に騙されて無駄死にするのか」と門を叩いて憤慨した、と伝わる。その後は藤原秀康・三浦胤義らと東寺に立て籠って奮戦した後に嵯峨般若寺山(京都市右京区)に落ちて自害、嫡子重継も斬首された。山田氏は重継の弟重親の子孫が継承している。

  結城 (七郎)朝広   元久元年(1190)~ 文永十一年(1274)前後  享年 84歳前後
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結城朝光の長子で結城氏の第二代当主、母は伊賀朝光の娘、正室は安保実光の娘。承久の乱では北陸道の大将として京都を目指し越中の朝廷軍と戦って功績を挙げ、兵衛尉・左衛門尉に任じた。その後も検非違使として京都の治安に尽力し仁治三年(1242)には正五位下・大蔵権少輔に任じた。その後は幕政の運営に尽力して結城氏の全盛期をもたらしている。後継は長子の広綱、もう一人の子・祐広は白河結城氏の初代となり、子孫は戦国時代まで繁栄したが秀吉の小田原攻め(1590)に参陣せず改易となった。子孫には嫡流の秋田白川氏・仙台白河氏・水戸結城氏・甲斐結城氏などがある。

  結城 広綱  上野介、三郎兵衛尉、七郎、中務大輔    安貞元年(1227)~ 弘安元年(1278)6月  享年 51歳
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結城氏二代当主結城朝広の嫡子で三代当主を継承。弟に白河結城氏の祖となった佑広、長子は四代当主となった時広がいる。広綱から時広の孫の五代当主貞広までの下総結城氏の活動には特筆すべき事例が乏しい。祖父の結城朝光から四代時広までの墓所は親鸞の教えに帰依していた朝光が親鸞の高弟・真仏を開山として建立した 結城称名寺(参考サイト)にあり、

  蘭渓道隆   建保元年(1213)~ 弘安元年(1278)7月  享年 65歳
南宋から渡来した禅僧で臨済宗大覚派の祖。寛元四年(1246)・33歳の時に、渡宋した泉涌寺(公式サイト)の僧・月翁智鏡との縁により弟子と共に来日、筑前の円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉の寿福寺などに住んで宋風の臨済宗を広めた。
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また執権の北條時頼に招かれて鎌倉に入り、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川の住持を務めた。建長五年(1253)には時頼が創建した建長寺の開山和尚となった。この時代の建長寺の中級以上の僧は大部分が中国人で、渡来僧はまず建長寺にはいる習慣だったらしい。
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元寇の際には多くの渡来僧が元の密偵と疑われて各地に流され、蘭渓道隆も伊豆修禅寺に流された(迫害を避けて避難した、との説あり)際に真言宗から臨済宗に改めている。この際に南宋の五代皇帝理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」の額(江戸時代に焼失)を下賜され、修禅寺の名は中国まで周知された(現在も中国人の観光客は多い)。
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その後は京都の建仁寺・鎌倉の寿福寺と禅興寺(明治初期に廃寺)などを住持し、讒言を受けて甲斐に流された弘長二年(1262)には甲府の東光寺(公式サイト)を再興、再び建長寺に戻って弘安元年(1278)に没した。後継として無学祖元が来日している。

  隆 弁   承元二年(1208)~ 弘安六年(1283)  享年 75歳
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天台宗寺門(円城寺)派の僧侶で歌人、通称は大納言法印。父は四条隆房、母は葉室光雅の娘。鶴岡八幡宮・園城寺別当と長吏、大僧正・大阿闍梨。北条得宗家と結びついて園城寺を再興し、「鎌倉の政僧」の異名を持った。
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若年の頃から名声が高く、天福に年(1234)には将軍九条頼経に招かれ初めて鎌倉を訪れ、その後も執権北条経時の要請を受けて度々鎌倉に下り鎌倉と園城寺を往復する生涯を送る事になった。当時の天台宗は九条兼實の実弟慈圓が座主を務めた以後は九条家との関係を深め、真言宗もまた朝廷の実力者である九条家に近い関係にあった。
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九条頼経と彼の支持勢力が五代執権北條時頼を倒そうとした寛元四年(1246)の宮騒動と宝治元年(1247)の宝治合戦の直前までは多くの僧侶が時頼打倒の祈祷を行った結果として密教勢力が鎌倉から駆逐に近い処遇を受け、政争に関与しなかった禅宗が鎌倉で隆盛する結果となった。そして執権時頼のために祈祷した唯一の天台僧だった隆弁が北條得宗の厚い信頼を受け、宝治合戦後に鎌倉に下って八幡宮の九代別当に任じる事となった。
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その後は六代将軍として鎌倉に入った宗尊親王の病気祈祷や時頼の嫡男(後の時宗)の安産祈祷などを通じて幕府との関係を深め、元寇の際にも祈祷を通じて鎌倉の宗教界に大きな足跡を残した。また圓城寺で修行した公暁が実朝を殺したことから幕府との関係が悪化して衰退していた圓城寺の復興にも大きな貢献を果たしている。

  横山(小野) 時兼   仁平三年(1153)~ 建暦三年(1213)  享年 60歳
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  若槻(森) 頼定   治承三年(1179)~康元二年(1257)  享年 78歳
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鎌倉幕府御家人で源義家の孫にあたる若槻(源・毛利)頼隆の次男で森氏の祖。相模国毛利庄(現在の厚木市西部・地図)を継承して森姓を称し、安嘉門院判官代などを務めた。頼朝の死没後に信濃国若槻庄(長野市北部・地図)に移って本領とした。子孫には織田信長の家臣である森可成、長可、成利、忠政らの他、讃岐国の豪族となった家系が派生したともされるが忠政を祖とする近世大名の家系は仮冒とする説もある。

  若狭(堤・津々見) 忠季   生年 不詳~承久三年(1221)  没年令 不詳
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惟宗広言の息子で嶋津忠久の弟(兄説あり)。 平家追討に協力しながら建久七年(1196)8月に頼朝の勘気を受けて失脚した稲庭時定の没収所領の遠敷郡玉置荘津々見保(福井県三方上中郡若狭町堤)の地頭職に補任されて津々見を名乗り、後に若狭国守護職に任じて若狭氏を名乗った。頼朝は若狭の最有力在庁官人だった稲庭時定を排除することにより若狭への影響力を確立し、一方の忠季は若狭に土着して支配権を確保したかったのだろう。
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正治元年(1199)には梶原景時を弾劾する連判状に名を連ねたが、建仁三年(1203)には比企能員の変に連座して所職を没収され、承久二年(1220)になって復権し若狭国守護職に戻った。翌年の承久の乱では鎌倉方で戦ったが、6月14日の宇治川合戦の渡河で死没、名簿の中に「若狭次郎兵衛入道」の記載がある。戦後は兄忠久の子で甥に当たる忠時が若狭国守護職を継いだ。

  和田 三郎 朝盛   生没年 不詳  没年令 不詳
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和田常盛の嫡子で義盛の嫡孫。実朝の近習として仕えた弓の名手。建保元年(1213)5月の和田合戦の際は主人の実朝と一族の板挟みになり合戦の直前に出家して京都に向ったが、朝盛の武勇を必要とした義盛が四男の義直に跡を追わせ、駿河国から連れ戻された。
祖父の義盛と父の常盛は合戦で討ち死にし、朝盛は死罪を減じられ在京の御家人として駐在した。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇側に与して戦って敗れた後に逃亡し、嘉禄三年(1227)6月に捕縛された。
その後の記録は見当たらないが、斬罪に処されたのだろう。墓所は三浦市初声の高円坊に残る塚(朝盛塚地図)と推定されている。

  和田 (四郎)義直   生年 不詳  建暦三年(1213)  没年令 不詳
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和田義盛の四男。常盛・義氏・義秀の弟、義重・義信・秀盛・義国の兄。 建暦三年(1213)2月に頼家の遺児栄實を擁して北條氏を倒そうとした泉親衡の計画に参加し、次弟の義重と共に捕縛された。義盛の嘆願によって二人は許されたが共に参画した甥の胤長(義盛の弟義長の嫡男)は許されず、捕縛された姿で一族の前を引き立てられ陸奥国に流罪となった。
この屈辱に加えて没収された胤長の館は計画の鎮圧に功績を挙げた御家人に与えられ(罪人の屋敷は同族に与える通例)、義盛が挙兵する直接の契機になった。 和田一族は5月2日に挙兵、義盛勢は一時は御所を選挙するほど良く戦ったが将軍実朝を確保した北條勢は新手を繰り出して攻め続け、翌日3日の夕刻には義盛が最も愛した義直が討ち取られた。義盛は声を挙げて泣き、戦意を失ったまま討ち取られた。その後に五郎義重(34歳)・六郎義信(28歳)・七郎秀盛(15歳)らも討たれ、朝夷名(朝比奈)三郎義秀(38歳)ら数人のみ浜に出て船で安房国に逃れた。

  和田 (五郎)義重   生年 不詳  建暦三年(1213)  没年令 不詳
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和田義盛の五男。常盛・義氏・義秀の弟、義信・秀盛・義国の兄。 建暦三年(1213)2月に頼家の遺児栄實を擁して北條氏を倒そうとした泉親衡の計画に参加し、次兄の義直と共に捕縛された。義盛の嘆願によって二人は許されたが共に参画した甥の胤長(義盛の弟義長の嫡男)は許されず、捕縛された姿で一族の前を引き立てられ陸奥国に流罪となった。
この屈辱に加えて没収された胤長の館は計画の鎮圧に功績を挙げた御家人に与えられ(罪人の屋敷は同族に与える通例)、義盛が挙兵する直接の契機になった。 和田一族は5月2日に挙兵、義盛勢は一時は御所を選挙するほど良く戦ったが将軍実朝を確保した北條勢は新手を繰り出して攻め続け、翌日3日の夕刻には義盛が最も愛した義直が討ち取られた。義盛は声を挙げて泣き、戦意を失ったまま討ち取られた。その後に五郎義重(34歳)・六郎義信(28歳)・七郎秀盛(15歳)らも討たれ、朝夷名(朝比奈)三郎義秀(38歳)ら数人のみ浜に出て船で安房国に逃れた。