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女性も子供も殺し続ける、ナチス以下の 差別主義国家イスラエル に強く抗議する。
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他人の土地を略奪し 共存の努力もしない ネタニヤフ は戦争犯罪人、虐殺を支持するユダヤ人も同罪だ。
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.市民団体が 検察審査会に 安倍派幹部の再審査を請求検察は巨悪を無視するのか
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捜査権のない国会で議論しても所詮ムダ。最終判断を裁判所に委ねれば済むのに、なぜ起訴を避けるのか

国費泥棒と 銭ゲバ宗教団体に政治を任せた結果がこれ。彼らを国会から退場させましょう!
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政権与党の腐敗は、連立与党 つまり公明党の責任でもある。
給付金の支給が増えたり 減税が実現すれば「公明党が頑張ったから」
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金権政治の横行、不正腐敗、政治の右傾、夫婦別姓不同意、海外派兵、
女性天皇反対、政治と宗教の癒着、これらは「自民党の責任」らしい。
要するに 協力したけど同じ穴のムジナと思われたくない のが公明党。
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政治は結果責任だ。20年以上も政権与党として甘い汁を吸い続けて、
憲法違反の指摘は筋違いの詭弁 で誤魔化し自民党と共に立法と行政を
支配し続けてきた。国交大臣の椅子を10年以上も独占し、創価学会の
利益を擁護し続け、宗教法人の一般法人並み課税にも反対してきた。
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国交大臣 (旧建設省) 関連で教団施設建築値引きの噂 もあったし。
100年安心年金 も公明党の坂口厚生大臣の無責任な嘘だったしね。
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当然の事だが 創価学会を「カルト (セクト)」と規定したフランス では
政教分離法で宗教団体と政治の関係を厳しく制限 (Wiki) している。
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連立を解消して政治には一切関与せず、まともな宗教活動に戻れば良い。
宗教と政治が利益を分け合って国を動かす時代ではないと、悟るべきだ。



吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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フレーム表示のトップページ から、どうぞ。タグ記述を Google Crome に変更して誤字・脱字・行間も改善しました。


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~ 頼朝の墓所。安永八年(1779)、子孫を僭称した薩摩藩主・島津重豪が大倉御所の法華堂跡の裏山に建立した。 ~

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           その壱.....頼朝は伊東を脱出して伊豆山(走湯権現)へ
           その弐.....再び韮山へ、そして頼朝と政子の出会い
           その参.....頼朝挙兵、各地の源氏も打倒平家を目指す
           その四....・頼朝の韮山挙兵にかかわる人々
           その伍.....韮山周辺に残る北條氏所縁の史跡
           その六.....土肥(湯河原)を経て石橋山の合戦へ
           その七.....土肥 椙山を逃げ回って安房へ落ちる
           その八.....頼朝の鎌倉入りと富士川合戦
           その九.....甲斐源氏・武田一族の興隆と衰退について
           その拾.....木曽義仲の興隆から粟津での滅亡まで
           その拾壱....須磨一ノ谷の合戦 平家一門 痛恨の敗北
           その拾弐....屋島の合戦 九郎義経の奇襲を受け再び敗北
           その拾参....壇ノ浦の合戦 平家一門の滅亡
           その拾四....九郎義経と白拍子・静(しず)の物語
           その拾伍....奥州の悲劇① 前九年の役で安倍一族が滅亡
           その拾六....奥州の悲劇② 後三年の役で清原氏嫡流が滅亡
           その拾七....奥州の悲劇③ 藤原氏三代と平泉文化が滅亡
           その拾八....鎌倉将軍頼朝、51歳で死没 事故か、暗殺か

レジャースポットとして訪れる人は多いけれど 平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけて 伊豆の各地が中世日本史を彩る舞台になった事は余り詳しく知られていない。この紀行では1160年から1333年の間に残された歴史の跡、主として源氏の史跡を1ヶ所づつ自分の足で訪ね歩いている。平治の乱で平家に敗れた源義朝の子・頼朝が韮山の蛭ヶ小島に流されてから 鎌倉幕府が新田義貞によって滅ぼされるまでの約170年間の足跡。
史跡以外のちょっとローカルな観光スポットや自然の香りや立ち寄り温泉などの情報も織り混ぜ、デジカメによる画像も少しづつ増やそうと思っている。
   ちょっと固い話、 平安から鎌倉の時代背景も参考に。

 
 その壱 頼朝は伊東を脱出して伊豆山(走湯権現)へ 


熱海海岸の風景 左:熱海 ムーンテラス周辺の風景  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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「鎌倉時代を歩く 壱」では伊東祐親の討手を避けた頼朝が伊東を脱出して伊豆山権現に向かったまでを書いたので 「弐」(この頁)ではその続き、何かと噂に登場する温泉地・熱海から。
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海岸のメインストリートは軒を連ねていた大型旅館の廃業が続き、現在では2、3軒の小規模ホテルの周辺にリゾートマンションが林立する姿になってしまった。団体客に依存した観光業者の思惑と長期ビジョンを示せなかった行政の無策が続いた結果である。
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一時は定住型マンション建設による人口増を目指していたようだが所詮は掛け声だけに過ぎず、並行してカジノ招致運動を展開するという矛盾。観光と定住型マンションとカジノの共存共栄なんて夢物語に過ぎないし、美味しい話は滅多にない事を悟るべきだろう。
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個人的な好みとしては昔ながらの梅園・お宮の松・錦浦・ハーブガーデンを見て廻るよりも親水公園・伊豆山・姫の沢公園・日金山の方がお薦めできるのだが、いずれも特に観光客向きではなく、スケジュールにも少々の余裕が必要となる。
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更に観梅なら湯河原か曽我がお薦めだし、海岸の雰囲気を楽しむなら横浜周辺が楽しいし、温泉なら南伊豆や中伊豆だし、土産物なら伊東が豊富で安いし、ね。 もう20年近く住んでいるのだが...革新系の知事になってから市役所の動きも幾分は改善された。
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さて、平安時代末期の伊豆に戻って...源頼朝 と熱海の接点はそれなりに多く残っているのが興味深い。韮山に住んだ頃の頼朝が仏典を学ぶため伊豆山権現へ通ったルートは現在の函南から日金山へ続く旧熱海街道、日金山からは伊豆山に通じる参道を利用していた。鎌倉に幕府を開いた後も伊豆山権現と箱根権現の二所に加えて三嶋大社への参詣は頻繁に行われており、吾妻鏡には頼朝に続く二代将軍 頼家 や三代将軍 實朝 もその行事を継承した記録が残っている。
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北條時政 の曽祖父は現在の熱海に住んで阿多見四郎聖範 (阿多見四郎禅師・権律師) を名乗り、その子の時方は現在の和田郷(現在の熱海市和田。和田川の上流に 今宮神社(別窓)がある)に住んで和田四郎太夫を名乗った。時政が保元二年(1138)生まれなのを考えると聖範の熱海在住は永承の頃(1050年前後)、八幡太郎義家 と同時代の人だろうか。ただし北條の系図には改竄が多く見られる事を割り引いて考える必要がある。(北條=北条。以下、北條に統一)
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※禅師・権律師: 鎌倉時代の禅僧に贈った「禅師」は諡号つまり没後の敬称で、鎌倉五代執権 北條時頼 が創建した建長寺(公式サイト)の開山和尚として中国から招いた
蘭渓道隆 の死後に第91代後宇多天皇が贈ったのが最初と伝わっている。ただし平安時代の禅師は単純な尊称であり、権律師は(天台宗の場合) かなり下位の僧官に与える称号である。いずれにしろ聖範はそれ程高い身分ではなかったと考えられる。

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伊豆山神社の風景へ 右:八月の深い緑に囲まれた熱海伊豆山神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊豆山神社(公式サイト)の伝承に拠れば、流人の頼朝が政子と出会ったのは伊豆山神社近くの小川に架かる橋なのだが、これは主役の二人が数寄屋橋で逢った「君の名は」(ちょっと古い比喩だ) みたいな作り話。伝承は更に、頼朝が伊豆山の住僧覚渕(加藤景廉 の兄弟)に師事した際に政子と出会い恋に落ちた、とも伝えている。
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ちなみに、政子の名は建保六年(1218)の従三位叙任に際して父 時政の一字を転用したもの。頼朝 に嫁してからは御台所、頼朝の没後は尼御台所と記録されているが、独身時代の名乗りは「時政の女 (むすめ)」以外は伝わっていない。それが当時の一般的な風習だが、例えば「満劫」や「板額」など、愛称に近いような固有名詞もあった。
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   ※小川と橋: 現在は伊豆山温泉の国道135号に赤い欄干の逢初橋があり、下に逢初川が流れている。橋の画像は伊豆山権現の
紹介頁に掲載したが、もちろん名前だけで伝承とは無関係だ。
頼朝は平治元年 (1160) に「蛭島」に流されて北條時政の監督下に入ったのだから、その10数年後に時政の娘と伊豆山で初めて会ったなんて馬鹿な話がある筈がない。
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存在が史実じゃない出会い橋を「本物」と言うのは変だけれど、伊豆山神社の西300mの般若院近くに架っているのが本物の逢初橋で、これは下に記載した「伊豆山権現別院 般若院」を参照されたし。ただし「お宮の松」と同様にフィクションの世界だから、二人の出会いが真実だなんて思ってはいけない。
神話が語っている「逢初」は、初島に流れ着いた女神が海を渡って伊豆山の麓に上陸し、土着の男神と初めて逢った川辺、その場所を意味している。
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曽我物語の記述に従えば、伊東祐親 の討手を避けて伊東から逃亡した 頼朝 は伊豆に配流されて最初に定住した韮山に戻り北條邸に寄寓しているし、そもそも14歳の頼朝を数年間も監督していた 北條時政 の娘と初めて会ったのが伊豆山だなんて本来あり得ないのだが、今では 山木(平)兼隆 との婚礼の夜に政子が雨の中七里(約30km)の山道を走って伊豆山にいる頼朝の元へと逃げた、それがまるで史実のように語られている。
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もっともこれは吾妻鏡の記述が原因しており、これは鎌倉時代の末期に吾妻鏡を編纂した人物が曽我物語の影響を受けて面白く脚色した、と考えるべき (石橋山合戦云々の部分を除く) 。ついでに、「北條政子は(源氏の正嫡である)頼朝よりも判断力の優れた貞女」だとさりげなく強調しているのは明白に権力者 北條一族を忖度した記述だ。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 4月9日 】
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(白拍子の) が反逆者である 義経を恋い慕う歌を演じるのを見て顔色を変えた頼朝を御台所 (政子) が宥めた。「貴方が流人として豆州にいた時に契りを交わした際に父の時政は平家を憚って私を閉じ込めましたが、私は雨の暗夜をついて貴方の元へ逃げました。また石橋山合戦の際は伊豆山に隠れ貴方の生死も知らず途方に暮れていました。それを考えれば静の行動は貞女のあるべき姿、その想いを受け取め穏やかに鑑賞すべきでしょう。」と。

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小田原城遠望 左:秀吉が築いた石垣山の一夜城跡と小田原城周辺   画像をクリック→ 拡大表示
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白拍子・静についての詳細は「参」の後半に記載した。「映画 卒業」っぽい内容の政子に関する挿話は吾妻鏡編纂者の脚色と思われるが、この記述をベースにして「頼朝&政子の恋物語」が続々派生していく。
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本題に戻って。本殿横には二人が恋を語ったとする「頼朝と政子の腰掛け石」がある。頼朝石や政子石は三嶋大社に1ヶ所・中伊豆に2ヶ所。那古谷毘沙門堂への路傍に1ヶ所、鎌倉将軍や御台所になっていない頃は暇だったようで、結構方々で腰掛けている。
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伊豆山権現は鎌倉幕府開設後も頼朝と政子のみならず歴代将軍の篤い崇敬を受け、最盛期には僧兵3800人を抱える勢力を誇ったが、天正十八年(1590)の秀吉による小田原攻めの際には後北条氏に与して全山が焼き払われ、その後は長く衰退が続いた。
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江戸時代初期になって徳川幕府の庇護により復興、家康が参拝に訪れた記録も残っている。伊豆山~小田原間は約20km、途中には土肥郷の 五所神社石橋山古戦場(共に別窓)、他にも 石垣山一夜城跡(小田原市のサイト)などの見所も点在する。
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小田原魚市場2階の漁協直営 魚市場食堂 は本当に「安くて旨い」。私の知る限り、湘南から伊豆にある市場食堂では最もお薦めできる。お試しあれ!2019年末には公共の新しい飲食施設がOPENして評判を集めているが、私はまだ確認していない。
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伊豆山神社のナギの木の葉は男女の縁結びに霊験あり、とされている。もちろん若い女性の参拝客も多いけれど、色眼鏡で眺めるせいか不倫カップルっぽい男女もチラホラと見える(本当だよ)。もしかすると結ばれぬ恋に悩む男女、かも知れない。いずれにしろ、三角や四角関係にはくれぐれもご注意を。
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   ※ナギ(梛): 枝に向き合う形で葉が付き、葉脈が縦に通っているため簡単に千切れない「縁結びのシンボル」。参道の両側などに植える習慣が日本各地にあり、熊野神社
などでも御神木扱いとなっている。凪が同じ発音である事から船乗りの護符→ お守り→ 厄除けに使われ始めた。
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伊豆山神社では雄株と雌株の葉を一枚づつ入れた護符を扱っている。効果の有無は兎も角として、木の葉は境内に沢山あるから原価はパッケージのコストだけで利益率は高い。コンパクトや鏡台に入れておくと霊験あらたか、としている。頒価は500円、通販では買えない。

本宮神社の詳細記述ページへ 右:伊豆山権現の原点 本宮神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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走湯山縁起(伊豆山縁起)に拠れば、応神天皇二年 (271) に相模国唐浜 (大磯) に三尺を越える丸い鏡が現れ、翌々年 (273) に 松葉仙人 がこの鏡を日金山頂に祀ったのが起源とされる。推古天皇三年 (594) には海底火山の噴火に伴って熱湯が噴出したことから「走湯権現」の神号を受け、更に山頂近くで続いた噴火を避けて岩戸山 (734m) の中腹に遷って「中の本宮」となった。
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   ※松葉仙人: 松葉などを主食にしたと伝わる修験者で山岳信仰の指導僧。詳細は 日金山東光寺(別窓)で。
周辺の噴火など、天変地異への対応と密接に関係している人物だったらしい。
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この「中の本宮」が現在の本宮神社で、日金山頂からの距離は直線で3km。現在の伊豆山神社からは約2kmだからほぼ中間にある。山頂にあった祠は「上の本宮」(日金山東光寺の前身だろうか)として残り、「中の本宮」は更に承和三年(836)に甲斐の僧・賢安によって現在の伊豆山神社の地に遷座した。
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日金山と本宮神社を結ぶ本来の参道は既に廃道状態、小さな社殿の周辺も無秩序な別荘開発のため古い時代の面影は残っていない。
参拝には別荘が建ち並ぶ舗装道路から社殿の横に入る道が最も手軽で、本来の鳥居から社殿まで登る参道は地図にも記載されていない。
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今回は散々に迷った末に参道入口に辿り着き、かなり荒れた急傾斜を400mほど歩いた(自動車学校からのルート地図)。道が狭い上に少し先で行き止まりになるが、一の鳥居横()までは車で入れる。安直なルートを選ぶなら神社西側のT字路近くに駐車して平坦な小道を100mほど歩けば境内に至る。朱塗りの粗末な本殿に納められている御神体は高さ50cmほどの石祠で、中に何を祀っているのかは確認していない。社殿の前と鳥居の下側に残っている磨り減った石段などが時代の旧さを感じさせるし、本来の参道から参拝すれば創建以来1200~1300年の歴史が刻まれているのを体感でき、一段と深い趣を味わえる。

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般若院 左:伊豆山権現の別当寺だった 般若院  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊豆山神社前のバス通りを500mほど西に歩くと左にカーブする下り坂の右側に多くの五輪塔が並ぶ「千人塚」があり、その奥に走湯山般若院が建っている。密厳院東明寺(廃寺)の流れを汲む古刹である。
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伊豆山権現で 頼朝 に仏典を教えた文陽房覚淵は般若院の前身だった密厳院東明寺の初代院主でもあり、頼朝旗挙げの際に 平兼隆 を討ち取った 加藤次景廉 の兄(第一部の挙兵にかかわる人々を参照)でもある。
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石橋山合戦の直前には 政子 を自分の房に引き取って海沿いの阿岐戸郷に匿い、頼朝敗走後の平家軍の追求にも神域を盾に頑として引渡しを拒否し敗残の頼朝を箱根権現に逃がす手配まで行なった。湯河原の 土肥實平 一族と協力し、頼朝の再起に大きく寄与たした人物。
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密厳院東明寺は伊豆山権現の別当寺で別当職が覚淵だったとの説が一般的だが、確認できる史料は存在しない。覚淵の墓は千人塚の中にある、とも伝わっているから伊豆山で生涯を終えたのかも知れない。
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幕府の庇護が深まるにつれて支配権を巡る伊豆山内部の抗争も激しくなり、縁起の改竄や祭神を変更などの混乱があった。更に火災や兵乱、地震に伴う宗教施設の埋没などもあって伊豆山の正確な変遷は不明である。鎌倉幕府成立前後だけの記録を吾妻鏡から拾うと下記の数ヶ所が見出せる。いずれも頼朝が挙兵した治承四年(1180)の記事である。
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  ① 7月5日 頼朝が走湯山の住僧文陽房覚淵を北條邸に招き、仏に約束した法華経千部の読経が間に合わない旨を相談した。
  ② 8月24日 筥根山東福寺の別当を務めていた行實は頼朝の逃亡を助けた。弟の永實は土肥椙山に逃げ込んだ頼朝に食事を届け房に匿った。
  ③ 8月25日 永實の別の弟・智蔵房良暹は山木兼隆の祈祷師だった経緯から大庭景親に通じる恐れがあり頼朝一行は案内者と共に箱根から土肥へ。
  ④ 10月11日 政子が避難先の伊豆山阿岐戸郷から鎌倉に入った。頼朝の師である専光坊良暹も以前の打合せ通り共に鎌倉入りした。
  ⑤ 10月12日 八幡宮を小林郷北山(現在地)に遷した。とりあえず専光坊良暹を暫定の別当職に任命した。

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  ※二人の良暹: 頼朝に敵対した智蔵房良暹の消息は判らない。一方で伊豆山権現別当だった専光坊良暹は政子を伴って鎌倉に入り、小林郷北山に遷った鶴岡八幡宮の仮別当に
任じている。別人だとは思うけれど同じ頼朝関連で良暹が二人いるのには多少の違和感があり、吾妻鏡に何かの作為があったかも知れない。伊豆山権現別当の名前と筥根山金剛王院東福寺別当の弟の名前が同じというのも簡単に納得はできない。
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覚淵が開いた伊豆山の別院・密厳院は鎌倉時代以後に何度か焼失している。特に秀吉の小田原征伐の際は後北条氏に味方して伊豆山の堂塔全てが焼き払われ、徳川家康の時代に援助を受けて現在地に再建された。本堂前に並ぶ代々住職の石塔も再建以後か、旧密厳院から回収した物だろう。
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本堂以外の庫裏などは最近になって新しく建て直され境内も整備されて古い面影を失ってしまったけれど、すぐ近くに残っている頼朝と政子の「逢初橋」は是非とも見ておきたい。国道135号の逢初橋は数十年前に名前を転用して建造した橋だがこちらは由緒正しい偽物(かなり古い橋ではあるが、ここで二人が出逢ったのは嘘、の意味)で、下に紹介した「密厳院旧跡」の方向から流れ下る小川(現在の逢初川源流近く)に架かっていた、と伝わる。

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右:遠い昔に廃寺となった密厳院の跡       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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般若院から坂道を500mほど登った山裾の畑に古い墓石群が残っており、この一帯(地図)に本来の密厳院があったらしい。
数十年前まで この辺には古式の五輪塔や宝篋印塔が累々と埋まっており、新しくみかん畑を拓くたびに掘り出して首都圏へトラックで運び売り払った業者もいたとか。伊豆山権現の墓域として数百年も畏敬を受けた場所なのだが、取り返しの付かない散逸となった。
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中央右手の大きな石碑には「斎藤實盛の墓」と彫ってあるがこれは後の世に建てられたもの。この墓石群の下には古い石棺が埋まっているとの伝承もあり、古老の間にはこの上を歩くと祟りがあるとか何とか...実はその石棺こそが覚淵の墓、とも考えられている。行政には現状を維持して保存する計画もないらしい。
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【 斎藤別当實盛、加賀篠原の合戦で討死 】 
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寿永二年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦(別窓)に続く加賀国篠原の戦い(石川県加賀市篠原)を敗走する平家軍の中に踏み止まって戦う武者を見つけた 木曽義仲 の側近 手塚光盛 は名乗りを挙げて一騎打ちを挑んだ。その武者は「首を木曽殿に見せれば判る」と答えて名乗らずに光盛の郎党を殺すが、その隙をついた光盛に討たれた。光盛は「義仲さんが知っていると答えて名乗らず、髪が黒いので若者かと思えば顔は皺だらけ」と義仲に首を見せた。
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彼は義仲の父 義賢 が武蔵国の大蔵合戦で 義朝 の長男 義平 に討たれた時、共に殺される筈だった幼い義仲(当時は駒王丸)を 畠山重能重忠 の父)や乳母夫の 中原兼遠 と協力して)救ってくれた恩人の斎藤實盛だった。義仲が二才の頃、つまり大蔵合戦が起きた久寿二年(1155)8月16日には既に白髪混じりだったと伝わるから既に70才を過ぎている。老人扱いされるのを嫌って髪に墨を塗っていたそうで...義仲は恩人の死を深く悲しんだ、と伝わっている。
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  ※實盛と義仲: 實盛は天永二年(1111年)生まれの72才、大蔵合戦当時は満44歳の壮年である。義仲の誕生は久寿元年(1154)。一月に生まれと仮定しても
仮定しても助命された時には1歳8ヶ月で恩人の顔を覚えていたとは考えにくく、内兜の銘か知人の申し出で實盛と知ったのだろう。
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記録にはないが、大庭景親 の弟 股野景久河津三郎との相撲で負け、石橋山では 佐奈田与一 に組み伏せられた武士)や 伊東祐親 の次男 祐清 ら、日の出の勢いの源氏に従うのを潔しとせず、敢えて落日の平家に殉じる道を選んだ多くの東国武者も篠原の合戦で落命している。
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その後に実盛の子五郎・六郎兄弟が密厳院に遺髪を持参して供養したらしい。実盛が別当だった武蔵国幡羅郡の長井庄(熊谷市妻沼)には彼が建てた寺もあるのに、なぜ密厳院に葬ったのかは判らない。五郎と六郎兄弟には 頼朝八重姫 に産ませた 千鶴丸 の命を救い、その後は伊東の新井に 広誓寺 を建立した、との伝承も残っている。どこかに伊豆との接点があったのか、捏造か。ちなみに、実盛の兜は石川県小松市の多太神社が保存している 兜の詳細と画像を参考に。

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黄海合戦場の鳥瞰図へ 左:蛇足・加藤一族の先祖が武名を残した黄海の合戦場   画像をクリック→ 拡大表示
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【その他、伊豆山権現と鎌倉幕府の関わりについて】
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頼朝挙兵に従った 加藤景廉 の兄が 光員、他に密厳院東明寺の初代別当 (院主) の覚淵 (諸説あり) も兄弟で、他に弟の源延も僧職を務め比叡山延暦寺に修行して伊豆山天台宗の中心となった人物。兄弟の父は 景員、先祖 (祖父か曽祖父 ) の藤原景通 (景道) 源頼義 に従う七騎の一人として勇名を馳せた人物である。
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藤原景通は 八幡太郎義家 に弓馬を教えた人物とも、黄海で敵を食い止め(20歳で)討ち死にしたとも言われ、加賀介に任じて加賀の藤原=加藤を名乗ったらしい。景通の時代には美濃国にも所領を持っていたから、覇権を握った頼朝が加藤氏に旧領の美濃岩村を与えたのも自然な成り行きだろう。
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頼朝はこの縁を通じて覚淵に師事し、覚淵は源氏嫡流を支えることによって伊豆山権現の更なる繁栄を図った。頼朝挙兵に際して政子を阿岐戸郷に匿い神域を楯に大庭景親の追及から守り通したのも、頼朝への援助と同時に阿多美聖範以来の北條一族と伊豆山の互助関係を重視した、と推察できる。
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  ※藤原景通: 前九年の役中盤の天喜五年(1057)11月、安倍貞任 が率いる4000騎は 黄海 (きのみ) の合戦 (wiki) で源頼義軍の1800騎を撃破した。
敗走する頼義に従うのは僅か六騎、八幡太郎義家・藤原景通・大宅光任・清原貞広・藤原範季・藤原則明だけ。佐伯経範主従・藤原景季・和気致輔・紀為清・藤原茂頼らが死を賭して戦い、頼義は辛うじて戦場を脱出した。(陸奥話記(別窓)に拠る)
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景廉の長男 加藤太景朝 は遠山荘を継承して岩村城 (地図) に土着し、後に遠山左衛門尉景朝を名乗って遠山氏の初代となった。本家は小藩ながら苗木遠山氏 (一万石・中津川市苗木) として明治まで続き、分家の一つ明知遠山氏 (恵那市明智町) は旗本として徳川幕府に仕えた。時代劇で知られた江戸町奉行の遠山金四郎景元は明知遠山氏の分家の末裔に当る。
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しかし、降雪が始まる時期(例=11月15日は西暦の12月12日に該当)に寡兵を率いて90kmも離れた敵地深くに遠征し、しかも北上川から離れた変な位置に布陣した挙句に惨敗を喫した頼義も噂ほど有能な指揮官ではなさそうだ。讒言に従って味方を斬ったりしてるし...
これじゃぁ清原氏に出兵を懇願しなければ安倍氏にはとても勝てなかった、その程度の武将だったのかも。何度か巡ってきた勝機を逃した安倍一族の詰めも甘かったけど。

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 その弐 再び韮山へ、そして頼朝と政子の出会い(再会だった筈だね) 

 
【 曽我物語 巻二  頼朝、北條へ出で給ふ事 】   
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頼朝 は密かに伊東を脱出した。八月下旬、草の露や風の音が一人の身には物悲しく虫の声さえ哀れである。月も出ていない夜に道を変え迷いながら八幡大菩薩に武運を祈りつつ夜通し走り続け、やがて 北條四郎時政 の許に逃げこみ、彼を頼って年月を送るようになった。
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ここで曽我物語は大きな矛盾を見せる。「北條時政の許に逃げ込んだ」のなら、次の章に記述してある「藤九郎盛長 に命じて時政の娘に艶書を送った」のは不自然になってしまう。いくら時政が大番役のため京にいて留守でも、北條館に滞在していながら同じ館に住んでいる娘に艶書を送る筈がない。蛭が小島以外の韮山近辺で居候ができる場所に転がり込んだと考えるのが合理的である。
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たぶん 比企の尼 が頼朝支援の拠点にしたと伝わる函南の 高源寺 か、文覚所縁の 毘沙門堂(共に別窓)があった那古谷寺(安養浄土院)か、後に挙兵に加わった牧之郷の 加藤景廉 邸か、柿木の 狩野城(別窓)に本拠を置く 狩野茂光 かの庇護を受けながら時政の留守に乗じて手を出したのだろう。伊豆流罪の当初に頼朝の監視役を務めたのが北條時政だったし、同じ韮山の近距離で数年を過ごしながら時政の娘と面識がなかった筈はない。
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ちなみに、14歳の頼朝が伊豆韮山に流された時の政子は4歳前後、10歳に成長する頃までは狩野川沿いの同じエリアで過ごしていたことになる。

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左:守山の北麓、北條館跡の発掘現場  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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南側から見た北條邸跡の発掘調査現場(2019年に終了る)。右奥へ山道を辿ると小さな展望台のある守山の頂上を経由して真珠院の近くに下る、傾斜の多い守山遊歩道となる。
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守山に登らず史跡に沿って左に迂回すると、源平時代から300年後の明応2年 (1493) の夏に駿河で兵を集めた伊勢新九郎 (後日の 北条早雲、wiki ) が伊豆に攻め込み、足利茶々丸を殺して戦国時代の幕を開けた「堀越(ほりごえ)御所の跡」や「政子産湯の井戸」の横を通って願成就院へ至る (周辺の地図) には平安時代末期から鎌倉時代にかけての様々な史跡が点在する。散策が楽しいエリアだ。
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守山の西側は狩野川だから、堀越の名は守山の東側に水路があった事を意味している。この水路が守山南麓の 真珠院 付近から狩野川か支流古川の水を引き込んだ濠だった、或いは狩野川の本流だった、頼朝が住んだ流刑地がこの近くにあった筈だなど、郷土史家の間では諸説があり、一方で幕末の韮山代官 江川太郎左衛門の旧宅と反射炉がイチゴ狩りと並んで韮山観光で最も人気の高い定番スポットだ。
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江川家の代々当主は全員が太郎左衛門を名乗っており、その中でも幕末に反射炉を築造した37代英敏とその父・36代英龍が名高い。
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江川氏は清和源氏の祖である 源経基 (経基王・897~961) の孫・頼親を開祖と称している。当初は宇野を名乗り、一族が伊豆韮山に定住した平安末期に当主の宇野治長が頼朝の挙兵に協力した功績によって江川荘を与えられ伊豆中央部に勢力を伸ばした家系である、と。
宇野→ 江川に姓を変えた室町時代から数えると約600年、現在の当主は第40代の太郎左衛門なので系図全体を辿れば実に1000年を超える。
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ただし江川家が主張している系図が確立したのは江戸時代の寛政年間 (1789~1800年) 前後で、源氏の末裔説はかなり疑わしい。確かに家系の旧さは伊豆地方では群を抜いているのだが、途中で家格を高めるための恣意的な捏造があったと考えるのが常識的な結論だろう。

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右:圓成寺の鐘が残る、江川家菩提寺・本立寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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閑話休題、再び鎌倉時代に戻って...
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頼朝挙兵から四半世紀が過ぎた元久二年 (1205) 閏7月、幕府内の権力闘争に敗れた 北條時政 は実子の 義時政子 によって韮山に追放され、10年後の嘉禄元年(1215)に北條館で生涯を終えた。
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時政が三代将軍 実朝 を廃して娘婿の 平賀朝雅 (時政の後妻 牧の方 が産んだ娘の夫で 新羅三郎義光 の子孫だから継承資格はある) を将軍に就ける計画を練ったのは事実らしいが、その背後には時政の権勢に便乗して発言力を伸ばした後妻グループがあり、時政もろともそのグループを駆逐して幕政の主導権を握るという、先妻の子(政子・義朝)の計画があった。
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ただし、この筋書きを描いたのが時政自身だった可能性もある。牧の方に踊らされた振りをして 畠山重忠 を追討し、重忠謀反の冤罪を企んだ名目で武蔵国支配の邪魔になる稲毛氏や榛谷氏を滅ぼす。あとは引責辞任を装って韮山に蟄居し、義時への全権委譲をスムースに進めて北條氏の支配体制を磐石にする...時政最後の大芝居だった可能性がある、かも。そんな策謀を想像させる人物である。
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まぁ素直に考えれば牧の方が産んだ政範 (15歳) の官位は従五位下、この時41歳の 北條義時 が同じ従五位下だった事を考えると、時政が政範を後継にと考えていたのは間違いない。政範が元久元年に突然の病で没したため嫡子計画は頓挫したが、それならば歴然たる清和源氏の血筋を引く娘婿を将軍に、と考えたのだろう。政子と義時の心は煮えくり返ったと思うけどね、今まで散々苦労した挙句に後妻の子に家督を奪われるのか...と。
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畠山重忠の謀反を捏造した冤罪事件を経て時政は失脚し、その時政夫婦を韮山に追放した義時・政子連合が幕政の実権を掌握した。義時邸の跡は狩野川を越えた東側、若き日の本領だった江間地区に残っている。鎌倉幕府の樹立後は別邸として使われていたと思うが、勿論ここに常駐はしていない。
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更に下って頼朝挙兵から150年後の元弘三年(1333)に 新田義貞 軍が鎌倉幕府を滅ぼしたとき、九代執権貞時 の側室で十四代執権 高時 の生母・覚海圓成(安達氏出身)が韮山の時政邸地図所有を安堵されて尼寺(圓成寺)に改め、鎌倉陥落を生き延びた女らと共に定住し、北條一族の菩提を弔っている。
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後に関東管領上杉氏の娘が圓成寺で落飾した記録があるため、室町時代の1440年前後まで尼寺として存続したのは確認できるが、その後(江戸期か?)に廃寺となった。覚海圓成が寄進した圓成寺の鐘はその前後に江川家菩提寺の本立寺に移されている。梵鐘の側面に鋳込まれた圓成の名は鮮明に確認できる。

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左:政子産湯の井戸と堀越御所の跡  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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真珠院から守山を西へ、願成就院の反対側を迂回して狩野川沿いに下ると 政子 の生家である北條館跡に至る。発掘調査区域に続く低い山の北東麓には政子が産まれた時に使ったと伝わる「産湯の井戸」 が私有地の片隅に残っている。政子は 北條時政 の長女として保元二年(1156)にこの地で生まれた、と。
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この井戸水は昔は安産に効能があると伝わっており、妊婦のいる家ではこの水を汲んで安産を祈る風習が近年まで残っていた。ただし如何にも古そうに見えるこの井戸が本当に時政の時代から使われていたかどうかは甚だ疑問で、素材や構造からは江戸時代中期まで遡るのが限界らしい。各地の史跡にも見られる「誰々の産湯」と称する井戸の一つに過ぎない可能性がかなり高い地図
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この近くには狩野川の古流路の一部または堀が南北に通っていた痕跡が確認されている。現在は完全に住宅地に変貌しているため遺構などは確認できないが、田方盆地を南北に走っていた主要道・牛鍬大路を起点にして「堀を越えた地」に建っていたのが後世の堀越御所なのだろう。
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しかしこの堀が築かれた年代も漠然としており、狩野川の古流路や流路の変遷も完全には解明されていない。「守山の西を流れる現在の狩野川は鎌倉幕府開設後の1200年代の治水工事で守山を開削したもので、それ以前は現在の駿豆線の辺りが本流だった」との主張もあるが地質学的な痕跡は確認できず、吾妻鏡などの史料にも該当する記録はない。
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  ※牛鍬大路: 頼朝が挙兵した治承四年 (1180) 8月17日の吾妻鏡には「今日は三嶋神社の祭礼で、参詣者の往来が頻繁な牛鍬大路では怪しまれる恐れがあるから」と
北條時政が提案した」とある(ただし、吾妻鏡は鎌倉時代末期に日記形式で編纂された史料なのをお忘れなく)。牛鍬大路は現在の下田街道ルートに近い。
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【曽我物語 巻二  時政が娘の事】
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時政に三人の娘がいた。一人は死んだ先妻の子で21歳、二番目と三番目は現在の妻の子で19歳と17歳である。中でも先妻の娘は美人で知られ、時政はこの娘を不憫に思って妹たちよりも気を配っていた。そんなある時、19歳の娘が不思議な夢を見た。高い山の頂に登って月と太陽を左右の袂(たもと)に入れ橘が三つ実った枝を手にするという、女の身には考えられない夢なので姉に訊ねてみた。21歳の姉は女ながら才覚に優れていたので「めでたい夢。私たちの先祖は観音菩薩を信仰していたから、月と日を袂に入れて橘をかざすのは吉兆」と考え、何とか夢を我が物にしたいと考えた。
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  ※三人の娘: 北條時政 の子女を乏しい史料に従って推定年齢順に整理すると...曽我物語の「三人娘」は婚姻後の 政子阿波局時子 だろうか。
長兄の 宗時 は政子の同母兄で誕生は1155年前後、生母は 伊東祐親 の娘、治承四年(1180)に函南平井で討死している。政子は保元二年(1157)生まれで生母は不明だが、兄宗時と弟 義時の生母が共に伊東祐親の娘だから、同母と考えるのが自然か。
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義時は長寛元年(1163)生まれで生母は伊東祐親の娘、阿波局(阿野全成の室)は生年不明、義時の嫡子泰時は彼女を叔母として扱っており、政子との仲も緊密だった事を併せると同母だろうか。時子(足利義兼の室)は生年不明、生母は伊東祐親の娘か。
五郎時房は安元元年(1175)生まれで生母は 足立遠元の娘(ただし、彼女は生母ではなく、時房の妻だった可能性も指摘されている)。
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稲毛重成の室は生年不明、生母は伊東祐親の娘または足立遠元の娘だが判然としない。政範は文治五年(1189)生まれで生母は 牧の方、元久元年(1204)11月に15歳で病死。平賀朝雅の室、三条実宣の室と 宇都宮頼綱の室は生年不明で生母は牧の方。

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右:広重 東海道五十三次 沼津 黄瀬川  かつての大岡牧近く  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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北條時政 の後妻・牧の方の父(兄とも)は駿河国大岡牧を領有した牧宗親で、平清盛 の異母弟 頼盛 に仕えていた下級貴族である。
頼盛は後の平家都落ちに同行せず、源平盛衰記は「平家を見捨てて 頼朝 に接近した人物」とされているが、木曽(源)義仲軍の入京を阻止すべく山科(地図)に出陣している間に連絡の不手際で置き去りにされたのが真相らしい。
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平治の乱の際に頼盛の生母 池禅尼 が頼朝の助命に尽力した事と朝廷とのパイプを生かす事で頼朝に厚遇された。池禅尼+頼盛+宗親+牧の方+時政のネットワークが鎌倉幕府草創の一角を担った、という事か。
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  ※大岡牧: 現在の沼津市北東部(地図)にあった官牧。下級貴族の牧宗親が所領を頼盛に寄進して大岡荘を立荘し、その後は鎌倉期を
通じて北條氏が領有した。鎌倉幕府の滅亡後は新田源氏の岩松氏を経て今川氏→ 後北条氏→ 徳川氏の所有を転々とした。当初の大岡荘は黄瀬川右岸(西岸)の10km近く(JR裾野駅一帯)までを占める広大なエリアで、牧一族の財源を賄っていた。
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沼津の黄瀬川は、この物語に三回も現れる。最初は曽我の仇討ちで 工藤祐経 らと同宿していた遊女「黄瀬河の鶴」として、二回目は奥州平泉の 藤原秀衡 に庇護された 義経 が異母兄の 頼朝 に合流した黄瀬河の陣として、そして三回目が時政後室・牧の方の実家として。時系列には従っていないけど、話のついでだから通り過ぎるのもまずい。
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時政の先妻は 伊東祐親 の娘で長男 宗時 ・長女 政子 ・二男 義時(ここまでは多分伊東祐親の娘)、政子の妹二人(阿波局 時子 )を産んで他界した、か。三男 時房 の生母は 足達遠元の娘、四男の政範以下は後妻の 牧の方が産んだ。
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曽我物語に書かれた二番目の娘は(単純に順序から考えれば)後に頼朝の異母弟 阿野全成 に嫁した阿波局、三番目は後に 稲毛重成 に嫁した娘となる。実際にこの二人を産んだのが誰なのか確証はないし政子と妹の年齢差も良く判らない。牧の方を失脚させたのに妹たちとの関係は円満だったから、心情的には同母の姉妹だと思うのだが...母親がわりとして妹を育てた政子には同母か否かは無関係だったのかも。
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時政は若い後妻を迎えた。一家を実質的に切り盛りしていた政子は幼い弟妹の面倒を見ているうち婚期が遅れた。この時代に21歳で未婚は尋常ではないし、だからこそ曽我物語は 「時政はこの娘を不憫に思って妹たちよりも気を配っていた」と書いたのだと思う。そんな環境なら彼女の気の強さも納得できる。
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時政四男の政範(牧の方が産んだ男子)の誕生は文治五年(1189)、鎌倉幕府樹立後である。保元二年(1157)生れの政子はこの時32歳、牧の方が政範を産んだのは40歳の高齢だったと無理に仮定しても1150年頃の生まれだから、政子との年齢差は少ない筈だ。
ちなみに、元久元年 (1157) 時点の官位は16歳の政範が従五位下で41歳の義時も同じ従五位下、この時点で北條一族の嫡男扱いされたのは先妻の産んだ義時ではなく、後妻・牧の方が産んだ政範だった。この処遇差がやがて親子の断絶と時政夫妻の失脚につながっていく。
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  ※牧の方の年齢: 彼女の実子で年齢が判るのは文治五年(1189)生れの政範だけ。他に娘三人がいて、平賀朝雅(1198年誕生)と三条実宣(生年不詳)
宇都宮頼綱(1172年誕生だが後妻)に嫁している。政範の没年齢から考えると朝雅の妻は政範の姉だろうが、他の二人は姉なのか妹なのか判らない。牧の方が20歳の時に政範を産んだと仮定すると政子より12歳下、30歳で産んだとすると概ね同年代になり、政子よりも年長という事はなさそうだ。曽我物語に拠れば「ニの娘」と「三の娘」は長女の政子と2~4歳の年齢差だから、牧の方がこの二人を産んだ計算は成り立たない。従って曽我物語が「悪女」と書いた二人の娘は政子と同腹か、時政の二番目の妻(と伝わる)足立遠元の娘が産んだ二女の阿波局阿野全成室)と稲毛重成に嫁した三女だろう。

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左:守山北麓、北條館跡周辺の鳥瞰      画像をクリック→ 拡大表示
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狩野川は上が上流(南)で、左側の守山右麓が北條館跡、左(東)が韮山市街地、狩野川が大きく曲がる先端から氾濫を防ぐ目的で開削された狩野川放水路が右(駿河湾)に延びている。その上が伊豆長岡温泉、古川と狩野川の合流部が「真珠ヶ淵」だったと伝わる。
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【 曽我物語 巻二 時政が娘の事 は更に続く 】
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「何と恐ろしい夢。良い夢は三年間他言せず、悪い夢は七日の内に人に話すと災いを招くと言いますよ」と脅した。19歳の妹は嘘とも知らず「どうしましょう、何とかしてくれませんか」と怖がった。「それなら悪い夢を転じて難を逃れれば良い、私がその夢を買ってあげよう」と言って、妹が以前から欲しがっていた北條の家に伝わる唐の鏡に唐綾の小袖を添えて買い取った。
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さて、時政に娘が何人もいるのを聞いた頼朝は伊東を追われた事件にも懲りず様子を調べると「後妻の娘二人は意外に悪女なので先妻の娘が良い」とのこと、「伊東で起きたトラブルの原因は先妻の娘と懇ろになった末に継母が父親に悪意の告げ口をしたのが発端だった。多少の悪女でも今の妻の産んだ娘を口説く方が無難だ」...そう考えた頼朝は19歳の娘に宛てて艶書を送った。
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ここでも曽我物語は矛盾を見せてしまう。14歳の頼朝が伊豆韮山に流されたのが永暦元年(1160)で、韮山から伊東に移ったと推測されるのは仁安ニ年(1167)前後で頼朝が21歳の頃。保元二年(1157)に生まれた政子は3歳から10歳までの7年間を頼朝と同じ韮山エリアで暮らしていたことになる。北條時政の監視監督下に置かれていた頼朝が、1178年前後になって時政の娘と初めて会ったとの筋書きは理屈に合わない。

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右:守山東麓、願成就院周辺の鳥瞰      画像をクリック→ 拡大表示
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  曽我物語の記述は続く。
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艶書を託された側近の 藤九郎盛長 は、考えた。「下の娘には悪女の噂がある、万一北條とトラブルになったら行く場所も無くなってしまう」と心配し、艶書の宛名を21歳の姉に書き替えて北條館に届けた。
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艶書を見た姉娘は「思い当たる事あり、今暁に白い鳩が飛んできて咥えていた金の箱に入った文を膝に置いて飛び去った。開いて見れば頼朝さまの手紙...と思ったら目が覚めた、その夢が現実になった」、と。その後は手紙の遣り取りを重ね、夜毎に忍び出て褥を重ねた。(褥を重ね...なんて表現、いいね)
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やがて月日が過ぎ、北條時政 は京から帰国する途中でこの事を聞いた。「これは一大事だ、平家に聞こえたら大変だ」と思い悩んだが冷静に考えれば時政の先祖上総守 平直方 は伊予殿(源頼義)が関東に下った際に娘を与えて婿に迎え、八幡太郎義家 らが生まれて繁栄した前例もあるのだ。
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    ※平直方: 摂関家に仕えた武将で鎌倉に居館を構えた。長元元年 (1028) に下総国と周辺一帯で勃発した平忠常(将門の叔父・良文の孫で秩父平氏の祖)の乱の追討使
に任じたが鎮圧できないまま解任され、追討の任を引き継いだ 源頼信(河内源氏の祖)が討伐に成功した(一説に忠常側も降伏を予定していた、とも)。直方は頼信の嫡男 頼義(義家の父)の武芸に感嘆し、鎌倉の所領を贈って娘婿とした。北條時政や熊谷直實 が直方の子孫を称しているが、時政に関しては系図詐称の可能性が高そうだ。
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曽我物語が書いた「悪女」はちょっと酷評が過ぎるから「あまり性格が良くない娘との噂がある」程度に受け取るべき、だろうね。
まぁ悪女云々は物語の綾だから真偽は兎も角として、伊東で暮らしている頼朝の元妻 八重姫 が物語の展開に絡んでくるから面白い。政子 は妹の夢を買ったのではなく、(運命論的に言えば)やがて悲運の中で死んでいく母方の叔母・八重姫の夢を託されたとも言えるのだろう。ともあれ、結婚して何年も過ぎてから昔の恋人が尋ねて来たりすると...一般的には修羅場になるケースが多いよね。もちろん私には修羅場の経験がないから、想像でしか語れないけど。

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左:祐親以後の伊東館があった竹の内(館の内)の風景  画像をクリック→ 拡大表示
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撮影場所は松川の近く。ここから突き当たりの物見ヶ丘(市役所)にかけての一帯に伊東館があった。高台の手前を左へ迂回した山裾には地頭を務めた伊東祐光(工藤祐経 の孫)の館跡に建つ 佛光寺(別窓)がある。
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さて...頼朝が 挙兵する一ヶ月前の出来事。
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承安三年(1173)に愛児の 千鶴丸 を殺され恋人の頼朝とも引き離された 八重姫(子供を産んで再婚してたら「姫」じゃないだろ!)は7年後の治承四年(1180)7月16日に伊東の館を脱け出して韮山を目指した。6人の侍女とともに宇佐美から亀石峠を越え、大仁経由の通称「北條道」を辿って頼朝が住むと伝え聞いた北條館へ。狩野川西岸の江間に住む江間小四郎の妻となった彼女が伊東にいたのは、当時の婚姻の殆どは婿入り婚か通い婚だったから、らしい。
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曽我物語は一行だけ、短い文章でその後の江間小四郎について述べている。
   頼朝は妻(八重姫)を奪った江間小四郎を討伐し、所領を 北條四郎時政 に与えた。
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以前にも記述したが史料を捜しても江間小四郎を名乗る人物は北條時政の二男 義時 の他には存在せず、もちろん頼朝によって攻め滅ぼされた記録も見当たらない。伊東と韮山の伝承に従えば...実父に愛児を殺された上に不本意な結婚生活を送っていた八重姫にとっては胸躍る再会になる筈だったが、更に不幸な結末を迎えてしまう。
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すでに頼朝は北條時政の娘(後の政子)と結ばれ、大姫 も生まれていた。時政が京都大番役(皇居や京都市中の警備役務)で京都に出張中に手を出して妊娠させる、頼朝さん毎度お馴染みのパターン。でも、八重姫との関係は若き日の一途な恋が感じられたが、政子との関係は保身の匂いがする。恋は優しく、時として狂おしい...楽しいだけじゃ済まない事もあるんだよ頼朝さん、なんちゃって。

右:昔日に八重姫が走った..海沿いの国道135号   画像をクリック→ 拡大表示
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【歴史の裏話・・・頼朝・八重姫・義時・政子の年齢】
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   1167年 頼朝20歳 八重16歳 義時 5歳 政子11歳 頼朝、伊東に住む
   1169年 頼朝22歳 八重18歳 義時 7歳 政子13歳 頼朝と八重姫が恋愛関係に
   1170年 頼朝23歳 八重19歳 義時 8歳 政子14歳 八重姫が千鶴丸を産む
   1173年 頼朝26歳 八重22歳 義時11歳 政子17歳 千鶴丸殺害 頼朝伊豆山へ 八重姫再嫁
   1176年 頼朝29歳 八重25歳 義時14歳 政子20歳 頼朝が政子が通い婚関係に
   1177年 頼朝30歳 八重26歳 義時15歳 政子21歳 政子が大姫を産む
   1180年 頼朝33歳 八重29歳 義時18歳 政子24歳 八重姫が韮山で入水自殺 頼朝挙兵
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ちなみに、南江間の北條寺にある義時の墓に「妻の墓」として並んでいるのはもちろん八重ではなく、義時の後妻(伊賀朝光の娘、通称を 伊賀の方)の墓である。義時嫡男の 泰時 を廃して我が子を後継にするため義時を毒殺したとの噂まであり、義時の死後は韮山に幽閉されて間もなく死没した。
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タイミングから考えれば自然死ではなく政子が刺客を送ったと考えるべきで、義時の死没を契機にして政子が北條一族に対抗する可能性を持つ勢力の徹底排除を図ったのだろう。父親の伊賀朝光は9年前の建保三年(1215)に死去していたが、嫡子の 光季 と弟の 光宗は伊賀の方失脚に連座して引責蟄居・信濃流罪の処遇を受けた。
老いに伴って政子の心に芽生えた妄執か狂気か、冷徹非情に計算した上での結論か。
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  ※伊賀朝光: 藤原秀郷の子孫で妻は二階堂行政の娘。元は蔵人所(天皇周辺の雑務を処理する部署)に仕えた官人で伊賀守に任じて伊賀氏を称した。
朝光は建暦二年(1215)に既に死没しており、伊賀方失脚から一年が過ぎて政子が死没し、その直後に伊賀兄弟は罪を許されて復権、光季は京都守護・光宗は評定衆に就任した。執権泰時による事実上の「政子が決裁した処罰の撤回」である。
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光季は承久の乱(1221年)の際に京都におり 後鳥羽上皇 の倒幕挙兵召集に応じず、「命を承けて敵に赴くは臣の分なれど官闕に入るは臣の知る処にあらず」と応え、官兵の襲撃を受け二男光綱と共に自害、鎌倉武士の気骨を示した。執権 泰時 は光季の所領を子息の季村に継承させ、父の功績に報いたという。
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北條時政の最初の妻・つまり 政子義時 の実母は伊東祐親の娘とされているから 八重姫 と義時は叔母・甥の間柄、政略的な近親結婚が珍しくなかった時代である。八重姫が伊東を出奔したのも理解できるが、この事件は夫である北條義時の性格にも影を落とした原因の一つになった、のかも。ちょっと屈折して暗いイメージのある義時...年代を追いかけながら4人の心の移ろいを想像してみるのも面白い。
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八重姫が韮山の北條舘に頼朝を訪ねたのは彼女が頼朝と政子の同棲を知らなかった、つまり伊東脱出以後の頼朝とは音信不通になっていたと考えるべきか。
別離に伴う事後処理を放棄した頼朝も責められるべきだが、別の男と結婚して5年も過ぎた人妻が独身時代に同棲していた男との愛に望みを託すのは危険な綱渡りだ。まぁ曽我物語にコメントしても無駄だけど、男の誠実さを信じることから女の不幸が始まるんだよ、ね。女を信じて始まる不幸もあるけど、さ。

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左:八重姫、宇佐美から亀石峠を越えて北條館へ  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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現在では快適なドライブを楽しめる峠道に姿を変えている。登りは概ね2車線で下りは1車線、宇佐美寄りの山裾には柑橘類の直売店が並び、地ビールの醸造所(公式サイト)を併設した農園や宇佐美観音寺(公式サイト)などの観光施設も点在している。画像やや左側の鞍部付近が亀石峠。
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眼下に相模湾が広がる頂上の少し手前には「みかんの花咲く丘」の石碑がある。作曲者の海沼實は宇佐美を通る国鉄(現在のJR伊東線)の車内で曲を完成させた縁なのだが、石碑周辺にはみかん畑は皆無、道路際に数台の駐車スペースがあるだけで「みかんの花咲く丘」のイメージは乏しい。
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旧い峠道は現在の県道のほぼ南側を通っており、新旧両方の道が交差していた一角には亀石がある。実際には全く亀には見えず、一説に「神籠石」の呼称の転訛とも言われるこの石が亀石峠の名の由来で、八重姫 が侍女と共に越えた峠道の一部分だった。2010年頃には地元有志が古道の復旧やルート紹介などの活動をしていたが、やがてウェブサイトも消えてしまったのは残念。
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【 東国武士団蜂起の一因か? 大番役 】
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平安末期の東国では農業と並んで馬の生産が財政上の大きな要素を占めていた。延喜式(延喜五年 (905) に編纂が始まった法典集)に拠れば、全国に57ヶ所が点在した官営牧場のうち実に43ヶ所が東国にあった、と記録されている。
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そして租税負担と荘園や牧での使役に加え、貴族階級の支配に対する不満を生んだのが「大番役」だった。全ての東国武士は自費で都に赴き、3年間も無報酬で朝廷や貴族を守る兵役義務を負わされており、ただでさえ貧しい関東武士にとって大きな負担になっていたのは間違いない。
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治承四年(1180)に寡兵を率いて決起し緒戦の石橋山で惨敗したにも拘らず、房総で再起した時には東国武士団が雪崩のように頼朝の軍勢に加わった。これは 頼朝 の人格や血筋だけではなく、明らかに搾取され続けていた東国武士団の貴族階級(貴族階級化した平家を含む)への反乱と言える。
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康平五年 (1062) に終結した 後三年の役(別窓)を「源義家の私戦」と判断した朝廷が戦費も恩賞も拒否し、八幡太郎義家 は私財を投げ出して従軍した武士に褒賞を与えた。東国の武士団はその恩を覚えていたし、平安末期にも同じ立場だった土着の武士が抱く不満を吸い上げ、「私に従って戦えば所領を安堵し褒賞を与える。戦死すれば功績に応じて遺族を処遇する」という頼朝の戦略が東国武士団の願いと合致した。鎌倉武士の哲学「御恩と奉公」のスタートは時政の入れ知恵、か。

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右:狩野川から見上げる伊豆の国市(旧・大仁)の城山  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊豆箱根鉄道の駿豆線大仁駅から狩野川を隔てた対岸に、岩登りやハイキングで人気の高い城山(じょうやま・342m)が聳えている。大仁駅までの距離は直線で約1km、頂上から見おろす田方盆地の景観は素晴らしく、流人時代の頼朝が展望を楽しんだという伝説も残る。南北朝時代には少し南の山田川と狩野川が合流する付近(地図)に畠山国清が金山城を築いて城山を物見台とし、後北条氏も砦として利用したらしい。
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さて...伊東を脱出した八重姫 は韮山の北條邸を訪れて頼朝との面会を求めたが、門番は冷たく拒絶。
異本の曽我物語(だったと思うが、詳細の記憶なし)は八重姫を追い返したのは 政子 だったとして、北條館の門前での女二人の遣り取りを描いている。旧暦の7月16日・太陽暦では8月15日の出来事で、肝心の 頼朝 は1ヶ月後の挙兵準備のためか、「顔を合わせちゃマズイ」と思ったのか、対応したのは政子だった。吾妻鏡は同年の4月27日が書き出し、基点は源氏三位頼政 の挙兵で、こちらの修羅場は記録していない。
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政子は2歳の大姫を抱き、亡き母の妹であり夫の頼朝が若き日に愛した八重姫に対峙した。
「わが夫に何の御用でしょう? 留守ですからお引き取り下さい。」  「せめて一言なりと、お別れを」  「留守です。お引き取り下さい。」
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絶望した八重姫は北條邸を辞し、侍女が止める暇もなく古川の真珠ヶ淵に身を投げてしまった。北條館から数100m南で狩野川に合流する現在の古川はコンクリートで護岸された浅い流れだが、当時は深い淵の様相を呈していた。八重姫が淵に身を投げた直後には侍女の悲鳴を聞いた近在の村人が救助に集まったが川岸の土手が高くて手が出せず、せめて梯子があれば助けられたのに...真珠院では村人と侍女の思いを今に伝えて「梯子供養」も行っている。
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そして、八重に従って来た6人の侍女は村人の手を借りて遺骸を近くの満願寺に葬り、伊東を目指して田中山の峠に向かった。
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  ※満願寺: 慶応三年(1867年・坂本竜馬や中岡慎太郎らが暗殺された年)に廃寺となり、遺物は真珠院に移された。廃仏毀釈運動が吹き荒れたのは
維新後の1875年前後からで、廃寺になった理由や創建の経緯なども不明。いずれ発掘調査資料を確認してみたい。

左:満願寺から八重姫を改葬した真珠院  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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守山南麓の古川に沿った真珠院の創建は鎌倉時代の初期と推定されている。当然ながら八重姫が没した治承四年(1180)以降、開基も開山も明確ではないが当初の宗派は真言宗で室町時代に曹洞宗に改めた。門前に保存されている五輪塔残欠に正安四年(1302)や建武二年(1335)銘があり、これが現状で確認できる年代の最古らしい。境内の供養塔や古い墓石は満願廃寺から移したものも含まれている。
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真珠院の北200mほどの位置にあった満願廃寺の跡は既に発掘調査され、出土した遺物の中には中国渡来の古銭である開元通寶(621)・景徳元寶(1004)・祥符通寶(1008)・元豊通寶(1078)・元祐通寶(1086)・聖宋元寶(1101)・熙寧元寶(1174)・永楽(1403)通寶などが含まれるが、創建年代とは無関係。数字は各年号の元年で、貨幣を鋳造した年代とイコールではない。
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八重姫が入水した古川(伝・真珠ヶ淵)は韮山東部の田中山中腹・反射炉の奥から3kmほど平地を流れて狩野川に入る小さな川で、現在では降雨が続いたとしても淵をなすような流れではない。
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狩野川なら入水自殺も可能で、その場合は北條邸を出てから狩野川に沿って古川の合流部に向かったことになる。満願寺とも約500m離れている。ひょっとすると、一部の説にあるように当時の狩野川は守山の西ではなく東、つまり満願寺近くを流れていたのかも知れない。もしも鎌倉時代初期の治水工事(守山開削)が史実なら、八重姫の入水場所と満願寺の位置関係にも納得できるけど、所詮は空想の世界だ。鳥瞰図(別窓)を参考に。
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政子の嫉妬深さは広く知られており、鎌倉時代の歴史書として比類ない存在の吾妻鏡が、週刊誌みたいな姿勢で頼朝の浮気がらみ事件を取り上げている。
頼朝にも問題行動が多く、政子の妊娠中(同年8月12日に 頼家を出産)に伊豆当時からの愛人を逗子に囲った時には政子の手兵が彼女の家を打ち壊す事件も起こったほどで、気の強さは頼朝もコントロールできなかった。この事件のさわりの部分を少しだけ記載してみよう。詳細はまた、頁を改めて。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 6月1日 】
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頼朝は寵愛する亀の前(良橋太郎入道の娘)を伊豆から招き小窪(小坪)にある 小中太(中原)光家 宅に住まわせた。外聞を憚って鎌倉の外を選び、更に浜遊びの時にも立寄れるからである。顔立ちが優しく心の柔和な女で、伊豆流人時代から親密だった。日増しに寵愛が深まっていた。
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【 吾妻鏡 同じく、11月10日 】
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亀の前は 伏見冠者廣綱 の家(逗子飯島)に移って暮らしていたが、時政 の後妻 牧の方 がそれを政子に密告した。憤激した政子は牧宗親(牧の方の兄、父の説あり)に訴えて廣綱の家を打ち壊した。廣綱は亀の前と共に辛うじて鐙摺(葉山)の大多和義久(三浦義明 の三男で 義澄 の弟)宅に逃れた。

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右:大仁の田中山に残る女塚      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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八重姫につき従った侍女6人は入水自殺した八重姫を悼んで田中山で殉死。今では地有志の手によって「史跡公園・女塚」が整備されている。田中山の峠は真珠ヶ淵の南東方向で伊東へ向かって5kmほど、北條道と呼ばれる古道登った地点である。八重姫の侍女たちは当然ながら伊東付近の出身と推測されるが、故郷に帰る途中の峠で自殺を決意してしまう。
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伝承によれば...侍女たちは真珠ヶ淵近くの満願寺 (廃寺、地図) に八重姫遺体を納めて供養した後に、故郷の伊東(葛見荘の一部)を目指して歩きはじめた。北條道を辿って田中山の峠まで来たとき、侍女の一人・楓が「八重姫の後を追う」と言い出した。「むごい仕打ちで 千鶴丸 様を殺した伊東のお館には帰りたくない。頼朝 様にも裏切られ千鶴丸様にも先立たれた姫様がおいたわしい。せめて私だけでも...」
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そして5人の侍女は遠くに亀石峠を臨む田中山で自殺、後事を託された侍女の一人が葛見荘に走り、折り返し 伊東祐親 の家臣が駆けつけた時には既に遅かった。侍女たちの死を悼んだ村人は峠に墓石を建てて懇ろに弔ったと伝わる。北條道は伊豆東海岸の伊東と狩野川流域の田方盆地を結ぶ主要道路で、頼朝も伊東への往復に利用し、「頼朝さんの一杯水」と呼ばれる湧き水があった事は前述した通り。頼朝様に会える...希望に満ちた八重姫主従の旅は、一転して絶望の帰り道になった。
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峠の四辻には侍女たちを悼む石碑や墓が昭和初期まで残っていたらしいが、既に散逸してしまった。昭和50年(1975)に地元の有志が「女塚保存会」を結成、慰霊碑が建ち公園やトイレなどが整備されている。オリジナルのアイスクリームで人気の高い 大見伊豆牧場(公式サイト)が女塚の南400mほど坂下の徒歩圏内にある。もう一軒、約2km北にあった蕎麦の名店「三ツ割菊」は2017年初夏に閉店してしまった。


 その参 頼朝挙兵、各地の源氏も打倒平家を目指す 

左:餅を献上し続けた老婆の心に報いた成願寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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若い頃の 頼朝 は百日詣を立願し早朝の三嶋大社に参詣していた。これが源氏再興のためだったのかは判らないが、保元・平治の乱で死んだ父の 義朝 を含む源氏係累の菩提を弔う意味があったのは間違いない。
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治承四年(1180)8月の挙兵は頼朝が流罪に処された当初から抱いた意思ではなく、4ヶ月前(同年4月末)の 以仁王頼政 の挙兵に触発されたのが直接の動機、いや厳密には触発ではなく頼政敗死(5月26日)の後に平家が発布した諸国の源氏追討令を6月19日に知り、追い詰められての挙兵と考えるのが正しい。座して追討の兵を待つか、奥州へ逃げるか、一か八か兵を集めて戦うか。
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頼朝が以仁王の平家追討令旨を受け取ったのが4月27日、この前後から「源氏再興の百日詣」を始めたと考えれば満願は7月上旬、8月17日の山木館夜襲の1ヶ月前に符合する。しかし人目を避ける注意も欠かせない。
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北條館から北へ500m、すぐ裏手に狩野川が流れる成願寺本堂墓苑の片隅に「餅売り姥」の墓がある。
頼朝が三嶋大社に平家打倒百日の願をかけて夜明け詣りに通った毎朝、道端で餅を売っていた老婆が頼朝に餅を献上し続けた。覇権を握った後に頼朝は姥を鎌倉に呼んで望みを尋ねると、姥は「阿弥陀仏を拝みつつ余生を送りたい」と答えた。頼朝は快諾して仏像を与え、一宇を建立して姥の願いに応えた。姥は「わが願いが成った」と喜び、それが寺の名前になったと伝わっている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 4月27日 】
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行家の携えた高倉宮以仁王の令旨が頼朝の住む伊豆国北條館に到着した。頼朝は衣服を改め、先ず石清水八幡宮のある男山を遥拝し、謹んで令旨を開いた。行家は甲斐・信濃の源氏に触れるためすぐに出発した。
頼朝は平治の乱に際して信頼に連座し去る永暦元年(1160)3月11日に伊豆に流され20年を過ごした。その間に 平清盛 は天下を我が物にして賞罰を独占し、 後白河法皇 を鳥羽の離宮に閉じ込め悩ませている。そんな情勢の最中に令旨が届いたのは将に正義の兵を挙げる良き機会である。
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北條四郎時政は上野介 平直方 から五代目の子孫、伊豆の優れた豪傑であり頼朝を婿として忠節を尽す人物である。従ってまず最初に彼を招き令旨を披露した。令旨は 頼政 の嫡男 仲綱の名で発行された。平家の悪事を並べ、討伐に決起せよ、協力しなければ相応の罪に問う旨が書かれている。
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【 全国の源氏に決起を呼び掛けた檄文、以仁王の令旨 原文と意訳 】 を掲載しておく。
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下  東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事    右。前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉
 
最勝王勅○(文字表示)。淸盛法師并宗盛等以威勢起凶徒亡國家。惱乱百官万民。虜掠五畿七道。幽閉 皇院。流罪公臣。断命流身。沈淵込樓。盜財領國。奪官授職。無功許賞。非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧。禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米。相具謀叛粮米。断百王之跡。切一人之頭。違逆 帝皇。破滅佛法。絶古代者也。干時天地悉悲。臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀。追討 王位推取之輩。訪上宮太子古跡。打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆。偏所仰天道之扶也。因之。如有 帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人。藤氏之人。兼三道諸國之間堪勇士者。同令与力追討。若於上同心者。准淸盛法師從類。可行死流追禁之罪過。若於有勝功者。先預諸國之使節。御即位之後。必随乞可賜勸賞也。諸國宣承知依宣行之。    治承四年四月九日   前伊豆守正五位下源朝臣 仲綱

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東海・東山・北陸の三道諸国の源氏と群兵らに下す。清盛法師と叛逆の一族追討に即応せよ。 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が奉る。
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最勝王(以仁王)の勅を奉ず。清盛法師ならびに宗盛らは権勢によって国を滅ぼす兇徒である。百官万民を悩まし五畿七道を掠奪し天皇と上皇を幽閉し朝廷の臣を流罪にし国の財産と官職を奪い、功績のない者に賞を与え過ちのない者を罰している。諸寺の高僧を拘束し学僧を獄に繋ぎ、比叡山の絹米を謀反の糧米として掠奪している。先祖の遺蹟を滅ぼし摂関家の首を切り天皇に背き仏法を滅ぼし伝統を顧みない。天は悲しみ民は愁いに沈んでいる。私は後白河法皇の第二皇子だから天武天皇の旧習に従って王位を簒奪する輩を追討し上宮太子(聖徳太子)の古跡に倣い仏法に逆らう者を討ち滅ぼす。人力に頼るのみならず天道の援けを頼むものである。帝王に三宝(三種の神器)と神明の加護があれば必ず志のある者が諸国に現れるだろう。源氏と藤原氏と諸国の勇士はこの追討令に与力せよ。同心しない者は清盛法師の一味と看做し死罪または流罪の刑に処す。勝利に功績を挙げた者は即位後に諸国の責任者を介して望むままの恩賞を与える。この旨を承知し宣旨に従って行動せよ。
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                        治承四年四月九日               前伊豆守正五位下源朝臣 仲綱
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【 吾妻鏡 同じく、6月19日 】
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散位 三善康信 の使者(弟の康清)が北條舘に参着、静かな部屋で頼朝と対面した。以仁王の令旨を受け取った源氏を追討する命令が出た、頼朝殿は源氏の正統なので最も危険だから早く奥州へ脱出するべき、と。この康信は頼朝の乳母の妹の子で源氏に心を寄せ、以前から京の政治情勢を月に三度づつ、使者を介して報告していた。今回は特に重大なので弟の康清と語り合い(病欠と称し役所を休ませて)伊豆へ向わせたものである。
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※散位: 官位はあるが官職のない者を差す。兄の康信は典薬大夫、康清は隼人司(兵部省)に任じていた筈だが病気で休職した場合も散位と表示する場合があるらしい。

右:三嶋参詣途上で祈願した延命地蔵菩薩  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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韮山から三嶋大社まで約8kmの間には頼朝参詣にかかわる伝承や史跡が残っている。三嶋大社の前で東海道から分岐し、真っ直ぐに南下する旧下田街道から約1km西に逸れている宗徳院(地図)もその一つ。百日祈願に通う折に本尊の延命地蔵菩薩に挙兵成功を祈願し、更に足の痛みを癒したという伝承もある。
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小刻みに蛇行する境川に沿って点在する寺や神社は歴史の古さを物語ると共に、昔から洪水が頻発していた地域である事も影響しているのかも知れない。近世までの伊豆半島中部以南の物流は下田街道と共に狩野川および支流の水運に依存しており、下田街道の整備も江戸時代中期には概ね完成していたらしい。
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韮山周辺から三嶋大社への参詣は狩野川右岸に沿って下流に辿り、支流の境川沿いに三島西部へ至るルートも利用したのだろう。
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龍泰山宗徳院は曹洞宗(創建当初は真言宗)、延暦年間(901~902)に空海(弘法大師)が創建し、現在は伊豆八十八ヶ所霊場の第十八番札所である。寺が主張している 頼朝 との接点(下記)はかなり無茶苦茶で...
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頼朝は永暦元年(1160)3月に伊豆に流され治承四年(1180)8月に挙兵、同年10月に鎌倉入りまでの100日間を三嶋大社と共にこの寺の延命地蔵菩薩を
祈願佛として日夜詣でていた。
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治承四年(1180)の10月6日に鎌倉入りしたのは事実だが、8月23日の石橋山合戦に敗れた後は土肥(湯河原)から落ち延びた安房(千葉)で活動しているから、どう考えても三嶋大社百日詣では無理なんですけどね...真面目に足跡を追っている自分が馬鹿に思える瞬間だ。
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後世になって頼朝の権威に阿(おもね)って付け足した物語が結構多いから、史実と伝承を確実に照合する必要がある。

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左:三嶋大社に近い間眠(まどろみ)神社  画像をクリック→ 詳細ページへ
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三嶋大社から700m南、神社の裏手には修善寺に向う伊豆箱根鉄道の線路が走っている。
大正初期の写真では周辺には水田が広がり、東側(だと思う)には用水が流れている。現在も地図上に川の表示はあるが、半ば暗渠と化して大場川に流れ込む下水である。車を利用する場合は周辺に駐車できるスペースがないため、国道1号の陸橋に近いイトーヨーカドーの無料Pを利用して500mほど歩けば良い(周辺地図)。
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早朝の百日祈願のため三嶋大社に向う 頼朝 は社に生えていた松の下で暫しの眠りを楽しんだ。史実であれば挙兵直前の5~7月前後、太陽暦では6~8月だから強い日差しを避けての昼寝はありうる。松は遠い昔に枯死して残骸も残っていないが、社は間眠(まどろみ)神社と名前を変えて近隣の信仰を集めている。
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三島と函南の境界に近い安久から間眠神社を経て三嶋大社に至る当時の本街道(韮山での呼称は牛鍬通)は在庁道とも呼ばれていた。頼朝が幕府を開いた後のこと、鎌倉から三嶋大社までは遠い上に当初のニ所詣(伊豆山権現と箱根権現)の順路からも外れるため、安久の周辺から素性の正しい農民を7人選び交代で代参させた。人々は彼らを在庁奉幣使と呼び、牛鍬通は在庁道と呼ばれるようになった。
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俗説では頼朝は丑の刻(うしのこく)参りをした、とも。TVの下らない番組では白装束で頭に蝋燭を立て、五寸釘で御神木に藁人形を打ち付ける呪いの儀式だ。誰かに見られたらその人も殺さなければならないとか、蝋燭を縛り付けた五徳を頭に載せるだとか、横溝正史の「獄門島」みたいな...(笑)
人形(ひとがた)に釘を打ち込む呪術は奈良時代に大陸から伝わったらしいから、頼朝が平家を呪って丑の刻参りをした可能性は皆無とも言い切れないけど。

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右:白鳳時代の廃寺跡でもある法華寺と、祐泉寺を  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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法華寺の宗派は曹洞宗、下田街道の起点である三嶋大社の大鳥居から400m南に位置する。ここには三島一帯を支配した豪族の丈部(大部とも)富賀満が白鳳時代に建てた巨大な氏寺があった。
元慶八年(884)以降、承和三年(836)に焼失した伊豆国分尼寺に代用された大興寺(通称を市ヶ原廃寺)である。
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平安中期以後の大興寺は徐々に衰退し、平安末期には祐泉寺や法華寺に分かれて存続したらしい。
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  ※白鳳時代: 平城遷都の前、崇峻天皇五年(592)から和銅三年(710)の102年間、明日香・飛鳥に
都を置いた時代を差す。ちょっと長いけど明日香の訪問記録(別窓)も、どうぞ。
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頼朝は 三嶋大社 参詣の途中で法華寺(周辺地図)にも立ち寄って源氏再興を祈った、と伝わる。韮山からの参詣ルート沿い(後の下田街道、吾妻鏡に書かれた牛鍬大路)には同様の伝承が多く残っており、どこまで史実かを見極めるのは相当に手間がかかる。頼朝が本気で源氏再興を考えていたのか、伊豆での平和な暮らしに堕落していたのではないか、そんな個と思いたくなる。
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この寺には頼朝が自筆の写経を納め、その法華経を埋めた経塚の跡には地蔵尊が建てられている。その他、通例通り(笑)「頼朝の腰掛け石」だとか「頼朝衣掛けの松」(既に枯死)の情報もあるが、境内には説明書きの類は一切なく何が何だか判らない。聞くのも面倒なので今回は撮影だけで済ませた。末尾にはすぐ向かい側にある祐泉寺(国分尼寺西塔の塔芯礎石を保存)を訪ねた記録も添付してある。
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この地域は特に頼朝や源氏の史蹟を探るよりも三嶋大社や国府跡や国分寺・国分尼寺の跡や更に古い廃寺の跡を歩き廻る方が遥かに奥深い。特に法華寺の原型となった寺、白鳳時代に建立され繁栄を極めた大興寺(廃寺)が大社前の広大なエリアを占めていた事は特筆に価する。

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左:鎌倉時代中期、三島を経て鎌倉に旅した阿仏尼の墓   画像をクリック→ 拡大表示
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弘安二年 (1279) に大納言 藤原為家藤原定家の嫡子)の遺言状に端を発した相続争いの決裁を求めて鎌倉に赴いた為家の後妻・阿仏尼 (1222~283) の十六夜 (いざよい) 日記に下記の記述がある。
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伊豆国府という所に到着した。まだ夕陽が残っていたので三島の明神に参拝して歌を奉納した。
二十八日に伊豆国府を出て箱根路へ向った。
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伊豆国分寺と国分尼寺(焼失後に再建した堂宇)の跡は既に発掘調査が終了し一部復元されたが、焼失前の旧・伊豆国府の庁舎と創建当初の国分尼寺の遺構は現在も確認できていない。ただし十六夜日記の記述を根拠にすれば、彼女が三島明神(現在の 三嶋大社・公式サイト)に詣でた1280年前後には「老女が夕刻に三嶋大社まで往復できる程度の距離」に国府庁舎が在ったのは間違いない。
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更に彼女は箱根路を越える様子も記録している。後三年の戦役で苦戦する兄の 八幡太郎義家 を助けるため弟の 新羅三郎義光 が越えた足柄峠ルート(別窓)ではなく、彼女が歩いてから20年ほど後に大蔵派の石工集団が築造した箱根精進池の石仏群(別窓)の横を通っていた湯坂古道である。足柄道は延暦十九~二十一年(800~802)の富士山大噴火で閉鎖しその後に復旧したが、少し遠回りなどの理由で徐々に衰退、湯坂道を辿るのが旅の主流になった。
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あしから山は 道遠しとて 箱根路にかかるなりけり ゆかしさよ そなたの雲をそばだてて よそになしぬる 足柄のやま
いとさかしき(とても険しい)山をくだる。人のあしも、とどまりがたし、湯坂とぞいふなる。

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為家の正室は鎌倉幕府の譜代の御家人で和歌の名手でもあった 宇都宮頼綱 の娘。既に二人の男子・為氏(奇しくも阿仏尼と同年齢、弘安九年 (1286) に鎌倉で死没)と為教を産んでいたのだが、為家は安嘉門院(邦子内親王・後堀河天皇准母)女房の聡明で和歌の巧みな安嘉門院四条(後の阿仏尼)を愛して為相を産ませてしまう。

右:阿仏尼の墓と浄光明寺周辺の鳥瞰図   画像をクリック→ 拡大表示
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四条と為相を溺愛した 藤原為家 は既に為氏に譲っていた細川荘(兵庫県三木市)などの所領を為相(当時16歳)に譲るとの遺言を書き、更に和歌に関して収集した典籍も為相に譲ると言い残して死没してしまった。
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しかし為氏はその後も細川荘を譲ろうとせず、更に朝廷や六波羅に訴えても好転しなかったため、四条は鎌倉幕府への直訴に及んだ。京都から鎌倉まで老女が記録した旅日記が「十六夜日記」である。
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鎌倉では宇都宮氏の影響力が大きかったため阿仏尼の努力は徒労に終わるかと思われたが...
弘安八年(1285)11月に勃発した霜月騒動で 安達泰盛 が追討され、泰盛の娘を妻にしていた宇都宮氏の当主 景綱頼綱--泰綱--景綱と続く)も失脚、この影響で為相の勝訴となったらしい。
ただし一度は失脚した宇都宮景綱は永仁元年(1293)の内管領平頼綱の滅亡に伴って幕政に復帰している。
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阿仏尼は訴訟の結果が出る前に鎌倉で没した、或いは京に戻って没したともされる。扇ヶ谷の壽福寺近く(地図)にある上記の層塔が供養の墓と伝わっている。その真偽は確認できていないが、息子の冷泉為相を葬った宝篋印塔(画像、別窓)が200m北東の浄光明寺にある事を考えると、彼女の墓と判断するのが自然だろう。
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為相は32歳の永仁三年(1295)に鎌倉に転居した。北條時頼長頼 親子が建長三年(1252)に開いた浄光明寺の境内北側に定住し、鎌倉八代将軍(久明親王・89代後深草天皇の第六皇子)を補佐すると共に鎌倉連歌の発展などに大きな足跡を残した。嘉暦三年(1328)に没して同地に葬られたが、現在の墓石(6尺3寸の宝篋印塔)は徳川光圀が南北朝時代初期の様式を模して建てたもの。
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  ※徳川光圀: ご存知の黄門さま、和歌に堪能で国学振興にも尽力した「副将軍」ね。冷泉為相は歌道の大先輩、官職も同じ黄門(中納言の唐名)だった。
この経緯から浄光明寺に墓石を寄進したのだろう。
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少し鎌倉時代から離れるが、足利高氏(尊氏) の嫡男で足利幕府二代将軍だった足利義詮の分骨墓も三島にある。三嶋大社前を東へ700m、大場川を渡って右側の宝鏡院(地図)だが、画像は行方不明になっちゃった。更に蛇足を加えれば、義詮の正式な墓は法名を転じた京都嵯峨野の 宝篋院(公式サイト)、楠木正行(南朝の忠臣・楠木正成の嫡子)を葬った五輪塔の傍らにある。三島市は大型ショッピングセンターや柿田川湧水群や公園など観光スポットが豊富に点在し、散策してもそれなりに楽しめるエリアである。
周辺史蹟をマークした地図 を参考に歩いてみよう。


左:大庭景親が頼朝暗殺を狙った妻塚観音堂  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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かつての三嶋大社境内は市ヶ原廃寺跡の大部分・法華寺の近くまで占めており、参道は現在の妻塚観音堂の前を通っていたらしい。
頼朝を狙った大庭景親は間違えて自分の妻を殺したと伝わっているが、これは渡辺党の武士遠藤盛遠 (後の 文覚)と袈裟御前の話に酷似している。パクリだろうな。
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【 堂の右手に建つ石碑に曰く、 】
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蛭ヶ小島に流罪中の 頼朝 は源家再興を祈願して百日の間毎夜大社に詣でていた。一方平家の命令で頼朝監視を命じられた 山木判官兼隆 は当時大場(だいば)から多呂、北沢辺りまで領有(現在の三島市南東部の函南町寄り)していた豪族の 大庭景親 に頼朝の暗殺を命じた。景親の妻は源氏に多少の縁があったので夫を諌め、頼朝を助けるように何度も頼んだが聞き入れられなかった。
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やがて頼朝満願の日が近づき、景親は闇にまぎれて頼朝を待っていると女の着物を着た頼朝らしい姿を見つけ、「女に化けるのは卑怯な奴」と斬り倒した。しかし良く見ると頼朝ではなく身代わりになった自分の妻だった。悲しんだ景親は妻が死んだ地に塚を築いて菩提を弔い、周辺の村人は堂を建て霊を慰めた。毎月24日には念仏会、9月25日の命日には例祭が行われている。
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大庭景親は保元の乱(1156)では義朝に従って戦った武士だが平治の乱(1159)後は義朝と距離を置いて平家に従い、相模国では最大規模だった大庭御厨(伊勢神宮の荘園)の下司職を代々継承している。八幡太郎義家 に従って後三年の役を戦い勇名を馳せた 鎌倉権五郎景政 の曾孫で、石橋山合戦では平家に従う武者3000騎を率いたほどの武将が単身で頼朝を襲う必要はないと思うけど、ね。それと、9月25日の「命日」が気になる。治承四年の9月なら頼朝は既に挙兵しているから、百日詣でって治承三年(1179)? 兼隆が伊豆に入ったのは治承三年だから年代的に辻褄が合わないと思うよ。
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    ※下司職: 荘園で実務を担当した荘官。下司に対して在京の上役が上司となる。下司はゲス野郎!の語源。

右:伊豆一の宮 三嶋大社の風景    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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三嶋大社の主祭神は事代主神と大山祇命(大山津見命とも書く)。伊予国の一ノ宮である大山祇神社の分社である、或いは大山祇神社の方が分社であるともされる。「多くの山神の総てを統する」大山祇の意味が転訛した、と考える説も立てられている。
さらに詳細は 三嶋大社の公式サイト で。
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源氏再興を祈った百日参詣などの経緯から頼朝の深い信仰を受け、鎌倉幕府の樹立以後は放生会などを担当したり神領を受けるなどで厚遇された。宝物殿には 頼朝頼家 の下文( くだしぶみ・指示書)や 政子 寄進の蒔絵硯箱などを収蔵している。駐車場(500円)が狭く混雑も激しいので電車利用が望ましいが、車なら休日を避けて計画するか、1km弱南の日清プラザ(ヨーカドー)無料駐車場を利用すれば間眠神社や法華寺・祐泉寺など周辺の史跡を散策する回遊ルートが組み込める。
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鎌倉幕府樹立後の頼朝はニ所詣(伊豆山権現と箱根権現の巡拝)を4回・政子は2回・実朝は8回行っている。三嶋大社は正式には順路に含まれないが実際には殆ど立ち寄っており、実質は「三所詣」だった。
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  ※放生会: 捕らえた生き物を解放する法事で仏教の殺生戒に基づき春・秋に行うのが通例。
三嶋大社に参籠して一族の繁栄と関東支配を祈った北条早雲の夢が北条記に書かれている。
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一匹の鼠が二本の大きな杉を歯で齧って倒し、みるみるうちに虎になった。二本の杉とは当時の二大勢力・扇谷上杉氏(足利尊氏の母方の叔父で鎌倉扇谷に住んだ上杉重顕を祖とする)と山内上杉氏(同じく母方の叔父上杉憲房の子で鎌倉山之内に住んだ上杉憲顕を祖とする)であり、鼠とは子年生まれの早雲。これは今後の運命を暗示する予兆であろう、と。
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早雲は永正九年(1512)に両上杉を駆逐して鎌倉に入り、同十三年(1516)には三崎城の三浦氏を滅ぼして関東全域を制圧した。この三浦氏は宝治元年(1247)に 北條時頼 に滅ぼされた三浦一族の傍流で 義澄 の次弟 佐原義連 の孫 盛時 が宗家を継いだ家系。従って三浦氏は北條(北条)によって2度も滅亡の憂き目を味わってしまった。
鎌倉幕府が 新田義貞 に滅ぼされた元弘三年(1331)から200年近く後の出来事である。
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  ※北条早雲: 便宜上北条と書いたが、早雲は一度も「北条」を名乗っていない。北条姓が最初に現われたのは嫡男氏綱の代で、早雲は既に他界していた。
生前に名乗っていたのは伊勢新九郎長氏(または盛時)、60歳を過ぎた頃に出家し初めて早雲庵宗瑞と名乗っている。

左:西側にある守山から見た山木館の方向    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 伊豆の目代 山木判官兼隆 の素性と 頼朝 とのいきさつ 】
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目代とは国司(守・介・掾・目)の四等官である「目」の代理に任じる役職で、租税を徴収する権限を持つ。
この年の春までの伊豆国主は 源三位頼政 で介は 狩野茂光 だったが、挙兵した頼政は平等院で敗死。その後は伊豆流人の兼隆が目代に任命されたのか、それとも僭称したのか、やや曖昧だ。
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クーデターに失敗した頼政の死没後に伊豆知行国主となったのは本家筋の 平時忠で、他に適当な人材がいないから流人兼隆を目代に任じたと考えるのが一般的だ。山木判官 平重郎兼隆は恒武平氏の末裔で 清盛 とは系統が異なるが、 北條時政よりは遙かに権力者に近い。前職は検非違使、父・信兼の訴えによって韮山山木に流された流人である。京都での乱暴狼藉が激しく、父親も持て余す人物だったらしい。
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視点を広げて考えてみれば 平直方の子孫を称している北條時政が目代を務めても不思議ではないのだが...平家の流人よりも評価が低かった人物、と言えるのかも。
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  ※知行国主: 領国から徴税し国庫に納める義務と権利を持つ。課された税さえ納めれば実際の徴収額との差が濡れ手に粟で懐に入る美味しいシステム。
通常は任期四年だが同族の持ち回りが当り前になっていた。独立行政法人の理事や強い地盤を持つ国会議員が職責を身内に世襲させるのと同じだね、大切な自動集金システムだもの。全盛時代の平家は30ヶ国以上の知行国主に任じていたのだから、これは自民党の世襲議員の比率と大差ない、と思う。既得権による貧富の二極化は平安時代から現代まで基本的に変わっていないとは、何という政治の貧困だろう。
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  ※平直方: 平安時代中期の摂関家に仕えた軍事貴族。11世紀初頭(1020年前後)の桓武平氏当主だが平安末期には本流から外れ、正盛─忠盛─清盛の系が主流となった。
源頼義の武芸に感嘆して娘婿とし本拠地の鎌倉を与えたのが源氏と鎌倉の接点のスタート。熊谷直實や北條時政(たぶん僭称)が子孫を称している。左目次の「北條氏の系図」を参照されたし。
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吾妻鏡の記述によれば、6月頃から頼朝の周囲に人の出入りが激しくなり、三浦・千葉・工藤・土肥・天野・佐々木・加藤次など東国各地の武士が北條邸を訪れて旗挙げの打ち合せなどを行っている。年月の流れから考えると兼隆と政子に接点があった筈はないし「兼隆邸から政子が逃げた」話は辻褄が合わない。
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第一部にも書いたが、この年の四月に以仁王と源頼政のクーデター未遂事件があり、天皇の第三皇子である以仁王が全国の源氏に送った決起を促す文書が平家側に漏れ、平家が急遽全国の源氏追討令を出した。追い詰められた頼朝には挙兵・逃亡・自殺程度の選択肢しかなかったのは間違いない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1280) 6月19日 】
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三善康信 の使者が北條に到着して頼朝と面談した。曰く、先月26日の以仁王挙兵以後は令旨を受けた諸国の源氏追討の沙汰があった。あなたは源氏の正統で最も危険な立場だから早く奥州へ逃れるべきである、と。
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ただ頼朝にとって何よりの幸運は京都の専横に対する東国武士の不満が非常に高まっていたこと。平家の独裁と重税に加えて三年間の大番役(京都守護の兵役・無給)などに苦しんでいる東国武士にとって 「挙兵が成功したら働きに応じて処遇する、落命したら勲功に応じて一族を遇する」 という頼朝の約束は(もちろん合戦に負けたら空手形だけど)命を賭ける値打ちはあった。当時の忠誠心は江戸時代よりも遥かに打算に満ちている。
しかし兼隆さんの油断も責められるね。北條邸までわずか3km弱、準備を整えた頼朝軍が斬り込むまで気が付かなかったとは余りにも迂闊だ。
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  ※三善康信: 頼朝の乳母の妹の子。その関係で志が源氏にあり、使者を介して京都の情勢を毎月三回づつ頼朝に報告していた。今回は特に重大なので
弟の 康清 を仮病で欠勤させ北條に派遣した、と。幕府の樹立後は兄弟とも要職に就き、子孫も有能な文官として要職を世襲している。
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  ※頼朝の乳母: 比企尼(比企掃部允の妻)、寒河尼八田宗綱 の娘で小山政光の後妻・結城朝光の母)、山内尼(首藤俊綱の妻で経俊 の母)らがいる。
三善康信の叔母がこの三人の誰かなのか別人なのかは判らない。他にも無名の乳母がいた可能性も指摘されている。

右:緒戦の勝利を祈願した守山八幡宮     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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願成就院の北側に敷地を接している。社伝では大化三年(647)の創建とされており、鎌倉幕府が成立した後に 北條時政 が建立した願成就院よりも遥かに古い。頼朝 はここで戦勝を祈願して挙兵したと伝わっているが、吾妻鏡の記述を素直に読み解けば、本陣は北條館に置いたと考えるのが順当だろう。妻の 政子 は挙兵の前に伊豆山権現に避難し僧・覚渕の庇護下に入っていたと思われる。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月17日 】
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~中略~ 夜の8時頃に 籐九郎(安達)盛長 が(頼朝の指示により)台所で 山木(平)兼隆 の下僕を捕らえた。この男は夜毎に北條邸の下女の元に通って来ており、大勢の武士が集まっているのを怪しまれる恐れがあるからだ。従って明日を待たず、早く山木を攻めて雌雄を決しなければならない。
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攻撃隊はそのすぐ後に出陣しているため守山八幡宮に本陣を移す必然性は乏しい。ひょっとしたら食客の住吉小大夫昌長が前日に行なった天冑地府祭と祈祷が、北條館から最も近い神社である守山八幡宮で行われたのかも知れない。更に言えば、北條館は守山の西麓で守山八幡宮は東麓にあり離れているようだが、本殿は山頂近くだから直線距離は100m強。守山を北に迂回するのだから遠回り、と考える方が間違っている、のかも。
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  ※天冑地府祭: 冥官(閻魔庁の役人)を祀って死者の冥福を祈る陰陽道の儀式。
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ちなみに、吾妻鏡に「兼隆の下僕が北條の下女に嫁して(原文は「此男日來嫁殿内下女之間。夜々參入。」)とあるように、当時の婚姻は男が女の許に通う「通い婚」が普通である。頼朝と政子の場合は...曽我物語に描かれた二人の馴れ初めが何を意味しているのかを併せて考えると実に興味深い。
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政子の妹(後に 足利義兼 に嫁した時子か?)が不思議な夢を見た。太陽と月が一緒になって袂に飛び込み、三つの橘が実った枝を髪に飾るという夢である。翌朝 政子に話すと、政子は大変な吉夢だと知りながら「凶夢だから誰にも話してはいけない。私が買い取って福に転じてあげよう」と言って鏡と小袖を与えた。程なくして籐九郎盛長が頼朝の恋文を政子に届けた。これは本来は美しいと評判の妹に宛てた手紙だったが籐九郎はなぜか政子に渡し、頼朝と政子の仲を取り持った。結果として政子が将軍の妻となって従二位まで昇り詰め、恩を受けた籐九郎の安達一族を終生庇護し引き立て続けた。
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現実は、時政が留守の間に北條館に住み着いてズルズルと同棲したのだろう(笑)。曽我物語には京都からの帰り道に頼朝と政子が通じた事について時政が兼隆に気を使って怒ってみせたという記述があり、これが「兼隆との結婚を嫌った政子が伊豆山の頼朝の元へ逃げた」と述べる伏線になっている。この時の政子は既に大姫が産んでいるから話の筋は通らないが、吾妻鏡を素直に読むと頼朝の個人的な怨恨も匂うため、少し気になる部分ではある。
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【 曽我物語 巻ニ 兼隆 婿に取る事 】
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頼朝と娘の関係をあれこれと案じながら、時政は山木判官兼隆という平家の武士と同道して伊豆に下った。何となく話のついでに「あなたを私の婿にしよう」と言ってしまった後だったので「源氏の流人を婿にした」と訴えられたら万事休す、などと考えながら伊豆の国府に着いた。そして何も知らない顔をして娘を(頼朝から)取り返して兼隆に与えたのだが、娘は頼朝と深い契りを交わしているためその夜のうちに逃げ出し、召使い一人を連れて深い草叢を分け山道を越えて伊豆山権現に逃げ込んでしまった。その連絡を受けた頼朝は即刻駆け付けた。目代の兼隆は捜索したが娘の行方は判らず、時政は知らぬ顔をして過ごした。伊東祐親 とは違う対応であり、それだけ時政の運が強かった、という事なのだろう。
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  ※伊豆国府: 伊豆長岡に近い宗光寺エリア(地図)と考える説もあったが現在は三嶋大社周辺で確定している。詳細は 三嶋大社の風景(別窓)で。

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左:兼隆館の跡と伝わる丘、現在は私有地。    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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山木にある兼隆館の跡とされているのは反射炉で有名な「江川太郎佐衛門邸」の門から畑と民家を隔てた小高い丘の上。石垣の上に小さな石碑が置かれているが兼隆の館がここと考える具体的な根拠はない。吾妻鏡の討ち入り描写には「北條殿以下進於兼隆館前天滿坂之邊 發矢石」、つまり「時政らは兼隆館前の天満坂の辺に進み矢石を放った」、と。天満坂は現在の香山寺参道入口の西側だから、伝・兼隆館からは400mほど離れている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月4日と17日 】
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頼朝は「国敵として且つ個人的な意趣のため、まず最初に兼隆を討たねばならない。」と。
佐々木盛綱加藤景廉 らは厳命を受けて兼隆の館に討ち入り首を挙げた。家臣たちも同様に討ち取り、館に放火して焼亡させ明け方に戻った。頼朝は縁先に出て兼隆主従の首を確認した。
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曽我物語は政子が婚礼の夜に山木の館を抜け出し、雨の中を8里(25km)の山道を走って伊豆山に逃げ込んだ。やがて頼朝は平家追討の兵を挙げ、治承四年(1180)8月17日の深夜に平兼隆の館を襲撃して彼の首級を獲る。もちろん政子の父である北條時政も一族を引き連れて味方に...となるのだが、挙兵以外の現実はそれほど劇的ではなく、これは主として曽我物語による後世の捏造に過ぎない。以仁王と頼政の挙兵、清盛の源氏追討令、経済的に苦しかった関東武士団の鬱積した不満...大きな歴史の流れの中で打算的な男女関係も見え隠れする。
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【吾妻鏡の原文は次の通り】
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散位平兼隆〈前廷尉號山木判官〉者、伊豆國流人也。依父和泉守信兼之訴、配于當國山木郷。漸歴年序之後、假平相國禪閤之權、輝威於郡郷。是本自、依爲平家一流氏族也。然間且爲國敵、且令插意趣給之故、先試可被誅兼隆也。

右:平兼隆の菩提寺 景雲山香山寺      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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兼隆館跡とされている場所は坂を登った突き当たりの私有地なので香山寺へは一度坂を下り、迂回して600mほど歩かねばならない。ただし直線なら僅か300mの距離でほぼ地続き、香山寺の開山は佛乗禅師天岸慧広和尚、開基は 山木兼隆 の縁者と伝わる。
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頼朝はこの地に兼隆を手厚く葬ったと主張する書もあるが、吾妻鏡には兼隆を葬った記述は見当たらない。そもそも天岸慧広(謚(おくりな)が佛乗禅師)は竹寺の名で知られた鎌倉 報国寺 (wiki) の開山を務めた高僧で、鎌倉時代後期の文永十年(1273)~建武二年(1335)の人。従って山木合戦の130~150年後に兼隆の縁者が供養のため館跡の近くに建てた寺らしいから、ここが山木館だった可能性は排除できない。
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それにしても、吾妻鏡に書かれた「個人的な意趣」とは何だろうか? 曽我物語には、京都大番役から北條へ戻る時政が伊豆に配流される兼隆と道連れになり、政子を嫁にやる口約束をしたのに帰ってみたら頼朝の元に逃げちゃった、その結果として時政から見ると本家筋の兼隆が臍を曲げた...そんな筋書きだった。
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発端が何か判らないが、この「個人的な意趣」に尾鰭が付いた結果、「兼隆との婚姻を嫌って婚礼の夜に真っ暗な風雨の道を伊豆山権現へ逃げた」云々の話が生まれた。
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兼隆の法号は香山寺殿興峰兼隆大禅定門。兼隆の子孫は秩父に落ち延びて姓を八巻に改めた、と伝わる。甲斐武田に加わった者もあり、伊達と上杉に加わった者もあり、常陸平氏に加わった者もあり、それぞれの末裔が各地に残っているらしい。香山寺創建当時の堂宇は江戸時代末期までは残っていたと伝わるが、火災によって建物や所蔵品や古文書など全てを焼失した。少しでも残っていれば合戦に関する資料が含まれていたかも知れないのに、残念。
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後日談になるが、兼隆の父・平信兼は平家一門が壇ノ浦で滅びる前年の元暦元年(1184)に伊勢で蜂起し討伐されている。この時には3人の子(兼時・信衡・兼衡)も京の堀河館で 山木兼隆 に殺され、源氏側も近江を本領とする 義経 が討死するほど熾烈な戦いだった。伊勢平氏の乱として歴史に残っている。


 その四 頼朝の韮山挙兵にかかわる人々  

 
左:田方盆地の鳥瞰      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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平兼隆が父信兼の訴えで山木に流されたのは治承三年(1179)1月以後で、目代を名乗ったのは翌・治承四年5月の三位頼政敗死に伴う国司変更以後、が史実である。
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頼朝伊東祐親の討手を避けて伊東から伊豆山に逃げ、走湯権現で暫く過ごしてから韮山の北條館に入ったのは安元元年(1175)又は同二年、平兼隆が韮山の山木に流される2~3年前の出来事だ。政子 は治承ニ年(1178)に頼朝の長女大姫 を産んでいるから、時系列を考えれば兼隆の婚礼の席から政子が頼朝の元に逃げたとする曽我物語の記述は明らかに捏造。兼隆が子連れでも良いと思っても、幼子の父親が源氏の御曹司じゃ無理だろうに。
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旗挙げの夜に頼朝は田方盆地を見渡す守山東麓の守山八幡に陣取って兼隆館の炎上を待った。一ヶ月前に自殺した 八重姫 が埋葬された満願寺から直線で僅かに400m。
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しかし手薄だった兼隆側も必死の覚悟で抗戦し、簡単には討たれない。「攻め込んで邸に放火しろ」と命令したのに何時までも火の手が見えず、焦った頼朝は舎人(召使)の江太新平次を裏山の木に登らせたりするが、やはり確認できない。ついに本陣に詰めていた 加藤次景廉佐々木盛綱堀藤次親家 を援軍として派遣、一行は蛭島通りを徒歩で走り抜け、加藤次景廉が頼朝から手渡された長刀で兼隆の首級を挙げた。
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実際に守山八幡の裏手から守山に登ってみると、眼の下に広がる田方盆地が東から西まで一望できる。平兼隆の館跡は山の陰だが、蛭ヶ小島・狩野川・北條館・遠くには函南の山々が連なる...兵(つわもの)どもが夢の跡。

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右:加藤次景廉の本領、牧之郷      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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三島と修善寺を結ぶ伊豆箱根鉄道駿豆線の牧之郷駅(終点修善寺の一つ手前)の東、玉洞院(伊豆八十八ヶ所霊場の五番札所)付近に「殿の前」の地名があり、ここが加藤一族の館跡と推定されている。
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更に500mほど北西の狩野川下流沿い(現在の障害者保養所北狩野荘)には「寺中」の地名があり、ここに一族の菩提寺である金剛寺があったが、室町時代に洪水で流され廃寺となった。
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線路沿いの東側農地の一角に加藤一族の墓と伝わる「五輪さん」が残っている。室町期の洪水で散逸した墓石を回収・復旧しているため廟所本来の姿は不明だが、六基の五輪塔が覆屋に守られている。
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豆州志稿(寛政年間(1789~1801)に 秋山富南 が編纂した地誌)に拠れば、天明五年(1785)に金剛廃寺跡の農地にあった古い石塔の下から金銅製の舎利瓶(骨壷)が発見され、側面に「私の遺骨は敬愛する祖父景廉の墓の下に埋葬して欲しい」と刻まれていた。その石塔は既に行方不明だが、刻銘に従えば舎利瓶の発見場所(伝承に基づく推測地点)が景廉の墓所だったことになる。
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これは景廉の孫で鎌倉極楽寺三世の善願上人順忍の遺骨を納めたもので、上人の履歴が刻まれた貴重な資料である。直径6cm×高さ18cm、以前は修善寺郷土資料館が収蔵していたが現在は上白岩の 伊豆市資料館に展示されている。
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  ※善願上人: 景廉の孫。文永二年(1265)に加藤五郎(詳細不明)を父に備州(広島県)で誕生、弘安三年(1280)に極楽寺の良観上人(忍性 の通称)
の元で出家し、51歳で極楽寺長老となった。ただし加藤氏系譜には五郎の記載がなく、景廉の子が備州に移ったのも確認できない。
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加藤次景廉 は山木合戦で 山木兼隆 の首級を挙げた後も各地を転戦、幕府創設に功績を挙げて所領を与えられ、岐阜県遠山の要衡岩村に居館(地図)を築いた。後に長男 景朝(遠山の金さんの祖先)に家督を譲り、晩年の承久三年(1221)5月に美濃から鎌倉を経て本貫の地・牧之郷に帰った。
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その後は源平合戦で没した敵味方の霊を弔い、同年の8月3日読経三昧の内に世を去ってこの地に葬られた。一族の惣領だった兄の 光員 が承久の乱(1221)の際に朝廷側となって所領の狩野牧(牧之郷)を没収されたため景廉が家督を継承した。もう一人の兄は伊豆山権現の別院 蜜厳院院主で、頼朝 の仏教と学問の師を務めた阿闍梨覚淵。石橋山合戦(別窓)の際に政子を伊豆山の 秋戸郷(別窓)に匿い、神域を盾に平家方の追求から守り通した人物。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月19日 】 (山木合戦の翌々日)
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兼隆親戚の史大夫知親は蒲屋御廚の庄司として勝手な振る舞いが多かったため、権限を停止する下知を出した。関東に於ける最初の政令である。夜になって御台所(政子)は走湯山(伊豆山)の文陽房覚淵の坊に移った。情勢が落ち着くまで密かに匿うためである。
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  ※蒲屋御廚: 南伊豆の田牛から青市(地図)の一帯にあった伊勢神宮の荘園。むろん頼朝は伊勢神宮領の荘園人事に介入する権限を持っていないが、以仁王の令旨に書かれた
「勝利に功績を挙げた者は即位後に諸国の責任者を介して望むままの恩賞を与える」の言葉を適用させたらしい。
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蒲屋御廚近辺は砂鉄の産地であると共に青野川加工の鯉名(現在の小稲)は海上交通の要所でもあった。治承四年(1180)10月には富士川の平家軍に合流しようとした 伊東祐親 が鯉名で 天野遠景 に捕獲されている。
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【 吾妻鏡 同年、10月11日 】.
早朝、御台所政子大庭景義 の出迎えを受けて鎌倉の御所に入った。既に伊豆山の 阿岐戸郷(別窓)から到着していたのだが、日柄が良くないため稲瀬河(現在の江ノ電の長谷駅近く・地図)の民家に留まっていた。

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左:田代信綱が守った狩野領の砦跡   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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挙兵当初から頼朝に従った 田代冠者信綱狩野茂光 の外孫(信綱の母が狩野茂光の娘)にあたる。父親は伊豆守為綱、これは正三位・参議だった藤原親隆の次男で源顕通(村上源氏、正二位・権大納言)の娘が産んだ源(藤原)為綱だろう。
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頼朝が挙兵した治承四年(1180)の伊豆守は 平時忠、その前は源仲綱。仲綱の父 三位頼政 が伊豆守に任じたのは平治元年(1159)だから、為綱は頼政の前任者だった可能性がある。いずれにしても、為綱が任期を終えて京へ帰る際に、孫を手放したくない茂光が狩野に残させた、と伝わっている。
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確か茂光の四男 親光 も、京に帰任する夫の仲成(仲綱の乳母子)に娘(満劫)の同行を許さず、手元に留めた後に 伊東祐親 の嫡男 河津三郎祐泰 に再嫁させているから、肉親の情に篤い家系なのかも知れないね。この満劫と祐泰との間に生れた二人の男子が後の曽我兄弟、十郎祐成五郎時致 である。
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茂光は大見郷勢力(大見・八田など)の進出を防ぐため大見川左岸の田代(境界の山裾)に砦を築き、ここに信綱を駐留させた。河津三郎祐泰が横死した安元二年(1176)の秋に父の祐親から下手人追討を命じられた 九郎祐清大見小藤太成家 を追い詰めたのが狩野境、恐らくは田代の辺りだろう。
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狩野も大見も頼朝挙兵の際には加わっていた仲間だが、中伊豆地区では境界を接して緊張状態にあり、更に伊東祐親と 工藤祐経 の相続争いも絡んでかなり複雑な関係にあった。大見の側も狩野一族の存在を恐れていた、と伝わる。
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頼朝の挙兵に加わった代表的な46名の中に祖父の狩野茂光と叔父の 狩野五郎親光 (茂光四男)の名はあるが、その他大勢の中に含まれるためか信綱の記載は見当たらない。ただし源平盛衰記など後世の軍記物には「茂光に懇願されて自刃の介錯をした」との記述が見られる。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】   石橋山合戦で敗れた直後の逃避行
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北條三郎宗時 は土肥から日金を越えて函南の桑原に下ったが平井郷の早河付近で伊東祐親の軍兵に囲まれ小平井名主の紀六久重に射殺された。茂光は歩行困難となり自殺した、と。 (肥満体だったため輿にも乗れず自刃、信綱が介錯した、とも)
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  ※早河付近: 桑原と平井にはこの地名も川も存在しない。現存する「冷川」の間違いか、あるいは冷川の旧称だった可能性もある。

右:鎌倉大町の安養院所蔵 政子木像   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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政子 の剃髪は正治元年(1199)1月の 頼朝 死没の後、当時は42歳だった。彼女が没したのは満67歳の嘉禄元年(1225)、この像は60歳で従ニ位に叙された建保六年(1218)前後の姿を想定して刻まれたものだろう。波乱の生涯を生き抜いた、いかにも意思の強そうな(むしろ、意固地で我の強そうな)姿を見事に再現している。
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  ※女性の官位: 官位の高さで良く比較されるのは 清盛 の 正妻 時子。天叢雲剣(草薙剣)を腰に差し 安徳天皇
を抱いて壇ノ浦に沈んだ。彼女は建春門院平滋子(後白河法皇 の譲位後の妃)の異母姉として、また 建礼門院徳子(高倉天皇妃、安徳天皇の生母)の母として、滋子が産んだ憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子した仁安元年(1166)に従二位に叙された。
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一方の政子は承久の乱が勃発する前年の建保六年(1218)に61歳で従ニ位に叙されており、天皇家に係累を持たない女性の官位としては異例の扱いを受けた。ちなみに亭主の頼朝は文治元年(義経 が討たれ奥州藤原氏が滅んだ1185年、43歳)に正二位に叙されている。
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彼女らが最高位かと思ったらまだ上がいて...文徳天皇の女御で 清和天皇の母・藤原明子は天安二年(858)に、また藤原道長の正室源倫子は娘の彰子が敦成親王(後一条天皇)を産んだ寛弘五年(1008)に、それぞれ従一位に昇叙している。官位など愚劣と思うけれど、探せば他にもいるかも知れない。
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さて...田代信綱は深く信仰していた観音菩薩の画像を鎧に入れて出陣するのを習慣にしており、歴戦を生き抜いた加護の恩に報いるため観音堂の創建を発願した。奥州合戦後の建久三年(1192)、辻堂にあった観音堂と千手観音像を鎌倉比企ヶ谷(妙本寺山門の南側付近か)に遷し、尊乗上人を開山として白花山田代寺を創建した。千手観音の胎内には護持佛の観音画像を納め本尊とした経緯から「田代堂」と呼ばれていた、と伝わる。後に田代堂は数回の合併と移転を繰り返し、現在の祇園山安養院田代寺となった。この変遷の経緯はかなり複雑で判りにくい。
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  ※尊観上人: 暦仁ニ年(1239)~正和五年(1316)の浄土宗の高僧。資料に拠れば下総国鏑木郷(旭市)出身で 北條義時 の二男で名越流北條氏の
祖になった 朝時(母は 比企朝宗 の娘)の二男としているが諸系図の二男は何れも時章だし、朝時の息子の中で僧籍は園城寺別当に任じた公朝(養子・実父は姉小路実文)だけらしい。朝時の子云々は同名異人か、尊観が朝時の本拠である名越邸の近くに善導寺を建立した事実から派生した誤解だろう。
尊観は良忠(浄土宗の高僧)の弟子となって善導寺を建立し名越流念仏教派を広めたが、良忠の没後はご多分に漏れず多くの派閥に分かれ、それぞれが正当性を主張し始める。数冊と伝わる著書は失われ、尊観からの口伝を教義として著述している。墓所は安養院。

左:北條名越邸があったと推測される材木座の弁ヶ谷    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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※名越邸: 大町と浄明寺を結ぶ釈迦堂口切通しの南上(地図)とされていたが、平成20年の発掘調査で
鎌倉時代末期の寺院跡と判明、地図の「名越邸跡」も「大町釈迦堂口遺蹟」に改められた。
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そもそも釈迦堂口は「名越」じゃないし、切通しの上は幕府の権力者が邸宅を構えるような場所でもないし、三代執権の 北條泰時 が父の 義時を弔う釈迦堂を建てたのが始まりとの伝承が地名の元になっている。そんな事ぐらい史料を普通に読めば判るのに、ね。
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現在では材木座4丁目の通称・弁ヶ谷(地図)に名越邸があったと推定されている。弁ヶ谷には美智子上皇后の実家正田家の別荘もあったが相続に伴う物納では分譲住宅街に姿を変えた。
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千葉氏の実質的な開祖である 千葉介常胤 の屋敷があり、 「介(国司の第二位)」 の唐名である別駕(べつが)と呼んだのが「別駕の住む谷」→ 「べんがやつ」に転訛した、とのこと。
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嘉禄元年(1225)、北條義時頼朝 の菩提を弔うため笹目ヶ谷(現在の長谷一丁目、文学館付近)に願行上人を開山として祇園山長楽寺を建立した。
直後の7月に政子が没したため長楽寺には政子を祀ったのだが、元弘三年(1333)の幕府滅亡の合戦に伴う兵火で長楽寺の伽藍が焼失、同じ様に焼失した名越の善導寺跡に移転して合併し、安養院(政子の法名・安養院殿如実妙観大禅定尼を転用)と称して...
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この安養院も延宝八年(1680年・徳川五代将軍綱吉の頃)に火災で焼失し、比企ヶ谷にあった田代寺を現在の大町に移して「安養院」とした、らしい。
そう言われれば確かに安養院から妙本寺山門までは400mそこそこの距離だ。
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信綱の観音絵像に祈った縁で頼朝と政子が結ばれた(また筋の通らない話が...)伝承から良縁観音、頼朝の覇権に寄与した信綱の功績から昇竜観音とも呼ばれている、とか。

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右:「殺し屋」天野遠景は狩野川西岸の出身    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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天野遠景 は藤原南家の系統で工藤氏の傍流、母親も狩野一族の出身らしい。詳しく調べると錯綜している部分もあるが、要するに伊豆の狩野川左岸に土着した工藤氏系の武士で、妻は狩野氏の棟梁 茂光 の娘。
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頼朝 が挙兵した際には中伊豆地域の武士が何人も参加しており、天野遠景も弟の光家と共に従軍した。
伊豆長岡最南部の狩野川に沿った山裾に墓所が残り、位牌は近くの東昌寺に残っている。
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代々の所領である天野御厨(左大臣有仁親王の所有)の運営権を相続し、内舎人(うどねり、官職の一つ)に任官していた経緯から天野藤内(藤原氏による内舎人の意味)を称した。天野郷が韮山に近かったため頼朝との接点も多く、挙兵当初から参戦し平氏追討の際には 源範頼 と共に中国から九州まで転戦している。
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久寿二年(1155)には 足立遠元 の養子になって武州足立郡の領家職を譲られおり、頼朝が伊豆に流された栄暦元年(1160)から遠元と頼朝を仲介する立場にあった、らしい。遠元は平治の乱では 義朝 に従って戦った源氏譜代の臣で、頼朝側近の 安達盛長 は(年下だが)遠元の叔父にあたり、頼朝の死後は 頼家 の訴訟決裁権を剥奪した宿老13人による合議制のメンバーにも加わっている。
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平家滅亡後には九州惣追捕使に任じていた 義経 が豊後の有力在地武士と接近する動きを見せたため頼朝は義経追討の院宣を獲得し、義経探索の名目で全国の守護・地頭の設置を 後白河法皇 に認めさせた。義経は奥州へ逃げ、頼朝は後任の九州惣追捕使に天野遠景を任命している。遠景は肥前国の鎮圧や平家残党の追討などに功績を挙げ9年間も九州で活動していたが、後に荘園領主とのトラブルなどが頻発し、解任されて鎌倉に帰った。
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晩年は積年の不満が重なっていた様子で、死没した年には頼朝挙兵以来の功績を列挙し改めての恩賞付与を求め、吾妻鏡は一行の記載で彼の求めを片付けている。これが吾妻鏡に遠景の名が現れた最後で、間もなく死没したらしい。
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遠景の嫡子 政景 は承久の乱での功績で長門国守護職に補任され、遠江国山香荘(浜松市の二股町周辺)の地頭にも任命されている。この頃の一族の所領は武蔵・上野・遠江・美濃・河内・安芸・長門の各国に点在しており、遠景が最も恵まれていた時期だった筈なのだが、実際にはいべて嫡子の政景が牧氏&時政の失脚(1205年)や承久の乱(1219年)で挙げた功績による恩賞だった。
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【 吾妻鏡 承元元年(1207) 6月2 日 】
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     天野民部入道蓮景が 執権義時 宛に願状を提出。治承四年の山木合戦以来の功績を11ヶ条挙げて恩賞を望む内容で、大江廣元 が受理した。
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天野遠景は「殺し屋」とも評される血塗られた生涯を送っている。頼朝の命を受けての
上総廣常 暗殺、同じく甲斐源氏の嫡男 一條忠頼 の暗殺、北條時政 の指示による 比企能員 の暗殺など、吾妻鏡や北條九代記に載っているだけでも三つの重要な殺害事件に関与している。


左:頼朝挙兵を側面から支えた渋谷重国   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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渋谷氏は平安末期に渋谷荘(現在の綾瀬・大和・藤沢市、吉田荘とも)を本拠にした秩父平氏の支族。
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武蔵国橘樹郡河崎荘(勧修寺領)を支配した秩父重綱の弟・基家が高座郡渋谷荘を与えられ、河崎荘を継承した嫡子重家の子・重国が渋谷荘に土着して渋谷庄司を名乗ったのが最初となる。渋谷荘の在地領主は渋谷氏だが領家(名義上の荘園領主)が誰かは判っていない。
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渋谷荘の中心となった現在の早川城址(地図)は室町時代~戦国時代の遺構で、土塁や空壕の残る起伏に富んだ自然公園となっており、残念ながら平安時代末期の雰囲気を伝える雰囲気はない。
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和田合戦(1213)に敗れて零落した渋谷氏は僅かな勢力のみをこの地に残していたが、宝治合戦(1247)で北條氏に味方した功績により繁栄を取り戻し、恩賞で得た薩摩の新領に移った。一族の支流は薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏となって血脈を伝えている。
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秩父平氏の 重国 は源氏より平氏との接点が深かったが、源氏との縁もそれなりに確保していた。平治の乱(1160)に敗れ所領の近江国蒲生郡佐々木荘を奪われて 藤原秀衡 に嫁していた伯母の縁故を頼りに奥州へと逃げる 佐々木秀義 と四人の息子を庇護したのが 頼朝 と接点を持つ最初となった。この時に長男定綱は17歳、末子高綱は満1歳前後。秀義は重国の娘婿として五男の 義清 をもうけ、頼朝挙兵までの20年間を渋谷荘で過ごすことになる。
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佐々木秀義の当初の妻は源為義義朝の父)の娘。秀義は保元の乱では為義、平治の乱では義朝に従って参戦しているから、平家が政権を掌握している限り本領を回復する見込みはない。秀義は早くから四人の男子(定綱経高盛綱高綱)を頼朝に臣従させて失地回復の機会を窺った。
治承四年5月の源三位頼政 の挙兵後に出された諸国の源氏追討令に伴う 大庭景親 の頼朝追討計画は、長男の定綱を経由して頼朝に届いている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月9日 】  頼朝挙兵の8日前
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大庭景親が佐々木秀義を招いて語った。「在京の際に 藤原上総介忠清が長田入道から届いた書状の内容を教えてくれた。北條四郎時政 と比企掃部允らが頼朝を大将に謀反を計画している、源氏の始末を考えねばならない。」との内容だった。あなたは源氏と縁のある者だから話すのだが、あなたの息子たちは頼朝に与している。これには注意したほうが良い」 と。秀義は内心の驚愕を抑えて館に戻った。
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【 吾妻鏡 同年 8月10日 】  秀義は嫡男の定綱(宇都宮におり先般渋谷に入った)を頼朝の許に送り景親が話した内容を伝えた。
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  ※藤原忠清: 平家譜代の家臣で 重盛 の嫡男 惟盛(維盛)の乳父でもある。一時期に罪を得て上総に流されていた関係で東国の情勢を警戒していた。
以仁王 追討 ・ 富士川合戦 ・ 一ノ谷後の三日平氏の乱などに転戦し、壇ノ浦で平家が滅びた後に志摩で捕獲され斬首された。
石橋山合戦に敗れ安房に落ちる舟の中で 和田義盛 が頼朝に向かい 「勝利した時には侍所別当に着任を」 と願ったのは東国の武士を統括する任にあった忠清を羨んだのが伏線だった、と伝わる。
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  ※長田入道: 確証は乏しいが知多で義朝を謀殺した 長田忠致 と推定されている。治承四年(1180)10月に甲駿国境の鉢田(波志田)で甲斐源氏と
戦い、駿河目代の橘遠茂らと共に殺されている。
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  ※比企掃部允: 比企尼の夫で頼朝の乳父にあたる。妻と共に流人頼朝の保護に尽力したが、この時は既に死没している。長田入道の情報は古い!
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頼朝が惨敗した石橋山合戦では、渋谷重国は佐々木秀義および秀義の五男義清と共に大庭景親率いる平家軍に加わっている。これは 畠山重忠 らと同様に平氏へ義理立てを済ませた上で勝敗の帰趨を判断し、一族の衰退を防いだ「保険」の意味が大きい。頼朝の鎌倉入り後に敵対した罪を許され、義清は後に近江国守護として本領への復帰を果たしている。


  その伍 韮山周辺に残る北條氏所縁の史跡  


狩野川の風景

    守山の麓を流れる狩野川。伊豆長岡駅に近い千歳橋の少し上流から撮影した。中央の独立峰が守山で、狩野川はその左を流れ下る。
    守山の左奥が北條邸跡、川を挟んだ左岸に義時邸の跡と北條寺。今では川岸に遊歩道、河原にはグラウンド・・・どこの川にも見られる風景が続く。




 
右:頼朝の夢か、時政の夢か。 天守君山願成就院    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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NHKが1979年に放映した大河ドラマ「草燃える」から43年後に再び舞台になった伊豆。まぁ「鎌倉殿の13人」はド素人の人気を狙った愚策だけどね。いづれにしろ最初の舞台が守山の東麓の願成就院(高野山真言宗)周辺。平安末期~鎌倉時代を描いた物語には必ず登場する、記念碑的な存在である。
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吾妻鏡は北條時政 が奥州征伐の大願成就を祈って文治五年(1189)6月に上棟」と書いているが、本尊を含む諸仏の造像は三年前の文治ニ年 (1186) 5月3日に 運慶 が着手(異説あり)している。頼朝とか奥州征伐とかは「陪臣の立場を慮った建前」で、実質は時政が北條一族の繁栄を祈った氏寺の建立だろう。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189 ) 6月6日】
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北條時政 は奥州征伐の成功祈願のため伊豆国北條に寺の造営を計画した。願成就院と名付け、日取りが良いこの日に柱を建て上棟式を行なった。本尊は阿弥陀三尊であり、不動明王と多聞天の像は既に造り終えている。時政は北條に出向き周到に準備を済ませた。北條は田方郡内にあり、南條と北條と上條と中條が境を接している。先祖の事跡を尊んで寺の姿を整えたものである。
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時政が文治五年(1189)に大御堂を、承元元年(1207)に南塔を建てた。後継の二代執権 義時 が時政没後の建保三年(1215)に南新御堂を建て、三代執権 泰時 が嘉承元年(1235)に北塔(現在は痕跡も不明)を建てた記録が残っている。50年以上を費やして壮大な堂塔群と庭園が完成したが、時政も義時も完成した願成就院の姿を見る事はなかった。現在の山門左手には創建当時の南塔礎石だけが残っている。
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  ※南塔建立: 時政は元久二年(1205)閏7月に失脚、政子と義時に全権を奪われ韮山隠居となった。その2年後に南塔建立を差配したとは考えられず、
後継義時の整備事業だろうが、時政が残った権限の範囲内で南塔建立の限定的な自由を認められた可能性はある。
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韮山挙兵から25年後の元久二年(1205)、老境に入った鎌倉幕府の執権時政は三代将軍 実朝 を廃して後妻の 牧の方 が産んだ娘の婿 平賀朝雅 を次期将軍にしようと画策し、先妻の息子 義時 と娘の 政子 連合との政争に敗れて隠居し10年後に韮山で世を去った(この事件に隠された真実は別項で)。
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【 吾妻鏡 建保三年(1215 ) 1月8日 】
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伊豆国の飛脚が去る6日戌刻(20時頃)に入道遠江守従五位下平朝臣時政が北條で死没と報告。享年七十八、日頃から腫物を患っていた、と。

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左:中尊寺本坊西隣の峯薬師堂(願成就院)    画像をクリック→ 詳細ページへ
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平泉中尊寺の峯薬師堂も願成就院を名乗っている。本尊は金箔に覆われた薬師如来坐像、眼を守り眼病に効能あり、とされる。横の池には天然記念物のモリアオガエルが棲息している。
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韮山の願成就院には特別な意味がありそうだ。時政が「成就を願った」のは何か...頼朝は源氏再興と天下に号令する夢を達成して早世した。陪臣の時政もまた覇権を夢見た筈で、韮山の弱小土豪に過ぎなかった人物が次々と政敵を滅ぼし幕府の実権を手中に収めていく。更に二代執権 義時 と 五代執権 時頼 は更に強力な北條得宗の独裁体制の実現を目指して多くの策略を巡らした。
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宝物館は30代の運慶が彫ったと伝わる阿弥陀如来坐像、不動明王と二童子立像、昆沙門天立像(全て国宝指定)を収蔵している。
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昆沙門天立像の胎内から見付かった銘札に 「文治二年(1186)5月3日に北條時政発願により仏師運慶が造像を始めた」 旨の記載があり、一方で吾妻鏡の文治五年(1189)6月6日に 「願成就院本尊の阿弥陀三尊と不動明王と多聞天の像は既に造られ準備されている。」 との記載がある事と併せて運慶の作として国宝に認定された。山門内は見学自由、宝物殿の拝観のみ300円。
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  ※運慶の作: 昆沙門天像胎内の銘札が江戸時代の修理の際に取り出されていた事、銘札と仏像を結びつける直接の資料がない事などから国宝指定に
否定的な意見もある。個人的には 作風に稚拙な部分がある事、文治二年当時は父の康慶が現役の大仏師として南都興福寺の造仏を指揮していた事、運慶の作だと仮定しても当時は30代前半の小仏師に過ぎなかった事、などから国宝指定は安直に過ぎると考える。
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  ※小仏師運慶: 建久五年(1194)と六年に再建した東大寺南中門二天像の造像記録に「小仏師運慶」の名がある。建久七年には大仏師としての記述は
見えるが願成就院の造仏に携わっていた8年前には間違いなく小仏師で、「運慶なら国宝」は短絡に過ぎる。併せて気になるのは、2013年の 「日展入選騒動」 のように、文部科学省外郭団体に腐敗と硬直が見られること。学閥も閨閥も同様に互助体制を生む既得権だからね。芸術やスポーツの分野だけならまだマシだが、政治の世界まで蔓延している日本の未来はかなり暗い。

右:義時の墓所と時房系の墓所 北條寺      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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北條館跡から見ると狩野川の対岸(直線距離で600m)、大男山(207m)北東の広い山裾が巨徳山北條寺である。願成就院に比べて知名度も低く交通の便も悪いため観光客は少ないが、鎌倉臨済宗 建長寺(公式サイト)の末寺で二代執権 北條義時 の謂わば氏寺みたいな存在だから、歴史ファンなら見逃せない。徒歩の場合は狩野川に沿って北に迂回し松原橋を渡って伊豆長岡町へ、総計約2kmも歩くのは辛いのだが参拝者用の広い駐車場を備えているから、車での訪問も安心だ(地図)。
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本堂左の山裾に広がる墓地から小道を登ると丘の上の墓地に二代執権義時夫妻の墓、更に奥には義時の腹心として数々の功績を挙げた弟 五郎時房 の墓(時房流北條家累代の墓所)が見られる。樹木の隙間から狩野川を挟んで北條館の西側が眺められ、寺の400m北東に義時の館跡が遠望できる。
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北條寺の寺伝に拠れば、治承年間(1177~1183)に義時が建てた真言宗の観音堂が始まりで、時政の長男 宗時 が戦死して義時が嫡男となった治承四年(1180)と前後する。時政が幕府の実権を握った正治二年(1200)に義時が 運慶 に依頼して阿弥陀如来像(約70cm・国の重文)を彫らせ、観世音菩薩坐像(約50cm弱・県指定文化財)を本尊として巨徳山北條寺と改めた。
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明応九年(1499)に鎌倉建長寺の末寺となり臨済宗に改宗、伝・運慶作の阿弥陀如来像や政子が寄進した牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)が寺宝であり、江戸時代には伊豆八十八ヶ所霊場の十三番札所となった。
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  ※伊豆八十八ヶ所霊場: 湯ヶ島に近い月ヶ瀬の嶺松院を発って福地山修禅寺で結願する。修行時代の 空海(弘法大師)が巡幸した伝説は物証がないし、別な場所にいた記録も
残っているため単純に信用できないが、少なくとも四国を巡礼するよりは手軽なルートである。
詳細は 伊豆88遍路(紹介サイト)を参照されたし。
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治承四年の 頼朝 挙兵直前に 八重姫 が入水自殺したのは500m南の古川と狩野川の合流点だから、彼女は夫である義時の館から直線で1kmの真珠ヶ淵に身を投げたことになる。前夫の頼朝が既に政子と同棲していた北條館もすぐ近く、男と女の間にある暗くて深い狩野川...なのかも(笑)。
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ただし一説には南北朝時代の創建で当時は宝城寺と称した、阿弥陀如来像は鎌倉時代初期の慶派仏師の作ではある。観音菩薩像は南北朝期の作だから、ひょっとしたら義時時代の観音堂を原型として後世に再興された、のかも知れないし、北條寺という名称も作為的だと言えないこともない。

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左:北條寺の北東200m、伝・義時の館跡     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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江間小四郎(小次郎)と名乗った若い頃(頼朝挙兵以前)の館か、あるいは時政嫡男として権勢を得た時代の館跡か。詳細を語る資料はないし、江間地区に残る伝承も時系列から判断すると整合性は乏しい。
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北條義時 の誕生は長寛元年(1163)、父 時政(保延四年・1138年生誕)が25歳の時に産まれた二男。
頼朝挙兵に従った治承四年(1180)には満17歳、伝承で彼の長子だったとされる安千代丸が地場寺(現在の北江間千代田団地)に通った年齢を六歳と仮定すれば、義時が元服前の11歳で産ませた事になり、常識的にはあり得ない。
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治承四年の時点では時政から江間郷の一部を継承して地味な生涯を送る筈だった義時の運命は、長兄 宗時 の戦死で大きく潮目が変わった。頼朝に次ぐ権力者時政の嫡男となり、やがては二代執権を継承して鎌倉幕府の実権を掌握するまでに登りつめていく。宗時さんは運がなかった...本当に残念だったねぇ。
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頼朝に従って鎌倉に入った後は時政も義時も(殆ど全ての御家人たちも)新設の大蔵御所(雪ノ下三丁目の清泉小学校付近)から遠くない鎌倉市内に拠点に駐在ており、義時は江間の屋敷には住んでいない。従って義時の嫡子・安千代丸が学問のため北江間の地場寺(地図)に通っていたとしても、安千代を襲った蛇を江間に常駐していない義時が射たとの伝承の信頼性はゼロと言えるだろう。
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ただし、この事件は何かの「比喩」かも知れない。義時の嫡子が「蛇に襲われて死んだ」というあり得ない事件、北條の紋は龍の鱗のデフォルメで龍の根源は蛇だから、北條一族にに害を与える存在ではない。蛇に襲われたとは川で溺れ死んだ事を意味するのか、更に頼朝と八重姫の間に産まれた千鶴丸が「生き延びたかも知れない」伝承、頼朝が義時の嫡子金剛(元服して頼時(烏帽子親は頼朝)、後に泰時に改名)を溺愛し「他の御家人とは違う」と公言していた事実...歴史の闇かも知れない物語が少しだけ見え隠れする。
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  ※北條の三つ鱗紋: 時政が江ノ島弁財天に参籠して子孫繁栄を祈った最終日の夜、夢に美女が現れて繁栄を予言し、「道を踏み外せば一族滅亡を招くから心せよ」と告げた。
翌朝に眼を覚ますと大蛇(龍?)の鱗が三枚落ちていた。これが三つ鱗紋の始まり、と伝わる。

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右:ついでに、時宗の庶子・正宗が建立した成福寺     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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願成就院の北300mほどに北條家廟所の成福寺がある。NHKの大河ドラマで脚光を浴びた八代執権 時宗 の三男で庶子の正宗・幼名満市丸が父の遺志を継いで正応二年(1289)に建立した古刹である。
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寺伝には 「伊豆在庁官人だった 平時家 (wiki) あるいは時方(時政の父?)の庁舎にあった持仏堂の跡に建立した」とある。北條時政が時家または時方の係累だったのは事実だがそれ以前の系譜は不明確で、少なくとも平直方の直系子孫ではない。権力者に成り上がった小土豪の経歴詐称と考えるべきだろう。
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元寇の終結後わずか三年で没した時宗の遺志とは、元寇の役に於ける両軍の戦死者16万余人の菩提を弔う事だった。戦後の正宗は剃髪して浄土真宗の僧となり、時宗の遺骨の一部を鎌倉から持ち帰って成福寺に納めた。以後代々の住職は北條氏を名乗り、一族歴代の菩提を弔っている。
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本堂右手奥の墓地には北條家廟所と並んで時宗の墓、側室だった正宗の母(潮音院殿覚山志道尼)の墓、そして正宗の墓が並んでいる。時宗 の正嫡は葛西殿(北條重時 の娘) が産んだ九代執権 貞時 のみ。正宗の名は系図史にも載っていない。
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  ※覚山志道: 父は 安達義景 で生母は 北條時房 の娘。霜月騒動で安達一族の多くが殺された際には身命を賭して幼い子等を救って後の復権につなげ、縁切寺の名で知られる
鎌倉東慶寺(公式サイト)を開いた女性である。幕府と共に北條一族が滅亡した際には生き残った女たちを連れて韮山の邸を尼寺に改め一族の菩提を弔った事は北條時政邸跡の項でも紹介した。東慶寺の歴史 (wiki) を参照されたし。
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正宗は16歳で出家して韮山に移り、北條時政の持仏堂を整備して成福寺と名付けた。もちろん同名の鎌倉子袋谷(大船)の成福寺(開基は三代執権泰時の子・泰次)とは無関係。現在の住職は正宗から数えて二十一代目の北條親善師、初夏には先代の秀門師が丹精した蓮の花が美しい。

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左:源氏山の麓、五代執権時頼の墓が残る最明寺    画像をクリック→ 詳細ページへ
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伊豆長岡の源氏山公園南端の山裾に鎌倉幕府五代執権 北條時頼 の墓が残っている。三位頼政 の妻・菖蒲御前が生まれた「右近衛屋敷」に近いエリアだ。韮山から伊豆長岡温泉街周辺には北條一族の墓が幾つも造られていて(まぁ出自の地だから当り前かも知れない)、この時代に興味がある人にとっては聖地みたいな場所だ。殆どは鎌倉との分骨、と推定されるのが少し物足りない、けれども。
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願成就院に近い成福寺には大河ドラマで知られた八代執権 時宗 の墓、伊豆長岡の源氏山公園の下には五代執権時頼の墓、願成就院には初代執権 時政 の墓、北條寺には二代執権 義時 の墓(弟 時房 の墓も)、全て合わせると執権4人の墓がある。
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出自の地を想う一族の意思があったのか、あるいは地域の偉人を顕彰する意味合いが強かっただけなのか。伊豆出身で全国的に知られた人物は江川太郎左衛門ぐらいかな...時頼は「伊豆から出た時政の子孫」に過ぎないけど、郷土にとっての偉人かも知れない。
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ちなみに、時頼の墓は鎌倉の明月院(東慶寺の向い側で旧最明寺の跡)に、時宗の墓は鎌倉の円覚寺に、義時の墓は「頼朝 の墓所近くに葬れ」との遺言に従って、頼朝の墓に近い東の山に葬った(実際には「三浦やぐら」前の平場にあった法華堂が墓所だった)。
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  ※県民性について: 熱海に住むまで知らなかったけど、静岡県の地域性を表す言葉として「伊豆は餓死、駿河は乞食・遠州は泥棒」の言葉がある。危機でも争いを嫌う伊豆人の
優しさを表現したのだろう。北陸には「越前は詐欺、加賀は乞食、越中は泥棒」との言葉もあるし、各地各色の表現は面白いね。
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【 五代執権北條時頼について 】
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幼名は戒寿、三代執権 泰時 の孫で 時氏 の次男。生涯は安貞元年(1227)5月~弘長三年(1263)11月、執権在職は寛元四年(1246)~建長八年(1256)。幼少から聡明の誉れが高く、泰時にも高く評価されていた。一応書いておくけど、吾妻鏡は全巻を通して北條一族 (特に嫡流) 礼賛に満ちている事をお忘れなく。
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寛元四年(1246)に病気に倒れた兄の 北條経時 に代って執権職を継ぎ、義時の孫 北條(名越)光時 の反乱を鎮圧した。同時に反執権勢力を一掃すると共に退位後も影響力を保っていた四代将軍 藤原頼経 を京都に送還、後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王 を擁立して執権の地位を磐石にした。翌・宝治元年(1247)には有力御家人の三浦一族を滅ぼし、歴代執権の中でも実力と功績が高く評価されている。個人的には大嫌いな権力亡者の一人。
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病を得て建長八年(1256)に北條長時 に職を譲って出家し最明寺入道と名乗ったが引退後も影響力を持ち続けた。建長三年(1251)に嫡男の時宗が生まれたため元服後に執権とする意図があった、と言われている。これがその後のいわゆる「北條得宗専制政治」の始まりとなった。
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能や謡曲で知られた鉢木(はちのき)は時頼が執権を退いた後の廻国伝説を基にして、下野に住む貧しい老武士・佐野源左衛門尉常世との触れ合いを描いているが、これはもちろん完全なフィクションである。唐沢山城址と藤原秀郷の墓所 の末尾に現地 (と称する佐野市の郊外) 訪問の記録を載せてある。


 その六 土肥(湯河原)を経て石橋山の合戦へ 

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右:現世と来世を結ぶ冥土の入り口、日金山東光寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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近隣の武士を集めて 頼朝 の軍は総勢300余騎、8月20日に函南の平井(ルート地図の②)を経由して現在の十国峠に近い日金山東光寺(同じルート地図の)を越え、源氏に味方する相模の中村党および三浦党の主力と合流するために相模国土肥郷(現在の湯河原町一帯)を目指した。
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22日に土肥郷を支配下に置く 土肥實平 の館(現在の湯河原駅から裏手の城願寺にあったと伝わる)に入り、翌23日には土肥郷から8km北の石橋山に布陣した。谷を挟んだ北側には 大庭景親 率いる平家軍3000騎、。南側には 伊東祐親 率いる300騎が退路を塞ぐ形で迫る。折からの台風で伊豆から相模にかけての一帯は激しい風雨に見舞われていた。
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【 日金山東光寺に伝わる縁起 】
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その昔、第十五代応神天皇二年(271)の四月に相模湾の波間に神鏡が現れ、上陸して西の峰に飛び去った。その姿が日輪の様に火を吹き上げて見えたため「日金山」と呼んだ。
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その神鏡を祀る御堂を 松葉仙人 が建立した、それが東光寺の開創と伝わっている。万葉集に詠われている 「伊豆の高嶺」、吾妻鏡の「光の峰」 が日金山を指す言葉である、と。また平安末期の今様を集めた梁塵秘抄にも 「四方の霊験所は、伊豆の走湯・信濃の戸隠・駿河の富士の山・伯耆の大山・丹後の成相・土佐の室戸・讃岐の志渡の道場とこそ聞け」 と歌われ、霊地としての存在が広く知られた。
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  ※四方の霊験所: 伊豆の走り湯は伊豆山温泉の山裾に吹き出る源泉(伊豆山権現の中段を参照)、信濃の戸隠は戸隠神社、霊峰 富士、 伯耆の大山は中国地方の最高峰
丹後の成相は西国第28札所の成相山成相寺、土佐の室戸は四国遍路道、讃岐の志渡は86番札所の 補陀洛山志度寺屋島合戦場(別窓)の近く)。
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伊豆韮山に流された頼朝は伊豆山権現の僧覚淵に師事して仏典の教導を受けていた。挙兵した韮山から平井(函南)を経て伊豆山に下るルートに建つ日金山の本尊に源氏の再興を祈願し、願が叶って鎌倉に幕府を開く際に寄進したのが本尊の地蔵菩薩像だったが、本物は既に東光寺から失われている。
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日金山は仏教以前の山岳宗教時代から 「伊豆地域の亡者が集まる霊山」 として崇められていた。死者の霊は賽の河原に見立てられた参道を進み、脱衣婆に衣を剥がされ閻魔王の裁きを受ける。そして地獄に落ちるべき亡者の魂を慈悲によって救済するのが地蔵菩薩である。

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左:熱海から函南に向う熱函道路、丹那付近の風景    画像をクリック→拡大表示
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伊豆東海岸の熱海と沼津・三島方面を結ぶ主要道として1973年に開通し、1997年に無料化(直前は300円)された。それまでは十国峠に近い熱海峠(標高630m)を経由する旧街道(つまり 頼朝 が韮山から土肥(湯河原)へ進軍したルート)で、熱海からの道は傾斜のきつい登り・函南への下りは狭い上カーブが多く、特に冬季の積雪で再三の通行止めも発生していた。無料開放後の熱函道路は小田原から国道1号(東海道)で箱根峠を越えるより傾斜が緩やかで、距離も短いため交通量が飛躍的に増えている。
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> 熱函道路開通以前の旧道は西側から丹那盆地の北側を通って軽井沢を経て十国峠(日金山)へ登るルート。途中には田代信綱の砦跡もある、奈良時代から使われた雰囲気の良い古道である。
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首都圏に近い温泉地・熱海は、暮らしやすい街とは言えない。全般に物価が高い上に公共施設が貧弱だし、道路は狭くて坂が多い。財政危機の影響もあって公共料金(水道料金など)や固定資産税は近隣市町村よりも明らかに高いし、観光産業優先で一般住民への気配りが欠けるなど、行政にも問題点は多い。最近は少しづつヤング層やファミリーの観光客が増えてきたのが良い傾向だろうか。ただし首都圏に近すぎて宿泊に結びつかないのが悩みらしい。
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ガソリンスタンドは全て、周辺市町村よりも確実にリッター15円ほど高い。国道135号沿いで熱海の南北に位置する湯河原と伊東の方が遥かに安いし、西隣の函南も同様だ。ガス欠の危険がない限り、観光客には熱海のスタンドを素通りするよう勧めたい。
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近年は海岸沿いの大型ホテルが軒並み閉鎖して高層マンションに建て替わり、ちょっとアンバランスなリゾート地に生まれ変わりつつある。

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右:南熱海から大仁へ抜ける山伏峠      画像をクリック→詳細ページへ
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山伏峠は大仁と南熱海の多賀を結ぶ峠道。最近は道巾も広がって一段と通りやすくなった。
頂上付近には伊豆スカイラインのインターチェンジ(無人)もあり、峠を吹き抜ける風に乗ってパラグライダーで空を舞う パラフィールド の営業所と離陸地点もある。その着地点の一つが前に紹介した函南の観光スポット 酪農王国オラッチェ(別窓)のすぐ近くにあるから、そこで空を眺めながら散策するのも面白い。
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山伏峠の由来は不明だが、箱根から日金山の霊地で栄えた山岳宗教の山伏に関わる伝承を引き継いで命名した可能性もあろうか。
同じ名前の峠は日本全国に数多く散在しており、埼玉の飯能と秩父の横瀬を結ぶ峠や岩手の和賀町(頼朝 の第一子 千鶴丸 が隠れた伝承あり)と雫石を結ぶ峠などが高名である。行楽シーズンのピークでもこの峠道は混雑しないから、国道135号を離れて中伊豆方面へ抜けるには一押しのルートとなる。
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熱海側から登ると頂上近くからは伊豆大島や三浦半島、天候に恵まれれば直線で80km近く離れた房総半島まで展望できる。更なる展望を求めるならスカイラインに入って玄岳IC先の滝知山駐車場(地図)へ、展望を極めるなら玄岳ICの駐車スペースから玄岳頂上(798m)まで約1kmの緩やかな尾根道を歩く素晴らしいハイキングコースになる。
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峠のすぐ大仁側にある宗教法人 世界救世教(公式サイト)が経営する自然農法の MOA農園(公式サイト)や広大な森林の広がるグリーンランド大仁(伊豆の国市と合併する前は 大仁町民の森(参考サイト)など、休日にはのんびりと楽しめる施設が広がっている。県道80号沿いの浮橋地区(地図)では毎年12月初旬に開く「新そば祭り」が人気で、バス便が少ないため駿豆線の大仁駅からタクシー相乗りで駆けつける高齢者も多い。
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世界救世教は 出口王仁三郎(いでぐち・おにさぶろう)が開いた大本教の理念を引き継いでいる。わが青春時代のバイブル「邪宗門」(高橋和己著)が描いた新興宗教「ひのもと救霊会」のモデルとなった 大本教(公式サイト)を原点に持つ。現代の新興宗教の殆どが大本教あるいは開祖の出口なお&聖師の出口王仁三郎の影響を強く受けている。純粋な理念からスタートした宗教も拡大に比例して腐敗が進み、組織の維持と保身を目的にした俗物集団に変質する。
そう、創価学会が絵に描いたように醜悪な典型例 と言うべきだろうね。

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下:昔日の土肥郷、JR湯河原駅前の風景
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     左: 湯河原駅前に立つ 土肥實平 夫妻の銅像。實平はもちろん、妻の方も追討の兵を欺く尼僧姿で山中の頼朝に食料を届け>頼朝一行が小船で安房に向かった後は
戦況の詳細を三浦勢に伝えるなど大いに活躍したという。アップで見ると少しハーフっぽい美女だね(笑)。
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     中: 銅像横の土肥氏館跡石碑には「乾坤一擲」と彫ってある。出典は唐詩「乾(天)となるか坤(地)となるか、賽(サイコロ)を擲げ運を賭す」を意味する
言葉。項羽と劉邦が覇権を争った楚漢戦争(紀元前202年)の「垓下の戦い」で項羽を破った劉邦の決断を指す。劉邦は紀元前200年前後に活躍した
前漢の皇帝、ここでは地の利を生かして敗残の頼朝を救った土肥實平の決断を賞賛した、らしい。当時の日本はまだ弥生時代、現代中国はゴミだが、昔は偉大
だった。習近平は世界を制覇して皇帝になりたいらしいが (馬鹿だね、笑) 。文字部分の拡大を見たければ こちら で。
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     右: 毎年4月の第一日曜に催す「土肥祭」の武者行列(2010年、観光協会による写真)。湯河原高校生徒も役柄に応じた甲冑姿で参加し、駅前に並んでそれぞれが
名乗りを挙げる趣向だったが、2011年は東北を襲った地震と津波の被害に配慮して中止になった。
パレードは五所神社から館跡と伝わる駅前(旧字は「お庭平」)まで約800m、更に前は温泉街の観光会館から駅まで3kmを練り歩いていた。
当時を知る人の話では、「暑い日の場合はとても出陣の雰囲気ではなく、道の半ばで既に落ち武者の状態を呈していた」らしい。

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左:中村党創始者 中村宗平の館跡    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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現在の湯河原を本領とした 土肥二郎實平 は相模中村党に属する武者である。
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中村氏が称している系譜は、高望王(平高望)→ 平良文平国香 の弟・通称は村岡五郎)→ 平忠頼(村岡二郎)→ 頼尊→ 常遠(武蔵国押領使)→ 太郎常宗(笠間押領使)→ 中村荘司宗平 と続くが、宗平以前の記録は曖昧で常宗と宗平の親子関係を裏付ける史料も確認されていない。相模国西部に土着した豪族が周辺に支配地域を広げ、中村荘司宗平を名乗ったと考える方が妥当なのかも知れない。
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宗平は中村荘を嫡孫の景平に継承させて三人の息子を相模国西部一帯に扶植し、平安末期には現在の平塚西部から湯河原(真名鶴・土肥・箱根)までを支配下に収めた。早川荘は藤原摂関家領、ニ宮の河匂荘は八条院領だが、曽我荘と中村荘の荘園領主は判らない。
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中村宗平の子女と勢力範囲は下に記載、嫡男の太郎重平が早世したため中村宗家は徐々に衰退した。
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二男は実質的に中村党を率いた 土肥二郎實平 (小田原~湯河原~箱根を領有、本拠は土肥郷)、三男は土屋三郎宗遠(中村荘東の平塚市北西部)、四男は二宮四郎友平(中村荘南の二宮町一帯)、五男は堺五郎頼平(秦野と接する中村荘の北)、更に長女は岡崎義實(三浦義継四男の 大介義明 の弟)の室(佐奈田与一義忠の生母)、二女は 伊東祐親 に嫁して 河津祐泰伊東祐清八重姫工藤祐経 室の満江(後に土肥遠平 に再嫁)らを産んだ。
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   ※笠間押領使: 遠く離れた茨城県の笠間ではなく相模国笠間村(横浜市栄区笠間、大船駅の北西)。鎌倉中心部から巨福呂坂亀ヶ谷坂(共に別窓)を越えて大船駅手前の
粟船山常楽寺から港南台を経て横浜に通じる鎌倉街道(県道21号)が通っている。押領使はその地域の兵員を徴集して指揮する権限を持つ軍事の官職。平安中期以後は徐々に権威を失い名誉職的な扱いになった。
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   ※天敵鎌倉党: 宗平の父または舅の恒平(常平)は隣接する鎌倉党との合戦(領地争い)で 鎌倉権五郎景政 に討たれた。共に良文の子孫だが仇敵であり、頼朝挙兵の際に
中村党が頼朝側、鎌倉党の大庭・梶原・長江氏らが平家側に与したのは既得権の争奪戦でもあった。

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右:中村宗平の三男 土屋三郎宗遠の館跡 大乗院    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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中村宗平 の嫡子重平が早世したため中村氏の家督は重平の嫡子景平が継承したが、特に名を残してはいない。景平の弟 盛平は石橋山合戦以後の記録に名前が見当たらないため、戦死と推測される。
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> また挙兵直後に活躍した宗平二男の 土肥二郎實平 の名が見えるのは吾妻鏡の建久三年(1192)が最後でこの頃に没したらしく、その後の中村党は三男の 土屋三郎宗遠 と四男の二宮友平が担っている。
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宗遠は中村荘北東の土屋郷を領有して土屋三郎を名乗り、東に所領を接する 岡崎義實 の二男 義清 を養子に迎えて土屋郷を継承させた。現在の平塚市土屋、大乗院の建つ高台である(地図)。
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南西2kmに土屋氏菩提寺の芳盛寺(旧阿弥陀寺)、北東3kmには石橋山合戦で無念の戦死を遂げた 佐奈田与一義忠 の本領を守護する真田神社がある。頼朝挙兵の当初から従軍した中村党は源氏軍の中核として戦い抜き、謡曲などで知られた七騎落(土肥から安房へ落ちる頼朝主従)にも名を連ねている。メンバーは 土肥實平 ・ 子息の遠平 ・ 岡崎義實 ・ 新開忠氏安達盛長 ・ 土屋宗遠 ・ 田代信綱、もちろん七騎落そのものが源平盛衰記など軍記物の創作なのだが、頼みの三浦一族と合流できなかった頼朝が中村党の尽力によって生き延びたのは間違いない。
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  ※新開忠氏: 大里郡豊郷村(埼玉県深谷市)の土豪。この場合は忠氏の養子になった實平の二男・荒次郎實重を指しているらしい。
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【 吾妻鏡 承元三年(1209) 5月23日 】
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西浜(飯嶋と呼ぶ)付近で騒動があった。梶原家茂(景時の孫)が小坪浦に遊覧して帰る途中、和賀江島近くで兼ねて遺恨を受けていた土屋宗遠に出会って殺された。宗遠は直ちに御所に出頭して和田常盛(義盛嫡男)に太刀を渡し、その身柄は侍所別当の義盛に預けられた。
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【 吾妻鏡 承元三年(1209) 6月13日 】
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土屋宗遠が直訴状を提出した。私は 頼朝将軍 の時代から忠節を重ねたが家茂は謀叛人梶原景時の孫である。奉公と不忠が対等に扱われては我慢できぬ、と。 和田義盛 を介してこれを読んだ将軍 実朝 は「理屈に合わぬ主張なので処分すべきだが、故将軍の月忌に免じて赦免」 と言い渡した。
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土屋宗遠の生年は大治三年(1128)前後だから81歳ほどの老齢、推定22歳前後の家茂を斬殺したとは考えにくく、何らかの経緯が窺われる。この時の恩義もあって、建暦三年(1213)5月に起きた和田合戦では宗遠の嫡子義清以下の土屋一族が義盛挙兵に参加した。吾妻鏡の和田側戦死者名簿の中に「土屋の人々」として義清ら10人が載っている。大学助(義清)、同新兵衛、同次郎、同三郎、同四郎、薗田七郎、同太郎、同次郎、やきゐ太郎、同次郎。
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当初の宗遠には男子がいなかったため、岡崎義實の二男・義清を養子にして家督を継がせた。その後に実子の宗光・忠光らが産まれており、これは共に討死した名簿に含まれている次郎と三郎だろう。一族のその後は調べていないが、小田原から伊豆多賀に多く見られる土屋姓が子孫である可能性は高い。
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建保六年(1218)8月5日、土屋宗遠が死没。実朝の金槐和歌集(歌集) 下之巻 雑部に次の記載があり、宗遠をモデルにした数首が載っている。
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相模の土屋に住む90歳を過ぎた老法師が(鎌倉に)やって来た。昔話などして、立ち居振る舞いさえ辛いのを嘆いた。
~中略~    道とおし 腰はふたえに かがまれり 杖にすがりて ここまでもくる   趣のない、つまらない和歌に思えるけどなぁ...
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宗遠の来訪は和田の乱で息子全員を失った1213年から死没する1218年までの間、だろう。頼朝挙兵を助けた古武士たちも老境を迎え、時代は既に北條得宗の独裁となった。建永ニ年(1207)6月に不遇な晩年を嘆いた 天野遠景 が挙兵以来の功績十一条を挙げ、幕府に恩賞を願い出た姿を連想させる。

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左:中村宗平の四男 二宮四郎友平の館跡     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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二宮友平の館跡は吾妻山の東麓、浄土宗総本山知恩院の末寺・花月院知足寺(地図)一帯にあったと伝わっているが、既に旧蹟は失われた。奥まった墓地の一角に四基の自然石があり、向って左から友平嫡男朝忠(友忠)と正室の花月尼の墓、曽我十郎祐成五郎時致 の供養墓と伝わっている。曽我祐信 の先妻は 中村宗平 の娘で、曽我山を隔てて隣接していた両家は縁戚関係にあった。
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なんで曽我兄弟の墓がこの寺にあるかと言うと...曽我兄弟の生母 満劫(満江)狩野茂光 の三女、とされる。(ただし横山時重(横山時廣 の父)の娘とする説もある)で、最初に嫁した伊豆目代の源仲成(源三位頼政 の嫡男 仲綱 の乳母子)との間に一男一女を産んでいる。その男子は後に源信俊、京の小次郎と名乗って25歳の時に謀反の嫌疑で殺された。曽我の仇討の3ヶ月後、建久四年(1193)8月に吾妻鏡は一行のみ簡単に事件を記録している。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月20日 】
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   故曽我十郎祐成の同腹の異父弟である京の小次郎が追討された。参州(範頼)の縁坐である。
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もう一人の女子は二宮朝忠に嫁して夫の没後に花月尼を名乗り、知足寺を建てて朝忠と異父弟の曽我兄弟の菩提を弔った...との由来に拠る。
花月尼の(厳密に言えば同腹の)兄弟は4人。年齢順に書くと、京の小次郎と十郎祐成と五郎時致と禅司房である。花月尼夫妻+兄弟4人=六基の墓が知足寺にあれば、恵まれない生涯を送った兄弟4人には良い供養になったと思うのだが...残念ながら小次郎と禅司房の墓石は残っていない。
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本来なら仲綱に従って京に戻る仲成(初婚の相手)に同行する筈だった満劫は愛娘と孫を手離したくない茂光の願いを容れて伊豆に残り、伊東祐親 の嫡子 河津三郎祐泰 に再嫁した。もしも は無意味だが、彼女が夫に従って(息子を伴い)京に旅立っていれば「曽我の仇討」は起きなかった、かも知れない。
一方で娘を愛した父の茂光は...治承四年(1180)8月の石橋山合戦から逃げる途中の平井郷で伊東祐親の兵に囲まれて自刃、嫡子の親光も奥州合戦で討死している。
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【 吾妻鏡 治承四年年(1180) 8月24日 】
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頼朝勢は土肥實平 の意見に従い分散して落ち延びた。北條時政と 義時 は箱根を経て甲斐を目指し、時政嫡男の 北條宗時は桑原(現在の函南)に下り平井郷まで逃げたが早河の近くで 伊東祐親 の兵に囲まれ小平井名主紀六久重の矢を受け討ち死に、同行していた 狩野茂光 は歩行困難のため自殺した。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月9日 】
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夜になり、明日の早朝に阿津賀志山を越えて合戦を終わらせよとの命令が下された。ここで三浦平六義村葛西三郎清重、工藤小次郎行光(該当者は存在するが年代が不適合)、同三郎祐光、・狩野五郎親光藤澤次郎清近、河村千鶴丸(13歳)の七騎が密かに(前線の) 畠山重忠 の陣を通り抜け、阿津賀志山を越えて一番乗りを果たそうとした。 夜が明けてから大軍と共に行動したのでは功績が望めないと判断したためである。 ~ 中略 ~  七騎は夜を徹して山道を越え敵陣の木戸口に馳せ着いた。それぞれが名乗りを挙げ、泰衡郎従の部伴籐八らの強者と戦った。ここで工藤小次郎行光が一番乗りを果たし、狩野五郎親光が討死した
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  ※河村千鶴丸: 波多野義通 の実弟 秀高の四男で 河村義秀 の弟。頼朝挙兵の際に 大庭景親 に与した義秀は辛うじて死罪を免れ、彼の武芸を惜しんだ大庭景義 の尽力で
10年後の建久元年(1190)8月に罪を許されて御家人に列した。景義の庇護下にあった千鶴丸は阿津賀志山のに感激した頼朝から岩手郡の数ヶ所を与えられ、小笠原長清 を烏帽子親として元服し河村秀清を名乗っている。
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祐泰の横死後満劫はは遺児の一萬と箱王(後の曽我兄弟)と生後間もない幼児を連れて 曽我祐信 の後妻となった、それが花月尼が曽我兄弟を弔った経緯である。また中村党の大部分が頼朝挙兵に加わったにも拘わらず二宮友平の参加が遅れたのは、息子朝忠の嫁の異父弟・曽我兄弟が伊東祐親の孫であり、更に息子の嫁の生母(満劫)が平家方に加わった曽我祐信の後妻だったため...との複雑な関係もあったのだと思う。相模から伊豆エリアに土着していた豪族には網の目のような縁戚関係があり、それに伴う制約もまた多様だった。
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仇討ち事件から3ヶ月が過ぎた8月、花月尼の実兄で曽我兄弟の異父兄に当る源信俊が殺されている。本来なら彼の供養墓が知足寺にあっても不思議ではないが、これは 参河守範頼 の謀反(冤罪だけど)に関与した嫌疑で討たれたため、公然と弔うのが憚られたのだろう。花月尼さん、心残りだったかも。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月20日 】
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    故・曽我十郎祐成の同腹の兄・京の小次郎(信俊)が討ち取られた。参河守範頼の謀反容疑の連座である。

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右:みかん山から見る土肥郷(湯河原)の風景     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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現在の湯河原温泉の起源は、奈良時代に加賀国(石川県)からこの地に移住した二見一族が渓流沿いに湧き出す湯を発見したのが最初、と伝わっている。車で首都圏から熱海方向へ車を走らせる際に、湯河原から有料のビーチラインに入らず、旧国道の坂を登ると間もなく「二見農園」の柑橘類直売所が見える。たぶん二見さんは遠い子孫なんだろうな、と思う。
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> その他にも湯河原温泉発祥に関する伝説は多い。
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  1.年老いた狸が猟師の矢傷を温泉で癒した。
  2.伊豆大島に流された 役小角(役の行者)は空を飛んで日金山で修行し、池峯(奥湯河原の千歳川西)
    に立ち寄り、湧き出す温泉で身を清めた。
  3.癩病患者を背負った 行基 が膿を口で吸い体を洗ったら病人は薬師如来の化身で水を温泉に変えた。
  4.弘仁八年(817)7月14日の富士山大爆発の報告を受けた第52代嵯峨天皇が8月29日に派遣した
    空海(弘法大師)が千歳川上流の滝で足を洗ったら温泉に変った、など。
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行基と弘法大師には同様の伝説が全国に点在する。歴史ではなく宗教世界の言い伝えだ。万葉集の巻十四、東歌(あづまうた、東国で詠まれた民謡風の短歌)に相聞歌(恋歌)が載っている。土肥の名は奈良時代には既に定着しており、湯河原温泉の「万葉公園」や「万葉の湯」はこれが起源らしい。
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     あしがりの とひのかふちに いづるゆの よにもたよらに ころがいはなくに
     意訳...足柄の土肥の河原(河内)には昼夜を問わず湯が湧いている。そのいで湯のような情熱で彼女が私を想ってくれると良いのだが。
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  ※万葉の湯: 湯河原温泉の万葉公園近くにあるのは町営の立ち寄り温泉 こごめの湯(公式サイト)で、「万葉の湯」は方々で立ち寄り温泉やホテルを
経営している 万葉倶楽部の施設。首都圏に住んでいる方なら、温泉を運ぶ大型トレーラーを見た事があるだろう。
源泉を持っていても、他の地域に運んで商業利用するのは限りある天然資源の利用マナーを逸脱している、個人的にはそう思う。

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左:1300年以上も続く土肥郷の守護神 五所神社     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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湯河原町と熱海市の境・つまり神奈川県と静岡県の境に千歳川が流れ、湯河原温泉はこの上流部分に沿って開けている。中流域南側(右岸)の一部は熱海市の泉地区に含まれるのだが、全体として歓楽色が薄く落ち着いた湯の街の景観を残している。更に千歳川を遡ると鄙びた風情の奥湯河原温泉郷となる。
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白鳳ニ年(662)、加賀国(石川県)坪村の住人二見加賀之助重行は皇極天皇四年(645)に起きた大化の改新に伴う新しい制度の圧迫を避けて東国に逃れた。加賀白山神社の神威(白山信仰)を広めるために山伏に姿を変え、数人の仲間と共に気候が温暖で自然に恵まれた相模国まで来た。
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二見一族らは長い放浪を経て土肥郷(現在の宮下地区)に定住し、北側の山頂に白山比咩神社の神霊を祀って白山(しろやま=現在の城山)と名付けた。第三十八代天智天皇(在位668~672)の時代になり、相模国に定着した 白山信仰 を更に広めるため、山裾に若宮を祀ったのが現在の 五所神社(公式サイト)。
しかし1300年以上前から二見姓が続いているとは、凄いねぇ。私なんか三代ほど遡るのが限度だもの。
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  ※白鳳時代: 正式な年号ではないが、奈良時代(和銅三年~延暦十三年・710年~794年)よりも前、今の明日香村周辺が都だった飛鳥時代を差す。
具体的には第32代崇峻天皇五年(592年)~第43代元明天皇の和銅三年(710年)、大和朝廷の草創期にあたる。
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五所神社を過ぎて県道を西へ進むと間もなく湯河原温泉街、混雑を避けて箱根方面に向かうなら神社の横から湯河原新道に入れば奥湯河原パークウェイを経て箱根峠の近くに登れるし、県道75号で トーヨータイヤターンパイク(紹介サイト)(旧:箱根ターンパイク)の終点近くに合流もできる。この県道75号(椿ライン)の中腹よりやや上に、城山の山頂または「しとどの窟」に向かうハイキングコースの出発点がある。

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右:人気のハイキングコース、土肥の城山      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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2011年の春、ほぼ10年ぶりに土肥城址のある城山に登ってみた。
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頂上へのアプローチには三本ののルートが紹介されている。土肥氏の氏寺でもある城願寺を経て白山公園へ車で登るルート(地図)、湯河原新道(オレンジライン)から城堀林道を登るルート(地図)、県道75号の「しとどの窟バス停」横に駐車して比較的平坦な山道を1500mほど歩くルート(案内図)。
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最初の2ルート、車なら頂上まで徒歩10分弱の城山公園付近に駐車できるが余り面白くないし、道が狭くて擦れ違いに苦労するから不慣れなドライバーは避ける方が間違いない。土肥城址を称しているが、城山が土肥一族の詰めの城だった可能性は低いらしく、後北条氏の時代に望楼か砦に利用された程度だろうと推定されている。確かに頂上には山城の跡らしい雰囲気がある。
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公共交通機関を利用する場合は湯河原駅前から元箱根(芦ノ湖)行きバスの「しとどの窟入口」で降りる。すぐ前にドライブイン跡を利用したトイレ、手前に10台程度は停められる駐車スペースがある。体力があれば「しとどの窟」と「城山」の両方を廻れるが、バス停側から「しとどの窟」に通じる急傾斜の下りは兎も角として帰路の登りは辛い。バス停から城山山頂までの往復で3km、しとどの窟まで平坦な400m+急な下り400mの往復...全部を歩くとバス停を発着点として合計5km近くの山道を歩く覚悟が必要となる。中年以上で怠惰無気力なら、二回に分けてスケジュールを考えるのが賢明か。

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左:土肥實平一族の菩提寺 萬年山城願寺       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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中村荘の荘司 中村宗平 から土肥郷を相続した二男 實平 が平安時代末期まで続いていた密教寺院を持仏堂に改め、「万年の世まで家運が栄えるように」と願い万年山と号して体裁を整えたのが城願寺の起源である。
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土肥一族の館は現在のJR湯河原駅周辺にあったと推定されており、城願寺へはトンネルを迂回するため離れているように感じるが、直線なら駅からの距離は300mほどに過ぎない。
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實平は土肥郷(吉浜・鍛冶屋・門川・堀ノ内・宮上・宮下)に加えて小田原の南部から真鶴~箱根一帯の管理権を相続した。土肥郷は箱根権現に近く、更に白山神社の分社も土肥域内にあったため土肥實平も修験道を心得ており、大庭景親 の率いる平家軍との緒戦を前にして氏神である五所神社の神前で護摩を焚き戦勝を祈った。頼朝 も太刀を奉納して源氏の隆盛を祈願した、と伝わる。
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数日後の石橋山合戦で惨敗した後にも土肥椙山(すぎやま)の山中に逃げ込んだ頼朝を誘導して平家軍の追撃を避けた。ついに捜索を諦めた大庭景親らが土肥の館に火を放って引き上げた時、自分の館が燃え落ちるのを見た實平は「この炎こそ開運の光である」と叫び「延年の舞」を披露して頼朝を喜ばせ、落ち込んでいた敗残の武者たちを勇気づけたと源平盛衰記が語っている。今も五所神社に伝わる「焼亡(じょうもう)の舞」である。
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     悦び開けて照らしたる 土肥の光の貴さよ 我屋は何度も焼けば焼け 君だに世に立たまはば 土肥の椙山広ければ
     緑の梢よも尽じ 伐替々々造らんに 更に歎にあらじ 不如 君を始て万歳楽 我等も共に万歳楽

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この前後は史実よりも軍記物語特有の脚色が多く、それなりに割り引いて受け取る必要がある。源平盛衰記では土肥館を焼いたのは 伊東祐親 の軍勢と書かれているが、中村党頭領 宗平 の娘は伊東祐親に嫁している。更に祐親の娘 (元は 工藤祐経 の妻)は中村党の主軸となっていた實平の嫡男 遠平 に嫁しており、双方は置かれた立場に従って対峙はしたけれど、実際に殺戮を伴うほどの掃討戦を交えたとは考えにくい。
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一応は時系列に従って 土肥 → 石橋山合戦 → 堀口合戦 → しとどの窟 → 真鶴のしとどの窟 → 岩海岸からの舟出 の順で記述を進めたい。

右:相模の国 最大の荘園 大庭御厨の中枢・大庭城址   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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大庭一族は相模国の大庭御厨南部の懐島郷(茅ヶ崎市)一帯を本領とし、桓武平氏の裔を称する。
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長治年間(1104~1105)に鎌倉権五郎景政 と子の景継が荒地を開拓して国免荘  の資格を有する大庭御厨(みくりや)となった。伊勢神宮に寄進して立荘し、侵略を防ぐ権威を得るため永治元年(1141)に官省符荘(太政官符による所有権と不輸(租税の減免)の権利)を保証された
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  ※国免荘: 国司の任期一代限定で賦役の免除を許可した荘園。勿論、既得権を手放す筈もない。
現代に当て嵌めれば 「総理案件で加計学園の獣医学部を認可」 するみたいな事例を差す。
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正確なエリアは推定になるが、東は境川で西は相模川の東、北は渋谷氏の所領 (綾瀬市) まで、南は海まで(概略の範囲を示した地図)、立荘当時で95町・鎌倉時代末期には150町に達していた、と伝わる。
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天養元年(1144)の源義朝による大庭御厨略奪事件では景政の孫に当る大庭景宗が下司職で、領主の伊勢神宮は義朝の不法を訴えたが事なかれ主義の朝廷は義朝を処罰せず、以後の大庭一族は義朝に服属せざるを得なかった、らしい。
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保元元年(1156)に勃発した保元の乱では景宗の嫡男 大庭景義 と二男の 景親 が義朝に従って参戦し勝利を得たが、景義は敵方 為朝 の鏑矢に左膝を砕かれて歩行困難になり家督を景親に譲って隠退した。大庭景親は平治元年(1159)の平治の乱には加わらず、源氏とは距離を置いて平家に仕えた。支柱と頼んでいた義朝を失った三浦一族や中村一族に比べると、相模国に於ける大庭氏の立場は圧倒的に強くなった。
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景親は更に平家に近付いて相模国での指導的立場を確立、源平盛衰記では「罪を得て斬られる筈を平家に助命された恩義」としているが、この裏付け史料は確認されていない。
頼朝の覇権により景義が惣領に復活、その跡を継いだ景兼は建保元年(1213)の和田合戦で 義盛に味方して滅亡、この時以後の鎌倉史に大庭氏の名は見当たらず、大庭御厨の管理権は北條得宗家が掌握することになる。

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左:景義四人兄弟の父景宗の墓所・大庭塚と御厨の範囲    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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大庭景親 の本拠は藤沢市の大庭城址公園(地図)、保元の乱以後の景義(景能)が隠居した地は茅ヶ崎市円蔵の神明大神宮一帯(地図)
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  ※寄進系荘園: 開墾または相続した領地を有力貴族や寺社に寄進し管理権を保持したまま収穫の一部を上納し、国司の関与と徴税を
免れて実質的な所有権を確保する。
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  ※御厨: 皇室や伊勢神宮など有力な神社の荘園(神領)。朝廷や国衙の権力が弱まった平安末期以後は
武士団による略奪(武士の領地化)が再三勃発している(義朝の大庭御厨押領は一例)。
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  ※下司職: 一般的には現地の支配人で、荘地・荘民の管理と租税徴収と領主への上納の実務などを担った下級職。
徴収の最前線だった業務から「ゲス」の語源になったとされる。対句が上司。
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兄の大庭景義 は頼朝側、弟の景親と 俣野景久 は平家方として参戦しているが、どちらが死にどちらが生き残ったとしても所領の安堵を得たいという、謂わば保険の意味もあったのだろう。結果として平家に従った弟の景親は捕縛され斬首、次弟の景久は北陸で戦死したが、長兄景義は最古参の頼朝御家人として幕府成立後も活躍している。
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文治五年(1189)の奥州合戦に際しては、藤原氏討伐の勅許を得られなかった頼朝に進言して喜ばせた言葉が伝わっている。
     「(奥州の)藤原は既に鎌倉の家臣である。家臣を討伐するに当たって勅許の必要などあろうか」
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治承四年 (1180) の鎌倉入り後に頼朝から「敵将の景親を捕らえた、大庭一族として助命を願うか」と尋ねられ「お心のままに決めて下さい」と答えて弟の斬首を容認したとの逸話もあり、家督継承に関わる遺恨の可能性もある。可哀そうな景親は同年10月26日に固瀬河(片瀬川)近くで斬首され首を晒した。

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右:土肥郷~石橋山古戦場~箱根周辺の地図    画像をクリック→ 拡大表示へ
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頼朝に合流して源氏の主力になる筈だった三浦軍は折からの台風で軍船が使えなかった。やむを得ず陸路で土肥を目指したのだが、増水した丸子河(現在の酒匂川、地図)を渡れず、近隣の 大庭景親 一党の館などに火を掛けて焼き払った。
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酒匂川北岸の大庭景親一党って誰だろう...二宮から土肥の一帯は中村党の勢力範囲なので除外できるし、このエリアで大庭軍に加わっているのは 曽我祐信 か、酒匂川流域には鎌倉党の酒匂氏がいるけど、これは少し時代が下るし...。石橋山の北に布陣した大庭景親はその煙を確認して 「三浦の衆が合流したら面倒になる。今夜のうちに合戦を遂げよう」 と、雨天をついて攻撃を開始した。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180)8月22日 】  三浦軍の兵力については次の記載がある。
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三浦義明 の嫡子 次郎義澄、同じく三男の 佐原義連、七男の大多和義久と長男の義成、和田義盛 と 弟の次郎義茂と三郎宗實、義明の四男多々良三郎重春と弟の四郎明宗と津久井次郎義行らがそれぞれ数輩の精兵を率いて三浦を出陣した。
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この場合の数輩は「数人」ではなく、「かなりの」あるいは「それなりの」人数を意味し、平家物語では500騎としている。
更に石橋山合戦の翌日、惨敗した頼朝軍が南へ逃げて分散したのを知った三浦軍は衣笠へと撤収し、小坪の浜地図)で 畠山重忠 軍と遭遇した。最初は双方が自重して戦闘を回避したのだが、小さな行き違いから合戦となり三浦側の多々良三郎重春らが討ち死に、重忠側も郎党50余名が落命している。
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この合戦を発端に、「平家の恩に報いるため、また由比浦の屈辱を晴らすため」 体制を立て直した重忠が同族の 河越重頼・中山重實・江戸重長と共に26日早朝に数千騎で三浦勢の籠る衣笠城を攻め、夜半には攻め落としている。勘案すれば、石橋を目指した三浦軍は多くても千騎に満たない程度か。
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いずれにしろ、源平最初の本格的な合戦となった石橋山。迫る平家方は大庭三郎景親率いる3000余騎、南側は 伊東祐親 の300騎が退路を塞ぐ。
3300騎vs300騎、頼みの三浦勢は間に合わず、圧倒的な兵力差に頼朝軍は大敗を喫してしまう。逃げ廻る頼朝を追って大庭景親がもう少し緻密な残兵捜索をしていれば歴史は大きく変わっていたと思うが...小学校時代の学級担任 大庭先生(大場?結婚して鷹見?)が美人だったので、景親を贔屓したいんだよね(笑)。
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  ※和田義盛: 三浦義明の長男杉本義宗(1126~1164)の嫡子。義宗は鎌倉の杉本城(現在の 杉本寺(別窓)に本拠を置いて杉本 (椙本) を名乗り、次期家長に決まって
いたのだが、長寛元年(1163)に三浦氏の所領だった安房平北郡の領有権を巡って長狭常伴の金山城(鴨川市、地図)に攻め込んで負傷し、撤兵後に杉本城で死没した。結果として三浦の家督は義宗の次弟・義澄が継承し義盛は分家して和田を名乗った。義宗が死没した際の義盛が若年(13歳)のため、37歳だった義宗の弟・義澄を惣領とした経緯がある。
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北條義時 が幕府実権を掌握した建暦三年(1213)、幕政から排斥された義盛は反北條の兵を挙げたが、三浦の当主 義村 の裏切りが遠因となって敗死した。三浦の統率権を巡る両者の確執も背景にあった、とも伝わっている。
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  ※小坪の浜: 平家物語では「三浦勢は相模川を渡り、腰越・稲村・由比ガ浜を過ぎて小坪坂に差し掛かれば」 と書いている。つまり材木座と小坪の境、現在の材木座海岸の
南端だろう。攻撃する重忠にとって三浦は母の実家であり、当主の老将 義明は実の祖父である。
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この時の畠山重忠は父の 重能 とその弟で叔父の 小山田有重 が大番役で在京だったため、勝手な判断を避けて従来通り平家軍に加わっていた。ただし縁戚関係にある三浦と戦いたくないため和平したのだが、義盛の下人が杉本城に立ち寄っていた義盛の弟・義茂に「由比ガ浜で合戦!」と急報、駆けつけた義茂が単騎で重忠軍に討ち入った。これで義盛側は「義茂を討たせるな」と反応し、重忠側は「和平と言いながら騙まし討ちか」となった、らしい。

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左:話を戻して、本格的な合戦がスタートした石橋山    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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8月17日に山木判官 平兼隆 を討った 頼朝 は翌19日には挙兵後に最初の布告を行った。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 7月19日 】
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兼隆の親戚・史大夫知親は伊豆蒲屋御廚で非法を行い領民を苦しめる振舞いが多かったため権限を停止する下知を出した。関東に於ける頼朝が発布した最初の政令である。
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蒲屋御厨で非法を行っていた兼隆親戚の史大夫知親の権限を停止すること、及び走湯山(伊豆山権現)を往来する武士の狼藉を禁止し、伊豆と相模の荘園を寄進することの2点である。また夜になって、落ち着くまで 御台所政子 の庇護を伊豆山の覚淵に依頼し、藤原邦道と昌長(神官)を供に付けて送り出した。
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そして翌20日、北條邸を出発し函南から日金を越えて相模国土肥郷へ。石橋山合戦での兵力は300騎、狩野・宇佐美・土肥・中村党・岡崎などが主力だが、この300騎はどう判断すべきだろう。騎馬武者が300人で、それぞれが数人程度の郎党を従えていたのか、それとも総勢で300人だったのか。韮山出陣の際に姓名の記載がある武者は(親子や兄弟を個別にカウントして)総勢45名、1人が6人を従えていると考えて300人になるが、これでは戦闘員が少な過ぎるか。韮山・函南・中伊豆一帯なら300人は集まると思うけれど。
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  ※蒲屋御厨: 現在の下田市田牛 (とうじ) から南伊豆町の青野一帯にあった伊勢神宮の神領。後に伊東祐親が富士川の平家軍に合流するため船出を図った鯉名(現在の小稲)
に近いのは中原知親と知己だった経緯か。名前は似ているが、浜松市南東部にある伊勢神宮の荘園(神領)で頼朝の異母弟・蒲冠者 範頼 が少年期を過ごした蒲御厨とは、もちろん異なる。
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  ※史大夫知親: 以仁王 挙兵で 頼政 が敗死した後は 平時忠 が国主、養子の時兼が国司に補任された。蒲屋御厨の管理者が中原史大夫知親か。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月20日】
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三浦介義明の軍勢は悪天候で遅れている。そのため頼朝は伊豆と相模の御家人のみを率いて伊豆を発ち相模国土肥郷(湯河原)を目指した。
従う者...北條時政・宗時・義時・平六時定(時政の兄兼時の子)、足達盛長、狩野茂光と親光、宇佐美助茂、土肥實平と遠平、土屋宗遠と義清と忠光、岡崎義實と与一義忠、佐々木定綱と経高と盛綱と高綱、天野遠景と政景、宇佐美政光と實政、大庭景義と豊田景俊、新田忠常、加藤景員と光員と景廉、堀親宗(親家?)と助政、天野光家、中村景平と盛平、鮫島宗家と宣親、大見家秀、近藤七国平、平佐古為重、奈古谷頼時、澤宗家、義勝房成尋、中四郎惟重と中八惟平、新藤次俊長 、小中太光家、    全て頼朝が力と頼む武者である。命令に従い家や親を忘れて戦う、と。

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右:与一義忠の父 岡崎義實の館跡 無量寺     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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岡崎義實 の曽祖父 為通は 源頼義 に従って前九年の役(1051~1062)を戦った軍功で獲得した三浦に定住したと伝わっており、更に為通の子・三浦為継は 八幡太郎義家 に従って後三年の役(1083~1087)を戦った功績で摂関家が所有する三浦荘の庄司となり、一族の礎を築いた。
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後三年の役で鎌倉党の 権五郎景正 の右目に刺さった矢を抜いた武者が為継で、更に天養元年(1144)に起きた 源義朝 の大庭御厨濫入にも 中村宗平 らと共に加わっている。後三年の役の際に18歳だったと仮定すると、乱入の際の為継は既に70代半ばになる。どこかで年代面の錯誤があった、かも知れない。
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義継の長男 義明 は本家を継承して三浦棟梁となり、二男の義行は三浦半島東部(金田湾一帯)を継承して津久井氏の祖となり、三男の為清は三浦半島西部(横須賀市芦名)を継承して葦名(芦名)氏の祖となり、四男の義實は大住郡岡崎(平塚市北部~伊勢原市南部)を継承して岡崎氏を名乗った。
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いずれにしても三浦一族は数代に亘って源氏に仕えた譜代の臣で、さらに岡崎義實は中村宗平の娘を妻に迎え、二男の 義清 を宗平の三男 土屋宗遠の養子にしている。三浦氏と中村党が 岡崎義實 を介して結束し、平家に仕える大庭氏に対抗して石橋山合戦に向かう図式が血縁の面でも出来上がっていたのだろう。それに加えて大庭御厨の本来の管理者だった大庭一族と、義朝に従って既得権を奪った三浦+中村の確執がある。
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石橋山合戦で 佐奈田与一義忠 を討ったのは鎌倉氏傍流で大庭景親の従兄弟に当る長尾定景。吾妻鏡の数ヶ所に義實と長尾定景の記事が載っている。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 7月5日 】  石橋山合戦の後日談
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長尾新六定景 が罪を許された。去年の石橋山合戦で 佐奈田余一義忠を討ったのを頼朝が特に憎み、父の岡崎四郎義實に預けて処分を任せた。
慈悲深い性格の義實は定景を殺さず、定景は囚人のまま法華経を読んで日を過ごしていた。義實は夢を見たと称して頼朝に願い出て曰く、「義忠の仇なので殺さなければ心が晴れないのだが、法華経を読む声を聞くたびに怨念が薄れていく。もし殺したら義忠も成仏できない様な気がして、許すべきかと考えている」 と。頼朝は「悲しみを癒せるかと考えて定景の処分を任せたのだが、その気持ちは良く判る」 として助命を認めた。
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そして時は流れ、頼朝挙兵から付き従った古参御家人の晩年は恵まれたものではなかったらしい。系図では義實の実子は義忠と義清の二人、義忠は石橋山で討ち死にし義清は土屋宗遠(中村宗平三男)の養子になっている。どんな経緯かは不明だが、肉親の縁に恵まれない生涯だったのか。
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【 吾妻鏡 正治二年(1200) 3月14日 】  頼朝が没した翌年の寒い日。義實は三ヶ月後の6月21日に没するのだが...
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今日、岡崎四郎義實入道が杖にすがって尼御台所 政子 の邸に参上した。「80歳を越えて余命も少ないのに病と貧しさに悩み頼る者もない、多少の所領は亡き義忠の菩提を弔うため布施しようと思っても、子孫に遺す物さえ無くなってしまう」と泣いて訴えた。哀れんだ政子は「石橋山で功績を挙げたのだから年老いても報われるべき」として所領の配慮を、と 二階堂行光 を介して将軍 頼家 に伝えた。
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ところで、義實の口添えで助命された以後の長尾定景は義實の本家である三浦氏の家臣として義村に仕え、28年後の吾妻鏡に再び登場する。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 1月27日 】  雪の八幡宮で三代将軍実朝を殺した公暁を討つ
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~中略~  将軍実朝 を殺した 公暁 は実朝の首を持ったまま後見の備中阿闍梨宅(雪ノ下 北谷)に入った。三浦義村 は、躊躇する長尾新六定景に公暁追討を命じ、定景は雑賀次郎ら屈強な5人を率いて備中阿闍梨宅に向った。
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一方で公暁は義村に送った使者の帰りが遅いため、八幡宮裏の丘を登り義村邸に入ろうとした所で定景と出会った。すぐに雑賀次郎が組み付き、定景が太刀を抜いて公暁の首を落とした。定景は首を持ち帰り、義村は 北條義時 邸に首を持参した。~後略~



 
 その七 土肥 椙山を逃げ回って安房へ落ちる 

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右:新崎川左岸の古社 五郎神社      画像をクリック→ 詳細ページへ
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衆寡敵せず、石橋山で敗れた頼朝軍は分散して包囲を突破し活路を求めた。頼朝 と側近は南の土肥へ逃れたが、この方向は 伊東祐親 が300騎を率いて頼朝軍の背後を塞いでいた位置である。
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頼朝が戦場を脱出できたのは、祐親が温情を掛けて見逃したから、かも知れない。頼朝と祐親は敵対関係になってはいたが、必ずしも憎み合う状態ではなかった筈ではなかった、後にはそんな想像もできる事件も起きている。
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堀口周辺の地名は鍛冶屋。かつては新崎川の砂鉄を利用した製鉄が行われ、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した相州鍛冶・五郎入道正宗の出身地と伝わっている。新崎川の北東には五郎神社があるがこれは正宗とは無関係で、鎌倉党が先祖の霊を祀った御霊(ごりょう)神社が五霊に転訛し、更に鎌倉党の祖霊を象徴して 鎌倉権五郎景政 を意味する五郎に転訛したらしい。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180)  8月24日 】
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大庭景親 は三千余騎を率いて逃げる頼朝を激しく追撃、頼朝は堀口 (椙山の入口) で戦った後に椙山の嶺を目指して落ち延びた。加藤次景廉大見平次實政 が留まって後衛の役を務めた。加藤五景員 は息子の景廉を案じ、大見平太政光は弟の實政を案じて山に入らず堀口に留まって景親軍と戦った。
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更に 加藤太光員佐々木四郎高綱天野籐内遠景 と 同平内光家 と 堀籐次親家 および同平四郎助政も馬を返して防戦したが、乗馬の多くは矢を受けて斃れてしまった。頼朝も馬を廻らせ熟達した弓の妙技を見せ多くの敵を倒した。やがて矢が尽き、景廉が轡を取って深山を目指したが景親の軍兵は40~50mまで接近した。
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高綱・遠景・景廉等が力を合わせて矢を放ち 北條時政宗時義時 父子も死力を尽くして戦ったが流石に疲れ果て、直ぐに頼朝の後に続く事が出来なかった。景員・光員 ・景廉・祐茂・親家・實政等が時政の指示を受けて険しい山道を数100mほど攀じ登り頼朝に合流した。頼朝は 土肥實平 を従えて倒木の上に立ち互いの無事を喜び合った。
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  ※弓の妙技: 伊豆に流されてから己を律する事もせず女の尻を追い掛けていた頼朝が弓の名手だった筈はない。この辺は吾妻鏡の嫌な部分として割り引いて読もう。

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左:海岸近くから堀口合戦場を経て土肥椙山へ    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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堀口の合戦が行われたエリアは確定できないが、下りの新幹線が城山トンネルに入る手前の瑞應寺(黄檗宗)の周辺と推定される。何となく新崎川に沿って上流へと逃走するイメージがあるのだが、追い詰められて馬を乗り捨て、徒歩で山に登ったと考える方が自然なのだろう。現在はみかん畑になっている瑞應寺の裏山は急勾配で、とても騎馬で登れる地形ではない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180)  8月24日 】     土肥實平 は説得を続ける
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實平が言うには「皆が揃ったのは嬉しいが全員でこの山に隠れるのは無理だ、頼朝様だけなら何ヶ月でも隠し通せる」と。しかし全員が頼朝に同行を申し出て頼朝も許す気配を示したため實平は「今の別離は後の幸せに通じる。全員が命を永らえ敗北を乗り越え恥辱を雪ぐべき」と続けて説得した。
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こうして全員が悲しみに耐えて分散した。その後に飯田家義が跡を辿って追いつき頼朝の念珠を届けた。普段から持ち歩き今朝の合戦の際に落とした、相模の武士なら知っている数珠である。頼朝は嬉し涙を見せ 家義も同行を望んだが、實平が前と同様に分散しての逃走を主張、家義も涙で退去した。
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※飯田家義: 佐々木一族を庇護した 渋谷重国の五男。高座郡長後(現在の藤沢市)で 大庭景親 と領有を争った後に和睦、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を本領とした。
景親の娘婿でありながら、石橋山合戦では頼朝軍に加わる予定でおり、前後を大庭景親の所領(藤沢市大庭)と 俣野景久 の所領(横浜市戸塚区と藤沢市北部)に挟まれていたため動きがとれず、平家方に従軍していた。その後は頼朝に従って転戦し、所領を安堵され地頭職を得た。
頼朝没後の正治ニ年(1200)には 北條時政 の意向を受け 梶原景時 を駿河で討伐、駿河国大岡(沼津市西部)の地頭職を得ている。

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右:城山の東、新崎川沿いの幕山公園     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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新崎川沿いに整備された 町営の自然公園((湯河原町のサイト)。新崎川に沿って入口から上流まで1km以上のエリアに遊歩道が続き、毎年1月下旬~3月中旬には幕山の山裾に植えられた4000本の梅が見事な花を咲かせ、園内では「梅の宴」など様々なイベントが楽しめる。平成18年から(梅まつりの期間中のみ)駐車が有料になったのは少し残念だけど。
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伊豆方面の観梅のベストは小田原の曽我梅林で次が幕山公園、ワーストは熱海梅園(駅からは近い)だが、曽我を除く二ヶ所は有料である。管理する側の苦労と経費は理解できるけれど公共に資する公園に金を払って入るのは不愉快だし、町民だけ無料なのも抵抗を感じるので期間中は立ち寄らない。
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純粋に梅を楽しむのなら広範囲に梅林が点在し小道が縦横に通じている曽我がベストだ。熱海と湯河原の梅は観光用、曽我は実を採るため栽培されている樹種で、もちろん梅酒や梅干し用の購入もできる。
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新崎川上流に向って右側の幕山(626m)と南郷山(611m)の周辺には小道地蔵と自害水(自鑑水)、左側の城山北東側に「しとどの窟」や「土肥大杉跡」、両側の山から箱根権現にかけて頼朝の敗走伝説が様々な形で残っている。石橋山から土肥を経て真名鶴(岩海岸)から船出して安房へ逃げるまで、平治の乱と並んで頼朝の生涯で最も苦しかった10日間である。

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左:土肥椙山の「しとどの窟」      画像をクリック→ 詳細ページへ
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【 吾妻鏡 治承四年(1180)  8月24日 】 の続き。
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大庭景親 は ‬頼朝 を追って山の峰や渓流沿いを捜索した。‬梶原平三景時 という者が頼朝の所在を知りつつ温情を掛け「この山には人が入った形跡がない」と景親を傍らの峰に誘導した。頼朝は髻(もとどり)から観音像を取り出してある洞窟に安置した。
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土肥實平 がその訳を尋ねると、「景親が私の首を獲ってこの仏像を見たら、源氏の大将軍らしくないと嘲ることだろう。この像は私が三歳の時に乳母が 清水寺 (wiki) に参籠して私の将来を神仏に祈り、27日過ぎに夢のお告げによって二寸の銀製観音像を得た、それ以来私が帰依を続けているものだ」と答えた。
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椙は杉の国字(日本製の文字で訓読みのみ、音読みはない)。土肥から箱根にかけての険しい斜面には杉の植生が多く、「土肥の椙山」として知られた地域だった。また「しとど」はホオジロ類の小鳥の総称で、鵐・巫鳥とも書く。或いは、この洞窟の天井から常に水が滴り落ちているため「しとどに濡れる」意味が転じたとも言われ、正確な語源は判らない。
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城山の頂上から直線距離で約1km、梅で知られた幕山公園(新崎川中流域)からは直線で2kmの急斜面に位置するが、吾妻鏡にも平家物語にも 「しとどの窟に隠れた」 なる記述は見られない。後述する小道地蔵堂や自鑑水(自害水)など幾つかの出来事を含めて源平盛衰記だけが書いているから、軍記物語が面白おかしく盛った可能性も高い。
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正直に言うと軍記物語は好きじゃないし、本音としては資料として利用するのも躊躇がある。残念ながら吾妻鏡の記載は堀口の合戦から眞名鶴崎出航前後までの記述が欠けているので、史跡の探訪には源平盛衰記も参考にせざるを得ない。敵将が洞窟に隠れた頼朝を見逃したなどの劇的な脚色は現実離れしているし、まぁ「平家物語をベースにしてやや源氏サイドから面白く修飾した物語」程度の認識を前提にすれば問題ない、のだけれど。平家物語と源平盛衰記が成立した時代の確定については諸説があり複雑なので説明は省略する。

右:新崎川流域周辺の鳥瞰図    画像をクリック→拡大表示へ
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【 源平盛衰記 巻二十一  朽木に隠れた頼朝を梶原が助ける事 】
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頼朝 は土肥杉山を掻き分けて落ち延びた。従うのは 土肥次郎實平北條四郎時政岡崎四郎義実土肥弥太郎遠平懐島平権守景能藤九郎盛長ら。追っ手の大庭景親曽我祐信 を案内に三千余騎で追跡した。杉山はそれほど広くないので隠れるような場所もない。田代冠者信綱 が頼朝を逃がすため高い木の上から散々に射たため大場勢は容易に山に入れず、その隙に頼朝は「鵐の岩屋」という谷に下って見回すと7、8人が入れるような倒木があったので暫く休息した。
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頼朝はやがて集まって来た味方に「分散して逃げ、山を下って安房へ逃れた時には急いで集結せよ」と命じた。北條四郎(時政)は甲斐へ、他の者もそれぞれ落ちて行った。頼朝に従って山に籠ったのは土肥實平・同遠平・新開忠氏・土屋宗遠・岡崎義實・藤九郎盛長。防ぎ矢が尽きた田代信綱は頼朝は既に落ち延びただろうと考え、跡を追って頼朝のいる倒木の洞に入った。大場・曽我・俣野・梶原ら三千余騎は山を踏み分けて捜したが見つけられなかった。
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大場は倒木の上に登って弓を杖にして立ち、「頼朝はこの辺に居たのだから倒木の洞が怪しい、中を探せ」と命じ、従兄弟梶原平三景時 が弓を脇に挟み太刀に手を掛けて倒木の洞に入った。そして正面から頼朝と向き合って目を合わせた。

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 ※従兄弟の関係: 景時から三代前(曽祖父)の景通と、景親から四代前の景成が兄弟(父が鎌倉章名)なので同じ鎌倉党の遠い従兄弟に当る。

左:大正六年に枯死した土肥の大椙     郷土誌から転写したため拡大表示なし
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【 源平盛衰記は更に描写を続ける 】
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正面から 景時 と目を合わせた 頼朝 は「これで景時の手に懸かるのか」と自害する覚悟を決め腰の刀に手を掛けた。景時は「お助けしよう、もし戦に勝ったらこの事を忘れないように。」と語り掛け、蜘蛛の巣を弓と兜に引っ掛けて洞を出た。頼朝は後姿を拝み、もし助かったら七代まで恩を忘れないと心に誓った。
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景時は洞の入口に立ち塞がって 「この中には蝙蝠が飛んでいるだけで虫けらもいない。真鶴の方角に見えた7、8騎の武者が頼朝だろうから追い掛けよう」 と申し出た。大庭は「あれは頼朝ではない、やはり倒木の中が怪しいが斧で切り破るのも面倒だから入って探して見よう」と太刀に手を掛けて洞に入りかけた。
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景時は立ち塞がって太刀に手を掛け、「誰もが源氏の大将の首を獲り平家に見せたいと思っている。あなたが探そうとするのは私を疑っての事か、猶も不審とするなら覚悟があるぞ」 と気色ばんだ。
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さすがに大庭も躊躇し、弓を差し込んでニ三度探ると先端が頼朝の鎧の袖に触れて音を立てた。南無八幡と祈った霊験か、二羽の山鳩が飛び出した。「頼朝がいるのなら鳩はいないだろう」と思いつつも念のため斧を取り寄せて破ろうとも考えたが豪雨になり、七、八人で大石を動かして洞を塞ぎ後刻に確認するつもりで引き上げた。
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結局のところ源平盛衰記は「しとどの窟」ではなく「鵐の岩屋という谷にあった倒木の洞」と書いている。
その他、頼朝が隠れたと伝わる巨樹「土肥の大椙」は大正六年(1917)に枯死しているから平安末期に倒木だった筈はないし、樹齢1000年で枯死したのなら平安末期の樹齢は200年程度、子供が隠れるのも無理だ。まぁ頼朝主従がここを通って暫し休息した可能性はあるから、830年の時を隔てて敗残の頼朝と同じ場所を歩いている、程度に感じれば良い。
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土肥の大椙は既に痕跡も残っていないが記念碑が建っているらしい。県道75号沿いに車を停めて山道を20分ほど、いずれ改めて訪問しようと思う。画像を見る限りでは目通し(目の高さの直系)3mほどで「抜きん出た巨樹」と表現する程ではない。
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天運に味方されて危機を脱した頼朝は大庭勢が引き上げたのを確認して内側から石を転がし、小道越えの岩道から土肥の真鶴に向って落ち延びた。雨が止んで倒木に戻った大庭は大石を転がした跡を見て 「これは梶原に騙された、それほど遠くまでは行かないだろう」 と頼朝を追い掛けた。
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源平盛衰記を著した人物の才能と努力には敬意を払うけど、前後の整合性は考えて欲しいよね。景親も馬鹿じゃあるまいし、「七、八人で大石を動かして洞を塞ぐ」ほど心配なら景時を押さえ付けてでも中を確認すべきだろ。それに頼朝の逃亡を助けた景時を処罰せず、その後も同行させている理由は何だい?
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】
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夜になって 北條時政 が頼朝に合流した。筥根山(箱根権現)の別当僧・行實が弟の僧・永實に食料を持たせて頼朝を捜索し、まず時政に逢って頼朝の事を尋ねた。時政は「景親 の包囲から逃げられなかった」と語ると永實は「将が亡んだのならあなたも此処にはいないでしょう」と答えた。
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時政は笑って頼朝の前に連れて行った。持参の食料は実に貴重な差し入れだった。實平は「世が落ち着いたら永實を筥根山の別当に抜擢すべき」と申し出た。頼朝もこれを了承し、永實と共に筥根山に向かった。行實の宿坊は参詣人が多く、隠れるには適さないため永實の房に入った。
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行實の父・良尋は 為義義朝(頼朝の祖父と父)の時に多少の縁があり、その縁によって父から筥根山別当職を譲られた者である。為義は行實に下し文を与え東国の関係者に供した。義朝の下し文にも「駿河と伊豆の者は行實の求めに応じるべし」としている。頼朝が北條にいた頃から祈祷を受け持っていた。石橋山敗北の知らせを受けて嘆いていたが、数多くの弟子から永實を選んで派遣したのである。

右:小道地蔵堂旧跡と現在の地蔵堂、吉浜稲荷  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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800年前には土肥から箱根に登る斜面は一面の杉林で、古来から「土肥の椙(すぎ)山」と呼ばれていた。新崎川の上流では現在でも古代杉の埋れ木が掘り出され、工芸品に加工されている、とか。
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頼朝は8月18日に韮山で挙兵して22日には土肥館に集結、23日に300騎で石橋山に布陣し、大庭景親3000騎+伊東祐親 300騎の軍に惨敗した。その後は土肥郷へ退いて陣容を立て直そうとしたが激しい追撃を受けて堀口の合戦(瑞応寺付近)でも敗れ、24日の夜明け以降は土肥山中を逃げ回っている。
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源平盛衰記に拠れば、頼朝主従は尾根近くの地蔵堂に逃げ込んで住僧の純海に匿われ、辛うじて生き延びた。よく知られている「しとどの窟」と谷を隔てた北東側の斜面である。
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小道地蔵堂の旧跡は湯河原北方の別荘地を抜け、5月末には見事な花を見せる湯河原町営の「さつき公園」から「白銀(しろがね)林道」北側の舗装路を約3km登った、標高600mの斜面に残っている。もちろん小さな公園が昔日を伝えているだけだが、見晴らしの良い散策路である。
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追討軍の軍兵が頼朝の所在を白状させようと拷問を加え、純海は黙したまま絶命した。源平盛衰記は「夕刻になって隠れた穴倉から這い出した頼朝がハラハラと流した涙が純海の唇を濡らし、蘇生した」と書いている。小道地蔵堂旧蹟から自鑑水にかけての
Google衛星画像、訪問の際の参考に。

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左:頼朝が自刃を覚悟した自鑑水、自害水とも    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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「さつき公園」を左に折れて白銀林道(やや広め一車線の簡易舗装路、普通車なら問題なく通行可能)に入り、南郷山の中腹を南に迂回して西へ3kmほど進むと「自鑑水入口」の標識がある。ここから更に山道(ハイキングコース)を500m登ると幕山との中間地点に「自鑑水(自害水)の史跡」がある。
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小道地蔵から更にこの地点まで落ち延びた 頼朝 は水に映った己の敗残の姿に絶望し、最早これまでと自害を考えたが、先導していた 土肥實平 が「土肥の椙山の隅々まで、私の知らない場所はありません。敵の追及が緩むまで幾日でも隠し通します。この程度の敗戦で源氏の棟梁たる者が志を捨ててはなりません。」と諌め励まし、頼朝もなんとか自害を思いとどまった、と伝わっている。
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「自鑑水」は湧き水と言うよりも降雨が溜まった窪地、と表現する方が的を得ている。しばらく好天が続くと干上がってしまう数坪ほどの湿地なのだが、頼朝が通ったのは台風通過の直後だった。頼朝が自害を試みたため当初は「自害水」と呼んでいたが、余りにも生々しいため「自鑑水、に改めた、という。
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白銀林道は多少の砂利道を挟みながら新崎川上流を迂回し「しとどの窟」の近くを経て湯河原と箱根を結ぶ県道に合流するが、時期により通行止めになる場合もある。さつき公園~小道地蔵~自鑑水~幕山と続くハイキングコースは日当たりの良い南斜面を歩く、初心者でも楽しめるルートである。

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右:もう一つ、真鶴海岸にもある鵐(しとど)の窟     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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挙兵した治承四年8月17日に 山木判官兼隆 を討ち取った頼朝軍は函南~湯河原を経て6日後の8月23日には石橋山へ、日暮れから始まった戦闘で惨敗し、活路を求め分散して土肥から落ち延びた。北條時政 と二男の 義時 は箱根を越え甲斐を目指したが 頼朝 の安否確認をと考えて土肥に引き返し、時政嫡男の 宗時狩野茂光 は進軍ルートを逆に辿り、日金峠を越えて函南に下った。
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頼朝は土肥から箱根権現までの山中を逃げ回り、8月28日になって真鶴海岸から安房へ小舟で脱出した。この時は主従わずかに七騎だったと伝わり、謡曲などで名高い「七騎落ち」のクライマックス・シーンとなるが、ネタ本にした軍記物すら信頼に値しないのだから、そこから派生した謡曲の信頼性など推して知るべし、だ。現地を見たこともない連中が勝手な想像を巡らしている。
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前日の27日には同じ岩浦から北條時政と義時、岡崎義實、近藤七国平などが先触れのため舟で安房に向かった。この先発隊は途中の海上で三浦合戦を逃げ延びた 三浦義澄 主従の一行と奇跡の合流を果たしている。時政らに続いて翌日には頼朝主従も岩の海岸から出航して安房を目指しているのだが、その前に真鶴半島先端に近い漁港の隅にある「鵐(しとど)で暫しの休息を取ったらしい。
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追っ手から逃れた頼朝一行が隠れた洞窟と伝わっており、昔は高さ2m・奥行は10m以上もあったが崖崩れによって小さくなった、と。地元の伝承に拠れば、大庭景親の兵が中を確認しようとした時に「しとど」と呼ぶ小鳥が飛び出したため、誰もいないと思って見過ごしてしまった。追われている者が逃げ場のない洞窟に隠れる.なんてあり得ないけどね。
二つの「しとどの窟」は未だに本家争いを続け、合併の話も頓挫した。人口約23,500人の湯河原町と約6,500人の真鶴町、どちらも町名への強い拘りを捨てきれない。

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左:材木座の東、小坪合戦場と和賀江島    画像をクリック→ 干潮時の和賀江島鳥瞰へ     
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左隅には逗子マリーナのリゾートマンション、撮影場所の正面に和賀江島がある。平安末期の海岸線はもっと陸側に入り込んでいたらしいが、合戦があったのはもう少し東側 (右方向) だろうか。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】
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三浦軍は (嵐のため) 舟が使えず、陸路で衣笠を出発し昨夜に丸子河(現在の酒匂川)の東岸に進出した。夜明けを待って頼朝軍に合流する予定だったが合戦が頼朝勢の敗走に終わったと知り、やむを得ず三浦を目指して引き上げた。
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その帰路、由比ヶ浜で 畠山重忠 軍と遭遇、多々良重春と郎従石井五郎が戦死、重忠側は郎従50余名が討たれて撤退した。義澄 らは三浦を目指し、途中で 上総廣常 の弟 金田頼次が70余騎を率いて合流した。
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平家物語は由比ガ浜の小坪合戦について、更に事態の推移を描いている。軍記物語に有り勝ちな誇張は割り引く必要はあるが、畠山重忠と 和田義盛の自尊心や意地が見えて面白い。
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【 平家物語(長門本) 小坪合戦の段 】
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丸子河から撤退した三浦軍は夜明けに小坪の浜で畠山軍と遭遇。三浦の侍大将 和田義盛は総大将の 三浦義澄 に「鐙摺(葉山)の城に入り給え、私はここで一戦してから合流しましょう」と言って先行させた。赤旗を輝かした畠山重忠の500余騎は稲瀬河(小坪から約1.5km)に布陣して使者を送った。
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「三浦の衆に遺恨はないが、父の 重能 と叔父の 小山田有重は平家に従って六波羅に奉公している。その留守を預かる重忠軍陣の前を源氏が素通りすれば叱責を受けるから参上した。こちらへ出向くか、或いはそちらに出向こうか」と申し入れた。
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義盛は實光(これ誰か判らん!)を使者に立て、「承った、確かにその通りではあるが重忠殿は 三浦義明 の孫(重能の正室は義明の娘、つまり重忠の母)である。祖父に弓を向けるのが本意とは思えぬ」と答えた。重忠は「元より意趣はない、父と叔父の立場に配慮して出陣したのである。では重忠も引き上げるから各々も三浦に帰り給え」と答えて双方が面目を保ちつつ合戦を回避した。
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これで済めば良かったのだが好事魔多し、思わぬ事態が勃発する。義盛の下人が早とちりして椙本館(義盛の父・椙本義宗の館、現在の杉本寺)に駆け込み、三浦本隊から離れて亡父の館に立ち寄っていた義盛の弟・義茂に「由比ヶ浜で合戦っ!」と報告したものだから、義茂は兄の危機を救おうと由比ヶ浜に駆け付けた。
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義茂が犬懸坂を駆け下ると甲冑の武者4~500騎が見えたため大声で叫びながら突入した。それを見た畠山勢は「和平の話は嘘か、援軍を待つ口実か」と攻め掛かり、義盛勢も「義茂を討たせるな、戦え」と押し寄せ、鐙摺を目差した三浦義澄も小坪浜に取って返した。畠山勢は「三浦勢に加えて上総・下総も加わったか、多勢に囲まれては不利だ」と考え、防戦しながら退いた。三浦軍は勢いに乗って攻めかかり、ついに本格的な合戦になってしまった。
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※犬懸橋: 杉本寺(椙本館)前の犬懸橋で滑川を渡り(地図)、そのまま南下し釈迦堂口の東を越えて大町に下る山道が現在も通じている。この道が狩猟の際に猟犬が走り
廻った犬懸坂で、由比ヶ浜までは直線でも4km近いから義茂も大変だっただろうね。
ちなみに滑川は大刀洗川→ 胡桃川→ 滑川→ 座禅川→ 夷堂川→ 炭売川→ 閻魔川 と名を変えて由比ヶ浜に流れ込む。名前の由来を調べるのも面白い。
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和田義茂の奮戦によって畠山側は連太郎・河口次郎大夫・秋岡四郎など屈強の武者30余人が討たれ負傷者も多数、三浦方は多々良十郎と同・次郎と郎党二人が命を落とした。一旦は兵を引いた畠山重忠は 河越重頼(従兄弟)と 江戸重長(叔父)と共に兵をまとめ、翌々日になって衣笠城に攻め寄せる。

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右:三浦・衣笠の義明山満昌寺に残る大介義明の首塚     拡大画像なし
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月26日 】
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畠山重忠 は平家の恩に報いるため、また由比ヶ浜の屈辱を晴らすため三浦を攻撃、秩父氏の家督を継いだ 河越重頼 と縁戚の 江戸重長 も 同意して寄せ手に加わった。三浦一族は衣笠城に籠り、東の木戸(大手)は 義澄義連 、西の木戸は和田義盛 と金田頼次、内側は長江義景と大多和義久らが固めた。夜が明けて、河越重頼・中山重實・金子・村山ら数千騎が押し寄せ、三浦の兵も善戦したが連戦の疲労に加えて矢が尽きたため城を捨て逃げ去った。
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当主 義明 は「源氏累代の臣として再興の機会に巡り合ったのは幸いだが、既に80歳を過ぎて久しい。私は余命を頼朝殿に捧げ、子孫の栄誉に貢献しよう。皆は急ぎ退去して頼朝殿に合流せよ、私は城に残り、重頼に多数の兵が籠っていると思わせよう」と言った。義澄らは泣きながら命令に従って落ち延びた。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 9月29日 】
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   頼朝は義明の菩提を弔う寺の建立を考え、中原仲業 に命じて三浦矢部郷を巡検させた。
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寺伝に拠れば、頼朝は義明十七回忌の建久八年(1197)8月27日に満昌寺 の廟所を訪れて法要を営み、「89歳で没した義明は今も心の中で生きている」と語った。
これが転じて89+17=106歳、地元に伝わる「鶴は千年 亀は万年、三浦大介百六つ」の囃し言葉になったらしい。満昌寺本尊は室町時代の作による華厳釈迦像、廟所の五輪塔と宝篋印塔と板碑などは鎌倉時代末期から南北朝時代の作である。
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建久七年~九年は吾妻鏡の記載が脱落している空白期間となる。従って満昌寺に関わる記述はないが、当初は天台宗で鎌倉時代末期に仏乗禅師が臨済宗に改め建長寺派に属した。宝永二年(1705)に焼失して寛延二年(1749)に再建、この時に雲龍山を義明山に改めている。
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衣笠城は三浦半島先端部の中央に位置する山城で、数に勝る敵の包囲を突破して5km離れた海岸から船で脱出したと考えるのは合理性が乏しい。義明死没の経緯は判らないが、三浦の本隊は包囲される前に城を捨てて出航したと考えるべきだろう...などと思ってGoogle Earthで調べてみた。
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城址の北東1kmを流れて久里浜に注いでいる平作川の水面は海抜9m、周辺の標高も海抜11m程度だったらしいから、「平安時代末期の海岸線は衣笠城の近くまで入り込んでいた」という話は本当だったのかも。ひょっとして海に続く水路の存在も考えられる、か。

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左:三浦大介義明を弔った来迎寺      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月27日に戻って...】
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辰の刻(朝8時)、衣笠城の 三浦介義明 (89歳)が 河越重頼江戸重長 に討ち取られた。 大庭景親 も数千騎を率いて衣笠に攻め込んだが既に三浦一党の退去後で、空しく引き上げた。
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源平盛衰記に拠れば義明は全滅を覚悟した一族に「敗戦は明らかだが死んではならん、佐殿(頼朝)は必ず生きているから合流して三浦の家を立て直せ。」と説得し、「しかし、私は残る。この歳で既に体は不自由であり、逃げ遅れて一族が滅びたら命を惜しんだ私の恥辱と思われる。逃げ切れずに途中で置き去りにすればお前たちが不孝・不忠と嘲られる」と。混乱する戦況の中で義明は頼朝の再起に期待し、一族の脱出に命を賭けた。
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後に鎌倉に入った頼朝は材木座の能蔵寺(現在の来迎寺)に義明の墓を建立して菩提を弔い、一族を重用して恩義に報いた。来迎寺の墓地には死してなお主君を守るかのように側近の墓が並んでいる。
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草創期の鎌倉幕府に大きな足跡を残した三浦一族は 義明義澄義村 と続き、次の 泰村 の時代(1247年)に鎌倉幕府五代執権 北條時頼 に滅ぼされる(宝治合戦)。やや出来の悪い義村を継いだのが更に暗愚の泰村...傑物の子孫が必ずしも傑物とは限らない。
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更に時代は流れ、同族の泰村に与せず一族を率いて時頼に味方した佐原(三浦)盛時(義明の末子 義連→ 盛連→ 盛時が三浦介として宗家を継承した。一族は城ヶ島に近い荒井城を本拠に450年間も三浦半島を支配したが、義明から13代後の三浦道寸が永正十八年(1516)に伊勢新九郎(後の北条早雲)に攻められ二千の兵は全滅、城兵の血で湾は油を流した様になり、以後は油壺と呼ばれた。三浦一族は二度も北條(北条)に滅ぼされたことになる。
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ちなみに、伊勢新九郎が北条を名乗った事実はない。北条の姓を称したのは新九郎が没した4年後の大永三年(1523)が最初で、この時の当主は二代目の氏綱。「伊勢氏と北條氏の先祖は同族だった」との主張を基にして関東支配の正統性を示すと共に、覇権を握った北條氏に倣いたかったらしい。晩年の新九郎盛時は明応四年(1495)の少し前に出家して「早雲庵宗瑞」を号にしているのみ。
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  ※江戸太郎重長: 平良文 の孫 将恒が秩父に本拠を置いて秩父氏を名乗り、武基~武綱と続く中で武蔵国各地に扶植し繁栄したのが秩父平氏。
武綱の嫡子が重綱、その長男重弘(重忠の祖父)が畠山氏、二男重隆が河越氏、三男重遠が高山氏、四男重継(重長の父)が江戸氏の祖になった。
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頼朝が挙兵した治承四年には一族の長老格である重忠の父・重能と河越重隆は大番役で在京しており、嫡男重忠が一族の棟梁を代行していた。重忠は平家に仕えていた父と叔父の立場を謂わば配慮して 大庭景親 に味方したが、頼朝が上総国から武蔵国に進軍する時点で降伏し、頼朝旗下に加わっている。

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右:真名鶴の岩浦から船出して安房国へ      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月28日 】  頼朝の真鶴出航に関する吾妻鏡記述は一行のみ。
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加藤光員景廉 の兄弟は駿河国大岡牧(沼津北部)で合流、無事を確認し涙を流して富士山麓に潜伏した。
頼朝土肥實平 の配下である貞恒が用意した小舟で眞名鶴崎(真鶴)から安房国を目指した。また 土肥遠平(實平の嫡男)を使者として御台所 政子 に無事を連絡した。
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真鶴観光協会は毎年5月の第4日曜日には「祝いの浜 頼朝まつり」を開催していたが廃止になり、「祝い」の呼称だけが残っている。また土肥遠平は湯河原と小田原の中間に位置する早川荘を相続し、後に安芸(広島)に所領を得て小早川氏の祖となった。嫡男景平は養子で、実父鎌倉幕府の重鎮 平賀義信 の五男。
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【 平家物語 安房落ち 】
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三浦から落ち延びた人々は舟で安房の北にある猟島に上陸し敗残の惨めさが漸く安らいだ。やがて沖合いに一艘の舟が見え、「この悪天候に漁師や商人ではない。頼朝殿の舟か、敵の舟かも知れぬ」と警戒した。次第に近付いた舟には頼朝の笠印が見え、三浦側も笠印を掲げた。頼朝の舟では更に用心して頼朝を打板(脚付きの腰掛け)の下に隠し、その上に武者が居並んだ。三浦方の 和田義盛 が「頼朝殿は乗っていないのか」と問い、頼朝方の 岡崎義實が「我らも行方を捜している」と答えた。
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※岡崎義實: 義明の弟で三浦義澄や佐原義連の叔父、和田義盛の大叔父。相互に疑いを抱くような関係ではない。 三浦方は 義明 が遺した言葉を語り、岡崎義實は 与一義忠
討死のことなど合戦の様子を語り合った。頼朝は隠れる必要はないと考えて打板の下から出た。三浦の人々は大いに喜び、和田義盛は「父が死のうが子孫が滅びようが、頼朝殿の無事を確認した喜びに勝るものはない。挙兵の目的を達成するのは疑いなし、その時には侍たちに国中の所領を分け与え、義盛には侍所別当への任命を。上総権守(藤原)忠清 が平家から関東八ヶ国の侍別当に任命されたのが羨ましかった」と語った。 以下、略

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左:岩浦の瀧門寺と如来廃寺の跡      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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岩地区で訪問した源氏に関わる寺社は曹洞宗の多寶山瀧門寺、帰名山如来廃寺の跡、惟喬親王とその子を祭神とする兒子(ちご)神社の三ヶ所。源平合戦とは、改めて改めて書くほどの関係ではないけれど。
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瀧門寺にも直接の関連はないが、如来廃寺にあった「相州祝村 宝永二年(1705)」と鋳込んだ銘のある半鐘がこの寺に保存されている。「土肥椙山の危機を逃れて何とか海岸に着いた 頼朝嬉しさの余りこの集落を「祝村」と名付けた」という伝承の傍証であり、かつては「祝村」と呼ばれていた岩地区の歴史を物語っている。
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現物を撮影したかったのだが、鐘楼ではなく本堂に保存してあるため残念ながら不可、だった。
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真鶴から脱出する直前の状況を描いた源平盛衰記には 土肥實平 が嫡子 弥太郎遠平 の内通を疑って斬ろうとするシーンが出てくるから面白い、と言うか支離滅裂状態になっている。弥太郎は小早川村(石橋山東麓の早川荘)を本拠とした 小早川遠平 で、妻は 伊東祐親 の娘(工藤祐経 の前妻)。後に勲功で得た安芸沼田荘(広島県竹原市)を養子の景平(平賀義信 の五男)に任せ、本領の早川荘を嫡子維平に継がせている。
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【 源平盛衰記 頼朝が舟で逃れ三浦一党に会う事 】
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土肥實平は「出富の小検校」という漁師の小舟で真鶴の岩海岸から舟を出そうとした。子息弥太郎(遠平)が言うには「万寿冠者が来る筈なので暫く待って頂きたい」と。
弥太郎は伊藤入道(伊東祐親)の娘婿で、万寿冠者とは子供のない弥太郎が妹の子を養子に迎えていた。母方の祖父伊藤入道に預け、娘にとっても婿にとっても養子だが入道が不憫に思い養育していた子である。

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  ※妹の子を養子: 遠平に男子がいなかったのは事実らしいが、養子に迎えたのは 平賀(大内)義信 の五男、北陸で戦死した 伊東祐清 の寡婦が義信に再嫁し産んだ子で
成長して景平を名乗っている。
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實平は弥太郎が「万寿冠者を待つ」と言うのを怪しんだ。「ずっと土肥杉山に隠れていた七騎の他には誰も知らない。敵方である伊藤の許にいた万寿冠者が知る筈はない。
弥太郎は万寿冠者を理由にして舅の伊藤入道が押し寄せるのを待ち、重代の主君を裏切り親を殺そうとするか。岡崎殿、首を討ってくれ」と言うと岡崎(義實)は「いくら舅でも主君や親に替わる筈はないが、いずれにしろ早く舟を出す方が良い」として漕ぎ出した。
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吾妻鏡は「頼朝は出航(8月28日)に先立って無事を報告するため遠平を伊豆山の政子の許に派遣した」と書いている。岩浦と伊豆山(阿岐戸郷)の距離は10kmだから報告を済ませてトンボ返りした可能性もあるが、途中の土肥一帯には大庭と伊東の軍勢が展開していたのを考えると引き返すリスクは避けただろうし、中村氏と伊東氏は比較的近い縁戚で憎み合うほどの関係ではない。源平盛衰記が面白く脚色したと考えるべきか。「伊藤」は原文の通り。
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4~500mほど沖で振り返ると万寿冠者と共に伊藤入道率いる50余騎、更に 大庭三郎景親 の千余騎が浜辺に押し寄せた。危うく何を逃れた一行は安房国洲崎(現在の館山市・地図)を目指して急いだが沖の風が強く、何処とも知らぬ渚に吹き寄せられてしまった。
頼朝が場所を問い掛け、實平が船縁に立って見回すと相模国早川の河口(岩漁港から北10kmの小田原漁港・地図 付近)で、しかも土肥から撤退中の大庭勢3千騎が篝火を焚いて幕を張り酒宴をしている陣の近くに吹き寄せられていた。

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右:延喜年間(900年代初頭)創建と伝わる兒子神社    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 源平盛衰記 頼朝が舟で逃れて...は更に続く 】
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「杉山で死ぬ筈の身が大菩薩の加護で逃げられた、ここで見捨てられるのか」と、頼朝 は思った。
真平(實平)は「この辺の者はみな私の家人だから酒肴を調達しよう」と舟から降り「我らの主君がこの浦に着いた、真平に心を寄せる者は酒肴を進上せよ」と叫び、人々は競って酒肴を舟に運び入れた。舟の中は暗かったが敵の篝火の光で頼朝は酒を呑んだ。誠に八幡大菩薩の加護である。
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やがて風が止み波も鎮まったので漕ぎ出し、安房国洲崎に着いた。三浦一党は頼朝を捜して安房上総の浦々を漕ぎ回っており、頼朝の舟も三浦の舟も互いを怪しみ容易に近寄らなかったが、語り合った末に船底から頼朝が姿を見せた。三浦は「義明が言い遺したのは真実だった」と喜んだ。
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岡崎義實は石橋山で与一が討たれた事を話して泣き、三浦は小坪合戦と衣笠合戦と大介(義明)の言葉や老いた父を見捨てた事を語って泣いた。一方では将来を担う若者を先き立たせたのを悲しみ、一方は老人を見捨てたのを悲しんだ。
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和田小太郎(義盛)は「嘆いても詮無いないこと。合戦で死ぬのは覚悟の上で、話せばそれだけ悲しみが増す。この上は主君に従って平家を滅ぼし、恩賞を得て栄えるのを考えよう。義盛には侍別当の任を賜りたまえ、上総権守忠清(藤原忠清)が平家から関東八ヶ国の侍別当に任命されたのが羨ましかった、他の者はこの職責を求めないように。」と願った。頼朝は「少し早いが、生き延びて(覇権を得たら)そうしよう」と笑った。
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【 その後の土肥氏小早川氏 】
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小早川(土肥)遠平 一族は建暦三年(1213)の和田合戦で縁戚関係が深かった 和田義盛 に味方して滅亡。既に家督を維平に譲っていた遠平は「和田合戦には関与していない」との主張を貫き通して処分を逃れ、安芸へ移って土着した。子孫には関ヶ原で東軍に寝返った小早川秀秋がいる。ただし戦国時代の小早川氏は毛利氏に呑み込まれており、更に秀秋自身も養子(秀吉の正室寧々の甥)なので土肥氏の末裔とは言えない。

左:鋸南町竜島 頼朝上陸地の碑      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月29日】  頼朝の猟島到着も吾妻鏡の記述は一行のみ。
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頼朝土肥實平 を伴い小舟で安房国平北郡猟島に上陸。北條時政 ら先着の人々が出迎え、数日続いていた鬱念が晴れた。
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  ※平北郡猟島: 現在の鋸南町竜島港南側に頼朝上陸の碑がある(地図)。JR内房線安房勝山駅から約700mの猟島付近に
上陸したのは史実だろうが、もちろんピンポイントで石碑の位置に第一歩を印した訳ではない。
ちなみに湯河原~三浦は海路60kmで三浦~竜島はわずか12km、意外に思うほどの近距離にある。
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当時の安房国は安西・金余・丸・東條・長狭の5豪族が支配しており、長狭氏以外は頼朝に従った。上陸した猟島一帯は「安房の西」を領有していた安西氏の所領で、三浦一族と縁戚関係にあったと推測されている。三浦一族や土肥一族が頼朝を安房国猟島に導いたのは偶然ではなく、頼朝挙兵に対応して協力し合うのを事前に確認していた筈だ。
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頼朝の安房国上陸地点については諸説あり、現在では鋸南町の竜島(旧名を猟島)が定説。少し沖にあった小さな飯島は土肥實平または 三浦義澄 が頼朝一行のために炊飯した場所だと伝わっているが、ほぼ水没している。
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【 鋸南町に残る愉快な、と言うか馬鹿馬鹿しい伝承の数々 】
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名主の歓待を受けた頼朝は危機を脱した嬉しさから「天下を得た時には安房一国を与えよう、と言った。名主は聞き間違えて「粟一石なら裏の畑で取れます。それよりも姓を賜るように」と願い出た。頼朝は「そうか、馬鹿な奴だ」と言ったそうな。以来この土地には「左右加」と「馬賀」という姓が続いている、と。
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9月3日に 上総廣常 の館に向かう途中で頼朝が止宿した民家の襲撃を企んだ長狭六郎常伴の動きを三浦義澄が察知し、逆に攻め込んで追討した。鴨川市西部、1971年の町村合併までは長狭町、長狭常伴は 和田義盛 の父・杉本義宗と戦って矢傷を負わせ死没させた、義盛にとっての仇敵でもある。
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  ※上総廣常: 房総平氏惣領家の頭首(筆頭者)とされる。当初は 源義朝 の郎党で保元の乱・平治の乱を通じて 悪源太義平 に従って参戦している。
義朝の敗死後は領国に戻って平氏に従った。家督をめぐる内紛、平家の家人 伊藤(藤原)忠清 との対立、平家が下総に触手を伸ばした事、などから反平家に舵を切った、と伝わっている。本拠は大原町・御宿町周辺とされるが、明確になっていない。
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伝承では、頼朝連合軍は現在の鴨川市で長狭氏を滅ぼし(史跡 魚見塚一戦場公園、地図)、上陸から14日後の9月13日に精兵300騎を従えて上総国を目差した。
10月2日には江戸氏・川越氏・畠山氏らを味方に加えて隅田川を渡り、6日には弱冠17歳の 畠山重忠 を先陣にして鎌倉に入るのだが、房総半島での二ヶ月間の史跡探索は、いずれ改めて。いつになるか判らないけど、房総半島のどこかに転居しようか、なんて話も出ているからヒョッとするとヒョッとするかも (笑)。

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右:こちらも頼朝伝説の残る、仁右衛門島    画像をクリック→ 鳥瞰図へ
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房総半島を半周した外房の鴨川にも頼朝上陸伝説が残っている。
頼朝は僅かな兵と共に鴨川市太海の仁右衛門島(地図)に上陸し、歓待して再起に協力した島主の仁右衛門に平野の姓と周辺の漁業権を与えた、という。仁右衛門島の詳細(紹介サイト)を参考に。
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仁右衛門島は「平野仁右衛門」を名乗る島主の私有地で、現在の当主は38代目。既に漁業権はなくなっているが、観光収入によって島の維持管理を続けているという。観光客は今どき珍しい二丁艪の和船で島へ渡る。渡船の往復を含め観光料金は1350円、島には食堂や売店も完備している。
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【吾妻鏡の日付を根拠にすれば、】
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    8月23日・・・・夜、石橋山合戦。 頼朝 軍は惨敗し、頼朝主従は土肥郷方向へ逃走。
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    8月24日・・・・頼朝主従は堀口で抗戦するが敗北、頼朝は椙山を経て箱根権現へ。
             同日早朝、頼朝敗北を知った三浦軍は酒匂川の周辺から撤退し三浦へ。
             夕刻、三浦軍は逗子海岸に近い小坪で 畠山重忠軍と遭遇して合戦。
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    8月25日・・・・甲斐源氏の 安田義定 軍が駿河に進み、富士南麓の波志太山で 俣野景久 軍と遭遇し合戦、俣野景久は敗走。
             同日、箱根権現も危険なため頼朝は再び土肥郷へ。甲斐に向った北條時政 は頼朝の所在確認のため土肥郷に戻った。
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    8月26日・・・・畠山重忠川越重頼 ・中山重實・ 江戸重長 らが衣笠城を攻撃、当主 三浦義明 は籠城し嫡男 義澄 らは脱出し舟で安房を目指す。
             大庭景親渋谷重国 館(現・綾瀬市)を訪れ佐々木兄弟が頼朝に与した事を抗議。夜、佐々木兄弟が 阿野全成重長 を伴って渋谷館に入る。
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    8月27日・・・・早朝、三浦義明が戦死。北條時政義時岡崎義實 、近藤七国平らが岩浦から出航、海上で義澄一行と出会い安房国に到着。
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    8月28日・・・・土肥實平が手配した小舟で頼朝は岩浦から安房国に出航。土肥遠平は仔細を連絡するため政子が隠れた伊豆山へ向かった。
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    8月29日・・・・頼朝は土肥實平を伴って安房国平北郡猟島に到着、先発していた北條時政らが出迎えた。

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左:逃げ切れなかった二人、北條宗時と狩野茂光    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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その後の頼朝は東国一の勢力を誇る 上総廣常千葉常胤 を従え、更に武蔵国秩父平氏諸族を吸収して膨れ上がり、畠山重忠‬ を先陣として鎌倉に入った。異母弟の 範頼阿野全成義経も加わり、同年の10月20日には富士川で平家の追討軍を敗走させた。更に 木曽義仲‬との覇権争いを経て、元暦二年(寿永四年・1185年)3月24日には壇ノ浦に平家を滅ぼして武士の政権を樹立させていくのだが、石橋山合戦では付き従った多くの将士を死なせてしまった。
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伊東一族の本家筋にあたる 狩野茂光 は土肥から北條を目指して逃げる途中の函南で自害し、同行した 北條時政 の嫡男 三郎宗時伊東祐親 の手勢に囲まれ、地元小平井の名主・紀六久重に討たれた。
紀六久重は伊東祐親の郎党とする説もあり、掃討戦だったのか落武者狩りだったのか判然としない。高台にある墓所は「時まっつぁん」と呼ばれており、紀六久重が宗時を時政と間違えて「時政を討ち取った」と叫んだ故事から発端らしい。
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宗時戦死の数年後、父の時政は捕縛した紀六久重を殺し、墳墓堂を建てて宗時の菩提を弔った。狩野茂光は嘉応二年(1170)に追討軍を指揮して伊豆大島の 為朝 を討伐した、狩野川上流の豪族(伊豆介)である。広大な牧草地を支配して近隣では随一の武力を誇っていたが肥満体のため馬に乗れず、輿では逃げ切れぬと考えて自刃。石橋山合戦を共に戦った孫の 田代信綱 に命じて介錯させた、と伝わっている。
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【 豪族・狩野茂光について 】
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狩野一族は平安末期から戦国時代まで狩野川の中・上流一帯を支配した豪族で、藤原南家の工藤氏から出ている。修善寺温泉と船原温泉に挟まれた柿木川沿いに史跡・狩野城址が残されており、郭・土塁・空堀のある中世の連郭式山城の典型的な形が残っている。両側に険しい崖が続く細い尾根道を30分ほど歩くと本郭のある頂上に至る。大庭景親 率いる平家軍は函南から柿木まで兵を進め狩野城を攻め落としている。
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※藤原南家工藤氏: 藤原鎌足の次男不比等の長男武智麻呂を祖とするのが藤原南家、弟の次男房前を祖とするのが藤原北家、武智麻呂の屋敷が房前の屋敷より南にあった
ので南家、これが其々の語源である。武智麻呂の子孫 為憲が仁寿八年(852)に宮殿造営職の次官(木工助)に任じて工藤大夫を称したのが工藤姓の最初、彼の孫 維景が伊豆国狩野に土着したのが狩野姓の最初で、伊東・伊藤・二階堂など諸族の源流となった。工藤氏の一派は駿河にも土着した。
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その後の狩野一族は伊豆の雄として歴史の流れに何度か登場し、最後は伊勢新九郎(後の北条早雲)と戦い武家としての最後を迎えた。狩野茂光は伊東祐親の叔父(父・祐家の弟)にあたり、伊豆に割拠した土豪たちもまた、相模や武蔵の住人と同様に一族が敵味方に別れ源平の戦いに加わっている。
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ちなみに、狩野氏の子孫が室町時代から江戸時代にかけての画壇で活躍し狩野派の開祖となった 狩野政信 (wiki) 。「鎌倉時代を歩く 壱 の参」、鎌倉時代の胎動、伊豆韮山 の 狩野城訪問記 に訪問の詳細を載せておいた。

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右:函南の桑原薬師堂と新光廃寺跡      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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宗時&茂光の墓所から2kmほど北の山間に「桑原薬師堂」がある。頼朝文覚上人 と挙兵の相談をした伝承を持つ長源寺の境内にある。管理は長源寺と桑原地区の住民が共同で受け持ってきたが、平成20年に函南町に寄付されて行政の管理下に入った。信仰の対象だった仏像が辿る現代の宿命だろうか。
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桑原地区は平安時代初期に箱根権現の神領となり、天平宝字元年(757)に箱根の山岳宗教を統合した 萬巻上人(wiki)の隠居所を兼ねた菩提寺として開かれた小筥根山新光寺があった。
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この新光寺が廃寺となった時期は明らかではないが、薬師堂の登り口から来光川に沿って300mほど北の水田に寺の跡と伝わる礎石が残っている。付近には新光寺の遺物と思われる巨石が無造作に集められているのも目を惹かされた(廃寺跡の地図)。1300年近い昔の雰囲気を味わえるエリアである。
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箱根神社および裏山に設けられた萬巻上人の奥津城(神道の墓所)の 画像と詳細 を併せて参照されたし。
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薬師堂本尊の薬師如来坐像は元々は新光廃寺の本尊であり、名のある都の仏師の作と推定される。60年ごとに開帳される秘仏として長く伝わってきたが、2005年頃から土日のみ拝観できるようにり、現在は近くに完成した新しい かんなみ仏の里美術館(公式サイト)で公開されている。
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薬師堂には薬師如来坐像の他にも平安時代の中盤~江戸時代の仏像が20体ほど収蔵されており、両側に脇侍を従えた阿弥陀如来像の内部には 實慶の銘が残る。実慶は鎌倉時代初期に伊豆から相模にかけて造仏に従事し、承元四年(1210)には修禅寺本尊の大日如来坐像を彫った大仏師。運慶 を頂点とする奈良仏師の集団「慶派」の一人である。

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左:桑原薬師堂に伝わる20体の仏像    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【慶派の仏師と東国の関係について】
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平安末期に最も力のあった京都の仏師(院派・円派など)が朝廷や平家と深い関わりを持っており、覇権を握った 頼朝 も勝長寿院の本尊には奈良仏師の嫡流大仏師の成朝に本尊の阿弥陀如来像を造らせている。個人的には、韮山の願成就院にある仏像数体は運慶の作ではない、と思う。根拠は幾つかあるが、それは改めて。
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年代をだけ考えると、文治元年(1185)10月に入京した 北條時政義経 追討の名目で朝廷に圧力を加えて守護地頭の設置を認めさせ、翌年4月に鎌倉に帰還している。そして 運慶 が韮山・願成就院の造仏を始めたのは文治二年の5月3日と記録されているから、計算は見事に合致する。
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万巻上人は奈良時代の僧で箱根権現を確立させたのが760年頃、没年は不詳だが西暦800年より前には没している。当然ながら函南の阿弥陀如来&脇侍像を彫った 實慶 とは無関係で、この像は1180年に戦死した宗時墳墓堂の本尊として時政が発注したと考えるのがノーマルだろう。では、なぜ願成就院で実績のあった運慶ではなく、實慶だったのか。そして造像の年代は? 残念ながら胎内の銘は「大仏師實慶」のみで、年代の記入はないらしい。関東における實慶の作品は、多分 政子頼家 の菩提を弔って承元四年(1210)に寄進した修禅寺本尊の大日如来坐像が筆頭だが、吾妻鏡の宗時に関する記事が少し気になっている。
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【 吾妻鏡 建仁二年(1202) 6月1日 】
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   遠州(北條時政)伊豆国北條に下向された。夢想のお告げがあり、亡き長男北條三郎宗時の菩提を弔う法事を執り行うためである。
   宗時の墳墓堂は伊豆国桑原郷にある。

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願成就院の仏像足利樺崎寺の遺物甲斐武田の願成寺修禅寺の仏像群 (四項とも別窓)を並行して比較参照するのも面白い。




 
 その八 頼朝の鎌倉入りと富士川合戦 


右:頼朝は隅田川を渡り、武蔵国を経て鎌倉へ      画像をクリック→ 鳥瞰図へ
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隅田川右岸に遊歩道が続く南千住の汐入公園から、頼朝の渡河地点と伝わる白鬚橋を遠望。左側は防災機能で名高い都営白鬚アパート、すぐ近くに新名所スカイツリーが見える。橋の上流右岸、このまま遊歩道を進んだ右手の石濱神社(地図)付近に渡し場があった。
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この年・治承四年(1180)に湯河原から安房へ脱出し、千葉常胤 の全面的な協力を得た 頼朝 は三万余騎を率いて江戸川~隅田川を渡り武蔵国へ、更に 畠山重忠川越重頼江戸重長 など秩父平氏系武士団の帰順を容れて鎌倉を目指す。
同じく打倒平家の旗を挙げた甲斐源氏を含めれば(実数は3割程度と考えるべきだが)、総勢五万余騎の大軍である。
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9月8日には 北條時政 を甲斐国に派遣し、甲斐源氏を伴っての信濃平定を命じた。翌9日には千葉常胤の元に派遣した 足達盛長 が戻り、常胤の全面協力を報告。この地は要害でもないし源氏所縁の土地でもないから鎌倉を目指すべき、との意見を持ち帰った。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月19日 】
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上総廣常 が領国の軍勢二万騎を率いて墨田河に参上したが頼朝は廣常の遅参を怒り、許す気配を見せなかった。廣常は諸国の武士が 平清盛 の支配下にあるのを知っており、頼朝の器次第では討ち取って首を平家に差し出すつもりで服従を装ったが、万余の援軍を見ても喜ぶどころか遅参を咎める態である。これは大物だと感じ、改めて臣従した。
昔日に 平将門 が叛いて東国を占領した時に、藤原秀郷 が味方を装って参上すると喜んだ将門は髪も梳かずに出迎えた、秀郷はその人品の軽さを感じていずれ討ち取る事になると判断、実際に首を獲る結果になった。
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頼朝は9月17日に下総国府(市川市の国府台公園付近)に入り、19日には8km西の墨田河で遅参した上総廣常を厳しく叱責した。吾妻鏡はその態度に感動した廣常が害心を捨てて臣従を誓ったと書いているが、頼朝の偉大さを殊更に強調した節が見える。上総廣常は平家の落日を予感し、更に上総に流されて廣常の丁重な庇護を受けていた 藤原忠清 が清盛の意向で国司に任じた際に傲慢な態度を執った事もあって、躊躇しつつ源氏に乗り換えたのだろう。
早めに臣従した同族の千葉氏が相馬御厨の所有を争っていた平家方の佐竹氏に対して優位に立ちそうだったのも判断の要因だった。
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   ※相馬御厨: 利根川を挟んで茨城県南部~千葉県北部に広がっていた伊勢神宮の荘園。千葉常胤 の父・常重が立荘し伊勢神宮に寄進していたが、兵力に勝る佐竹氏に押領
されていた。千葉常胤は頼朝の力を利用して御厨の奪回を狙い、計画は成功した。上総廣常遅参の思惑は佐竹氏と組んで所領の拡大を狙うべきか、頼朝と組んで佐竹を追討するか、その見極めの遅れも一因だった。
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   ※藤原忠清: 保元の乱(1156)以前から平家の家人で上総流罪の理由は明らかでない。平家物語に拠れば、国司に任じたていた際は坂東八ヶ国の侍所別当(軍事の長官)
を兼ねていた。この官位を羨んだ 和田義盛 は安房へ落ちる船の中で頼朝に侍別当を望んだ、と書いている。忠清は富士川合戦でも侍大将に任じ、平家都落ち後の元暦元年(1184)には伊勢で三日平氏の乱を起すなど抵抗したが、壇ノ浦合戦の平家滅亡後に志摩で捕獲され斬首となった。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月1日 】
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甲斐国の源氏が精兵を率いて進んでくる情報が駿河国に伝わり、目代の橘遠茂は兵を奥津の付近に集結させた。一方で石橋山合戦の後に分散して逃亡していた頼朝兵力のほとんどは鷺沼(現在の習志野市役所付近)の頼朝の宿営地に集まった。醍醐禅師(頼朝の異母弟今若丸、後の 阿野全成)も修行を装って 醍醐寺(公式サイト)を抜け出して参上したため頼朝は感涙を流した。
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頼朝の異母兄 義平、同母兄の 朝長、同母弟の 義門 の三人は平治の乱で死没し、土佐流罪になった同母弟の 希義 は頼朝に呼応して挙兵し運に恵まれず討死。蒲御厨(伊勢神宮の神領・浜松市東部)で育った異母弟の 範頼(蒲冠者) は遠江国(静岡県西部)で甲斐源氏と共に平家と戦っていた。
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雑仕女(九条院(近衛天皇妃)の下位の召使)から義朝の側室になった 常盤 が産んだ三人の異母弟は今若丸(醍醐禅師、後の阿野全成 が習志野で、牛若丸(義経)が10日後の黄瀬川で合流、乙若丸(義円)の合流時期は不明だが、翌年10月の墨俣川合戦で戦死している。
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   ※奥津: 現在の静岡県興津で奈良時代からの関所(清見寺付近)があった。富士川合戦の際は 平維盛 率いる平家軍が本陣を置いた。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月2日 】
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頼朝は千葉常胤、上総廣常らと共に大井(※)の墨田河を渡り三万余騎を従えて武蔵国に入った。豊島清元葛西清重 が参上し、更に前もって命令を受けていた 足立遠元 が出迎えた。また故 八田宗綱の娘(頼朝の乳母、下野大掾 小山政光の後妻 寒河尼) が末の息子を伴って墨田の宿舎を訪れ昔話に花を咲かせた。
頼朝は尼の願いを容れ、末子(14歳)の奉公を許して烏帽子親となり、小山七郎宗朝(後の 結城朝光) とした。
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   大井河: 住田川(隅田川)と共に下総と武蔵の境だった江戸川で、古名は太日河(ふとひがわ)とも。その後に大井に転訛した、か。

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左:頼朝挙兵当時の東国の勢力図
    画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月4日 】
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畠山重忠川越重頼江戸重長 を伴って長井の渡(現在の白髭橋付近か)に参上した。
彼らは敵として 三浦義明 を討ち、義明の嫡子 義澄 ら三浦一党は頼朝に従って軍功を挙げた。頼朝は彼らが今後は味方となる旨を三浦一党に言い含めた。三浦も納得し互いに眼を合わせて列座した。
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墨田河に着いた9月17日から渡河して武蔵国に入った10月2日まで15日を要しているが、頼朝はこの間に 江戸重長を呼び、秩父平氏一族を懐柔している。畠山重能(重忠の父)や 小山田有重(重能の弟)が在京している現在は汝が秩父平氏の棟梁である。同族の武者を連れて参加せよ」 と命じ、畠山や川越など石橋山合戦当時は 大庭景親 勢に与力して頼朝に敵対した秩父平氏諸族を説得に当たらせた。
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※汝が棟梁: 説得を命じたのが9月28日。頼朝は翌29日に 葛西清重 を呼び 「もし江戸重長が従わない様子なら誘い出して殺せ」
と命じている。頼朝の猜疑心、面目躍如!
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こうして大庭景親が召集した平家軍の結束は崩れ、下総・武蔵 ・相模・伊豆 の敵対勢力は概ね無力化した。武蔵国一帯の秩父平氏系が平家側に味方したら、双方の兵力はかなり拮抗して風雲急を告げる事態を招いた筈で、頼朝にとっては正念場であり、秩父平氏としても 甲斐(武田系)+下野(足利・新田・小山)+常陸(志田)の源氏を敵に回す事になるかも知れない分岐点だった。源平盛衰記は畠山重忠の逡巡を含め、この間の動きを更に細かく描いている。
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【 源平盛衰記では... 】
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畠山次郎(重忠)は家臣の半沢六郎成清を呼び、「頼朝の勢いは尋常ではない。八ヶ国の武者が皆帰服したのを考えれば参上するべきか、しない方が良いか。父の重能や叔父の小山田有重が在京しているため小坪坂(由比ヶ浜)で三浦の衆と戦ってしまったが...」と問い掛けた。
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成清は「保元の乱の先例を見れば親兄弟が敵味方に分かれて戦うのは武者の常、それは三浦の衆も承知でしょう。また平家は一代の恩であり、源家は四代に亘る主筋です。遅参すれば討手を向けられ大事になりますから参上して全てを話すべきでしょう。」と。
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重忠は500余騎を引き連れ白旗と白弓袋を掲げて頼朝の陣に入った。この白旗は 八幡太郎義家 に従って 清原武衡清原家衡 を討った合戦(後三年の役)で拝領したものである。頼朝は重忠の帰順を許し、鎌倉入りの先陣を命じた。当時17歳の若武者にとっては最高の栄誉である。

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※江戸重長: 畠山重能の父重弘の末弟である重継の嫡子。江戸重長と三浦義明室と畠山重能と小山田有重は秩父平氏の従兄弟同士。重忠や稲毛重成や河越重頼は近い縁戚で、
重能と有重が留守なら重忠が秩父平氏の嫡流、一族の年長者を選ぶならなら重長が該当する(「坂東平氏の系図」を参照)。
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※半沢六郎成清: 吾妻鏡では榛澤成清として、重忠主従が討たれた25年後の元久二年 (1205)6月22日、二俣川合戦の件に記載がある。
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郎従本田近常と榛澤成清らは「討手は幾千万騎とも判らないから急いで菅谷に引き上げて迎え撃ちましょう」と進言したが重忠は答えて、「家や家族を忘れて戦うのが武将の本懐である。重保が討たれたからには家を顧みる必要もない。正治元年には 梶原景時 が一之宮館から退き、暫くの命を惜しんで(京に向かう途中で)討たれた。(菅谷に籠って)以前から謀反を企んでいたと思われるのも恥辱である。」と答えた。
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この時重忠は42歳、成清は50歳前後か。重忠を好意的に見れば真っ直ぐな坂東武者、厳しく見れば人の意見に耳を傾けない頑固者、に成長していた。
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※四代の主筋: 源平盛衰記は、重忠から四代前の秩父武綱が後三年の役で 八幡太郎義家が与えた白旗を掲げて先陣を務め、清原氏討伐に大きく
貢献した。平家物語では少し異なり、永承六年(1051)に前九年の役で陸奥国に向う途中の武蔵国府で秩父武綱が義家の父 頼義 から「奧先陣譜代ノ勇士」(奥州戦役の先陣を務める譜代の勇士)として白旗を授けられた、とある。
重忠の系図は平武基→ 秩父武綱→ 重綱→ 重隆→ 畠山重能→ 重忠と続く。頼朝は前例に倣って重忠に先陣を命じたのだが、折に触れ(もちろん計算の上で)偉大な先祖を真似しているのが面白い。潜在的コンプレックス抱いていたか。
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※武蔵国府: 現在の京王線府中駅南の 大国魂神社(公式サイト)の東側が武蔵国庁跡に比定されている。大国魂神社の祭事は一種の乱婚(乱交)を伴なう種付け神事である
「くらやみ祭り」で知られている。神社の創建(伝承)は景行天皇四十一年(西暦111)、国府制度が確立したのは大化の改新(645)以後の660年代。平安時代の武蔵国は埼玉県と東京都の全域に川崎市と横浜市を加えた広大なエリアだった。

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右:元々の鶴岡八幡宮(由比若宮)   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月6日 】
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頼朝は 畠山重忠 を先陣とし 千葉常胤 を従えて鎌倉に入った。建設が間に合わず民家を宿舎とした。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月7日 】
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頼朝はまず鶴岡八幡宮(由比若宮)を遥拝した。次に故 義朝 の亀ヶ谷旧宅跡を訪れ館を建てる指示を下したが土地が狭く、更に 岡崎義實 が義朝の菩提を弔って建てた堂があったので中止となった。
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【 頼朝が鎌倉を目指したのは、先祖の頼義と義家の例に倣ったのが理由の一つ。 】
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三方を山に囲まれた要害の地だった事に加えて、源氏と鎌倉の接点は頼朝から六代前の 頼信 まで遡る。五十六代 清和天皇 の皇子が貞順親王、その子が臣籍に下った 経基王(源経基)、その長男が摂津源氏の祖 頼光(子孫に 三位頼政、更に末裔に太田道灌)。次男が大和源氏の祖 頼親、三男が河内源氏の祖 頼信、嫡子の頼義→ 義家→ 義親→ 為義→ 義朝→ 頼朝へ、源氏の主流として華々しく歴史を彩っていく。その活動拠点或い奥欧州と往復する際の通過点だった。
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さて...長元元年(1028)に 平良文国香 の弟 村岡五郎)の孫 平忠常 が下総国で乱を起こし房総一帯を制圧した。追討使には武名の高い 平直方 が派遣されたが鎮圧できず、交代した源頼信が討伐に成功。頼信の下で頼義と共に戦った直方は彼の武芸に感銘を受け、娘と共に所領鎌倉の領有権を贈った。この時から鎌倉が東国での源氏の拠点となり、頼朝が父祖の地として幕府を樹立する原点となった。頼義と直方の娘の間には 八幡太郎義家 と賀茂次郎義綱と 新羅三郎義光(異母説あり)が産まれて勇名を馳せ、一方で乱の首謀者だった忠常の子孫には上総氏と千葉氏が出ている。

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左:政子が避難先の伊豆山阿岐戸郷から鎌倉へ    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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南関東一円をほぼ制圧して鎌倉に入った頼朝は直ちに政子を呼び寄せている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月11日 】
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早朝、御台所政子大庭景義景親 の兄)に迎えられて鎌倉に入った。昨夜に伊豆国阿岐戸郷から到着したのだが、日取りが良くないため稲瀬河(現在の江ノ電・長谷駅東側を流れる小川( 地図)近くの民家に宿泊していた。また以前から頼朝の師を務めていた伊豆山の住僧 専光坊良暹も約束通り到着した。
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  ※阿岐戸郷: 伊豆山権現の神領に含まれていた海沿いの険しい崖下の付近(地図)にあったと思われる。陸からの道がなく、舟を
使わないと近寄れないため石橋山合戦の間も安全だった。中世の伊豆山漁港周辺は数回の地殻変動に襲われており、阿岐戸郷は海沿いを走っているビーチラインの下に崩落・水没した可能性も考えられる。
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安倍一族を討伐した前九年の役(1051~62)から都に戻る途中の頼義は康平六年(1063)8月に由比郷の鶴丘に立ち寄って 石清水八幡宮(公式サイト)を勧請し、下若宮と名付けた。更に永保元年(1081)2月、後三年の役(1083~87)を鎮圧するため陸奥を目指した 八幡太郎義家頼義 の嫡男)が立ち寄って修復を加えた社である。
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やがて政子も鎌倉に入り、頼朝は由比若宮を小林郷の北山(現在の鶴岡八幡宮の地)に遷し、元々の地名を再用して鶴岡八幡宮とした。この時から由比若宮は元 (本) 八幡宮と称し、その経緯から鶴岡八幡宮本殿近くには元八幡の遥拝所も設けられている。
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   ※石清水八幡宮: 清和天皇 の貞観元年(859)、宇佐神宮で神託を得た行教(空海 の弟子で奈良 大安寺の住僧)が勅命を受け石清水山寺に国家鎮護の社殿を建立して
勧請した。義家は石清水八幡宮神前で元服して八幡太郎を名乗り、父 頼義が本拠地の壺井(羽曳野市)に勧請した壺井八幡宮が河内源氏の氏神となった。南側にある山名から男山八幡宮とも呼ばれる
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   ※宇佐神宮と神仏習合: 仏教が伝来して最初に迎合した神社が宇佐八幡宮だったらしい。本来は相容れない全く別の宗教だが、東大寺大仏を建立中の天平勝宝元年(749)
に宇佐八幡禰宜(神官)の妻が朝廷に参上して協力を申し出た。朝廷は天応元年(781)に仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈り、これ以後明治維新まで神仏習合の時代が続く。背景となる思想は本地垂迹、即ち「神々とは様々な仏(実体)の化身である」として辻褄を合わせた。時代の流れにに抗し切れず、仏教に擦り寄った最初の神(神官)が宇佐の八幡神だった。
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ついでに...箱根権現や伊豆山権現の「権現」は本地垂迹思想に基づく神号で「権」は仮・つまり仮の姿、「現」は文字通り現れるの意味。「佛が神の姿を借りて現れる」を意味する。

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右:由比若宮を小林郷北山へ遷して鶴岡八幡宮    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月12日 】
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明け方、祖先を崇めるため小林郷北山に設けた社に鶴岡若宮を遷して専光坊を当座の別当に任命し、大庭景義 に宮寺に関する諸事を任せた。この社は第70代後冷泉天皇の頃に伊予守 源頼義 が勅命を受けて 安倍貞任 を討伐した康平六年(1063)8月に加護を謝し、独断で石清水八幡を勧請した由比郷の下若宮である。さらに永保元年(1081)2月には陸奥守 義家が修復を加えた。いま小林郷に遷して厚く崇敬するものである。
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頼義や義家が陸奥国への出陣と凱旋の途中に立ち寄った話は関東・中部の各所に残っている。首都圏近くでは足利や群馬の新田や甲斐にも同じような伝承数ヶ所が伝わっているのは、日本武尊(ヤマトタケル)の東征伝説にも少し似ている部分だ。
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例えば都下府中市の大国魂神社に前九年の役の戦勝祈願した頼義親子は、安倍一族討伐後の康平五年(1062)に立ち寄り欅の苗千本を寄進、今も聳える欅並木の始まりと伝わる。平家物語に拠れば、ここでは出陣前の永承六年(1051)に 畠山重忠 から四代前の平武綱(武基→ 武綱→ 重綱→ 重弘→ 重能→ 重忠と続く)が頼義親子に忠節を誓い「奥先陣譜代の勇士」として白旗を下賜された。この先例は治承四年(1180)に頼朝が下総から武蔵に入る際に重忠が踏襲している。
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また鎌倉と同じ相模国の懐島(現在の茅ヶ崎近郊)に近い鶴嶺八幡宮にも同様の社伝が残っている。ここは頼朝死亡の原因となった相模川橋供養の落馬事故現場に近く、あたかも源氏の隆盛と没落を象徴しているようで興味深い。

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左:同じく、源氏所縁の鶴嶺八幡宮
     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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平安末期、武蔵・常陸・上総・下総と同様に古くから農地が拓けた相模国は大庭御厨など荘園を本拠にした武士団が割拠し、更に東国と陸奥の支配を狙う清和源氏を中心に勢力の離合集散も繰り返されていた。
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鎌倉由比若宮の項で書いた通り、上総国・下総国・常陸国(現在の房総半島と茨城県のほぼ全域)を領有した 平忠常 は長元元年(1028)6月に土着の国人を率いて大規模な反乱を引き起こした。直ちに追討使が派遣されたが鎮圧できずに戦乱は長期に及び、上総・下総・安房は著しく疲弊したと伝わっている。
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長元四年(1031)に追討使の甲斐守 源頼信 が甲斐から上総に入り乱を鎮圧、荒廃した東国も復興に向った。
この実績により坂東平氏の多くが頼信の支配下に入り、清和源氏が東国に勢力を広げる基になった。
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源氏が相模に根を張った最初の地が懐島、鶴嶺八幡宮の社伝はそう主張する。
長元三年(1030年)の9月、源頼義 は平忠常の乱平定の途中で懐島郷に入り、石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈った(宇佐八幡宮勧請説もある)、と。信頼できる史料では乱を平定したのは頼信(当時62歳)で、首謀者の平忠常(当時55歳)は元々頼信の家人だった経緯もあり、特に抵抗せず降伏した。従ってこれを頼義(当時42歳)の手柄とするのは無理で、平忠常追討のため懐島郷に入った源氏の将軍がいたのなら、父の頼信だと考えるべきだろう。
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社伝は更に続き...20年後の永承六年(1051)に勃発した前九年の役の際に、頼義応援のため兵を率いて京を発った嫡子の 義家 は頼信が勧請した懐島郷の八幡宮で戦勝を祈り、後三年の戦役を平定して凱旋する途中の鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮(後の鶴岡八幡宮)を建立した。従って謂わば旧社にあたる鶴嶺八幡宮は「本社八幡宮」と呼ばれ、源氏が相模国に足跡を印した最初の一歩だと主張している。
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鶴嶺八幡宮(公式サイト、地図)も参考に。加えて、鶴嶺周辺には 相模川橋脚史跡御霊神社と西運寺(共に別窓)などの史跡も点在している。

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右:義朝の館跡だった金剛壽福禅寺     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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源氏山の東麓に建つ古刹で山号は亀谷山(源氏山の古名)、臨済宗建長寺派に属する鎌倉五山第三位の禅寺である。「扇ガ谷」は鎌倉時代の末期になって初めて現れた地名で、当初は 英勝寺 から 海蔵寺(共にwiki)付近までを結ぶ狭い範囲(ルート地図)の呼称だったらしい。
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第六代将軍 宗尊親王 に従って鎌倉に入った 上杉重房 が護国寺と英勝寺の中間、横須賀線踏切の東側(上杉管領屋敷跡碑の画像、別窓)に屋敷を構えて扇谷殿(おうぎがやつどの)と呼ばれた事から亀ヶ谷の名が徐々に廃れ、今では全域が扇ガ谷になってしまった。「亀谷」と「鶴岡」は東西に向い合う古い語呂合わせだったのに、亀谷坂だけに残っているのはやや寂しい衰退である。私は扇の様に谷が広がっているから、と思っていたが扇の形をした井戸・扇の井から発生したとの説もあるらしい。
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壽福寺の一帯は 源頼義 が別邸を構えたのが最初で、後に 頼朝 の父 義朝 が東国の根拠地に利用し、一時期は頼朝の異母兄 義平 も住んだと伝わるから、武蔵大蔵の 帯刀先生義賢 襲撃の際はここから出撃した可能性が高い。横須賀線の一帯を中心にすると東西の平地は巾200mほど、頼朝は館(政庁)を置くには狭いと判断した。
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壽福寺本尊は宝冠釈迦如来、正治二年(1200)に 政子 が頼朝の菩提を弔うため開山和尚に臨済宗の開祖 栄西 を招いて創建した。横須賀線に面した山門から中門までの参道と裏手の墓域(大仏次郎らの墓あり)と「やぐら」(政子と 実朝 の五輪塔あり)は公開されているが中門の内側は非公開、本尊を含む仏像群も公開していない。寺域は数度の火災を経ており、特に正嘉二年(1258)には全域を焼失した。現存する建物は殆どが江戸時代中期の再建である。
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ちなみに、嘉禄元年(1225)に没した政子が葬られたのは雪ノ下の南御堂(勝長寿院)で、ここには京で捜し出した義朝主従の遺骨と三代将軍実朝の遺髪も葬られていた。改葬の経緯は不明だが、三回目の火災で焼失した正中二年(1325)または鎌倉公方の足利成氏が下総の古河に移った享徳四年(1455)前後の兵火のどちらか、だろう。頼朝の遺骨は法華堂(現在の白旗神社)へ、政子の遺骨と実朝の遺髪は壽福寺の「やぐら」に改葬されて現在に至る。
義朝 と側近の 鎌田正清らも葬られた 勝長寿院跡(別窓)は既に廃寺となって久しく、近くには二人の慰霊墓が建っている。
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壽福寺本堂を左に迂回して墓地の中を登ると突き当りの崖下が政子と実朝の五輪塔が祀られている「やぐら」群、墓地の途中から左に折れて小道を辿ると源氏山、更に左へ下ると銭洗弁天や佐助稲荷で、右に下ると亀ヶ谷坂切通しを経て北鎌倉に至るハイキングコースとなる。

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左:少し戻って、政庁創建の地 大倉(大蔵)      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月9日 】
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大庭景義 の差配で御所建設が始まり、急を要するため兼道の山内邸を移築した。正暦年間(990~995)に建てた屋敷だが、晴明朝臣の鎮宅護符を貼ったため火災の被害にも遭っていない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月15日 】
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頼朝は鎌倉(大倉)の仮御所に入った。大庭景義の差配で移築修造した屋敷である。
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  ※晴明朝臣: これは陰陽師の安倍晴明(921~1005)。吾妻鏡は「晴明朝臣が護符を貼った」と記述しているが建設当時の
晴明は70歳を越す老齢で一条天皇や藤原道長に重用されており、東国の辺境 鎌倉まで来たとは考えられない。
原文は「晴明朝臣押宅鎮符之故也」、たぶん「晴明朝臣の護符を貼った宅」だろう。
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  ※山内邸: 有力者の執事のような仕事をしていた「兼道」なる人物の屋敷らしい。山内庄は鎌倉北部の大船~横浜市の一帯で、義家
に従って後三年戦役を戦った首藤資通(藤原秀郷 の後裔を名乗る)の孫 山内俊通が領有して山内首藤氏の祖となった。
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俊通の妻 山内尼が頼朝の乳母の一人だった経緯から、関係者の家を移築した可能性が高い。頼朝の乳兄弟だった俊通の嫡子 山内経俊 が石橋山合戦で平家側に与して戦い、頼朝の鎌倉入り後に降伏した。吾妻鏡は助命を願う山内尼と頼朝の会話を詳しく伝えている(下記)。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 11月26日 】  一ヶ月半後の事件だけど山内がらみで。
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山内瀧口三郎経俊 を斬罪に処す内示があった。老母(頼朝 の乳母)がこれを聞き泣いて助命を嘆願、「夫(俊通)の祖父である資通が 義家 に仕え、祖母が 為義 の乳母となって以来ひたすら源氏に忠義を尽し、俊通は平治の乱で討死し死骸を六条河原に晒した。経俊が 大庭景義 に与したのは平家に知れるのを憚った形だけの行為で、石橋山で平家に付いた者の多くが赦免されたのだから、経俊も先祖の功績に免じられるべきではないか」と。
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頼朝は預けて置いた自分の鎧(石橋山合戦で着用)を持ち出すよう 土肥實平 に命じ、鎧の袖に刺さった矢に瀧口三郎藤原経俊の名が書いてあるのを見せた。山内尼は何も言えず涙を拭いて退出した。経俊の敵対行動は明白で罪は逃れ難かったが老母の悲嘆と先祖の功績に免じて罪には問わせなかった。
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  ※山内三郎経俊: 乳母子として優遇された記録はないが御家人として存続し子孫は備後・伊豆多賀・奥州・土佐などに土着している。瀧口は瀧口武者の略称で京都御所の
清涼殿近くにあった警備兵詰所。建物を囲む水路への排水口(画像)があったのが語源。

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右:宇都宮辻子幕府跡(画像)と、若宮大路幕府跡      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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大倉御所の敷地は約54,000㎡(16,000坪)、鎌倉に欠かせない外港 六浦に通じる街道沿いである。
頼朝 の私邸部分に続いて治承四年(1180)には侍所(軍事・警察組織)、元暦元年(1184)には公文所と問注所など政務と訴訟を司る庁舎が整備され、以後の45年間は武家政治の中枢がここに置かれた。
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この建物群は建久二年(1191)と建保元年(1213)に焼失、この時は二度とも同じ場所に再建したが承久元年(1219)12月24日(旧暦だけどクリスマス・イブだ!)に三回目の火災で焼け落ちた後の6年間は御所の東にあった義時邸を仮御所と定め、政庁は一部の機能のみを残して移転したらしい。
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貞応三年(1224)には二代執権 義時 が、翌 嘉禄元年(1225)には 大江廣元尼将軍政子 が相次いで死没し、三代執権に就いた 北條泰時 は宇都宮辻子(二の鳥居北東の雪ノ下教会付近)に新しい御所を建設して移転した。辻子(づし)は「十字路・小路・横丁」などの意味を持つ古語で、ここでは「小町大路と若宮大路を結ぶ横丁で宇都宮氏の屋敷があった」ほどの意味を持っていた。
ともあれ泰時には前の執権義時と尼将軍政子の呪縛(笑)から離れて人心を一新したい気持ちもあった筈で、この気持ちは良く理解できる。
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承久元年(1219)1月に三代将軍 実朝 が八幡宮で殺されて 頼朝 の男系血筋が絶え、12月には治承四年(1180)以来の政庁だった大倉御所が焼け、承久三年(1221)には 後鳥羽上皇 が倒幕を謀った承久の乱が勃発、そして幕府草創を支えた第一世代の北條義時・政子・大江廣元が死没...鎌倉幕府にとっては存続を問われるような激動の数年間となった。
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  ※六浦港: 八幡宮の約8km東、現在の金沢八景にあった外港が六浦。海路で鎌倉に入る物資は主に六浦と由比ヶ浜に荷揚げされたが、朝比奈切通しは荷駄の往来に支障が
あった。一方の鎌倉前浜(材木座と由比ヶ浜)には宋からの大型船も停泊は可能だったが水深が浅く、沖から艀(はしけ)で荷揚げする必要があった。更に外海に面しているため沖に停泊した貿易船の難破も多発していた(下記、吾妻鏡を参照)。
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【 吾妻鏡 弘長三年(1263) 8月14日 】
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    南風が強く、昼頃には樹が倒れ屋根が飛ぶ状態だった。~中略~ 由比ヶ浜に着岸していた数十艘が破損し漂流沈没した。
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【 吾妻鏡 弘長三年(1263) 8月27日 】
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    由比ガ浜の船舶が沈没した際の死人が無数に打ち寄せられた。また鎮西(九州方面)の輸送船61艘が伊豆の海を漂流している。
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幕府は貞永元年(1232)に材木座南側の港湾施設 和賀江島 (wiki) を整備し、仁治二年(1240)には六浦路の 朝比奈切通し (wiki) を広げる開削工事で物流問題の解決を図っている。現在の朝比奈切通しは怖いほど静かな遊歩道に、和賀江島は大潮の干潮時なら徒歩で渡れる浅瀬に変貌した。和賀江島では磯遊びが楽しめるし、磯遊びを兼ねてのんびりと探せば(荷下ろしの際に破損したと思われる)青磁の破片なども拾う事ができる。

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左:鎌倉軍は足柄峠を越えて富士川合戦へ     画像をクリック→ 足柄峠の風景へ (別窓)
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実際には富士川沿岸では合戦と呼ぶ程の戦闘は起きなかった。元々戦闘意欲の乏しかった平家軍は夜間に飛び立った水鳥の群れの羽音に驚いて戦う前に逃げ去った、と伝わる。都から来たプロパーの兵士が少なく、大部分が途中で徴収した部隊で最初から逃げ腰だった、と。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180)10月16日 】  頼朝が大倉の新邸に入った翌日
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頼朝 の意向で鶴岡八幡宮の終日読経が始まった。法華経・仁王経・最勝王経・大般若経・観世音経・薬師経・寿命経などである。八幡宮住僧が勤行し、相模国桑原郷(小田原市北部の酒匂川東岸、地図)を御供料として寄進した。
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今日、(頼朝の軍勢が)駿河に向かって出陣した。平惟盛 率いる平家軍数万騎が13日に手越の駅(安倍川西岸・下記の地図を参照)に到着した旨の報告が届い事による。
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夜になって相模国府の六所宮に到着、ここで箱根権現に早河庄(小田原市の早川河口付近、地図)の寄進を保証する下文に自筆の手紙を添えて別当の行實に送った。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月17日 】
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波多野義常を討伐する兵を送った。義常は討手の下川邊行平 が着く前に松田郷(地図)で自殺、嫡子有常は母の兄 大庭景義 の許にいて難を逃れた。 義常の父 義通義朝 に臣従して転戦、妹が義朝の長男 朝長 を産んだ後に不和になり、保元三年(1159)春に波多野郷に帰っていた。
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  ※相模国府: この時点では大磯の相模国総社 六所神社(別窓)の一帯。その以前は平塚市の 前鳥(さきとり)神社(別窓)近く(地図)で遺跡が確認され「国厨」と墨書した
土器の出土に伴って最も有力な国府跡とされている。この二ヶ所は約12km離れており、平安時代中期までは前鳥神社近く、それ以後に六所神社一帯に移ったらしい。前鳥神社以前の国府には複数の説があり確定に至っていないが、現在は相模国分寺跡が有望視されている小田急小田原線 海老名駅の近く(地図)が最有力、いずれ新しい発見がある、かも知れない。
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  ※不和になり: 波多野義通 の妹が朝長を産み、その後に義朝の正室として藤原季範娘(由良御前)が産んだ頼朝が嫡男の扱いを受けた。成長に伴い官位も朝長を越えた事など
が原因で義朝と不和になり波多野郷に帰って定住。嫡男の義常は平氏に仕えて波多野郷・松田郷を領有したが、挙兵した頼朝の招集を拒んだ上に使者の 安達盛長 に暴言を吐き、大庭景親 の平家軍に加わった。
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これが17日に討手を向けられた経緯である。懐島の 大庭景義邸にいた嫡男の有常(母は大庭景義の妹)は後に許されて遺領の一部である松田郷を継承し、御家人として頼朝に仕えている。

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右:駿河国府~安倍川~手越駅~宇津ノ谷峠の地図    画像をクリック→ 拡大表示
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宇津ノ谷峠から相模国府(駿府城から静岡高校の周辺)までの東海道には丸子宿や手越の宿駅など史跡が点在している。
在原業平所縁の「蔦の細道」はまだ歩いていないが、秀吉が小田原攻めの際に拓いた旧東海道を2008年に歩いてみた。
紀行文と画像は 宇津ノ谷峠を歩く(別窓)で。
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  ※手越駅: 安倍川西岸の宿駅。平安末期の東海道は安倍川下流の湿地を避けて丸子から2km北上し藁科川との合流点上流を渡河
していた。建武二年(1335)の 新田義貞 vs 足利直義(尊氏の実弟)による 手越河原合戦 (wiki) の兵火で焼け、宿驛の機能が丸子宿に移ったと伝わる。
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  ※松田郷: 東名高速大井松田IC周辺。ICの西3kmの高速北側にある松田城跡(最明寺史跡公園・地図)と確認されており、
松田庶子、松田惣領の地名が面白い。松田郷を継承した有常の次男 (正室の子) が惣領として本家を継ぎ、妾腹の産んだ長男 (庶子) は分家したのが地名の発祥か。
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惣領と庶子の一帯は飛び地が多く、かなり交錯している。頼朝の異母兄・朝長が育ったと伝わる松田亭旧跡は確認されていないが、皇国地誌(明治時代初期編纂の地誌)は「寒田神社(地図)南東の陸田が屋敷の跡」と記載している。
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  ※義常の叔母: 尊卑分脈に拠れば朝長の母は別人。ただし「典膳大夫久経の子」と書かれているので生母ではなく乳母だった可能性もある。平治の乱の敗北後に青墓で朝長が
死亡したのを契機に波多野と源氏は縁が切れていた、という事なのだろう。
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  ※波多野荘: 藤原秀郷の子孫佐伯経範が波多野を名乗ったのが最初で、現在の秦野・松田・山北・南足柄・小田原北部を含む酒匂川の東部一帯。
本拠地の館跡(地図)は後に三浦義村の家臣武常晴が 源実朝の首を埋葬したと伝わる場所(地図)からも徒歩圏内にある。

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左:河村義秀の本拠 山北の河村城址    画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月18日 】
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大庭景親 は平家軍に合流するため千騎を率いて駿河国を目指したが、頼朝 が20万騎で足柄峠を越えたため前途を塞がれ河村山に逃げ込んだ。 ~中略~ 夕刻、黄瀬河に着いた頼朝は平家軍に使者を送り24日を矢合せ(開戦)と定めた。甲斐・信濃の源氏が 北條時政 と共に二万騎を率いて到着し頼朝と面会、去る9月10日に大田切郷の城を落とし神託に従って諏訪大社に寄進したと語って頼朝を喜ばせた。
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  ※河村山: JR御殿場線山北駅の南、波多野遠義の二男河村秀高(義常 の弟)の居館。景親はこの辺に逃げ込み、23日に頼朝が
凱旋した相模国府に出頭した。秀高の嫡子 河村義秀 は石橋山で平家軍に与した罪で斬首と決まったが (大庭景義(娘が義常の妻)は彼を斬らずに匿った。義秀は10年後の建久元年(1190)に鎌倉で流鏑馬の妙技を披露し、本領松田郷の回復を得ている。
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※大田切郷: 現在の駒ヶ根市。大田切城(推定位置)を守る菅冠者は館に放火し戦わずして自殺した。
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次に駿河路合戦の話になり、頼朝は平家側の捕虜18人を召覧。加藤光員 が目代の橘遠茂を討ち取って郎党1人を生け捕り、加藤景廉 が郎党2人を討ち1人を生け捕り、工藤景光 が波志太山俣野景久 と戦ったと報告して「恩賞に値する」との言葉を受けた。大庭景親 に味方し頼朝に逆らった者は後悔で魂を消す思いだったろうが、荻野俊重 ・ 曽我祐信 らは降伏して出頭した。
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夜、土肥實平土屋宗遠 らが酒肴を整えた。北條時政親子と伊豆相模の武士たちは褒美として馬や直垂を受け取った。その後土肥實平を使者として派遣し、亡き兄の 朝長 が育った松田の屋敷を修理するようにと 中村宗平に指示を与えた。

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※波志太山: 天明三年(1783)編纂の駿河国志に 「足高と 人はいえども 不二ヶ根の 裾野につづく あし引きの山」 と載っている。
足高の語源は端高で、波志太山・鉢田山などを経て愛鷹山になったと考える説が有力らしい。また河口湖の南西にある足和田山麓の可能性も挙げられている。富士山の南西説と北麓説が代表的で、愛鷹山がやや優勢ではあるが確定には至っていない。
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吾妻鏡の10月1日には「駿河目代の橘遠茂が軍兵を奥津(興津)に集結させて合戦に備えた」 とあり、10月14日には「(石和に集結していた)甲斐源氏の一行は神野と春田路を経て正午前後に鉢田(波志太)に着き駿河目代の軍と合戦した」 とある。
衝突地点は春田路(若彦路)の愛鷹山麓・富士宮市付近(参考ルート地図)か、足和田山付近(ルート地図の)か、またはその中間と考えられる。
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傍証として、14日の合戦についての後半に「...長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。」 とある。
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甲斐往還(若彦路)付近の地名・伊堤とは、13年後の建久四年(1193)5月28日に勃発した曽我兄弟の仇討ち事件の際に頼朝が狩宿を設けていた 「富士宮市の井出(地図)」 または 「旧東海道沼津の 阿野全成 所領の井出(地図)」で、首を晒すのなら後者が適地になる。

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右:甲斐から続く街道の起点 酒折宮     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180)10月13日 】
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木曽義仲 は亡父 義賢 の旧跡 を訪ねるため信濃国から上野国に入った。足利俊綱(藤姓足利氏)の支配地だが、私に従えば恐れる必要はない旨の指令を住民に布告した。
甲斐源氏と 北條時政義時 親子は駿河国に入り大石の駅に止宿。戌の刻(夜8時前後)、駿河目代が長田入道の策に従って北上するとの情報が入り、途中で迎撃する軍議が決まった。
武田太郎信義 と嫡子の 一條次郎忠頼板垣三郎兼頼有義安田義定逸見光長 ・ 河内義長(足利義康 の次男で庶子、備中水島合戦で兄(庶長子)の義清と共に戦死 ) ・ 伊澤信光 らが富士北麓若彦路経由で南下、石橋山合戦後に甲斐国に逃れた 加藤光員景廉 らと駿河を目指した。
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  ※義賢の旧跡:為義 の指示を受け上野国に下向した義賢が1145~1153年頃に本拠を置いた多胡館跡(群馬県吉井町、
地図)。後に義賢は 秩父重隆 の娘を娶り大蔵に移って勢力拡張を図ったが、久寿二年(1155)に 義朝 の長男 悪源太義平 に討たれた。
大蔵館と義賢の墓所(別窓)を参照。
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  ※大石の駅: 富士宮市の 日蓮宗大石寺 の付近。甲斐と駿河を結ぶ中道往還の驛(うまや)があった。
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  ※駿河目代: 伊予国(愛媛県)を本拠とした越智氏の一族である橘遠茂。吾妻鏡には捕虜と殺害の重複記載があるが、死没は間違いないらしい。
①14日の鉢田合戦で武田(石和)信光が捕虜にした ②18日の報告では加藤光員(景廉)が討ち取った、と。吾妻鏡の文治三年(1187)12月には北條時政が預かっていた囚人の為茂(遠茂の嫡子)を赦免し田所職(土地管理の役職か?)に任じている。経緯は判らない。
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  ※長田入道: 知多半島の野間で義朝を殺した 長田忠致と推定されている。
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  ※若彦路: 甲府の酒折宮を基点にして富士山西麓を南下、中道往還に合流し富士宮に至る古道。更に詳細は下の「若彦路ルート」で。

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左:車で走ってみた若彦路ルート     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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50日ほど遡って、まだ 頼朝 が下総で 安達盛長 を派遣して 千葉常胤 を味方に引き入れている頃、同じ く 以仁王 の令旨を受けた甲斐源氏は独自に兵を挙げた。
9月9日の吾妻鏡は北條時政 を使節として甲斐国に送り、甲斐源氏を伴って信濃に向い降伏する者を従え逆らう一族を討伐するよう厳命を受けた」と書いているが、甲斐源氏は半月も前に挙兵している。富士川合戦を前にした使者の役目は援軍の要請だろう。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月25日 】    波志太山合戦
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大庭景親は 頼朝逃亡を阻止するため軍兵を方々に派遣して要所を固めた。弟の 俣野景久 は駿河目代橘遠茂の軍勢を伴って甲斐源氏の 武田信義一條忠頼らを攻めるため甲斐を目指した。
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昨夜は富士の北麓に宿営したところ、百余りの弓弦が鼠に食い切られてしまった。狼狽している処へ石橋山合戦を知って甲斐を出発した 安田義定工藤景光 ・ 嫡子の行光 ・ 市河行房らと波志太山で遭遇、景久勢は弓が使えないため太刀で戦ったが多くが射取られた。義定の家人にも多少の負傷者はあったが、俣野景久は逃亡して行方不明になってしまった。
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  ※波志太山: → 鉢田山→ 足高山→ 愛鷹山と転訛した可能性もあるが、その場合は波志太山合戦(8月25日)と鉢田合戦(10月14日)が同じ場所で起きたのに別名で
記載された事になり、合理性に欠ける。吾妻鏡の記述を素直に考えれば、波志太山は河口湖南西岸の足和田山(地図)の可能性が高くなる。
河口湖と西湖の間には甲斐九筋と呼ばれた官道の一つ 若彦路が通っていたから理屈は合うけれど...
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酉刻(17~19時)に約60km離れた沼津の伊堤(井出)に首を晒すのは無理になる。すると頼朝狩宿のあった井出になるのだが吾妻鏡には井出または伊堤ではなく「神野」(若彦路の地名も同じ)と表示している。これは簡単に結論が出そうもないね。
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  ※市河行房: 今も市川大門に現存する表門(うわど)神社の三代目。初代は義清の末弟・覚義だが、彼は婿として入ったから厳密には初代ではない。
氏名不詳→ 覚義→ 覚光→ 行房→ 行重‬→ 行政→ 行照→ 行宗・・・と続く神主の家柄(現在も続いているか否かは確認していない)。
ちなみに、行房は 源(武田)義清 が市河氏の娘に産ませた人物とされている。詳細は源義清の史跡 市川三郷(別窓)で。
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駿河国で本格的な戦闘に入る前に 武田信義 ら甲斐源氏は信濃に向かい、9月10日に伊那郡の大田切城(現在の駒ヶ根市)を攻め菅冠者を自殺に追い込んだ。
この頃の甲斐源氏は兄の武田信義と弟の 安田義定 が別々に行動していたらしいが、10月14日の鉢田合戦では「午の刻(正午前後)に武田・安田の人々は...」とあるから合同で戦っている。諏訪から駒ヶ根に移動し本拠へ戻った信義一行の経緯は こちら(別窓)で。
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  ※甲斐源氏同士の別行動: 武田信義の本拠は甲斐盆地北西部(現在の韮崎)で安田義定の本拠は北東部(現在の山梨市)、30km以上離れている。
(両地点のルート地図)。義定軍が駿河の平家軍に、信義軍が信濃の平家軍に兵を向ける方が理に叶っている。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月14日】    鉢田合戦
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武田・安田の一行は神野と春田路を経て正午前後に鉢田に着いた。駿河目代の軍は狭い道で突然遭遇したため動きがとれず、防御に努めたが長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。
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  ※鉢田の位置: 合戦場所は確定していないが、鉢田山(愛鷹山の古名)山裾か。春田路は人穴から吉原宿(富士市)に至る中道往還(ほぼ国道139号)
鉢田合戦はこのルート上で起きたと考えられる。大石驛の北にある井出(後に曽我の仇討ち事件が勃発)とは40km以上離れており、合戦終了後の4時間ほどで井出に着くのは無理だから駿河の井出(東海道)と考えるのが自然。波志太と鉢田は約50km離れている。
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  ※伊堤の位置: 井出の地名は白糸の滝近く(地図、かなり辺鄙)と沼津西部(地図)の二ヶ所。合戦が愛鷹山麓なら約40km北の白糸の滝より約15km東の愛鷹山南麓
(東海道の裏道沿い)で首を晒した、と推定できる。

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右:富士川合戦の旧跡・平家越え橋      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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現在の富士川本流の東約7kmの和田川に「平家越え橋」が架かっている。当時の富士川下流域は幾筋にも分かれて流れる暴れ川、橋の近くは海岸に面した湿地帯で、橋の東端に建つ「平家越えの碑」が往時を偲んでいる。この「平家越え」が「平家の退却」に由来したか否かは判らないが、西岸で野営した平家の先陣が甲斐源氏の夜襲を警戒して早めに撤退したのが地名になった可能性はある。
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「鉢田」と「平家越え」の距離が比較的近い(10km未満だろう)ので、富士川合戦ではなく鉢田の合戦に敗れた駿河目代の行動が地名の起源だったのかも知れない。
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延宝二年(1674年・徳川幕府四代将軍・家綱の頃)の治水工事で築かれた雁堤(かりがねつつみ)により本流が現在の場所にほぼ固定された。雁堤については wiki に詳細の説明が載っている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月20日 】     富士川で平家軍が敗走
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小松三位中将平惟盛 と薩摩守 平忠度 率いる平家軍7万騎(平家物語の数字)は18日に富士川西岸に布陣、源氏軍20万騎(吾妻鏡の数字)は20日に東岸の賀島に布陣した。深夜、甲斐源氏の総大将 武田信義 は平家軍の背後を衝く計画で兵を移動させ、驚いた富士沼の水鳥が一斉に飛び立ったため夜襲と勘違いした平家軍は浮き足立った。
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次将上総介忠清 らは「東国の兵はすべて頼朝 に従っている。京を離れた東国で包囲されたら逃げられないから撤退して作戦を改めよう」と。惟盛と忠度らはその言葉に同意し、夜明けを待たず撤退してしまった。飯田家義(wiki)と息子の太郎が渡河して平家軍を追い、引き返した伊勢国の住人伊籐次郎が太郎を射取り、伊籐次郎は家義によって討ち取られた。印東常義は鮫島(田子の浦港の西・地図)で討ち取られた。


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左:平家越え橋から富士川一帯の地図  画像をクリック→ 拡大表示
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実際には京から遠征してきた平家の武者はごく僅かで、主力になる大部分は遠江や駿河で強引に徴兵した寄せ集めである。更には甲斐源氏に蹴散らされた駿河目代の手勢や相模と武蔵から逃げ延びた敗残兵も合流していた。補給もままならぬ状態に加えて鉢田合戦の敗北直後でもあり、既に戦意を喪失していた。
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当然ながら平家軍も安眠する程の余裕は持てず、武田信義が率いる甲斐源氏の夜襲を警戒してはいただろうが、準備不足もあって撤退の道を選んだのだろう。
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大将軍維盛は「光源氏の再来」と称された美貌の貴公子だったが武将としては凡庸以下で、三年後の寿永二年(1183)4月に起きた 倶利伽羅峠合戦(別窓)でも寡兵だった 木曽義仲 勢に惨敗して都に逃げ帰ったのみならず、退却途上の加賀篠原で追撃を受け戦力の大部分を失なう事になる。合戦の経験など皆無に等しい公達に東国武者との合戦を求めるのが無理なのだが、この惨敗に激怒した 平清盛「なぜ戦場に骸を晒さなかったのか」と罵倒し維盛の入京を禁じた、と伝わっている。
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  ※賀島: 富士川本流から約2km東、現在の富士市加島町。更に5km東に「平家越え」の地名が残る。かつての富士川河口に近い湿地帯か。
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  ※背後を衝く: 18日の吾妻鏡は「矢合わせ(戦闘開始)は24日」と書いている。これは双方の合意事項で、守らなければ卑怯の謗りを受ける筈なのだが、この頃から
ルールは有名無実になった。一の谷合戦と屋島合戦では奇襲に次ぐ奇襲、壇ノ浦合戦で守られたのは海戦だから、だろう。
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  ※次将: 大将軍はシンボルとしての指揮官、次将は軍事作戦の指揮を執る侍大将。
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  ※印東氏: 千葉県北部にあった印旛郡の東部、佐倉市・酒々井町・富里市の一帯(印東庄、行政区分地図)を本領にした桓武平氏良文 流の一族。
当主の常義は討たれたが息子らは頼朝に従って御家人として本領安堵を得た。寿永二年(1183)に 同族で本家筋の上総廣常 の粛清に伴って千葉氏の陪臣となり、宝治合戦で三浦氏に与した千葉一族とともに零落した。

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右:広重 東海道五十三次 吉原 左富士  画像をクリック→ 拡大表示
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富士川合戦から650年後の天保三年(1832)に初めて東海道を旅した広重が作成した「東海道五拾三次」の40番目。江戸から西を目指して旅を進めると駿河の吉原で東海道は大きく右に曲がり、それまで右手に見えていた富士山の美しい姿が左に見える。
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広重の道中日記は「原と吉原は富士の山容を観る第一の場所である。京都から下れば右に見え、江戸からなら反対側、一町(約100m)ほどの松並木を透かして見る絶妙の風景である。」と記録している。
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【 平家物語 巻 第五  富士川 】
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大将軍の 維盛 は次将の 忠清 を呼び「直ちに足柄峠を越え、坂東で合戦しようと考えるが」と申し出た。忠清は「福原を出陣する際に相国入道(清盛)は「戦の事は忠清に任せよ」と言われた人物である。
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頼朝 に従う東国の軍勢は数十万、我が軍は七万騎と言っても寄せ集めに過ぎません。遠征による疲労などを考えれば、富士川に防衛線を構えて伊豆と駿河の軍勢が合流して戦力が整うのを待つべきです。」と答え、「追討軍がもっと早く京を出発し足柄峠を越えて東国に入っていれば、畠山や大庭をはじめ坂東の武者は全て平家に従って戦っただろうに」と嘆いた。
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更に惟盛は武蔵国長井荘から参陣した 斎藤實盛 を呼び、「お前ほどの強い弓を引く武者は東国にはどのくらい居るのか」と訊ねた。實盛は笑いながらそれに答える。
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「僅かに十三束の弓を引いている私が強弓だとお考えか、私程度なら坂東には幾らもおります。強弓とは十五束より上で、力の強い郎党5~6人で張る弓のことです。
そんな武者が射れば鎧の2、3枚は簡単に貫きます。馬に乗れば悪路を走っても落馬を知らず、親が討たれようが子が討たれようが屍を乗り越えて戦います。
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それに比べて西国の武者は親が討たれれば供養を済ませてから進み、子が討たれれば嘆き悲しんで戦いません。食料が尽きれば秋の収穫を待ち、夏は暑い冬は寒いと嫌います。實盛は今回の合戦を生き永らえて都に戻れるなどとは元より考えておりません。」 と。
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  ※武蔵国長井荘: 実盛が庄司として管理していた現在の熊谷市妻沼地区(地図)の一帯。長井荘と聖天山歓喜院(別窓)を参照されたし。
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  ※伊豆・駿河の軍勢: 伊豆の伊東、相模の大庭、駿河の橘、常陸の佐竹、下野の籐姓足利など落日の平家を未だ見捨てない諸族。6月の頼政敗死直後か。せめて石橋山合戦の
直後なら武蔵の秩父平氏諸族(畠山、小山田、河越、江戸氏ら)が加わる可能性もあったのに。忠清の嘆きは理解できる。
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  ※束とは: 親指を除く指4本の巾(約8cm)。13束は約100cm、15束は120cmの矢を射る大弓。実盛の話を聞いた平家の武者は相当ビビったらしい。

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左:甲斐源氏の駿河進出ルートは...    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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現代の地名に当てはめると、白糸の滝付近から富士市原田を経由して愛鷹山麓で駿河目代の軍を破り、沼津市の井出(富士市との境界)に首を晒した、となる。そして東進し18日には黄瀬河で頼朝と合流した。
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白糸~22km~原田~10km~井出~10km~黄瀬河~21km~富士川合戦場。甲斐源氏は現在では最も一般的な富士川沿いの国道52号ルートではなく、当時の官道・若彦路を経由して沼津方面を目指している。
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古代から甲斐と隣国を結ぶ道は甲斐善光寺南東の 酒折宮 (wiki) を基点とする「甲斐九条」が知られている。
概ね県道36号ルートを辿る若彦路、甲府市右左口→ 古関町→ 精進湖を経由する右左口路、富士川沿いの国道52号に近い河内路、鎌倉街道 (国道137号) の御坂路、萩原口(青梅街道)、雁坂口(秩父へ抜ける国道140号ルート)、穂坂路(川上へ北上するルート)、逸見路(清里へ向う国道141号ルート)、大門嶺口(信濃へ向う軍用道路)の9本である。‬
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甲斐九条のうち駿河と結ぶ平安末期の古道は御坂路と河内路と若彦路の3ルートがメイン。最も重用されたのが若彦路で、酒折宮をスタートし南東の国玉→ 2km南東の小石和→ 県道36号に沿って5km東南の武居(時代劇ファンなら知っている武居のども安の出身地)→ 2km南東の八代町奈良原→ 4km南の鳥坂峠→ 2km東南の上芦川→ 既に廃道となった大石峠を越えて5km東南の川口湖北岸・大石→ 湖畔沿いに3km南西の長浜→ 2km南東の足和田大嵐→ 4km南西の鳴沢村→ 県道71号のルートを20km南南西の富士宮市上井手で中道往還と合流する古道で、上井出は12年後の建久四年(1193)に曽我の仇討ちで 工藤祐経 が殺された場所で、名勝白糸の滝も近い。
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  ※武居のども安: 甲斐国八代郡竹居村(笛吹市八代町)出身の博徒。捕縛され新島流罪となったが島抜けして捕まり、文久元年(1861)に獄死した。
舎弟に清水次郎長のライバルで隣村出身の黒駒勝蔵がいる。
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  ※黒駒の勝蔵: 富士川舟運の権利を巡り清水次郎長と争った経歴を持つこの博徒の生涯は面白い。甲斐の大親分として名を売ったが、晩年には一家を解散して勤皇の志士に
なり、官軍に加わって戊辰戦争を戦った。明治維新後はその処遇に困った新政府に見捨てられ、博徒時代の罪により斬首された。同じような経歴を持ちながら新政府と円満な関係を保ち、港湾の利権を独占した清水次郎長とは大きな違いだ。
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  安倍夫妻に利用され途中で見捨てられた籠池氏と、権力に癒着して甘い汁を吸う加計幸太郎を思わせるね。
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    そして...富士川合戦の直前、小さいが興味深い二つの事件が発生している。

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右:伊東祐親が捕縛され、祐清は平家に合流    画像をクリック→ 拡大表示
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  【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月19日 】   祐清の釈放と、小笠原長清の鎌倉帰還
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伊東祐親平維盛 の軍勢に合流するため伊豆鯉名から舟出する計画を知った 天野遠景 が捕えて黄瀬河の宿所に連行した。
娘婿の 三浦義澄 が申し出て、罪が決まるまで身柄を預かる事になった。
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去る承安三年(1173)、祐親が頼朝に討手を向けた際に祐親二男の祐泰(伊東九郎祐清の誤記)の急報で難を逃れた。その功績に報いる恩賞を与えるべく呼び出したが、祐清は「父 祐親が罪人として囚われ、子が恩賞とは不合理」として拒み平家軍に加わるため上洛した。信義を重んじる美談である。
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その後に甲斐源氏の加賀美長清(翌・治承五年に 上総廣常 の娘婿になった頼朝お気に入りの人物。後の小笠原長清)が京都から到着。平知盛 に仕えていたが母の病気を理由に帰国を願って許され、戻る途中で病を得たため手間取ったが甲斐を経て駆けつけたというのが経緯である。
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  ただし、二年後の養和二年(1182)には当人の願いを容れて伊東祐清を殺した記述があるのは何故だろう?これは編纂ミスか?
  編纂担当者が別人か、或いは訂正記事か。平家物語や曽我物語と併読して考える必要がありそうだ。

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左:三浦邸と大倉御所西御門の概略位置   画像をクリック→ 拡大表示 ‬
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【 吾妻鏡 養和二年(1182) 2月14日 】
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伊東祐親法師は一昨年(治承四年10月15日)に捕えられ、囚人として三浦義澄に預けられていた。
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このたび御台所政子懐妊の噂があり、義澄が頼朝の機嫌を窺っていたところ御前に呼ばれ「恩赦を与えよう」との仰せがあった。義澄がこの旨を祐親に伝えると祐親は参上すると答えた。
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御所で待っていると郎党が走って来て、祐親が「ありがたい言葉を頂いて今更に過去を恥じる」と言い自殺してしまった、ただ一瞬の出来事だった、と。義澄は走って戻ったが、既に片付けられた後だった。
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【 吾妻鏡 養和二年(1182) 2月15日 】
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三浦義澄堀籐次親家 を通じて祐親法師の自殺を伝えると頼朝は昔を思い出して深く嘆いた。(一緒に捕えた 伊東九郎祐清 を呼び「祐親の罪は許そうと思ったのに自殺してしまった。残念だが後悔してもしょうがない、お前は長く私に仕えて欲しい」と語った。
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九郎は「父が死んで子が栄えても意味ないこと。早く身の暇を(殺してくれ、の意味)」と願ったため、不本意ながら討たざるを得なかった。去る安元元年(1175)9月に祐親が頼朝を殺そうとして討手を向けた事件があり、九郎の知らせで何とか走湯山(伊豆山神社)に逃げた、その功績を考えての配慮だったが孝心が強くてこの結果となった。
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三浦邸は西御門の至近にあったと推定されている。横浜大付属中敷地の本校舎北側辺りか。
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【 吾妻鏡 養和二年(1182) 2月15日 】
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義澄は御所の門前で 堀籐次親家 を経由して祐親自殺の件を報告した。 頼朝はこれを嘆くとともに心を打たれ、祐親次男の九郎祐清を呼び、「祐親は大きな過ちを犯したが、その事は許そうと思ったのに自殺してしまったのは実に悔いが残ることだ。ましてやお前を罪に問うことはできない、むしろ褒賞を与えるべきだろう」と。
祐清が「父が死没しては褒賞など意味を持たない。早く身の暇を与えて欲しい」と言うため心ならず死罪とした。世間では潔い美談として語り合った。
頼朝が伊豆に住んだ安元元年の9月に祐親が討手を向け頼朝を殺そうとしたが、祐清の急報があったため辛うじて伊豆山へと逃がれられた、その功績を忘れなかったのだが、祐清の孝心はこんな結果になってしまった。

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右:小稲漁港周辺の鳥瞰    画像をクリック→ 拡大表示 ‬
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※伊豆鯉名: 下田の南8kmの南伊豆町小稲(地図)、伊勢外宮領蒲屋御廚にある海上交通の要所で絶好の風待ち港、青野川の
上流域は古来からの製鉄の基地でもあったらしい。頼朝は韮山挙兵の直後に「伊豆蒲屋御廚の史大夫知親(伊豆国守平時兼(平時忠 の養子)の目代)の権限を停止する」との下知を発布している。
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祐親は伊東を逃れ平家軍との合流を図った。当時の伊豆には蒲屋御廚の他に熊野山領の江馬荘(北條義時の本領近く)、蓮華王院(天台宗の三十三間堂)領の狩野荘、九条家(藤原北家)領の井田荘(西伊豆戸田の北側)、長講堂領(当初は 後白河院領)の仁科荘(西伊豆堂ヶ島近く)などがあった。
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※祐親法師: 安元二年 (1176) に嫡子の 河津三郎 が伊東八幡野で 工藤祐経 の郎党に討たれ、祐親は出家して寂心を名乗って
いる(鎌倉時代を歩く 壱の 河津三郎の血塚(別窓)を参照)。
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※祐清上洛: 曽我物語では頼朝と祐清の遣り取りを更に劇的に描いている。
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伊東九郎(祐清)の死罪を許し召し使おうとしたが、祐清は「不忠を行った祐親の子であり、石橋山では敵として戦った。生き永らえるのが本意ではないから首を斬るように」と望んだ。頼朝は「気持ちは判るが、かつて忠義を行った者は斬れない」とした。祐清は更に「許されれば平家に加わり敵として戦うことになる」と言った。頼朝は「もし敵になるとしても、斬れない」として釈放した。
祐清は京に上り北陸道で(義仲軍と)転戦、加賀篠原の合戦(地図)で 斎藤別当實盛 らと共に討死。実に立派な武者の振る舞いである。
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※祐清余聞: 彼の妻は 頼朝 の乳母を務めた 比企尼 の三女で烏帽子親は 北條時政。子女の記録はないが実子が跡を継いだとする系図もある。
夫婦は横死した兄 河津祐泰 の遺児で生後まもない御坊丸を引き取り、祐清の北陸戦死の後に妻は御坊丸を連れ 平賀義信 に再嫁した。
御坊丸は後に越後国上寺(別窓)に入って禅司房を名乗り、曽我の仇討後に鎌倉の召喚を受け、斬罪になると思い込み、甘縄(地図)で自殺したらしい。
享年18。(同年7月2日の吾妻鏡を参照)。

左:黄瀬河の軍陣に九郎義経が合流    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月21日 】
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頼朝維盛 軍を追って京を攻める命令を下し、千葉常胤三浦義澄上総廣常らがこれを強く諌めた。常陸の佐竹義政と 秀義らは数百の軍勢を支配下に置きながらも未だに鎌倉勢に加わる動きを見せず、更に秀義の父の隆義は平家に従って在京している。
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その他にも常陸国周辺には油断できない者が多いから、当面は関東平定を優先させ落ち着いた後に京都を目指すべきである、と。
頼朝はこれを聞き入れて黄瀬河の宿舎に戻った。
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その後に甲斐源氏の 安田義定 に遠江国を、武田信義を駿河国の統治および西の平家勢防衛に任じる指示を与えた。夕刻になって体を清め三島大社に参詣、挙兵が成就したのは神社の加護なので伊豆国の御園・河原谷・長崎(それぞれ現在の三島市御園と若松町、伊豆国市長崎)を神領として寄進した。

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※佐竹秀義: 常陸源氏佐竹氏の当主が隆義で長男が義政、二男が嫡子秀義。関東平定優先の提言は正論であり、更に佐竹氏と所領を接する 千葉常胤上総廣常 にとっては
平家追討より先に片付けたい懸案である。特に千葉常胤は父の常兼が立荘した相馬御厨を佐竹氏から取り戻すのが宿願だった。
秀義はこの年11月の佐竹合戦に敗れて逃亡、文治五年(1189)7月26日に奥州合戦に向かう頼朝軍に合流して抵抗した罪を許された。
詳細は同日の吾妻鏡に記録されている。
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※黄瀬河: 頼朝が本陣を置いたのは現在の八幡神社(地図)付近と伝わる。足柄峠から南下した道路と旧東海道が合流する要衝の宿驛である。
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※相馬御厨: 天治元年(1124)、叔父の相馬常晴は実子の常澄(上総広常の父)ではなく兄常兼の三男常重(常胤の父)を養子に迎えて下総国相馬郡
(現在の取手市・常総市・龍ケ崎市・守谷市・つくばみらい市・我孫子市・柏市の一部)の郡司職を譲与した。
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常重は大治元年(1126)に死去した父の常兼から千葉郡(現在の千葉市・船橋市・八千代市の一部)を継承、利根川を挟んだ南北両郡を支配し、南側を鳥羽法皇に寄進して千葉荘を立荘した(後に千葉荘の所有権は 八條院 領に編入)、更に大治五年(1130)には相馬御厨を伊勢神宮に寄進し、常重は双方の荘官として千葉氏の基礎を築いた。保延元年(1135)には18歳の常胤が家督を継承した。
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翌年、下総守だった藤原親通が年貢未納を理由にして常胤を捕縛し、常重に強要して譲渡証文を提出させた。ここで常晴から常重への相馬御厨譲渡の無効を主張する 源義朝 が介入し、藤原親通と義朝と千葉氏親子が三つ巴で争う複雑な状態になった。
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平家が勢力を拡大した永暦二年(1161)、藤原親通の二男親盛が持つ相馬御厨の譲渡証文を佐竹義宗が手に入れて所有権を主張。
本来は無効の筈だが親盛の娘が 平重盛 の側室だった関係もあって佐竹氏支配が続き、千葉氏が相馬御厨を完全に奪還するのは治承四年(1180)11月の佐竹氏討伐と、寿永二年(1183)12月の上総広常粛清を待つことになる。
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※頼朝の指示: この時点では甲斐源氏と頼朝は対等の立場で、しかも駿河と遠江は甲斐源氏が武力制圧したエリア。頼朝が指示や命令を出せる立場ではない。
甲斐源氏よりも頼朝の方が格上であると表現したい吾妻鏡編者の脚色だろう。

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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月21日の続き 】
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同日、一人の若者が黄瀬河の宿営前に佇み頼朝に拝謁を願った。土肥實平土屋宗遠岡崎義實らが警戒して取り次がなかったが頼朝が聞きつけ、年令を考えると奥州へ逃れた九郎か、早く会って見ようと實平に命じて招き入れると果たして 義経だった。御前に進んで過ぎた日々を語り合い、懐旧の涙を流した。かつて先祖の 八幡太郎義家 が奥州合戦(後三年の役)で清原武衡家衡と 苦戦していた時、弟の 新羅三郎義光 は朝廷警備の職を辞して兄の軍陣に駆けつけ敵を滅ぼした、その旧例に同じである、と。
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義経は平治二年(1160)の赤子の時に父 義朝 が殺された。その後は継父 一條大蔵卿長成 の庇護を受けて将来の出家に備え鞍馬山に預けられたが恨みを忘れ難く、自ら元服して 藤原秀衡 を頼り奥州に逃れた。今回 頼朝 挙兵の報を聞き合流を望んだが秀衡に慰留され、隠れて出発を計画したため秀衡も諦めて家臣の勇士 佐藤継信忠信> の兄弟 (佐藤庄司基治 の子)を付き添わせた。
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  ※拝謁を: 軍勢の本陣に訪れた武者が名乗らない筈はない。頼朝の台詞 「奥州へ逃れた九郎か」 はナンセンス。

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右:佐藤庄司基治の本拠 大鳥(鳳)城    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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奥州藤原氏は初代 清衡 の頃から朝廷との関わりを深め、基衡秀衡と続く頃には荘園の名目で陸奥国一帯に私領を拡大していた。その所領の南部、現在の福島市から白河市までの広大なエリアを管理する「郡司」に任じたのが秀衡股肱の家臣であり、婚姻による縁戚でもあった 佐藤基治> である。
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基治は飯坂温泉に近い現在の飯坂町湯野を本拠とし、館山(標高230m・地図)に居城を構えて「湯野庄司」→「湯庄司」とも呼ばれた。義経の出発に際して秀衡の指示を受けた基治は80騎の武者に加えて三男 >継信 と四男 忠信義経 に与え、腹心として忠節を尽くすよう命じた。基治の長男 は隆治(前信とも)で次男は治清、とりあえず二人が残っていれば一族の結束と荘園管理には支障なしと考えたのだろう。
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  ※基治の子: 先妻 (亡妻か) は大窪太郎 (上野国 (北群馬郡吉岡町大久保) の土豪) の娘で、二人の男子 (隆治と治清) を産んだ。
後妻(継室)は秀衡の弟で十三湊 ()とさみなと) を領有した津軽秀栄の娘 乙和子。 彼女は三男継信と四男忠信を産んでいる。系図上では秀衡の兄弟は秀栄だけなので乙和子はその娘としたが、系図に載っていない姉妹の娘だった可能性はある。
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  ※十三湊: 現在の五所川原市の十三湖畔に平安後期から室町中期まで繁栄した港湾都市。詳細は検索されたし。
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  ※乙和子: 別の資料では音羽御前。息子の消息を訪ねて越後に入った彼女は栃尾(静御前の墓所伝説あり)で源氏の勝利と兄弟の活躍を知り嬉しさのあまり旅姿の袈裟を着た
まま舞い踊った。これが「おけさ」の始まりである、と栃尾の伝承は語っている(真偽は保証しない)。
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後に息子の戦死を知り、更に夢枕に現れた羽黒大権現(十一面観音の垂迹、仮の姿)が「栃尾に我を祀れ」と告げたため小貫に庵(瑞雲庵)を結び菩提を弔った。
これが羽黒神社・瑞雲寺の縁起である、と。更に詳細は 栃尾に残る伝・静御前の墓(別窓)で。
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吾妻鏡に拠れば兄の継信は屋島で戦死、平家物語では義経を守って 能登守教経 の矢を受けた結果の討死としている。屋島合戦の当初は互角に戦った平家軍だったが、後続の源氏軍が集結し始めたため軍船で沖に退き、那須与一 が七段(77m)離れた扇の的を射抜く逸話へと話が続く。(これは両方とも軍記物語の脚色らしいけどね)。弟の忠信は都落ちした後に義経と別れて都に潜伏し、討手と奮戦の末に自害している。懇ろにしていた人妻の密告による、と。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月19日 】
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廷尉(義経)は昨夜遅くに阿波と讃岐の国境中山を越え屋島近くの民家を焼き払った。敵将 平宗盛 は一族を率いて軍船で漕ぎ出し、義経は 田代信綱 と 金子家忠らを伴って浜辺に攻め寄せて矢戦となった。この間に佐藤継信と忠信と後藤實義らが平家の宿営を焼き払った。
平家の家人 越中盛継と 藤原忠光 らが下船して戦い、佐藤継信が射殺された。大いに悲しんだ義経は僧侶を呼んで松原に葬り、後白河法皇 から拝領した愛馬「太夫黒」を(供養の糧として)僧に与えた。部下を思い遣る気持ちは誠に美談である。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 9月22日 】
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糟屋有季が京都に隠れ住んでいた義経の家臣 堀景光を生け捕りにし、また中御門東洞院で佐藤忠信を殺した。忠信は奮戦したが衆寡敵せず、郎党二人と共に自殺した。彼は以前から義経に同行していたが宇治の辺りで別れて都に戻り、かねて通じていた人妻に送った手紙が夫から有季に渡ったためである。鎮守府将軍秀衡の近臣で、治承四年に義経が関東に合流する際に選ばれ同行していた。
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  ※堀景光: 早くから義経に仕えた郎党。金売り吉次と同一人説あり。元暦二年(1185)に近江国篠原で 宗盛 の嫡男清宗を斬首している。
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  ※糟屋有季: 鎌倉御家人で糟屋荘 (現在の伊勢原市) 庄司。平家追討・奥州合戦・梶原景時 追討などに功績を挙げたが、妻が 比企能員 の娘だった関係から建仁三年(1203)
の比企の乱では能員側に味方し、奮戦の末に討死している。

左:白河の関近くに残る「庄司戻しの桜」    画像をクリック→ 拡大表示
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下野国(関東北部の栃木県+群馬県の東部)と陸奥国の境界である白河の関から更に1kmほど北の旧東山道沿いに「庄司戻しの桜」と呼ばれる樹が繁り、霊桜碑が建てられている。
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治承四年(1180)10月、頼朝 に合流するため東国に向う義経と息子の継信・忠信を送って本拠地の湯野(飯坂)から100kmも南まで同行した 佐藤庄司基治 は、所領の南限である白河の関近くの街道沿いに桜の杖を突き刺して「汝らが忠節を尽くせばこの桜の杖が根付くだろう」と諭し、息子らと別れた。
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継信と忠信は父の教えに従って転戦し共に命を落としたが、桜の杖はその心に応えて活着した。天保年間(1830~1844)の野火で焼けた後も生き延びて次々と芽吹き、毎年花を咲かせている、と。もちろん何代目かの桜の筈だし、そもそもこの伝承も後世のフィクションである可能性が高い。
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そして親子の別離から九年の歳月が流れ、頼朝による奥州遠征の主戦場となった阿津賀志山防塁攻防戦の直前に石那坂(近年は大鳥城攻防説が優勢)で戦った佐藤基治について、吾妻鏡は「戦死と捕虜」二通りの記録を残している。幕府の正史に近い存在なのに杜撰な記述も結構多いんだよね。石那坂合戦と阿津賀志山合戦、安倍一族と奥州藤原氏の興亡は別項で詳細を述べる。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月8日 】
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(奥州藤原氏側の)金剛別当秀綱は数千騎で阿津賀志山の前に布陣した。早朝に頼朝はまず 畠山重忠小山(結城)朝光加藤景廉工藤行光 と祐光らに開戦を命じた。秀綱らは防戦したが大軍の波状攻撃を支え切れず、昼前に大将 国衡 の本陣に撤退した。
また藤原氏四代当主 泰衡 の郎従の佐藤庄司(別名を湯庄司、継信・忠信らの父)は叔父の河辺高綱・伊賀良目高重らと石那坂に布陣して防御線を築き鎌倉勢と戦ったが、結局庄司以下18人は討ち取られ阿津賀志山に首を晒した。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 10月2日 】
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捕虜になっていた佐藤庄司・名取郡司・熊野別当らは赦免され、それぞれ本領に帰った。
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※名取郡司: 現在の宮城県南部から名取市にかけての郡。郡司は奥州藤原氏縁戚の可能性も指摘されている。
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※熊野別当: 名取市高舘地区の名取熊野三山は熊野の本宮・新宮・那智社の三社を全て勧請した熊野信仰の霊場。
名取市の紹介サイトを参考に。
別当の一族は武士化して藤原氏との関係を深めていたらしい。

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右:本筋に戻って、相模国府で最初の論功行賞を  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 10月23日 】   頼朝率いる鎌倉軍は富士川合戦から相模国に凱旋。
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相模国府に到着し、最初の論功行賞を行った。
北條時政武田信義安田義定千葉常胤三浦義澄上総廣常和田義盛土肥實平安達盛長土屋宗遠岡崎義實狩野(狩野)親光 ・ 佐々木兄弟(定綱 経高盛綱高綱) ・ 宇佐美祐茂 ・ 市河行房 ・ 加藤景員大見實政大見家秀(家政)・飯田家義らが所領を安堵または新領を得た。三浦義澄 は三浦介(守の次席)に、下河邊行平 は従来の所領を安堵され下河邊庄司に再任。
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(石橋山合戦以来敵対していた)大庭景親 は遂に投降して出頭し上総廣常に預けられた。長尾為家は 岡崎義實に、長尾定景は三浦義澄に、それぞれ預けられた。河村義秀は所領の河村郷を没収され 大庭景義に預けられた。滝口経俊は山内庄を没収され 土肥實平に預けられた。その他にも石橋山の合戦で敵となった者はいたが、死罪にされたのは10人に1人程度だった。
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  ※相模国府: 奈良時代当初は平塚市四之宮の前鳥(さきとり)神社付近だった。前鳥神社以前に関しては諸説があり、海老名→ 平塚→ 大磯と移動した、あるいは小田原市→
平塚→ 大磯に変ったなど、三遷の主張もある。ただし「平塚→ 大磯」については出土品などからほぼ確定しており、吾妻鏡に載っている「富士川合戦後最初の論功行賞が行われた相模国府」は現在の大磯町国府本郷で、12世紀半ばまでは前鳥神社付近にあった国府が何らかの理由で大磯に移転したと考えるのが定説になっている。
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  ※工藤親光: 狩野介茂光の四男で源平合戦の当初は狩野介を継承していたらしい。<満劫< の異母兄弟か。
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  ※實政と家秀: 彼らを大見とするべきか宇佐美とするべかきか悩む。元々中伊豆大見郷が本領だが、宇佐美姓と大見姓の使い分けが曖昧だ。
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  ※長尾定景: 石橋山合戦で 佐奈田義忠(与一)を討った武士。頼朝は身柄を義忠の父岡崎義實に預けて暗に報復殺害を認めたが、毎日法華経を唱える姿を見た義實は憎しみを
捨て助命を決意する。後に定景は義實の同族 三浦義村の郎党となり、建保七年(1219)一月に八幡宮で三代将軍 実朝を殺した 公暁を討ち取っている。
従って吾妻鏡本文の「長尾為家は岡崎義實に、長尾定景は三浦義澄に預けた」は、多分誤記だろう。


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左:旧・国府の跡 平塚の前鳥(さきとり)神社   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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大磯国府のついでと書いては前鳥神社に失礼だけれど...
大磯に遷る前に国府があったのが確実視される四之宮の前鳥神社(公式サイト)も紹介しておこう。昭和五十四年(1979)からの国道129号拡巾工事に伴う発掘調査で前鳥神社の南東約1kmの高林寺(地図)入口交差点周辺から大量の墨書土器が出土した。更に高林寺境内は墨書の残る土器が出土した密度が特に高いため、国司の館とする説も発表されている。
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政所・御司の役所名や大住・郡の地名を記した土器類、尾張産の高級食器や装飾品を含む出土品は 平塚市立博物館に展示されている。現在の前鳥神社は幼稚園を併設しているごく普通の鎮守に過ぎないが、博物館は相模国府の姿を紹介する資料として一見の価値がある。
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国府が前鳥神社周辺から大磯に遷った理由も年代も推定の域を出ないが、概ね平安末期の西暦1100年前後、相模川の氾濫が影響した可能性は高い。いずれにしろ論功行賞の舞台になった国府は前鳥神社ではなく、大磯の六所神社周辺にあったのは間違いない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月25日 】
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頼朝は松田に造作した館に入った。中村宗平に修理を命じていた、侍二十五箇の萱葺きである。
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※松田邸: 異母兄の 朝長が育った波多野氏の松田邸(場所は確定されていない)を修理するよう10月18日に命じていた。原文は「侍二十五箇」で、この意味は判らない。
例えば三十三間堂は 「間口が33間」ではなく、内陣の柱またはスパンが33と表現する古代~中世の手法だが、それを当て嵌めて良いのかどうか。現実の松田邸はかなり豪壮な建物だったのは間違いなさそうだ。
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波多野氏の所領が中村庄の北に隣接している関係から修理を命じた。松田郷は現在の東名大井松田IC付近で、波多野荘中心部から見ると8kmほど西、松田邸は寒田神社南東の松田小学校の一帯(地図)が最も有力視されている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月26日 】
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大庭景義 に囚人 河村義秀(波多野一族)を斬罪に処する指示を行なった。また、今日固瀬川で 大庭景親を斬罪に処して固瀬河に首を晒した。
景親の弟 俣野五郎景久 は今も志が平家にあり、密かに東国を脱出して上洛した。
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  ※景親処刑: 投降後に頼朝が兄の景義に「助命を願うか」と訊ね、景義は「お心の儘に」と答えた。これは景義の清廉さを伝える事件、とされる。
ただし保元の乱(1156年)では 為朝 の鏑矢に左膝を砕かれ馬と共に倒れた景義を、共に参戦していた景親が担いで救出した恩がある。この傷によって歩行困難になった景義は景親に家督を譲るのだが、当時は二人の父親・景宗も存命していた。
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また長男の景義と次男の豊田景俊を産んだのは横山隆兼の娘、つまり愛甲季隆 の姉妹。、三男景親と四男の俣野景久の生母は異なる。異腹の兄弟が二人づつ源平に分かれ、更に助命も願わなかったのは一族の生き残りを担保する意味か、あるいは円満な関係ではなかったからか。
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景親弟の俣野景久は石橋山で 佐奈田余一義忠 と組み合った武士で、後に倶利伽羅峠から退却中の北陸篠原で 義仲 軍の追撃を受け、斎藤實盛伊東祐清 らと共に戦死した。河村義秀は 波多野義常 の従兄弟で大庭景義の姉妹が義常に嫁している関係から大庭景義に預けられた。死罪の命令を無視した大庭景義はそのまま義秀を匿い続け、10年後の八幡宮放生会で弓の妙技を披露して赦免され、御家人に加わえられた。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月27日 】
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佐竹秀義 を追討するため常陸国に出陣した。周囲ではこの日が運勢の衰微する日取りなのを心配したが、東国を掌握する契機となった令旨が届いたのは4月27日である。
従ってこの様な場合には27日を使うべきである、と。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 12月12日 】    富士川合戦後の頼朝は常陸で佐竹氏を討伐し11月17日に鎌倉に帰還している。
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亥の刻(22時前後)に新築の館に移転の儀式があった。去る10月に 大庭景義 に命じて大倉郷に建てたもので、定刻に 上総廣常を出て新邸に入った。和田義盛が最前列に、加賀美長清が左に、毛呂季光が右に従った。 北條時政義時足利義兼山名義範千葉常胤胤正胤頼安達盛長土肥實平岡崎義實工藤景光宇佐見助茂(祐茂)土屋宗遠佐々木定綱盛綱 が続き、畠山重忠 が最後尾に従った。
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頼朝入御後に従った武士は侍所(柱が18スパンの詰所)に向き合って二列に並び、和田義盛が中央に控えた。出仕者は211人である。御家人らもそれぞれ周辺に館を構えた。以前から漁師や百姓だけが住む辺境の寒村で家屋も少なかった鎌倉は道路が整備されて家が立ち並び、鎌倉の主の本拠としての体裁を整えた。
今日、園城寺(三井寺)が焼失、金堂など堂塔伽藍・経巻など殆どが灰燼となった。

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右:朝夷奈切通し東側、県道沿いに残る上総廣常の墓    画像をクリック→ 拡大表示
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上総廣常の屋敷 は十二所の奥で朝夷奈切通しの手前、十二所果樹園に分岐する道の付近(地図)と伝わる。なんでこんな山の中に屋敷を構えたのか理由が判らんと思うほど薄暗くて湿気の強い場所だ。
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廣常は寿永二年(1183)12月20日に自邸で双六を楽しんでいた最中に、相手の 天野遠景梶原景時 に誅殺された。この年の吾妻鏡は欠落しているため記録を辿ることはできないが、北條九代記は 上総権介廣常 と子息の能常が誅殺された」 と記載している。
大倉御所で廣常を殺し、十二所の屋敷を襲って嫡子能常を殺し血に濡れた太刀を洗ったのが「大刀洗川」、と考える説もある。後説の方が何となく本当らしく思える。
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廣常は以前から「東国の自立」を主張しており、以仁王 の遺児・北陸宮擁立を夢見た 木曽(源)義仲 と廣常の接近を警戒した頼朝が排除を決断した、とも伝わっている。朝廷共存共栄路線を歩もうとする頼朝にとって、朝廷支配からの独立を夢見た広常は邪魔な存在になっていた、らしい。建久元年(1190)に入京した 頼朝後白河法皇 の面談に陪席したした天台座主の 慈円 が頼朝の言葉を愚管抄に書き残している。
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   廣常は「朝廷に見苦しく気を遣う必要などない、我々がこのように坂東で活動している事について誰が命令などできますか」と繰り返していた。
   平家討伐よりも東国の自立が優先だと主張していたため殺した
、と。
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廣常の墓は朝夷奈切通しに入る六浦側の環状4号線沿い(地図)にある。元々は切通しの入口側にあったらしいが道路工事の関係で現在地に移設された。本領の館は大原町または御宿町にあったと伝わるが、遺跡は確認されていない。殺されなかったらどんな足跡を残したか、想像に値する人物ではある。
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      時系列に従えば次は常陸国佐竹氏討伐、この方面はまだ踏破していないため先送りして寿永二年(1183)の野木宮合戦に進む。
      佐竹秀義が籠った金砂山城は常陸大宮市上宮河内町の
西金砂神社 なのだが、間違えて 東金砂神社 (常陸太田市天下野町)常陸(茨城県)を目指してしまった。
      直線距離では6kmなのに車では20km強(ルート地図)、東金砂神社でミスに気付いた時には夕暮れで、やむなくギブアップした。
      その後も何回か近くを通ったけれど機会に恵まれず何年も過ぎた。下総・上総(千葉県)を含めて探訪はいつになるやら(涙)。

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左:寿永二年(1183)2月に勃発した野木宮合戦   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月23日 】   実際には寿永二年(1183)2月の事件を差す
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志田義廣 は三万余騎 を率いて鎌倉を目差し、源氏に叛いた(藤姓足利氏の) 忠綱 の軍勢も加わった。忠綱は同じ 藤原秀郷 を祖とする小山一族と下野地域の主導権を競う立場にあり、更に(治承四年の)挙兵を命じた 以仁王 の令旨が藤姓足利氏ではなく小山氏だけに届いたため反発して平家に味方した経緯もある。義廣に協力するついでに小山氏も滅ぼしてしまおう、と考えた。
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次に志田義廣は 小山四郎朝政 に味方に加わるよう持ち掛けた。朝政の父 政光 は御所警護に任じ郎従の多くを率いて在京していたため朝政が動員できる手勢は少なかったが、彼の志は 頼朝 にある。義廣を討ってしまおうと考え、老臣の言葉に従って味方をすると偽り義廣を誘い出した。

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ただし、圧倒的に動員力の劣る志田義廣が「鎌倉を目指して兵を進める」など自殺行為で、常識では考えられない。戦闘の経緯も突然砂煙に襲われたり、鎌倉の軍勢が絶好のタイミングで加勢したり、逃亡ルートが前もって封鎖されていたり、美味しい話が多すぎる。こんなケースでは「計算づくの騙し討ち」だったと判断するのが妥当だ。
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両軍が衝突した野木宮(現在の野木神社)の創建は第十六代仁徳天皇の治世(313~399年)、完全に神話の時代に属する。その後の延暦二十一年(802)には蝦夷を平定した 坂上田村麻呂 が戦勝を感謝して社殿を寄進した。鎌倉時代初期には頼朝が田畑を、実朝が神馬を寄進した記録が残っている。東国に於ける頼朝の対抗勢力が野木宮合戦を最後にして鎮圧された関係から鎌倉幕府成立の一里塚であり、その意味で源氏の崇敬を受けたのだろう。
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野木神社の主祭神は第十五代応神天皇の皇太子だった莵道稚郎子命、応神天皇と神功皇后らを配神としている。莵道稚郎子命は異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)を皇位に就かせるため自殺した人物で、下野国造に着任した奈良別王がこの地に莵道稚郎子命の遺骸を葬ったのが起源とされる。ただし延喜式では莵道稚郎子命の陵墓は宇治市の丸山古墳 (地図)にあり、野木宮合戦から40年後の承久の乱(1221)に 北條時房 率いる鎌倉軍が 宇治川の渡河作戦(別窓)で 源有雅 率いる朝廷軍を粉砕した地点でもある。現在は宮内庁も正式に陵墓として認定し管理下に置いている。
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※奈良別王: 仁徳天皇41年(353)には豊城入彦命(第十代崇神天皇の皇子・奈良別王の四代祖)を祭神として二荒山神社を創建している。
下野国は古くから大和朝廷の支配下に入り、奈良別王は下野国造に任じた時に現在の佐野市郊外に舘を構えていたとの伝承も残っている。
唐沢山の西麓には伝・藤原秀郷 の墳墓もあり、唐沢山城址(別窓)に近い奈良渕町(地図)が奈良別王の館跡に該当する、と。
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余談になるが、平安時代末期まで相模国府が置かれていた前鳥神社(別窓)も祭神として莵道稚郎子命を祀っているのが面白い。

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野木神社 右:旧奥州街道から400mも続く野木神社の見事な参道、   画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月23日 の続き 】   実際には寿永二年(1183)2月の事件を差す
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更に 足利(藤姓)忠綱 は味方に加わるよう 小山四郎朝政に持ち掛けた。朝政の父 政光 は御所警護に任じて郎従の多くと共に在京しており朝政の手勢は少なかったが、志は頼朝の側にある。義廣を討ち取ろうと考え、老臣の言葉を容れて味方に加わると嘘を吐き義廣を誘い出した。
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朝政は義廣一行が野木宮まで来た時に登々呂木澤と地獄谷で待ち伏せし多くの敵を討ち取った後に馬を射られて落馬、更に徒歩で奮闘を続けた。傷を負った馬は主人から離れ登々呂木澤で嘶いた。
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そこへ鎌倉から小山を目指して進軍していた五郎宗政(20歳)がこの馬を見て朝政討死と判断し義廣の陣へ突入、立ち塞がった義廣の乳母子・多和利山七太を討ち取った。義廣は少し退いて野木宮の西南に布陣し、小山四郎朝政と五郎宗政は東から攻め寄せた。
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この時に東南の方向から突風が吹いて土埃を巻き上げ、義廣勢は視界を失って統率が取れず多くが討ち取られて地獄谷と登々呂木澤に死骸を晒した。また 下河辺庄司行平 と弟の 四郎政義 が古我(現在の古河)と高野の渡を封鎖し、敗走する兵を討ち取った。足利七郎有綱と嫡男の 佐野太郎基綱、四男の阿曽沼四郎廣綱、五男の木村五郎信綱、大田小権守行朝らは小手差原に陣取って戦った。他にも 八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄らが朝政勢に加わった。蒲冠者範頼 も同様に駆け付けた。
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※地獄谷と登々呂木澤: 野木神社西側、渡良瀬川まで広がる湿地帯。野木神社とは15~20mほどの高低差がある。
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※足利有綱: 藤姓足利氏(藤原秀郷 の子孫)の中で志田義廣に味方したのが嫡流の 俊綱忠綱 の親子、俊綱の末弟で庶流の足利七郎有綱と嫡子の佐野基綱兄弟は鎌倉方に与して
いる。本来は足利地域に最初に土着していた藤姓足利氏は野木宮合戦での敗北によって失脚零落し、以後は庶流の佐野一族が辛うじて命脈を保つ結果となった。
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※古我と高野の渡: 古我は野木から南に逃げて渡良瀬川を渡る地点、高野は北に逃げて思川上流を渡り現在の栃木市方面に向かうルート、小手差原は利根川の古流路(現在の
権現堂川)を渡って南西に逃げるルートか。要するに壊滅して統率を失いバラバラに落ち延びたのだろう。
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野木宮合戦前後の吾妻鏡の記事はリンク先に掲載してあるが、嘘っぽい描写が多くて好きになれない。そもそも公称三万騎を率いていた義廣が寡兵の朝政にベタ負けするのは理屈に合わないし、吾妻鏡の書いた「兵を登々呂木澤地獄谷の樹に登らせ大声を挙げて大軍に思わせた」なんて不合理だし、全く同じ描写を金砂城攻防戦でも使っている。「ちょうど弟の五郎宗政が鎌倉から来た」のも偶然が過ぎるし、頼朝に臣従している小山一族の立場は判り切っているのに朝政に協力を持ち掛けるのも全く理屈に合わない。下川邊行平から範頼まで源氏の武将が揃っている記録も、充分な事前の準備があった事実を物語る。
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野木神社の地図はこちら、旧奥州街道から真っ直ぐに約400mの参道が延びている。地獄谷と登々呂木澤は神社の西に渡良瀬川まで続く湿地帯だったが現在は河川敷を除いて水田に姿を変えている。
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  ※金砂城攻防戦: 治承四年(1180)の富士川合戦直後に常陸の 佐竹秀義 が籠った金砂城(地図)の戦い。要害の金砂城を攻めあぐねた鎌倉軍は 上総廣常 の提案で秀義の叔父
佐竹蔵人義季を篭絡し城の裏手から大声で城兵を驚かし攻め落としたと、吾妻鏡は記述している。下手な嘘は簡単にバレるね。

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 その九 甲斐源氏の興隆と衰退について 

 
右:伝・経基王の館跡(鴻巣)    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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異説は多々あるが、一応通説に従って...
第五十六代 清和天皇 の第六皇子 貞順親王 が源能有の娘に産ませた六孫王が臣籍に下って 源経基 を名乗り清和源氏の初代となった。源能有は第五十五代文徳天皇の皇子で清和天皇の異母兄。皇統を継げる立場だったが生母の出自が低く、早くに皇籍を離れていた。
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JR高崎線の鴻巣駅から1kmほど西の鴻巣高校グラウンドの南隅、東西95m×南北89mの一角が「ふるさとの森」として保存されており、ここが源経基の館跡と伝わっている。
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承平八年(938)、経基は武蔵介(四等官(守・介・掾・目)の二番目)として同じく権守の興世王と共に赴任し、在地の豪族・武蔵武芝とトラブルを起こす。興世王は 平将門 の仲介を受け入れたが経基は兵を率いて比企郡狭服山に籠った末に京へ逃げ、将門と武芝と興世王が結託して謀反した、と訴えた。結果として関東5ヶ国国府の証明書を提出した将門らの抗弁が認められ経基は誣告の罪で拘禁されたのだが...
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※比企郡狭服山: 当時の武蔵国府は府中市大國魂神社一帯 (地図) だった。ここを起点に「山」を推定すると、将門伝説が残る飯能市前ヶ貫の 大蓮寺裏山 (地図) か、個人的には
鎌倉街道が通っていた狭山市の智光山公園 (地図) だといいな、などと思っている。この根拠は皆無、単純に若い頃の些細な思い出があるだけなのだが (笑) 。
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翌・天慶二年(939)11月に将門が実際に乱を起こしたため罪を解かれて昇進し、更に天慶四年(941)には 藤原純友 の乱鎮圧(単なる戦後処理)にも関わって鎮守府将軍にまで登り詰めた。合戦を指揮した経験もなく、軍人としては間違いなく凡庸以下だったのに。似たようなタイプ、結構いるんだよね。
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鴻巣に経基の館があったとする根拠は薄弱で、城郭の痕跡は平安末期ではなく戦国時代以降のものと考える方が妥当だろう。高崎線に沿って北へ伸びる中山道は埼玉県北部で京と奥州を結ぶ東山道と交差する要路であり、慶長八年(1600)には関が原に向う徳川秀忠軍もこのルートを通過している。
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土塁や濠はかなり本格的な構造だが、後世の出城あるいは砦と思われる。経基の館跡を利用して軍事拠点に整備した可能性も皆無ではないが、武蔵国に僅か一年弱の滞在だった経基の館跡が残っている筈もない。今回は周辺を素通りするだけで済ませたが、いずれもっと詳しく公園の中を歩いてみたいとは思う。


左:羽曳野 通法寺に残る源氏三代の墓所    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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経基王(源経基)の嫡子 満仲 は摂津国多田(現在の兵庫県川西市多田)に源氏子飼いの武士団を形成し、更に満仲の息子らは各地に所領を得て新たな源氏の諸家を興した。
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嫡子の 頼光 は多田を継承して摂津源氏(多田源氏)の祖となった。本来ならば清和源氏嫡流である頼光の家系は頼光→ 頼綱→ 明国(多田)と続き、明国の弟・仲政の嫡子だった 三位頼政、その後は養子を経て末裔には大田道灌が現れる。満仲の二男 頼親 は大和国(奈良県)に拠点を置いて勢力を伸ばしたが、数代後には中央政権との関わりを維持できず、地方豪族として歴史の中に埋没した。
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そして、満仲の三男 頼信 は第68代後一条天皇の寛仁四年 (1020) に河内守に任じ、河内国古市郡壷井 (大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の山裾に館を構えた。館の敷地は現在の通法寺跡から壺井八幡宮を経て2km北の駒ヶ谷付近まで含んだ、と伝わる (地図)。
館の南側に氏寺の通法寺があり、そこから南の丘陵に頼信・頼義・義家の墓所を設けた。河内源氏の聖地だね。
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河内源氏は 頼義義家→ 義親→ 為義義朝 に続き、150年後には 頼朝 が鎌倉幕府を創設する。頼朝の血筋は息子 頼家実朝
の代で絶えるが、義家の弟 義光 は所領だった常陸と甲斐に勢力を拡大し、常陸の所領は長男の佐竹義業(秀義 の曽祖父)が継承して常陸源氏となる。
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甲斐の所領は二男の 義清 が継承、父と共に甲斐に土着した義清の嫡子 清光 は甲斐国各地の所領を息子たちに与え、嫡流武田氏を始め加賀美氏、浅利氏、小笠原氏などの甲斐源氏として長く歴史に名を留める。更に富士川中流域の偏狭な南部郷(地図)を継いだ南部氏庶流は奥州合戦で得た恩賞の地に移住し東北屈指の名家として嫡流を越える繁栄を得た。
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羽曳野壺井の通法寺は河内源氏の菩提寺で、河内国司に任じた 頼信 が長久四年(1034)に山中にあった千手観音像を祀る小堂を建てたのが最初。その後、前九年の役から凱旋して浄土宗に帰依した嫡男の 頼義 が阿弥陀如来を本尊として河内源氏の氏寺に改め、これが壷井八幡宮の別当寺となった。
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通法寺は源氏の隆盛と共に繁栄したが戦国時代には再三の兵火で焼失、元禄十三年(1700)に源氏の末裔・多田義直の申請を受けた五代将軍綱吉が再建し寺領として200石が与えられた。明治初期には神仏判然令に伴う廃仏毀釈運動で廃寺となり、現在では本堂の礎石と江戸時代建立の山門と鐘楼が残っているだけで、河内源氏三代(頼信・頼義・義家)の墓所が周辺に点在している。
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大きな疑問として残るのは、二度上洛した頼朝が先祖の墳墓である通法寺を訪れた記録が残っていない事だ。京都からは約70kmだが文治元年(1185)8月の東大寺盧遮那仏開眼供養のついでなら片道40km、僅か一泊の道程なのに、一族の聖地を訪れなかったのは何故か。
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※香炉峰: 唐代の詩人 白居易(772~846)は46歳の時に中央から江州(現在の江西省九江市)に左遷され、廬山の香炉峰麓に居を構えた。
ここで簾を上げ、雪の香炉峰を見ながら落魄の我が身を省みた七言律詩を詠んだ。壺井の香炉峰はこの山の名を転用したのだろう。
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日高睡足猶慵起  小閣重衾不怕寒  遺愛寺鐘欹枕聽  香爐峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地  司馬仍爲送老官  心泰身寧是歸處  故郷何獨在長安

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陽が高く昇り睡眠は充分だが、気力が起きぬ。狭い庵に夜具を重ね寒くはない。遺愛寺の鐘に枕に凭れたまま耳を傾け、簾を撥ね上げて香爐峰の雪を眺める。
匡廬こそ 煩わしい名誉から逃れた地、司馬こそは老後の官職として不足は感じない。心身ともに落ち着けるのが 私が依るべき場所、長安だけが私の故郷ではない。
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時代は下って枕草子第二百八十段。ある寒い雪の日、中宮定子(第66代 一条天皇皇后)の女官たちは炭櫃で暖を取りながら世間話に花を咲かせた。
その時に定子は「少納言よ、香炉峰の雪はどうだろうか」と話しかける。他の女官は意味が判らず、清少納言は近くの女官に御簾を巻き上げさせ、雪景色を見せて喜ばせた。
清少納言の知識と機転、香炉峰の語源を物語る、990年代後半の逸話である。
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         雪のいと高う降りたるを 例ならず御格子まゐりて 炭櫃に火おこして 物語などして集りさぶらふに
「少納言よ 香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば 御格子上げさせて御簾を高く上げたれば 笑はせ給ふ
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白居易が詠んだのが718年、彼の詩は180年後の宮中で既にメジャーになっていたらしい。

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右:頼義が創建した壺井八幡宮   画像をクリック→ 壺井八幡宮の公式サイトへ (別窓)
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河内名所図会に拠れば、前九年の役(1051~1062)で飲料水の不足に苦しんだとき頼義が弓の先で崖を崩して冷泉を得た。凱旋する際この水を壺に入れて持ち帰り、香炉峰の南麓に井戸を掘って壺の水を注いだ、これが「壺井」の語源になった、と伝わっている。
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凱旋した頼義は康平七年(1064)に清和源氏の守護神である京都男山の 石清水八幡宮 を勧請して壺井八幡宮を創建しているから、井戸の伝承と八幡宮の創建は相互に始まりを補完するもの、だろう。
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頼義の嫡男義家は石清水八幡宮で元服して八幡太郎を名乗り、次男の義綱は京都市北部の賀茂神社(上賀茂神社下賀茂神社の総称)で元服して賀茂次郎を名乗り、三男義光は近江国三井寺(園城寺)守護神の 新羅明神 で元服して新羅三郎を名乗った。(青字はそれぞれ公式サイト)
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兄の義宗が早世したため 頼義 を継いで河内源氏の棟梁となった 義家 は優れた武将として多くの伝説を残したが、私戦と判断された奥州合戦(後三年の役)の後は公私とも恵まれなかった。長男義親は略奪と官吏殺害の罪で討伐され、二男 義国 は気性の荒さから後継を外され、更に常陸国に土着した後に騒乱が元で勅勘を受けた後に下野に流されて(結果的に)足利と新田の祖となった。
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この頃から源氏の宿命とも言える同族の殺し合いが頻発する。三男で嫡子となった義忠は河内源氏棟梁を狙った叔父 義光 の策謀で暗殺され、義親の子為義(義家の七男説あり)が河内源氏棟梁を継承した。 為義 から源氏棟梁を継承した 義朝 は保元の乱(1156)で敵方に与して敗北し捕虜となった父為義と弟5人(頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲)を洛北の船岡山で斬首している。義親の気性を継いだのだろうか、良知には最後まで血の匂いが付き纏っていた。
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そして鎌倉時代の建保七年(1219)1月には雪の鎌倉八幡宮で 頼家 の遺児 公暁 が叔父の将軍 実朝 を殺し、身内の殺し合いによって河内源氏の男系男子が絶えてしまうのだから、「あまりに多くの人命を奪った祟り」との言葉も無視できなくなる。

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右:大津市 新羅三郎義光の墓所   画像をクリック→ 拡大表示
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義光は兄の 義家 と並ぶ優れた武将で笙の名手、兄が奥州で苦戦していた後三年の役では官職を辞して応援に駆け付けた美談も残る。文武両道を極めた人物なのだが...同族の殺し合いが多かった源氏の中でも飛び抜けた策士で冷徹な殺人者でもあった。
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嘉承元年 (1106) 夏に長兄の義家が68歳で死没し、義家四男の義忠(母は 平直方 の娘)が河内源氏棟梁を継承。この時から義家の6歳年下(当時62歳)の義光は河内源氏棟梁の座を狙い、次兄の義綱と棟梁になった義忠の二人を殺す計画を立てる。
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まず義光は配下の藤原季方を兄 義綱の三男義明の郎党として送り込み、次に同じく配下の平直幹(義光の長男義業の妻の兄)を義忠の郎党として送り込んで殺害の機会を狙った。
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義家死没三年後の天仁二年(1109)春、藤原季方に義明の太刀を盗ませて平直幹に与え、その太刀を使って義忠を殺させ更に太刀を現場に残させた。この事件は義綱・義明父子の犯行と判断され、義綱の一族郎党は追討された。つまり義光は棟梁である甥の義忠を殺して実兄の義綱親子に罪を着せ、二人の邪魔者を一挙に抹殺するという完全犯罪を成し遂げた、かに見えたのだが。
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更に異母兄の快誉(園城寺(三井寺)の住僧、義家より三歳上なので庶長子か)に命じて暗殺実行者の藤原季方と平直幹を殺し、犯行の発覚を防いだ。結果として快誉の自白から事件の全てが明らかになってしまう。義光は勢力圏の常陸国に逃亡し、肉親殺しの物語は次の「武田氏発祥の原点 常陸国武田郷」に続くことになる。
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70年後、義光の直系子孫は再び同族の争いを始めてしまう。義光義清清光信義 と続いた次の代、棟梁の座を狙った信義三男の 石和信光 は 甲斐源氏の弱体化を望む 頼朝 と手を結び、信義を継いだ長兄 一條忠頼 を頼朝に謀殺させ、更に父の信義と次兄の 逸見有義 を讒訴して失脚させた。この事件で甲斐源氏は急速に衰退するのだが、その代償として信光は十六代後の信玄に続く武田一族の覇権を握った。これらの詳細についても次項で述べようと思う。

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右:武田氏発祥の原点 常陸国武田郷   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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武田姓の始まりは河内源氏初代頼信の嫡男 頼義 の三男(八幡太郎義家 の弟)である 新羅三郎義光 の次男 義清 が常陸国吉田郡武田郷(ひたちなか市武田 )に本拠を置いて武田冠者を名乗った事に始まる。
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義清の兄 義業は常陸平氏の有力者吉田清幹の娘を妻にして常陸国北部の佐竹郷に勢力を扶植して佐竹姓を名乗っていた。義清は那珂川北岸の台地に館を構えて常陸国南部での勢力拡大を目指したが、以前からこの周辺を所領にした常陸平氏の大掾氏とトラブルを起こし訴えられた末に勅勘を受け天承元年 (1131) 甲斐流罪となった。
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ただし、甲斐国は頼信(甲斐守)以来の河内源氏の地盤なので実質は配置転換程度の軽い処分に過ぎなかった。土着した市河荘では既に叔父の覚義阿闍梨が御崎明神の婿として地盤を築いており、義清一族の運命はこの甲斐移封によって大きく開けた。
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義清を継いだ 黒源太清光 は長男の 光長 に逸見郷を、次男の 信義 に武田郷を、三男の 遠光 に加賀美郷を、四男の 義定 に安田郷を、五男の清隆に平井郷を、六男の長義に河内郷を、七男の厳尊に曽根郷を、八男の 義成 に浅利郷を、九男の信清に八代郷を、それぞれ分与して各氏族の祖とし甲斐全土を制圧、紆余曲折を重ねつつ、義清から19代後の勝頼 (信玄の嫡子) が天目山で自刃するまで450年間も繁栄を続けた事になる。
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義清が館を置いた常陸武田郷の台地には湫尾(ぬまお)神社が建ち、館を模した裏手の資料館「武田の郷」には一族の由来を物語る資料が展示されている。見るべきものが多いとは言えないが、甲斐国の代名詞と言える武田氏がここからスタートしたのを考えると素通りも出来かねる。
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地図はこちら、南の那珂川や東の常磐線側は道が狭いから、セブンイレブン方向から左折し住宅街を抜けて湫尾神社を目指すと良い。

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左:義光伝説が残る、甲斐若神子の正覚寺   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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義光は甲斐守在任中に若神子城を築き拠点にしたと伝わるが、この確証は得られていない。若神子エリア(地図)はむしろ、武田信玄が信濃国攻略の補給基地として使った事の方が知られている。
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若神子(わかみこ)は諏訪へ抜ける道(現在の国道20号)と佐久へ続く道(現在の国道141号)の分岐点に近く、釜無川と須玉川に挟まれた天然の要害である。後世の武田信玄が最短の軍用道路として整備した「棒道」の基点に近く、ここには当時の高速通信ネットワークである狼煙台も置かれていた。
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平安時代の遺構はもちろん残っていない。城址に関する詳細は wiki の資料 で 、棒道と狼煙(烽火)台については北杜市観光協会津金学校(旧・須玉歴史資料館)の公式サイトが判りやすい。
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若神子の名は東征の際に甲斐国に入った日本武尊(ヤマトタケル)の「御子」を表したとも、室町時代に使われた地名の記録が残っている「若巫郷」が原典とも言われるが、詳細は不明。桜で有名な韮崎の「王仁塚(わにつか)」は日本武尊の王子・武田王の墓だとの伝承もあるから、甲斐の各地に残るヤマトタケル伝説の一つかも。
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  ※烽火: 唐帝国を揺るがした胡人・安禄山の乱を嘆いた杜甫の五言律詩 「春望」にも載っている。「戦いの烽火(狼煙)は三ヶ月も続き...」と。
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          国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻更短 渾欲上勝簪
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常陸介~甲斐守を歴任した新羅三郎義光も、親族暗殺の犯行が露見した後は京を離れ、在任中に影響力を広げた常陸国への逃亡を余儀なくされた。義忠殺害の冤罪を受けた義綱一族が追討されたのに、兄弟殺害がバレた真犯人の義光が追討令を受けなかったのは何故か、その理由は判らない。いずれにしても、義光の遺領と影響力が常陸源氏佐竹氏と甲斐源氏の諸族に受け継がれ繁栄することになる。
10月に大津三井寺で没した。享年83歳で病死、或いは義忠の遺児河内経国に殺された、とも。 三井寺の新羅善神堂で元服した義光は暗殺事件から16年が過ぎた大治二年 (1127) 10月に大津三井寺で没した。享年83歳で病死、墓所は善神堂の裏手にある。


右:甲斐 平安~鎌倉期の勢力分布と著名な史蹟   画像をクリック→拡大表示
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甲斐源氏の系図は 清和天皇貞順親王源経基満仲頼信頼義新羅三郎義光→ 三男逸見義清→ 嫡男清光と続き、清光の子は甲斐国全土に勢力を蓄え、武田・加賀美・小笠原・浅利・南部・於曽として源氏の血脈を受け継いでいく。甲斐源氏の詳細系図は左フレーム「清和源氏の系図」の中段を参照されたし。
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第56代 清和天皇 の第六皇子 貞純親王 の子・経基王が源姓を下賜され臣籍降下して清和源氏の祖となった。ただし、陽成天皇の子・元平親王説もあり、陽成の悪名を避けて清和を祖としたと考える説もある。
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陽成は殺人を好み、側近を矢で射殺したり女官を溺死させたりの奇行が多く、更に乳兄弟まで撲殺した...それが「狂気」の原点なのだが、陽成の即位は7歳で退位は満15歳。主たる退位の原因は母方の伯父で摂政を務めた 藤原基経 (wiki) が意の侭に動かぬ陽成を排除して従順な光孝に58代を継がせるため仕組んだとの説も評価が高い。陽退位した成が80歳の長寿を全うしたのも面白い。
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長元二年 (1029) に経基の嫡孫 頼信 が甲斐守として赴任し、その孫の義光も短期間甲斐の若神子館に住んだとされるが、この確証は得られていない。後に常陸国へ移って勢力を広げた経緯から、義光は甲斐源氏と常陸源氏の祖とされている。
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義光の嫡男義業は常陸の久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に土着して常陸源氏の祖となり、嫡男の隆義が佐竹氏の二代目を継承した。義光次男の義清は甲斐に土着して繁栄、義清の嫡男清光は北東部の逸見(現在の甲斐大泉)に拠点を置いて多くの男子をもうけ、各地の所領を継承させた。
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長男 光長 は逸見城の南に深草館を置いて逸見を名乗り、二男 信義 は釜無川の西に本拠を置いて武田を名乗り、三男 遠光 は釜無川と笛吹川の合流点近くに本拠を置いて加賀美を名乗り、四男 義定 は甲斐盆地の北東部に本拠を置いて安田を名乗り、五男清隆と六男長義は石和に本拠を置いてそれぞれ平井と河内を名乗り、七男の厳尊は笛吹川を隔てた南東部の御坂に本拠を置いて曽根を名乗り、八男 義成(与一) は曽根の下流に本拠を置いて浅利を名乗り、九男信清は更に東の山間部に入って八代を名乗った。
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甲斐源氏の実質的な祖である清光の子孫についての概略は下記の通り。光長と信義は一卵性双生児と伝わる(異母兄弟説あり)。
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    長男 光長は逸見氏の祖となったが、その後の一族には不明な点が多い。庶流が甲斐に、直系子孫は摂津・美濃・若狭などに移ったと伝わる。
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    二男 信義 が武田を名乗るが嫡子 (一條)忠頼 は鎌倉で謀殺され信義も失脚。親族を裏切って頼朝に協力した三男 信光 が武田宗家を継承。
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    三男 遠光は加賀美氏の祖となった。遠光長男の秋山光朝は妻が 平重盛 の娘だったため失脚し、四男光経が加賀美を継いだ。
遠光の二男 光行が南部氏、三男の 長清(妻は上総廣常の娘)が小笠原氏、五男の経行が於祖氏の祖となった。
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    四男 義定 は安田を名乗ったが幕府樹立後の建久四年に嫡男 義資 の冤罪に連座して失脚、翌年に追討され一族が滅亡した。
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    五男清隆は平井を、六男長義は河内を、七男厳尊は曽根を、九男信清は八代を名乗ってそれぞれ甲斐に土着したが詳細は省く。
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    八男 義成 (与一) は浅利を名乗って甲府盆地南東部(中央市豊富地区)を領有した弓馬四天王の一人。越後城氏の娘 板額を妻(後妻?)とした。
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清光を共通の祖とするこの諸族は更に多くの支流に分岐し、様々な離合集散を繰り返す。そして400年近くが過ぎた1540年代に信玄の下に集結して緩い主従関係を構成し、武田信玄の跡を継承した勝頼の時代には多くが離反して武田氏の滅亡を招くことになる。甲斐の諸族には元々の主従関係がなく、長幼の差からスタートした言わば対等に近い集合体で独立の気風からは脱し切れなかったのだろう。

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左:義清と清光は甲斐市河荘へ     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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蛇足...数百年の後、甲斐を統一した武田信玄と常陸の雄・佐竹義重は小田原北条氏を牽制するために同盟を結び、その際に書状の遣り取りがあった。信玄側では 義光 から伝わった盾無の鎧や御旗を根拠にして嫡流を主張した。義重側は、佐竹の祖義業は義光の嫡男である。武田の祖 義清 の兄だから、嫡子庶子の順は明らかだ、と主張した。この論争の結末がどうなったかは判らない。
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市河荘の荘園領主は京都の真言宗法勝院(創建は藤原北家で摂政の藤原良房)、釜無川と笛吹川が合流する現在の市川三郷町平塩岡(地図)を中心に広いエリアを占めていた。義清清光 の親子は平塩岡に館を構えて本拠地とし、荘官として甲斐盆地に影響力を広げた。平塩岡は後に甲斐を席巻する武田一族が印した第一歩であり、甲斐源氏にとっての原点である。
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この時の義清は56歳前後で清光は20歳前後、かつては常陸介だった義光が没した大治二年(1127)の三年後、常陸国で起こした「清光濫行」で配流となった甲斐国で運命が大きく開けた。当時の常陸国司だった藤原盛輔や在地豪族にとってはトラブルの種だったから、結果的には双方にとって円満な解決、という事になる。
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義清親子は約10km北(現在のJR身延線国母駅付近)にも館を構え(本拠は平塩岡ではなく国母との説あり)、更に清光は40km北の逸見荘に進出して逸見冠者を名乗り、2km北の高台に谷戸城(別名を逸見城)を築いて詰めの城とした。義清は20年後の久安五年(1149)に死没、玄(くろ)源太と呼ばれた嫡子の荒武者清光は保元の乱(1156年)にも平治の乱(1159)にも参戦せず、ひたすら甲斐国での勢力拡大に専念している。
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  ※武田系図などによると
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河内源氏 源義清 は白河院の承保二年(1075)4月16日に近江志賀館(大津?)で生まれた(同、元年・1074説あり)。
母は常陸国の住人鹿島清幹女、幼名は文殊丸または音光丸。堀川院の寛治元年(1087)に伯父 義家 を烏帽子親に13歳で元服し、刑部三郎を号した。義光 にとっての三男だが兄弟よりも資質が高かったため嘉承元年(1106)に家嫡と定め、 (父祖伝来の家宝) 御旗と盾無の甲冑を譲り受けた。
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甲斐国市河庄に配流(常陸を経た経緯は系図に載っていない)された後に伊豆・甲斐・信濃・遠江などの受領職(現地に赴任する長官、遙任の対語)を歴任、甲斐判官と号し従五位下に叙された。鳥羽院の保安四年(1106)1月16日に49歳で剃髪、近衛院の久安五年(1149)7月23日に75歳で死没、墳墓は甲斐市河荘に在り。
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逸見冠者 黒源太清光 は堀河院の天文元年(1110)6月9日、市河館で誕生、幼名は徳光丸。崇徳院大治元年(1126)1月11日に15歳で元服、烏帽子親は足利(加賀介)源義国、武田源太を号す。顔が著しく黒かったため世間では黒源太と呼んだ。伊豆・甲斐・信濃・遠江などの受領職を歴任、六条院の仁安三年(1168)7月8日59歳で没、墳墓は甲斐逸見郷に在り。
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「六位で無官の者」とか能狂言の「太郎冠者」とか様々な使い方がされるので厳密な意味が不明だが、清光のように地名を冠した場合は単純に「逸見を支配する者」とか「逸見に本拠を置く者」の意味が強いんじゃないかな、とふと思った。裏付ける根拠も知識もないけれど。

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右:甲府盆地・西条の義清神社と義清塚    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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ここは 義清(武田冠者)が平塩岡から進出して拠点を設けた地、あるいは久安五年(1149)に没した後に「義清大明神」として祀った社殿の跡とも言われる。更には逸見荘に移って老齢を迎えた頃に棟梁を 清光 に譲り余生を過ごした、とも。
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義清塚と呼ぶ墳墓は境内から道路を隔てて西側のアパート裏にあり、高さ3mほどの円墳は別名を「おこんこん山」、昔は狐が出没したために付いた名前らしい(地図)。
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確かに鳥居前の堀や境内の僅かな土塁の痕跡は居館の雰囲気を残しているが、昭和六十年(1985)に行われた境内と墳墓の発掘調査でも義清館の存在を裏付ける資料は見つからなかった。創建当時の円墳は裾が現在よりも広かった事、別な場所から運び込んだ砂を積み上げた構造である事が判った程度で、出土した陶器や古銭も義清伝説を裏付けるレベルではなかった、との記録が残っている。
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甲府市と市川三郷町は乏しい資料を駆使して互いに甲斐源氏発祥の本家を主張しているのも、面白い。
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義清が74歳で没した時の嫡子清光は40歳で嫡孫の光長と信義(双子)は21歳。既に一族の勢力は甲斐全土に及びつつあり、義清が住み慣れた市河荘あるいは西条に戻って隠居した、と考えても不思議ではない。初期の甲斐源氏が武士団を形成する過程で置いた根拠地の一つと考えるべきだろう。
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義清を産んだ平清幹の娘の兄弟に平成幹(吉田成幹・鹿島三郎)がいるのが興味深い。成幹は義清の父・義光の家臣で、義光の命令を受け河内源氏四代目棟梁の義忠(義光の実兄 義家の三男)を暗殺した人物である。義光は源氏棟梁の地位を狙い(兄義綱の三男義明の刀で)義忠を殺させ義綱親子に罪を着せて滅ぼし、更に実行者の成幹は実弟の快誉(園城寺の僧)に殺させて犯行の隠滅を図った。この悪辣な手口が(たぶん成幹の書き残した文書から)露見し、義光は勢力圏の常陸に逃亡を余儀なくされた。
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義忠は当時の新興勢力だった伊勢平氏との共存を図って平正盛(忠盛の父、つまり 清盛の祖父)の娘を娶り、忠盛の烏帽子親を務めるなど政局の安定に尽力した人物。もしも義光が我欲に駆られて義忠を殺さなければ平家との確執も起こらず、保元・平治の乱や壇ノ浦の悲劇も起きなかった、かも知れない。

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左:義清の嫡男 源太清光の拠点・谷戸(逸見)城址    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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富士川合戦より前の甲斐源氏の動向に関する資料は多くないが、吾妻鏡に数ヶ所が載っている。
甲斐源氏の拠点の一つとして逸見山が現れるのは治承四年(1180)9月15日のみ、頼朝 が安房を出て上総国に入り 千葉常胤 と会った直後である。北杜市大泉町の谷戸城址(地図) が逸見山に比定されている。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 9月8日】
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北條時政 が使節として甲斐国に出発。甲斐源氏を伴って(原文は「相伴彼國源氏等」)信濃国に向かい、降伏する者はこれを従え、驕り逆らう者は討伐せよとの厳命を受けている。
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これは吾妻鏡の粉飾。頼朝が千葉常胤と面談して応援の確約を得たのは9月17日で、遅参した 上総廣常 を待たず安房を出て上総を目指したのが9月13日。この時点の頼朝直属の兵力さえ「精兵300騎」なのに、その5日前に安房を出た北條時政が甲斐源氏の一翼を担えるほどの兵力を伴ったとは考えられない。
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安房を発って甲斐を目指すためには大庭の勢力圏である相模を通るか、まだ旗色を鮮明にしていない秩父平氏(畠山・河越・江戸・豊島の諸氏)の勢力圏・武蔵を通る必要がある。時政の派遣は援軍を求めるための、少人数による隠密行動だった筈だ。
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そもそもこの時点の頼朝が動員できる戦力は、甲斐全域と信濃東部を平定した甲斐源氏に対して、が指示命令できるほど優位ではなく同格以下。甲斐源氏の側にも同様の意識はあったと思う。例えば頼朝の軍勢は8月23日の石橋山合戦で敗北したが、安田義定 を主力とする甲斐源氏は同月25日の波志田山合戦で 俣野景久大庭景親の弟)と駿河目代の連合軍を撃ち破っている。更に富士川合戦から逃げる 平維盛 軍を追撃し、単独で駿河・遠江の支配権を手中にしているから、10月21日の吾妻鏡が「安田義定を遠江守護に、武田信義を駿河に」と書いたのは「任命」ではなく「実績の追認」に過ぎない。
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ただし、俣野景久が 佐奈田義忠 (与一) 組み合った石橋山合戦の翌・8月24日には土肥郷(現在の湯河原)周辺で大庭景親軍による追跡・掃討戦が行われているから、その翌日に景久が約80km離れた波志田山(河口湖近く)まで進出して合戦するのは少し無理がある。日程の誤記か、石橋山と堀口の合戦で勝利した景親が頼朝の再起を見誤り、俣野景久を駿河に派遣して維盛軍の到着前に甲斐源氏の殲滅を図ったのかも知れない。

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右:逸見山~諏訪大社~大田切郷の地図       画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月10日 】
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甲斐源氏の 武田信義 と 嫡子の 一條忠頼 らは石橋山合戦を知って 頼朝 との合流を考えたが、とりあえず平家に味方する近くの敵を倒すため信濃に向かい、諏訪上社(茅野市)庵澤に宿営した。
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深夜になって当宮大祝篤光の妻を名乗る若い女が夫の使いとして陣を訪れ「参籠中に梶葉文(表裏とも萌葱色)の直垂を着て葦毛(白の混じる毛色)の馬に乗った源氏の武者が西を指して鞭を揚げる夢を見た」旨を伝えた。忠頼は妻女に剣一振と腹巻一領を与えて出陣し、平家方の伊那郡大田切郷(現在の駒ヶ根市)を襲撃、城を守る菅冠者は館に放火し自殺した。これは諏訪明神の神託と思われるので両社に田を寄進した。上宮には平出と宮所の両郷、下宮には龍市郷である。
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ところが寄進状の筆者が間違って(龍市郷に)岡仁谷郷(岡谷市の一部)を書き加えた。この郷名は誰も知らなかったが、古老に尋ねると実際にある場所だと言う。これは両宮を等しく扱わせる神慮であり源氏強運の徴であるから頼朝に報告しようと相談がまとまった。
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   ※上社庵澤: 諏訪上社前の宮川を3km南東に遡った付近に「いもりさわ」の古名が伝わる(地図)。
   ※当宮大祝: 諏訪大社(上宮)の神官。平安中期から武士と神官を兼ねた家系で諏訪氏の祖。後に信玄と敵対して滅亡した。
   ※田を寄進: 平出(地図) ・ 宮所地図 ・ 龍市は全て現 辰野町。岡仁谷郷(岡野屋 ・地図)は平安末期に成立していた、「誰も知らぬ」筈はない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月15日 】
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武田信義と忠頼の軍勢は信濃の敵を滅ぼし、昨晩甲斐国に戻って逸見山に宿泊。また本日 北條時政 が到着し頼朝の意向を伝えた。
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   ※逸見山: 谷戸(逸見)城が該当する。清光は仁安三年(1168)に死没し、嫡流は 逸見光長(信義の双子の兄)が継承していた。
居館は約1km南にあった光長の本拠 深草館の可能性もあり、その場合の逸見(谷戸)城は詰めの城だろうか。
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谷戸城は標高860m(南側駐車場からの高低差は約40m)の単独丘陵・城山(じょうやま)を利用している。東西・南北ともに約300mの城山全体が城跡で、東衣川と西衣川が天然の濠を形成し、山頂には八幡神社を祀っている。直径約50mの山頂平場に主郭を設け、周囲に2m前後の土塁を数重に巡らした。
主郭の他にもに数ヶ所の郭があり、石積みの痕跡が少し残っている。清光は八ヶ岳南麓を開拓して逸見郷(古名は「へみ」)に本拠を構えたと伝わる。
現在見られる遺構はもちろん清光時代ではなく、武田氏の滅亡後に入城して徳川氏と対峙した小田原北条氏が改築したもの。

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左:八ヶ岳南麓の清光寺と八幡大神社    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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清光寺は仁平元年(1151)に生前の 逸見清光 が創建した天台宗信立寺が原点で、清光の没後に清光寺(せいこうじ)と改め、更に文明七年(1475)に至って興因寺の二世・悦堂宗穆(そうぼく)が曹洞宗に改めた。
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宗穆は京都 大徳寺妙心寺(共に公式サイト)など名刹を住持した高僧で、各所の天台宗寺院を折伏して曹洞宗に改宗させたらしい。創建時のポリシーに配慮しない改宗は嫌いなんだけどね、個人的に。
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寺伝に拠れば清光は谷戸城から朝日を拝して武運長久を祈り、その経緯から東南約20kmに位置する信立寺を朝陽山と号した、と伝わるが...正確に方位を測ると谷戸城から見て清光寺は真南に近い南南西に位置するから、朝日が清光寺の方向から昇る事は100%あり得ない。谷戸城・清光寺・茅ヶ岳・信光寺などをマークした地図(別窓) を参考に。
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但し清光寺から谷戸城は直線で2km強、その中間には清光の嫡男 逸見光長 の深草館があり、更に5km南東には 義光 についての伝承の残る若神子城址がある。義光の父 頼信 が勧請した大八幡神社の存在を併せて考えると、平塩岡から北進した甲斐源氏がここで大きく勢力を拡大したと推測できる。町村合併に伴う現在の住所は北杜市長坂町大八田6600(地図)。
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  ※興因寺: 甲府市 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)の北1km、要害温泉手前の静かな古刹で、一見の価値あり。本尊は釈迦如来、新羅三郎義光の長男 義業(佐竹氏の祖)が開いた
当初は天台宗、文明ニ年(1470)に武田信虎が中興して曹洞宗に改めた。末寺32を有する大寺だったが、寛政六年(1794)に堂宇を全て焼失し現在は伊豆の曹洞宗最勝院の末寺となっている。画像などは 山梨観光紹介サイト で。

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右:清光嫡男・逸見光長の深草館跡    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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清光 の長男 逸見光長 は現在の北杜市長坂の深草館(地図)を本拠とし、嫡子の基義(元義)から10代に亘って住んだと伝わる。
清光が本拠を置いた上記の谷戸城跡から南へ1100m、少し手前には良く知られた国指定の 金生 (きんせい) 遺跡 (wiki) がある。
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館の跡は南に向って緩やかに下る斜面の田圃に囲まれた雑木林の中にあり、谷戸城の麓(駐車場を基点)と比べると約60m低い。川を利用した濠や土塁、郭の痕跡などもはっきりと残っているが、これは平安末期ではなく室町時代以後の城砦遺構である。
この項のテーマからは外れるし面倒臭いため、今回は敷地内部には入らなかった。興味がある向きは参考サイト で詳細を。
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谷戸城の西側には谷戸城ふるさと歴史館(以前は無料、現在は入館料200円、正直言うと費用対効果は低い)もあり、金生遺跡と併せて見学できる。館跡周辺は道路が狭く駐車スペースもないから、谷戸城址から歩くのが面倒なら遺蹟の駐車場も利用できる。
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光長は逸見冠者清光の嫡男だが、双子の弟 信義 が武田氏の祖として多くの子孫を残し繁栄したのに比べると地味で記録も乏しい。
吾妻鏡には甲斐源氏の駿河攻めの項目に載っているのみ。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月13日 】
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甲斐源氏と 北條時政義時 親子は駿河国を目指す大石驛に宿営。夜になって駿河目代が長田入道の発案で富士裾野を迂回し甲斐に攻め込む情報が入り、それを迎撃しようと決した。武田太郎信義次郎忠頼 、三郎兼頼 ・ 兵衛尉有義安田三郎義定逸見冠者光長 ・河内五郎義長 ・ 伊澤五郎信光 らは富士北麓の若彦路を越えて南下、石橋山から甲斐に逃れていた 加藤太光員籐次景廉 を伴って駿河に入った。
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  ※大石驛: 河口湖の西岸から鳴沢を経て南下する若彦路(概ね現在の県道71号)と、国道358号で右左口峠を越えて精進湖の東で国道159号で南下、中道往還が人穴で
合流する。大石駅は合流点から約7km南にあった宿駅で、日蓮正宗の総本山 大石寺(公式サイト)のある富士宮市上条が定説だが、吾妻鏡が記載した行軍ルートは「①大石驛に止宿→ ②富士北麓若彦路を越え→ ③神野(≒上条)と春田路を経て→ ④正午に鉢田付近に着いて合戦」である。若彦路を基準にすると①と②は逆だし、神野は大石の5km北なのでUターンした事になる。やや疑問の残る部分で、この不明点を除けば鉢田(波志田)合戦は「富士宮周辺で決着できるのだが。

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左:甲斐源氏嫡流 武田氏興隆の跡を歩く    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 画像は武田の郷のシンボル・王仁塚の桜 】
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花季には「カメラ爺い」の群れで異様な混雑を見せるのが王仁塚の桜。残雪の八ヶ岳を背景に樹齢300年の桜が聳える絶好の撮影スポットだから爺さんたちの気持ちも判らない訳じゃないけれど、通行人まで邪魔者扱いにする神経には辟易させられる。長い人生を送り分別もそれなりに備えた筈の爺さん連中が「こらぁ!どけぇ!」などと怒鳴っているのを見ると、情けなくて涙が出る。
「王仁塚 桜」で検索するとプロが撮影した遥かに素晴らしい写真が沢山あるんだけどねぇ...。
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閑話休題...
清光 の長男 逸見光長 は谷戸城のある逸見一帯を継承し、双子の弟 信義は谷戸城から15kmほど南の釜無川西岸(現在の韮崎市神山町武田)を継承して本拠を構え、北側の武川町南部から南側に広がる 加賀美遠光領の境界 御勅使(みだい)川までを支配下に置いて甲斐源氏武田氏の嫡流となった。
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しかし鎌倉幕府が安定期に向うと共に甲斐源氏は 頼朝の「懐柔と排斥の二面作戦」により分断され、信義の弟・加賀美遠光系と信義の三男 信光など頼朝御家人の地位に甘んじた者が一族の主流を占めていく。
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  ※御勅使川: 芦安温泉近くから19km・高低差700mを流れ下り釜無川に合流する。古来から続いた氾濫で堆積した砂礫層がまた氾濫や旱魃を引き起す、そんな負の循環
を繰り返した。天長二年(825)の大洪水の際に国司の要請に応じて勅使が派遣され川の名に転じたと伝わる。
信玄が水流を弱めるために設けた堤防 将棋頭(画像)や釜無川に合流する地点の堤を保護した 聖牛(参考サイト)でも知られている。
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現在では武田八幡宮を中心にした釜無川西岸一帯は甲斐源氏歴代の聖地となり、初めて武田を名乗った信義から始まって直系子孫の信玄・勝頼に至る史蹟の数々が「武田の郷」として整備されている。でも厳密に考えると、義清が足跡を残した常陸国吉田郡武田郷が「武田」の地名の最初なんだろうね。

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右:悲運の武将 一條忠頼の墓所     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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一條忠頼は本来なら甲斐源氏の嫡流、武田の棟梁として一族を指揮する立場の武将だった。
新羅義光→ 次男 武田冠者義清→ 嫡男 逸見冠者清光→ 二男 武田太郎信義(双子の弟・甲斐武田の祖)→ 長男 一條次郎忠頼と続いた武田氏正統で甲斐国一條郷(現在の甲府市一帯)の一條小山(現在の甲府城址)を本拠とした。頼朝挙兵に呼応した信義に従って信濃の平家を攻めたのが吾妻鏡に記載された最初である。
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治承四年には甲斐源氏も頼朝と同様に 以仁王 の令旨を受けて挙兵しており、置かれた立場も血統も戦力も優劣なしに対等である。
源平合戦の初期には駿河国に於ける鉢田合戦や富士川合戦などに源氏側の主力として参戦し勝利に貢献、その後も各地を転戦して功績を挙げ、鎌倉政権の樹立に大きく寄与した。
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寿永二年(1182)の半ばに 義仲 が入京する前後まで、頼朝と義仲と甲斐源氏の三者は対等に近い鼎立状態にあった。義仲が失脚した後に共通の敵だった平家が滅亡すると朝廷の政略は源氏の勢力分断に重点が置かれ、更に甲斐源氏の勢力拡大を警戒した 頼朝 の政策や甲斐源氏内部での対立によって忠頼は謀殺され、父の 信義 は2年後の文治二年(1186)に失意の中で病没する。
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平家物語は忠頼謀殺を4月26日、吾妻鏡は6月16日としている。3月27日に忠頼が武蔵守に補任→ 忠頼謀殺→ 6月に 源広綱 が駿河守、平賀義信が武蔵守補任の流れとなった。既に忠頼が守護に任じていた駿河国と朝廷が新たに支配権を得た武蔵国、この両国を支配する実権を剥奪する意図を頼朝が持っていたのは間違いない。
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甲斐源氏の棟梁相続を交換条件にして 頼朝 の甲斐源氏弱体化政策に協力したのが忠頼の実弟 石和信光で、暗殺の実行者は殺し屋 天野遠景。名門一條の家督は信光四男の信長(嫡子信政の次弟)が継承している。血縁を裏切って殺し合うのは 新羅三郎義光 以来の源氏の宿業である。
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策謀を駆使した信光は望み通りに甲斐源氏の棟梁となり頼朝は甲斐源氏の弱体化を得たが、14代後には傑物・信玄が再び甲斐を統一して覇権を握る直前まで勢力を拡大する。好きになれない人物の筆頭が信光だけど、詳しく取り上げる必要はある。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月16日 】  一条忠頼 謀殺
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一條次郎忠頼 には武威を振りかざし世を乱す気配があると頼朝は受け取り、今日御所で討ち取ろうと決めた。夜になって西の侍所に出御して招かれた忠頼と対座し、古参の御家人数名が列座した。献杯の儀があり、討手に任じた 工藤祐経 が銚子を持って御前に進んだが、名だたる武将との対決という大事に躊躇し顔色が変わった。
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この様子を見た 小山田有重が席を立ち「酌をするのは老人の役目」と称して祐経の銚子を取り、更に子息の 稲毛重成 と弟の 榛谷重朝 が杯と肴を捧げて忠頼の前に進んだ。
有重は「酒席の故実は袴の裾紐を上結びにする」と息子に教えて銚子を置き紐を結び直した。その時に別の指示を受けていた 天野遠景 が太刀を抜いて左から忠頼を刺し殺し、頼朝は背後の障子を開いて奥に入った。
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忠頼に従っていた新平太と甥の武藤與一と山村小太郎が主人の惨劇を見て庭から部屋に駆け上がり、多くの武士を傷つけ寝殿近くに迫った。重成と重朝と 結城朝光 が新平太と與一を討ち取り、遠景を狙った山村は一間離れた所から大俎板を打ち付けられて縁下に昏倒、遠景の郎従が首を獲った。
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  ※小山田有重: 子孫は南北朝時代に所領の小山田(町田市西部)を失なって四散し、一族の一部は甲斐に逃れて武田信玄に仕えたらしい。
武田の嫡男を殺した男の子孫が武田の末裔に臣従したのは歴史の皮肉か、因果は巡る糸ぐるま、か。

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左:各地に残る石和信光の旧蹟  画像(北杜市の信光寺)をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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石和信光 の初見は治承四年、以仁王 の令旨を受けた甲斐源氏が頼朝に呼応して挙兵した10月である。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月14日 】   鉢田の合戦
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昼前後、甲斐源氏の武田・安田一族が神野から春田路を経て南下する途中の鉢田で駿河目代の橘遠茂が率いる甲斐攻略の軍勢に遭遇した。石和信光は 加藤景廉 を伴って攻めかかり、防御線を突破して長田入道とその子息2人の首を獲り遠茂を捕虜にした。駿河勢の死傷者多数、後続の兵は矢を射る事ができず敗走した。夕刻には遠茂の首を斬って富士野の伊堤に晒した。
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治承四年に挙兵した甲斐源氏の棟梁は 武田信義(52歳)で嫡男は 一條忠頼(30歳前後か)、信義の弟 加賀美遠光(37歳)や 安田義定(36歳)など勇猛で知られる武将が主力だった。信義の末子で17歳の信光は本来なら脇役だが、記載したのは後に甲斐源氏を継承した信光に対する吾妻鏡編纂者の配慮だろう。東国での幕政安定に反比例して甲斐源氏の団結は分割統治政策で瓦解していく。粛清や排除により衰退するか、臣従して御家人に甘んじるか、二者択一である。
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治承五年(1181)3月7日には駿河駐屯中の武田信義が 後白河法皇から頼朝追討令を受けた」 との嫌疑で鎌倉に召還され、「子孫に至るまで叛逆の意思なし」 との誓詞を書かされた。元暦元年(1184)6月には信義嫡男の一條忠頼が鎌倉で暗殺、文治二年(1186)には甲斐源氏の棟梁だった信義が失意のまま病没、文治四年(1188)には三男の 逸見(武田)有義 が頼朝に面罵され失脚、建久元年(1190)には次男の 板垣兼信 が隠岐に流罪、建久四年(1193)には信義の弟 安田義定 の嫡子 義資 が御所の女官に艶書を届けた罪で斬首、翌年には義定も謀反の嫌疑で追討を受けた。
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三人の兄(一條忠頼と板垣兼信と逸見有義)の粛清・失脚の全てに末弟の石和信光が関与し、甲斐源氏の棟梁に繰り上げ当選(笑)となる。
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更に 木曽(源)義仲 が頼朝と対立する一因を作ったのも信光だったらしい。義仲と信光は元々交流があり、義仲の嫡子 清水義高 に娘を嫁がせる意思があったが信濃国南部の支配権を巡ってトラブルがあり、これを恨んだ信光が讒訴して義仲追討令の発行に至った、と伝わっている。
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郷土史家の中には 「頼朝に臣従したのは甲斐源氏の滅亡を防ぐための苦渋の選択」 と評価する声もある、らしい。公明党が集団的自衛権行使の閣議決定を容認する時に 「閣内に留まってこそ右傾化を阻止できる」 なんて発言したのと同じ。暴力を容認しても言い訳すれば済む、と考えるエセ宗教者。
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【 吾妻鏡 文治四年(1188) 3月15日 】  甲斐源氏の棟梁・武田有義の失脚
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鶴岡八幡宮で梶原景時 宿願の大般若経供養が行われ、頼朝も仏縁を結ぶため出席した。退出に際して 武田有義 を呼び剣役(太刀持ち)を命じた際に有義が渋る態度を見せたため頼朝は機嫌を搊ね、「かつて平重盛 の剣役を務めて都の評判になったのは源氏の恥ではないのか。重盛は平家で私は源氏の棟梁、釣り合いが取れないのか」 と面罵した。直ちに 小山(結城)朝光を呼んで剣役を務めさせたため、有義は同行も許されずに退去した。
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建久十年(1199)1月に頼朝が死没、頼家 が鎌倉殿を継承した三ヶ月後には訴訟の決裁権が停止され、実権は重臣13人の合議制を指導する 北條時政 に移りつつあった。同年10月には梶原景時が失脚して翌年の1月に謀反の嫌疑で追討、景時に連座する形になった有義の名前は以後の史料には現れない。逆に、それまでは「伊澤または石和」と表記していた信光の姓は「武田信」に一本化され、名実ともに甲斐源氏・武田氏棟梁の座を得た、と考えられる。景時一族の滅亡にまで関与しているから恐ろしい。
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【 吾妻鏡 正治二年(1200) 1月28日 】   信光、更に有義を陥れる
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夜になって石和信光が甲斐国から参上して報告。「武田有義は梶原景時と打ち合わせて京へ向かうという噂を聞き、詳細を確かめるために館に行ったら逃げた後で行方が判らない。一通の封書があったので開いてみたら景時からの書状だった、彼らが打ち合わせて行動しているのは明白である。
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景時は二代の将軍に重用されて傍若無人の振る舞いがあった。長年の悪行が自分に降り懸り諸人が背反したため反逆を思い立ち、まず朝廷に奏上し鎮西(九州)の武士を引き込むため上洛しようとした。兼ねて親しかった有義を大将軍に立てるために送る手紙を有義の館に落としたのだろう。」と。

右:加賀美遠光の長男 秋山光朝の史蹟    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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秋山光朝は 加賀美遠光 の長男で、弟に小笠原氏の祖となった 長清、南部氏の祖となった長行、後に加賀美氏を継承した光経らと共に 平知盛 に仕えていたが頼朝の挙兵を知り、母の病気を偽って甲斐に戻った。
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光朝が遠光から相続したのは甲府盆地南部・釜無川の西岸の秋山郷、弟の長清が領有した小笠原郷の南に隣接している。現在の南アルプス市秋山の一帯である(地図)。
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ここには光朝館の跡と伝わる小山に熊野神社が建ち、すぐ南の光昌寺(古名は光朝寺、光朝開基)には父加賀美遠光の五輪塔(供養墓)と秋山光朝夫妻の五輪塔およびその他一族の五輪塔が並んでいる。五輪塔は明治初期には78基あったと記録されているが、現在は30基ほどしかない。霊廟には鎌倉初期の作と推定される加賀美遠光の坐像と、享保十九年(1734)作の光朝の木像(市の文化財)が納められている。
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平治物語に拠れば富士川合戦の前哨戦で、「甲斐源氏の武田信義 ・ 一條忠頼・小笠原長清・逸見光長・板垣兼信・加賀美遠光・秋山光朝・浅利義成・石和信光らが駿河目代(代官)広政(橘遠茂)を討った」とあり、以仁王の令旨を受けて独自に挙兵したのだろう。血縁関係で結ばれた甲斐源氏は鎌倉軍を凌ぐ精強な兵を揃えていた。
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  ※橘遠茂(蛇足): 富士川合戦の項で述べた駿河国目代は系図上では結構名門の人物。確か清少納言が遠茂の祖父の子を産んでるんだよね。
遠茂は異腹だから直接は関係ないけど、興味があれば経緯を調べるのも面白い。
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ただし、平治物語からは清光長男の光長・二男の信義・三男の遠光を記載しているのに、四男 安田義定 の名が抜け落ちている。三男以下は省略したのかと思えば八男の 浅利義成が載っているし、信義の子3人(忠頼 ・ 信光 ・ 兼信)と遠光の子2人(光朝・長清)も載っている。忠頼や光朝や兼信が載っているから、同じように謀反の咎で追討された義定を除外する必然性も乏しい。これは筆者の意図的な無視か、それとも記述が杜撰なのか。
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光朝は父の加賀美遠光に従って棟梁の武田信義が率いる甲斐源氏の武将として戦い、その後は 九郎義経 の指揮下で一の谷・屋島・壇ノ浦を転戦した。その途中で 平重盛(頼朝挙兵の一年前に死没)の娘を娶ったが、この婚姻がやがて光朝の不運を招いてしまう。
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  ※重盛と東国武士: 嘉応元年(1169)に平清盛 が出家に伴って政治の一線から距離を置きはじめ、平貞能藤原(伊藤・平)忠清 など、伊勢平氏譜代の郎党が重盛に
仕え始めた。生前の重盛は源氏との関係が深かった東国武士との関係も重視し、貞能や忠清を通じたり独自の接点を介したりして 足利俊綱宇都宮朝綱工藤祐経武田有義伊東祐親畠山重能 や 秋山光朝や、相馬御厨を継承した下総守藤原親盛 らを支配下に収めていた。
頼朝としては看過出来ない不愉快な部分だったと思う。
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源平合戦の当初は源氏軍の主力として重要な役割を果たした甲斐源氏も、支配体制の整備が進むにつれて或る者は粛清・追討され、或る者は頼朝に臣従する御家人として生き残る道を選ぶ必要に迫られてくる。
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文治元年(1185)、秋山光朝が死没。鎌倉で処刑、あるいは本領秋山郷西側の詰め城・雨鳴山で追討軍と戦い籠城の後に自刃した、とも。追討軍の指揮官が 梶原景時加藤景廉なのは当然だとしても、攻撃の先鋒を務めたのが実弟の 小笠原長清 だったのは何とも酷な話である。後に小笠原氏は武士道を極めた名門として、礼節だとか武芸の精神だとかを云々する小笠原流として名を残していくのは実に笑止である。

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左:安田義定自刃の地と伝わる、牧丘の小田野山   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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富士川合戦が終わって数年間の出来事は改めて述べるとして。元暦元年(1184)6月には甲斐源氏棟梁を継承した 一條忠頼 が鎌倉で謀殺され、建久四年(1193)8月には頼朝の異母弟の 蒲冠者範頼 が謀反の疑いで追討され、同年11月には 安田義定 の嫡男 義資 が艶書事件で斬罪、同時に義定も駿河守護を解任され翌年8月には謀反の嫌疑で追討された。
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義定終焉の地には諸説あり、鎌倉大草紙は「梶原景時加藤景廉 の率いる討手を受け、法光寺(恵林寺の北、徒歩圏内にある放光寺。2項下に詳細を記載した)で自刃」と書き、尊卑分脈や甲斐国史は「馬木(牧)庄の大井窪大御堂で自刃」と書いている。
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大井窪大御堂とは、「滅却心頭火自涼」で有名な 恵林寺と共に戦火で焼失した 放光寺 阿弥陀堂の可能性が高く、また山梨市の 大井俣窪八幡神社(三ヶ所とも公式サイト)と推定する説もある。
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更に放光寺の西3kmの牧丘町鼓川流域の伝承に拠れば、義定の終焉は詰め城の小田野山だったと伝えており、山裾には自刃した義定を弔った「腹切り地蔵」や一族を弔った「石塚」と呼ぶ宝篋印塔が残っている。安田義定が吾妻鏡に現れた初見は頼朝が石橋山合戦で惨敗した翌々日、甲斐源氏が平家に味方する 俣野景久 軍と刃を交えた波志太山(鉢田)合戦である。
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  ※鎌倉大草紙: 戦国時代初頭の1500年前後編纂の軍記物語っぽい歴史書。描いた背景は康暦二年(1380)から文明十一年(1479)の百年間だが、過去の事例を引用
する形で安田義定討伐について記述している。
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  ※甲斐国史: 文化十一年(1814)に編纂された地誌で編者は甲府勤番の松平定能。全般に真摯な記述に満ちており、史料として超一流の価値を持つ。
ただし武田氏の興亡については天正年間(1570年代)に成立した甲陽軍鑑(軍記物語の色彩が濃い)の影響を強く受けている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月25日 】
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大庭景親頼朝 の逃げ道を塞ぐため軍兵を各所に派遣し要所を固めた。(弟の)俣野景久は甲斐源氏の 武田信義一條忠頼 を討つため駿河国目代の橘遠茂の軍勢と共に甲斐に向い富士北麓に宿営したが、百張り以上の弓弦を鼠に食い切られた。狼狽しているところに石橋山合戦の情報を得て出陣した 安田義定工藤景光 、同 行光 ・市河行房らが波志太山で遭遇、合戦は数刻に及んだ。景久勢は弓が使えないため太刀を取って戦ったが甲斐源氏の矢を防げず敗走した。
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個人的に偶然なんか信じない主義なので、「俣野勢の弓弦を鼠が食い切った」のは捏造だと思う。物見遊山じゃあるまいし、多少の損害があってもスペアは携帯している筈だ。「数刻に及んだ」激戦の末に敗退したのは何か裏の事件を隠蔽している可能性もある。少し気色の悪い記事だ。
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  ※工藤景光: 石橋山合戦後に自刃した 狩野茂光 の三男行光と同一人物と推定される。一族滅亡に近い損害を受けた狩野家が存続し得たのは甲斐に分家していた工藤景任の曽孫
を養子に迎えたから、と考える説である。詳細は伊東氏の系図を参照されたし。
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  ※波志太山: 駿河(国府は静岡市付近)目代と落ち合って富士北麓に宿営し、若彦路 (wiki) を進んだのだろう。駿河側から見ると、現在の鳴沢村から大田和を経て南下した
足和田山の東麓を想定する説よりも、富士宮市周辺と考える方が妥当。吾妻鏡の編纂者が「及昏黒之間宿富士北麓之處...」と書いたのがそもそものミスリードで、編纂者は土地勘ゼロだったらしい。この部分以外の傍証は全て「富士西麓」を差している。
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  ※市河行房: 新羅三郎義光 の末子で元は 帯刀先生義賢 の大蔵館に寄宿していた覚義が義賢の滅亡により父の所領の一部 市河荘(別窓)に土着したのが市河氏の最初。
天承元年(1131)には (武田)義清 親子が常陸から同地に移住して甲斐源氏の基盤を作り上げた。代々の市河氏は御家人として活躍した後に 新田義貞 の挙兵に参加、鎌倉幕府滅亡後は足利高氏(尊氏) に与力している。

右:安田義定の墓所 下井尻の雲光寺   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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武田 (逸見) 清光 の長男 光長は逸見郷(北杜市)を継承して逸見太郎を、双子の弟 信義一條忠頼 の父)は甲斐源氏の棟梁と武田郷を継承して武田太郎を、三男 遠光 は加賀美郷(南アルプス市)を継承して加賀美を名乗り、逸見郷で生まれた四男 義定 は安田郷(現在の山梨市役所付近以北)を本拠に安田を名乗り甲府盆地北東部を支配した。館は笛吹川東岸の山梨市役所一帯の南北1km×東西2kmの範囲内にあったとされる。
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義定は更に5km北の小田野山(牧丘町)に城砦を構え、保元三年(1158)には館の鬼門(北東)にあたる井尻(現在の山梨市下井尻)に一族菩提寺の雲光寺(開山和尚は常陸の真言僧都了寿阿闍梨)を建立した。本堂東の仏庵跡には巨大な五輪塔を含む墓域が保存されている。
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文治五年(1189)に奥州藤原氏が滅んで 頼朝が全国の覇権を握り、翌 建久元年(1190)に安田義定は朝廷の命令で禁裏守護番に任じた。内裏守護の源頼兼(三位頼政の子)を補佐する役職だが、幕府の統制から離れて朝廷と結ぶ可能性もあるため、頼朝から見れば好ましい官職就任ではない。
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更に建久二年(1191)には 後白河法皇 に命じられていた伏見稲荷と祇園稲荷の修理を完成させた義定は従五位に任ぜられ、左遷されていた下総守から遠江守に復職した。頼朝は甲斐源氏の動向に対して警戒を深めたが、これは鎌倉幕府と甲斐源氏の溝を深めて源氏内部の対立を煽る後白河法皇一流の策謀がそれなりの効果を挙げた、と考えるべきか。結果としては案に相違して頼朝一強体制を招いてしまうのだが...
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頼朝が征夷大将軍に任じた翌年の建久四年(1193)11月、梶原景時から「義定嫡男の 義資 が大倉御所の女官に艶書を送った」との報告が入った。悪くても謹慎程度の些細な事件だったが、頼朝は即日に義資の首を刎ね義定の遠江守を剥奪した。失意の義定は本領の甲斐安田荘に蟄居を余儀なくされる。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 11月28日 】
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夕刻、越後守義資 が女事の理由で 加藤景廉 により斬首された。父の遠江守 安田義定 もその件に関連して頼朝の機嫌を損ねた。これは昨日永福寺法要の際に義資が御所の女官に艶書を送り、当人は黙していたが 梶原景季の妾がこれを夫に語り、父の 梶原景時 を経て頼朝に報告が届いた。事件の真偽を糾明したところ関係者の言葉が符合したため、この措置となった。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 12月5日 】
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遠江守義定の所領・浅羽庄(現在の袋井市)を没収、地頭職は加藤景廉が補任する旨の下文を発行した。
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  ※艶書事件: 建久三年(1192)には美貌の女官(比企朝宗能員の弟)の娘・姫の前)に執心した 北條義時 が一年余り艶書を送り続けた事件があった。
この時は頼朝が仲を取り持ち、義時が「決して離縁しない」と起請文を書いて婚姻しているから、義資の艶書事件は義定一族を滅ぼす口実であり、露骨なダブル・スタンダードだ。ちなみに、姫の前は 朝時(名越流の祖)と 重時(極楽寺流の祖)を産んだ後の建久三年(1203)に離別し、源具親(公家・歌人)に再嫁している。婚姻して約10年後の離縁は、同年9月に勃発した比企の乱に伴う措置だろう。

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左:安田義定の廟所がある甲斐の高橋山放光寺    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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そして翌・建久五年(1194)8月には再び 梶原景時 が「安田義定 に謀反の企てあり」と讒言。景時を利用して謀反計画を捏造した疑いが強い。 頼朝大江廣元三善康信 の諌めを聞かず追討に踏み切った。
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吾妻鏡に従えば鎌倉での死没だが、鎌倉大草紙では追討使に任じた梶原景時と 加藤景廉 が率いる軍勢を甲斐に派遣した、と書いている。義定の本領数ヶ所に墓所や供養塔があるのを考慮すると甲斐で死没と考えたくなるが、義定の郎党5人は翌日名越で斬られている。矢張り鎌倉での事件だろうか。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月19日 】
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安田義定を梟首。嫡子の義資が斬首となり所領を没収されて以降しきりに世を嘆き、親しい者と図って反逆を企てたのが発覚したためである。源朝臣義定(61歳)、安田冠者義清の四男。寿永二年(1183)8月10日に遠江守従五位上に叙す。
文治六年(1190)1月26日下総守、建久二年(1191)3月6日遠江守に還任、同年従五位上に叙す。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月20日 】
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前の瀧口榎下重兼・前右馬允宮道遠式・麻生平太胤国・柴籐三郎・武籐五郎ら安田義定の臣5人を名越で斬首。和田義盛がこれを差配した。
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  ※義定の臣5人: 武藤五郎は武藤を名乗った最初と伝わる頼平(藤原北家の子孫で「武者所の藤原」あるいは「武蔵の藤原」)の三男か。長兄は頼忠、次兄は頼朝御家人で
九州少貮氏の祖となった 武藤資頼、三男の五郎は義定に仕えて遠江守一宮領の目代を務めていた。
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一宮領は袋井市の北、森の石松で知られる「遠州森」や頼朝の異母兄 朝長の廟所 積雲院(別窓)の近くで、武藤氏代々の墓が残る曹洞宗の 鹿苑山香勝寺(公式サイト)一帯が屋敷跡。天文年間(1532~1555年・織田信長の頃)までの約350年、この地を支配した。
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香勝寺の寺伝は「次兄の頼資(資頼)は元寇の乱で奪戦した」と伝えているが、名越で斬られた武藤五郎が18歳だったと仮定しても、その兄なら文永の役(1274)当時は100歳前後、この話の信頼性はかなり乏しい。

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右:加賀美遠光の館跡と伝わる 法善寺    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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宗派は高野山真言宗、本来は武田八幡宮の別当寺で、正式には 加賀美山法善護国寺(公式サイト)。
現在の寺域が始祖 加賀美遠光 の館跡(地図)と伝わっている。
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  ※別当寺: 神仏習合時代に神社を管理した寺。境内に僧坊が置かれ別当の僧(寺務管理者)が神官の上位となった。現在でも神社
と寺の建物が昔のまま同じ敷地にある例は少なくない。明治維新まではそれが常態だった。
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例えば享保十七年(1732)の 鶴岡八幡宮境内図(八幡宮蔵・徳川二代将軍秀忠造営の資料)には多宝塔のような建物が描かれている。創建当初は五重塔だった可能性もあり、仏堂と神殿が境内に同居していた。吾妻鏡も何ら違和感なしに同居している様子を記載している。
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遠光は 義清 の三男だが、長兄 清光 の養子になったとの説もある。母は常陸源氏の祖となった佐竹義業( の長男で義清の兄)の娘、つまり両親とも由緒正しい源氏の血筋である。佐竹氏は家業の孫 隆義(昌義の子)が 頼朝に逆らって富士川合戦直後に追討を受け、辛うじて一族の滅亡は免れたが常陸国の所領は没収の処分を受けた。
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加賀美遠光はニ男の 小笠原長清(母は和田義盛 の娘)と共に治承・寿永の合戦に従軍して 頼朝 の深い信任を受け、平家滅亡後の文治元年(1185)には源氏門葉の一人として信濃守に任じられている。甲斐源氏の中では早い時期から頼朝に服従する姿勢を明確にした事が生き残る幸運を招いた。
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頼朝の覇権が確立した後の甲斐源氏を取り巻く環境は厳しいもので、甲斐源氏嫡流の逸見を継承した義清長子の 光長 一族は徐々に衰退し、次兄の 信義 は嫡男 忠頼 を殺された後に失脚、弟の 安田義定 は謀反の嫌疑で追討を受け自害、遠光の嫡男秋山光朝も 平重盛 の娘を妻にして参戦が遅れ追討を受けている。甲斐源氏が零落する中で加賀美遠光は頼朝の信任を失わず、御家人として天寿を全うした。時代を見通した傑物か、保身に長けていただけの俗物か。
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遠光は寛喜二年(1230)4月に87歳の天寿を全うして死没。加賀美の名跡は四男の光経が継ぎ、二男の長清が小笠原氏・三男の光行が南部氏・五男の経行が於曽氏の祖として長く繁栄した。娘の一人は大倉御所に召され、大弐局として 頼家実朝 の養育係を務め、和田合戦(1213年)には 義盛 の遺領である出羽国由利郡(現在の由利本荘市&にかほ市の全て+秋田市の南部(エリア地図)の地頭職を得るまでの栄華を極めた。
現在は金沢文庫駅に近い 称名寺 (wiki) に伝わる 運慶 作の大威徳明王像(別窓・高さ約21cm)を発注するほどの私財を蓄えたことでも知られている。
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そして弘安八年(1285)11月、安達一族が概ね滅亡に近い損害を受ける霜月騒動が勃発。甲斐に在地していた小笠原氏・秋山氏・南部氏は連座して没落し、分家して信濃国佐久郡大井荘の地頭として土着していた長清の七男朝光が武田大井氏として甲斐武田の本流となった。

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左:加賀美遠光廟所 遠光(おんこう)寺    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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遠光寺の建立は建保二年(1214)。開基は 加賀美遠光 、開山和尚は京都建仁寺の開祖でもある 明庵栄西(諡号を千光国師)の弟子である宗明阿闍梨、真言宗(臨済宗説あり)の感応山遠光寺(地図)を称した。
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仏教に深く帰依していた遠光は開山和尚として高名な栄西を招いたが、永治元年(1141)に生まれた栄西は既に73歳の高齢のため宗明を派遣した、と伝わる。若い頃に 比叡山延暦寺(公式サイト)で得度した栄西は天台宗の僧だったが南宋に留学して臨済宗を学び、日本での開祖になった人物。
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開基の遠光は元仁元年(1224)に死没、法名を遠光院殿長本大功深誉大居士として霊廟が建てられた。開山和尚の宗明は文永年間(1264~1274・八代執権 北條時宗 の頃)に身延山久遠寺(公式サイト)で 日蓮 と宗教論争を交わして論破され、日蓮に帰依して日宗と改名し、感応山を日蓮宗の宝塔山遠光寺と改めた。
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師弟二代が続けて改宗するのは少々納得できない部分が残るけれど、伊東を筆頭とする伊豆の各地や身延の周辺など日蓮が法難を受けた土地に矢鱈と日蓮宗が多いのは、日蓮の持つ抗し難いカリスマ性の影響からだろう。
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一方で栄西には時代の政治権力に追従して利益や栄誉を求める傾向があり、天台座主の 慈円 は著書・愚管抄の中で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。遠光寺には駐車場もあるが、400m北の遊亀公園(一蓮寺の隣)からのんびり歩いても良い。
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幕末の安政元年(1854・黒船来航の前年)に至り、遠光廟所は子孫の奥州南部氏によって経年の破損が修復された。これは奥州に新領を得た遠光の次男で富士川中流域を本拠とした 南部光行 の後裔である陸奥国盛岡藩の十四代藩主 南部利剛 (wiki) による寄進と推定される。
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当初の遠光寺は現在地から5kmほど南で荒川と笛吹川が合流する小曲()に建っていたが、度重なる水害のため蓬沢()に移転、更なる水害で天文年間(1532~1554年、今川義元全盛の頃)に現在地()に移転した(ルート地図を参照)。その後は昭和20年の空襲で伽藍を焼失し、昭和45年になって現在のコンクリート製本堂が再建された。古刹としては違和感のあるデザインだが、法隆寺夢殿 (wiki) を模して設計されたらしい(そう言われればそんな気がしないこともない)。二度の移転と数度の修復・再建を経ているため、甲斐源氏の史蹟らしくない外観がすこしだけ残念だ。

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右:小笠原長清 明野町と櫛形町の史蹟    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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甲斐国志に拠れば、小笠原長清 の館跡は南アルプス市役所の北西、小笠原字御所庭(地名)の小笠原小学校(地図)一帯と伝わり、東300mの「的場」にある笠屋神社は小笠原氏の家紋 三階菱(参考サイト)を使っている。4月の第一日曜の例大祭には神輿が小笠原長清館跡の「御所庭」で饗応の式を行うのが通例だった。館跡の一帯は既に人家が密集し校庭に建つ石碑が当時を物語るのみだが、長清所縁の史跡は周辺に点在している。
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館跡から20kmほど北にある明野町小笠原の一帯は古来から官牧のあった地で、中央道東側の山裾には貞観年間(859~877年、清和天皇の時代)に建立の福性院(地図)があり、長清から4代後に室町幕府の信濃守護を務めた小笠原政康が中興して先祖の供養に寄進した等身大の薬師如来坐像を本尊とする。
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福性院から200mほど北側の突き当たりに建つ無住の長清寺には小笠原長清の供養墓と伝わる五輪塔が残っており、この一帯も小笠原一族所縁の地だった事を明確に伝えている。加賀美遠光は元暦二年(1185)に信濃守となり、小笠原長清はそれを継承して信濃に土着して勢力を広げていく。室町時代以降は礼典や武芸についての豊富な知識を生かして武家社会に有職故実を伝える存在となり、小笠原流として重用され今に至っている。
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長清の祖父・清光が本拠としたのは長清寺から更に20kmほど北にある 谷戸城(逸見城)(別窓)であり、南アルプス市のある甲府盆地から八ヶ岳南麓を経て信濃に勢力を拡大する甲斐源氏を象徴しているようだ。

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左:南部一族発祥の地と波木井の遺蹟   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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加賀美遠光は現在の南アルプス市一帯を領有し、長男の光朝は所領の西側(富士川町増穂付近)を継承して秋山を名乗り、二男長清は秋山の北側を継承して小笠原を名乗り、三男光行は富士川中流域の狭小な山峡・南部郷を継承し、四男光経は本領を継承して加賀美氏嫡流となり、五男経行は甲府盆地北東部(現在の塩山一帯)を継承して於曽を名乗った。
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南部光行 が奥州合戦の恩賞として陸奥国糠部の五郡(北郡・三戸郡・九戸郡・岩手郡・鹿角郡)を得たのは史実だが、経緯の詳細や一族が定住した時期は判らない。文治五年(1189)説、建久二年(1191)説、建久六年(1195)説、承久元年(1219)説など、そのいずれかとは考えられるが。
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文政五年(1822)に成立した史料集 聞老遺事「建久六年10月に南部郷を出た一族74人が由比ガ浜で6隻の船に乗り12月29日に糠部郡三戸に入った」としており、文政五年以外の年代と書いた他の史料も日付は概ね共通している。共通の情報をベースにしたと考えられるが旧暦の12月29日は太陽暦の1月30日、厳冬である。時期と経路に関しては鵜呑みにはできない。
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南部氏系図に拠れば本領の南部郷は二男の実光が継ぎ、長男(庶子)行朝は一戸氏・三男実長の嫡男実継は八戸氏・四男の朝清は七戸氏・五男の宗清は四戸氏・六男の行連は九戸氏の祖として、それぞれ陸奥国に土着している。単純に光行+五人の男子+家族を連れて六隻の船に分乗したと考えると辻褄は合うが、所帯道具や奴婢・下人や武装や食料などを含めれば簡単な移動ではない。少なくとも雪の季節と台風の季節は避けるのが常道である。
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  ※聞老遺事: 南部家の始祖 (加賀美遠光の三男 三郎光行) から29代重信までの事績を集めた南部藩士 梅内祐訓の著書。
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本領を継いだ実光は五代執権 北條時頼 に接近し、御内人(得宗(北條嫡流)家臣)として幕府での地位を確保し続けた。実光と同じく甲斐に残った三男の実長は波木井・御牧・南部を継承し波木井氏を称して地頭職を務め、文永六年(1269)前後に日興の仲介で 日蓮 に帰依している。実長は領内の身延山に草庵を建て久遠寺(現在の公式サイト)と名付けて日蓮に寄進し、自らも出家して日円を法名とした。
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波木井一族は正平十六年 (1361) に八代後の政光が八戸に移住 (南朝側で戦った関連か) するまでの200年間、この地を支配したと伝わる。身延山麓の梅平にある子院の鏡円房(久遠寺を含めた地図)は実長の二男(実光?)の屋敷跡であり、墓地に残る巨大な五輪塔が実長の墓石とされている。

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右:躑躅ヶ崎 武田氏の館跡と信玄夫妻の墓所   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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石和 (武田) 信光 が甲斐源氏棟梁を継承して約340年が過ぎた天文十年(1541)、父の信虎を駿河に追放した晴信 (信玄) は甲斐国の覇権を握り、武田氏十九代(新羅義光を初代として)の当主となった。
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駿河の今川氏・相模の後北条氏・越後の上杉氏などとの関係が複雑化した戦乱の時代ではあったが、甲陽軍艦に拠れば晴信が父信虎を追放した最大の理由は、父の寵愛が同腹の弟信繁に移り晴信を遠ざけるようになったため、としている。嫡子の座を失う前にクーデターを決行したと考えるのが一般的、らしい。まだ晴信と名乗っていた信玄、この時20歳。
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信虎時代の仮想敵は小田原北条氏のみで、駿河の今川氏・上野の上杉氏・信濃の諏訪氏とは同盟関係にあったが、晴信は諏訪・高遠・依田・上伊那を制圧し、一方で敵対していた後北条氏と和睦し今川氏と北条氏の争いを仲裁した。こうして東と南の憂いを消した晴信は信濃制圧に専念し、天文二十二年(1553)には上杉謙信の勢力下にあった北信を除く信濃全域の支配権を掌握する。
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数回の川中島合戦を経た信玄は永禄十一年(1568)に謙信と同盟し、更に元亀二年(1571)には北条氏政との甲相同盟を復活させた。そして同年2月、信長と対立した足利将軍義昭の意思を奉じた信玄は信長と同盟していた徳川家康討伐の兵を挙げ三河・遠江に侵攻、二ヶ月で小山城(榛原郡吉田町)、足助城(豊田市足助町)、田峯城(愛知県設楽町田峯)、野田城(愛知県新城市豊島)、二連木城(愛知県豊橋市仁連木町)を落としたが、喀血して甲斐に退いた。
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そして元亀三年(1572)10月に再び信長討伐と上洛を目指して出兵。三方ヶ原で家康軍を撃破したが北近江から連携する筈の朝倉義景が動かず、信玄は軍勢を三河に留めて越年。再び喀血して長篠城(地図)で療養したが回復せず、甲斐に撤兵する途中の三河街道駒場(下伊那郡阿智村)で病没した。巨星、落つ。

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左:武田勝頼 終焉の地 天目山    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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平安末期の 武田信義 から16代目が武田信玄(若い頃は晴信、ここでは信玄に統一)、その嫡男が甲斐源氏最後の棟梁となった勝頼。
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天文十年(1541)、信玄は有力家臣団の後盾を得て父の信虎を駿河へ追放し、武田家十九代(信義から三代遡って 八幡太郎義家 の弟 新羅三郎義光 を初代とする)の家督継承を宣言した。
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信虎は甲斐を統一した勇将だが一説には信玄の同母弟・信繁(後の信玄副将)を溺愛して嫡男扱いし、戦費捻出のため領内に苛酷な政策を布いていた、と伝わっている。戦国時代の甲斐源氏もまた、信義の時代と同じく一枚岩ではなかった。
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信玄は各地を転戦し天文二十二年(1553)には北部を除く信濃を征服、越後の上杉謙信と数度に亘って死闘を繰り返した川中島の戦いや駿河の今川・相模の北条との合戦を経て勢力を拡大し、元亀ニ年(1571年・信玄50歳の頃)には信濃・駿河・上野(群馬)の西部・遠江・三河・飛騨・越中を領有する巨大勢力を作り上げた。
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そして翌・元亀三年10月、信玄は二度目の遠征を決行する。信長と不仲になった室町幕府最後の将軍・第15代足利義昭の求めに応じ総勢三万の大軍を率いて天下統一を目指し、京に向けて進軍を開始した。この時点では覇権を握る可能性に満ちていたのだが...
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11月に三方が原の戦いで家康軍を撃破した信玄は朝倉義景(信長軍牽制のため北近江に布陣していた)の撤兵を知り、三河で進軍を停止。病(結核だったとも)を得た信玄は喀血のため4月まで長篠で療養するが病状は好転せず、撤退途上の三河街道で病死した。嫡子である勝頼は信玄の遺言「三年間は自分の死を隠せ」に従って、躑躅ヶ崎館東の 円光院(躑躅ヶ崎の項を参照)近くに仮埋葬、三年後に掘り起こして火葬し恵林寺で葬儀を営んだ。
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勝頼は元亀四年(1573)に家督を継ぎ、天正三年(1575)には更なる勢力拡大を目指して遠江の徳川領に兵を進めたが、長篠の設楽ヶ原で惨敗。天正十年(1582)には織田・徳川の連合軍に攻められて甲斐盆地を追われ、名門甲斐源氏の宗家武田氏は天目山で最後の時を刻む。


 その拾 木曽義仲の興隆から粟津での滅亡まで 

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左:墨俣川合戦の惨敗と義圓の討死     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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頼朝の異母弟 義圓 が頼朝に合流した時期は治承四年(1180)10月20日の富士川合戦前後と推定される。
十郎行家 の援軍として墨俣川に進出したのだが、なぜか吾妻鏡は墨俣川の合戦について全く記録に残しておらず、概略は平家物語と玉葉の記述を参考にするしかない。能力を疑問視していた頼朝としては記録に残す必要もない、と判断したのだろう。
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  ※義圓: 常盤 が産んだ二男で 義朝の八男、幼名を乙若丸。義経 にとってすぐ上の同母兄に当たる。
平治二年(1160)1月に父の義朝が知多で敗死し6歳で圓城寺(三井寺)で出家、圓成を名乗った。常磐が再婚した養父の大蔵卿 一条長成 の縁故で 後白河法皇 の皇子・円恵法親王に近仕した。
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円恵法親王は圓城寺長吏(最高位の管理者)だった治承四年5月に挙兵した以仁王が圓城寺に逃げ込んだ際に協力を疑われ、兼任の四天王寺検校職を停止されていた。これが義圓の行動に影響した可能性がある。円恵法親王は寿永二年(1184)1月の法住寺合戦の際に法皇の近くにいて戦う羽目になり、義仲 の軍兵の矢を受けて没した。
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翌・治承五年(7月14日に改元して養和元年・1181)の2月4日に平家の棟梁 清盛 が熱病で死没し、遺言に従って編成された頼朝追討軍が4月初旬に出陣した。総大将には清盛の五男 重衡 が任じ、維盛通盛忠度 ・ 知度(清盛七男) ・ 平盛綱 ・ 盛久(清盛の側近)の率いる7000騎は揖斐川を渡り墨俣川(長良川)の右岸(西岸)に布陣した。一方で近江・美濃・尾張の武士を集めた 十郎行家(義朝の末弟、頼朝の叔父)は千余騎で墨俣川を挟んだ対岸の羽島市側、背後に木曽川が流れる湿地帯に布陣した。
これが富士川合戦半年後の4月25日に源平が激突した墨俣川合戦である。富士川では戦う前に平家軍が撤退して小規模な衝突に終ったが、墨俣川では本格的な合戦になった。
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  ※千余騎: 平家物語は源氏六千騎vs平家三万騎、玉葉は源氏五千騎と記録している。兵力差は大きいが実数は不明、八割引き程度に考える、か。
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頼朝は義圓を大将とする部隊(戦力は不詳)を後詰めの援軍として送っていた。実戦経験のない26歳の義圓は「鎌倉から遠征して来たのに行家に先を越されては頼朝に会わせる顔がない」と考え、一方の行家には独自の勢力として平家を破り頼朝に恩を売って処遇を得たい思惑があった。
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行家軍と義圓軍は合流も連携もせずに離れて布陣。4月25日深夜に義圓は手勢を率いて墨俣川を渡り夜明けと共に先駆けを図ったが、濡れている甲冑を見咎めた平家軍に包囲され何の戦果も挙げられず侍大将の平盛綱に討ち取られた。義圓の終焉と伝わる地(地図)には墓石や地蔵堂などが空しく残っている。一説に、先駆けを図って渡河したのは行家軍とも言われる。失態を犯した指揮官は功を焦った義圓か、鎌倉に恩を売りたかった行家か。

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右:墨俣川古戦場周辺の鳥瞰図       画像をクリック→ 拡大表示
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どちらが原因だったにせよ、実戦経験が皆無に近かった二人の采配が大敗を招いたのは事実で、しかも主力部隊を湿地帯に布陣させ退路を確保しなかった。この合戦で大将の 義圓 ・尾張源氏の山田重光・大和源氏の頼元と頼康などの侍大将クラスの多数が討死、 十郎行家 の二男行頼は平家の捕虜となった。馬鹿な指揮官に率いられた部隊の悲劇と評価するしかない。
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勢いに乗った平家軍は墨俣川を渡って攻め込み、湿地で逃げ場を失った源氏軍の700名近くが討死した。吉記(頼朝 に近い立場の公家 吉田経房(最終官位は正二位権大納言)の日記)に拠れば390の首級が都に運ばれた。頼朝が義圓に与えた兵力は不明だが、捨て駒と考えていた可能性もある。
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そもそも行家の実力など期待できないし、平家の出方を偵察する程度の合戦に主力部隊は派遣できない。もし本格的に対決する意図を持っていたなら、遠江国(静岡西部)を制圧していた甲斐源氏の 安田義定 と駿河の 一條忠頼 の派遣を考えただろう。
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果たして惨敗した行家は40km南の熱田まで退却し体勢を立て直そうとしたが、更に追撃を受けて30km南東の矢作へ逃げ、再び敗れて鎌倉まで引き上げた。しかも敗戦の責任者だったのに頼朝に恩賞を求めて拒否され、鎌倉を去って常陸の 信太 (源) 義憲 の許に合流した。一方で平家軍の 重衡 は更なる追撃も考えたが、知盛 の病気に加えて鎌倉の大軍が東海道を進んでいるとの噂があったため兵を引き、京都に凱旋した。
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墨俣川合戦以後の平家は東征をせずに美濃・尾張以西の防衛に専念し、鎌倉の頼朝も敢えて京を目指さないで東国の平定に力を注いだ。奥州の 藤原秀衡 と 東国の頼朝・義仲 と 西国の平家一門が鼎立するかに見えた墨俣川合戦のニケ月後、「玉葉」が興味深い記事を載せている。
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【 玉葉 治承五年(1181) 5月25日  7月14日に改元して養和元年 】
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源頼朝後白河法皇 に 「私に謀反の心はなく、ただ朝廷の敵を征伐したいのみ。もし平家を滅せないなら昔の様に源平を共に召し使い、東国を源氏・西国を平氏に任せて朝廷が国政を行えば何の問題もない」と内密に奏上した。これを 宗盛(この時の平家頭領)に伝えると「全くその通りだが父の 清盛 は「一族最後の一人になっても墓前に頼朝の死骸を晒せ」と遺言した。勅命でも従えない」と答えた。これは兵部少輔尹明が内密に語った事である。
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兵部少輔尹明は藤原南家の血筋で清盛に近かった公家。これが頼朝の真意だったか、単なる謀略か、或いは僅かな和平の可能性を探ったのか、宗盛が和平の機会を逃したのか、真相は判らない。しかし直後の6月には 木曽義仲 が千曲川の横田河原で越後の 城助職(長茂・資職) が率いる平家軍を壊滅させ、更に北陸道へ兵を進めたため情勢は大きく動き始め、宗盛の返答と無関係に和平は消し飛んでしまった。かくも停戦はむづかしい。
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翌・寿永二年(1183)2月、頼朝から離反した二人の叔父 志田義広と十郎行家が義仲勢に加わり、やがて鎌倉と義仲の関係が険悪の度を深めていく。

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左:駒王丸を救った實盛の本領長井庄、歓喜院も近い。  画像をクリック→明細にリンク
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斎藤實盛 は越前国南井郷(福井県鯖江市)の河合則盛(藤原北家の末を名乗る)の子として生まれ、13歳の時に武蔵国長井庄(平家領、現在の熊谷市妻沼)の庄司斎藤實直の養子となって定住し、實盛を名乗った。
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實直は父の代から源氏の郎党を務めており、實盛まで三代に亘って仕えている。實盛も 義朝 の郎党として平治の乱(1159)を戦ったが、義朝の敗死後は 平宗盛 の所領となった長井庄に戻り、荘園管理の実績と能力を認められて引き続き20年間も別当 (管理運営のトップ) を務めた。その間に受けた恩に報いるため治承四年(1180)10月の富士川合戦では落日の平家軍に加わり、更には北陸で 平維盛 の率いる義仲追討軍に加わって倶利伽羅峠の合戦などを戦っている。
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斎藤實盛が邸内に先祖伝来の聖天像(歓喜天)を祀ったのが歓喜院の起源。左画像は長井荘の中心部を流れて田畑を潤していた福川で、聖天院境内には鎌倉時代の板碑や髪を染めている實盛の銅像などもあるが、本堂(聖天堂)が国宝指定になった平成24年春以降は混雑が激しくなった。暫くは休日を避けて平日の訪問をお勧めしたい。日差しの強い季節には嬉しい林間の参拝用無料Pを備えている。
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寿永二年(1183)5月の 倶利伽羅峠合戦(別窓)で平家軍は惨敗、続いて退却途中の篠原で義仲軍の追撃を受け、斎藤實盛は 俣野景久伊東祐清 ら 滅びゆく平家に忠節を尽くす東国の武者と共に討死した。平家物語は平家に殉じた實盛の誇り高い最期を美しく描いている。
平家滅亡後の長井庄は 大江廣元 の二男 時廣 が領有して長井氏を名乗り、實盛の子息も下司職としてこの地に土着したとの伝承も残っている。
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  ※實盛の子: 伝承は實途・實長としているが裏付ける史料はない。妻沼には荘官の館跡が長井陣屋の名で残っており、空堀の跡も確認できる (地図)。
また伊豆山の 伝・密厳院の跡 には子息の五郎と六郎が實盛の遺髪を葬った伝わる五輪塔があり、沼津には惟盛の嫡子六代との関係を物語る伝承も残っている。
六代については 惟盛の墓と六代松(共に別窓)を参照されたし。
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取り敢えずは義仲幼少の頃に戻って...保元の乱では義朝に従って参戦した實盛だが、彼が別当に任じていた長井庄は上野国(群馬県)南西部から武蔵国北部に進出して来た帯刀先生 源義賢 と秩父氏連合の勢力圏に近かったため義賢との接点を深めざるを得なかった。義賢が本拠を置いた武蔵大蔵は長井庄から南へ直線で15kmの鎌倉街道沿いで、「鎌倉時代..壱」に記載した 大蔵舘跡、義仲の生誕地 班渓寺と鎌形八幡(共に別窓)を参照されたし。

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右:義仲が育った木曽谷  画像は中原氏菩提寺 法泉山林昌寺   クリック→ 詳細ページへ (別窓)
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木曽(当時の呼称は吉祖庄)に勢力を張った中原氏の先祖は第三代安寧天皇の第三皇子・磯城津彦命の末を称する貴族。
もちろん神話の世界だから信憑性は乏しく、中原兼遠源義賢 の子の乳母夫となった経緯や当時の兼遠の立場なども諸説がある。
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中原兼遠の名乗りは平家物語では木曽中三(きそのなかさん・ちゅうぞう)、源平盛衰記では木曽中三権頭と表示している。中三は中原氏の三男を意味する、らしい。
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平安時代末期に鳥羽上皇の命令で信西が編纂した歴史書 本朝世紀 (wiki) に拠れば、「康治二年(1143)正月二十七日、大隈守従五位下、中原兼遠、史第六文章生」、或いは「久安六年(1150)十一月二十六日、大原野祭右小史中原兼遠等参行之」、或いは「同月十九日、今夕新嘗祭右小史中原兼遠参仕」、などの記載があり、幼い駒王丸(後の 義仲)を保護した久寿二年(1153)から義仲が挙兵した治承四年(1180)までの約27年間、下級貴族出身の実務官僚として信濃権守に任じていた。
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中原一族は中山道(概ね国道19号に近い)と伊那から高山へ抜ける街道(現在の国道361号)が交差する要衝(地図)の木曽谷に本拠を置き、半径10km圏内ほどを支配下に置いた。周辺には菩提寺の林昌寺や中原氏屋敷跡など、この地で成長した義仲に関わる史跡が(虚実様々に)点在している。
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中原氏の遠い血縁には 頼朝 の側近として活躍した文官の 中原親能 と、その弟で政所別当として鎌倉幕府の基礎を築いた 大江廣元 が出ている。
義仲の生涯は多くの伝承や逸話があって史実の範囲は決め難いが、中原兼遠の子には義仲側近の武将として運命を共にした 樋口兼光今井兼平 がいる。更には伝説の女武者 や、嫡男 志水義高 を産んだ 山吹 も兼遠の娘、とされている(山吹は兼遠の兄・兼保の娘とする説あり)。

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左:義仲挙兵の地 海野宿と白鳥神社      クリック→ 詳細ページへ (別窓)
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北国街道 (正式には北国脇往還) の 海野宿(観光協会サイト) は江戸時代初期に約1.5km東の田中宿の合宿(サブ宿場) だった。
北国街道は追分宿(現在の軽井沢) で中山道から分岐し越後国府のあった上越市で北陸道に繋がる、別名善光寺街道の宿驛である。
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田中宿は寛保二年(1742)に起きた千曲川の氾濫 戌の満水(wiki)で大きな被害を受け、更に復興後の慶応三年(1867)には大火で被災したため徐々に衰退し、その後の本宿としての繁栄は海野宿移った。町並みは見事に保存されており、例えば中山道の馬籠・妻籠・奈良井宿などに比べるとやや地味で華やかさには乏しいが、観光地化に伴う煩わしさが少ないのは好ましい。
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北国街道も中山道も奈良時代から利用された官道ルートだった。正倉院には信濃国小県郡海野郷戸主爪工部君調(はたくみべ きみみつぎ)と墨書した麻織物の一部(推定700年代初頭)の存在が確認されており、点在する五世紀後半の古墳などから考えると、この地域にはかなり古くからレベルの高い技能者集団が定住していたらしい。
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頼朝 の挙兵から20日後の治承四年(1180)9月7日、木曽義仲 は信濃国小県郡海野郷の白鳥神社 (地図)で兵を挙げた。最大兵力で義仲を支えた四天王の一人が佐久の 根井行親。彼は清和天皇 の末を名乗る信濃の名族 滋野氏流で、保元の乱では300騎を率いて義朝軍に加わっている。
海野郷を領した海野一族の幸親(小太郎幸氏の父)と根井行親は同一人物と考える説もあり、挙兵当初の義仲軍は海野勢が主力を占めていた。
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  滋野氏: 系譜に拠れば五十六代 清和天皇 の第四皇子貞保親王 (陽成天皇 の実弟)が海野荘(海野宿の千曲川対岸) に土着し、延喜五年 (905) に孫の善淵王が第六十代醍醐
天皇から滋野姓を下賜され滋野善淵を名乗ったのが最初とされる。ただし明確な根拠はなく、紀氏(大和朝廷に仕えた武門の家)の子孫あるいは国牧を管理した大伴氏の子孫説もある。善淵から四代後の重道が海野を名乗り、更に重道の子が望月氏・禰津氏として分家し信濃全域と上野国に広く定着した。海野氏・望月氏・禰津氏は滋野氏三家として嫡流または準嫡流である。
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  海野氏: 清和天皇の末を称するが根拠は乏しい。滋野氏の庶流あるいは滋野氏と縁のある在地の豪族が摂関家所領の海野荘に依拠して平安時代末期から信濃国東部に勢力を広げ
海野を名乗ったのが始まり。幸親は義仲の侍大将として戦死するが、三男の幸氏は義仲の嫡男 清水 (木曽・源) 義高 に従って鎌倉に入った後に主人への忠勤を賞賛され 頼朝 の御家人として信濃の所領を継承、その子孫は真田氏にも繋がっている。
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  根井行親: 佐久平南部の根々井を本拠に牧を運営し東信濃最大の軍事・経済力を築いた豪族。正法寺一帯(地図)に館の遺構や行親の供養塔がある。義仲 四天王の一人で滋野
氏嫡流の海野(滋野)幸親と同一人物説もあり、宇治川合戦で 義経 の軍勢と戦い討死したと推定される。
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承久記(承久の乱(1221年)前後に成立した軍記物語)に拠れば、後白河の御所に集結した義朝配下の信濃武者に宇野・望月・諏訪・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎などの名前が見える。根井大矢太が行親と思われるが、宇野=海野と考えるのが普通なので両者が別人である可能性も高い。

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右:義仲が初めて史料に現われた善光寺裏(市原)合戦     クリック→ 詳細ページへ (別窓)
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治承四年の夏には源氏蜂起の情報が知れ渡っており、信濃でも平家側と源氏側の武士が互いに兵を整え合戦に備えていた。
木曽義仲 の挙兵を知った平家側の笠原平五頼直も義仲討伐軍を率いて南下し、進軍の途中で信濃源氏の村山七郎義直と戸隠別院栗田寺の別当大法師範覚の連合軍と激しい矢戦となった。吾妻鏡は合戦の場所を市原としているが、栗田の本拠地に近い北国街道の市村の渡し(市村郷・地図)の記載ミスと考えられている。
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戦闘は長引いて決着が遅れ、夕刻を迎えて矢が尽きた信濃源氏側義仲に救援を求めた。史料に義仲の名が初めて現れた犀川沿いの市原合戦 (善光寺浦合戦) である。後世になって犀川を渡る丹波嶋の渡しと呼ばれた北国街道の要所で、約400年後に上杉謙信と武田信玄が数度の合戦を繰り広げた川中島古戦場の約5km北に位置する。
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笠原頼直率いる義仲討伐軍の目標が木曽だったのか、或いは海野だったのかは判らないが、笠原軍に対する義仲の対応が早かった事を考えると、この時点で義仲が海野郷にいたのは間違いない。当初は信濃源氏勢に対して優勢だった笠原頼直も義仲勢の接近を知って接触を避け、越後平氏 城一族の元に逃げた。翌年6月に城長茂は一万の大軍で信濃に進出、横田河原で義仲軍と衝突する。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月7日 】
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木曽冠者義仲は帯刀先生 源義賢 の二男。義賢が久寿二年8月に武蔵国大倉(大蔵)館で 悪源太義平 に討たれた時は3歳で、乳母夫の 中原兼遠 が抱いて木曽に逃れ養育した。成人となった今では平家を滅ぼして家を興そうと考え、石橋山合戦の情報を得て平家討伐の兵を挙げた。平家に味方する笠原頼直が軍兵を率いて義仲を攻めるため南下したところ、義仲に味方する村山義直と栗田寺別当範覚がこれを聞いて準備を整えて市原で合戦に及んだ。日暮れになっても決着しなかったが、義直軍の矢が尽きたため義仲に使者を送って援軍を求め、それに応えた義仲の大軍が迫るのを見た頼直は退却し、越後の 城長茂 の元に逃げ込んだ。
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  ※笠原頼直: 笠原郷は現在の中野市間長瀬の笠原地区(地図)。また伊那郡笠原郷にも拠点を持つ勇猛な武者だったとも伝わっている。
諏訪大社の神官大祝の系で出自は伊那郡笠原郷(地図)とも。親族の一部は頼朝に従って旧領を安堵されたらしい。
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  ※村山義直: 村山郷は長野市と須坂市の中間(地図)。経基王(源経基)の五男で 源満仲 の異母弟に当る満快の子孫が信濃に土着した一族。
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  ※栗田一族: 栗田郷(現在の長野駅南側・地図)を本拠にした清和源氏村上氏傍流。鎌倉幕府成立後は 戸隠山善光寺(共に公式サイト)の別当職を兼任して繁栄した。
後に頼朝が大旦那を務めるなど善光寺との縁を深め再興に尽力した最初の接点が範覚だった。

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左:木曽義仲の行動地図 倶利伽羅峠の項とダブるけど。 画像をクリック→ 拡大表示
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海野の白鳥河原から市原合戦場までは約30km、白鳥河原で 根井行親 勢と合流した 義仲 は直ちに犀川と千曲川が合流する市原の近くまで進出して笠原頼直に圧力を加えた。
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善光寺から現在の千曲市にかけての千曲川流域は翌年の横田河原合戦や後世の信玄vs謙信の川中島合戦の舞台となった、信濃と越後を結ぶ北国街道の要所である。 甲斐善光寺と飯田の元善光寺(別窓)でも書いた通り、兵火による焼失を危惧した信玄は善光寺本尊の釈迦三尊像などを甲府に避難させた例もある。現代の地図上では、上信越道の信州中野ICから南下した平家軍と東部湯の丸ICから北上した義仲軍が長野IC付近で衝突した、と考えると判りやすい。
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以仁王 の令旨を 頼朝 が受け取ったのは5月10日、使者の 十郎行家は常陸を経て甲斐から信濃・木曽を巡回しているから5月20日前後には挙兵を求める以仁王の令旨は義仲の元にも届いている。
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頼朝挙兵が8月17日、義仲が市原近くに進出したのが9月7日なのを考えると、頼朝挙兵を知ってから僅か20日間で準備を済ませ150km(木曽~海野~市原)を移動できるとは思えない。異腹の兄 仲家 は養父の 三位頼政 と共に宇治で戦死(5月26日)しているから報復戦の意味合いもある。令旨を受けて挙兵の準備を始めたとの情報を得た笠原頼直らが討伐軍を組織したのだろう。
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この図式は大庭景親 が頼朝挙兵の動きを察知して追討軍を組織した経緯に類似しているから、源平盛衰記の描写が的を射ているのかも知れない。
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【 源平盛衰記 巻第二十六 兼遠起請 の一部 】    平家物語(延慶本)にも同様の記載があるが吾妻鏡にはない。幕府成立に無関係と見たか?
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義仲謀叛の情報に驚いた 平宗盛 は中三権頭(中原兼遠)を都に呼び、直ちに義仲を捕縛して連行せよと命じた。兼遠が「時間を頂いて木曽に戻り連れて参ります」と答えると、「その旨の起請文を提出せよ、さもなくば家人に命じて義仲を捕縛し連行する」 と迫られ、やむを得ず起請文を差し入れた。
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木曽に戻った兼遠は起請文にも叛かず義仲の将来にも役立つ方法を思案した末に、同国の住人 根井 (滋野) 行親 を招き、息子達と共に義仲の身柄を託した。
根井行親は周辺諸国に呼びかけて軍兵を集め、帯刀先生 源義賢 との誼みから上野国の武士や藤姓足利氏一族が次々に加わった。

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右:義仲は亡父 義賢の旧蹟多胡館へ    画像(多胡館跡入口)をクリック→詳細ページへ
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治承四年9月7日に市原(市村)まで進出した 義仲 は笠原勢の退却を知って海野郷へ引き返し、10月中旬には父親の 義賢為義 の二男で 義朝 の異母弟)が住んだ旧蹟である上野国多胡荘(地図)に入った。
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義賢は保延五年(1139)から帯刀先生(皇太子時代の天皇を警護する部隊の長)として勤務したが翌年に失策を犯して職を解かれ、更に仁平三年(1153)には管理を任されていた能登の荘園から年貢未納を理由に罷免されている。源氏の中で時々現れる出来の悪い(例えば為義みたいな)タイプだったのかも。
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一方で義朝は順調に出世を重ねて同年には下野守に任じており、義朝と不仲だった為義は鎌倉を拠点に北関東へ勢力を伸ばす義朝に対抗して義賢を多胡荘に下向させた。鎌倉は古くから源氏所縁の土地であると同時に東海道経由の東国ルート、多胡荘は東山道経由で東国に入るルートに位置している。
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義賢は更に 秩父重隆 と結んで武蔵国大蔵館に本拠を移し、久寿二年(1155)8月には義朝の指示を受けた長男の 悪源太義平 に殺されているから、義賢が多胡荘と大蔵館に住んだのは併せて二年程度だ。
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義賢の人物像は良く判らないが為義の意志には従順だった。為義は...軍事的才能も政治的手腕も凡庸以下で、結局は保元の乱で 崇徳天皇 に味方して五人の息子(頼賢・賴仲・為宗・為成・為仲)と共に船岡山(「保元物語では七条朱雀)で斬首。優れた武人だった義朝への嫉妬が見え隠れする生き様だった。生き残った息子は 後白河法皇 に味方した義朝、常陸の 源(志田)義憲、武芸を惜しまれ大島流罪となった 鎮西八郎為朝、末子の 十郎行家 のみ。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月13日 】  注・足利俊綱は秀郷の子孫を名乗る藤姓足利氏で平家側、源姓足利氏の対抗勢力。
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木曽冠者義仲 は亡父義賢の旧蹟を訪ね信濃国を出て上野国に入った。住民には 足利俊綱 を恐れる必要はないから私に従うよう命令を下した。
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上野国多胡荘はここに定住した新羅系の帰化人・吉井連(よしいのむらじ)の子孫と考えられ、史料には多胡を名乗る武士も度々登場している。源平盛衰記には義仲に従って転戦した多胡次郎家包の名が載っているし、吾妻鏡の文治元年(1185)10月24日の勝長寿院供養と建久六年(1195)3月9日の東大寺再建供養の随兵リストの中には多胡宗太の名前が見える。いずれも多胡荘出身者の係累だろう。

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左:義仲は信濃に戻り、拠点の依田城で戦力を整備     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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10月13日に父の旧蹟多胡荘に入った 義仲 は間もなく信濃に戻り、挙兵した海野郷(白鳥河原)から約6km南西の依田城(地図)に入って戦備を整えている。
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短期間で多胡から退去したのは藤姓 足利俊綱 との衝突を避けた、或いは関東南部を掌握した 頼朝 に配慮したとも言われるが実情は判らない。頼朝の場合は鎌倉入りの直後で、しかも富士川合戦(10月20日)の直前だから、北関東に関与する状態ではなかった筈だ。
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依田城を本拠にしていた依田次郎実信は義仲の挙兵に全面協力し、拠点として居城を提供したと伝わる。
依田一族がこの地に土着したのは依田氏の祖である父・為実の時代だが、遠祖は 経基王(源経基)の五男で 満仲の弟・源満快。右衛門尉・検非違使・相模介・下野守を歴任した従五位下で没した人物。
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満快の息子三人も中級官人として受領などに任じ、その子孫が信濃源氏の傍流として依田に土着していた為実だったらしい。為実の母は 帯刀先生義賢 の娘だったと伝わるから義仲と為実は従兄弟同士、その経緯もあって源氏再興の夢を義仲に託したのだろう。
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  ※受領: 国司四等官(守・介・掾・目)の中で「現地に着任する守と介」を差す(親王任国の上野・常陸・上総は守(親王)が赴任せず、次官の介と権介が受領に該当する)。
受領ではない介と掾と目の呼称は任用、任国に赴任せず官職の給付のみを受け取る国司は遙任と呼ぶ。
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依田一族も海野氏や滋野氏系の武士と共に義仲に従って北陸を転戦し京に入ったが、義仲が頼朝に攻め滅ぼされると共に没落し本領の依田を失った。一族は各地に分散し、南北朝時代になって飛騨に土着した子孫の依田義胤が 足利尊氏 に与して本領を回復した、とも言われる。
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戦国時代には武田信玄に従って戦功を挙げ、甲斐国誌に拠れば東河内領宮木(現在の身延町の一部)に所領を得た。武田氏の駿河進出と共に江尻城(現在の静岡市清水区・地図)の防衛に任じたが、天正十年(1580)の武田氏滅亡に伴って西伊豆に隠棲し、その子孫は松崎で「大沢温泉ホテル 依田之庄」(2017年に倒産・閉鎖)を経営していた。
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道の駅 花の三聖苑松崎そばの静かな宿、ローカルな一軒宿は生き残りにくい時代だ。すぐ近くに併設していた人気の高い美人の湯 山の家露天風呂も多分、閉鎖しただろうね。

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右:義仲が武名を轟かせた横田河原の合戦  画像をクリック→ 合戦の詳細ページへ(別窓)
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画像は旧流路近くに建つ雨宮の渡し石碑。源平合戦ではなく信玄vs謙信合戦の記念碑である。
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挙兵翌年の治承五年(1181)閏2月に 平清盛 が病死、跡を継いだ 宗盛 は越後平氏の 城資永 に義仲追討を命じた。越後全域を支配下に置いていた城資永は 「甲斐国と信濃国で起きた謀反は他人を加えず私だけで平定します」 と申し出て宗盛を喜ばせた。
(玉葉 治承四年12月3日)。資永は越後・会津・出羽の軍兵一万で出陣した2月24日に脳卒中を発症、25日には没してしまう。
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【 平家物語  巻第六 嗄 (しゃがれ) 声 】  資永死没の顛末。お互い血圧には注意しましょうね。
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越後國の住人城太郎助長(資永)は越後守に任じた平家の恩に報いるため木曽義仲を追討しようと三万余騎を集めた。6月15日に兵を整え、16日の卯の刻(朝6時前後)に出陣を予定したが夜半に大風と豪雨が吹き荒れ雷が鳴り響いた。
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天気が回復すると雲の間から大きな嗄れ声で「金銅十六丈の盧舎那仏を焼き滅ぼした平家の与党がここにいる、召し捕れや」と三声叫んで通り過ぎた。城太郎をはじめこれを聞いた者は身の毛がよだち、郎党らは「これ程恐ろしい天のお告げ、出陣は見合わせ給え」と言上したが「武者は弓矢にこそ頼るもの」と答えて予定通りに出陣した。
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わずかに十町ほど進んだ所で黒雲が湧き上がり、助長に覆いかぶさると共に身を竦ませて落馬、輿で館に運び込んだが数時間後に死んでしまった。この顛末を飛脚で都に伝えると平家の人々は大騒ぎになった。
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  ※城資永: 越後に土着した桓武平氏系豪族で平家の忠臣。義仲対策のため急遽越後守に任じた。弟に 助職、妹に甲斐源氏 浅利与一 の妻として甲斐に下った女武者 坂額
嫡子には叔母の坂額と共に建仁元年(1201)の鳥坂城で鎌倉勢相手に戦った 資盛(落城後の消息は不明)がいる。
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城氏の家系は高見王 → 嫡子平国香 → 繁盛→ 維茂(信濃守・秋田城介・鎮守府将軍)→ 繁成(鬼切部で安倍頼良と合戦)→ 貞成→ 資国→ 資永と続く。貞成は 清原真衡 が常陸岩城氏(現在の福島県浜通りを支配していた海道平氏)から養子に迎えた平成衛と考える説もある(後三年の役の発端となった 吉彦秀武vs真衡のトラブル)が、海道(常陸平氏)だから別人だろう。
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資永の母は清原武衡(後三年の役の敗者)で、義仲に敗れて藍津(会津)に逃げた城氏を 藤原秀衡 が攻撃したのは後三年以来の遺恨だった可能性がある、かも。横田河原から越後国府(上越市)まで70km+本拠地の一つ越後白河荘の白川御館(阿賀野市)まで130km+更に藍津(会津)80km、合計で280kmとはずいぶん遠くまで逃げたものだ。
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  ※焼き滅ぼした盧舎那仏: 平家物語は半年前の治承四年(1180)12月に南都を攻めた 平重衡 の兵火で焼け落ちた東大寺大仏の怨念を指す。

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左:城氏が本拠を置いた越後国府 直江津(上越市)   画像をクリック→ 拡大表示
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古代の一時期を除いて、越後国府は現在の上越市国府地区にあったと考えられている。承元元年(1207)に京を追放された 親鸞 が流罪に処され、恵信尼と暮らした地としても知られる。
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そして市原合戦から9ヶ月後の治承五年(1181)6月、資永(助長)の弟 城長茂 (資職・助職) 率いる官兵が越後から信濃に進出するが、彼が短慮で無能な指揮官だった事が義仲には幸いした。
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長茂の率いる越後軍9000余騎は雨宮の渡しから2km北の横田城で軍陣を整えて築磨河(千曲川)の北岸に押し出し、南岸に展開した義仲軍3000余騎と矢戦を開始した。ここで義仲軍の別働隊を率いた井上光盛は平家の赤旗を掲げて東の妻女山へ迂回し、築磨河を渡ってから源氏の白旗を掲げて背後から奇襲を仕掛けた。
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長旅の疲れもあって惨敗した助職軍は国府からも追われ本領の阿賀野へ、敗走しつつ完全に崩壊した。
380年後の永禄四年(1561)8月、武田信玄と上杉謙信がここで数度の死闘を繰り返した、いわゆる川中島合戦の舞台である。
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  ※井上光盛: 信濃に土着した清和源氏庶流。多田 (源) 満仲 の三男が 源頼信、その二男頼季が嫡子の満実と共に高井郡井上(須坂市井上、地図)に住んだのが最初と伝わる。
寿永三年(1184)7月10日の吾妻鏡に 「駿河国蒲原駅で吉香船越の輩が兼ねての命令に従って京から下向する途中の井上太郎光盛を討ち取った。武田 (一條) 忠頼 に与しているとの情報があったためである。」との記載がある。
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【 吾妻鏡 寿永元年(1182) 10月9日 】  編纂の間違いで、実際には養和元年(1181)
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越後の住人城四郎永用(助職、資職)→ 長茂(永茂、永用と改名、兄の資永も資長・助永・資元など改名が多い)は国守である兄資元の跡を継いで源氏を攻めようとした。木曽冠者義仲は北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)の付近で合戦し、夕刻になって永用は敗走した。
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  ※合戦の月日: 玉葉は治承五年(1181)6月、吾妻鏡は寿永元年(1182)10月、平家物語は同年9月としている。城氏一族の棟梁だった兄の資永が急死
して弟の助職(長茂とも)が家督を継いだのが治承五年2月、間もなく越後から信濃に出兵しているので、ここでは玉葉の記述に従った。
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【 玉葉 治承五年(1181) 7月1日  7月14日に改元して養和元年 】
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兼光の言葉によると、越後国の城太郎助永の弟助職(白川御館)は故禅門(清盛)と前の幕下(宗盛)に従って信濃国の反乱を追討するため、六月十三日と十四日に信濃に進軍したが殆ど抵抗は見られず、降伏する者が多かった。勝ちに乗じて進んだところ、信濃の源氏勢は三手(木曽党・さこ党・甲斐武田党)に分れて攻め掛ったため難路を進んで疲弊した越後の軍勢は抵抗できず惨敗した。大将軍の助職は三ヶ所に疵を受けて甲冑を脱ぎ武器を捨て、万を越える軍勢も僅か300騎になって本国へ逃げ帰った。
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残る九千人余りは討ち死に、あるいは崖から落ちて落命したり山林に逃げ込むなどして戦力は壊滅した。本国の越後でも反乱が起きたため藍津 (会津) の城で籠城を試みたが秀平(藤原秀衡)の手勢に攻められ、僅か4~50人で佐渡へ逃げ去ったという。これは越後を知行している前の治部卿光隆卿が未確認情報として院で語った内容である。
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  ※藤原兼光: 平家に近かった立場の公家。安徳帝 の蔵人頭を務めたが都落ちには同行せず、次帝 後鳥羽天皇 の蔵人頭に任じた。学識・実務・和歌に秀でた官人として平家政権
後白河院政の両方で重用され、建久六年(1195)には従二位まで昇進している。
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  ※白川御館: 白河荘(摂関家領、現在の阿賀野市全域と隣接する新潟市一部)に本拠を置いた城氏の尊称。東の会津を支配した奥州藤原氏は奥御館と尊称され、両者は北の覇権
を競った関係だったと伝わる。横田河原の合戦によって城一族の運命は暗転するが...その9年後には奥州藤原氏も栄華の幕を降ろすことになり、鎌倉時代の白河荘には 頼朝 挙兵以来の御家人だった大見氏が地頭に補任される。
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  ※信濃源氏三手: 木曽党は 義仲 に従う 中原兼遠 一族、さこ党は佐久の 根井行親一族、甲斐武田党は上野国武士団の間違いと考えられている。

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左:国宝 平家納経(観普賢経)の見返し部分    画像をクリック→ 経典の拡大画像にリンク
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保元の乱(1156)で 為義 を滅ぼし、続く平治の乱(1159)で 義朝 グループを倒して源氏を壊滅させた平家の棟梁 清盛 は仁安二年(1167)に武士として初めて関白太政大臣に昇進し政治の実権を掌握した。一門の繁栄を願って 厳島神社(公式サイト)に 平家納経(wiki 画像)を終えたのもこの年である。平家納経の10年ほど前に奥州藤原氏の初代 藤原清衡 が納めた中尊寺経 と併せて見るのも趣がある。
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保元と平治の重なる大乱で実務を司る多くの公卿が失脚した影響もあって、平家一門の知行国(支配権の及ぶ国)は実に日本全国の半分を越えた。繁栄はまさに絶頂期を迎えたが、奢れる者は久しからず。安元三年(1177)には 鹿ケ谷の陰謀事件 (wiki) が発生するなど、政権内部での軋轢が激しくなった。鹿ヶ谷事件の真相には諸説あり、政敵を蹴落とす清盛の捏造と主張する説もあるから判断はむづかしい。
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この頃から清盛の政権運営には更なる強引さと崩壊の兆しが見え始め、治承三年(1179)には 後白河法皇を幽閉し、第80代高倉天皇(中宮徳子は清盛の娘、後の 建礼門院)に強請して三歳の外孫を 安徳天皇 として即位(治承四年(1180)4月)させ、清盛は家臣として最高位である帝の外祖父にまで昇り詰めた。
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ここで不満を爆発させたのが 後白河天皇 の子 以仁王。源氏唯一の殿上人だった 三位頼政 と挙兵を計画し、治承四年(1180)4月9日に平家追討の令旨を発行した。この令旨を各地の源氏と寺社宛に届ける任に当ったのが 源為義 の十男で、平治の乱の後は熊野に隠れていた 新宮義盛義朝 の末弟、同母姉が後に十九代熊野別当となる行範の妻・鳥居禅尼)。義盛は行家と改名して令旨を携え全国を廻ったのだが...一ヵ月後の5月初めに令旨の内容が平家に漏れてしまう
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5月15日に平家は以仁王を臣籍降下処分にして源以光とした。土佐配流のため検非違使が三条高倉邸へ捕縛に向うが以仁王は園城寺(三井寺)に脱出、21日には交戦を避けた頼政と合流して南都(奈良)への脱出を図った。以後の推移は「鎌倉時代を歩く 壱」の「頼政挙兵」のコーナーで。
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5月26日に頼政一族が宇治川で敗死してクーデターは収束したが、この時点の 頼朝 にはまだ明確な挙兵の意思がなかった、と思うが、令旨が出回って危機感を募らせた清盛が全国の平家与党に 源氏追討令 を発行、これか相模国の有力家人 大庭景親 にも届いたから頼朝も「しばらく様子を見よう」では済まない状態に追い詰められた。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 6月19日 】
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散位 三善康信 の使者(弟の康清)が北條に到着、頼朝 は静かな部屋で面会した。使者の曰く、「先月26日の以仁王事件の後、「令旨を受け取った源氏らを全て追討せよ」との命令が出ました。頼朝様は嫡流ですから特に危険で、至急奥州へ遁れるようお勧めします。」 と。
康信は母親が頼朝乳母の妹なので源氏に志があり、毎月三回使者を送って京の情勢を知らせていた人物である。

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右:10年前、大内宿のスナップ。左の鳥居が高倉神社参道  画像をクリック→ 拡大表示
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二匹の犬が元気だった頃の画像。   疲れを知らない子供のように 時が二人を追い越していく♫ (溜息)
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公式記録では、以仁王は宇治から南都(奈良)へ逃げる途中の山城国相楽郡(木津川市山城町神ノ木)で討たれた事になっているが、各地(特に東北・信越地方)に生存伝説が多く、萱葺き屋根宿駅で有名な 大内宿(観光サイト)の中央西側にある高倉神社もその一つ。もし生きていれば半年後に頼朝が東国を制圧した時点で名乗り出る筈で、生存伝説も絵像も本物ではあり得ない。ともあれ、大内宿観光の際は忘れずに立ち寄ろう。
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  ※以仁王の不満: 彼は後白河天皇 の第二皇子で、異母兄が皇位を継いだ高倉天皇。その生母建春門院 (後白河后) は 清盛の後妻
(二位尼時子)の妹だから、まごうことなき最高権力者の閨閥である。
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側妾の加賀大納言藤原季成娘・成子が産んだ 以仁王 は建春門院の激しい妬みを受け、29歳になっても親王宣下(天皇による認知ね)も受けられず、不満が鬱積していた。更に治承三年(1179)11月の 後白河法皇 幽閉に伴って以仁王の常興寺領を没収された事が決起の引き金となった。屋敷が三条高倉(地図)にあったため、高倉宮あるいは三条宮とも称される。
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  ※常興寺領: 以仁王の仏法の師・最雲(73代堀河天皇の子で49代延暦寺座主)が遺贈した常興寺と付属の荘園。これが没収され、同じ最雲の弟子だった明雲(高倉天皇・
後白河法皇・清盛との関係が深く、後に55代座主となった)に与えられた。荘園の明細は判らない。
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  ※令旨について: 皇太子と太皇太后・皇太后・皇后が下す命令書。範囲を広げて親王まで含む場合もあるが、第47代淳仁天皇(在位758~764)以後は天皇の子女でも
親王宣下を受けなければ親王・内親王を名乗れなかった。以仁王は親王宣下を受けておらず、従って令旨を下す権限はない。(明治以降の天皇の子女は皇室典範により自動的に親王・内親王として認められる。)
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  ※計画の漏洩: 平家物語に拠れば、令旨の内容を密告したのは21代熊野別当の湛増。挙兵を促す令旨を巡って熊野三山に発生した争乱を鎮めるために通報した、と。
湛増は弁慶の父親との伝承があり、速玉神社には弁慶の木像もあるが信憑性は乏しい。父は18代別当の湛快、生母は為義の娘鳥居禅尼、保元の乱から逃げた為義の末子義盛(行家) が熊野に20年間潜んだ裏には実姉鳥居禅尼の庇護があった。

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左:高倉宮以仁王の絵像 大内宿の高倉神社蔵    画像をクリック→拡大表示
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以仁王が発行し十郎行家が各地に運んだ「平家追討の令旨」に応じて
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常陸では、 志田(信田)義広源為義の三男、義憲とも)が挙兵をせずに独自の勢力を保ち、寿永二年(1183)に頼朝に対抗して敗れた後に行家と共に義仲に合流した。
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甲斐では、源 (武田) 清光 の次男で甲斐源氏棟梁の 武田信義 と清光の四男 安田義定 が9月初旬に挙兵し伊那などを制圧して駿河に進軍。
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尾張では、清和源氏・満政流の木田重長と、同じく浦野重遠らが挙兵。
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近江では、近江源氏の山本義経とその弟の 山本 (柏木) 義兼 が挙兵。
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伊豆では、義朝の嫡男(三男)頼朝 が8月に挙兵し、後に2人の異母弟・遠江国蒲御厨(浜松市)から 範頼、奥州平泉から義経 が合流した。
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そして同年の9月に 木曽義仲 が挙兵し、討伐に南下して来た越後の 城資職 の大軍を横田河原の合戦で撃破、破竹の勢いで信濃全土を制圧した。その後は父の義賢旧蹟である上野国多胡(群馬県吉井町)に入ったが、既に関東を制圧していた頼朝の恫喝に屈して信濃に退去し北陸への勢力拡大に専念、嫡男 義高を人質として(立場上は 大姫 の婿)鎌倉へ送って争う意思がないことを示した。
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その間に態勢を立て直した 清盛 は京に近い近江や土佐で蜂起した源氏を次々に制圧し、残るは北陸の義仲勢と甲斐源氏を含む関東の頼朝勢となったが...翌治承五年(1181)の2月、清盛は熱病に倒れてその生涯を終えた。「供養は要らぬ、ただ頼朝の首を墓前に供えよ」と遺言した、と伝わっている。

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左:清盛の墓? 画像は住吉神社の十三重の石塔   画像をクリック→ 拡大表示
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  【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月5日 】
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戌の刻(20時前後)に九條河原の盛国(側近の侍大将)邸で入道相国(清盛)が没した。去る25日から病床に伏していたらしい。遺言に曰く 「三日が過ぎたら葬儀をせよ。遺骨は播磨国山田法華堂に納め、毎日ではなく七日ごとに通例に従って法事を行い、京で追善供養をしてはならない。残った一門の者はただ偏に東国の平定を目指せ」 と。
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  【 平家物語 巻六「入道死去」に拠れば 】
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富士川合戦で敗れた平家は養和元年(1181)になって軍勢を再編成し、2月23日に会議が開かれた。
後白河法皇 の命を受けて 宗盛 を大将軍とし、関東の賊軍を討伐するため2月27日に出発する旨の決定があったのだが、突然清盛が熱病に陥ったため延期となった。
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余りの熱で傍にも近寄れず水を張った浴槽に入れてもすぐ湯になるほどの始末だった。容態はますます悪化し、やがて枕元に控えていた妻の 時子(二位尼)に向って 「保元・平治の乱を通じて敵を討伐し多くの功績を得て太政大臣まで進んだ。一門の栄華も子孫にまで及んでいる。もう思い残すことはない。」 更に言葉を続けて「ただし、伊豆の流人頼朝の首を見られなかったのが無念だ。私が死んでも堂塔や供養は要らぬ、頼朝の首を刎ねて墓の前に懸けるのが何よりの供養である。」
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そして二日後の閏2月4日、もがき苦しんだ末に64歳で没した。天皇が没してもこれ程の弔問はないと言われるほどだった。2月7日に愛宕(おたぎ)で荼毘に付され、円実法眼(左大臣藤原実能の子)が遺骨を首に掛けて摂津国に下り、経の島に遺骨を埋葬した。
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    ※愛宕: 当時は愛宕寺と呼んだ 六道珍皇寺(六波羅の北、公式サイト)か洛東の鳥辺野らしい。鳥辺野は古来から葬送の地で清水寺の南から洛東霊園に至るエリア、
阿弥陀ヶ峰西麓(両方の地図 を差す。京都女子大あたりは亡霊の巣だったかも知れないね。
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    ※経の島: 日宋貿易のため清盛が拡大・整備した大輪田泊の埋め立て島。兵庫区北逆瀬川町の 能福寺(公式サイト ・ 地図)の寺域にあった支院の八棟寺に埋葬したらしい。
八棟寺は一ノ谷合戦に続く平家滅亡により焼け落ちたまま廃寺となり清盛の墓の跡も廃墟と化した。
住吉神社の交差点角に建っている十三重の塔は弘安九年(1286)になって鎌倉幕府九代執権の 北條貞時 が寄進したもので、元は更に20mほど能福寺寄りにあり、大正12年(1923)の道路工事で現在地に移転している。ただし吾妻鏡の治承五年(1181)閏2月4日には以下の記載がある。
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三日が過ぎた後に葬儀をすること、遺骨は播磨の山田法華寺に納めて七日ごとに通常の法事を営むこと、毎日の法事はしないこと、
京都で追善の法事は営まぬこと、一族の者はただ東国平定の努力をすること。
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    ※山田法華寺: 関連する史料は見当たらないが、清盛の別邸が播磨国明石郡山田村(現在の神戸市垂水区西舞子町 ・ 地図)にあった事は幾つかの文書に散見される。
平家物語巻第四 「還御」に 後白河法皇 が厳島の帰路に播磨国山田の浦に船を着け輿を召して福原に入った」、との記述がある。
瀬戸内海と淡路島を一望する緩い南傾斜に別邸があり、その法華堂での永眠を願っても不思議ではないが...。

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以下に続く「義仲のコーナー」は再構築中です。

治承三年(1179)閏7月 .....平重盛‬ が病死。挽回の好機と見た 後白河 は越前を没収、国司 平通盛 を解任。11月の清盛クーデターで通盛は復帰。
治承五年(1181)3月......墨俣川合戦。重衡軍が美濃・尾張に勢力を築き始めた 源行家義圓 連合軍を撃破。
治承五年(1181)6月......白鳥河原から 木曽義仲 出陣、横田河原合戦で 城助職を破り北陸道を進軍。
養和元年(1181)8月......北陸平定のため 平通盛・平経正を追討使として派遣。
養和元年(1181)9月6日 ....義仲軍が越前国府を占領、更に水津(現在の杉津)で 根井行親 に敗れた通盛軍は津留賀城も失ない敗走(ルート地図)。
若狭にいた従兄の平経正は情勢判断を誤って応援せず。
養和元年(1181)11月2日 ...敗戦の将 通盛帰洛。
養和二年(1182)........大飢饉が深刻化、出兵なし。
寿永元年(1182)........以仁王の遺児北陸宮と合流、北陸に勢力を広げる。
寿永二年(1183)2月 ......志田(信田)義広源行家義仲 に合流。翌3月に頼朝との衝突寸前に義高を人質に出して和議。
寿永二年(1183)4月 ......義仲追討軍出陣。26日からの越前国燧城の戦いで勝利。
寿永二年(1183)5月9日....般若野(地図)の合戦。平氏軍の先遣隊平盛俊を 今井(中原)兼平 軍が奇襲
寿永二年(1183)5月10日...六動寺(地図)に宿営していた義仲軍本隊は兼平と合流
寿永二年(1183)5月11日...倶利伽羅峠(地図)の合戦で平家軍惨敗。
寿永二年(1183)5月12日...志保山(地図)の合戦で平家軍惨敗。
寿永二年(1183)6月1日....篠原(地図)の合戦で平家軍惨敗。


  【 大切な幕府黎明期の記録が脱落している吾妻鏡 】
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吾妻鏡には寿永二年(1183)の記載がない。直前の記載は寿永元年(1182)12月30日で直後の記載は寿永三年(1184)1月1日だから、一年分がr^全て抜け落ちている。元々の吾妻鏡は巻1から巻52(巻45欠)まで揃って伝わったのではなく、各所に伝わっていた写本を室町時代から江戸時代にかけて寄せ集めた史料だから、散逸と考えるのが自然なのだが、「編纂者が故意に抜いた」とする説があるから面白い。要するに寿永二年には(幕府として)公式記録に残したくない事件が続いた、一部分だけ載せないと作為が目立つから一年分を消してしまえ...そう考えたのだ、と。
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しかし実際には編纂ミスのため、寿永二年2月の記事九ヶ所が治承五年(1181)に紛れ込んで閏2月10日~閏2月28日として載っているから、一年分の脱落ではない。更に後世の 畠山重忠 追討の条では露骨な曲筆を行なっているのだから、「改竄」で済ませず「抹消」せざるを得ないような大事件が寿永二年に起きたとも考えにくい。
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志田義廣 の乱、義廣と 十郎行家義仲 に合流、清水義高の鎌倉入り、義仲入京と平家都落ち、義仲の凋落、上総廣常 謀殺、程度が主な事件だからね。強弁すれば12月の廣常殺害だが、翌年には「誤解による謀殺」と書いているから、隠す意図があったとは考えにくい。
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  【 平家物語 巻第七 清水冠者 】
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寿永ニ年(1183)三月上旬に 頼朝 と義仲の関係が悪化し、頼朝は義仲追討のため十万余騎の軍勢を率いて鎌倉を出陣し信濃に向った。それを知った義仲は依田城を出て信濃と越後の国境に近い熊坂山に布陣、頼朝軍は善光寺に陣を構えた。義仲は乳母子の 今井兼平を使者として派遣し、「どんな理由で義仲を討とうとするのか。貴方は東国を平定して東海道から攻め上り平家を倒そうとする、義仲は東山道と北陸道を従えて一日も早く平家を倒そうとする。仲違いは平家を喜ばせるだけだ。十郎蔵人(行家)は貴方を恨んで義仲の元に来たが、これは冷淡に扱うのも如何かと考えたため軍勢に加えただけの事、義仲は貴方に対しては全く意趣を抱いていない。」と申し述べた。
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※熊坂山: 現在の長野県中野市穴田(旧豊田村・地図)で、愛唱歌「ふるさと」を作詞した高野辰之の故郷、立派な 記念館(市のサイト)もある。
「兎追いし かの山」 は熊坂トンネルのある山など、「小鮒釣りし かの川」 は千曲川支流の斑川。善光寺まで、約25km。
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頼朝は「今になってそのように述べても、頼朝を倒すため謀反の企てがあるとの報告が届いている」として土肥・梶原を先陣に討手を向ける旨を答えた。
義仲は意趣を持たない約束として嫡子の 清水冠者義高(11歳)に海野・望月・諏訪・藤沢など名高い武士を添えて頼朝の元に預けた。頼朝は「それでは言葉を信じよう、私には男子がいないから我が子にしよう。」と答えて鎌倉に連れ帰った。
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  【 平家物語 巻第七 北国下向 】
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やがて義仲は東山道と北陸道を平定し、五万余騎で京に攻め上るとの情報が届いた。平家は前年から「来年の春には合戦」と告げていたため山陰・山陽・南海・西海の大軍が京に集結した。東山道からは近江・美濃・飛騨の兵は加わったが遠江から東の兵は加わらず、北陸道の若狭から北の兵も一人として加わらなかった。
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まず義仲を討った後に頼朝を追討するのが平家の計画で、北陸道の大将軍には小松三位中将 平維盛 と 越前三位 平通盛 、更に 但馬守経正(清盛の甥で敦盛の兄)、 薩摩守平忠度、三河守知度(清盛の七男)、淡路守清房(清盛の八男)、侍大将には越中前司盛俊 、上総大夫判官中綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光悪七兵衛景清 を筆頭に著名な武士340余人、総勢十万余騎が寿永二年(1183)4月17日の朝に都を発ち北陸道に軍を進めた。
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往路の戦費は沿道からの徴発自由の許可があったため、逢坂の関から先は権門(権威のある門閥)の税物も官の収蔵品も見境なく没収し、志賀・唐崎・三河尻・真野・高島・塩津・貝津の道沿いを奪い取って進軍したため住民はみな山野に逃げ去った。
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左:北信と越後を制圧した義仲、倶利伽羅峠へ    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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倶利伽羅峠で 木曽義仲 が「火牛の計」を採用し、数百頭の牛の角に縛り付けた松明に火をつけて敵陣に突進させ大勝利を得るのだが、これは中国の古い逸話(斉の武将・田単(紀元前三世紀)の戦法)を転用した軍記物の捏造とするのが現在の定説である。
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  ① 多くの牛をすぐには集められないし、最初から連れて行けば義仲本来の機動性が失われる。
  ② 角の松明に火が点いたら牛の群れは怯えて進まない。
  ③ 倶利伽羅峠は多数の兵士が牛の大群によって谷に落とされるような急峻な崖ではない。
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これらは全くその通りなのだろう、と思う。いずれにしろ北陸の合戦は義仲軍の圧倒的勝利で幕を閉じ、伊東祐親 のニ男で流人時代の頼朝と親しかった 九郎祐清 や幼い義仲の助命に尽力した 斎藤實盛 や最後まで頼朝に屈服しなかった 俣野景久 が戦死したのも倶利伽羅峠か、撤退中の加賀篠原の合戦(現在の加賀市篠原町)と推定される。そして同年7月25日、平家一門は京に迫る義仲軍との決戦を避けて都を放棄し、再び戻ることのない旅へと突き進む。
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2006年の春、倶利伽羅峠を駆け足で散策し少々のスナップを残した。ここは、もう一度訪問したい場所の一つだし、時間の都合で篠原の古戦場を素通りしたのも悔いが残る思い出である。いつ再訪できることやら...

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右:膳所の義仲寺 疾風の如く生きた義仲、大津で戦死     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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挙兵の翌年、義仲は越後から越前へと兵を進め、平家の討伐軍1万騎を3千の兵で破って北陸道を勢力下に置いた。寿永ニ年(1183)6月2日には 平維盛 率いる7万の平家軍を倶利伽羅峠(越中国栃波山の合戦)で壊滅させ、7月24日に平家一門を都から追い落として同月28日に都に入った。
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しかし間もなく朝廷との関係が悪化し更に京都の治安も乱れたため、後白河法皇 は厄介払いを兼ねて西へ逃れた平家の追討を命じた。9月20日に播磨に向って出陣した義仲軍は 備中水島の合戦 (wiki) で平家の水軍に惨敗し、京都に敗走した。
朝廷との関係は決裂し、法皇は落ち目の義仲を見捨てて 頼朝 への接近を図った。後白河の考えには、勢いを取り戻した平家が都に戻ってくるかも知れない恐怖が影響していたらしい。
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義仲は法皇を幽閉し公卿49人を解官して頼朝追討の院宣を書かせ、翌寿永三年(1184)1月10日には強引に征夷大将軍に着任した。やがて頼朝が派遣した鎌倉の大軍が京に迫り、義仲は残兵を各地に派遣し最後の抵抗を試みる。
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【平家物語が描いた戦況】
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宇治川で義仲軍と義経軍が戦った。義仲の兵力は1000騎余り、今井兼平 が500騎で瀬田を守り、根井行親楯親忠 が300騎で宇治へ、義仲 は残る100騎で院の御所に布陣した。攻め手の鎌倉軍は、範頼 が3万騎で瀬田を、義経 が2万5千騎で宇治を攻めた。この時に生月に跨る 佐々木高綱 と磨墨に跨る 梶原景季が先陣を争って渡河している。間もなく義経軍は宇治川の防衛線を突破して院御所へ迫り、義仲は 後白河法皇 の帯同を断念して瀬田へ走った。
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義仲は今井兼平と合流して北陸へ逃げ延びようと試みたのだが、範頼の率いる甲斐源氏 一條忠頼 の軍に行く手を阻まれた。義仲と甲斐源氏は甲斐国北部の支配権を巡って何回か戦火を交えた関係だったらしい。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月20日】
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頼朝が義仲追討のため派遣した 蒲冠者範頼 が勢田から、九郎義経 が宇治から数万騎を率いて京に入った。
義仲は 志田義廣今井四郎兼平 らを派遣して防いだが敗れ、防衛線を突破された。両将は 河越重頼 ・ 同重房 ・ 佐々木高綱畠山重忠渋谷重国梶原景季 と共に六条殿に入り院の御所を警護した。この間に一條忠頼率いる兵が義仲軍を追い詰め、相模国の住人石田次郎が近江国粟津で義仲を討ち取った。
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義仲は瀬田から退却した今井兼平と粟津(瀬田から5km京都寄り)で合流し土地勘のある北陸へ逃れようと試みていたが目指すルートは既に範頼軍に封鎖され、義仲に従っていた兵は次々と討ち死にして粟津の周辺は甲斐源氏の 一條忠頼 軍に囲まれてしまった。逃げ道を失った義仲は琵琶湖に面した粟津ヶ原で討死、直前まで付き従った今井兼平もその直後に自害した、と伝わる。

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左:今井兼平像 木曽 徳音寺蔵  作者などは不明   画像をクリック→ 拡大表示
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【平家物語 下巻 木曽殿最期】
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従う家臣は次々に討たれて主従五騎になったが、 はまだ残っていた。義仲は「最期の合戦が女連れと言われたくないから落ち延びよ」と繰り返し命じた。ついに義仲を見送った巴が最後の合戦をしよう馬を止めていると、武蔵国でも大力の武者と知られた御田師重が30騎程で迫った。
馬で駆け入った巴は組み付いて引き落とし、鞍の前輪に首を押し付けて捻り切った。そして甲冑を脱ぎ捨てて東方向へ落ち延びていった。
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手塚光盛 は討死し、別当(手塚別当・光盛の父または叔父)は何処へともなく落ち延びたらしく、義仲は 今井兼平 と二騎だけになった。
義仲が「普段は何とも感じないのに鎧が重い」と言うと兼平は「体も馬も弱っていません、味方を失ったため気弱になっただけです。私一人でも他の武者千騎と同じです」と答えた。
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新手の騎馬武者が50騎ほど現れたので「防ぎ矢をします、あそこに見える松原に入って自害を」と言うと義仲は「都で死なずにここまで落ちて来たのはお前と同じ場所で死ぬためだ」と轡を並べて走ろうとした。
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兼平は飛び降りて義仲の馬をおさえ「どんなに軍功を挙げても最期次第で不名誉となります。既に味方はなく、名もない武士に討たれたら悔やまれますから、あの松原へ入って下さい」と。義仲はそれに従った。
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兼平は名乗りを挙げて敵を引きつけ、突入して散々に戦った。義仲は粟津の松原に走り込んだが深い泥田に馬を乗り入れて身動きできず、兼平を気遣って振り返った兜の内側を三浦の石田為久の矢に射抜かれ、郎党二人に首を取られた。石田為久は太刀先に首を刺して「三浦の石田次郎為久が木曽殿を討ち取った」と名乗りを挙げた。
それを聞いた今井兼平は「もう守るべき人はいないぞ。関東の殿ばら、強者の最後を見よ」と太刀先を咥えて馬から飛び降り自害して果てた。

右:樋口次郎兼光像 木曽 徳音寺  作者などは不明   画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月21日】
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九郎義経が義仲の首を獲った旨を朝廷に奏上。夜、義経の家臣が義仲腹心の家臣 樋口兼光 を生け捕った。義仲の命令で河内の石川判官代を攻めたが逃げられたため帰還し、八幡大渡で義仲の討死を知ったのだが、強引に京に入って義経の家来と戦い捕われたものである。
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  ※八幡大渡: 御所の南西10kmの桂川・宇治川・木津川の合流点(地図)。兼光は京都南部から攻め込む鎌倉勢に追尾されたのだろう。
建武二年(1335)に 新田義貞 軍が 足利高氏 (尊氏) の軍勢に敗れた古戦場だ。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月26日】
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今朝、検非違使らが七條河原で伊予守義仲・高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を受け取り獄門の樹に架けた。囚人として連行されていた樋口兼光も検非違使に引き渡された。
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平家物語に拠れば、兼光と縁があった武蔵国児玉党の武士が自分らの功績に替えても助命を嘆願すると約束して、樋口兼光を投降させた。範頼や義経も助命嘆願に同調し一度は許されたが、公卿や女官らが法住寺殿襲撃の際の放火や殺人を深く怨んで反対し、法皇もそれを無視できず「四天王の一人を許せば憂いを残す」と斬首を決定した。義仲らの首が都大路を引き回される際には懇願の末に非人姿での随伴を許され、その翌日に斬られたという。
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  ※児玉党: 武蔵七党最大の勢力で、現在の埼玉北部から群馬南部までを勢力範囲とした。樋口兼光の本領は現在の長野県辰野町樋口一帯でほぼ100km圏にあり、両者の間
両にあった何らかの交流が助命嘆願に繋がったと考えられる。
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  ※徳音寺: 臨済宗妙心寺派、山号は日照山。中山道の宮ノ越宿にあり、仁安三年(1168)に母の小枝御前を弔って義仲が建立した柏原寺が最初で、後に大夫坊覚明
寺名を改めて義仲一族の菩提寺とした。義仲の守り本尊(兜観世音菩薩)などを収蔵し、境内には義仲・小枝御前・今井兼平・樋口兼光・巴御前らの慰霊墓もある。
徳音寺の名は義仲の戒名「徳音院殿義山宣公大居士」が元で、墓石前面に彫ってある「徳音寺殿・・・」との違いは義仲の死没と建立年代のギャップが原因か。
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寺伝に拠れば二度の木曽川洪水で流され、現在地に移ったのは正徳四年(1714)。近くには観光施設 義仲館 もある義仲フリーク必見の地なのだが...後付けの捏造史跡も多いうえに全体が観光スポット化しているので、個人的にあまり好きになれないエリアだ。
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  ※大夫坊覚明: 比叡山の住僧→ 奈良興福寺の僧→ 義仲祐筆→ 箱根権現の僧など生き様をを転々とした人物だが謎も多く、その波乱の生涯については検索を。
以仁王 の令旨を受けた南都(奈良)で返書を起草し「清盛は平氏の糟糠(酒かす、粗末な食物の意味)、武家の塵芥」と罵倒した文章が広く知られている。
後に箱根権現に定住して「箱根山縁起」や「曽我物語」の成立に関与した可能性かある事などは、個人的に最も興味がある。
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箱根神社で起居した時期は曽我兄弟の仇討ち事件と完全に重複するし、弟の 時致 が稚児として箱根権現社に預けられた時期や兄の 祐成 の愛人・虎が兄弟の死後に馬を寄進した時期とも一致する。平安時代末期を駆け抜けた、魅力のある人物の一人だ。後に義仲残党の経歴が鎌倉に露見して放逐されたらしいが。
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【やや蛇足気味ではあるけれども...】
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樋口兼光は斬首されたが、その子孫は11代後に伊那郡樋口村(辰野町樋口)から上野国多胡郡馬庭村(現在の高崎市吉井町馬庭)に移り、17代目の定次が父祖伝来の兵法・念流の道場を開いた。これが古武道の馬庭念流の始まりと伝わる。多胡郡は児玉党の勢力範囲だから、兼光と児玉党それぞれの子孫に何らかの交流が続き、500年を隔てて旧交を温め移住の端緒になったのかも知れないね。

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 その拾壱 須磨一ノ谷の合戦 平家一門 痛恨の敗北 

右:湊山小学校の石井橋側、雪見御所跡の碑    画像をクリック→ 碑の拡大表示
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仁安三年(1168)、重病からの回復を契機に50歳で出家した 清盛 は政治の実権を握りつつ表舞台を離れ、福原(神戸市中央区)に別邸の雪見御所を建てて日宋貿易拡大の拠点とした。更に大輪田泊(現在の神戸港西部)の一部を埋め立てて港湾機能を強化し、並行して 厳島神社(公式サイト)を現在の姿に整備した。
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平家納経 (wiki) を完成させたのもこの頃で、NHK大河ドラマ風に言えば「清盛は福原に遷都し宋との経済的な交流を更に拡大して貿易を軸とする海洋国家(この表現は笑える)の樹立を目指した」のだろう。
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  ※雪見御所: 仁安二年(1167)に太政大臣を辞して出家した清盛(法名浄海)は死没までの約10年間を主にこの別邸で過ごした。
京都から離れたの隠遁を体裁を装ったが、近接して 宗盛 邸や 重衡 邸、福原遷都に伴って 安徳天皇 が半年を過ごした御所も北側にあったと伝わる。
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明治時代に大型建物の礎石や陶磁器片が出土したが、昭和53年(1978)の校舎建替に伴う発掘調査では雪見御所の遺物と断定できる発見はなかったらしい。画像の石碑は明治39年に湊山小学校の校庭から出土した礎石または庭石の一部を加工したもので当初は校庭に置かれ、現在は一般公開に資するよう道路沿いに移設されている(地図)。
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しかし治承元年(1177)には政治的に清盛に近かった院の近臣が加担した 鹿ケ谷の陰謀事件 (wiki) が勃発、更に治承三年(1179)6月に摂関家の家長となっていた盛子(清盛の娘)が死没、更に7月に将来を嘱望されていた長男 重盛 が死没したのを契機として 後白河法皇 が公然とアンチ清盛に動き始めた。
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激怒した清盛は11月にクーデターを決行し、法皇を鳥羽離宮に幽閉して近臣39人を全て解任、平家に従う公家による独裁体制を敷いたが、強引過ぎた結果として平家への反発を強めてしまう。翌年5月、関白 松殿基房 の追放に絡んで所領の常興寺領を没収された 以仁王三位頼政 を巻き込んで挙兵に走ったのもこの背景が影響している。

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左:神戸港の原点 大輪田泊の石椋    画像をクリック→ 石椋の拡大表示
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※大輪田泊: 南の和田岬が風波を防ぐ天然の良港で奈良時代から瀬戸内海の物流に利用されていた。延喜十四年(914)の記録は行基が築いた
播磨五泊の一つである、と伝えている。
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清盛の父・忠盛が肥前国の院領神埼荘(現在の佐賀県神埼市)を利用して宋との交易を始め、応保二年(1162)に摂津国八部荘(灘・東灘を除く神戸市の海側大部分)を手に入れた清盛が本格的な改修に取り掛かり、嘉応二年(1170)には宋の大型船が初めて入港する規模までになった。
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築島水門近くの新川運河沿い(地図)に置かれた大石は昭和27年(1952)の運河浚渫工事に伴って杭丸太などと一緒に出土した石椋(いわくら・防波堤の基礎)で重量は推定4トン、港の入口に3~4段積み重ねられていたと推定される。
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一ノ谷合戦の際に平家が軍船を置いて万一の撤退に備えたのもこの大輪田泊である。
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治承四年(1180)6月、奈良の 興福寺東大寺、京都から至近距離の 圓城寺 (三井寺) や 比叡山延暦寺(いずれも公式サイト)が平家に抵抗する動きを見せ始める。清盛は周囲を有力寺社に囲まれて地理的に不利な京都を捨てて福原遷都を決行するが...
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8月に伊豆の 頼朝が、9月に信濃の義仲が、10月に甲斐源氏が挙兵し、11月には近江源氏が園城寺や延暦寺の応援を得て上洛を窺うまでになった。清盛は福原から京に戻り園城寺を焼き払って近江源氏を討伐、続いて 重衡 に大軍を与えて興福寺と東大寺を焼き払った。ただし、これは意図した行為ではなく合戦に伴う偶発的な結果とする説もある。
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  ※近江源氏: 頼朝が挙兵した当初から参戦した近江源氏の佐々木一族は第59代宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏。近江で蜂起した義経は 新羅三郎義光 から二代
後の常陸源氏佐竹昌義の弟・義定の嫡男。山本山城(長浜市湖北町・地図)を本拠にし、延暦寺・園城寺と協力して六波羅を夜討ちしたが撃退され、山本山の落城後に逃亡してからの消息は明確でない。一説には義仲軍に加わって滅びた、とも伝わる。

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右:一ノ谷の高台、安徳帝の内裏跡伝承地    画像をクリック→ 拡大表示
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清盛の別邸・雪見御所があった(現在の)兵庫区湊山から直線で8km以上離れているため信頼性には乏しいが、ここが安徳帝の御座所だったとの伝承が残っている。都落ちした平家一門は須磨浦から海路で一時的に四国の屋島に渡っているから、その途中に何かの拍子でここに留まった可能性が皆無とも言えないけれど、やはり単なる伝承として捉えるべきかも知れない。急な坂を登った一ノ谷公園一角の鳥居奥に安徳宮として祀られている(一ノ谷町2-55-7、地図)。
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治承五年(1181)閏2月、平家一門を支えた 清盛 が死去、長男の 重盛 と次男基盛が早世していたため三男の 宗盛(清盛継室の二位の尼 時子 の長男、安徳帝 を産んだ 建礼門院徳子 の同母兄)が跡を継いだ。
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同母弟の 知盛 が棟梁を継いでいたら情勢が違った可能性もあるのだが、宗盛は続発する反乱や飢饉による混乱に対処し切れず、寿永二年(1183)7月には北陸道から迫った義仲軍に追われて都を捨て、一ノ谷を経て讃岐の屋島に本拠を移した。清盛が手塩に掛けた福原は義仲軍の手で焼き払われた。
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そして前項で述べたように 義仲 が失脚・追討され、対立の構図は頼朝vs平家に集約された。寿永二年(1183)閏10月に備中水島で義仲軍を破った平家軍は京の奪還を目指して福原に再上陸、翌年2月に頼朝が派遣した 範頼義経 の連合軍と最初の全面衝突、一ノ谷合戦を迎えることになる。

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左:淡路島方向から見た一ノ谷の鳥瞰 左側が塩屋口   画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月4日】
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平家は西海と山陰の軍兵数万騎を集めて摂津国と播磨国の境にある一ノ谷に布陣した。
本日は 相国禅門(清盛)の一回忌を迎えて仏事を行う計画である。
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※清盛一回忌: 死没は治承五年(1181)閏2月4日なので、この一回忌は現代の三周忌を意味するらしい。吾妻鏡や平家物語が
描いた福原一帯の源平合戦は「一ノ谷合戦」の呼称が定着しているが、実際の激しい戦闘は大手の生田口および搦手の塩屋口と夢野口の防衛拠点で行なわれており、一ノ谷は塩屋口の一角に過ぎない事実に留意が必要だ。
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福原の大輪田泊に上陸した平家が布陣したのは一ノ谷西端・鉢伏山麓の塩屋口(守将は 平忠度)から、生田川西岸の生田口(守将は知盛重衡)まで、東西約13kmのエリア。 宗盛 は大輪田泊(JR兵庫駅の南)に本陣を置いて 安徳天皇 や女官を守ると共に軍船の碇泊場とした。宗盛の本陣から2kmほど北西の夢野口(鵯越の南)には 通盛教経 が率いる一万騎を配置して北の鵯越から攻撃してくる敵に備え、予備の兵力を夢野口の東1kmの雪見御所(現在の雪御所町)に置いて夢野口と生田口の双方に対応できる配置とした。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月5日】
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酉の刻(16時前後)に源氏の両将(範頼義経)は攝津国に到着、七日卯の刻(朝6時)を箭(矢)合せと定めた。
大手を攻める大将軍は蒲冠者範頼、従うのは 小山朝政武田有義板垣兼信下川辺行平長沼宗政千葉常胤佐貫広綱畠山重忠稲毛重成 と 重朝と行重・梶原景時景季景高千葉(相馬)師常千葉(国分)胤通千葉(東)胤頼中條家長・海老名太郎 ・ 小野寺通綱・曽我祐信・庄司忠家と廣方・塩谷惟廣・庄家長・秩父武者行綱・安保實光・中村時経・河原高直と忠家・小代行平・久下重光ら、五万六千余騎。
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搦め手の大将軍は 源九郎義経、従うのは 安田義定大内惟義山名義範・齋院次官中原親能田代信綱・大河戸廣行・土肥實平三浦義連糟屋有季・平山季重 ・ 平佐古為重・熊谷直實 と直家・小河祐義・山田重澄・原清益・猪俣則綱 ら、二万余騎。
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この情報を知った平家は新三位中将資盛・小松少将有盛・備中守師盛・丹後守忠房・平内兵衛尉清家・恵美盛方 ら七千余騎を北方にある三草山(塩屋口から50km北、丹波路の要衝 地図)の西に布陣、源氏軍も山の東に三里(2km弱)を隔てて布陣した。義経は田代信綱・土肥實平らと協議して夜襲をかけたため平家軍は混乱して敗退した。
(資盛・有盛・忠房は舟で屋島に逃亡、師盛は福原の本隊に合流)

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右:塩屋口から一ノ谷へと続く現在の国道2号線    画像をクリック→ 拡大表示
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前哨戦の三草山で資盛軍を撃破した搦手の義経軍は三木まで南下して二手に分かれた。義経は増援部隊(公称9千騎)を率いて山道を夢野口へ、土肥實平の率いる部隊は更に南下して早朝には塩屋口に到着した。これは塩屋口が狭いため大軍で押し寄せる必要がないと判断したのだと思う。当時の正確な姿は推定するしかないが、巾100mに満たない平地が500mほど続く現在の地形と大きく違わなかっただろう。
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  ※矢合せ: 合戦の決め事として最初に軍使(相互が安全を保証する)を交換し、場所と日時を取り決める。定刻に双方の代表者が
名乗りを挙げ、味方の正当性と過去の功績などを主張し相手の不義を罵り合う。次に鏑矢を射ち合って鬨の声を挙げ、騎馬武者が進み出て矢戦→ 乱戦に突入するのが順序。このステップを踏まないと「武士の恥・卑怯者」とされた。
義経が局地戦で何度も優れた実績を挙げたのは合戦の決め事を無視したのが要因の一つだった、らしい。
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「武士の恥」を重んじるか、「勝てば官軍」と割り切るか、その選択によって戦果は大きな変わる。通常の局地戦ではルールを守らない側が勝つのだが、それが最終的な勝利を招くとは限らない。真珠湾で勝っても太平洋戦争では完膚なき敗北を喫したのもその一例だ。
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本来は憲法改定の手順を踏むべきなのを判っていながら「解釈変更の閣議決定」で誤魔化した安倍晋三と自公政権の未来は暗い、と思うよ。これ、明らかに正義じゃないもの。夫婦で国費を盗んだ事実と合わせて、いづれの日か歴史の審判を受けるだろうさ。
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一部が平安時代末期に成立したと推定される「奥州後三年記」に拠れば、金澤柵の合戦の条に次の記述がある。
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清原家衡 の乳母夫が櫓に立ち、大声で 八幡太郎義家 を罵った。「汝の父 頼義安倍貞任 を討伐できず、清原武貞 将軍に懇請し臣下の礼を尽して貞任を討つ事ができた。今はその恩も忘れて家臣にも拘らず重恩の主君を攻める。天罰が下るだろう」と。
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従って、少なくとも口上の交換に関しては後三年の役(1083年~)前後までは守られていた。この美風(笑)は保元の乱(1156)や平治の乱(1160)頃には乱れ始め、倶利伽羅峠の合戦(1183)では有名無実になった。平家軍は乱戦の経験が少なく、夜討ちや奇襲を:警戒する習慣に欠けていた可能性もある。
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ちなみに、治承の兵乱で最初の本格的衝突だった石橋山合戦(1180)は豪雨の中での予期せぬ遭遇が発端だった、とも言う。また 頼朝 が挙兵した緒戦の山木合戦の場合は、100%完全な不意打ちだった。

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須磨鳥瞰


右:一ノ谷合戦跡 須磨浦公園の記念碑  画像をクリック→ 風景の拡大表示へ
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  【 一の谷合戦についての誤解と先入観などについて 】
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合戦場は東南東の山陽新幹線・新神戸駅に近い生田川から、鉢伏山が海に迫る須磨浦公園西側まで約13kmの海岸沿いである。その西端が一ノ谷で、激戦があったのは事実だがそれは鵯越(ひよどりごえ)と同様に須磨~福原一帯で行われた合戦のごく一部、本来なら「塩屋口の合戦」とでも呼ぶべきだろう。
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更に付け加えれば、一ノ谷と鵯越は9kmも離れているのだから義経 が一ノ谷背後の鵯越から奇襲」 なんてできる筈はないし、畠山重忠 は範頼に従って東端の生田口を攻撃しているのだから、「馬の前足を担いで鵯越を下った」 のも只のヨタ話だ。
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2月5日に一ノ谷の北50kmの三草山(地図)で資盛軍を撃破した義経軍は三木まで南下して二手に分かれ、熊谷直實・平山季重らは塩屋口へ、義経は鵯越のある夢野口に向った。最近では地元の郷土史家が「義経は夢野口に向かう途中で更に二手に分かれ、精鋭を率いた義経が一ノ谷裏手の崖を攻め下った」と主張しているが、地元を愛する故の「まさに判官贔屓」と言わざるを得ない。平家物語も吾妻鏡も現地を確認せず伝聞をベースに記述しており、それが架空の物語 「鵯越の逆落とし」を生んでしまった。
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  ※三草山: 京から篠山を経て明石へ下る主要道沿い(現在の国道372号→175号)。ここに平家の荘園があり、資盛は義経が京都から須磨を目指す進軍ルートの
進軍ルートの三草山麓で迎撃する計画で布陣。平家物語は 義経土肥實平 に「夜討ちか明日の合戦か」と訊ね、田代信綱 が「明朝には敵の軍勢が増えるから夜襲が有利」と進言し義経も同意した」 と書いている。矢合せの約定を無視した義経が夜討ちを決行したため武装を解いて休息していた資盛軍は簡単に壊滅、一方で義経側の損害は皆無に近かった。

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左:渚の敦盛を呼び戻す熊谷直實の像 須磨寺の庭園   画像をクリック→ 拡大表示
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箭(矢)合せと定めた七日卯の刻(朝6時)、熊谷直實 親子らの塩屋口先駆けに続いて 土肥實平 らが攻め込み、木戸を開いて迎え討った守備隊の 平忠度軍と激しい白兵戦となった。この戦いでは平家側が劣勢となり、沖の軍船に逃げようとした 平教盛 が熊谷直實に討たれたのが須磨一ノ谷の浜辺、と伝わっている。
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【平家物語 第九巻の十六 敦盛】
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こうして一ノ谷合戦で平家は敗れ、武蔵国の住人熊谷次郎直實は「平家の公達(若者)が舟に乗るため渚に落ちて行くだろう、名のある大将軍に組めれば良いが」と思い渚に向う小道を進んでいると、練り貫きの布に鶴を刺繍した直垂に萌黄色の鎧を着け、鍬形を打った兜の緒を締め黄金造りの太刀を佩き、24本の切斑の矢を負って滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて跨った一騎の武者が沖の舟を目指して海に乗り入れ五、六段(60mほど)沖で馬を泳がせているのが見えた。
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恩賞を目指して東国から転戦している直實が、「葱を背負って歩いている鴨」の様な姿を見逃す筈がない。渚に駆け付けた直實は「逃げるのは卑怯」と呼び掛け、それに応じて引き返した武者を組み伏せて首を掻こうと兜を押し上げると年の頃なら十六・七歳か、我が子の小次郎と同年代の美しい若武者である。
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早朝の一ノ谷合戦で小次郎が浅い傷を負っただけでも辛い思いをした直實は、「この若者を助けても合戦の帰趨が変わる筈もない」と考えて逃がそうとしたのだが...後を振り返ると、すでに 土肥實平梶原景時 ら50騎ほどの味方が迫っていた。
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ちなみに、敦盛は 知盛 の従兄弟(父の経盛が 清盛 の弟)で、直實は頼朝挙兵直前の数年間を知盛の郎党として仕えている。敦盛とは顔見知りだった筈で、平家物語が初対面の如くに描いているのは演出が足りない。兜を押し上げ顔を見て「アッと驚く熊谷直実!」の方が臨場感があるのに。

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右:同じく、須磨寺に残る敦盛の首塚    画像をクリック→ 拡大表示
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首実検を済ませた敦盛の首級は 義経 が京へ運び、他の平家の首と共に都大路を引き廻しているのだから、須磨寺に敦盛の首塚があるのは根本的に不合理なのだが、そんな事は考えず...平家物語は続く。
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「御覧ください、何とかしようと思いましたが既に味方の軍兵が集まって来てとても助けられません。私がお討ちして後の御供養を致しましょう。」と言うと「いいから早く首を取れ」と答えた。直實は切なくて何処を刺せば良いかも判らず前後不覚の有様だったが、そうもしておられず泣く泣く首を斬った。
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首を包もうと鎧直垂を解いて見ると錦の袋に入れた笛が腰に挿してあった。「東国勢数万騎の中でも戦場に笛を携える者はいないだろう、風流なものだ。」と持ち帰って大将軍の御覧に入れたところ、見る人は皆涙を流した。後で調べると平修理大夫経盛の息子で十七歳の大夫敦盛だった。
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これ以後の直實には仏心が生まれ、出家する気持ちが強くなった。件の笛の銘は小枝、叔父の忠盛(清盛と経盛の父だから実際には祖父)が笛の名手だったため鳥羽上皇が下賜した笛を経盛が相伝し、笛の名手敦盛が持っていたらしい。
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  ※平経盛: 清盛 の異母弟(生母は村上源氏・源信雅娘)で歌人としても名高い。平家一門と共に都落ちし一ノ谷で3人の息子 (経正・経俊・敦盛) を失い、当人も壇ノ浦で
異母弟の 教盛 と共に入水した。その下の異母弟 頼盛(生母は 池禅尼)は京に残り、生母が平治の乱に敗れた頼朝 の助命に尽力した関係から鎌倉で厚遇され、所領の荘園33ヶ所の返還を受けている。
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そもそも、恩賞目当てに目をギラギラさせて獲物を狙う東国武者が組み伏せた敵の若者に温情を掛けるなど、あり得ない。熊谷直實 が出家して仏門に入ったのは史実だが、それは敦盛を殺した寿永三年(1184)2月の一ノ谷合戦から8年半後の建久三年(1192)で、敦盛と直接の関係がある筈はない。下に書いた様に、出家の契機は美しくも何ともない、所領の境界を争う裁判で上手く説明できなかったため癇癪を起したのがで発端だった。
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> また平家物語は「後に迫った土肥實平と梶原景時」と書いている。熊谷直實・土肥實平の部隊は共に塩屋口で戦っており、梶原親子は早朝の塩屋口攻撃を担当、先駆けした末に深入りし辛うじて生き延びている。平家物語が描いた「梶原の二度駆け」で、平家物語の通りに読めば前線を突破して西に進み、塩屋口を突破して東に進んだ土肥實平部隊と合流したことになる。
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  ※梶原の二度駆け: 梶原景時 親子は500余騎で生田の森の逆茂木を越え攻め込んだ。次男の 平次景高 が前に進み過ぎ、使者を送って撤退させた。
景高は暫く留まった後に再び突撃。景時は「景高を討たすな」と叫び、嫡子 景季 と三男景家と共に敵陣を駆け回って奮戦してから引き上げた。しかし今度は景季の姿が見えず、郎党も「深入りし過ぎたのかも」と言うため「先駆けをするのも子供のためだ。景季を討たせて自分が生き残っても意味はない、引き返すぞ。」と、大声で名乗りつつ敵陣に突っ込んだ。
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取り囲む敵を斬り伏せて探し回ると景季は馬を射られ、崖を背に郎党二人を従えて五人の敵兵と戦っていた。親子は力を合わせて三人を討ち取り二人を負傷させて危機を逃れ一緒に陣に戻った。これが「梶原の二度駆け」である。(平家物語 巻九の十一 「二度の懸け」)

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右:直實と所領を争った久下直光の館跡    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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  【吾妻鏡 建久三年(1192) 11月26日】
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所領の境界について、熊谷直實 と叔父の 久下直光頼朝 の前で決裁を仰いだ。直實は歴戦の猛者だが弁舌の才に乏しく、主張が曖昧なので頼朝から再三の質問を受けた。
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直實は「これは 梶原景時 が久下直光を贔屓して事前に打ち合わせたため私だけが質問を受けるのだろう。どうせ直光に有利な裁決が出るのだから証拠書類も何も無駄だ。」と怒鳴って文書を投げ捨て、西の侍所に退去して髷を切り落とし南門から走り出て自宅にも帰らず行方不明になった。
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頼朝は非常に驚き、人を送って行く手を遮り出家を止めさせよと命じた。人の話では西に馬を走らせた、京を目指したかも知れない、と。直光は直實の義理の叔父で、直實が叔父の代理の大番役で上洛していた際、同郷の朋輩が代官を理由に馬鹿にした。直實はその鬱憤を晴らすため故郷に戻らず 平知盛 に仕えて年を過ごし、関東に戻ってからは石橋山で平家軍に加わって戦い、後に源氏に仕えて勲功を挙げた。「直光の代官」という制約を放棄して知盛の家人になって以来の因縁が境界争いの遠因である。
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幼い頃に両親を亡くした直實は元々熊谷郷を領有していた外叔父 (姉の夫) の直光に養われ、成人した後に頼朝御家人として挙げた武勲の恩賞に、直光が所有する熊谷郷の一部または隣接する新領を得たらしい。直光から見た境界争いは「一人立ちするまで直實に預けていた熊谷郷を奪われた」意味合いだった、と。
直實がかなり意固地で思い込みの激しい人物だったのは確かで、吾妻鏡はもう一つ、そんなエピソードを伝えている。

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左:熊谷直實の菩提寺 蓮生山熊谷寺    画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 文治三年(1187) 8月4日】
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今年は鶴岡八幡宮で初めて放生会を催すため奉納する流鏑馬の射手と的立て役を割り当てた。上手の的を立てる役を 熊谷次郎直實 に命じたところ直實は怒り、「御家人は皆同輩なのに射手が騎馬で的立て役が徒歩とは優劣を付けているものだ、命令されても私は従えない」と拒んだ。頼朝は重ねて「優劣ではなく分に応じているのだ。そもそも新日吉社祭礼には領主の家臣が的を立てるのだから低い役目ではない、指示に従え」と説得したのに直實が拒否し続けたため、罪科として所領の一部を没収した。
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直實は出奔した翌・建久四年頃に深く帰依した 法然上人 の弟子となって出家した。法力房蓮生と名乗って各地に多くの寺院を建立し、建久六年(1195)には鎌倉を訪れて 頼朝 と面談している。老齢になって本領の熊谷郷に戻り建永二年(1207)9月に66歳で死没、最後の数年を過ごした庵の跡が浄土宗の 熊谷寺(公式サイト)として現在に伝わっている。出家した武士と言えば 文覚西行 だが、直實には文覚の持つ複雑な側面や西行の鋭い感性も見られない。法然の宗教的理念も理解できずに念仏宗に突き進んだ単細胞、と評したら失礼だが。
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残念ながら、この熊谷寺は墓参するにも山門が閉鎖されてて何時も入れないんだよね。宗教上の理由で不特定多数の観光客を拒否するのなら良いけど、えてして「対応が面倒だから締め出す」のが一般的な例だ。熊谷寺(浄土宗)は「念仏道場」を称しているが本音は同様、だと思う。いつも開放している久下直光の菩提寺・東竹院(曹洞宗)の方が偉い!
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【吾妻鏡 建久六年(1195) 8月10日】
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熊谷次郎直實法師が京都から参向した。かつての武士を辞してからは一心に仏の道を歩んでいる。建久三年の頼朝上洛には思う処があって参向せず、今回は涙で再会を喜び、御前で仏の教えと共に兵法や合戦の故実などを説いた。姿は僧体ではあるが心は宗教心と世俗が同居していると語って周囲の者を感嘆させた。この日のうちに熊谷郷へ下向すると言うので頼朝は引き止めたが、後日また参向すると称して退出した。

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右:話を戻して、生田川河口付近から激戦の生田口方向を  画像をクリック→拡大表示
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須磨の東側の戦線では 範頼 の率いる源氏の主力(5万6千騎)が生田口で 知盛重衡 率いる守備軍と激戦を繰り広げた。梶原景時 親子と 畠山重忠 らが先陣として生田川に構築した壕と逆茂木で固めた防衛線に対して戦況を押し気味に進めた。jまた夢野口では甲斐源氏の 安田義定 軍が一進一退の戦闘を続けた。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月7日】
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寅の刻(16時前後)に 義経 は精鋭70余騎を選び一ノ谷背後の山(鵯越)に進出、熊谷直實・平山季重らは卯の刻(朝6時前後)に一ノ谷西の海辺から名乗りを挙げて攻撃を開始した。これに対して平家側は伊勢平氏の藤原景綱・越中盛次・上総忠光・悪七兵衛藤原景清 らは木戸口を開いて迎え討ち、熊谷直家が負傷し季重の郎従が落命した。
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その後に範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の武士が突撃して混戦となった。義経が 三浦 (佐原) 義連 らを引き連れて鵯越から急襲したため平家軍は混乱に陥り、ある者は騎馬で逃亡し ある者は舟で四国に逃れた。
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三位通盛は湊河で源三俊綱に討ち取られ、薩摩守忠度 ・ 若狭守経俊 ・ 武蔵守知章 ・ 敦盛 ・ 業盛 ・ 越中前司盛俊ら七人は、範頼・義経らの軍勢に討ち取られた。但馬前司経正 ・ 能登守教経 ・ 備中守師盛は遠江守 安田義定 の部隊に討ち取られた。
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塩屋口を突破した 土肥實平 軍と、別行動をとった義経が率いる増援部隊(公称9千騎)が夢野口攻撃に加わって戦力差が大きくなったため、守将の通盛と教経は防衛線の維持が困難になった。夢野口が危ないと見た生田口の副将 重衡 が応援に向かい、残った 知盛軍は総攻撃を開始した 範頼 の軍勢を支え切れず、生田口が突破された。西の塩屋口と東の生田口に続いて北の夢野口も突破され、平家軍は東・西・北の三方から挟撃される形になった。
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戦意を失った平家の兵は先を争って唯一敵のいない海に逃げて溺死者多数を出し、総大将の 宗盛 は残存兵力を纏め、辛うじて船で屋島に逃れた。

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左:岡部忠澄の本領と忠度遺髪を葬った清心寺  画像をクリック→ 忠度と岡部忠澄の項へ (別窓)
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【平家一門の著名な戦死者】
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忠度 (清盛の異母弟) 、清房 (清盛の八男) 、清貞 (清盛の養子) 、経正 (清盛の異母弟経盛の子) 、経俊 (経正の弟) 、敦盛 (経俊の弟) 、知章 (知盛の長男) 、通盛 (清盛の異母弟教盛の嫡男) 、教経 (通盛の弟、平家物語は壇ノ浦で入水した と) 、業盛 (教経の弟)、盛俊(清盛側近盛国の子) らが討ち死に。その他に 重衡 (清盛の五男) が捕虜となった。後白河法皇 は重衡に命じて手紙を書かせ、屋島に逃れた 宗盛 に三種の神器と重衡の交換を提案して拒絶された。
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清盛の異母弟 薩摩守忠度 は乱戦の中で 岡部六弥太忠澄 と組み合って討ち取ろうとしたが、忠澄の郎党に右腕を斬り落とされた。剛力で知られた忠度は左手だけで忠澄を投げ飛ばしたが、奮戦もむなしく討ち取られた。
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神戸の長田区には忠度の右腕を葬った腕塚神社(別窓画像地図)が、少し南の地方裁判所には亡骸を葬った忠度塚(別窓画像地図)がある。 更に同じ長田区には別の腕塚 (別窓画像地図 と 胴塚(別窓画像地図 が、もう一ヶ所づつある。
また、平家の滅亡後に故郷の岡部郷に凱旋した忠澄は所領の中で最も景色の良い地に五輪塔を建てて忠度の菩提を弔った。これが深谷市にある清心寺で、少し西の普済寺が忠澄の館跡、その近くには岡部忠澄一族の墓所や土塁などが残っている。
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都を引き回された忠度の首を何処に葬ったかは不明だが、首級と腕と胴と遺髪は別の場所に葬られた。こんな例も実に珍しい、と思う。

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右:清盛の五男 三位中将重衡の絵像  (柏原市の安福寺収蔵)   画像をクリック→ 拡大表示
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  【平家物語 第十巻 八島の院宣 より】
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後白河法皇 の使者として蔵人定長が拘留中の 重衡 に意向を伝えるため六條堀河邸に入った。「平家一門に申し入れて三種の神器を朝廷に返却すれば一門への合流を許す」 と。重衡は 「重宝の神器を重衡の命と交換しようとは棟梁の 宗盛 も一門の者も承諾するはずはないが院宣に対して何もせず返すのは憚られる、伝えるだけは致しましょう」と答えた。重衡の使者・右衛門尉重国が院宣を携えて屋島に向った。院宣の内容を要約すると...
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安徳帝 は都を離れ三種の神器は南海西海に遷って数年を経ている。これは朝廷の嘆きであり国を滅ぼす元にもなる。東大寺を焼いた逆臣の重衡は頼朝の申請に沿い死罪に処すべきだが、同族と離れているのも哀れだから、三種の神器を返却すれば罪を許すべきと考える。   元暦元年二月十四日」
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捕虜になった重衡は鎌倉に送られて 頼朝 と面談し、堂々とした態度が感銘を与えた。頼朝は助命も考慮したが、治承四年12月(1181年1月)に重衡が指揮する平家軍が南都堂塔の大部分を焼き払い、ここで多くの死者を出した興福寺と東大寺が強硬に身柄の引き渡しを要求。平家一門は元暦二年(1185)3月に壇ノ浦で滅亡したが、南都衆徒との対立を避けたい頼朝は同年6月に引渡しに応じた。安福寺本尊の阿弥陀如来像は木津川河原で斬首された重衡が最後に拝んだ引導仏と伝わる。
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【 平家の敗因は何だったのか。もちろん戦力差もあったが、その他に 】
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1.下に記載した「後白河の休戦命令」を守ったこと。宗盛は合戦の後に後白河法皇に「法皇の命令に従ったら源氏に襲われ多数の一門が殺された」と抗議している。
相変わらずの後白河の策略を見抜けず、加えて 義経 が「矢合せの約定」を守るような指揮官ではなかった事も平家の不運だった。
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2.防衛拠点の選択ミス。福原を守るには源氏の攻撃が想定される数ヶ所への兵力分散を強いられた。攻める源氏側は劣勢になっても退却して体勢を立て直せば済むが、
福原全体が包囲されている平家側は局地戦で勝っても敵を追撃して防衛拠点から離れる事はできない。劣勢になって一ヶ所でも突破されたら、他の部隊も背後を挟撃されるリスクが発生するし、実際にその通りになった。規模は異なるが後の鎌倉防衛戦と同じ。一ノ谷で戦力を失う前に地の利に配慮した総力戦を挑むべきだった。

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左:天子摂関御影に載っている宗盛の絵像    画像をクリック→ 拡大表示
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「天子摂関御影」は鎌倉時代中期以降に完成した肖像集。もちろん実物を見て描いたものではないから、例えば承久の乱直後に描かれた後鳥羽上皇の肖像 などに較べると資料的価値は乏しい。
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宗盛 の人柄に関しては芳しくない挿話が多く伝わっている。壇ノ浦では子息の清宗と共に入水後に死に切れず泳ぎ回って捕虜となり、鎌倉に連行されてからも卑屈な態度に終始して「これでも 清盛 の子か」と嘲笑された、と伝わっている。
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死期を迎えた清盛はなぜ「天下の事、偏に前幕下の最なり(すべて宗盛に任せる)。異論あるべからず」と言い残したのだろうか。知勇に優れた傑物と伝わる四男の 知盛 や、鎌倉に連行されても落ち着いた態度を崩さず、頼朝に助命まで検討させた五男の 重衡 を選ばなかったのは何故か、やや気になる部分ではある。時代は緊迫しており、危機を乗り切れる素質の有無で後継を選んでいたら平家の命運も変わっていたか知れなかったのに...清盛の晩年も秀吉と同様に正常な判断力を失っていたのかも。
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ちなみに、早世した長男 重盛の生母はかなり身分の低い正六位高階基章の娘だったが、宗盛(1147年誕生)・知盛(1152年誕生)・重衡(1157年誕生)は三人とも 平時子(二位尼、堂上平氏の中級貴族・平時信の娘)が産んでいる。
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  【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月20日】  宗盛後白河に申し入れたクレーム文書
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  去る15日に使者を四国(屋島)に派遣し勅定の意向(安徳帝と三種の神器の返還)を宗盛に伝えた。その返書が(院に)届き、閲覧に及んだ。曰く、
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15日の書状は本日(21日)に到着し、蔵人右衛門佐の書状と共に内容を理解しました。安徳帝 と国母(建礼門院)の京還御の件も承りました。去年の7月西海に向った際に還御せよとの院宣を受け、備中国下津井から船出しましたが洛中不穏の噂があるため延期し、去年の10月に鎮西(九州)を出御し還御に向ったところ、閏10月1日に院宣を称した 義仲が千艘の軍船を率いて備中水島で安徳帝の還御を妨害しました。これは兵を以って義仲軍を打ち破り、讃岐国屋島に着御して現在に至っております
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さて、先月26日に再び出航して摂津(一ノ谷)に遷幸し、院宣に従って京都近くまで行幸しました。去る4日は亡父清盛の三回忌でしたが法事のために上陸する事も出来ずに輪田の沿岸を巡っていると去る六日に修理権大夫の書状が届き、「和平交渉の使者として8日に京を出て下向する。安徳帝の勅答を頂いて京に戻るまでは合戦をしないよう関東の武者には伝えてあるから、平家軍にもその旨を徹底させよ。」との事でした。
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この仰せを守り、元より戦う意思もないので院使者の到着を待っていると7日になって関東の軍勢が御座船の停泊する一ノ谷に攻め込みました。我々が院宣を守って撤退したのに関東の軍勢は勝ちに乗って攻め掛かり、多くの将兵が殺されました。これは何事なのでしょうか。関東の軍には院宣を待てと言わなかったのか、あるいは関東の武士がそれを承諾しなかったのか、あるいは平家を油断させるため策略を巡らしたのでしょうか。

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右:清盛の四男 権中納言従二位 知盛の絵像    画像をクリック→ 拡大表示
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優柔不断の傾向があった兄の重盛・宗盛に較べて優れた資質があるため清盛は大きな期待を懸けたらしい。九条兼実 が日記の玉葉に「入道相国(清盛)の最も愛でた息子」と書いたほどだが、後継はなぜか宗盛だった。絵像は赤間無神宮収蔵、狩野元信の筆と伝わるが確認には至っていない。
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  ※狩野元信: 画壇を席巻した狩野派初代正信の子で二代目を継承し1500年代前半(室町時代)に活躍した。
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【それはそれとして、吾妻鏡は更に宗盛書状の内容を続ける】
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京に向うたびに関東の武士が妨害するのではとても還御は実現せず、それは平家の責任ではありません。
和平は重要ですが双方に対して公平でなければ実現する筈もありません、この事態を報告するより先に院宣で還御と神器の返還を命じるのは理屈に合わない事であります。
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長い間忠義を尽くし御恩を得てきたのに不忠の疑いや叛徒の扱いを受けるのは何事でしょうか。西国に向ったのは義仲入洛に驚いたからではなく、法皇が平家を捨てて比叡山に逃げたため結果として反逆者扱いされたに過ぎません。更に源氏は院宣を称して西国を侵し度々の合戦を仕掛けたため、我々は防衛に当っただけです。
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そもそも平家も源氏も互いに意趣はなく、平治の乱で信頼卿が叛いた時も院宣によって仲間の義朝らを追討したのも自然の成り行きで、宣旨・院宣に従ったのは怨恨ではないため合戦する理由もありません。長期間の合戦で世情も荒れ飢饉も深刻になり、安徳帝還御の行く手を源氏が妨げる状態が二年も続いています。今は早く合戦を停止して善政を行い、和平と還御について公平な院宣を願います。    二月二十三日
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返書の内容は平家物語と吾妻鏡の間に大きな差異は見られない。宗盛の返事は少し愚痴っぽいし政治家としては正直に過ぎるけれど、言い分は一応の理に適っている。後白河宗盛 宛に「取り敢えずの停戦を命じた」のは幾つかの伝聞情報を総合すると事実で、平家側は6日以降の数日間は停戦と理解し概ね武装解除(つまり甲冑を脱ぎ弓の弦を外した)状態で源氏の攻撃を受けたらしい。その割には、良く戦った、と思う。
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鎌倉に留まっている 頼朝 の関与は物理的にあり得ないし、義経範頼 にそれだけの策を弄する能力があるとも思えない、やはり計画したのは後白河だろう。
後白河後鳥羽後醍醐...「後」の付く天皇・上皇は歴史を歪めた人物が多いようで(笑)。まあ必ずしも「後」だけじゃないけどね。
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いずれにしろ指揮官と侍大将クラスの多くを失った平家軍の戦力は著しく低下し、一族の命運は一ノ谷合戦で決まったと言える。

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左:教盛の二男 従五位下 能登守教経の絵像 (赤間神宮収蔵)   画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月8日】
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範頼義経 が摂津国から京に飛脚を派遣。昨日一ノ谷で合戦し、大将軍九人の首を獲り数千人を討ち取った、と。
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【吾妻鏡 同年 2月9日】
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義経が少数の兵を率いて本隊より先に入洛。これは平家諸将の首を都大路引き回しの許可を得るため急いだ、と。
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【玉葉 寿永三年(1184) 2月10日】
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院宣は首の引き回しに否定的な内容である。義経と範頼は「義仲の首を引き回して平氏の首を引き回さないのは理屈に合わない」と申し立てた。返答は、罪状が義仲と同じではなく帝の外戚として公卿あるいは近臣の身分に昇った、討伐はされたが首を引き回すほどの理由はない。かつて信頼の首を引き回さなかったのと同様である、と。
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【吾妻鏡 同年 2月13日】
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平氏諸将の首(通盛・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊)は義経の六條室町邸に集められ、八條河原に向った。
大夫判官仲頼らがこれを受け取ってそれぞれ長鉾の先に付け、名を記した赤札を付けて獄門に向かい樹に懸けた。見物する者が市をなした、と。
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  ※能登守教経: 清盛の異母弟 教盛 の次男(通盛 の弟)。平家物語は剛勇を強調しているが吾妻鏡に同様の記載は見られず、一ノ谷合戦の2月7日には夢野口の防衛に任じて
安田義定 の兵に討たれたと書いている。平家物語などでは屋島の合戦で義経を庇った 佐藤継信 を強弓で射殺し、更に壇ノ浦では義経を追い回した末に三人の敵兵を道連れに入水した、としている。教経に関する情報は平家物語の脚色っぽい。
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一ノ谷では清盛の末弟忠度が討死、七男の知度と八男の清房も討死、五男の重衡が捕虜、清盛の嫡孫や甥の多くが討死している。将官クラスでさえ逃げ切れなかった程だから、吾妻鏡の「数千人を殺した」を割り引いても相当に悲惨な負け戦だった。宗盛と知盛は残兵を軍船に収容して大輪田泊を脱出し屋島に逃れた。寿永二年(1183)7月に義仲に追われて都落ちした際には九州大宰府を経て屋島に落ち着き、内裏を構えて本拠としていた地である。
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それまでの平家は彦島(壇ノ浦の西側・地図)にも拠点を置き、強力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握るまで勢力を回復していたのだが...義経は摂津渡辺党の水軍と熊野別当率いる熊野水軍および 河野通信 率いる伊予水軍を傘下に加え、渡辺津(旧淀川の河口近く)に集結して屋島攻撃の準備を整えた。


 その拾弐 屋島の合戦 平家は九郎義経の奇襲を受けて再び敗北 

右:文覚上人絵像 (神護寺蔵 伝・藤原隆信筆)   画像をクリック→ 拡大表示
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作者の藤原隆信は歌人 藤原定家 の異父兄(父は藤原為経)で母が再婚した藤原俊成に育てられた公卿。和歌と絵の名手として知られている。神護寺の頼朝絵像の作者されていたが、近年はその通説「モデルが頼朝か否か、作者が隆信か否か」に疑義が呈されており、結論はまだ先になりそうだ。文覚絵像には特に問題なし、かな。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 3月2日】
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三位中将 重衡卿 の身柄が 土肥實平 から 九郎義経 に引き渡された。實平が西海に出陣するためである。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 3月10日】
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頼朝 の指示を受けた 梶原景時 が三位中将重衡卿を伴って京から関東に向った。また同日、頼朝が因幡国の住人長田實経(後日廣経に改名)を呼び出して書面を与えた。曰く、平家に味方した事実は罰せられるべきだが、私が伊豆流罪になって代々の家人さえ付き従う者もなかった時に、實経の父・高庭介資経が家人の籐七資家を副えて送ってくれた恩は忘れ難い。よって本領を安堵しよう、と。
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  ※流罪の経路: 平治物語などに拠れば永暦元年(1160)3月11日に検非違使の三善友忠が連行し粟田口から船で近江~伊勢へ下り
阿濃津から伊豆に向った。従うのは乳母夫の比企掃部充夫妻(妻は後の比企尼)と、叔父(熱田大宮司 藤原季範 の子で頼朝の生母・由良御前の弟)が派遣した郎従だけで余りに惨めだったため、平家の家人高庭介資経が配慮を加えた、と伝えている。
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阿濃津を出航した頼朝が上陸したのは沼津あたりか、或いは奥津(興津)か別の港か、記録には残っていない。
承安三年(1173)に伊豆流罪となった 文覚上人 は西伊豆の八木沢村に上陸と伝わっているから、ここから山越えして韮山に落ち着いた可能性もある。
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平治物語の記述では、駿河国香貫(沼津市の狩野川河口)で頼朝の同母弟(後の希義、頼朝の5歳下)を母の兄・藤原範忠(後の熱田大宮司)が捕らえて朝廷に送り、頼朝の伊豆流罪と同日に土佐流罪とした。従って頼朝は弟と逆のルートを辿った事になる。
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  ※粟田口: 東海・東山道と結ぶ京都七口の一つで三条口・大津口とも。現在の三条大橋から蹴上(地図)まで。粟田郷を抜けて通じていたのが語源。
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  ※阿濃津: 三重県津市の阿漕塚地図)付近にあった港で、京と東国を結ぶ海路の拠点として繁栄した。室町時代の明応七年(1498)のM8.6クラス
の明応大地震に伴う津波で壊滅し、その後の港湾機能は現在の松阪港周辺に移ったらしい。
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  ※阿漕塚: 病身の母に食べさせるため伊勢神宮に納める魚を獲る禁漁区に網を入れ、罰として簀巻きにされた漁師の塚「あこぎづか」がある。
「同じ事を何度も繰り返す、しつっこい」を表す「あこぎ」の語源になった、とされているけど...本当かな。

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左: 京の七口 プラス アルファ 京都に出入りする代表的な街道口     画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 3月17日】
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板垣兼信 の飛脚が鎌倉に着き、藤原(判官代)邦通が内容を報告。曰く、命令に従い8日に京から山陽道に向った。
門葉の一人として追討使を受け賜り目的を達成するべきなのに、従軍する土肥實平 が特命を受けたと称して打合せに応じず、自分が決めると言って私の関与を受け付けない。兼信が上司である旨を徹底させて頂きたい、と。
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頼朝 はこの求めを許さず、「門葉か家人かは問わず。實平の忠義心は衆に抜きん出ているから西国の差配を委ねている。兼信程度の者は命を捨てて戦うのが分相応で、申し出は僭越である」と答えた。使者は空しく走り帰った。
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【吾妻鏡 同年 3月28日】
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捕虜の 平重衡 が鎌倉に到着、頼朝は廊下に招いて面会した。頼朝は「後白河法皇 の怒りを慰め、父の恥辱を雪ぐため石橋山で合戦し平家を討伐したのは周知の通り、名誉の回復である。槐門(右大臣宗盛 を差す)とも、この様に面会するだろう。」と。
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重衡は「源平は共に天下を警護した立場で、結果として平家だけが朝廷を守る立場になった。官職を得たのは80余名、繁栄は20数年だが今は運命が縮み捕虜として此処にいるのだから言う事はない。これは武者としての恥辱に非ず、早く斬罪に処すればよろしい。」と答えた。
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聞いていた者はその動じる様子のない態度に感銘を受け、身柄は狩野介宗茂に預けられた。その後、院からの指示があり「(平家の)武士は是非を問わず成敗せよ。何らかの理屈があれば成敗の後に奏上せよ」 との内容である。
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※源氏門葉: 頼朝の血縁として、他の御家人と別格に処遇された一門の家系を差す。血縁の濃淡に関係なく忠誠心の高い清和源氏が指定された。
文治元年(1185)叙目の際に含んだ 義経 はすぐ除外され 範頼阿野全成は最初から含まれない。
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山名義範新田義重の庶長子)、平賀義信義光の曾孫)、大内惟義(平賀義信の長男)、足利義兼義家の曾孫)、
源広綱頼政の末子)、武田信義(甲斐源氏棟梁・失脚)、安田義定(信義の弟、粛清)、加賀美遠光(信義の次々弟で頼朝に服従)を含む(または含まれた)。
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※狩野宗茂: 石橋山合戦(別窓)から逃げる途中で戦死した狩野介茂光 の嫡子で一族の棟梁を継いだ。伊東祐親工藤祐経の従兄弟で本家筋。

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右:山桜(左側)とソメイヨシノ(右側)    葉と花がほぼ同時に開くのが山桜の特徴
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 4月4日】
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御所の桜が見事に開いたので一條能保卿を招き、前の少将 平時家時忠の次男。父の指示で上総流罪になっていた)も共に加わって終日花見の宴を催し、併せて音曲を楽しんだ。
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  ※桜の開花: 寿永三年4月4日は西暦の5月15日に当る。当時は殆どが山桜の筈だから:現在の鎌倉より一ヶ月弱遅い。
それだけ気候が温暖化したと考えるべきなのだろうか。
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【吾妻鏡 同年 4月6日】  この年 4月16日に改元。寿永三年を改め、元暦元年とした。
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朝廷が平家から没収した前の大納言 平頼盛 夫妻の所領は頼朝に与えられた。頼朝は 池禅尼 の恩に報いるため頼盛の勅勘撤回を願い、所領34ヶ所を頼盛が元通りに知行出来るように自分の所有から外した。その中に含まれていた信濃国諏訪社は伊賀国六箇山と差し替えた。
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池大納言の所領
走井庄(河内) 長田庄(伊賀) 野俣道庄と木造庄(伊勢) 石田庄(播磨) 建田庄(播磨) 由良庄(淡路) 弓削庄(美作) 佐伯庄(備前) 
山口庄(但馬) 矢野領(伊予) 小島庄(阿波) 大岡庄(駿河) 香椎社(筑前) 安富領(筑前) 三原庄(筑後) 球磨臼間野庄(肥後)
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池大納言家の所領
布施庄(播磨) 龍門庄(近江) 安摩庄(安芸) 稲木庄(尾張) 乃辺長原庄(大和) 兵庫三ヶ庄と石作庄(摂津) 六人部庄(丹波)
熊坂庄(加賀) 宗像の社と三ヶ庄(筑前) 真清田庄(尾張) 服織庄(駿河) 国富庄(日向) 麻生大和田領(河内)
諏訪社(伊勢神宮領の伊賀六箇山と交換)

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左: 「コスモスの寺」、奈良坂の法性山般若寺   画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 4月20日】
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頼朝 の許しを得て 重衡 が沐浴の儀で体を清めた。その後に頼朝は捕虜生活の重衡慰安のため 籐判官代邦通工藤祐経および官女(千手の前)を酒肴と共に派遣、重衡はこの配慮を受けて宴を楽しんだ。祐経が鼓を打って今様を歌い、女房が琵琶を弾き重衡が横笛で和して時を過ごした。
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宴から戻った邦通は「重衡の態度は言葉も芸能も甚だ優美だった」と頼朝に報告、頼朝は世の評判を憚って同席できなかった事を悔やみ、千手の前と夜具一組を重衡に届け、祐経を介して「田舎の女もまた趣あり、鎌倉にいる間は近くに置くように」と伝えた。
祐経は 重盛 に仕えた頃には重衡にも近かったため旧交を忘れず、しきりに今の境遇を憐れんだ。
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貴公子然とした重衡と千手の前は美男美女のカップルっぽいイメージだが、二人の暮しが長く続く筈もない。
平家一門が壇ノ浦で滅亡した元暦二年(1185)3月24日から二ヶ月後の6月9日、南都の社寺(興福寺+春日大社、と東大寺+手向山八幡宮)と険悪な関係に陥るのを避けたい頼朝は東大寺らの要求を容れて重衡を引き渡した。
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頼朝や 義仲 が挙兵を成功させた直後の治承四年(1180)12月28日、清盛 の命令を受けた平家軍がアンチ平家の動きを続ける南都の僧徒集団を攻めて東大寺と興福寺の殆どを焼き払い、戦火を避けて境内に避難した民衆を含めて数千人が焼け死んだ。この 南都焼き討ち(鳥瞰図・別窓)を指揮していたのが重衡で、特に法華堂・二月堂・転害門・正倉院を除く大部分の堂宇を焼かれた東大寺と多数の死者を出した興福寺の激しい憎しみを受けていたためである。

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右:京街道沿いの公園に残る重衡の塚   画像をクリック→ 拡大表示
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衆徒に引き渡された重衡は真言律宗の 般若寺(公式サイト・地図 の門前で斬られた。東大寺から1kmほど北、京都の山城と奈良を結ぶ京街道に面しており南都焼き討ちの際には類焼した、と伝わっている。
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創建は第34代舒明天皇の頃(600年代初頭)とされるが確証はない。戦国時代の兵火に耐えた文永四年(1267)建造の楼門 (画像)は国宝、重要文化財指定の 文殊菩薩(画像)を本尊としている。
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平家物語に拠れば、三位頼政 の次男・伊豆蔵人源頼兼 の護送で鎌倉を出た 重衡 は上洛を許されず、山科から醍醐を経て衆徒に引き渡され同月23日に木津川の畔で斬首、奈良坂の般若寺門前に首を晒された。
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河原に放置された遺骸は大納言典侍が引き取り、重衡の正妻 (壇ノ浦で入水後に捕獲) が隠棲していた 法界寺 (日野薬師) で荼毘に付し貰い受けた首と共に埋葬した。京街道に面した小さな公園の塚(地図)が重衡を葬った場所で、一部を失った五輪塔が墓石らしい。
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一方の千手の前にも、三年後に不幸な最期が待ち受けていた。吾妻鏡に拠れば、千手の前は手越宿(静岡市の安倍川西岸・地図)の長者の娘。南都に引き渡された重衡の死後は剃髪し墨染めの衣で信濃善光寺に入り、仏道の修行をしつつ重衡の菩提を弔った、と伝わっている。

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左:千手前が庵を結んだ白拍子村の墓所   画像をクリック→ 拡大表示
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参考として: 木曽義仲 の嫡子 清水冠者義高 が4月21日に鎌倉を脱出、武蔵国入間川で追手に殺される事件が勃発している。
その経緯と背景は 義高最期の地 清水八幡と影隠地蔵(別窓)に詳細を記述してある。この事件とちょうど重なるように、千手前もその生涯を終えている。
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【吾妻鏡 文治四年(1188) 4月22日】
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夜になり 御台所政子 に仕える女官(千手前)が御前で気を失い、間もなく息を吹き返した。普段は特に病気をしていない者だが、夜明けに仰せを受けて御所を退出し自宅に戻った。
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【吾妻鏡 文治四年(1188) 4月25日】
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明け方に千手の前(24歳)が死没。穏やかな性格の女だったため人々は突然の死を惜しんだ。前中将重衡卿が鎌倉に抑留されていた際には命じられて身辺の世話を続け、重衡卿が鎌倉を離れた後は恋慕の思いが積み重なり、これが病気の元なのだろうと人々には感じられた。
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遠江国中泉(現在の磐田市)で活動した江戸時代初期(1657~1738 )の医師・山下煕庵は著書「古老物語」の中で「千手の前は駿河国手越の長者の娘である。長じて鎌倉に出仕して重衡に仕え、重衡が刑死した後は尼となって蟄居したことからこの地を白拍子村と呼び、葬った墓の印に松を植えたため人々は傾城の松と呼ぶようになった」と書いている。墓石には「?松樹傾信女」(?の偏は帝、旁は成)と刻まれているらしいが、鎌倉幕府の女房を白拍子や傾城と同列に扱うのだから、史実から派生した伝承に過ぎないだろう。
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 5月19日】  重衡が去り、頼朝は都人の二人と京都回帰の夢を見たか。
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頼朝は 池大納言頼盛一條能保 を誘って海辺を逍遥。由比ガ浜から乗船し御家人の舟を従えて杜戸の海岸(葉山)に上陸し小笠懸を行なった。

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右:頼盛の妻が我が子を失ったと伝わる親不知   画像をクリック→ 拡大表示
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富山との県境に近い新潟県の伝承に拠れば...
源平合戦に敗れた 平頼盛 は所領のあった越後蒲原郡(所領のリストにある三原庄か?)に逃れて隠れ住んだ。これを知った頼盛室は幼い我が子と共に京を出発し北陸道を経て蒲原に向ったが、崖下の波打ち際を通る難所で我が子を波に奪われてしまった。この時に詠んだ歌から「親不知」の名称が定着した、と伝わる。
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    「親知らず 子はこの浦の波枕 越し路の磯の 泡と消えゆく」
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実際には頼盛は寿永二年(1183)5月の平家都落ちに同行せず、同年10月には頼朝の招きに応じて鎌倉に亡命している。従って蒲原郡に潜んではいないし奥方が彼を訪ねた記録もないから、頼盛夫妻と何氏を連想した単なる伝承に過ぎない。
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ただし「親知らず」が北陸道で屈指の難所だったのは確かで、2008年の冬に通った時には凄絶な雪景色だった。画像左隅のカーブ突端に数台の駐車スペースがあり、展望台から崖下の磯を眺められる。この波打ち際を通るのはかなり恐ろしい。
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   更に詳細は道の駅 親知らずピアパーク および 道の駅 市振の関(共に別窓)のレポートも参考に。
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【吾妻鏡 同年 6月1日】
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頼朝は近日中に京へ帰る 平頼盛を招き別離の宴を催した。一條能保平時家時忠の子)も同席し盃を重ねながら雑談に興じた。小山朝政三浦義澄結城朝光下川辺庄司行平畠山重忠橘右馬允公長足立遠元八田知家後藤基清らが庭先に控えた。いずれも京にいた事のある者である。
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次に引出物の儀、まず時家を介して鍍金仕上の太刀一振、次に 大江廣元 を介して砂金一袋、次に鞍を付けた馬を10頭、次に頼盛の供にもそれぞれ引出物を与えた。更に(引出物を与えるため)弥平左衛門尉宗清(季宗の子)を呼んだが、彼は鎌倉には来ていなかった。
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平治の乱の際に頼朝助命に貢献した者なのだが、京から鎌倉に向う頼盛に命じられても同行せず、「戦場に向うなら先陣を承りますが、鎌倉の招きは助命の恩に報いるためでしょう。平家が零落した今になって参向するのは武士としての恥です。」と言って屋島の宗盛軍に加わった、という。
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  ※左衛門尉宗清: 伊勢平氏一門で頼盛の家人。平治の乱後に頼朝を美濃で捕えて六波羅に連行したが、池禅尼 による助命運動に協力したらしい。
鎌倉に赴いた頼盛には従わず、元暦元年(1184)7月に勃発した伊勢平氏の乱に加わり本拠の大和国に近い伊勢で戦死している。
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【吾妻鏡 同年 6月5日】
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池大納言頼盛卿が帰洛。頼朝は (自分の所有となった) 荘園を譲渡し、鎌倉逗留中は宴を重ね金銀や衣服を贈って歓待を尽していた。
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  参考として: 同じ時期の6月16日、甲斐源氏の棟梁 武田信義の嫡男 一條忠頼 が頼朝と対面中の 御所で謀殺(別窓)された。実行者は 天野遠景
文治元年(1185)の秋山光朝(加賀美遠光 の嫡男)追討(事件の経過・別窓)、建久元年(1190)の板垣兼信(忠頼の次弟)失脚流罪、
建久五年(1194)の 安田義定(武田信義の弟)の追討(事件の経緯・別窓)と続く甲斐源氏粛清計画が平家追討・奥州征伐と並行して進んでいる。

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上:瀬戸内海東部の五泊(ごとまり) 
行基上人 が開いた伝説が残る。
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左から、室生泊(たつの市御津)  韓泊(姫路市的形町)  魚住泊(明石市魚住町)  大輪田泊(神戸市兵庫区)  河尻泊(尼崎市神崎町)

【玉葉 元暦元年(1184) 6月16日】
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平家の一党が備後国(広島県東部)で頼朝郎従の土肥二郎實衡(實平)と早川太郎(嫡子 遠平)を追い散らしたとの情報があり、そのため播磨国に駐屯していた 梶原景時 が備前国(岡山県南東部)に向かい、手薄になった室泊(兵庫県たつの市御津町・地図)が平家軍に焼き払われた。京都に駐在する武士を派遣してこれに対応する、と。
大将軍は不在、対策も後手に回っているのではどうしようもない。
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奈良時代から利用されている「五泊」は明石海峡を東西に流れる瀬戸内海独特の潮流を利用していた。五つの津(港)が航程ほぼ一日の間隔で設置されており、 平清盛 も宋との交易に活用していた物流の要所である。中世には防波堤(石椋・いしくら)を維持管理する名目で勝載料(停泊料)が徴収されていた。
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元暦元年(1184)には最も西側の室生泊が平家の急襲を受けて占領され、物流の停滞による戦局を打開するため は冷遇していた 九郎義経 を再び前線に戻す事になる。
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  ※瀬戸内海の潮流: 太平洋の干満により山陽道沿いの瀬戸内海には西向きに2回・東向きに2回の潮流(時速10~20km)が逆行する。巾の狭い鳴門海峡と関門海峡周辺
では特に激しい。風上に航行できない和船にとって潮流の利用が最も合理的で、五泊の港は「潮待ち」には欠かせない存在だった。

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左:1940~70年代に活躍した美人女優 久我美子   拡大表示なし
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月20日】
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去る五日に臨時の除目。頼朝 の申請通り、権大納言に 平頼盛、侍従に光盛・河内守に保業・讃岐守に一條能保・参河守に 源範頼・駿河守に 源廣綱三位頼政 の末子)・武蔵守に 源(平賀)義信 が任じられた。
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  ※光盛と保業: 共に頼盛の子で、庶長子保業は後に従三位に昇った。嫡子の六男光盛(嫡子)は従四位となり、建保六年 (1218)
には三代鎌倉将軍 実朝 の右大臣拝賀に派遣され八幡宮での実朝殺害を目撃した。河内守となった五男の保業は鎌倉に留まり、御家人としてそのまま幕府に仕えた。
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父の池大納言頼盛は平家一門が壇ノ浦で滅亡(1185年)した2ヶ月後に出家し、その後は表舞台に現れないまま翌・文治二年(1186)6月に54歳で死没。清盛との不仲に始まった離反ではあったが、不本意な形で一族を見捨てた心の傷が残った。一門にも朝廷にも鎌倉にも安寧な場所が見い出せず、孤独な余生だったと推測される。
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余談...池大納言領を相続した頼盛の孫娘は村上源氏の嫡流 久我 (こが) 通忠 (正二位・大納言、村上天皇の皇子具平親王から九代目) の後妻となり、相続した池大納言家の財産を
使って没落寸前の名門久我家再興を成し遂げた。そして、具平親王から数えて40代目の子孫 久我通顕の長女が往年の美人女優 久我美子 (wiki) 。
彼女は映画女優として人気を博し、敗戦後に華族待遇を失って経済的に破産状態に近かった久我家の窮状を救った。
既に生活の基盤を失っていたにも関わらず、当主の通顕は「女優という卑しい職業」には大反対していた、と伝わっている。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月21日 】
頼朝は範頼・義信・廣綱等を召し集めて勧盃の儀を行った。次いで除目を告知し、それぞれを喜ばせた。(無官のまま) 京都守護職に任じている 九郎義経 は頻りに推挙を望んだが頼朝は許容せず、まず蒲冠者 (範頼) を推挙したため特に悦ばれた。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 7月3日 】
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頼朝は 宗盛 の率いる平家を追討するため九郎義経を山陽道に派遣する旨を院の御所に報告した。

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右:平貞能を葬ったと伝わる益子の安善寺       画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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平貞能重盛 の忠臣として平家物語にも登場する武士で、誇り高い激動の生涯を送っている。生母は宇都宮氏の娘とされるが系図上の確証は取れない。重盛の次男資盛の補佐役として九州方面の治安維持に任じ、頻発する反乱を抑えきれず6月に都に戻っている。
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義仲入京が迫る中で平家一門は協議を重ね、議論は「都落ちして大宰府を目指す」方向に収束しつつあった。鎮西の情勢が厳しい事を現地で熟知していた貞能は都での決戦を主張するが容れられず、混乱の中で貞能は 後白河法皇 の直属部隊として命令を受け宇治田原の防衛に出動、7月25日夕刻に帰洛するのだが...同日早朝(寿永二年(1183)10月25日)に平家一門は京都を放棄し、既に都落ちを決行していた。
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義仲 の入京は3日後の7月28日。主人重盛の墓が義仲の軍勢に踏み荒らされるのを危惧した貞能は重盛の遺骨を掘り出して周辺の土を鴨川に流してから京都を脱出し、遺骨を高野山に納めた後に一門を追って合流した。
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鎮西の武士は既に大部分が平家を見捨てており、貞能が主張した通り平家一門が安住できる場所ではなかった。豊後(大分)の臼杵氏と肥後(熊本)の菊池氏は情勢を見極めるため動こうとせず、後白河の命令を受けた緒方惟栄(元・重盛の家人)までが平家との合戦に備えていた。
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貞能と資盛が説得を試みるが交渉は纏まらず、平家一門は10月には再び船で九州を脱出することになる。ここで貞能は出家して一門に別れを告げ、重盛の側室だった得律禅尼(堂上平氏時信の娘)と妙雲禅尼(重盛の妹)を伴って姿を消してしまう。主家に最後の奉公を尽くす心づもりである。

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左:那須塩原の妙雲寺 重盛の妹 妙雲禅尼の墓所    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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壇ノ浦で平家が滅亡した三ヶ月後の文治元年(1185)6月、平貞能 は旧主 重盛 の姉と妻の赦免と保護を求めて 宇都宮朝綱 の屋敷に現れた。かつて朝綱らが平家に仕えて京にいた時に 頼朝 挙兵の報を聞いて関東に帰ろうとした彼らの助命に尽力し、東国への帰還に便宜を図った事が、逃亡に行きづまって保護を求めた経緯がある。
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貞盛を伴って鎌倉に出頭した朝綱は「もしも貞能が叛くようなことがあれば、我が一族の子孫を殺して下さい」と願って許された、と伝わっている。北関東の各所に重盛の供養塔が点在するのは貞能あるいは籘姓足利氏らによる供養の一環であり、滅亡した後も主家を裏切ろうとしなかった誇り高い武士の生き様の痕跡でもある。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 7月7日 】  貞能が鎌倉に出頭
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前筑後守の平貞能は平家の一族で、故清盛入道腹心の郎党である。平家一門が西海で滅びる前に行方不明となっていたが、突然宇都宮朝綱の元に出頭した。一門の命運が尽きるのを知って出家し滅亡の難を避けた。今は鎌倉の許しを得て静かに暮らしたいと願う、と。
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朝綱がその旨を申し出ると 頼朝 は「彼は平家屈指の家人であり、その申し出には疑いもある」と不機嫌な態度で許す気配を見せなかった。
朝綱は更に続けて「平家に従って在京していた時に挙兵の情報を聞き加わろうと思いましたが、宗盛 が許しませんでした。その際に貞能が説得してくれたため、私は 畠山重能小山田有重 と共に頼朝旗下に加わり、平家を滅ぼす事ができました。これは私の問題だけでなく源家にとっての功績でもあります。もし彼が反逆を企てたら私の子孫を絶っても結構です。」と願った。今日この件が許され、貞能の身柄は朝綱に預けられた。
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   平家物語には更に劇的な展開が書かれている。(以下、概略)
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平貞能は義仲勢に一矢を報いるため手勢30騎ほどを率いて都に戻った。西八条の屋敷の焼け跡で野営して後続の軍勢を待ったが、誰一人戻らず、翌朝にて貞能は主人だった亡き重盛の墓所へと走った。遺骨を掘り起こして周辺の土を賀茂川に流し、遺骨を高野山に納めてから東国へと落ちた。
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寿永三年(1184)、貞能は 重盛 の念持仏・釈迦如来立像(1.2m)を背負い重盛の妹・妙雲禅尼を伴って宇都宮朝綱を訪ねて保護を求めた。
平家都落ちに伴って東国武士の朝綱らは斬られる筈だったが知盛に助命された経緯があり、その時に尽力したのが貞能である。放免された朝綱らは鎭西への従軍を申し出たが、知盛は「汝らの心は既に東国にある。抜け殻を従えて西国へ落ちるべきではない」といて拒んだ、と。
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栃木~茨城の伝承に拠れば、貞能は重盛の叔母・妙雲禅尼と重盛の妻・得律禅尼を伴い、朝綱の家臣・塩原家忠の配慮を受けて草庵を結び定住した。建久五年(1194)に妙雲禅尼が没すると塩原の谷あいに甘露山妙雲寺(地図)を建立、九重塔を建てて弔い重盛の念持仏を納めて供養を営んだ。その後に塩原を離れ現在の益子町大平に移住した。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 7月5日 】  貞能が出頭した前年の夏、伊勢平氏の残党による大規模な反乱が勃発。
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大内惟義 の飛脚が鎌倉に到着、去る七日に伊賀国で平家一党の襲撃があり多数の家人が殺されたと報告、鎌倉中が騒がしくなった。
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  ※伊勢平氏の乱: 平家物語が「三日平氏の乱」 と書いた蜂起。平家の都落ち後も出自の地である伊賀国と伊勢国(三重県+愛知と岐阜の一部を含む)には残存勢力があり、
伊賀では 平家継(平家一の郎党 平家貞 の長男で 貞能の兄)が、伊勢では平信兼(山木兼隆の父)が蜂起して、これらを完全に鎮圧・討伐するまでに約一ヶ月を要した。京都に近いため、平家の勢力復活を恐れた朝廷は大混乱に陥った、と伝わる。
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【 玉葉 元暦元年(1184) 7月8日 】
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伊賀国と伊勢国で謀反の情報あり。伊賀は 大内惟義 の知行国で郎従の多くが居住しており、昨日の辰の刻(朝8時前後)に家継法師(平家郎従 平田入道と称す)を大将軍として大内の郎従を悉く討ち取った。伊勢国では元・和泉守信兼が鈴鹿山を封鎖して同じく反乱、このため院は大騒ぎになった。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月2日 】
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大内惟義の飛脚第二便が到着。去る19日酉の刻(18時前後)に平家残党と合戦し討ち破った。討ち取った者は90余人で、そのうち首謀者は富田進士家助・前兵衛尉家能・家清入道・平田太郎家継入道らである。前出羽守信兼(頼朝が緒戦で討った 山木判官兼隆 の父親)の息子らと 忠清法師 らは山に逃げ込んだ。佐々木源三秀能(秀義) と 五郎義清 も共に戦ったが、秀能は平家に討ち取られた。惟義は前回敗れた恥辱を雪いだ、恩賞に値するのではないか、と言っている。
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  ※乱の鎮圧: 7月19日に近江大原荘 (長浜市) で勝利。源氏も数百騎を失い 佐々木秀義 が討死。義経 は8月10日に信兼の息子三人を六条室町亭に呼び集めて殺し (謀殺か)
その後に伊勢国滝野(松阪市飯高町)で残党100騎を追討した。この中に信兼もいたと推測される。

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左:白雲山普明院小松寺 重盛夫妻の墓所      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 平家物語 巻第七 聖主臨幸の一部 】
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畠山庄司重能重忠の父) と 小山田別当有重(重能の弟) と 宇都宮左衛門尉朝綱八田知家 の兄)は頼朝が挙兵した治承四年から平家一門が都落ちした現在まで幽閉されていた。本来であればこの時に斬られる筈だったが、新中納言平知盛 が棟梁の 宗盛に申し出た。
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「彼らの百人千人の首を斬っても運が尽きれば昔の繁栄を取り戻すことはできません。故郷に残した妻子や家の子郎党を悲しませるだけですから是非とも放免してやって下さい。もし平家の運勢が好転して都に戻れたら助命した事が情け深い行為として残るでしょう。」
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そう言われた宗盛も「それならば許す、すぐ東国へ去れ」と命じた。三人は涙を流して喜び、「生きる値打ちもない命を救って頂いた、これからは野の果てや山奥までもお供して忠義を尽くします」と申し出た。
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宗盛は「お前らの魂は既に東国にある。抜け殻だけを西国に伴っても無意味だから急いで東国へ下れ」と命じた。20年以上も仕えた主人なので別離の涙は抑えられないものだった。
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平貞能清盛重盛 の二代に仕えた平家の忠臣。父の家貞は忠盛と清盛の二代に仕えて「平家一の郎党」(愚管抄)と称された武者で、伊賀国鞆田荘を本領とした。家貞は平家最盛期の仁安二年(1167年・清盛50歳の頃)に死没、嫡子の家貞と二男貞能は伊賀を本拠として勢力を蓄え清盛に仕えた。
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九州鎮圧から戻った貞能は京都での抗戦を主張するが容れられず、重盛の墓を掘り起こして周辺の土を鴨川に流し遺骨を高野山に納め、同年10月に平家一門が九州から追われるまで行動を共にした後に戦線を離脱し行方不明となった。その後は宇都宮氏の保護を受けて那須塩原に住み、妙雲禅尼の死去後に常陸国(現在の城里町)の寺に重盛夫妻の遺骨を納め、隣接する益子の安善寺で余生を送った、という次第である。
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  ※伊賀国鞆田荘: 現在の伊賀市友田地区(地図)。当初は湯船荘(西側の湯舟地区)と共に東大寺領だったが平家が進出して長く争いになり、平家の都落ちに伴って
後白河院 の裁定を受け東大寺領に戻ったという経緯がある。

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右:貞能関連で、安善寺に近い宇都宮一族の廟所      画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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一方で寿永二年(1183)7月の義仲入京に際して貞能の兄 家継 は都落ちに同行せず、元暦元年(1184)7月に平家残党を糾合して大規模な決起(伊勢平氏の乱、三日平氏の乱とも)を起こし、奮戦の後に敗死した。
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なぜか同じ名前で呼ばれている「三日平氏の乱」は元久元年(1204)にも勃発しているが、組織的な合戦としては元暦元年 (1184) の事件が平家一門として最後の蜂起となった。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月3日 】
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大内惟義 の使者を呼び詳細の手紙を与えた。その内容は、逆徒を討ったのは褒められるが恩賞の求めは慮外である。守護に任じた者は反乱を鎮圧するのも業務であり、先日は逆徒に家人を殺された。これは然るべき準備をしなかった落ち度に起因する。
賞罰に関して口を出す筋合いではない、と。
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また使者の 安達新三郎を京の 九郎義経 に向けて派遣し、今回の兵乱は信兼親子が首魁だから早く探し出して殺せと命じた。
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  ※安達新三郎: 名は清常、頼朝の雑色(下級家臣)。徐々に頭角を現して幕府の官吏として働いた。二年後の文治二年(1186)7月29日には頼朝の命令を受け
白拍子 静 が産んだ男子(義経の子)を奪い由比ガ浜に沈めて殺す任務を実行している。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月6日 】
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頼朝源範頼足利義兼武田有義千葉常胤 ら主だった御家人を招集した。平家討伐のため西国に向かう出陣の宴である。終了の際、各自に駿馬を一頭づつ与えた。中でも範頼が受け取ったのは秘蔵の名馬で、甲冑一領も添えられた。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月8日 】
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午の刻(正午前後)に 参河守範頼 が平家追討使として西国に出発した。旗持ちと弓袋持ちが先頭に並び、続いて範頼(小具足を着け栗毛に乗馬)、これに続く千騎は 北條義時足利義兼武田有義千葉常胤境(千葉)平次常秀三浦義澄と息子の 義村八田知家 と息子の (小田)朝重葛西清重長沼(小山)宗政結城朝光 ・ 藤原朝宗(常陸入道念西) ・ 比企能員・阿曽沼廣綱 ・ 和田義盛と息子の義成と義胤 ・ 大和田義成 ・ 安西景益と息子の明景 ・ 大河戸廣行と息子の三郎 ・ 中條家長工藤祐経宇佐美三郎祐茂天野遠景 ・ 小野寺道綱 ・ 一品房昌寛 ・ 土佐房昌俊。頼朝は稲瀬河近くに造った桟敷でこれを見物した。
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  ※小具足: 甲冑や袖具を除いた防具で喉輪・籠手・腰刀・脛当てなどの総称。
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  ※北條義時: 軍勢の冒頭に義時を書くのは権力者に媚びる吾妻鏡の本質を物語る。義時は若干21歳だが他は全て歴戦の武将で、最も若い武田有義が
推定30歳、足利義兼は47歳・三浦義澄は57歳・千葉常胤に至っては66歳の老将で、本来なら彼らが先に挙げるべき人物だ。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月17日 】
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九郎義経の使者が到着。去る6日に左衛門少尉への任官と検非違使を務めよとの宣旨を受けた。所望したのではなく、数々の勲功を放置できぬとの事で固辞できなかった、との報告である。これは著しく頼朝の機嫌を搊ねた。範頼や義信らの任官は頼朝の推挙に拠るものであり、九郎義経の任官については妥当性を疑う意見があったため推薦しなかったのに勝手に所望したのではないか、指示に叛くのは今回に限らない、と考えた。これによって平家追討使への任命を見送る結果となった。
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  ※検非違使任官: 従来は義経の勝手な所望によると考えられていたが、現在は伊勢平氏の乱に危機感を強めた朝廷が検非違使に任じて京の治安維持に専念させる思惑があった、
と考える説が有力。翌年2月26日に院の近臣・大蔵卿藤原泰経が渡辺津まで出向き、屋島に向けて出陣する義経の制止を試みたのもその流れだろう。結果として頼朝との溝が深まったし、瑣末な事件に猜疑心を強めた頼朝が文治五年(1189)に義経を、嘉応二年(1193)に範頼を殺す事によって子孫を庇護してくれる筈の近親者を失なった側面もある。
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  ※頼朝の機嫌: 義経が富士川合戦後の黄瀬川で頼朝に合流した一年後の養和元年(1181)7月20日、八幡宮社殿の上棟式で「大工の棟梁に与える馬の手綱を引け」と
命じた頼朝の言葉に義経が「身分の低い者の仕事」との言葉を返した事件が最初のトラブルだった。
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頼朝には(当時の通念として)弟でもも家臣に過ぎないと徹底させる意図があり、義経にはそれを忖度する能力がなかった。頼朝の強い口調に怯えた義経が服従して事態は落ち着いたが、義経はこの教訓を活かさなかった。弟は処遇に不満を持ち、兄は弟の態度に不満を募らせる。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 9月12日 】
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   範頼の使者が到着。先月27日に入洛、29日に追討使の官符を受け9月1日に西海へ出陣する、と。

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右:平泉の金鶏山麓に残る伝・郷御前母子の墓石   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 9月14日 】  突然ですが、同じ頃に頼朝の意向で義経が婚姻。
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河越重頼の娘義経 に嫁すため上洛した。これは兼ねてから 頼朝 の意向に従って約束していた婚姻で、上洛には家の子2人と郎従30余人が従った。
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  ※河越重頼の娘: 義経の正室とされる郷御前(17歳、京姫とも)。後に女子を産み、平泉で悲劇を迎える。
藤原泰衡 の兵に攻められた義経は妻と娘を刺し殺してから自刃した。
事件に至る経緯と現地の詳細は平泉高館 伝・九郎義経自刃の地(別窓)に記述してある。
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  ※家の子と郎従: 平安時代末期~鎌倉時代初期の「家の子」は嫡子の弟や庶子を含む血縁者、郎従と郎党はその他の家臣。
東国武家社会での嫡子はほぼ絶対的な存在で、嫡子以外は当主に許されて分家するか、家臣として嫡男に従うのが通例である。 文治元年 (1185) 11月には頼朝と義経の関係が険悪になり、義経の舅である河越重頼と嫡子の重房までが追討されてしまう。
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本領の河越荘は後家(比企の尼 の二女で 頼家の乳母の一人)が継承した。同様に重頼の娘を妻にしていた 下河辺政義 まで失脚(こちらは後に復権)するほどだったから頼朝の (八つ当たりじみた) 憎しみはかなり激しかった。
秩父一族の棟梁を表す河越重頼の名誉職「武蔵国留守所総検校職」を継承した 畠山重忠 も元久二年(1205)6月に謀反の冤罪で討伐され、関連して榛谷重朝稲毛重成 も粛清、更に 北條時政 夫妻も失脚して武蔵国の支配権は国司となった 北條義時 の独占となる。
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  【 玉葉 元暦元年(1184) 10月13日 】  これは誤報だと思うけど...
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     情報に拠れば長門国の源氏軍が平家に追い落とされ、平家の軍船5、6百隻が淡路に入った、と。

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左:佐々木盛綱が強行渡渉した倉敷市東粒浦の藤戸の瀬   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 12月7日 】  
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平家の左馬頭行盛は500余騎の軍兵を従えて備前兒島に布陣した。佐々木盛綱 が攻め落とそうとしたが波が高く、砂浜で待機した。行盛が挑発して招くため勇を奮って乗馬のまま郎従六騎(志賀九郎・熊谷四郎・高山三郎・與野太郎・橘三・橘五)を従え藤戸の瀬(300m余)に乗り入れて渡り切り行盛を追い落とした、と。
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  ※藤戸の瀬: 現在の倉敷市東粒浦(地図)で、当時の海岸線は現在の倉敷川河口から10kmも内陸側で、広大なエリアが湿地帯、
または入江の形状だった。源氏軍は約2km北の 法輪寺(紹介サイト・地図)に本陣を置き、平家は水辺から1km南の田槌神社付近(地図)に布陣した。
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地元の伝承に拠れば、盛綱は漁師を探して渡渉できる浅瀬を聞き出し、それが平家軍に漏れるのを警戒して漁師を殺した、と伝わる。
盛綱が渡渉する途中の中州で突き刺した鞭が根付いて大樹になったという「鞭木跡」、一番乗りが平家の陣に斬り込んだ「先陣庵」、戦勝後の盛綱が死者を弔って建立したと伝わる「藤戸寺」など、見所も点在する。行盛軍は殆ど抵抗せず、船で屋島に逃れた。屋島の平家本陣までは海路30kmほどだから藤戸エリアで本格的な合戦をする意図はなかったのかも知れない。現地の史跡については画像も含めて こちらのサイト に詳細が載っている。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月6日 】
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平家追討のため西海に進んだ鎌倉軍は軍船も兵糧の供給も途絶えたため戦えないとの情報が届き、船を用意して兵糧米を送るよう東国の各地に命令が下った。西国の軍にその旨を知らせる使者が出発する時に、去年9月2日に京を出て西海に入った 範頼 からの飛脚が到着した。兵糧がなくなって兵が団結心を失い大半が故郷に帰ろうとしている、と。他にも馬が足りない事と九州の情勢に関して報告があった。情勢が少し判明したので数名の使者に詳細の命令書を与えて派遣した。内容は次の通り。
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1.九州の武士に配慮して問題を起さず、降伏した者は丁重に扱え。 2.馬の不足は認めるが上洛を狙う平家に奪われる恐れがあるので送らない。
3.八嶋の安徳帝二位尼の安全にはくれぐれも慎重に配慮せよ。  4.宗盛は臆病な性格なので自害はしないから京へ連行せよ。
5.平家軍は既に弱体化しているが侮って油断してはならない。   6.東国の船は2月10日頃の出発予定で準備している。
7.鎌倉御家人に通達。代官として九州に参河守範頼・四国に九郎義経を派遣している。院宣を守り範頼に従って賊軍を追討し勲功の賞を全うせよ。

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右:平家の退路を遮断した範頼軍の動き   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月12日 】
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範頼 は周防国(山口県東南部)を経て赤間関(下関)に到着。彦島の平家攻撃のため渡海を計画したが食料も船もなく、数日の逗留を余儀なくされた。東国の兵は退屈して故郷を恋しがり、侍所別当の 和田義盛 さえ密かに鎌倉に帰ろうとする程だから他の御家人の状態もかなり酷い。しかし源氏に味方する豊後国(大分県)の住人臼杵次郎惟隆と弟の 緒方三郎惟栄 が提供する船で豊後国に渡り、南に迂回して博多の津を攻める協議がまとまり、範頼は今日周防国に帰陣した。
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範頼軍は現在の下関市一帯を含む長門国(山口県)近くまで制圧していたのだから敢えて九州に渡らず、南西の(陸続きに近い)彦島に拠点を構えている知盛軍を攻撃すれば早いと思うのだが...
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強力な水軍を擁する平家側の動きに不安があった事と、平家が九州の武士と提携する恐れがあった事、そして補給に不安があったため自重したのだろう。結果として3月24日の壇ノ浦合戦は義経軍と平家軍の正面対決となり、周防国と豊後国を押さえ退路を塞いだ範頼軍が平家を滅亡に導く側面援助を果たすことになる。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月26日 】
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惟隆兄弟らは範頼の指示に従い82艘の軍船を提供、また周防国宇佐郡の住人木上七遠隆が兵糧米を献上し、これにより範頼は船で豊後国に渡った。
共に渡海した者...北條義時足利義兼小山朝政長沼宗政結城朝光武田有義・齋院(官職)次官中原親能千葉秀胤 と 境常秀下河辺行平 と 政能、浅沼廣綱・三浦義澄義村八田知家知重葛西清重渋谷重国高重比企朝宗能員和田義盛と宗實と義胤・大多和義成・安西景益と明景・大河戸廣行と中條三郎家長加藤景廉工藤祐経宇佐美祐茂天野遠景一品房昌寛・土左房昌俊・小野寺道綱。
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中でも 千葉常胤 は老齢(満67歳)をものともせず風波に耐えて進み渡り、加藤景廉も病身を忘れ従った。下河辺行平は食料が尽きたため甲冑を売って小舟を買い真っ先に漕ぎ出した。人は「甲冑を着け大将軍と共に戦場に向うべき」と言ったが行平は「元より命は惜しくないから甲冑はなくても自由に動ける舟で一番乗りを目指す」と。範頼は「周防国は西に大宰府と接し東は京に近い。ここを拠点にして京と関東に連絡しつつ戦略を立てよとの命令である。従って精兵に周防国を守らせたいが適任は誰か」と。千葉常胤が「三浦義澄が強い兵を多くを従えている」と答えたため義澄にその旨を指示したが、義澄は「ここに留まっては功績を挙げられない」と渋った。勇敢な部隊を選んでの頼みであると説得した結果、義澄は承諾して軍陣を砂州に構えた。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月1日 】
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範頼が北條義時・下河辺行平・渋谷重国・品河三郎らを先頭にして豊後国に渡った。今日、筑前の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町一帯 (地図)で太宰少貳種直と息子の賀摩兵衛尉らの軍と遭遇し合戦となった。重国が駆け回って彼らを射殺し、行平が美気三郎敦種を討ち取った。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月13日 】
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石和信光 の書状が伊豆狩野に滞在している頼朝の元に届いて曰く、平家追討のため長門国に入ったが深刻な飢饉のため兵糧が確保できず、安芸(広島)への撤退を検討中、舟がないため九州への進軍もできない」と。頼朝は「大切な時期だから撤退は許さぬ、九州を攻める必要はないから、まず四国に渡って平家を攻撃せよ」と命じた。
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  ※伊豆狩野に滞在: 吾妻鏡に拠れば、頼朝は「新たに建造する伽藍の用材検分のため12日に鎌倉を出発し狩野山に赴いた」と書いている。
伊豆狩野川流域は古来から材木の供給地で、川を塞き止めてから一気に丸太を流す運搬方法も頻繁に行われ、山の中に「筏端」などの地名も残っている。
狩野山とは特定の山を差すのではなく「狩野川中流域から上流域の山地」を意味している。
前年の11月26日には 勝長寿院(別窓)の地曳始(地鎮祭)を行っており、この用材の調達を確認する目的か。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月14日 】
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周防国に居た時の 範頼 に対して 頼朝 が「土肥實平 および 梶原景時 と打ち合わせて、九州の武士を味方に加えよ。彼らが従うようなら九州へ入り、情勢が悪ければ九州勢と戦う必要はないから四国の平家を攻めよ。」との指示を行なっていた。今日1月6日付の範頼書状が届き、苦しい状況を告げてきた。
頼朝は視察中の伊豆狩野から返信を送り、「今撤退したらこれまでの苦労が無駄になる、食料は送るから到着を待て。平家の方は故郷を離れてもなお戦う意欲を保っているのに追討使が志を失ってはならない。」と叱咤した。

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左:義経は荒天の渡辺津から阿波椿浦を経て屋島へ   画像をクリック→ 詳細ページへ
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月16日 】
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関東の軍兵は平家追討のため讃岐国を目指して出航する。九郎義経 が出陣する様子を見るため、昨日から義経の宿舎に留まっていた大蔵卿藤原泰経が義経に面会し「私に兵法は判らないが、大将軍は先陣を競わず最初に次将を派遣するのではないか」と諌めた。
義経は「思うところがあり、常に先陣で命を捨てようと考えている」と答えた。
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平家は 宗盛 が讃岐国屋嶋に本陣を置き、二ヶ所に軍勢を配置している。知盛 は九州の兵を従えて門司関を固め、彦島に本営を構えて源氏を待ち構えている。
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今日の 頼朝 は藍澤原範頼 宛に追加の書状を送った。同時に 北條義時中原親能比企能員 らにも「平家を征するまで心を合せよ」と書き送った。
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寿永三年(1184)2月7日に一ノ谷合戦で惨敗した平家軍は陣容を整え、強力な水軍を整備して讃岐国屋島(高松市)に築いた内裏を本拠とし、長門国(山口県)最西端の彦島に知盛の軍を配して瀬戸内海の制海権を握っていた。平家の軍事力は一ノ谷合戦以前よりは衰退したが、鎌倉勢は水軍を持たなかったため屋島と彦島を攻めきれず、膠着状態が約一年続いた。翌・寿永四年(1185)2月になって渡辺党の水軍と熊野別当の率いる熊野水軍と 河野通信 の率いる伊予水軍を加えて戦力が充実した義経は渡辺津(淀川河口)に兵を集結させ屋島攻略をスタートさせた。
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  ※藤原泰経: 義経を訪問したのは平家の逆襲を恐れた 後白河法皇 の意を汲んだもの。伊勢平氏の乱(元暦元年(1184)7月)の勃発にショックを受けた後白河は直ちに
後白河は直ちに義経を左衛門少尉・検非違使に任じる宣旨を発行し京都防衛を命じた。範頼に対する頼朝の指示は「安徳帝と三種の神器の確保を優先して長期戦に備えよ」だったが平家の反攻を恐れた後白河が屋島攻撃を求め、更に藤原泰経の思惑も加わって状況が錯綜し、結果として鎌倉の思惑に反した義経の屋島攻撃となった。独断の任官+勝手な出撃+景時の誹謗中傷=頼朝が激怒した、との図式だ。
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  ※藍澤原: この地名は数ヶ所あるが二日前の頼朝が狩野川にいたのを考えると藍沢五卿神社のある 足柄峠(共に別窓)の西麓と考えるのが妥当か。
36年後の承久三年(1221)7月に承久の乱首謀者の一人中納言藤原宗行が 小山朝長朝政 の嫡子)に斬首されている。

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右:建礼門院徳子の画像  京都 長楽寺(公式サイト)収蔵   画像をクリック→ 拡大表示
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黄台山長楽寺は延暦24年(805)に桓武天皇の勅命を受けた伝教大師 最澄 が開いた古刹で、歴代天皇の帰依を受け天台宗の勅願寺として繁栄した。鎌倉時代初期に浄土宗、室町時代に時宗(開祖は 一遍上人)に改めている。
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壇ノ浦での入水後に救い上げられた 建礼門院徳子 は縁の深い長楽寺に入り5月1日に出家、と伝わっている。死没は建保元年 (1214) だが肖像は「源氏の目を憚って墨で塗り潰した」状態で、出家してから描くまでの年月が短かかった事を物語っている。
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剃髪後の建礼門院は大原の寂光院に入り、安徳天皇 と平家一門の菩提を弔って生涯を送っている。長楽寺の建礼門院画像は不定期公開だが、今回は絵葉書から転載しておいた。
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  ※筆者より: 大原に隠棲してからの建礼門院についても書こうと思っていたが、冗長になる危惧があるため割愛する。
皆様には古文と現代語を対比させたテキストをお薦めしたい。私は 平家物語 原文・現代語訳・解説・朗読 を利用させて頂いている。例えば、朗読を聞きながら資料の整理などができるのは本当にありがたい。
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  ※肩が凝ったら: 息抜きには 壇ノ浦夜合戦記 を。頼山陽の著と言われるが、ほんとかな?
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【 玉葉 元暦二年(1185) 2月16日 】
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聞くところに拠れば、藤原泰経卿が使者として渡辺津に向った。これは洛中警護の武士が不在になるため義経の出陣を制止する目的だったが、義経は申し入れを拒否した。泰経はすでに公卿の立場、こんな小事のためにわざわざ義経の元に向うなど見苦しい事である。
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  ※渡辺津: 淀川河口の重要な港湾施設で渡辺党(綱、渡など代々摂津源氏の郎党)がこの地域を本拠にした。
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【 平家物語 第十一巻の一 逆櫓 】
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都を落ちてから月日は矢の様に流れて既に三年が過ぎた。一ノ谷を逃れ讃岐国屋島に渡った後も東国の軍勢数万騎が都から屋島に攻め寄せる、或いは鎮西の臼杵、杵築、松浦党などが加わって攻め寄せるなどの噂も聞こえる。そのたびに心を痛め落ち着くことがない。
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女院(安徳帝生母の建礼門院徳子)、北の政所(清盛の六女で近衛基通正室)、二位の尼(清盛正室の 時子)らの女房も次はどんな悪い噂を聞くのか、辛い目に遭うのかと、顔を合わせては慰めあう有様である。新中納言 知盛 卿も「長く恩顧を受けた筈の東国・北国の武士も約定を破り、頼朝や義仲に寝返った。西国は離反せずと考え都で決戦をと思ったが私だけでは決められず、結局は都を捨て今の状況に陥ったのは何とも口惜しい事だ」と嘆いた。
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義経 は2月3日に都を出発し、摂津国渡辺と福島(渡辺津の5km下流)の両方で軍船を揃え屋島を攻めようとした。兄の 範頼 も同じ日に都を出て摂津神埼(淀川西岸の河尻泊)で軍船を集め、山陽道に向かう予定である。義経は2月10日に戦勝祈願のため伊勢神宮と石清水八幡宮に官幣使を派遣し、安徳天皇と三種の神器が無事に都に戻るように祈願せよ、と伝えた。軍勢は16日の出発を予定したが激しい北風による船の被害を修理の必要があり、この日の出発はできなかった。

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左:義経軍は椿浦に上陸して阿波国衙の田口成良を駆逐   画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の一 逆櫓 の続き 】
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渡辺津では諸将が集まり「我ら東国の武士は船の戦に慣れていない、どうするべきか」と話し合った。
梶原景時 が進み出て「軍船に逆櫓を備えるべき」と提案、義経 が「逆櫓とは何か」と訊ねた。「馬は自在に操れるが船は無理だ、船尾(艫櫓)に加えて舷側に脇舵を付ければ進退が自在になる」と答えた。
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義経は「合戦次第では退却も有り得るが、最初から逃げる算段をするのは出陣にとって不吉である。他の船に備えるのは勝手だが私の船には不要だ。」とした。景時は重ねて「優れた指揮官は進退を見極めながら戦って敵を滅ぼすもの、あなたの様に一方だけ見るのは猪武者の謗りを受ける」と。
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義経は「猪や鹿は知らず。戦とはひたすらに攻めて勝利を得るのが本来だ。」と反論して一触即発の雰囲気になったが、暫くしてやや落ち着いた。
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※逆櫓論争: 平家物語は逆櫓論争が景時の抱いた遺恨の一因と描いているが、対立を強調する創作だろう。逆櫓は壇ノ浦の様な混戦の場合は効果的だが、阿波への渡航は海戦を
伴わない軍船の単純な移動なので景時が逆櫓の装着を強く提案する必然性は乏しい。
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【 平家物語 第十一巻の一 逆櫓 の続き 】
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義経は武具や兵糧や馬を積み込み出発を命じた。船頭が「順風ですが強過ぎます、沖は更に激しいでしょう」と躊躇ったため「風が強くて海に出られないとは何事か。武士が野山に屍を晒し海川に溺れるのは前世の定め、向い風なら無理もないが順風なのに船を出さないなら射殺すぞ」と命じた。
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伊勢三郎義盛佐藤三郎継信・同じく四郎忠信・江田源三 ・熊井太郎武蔵坊弁慶 にも「従わなければ殺す」と脅されたため、200艘のうち義経の船と田代冠者信綱 の船、後藤兵衛尉実基の船、金子兄弟の船、淀忠利(船奉行)の5艘が出帆した。義経は「他の船が続かずとも気にするな、風波が荒い今こそ敵が油断している。わが船の艫の篝火だけを見て進め」と命じ、普通は三日の航程をわずか6時間で渡り切った。
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※渡航の所要時間: 吾妻鏡も平家物語も三日の航程を約4~6時間で渡ったと書いているが出発日か到着日の記載を一日間違えたとする説が有力。
直線で約100kmの距離を6時間で渡るのは物理的に不可能、24時間+4時間=28時間を要したのだろう、と。
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※江田源三: 名は広基、義経記と源平盛衰記には現れるが吾妻鏡には記載がない。相模国荏田郷(現在の横浜市青葉区)出身で弓の名手だったとの伝承がある。
この年の10月17日に起きた土佐坊昌俊の堀河夜討ちの際に討死している。
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※熊井太郎: 名は忠基、武蔵国比企郡熊井郷(現在の比企郡鳩山町)の出身で義経に従って奥州に逃げた後に鎌倉勢と戦って死んだと伝承がある。ただし出典の「清悦物語」は
義経殺害を公開した頼朝が梶原景時親子を斬首するという滅茶苦茶な筋立てなので全く信頼に値しない。
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※後藤実基: 元は 源義朝 の郎党で、平治の乱では長男 義平 に従って戦った 藤原秀郷 流北面の武士。義朝の没後は頼朝の同母妹・坊門姫(成長して一条能保室。
三代将軍実朝 の正室 坊門信子 とは別人)を養育した。頼朝挙兵後に養子の 基清 と共に参戦、屋島合戦では平家が軍船で海に逃げた後に館を焼き払い、(平家物語に拠れば)義経の問いに答え扇の的を射る適任者として 那須与一 を推挙している。
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※金子兄弟: 家忠と親範は武蔵国入間郡の武士で武蔵七党の一つ 村山党金子氏の一族。保元・平治の合戦を通じて源氏代々の郎党として転戦。頼朝挙兵直後は 畠山重忠 軍に
加わって三浦攻めに参加し、後に頼朝に従い鎌倉御家人として各地に所領を得た。

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右:徳島市国府町の光耀山観音寺(八十八霊場の十六番)   画像をクリック→ 拡大表示
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桓武天皇 の勅願により天平十三年(741)に創建。空海(諡を弘法大師)が安置した千手観音を本尊とする。この一帯に阿波国衙があり、義経が攻めた桜庭介良遠の館はこの付近(地図)と推定されている。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月18日 】
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九郎義経 は昨日渡辺津から出航しようとしたが、暴風雨のため船の多くが破損した。兵は一艘も船を出さなかったため義経は「朝敵と戦う追討使が少しでも遅れてはならない、風波の危険など考えるな」と命じ、丑の刻(午前2時前後)にまず5艘の船を出し、卯の刻(午前6時前後)に阿波国椿浦(徳島県阿南市)に到着し(通常は三日の航程)、150騎を率いて上陸した。
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地元の武士近藤七親家に案内させて屋嶋(屋島)を目指し、途中の桂浦で桜庭介良遠(散位成良の弟)を攻撃、良遠は館を捨てて逃げ去った。この夜、頼朝は伊豆から鎌倉に戻った。
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  ※桜庭介良遠: 四国の有力豪族・田口散位成良の弟。近縁の桜間外記大夫良連の養子となって阿波の国衙(地図)に近い桜間郷の一帯を支配した。
つまり勝浦は、義経が攻撃した良遠の館「桂浦」(吉野川の渡船場か?)を指しており国府跡の北側には今も桜間の地名が残っている。
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  ※田口成良: 別称を阿波民部大夫重能、阿波と讃岐を支配して早くから 清盛 に臣従し、大輪田泊の築港奉行を務め日宋貿易にも貢献したと伝わる。
一ノ谷および屋島では平家に与して戦ったが、壇ノ浦合戦の最中に軍船300艘で源氏に寝返り、勝敗の帰趨に決定的な役割を演じた。
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【 平家物語 第十一巻の二 勝浦合戦 】
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夜明けの渚には平家の赤旗が少しあるだけだった。義経は「浜に近づいてから馬を降ろすと射掛けられるから早めに泳がせて足が立つ深さになったら跨れ」と命じ50余騎が突撃、200騎ほどの敵兵は耐えきれず200mほど退却した。義経は 伊勢義盛 に敵兵一人の捕獲を命じ、捕らえた近藤六親家から近くの柵を阿波民部重能の弟桜間介能遠が守兵と聞き出した。近藤六親家の兵から30騎程を選び味方に加えて能遠の陣に攻め寄せ、敵兵は少々の抗戦を見せただけで能遠は逃亡、緒戦は縁起の良い勝ち戦となった。
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一ノ谷合戦から壇ノ浦での平家滅亡までの記述は吾妻鏡と平家物語の間に微妙な差があって面白い。原文を正確に読み比べればどちらが元本なのか判断できるかも知れないが、残念ながら古文(平家物語)にも漢文(吾妻鏡)にも読解力が不足してるので、今更ながら研鑽の必要性を痛感している。

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左:義経の進軍ルート 大坂越え~屋島まで   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月19日 】
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九郎義経は夜を徹して阿波と讃岐の国境の中山(大坂越え)を過ぎ、辰の刻(午前8時)に屋嶋に構えた内裏対岸に着いて民家を焼き払った。これを見た 安徳帝 と一族を率いて船に逃れた。義経は 田代信綱 ・金子家忠と余一則・ 伊勢義盛(義盛)らを率いて渚に駆け付け、船上の平家と矢戦を交わした。
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この間に 佐藤継信忠信・後藤實基と 基清 らが内裏と宗盛の宿舎などに放火して焼き払った。
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これに対して平家側の越中盛継・上総忠光 らが下船して布陣し、義経の家臣 佐藤継信 が射殺された。義経はとても悲しみ、一人の僧を招いて千株松の根元に葬り院から拝領し戦場で跨っていた名馬(名は大夫黒)を僧に与えて菩提を弔わせた。これは部下を思う美談として人の噂となった。
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吾妻鏡による屋島合戦の描写は2月19日の短い文章だけで何とも物足りないが、一ノ谷合戦に較べれば実際にはそれ程の激戦ではなかった、と思われる。屋島までのルートを確認すると...上陸地点の椿浦~52km~阿波国府の桂浦(勝浦)~22km~阿波讃岐の国境大坂越え~10km~引田~5km~白鳥~6km~丹生~22km~屋島となる。
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全体の距離は120kmほど、正確な所要時間は判らないが国府の占領まで一日、屋島到着までプラス二日程度だろうか。引田から屋島までは33kmだから、引田で4時(平家物語)に休憩して屋島に8時(平家物語)到着という経過は理屈に合っている。
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【 平家物語 第十一巻の三 大坂越え 】
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義経はまた近藤六親家を呼んで屋島の防御体制を尋ねた。親家は「四国の各地に50~100騎を配置し、更に(主力の)阿波民部重能の嫡子田内教能(田口成良)は伊予の 河野四郎通信 を討つため3000余騎で出陣しています」と答えた。
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絶好の機会と考えた義経は屋島まで二日の距離を確認し、休憩を挟みつつ阿波と讃岐の国境大坂越えを徹夜で行軍。その夜に都の女房から屋島の大臣(宗盛)宛の書状を持つ使者を捕らえて「九郎義経は勇猛機敏だから風雨を衝いて出陣するかも知れません、充分ご注意を」との内容を確認した。
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翌18日寅の刻(早朝4時前後)に讃岐国引田で休憩し、白鳥・丹生屋を経て屋島を目指し、再び親家を呼んで「引き潮の屋島と陸地の間は浅瀬となり、馬の腹を濡らす深さもありません」と確認した。義経は奇襲と決め、大軍の襲撃と偽るため高松の民家に放火し屋島の平家陣に攻め込んだ。
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  ※高松の民家: 現在の高松市街ではなく、入り江奥の現在の高松町、「義経鞍掛け松」から「菜切り地蔵」(下記の史跡地図を参照)一帯だろう。

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右:屋島の源平合戦場の鳥瞰   画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の三 大坂越え の続き 】
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一方で伊予に向った田内教能は 河野通信 に逃げられたため敵兵150人ほどを殺し首を持ち帰った。「内裏での首実検は不可」とされたため大臣(宗盛)の宿舎で実施中に高松での火災報告があった。
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これは大軍が攻め寄せたのだろうと考え、急いで総門前に係留していた軍船に乗り込み、女院・北の政所・二位尼や女房の御座船と共に沖に逃れた。攻め寄せた源氏軍7、80騎は引き潮となっていた総門前の渚に乗り入れ、大軍に見せるために数騎づつ駆け込んで波しぶきを立てた。
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平家物語にある通り当時の屋島は入り江と相引川で陸地と切り離され「干潮なら馬の腹を濡らさない1m未満」の深さだった。義経軍は南側の最も浅い地点を渡河し、平家軍は防戦しつつ船で逃れた。点在する史跡は史実と創作が混在し、冷静な分別が必要となる。
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【 平家物語 第十一巻の四 継信最期 】
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渚に押し寄せた 九郎義経田代信綱 ・ 金子家忠と親範 ・ 伊勢義盛 ・ 後藤実基と 基清佐藤継信忠信 ・ 江田源三 ・ 熊井太郎 ・ 武蔵坊弁慶 らが次々と名乗りを挙げた。平家は船から遠矢を射るなどしたが損害を与える程ではない。古参の後藤実基は渚の戦いを避け内裏に放火して焼き払った。
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寄せ手が寡兵なのを知った 宗盛能登守教経 に反撃を命じ、これに応じて越中盛継を先頭に500余人が小舟を焼け落ちた総門前の渚に乗り付けて布陣、互いに罵り合った末に金子与一親範が十二束の矢で越中盛継の胸板を貫き、本格的な戦いとなった。
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能登守教経は船の舳先に立ち、都で随一と噂の高い強弓で義経を狙ったが、側近が馬を並べて塞ぐため狙いが定まらない。やむを得ず源氏の鎧武者十騎ほどを射落とし、中でも先頭にいた奥州の佐藤継信が左肩から右脇に射抜かれて落馬した。教経の近習童で剛力の菊王丸が首を獲ろうと駆け寄ったのを弟の忠信が射倒し、教経は左手に弓を持ち右手で菊王丸を舟に投げ込んだが深手のため絶命、教経はこれを哀れに思って合戦を切り上げた。
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落馬した継信の最期を看取った義経の方も悲しみは深かった。近隣で探し出した僧に継信の後生を弔うよう依頼して大夫黒という名の名馬を寄進した。これは一の谷裏手の鵯越を共に駆け下った馬である。継信の弟忠信をはじめ多くの武者は「この殿のためなら命も惜しくない」と語り合い、涙を流した。


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左:屋島の史跡&伝承地の地図     画像をクリック→ 拡大表示
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吾妻鏡は 能登守教経 を「一ノ谷合戦で討死」と書いており、都大路を引き廻された平家諸将の首級の中に含んでいる。ただし京では教経の首は偽者との噂があり(損傷が激しかったか)、これが教経生存→ 屋島で奮戦→ 壇ノ浦で義経を追い回し壮絶な最期を遂げた挿話に繋がったのだろう。一ノ谷合戦の戦死と捕虜は以下の通り。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月7日から一部を抜粋】
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薩摩守忠度・若狭守経俊・武蔵守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の七人は範頼と義経の軍勢が、但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は遠江守安田義定の軍勢が討ち取った。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月13日】
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平氏諸将の首(通盛・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊)は義経の六條室町邸に集められ、八條河原に向った。大夫判官仲頼らがこれを受け取ってそれぞれ長鉾の先に付け、名を記した赤札を付けて獄門の樹に懸け、見物する者が市をなした、と。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月15日】
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範頼と義経の飛脚が鎌倉に到着し合戦の報告を提出。去る7日一ノ谷合戦で平家の多くが命を落した。宗盛は船で四国に逃げ延びたが三位中将重衡を捕らえ、通盛・忠度・経俊・師盛・教経・敦盛・知章・業盛・盛俊を討ち取り1000余人を梟首した、と。

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右:入り江の奥、州崎寺の佐藤継信慰霊墓     画像をクリック→ 拡大表示
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屋島の史跡は平家物語から推量した後付けの物が多いため著しく信頼性に欠けるし、実際に信じられるのは安徳天皇社・総門跡・瓜生が丘・六万寺など数ヶ所だろう。史跡地図を追って北西から並べてみた。
それぞれのスポットをクリックすると豊富な画像が閲覧できる。
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    佐藤継信碑・・・彼を武士道の鑑と考えた初代高松藩主松平頼重が屋島寺遍路道に碑を建立した。
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    安徳天皇社・・・一ノ谷から屋島に逃げた宗盛が安徳帝の仮御所として造営した行宮の跡と伝わる。
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    菊王丸の墓・・・忠信に射殺された菊王丸の死を哀れんだ教経が亡骸をこの地に葬った。
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    赤牛崎・・・敵陣に攻め込む源氏軍が浅瀬を確認するために数十頭の牛を川に追い込んだ場所。
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    義経鞍掛け松・・・義経が軍を整え、外した鞍をこの松に掛けて休息したと伝わる。
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    菜切り地蔵・・・合戦の間に弁慶が地蔵を俎板にして野菜を切って汁を作った。刀傷があるという。
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    長刀泉・・・海辺が近いため水質が悪く、野営の際に弁慶が長刀で井戸を掘り清潔な水を得た。
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    瓜生が丘・・・源氏が本陣を置いた場所。宇龍ヶ岡の別名がある。
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    継信の墓・・・義経が建立した墓。菩提を弔った志度寺の覚阿上人に与えた大夫黒の墓が隣接する。
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    総門跡・・・安徳帝が約1km東の六万寺を行在所にしていた頃に平家が設置した海辺の防御拠点。
    射落畑・・・義経を庇って教経の矢を受けた佐藤継信が落馬し息を引き取った場所。
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    六万寺・・・一ノ谷から逃れて来た平家が新たに安徳天皇の内裏を建造するまでの間、この寺を仮の行在所とした。
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    義経弓流し跡・・・持っていた弓を海に落した義経が弓の弱さを敵に知られるのを恥じて拾い上げたという、有名なエピソードが残る。
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    洲崎寺・・・源氏が合戦の負傷者を収容した寺で、継信の菩提寺でもある。継信の遺骸はこの寺の門板で本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれた。
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    景清錣引・・・平家一の強豪悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が組み合い、景清が逃げる十郎の錣(首を覆う兜の裾)をら掴み素手で引きちぎった。
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    祈り岩・・・命令を受けて扇の的に相対した那須与一は足場を定めてからこの岩に向い、八幡大菩薩の加護を祈った。
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    駒立岩・・・那須与一が扇を射る時に海中のこの岩に馬を止めて足場を安定させたと伝わる。

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左:屋島の合戦 扇を射抜く那須与一 (平家物語絵巻)   画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の五 那須与一 】
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阿波と讃岐では源氏に寝返る武士が増えて義経勢は300騎ほどになった。日暮れ近付いたため両軍が兵を引いた所へ沖から小舟が漕ぎ寄せ、渚から七、八段(80mほど)まで漕ぎ寄せて横に向いた。
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船には18、9歳の着飾った女房が日の出を描いた扇を船の横板に挟んで手招きをしている。義経 が後藤実基に訊ねると「これを射て見せよ、との意味なのでしょう」と答えた。
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手練れは誰かと問うと、下野国の住人那須太郎資高の末子・与一宗高が適任と答えたため早速に呼び寄せて扇を射落とす命令を下した。与一は暫く躊躇った末に10mほど海に乗り入れ、神仏に祈った後に見事に射落とした。敵も味方も感動してどよめいた。
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ここまでは兎も角...平家の舟では50歳ほどの鎧武者が白柄の薙刀を持って舞い始めた。与一の見事な弓射に感動したのだろうが義経はこれを侮辱と受け取lり、伊勢三郎義盛 を介して「仕留めよ」と命じた。射られた武者は舟底に転げ落ちて絶命、一瞬の静寂を経て両軍の乱戦を招いてしまう。
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那須与一(妻は新田義重 の娘)が父の資隆から那須氏の二代当主を継承して同名の資隆を名乗り、「飛び立った山鳥を三回に二回は射止める」ほどの弓の名手として名を馳せたのは事実らしいのだが、吾妻鏡には与一の名が一言も載っていないのが面白い。
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10人の兄のうち十男の為隆を除く9人は平家に味方し、残った為隆も罪人になったため十一男ながら家督を継承した、と伝わる。源平合戦の勲功によって五ヶ国に領地(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)を得た。そして逃亡していた兄の赦免を願い所領を分与して一族を繁栄に導いたと伝わるが、この勲功が扇の的を射落とした事と関係があるか否かも確認できない。70mの距離で20cmほどの的を一発で射抜くのが和弓で可能か、或いは平家物語の創作なのか、それも含めて、与一と扇の的に関しては余りにも疑問が多すぎる。

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右:一族を守護する那須神社と、大田原市福原の玄性寺    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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曹洞宗・須峯山玄性寺(地図)は那須一族の菩提寺で、棟梁は初代の資隆から末子の 那須与一(宗隆・後に父と同名の資隆に改名)が継承した。兄の全員が平家に味方して失脚したためで、与一は子がないまま出家し兄(五男)の資之が三代目を継承した。更に資之の息子は既に他家の養子に入っていたため後継者がなく、資之は 宇都宮朝綱 の二男頼資を養子に迎え娘と娶わせて家を継がせていた。
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資之は京都東山の 即成院(公式サイト)に葬られていた与一の遺骨を分骨して功照院を建立したが永正十一年(1514)に廃寺となり、天正十八年に那須藩主となった那須資景が玄性寺の名で再建した。資景は早世した息子資重の法名・玄性を転用したらしい。
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与一の墓は玄性寺と即成院の他に所領の備中荏原荘(井原市西江原町)や病死の地とされる神戸市須磨区の北向八幡宮(与一の守護神)西側にも残る。有名人の常か(笑)。
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その後の平家物語は、的を掲げた船で舞い始めた武者(与一の腕前を賞賛した)を与一が射殺したり、上陸した平家の豪傑 悪七兵衛景清 と美尾屋十郎の組み打ちや源氏騎馬武者の攻撃や 義経 の弓流しの描写などが続く。これは全てフィクションと考えて良い。
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やがて平家の軍船は沖に去り、不眠不休の三日を過ごした源氏の兵も8mほどの高みに設けた本陣に引き上げて休息した。昨日は阿波上陸の直後に勝浦で合戦して夜通しの行軍を続け、今日もまた一日中の合戦で疲れ切っていた。義経と伊勢義盛の二人は徹夜で警戒していたが、平家軍が夜討ちを決行したら源氏の惨敗となったのに、平家の越中次郎兵衛と海老次郎が先陣争いをしている間に夜明けとなって勝機を失ってしまった、と書いている。

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左:参考に、安徳帝の一時的な行在所となった六萬寺     画像をクリック→ 拡大表示
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一ノ谷で敗れて屋島に落ち延びた 宗盛 は直ちに内裏の建設に着手しただろうから、安徳天皇 母子と女官たちが三種の神器と共に 六萬寺(公式サイト)で暮したのは数ヶ月程度に過ぎない。天平二年(730)に聖武天皇の意向を受けて讃岐国主が建立した古刹にもかかわらず長く無住が続いて荒廃していた寺で、収蔵する寺宝の大部分は香川県立ミュージアム(公式サイト)に寄託している。
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こうして屋島での源平合戦は幕を閉じ、平家は内裏を捨てて船に乗り海上に逃れた。義経の奇襲を受けた割には死傷者も少なく、主力の水軍もまだ温存されている。歴史に「もしも」は無意味だけれど、渡辺津から遅れて出航した源氏の軍船200艘が連携していたら逃げ場のない平家軍は壇ノ浦以前に滅亡した可能性が高い。
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吾妻鏡は「7日後の22日に 梶原景時 ら東国の兵が140艘で屋嶋の磯に到着」と書き、平家物語は「後続の200艘が屋島の磯に到着したのは22日辰の刻(朝8時前後)、今ごろ到着して何の役に立つか、と嘲笑を受けた」と書いている。
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  ※源氏の本陣: 小規模な衝突があった渚から約1km東の瓜生が丘(地図)と推定されている。標高は4~5mほど。
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  ※越中次郎兵衛: 一ノ谷で猪俣範綱に騙し討ちされた平盛俊の次男盛嗣。父と同じく平家に忠節を尽し、水島合戦では 木曽義仲軍に加わった足利義清 (足利義兼 の異母兄) を
討つなど各地を転戦、壇ノ浦合戦を逃れ9年後の建久五年(1194)に捕縛され由比ガ浜で斬首となった。
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  ※記述の信憑性: 朝6時に阿波椿浦に上陸、地元の平家側豪族と小競り合いした後に50km北上して敵将桜庭介良遠の館を落した。
それから徹夜で行軍し、翌朝8時に良遠館から120km西の屋島南側に布陣した事になる。数度の合戦をしながら約26時間で170km離れた屋島に着き本格的な合戦...物理的に無理だと思うけど。

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右:続く志度合戦の舞台となった補陀洛山清浄光院志度寺   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月21日 】
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平家の残兵が讃岐国の志度寺(公式サイト・地図)に籠ったため義経は80騎で攻撃、田内左衛門尉は降伏した。また 河野通信 が軍船30艘を整えて軍陣に加わった。熊野別当の 湛増が源氏に加わるため出航との噂が京に届いたため、義経は(打ち合わせのため)阿波国に移動した。
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【 平家物語 第十一巻の七 志度合戦 】
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屋島の沖に停泊した平家の軍船は夜明けと共に東側の志度浦へと船を進めた。九郎義経 の率いる80余騎が陸上を追尾しているのを見た平家軍は源氏の兵が思ったよりも少ないと知って1000人ほどが上陸し取り囲んで討ち取ろうと考えた。そこへ屋島に残っていた200余騎が遅れて駆け付けたため、大軍が合流すると勘違いした平家軍は包囲されるのを恐れて全員が船に戻った。こうして平家の一行が風に揺られ潮に流されて西(彦島・壇ノ浦の方向)に漂っていくのは何とも哀れである。
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義経は志度寺で首実検を済ませ、伊勢義盛 を使者として派遣し、伊予遠征から帰還した平家方の田口左衛門教能に 「安徳帝は海上に逃げ宗盛は捕虜、主な将士は全て討ち取った。あなたの叔父桜間の介は桂浦で討ち取り、父の阿波民部重能も降伏して身柄を確保している。これ以上の抵抗は無意味だから降伏するべき」と騙して手勢3000騎と共に降伏させた。平家累代の臣である阿波民部重能が平家を見捨て、壇ノ浦合戦で300艘の軍船と共に源氏に寝返ったのは息子の教能を義経が確保していたのが伏線だった、と伝わっている。
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志度寺は四国八十八ヶ所霊場の86番、推古天皇三十三年(625)創建の四国でも屈指の古刹である。海人族(wiki)の凡園子が霊木を刻んで十一面観音像を彫り修行の場としたのが最初で、藤原鎌足の息子不比等が妻の墓を建立し志度道場とした。平賀源内(wiki)が産まれた地としても名高い。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月29日 】
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加藤景員入道 が御所に参上、一通の書状を御前に置き涙を流した。息子の 景廉が範頼に従って九州に転戦している。先月周防国から舟で豊後国に渡る際には病に耐えて従った、と伝えてきたのがこの書状である。主君のため戦場で死の危険に耐え、今また病に侵されて命を落とそうとしている。もう逢えないかと思うと老いた自分には生きる甲斐がない、と。頼朝も涙を拭いながら書状に目を通し、「側近として私の近くに控えるよう厳命したのに天下の大事だからと従軍した。例え病気で命を落としても戦った末の討死として扱おう。」と語った。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月8日 】
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西国から 義経 の飛脚が到着して曰く。先月17日に僅か150騎を率いて暴風の中を渡辺津から船出して翌日卯の刻に阿波国に着き合戦を遂げた。平家の兵は討死あるいは逃亡し、義経は19日に屋嶋に向かった。使者はその結果を待たずに出発したが、播磨国(兵庫県)まで来て振り返ると屋嶋の方角で黒煙が空を覆っていたので、合戦が終り内裏などが焼き払われたに違いない、と。

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左:西側の高松港から見た屋島の全景     画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月9日 】
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範頼 が西海からの書状で報告。平家の拠点が近いため警戒しながら豊後国に着くと住民が悉く離散して兵糧が確保できず、和田義盛 兄弟 ・大多和義久 ・ 工藤祐経 らが関東へ帰ろうとするのを無理に制して共に海を渡った。
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再度命令を徹底させて欲しい。また熊野別当 湛増 が九郎義経に誘われ追討使に加わって讃岐国に入り、今また九州へ向うとの情報がある。四国は義経で九州は範頼が指揮する筈なのに、これでは面目を失い恥辱を受ける事になる、と。
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一ノ谷合戦で敗れた後に平家は軍勢を二つに分け、棟梁の宗盛安徳天皇 を擁して屋島に防御の柵を構えた。弟の 知盛 は長門国(山口県西部)最南端の彦島を拠点に関門海峡を固め、範頼軍の侵攻を阻止していた。指導者としての資質に欠けた宗盛ではなく知盛が指揮官だったら平家の運命も...とも思うが、義仲に都を追われた時点で滅亡への道を歩み始めていたのだろう。
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ともあれ、屋島を放棄した宗盛は残った水軍を再編成し、安徳天皇と三種の神器を奉じて彦島の知盛軍に合流した。一方の義経軍は 河野通信 率いる伊予水軍を傘下に収め戦力を強化して彦島を目指し、範頼軍は補給の不足に苦しみながらも九州の東部一帯を確保して平家の退路を遮断した。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月11日 】
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頼朝範頼 への返書を発送。湛増が九州に向かう事実はない旨を記載して、関東の御家人を労わり配慮せよと命じた。千葉常胤 は老骨に鞭打って遠征に耐えているのは殊勝だから特に配慮せよ、常胤には生涯を掛けて報いるほどの恩義がある、と。
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また 北條義時小山朝政宗政中原親能葛西清重加藤景廉工藤祐経宇佐美祐茂天野遠景仁田忠常比企朝宗能員 の12人には特に慇懃に労う書状を送った。それぞれが西海で功績を挙げているためである。心を合わせて豊後国に渡ったのは立派であり、伊豆と駿河などの御家人も皆この趣旨を理解するように、と。


 その拾参 壇ノ浦の合戦 平家一門の滅亡 
 

右:厳島神社を含む島全体が神域とされる安芸の宮島   画像をクリック→ 拡大表示
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讃岐国屋島と長門国彦島の距離は海路で約400km、ほぼ中間の宮島に厳島神社(公式サイト)がある。
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創建は明日香に都があった時代の推古天皇元年(593)、仁安三年(1168)には 清盛 が社殿を造営して現在の規模と概ね同程度に整備した。宮島全体が神域とされる、平家一門の守護神社である。
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平家が滅びた後も源氏を含む権力者の崇敬を受けたが、建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度に亘って焼失した。現在残っている社殿は清盛が整備した時代ではなく鎌倉時代中期の仁治年間(1240~1243)以後に建立されたもの。
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宗盛 の軍船は彦島(地図)の 知盛 軍と合流するルートを辿っており、玉葉も 「屋島を逃れた宗盛一行の船が厳島に入った」 と書いているから、厳島神社で一門の復権を祈願したのだろう。伊予水軍と熊野水軍の影と山陽道を占領している源氏軍の姿に怯えながらの逃避行で、繁栄の頂点を極めた10年前には想像も出来なかった姿は何とも哀れ、ではある。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月12日 】
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平家討伐軍補給のため伊豆の鯉名(小稲・地図)と妻良(地図) の船32艘に兵糧米を積み込んだ
頼朝 から至急に出航せよとの命令を受けた藤原俊兼(筑後権守、初期の頼朝祐筆)がこれを奉行した。
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  ※西国の補給: 以前から 範頼 軍の窮状を把握していたのに、壇ノ浦決戦の10日前に補給船の出航とは如何にも遅い。当時の航海技術では早くても一ヶ月、兵は空腹のまま
殺し合う。平家の滅亡は確定的で、既に頼朝の関心は 義経 の処遇と 勝長寿院(別窓、元暦元年(1184)11月着工、翌五年10月竣工)の建立にあった。権力確立に伴って不遇の時代を忘れ他者への配慮を忘れるのは世の常か。
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【 玉葉 元暦二年(1185) 3月16日 】
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伝わる処に拠れば、讃岐国に留まっていた平家は九郎義経の襲撃を受け、戦わずに撤退して安芸国厳島に入った。総勢は僅かに100艘ほど、(屋島で敗れたにも拘らず)神鏡と劔璽は都に戻っていないため、近日中に(無事に戻るよう)祈祷が行われる。
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  ※神鏡と劔璽: 神話の 天孫降臨 (wiki) 時代から天皇家の継承と伝わる三種の神器である。八咫鏡 (神鏡) 、天叢雲剣と八尺瓊勾玉 (二つで劔璽) で、即位の際に引き継ぐ事が
正統を証する要件となる。従って退位していない 安徳天皇 と神器が都にない状態で 後白河法皇 が強引に着位させた 後鳥羽天皇 は正しい手順を経ておらず、万世一系とは言えない。どのみち天叢雲剣は壇ノ浦で失われてしまうのだけれど、それ以上に後鳥羽には「正当な手順を踏まずに着位した帝」のトラウマを抱えたままの後半生になる。
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後日の話。後鳥羽上皇が抱いていた正統性についてのコンプレックスが権威の強化を急ぐ願望を招き、結果として承久の乱(1221)を引き起こすに至った、と考える説がある。これは、有り得るだろうね。特に官軍が崩壊した際には部下を見捨てて助命を願った癖に、処分が隠岐島流罪に決まった途端に元気を取り戻して、  我こそは 新じまもりよ 沖の海の あらき浪かぜ 心してふけ と詠んでいる。
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「新じま守」は新しい島の神、「沖の海」は隠岐の海を差す。軽薄で愚かな帝だが、「波と風よ、新しい島守を優しく迎えてくれ」と哀願する歌、と考える説もある。いずれにしろ鎌倉時代前後では 後白河後鳥羽後醍醐 が歴史に汚点を刻んだ帝、だ。だろう。

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左:「壇ノ浦古戦場跡」から関門橋を。左側は門司市   画像をクリック→ 拡大表示
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【 玉葉  元暦二年(1185) 3月17日 】
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伝わる処に拠れば、平家は備前小島(児島半島沖・地図)あるいは伊予五々島(松山市沖・地図) に留まっていると。九州勢300艘が合流したとも言うが真偽は不明である。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月21日 】
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九郎義経 は平家を攻めるため壇ノ浦に出発しようとしたが雨のため延期した。周防国の在庁官人で舟船奉行の船所五郎正利が数十艘を提供し、義経は所領を安堵し鎌倉御家人に列すると指示した。
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平家物語に拠れば「3月27日の卯の刻(朝6時前後)に豊前国田ノ浦(田野浦沖)・門司の関・長門国壇ノ浦赤間関で矢合せ (開戦)」と定めた。源氏の軍船は3000余艘で平家は1000余艘、増え続ける源氏の兵力に対して平家の勢いは衰退が止まらなかった。
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一方で源氏の軍陣では九郎義経と 梶原景時 が先陣を巡って激しい口論を交わし、双方の郎党が太刀に手を掛けて睨み合って 三浦義澄土肥實平 が制止しなければ斬り合いも辞さない有様に発展した。この時から二人の関係は更に悪化し、後に景時が頼朝に讒言を繰り返す状態になり、義経が失脚・殺害される結果を招いた。」と書いている。
吾妻鏡に拠れば、矢合せは3月24日である。
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【 平家物語 第十一巻の八 壇ノ浦合戦 】
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屋島で勝った義経は周防(山口県東部)に進出して兄の 三河守範頼と合流した。平家は長門国の彦島に本陣を置き、源氏は同国の追津(満珠島)に布陣した。また平家に重恩を受けた熊野別当の 湛増 は平家と源氏のどちらに味方するか迷った末に熊野新宮に七日間参籠し、「白旗に従え」との神託を得た。更に迷って神前で白い鶏と赤い鶏各七羽を戦わせると全て白い鶏が勝ち、源氏に味方しようと決めた。湛増は200余艘の軍船に一門2000余人を載せて壇ノ浦に漕ぎ寄せ、更に伊予国の 河野通信 も150艘に兵を乗せて源氏側に味方したため、平家の落胆は激しかった。
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2月21日の志度合戦から3月中旬までの義経の動向は記録にないが、平家側豪族の切り崩しを図っていたらしく、周防の大内盛房(周防権介、本拠は防府市)と長門の厚東武光(長門守護、本拠は棚井(宇部市))などが立場を「平家軍に参加する」から「源氏を消極的に支援する」に変えている。
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加えて四国随一の平家郎党・阿波民部大夫重能も(志度合戦で捕虜になった息子の影響で)軍船300艘と共に源氏に寝返っており、趨勢は明らかに源氏優位に展開していた。平家は軍船を田野浦の沖に、源氏は約5km北東の千珠島と萬珠島の付近に集めて定刻に矢戦を交わし、 (公称で) 軍船1,300艘+軍兵10.000人が狭い海峡で殺し合う。
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  ※民部重能の裏切り: 平家物語に拠れば、重能の態度を怪しんだ 知盛 が斬ろうとしたが、宗盛 は彼を信じて斬るのを許さなかった、と書いている。
重能の大型軍船(唐船)に雑人を乗せて高位の武者を装い、これを狙って集まった源氏の武者を取り囲んで討ち取る作戦を立てていたのだが、重能の裏切りによって計画が漏れてしまった、助命を悔やんでも取り返せないことである。

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右:源平合戦の舞台となった彦島から満珠島まで   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月22日 】
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義経 は数十艘を従えて壇ノ浦を目指し出航。昨日から全船を調べて軍兵の配置などを確認した。
これを聞いた 三浦義澄 は駐屯していた大島津から義経の本隊に合流、義経は門司海峡を通った経験のある義澄に案内を務めよと命じ、壇ノ浦の奥津付近(平家の陣から約3km)に進出した。
これを確認した平家は彦島を出航して赤間関を過ぎ、田ノ浦の沖に船を進めた。
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  ※大島津: 山口県大島町小松の港で源氏が集結した萬珠島の東約80km。
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  ※彦島: 瀬戸内の制海権を握って宋との交易を進めた 清盛 が西の拠点とし、知盛 も一門最後の拠点にした。源平時代の史跡は
ほぼ皆無で、僅かに合戦前に砦を築いたと伝わる場所や知盛が父のために建てたと伝わる 清盛塚 (関連サイト・地図)が残る。車両は不可。
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平家の大将軍知盛は軍船を三つに分けて山鹿勢500艘を先陣に、松浦勢300艘を中堅に、安徳天皇や平家一門の非戦闘員を載せた200艘を後詰めとして田野浦から源氏の船団に迫った。平家物語は開戦を卯の刻(朝6時前後)、「玉葉」は「午の正刻(正午)に始まり申の刻(16時前後)に終った」とする。
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一般的には「東に流れる潮に乗った平家の軍船が攻め掛かり、やがて潮流が西向きに変ったため源氏が有利になった」としているが、元暦二年3月27日(西暦の4月28日)は小潮で、正午から16時の潮流は0.2~0.6ノット(1ノットの時速は約1.8km)、多数の舟による乱戦に影響するレベルではない。
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そもそも潮流の向きなどに関係なく、主な敗因は阿波民部大夫らの裏切りによる戦力の差と戦闘意欲の差、そして女子供を含む非戦闘員を戦場に帯同した平家軍の機動力欠如、などだろう。平家の中でも歴戦の武者は既に死を覚悟して合戦に臨んでいた、そんな様子も見て取れる。特に一ノ谷で多くの侍大将クラスを失ったのが致命的だ。
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  ※潮流影響説: 大正八年(1919)に東大の黒板勝美教授が独自の研究に基づき「早い潮流が源氏有利に働いた」とする説を発表したのが最初。
現代ではコンピュータを活用した計算により「当日は流速の遅い小潮説」が主流になっているらしい。

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左:長府漁港に近い豊功神社から見る千珠島と萬珠島   画像をクリック→ 拡大表示
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やがて潮が変わって西向きに流れ、戦いの修羅場は田野浦から壇ノ浦へと移り始めた。一説には「平家側の漕ぎ手に矢を浴びせた義経 の作戦勝ちとされるが、真偽を裏付ける資料は存在しない。周防と豊後の海岸を源氏に制圧されている平家軍は劣勢になっても陸に逃げられず、絶望的な抵抗を続けるのみ。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月24日 】
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長門国赤間関の壇ノ浦海上の約300mを隔てて源平が相対した。平家は500余艘を三手に分け山峨兵籐次秀遠と松浦党らを大将軍にして開戦、午刻(正午前後)になって平家の敗色が濃くなった。
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藤重の御衣を纏った 二品禅尼(清盛室・時子)は宝劔(天叢雲剣)を持ち、女官の按察局は安徳帝(八歳)を抱いて入水し海底に沈んだ。入水した 建礼門院(安徳帝の生母・清盛の娘徳子)と按察局は渡辺党の源五馬允が熊手で救い上げたが、安徳帝と二品禅尼はついに浮かび上がらなかった。
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若宮(土御門天皇の異母兄)は存命、前中納言 教盛 は入水、前参議経盛は成仏を願い陸で出家後に船に戻り入水、三位中将資盛と前少将有盛も海に没した。宗盛 と清宗親子は 伊勢三郎能盛が捕えた。
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  ※漕ぎ手を射る: 当時の合戦では馬や非戦闘員を故意に狙うのは卑劣で恥とされた。確かに義経なら躊躇せず採用しそうな戦法だけど...。
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  ※山峨秀遠: 一般的には「山鹿」を用いている。筑前国遠賀郡(福岡県北東部)を支配していた武士で平家物語は「九州一の精兵」としている。
義仲に追われて都落ちした平家一門も一時期は山鹿城(地図)に入り、周辺の情勢が落ち着かないため再び海に逃れている。
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  ※松浦党: 摂津源氏一族として 頼政に従った渡辺党から分れ、肥前松浦(長崎県松浦郡)に勢力を広げた一族。元は平家の郎党だったが、壇ノ浦では多くが源氏に味方して
功績を挙げ、一部が平家に加わったらしい。戦後は鎌倉御家人とて遇されたが深い信頼は受けられず、頼朝が送り込んだ少弐氏・島津氏・大友氏らの支配下に組み込まれた。鎌倉時代末期の元寇では蒙古軍に蹂躙され最も多くの犠牲を出した一族、と伝わる。
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【 平家物語 第十一巻の十 先帝身投げ 】  もう狂気の世界...安徳天皇まで殺す必要はなかったのに。
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勝敗が明らかになるにつれて源氏の兵士が平家の軍船に乗り込み漕ぎ手を殺したため船は潮のまま流されるようになった。知盛 は小舟を御座船に漕ぎ寄せて「合戦は終わろうとしています、見苦しい物は海に投げ込みなさい」と命じて自分でも片付け始めた。女房たちが合戦の様子を尋ねると「まもなく珍しい東男を見ることになるでしょう」と笑って答えたため女房らは嘆き騒いだ。
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既に覚悟を決めた 二位尼時子 は神璽を脇に挟んで宝剣を腰に差し 安徳帝 を抱いて「敵の手に落ちず帝のお供をします、同じ思いの者は続きなさい」と船端に歩いた。八歳の帝が「尼よ、私をどこへ連れて行くのか」と訊ねると落涙し「前世の善行で帝に産まれましたが悪縁が重なり御運が尽きました、東に向いて伊勢神宮にお暇してから西に向いて西方浄土のお迎えを願ってお念仏を。」と語り掛け、「波の底にも都がございます」と慰めて海に沈んだ。

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右:壇ノ浦史跡公園 義経八艘飛びの銅像   画像をクリック→ 詳細ページへ
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【平家物語 第十一巻の十一 能登殿最期】
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女院 (建礼門院徳子) は帝の入水を見て硯や焼き石(暖房用)を懐に入れ海に身を投げた。渡辺源五右馬允昵が小舟を漕ぎ寄せ、髪を熊手に掛けて引き上げた。一緒にいた大納言典侍局(重衡 の妻で安徳帝の乳母)は内侍所(三種の神器の一つ・神鏡)の唐櫃を抱えて入水しようとしたが取り押さえられた。
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中納言 教盛 と修理太夫経盛の兄弟は手を組み合せ鎧の上から碇を背負って海に飛び込み、三位中将資盛と弟の中将有盛と従兄弟の左馬頭行盛も同様に飛び込んだ。
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右大臣宗盛 と嫡子の右衛門督清宗は入水する様子も見せず、船縁で周囲を見回すだけだった。平家の武士は情けなく思って背後を走り抜けざま海に突き落とし、清宗も続いたのだが二人とも泳ぎの名手、泳ぎ回っているうちに 伊勢三郎義盛 が熊手に掛けて引き上げた。これを見た乳母子の飛騨三郎景経が義盛を討とうと近付き近習の童を殺したが逆に討ち取られてしまった。この無惨な有様を見た臆病な宗盛は何を思ったか。
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  ※名簿、他: 資盛と有盛は 重盛 の息子、行盛は重盛の弟で早世した基盛の息子。渡辺源五昵は渡辺党、この一族は一条戻り橋(地図
晴明神社の近く)で鬼の腕を斬り落した綱や宇治川で 頼政 を介錯した唱など、一字の名前が特徴だ。
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渡辺昵が建礼門院徳子を救い上げたと書いた平家物語は 「灌頂 巻四 六道之沙汰」 では、大原の庵を訪ねた法皇と面談した徳子は次の様に語っている。
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壇ノ浦で二位尼は次のように言い残しました。「縁者が生き残っても私の後生を弔うとも思えない。合戦では女を殺さない決まりだから貴女は生き延びて
安徳帝と私たちの後生を弔うように」、と。
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「先帝身投げ」が正しいのか、「六道之沙汰」」が正しいのかは不明だが、「六道之沙汰」は「死に切れなかった言い訳」に聞こえるね。二位尼がそんな言葉を残せるほど冷静だったら、安徳帝を道連れに入水などしなかっただろうが、壇ノ浦の建礼門院を揶揄する傾向は昔からあったらしい。明治維新以前には「不敬罪」なんて誰も考えなかったからね。代表的なのは壇ノ浦夜合戦記、古典春本の一つで 「頼山陽の著」というのは嘘らしいが、興味のある方はどうぞ。
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壇ノ浦史跡公園の銅像は組み討ちを迫る平家の猛者 教経 から逃げる 義経 の姿を模しているが、吾妻鏡は「教経は一ノ谷で討死」と記録し、都大路を引き回した平家の首級リストにも加筆されている。義経は小柄だが五条大橋で 鬼の弁慶 を翻弄するほど敏捷、次々と近くの舟に飛び移って教経を振り切った...屋島の「弓流し」挿話と同じく軍記物語の筆は留まるところを知らない。
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能登守教経は今日を限りと奮戦を続け多くの武者を倒した。矢が尽きると両手に黒漆の大太刀と白柄の長刀を持って敵兵をなぎ倒し続けた。知盛が使者を送って「罪作りをなさるな、それとも良き敵にでも出会ったか」と訊ねたため「雑兵を殺さず大将と組み合えという意味だな」と散々に探し回り、遂に九郎義経の船を見付けて接近した。すぐに飛び掛かったが、義経は敵わないと思ったのか長刀を抱えて二丈(6m)ほど離れた味方の船に飛び移った。
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無念これまでかと思った教経は太刀と長刀を海に投げ、兜や鎧の袖も捨てて仁王立ちになり「我と思わん者は組め、鎌倉の 頼朝 に言う事がある」と叫んだ。余りの強さに誰も近付かなかったが、土佐の住人で安芸郷を領有する安芸実康の子・実光という剛勇の武士が弟と郎党の三人で飛び掛かった。教経はまず郎党を海に投げ込み、太郎実光を左脇に弟の次郎を右脇に抱えて「汝ら、死出の旅路の供をせよ」と海に飛び込んだ。生年26歳である。

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左:壇ノ浦史跡公園 歌舞伎が描いた碇知盛の像   画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の十二 内侍所都入 】  内侍所は神鏡を置く場所、転じて神鏡を差す。
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中納言知盛 は「見るべき程のことは見た、今はただ自害を」と乳母子の伊賀平内左衛門を呼び、話し合っていた通り互いに二領の鎧を着け共に入水した。死骸を晒さない武者の心得である。
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知盛に従っていた20人の武者も続いて入水し、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛らは戦場を離れて落ち延びた。海には平家の赤旗などが散乱して嵐が吹き散らした紅葉のように見え、浜の白波まで薄紅色に染染まっている。乗り手を失った舟は潮と風に流され漂う様が何とも哀れである。
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捕虜となったのは内大臣 宗盛 と清宗と8歳になる能宗(兵部少輔雅明)の親子、大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐中将時実、僧侶は二位僧都專親、法勝寺執行能園、中能言律師忠快、経誦坊阿闍梨融園、武者は源太夫判官季貞、摂津判官盛澄、藤内左衛門尉信康、橘内左衛門尉季康、阿波民部重能父子ら38人、他に菊池次郎高直、原田太夫種直は合戦の前に武装を解いて降伏していた。捕らえられた女房は女院建礼門院、北の政所・大納言典侍殿、師典侍殿、冶部卿局ら43人だった。
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4月3日、九郎義経源八広綱 を通じて院の御所に「去る3月24日卯の刻に豊前国の田ノ浦・門司関・長門国・壇ノ浦赤間が関で平家を滅ぼしました。内侍所と神璽を恙無く都にお戻しします」と報告した。後白河法皇 はとても喜び、広綱を近くに召して合戦の様子を詳しく尋ね、感激して広綱を左兵衛に任じた。更に5日には内侍所と神璽を確認させるため判官信盛に院の馬を与えて西国に派遣した。
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義経は捕虜の男女を引き連れて都を目指し、17日には播磨国明石に着いた。女房たちが「都落ちの際にここを通った時はこんな境遇になろうとは夢にも思わなかった」と嘆き、九郎義経は勇猛な武士ではあるが女房の嘆く姿を見るのは何とも哀れに思われた。
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25日に内侍所と神璽が鳥羽に着き、内裏から中納言吉田経房、検非違使別当左衛門督実家、高倉宰相中将泰通、伊豆蔵人大夫源頼兼 、左衛門尉源有綱 らが迎えに出向き、子刻に太政官庁舎に運び入れた。宝剣は 安徳天皇 と共に沈んだが、海に浮かんだ神璽は片岡太郎経春が拾い上げていた。

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  ※北の政所: 清盛の六女完子(寛子)。摂関家 近衛基通 の正室となったが基通は平家都落ちに同行を拒み、後白河法皇の元に逃げていた。
 

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右:安徳天皇と平家一門の墓所 赤間神宮     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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赤間神宮(公式サイト)の由来に着いては諸説あり曖昧な部分も多いのだが、伝承に拠れば貞観元年(859)創建の浄土宗阿弥陀寺が原型らしい。敷地には宇佐八幡宮を勧請した神社も建ち、壇ノ浦合戦後に 安徳天皇 の遺体を紅石山の麓(赤間神宮の裏山)に葬っていた、という(遺体は発見できていないけどね)。
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建久二年(1191)12月14日に 後鳥羽天皇 の勅命を受けて陵墓の場所に御影堂を建立し、建礼門院 の乳母を務めた女の娘が剃髪して命阿尼を名乗って堂を守ったと伝わる。
その後は福原に残っていた安徳帝の十一面観音像、建礼門院の弥陀三尊、清盛 の弥陀三尊、重盛 の釈迦像などの持仏を遷して祀り勅願寺として大いに繁栄、江戸時代には真言宗に改め長府藩の扶持を受けて近隣随一の巨刹となった。
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    ※御影堂: 寺を開いた人物や宗派の祖などの姿を祀る堂。本願寺の 親鸞 、知恩院の 法然 などが著名。
日蓮宗では祖師堂と称している。
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明治の神仏分離令を受けて阿弥陀寺は廃寺となったが、御影堂解体の際に床下に埋もれていた五輪塔が確認され、これが明治二十二年(1889)の「擬陵」(正式な御陵に順ずる意味か)認定の根拠となったらしい。このときに阿弥陀寺は「天皇社」となり、更に明治八年(1875)10月になって「赤間宮」に改称、昭和十五年(1940)には「赤間神宮」に改称して現在に至るという、いろいろ複雑な歴史を辿っている。
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折に触れ全く個人的に考えるのは、平家は(少なくとも 知盛 は)彦島を出航する時点で滅亡を覚悟していた、と思う。安徳帝や女房を彦島に残せば機動性も増すし非戦闘員を危険に晒す心配もない。運良く勝利すれば凱旋できるし、全滅しても彦島に残った非戦闘員が殺戮に会う危惧はない...にも拘わらず、そうしなかった。
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壇ノ浦合戦は覚悟の滅亡だったのか、四面楚歌にも拘らず勝利を幻想していたのか、それとも狂気の為せる結果か。平家物語は 二位尼時子安徳天皇 の入水を恰も「滅びの美学」のように描いているが、幼い安徳帝と神器(その権威に関する議論は別として)を道連れにするのはまさに狂気の果て、だろう。

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左:平家の捕虜は小八葉の車で都大路の引き廻しへ。  画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の十四 一門大路渡 】
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平家に捕われ壇ノ浦で救出された守貞親王(高倉天皇の第二子で後の後高倉院)が迎えの車で都に戻った。嘆いていた生母の七條院藤原殖子や乳母の持明院宰相は大層な喜びようだった。
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平家の捕虜は26日に鳥羽に着き、その日に都大路を引き廻しとなった。前後の簾を巻き上げ左右の物見(窓)も開け放った小八葉の車である。 宗盛 は白色無紋の浄衣で潮風のためか痩せて顔色が悪く、誰も判別できない有様で四方を見渡し、物思いに耽る感じはなかった。息子の清宗は白い直垂を着て次の車に乗り、涙を流し顔も上げられない程だった。
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大納言時忠 卿の車もそれに続いたが、同様に引き廻す筈の讃岐中将 時日 卿は病気で加わらず、負傷していた内蔵頭信基は間道から都に入った。
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都大路引き廻しを見ようと大勢の見物人が集まった。下賎の男女も代々平家の恩を受けながら命を惜しんで源氏に味方した者も涙を流し、袖を顔に当て目を上げられない人も多かった。後白河法皇 は六条東に車を停めて眺め、付き従う公卿も車を停めて同じように眺めた。引き廻されているのは近くに召し使っていた人々であり、昔日の繁栄を思うと法皇も哀れに思う心を止められなかった。
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壇ノ浦で捕虜になった20数人の武士は全員が白い直垂を着て鞍の前輪に縛られて通り過ぎた。六条大路を河原まで進み、そこから引き返して六条堀河の九郎義経の宿舎に拘禁され厳しい監視下に置かれた。宗盛は供された食事に箸をつけることも出来ず夜には衣服の片袖を敷いて休み、子息の清宗に浄衣の袖を着せ掛けた。今更どうにもならないのだが身分の上下に関係なく、せめてもの親心であろうか。

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※小八葉の車: 花弁が八つある「八葉蓮華」の紋を付けた牛車。大型の紋は上位の公卿が、小型紋を付けた「小八葉」には下級貴族が乗る習慣だった。
上の画像は平治物語絵巻に載っている小八葉の車。
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元暦二年(1185)5月6日、宗盛・清宗の親子を鎌倉に連行する旨の指示があり、宗盛が愛していた次男の能宗(幼名を副将丸、7歳か8歳)が斬られた。平家物語は刑場の六条河原へ向かう車を宗盛が涙で見送った、と書いている。
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産後7日で死没した母親が「決して手元から離さないで」と言い残し、宗盛が「将来朝敵を討伐する事があれば清宗を大将、この子を副将に」と願って副将丸と名付け乳母にも預けず育てた子。処刑後には乳母の一人が副将丸の首を、もう一人が亡骸を抱いて桂川に身を投げた、と平家物語は伝えている。
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主だった捕虜の処分・・・
大納言時忠は能登流罪、内蔵頭信基は備後流罪、讃岐中将時実は上総流罪、二位僧都專親は阿波流罪、法勝寺執行能園は備後流罪、中納言律師忠快は武蔵流罪、源太夫判官季貞は赦免、摂津判官盛澄は不明。翌7日、宗盛親子は九郎義経に連行され粟田口を経て鎌倉に向かった。
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能登の山奥に残る 伝・時忠卿の墓(別窓)、関連して富士宮に近い芝川の山裾に残る 伝・維盛の墓(別窓)も参考に。

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 その拾四 義経と白拍子 静(しず)の物語 

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白拍子 静 に関するエピソードは、吾妻鏡の数ヶ所に載っている以外は全てが義経記(室町時代編纂)に書かれたもので、彼女が生きた時代の史料(例えば、公卿の日記など)には存在の記録が皆無である。従って義経記と吾妻鏡を照合しながら伝承で隙間を埋める作業を強いられるので、かなり手間が掛かる。
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寿永二年(1183)10月に 後白河法皇頼朝 の東国支配を認める宣旨を発行した。実質的に京を支配下に置いていた 木曽義仲 がこれに反発、義仲と頼朝の対立が決定的になった。頼朝は閏10月5日(太陽暦の11月28日)に大軍を率いて鎌倉を出陣するが京都の混乱状態を聞いて上洛を中止し、代官の 九郎義経 に兵を与え、中原親能(京の事情に詳しい御家人・文官)を添えて義仲討伐を命じた。「玉葉」が11月初旬に伝え聞いた噂を載せている。
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頼朝は先月の5日に鎌倉を出発して京を目指し、その途中で 頼盛 と落ち合って3日間過ごし、京の食糧事情が悪いのを知って鎌倉に引き返した。代官として弟の九郎に五千騎を与えて京を目指すらしいが、これは未確認である。
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  ※東国支配を認める宣旨: 頼朝が征夷大将軍に任じたのが建久三年(1192)7月から「いい国作ろう」と覚えた鎌倉幕府の創設は、最近の教科書では後白河法皇に守護と
地頭の設置を認めさせた「いい箱作ろう」(1185年・文治元年)になっているらしい。それなら東国支配を認める宣旨が発せられた「いいはみ(笑)」(1183)の方が妥当だと思うが...考えてみればどうでも良い事なんだよ、ね。歴史を読む本質は日付なんかじゃないから。
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実際に義経が率いていた兵力は玉葉の記載より遥かに少なかったらしい。義経軍はすぐには都に入らず、2ヶ月ほど援軍を待って兵力を増強した。翌年1月末には鎌倉から到着した 範頼 の軍勢が合流して攻撃を開始、瀬田と宇治で寡兵となった義仲軍を撃破し、近江の粟津ヶ原で義仲を討ち果たした。
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寿永三年(1184)2月7日には福原(神戸市長田区と須磨区)に布陣した平家軍を一ノ谷合戦で撃破し、屋島(高松市)に敗走させた。平家一門は翌年2月19日の屋島合戦と2月21日の志度合戦を経て長門国彦島(下関市・地図)に逃げ延びて本拠を置き、寿永四年(1185)3月24日の壇ノ浦で一族滅亡の時を迎えた。横暴だろうが腐敗だろうが、一門の滅亡は常に悲しみを伴う。
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  ※一ノ谷合戦の虚実: 合戦前日の2月6日、平家一門は清盛の三回忌法要を福原で営んだ。更に数日前には後白河法皇の勅使が平家の軍陣に到着、和平実現のためと称して
取り敢えずの停戦を命じ、平家側はこれを信じて警戒を緩めて結果的に侍大将クラスの多くを失う大敗を招いた。「武装解除に近い状態」と推測する説もあり、後白河が故意に流した虚偽情報と指摘する歴史家が多い。義経にはそれ程の悪智恵は働かないし鎌倉は遠すぎる、後白河の策謀だろう。
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宗盛は屋島から法皇に送った書状で 「休戦命令に従ったら奇襲されて多くの一門が殺された」 と抗議している。一ノ谷合戦後に後白河法皇が三種の神器返還を求めて平家側に派遣した使者が顔に焼印を捺されて追い返された(平家物語と山槐記の記述)のを考えると、宗盛の怒りが理解できる。

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左:義経が白拍子の静を見初めた神泉苑     画像をクリック→ 拡大表示
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一ノ谷合戦(1184年2月7日)と屋島合戦(1185年2月19日)の間には一年の膠着期間がある。
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平家が温存した水軍の主力に対して源氏側には水軍の備えが不足しており、屋島を攻めるには 河野通信 が率いる伊予水軍や熊野別当 湛増 が率いる熊野水軍を味方に引き込む準備期間が必要だった。義経は戦略の立案に秀でた側面も持っていたのが面白い。
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調略が成功して屋島攻撃に向かう一年前の寿永三年(1184)夏。長く日照りが続いたため、後白河法皇 は神泉苑に百人の僧を集めて祈祷させたが効果がなく、次に百人の美しい白拍子の舞で降雨を祈った。
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99人が舞い終わるまで澄み切った空には何の変化も起きず、最後に 静女 が舞い始めた途端に黒雲が湧き起こり三日間も雨が続いた、と伝わる。後白河法皇は「かの者は神の子か?」と深く感嘆し、褒美として蛙蟆龍(あまりょう)の御衣を与えた。
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一説には後白河が与えた御衣で舞った、とも言われるが、いずれにしろ平家物語や義経記の記述だから鵜呑みにはできない。しかしその後の静の生き様を見ると「ひょっとすると...」なんて思えてくるから面白い。
静女は生まれながらに水を司る龍神と心を通わせる能力を持っていた娘なのかも知れない、なんてね。
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  ※神泉苑: 御所の南西、現在の二条城(慶長八年(1603)築)の東半分を含む禁苑(宮中の庭園)で平安遷都と同じ時期の延暦十三年(794)に完成している。
当時は南北500m×東西240m(現在の地図)で主として宮廷の宴遊に利用され、天長元年(824)には西寺の守敏と東寺の 空海 が雨乞いを競って、空海が勝ったとされているが、これは後世の「弘法大師神話」らしい。東寺と西寺は祈雨を争うような存在ではないのだが西寺は天福元年 (1233) の火災で焼失して再建されず、東寺は密教の修行道場として隆盛を続け現在に至っている。それが「西寺が敗れて零落した」との説話になった、と。
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それは兎も角として、後白河が催した寿永三年の祈祷会はこの例に倣ったのだろう。敷地は狭くなったが神泉苑は今も真言宗寺院、南北100m×東西60mに広がる池と花が美しい京都の隠れた名所である。更に詳細は公式サイト で。
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  ※蛙蟆龍の御衣: 古代中国の想像上の動物で雨を司る幼い龍、あるいは最下位の龍とも言う。後白河が与えた「蛙蟆龍の御衣」は後に利根川近くの寺で没した静の遺品として
茨城県古河市の光了寺に残っている。一度訪問して拝観を頼んだが、寺の都合で断られてしまった。
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いずれにしろ撮影禁止だから、参考として流域の名所旧跡を紹介した安政二年(1855)編纂の利根川図誌の画像を後段の「栗橋の項」に掲載した。
このまま読み進んでも良いし、静の慰霊墓と遺品(別窓)を先読みしても問題ない。
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後白河法皇の求めで神泉苑の行事に参列した義経は白拍子・静(しず)の美しさが忘れられず、その夜に催した六条堀川館の宴に静を呼んだ。静の母は大和国磯野(大和高田市磯野)あるいは北白川あるいは讃岐国小磯(東かがわ市)出身の磯禅師。生業は同じ白拍子で、女たちの派遣業も営んでいたらしい(出典は貴嶺問答(外部リンク)。一説には法皇の寵愛を受けた女性だとも言われるが、そこまで盛っちゃうと捏造っぽくなる。
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後白河法皇は有り余る金と暇に任せて 梁塵秘抄 (wiki) を編纂した程の趣味人だから、白拍子と縁が深かったのも事実だろう。27歳の義経と15歳の白拍子・静の物語は雪の吉野山で別れるまで僅かに三年間、歴史に残る恋物語のスタートである。

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右:六条堀河館 名水・左女牛井(さめがい)の跡   画像をクリック→ 拡大表示
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一ノ谷で平家に大損害を与えた源氏は深追いせずに撤退、範頼 は鎌倉に凱旋し 義経 は京に駐屯して堀川館に本拠を置き、頼朝 の指示通り検非違使として神社仏閣の保護と治安維持に専念した。
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半年後の9月には頼朝の仲介を受けて婚約していた 河越重頼 の娘・郷御前(京姫)を正室に迎えており、白拍子の静と出会ったのはその2~3ヶ月前だった、らしい。
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  六条堀川館: 伝承に従えば、頼義 がここに住んで東に若宮(左女牛八幡宮・地図)を勧請したのが最初。
少し北側には頼義が前九年の役で殺した敵から切り取った片耳を乾燥させ、革籠に入れ持ち帰って埋葬した「耳能堂」があった(古事談・wiki による)。これは現在の簑和堂(地図)を差している、らしい。
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この館では 八幡太郎義家 が産まれも保元の乱では 為義 が、平治の乱では 義朝 がこの館から出陣した。頼朝の生誕地は熱田大宮司 藤原季範 の屋敷(京都)と 熱田神宮(別窓)に近い別邸の二説あって完全に確定はできないが、幼少期から平治の乱に出陣した14歳までは堀河館で暮らしていた。
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義朝が死んで河内源氏が衰退した25年後には再び河内源氏の 九郎義経 が住み、文治元年(1185)秋にはここで土佐坊昌俊率いる討手の襲撃を受けた。
ただし吾妻鏡は「六条室町邸」と書いており、堀河館とは別に室町邸があった可能性も捨てきれない。単純に考えると600mほど離れているのかなぁ...六条室町が襲撃されたのなら「堀河夜討ち」と呼ぶのは変だし。
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名水で名高い西隣の左女牛井(さめがい・跡地の地図)が堀川館に引き込まれていたと伝わるから、堀河館は左女牛井から若宮周辺の一帯にあったのは間違いない。ちなみに、平家一門の本拠は清盛邸のあった六波羅、鴨川の東・五条から七条にかけてのエリア(地図)。
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【 九郎義経の女性関係について 】
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義経記に拠れば、壇ノ浦で平家一門を滅ぼし都に凱旋して六条堀河館に住んだ頃の妻妾は何と24人で、頼朝 の討手を避けて摂津国大物浦(現在の尼崎市)から出航した船には6人の女房(女官)と5人の白拍子が乗っていたとか、京から逃げる途中では脱落する女性の各々には金品を与え身の振り方まで助言した、とか書いてある。軍記物が盛っているのを割り引いても、かなり貞操観念が乏しくてマメな男だったのが想像できる。
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正妻の 河越重頼娘 郷御前、平時忠の娘 蕨姫、白拍子の静。この三人は知られているが残りの詳細は判らない。義経を女性に好かれるタイプに描いた上に周囲に多くの女性を配したのは義経記による捏造の可能性が非常に高く、我々が先入観で描いているプロフィルそのものを疑う必要がある。出典は忘れたが「小男で反っ歯で薄毛」という評価もあったし...いや、モテ男に対する妬みとか、そういう気持ちじゃなくて、さ(笑)。
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義経に関する史料は非常に少なく、信頼に足る記録があるのは僅かに治承四年(1180)10月の黄瀬河参陣から元暦二年(1185)11月の京都脱出までの5年間に過ぎない。その史料に依拠する限り、無分別の謗りを免れない義経よりは誇り高い生き方を貫いた静に惹かれるのだが...。
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  ※義経記: 成立は義経の死から220年後の室町時代の初期。義経が誕生した平治の乱前後から奥州平泉の陥落までの活躍を描いている。
基本的には平家物語などをベースにしたフィクションで、読み物としては面白いが史料価値は低い。更には義経と 建礼門院徳子 の夜を無責任に描いた「壇ノ浦夜合戦記」(著者は頼山陽?塙保己一?)も派生している。興味がある向きは こちら、もちろん(笑)外部サイトだよ。
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  ※平時忠: 清盛 の正室(後妻) 時子 の同母弟で文官。壇ノ浦から京に連行され、検非違使の義経に娘を嫁がせて何とか庇護を得ようと考えたらしい。能登配流の決定後も
流刑地への出立が遅れ、義経に対する頼朝の不信を助長する結果となった。蕨姫は流罪に同行しなかったと思われるが、その後の消息は不明。

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左:河越氏の本拠と重頼の墓所 養壽院       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 義経の正妻郷御前と彼女の係累について 】
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義経の正妻は郷御前(京に嫁したので京姫とも)。頼朝の仲介で以前から婚約し、義経と静が出会う少し前に嫁している。武蔵国の古参御家人河越重頼の娘で、頼朝の乳母の一人 比企尼 の孫娘。嫁した当時は17歳、抜きん出た美女たった、と伝わっている。
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【 吾妻鏡 寿永三年(1184) 9月14日 】
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   頼朝の意向で義経と婚約中の河越重頼息女が血縁の家臣2人・郎党30余人と上洛した。
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一方の義経は埼玉の田舎娘より都会の女の華やかで洗練された物腰に心惹かれ(「木綿のハンカチーフ」っぽい、良くあるパターン)、重頼息女が上洛したのは新暦の10月20日だから、まさに1~2ヶ月前に白拍子静を側室に迎えたことになる。当時は既に数人の側室を持ち、その他にも京の女性との関わりを深めていたと義経記は語っているから、女癖が悪いのに女運が良かった、実に不愉快な男である。
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郷御前との婚約が成立した際には「御家人の娘を娶らなくても公卿の娘が選べるだろうに」との声や「鎌倉が送り込むスパイじゃないか」と疑って彼女を警戒する意見があった。もちろん従者の中に鎌倉と通じる者がいた可能性はあるが郷御前に二心はなく、追われる立場になった義経が彼女を離縁して関東に帰そうとした時も別離を拒み、結局は義経や愛娘と共に平泉で落命する運命を受け入れた。彼女との婚姻は頼朝が送った「無条件に私に従え」のサインだったかも知れない,ね。
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父の河越重頼は寿永元年(1182)の 頼家誕生に際しては妻(比企尼の次女)を乳母として勤めさせ、頼朝との縁を更に深めていた。伊豆に流されていた20年間、比企尼は三人の娘に命じて頼朝を庇護し生活を援助した。長女は 安達盛長、二女は河越重頼、三女は伊東祐清 に嫁して家族全員が忠節を尽くし、更に長女と二女は頼家の乳母を務めている。
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それなのに、義経失脚後の河越重頼は文治元年(1185)11月に義経の縁者という理由で所領没収のうえ長男の重房と共に殺され、義経と同じく河越氏の娘婿のだった 下河邊政義 まで連座して所領を没収されている。
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吾妻鏡は「河越重頼所領等被収公。是依爲義經縁者也。」(義経の縁者であるため所領を没収)としか書いていない。武蔵国の支配権が河越重頼の粛清を経て畠山氏に移り、元久二年(1205)の 畠山重忠 滅亡に伴って 北條義時 が武蔵守になった、その流れのベースかも知れない。或いは記録に載らない理由が他にあったか、それとも独裁者に芽生えた猜疑心が狂気に変り始めた兆候なのだろうか。
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川越市役所の駐車場は平日の短時間なら無料(窓口で駐車券にスタンプ)、休日は1時間200円の観光用となる。市の中心部には無料で利用できる駐車場は皆無に近い。裏技としては、市役所から600mほど東の 本丸御殿(博物館・本丸御殿・美術館・資料館・川越まつり会館の共通入館券=650円で終日駐車可)の駐車場(地図)か、更に200m先のJA直売所 あぐれっしゅ川越 の駐車場(地図・無料だけど買物をしよう)の利用を。
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川越の人気が高い割には余り面白い街ではないけれね(個人的感想)。 各スポットの地図は右記で。  養壽院  川越市役所 河越氏館跡 を参考に。
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奥州で 藤原秀衡 の庇護を受けていた頃の義経が最初に結婚して産まれた娘(年齢が符合しないため養女と思われる)の婿となった源有綱も、吉野山で義経と別れた後に 北條時定 の兵に追われ宇陀で自害に追い込まれた。有綱は 源三位頼政 の孫(伊豆守仲綱 の二男)であり、頼朝挙兵当初から参戦して平家追討にも功績のあった武士だが、頼朝は義経と縁があった者を誰一人見逃がさない。平家一門は同族を引き立て地位を独占した末に滅び、頼朝は同族を次々に殺して三代で滅びる...なんという空しい結末だろう。

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右:八幡宮上棟 ここでの教訓を生かせなかった義経の迂闊  画像をクリック→ 拡大表示
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遡って、頼朝挙兵の一年後。東国の支配者となった頼朝が義経に発した最初のメッセージが鶴岡八幡宮の本殿上棟式である。義経は腹違いの弟に対する頼朝の発言が持つ重要性を理解できなかった。吾妻鏡の小さな記事が二人の間に起きた諍いの芽を記録している。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 7月14日に改元して養和元年 7月20日 】
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鶴岡若宮の宝殿(本殿)の上棟式である。東の仮屋に 頼朝 が着座し、御家人がその前に控えた。
大工の棟梁に褒美の馬を与えるため 九郎義経 にその手綱を引くように命じたが義経は「私が上の手綱を引けば、下の手綱を引く(身分に相応しい立場の)者がいません」と答えた。
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頼朝は「(御家人の)畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役目と考えて拒むか」 と言葉を続け、義経は甚だ恐怖して即座に起ち上がり馬を引いた。畠山重忠佐貫広綱土肥實平工藤景光仁田忠常、佐野忠家、宇佐美(大見)實政らが続いて馬を引いた。
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頼朝 は守護神社の上棟式という公式の場で、「腹違いの弟であっても他の御家人と同様に命令に従う家臣の立場だ」 と宣言している。この指示は当時の風習として理に叶っており、別腹の異母弟である 範頼 や義経の同母兄 阿野全成 は上下関係を理解していたらしいのに、奥州で 秀衡 の庇護を受けていた義経には人間関係のむづかしさや機微が判らなかった、のかも知れない。その後の源平合戦に於ける独断専行や御家人に対する専横、平家滅亡後の無届け任官などの事件を経て、頼朝と義経の間に生まれた溝は次第に亀裂を深めていく。
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さて...寿永三年(1184年、4月16日に改元して元暦元年)1月には宇治川合戦に続く粟津で 義仲 を滅ぼし、同年2月には一ノ谷で平家に壊滅的な打撃を与え、翌元暦二年(1185年、8月に改元して文治元年)2月には讃岐屋島から駆逐し、3月24日には彦島に逃げた平家軍を壇ノ浦で滅ぼした。
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西から攻めた範頼は九州で戦後処理に任じ、義経は捕虜を従えて意気揚々と京に凱旋した。ここで 後白河法皇 の歓迎を受け白拍子の静とも出会うのだが、幾つかの事件が勃発する。一つは義経を含めた御家人が許可なく任官した事、一つは軍監の 梶原景時 が義経の専横を頼朝に訴えた事である。
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まず、頼朝の推挙なしに衛府(宮廷の警備職)や所司(官庁の役人)を拝任した在京の御家人に対して、4月15日に下文を発行しボロクソに罵った。お前らは官職に就いたのだから関東に戻って来るな、もし墨俣より東に立ち入れば所領を没収し斬罪に処するから覚悟しろと、かなり感情的に怒っている。計算づくの対応ではなく、プライドを傷つけられて憤怒が抑えられない感じだ。
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「鎌倉殿に従っていたら落人になる、と言ったな!」とか「イタチ以下だ」とか「猫にも劣る奴だ」とか「ふわふわ顔でみっともない」とか「駄馬が道草を喰ってるようなものだ」とか...名指しで罵倒されたのは兵衛尉義廉(出自不詳)・兵衛尉 佐藤忠信・渋谷馬允(渋谷重国 の末子)など20数名。まだ義経の名は載っていないが、6日後に届いた景時の書状とその後の報告(平家物語)によって亀裂は深刻の度合いを増す。
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ここで少し面白いのは「本領を少し返してやったのに、分不相応に任官などしやがって」と罵倒されている兵衛尉忠綱で、これは治承五年(1185)閏2月23日の 野木宮合戦(別窓)に敗れて逐電した (藤姓)足利忠綱 に間違いない、だろう。彼は結局降伏して本領を一部返却され御家人に列していたんだね。

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左:そして兄弟の断絶へ...鎌倉腰越の満福寺     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185年・8月14日に改元して文治元年) 4月21日 】
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梶原景時 の飛脚が書状を届けた。前半は合戦の報告、後半で義経の非を訴えている。
報告に曰く、今回の勝利は義経一人の手柄ではなく頼朝のために働く鎌倉御家人の協力による。義経が専横・強圧的なので兵士は仕方なく従っているし早く帰国したいと思っている。和田義盛 と梶原景時は侍所別当と所司(次官)であり、それ故に 範頼 には義盛を・ 義経 には景時を副えて軍監の役に任じた。
範頼は相談して物事を進めるが義経はただ独善的なので、景時のみならず全員が反感を覚えている、と。
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吾妻鏡より前に成立(50年前ほどか?)したらしい平家物語に拠れば景時の讒言内容は更に激しく、真っ赤な嘘も混じっている。讒言で時代を生き抜いた景時だが頼朝の信頼は篤い。頼朝は独裁に対する反感のガス抜きに景時を利用したと考える説もあり猜疑心が強すぎる傾向はあるが、義経の行動も明らかに思慮に欠ける。
まあ、頼朝に従って奥州征伐途上の白河の関で息子の 景季 が詠んだ和歌で、この親子の人柄を推測しよう。
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       秋風に 草木の露を 払はせて 君が進めば 関守もなし
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さて、義経よりも一足先に鎌倉に戻った景時の報告は、もちろん頼朝と義経を離反させる(正確には義経をダシにして自分の存在価値を高める)意図があってのこと。頼朝は御家人と義経の無断任官などでカリカリしている上に都での義経人気も面白くないタイミングだから、火に油を注いで更に風を送るような結果になる。中国語なら「将油倒入火中」だね。ただし、景時の性格を更に盛って面白く描いた軍記物の傾向にも要注意、だ。
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義経殿の専横は酷いもので、これから後は鎌倉の敵になるでしょう。一ノ谷合戦で中将 重衡 を捕虜にし範頼陣屋に連行した時には立腹して、「私の奇襲(鵯越)が無ければ勝てなかった。敵の捕虜や首級はまず私に見せるべきで、連れて来なければ私が出向く」と。私と 土肥實平 が協力して重衡を確保しなかったら危うく味方同士が戦うところでした。(平家物語)
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 5月15日 】  義経、鎌倉入りを許されず
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九郎義経の使者 工藤景光 が到着。前の内府(宗盛)親子を連行、去る7日に京を出て今夜酒匂の駅に到着し明日鎌倉に入る予定、と。小山(結城)朝光 が使者として出向き「北條時政 が牧宗親と 工藤行光 を伴って酒匂に出向き宗盛親子を受け取るから九郎義経は許可なく鎌倉に入るべからず。暫く酒匂付近に留まり沙汰を待つように」と命じた。
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結果として義経は鎌倉入りを許されず、思いを綴った腰越状も無視されたため「この恨みは昔の(平家への)恨みより深い」と言い残して京に引き返す。頼朝の方は「「鎌倉殿に怨みがある者は義経に従え」などと暴言を吐いたのは許せない。」と激怒し、義経に与えていた所領24ヶ所を没収した。義経一行は京を目指し、琵琶湖が近づいた大篠原(現在の野洲町)で連行していた宗盛親子を処刑してから六条堀河の館に入った。

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右:平家終焉の地・篠原 この項は「壱」と重複。    画像をクリック→ 拡大表示
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壇ノ浦合戦で捕らえられた平家の総大将宗盛(38歳、清盛 の三男で 二位の尼時子 にとっては長男)と嫡男清宗(15歳)が義経の命令で斬首された。
異母兄の 重盛 と次兄基盛が早世して宗盛が清盛の跡を継ぎ平家嫡流となった後に篠原で最期を迎えたため、ここ大篠原(現在の野洲町・地図)の雑木林が「平家終焉の地」と呼ばれている。
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親子は少し離れた場所で斬られたのだが、せめてもの配慮で遺骸(首のない胴)は一つの穴に埋められた。奇しくも、鞍馬を抜け出して平泉を目指した牛若丸が自ら前髪を落として義経を名乗った鏡の里から800mほど西である。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185)6月21日 】  平宗盛親子、斬首
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卯の刻(朝6時頃)に義経は篠原宿に着き、橘馬允公長(元は 知盛 の家臣で平家を見限り義経麾下で戦った)が前の内府平宗盛を斬首した。次に野路宿で嫡男の前の右金吾・清宗を 堀彌太郎景光 が斬首。大原法成寺の本性上人が来て両人を教化し、落ち着いて最後を迎えた。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185)6月23日 】  宗盛親子、六条河原で獄門に。
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義経の家人が宗盛と清宗の首を六条河原に届け、検非違使が首を受け取って獄門の樹に架けた。
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清盛の跡を継いだ宗盛の評価は最悪で、鎌倉で頼朝に面会したときも助命嘆願に終始し、食事も摂れないほど醜態を晒して「これでも清盛の子か」と嘲られた。平家物語に拠れば、壇ノ浦で敗戦が決定的になって一門が次々と入水自殺を遂げる中で逃げ回り、最後は味方が海に突き落としたが泳ぎの名手だったため溺死せず、源氏の兵に熊手で引き上げられて捕虜になっていた。
宗盛と正反対に五男(共に生母は後妻の時子)の 重衡 の評価は高い。一ノ谷合戦で乗馬を射られて捕虜となり鎌倉に連行されたのだが、誇り高い姿勢を崩さず頼朝や御家人を感動させた。頼朝も一時は本気で助命を考えた程だったが、南都焼き討ちを恨んだ衆徒の強い要求に抗し切れず、6月22日に東大寺宗徒に引き渡した。
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  ※南都焼き討ち: 頼朝が関東を制圧し富士川で平家軍を敗走させた治承四年(1180)10月以後、大津の園城寺(三井寺)や奈良の興福寺と東大寺も反・平家の動きを
強めた。危機感を抱いた清盛は重衡に四万騎を与えて攻撃を命じた。重衡は12月25日に園城寺を焼き払い、同28日には奈良に進軍して興福寺と東大寺大仏殿を含む堂宇のほぼ全てを焼き払い、多くの僧と寺に避難した住民を焼き殺した。
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焼き討ちの意図はなかった、或いは単純な事故による出火だったとの説もあるが、兵を指揮した重衡は仏敵として憎しみを受けた。覇権を握った頼朝ではあるが重衡の助命を強行して南都の僧兵を敵に回す愚は避けねばならなかった。重衡の最期と慰霊の墓については「屋島の合戦」の冒頭近くに記述してある。
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話を戻して...鎌倉と義経の関係は悪化を続け、いよいよ武力行使の段階まで進んだ。頼朝はまず義経と行動を共にしている叔父の 十郎行家 をターゲットに定めてプレッシャーを掛け始める。義経は政治的な配慮に欠けてはいたが軍事的才能は秀でていた。しかし行家の場合は...史料から判断する限り、実力も節操も乏しい癖に 志田義廣義仲→ 義経の許を転々として頼朝に対抗したのだから自業自得ではあるが。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 8月4日 】
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頼朝の叔父・行家は再三の平家追討戦でも功績がなく、賞は得られなかった。行家も自ら参上する様子もなく、西国に留まり関東の威光を振りかざして人民を脅かし謀反を企んだ。今日(近江の) 佐々木定綱 に御書を送り、近在の御家人を集めて早急に行家を追討せよと命じた。
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行家については志田義廣討伐や義仲興亡の詳細などの別項で述べる(順不同だけど)が、簡単に最期を述べておくと...
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義仲を見限って所領の和泉国に戻っていた行家は鎌倉と対立した義経に合流、同年10月には 後白河法皇 から頼朝追討の院宣を引き出した。しかし鎌倉側が派遣する動きを見せた大軍に対抗できる兵力は結集できず京を脱出、義経と共に鎮西を目指して大物浜から出航するが11月6日に強風で難破した。
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別行動をとって勢力圏の和泉国に逃げ込んだが翌・文治二年(1186)5月、和泉国近木郷(貝塚市)の在庁官人・神前清実の屋敷に隠れているのを密告され、北條時貞(時定)時政 の甥)らが捕縛して斬首、首級は鎌倉に送られ、同月25日には時貞が経緯を報告することになる。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 9月2日 】
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梶原景季義勝房成尋 が使節として京に向かった。建設中の南御堂調度(什器備品)の件、平家に連座した者の流罪の実施遅延(特に娘が 義経 に嫁した 平時忠 の処分遅れ)、行家追討に関する義経の意思確認などが任務で、義経と行家が協調して鎌倉に背く噂があるための派遣である。
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  ※梶原景季: 景時の嫡男で頼朝側近。「磨墨」に跨って「生月」の佐々木高綱と宇治川先陣を争った(平家物語)武者。義勝房成尋は武蔵の横山党出身で
八田知家 の養子になり幕府宿老を務めた中条家長 の実父。韮山から石橋山に向う頼朝の一隊の中に名前がある。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月6日 】
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梶原景季が京から戻って報告。義経邸で面会を申し入れたが体調不良と称して会えず。2日後に再訪した際は憔悴した様子で脇息に寄りかかり灸の跡も見えた。行家追討令の件を伝えると「仮病ではない。行家の件は、例え強盗犯であっても先ず調べるべきである。まして同族の行家が家来を派遣されただけで降伏するとは考えにくい。私が全快した後に対策を考えよう。」と答えた。頼朝は「行家と共謀して病気を装ったのは見え見えだ」と吐き捨て、更に景時は「食事を一日抜き一晩眠らなきゃ憔悴して見える。灸の跡なんか簡単だ、共謀に疑問の余地なし」と言い添えた。
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【 余聞、土佐坊昌俊について 】
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平家滅亡の後に義経と不仲になった頼朝は文治元年(1185)10月に京都六条堀河の義経館に夜討ちの兵を向けた。この時の指揮官は土佐坊昌俊、平治の乱の後に尾張の野間で入浴中の 義朝 を殺した敵の数人を討ち取ってから行方知れずとなった義朝の側近 金王丸 の25年後の姿である(平家物語(八坂・如白・南都本)に拠る)。
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後に頼朝に召し抱えられた昌俊は誰もが嫌がった義経暗殺の役目を自ら志願したらしい。以下、もちろん昌俊=金王丸と仮定しての話...
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昌俊は暗殺に失敗して捕らえられ六条河原で斬首された。金王丸にとって 常磐 は元の主人義朝の愛妾であり、勿論旧知の間柄。夫の郎党が頼朝に命ぜられて異母弟の我が子義経の暗殺を企て、捕らえられ殺される...常盤はどんな気持ちでこの皮肉な巡り合わせを受け止めたのだろうか。
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一条長成 と常磐の間には男子の能成が生まれ、義経の側近として行動を共にしている。義経失脚後の一時期は不遇だったが、義経が死んだ19年後の建保六年(1218)には政界に復帰し、父長成を越える従三位に昇進しているのも興味深い。

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右:土佐坊昌俊は金王丸?渋谷一族?  金王丸(18歳)が自ら刻んだと伝わる木像(金王八幡宮蔵) クリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月9日 】
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義経討伐の議論を重ね、土佐房昌俊の派遣を決めた。御家人の多くが辞退する中で昌俊が自から申し出て頼朝を喜ばせた。出発に当って下野に残す老母と幼児への配慮を願い、頼朝も了承して中泉庄を与えた。昌俊は弟の三上家季・錦織三郎・門眞太郎・藍澤二郎ら83騎を従えて鎌倉を出発、行程9日の予定である。
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  ※下野国中泉庄: 吾妻鏡には下都賀郡壬生町中泉と栃木市泉川の二ヶ所に記載があり、場所の確定はできない。
どちらも平坦な農地で20kmほど離れており、特に荘園の伝承も残っていない。
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金王丸は坂東八平氏の一つ秩父氏から分かれた渋谷一族の出身、と金王八幡宮は伝える。渋谷氏の系図は数多くあり主張する系譜の流れも様々だが、秩父重綱(畠山重忠 の祖父)の弟・基家と嫡子の重家が現在の川崎市一帯を領有して河崎を名乗り、重家の子 重国 が勢力を広げ豊嶋郡谷盛(現在の渋谷~港区)も領有して渋谷荘司を名乗った、と。
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渋谷駅東口にある 金王八幡宮(公式サイト)の記録によれば金王丸は重家の子(つまり重国の兄弟)だが、重国の二男としている系図もあり、実在するか否かも含めて渋谷氏と金王丸の関係も不確実らしい。従って土佐坊昌俊=金王丸の真偽も金王八幡宮の由緒もどこまで信じて良いのか判らない。渋谷重国の実子と伝わっているのは 高重 と光重の二人だけだし、結局のところ渋谷重国・金王丸・土佐坊昌俊に関しては謎と言うしかない。
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吾妻鏡では「御家人の多くが辞退する中で」だが、義経記では「最初に 河越重頼 を呼んで腰越にいる義経追討を命じたが「背くつもりはないけれど娘が嫁しているので別の討手を」と断られ、次に呼んだ 畠山重忠 には「討ち取れば伊豆と駿河を与えるから」と言ったが「梶原の讒言で忠義の者や兄弟を討ってはなりません。私に下さる伊豆・駿河を引き出物に与えて京都守護に任じ、背後を守らせるのが妥当です」と答えた。その後は更に言い出すこともなかった。」と書いている。発言の信頼性を担保する史料はないけれど二人の対応も筋が通っている...でも鎌倉武士の価値観って基本的に利害優先だから安易な信用は出来ない。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月17日 】
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鎌倉の命令を受けた土左房昌俊(原文)は水尾谷十郎ら60余騎を率いて判官義経の六条室町亭を襲撃。家臣の多くは西河(嵐山の遊里らしい)に出掛けて留守だったが残った 佐藤忠信 らが門から駆け出て戦い、更に行家も応援に駆け付けて撃退した。義経の家臣が院に出向いて無事を報告した。
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  ※六条室町亭: 義経の居館は六条堀河邸とするのが一般的で、百練抄(公家の日記などを編纂した歴史書で鎌倉中期の成立)も「六条堀河夜討ち」と書いているが、
吾妻鏡では六条室町亭としている。吾妻鏡の記載ミス、或いは約600m離れて二軒の邸があった可能性もある。
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【 土佐坊昌俊について 】
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平家物語(八坂・如白・南都本)に拠れば、土佐坊昌俊とは義朝の郎党だった金王丸の後の姿である。平治の乱の後に尾張知多の野間で義朝を殺した敵数人を討ち取ってから行方知れずとなっており、25年後には頼朝に仕えていた、としている。但し金王丸=土佐坊を裏付ける史料は存在しない。
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奈良の興福寺金剛堂の住僧・昌俊が興福寺所有の針庄(現在の奈良市針町、ここには人気の高い道の駅 針 TRS(テラス)・別窓がある)の租税を巡るトラブルから代官を殺し、大番役として在京していた 土肥實平 が身柄を預かった後に頼朝に召し抱えられた、らしい。この昌俊が御家人の嫌がった義経討伐の任務を志願したのは間違いないが、単純に金王丸と結びつけるのは無理がありそうだ。
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更には金王丸は渋谷重国の異母兄あるいは祖父とする伝承もある。鎌倉雪ノ下の宝戒寺近くには館跡の碑があり、八幡宮の近く(地図碑の画像)に住んでいたのも面白い。南都の僧出身の御家人の家が小町大路に沿った一等地とは、かなり違和感を覚えるが。

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左:渋谷 金王八幡宮の本殿    画像をクリック→ 拡大表示
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渋谷氏の系図は数が多くその流れも様々だが、一般的には秩父重綱(畠山重忠の曽祖父)の弟・基家と彼の嫡子重家が多摩川の下流域(現在の川崎市一帯)を領有して河崎を名乗り、重家の孫 重国 が更に勢力を広げ豊嶋郡谷盛(現在の渋谷区~港区)も領有して渋谷荘司を名乗った、これが最も信頼できるらしい。
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渋谷駅東口にある 金王八幡宮(公式サイト)に残る記録に拠れば、金王丸は重家の子(つまり重国の叔父)だが、重国の二男としている系図もあり、実在するか否かも含めて渋谷氏と金王丸の関係はかなり錯綜している。従って土佐坊昌俊=金王丸の真偽も金王八幡宮の由緒もどこまで信じて良いのか判らない。
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渋谷重国の実子と伝わっているのは光重・高重・時国・重助の4人だし、結局のところ渋谷重国・金王丸・土佐坊昌俊の関係は謎と言うしかない。
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しかし渋谷重国の所領が東京の渋谷から相模国高座郡渋谷荘(藤沢)まであったのが事実なら凄い。直線距離で30kmもの範囲を領有した事になる。渋谷重国の本領(綾瀬・大和・藤沢市一帯、吉田荘とも)については【その四 頼朝の韮山挙兵にかかわる人々】に記述した。
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【 六条室町亭夜討ち 義経の対応と頼朝の思惑 】  玉葉(関白 九条兼実 の日記)に 義経 が襲撃を察知していたと匂わせる記載がある。
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去る11日に義経が参内して 後白河法皇 に「行家が頼朝に叛いた」と報告、法皇は「何とか制止せよ」と言った。13日にもう一度参上して 「(行家を)制止したが承知せず、私も加わる事にした。今までの功績で得た所領の全てが没収され他の御家人に付与された。更に郎従を派遣して私を追討するとの情報を得たのが理由である。」と述べた。更に昨夜(16日)にも参上して「頼朝追討の勅許を頂きたい。駄目なら京を離れ鎮西に向う」と言上した。夜10時頃に北の方角で戦闘の音が聞こえた。武蔵国小玉党の武者30余騎が院の小御所近くの義経邸に攻め寄せたが行家勢が応援に駆け付けて小玉党を追い散らした。
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【 平家物語に拠れば 】
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  夜襲に失敗した昌俊は鞍馬山の奥に逃げたが僧が捕えて義経に引き渡し、尋問の後に六条河原で駿河次郎清重が斬った。
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出典によって現れる人物や場所に関する多少の差異は、深く考えず無視する姿勢も時には必要となる。例えば義経記は 「宗盛の嫡子清宗を六条河原で斬ったのが駿河清重」と書いているが、吾妻鏡では「宗盛の嫡子清宗は野洲の篠原で堀景光が斬った」としている。まぁこの場合は篠原に野洲町大篠原の林の中に宗盛親子の墓があるから吾妻鏡の方が信頼できるのだけれども。
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  ※駿河清重: 黄瀬川で頼朝と対面した頃から義経の雑色として従っていた駿河の猟師出身の武士だった、らしい。
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  ※堀景光: 通称は弥太郎、早くから義経の郎党だった。平治物語では「金商人」としているため金売吉次と考える説もある。
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刺客を察知した 白拍子 静 がとっさの機転で腹巻(鎧)を義経に投げ渡し危機を脱したなど、色々な話は伝わっているが実際の展開は不明。一説には頼朝の意を受けた大番役の鎌倉武士が襲撃したとか、そもそも襲撃は「義経謀反」を既成事実化するための挑発だとか、諸説がある。実際に頼朝は24日の大御堂義朝供養に集まった御家人を翌25日早朝に京に向わせ、自身も29日に出陣している。
一方の義経は18日に 後白河法皇 の頼朝追討宣旨を得て戦う姿勢を見せるが...在京の御家人に同調の動きがなかった事もあり、利あらずと判断して11月3日に300騎で九州を目指すことになる。

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右:鎌倉雪ノ下周辺の鳥瞰図    画像をクリック→ 拡大表示
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京都の情報に関する限り吾妻鏡よりも玉葉の信頼性が高い事を考えると、義経 は事前に襲撃の可能性を察知していた事になる。まぁ周囲の情勢がこれだけ緊迫すれば次のステップは武力行使に進むだろうし、ゲリラ戦っぽい非正規戦闘を得手にする義経ならば敵の動きを予測する、だろう。
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ただし全体の情勢を把握しコントロールする能力は 頼朝 の方が遥かに上で...
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10月24日、鎌倉の 勝長寿院(南御堂・別窓)では9月3日に納骨を済ませた 義朝 を供養する法事が開催され、西国に駐在する主な御家人がその日に合わせて鎌倉に召集された。鎮西に駐留していた義経の異母兄 範頼 も9月26日の入洛を経て法事の行列に加わっているから、法皇の宣旨を受けた在京の武士が全て義経に従ったと仮定しても、その戦力は多寡が知れている。
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頼朝は多分、「土佐坊昌俊が義経を殺せばラッキーだが失敗しても反逆者として追討する環境が整う」程度に考えていたのだろう。暗殺失敗の情報を受けた頼朝は法事の翌日、集結した軍勢を京に向け出動させた。
法皇の宣旨も既に、頼朝の行動を完全に制約できるほどの権威を持っていない。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月18日 】
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頼朝 追討の勅許を与えるべきか否か、御所で会議があった。現在は 義経 の他に治安を維持できる兵がいないから万一の時には防衛の手段がない、取り敢えず勅許を与えて仔細を鎌倉に連絡すれば頼朝が怒ることもないだろうとの結論に達し、頼朝追討の宣旨を発行した。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月25日 】
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早暁に頼朝は軍勢を京に向けて発進させた。まず尾張・美濃に着いたら両国の武士に命じて足近(羽島市)と州俣(墨俣)の渡しを固めさせ、次に入洛して行家と義経を討て。討伐を躊躇する必要はない、もし両人が居なければ頼朝の入洛を待て、と命じた。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月26日 】
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   土佐房昌俊と郎党2人が鞍馬山の奥で義経の家人に捕らえられ、今日六条河原に首を晒した。
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翌・文治二年(1186)6月初旬の「玉葉」に、「鞍馬山近辺で義経を探索した」との記録があり、追討兵を派遣したが結局行方は判らずに終わった。
また義経の生母
常磐 を鴨川近くで捕らえたため処分について鎌倉に指示を仰ぐ旨の連絡があったと吾妻鏡が書いている。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 6月13日 】
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在京の雑色宗廉が鎌倉に到着。去る6日に一條河崎観音堂近くで義経の母(常盤)と妹(父は一條長成)を生捕った。鎌倉に連行するか否かと。
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  ※河崎観音堂: 鴨川西岸(上京区梶井町この辺)、一演法師建立の感応寺境内にあった。創建は貞観年間(859~877年)、享禄四年(1531)に兵火で
焼失、その後に一演法師所縁の清和院(地図)に併合された、らしい。
常盤の夫・長成は邸が一條通にあり、常盤は邸から近い河崎観音堂を信仰していた可能性もある。
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義朝の側室として常盤が産んだ長男の 阿野全成(幼名今若)は鎌倉で頼朝に仕え、二男の 義圓(幼名乙若)は既に美濃墨俣合戦で戦死していた。吾妻鏡には義経捜索の際に常盤(48歳)についての記事が載っているが、連行の事実はなかったらしい。後妻とはいえ正四位下大蔵卿 一條長成 の正妻(長成は老齢と推定されるので既に死没かも)、簡単に拘束できないような気がするけど...息子の能成も解任されている程だから拘束の可能性はある。
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これが常盤の名が見える最後の公式記録となる。彼女が産んだ長成の嫡子能成は義経と行動を共にし、常盤が捕まった前年の文治元年(1185)12月に頼朝の圧力で侍従職を解かれている。失脚したものの、頼朝死没後の承元二年(1208)に復帰し、建保六年(1218)には従三位に昇進している。常盤も公卿(主に従三位以上)の母として恵まれた晩年を送ったと思いたいけれど...保延四年(1138)の生まれだから建保六年には80歳、ちょっと無理かな。
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平家物語や源平盛衰記に拠れば、義朝側妾の常盤は 清盛 の愛人となって二年ほど暮らし、廊御方(三条殿)を産んだ後に一条長成に再嫁した事になっているが、裏付けとなる史料は存在しない。常盤の再婚は兎も角として廊御方に関する限り軍記物語が捏造した可能性もある。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 10月29日 】
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頼朝は行家と義経を討伐するために鎌倉を出て京に向かった。東国の武者は頼朝軍に、東山道と北陸の武者は近江・美濃に集結するように命令書を発行した。また治承四年に大庭景親に従った相模国の武者で武名の高い原宗房も伴って墨俣あたりで合流せよと御家人を介して命じた。先陣を土肥實平 ・後陣を 千葉常胤 にして巳の刻(10時前後)に出発し今夜は相模国中村庄に宿泊。相模の御家人が悉く集結した。
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  ※原宗房: 相模国土肥郷(湯河原)の武士。石橋山合戦の際には同郷の實平や中村一族ではなく 大庭景義 に従って戦ったため、罪科を恐れて信濃国に
逃げていたらしい。頼朝 が「合流を指示」したのは所在を把握していたためだろうか。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月1日 】
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頼朝は駿河国黄瀬河駅に到着。京の情勢を見極めるため暫く逗留する、軍馬や兵糧などの補給を確認して用意せよと御家人に命じた。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月3日 】
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行家義経 は西海に向かった。まず使者を御所に派遣し頼朝の追討を避けて鎮西(九州)に落ちる旨を報告。前の中将 平時実・一條能成・源有綱・堀景光佐藤忠信伊勢三郎能盛・片岡弘綱・弁慶法師 など300騎が従っている。
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  ※同行者: 前中将時實は平時忠の長男、一條能成は長成の嫡男で常盤の子、源有綱は 仲綱 の子で義経の養女の婿、堀景光は吉次説もある子飼いの
郎党、佐藤忠信は屋島で戦死した継信の弟、伊勢能盛は鈴鹿の山賊(平家物語)説あり、片岡弘綱は下総平氏系の郎党。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月5日 】
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関東の御家人が京に入った。まず(10月18日の頼朝追討令発行について)頼朝が激怒している旨を左大臣(藤原経宗)に申し述べた。義経は摂津河尻(尼崎市今福)で源氏の 多田行綱(摂津多田郷の武士で 満仲 の嫡流)・豊島冠者(秩父平氏豊島流)と小競り合いしたが勢いは見られなかった。

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左:筋立ての裏を読み解くと実に面白い。画像は 能「船弁慶」の知盛怨霊
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月6日 】
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十郎行家義経 は大物浜から船出したが突然の強風で船が転覆した。義経に従う者は僅かに4人、伊豆有綱堀景光武蔵房弁慶、そして妾の 白拍子 静 だけとなった。一行は天王寺付近で一泊して行方をくらました。
今日、行家と義経捜索を命じる 後白河法皇 の院宣が諸国に下された。

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 ※大物浜: 尼崎市大物駅近くの大物主神社(地図)らしい。謡曲関連で「義経弁慶隠家跡」碑がある。
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義経は京を逃れ摂津国大物浦から九州を目指し、「静とは船出の前に別れた」とする事が能や謡曲の展開では重要なポイントになる。静も同船したのに、謡曲では「静が乗船してはダメ」(笑)なのだ。なぜか?
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   ※左画像:明治期の四条派画家・野村文挙の描いた「船弁慶」。
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白拍子 静(静御前)の名が吾妻鏡に見られるのは、義経の逃亡から産んだ子を殺されて鎌倉を去るまで(文治元年11月6日から翌年9月16日)の10ヶ月間のみ。その他は平家物語に少々と室町時代に編纂された「義経記」に書かれたもので、彼女が生きた当時の貴族の日記など文献史料には存在が全く記録されていない。
神泉苑で舞った寿永三年(1184)の夏から数えても、僅かに2年。
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さて...「大物浦難破」で思い出すのは、静が寿永三年(1184)の夏に神泉苑で舞って黒雲を呼び雨を降らせた、感嘆した 後白河法皇「あの者は神の子か?」 と驚嘆して蛙蟆龍(あまりょう・雨を司る龍)を刺繍した御衣を下賜した事件である。白拍子静はその舞によって天候を司る龍神と心を通わせる術(すべ)を得た、彼女が船に乗らなかったために暴風雨を防げず、海上には怨みを抱きつつ壇ノ浦で死んだ 知盛 の亡霊が現れる。
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一ノ谷合戦で敗れ軍船に移ろうとした知盛は追い掛けて来た児玉党の武者と組み打ちになり、その武者を討ち取って知盛を救った嫡男の知章が源氏勢に囲まれて壮絶な最期を遂げた。平家物語は、知盛は子を討たれ自分が助かった事を深く悲しんで泣いた、と書いている。
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滅亡の壇ノ浦で二領の鎧を着け、碇を抱いて入水した知盛は龍神の世界に入り、彷徨う怨霊となって義経の船を襲った。かつて舞で龍神と心を通わせた静が乗船していれば自然の脅威も怨霊の力も及ばない筈なのだが、「船弁慶」では、静は不在である。
義経主従を海底に引き込もうとした知盛の怨霊は、幸運にも 五大明王 (wiki) に祈った弁慶の法力に負けて波間に遠ざかって行く。龍神を縦糸に、前段の白拍子静と後段の怨霊知盛の心が対峙する、幽遠な筋立てである。
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歌舞伎・義経千本桜の場合は筋立てが滅茶苦茶で... 北條時政 の討手を追い返した船宿の主が実は知盛の亡霊だったり、その女房が 安徳天皇 の乳母だったりする。最後に知盛は崖の上から碇を抱いて入水するのが幕切れで、筋立てに関係なくそのシーンを楽しむのが歌舞伎本来の姿なのかも。私は大嫌いだけど、ね。

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右:吉野のランドマーク 金峯山寺蔵王堂(国宝)の遠望     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月17日 】
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義経 が吉野山に入ったとの情報を受けた寺の執行僧が僧兵に命じて山狩りを行ったが成果はなく、亥刻(22時前後)に義経側妾の が藤尾坂から蔵王堂に降りてきたのを発見した。
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様子が変なので執行僧の坊に連行して尋問すると「義経は大物浜から吉野に入って五日間留まったが僧兵の様子に危険を感じ山伏の姿で逃げた。私は義経から貰った金銀を京都まで付き従う筈の従僕に奪われ、雪の中に置き去りにされたためこの様に迷い出た」と供述した。
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  ※藤尾坂: 仁王門から南に登る坂道を差す。この付近が昔日の女人結界 (金星) 、藤尾は「不浄」の転訛である。
静は「藤尾坂から蔵王堂に降りてきた」、つまり義経記に書いてある通り義経主従は藤尾坂の奥にある 吉水社(公式サイト)に数日間隠れた後に山伏の装束を得て逃亡したと推定される。
吉水神社は南北朝時代には 後醍醐天皇 の行在所(仮の皇居)にもなっている。下世話に言うと亡命政権、だ。
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現在の女人禁制は、山上蔵王堂のある山上ヶ岳の登山道に設けた女人結界門を含めて制約は殆どフリーらしい。当然と言えば当然である。
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  ※執行僧: 詳しい権限などは判らないが、祭祀ではなく寺の運営実務を担当する高位の僧らしい。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月18日 】
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の供述に従って吉野の僧兵が山谷の捜索を続けた。執行僧は静の状態を哀れに思い、体調が回復してから鎌倉へ送ると報告している。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月22日 】 西暦の12月15日
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義経は吉野から多武峰(桜井市南部)へ。談山神社(公式サイト)祭神の藤原鎌足像に祈るためか。南院内藤室で悪僧十字坊の保護を受けた、と。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 11月29日 】 西暦の12月22日
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多武峯の十字坊が義経に「寺は狭く住僧も少ないので長くは隠しきれないから遠津河(十津川)方面に案内しよう。人馬の通行も少ない僻地である。」と進言した。義経は喜んで承諾したため僧兵八人(道徳・行徳・拾悟・拾禅・楽達・楽圓・文妙・文實ら)を付き添わせて送り届けた。

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女人結界門 左:大峯山寺に至る山上ヶ岳登山道の女人結界門   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治元年(1185年・8月14日に元暦を改元) 12月8日 】 西暦の12月31日
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吉野の執行僧が を京都の 北條時政 駐屯所に送り届けた。供述を根拠に追討兵を吉野山に派遣するのが目的である。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 1月29日 】
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義経 は未だに行方不明。尋問のため静を鎌倉に送るよう北條時政に命じた。最重要案件であると、吉田経房 卿 (頼朝と近い公卿) を通して朝廷に申し入れた。
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女人結界門(又は碑)は宗教上の理由から、現在でも大峯山寺の周囲四ヶ所に残っている。女性が入山を強行した例もあったから規制がどの程度厳密なのかも判らないが、登山グループの女性が門で許可を待っている登山レポートもあるから一応は生きている。高野山も明治末期に解除となり、現在でも山全域を結界としているのは吉野の奥の大峯山寺だけになっている。形だけ、かな。
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仏教と神道の間には女人禁制について考え方の違いもあるし、仏教と神道に道教や土着信仰が融合して成立した修験道にも独自の考え方があるから、男女の権利だけを基準にして安易な評価はでき兼ねる。商業主義で運営しながら都合次第で神事と主張する相撲とは、根本的に異なる深さを含むのだ。
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出羽三山や戸隠・熊野・石鎚山など修験道の聖地と同じく、吉野の場合も「女性を意識せず厳しい修行に専念できる峻険な地」が立地に不可欠の条件だった。
時代の流れと共に道路も整備され交通手段を含む環境が整ったため女性の参拝者が増え、知り合いの修験者を頼りに登ってくるケースが増えた。それに伴って何らかのルールが必要となり、タブーの範囲を示すために結界石を置いて外側に女人堂を設けた、それが現実らしい。

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右:金峯山寺から大峯山寺に至る広域地図     画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 2月18日 】 西暦の3月2日
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義経 が多武峯の 談山神社 に隠れているとの噂があった。義経の師である鞍馬の東光坊阿闍梨(牛若時代の師・蓮忍)と奈良の周防得業らが(義経の逃亡について)連絡し合っている疑いがあるので出頭させるよう命じた。
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  ※周防得業: 平家追討の際は祈祷を行うなど義経と親しい関係にあり、吉野から逃げた義経を匿い供を付けて伊賀に逃がした。
翌年鎌倉に召喚され、頼朝から尋問を受けている。
吉野~談山神社は約20km、談山神社~伊賀は約50kmの過酷な雪中逃避行だ。
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【吾妻鏡 文治三年(1187) 3月8日】
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義経の師である南都の周防得業聖弘を鎌倉に呼び出した。小山 (結城) 朝光 が預かり、今日 頼朝 と対面して調べを受けた。
「貴僧が庇う義経は国を乱す凶臣である。逃亡後は追討が宣下され誰もが彼に背いているのに、貴僧のみが庇護の側にあるのは何故か」と詰問すると周防得業は「義経は鎌倉殿の代官として平家討伐の任にあり、その実現と国家の安泰のために祈祷したのは当然である。
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また義経が奈良へ逃げてきた時に庇護したのも師と弟子として当然の事で、改めて鎌倉殿に謝って和解するように諭して伊賀へ送り出した。その後は音信不通である。祈祷は謀反のためではなく謀反の心を宥めるためで、そもそも関東の安全と勝利は義経の武功に拠る。讒訴を信じ功績を忘れて恩賞の地を没収すれば反抗に至るのは至極当り前のこと、早く怒りを忘れて義経を呼び戻し和解して国政に専念すべきである。」と答えた。
頼朝は周防得業の真心に感動し、勝長寿院の供僧として関東の繁栄を祈るよう命じた。
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「義経記」も勝長寿院縁起物語の中で「勧修坊(周防得業聖弘)が勝長寿院の別当または開基を勤めた」と書いているから、頼朝の好意を受けたのは事実らしい。
 周防得業の言葉に感動は受けた頼朝だが義経を許す意思は皆無、頼朝の猜疑心と憎悪は少々の感動程度では揺るがない。

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左:日本三鳥居の一つ、銅(かね)の鳥居     画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 3月6日 】
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(吉野から京都に移送した) が鎌倉に到着。御所に呼び出して 藤原俊兼平盛時 が尋問した。義経に従って吉野山にいたとの先般の供述との相違点を更に確認するのが目的である。
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静は「山中ではなく、吉野山の僧坊に隠れた後に義経は僧兵が攻撃してくる気配を知って山伏に姿を変え、僧に見送られて吉野山中に逃げ込んだ。私は跡を慕って一の鳥居近くまで行ったが女は入れないと僧に叱られ、京都に向かう途中で(義経が付き添わせてくれた)従者に金品を持ち逃げされ、蔵王堂に迷い着いた。僧の名は忘れた。」と。
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頼朝 は京都から届いた内容と違う部分があるから更に聴取せよ。大峯に入った、或いは多武峯を経由して逃げたなどの情報もあるから虚偽の可能性もある、と命じた。
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※大峯山寺: 山上ヶ岳の頂上にある修験道の寺院で、古代から続く山岳信仰の聖地である(詳細は wiki で。役行者の誓願に応じて蔵王権現が出現したと伝わる。
したと伝わる、修験道の中でも最も重要な場所とされ、現在の本堂は元禄四年(1691)の建造、元禄十六年(1703)に現在の規模に拡張された。
採用された太くて低い柱は高山の気候に順応する構造で、他に類を見ない。
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右:金峯山寺(山下の蔵王堂)周辺の拡大地図     画像をクリック→ 拡大表示
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※一の鳥居: 黒門と仁王門の間にある「銅(かね)の鳥居」を差す。東大寺の盧舎那仏(大仏)を鋳造した際に残った銅で
建立したと伝わるが、真偽は不明。
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太平記に拠れば、北朝年号の貞和四年(1348)に兵火で崩れ落ち、康正年間前後(1456年前後)に再建したらしい。高さは7.5mで柱の直径は約1m、国の重要文化財に指定されている。
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大峯山頂に至る修験の道筋には悟りに至る経過を表す四つの門(発心門・修行門・等覚門・妙覚門)があり、銅の鳥居は一番最初に通る発心門、悟りに向かう最初の一歩に当る。基台からの高さは7.5mだが石段の上なので更に高く見える。
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の供述通り「一の鳥居近くで僧に制止された」のなら、11月17日の報告にある「静が藤尾坂から蔵王堂に降りてきた」のと整合しないから(一の鳥居は藤尾坂の約300m下)、静は自分を匿ってくれた吉水社が罪に問われるのを危惧して偽った可能性がある。
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※吉水社: 義経の逃亡から140年後、京を脱出した 後醍醐天皇 は建武三年(1336)12月21日に金峯山寺僧兵の出迎えを受けて吉水社に入った。
後醍醐はここを行宮(臨時の皇居)とし、この時から四代・57年も続く南北朝の歴史がスタートする。
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吉野の伝承に拠れば、吉水社が手狭だったため蔵王堂の西にあった實城寺を改修して金輪王寺(明治初期に廃寺)と改めて皇居にした、と伝わる。吉水社もまた神仏分離に伴って吉水神社と改称し祭神を後醍醐、併せて楠木正成と宗信法印(吉水社筆頭)を合祀している。
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  【 吾妻鏡 文治二年(1186) 3月9日 】  この時期、義経排斥に並行して甲斐源氏の粛清が進んでいた事にも留意を。
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武田太郎信義 が没した(59歳)。元暦元年(1184)に息子の 一條忠頼 が謀反の嫌疑で討たれる事件があり、それ以来頼朝に疎まれ続けていた。
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※忠頼の謀反: 吾妻鏡は「朝廷が信義に 頼朝 追討の院宣を与え、信義は無視したが忠頼が意欲的だった」と匂わせている。甲斐源氏排斥の捏造だろう。
知勇に優れた期待の嫡男を冤罪で謀殺された信義は隠居し、失意のまま没した。この頃から甲斐源氏の主流は衰退を重ね、三人の兄を売り渡す形で頼朝と手を握った四男の 石和 (武田) 信光 が棟梁を継承する。忠頼謀殺の詳細は こちら(別窓)で。

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左:鶴岡八幡宮の中心部。回廊は現在の舞殿付近か   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 3月15日 】
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伊豫前司九郎義経 が各地を転々としている。今日、頼朝 は所願成就の為として黄金造りの太刀を伊勢神宮に奉納した。この太刀は頼朝が度々の合戦に際して帯びていた一振りである。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 3月22日 】
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更に 静女 を調べたが義経の所在を知らない供述に変りはなかった。義経の子を懐妊しているため出産後に釈放する旨の沙汰があった。
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この頃から義経探索に関して鎌倉と朝廷の間で激しい交渉が展開される。最終的に頼朝は 大江廣元 の建策を容れて各地に守護と地頭を設置することを承諾させた。鎌倉による全国支配を強化させる名案だが、朝廷にとっては「明白な既得権の侵害」であり、やがて1221年に勃発する「承久の乱」の遠因ともなる。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 4月8日 】  他の文献資料を付け加えて状況を再現すると...
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頼朝と 御台所政子 は八幡宮参拝後に、舞曲を演じさせるため静女を八幡宮回廊に召し出した。以前からの仰せにも拘らず静女は「病気である」とか「将軍の弟の妻として出るべき場所ではない」と拒み続け、政子の強い希望により実現に至った。静は別離の悲しさなどを訴えたが通らなかった。
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「しからば舞うが、義経の妻は楽人などの拍子(伴奏)では舞わぬ。然るべき大名の拍子でなくば」、つまり坂東には歌舞の伴奏ができるような気の効いた者は居ないだろうと暗に言ったのだが、工藤祐経 の鼓、畠山重忠 の銅拍子、長沼宗政 の横笛(祐経は兎も角として重忠や宗政が芸事に長けていたとは思えないが)を揃えられて拒みきれず、白い衣の袖を翻して黄竹の歌を歌い、舞った。
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  ※黄竹の歌: 古代中国、崑崙山(神話の聖山)の仙女西王母が黄竹(笛)を吹き、地を動かすほど哀しい歌声で穆王(周朝(紀元前)五代の王)を呼ぶ。
八駿(日に三万里を走る八頭の駿馬)を持っているのに、なぜ訪れてくれないのか、と。
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更に舞曲は続く。 吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき    静や静 しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
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     伊勢物語にベースとなる歌がある。  「いにしへの しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」
     更には古今集にある、「いにしへの しずのおだまき いやしきも よきも さかえは ありしものなり」 が伊勢物語の更なる元歌なのだという。
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この程度の歌は都で暮らした経験のある頼朝なら知ってるでしょ、そんな意味を含んでいたのだろう。白拍子の教養恐るべし、並みの19歳じゃないね!
彼女が歌い舞ったのは当時流行の 今様 (wiki) 。この時の静は妊娠六ヶ月、既に「産まれる子が男なら殺す」と宣告されていた。
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彼女の歌には「巻いた麻糸(おだまき)のように、誰もが栄華と衰運を繰り返すもの。白拍子のように賎しい者でも、将軍のように高貴な者でも」という痛切な抗議と悲しみが込められていた、と言う。
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おだまき...七年後、曽我兄弟の仇討が勃発する直前の建久四年(1193)5月、白糸の滝を見物した頼朝が水面を流れる「オダマキの花」を見て和歌を詠んでいる。   この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝  詳しくは「同日の「吾妻鏡を読む」で。 頼朝の頭に静の歌が残っていたのだろう。
画像と簡単なコメントは 苧環(おだまき)(別窓)に載せておいた。 我が家の西洋おだまき も、お口汚しに (笑) 。

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右:葛飾北斎が描いた白拍子図       小布施の北斎館 収蔵  画像をクリック→ 拡大表示
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北信濃の小布施町は栗と林檎が名物の美しい町。上信越道のサービスエリアが道の駅 オアシスおぶせ(別窓) を兼ねているからドライブ疲れを癒すスポットとしても捨てがたい。食事処の「栗おこわ+山菜そばセット」も美味しいよ!
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この白拍子図は金の立烏帽子に白の直垂・朱の長袴に巻鞘の太刀を佩いた男装。縦98×巾41.7cmの絹本彩色、掛軸に誂えてある。落款は「北斎載斗改為一筆」、為一の号は60歳代で使っていたらしい。
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憂いを含んだ凛々しい姿から「静御前を念頭に置いて描いたのだろう」との声が高い。海外の収集家から日本に戻り数千万円で購入したというから、本物にしては安い。掛け軸にする趣味の是非は兎も角として。
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さて。八幡宮で静が演じた芸に見物人は静まり返り、身分の上下を問わず身動きも出来ないほどの感動を味わった。
しかし反逆者義経を慕い、更に世の無常を嘆く歌に 頼朝 は顔色を変える。「八幡宮の神前では関東の繁栄を祝うべきなのに反逆者を慕う曲とは奇怪である」と怒り、その頼朝を今度は政子が宥めた。
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「貴方が蛭ヶ小島にいた頃に契りを結び、父は平家を憚って引き離した。でも私は貴方を慕って豪雨の真夜中に伊豆山の貴方の元へと走った。それから、旗挙げして石橋山合戦に向かった時も私は伊豆山に残って安否を気遣って気を揉み続ける毎日、ちょうど今の静の気持ちと同じ。自分を愛してくれた人の心を忘れない、それが本当の女の姿です。静を責めるのはもう止めて、穏やかな心で舞いを鑑賞しましょう。」と。
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 (このわざとらしい付け足しは、100年以上が過ぎた吾妻鏡編纂時期の後世のフィクションに違いない。事実じゃないし、下品だもの)
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ややあって、冷静さを取り戻した頼朝は褒美の御衣(卯花重)を御簾の外に押し出して静に与えた。
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権力者(北條氏)には甘い癖に滅多に敵対者を褒めない吾妻鏡が記録しているのは、美しいだけではなく僅か19歳ながら聡明で誇り高い白拍子。現代に置き換えると17~18歳に過ぎないのだが...4ヶ月後、彼女は更なる悲劇を迎えることになる。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 7月29日 】
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静女 は豫州(義経 )の男子を出産した。これは義経が関東に謀叛を企て行方不明になったため、出産まで京都に帰るのを禁じられたからである。頼朝 は「女子ならば母親に渡す。もし男子なら今は産着の中でも将来に危惧があるから未熟のうちに殺す。」と宣言しており、今日 安達新三郎 に命じて由比の海に棄てさせた。御台所政子はこれを悲しんで頼朝を諌めたが、考えは変わらなかった。新三郎が赤子を受け取ろうとしても静は渡そうとしない。衣に包んで抱き伏したままで埒があかず、困惑した安達は静の母・磯禅師を責めて赤子を奪い取らせた。静の泣き叫ぶ声は数刻に及んだ、と。

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左:栗橋周辺に残る静御前の足跡     画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 9月16日 】
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静と母の磯禅師(彼女も元は名高い白拍子で、一説には 後白河法皇 の寵愛を受けた、と)が釈放され、政子大姫 から多くの引き出物を受けて京に向かった。義経の所在を尋問されたが吉野で別れた後は知らないと申し立て、(男子が産まれたら殺す必要があるため)出産まで留められていたのが経緯である。
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鎌倉から釈放され京を目指した静と磯禅師母子のその後については確かな情報が少ない。義経を慕って奥州に向ったとも、京に戻る途中で死んだ、とも伝わっている。
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静の墓所を称する場所は全国に点在しているが、最も可能性が高いのは奥州へ向う途中で没したと伝わる埼玉県栗橋だろう。何しろ後白河法皇下賜の蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣と義経形見の懐剣が物証(笑)として残っているのは、他の地域よりダントツに強い。まだ現物を視認していないので不確定要素はあるのだけれども。
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栗橋一帯に残る伝承に拠れば、文治五年(1189)1月(鎌倉を離れた2年4ヶ月後)に義経への思いを断ち難い静は義経が平泉にいるとの情報を得て京を発ち奥州を目指して旅立った、という。
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同年5月、①下河辺荘高野(八条院領、現在の杉戸町)まで来た静は ②栗橋関所の警備が厳重と知ってルートを変更、③八甫(鷲宮町)を経て縁戚の伝手を頼り ④高柳寺に一泊した。
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翌日には再び奥州を目指し、⑤下総国下辺見(現在の古河市下辺見)まで北上した所で擦れ違った旅人から義経の死を教えられ、迷った末に京に戻ろうと決めた(一度は栃木県宇都宮市まで行ったという説もある)。その後 ⑥の前林を経て④高柳寺に戻り剃髪、やがて病を得て同年9月15日に「九郎ぬし..」 の言葉を最後に没した。
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    ※墓所伝説: 範囲が広くて栗橋と栃尾の他は現地調査パス、...岩手県宮古市の 鈴ヶ神社(参考サイト)、郡山市の 美女池 (wiki) 、長野県大町市美麻、
奈良県大和高田市の磯野(母磯禅師の里・地図)、淡路島、香川県東かがわ市の 長尾寺(wiki・静の位牌あり)、山口県山口市などなど、それぞれ相応の資料があるらしい。でも美麻村は、静が尋ねた「おうしゅう」を「おおしお(大塩・美麻の地名)」と聞き間違えて教えた、というから笑っちゃうけど。ただし、ここには樹齢800年を称する 静の桜(市のサイト)がある。
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    ※ルート変更: この伝承は信じ難い。土地勘のない東国で「義経の叔父に当る人が住持する高柳寺」があるのなら初めからそこを経由地に選ぶ筈。
つまり「ルート変更」か「叔父が住持」のどちらかが捏造だろう。個人的には、縁戚関係の方が嘘だと思う。
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    ※高柳廃寺: 洪水で流され古河に移って光了寺になったとの説もあるが、利根川を越えての移転は考えにくい。伝承では義経の叔父が住持していたとも
言われ、父方なら 義朝 の兄弟だから有り得ないし、母方なら 常盤 の兄弟だから追跡不能。
なお、高柳村にあった「静」(栗橋駅の西側)の字名は昭和32年(1957)の合併で失われ、現在は伊坂(地図)に変わっている。
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    ※栗橋関所: 元は5km南東の五霞村(茨城県)にあったが水害が続き、江戸時代初期の利根川の流路変更に伴って現在の栗橋町(埼玉県)に移った。
奥州街道のルートも五霞経由から栗橋経由へと変り、旧関所のあった場所は元栗橋(地図)の名で残っている当時の利根川流路は現在の権現堂川。静が奥州を目指した時はもちろん旧街道の関所(位置は既に不明)だった。

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右:平泉を目指すか、京に戻るか。静が思い悩んだ思案橋    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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一ヶ所づつ 静女 の足跡を辿ってみると...
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彼女は高柳寺から10km北の下総国下辺見(現在の古河市)で行き交う旅人が義経の噂をしているのを聞き、懐かしさの余りその旅人に義経の消息を尋ねたところ、ほんの一月ほど前(正確には文治五年(1189)閏4月30日・太陽暦の6月15日)に平泉で自害した、と教えられた。
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途方に暮れた静は小川に架かる土橋の上で「奥州へ行って義経の菩提を弔うか、それとも京へ戻ろうか」と思い悩んだという。現在の国道4号と354号の交差点に近い向堀川に架かる思案橋( 地図)がその場所、と伝わっている。現在は交通量の多い殺伐とした雰囲気だが、戦前までは小川に架かる小さな土橋だった。
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下辺見は渡良瀬川と利根川が合流する北側にある。渡良瀬川の少し上流には日本最大の
渡良瀬遊水池(外部サイト)が広がる。家族でレジャーを楽しむのも良いし、また足尾銅山の鉱毒を沈殿させるため廃村を強いられた谷中村の悲惨な歴史や、農民の盾として権力と戦った 田中正造 (wiki) の足跡を辿るのもお薦めだ。
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更に足を伸ばせば 藤原秀郷 の築城伝説が残る 唐沢山城 と源姓足利氏歴代の栄華を物語る 鑁阿寺法界廃寺(通名を樺崎寺(三ヶ所とも別窓)や佐野市の代名詞みたいな 厄除け大師(公式サイト)も近いから、車なら是非とも回遊をお薦めしたい。
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また寿永二年(1183)2月に 小山朝政 らが頼朝の命令を受けて 志田義廣軍を討伐した野木宮合戦場は思案橋の5kmほど北にある。
吾妻鏡は治承五年(1181)閏2月23日の条に記載しているが、同じ吾妻鏡が建久三年(1192)9月12日に「朝政が寿永二年(1183)2月23日に野木宮で志田義廣と合戦」と、また元久二年(1205)8月7日に「寿永二年に志田三郎の蜂起を追討した」と引用しており、更に前後の事情を考慮すると吾妻鏡編纂者の年号誤記載と判断される。
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何で編纂者がこんな単純ミスを犯したのか判らないが...いずれにしても義経を慕って奥州を目指した静がこの付近を通った、その約6年前に勃発したのが 野木宮合戦(別窓)である。痕跡は既に残っていないが、旧奥州街道から拝殿に続く野木神社の長い参道が微かに当時の雰囲気を伝えている。
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   ※年号誤記載: 一般的には「切り貼りの間違い」と称する。後世に編纂した際にページを綴じ間違えた、という事か。

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左:利根川流域 静の椿と結びの柳       画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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古河市南部の利根川沿いの前林地区、古名は静帰(しずかがえり・しずごり)である。排水機場のある釈水土地改良事務所(地図)の敷地には「静の椿」と「結びの柳」が根を張っている。もちろん鎌倉時代初期の樹木ではなく、「植え継がれた何代目かの子孫」との言い伝えが残っている。
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下辺見から高柳寺への帰り道、静はここで箸の代りに椿の枝を使って食事を摂った。使い終わった枝の一本は平泉で死んだ義経のため、一本は由比ガ浜で殺された赤子のため。生まれ代わって育って欲しい、その願いを込めて椿の枝を土に挿した。果たして枝は活着し、その子孫が毎年美しい花を開くという。
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椿の横にある「結びの柳」は静が道標として結んだ枝の子孫と伝わっている。再び奥州を目指す場合に備えて静が目印を作った名残りである、と。当時の利根川本流は現在よりも7~8km南(栗橋の更に南)を流れていたから、静が辿った高柳寺と下河辺を結ぶ道がここを通っていた、という経緯なのだろう。
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栗橋から五霞にかけての利根川中流域は古くから洪水・氾濫を繰り返したエリアで、河口から100km以上も離れているのに川沿いの平地は標高10~12m、川の水面との高低差は治水工事が完了した現在でも3~4m程度しかない。サイクリングロードが伸びる堤防の下には何ヶ所もの排水機場が整備され長雨による増水に備えている。
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   ※利根川の古流路: 茨城と千葉の県境を流れる現在の流路は家康の命令で天正十八年 (1590) から開削東遷されたもの。それ以前の利根川は北川辺で渡良瀬川と
合流せず、栗橋から南下して江戸川の西を流れ、東京湾に注いでいた。
高柳寺周辺(高柳地区)は最も標高が低く、かっての利根川がここを流れていたのは容易に想像できるし、古利根川(昔の利根川)の流路から考えると左岸(東岸)にあったと思われる。東遷事業の詳細は 国交省のサイト が詳しい。

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右:栗橋駅前の慰霊墓と、遺品の残る古河の光了寺    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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栗橋一帯に残る伝承を最も詳しく書き残しているのは安政二年(1855)編纂の利根川図志(別窓画像、布川村(現茨城県利根町布川)の医師赤松宗旦が豊富な挿絵と共に残した紀行文である。
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原本は既に著名な図書館でしか見られないが、昭和13年発行の岩波文庫版(柳田国男校訂)は比較的多く出回っている。同じ利根川の下流・佐原は1800年代前半に詳細な日本地図を完成させた伊能忠敬の出身地である。恐らく赤松宗旦は伊能忠敬の偉業に強い影響を受けた、のだろう。
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静に関する伝承を紹介する資料は全て、この利根川図志をベースにしたと考えて間違いない。更に言えば光了寺収蔵の蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣の画像は現在まで公開されておらず、これは多分見学は出来るが撮影は許可されていないから、だろう。その意味でも利根川図志記載の図絵は特に貴重である。
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【 利根川図志 巻二の記載 】 要約
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静は高柳寺で一泊して北に向かい下辺見まで行った。ここで旅人から「義経が平泉高舘で死んだ」と聞き、奥州まで行って義経の菩提を弔おうか、それとも京に戻ろうかと迷った。この地が下辺見に残っている思案橋である。静は取り敢えず高柳寺に向って前林の里まで戻り、ここで食事を摂って箸に使った椿の枝を植えた。また柳の枝を結んで再び奥州へ向う時の目印にした。これが「静の椿」と「結柳」であり、この地が「静返」である。
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静はこれより西の伊坂里に戻って旅の疲れと絶望のため没した。侍女の琴柱(ことじ)は静を伊坂の宝治戸(現在の松永・地図)に葬り、墓の目印として杉を植えた。これが伊坂の一本杉(江戸時代末期に枯死、下に直径3mの塚があった)である。この後に守り本尊と法皇下賜の舞衣と義経形見の懐剣を寺に納めた。遺品と共に光了寺に残る鐙は義経が奥州に向う時に預かり、銭一貫文を用立てたものである。
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松永の東には静女塚がある。この由来は、静の墓が洪水で流失したのを惜しんだ関東郡代の中川飛騨守忠秀が、享和三年(1803)に杉の根元に石碑を建てたものである。このため静の墓と侍女琴柱の二ヶ所になったらしい。光了寺は昔は天台宗だったが現在は浄土真宗で、報恩寺
(鳴虎図の寺(京都)か?)の末である。
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「静女舞衣縁起」による改宗の由来は、建保年間(1213~1219)に住職が 親鸞聖人 に帰依して西願の法名を受け、浄土真宗光了寺に改めた。西願とは、後鳥羽法皇の北面武士・土岐又太郎国村の二男が出家して権大僧都法印円崇になった人である。
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  ※光了寺の創建: 親鸞の東国布教は建保二年 (1214) に常陸 (下妻市小島) に草庵を結んだ41歳の頃以後だから辻褄は合う。天台宗の武州高柳寺が利根川の氾濫で
流されて古河の中田に移転し、建保年間に真言宗に改宗して光了寺になった、と伝わるのだが...武蔵国から渡良瀬川を越え7kmも離れた古河の中田(当時は下総国)に移転したのは疑問が残る。高柳寺が洪水で廃寺となり、同じ天台宗の光了寺が遺物を引き取った可能性も考えるべきか。寺伝では「光了寺の創建は大同年間(806~810)で開山は弘法大師」、移転したのなら高柳寺の縁起と同じ筈だ。

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左:新潟の栃尾に残る 伝・静の墓       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 新潟県長岡市(旧栃尾市)の栃堀に伝わる伝説 】
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平泉を目指した静は鎌倉の警戒が厳しい関東を避け、越後から会津に抜けようとした。峠を越えれば奥州藤原氏の勢力範囲に入る。静は八十里越の手前・栃堀で病を得て、従者の看病の甲斐もなく没した。
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折角ここまで来たのなら更に北上して五泉から会津へ抜ける国道49号ルートを選ぶ方が標高も低くて楽だと思うが、静さんにも何か事情があったのかもね...遺骸は山沿いの高徳寺(地図)に葬られ、那須与一がその墓を守ったというから、伝承としてはかなりダイナミックな広がりを見せる。
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梶原景時 の讒言で失脚した与一は越後五十嵐家の庇護を受けて婚姻し、息子が越後那須氏の祖になった云々、と。与一は栃尾川沿いの古戸城に居を構え静御前の墓を守った、という事になっている。那須氏子孫の歴史学者の強弁が始まりらしい。
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更に栃尾には佐藤兄弟の生母・乙和御前が息子二人の菩提を弔うため出家し、神託を受けて勧請したと伝わる羽黒神社もある。道の駅 栃尾(別窓)の近くには立ち寄り温泉も完成したし、伝承を辿る旅もまた面白い。
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  ※八十里越: 三条と会津を結ぶ「塩の道」。実際の峠道は八里ほどだが八十里に匹敵するほどの難路だった。現在も一部が完成しただけで不通状態が続く国道289号
である。幕末の北越戦争で官軍と戦った越後長岡藩の家老・河井継之助が会津に落ちる途中で没した峠道でもある。
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  ※那須与一: 佐奈田与一浅利与一 に並ぶ「鎌倉三与一」の一人。前の二人と異なり実在を証明する史料がなく、平家物語など軍記物の創作らしい。
ただし那須一族が鎌倉御家人として各地を転戦したのは事実で、その中の一人を主人公に仕立て上げた可能性が高い。「平家物語の巻十一 那須与一」に拠れば、屋島の合戦で平家の軍船に掲げた扇の的を射抜いたのは余りにも有名である。記述に従えば、与一と扇の距離は5~6段(1段=6間=11m)だからほぼ60m、それだけ離れた馬上から揺れる舟の扇を一矢で射抜くのはとても無理だ、と思う。
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  ※河井継之助: 幕末の越後長岡藩を指揮して強力な装備の官軍と戦い抜いた家老。司馬遼太郎の長編小説「峠」の主人公として知られている傑物。
検索して彼の足跡を含めた史実に触れるのをお薦めする。薩長の芋侍がどれほど多くの英傑を無駄死にさせたか...。
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さて...静の従者は付近に草庵(松寿庵)を結んで菩提を弔ったと伝わる。墓は現在の高徳寺裏にある中世末様式の宝篋印塔である。
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栃堀一帯には那須与一館趾・高森薬師・鷹待場・赤谷城趾などの地名が残っている。古戸が池は梶原景時とトラブルを起こしてこの地に逃れ住んだ那須与一の館趾で、やがて許されて帰国したが息子夫婦はこの地に留まり、子供が産まれた際に池の水を産湯に使った。その穢れによって館が沈み妻女は赤子を抱いたまま古戸が池の底に沈んだ。
古戸が池(古戸城址)は高徳寺から刈谷田川を隔てた南側で、現在は水田に変貌している。
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また小貫の羽黒神社には別の伝説も残っている。飯坂の大鳥城主佐藤基信藤原秀衡 の縁戚で家臣)の正室・音羽御前(継信・忠信兄弟の母)は二人の戦死を知らず、消息を尋ねて越後に入った。栃尾で兄弟の活躍と源氏の勝利を聞き、袈裟を着た旅姿のまま喜んで踊ったのが「おけさ」の始まりだと伝わっている。後日に息子の戦死を知り、更に夢枕に現れた羽黒大権現(十一面観音)が「栃尾に我を祀れ」と告げたため小貫に庵(瑞雲庵)を結び菩提を弔ったという。これが羽黒神社・瑞雲寺の縁起である、と。

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 その拾伍 奥州の悲劇① 前九年の役で安倍一族が滅亡 

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右:前九年の役について   画像(多賀城国府跡)をクリック→ 陸奥話記にリンク
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三度の東北旅行の際に平泉周辺の安倍氏関連遺跡は殆ど見て廻った。当時はディーゼルエンジンのキャンピングカーだったから軽油代と食事代しか必要なかったし、Free Spot(公式サイト)を探して仕事を片付けながら合計で15泊ほどしたのかなぁ...好き勝手に動き回りあと数kmで青森県に入る所まで足を伸ばしたのに、安倍貞任藤原経清 が最期を迎えた厨川柵にも行かず、当然記録も残していない。これは痛恨のミスだった。
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加えて、通りすがりに立ち寄った白鳥柵や徳丹城跡や多賀城跡の画像も(数枚だけ残して)行方不明になっている。私はいったい何をやっていたんだろうねぇ...。平泉周辺にも見残した場所が多いし失敗した画像も少なくないから東北エリアは改めて歩かねば。次回はパーフェクトな旅行記を残すぞ!と思いつつ、矢の如くに光陰は通り過ぎていく。
東北を歩いて真っ直ぐに歴史と向き合えば、「日本は単一民族だ」なんて偉そうな寝言は出なくなるよ。
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多賀城を最初に築いたのは奈良時代の武人・大野東人。養老四年(720)に起きた蝦夷の反乱を鎮圧し、神亀元年(724)に東北支配の根拠地として多賀柵を築いた。奈良時代には鎮守府が置かれて軍事拠点となり、平安時代には陸奥国の国府が置かれて東北を支配する政治と軍事の要塞都市となった。延暦八年(789)に征東大将軍の紀古佐美が衣川に兵を進め、巣伏の合戦(地図)で アテルイ が組織した軍勢に壊滅的な敗北を喫した、その時に紀古佐美が出陣したのも多賀城である。
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全体の規模は一辺が約1kmの少しいびつな四角形で、中央の高台にあった土塁の遺構を修復した築地塀(東西103m×南北116m)の内側に政庁があった。時代の推移と共に規模の変化などがあり、最終的には前九年と後三年の役が終結した後に政治の中心が奥州藤原氏の本拠・平泉に移り放棄された。
源頼義 は安倍氏の討伐に、八幡太郎義家清原家衡 の討伐に、それぞれがこの拠点から出陣している。
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多賀城の詳細は
東北歴史博物館(公式サイト)を参考に。政庁跡の北側にある管理事務所駐車場を利用すると効率が良い。

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左:前九年の役時代の「衣の関」跡       画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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衣の関(衣川の関)は数ヶ所が推定されており、時代の推移に伴って移動している。永承七年(1052)、陸奥守に任じた 源頼義 が数十日間の陸奥六郡巡察を終えて多賀城国府に戻る途上で、陸奥権守藤原説貞の子である光貞と元貞から「野営中に襲撃を受け多くの人馬を殺傷された」、との報告を受けた。
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光貞は「私の妹と貞任の婚姻を拒んだため、それを恨んだ安倍頼時の嫡子 貞任 が犯行に及んだのでしょう」と告げたため、頼義は貞任を召喚して処罰しようと考えたが賴時はそれを承服しなかった。「陸奥話記」は前九年戦役の発端になったこの事件をを次のように書き残している。
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頼時は「たとえ一族が滅びても妻子を罪に問い見殺しにはできぬ」と語り、側近は「お言葉の通りです、一塊の泥で衣の関を閉じれば誰も越える事はできませぬ」と答えた。
こうして衣の関は封鎖され、ますます怒った頼義は大軍を召集して安倍一族討伐に取り掛かった。
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永承七年から数年の戦いを有利に進めた安倍軍だが、衡平五年(1062)の春に出羽から 清原武衡 が大軍を率いて頼義旗下に加わったため、戦況は一変した。小松柵・高梨宿・石坂柵を落された安倍軍は北に逃げ、9月(旧暦)には衣の関まで退却して防備を固めた。
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  ※清原氏の参戦: 戦いは膠着状態になり、実効支配範囲を広げた安倍氏は勝手に税の徴収まで始めた。危機感を強めた頼義は俘囚主を称していた出羽の豪族清原氏の
棟梁 武則 に援軍を求め、臣下の礼まで示して援軍を懇請した、と伝わる。
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  参考までに...平泉再訪用に作った史跡案内図は こちら(別窓)。かなり重いし、今後もポイントを追加する予定だけど、利用はご自由に。
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再び「陸奥話記」に戻って、
9月6日の昼、頼義 の軍勢は要害の衣の関を攻めたが突破できず、死者九人と負傷者八十余人を出した。武則の次男 武衡 は身の軽い郎党の久清に敵の撹乱を命じ、樹と蔦を伝って対岸に渡った久清は同様に渡った30余人の兵を率いて藤原業近の柵に侵入、放火して焼き払った。このため混乱した貞任軍は70余の戦死者を残したまま衣の関を放棄して鳥海の柵に逃げ込んだ。
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陸奥話記が描いた衣の関の場所には諸説あるが、現在の衣川区川端で数本の谷川が合流し、すぐ上を東北道が通る付近(地図)とする説が有力。接待館史跡から西へ1.5kmほどで東北道の下を抜け月山(三峯)神社前を左折し、東北道沿いの細道を600mで橋の横に案内板が立っている。交通の便は悪いが車の通行は可、更に東北道の下を左へ(徒歩)進むと関山中尊寺の僧坊・円乗院に抜けられるが、道が細くて車では進めなかった。
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  ※小松の柵: 擬定地は衣の関の約6km南の一関市萩荘谷起島(地図)。磐井川と久保川に囲まれた要害。
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  ※石坂柵: 小松の柵から約2km北、一関市赤萩の烏森山南麓(地図)。安倍氏の軍馬牧があった。高梨宿は小松の柵との中間か。
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  ※藤原業近の柵: 安倍貞任 の弟宗任(鳥海三郎)の腹心藤原業近の琵琶の柵。衣川北岸・衣の関比定地の300m西、陸奥話記の記述に符合する。
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  ※鳥海柵: 平泉から約20km北、岩手県胆沢郡金ヶ崎町の胆沢川北岸(地図)に確認されている。

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右:衣川上流域 安倍一族累代の居館跡       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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安倍一族の出自については諸説があり、貞任 の子孫を称する安東氏の系図では第八代孝元天皇の子孫・安倍比羅夫→ 宿奈麻呂→ 小嶋→ 家麻呂→ 黒人(Blackではない)→ 富麻呂→ 宅良→ 忠良→ と続くが、文献上で明らかなのは「忠良→ 頼時(頼良)→ 貞任」の三代のみで、忠良以前は確定に至っていない。
異説として、忠良の数代前を アテルイ とする系譜もあるのが面白い。出自の主な説は、下記の三点。
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    1.神武東征で討伐された大和の豪族・長髄彦の兄・安日彦が津軽に土着した。
    2.奥州に赴任した官僚あるいは武将の子孫である。
    3.大和朝廷に征服され服従した蝦夷の俘囚の中から台頭した先住民の子孫。
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1.は仙台藩医相原友直が編纂した平泉三部作(平泉実記・平泉旧蹟志・平泉雑記)が紹介する「安倍氏の自称」で、群書類従にも同様の記載はあるが共に1700年代後半以後の著作であり、系譜に関する限り信頼に値しない。読み物としては面白いから、それなりの距離を置いて(妄信せず、の意味)読む限りではお薦めできる。興味があれば、こちら(外部サイト)で。
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個人的には(論理的な背景はないけれど) 2と3の混合じゃないかな、と思っている。大和朝廷への服従を拒んで先住民族を率いたアテルイが抗戦したのは天応元年(781)から20年間に亘り、安倍一族が隆盛した西暦1000年から約200年前、6~7世代前となる。征服に伴って朝廷が派遣した官人が任地に定住し、先住民族と200年を経て混血を重ね、大和民族系の血が徐々に濃くなるに従って俘囚による支配体制が形成された、と考えるのが妥当だろう。
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ネイティブ・アメリカンの歴史と重ねて大和朝廷の支配を拒み抵抗を続けた先住民族、と考えるのはロマン豊かだが、幾つかの事例がそれを否定している。異民族による支配は殆どの場合、武力制圧と同時に血の交流によって「純血性の曖昧化」が進むのが常である。
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  ※幾つかの事例: 後述するが、陸奥話記は瀕死の重傷で頼義の前に運ばれた 貞任 を 「背丈は六尺以上で胴周りは七尺四寸、容貌は立派で色白」と表現しており、
身体的特徴は先住アイヌ民族とは異なる。
また子孫である奥州藤原氏三代 秀衡 の長男 国衡 は庶子のため異母弟の 泰衡(生母は大和朝廷の貴族 藤原基成の娘)が後継者となった。これは「母が蝦夷の娘」だったため、ともされており、先住民と大和系の混血が特に珍しくなかった事を物語っている。

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左:安倍頼良・貞任親子の居舘跡       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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安倍貞任 の居館跡と言われる。この位置は衣川上流域の安倍館から見ると直線で約南4km南東で、伝・衣の関跡より700mほど北(地図)にある。安倍一族が衣川を越えて南への勢力拡大を窺わせるため、前九年戦役を引き起こす原因の一つにもなった。
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安倍頼良(将軍 頼義 と読みが同じなのを憚って後に頼時と改名)と貞任親子は代々の安倍館から本拠地をここに移し、北に通じる主要道も館の東に移したと伝わる。つまり、頼良の側近が 「一塊の泥で衣の関を閉じれば誰も越えられぬ」 と言った「衣の関」から山裾を月山神社の前を経て北上する街道に隣接している。
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本来なら100mほど東に衣川を接しているのだが...街道に沿って隔壁のように続く東北道が往時の雰囲気を完璧に破壊しているのが実に残念だ。
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天喜四年(1056)、「陸奥権守藤原時貞の息子・光貞と元貞が野営中に人馬を殺傷した」のが事実だったか、またそれが貞任の手勢による事件だったのかは疑わしい。貞任が愚かだったとしても父の頼良が財宝を贈り饗応している頼義の部下を襲撃すればトラブルを引き起こす、その程度は判っている筈だし、36歳の貞任が陸奥権守の娘との婚姻を拒まれたのも、その理由が身分の卑しさというのも、頼義が弁明も求めず即刻身柄の引渡しを求めたのも、素直には信じがたい。
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藤原時貞は後に薩摩守に任じているが、当時は「卑しい身分の安倍氏の嫡子」と娘の婚姻を拒むほどの立場ではない。この事件には明らかに冤罪あるいは捏造の疑いがあり、貞任の暴挙よりも頼義または側近が影響力の拡大を狙って仕組んだ可能性を考えるべきだろう。
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安倍貞任 は奥六郡の俘囚長・安倍頼時の二男、前九年の役が終結した康平五年(1062)に厨川の柵で敗死した時は43歳だった。朝廷から半ば独立した陸奥全域(概ね現在の岩手県)を支配し、朝廷が派遣した 源頼義義家 親子の率いる官軍に対して妹婿の 藤原経清 と共に善戦したが、最終的には出羽清原氏の援軍を得た官軍に敗れ、厨川の柵で敗死。首は丸太に釘で打ち付けられて朝廷に送られた。陸奥話記は「背丈は六尺以上で胴周りは七尺四寸、容貌は立派で色白」と表現している。最盛期の横綱・武蔵丸を脱色(笑)したらほぼ同じ体型になりそうだ。

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右:衣の舘は ほころびにけり...一首坂     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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古戸地区は国道4号から5kmほど北西に離れているが陸羽街道を迂回する重要路として古くから利用されたルート上にある。奈良時代末期、征東大将軍に任じた紀古佐美が延暦八年(789)に根拠地を置き、アテルイ が指揮する蝦夷の抵抗軍に対峙した。衣川周辺の砦三ヶ所の指揮所だったと伝わっている。
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前九年の役当初の天喜五年(1057)黄海の合戦では安倍軍が頼義軍を誘い込んで大勝したが、康平5年(1062)には攻勢に転じた頼義・清原連合軍によって衣川一帯の拠点が全て陥落し、貞任勢は代々の居館を落とされ一首坂を経て辛うじて北側の鳥海柵に逃れた。
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  ※頼良の勝利: 古戸古戦場から40km南東の黄海(きうみ)合戦を差す。挟撃を受けた官軍は壊滅し頼義らは僅か数騎
で逃げたのが天喜五年(1057)11月、すぐ近くの古戸の合戦はその250年前である。
共に史実だが資料も史跡も現存せず、私は黄海から7km北の一関市川崎町を通りながら立ち寄らなかった痛恨のスポットだ。
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  ※代々の居館: 安倍氏館(舞鶴舘、落合舘)は古戸古戦場の1km西南西で駒場・古館・琵琶館などの古跡が散在する。衣の関を追われた貞任は先祖代々の館近くで一戦
して北へ逃げたが、再びこの地を踏むことはなかった。
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さて一首坂は...北を差して逃げる貞任に迫った 八幡太郎義家「ころものたては ほころびけり」 と詠み掛けたのに対して 安倍貞任「としをへし いとのみだれの くるしさに」 と返した伝説がある。貞任が返した下の句の 「年を経し糸の乱れ」 は 「落城した衣の舘」 と 「綻びた衣の縦糸」という二つの意味を持つ。
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「どうだ、衣川の館は落としたぞ!」と叫んだ義家に「衣と同じだ、古くなったから敗れた(綻びた)だけだい!」と返した当意即妙さに感心した義家は追撃を止め、山を越えて落ち延びて行く貞任を見送った、と伝わる。
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いくら和歌の詠み合いが盛んな平安時代でも、互いの矢が届く距離で対峙した両軍の指揮官二人がそれ程に悠長な遣り取りをするのは無理だろう。ましてや10年も続いた苦戦で父頼義の憎しみは尋常のレベルではない、八つ裂きにしても心が晴れない敵将である。
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衣の関から4kmほど北西で、山を越えて鳥海柵の方向へ進むルート上に位置する(地図)。安倍氏館も近いから、敗走する貞任軍が通った可能性はもちろん高い。ご丁寧にも貞任石と義家石が置いてあるが、誰の仕業か義家石は一時期行方不明になっていたらしい。


 その拾六 奥州の悲劇② 後三年の役で清原氏嫡流が滅亡 

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清原光頼と弟の 武則 は康平五年(1062)9月の厨川柵の合戦(盛岡市)で 安倍貞任 を滅ぼし、開戦前夜と戦後処理を含めると足掛け12年にも及ぶ前九年の役に勝利して奥州全域(出羽国と陸奥国、山形県と岩手県の概ね全域)の覇権を握った。
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光頼が出羽国、武則が陸奥国を統治したのだが、光頼の没後は前九年の功績により従五位下鎮守府将軍に任じた武則が全域の統治者として奥州の覇権を握った。権力は武則の嫡子 武貞 を経て嫡孫 真衡 に引き継がれた。
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一方で貞任に味方して斬首となった 藤原経清 の妻・有加一乃末陪(貞任の妹)は勝利者の清原武則と再婚した。これは安倍一族との融和を図った政略結婚だったらしいが、有加一乃末陪が類まれな美女だったと考える方が個人的には楽しい(笑)。
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そして彼女の連れ子(藤原経清の子、後に元服して清衡)は武則の養子として養育された。この子が後に陸奥の覇者となる 藤原 (清原) 清衡 である。
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武貞を相続した真衡には男子がなく、常陸平氏系の海道小太郎(後の成衡)を養子迎え、更に 頼義 の娘を成衡の妻に迎えた。常陸平氏と河内源氏の両方を縁戚として政権の権威を高める意図の計画は、同時に清原氏と安倍氏の血筋を両方とも失う事でもあり、一族の内部には不満が積み重なっていく。
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  ※常陸平氏: 常陸国に本拠を置いた高望王流坂東平氏の一族。高望―国香―貞盛と続き、貞盛は弟・繁盛の子・維幹―為幹―重幹 (繁幹)―致幹と続き、大掾職 (国司の
三等官) を姓として常陸平氏となる。致幹の娘が産んだ 源頼義 の娘が夫婦養子として成衡に嫁した、という事。
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成衡の婚礼が近づき、出羽国からは清原一族の長老 吉彦秀武 が砂金を掲げて献上に訪れた。この時に碁を楽しんでいた真衡が長時間待たせたため激怒した吉彦秀武は砂金を庭に投げ捨てて出羽に帰ってしまう。碁を終えた真衡は逆にこの無礼を咎め、直ちに追討軍を率いて出羽を目指した。
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吉彦秀武は真衡と不仲の 家衡(真衡の異母弟で清衡の異父弟)と清衡に助勢を求めた。家衡・清衡連合軍は白鳥柵を焼き払い、真衡の出陣で手薄になっていた館の襲撃を計画、吉彦秀武追討に向かう途中でこの動きを知った真衡は引き返し、兵力の劣る家衡・清衡連合軍は決戦を避けて出羽に逃れた。

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左:後三年戦役 最後の地 金沢の柵跡      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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真衡が再び軍備を整えて出羽討伐を計画した永保三年(1083)の秋、源義家(前陸奥守 頼義 の嫡男)が陸奥守に任じて多賀城国府に着任した。成衡の妻は伝・頼義の娘だから成衡とは義兄弟、真衡から見ると武名の高い婿にあたる。
真衡は歓待の宴を設けた後に出羽討伐軍を率いて出陣、この不在をチャンスと見た家衡・清衡連合軍が再び真衡の館を攻めた。
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この戦いでは義家の郎党が真衡側に加勢して善戦し、敗れた家衡・清衡連合軍は勝ち目なしと判断して降伏した。これで清原氏の内紛は終わったかに見えたが、遠征途中の真衡が急死したため事態は急展開を見せる。
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お家騒動を調停した義家は奥六郡を二つに分け、清衡には南の和賀郡・江刺郡・胆沢郡を、家衡には北の岩手郡・紫波郡・稗貫郡を分与した。北部三郡に比べて南部は豊かな穀倉地帯だったため、清衡の異父弟・家衡はこの裁定に不満を持ち、応徳三年(1086)に清衡邸を襲って妻子を含めた一族を皆殺しにした。
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不在のため奇跡的に生き延びた清衡は義家の助力を得て家衡の沼柵を攻めたが、寒さと準備不足のため撃退された
武貞の弟 武衡 は家衡の勝利を知り、「鬼神と称えられたあの義家を破ったのは武門の誉れである」と喜んで家衡の陣に加わった。この頃に、沼柵で苦戦する兄・義家を助けるため 新羅三郎義光 が官職(左兵衛尉)を辞して奥州に向かった。一方で家衡は武衡の進言を容れ、防衛に難のある沼柵から要害の金沢柵に移り籠城戦を展開した。
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  ※清衡館を急襲: 豊田館で清衡と同居していた家衡が隙を狙って妻子を殺して放火し沼柵に入ったとも。血で血を洗う肉親の争い。
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  ※沼柵の攻防: 金沢柵の15km南西、横手市雄物川町沼館(地図 の蔵光院一帯。河岸段丘ではあるが金沢柵に比べて防衛向きではない。
室町時代の成立だから全面的には信頼は出来ないが、康富記(官吏・中原康富の日記)は次のように記録している。
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  清衡 は陸奥守 源義家 の元を訪れ(妻子を皆殺しにされた)嘆きを訴えた。義家は数千騎を率いて家衡の沼柵を攻めた。
  合戦は数ヶ月に及び、官軍は大雪のため飢えと寒さに苦しんだ。兵の多くが凍死・餓死し、馬を殺して食べ人を抱いて暖を得た、と。
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  ※豊田館: 平泉市街の北20kmの江刺区岩谷堂(地図)が館跡の史跡公園。歴史テーマパーク えさし藤原の郷(公式サイト)が近い。
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金沢柵の籠城軍は良く戦ったが、義家軍に加わった 吉彦秀武 が建策した兵糧攻めによって寛治元年(1087)11月14日に陥落。捕虜となった 清原武衡 は斬首、指揮官の 家衡 は戦死して終戦となった。義家の勝利ではあったが、朝廷は「戦役は義家の私戦である」として恩賞も戦費の負担も拒否し、義家の陸奥守を解任して更に戦役中に貢納しなかった税収の支払いを命じ、承徳二年(1098)までその請求を続けた、と伝わる。
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義家はやむを得ず関東から参戦した兵には私費で恩賞を与え、これが源氏の名声を高めて後の 頼朝 挙兵にプラスの効果をもたらした。禍福はあざなえる縄の如し、奥州の支配を夢見た 頼義義家 の親子は失意のまま奥州を去り、100年後の頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし「源氏の宿意」を晴らす事になる。
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勝ち残った 清原清衡 に官位授与こそなかったが清原一族最後の血筋として奥州を支配下に納め、父経清の藤原姓に復して奥州藤原氏の初代となった。
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  ※義光の応援: 100年後、富士川合戦に向かう 頼朝 の軍陣に 義経 が平泉から馳せ参じた。頼朝は義光の例を挙げて喜んでいる。

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羽曳野通法寺 右:羽曳野 通法寺奥の高台 源義家の廟所 画像をクリック→ 拡大表示 更に詳細は 羽曳野 通法寺 (別窓) で。
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  ※義家の評価: 源氏は恰も軍神の如き敬意を払っているが、貴族の評価はその限りではない。
例えば従一位・右大臣の 藤原宗忠 (wiki) は日記「中右記」の中で「武士の長者として多くの人を殺した積悪が子孫に及ぶ」と書いている。
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鎌倉時代初期の実録っぽい説話集 古事談 (wiki) は「父の頼義は前九年の役で斬った一万八千の首から片耳を切り取り、乾して革袋に入れて持ち帰った。しかし晩年には悔い改めて仏門に入り耳を六条坊門北に埋め、堂 (耳納堂、六条堀河館 左女牛井の跡 を参照) を建てて供養したため成仏できた。しかし義家は更に多くの人を殺し、悔いる様子もなかったため無限地獄に落ちた」 と書いている。
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更に伝承では「ある人が夜中に義家が鬼に引きずられて門から出て行く夢を見た。義家の屋敷の様子を窺うと「義家が没した」と大騒ぎになっていた。鬼が義家を地獄に引き立てて行く正夢だったに違いない。」 など、必ずしも好意的な評価ばかりではないのが面白い。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月21日 】
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(前段略)今日、一人の若者が黄瀬河の 頼朝 本陣の前で鎌倉殿に拝謁を申し入れた。土肥實平土屋宗遠岡崎義實 らは警戒したがこれを聞いた頼朝が 「年齢を考えれば奥州の九郎か、対面しよう」と呼び入れ、互いに昔のことを語り合い、懐旧の涙を流した。白河法皇の永保三年(1083)9月、先祖の義家が武衡・家衡と戦った際に弟の義光が(兄の苦戦を知り)朝廷警護の官職を辞して応援に駆けつけ敵を滅ぼした、その例と同じである、と。平治の乱の際は産着の中にいたが 一條大蔵郷長成 に養育され鞍馬山に入り、報復を果たすべく奥州の 秀衡 の元に逃れた。秀衡は手放すのを惜しんだが勇猛で知られた 佐藤継信忠信 の兄弟を与えた、と。
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  ※永保三年: これは私自身の誤訳(原文の曖昧な表現も一因)で...正しくは「永保三年(1083)に勃発した奥州の戦乱(後三年の役)で先祖の義家が武衡・家衡
と戦った際に...」 とすべきだった。
正確に書くと、義家の陸奥守着任が永保三年(1083)、家衡の清衡邸襲撃が応徳三年(1086)、沼柵攻防が同年の冬、金澤柵の籠城開始が応徳四年(1087)の春、同年(4月7日に改元して寛治元年)11月14日に金澤柵陥落。義光が陸奥に向かった、又は義家の軍陣に入ったのは寛治元年で4月7日以後だが日付は不明(官符を調べれば判るかも知れないが、その能力なし)。ちなみに、義光が足柄峠で豊原時秋に笙の秘曲を伝授した件(松田郷から足柄峠を越えて黄瀬川へ を参照)は「古今著聞集」のフィクションだと判明している。

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 その拾七 奥州の悲劇③ 藤原氏三代と平泉文化が滅亡 

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中尊寺 左:平泉文化のスタート 天台宗の関山中尊寺     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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中尊寺の創建は平安時代後期・第73代堀河天皇の嘉承三年 (850)、天台宗総本山である比叡山延暦寺の第三代座主 慈覚大師円仁(wiki・延暦十三年(794)~貞観六年(864))の開基による。
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創建の150年後、12世紀初頭の戦乱 (前九年と後三年戦役、1051~1087) を経て東北の覇権を握った奥州藤原氏初代の 清衡 は嘉保年間 (1094~1095) に本拠を豊田館(奥州市江刺区岩谷堂、地図)から平泉に移し、戦乱で肉親を失った悲しみに耐えて陸奥国に極楽浄土の実現を目指した。
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嘉承三年(1108)に中尊寺建立に着手し翌々年に大長寿院、保安三年(1122)に経蔵、天治元年(1124)に阿弥陀堂(金色堂)が落成、大治元年(1126)には中尊寺大伽藍(二階大堂)落慶供養を催した。
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中尊寺建立供養願文(重要文化財)には、建立を思い立った経緯と堂宇伽藍の明細が如実に記されている。願文の日付は天治三年(1126) 3月24日だから、棟書きに天治元年(1124)の墨書が残る金色堂は既に完成し、同様に関山山頂にあった多宝塔・釈迦堂・二階大堂も完成していた、と推測できる。この願文が新たな中心となる施設(二階大堂))の完成を意味するのか、あるいは中尊寺の堂塔群全体の完成を意味するかは諸説あるが、関山に於ける堂宇の建設事業は概ね終っているから、対象を限定しても意味はない。
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  中尊寺建立供養願文の一部に以下の記述がある。   
丈六皆金色の釈迦三尊像を本尊に祀る堂を中心にして、三つの三重の塔と金銀泥一切経を納め皆金色文殊師利尊像を祀った二階瓦葺きの経蔵と二階の鐘楼があり、釈迦三尊像の堂の左右に回廊があり、その前に中の島を配した池がある...

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未完成の浄土庭園 右:まだ未完成の浄土庭園と蓮池   画像をクリック→ 拡大表示
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残念ながら中の島を配した浄土庭園が完成するまでは暫くの年月が必要だし古代蓮の量も少ないため清衡当時の姿を想像することはできない。今のところは金色堂に最も近い「坂の上駐車場」(1回 500円)を利用できるのが最大のメリットで、平安末期の姿をどこまで再現できるのか少々心もとない。
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中尊寺建立の60年後に奥州藤原氏は滅亡するが、平泉を制圧した頼朝や彼に従った東国の武者たちは平泉仏教文化の荘厳な姿に強い衝撃を受けた。当時の鎌倉には「二層構造の仏堂」や「仏堂と浄土庭園」という概念はない。9月28日に平泉を発ち10月24日に鎌倉に凱旋した 頼朝 は直ちに中尊寺二階大堂を模した永福寺の建造に取り掛かった。
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同様に、下野国から遠征した 足利義兼 が建てた 樺崎寺と浄土庭園(別窓)や 宇都宮頼綱 が建てた大羽山地蔵院(別窓)も同様で、それぞれがその地を自らの廟所と定めている。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 11月24日】
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北條時政 が伊豆国に下った。奥州征伐が終わったら寺を建てる旨の立願(6月6日)をしており、その差配を行うためである。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 6月6日 】  時政の立願
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北條時政の宿願である奥州征伐の成就を祈るため、伊豆国北條に新たな寺を造営する。吉日である今日を選んで柱を立てて上棟し、工事の仕事始めとした。名は願成就院、本尊は阿弥陀三尊像と不動明王・多聞天の像で、既に完成している。時政は現地に赴いてさらに周到な装飾を加え細かく指示を与えた。
敷地は田方郡の中で 南條・北條・上條・中條が境を接している。先祖の事蹟が残る地を選んで伽藍造営を計画したものである。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 12月9日】
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永福寺建立が始まった。平泉で見た豪壮な寺院を鎌倉にも造って(過去の合戦で死んだ)数万の霊を供養し三界苦悩の救済を目指すためである。平泉の中でも特に感銘を受けた二階大堂(大長寿院)に似せて造るため二階堂と名付けた。屋根は天に届くほど高く聳えて心からの感謝を表し、金銀で飾り立てた比類ない姿を目指している。
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また伊豆国北條に建築中の 願成就院(別窓)の北側に頼朝の宿館を建てるため造成した際に「願成就院」と書いた古い扁額が掘り出された。この寺は奥州征伐の成功を祈って時政が草創した寺である。無事に平定が終わって願いが叶い、前もって決めた寺の名を書いた額が現れるのは神慮と言えるので修理して使うことになった。寺院の繁栄と共に武家の繁栄も額の文字通りになることだろう。

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※三界苦悩の救済: この題目は明らかに清衡の中尊寺建立願文 (下段) をパクっている。二階大堂の建立を真似しその心まで真似る。頼朝のレベルは所詮この程度か。
仏心の真似は出来ても心に取り入れる事はしない、まるでカルト・創価学会の出先に過ぎない公明党だ。
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※頼朝の宿館: 現在の寿覚院光照寺が宿館の跡とされている。詳細は 頼家の面と石和信光(別窓)に記載した。

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左:中尊寺建立供養願文の伽藍比定地    画像をクリック→ 拡大表示
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清衡 が願文で述べた伽藍と庭園の姿は、中尊寺本堂の南側の蓮池周辺に降りて、西に下って行く舗装道路の周辺(地図)に立って想像してみよう。私が最後に訪問した際は発掘などのため立ち入り禁止で撮影もできなかった。従って大池周辺の画像はないが、これは「中尊寺 大池」で検索すれば豊富に確認できる。
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  経蔵、鐘樓、大門、大垣を造り、高い場所には築山を、低地には池を設け、四神具足の地を造り上げた。
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中尊寺ハスが開花する7月中旬の休日には地獄の大混雑を呈するから、この期間中に訪問する場合はなるべく平日を選ぶ方が良い。浄土庭園の再現を目指した池は南北に120mで細長く、西から水が流れ込む設計だったのが確認されている。背景の高台に金色堂や二階大堂を配した姿。
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中尊寺建立供養願文の主要部分は下記に抜粋した。これも検索すれば原文・現代語訳のどちらも確認できる。世界遺産登録の一助にもなった平和を祈念する内容だが、平泉全体にこの概念が継承された訳ではなく、世界遺産登録を目的に清衡の祈りを意図的に大きくアピールしたに過ぎない。忌憚のない表現をすれば、「清衡の祈りを利用して訴求効果を高めた商業主義の勝利」だ。
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【 中尊寺建立供養願文の主要部分 】
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二階鐘楼の鐘の音は全ての生き物の苦悩を除いて安楽を与え、あまねく世界に響き渡る。官軍か蝦夷かを問わず古来から多くの命が失われた。
獣も鳥も魚も多くが殺され魂は霊界に去り、骨は朽ちて土塵に帰した。鐘の音が響くたびに罪なく死んだ霊魂を慰め菩薩の浄土に導こうと願う。
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       ~施設の明細を記述した部分は略した~
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この善根の趣意は偏に国家鎮護を願うためである。由縁を言えば、仏弟子の私 (清衡) は東夷の長の係累であり、合戦がなかった帝(この場合は 白河天皇 を差す)の治世に生れて仁恩の多くを受けた。東夷の郷では騒乱も少なく俘囚も平和に暮らす事ができた。その中で私は俘囚の長として先祖の遺業を引き継ぎ、今や出羽国と陸奥国の人心は風に靡く草のように従順であり、周辺の蛮族も太陽に向う向日葵の如く温和である。
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  ※東夷: 古代中国の四方に住んでいた異民族の蔑称(東夷、北狄、西戎、 南蛮)。転じて京都から見た東国の粗野で野蛮な民族を差している。
平安時代中期以後は、主として朝廷側が無骨な東国武士を嘲る代名詞となった。「東夷の長の係累」とは清衡の生母(藤原 (亘理) 経清 の妻)が 安倍貞任 の妹だったから。貞任の父は奥六郡の俘囚長として前九年の役を戦った安倍頼時である。
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あるがままに国を治めて三十余年、納貢を怠らず生業に励んで過ごし、鳥の羽毛や獣の牙や毛皮などの献上を違えることもなかった。これらによって朝廷の厚情を受け多くの恩を蒙って既に杖郷の齢 (60歳) を過ぎた。人の運命を考え恩に報いるためには善根を積むのが最も望まれることであるから、納税の残余を調べ蓄えを投げ打って吉運の地に堂宇を建て、金泥を以って阿弥陀の経典を写し納めた。
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経蔵、鐘樓、大門、大垣を造り、高い場所には築山を、低地には池を設け、作庭記 (wiki) の理に適う)四神具足の地を造り上げた。これによって蝦夷は仏善に帰依し、いわばこの地に極楽浄土が現れたことになる。

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  ※四神具足: 日本では 北の玄武 (高山) ・東の青龍 (丘) ・西の白虎 (更に低い丘) ・南の朱雀 (平地、池、道) が地形の基本となる。
中国の風水と、日本の風水と、作庭記と、更には 桓武天皇 が「四神の求める地形を具え足りた地」として京を選んだ基準とは必ずしも同じ発想からではないらしいが、更に詳細は割愛する。調べてみるのも面白い、かも。
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嘉保年間 (1094~1095) 前後に豊田館から平泉に本拠を移した清衡は平泉全域の完成を見る事なく、中尊寺落慶供養2年後の大治三年(1128)に病没し金色堂中央壇に葬られた。後に増設された右壇には二代 基衡 の遺体と四代 泰衡 の頭骨を納めた首桶、左壇には三代 秀衡の遺体が納められている。
1950年に行われた金色堂内部の調査結果は 藤原氏四代のミイラ(参考サイト)を参照されたし。

 
右:現在の大長寿院山門   画像をクリック→ 本堂の外観へ(当時の堂宇とは異なる)
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清衡 の遺志を継いだ二代 基衡 は更に毛越寺の造営を開始して平泉全域の整備を目指したが、彼も未完成のまま保元二年(1157)に病没、妻は毛越寺の東隣に観自在王院を建立している。
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平泉全域の寺社堂塔が完成したのは三代 秀衡 の時代で、関山の中尊寺周辺から離れた北上川寄りの政庁である柳之御所や無量光院や秀衡の私邸・伽羅御所などもこの時代に出来上がった。
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頼朝による奥州合戦で焼け残った中尊寺は建武四年(1337)の大火でほぼ全焼し、その後は徐々に荒廃した。藤原氏三代の建造物で現在も残っているのは金色堂のみ、次に古い覆堂(金色堂を外側から包んでいた覆い堂)さえ正応元年(1288)の建造である。頼朝による奥州征伐の見聞は、部下が提出した報告書の形で吾妻鏡に記録されている。
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また昭和25年に一部の反対を押し切って行われた金色堂須弥壇の学術調査により、藤原氏四代の遺体が死因の特定に至るほどの成果を挙げたこと、更に昭和40年(1965)に天台宗の僧正となり、翌年に中尊寺貫主として赴任した型破りの作家 今東光和尚 (wiki) が荒廃した中尊寺を中興して金色堂の昭和大修理を成し遂げ、昭和43年(1968)に落慶大法要を行った事などは特筆に価する。
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蛇足として、観光情報を。大長寿院手前の釈迦堂横を右へ進むと中尊寺直営の かんざん亭(公式サイト)に至る。価格は少し高めだが、参道入口周辺の土産物店や食事処よりは静かな雰囲気が味わえる。団体客の混雑を避けての利用をお薦めしておく。

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左:七百数十年も金色堂を保護していた鞘堂(覆堂)    画像をクリック→ 拡大表示
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金色堂建立は初代清衡の天治元年 (1124) 、約50年後には風雨による破損を防ぐ仮設の保護施設が造られ、正応元年 (1288) に鎌倉七代将軍惟康親王の命令により外側を完全に覆う鞘堂が完成した。関山中尊寺の境内案内(公式サイト)を参考に。
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そして全体の破損が深刻化した昭和38年 (1963) に解体修理が、翌々年には鉄筋コンクリートの現在の鞘堂に変わり、現在ではガラスケースの中に密封され温度と湿度をコントロールされた中に保存されている。更に1962年から6年を費やして破損や劣化が完全に復旧された。
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旧鞘堂は直線で北西120mほど離れた場所に再建され、国の重要文化財として建立当時の姿を保っている。共通拝観券で金色堂と讃衡蔵と経蔵と旧覆堂も見学できるから、急ぎ旅でない限り関山全ての通路を歩いて奥州藤原氏四代が見た夢を共有しよう。
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関山に散在する別院を除く中尊寺境内は通年の開放で、3月1日~11月3日は8時半~17時、それ以外は16時半までとなる。
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【 吾妻鑑 文治五年(1189) 9月17日 】
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清衡以来三代の藤原氏が造立した堂宇についての報告が提出された。中原親能比企朝宗 から説明を受けた頼朝はすぐに信仰心を催して寺領の全てを安堵すると共に信仰に励むよう指示した。また地頭も勤行を妨げず助けるよう、その旨の壁書を与えて円隆寺の南大門に貼り出すように命じた。

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右:現存している関山(かんざん)の別院群   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鑑 文治五年(1189) 9月17日の続き 】
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報告、中尊寺の事...関山中尊寺の堂塔は40余、僧坊は300余りを数える。陸奥六郡を管領した清衡が最初にこれらを草創した。白河関 から (津軽北端の) 外浜まで (ルート地図) の行程は二十数日、その一町 (約109m) ごとに笠卒都婆を建て、金色の阿弥陀像を描かせた。
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白河関と外浜の中間である関山の山頂に多宝塔を建てて左右に釈迦像と多宝像を配し、中間に関道 (現在の月見坂) を拓いて旅人の往還路とした。釈迦堂には百余体の仏像(全て木像金箔)を配した。続いて高さ五丈(約15m)の二階大堂(大長寿院)には本尊として三丈(約9m)の金色の阿弥陀像と、丈六(約5m)脇侍九体を納めている。
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続く金色堂は上下と四方の壁と内殿が全て金色で堂内に螺鈿の三壇を構え、定朝(京都の大仏師)が彫った阿弥陀三尊像と二天像と六地蔵を置いている。南に日吉社と北に白山宮を勧請して鎮守とし、その他にも荘厳な一切経蔵を配した。
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清衡が平泉で過ごした33年間には延暦寺、園城寺(三井寺)、東大寺、興福寺、中国の 震旦天台山(wiki)で、寺ごとに千人僧による供養を催し、入滅の際は合掌して仏号を唱え眠るように眼を閉じたという。
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  ※笠卒都婆: 奈良 般若寺(公式サイト)の重文・笠塔婆(画像・別窓)が知られている。弘長元年(1261)の建立で高さは4.8m。白河の関~外浜間は
約550km、従って約5500本の笠卒都婆が建っていたことになる。高野山町石道(紹介サイト)を更に大規模にした感じか。
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  ※仏像のサイズ: 仏陀の身長は一丈六尺(16尺≒485cm)、座ると半分の八尺(約243cm)。造像はその0.5倍・等倍・5倍・10倍が基本になる。
更に面倒なのは、坐像を「立っている時のサイズ」で表記すること。従って二階大堂の仏像は「丈六(485cm)の阿弥陀如来坐像と丈六の脇侍(立像)」が実際のサイズ。金色堂の秀衡壇 を一回り拡大したイメージ。

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左:平泉の極楽浄土 医王山毛越寺       画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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平安時代中期の嘉承三年(850)、中尊寺と同様に天台宗総本山である比叡山延暦寺の第三代座主 慈覚大師円仁 (wiki・延暦十三年(794)~貞観六年(864))が開いたと伝わる円隆寺が原型である。
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その後は初期の中尊寺と同様に大火を受けて荒廃したが、清衡の跡を継いだ 二代基衡三代秀衡 の手により再興、清衡が造り上げた中尊寺を遥かに超える壮大な寺院に生れ変った。
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大池を含む作庭が完成したのは円隆寺を再興した基衡が晩年を迎えた12世紀半ば(1160年頃か)で、第72代白河天皇(在位:1073~1087年)が京に造営した 法勝寺 (wiki) を模して設計したと伝わる。
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現在の本堂がある池の南岸は現世を表わし、島に架かる橋を渡った対岸は極楽浄土の世界を表わす。そして金堂(円隆寺)の高窓から金色に輝く本尊の薬師如来が迎える、という趣向。
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法勝寺は遠い昔に廃寺となったため当時の姿(模型画像・wiki) は想像するしかないが、創建当時の毛越寺はむしろ平等院鳳凰堂の伽藍配置に近い。平泉の無量光院や鎌倉の永福寺(共に廃寺)なども同様である。
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  ※基衡の相続: 清衡正室の北方平氏が平泉から京に移り住んで語った詳しい内容を長秋記が伝えている。 清衡 の二男 基衡 が兄の惟常を殺して覇権を握った件で、
長秋記は陸奥国の政情が乱れたため納税が停滞した件も併せて記録している。

右:江刺に残る清衡の旧邸 豊田館の跡   画像をクリック→ 拡大表示
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【長秋記 大治四年(1130) 8月21日】  清衡死没は前年の七月、その後すぐに騒乱が起きたらしい。
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頭弁(実務担当の蔵人頭)が関白に報告。陸奥国で清衡の子息二人が合戦し、公事 (税) の欠落と停滞が多発した。
兄弟の名は基衡と惟常。
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【 同じく 翌・大治五年(1131) 6月8日 】  
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清衡の妻(北方平氏)は上洛して検非違使の義成(義業を差す)に再嫁した。彼女の話に拠れば、清衡の長男惟常が基衡に攻められて国館(江刺の豊田館・地図)に閉じ込められ周辺を封鎖された。惟常はこの状態に耐え切れず、子供と郎党20人程と共に小船で北上川を下り越後を目指して逃げた。基衡は直ちに兵を派遣して陸路を追わせ、風波で陸地に吹き寄せられた船の全員を斬首した。
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  ※北方平氏: 清衡の妻四人の一人で正妻らしいが出自不明。清衡の長男惟常が殺された後に平泉から去った (追われた?)
のだから、基衡 の母ではなく惟常の生母だった可能性が高い。だとすれば基衡は清衡の正妻が生んだ長男を殺して彼女も追放した、異母兄弟の相続争いと考えるのが自然か。平泉誌は「基衡の母は佐少弁富任朝臣娘」と書いていたと思ったが...
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  ※長秋記: 権中納言源師時の日記で、平安末期の長治二年(1105)~保延二年(1136)の十数巻が確認されている。
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  ※越後を: 豊田館から北上川を下っても越後には逃げられず、下流の多賀城国府に逃げて保護を求める方が確実。間違いか?
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清衡が中尊寺建立供養願文で「官軍か蝦夷かを問わず古来から多くの命が失われた。獣も鳥も魚も多くが殺され魂は霊界に去り骨は朽ちて土塵に帰した。
鐘の音が響くたびに罪もなく死んだ霊魂を慰め菩薩の浄土に導こうと願う。」
と書いた祈りは息子の基衡にさえ届かなかったことになる。
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奥州藤原氏二代基衡の覇権もまた父清衡と同様に、肉親の血で贖われた幻に過ぎなかった、という事か。

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左:往時なら対岸に金堂が見えていた、毛越寺苑池  画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日 】   中尊寺の報告に続いて、毛越寺に関する記述。
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清衡以来三代の藤原氏が造立した平泉の堂宇について報告があった。中原親能比企朝宗 から詳しい説明を受けた 頼朝 は早速に信仰心を催して、寺領全てを安堵するから信仰に励めと指示した。
また平泉を治める地頭も僧の勤行を妨げず手助けするよう命じ、その旨の壁書を与え円隆寺の南大門に貼るように申し付けた。
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報告、毛越寺の事...
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堂塔は40余で僧坊は500余、基衡がこれを建てた。まず金堂は円隆寺、金銀を多用し紫檀や赤木を用いて輝石で様々に色を添えている。本尊は丈六の薬師如来、十二神将と共に祀る(いずれも雲慶の作、玉眼を使った初めての例)。
講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵が並び、九条関白 藤原忠道 (wiki) 筆の扁額を掲げ、参議 藤原教長 (wiki) 卿が書いた和歌の色紙を堂内に飾る。
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  ※丈六の仏像: 丈六=16尺=485cmが仏像の基準値(釈迦如来の身長との伝説に基づく)。この整数倍(または縮小)で造るらしい。
坐像も丈六(立てば丈六の意味)と表現するのが普通。現在の本尊(薬師如来)は平安時代の作を称するが文化財指定は皆無、もちろん運慶(1150年生まれ)の作でもない。基衡が毛越寺を建てたのは久安六年(1150)~久寿三年(1156)、運慶ではなく雲慶と書いているのが作為的だし、そもそも「雲慶」を名乗る仏師などどの史料にも存在しない。
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  ※本尊の変遷: 寛永十三年(1636)の伊達政宗死去に伴い、毛越寺本尊の釈迦如来三尊像は政宗菩提寺の 瑞鳳寺 に遷されて本尊となった。
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政宗の霊廟は隣接する 瑞鳳殿(公式サイト)なのだが仔細があって現在は別法人である。瑞鳳寺は昭和二十六年(1951)の仙台空襲で焼失して昭和五十四年に再建したが釈迦三尊像は公開されておらず、詳細も不明なのが残念だ。「雲慶」の件が露見するのを恐れているのだろう。

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右:高福山雪渓寺の薬師三尊像(伝・運慶作)    画像をクリック→ 拡大表示
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運慶作の薬師如来は真作と確認できない像を含めても皆無に近いため、毛越寺金堂圓隆寺本尊の姿は謎だが、高知県の 雪渓寺(wiki) の本尊(右画像・重文)の雰囲気が近いかな、と思う。雪渓寺は臨済宗の古刹で、湛慶 (運慶の嫡子) 作の 毘沙門天像善膩師童子像 (共に画像を紹介)など、平安~鎌倉初期の仏像を多く収蔵している。一応、参考までに。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日 】    毛越寺に関する報告の続き
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薬師如来造像を仏師雲慶に頼んだ。雲慶は「上中下三段階あり」とし基衡は「中」を求めた。造像費用として粒金百両・鷲の羽根百羽・アザラシ皮六十余枚・安達郡の絹千疋・麻布二千反・糠部(津軽)の駿馬五十頭・白布三千反・信夫産硯石、他にも山海の産物を添えた。
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造仏の三年間、この品々を届ける荷駄が東山道・東海道を往復して絶えなかった、と言う。更に生糸を三艘の船で届けたため仏師は躍り上がって喜んだ拍子に、「練絹(精製した絹糸、または絹織物)なら更に良いのに」と軽口を叩いた。使者がそれを報告すると基衡は悔い驚き、直ちに練絹を三艘に積んで送り届けた。
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  ※雲慶と粒金: 現代の貨幣価値に換算すると粒金百両は数百万円相当らしい。全て合せると数千万円、さすが当代の売れっ子雲慶!と言いたいところだが...
運慶の没年は貞応二年12月11日(1224年1月3日)、生年は不明だが85歳で没したと仮定しても1139年生まれ。
基衡が毛越寺を完成させたのは久寿三年(1156)頃だから、注文通りの仏像を彫ったのが 運慶 なら16歳未満だった計算になる。
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最盛期だった父康慶が焼け落ちた南都の仏像を完成させた文治五年(1189年に 運慶が「小仏師」として造像に参加した)より33年も前で、韮山の 願成就院(別窓)の本尊を彫った(と伝わる)頃より更に前。そもそも基衡は保元二年(1157)に没しているのだから、それ以前に毛越寺の造像を請け負った運慶が「当代屈指の大仏師」だった筈はない。慶派であれば、康慶あるいは師の康朝と考えるのが妥当か。
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ちなみに吾妻鏡の原文では 「基衡乞支度於佛師 雲慶 となっている。「雲慶」なる仏師は存在しないが、不本意ながらここでは通例に従って「運慶」の名前も書いた。でも運慶と雲慶(そんな仏師はいなかったけど)は間違いなく別人である事は断言しておく。
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このような話を聞いた鳥羽法皇が仏像を拝し、「かくも素晴らしい像を洛外に持ち出してはならぬ」と宣下した。基衡は狼狽して持仏堂に籠り、七日間も飲食を断って九条関白(藤原忠通か)に苦しさを訴えた。関白は法皇の機嫌が良い時に上奏し、勅許を得て平泉に安置する事ができたと言う。
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次いで吉祥堂の本尊は、釈迦に生き写しと伝わる洛陽補陀洛寺の本尊(観音)を模し、霊験が強過ぎるため丈六の観音像を造ってその胎内に納めている。次いで千手堂の木像二十八部衆にはそれぞれ金銀を鏤(ちりば)めている。本尊を守る鎮守として惣社金峰山を東西に配した。次いで嘉勝寺は完成前に基衡が没したため秀衡が仕上げたもの。四方の壁と三方の扉に法華経二十八巻の内容を彩色し丈六の薬師如来を本尊とする。
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奥州合戦でも破壊を免れた毛越寺だが、嘉禄二年(1226)11月の火事で金堂の圓隆寺とそれに続く鐘楼と経楼、西に隣接する講堂とその前の経楼、西側の嘉勝寺が焼失、つまり、池の北側に配された主要な堂宇が殆ど失われた。鎌倉では 大江廣元北條政子 が没した翌年、五代将軍 藤原頼経 が征夷大将軍に叙された年である。鎌倉も平泉も遠い昔に灰燼に帰したのに、更に古い奈良と京都に多くの木造建築が残っているって、驚異的だよね。
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> 浄土庭園北側の堂塔が焼けてから350年が過ぎた元亀四年(1573年・室町幕府が滅びた年)には領主の葛西氏と大崎氏の衝突による兵火で南大門および東に隣接する観自在王院が焼失、北岸に辛うじて焼け残っていた常行堂と法華堂も、慶長二年(1597)の野火で焼け落ちた。毛越寺に唯一残っている(少しだけ)古い建造物は、享保十三年(1728)に仙台藩主伊達吉村(五代)が再建した 常行堂 のみである。
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建立当時の建物も仏像も什器備品も失われたが、伽藍の礎石と浄土式庭園だけはほぼ完全な形で遺っているから、平安時代の優雅さを再現するイベントに合わせての訪問も面白い。拝観は8時半~17時(冬は16時半)、500円。駐車料金は別途、普通車300円、公式サイトを参考に。以前は朝8時頃に行くと無料で入れたのだが、世界遺産となってから管理はかなりシビアになったらしい。
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車で訪問する場合は800mほど北の 平泉文化遺産センター(公式サイト)をベースにすると良い。見学と駐車は無料だし、近隣を巡回する場合はそれなりの延長も許してくれる。金鶏山・千手堂・観自在王院・毛越寺の回遊ルート上にあるから、毛越寺駐車場よりも便利で経済的だ。
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  ※毛越寺: 平成元年(1989)に平安様式で再建した本堂の他に 千手院常本坊・正善院善正坊・覚性院梅下坊・白王院覚城坊・金剛院鳥屋崎坊・
大乗院柳本坊・慈光院蓮繞坊・光円院光坊・妙禅院池上坊・福昌院宝全坊・蓮乗院蓮成坊・普賢院山繞坊・寿命院千繞坊・感神院寂静坊・寿徳院円蔵坊・宝積院千光坊・薬王院千光坊・宝積院桜岡坊、併せて一山十八院が東北道西側に点在する総称が毛越寺。
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  ※葛西氏: 坂東平氏豊島氏の子孫。奥州合戦の功績で奥州総奉行に任じ岩手県南部を領有、秀吉の改易で慶長二年(1597)に滅亡した。
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  ※大崎氏: 室町時代初期には奥州管領として勢力を保ち、後に伊達氏に服属した。葛西氏との抗争は面倒なので調べていない。

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観自在王院 左:平泉 観自在王院 庭園跡       画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日 】   観自在王院に関する報告
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観自在王院は 基衡 の室(安倍宗任の娘)が建立した阿弥陀堂で、大小の二つがある。大阿弥陀堂は四方の壁に洛陽(京都の別称)の霊地や名所を描いており厨子は銀、周囲の高欄(欄干か)は金で塗ってある。
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小阿弥陀堂も基衡室の建立で、襖には参議藤原教長卿の筆になる和歌を書いてある。 また南大門の前を通る東西の数十町には倉が立ち並び、数十軒の高屋(高床?)と共に倉町の様相を呈している。敷地の西には数十の車宿(牛車置場)がある。
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 ※倉町遺跡: 数度の発掘調査で大型建物群の痕跡が確認されている(リンク頁の鳥瞰図を参照)。
観自在王院の南側には奥大道から分岐した巾30mの大路(現在の道路は12m巾)が東西に走り、その南側は倉庫や高屋などの建物群が並ぶ平泉のメインストリートだった。
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当時の街並みを頭に入れて歩くと観自在王院や毛越寺に直行するよりも遥かに趣がある。平泉まで行って観光スポットを駆け足だけじゃもったいない。
【 平泉志 巻之上 】に拠れば、
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常行堂東北の大阿弥陀堂は観自在王院と称し本尊は運慶作の阿弥陀仏、基衡室(鳥海三郎宗任の女)の建立である。仏壇は一丈五尺(約4.5m)の銀、高欄は磨金(鍍金)である。柱は一本四万貫・四本で十六満貫(意味不明)、四方の壁に京の霊地名所を描いている。一番は石清水八幡宮の放生会、二番は賀茂祭(葵祭)の様子、三番は鞍馬の風景、四番は醍醐の観桜の様子、五番は宇治平等院、六番は嵯峨の風景、七番は清水の風景である。
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この堂は元亀四年(1573)2月8日に焼失し本尊を他所に移していたが享保年間に仮堂を建てて元に戻した。古い輿を保存している。基衡の室は仁平二年(1167)4月20日に没し、毎年の命日には葬儀を模した追祭を開いている。千手院の僧が導師を務めて輿を担ぎ幡を連ねる。昔は泣きながら行なったが、近年はこの風習は途絶えた。地元ではこれを「4月20日の哭祭」と言う。720余年を経てもなお続く古風の例祭である。
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  ※平泉志: 旧・一関藩士高平真藤が明治期に著した歴史・地誌。17世紀後半に相原三益(歴史家)が著した平泉実記・平泉旧跡・平泉雑記の三部作の
集大成として刊行した。口語全訳は こちら(外部サイト)で読むことができるが、それなりの根性は求められる。

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右:文化遺産センター上空(北側)からの鳥瞰    画像をクリック→ 拡大表示
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【 平泉志 巻之上 の続き 】
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小阿弥陀堂跡は大阿弥陀堂跡の東に並び、運慶作の阿弥陀仏を本尊にしていた。
吾妻鏡に拠れば、両方とも基衡室(安倍宗任の娘)の建立で、襖の色紙は参議教長卿の書を表装している。一説に基衡の母(佐少弁富任朝臣の娘)の建立と伝わり、大阿弥陀堂と共に焼失した。
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堂跡の近くにあった石仏(阿弥陀堂建立の監督者が造立したため里人は「音頭」と呼ぶ)と、元文五年(1740)に金堂前の池から出土した石塔を祀る。舞鶴池は二つの阿弥陀堂の前にあったが現在は水田になり、所々に残っている池の縁石で痕跡を表している。
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清衡室の墓は小阿弥陀堂跡の背後にある。廟は荒れ果て、後世に建てた碑の表面に「前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓仁平二年四月二十日」と刻んでいる。台石から150cmほどあり、享保十五年(1720)9月13日村上治兵衛照信がこれを建て、また金堂跡に薬師如来の石像も建てた。相原氏(詳細は不明、陸奥の旧家らしい)の記録に拠れば、宗任は清衡の叔父で清衡が二歳の時に源頼義の捕虜となったため娘は基衡の室には成れなかった。しかし宗任が赦免された後の老境に産まれた娘が陸奥に下って婚姻したと伝わる。
(平泉志はここまで)
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  ※村上照信: この名は幕末の名工(石工)として名高い丹波佐吉(1816~??)が名乗っているが、時代が百年異なる。同名異人か。
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  ※宗任の娘: 宗任の生誕は長元五年 (1032) 、安倍貞任の次弟で鳥海 (とりみ) 柵を本拠にして鳥海三郎とも。前九年の役に敗れて降伏、1063年に伊予国 (愛媛)
流罪、ここで勢力を伸ばしたため1067年には更に筑前大島(地図)に流され、1107年に没した。
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娘が基衡(1105年生誕)と同年齢前後なら宗任の最晩年に産まれ、然るべき係累の援助により京を経て陸奥に下ったのだろう。京の名所を襖絵にしたのはこの経緯に拠る、か。宗任の三男季任の子孫は平家水軍として戦って敗戦後は長門(山口県)に流され、源氏の追及を逃れるため安倍を名乗った。安倍晋三はその末裔を称している。誇り高い将の子孫に根性も道徳心も持たないバカが生れる事もある、その典型的な例か。

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左:伝 平泉の館、柳之御所跡と伽羅御所跡      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日 】   秀衡館に関する報告
 
金色堂の西・無量光院の北に館(平泉の館と号す)を並べている。西木戸に嫡男 国衡と四男隆衡の家が並ぶ。三男忠衡の家は泉屋の東にある。秀衡 は無量光院東門前の伽羅御所と呼ぶ館を居宅とし、泰衡 が相続して居館とした。
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秀衡の私邸だった伽羅御所は吾妻鏡に記載され、地名としても残っているが柳之御所の名は史書に記載がなく、平泉駅から500mほど北にある字名の「柳之御所」が館跡の通称名になっている。
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昭和六十三年(1988)から始まった国道4号の平泉バイパス建設工事の際に大規模な遺構が出土したため計画を東側に移し、北上川沿いを通過するルートに変更された。四半世紀を費やして発掘調査がほぼ終了した遺跡全体の面積は約10ヘクタール、その半分ほどが広大な史跡公園となる予定らしい。
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既に館の敷地にあった池や堀・建物跡が復元されており、柳之御所遺跡で確認された遺構は堀跡・池跡・建物跡など、出土したのは「かわらけ」(使い捨ての素焼きの食器)・絵描きの折敷(盆)・金の付いた石・将棋の駒など数千点に及び、現在は敷地南の
柳之御所資料館(公式サイト)で展示している。
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  ※金色堂の西: 原文は「正方」、西を意味するらしいが正確には金色堂を基点にして西南西に当る。
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  ※嫡男国衡: 通称は西木戸太郎、妾腹の長子で「他腹の嫡男」とも呼ばれていたが棟梁は泰衡が継承した。国衡は阿津賀志山合戦で惨敗して北に逃げ、追撃した 和田義盛
の矢を受け、畠山重忠 の郎党に討ち取られた。西木戸=錦戸=奥州藤原一門を表すと考える説もある。
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総大将の泰衡は鎌倉軍に追われて平泉から逃げ、贄の柵(秋県大館市、地図)の河田次郎を頼って逃げ込んだが、その河田に謀殺された。
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錦の直垂に包んだ胴を葬った場所には錦神社(参考サイト地図)が建つ。南西に3km離れた大館市比内町五輪台には泰衡の跡を慕って北上した夫人が自害したと伝わる西木戸神社(参考サイト地図)もある。
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  ※泉屋の東: 忠衡(泉三郎)は父の遺言を守り 義経 擁護を主張して泰衡に殺された。居館は旧衣関東の泉が城(前九年の琵琶の柵)跡と伝わる。
泉屋の地名が残る平泉駅の東側(柳之御所の南)が館跡だと思うが、泉ヶ城を指す可能性もあり、両所の関係は判らない。
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  ※忠衡の死: 吾妻鏡の文治五年6月26日(義経自刃の50日後)に忠衡が殺された旨の記載がある。
「奥州で兵乱があり、泰衡の弟・泉三郎忠衡(23歳)が討たれた。宣旨に背いて義経に同意していたためである。」
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  ※柳之御所資料館: 平成30年(2019)年末で閉館し、内容は令和3年(2021)に同所に開館予定のガイダンス施設(名称未定)に引き継がれる。
その間の資料展示は盛岡市の 岩手県立博物館(公式サイト)で公開する予定。

右:無量光院跡と、背景の金鶏山       画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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建築様式は浄土信仰に基づいて 宇治平等院(公式サイト)を模しているが左右に広がる両翼の規模はひと回り大きく、平等院鳳凰堂の約67mに比べると2間ほど大きい約70m、敷地の規模は南北270m×東西240mと確認された。秀衡 の私邸である伽羅御所の北に隣接し、原型は秀衡の持仏堂だったらしい。
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平泉にあった堂塔としては、清衡 が建てた中尊寺、基衡 が建てた毛越寺と共に 秀衡 が建てた無量光院が奥州藤原氏の栄華を代表していたが、藤原氏の滅亡後は数度の火災によって失われた。現在は礎石と池跡と中の島の痕跡だけが残され、綿密な発掘調査によって全体の姿が確認されている。
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秀衡は意図して宇治平等院を超えようと考えたらしく、特に無量光院背後の金鶏山に沈む夕陽を浄土思想の借景に取り入れた発想は特に秀逸だと思われる。凱旋した頼朝が建立した永福寺も西を背後にしているが、狭い谷津を敷地としているため同様の効果を得られたかは疑問である。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日 】   無量光院(新御堂と号す)に関する報告
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秀衡の建立である。堂内四面の扉には観無量寿経の大意を絵にし、更に秀衡自らが狩猟を楽しんでいる様子を描いている。本尊は丈六の阿弥陀仏で、三重の宝塔と内部の荘厳な装飾は全て宇治平等院を模している。
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  ※観無量寿経: 悪人でも南無阿弥陀仏を称えれば極楽往生できる。春秋の彼岸に無量光院の東門に佇むと、中の島を経て正面の本堂(阿弥陀堂)を結ぶ延長戦上にある
金鶏山の頂上に夕陽が沈む。堂の中央には金色に輝く阿弥陀如来の姿が浮かび上がる、荘厳なレイアウトになっていたらしい。まさに、秀衡が平泉に具現化しようと想い描いていた極楽浄土の姿である。

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左:衣川の北岸、関道と接待館の跡        画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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平成十七年から始まった発掘調査により、関山中尊寺から奥大道を北に下り衣川を越えた「衣の関道」の周辺から広大な遺跡が発見された。東側から六日市場、細田、接待館、衣の関道 の四遺跡が衣川北岸沿いの東西700m×南北500mに広がっており、掘立柱の建物跡42棟・竪穴式住居跡・杭や溝や堀や土塁の跡、巾25~30mの道路跡も確認され、復元作業や周辺の整備が続いている。
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11世紀後半 (奥州藤原氏の末期) の「かわらけ」数百片・中国製の青磁や白磁・常滑や渥美産の陶磁器の破片など、柳之御所遺跡と共通する遺物や太刀二振も出土している。またすぐ北側には以前は「金売り吉次の屋敷跡」と伝えられていた「長者ヶ原廃寺遺跡」があり、すぐ近くには無料駐車場やトイレも設けてある。
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ここに駐車してから徒歩で下記の「室の樹遺跡」や「九輪塔の跡」や「接待館遺跡」を回遊すると良い。平泉全域の史跡位置と概略を記載して再訪の際に役立てるつもりの 手製の地図(別窓)を参照されたし。
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また関道跡の周辺からは12世紀の地層の下に11世紀の遺物を含む層が存在していることから、安倍氏や清原氏が関道の近くに政庁を置いていた可能性も指摘されている。安倍氏の遺構も至近距離に多数散在している事を考えれば当然でもある。
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二代 基衡 の妻が旅人の饗応や施しを行なった施設が「接待館」と呼ばれていたとの伝承、或いは彼女が京都御室(仁和寺(公式サイト)の雅称)の樹木を取り寄せて植えた植物園「室の樹遺跡」や、清衡が祖父安倍頼時(頼良)の菩提を弔って建立した九輪塔の跡があるのを考えれば、奥州藤原氏が覇権を握った初期には平泉文化の中心部は(現在は奥州市に含まれている)衣川地区だったと考えるのが自然だろう。
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  ※基衡の妻: 安倍宗任(貞任の弟)の娘で 秀衡 の生母(異説あり)。仏法に深く帰依し、観自在王院を建てた事でも知られている。
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中尊寺の建立に着手した長治二年(1105)頃の清衡は政治的な意識を北に向け、奥六郡北部との融和に配慮して中尊寺を建立した。安倍・清原時代の末期前後から南部の勢力(信夫を領有した佐藤氏など)との交流が深まり、都市機能を平泉南部に広げたのではないか...そんな説が脚光を浴びているのは実に面白い。
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例えば基衡の時代に建立した毛越寺や観自在王院や周辺の倉町 (標高30m前後) からは、中間の金鶏山から西に続く丘陵 (標高80m以上) に遮られて金色堂周辺 (標高84m) は見えないのだから、確かに説得力はあると思う。

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右:吉次屋敷の伝承もあった長者ヶ原廃寺跡と周辺     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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衣川の北側は平泉町の行政区分ではなく、重要な史跡の殆どは奥州市に含まれる。安倍一族と藤原氏の初代清衡時代の前半までは衣川の北部を舞台にしているため、行政区分による史跡に対する認識や観光客へのアプローチに温度差を生み、例えば本来は一体で訴求すべき関山中尊寺と接待館周辺遺跡の連携が乏しい事など、残念な部分が散見される。
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平泉町は北の奥州市と南の一関市に挟まれた狭いエリアで、行政の効率や利便性を考えれば将来的な合併が自然だと思うが、協議は簡単ではないらしい。、特に世界遺産登録での注目度アップもあって平泉側の観光関連業者の鼻息が過剰に荒くなっている。中世以降は一関エリアとの関係が深いが、安倍氏や清原氏が主導権を握っていた頃から奥州藤原氏が台頭するよりも前は、奥州市エリアが歴史の表舞台だった。
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この一帯は、従来から推定された通り大規模な寺院および公共施設なの跡である。伽藍配置や出土した土師器(はじき・食器に使った素焼きの土器)により、建立されたのは安倍氏の時代から藤原氏の初代 清衡 の初期にかけて栄えた重要な寺院の跡と確認され、2012年現在も更なる調査が進められている。
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発掘によって確認された本堂から約1m低い場所に建つ南門の中心線を延長すると中尊寺の建つ関山の最高点に至り、視線を遮る建造物はない。敷地の東側も同様に、北上川東岸の束稲山まで視界が開けている。安倍氏から 藤原清衡 へ移行する時代の推移や安倍氏館と柳之御所と長者ヶ原廃寺と中尊寺の位置関係などを考えれば、藤原氏による祖先崇拝と浄土信仰の観点からこの寺の存在意義を捉えるべきだろう。
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また柳之御所跡遺跡と同じ時期、東北自動車道建設に伴う発掘調査により衣川河畔に船着場と思われる二列の杭の跡が発見された。衣川沿いの上流には向舘の跡や八日市場の跡も確認されており、さらに衣川を遡れば安倍氏代々の居館に代表される俘囚初期の遺跡も散在している。金色堂や毛越寺庭園が残っている平泉ほどの華やかさには欠けるが、観光優先の鬱陶しさのない落ち着いて歩き回る対象として実に素晴らしいエリアだと思う。

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左:平泉高舘(判官舘)、ただし義経最期の地ではない。  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 文治三年(1187) 10月29日 】
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陸奥国平泉の館で 藤原秀衡 が死去した。重病で心細くなったのか、義経 を大将軍として国務を執行するように嫡子 泰衡 に遺言していた、と伝わる。
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【 玉葉 文治四年(1188) 1月9日 】
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或る人の言葉によると昨年秋から義経が奥州の藤原秀衡に匿われている、と。秀衡は10月29日死去の際に妾腹の長男 国衡 と正妻腹の二男泰衡を呼んで融和を説き、国衡に自分の妻(泰衡の母)を娶らせ、異心を持たぬ旨の起請文を義経を含めた三人に書かせた。義経を主君として兄弟が彼に従い、三人団結して頼朝と戦う策を講じるように遺言したという。
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  ※自分の妻: 兄弟の争いは当時も珍しくないが、親子の間には道徳的に重視される上下関係があった。
秀衡 は異母兄弟の 国衡泰衡 を親子関係にして争いの可能性を減らそうと考えたのだろう。
嫡子となった泰衡の母は 藤原基成の娘、国衡の母は蝦夷の娘だったと伝わる。
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  ※藤原基成: 藤原北家の貴族。康治二年(1143)に陸奥守と鎮守府将軍を兼任して平泉に下り、藤原氏二代基衡と親交を深めて嫡子の秀衡に娘を嫁がせた。
久寿元年(1154)に帰任したが、平治の乱を首謀した兄の藤原信頼に連座して陸奥に流されたまま平泉に定住し、奥州藤原氏の陸奥国支配に大きな影響を与えた。源義朝 の側妾 常盤が義朝の死後に 清盛 の愛人を経て再嫁した 一條長成 と基成は縁戚関係にあり、牛若丸時代に鞍馬山を脱出して奥州に逃げたのも 常盤→ 長成→ 基成→ 秀衡の縁故が背景にあった。奥州滅亡後は一時的に拘束されるが許されて京に戻り、その後の消息は不明。
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当初は秀衡の遺言を守ろうとした泰衡も結局は鎌倉の圧力に耐えきれず、義経 の居館を急襲して自刃へと追い詰めた。更に2ヶ月後の6月26日には父の遺訓を守って義経擁護を主張していた異母弟の泉三郎忠衡 (妻は信夫荘司 佐藤基治 の娘) も殺してしまう。
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佐藤基治の息子 継信忠信 が命を賭して仕えた義経を殺した上に娘婿の忠衡まで殺した事、所領の信夫エリア(現在の福島市)を見捨てて北側の阿津賀志山麓を防衛線に設定した事、その三点を容認できなかった佐藤基治 (湯の庄司) は阿津賀志山の防衛戦に加わらず、20km南の石那坂での抗戦(実際には本拠の大鳥城籠城戦だったらしい)を選んだ。戸籍上(笑)は泰衡の義父となって発言力が増した筈の異母兄 国衡も暗愚の将・泰衡は阻止できず、莫大な経済力を背景に栄華を極めた奥州藤原氏にも滅亡の時が迫る。

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右:平泉 卯の花清水  十郎兼房奮戦の物語    画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 閏4月30日(太陽暦の6月15日) 】
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陸奥国で 藤原泰衡 の兵が 義経 を襲った。勅命と頼朝の指示に従った行動である。数百騎が義経の住む 藤原基成 の衣河館を攻め、義経は持仏堂に入り妻(22歳)と娘(4歳)を殺して自殺した。
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  ※衣河の館: 仮に高舘とすれば、麓との標高差は約10~20m、東西・南北とも長さ140m強の単独峰だ。
北上川に侵食されて現在の姿になる前は北上川に沿って東西830m×南北230mだった。国道バイパスと護岸工事によって崩落の心配はなくなったが、同時に景観も失われてしまった。
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義経最期の地を「高舘」としたのは天和三年(1683)に仙台藩が高舘山頂に義経堂を建てたのが最初で、近年は衣河館=接待館遺蹟(衣川北岸の七日市場付近)とする説が有力で、間違いなく正しい。
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高舘は藤原基成邸 (衣河の館) から約1kmも離れているのだから高館襲撃を「衣河合戦」と呼ぶのさえ無理なのに、仙台藩は何を根拠にしたのだろう。まったくいい加減な奴らだ。
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  ※義経妻子: 死んだのは正妻の 河越重頼 娘(北の方・郷御前)。頼朝の指示に従って婚約し、義経白拍子 静 が出会う半年前の元暦元年(1184)に輿入れしたが
その半年後には鎌倉との関係が悪化し、追討軍を避けた義経は翌年11月に京を脱出、大物浜(尼崎北部)から船で九州を目指したが難破・沈没して分散した。義経主従は吉野山で静と別れ、後に合流した郷御前を伴って平泉に落ち延びている。
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芭蕉に同行して奥の細道を旅した河合曾良が平泉で次の一句を詠んでいる。  ・・・ 卯の花に 兼房みゆる 白毛かな・・・
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        意訳:(夏草の中に咲いている)白い卯の花(ウツギ)は 白髪を振り乱して泰衡の兵と戦っている兼房の姿を髣髴とさせる。
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兼房とは室町時代に成立した「義経記」にのみ登場する (架空の) 人物で、河越から付き従って義経正室 郷御前の守り役を務めた十郎兼房(享年63)。老いた武者ながら白髪を 振り乱して泰衡の兵を防ぎ、義経親子の自害を見届けてから燃える高館に飛び込んで自殺した。ここでの正室(久我大臣の娘)も二人の子も奮戦した本人も全て架空の人物だが、この句は好きだ。高舘の入口と中尊寺信号(月見坂入口)の中間付近に「卯の花清水」の歌碑( 地図 )が建っており、暫しの感慨に耽るのもまた一興か。

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左:門弟の許六が描いた芭蕉行脚図(天理大学蔵)      画像をクリック→ 拡大表示
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【 松尾芭蕉の「奥の細道」 平泉での記述 】
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三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡 が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先ず高館にのぼれば北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡 等が旧跡は衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐって此城にこもり功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ。      夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 
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かねて耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉 風にやぶれ、金の柱 霜雪に朽ちて既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甊(瓦)を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
            五月雨の 降のこしてや光堂 
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  ※秀衡が跡: 高館南東の柳之御所(政庁)、または伽羅御所(私邸)。但し当時は柳之御所の名称はなかった。
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  ※和泉が城: 関山の北西にある秀衡の三男忠衡館。秀衡の遺言を守った義経擁護派で、泰衡に討伐された。
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  ※泰衡らが旧跡: 泰衡館は秀衡を継承した伽羅御所だが、芭蕉は衣が関の方向を差している。
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  ※三将の像、三尊の仏: 三将は清衡・基衡・秀衡、三尊は金色堂本尊の阿弥陀如来と両脇の観音菩薩と勢至菩薩。
ちなみに、本尊の三尊像は伊達政宗の菩提寺・瑞巌寺に遷されている。

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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 9月17日の続き 】  頼朝の平泉見聞録、中尊寺の項の末尾。
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金色堂に向き合う無量光院の北に隣接して館(平泉の館と呼ぶ)を構えている。西の木戸に嫡男(長男)国衡の家、四男隆衡の居館がこれに並ぶ。三男忠衡の館は泉屋の東にある。無量光院東門の一郭が秀衡の住む伽羅御所で、泰衡がこれを継承して居館にした。
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  ※泉屋: 現在の平泉駅東側に泉屋の地名(地図)がある。忠衡館があったのは平泉バイパスが通っている辺りか。

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右:義経の胴を葬ったか? 栗原市沼倉の判官森     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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江戸時代に発生した伝承を基にした江戸時代の草子は「義経 の居館は高舘」と書き、平泉の観光協会はそれを盲目的に踏襲した。
吾妻鏡は泰衡 の兵が 義経 の住む 藤原基成 の衣河館を攻めて」と記録しており、その館は衣河の北岸にある。
だから呼称は「衣河合戦」、従って義経最期の地は「衣河」と考える事に何の問題もないのだが。
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吾妻鏡 文治五年(1189) 閏4月30日の記載、原文 (空白の挿入はサイト管理人による)
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今日於陸奥国泰衡襲撃源豫州 是且任勅定且依二品仰也 豫州在民部少輔基成朝臣衣河館 泰衡従兵数百騎馬馳至其所合戦
豫州家人等錐相防忝以敗績 豫州入持仏堂先害妻子(四歳)次自殺 云々
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衣川の北岸では2005年から本格的な発掘調査され、接待館遺跡などにより安倍氏・清原氏時代に続く秀衡時代の遺構が確認されている。「豫州在民部少輔基成朝臣衣河館」に疑義もないのだから、「義経最期の地が高館」と主張する愚はもう止めるべきだ。
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もう一つ指摘しておきたいのは、「義経生存説」の大部分が「当時は高舘の直下を流れていた北上川の舟を利用して逃れた」と主張している事。これは「義経の住居がが高館にあった」ことを前提にしている。判官贔屓の気持ちは理解できるが、事実に向き合う姿勢を忘れてはならない。
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話を本筋に戻して。康治元年(1142)、二代基衡の意を受けた大庄司(複数の荘園を統括する役職か)の 佐藤季治 が信夫郡の公田検注を妨害して陸奥守藤原師綱と衝突し、結果的に捕縛・斬首された。信夫郡は 佐藤基治 の本領(福島市北部)、系図には見当らないが季治は基治の父またはそれに近い近親者と推定できる (尊卑分脈は基治の父は左兵衛尉佐藤帥治としている) 。
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いずれにしてもこの事件に懲りた 基衡 は協調姿勢に転じ、翌 康治二年(1143)4月に若干23歳で新任の陸奥守として平泉に赴任した藤原基成に娘を嫁がせて朝廷とのパイプを確保し、朝廷および国府との関係を円満に保って年月を重ねていく。
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陸奥守基成は保安三年(1122)生れの 秀衡 と同年代で、秀衡が家督を継いだ保元二年(1157)から奥州藤原氏が滅亡する文治五年(1189)までの32年間の殆どを政権のブレーンとして過ごすことになる。一條長成常盤 を介して縁戚関係を持つ義経が承安四年(1174)に鞍馬寺から奥州へ逃れ、文治三年(1187)に 頼朝に追われて再び秀衡の元に逃げ込んだのも、この関係がベースとなった。
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さて...基成の衣河館で自殺した義経の遺体は検分後に首が切り離されて鎌倉に届けられた。残った胴を葬ったと伝わる場所は複数あるが、最も知られているのが宮城県栗原市の判官森 (地図)で、義経所縁の栗原寺地図)で葬儀を営んだ、と伝わっている。
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  ※白馬山栗原寺: 創建は用明天皇二年(587)、天台宗の奥州総本山で最盛期には36の僧坊と1000人の僧を擁する巨刹で、現在は真言宗智山派。
義経記に拠れば、鞍馬寺を抜け出した義経は吉次と共にここで一泊し、秀衡の迎えを受け僧兵50人を従えて平泉に入り、頼朝に追われた際にもここを経由して平泉に入った、と書いている。奥州藤原氏滅亡後に廃寺となって所在を含む情報が途切れ「幻の寺」と呼ばれていたが、昭和三十七年(1962)の発掘調査で敷地内に金堂の跡が確認され、西沢上品寺となっていた名を栗原寺に復している。
奥州藤原氏滅亡の翌・文治六年に起きた藤原氏残党の反乱 (大河兼任の乱) の記事に栗原寺の記述が見えるのも興味深い
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【 吾妻鏡 文治六年(1190) 3月10日 】
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出羽国で挙兵した大河次郎兼任は味方が悉く討ち取られたため進退に窮し、亀山から南下して栗原寺に逃げた。兼任は錦の脛当を着け黄金作りの太刀を佩いていたため樵夫らが数十人で取り囲んで斧で殺し、その顛末を 千葉胤正 の部下に報告、首級を確認した。
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  ※大河兼任: 泰衡の郎党で出羽国大河(秋田県五城目市)を領有した。藤原氏滅亡の三ヵ月後に一万近い軍で挙兵、駐留する由利維平・宇佐美実政らを討ち平泉を奪還する
まで勢力を拡大したが、栗原郡一迫(栗原市一迫・栗原寺の約10km南西)で足利義兼の追討軍に敗れた。
泰衡は郎党の河田次郎守継を頼り比内郡贄柵(秋田県大館市・地図)に逃げて殺されたが、大河さんを頼ればもう少しマシな最期を過ごせたかも、ね。

左:義経の首について。 画像は伝・悪路王の首桶(鹿島神宮所蔵)
   拡大表示なし
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悪路王(アテルイ、阿弖流爲)は平安時代の初期に朝廷の支配に対し蝦夷の兵を率いて抵抗したリーダー。長期間戦った後に 坂上田村麻呂 に降伏して京に連行され、腹心の母礼(モレ)と共に斬首された人物。
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その首桶がなぜ茨城にあるんだ?なんて疑問は兎も角として...首桶は原則として使用後に破却または焼却するのが通例らしいので、現存するものは皆無に近い。これが本当に誰かの首を納めた桶ならば稀有な一品だし、アテルイの首桶だったら国宝...かな。「もののけ姫」では「シシ神」の首を収めた漆塗りの見事な首桶を描いていたっけ。覚えてる?
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 6月13日 】
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藤原泰衡 の使者・新田高平が 義経 の首を腰越浦に持参し経緯を報告した。実検のため 和田義盛梶原景時 を派遣、それぞれ直垂を着て甲冑の郎従20騎を伴なった。首は美酒に浸し黒漆の櫃に入っており、高平の従僕二人が担っていた。見る者は皆、涙を流した。
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  ※腰越浦: 腰越状(伝・弁慶の代筆)で知られる満福寺(別窓)のあるエリア。腰越は鎌倉外界とされており、義経は首だけになっても
鎌倉入りを許されず、生前と死後の二度に亘って腰越で足止めされた事になる。首だけでも「足止め」って言うのかな。
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  ※美酒: 鎌倉時代には既に清酒(すみさけ)が一般化していたらしいから、首の腐敗を防ぐなら濁り酒よりも適しているような気がする、何となく。
現在の平泉周辺なら磐乃井や関山などが有名な地酒だけど、これは全く関係ない話。
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文治五年6月13日は太陽暦の8月3日、自刃から首の鎌倉到着まで49日を要している。普通なら15日ほどの距離に3倍の日数をかけたら首は確認できないほど腐敗したに違いない、泰衡 の指示で到着が遅れたのだろう...この疑義が 義経 の北行伝説を主張する根拠の一つになっており、更に当時の北上川が現在よりも西側・高舘の直下を流れていた事などを加えて義経北行伝説やジンギスカン=義経などの空想を生むことになる。
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首実検での敵将の首は生者として扱われ、甲冑武者が斜に構え太刀を抜きかける姿で相対する。首実検の作法は実に面白いが、これは閑話休題。
吾妻鏡のこの日以後には義経の首に関する記載がないから、晒されたのではないらしい。何処かに埋めたか、浜にでも捨てたか、或いは刑場のあった片瀬瀧口で処分したか...明確な記録がないこともあって、義経は首だけになってもなお、伝承に継ぐ伝承を生む。

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右:義経の霊を祀る、藤沢の白旗神社     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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相模を開拓したと伝わる寒川比古命と義経を祭神とする。相模一之宮の 寒川神社(公式サイト)と同じ祭神(寒川比古命と寒川比女命)なので古来から関わりがあったのかも知れない。
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この一帯は大庭御厨の領域で、大庭城址の東3kmに位置する。箱根駅伝の経由地として更に有名になった「遊行寺の坂」、つまり時宗(じしゅう)の総本山 遊行寺(公式サイト)の約1km南西である。
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社伝に拠れば、由比ヶ浜に捨てられた義経の首は弁慶の首と共に満ち潮に乗って白旗川を遡り、神社の近くで拾われて社殿に祀られた。ただし同じ社伝は「宝治三年(1249年・首が流れ着いた60年後)に義経を祀った」とも伝えているから、北條執権政治の安定と共に源氏に対する忖度の念が薄れ、流行した軍記物語の影響を受けて創建の由来を捏造した可能性が高い。
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寒川神社が白旗神社に改名したのは宝暦二年(1752)だから、白旗川の名が定着したのも概ね同じ時代だろう。
祭神が寒川比古命だけでは取り柄のない平凡な鎮守に過ぎなかったが、義経 の首と 弁慶 を祀っていると聞いたら誰もが「一度は寄ってみようか」と思うに違いない、義経人気に便乗した商魂逞しい人物...寒川→ 白旗に改名される時に別当寺 (荘厳寺) の住職だったという覚憲あたりが仕掛け人だろうか。
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  ※白旗川: 片瀬江ノ島で相模湾に入る境川(平安末期は固瀬河)の支流。現在は白旗神社の500m東で境川に合流するドブ川である。
義経の首は由比ヶ浜から境川河口まで6km+河口から神社まで6kmを逆流、つまり12kmを遡上して辿り着いた事になる。考えてみれば、腰越で確認した義経の首を鎌倉中心部の由比ヶ浜に捨てる筈はないから、実質は6kmほどか。潮に乗って逆流したと主張する強引さは賞賛に値するけど、義経の首だと判ったのは何故だろう。首実検では判別し難いほど腐敗していた筈だが...頭骨に名札でも付いてたか(笑)。
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更には首実検が済んで河原に捨てた首を金色の亀が背に乗せて藤沢宿に運び「汝ら、丁重に葬れ」と語ったため首塚に埋葬したとか、義経 の怨霊に苦しんだ 頼朝藤沢清親に命じて首塚の一町ほど北の亀の子山(現在の白旗神社)に霊を祀ったとか、そんな社伝もあるらしい。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 3月25日 】   藤沢清親は信濃(藤沢説あり)出身の御家人で弓の名手。吾妻鏡の数ヶ所に記載がある。
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武蔵国入間野で鳥の追い出し猟を行った。藤澤次郎清親は百発百中の腕前で雉5羽・鶴(冬鳥のマナヅルかナベヅル)25羽を射止めた。頼朝は感嘆して乗っていた馬(名は一郎)を自ら引いて清親に与えた。弓馬の誉れは鳥を射止めるのが最高の技である。

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左:そして頼朝は奥州藤原氏追討へ 白河の関      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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文治四年(1188)、義経 追討を認める院宣は二度も発行されたが、泰衡 は父 秀衡 の遺言に従って義経引渡しを拒んだ。それならば、と 頼朝 は泰衡追討の宣旨を求め、遂に圧力に屈した泰衡は義経を殺して首を鎌倉に送り対決を避けようとしたが...
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頼朝は許可なく義経を殺した事などを理由にして、改めて藤原氏討伐の宣旨を求めた。奥州には金もあるし強い馬も産出する、何としても奥州の覇権を得たい、偉大な先祖である 頼義義家 も果たせなかった源氏累代の夢だからね。
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一方で鎌倉を牽制するためにも奥州藤原氏の勢力を温存したい 後白河法皇 は当然ながらこれを許さず、奥州藤原氏追討の詔勅は再三の求めにも拘わらず発行されなかった。奥州討伐に召集した軍勢は鎌倉を出陣できず膠着状態となったが、文治五年(1189)6月30日、古参御家人の 大庭景義 が頼朝の問いに即答する。
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軍兵は天子の詔を聞かず、将の命令を聞く。まして泰衡は源氏累代の家人の末裔であり、詔勅の有無に関係なく懲罰の権限は主人が持つのだから迷う必要はない。
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我が意を得た頼朝は7月19日に公称28万の大軍を三手に分け、自らが率いる主力軍は 畠山重忠を先陣にして下野(栃木)から奥州へ、比企能員宇佐美(大見)實政 が率いる軍団は越後から日本海側を北上して出羽国(山形県)へ、千葉常胤八田知家 が率いる軍団は下総(千葉)から常陸(茨城)を経て太平洋側を北上した。この日には遂に妥協した 後白河法皇 が泰衡追討軍派遣を追認する形で院宣を発行している。
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奥州藤原氏が動員できる兵はせいぜい数万、それに比べて圧倒的な戦力の頼朝にとって、奥州討伐などまさに物見遊山の旅に等しかっただろう。
目の前に新恩(軍功の土地)がぶら下がった御家人の戦闘意欲にも不足はない。頑張れば子々孫々、贅沢な暮らしが待っているのだから。
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白河の関が設置された正確な年代は不明だが、大化二年(646)発布の「改新の詔」の「二」に驛や関に関する条項があり、関・斥候・防人・驛馬・伝馬・鈴契(命令を伝える証)について記載されているため、遅くともその数年以内には正式に設けられたと考えられている。
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  ※改新の詔二 原文: 初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。
掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者死。里坊長並取里坊百姓清正強○者充。若當里坊無人。
聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。
北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。
其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強○聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。
凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。
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六国史に拠れば、養老二年(718)に白河などの五郡を陸奥国から分離して石背国(須賀川市・岩瀬郡の以南)とする記述があり、神亀五年(728)には白河関の直属軍団が組織されている。
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  ※六国史とは: 平安時代編纂の官撰歴史書。日本書紀・続日本書紀・日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録・日本三代実録、を差す。

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右:下野東山道の史跡 国庁跡・国分寺・薬師寺跡など    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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画像は栃木市の下野国庁復元想像図。2014年5月、所用のついでに東山道関連で国庁跡と下野市の国分寺跡と薬師寺跡と龍興寺を廻ってきた。たまには駆け足じゃない旅をしたいな...などと思いつつ。
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大和朝廷の東北進出は勢いを増し、蝦夷の組織的な抵抗も700年代終盤の陸奥国(岩手)軍事指導者 アテルイ がほぼ最後だから、最前線基地として国府・多賀城が設けられた神亀元年(724)頃には軍事的な意義を失い、平安時代中期には兵站・補給拠点あるいは完全な行政府に変貌したのだろう。
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頼義義家 が白河の関を通ったのは永承五年(1050)頃、近江の鏡の里で元服し 義経 を名乗った牛若丸が平泉に向ったのは嘉応二年(1170)前後、その義経が頼朝軍に加わるため 佐藤継信忠信 を伴って南下したのが治承四年(1180)、奥州征伐に向う頼朝の大軍が北を目指したのは文治五年(1189)7月。
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平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州街道(現在の旧・陸羽街道。R294)は5kmほど西の「白坂越え」ルートがメインに変りつつあり、白河関を通る旧道は鎌倉時代後期には全く使われなくなった、らしい。周辺の広域地図を参考に。
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元禄二年(1689)の4月20日(新暦の6月7日)、「奥の細道」を辿って奥州を目指した芭蕉は陸羽街道の峠近く(白坂越えルート)に宿泊、翌朝に関の明神(国境の両側に祠)に詣でている。更に同行した曽良は以下のコメントを旅日記に残している。
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「古関を尋ねて白坂の町の入り口より右へ切れて旗宿へ行く」
「(現在の)白河の関は下野と奥州の境で両側に祠、前に茶屋がある。古い関は二里半ほど東の旗宿から一里ほど下野寄りの追分という場所で、今も国境である。」
「20日に宿泊。旗宿のはずれに庄司戻しと言う桜が畑の中にある。ここは義経を見送ってから戻って酒盛りした跡で、土中からは土器が見つかっている。」
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と書いているから、文面通りに解釈すればこの ルート(地図) を辿ったと思う。
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伊王野の分岐 を起点にして、①寄居の宿(下野最後の宿場・一里塚の画像)に泊まり、翌朝に ②境の明神(画像)から北へ下って ③白坂宿の入口を右折(画像)し、④旗宿入口(画像)から県道76号ルートで旧陸羽街道に合流(画像)して の関跡を目指した行程である。
本来なら 道の駅 伊王野(別窓)から右へ、昔の陸羽街道(県道28号)の方が早いのだが、芭蕉の時代には既に廃道に近く、安全を優先したらしい。
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この後の芭蕉一行は関所跡の祠(白河神社・当時は関の明神と呼んでいた)に寄ったのかは記録にないが、庄司戻しの桜を確認しているし「古関を尋ねて」と書いている。
桜から1km南の旧街道沿いにある関の跡は見物しなかったなんて考えられない、幾つもの古碑があるのを知ってる筈だからね。
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  ※河合曽良: 芭蕉門下十哲の一人で「奥の細道」に同行して著した「曽良旅日記」が知られ、個人的には涙が出るほど好きな句を残している。
「卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな」 衣川合戦で老武者・十郎兼房が 義経 自害の時を稼ぐため白髪を振り乱して奮戦、卯の花はそんな兼房の姿に見える<
概ねそれほどの意味。架空の人物だが、十郎兼房の素性については少し前の「平泉 卯の花清水」に記述した。

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左:湯の庄司・佐藤基治と一族の菩提寺・医王寺     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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「信夫庄司」佐藤基治 は奥州藤原氏二代 基衡 の頃から縁戚関係(継室の和子は基衡の弟清綱の娘)を結んで飯坂の 大鳥城(別窓)を拠点に信夫郡(福島市北部)を支配して信夫庄司、また湯の庄司とも呼ばれた。三代秀衡 には腹心の部下、兄弟に近い関係である。
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系図には異説が多く、かなり荒唐無稽な筋書きも見られるから注意が必要だが、奥州合戦当時の佐藤一族の支配圏は広大で、福島県の中通りと会津地方と山形県の南部まで含んだ、と伝わっている。
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「 平治物語 巻三 牛若奥州下りの事 」に拠れば、
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牛若丸は鏡の里で元服して 義経 と名乗り、郎党(金売り商人)を伴って下総に潜伏した。ここで盗賊を捕獲するなどの活躍をしたため平家に知られるのを警戒し、伊豆の頼朝に面会して「奥州に下ろうと思っている」と語った。頼朝は「上野国に住む源氏累代の家臣・大窪太郎の娘が(経緯があって)秀衡の家臣・信夫小太夫(佐藤基治)の妻になっているから頼るように」と教えた。
奥州に入った義経が尋ねると信夫小太夫は既に死没、後家の大窪太郎の娘は息子二人 (継信忠信) を郎党として義経に預けた。
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  ※大窪太郎: 現在の群馬県吉岡町大久保(地図)を本領とした武士。史料では信夫小太夫(佐藤基治)は阿津賀志山合戦までは確実に存命しているし、継信と忠信の生母は
大窪太郎の娘じゃないし、源氏との関係云々も不明。平治物語が杜撰なのか事実は小説よりも奇なのか。
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清衡 を継承した藤原氏二代基衡の初期、基衡の意を受けて新任の陸奥守藤原師綱の公田調査を妨害して斬首となった大庄司の佐藤季治(帥治、従五位下左兵衛尉)が湯の庄司基治の父と考えるのが一般的で、この事件を強く悔いた以後の基衡は国司との協調に務め、次に赴任した藤原基成の娘を嫡子 秀衡 の妻に迎え、以後は基成を政権運営のブレーンとして重用していく。
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大窪太郎の娘が産んだのは前信と治清の二子、基衡の弟・藤原清綱(亘理権十郎)の娘 乙和子姫との間に継信・忠信・藤江・浪江の四人が産まれた。従って藤原氏と佐藤氏は単純な主従関係ではなく、血縁で結ばれた強い同盟関係があった、と考えられている。主人基衡の「基」と父師治の「治」を継いで名乗ったのが「基治」、一応の納得はできる。没年は不詳、奥州合戦で死没・捕虜となり赦免・本領を安堵されたなど諸説がある。
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  ※藤原清綱: 亘理の呼称で判る通り、祖父 藤原(亘理)経清 の旧領・亘理郡(現在の宮城県亘理町・地図)を継承、後に平泉を経て紫波郡日詰(地図)に移転した。
奥州合戦では逃亡後に投降して赦免、本領の日詰を安堵され樋爪氏の祖となっている。
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  ※その後の乙和子姫: 静御前の伝承が残る越後の栃尾地区(現・長岡市)には佐藤基治室・乙和御前の伝承も残る。
義経に従った息子の継信と忠信を失った乙和御前は二人の菩提を弔うため仏門に入った。妙照尼として信夫山(地図)で読経に明け暮れていた頃、夢に羽黒大権現が現われ「越後に霊場がある、そこへ行って国土を守り諸人の願望を叶えよ」 と告げた。その地が栃尾の小貫(地図)で、尼は出羽の国から羽黒大権現を勧請して今日の 羽黒神社(長岡市のサイト)を建てた、と伝わっている。
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飯坂と栃尾は会津若松を経由して約200km、どちらにも夢のある伝承が多い。しかも長岡に辿り着いた乙和御前が旅人から継信と忠信が忠節を尽くして死んだとの話を聞き、袈裟姿で踊ったのが「佐渡おけさ」の原型になった...そんなオチも面白い。嘘だか本当だか知らないけど。

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右:石那坂合戦が行われた周辺の地図    画像をクリック→ 拡大表示
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泰衡 が防塁を構えた阿津賀志山は 佐藤基治 の居館・飯坂 大鳥城(別窓)の北15kmにある。泰衡は山並みと阿武隈川の間が狭まる国見宿の北・阿津賀志山の南麓が防塁には最も有利と判断したのだろうが、これは佐藤一族の本領を防衛圏から外して見捨てる事を意味する。義経が健在だったら、鎌倉勢に一矢を報いる戦略を立案したかも...泰衡はそう思ったかも知れない。
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合戦前から本領を放棄しては武者の本分が立たずとした基治は阿津賀志山防衛軍に加わらず、15km南の石那坂で頼朝の大軍を迎え討った。寄せ手は少なく見積もっても数万騎、たぶん千騎にも満たない佐藤基治の兵が阻止できる筈もないが、基治は本拠地大鳥城山裾の摺上川に架かる十綱橋 (wiki) を切り落し、自ら退路を断って出陣したと伝わる。退路を断ったのではなく、鳳城防衛のために橋を落としたと考える方が理に叶っている、と思う。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月8日 】
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泰衡の家臣・信夫の佐藤庄司(湯庄司、継信と忠信の父、佐藤基治)が叔父の河邊太郎高綱・伊賀良目七郎高重らと共に石那坂の上に布陣し堀に逢隈河の水を引き入れて柵を設け、石弓を構えて迎え討った。常陸入道念西の子息の為宗・為重・資綱・為家らは甲冑を秣桶(まぐさおけ)に隠して水に潜り伊達郡澤原近くに迫って攻撃を開始、佐藤庄司らは必死に戦い為重・資綱・為家らが負傷した。為宗は命を惜しまず戦い佐藤庄司ら主だった18人の首を獲り、阿津賀志山の経岡に晒した。
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    ※経岡: 現在の国見町大木戸経ヶ岡(地図)。以前は阿津賀志山防塁関連の資料を藤田駅近くの観月台文化センターに展示していたが、経ヶ岡の大木戸小学校の廃校舎
を利用したした あつかし歴史館 が完成した。約3km南西の国道沿いには新しい道の駅 国見あつかしの郷(別窓)もOPEN したし、震災と原発被害で苦しんだ福島県が元気を取り戻しているのは本当に嬉しい。
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石那坂合戦の場所は確定していない。東北本線石名坂トンネルの上り線入口(北側)にある古戦場の碑は明治時代に出土した武具から推定した場所で、その後の調査によって古墳時代の遺構と確定した。他の推定地は北部の井楽公園周辺、西側の平石長屋敷、更に西の平石小学校付近の三ヶ所だが標高はいずれも80~90m、通常時の水位が70m前後の阿武隈川から水を引き込むことはできない。
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そもそも要害で知られた大鳥城があるのに、石那坂で合戦を挑むなんて理屈に合わない、従って現在では合戦は石那坂ではなく大鳥城と推定する説が主力になりつつある。「伊達郡澤原」の場所が確認できれば面白いのだが、これは現存しない。ただし、摺上川の十綱橋を落とされた鎌倉勢が南の支流・小川または北の支流・赤川を渡渉して奇襲を加えたと考えれば辻褄は合う(地図)。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 10月二日 】   
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    捕虜になっていた佐藤庄司と那取(名取)郡司と熊野別当らが罪を許され、それぞれの本拠に帰った。
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    ※名取郡: 現在の仙台市若林区と太白区+名取市+岩沼市の北部。宮城県の行政区分地図 を参照されたし。
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吾妻鏡では「8月8日に死んだ」佐藤基治らは、同じ吾妻鏡の10月2日には「赦免され本拠に戻った」、と一行だけ記載されている。どちらが真実なのかは判らないが、佐藤一族はその後も信夫郡の一部(信夫郡の松川以北、飯坂を含む福島市の北西部)を領有しているので滅亡した訳ではないらしい。
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更に8月10日の阿津賀志山で 小山(結城)朝光) が討ち取ったはずの熊野別当(金剛別当秀綱)も赦免されているから基治だけではない。ひょっとすると吾妻鏡の誤記か、8月~10月の間に吾妻鏡の編者が交代でもしたとか、その他の理由があるかも知れないけれど、地元の資料を探すのも面倒くさいし。
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佐藤氏の末裔は室町時代に 足利尊氏 から与えられた伊勢国一志郡(現在の津市)に移っている。基治を討ち取った(と、された)功績により 常陸入道念西 は伊達郡を得て伊達氏の初代(朝宗)となった。朝宗から九代後の子孫が政宗である。念西の娘は 頼朝 の寵を受けて男子(後の 貞暁)を産んでいる。

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左:阿津賀志山の防塁      画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月7日 】
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頼朝は伊達郡阿津賀志山に近い国見驛に着いた。夜半に雷鳴が響き宿舎近くにも落雷、鎌倉勢は主従共に不吉な予兆に恐怖した。
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泰衡頼朝 の侵略を覚悟し、以前から阿津賀志山に防塁を設けて合戦の準備を固めていた。国見宿と阿津賀志山の中間に巾五丈(15m)の堀を構え、逢隈川(阿武隈川)の一部に堰を設けて川水を引き込み、防御の柵とした。
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泰衡は国分原の鞭楯に本陣を置き、異母兄の 西木戸 (錦戸) 太郎国衡 を大将として、金剛別当秀綱と子息の下須房(かすほ)太郎秀方が率いる二万騎の軍兵を阿津賀志山から(逢隈川まで)三里(1800m)の間に待機させた。
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 ※鞭楯: 仙台市宮城野区の榴岡公園(地図)が鞭楯の跡と推定、藤原氏時代の遺構は既に失われ、現在は 仙台市歴史民俗資料館
(公式サイト) が建っている(民俗資料がメインで、見学しても面白くなかった)。
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  ※金剛別当秀綱: 先代秀衡に仕えて現在の仙台市南部一帯を支配した金剛坊秀綱で太白山(仙台市太白区)修験僧の総帥と伝わっている。
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  ※下須房秀方: 「かすほ」或いは「しもすわ」と読む資料もあり、系図により秀衡の実子とするケースもある。要するに、判らない(笑)。
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  ※川水を引き込み: 現在の阿武隈川の平常水面は標高36mだから10mの増水があったと仮定しても46m、現存する防塁跡の最南端(護岸から約400m地点)で
標高約46m。激戦を展開した2km地点の標高は約65mだから、堰を設けても「堀に川水を引き込む」のは不可能で、防塁は全て空堀。話を面白く盛っているに過ぎない。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月7日の続き 】
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更に刈田郡(白石市)にも砦を構え、那取河と廣瀬河には大縄を巡らして防御線とした。また栗原・三迫・黒岩口・一野など(宮城県栗原市周辺)には若九郎大夫・余平六らの郎従を大将に数千の兵を置いた。また田河太郎行文・秋田三郎致文を派遣して出羽国を守らせた。
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夜に入り、頼朝は明朝の攻撃開始を命じた。畠山重忠 は連れてきた80人の人夫に用意した鋤鍬で土石を運ばせて堀を埋め、攻撃の障碍を除いた。
小山(結城)朝光 は近習していた頼朝の宿舎を退去し、兄 小山朝政 の郎従を率いて阿津賀志山に向かった。一番乗りの栄誉を得る意図である。
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国見町もまた、2011年3月の地震で大きな被害を受けた。従来の町役場庁舎は2015年現在閉鎖中で、震災の数年前に訪問した時には阿津賀志山防塁の資料などを展示していた観月台文化センターを仮庁舎に利用している。考えてみれば、原発事故の影響も含めて惨状を呈している相馬地区から30kmしか離れていないのだから無理もない。一日も早い復興を祈るのみ、だ。
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この観月台文化センターに行く途中で道に迷った。住宅街に入り込んだところで、何と数年前に下取りに出した私のキャンピングカーが停めてあったっけ。残念ながら持ち主は留守だったけど、我が家から数百km離れた地で自分が乗っていた車に偶然出会うなんて、奇跡としか言えないよね。

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 その拾八 鎌倉将軍頼朝、51歳で死没 事故か、暗殺か 

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治承四年(1180)に伊豆韮山で挙兵してから19年、一介の流人から全国制覇を成し遂げた 頼朝 は前年の12月27日の落馬事故から半月後の建久十年(1199)1月13日(西暦では2月16日)に没した。吾妻鏡の記載は建久六年(1195)12月22日から約三年間中断し、頼朝が死んで20日が過ぎた2月4日に再開しているが、頼朝の死没に関しては後継の 頼家 関連で軽く触れているだけ。吾妻鏡が頼朝の死因に初めて触れているのは没後13年を待たねばならない。
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【 吾妻鏡 建暦二年(1212) 2月28日 】
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相模国相模河に架る橋の数ヶ所が腐り壊れたと報告があった。修理を必要とする旨が 三浦義村 から出され、義時大江廣元 が協議を行った。
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去る建久九年(1198)に 稲毛重成 が橋の新設工事を完成させた折、落成供養に将軍が来臨した帰路に落馬事故があり程なくして崩御。またその後には(供養の主催者)稲毛重成も事情があって討伐を受ける結果になった。橋に関して凶事が続いた経緯のため将軍(実朝)に判断を求めたところ、「故頼朝将軍の死は覇権を得て20年が過ぎ官位を極めた後であり、重成は自分の不義のため天誅を受けたに過ぎない。橋の問題ではないのだから今後は一切不吉などと言うべきでない。あの橋があれば二所詣にとっても庶民にとっても便利である。壊れる前に早く修理をせよ。」との仰せだった。
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 ※重成の不義: 元久二年(1205)6月に 畠山重忠 が謀反の嫌疑で追討された。実際は冤罪だが、北條時政 の意を受けた重成らによる捏造と判断され、弟 榛谷重朝 らと
共に追討された。実際には北條義時と 政子 による重忠排除であり、直後には時政夫妻追放と権限剥奪つまり明白なクーデターになるのだが...
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初代将軍の死因を死亡直後には載せず、具体的に触れた最初が13年後とはどう考えても不自然で、昔から歴史学者の議論の材料になっている。殺されたという説、武士の落馬という恥を隠したという説、周辺の人物による記録改竄説などが挙げられているが、決定的な証拠はない。
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頼朝の死は歴史の第一幕の終わりに過ぎず、その二幕こそが頼朝の死で始まった、と思う。これは伊豆挙兵以来19年間も慎重に準備をしてチャンスを待った北條時政による下克上(鎌倉時代にはない言葉だけれど)の幕開けだろう。死の直後から古参の御家人は次々に粛清され、北條一族だけが権力を拡大していく。「誰が利益を得たのか」を考えれば、時政が頼朝の死に関わった可能性さえもある。
頼朝が東国の覇権を握った23年後、つまり頼朝が死んでから四年後の伊豆修禅寺で源氏滅亡のドラマが幕を挙げる。
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【 私説 頼朝死没に伴って何が起きたのかを推理する 】
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「吾妻鏡を読む」の正治元年 (1199)10月26日にも記載した事だが...景時追討の発端になった 結城朝光 の嘆きの言葉を思い出そう。
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忠臣は二君に仕えずという。幕下 (頼朝) に多大な恩を受けながら遷化の際の遺言に従って出家を遂げなかったのが悔やまれる。今の世の中を見ると、まるで薄氷を踏むような思いがする。 この原文を厳密に読み解くと慄然とする真実が見えてくる。 「遷化刻有遺言之間不令出家遁世之條後悔非一」...頼朝が逝去する際に遺した「(私に殉じて) 出家遁世してはならぬ」との遺言に従ったのが悔やまれる、と。
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つまり、吾妻鏡の他の頁にも他の巻にも全く載っていないけど、頼朝の遺言は存在したのだね。意識があって「出家遁世しちゃダメだよ」と言い残した将軍なら、それ以外にも色々と言い遺しただろう事は誰でも判る。朝廷との交渉の事、処理が済んでいない懸案の事、そして何よりも後継者の事。当然「嫡子頼家を後継として忠節を尽くすように」と言った筈だし「頼家の後継には (前年に生まれた) 摘孫の壱幡を推戴して忠義を尽くせ」とまで言った可能性まである。
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でも吾妻鏡に載っているのは「出家遁世しちゃダメだよ」だけ、それが事実なのだ。すると、誰かが遺言の一部を隠した、あるいは破棄したと疑わなければならない。頼朝が頼家を正嫡と考えていたのは事実だから、もしその遺言が公になっていれば御家人が頼家の廃嫡をする行為は不義不忠になる。つまり頼朝の遺言を秘密裏に葬ったのは、頼家の排除を実行した人物だけ。御家人筆頭の北條時政と将軍 御台所だった政子、他の誰だろうが遺言の隠蔽・廃棄などできないのだ。
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更に推論を続けると...建久七年~九年 (1196~1198) +頼朝が死んだ建久十年の1月末の吾妻鏡が欠落しているのは遺言に関わる情報と、嫡子頼家と摘孫の壱幡に関する頼朝の (溺愛の) 言葉を抹殺する必要があったため、だったのかも知れない。時間ができた特に改めて言及するつもりでいる。

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右:頼朝が臨席した橋供養の跡か? 相模川の橋脚史跡    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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茅ヶ崎市と平塚市の境を流れる相模川から1kmほど鎌倉寄りの茅ヶ崎市下町屋、東海道と小出川の上を新湘南バイパスが立体交差する直下に古い橋脚史跡が保存されている(地図)。
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2008年頃までは何処にでもある小公園だったが、現在では完全な保存工事が施され、出土した時と同じ状態で復元(杭は樹脂製のレプリカ)されている。復元工事前に撮影したデータは低解像度で、残念ながら再利用できないのが悔やまれる。
特に公園用の駐車スペースはないが、すぐ前の大型家具店 ニトリ の駐車場が利用できる。
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大正十二年(1923)9月1日の関東大震災と翌年1月の余震で小出川周辺の地盤が液状化し、水田に古い橋脚が出現した。
その後の調査も含めて確認された橋脚10本の材質はヒノキで直系48~69cm×全長3.65m、川岸の護岸部分は巾約1m×長さ5.1~7.2m(厚さ10cm)の巨大な一枚板で補強されていた。
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この板には橋の構造に関係のないホゾ穴などがあり、大型船に使った木材を再利用したものと判明。ひょっとしたら建保五年(1217)に三代将軍 実朝 が宋に渡ろうとして建造した巨船(宋への渡航 を参照)の残骸が...とも思ったが、残念ながら年代が符合しない。吾妻鏡の数ヶ所には「大型の宋船が漂流した」旨の記載があり、その残材などを利用した、のだろう。
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発掘の結果から推定される橋の概要は...
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2m間隔で打ち込まれた3本(長さ4m)の丸太が橋の巾を支え、その3本が10m間隔で4列並んでいた。従って橋の巾は4m以上×長さ40m以上、北東から南西に架けられていたらしい。杭丸太の年輪を利用した年代測定に拠れば、1126~1260年の間に伐採されたヒノキ材を使っている。
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稲毛重成 の妻女の没したのは建久六年(1195)7月、追善のため橋の新設を思い立ち、私財で完工させた「橋供養」は建久九年(1198)の12月。新たに伐採したヒノキ丸太に加えて難破した大型船を解体利用したと考えれば、年代面での整合性はとれる。
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現在は橋脚をコンクリートの筒で囲み内部に充填材を満たして湿潤状態を保っている。地上に見えるのは樹脂製のレプリカ...概略ここまでが事実なのだが、発見の直後に現場を調査した歴史学者の 沼田頼輔wikiが 「頼朝が出席した相模川橋供養の跡に違いない」 と主張したから、話は桁違いに面白くなった。
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下記は建久六年(1198)12月27日の相模川橋供養に関する史料。いずれも後世の著作なので参考程度にしかならない、けれど。
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● 承久記 (承久の乱とその前後を描いた合戦記で武家による朝廷政治の崩壊を描いている。作者不明、成立は最も古い慈光寺本で鎌倉中期。)
稲毛重成 が亡妻を供養するために架けた相模河の橋供養に出席した 頼朝 は帰り道で水神に魅入られて病を発した。
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● 保暦間記 (南北朝時代の1340年前後編纂の歴史書。作者は足利系の武士か。底本は北条九代記、その原本は鎌倉年代記か。)
将軍は相模河橋供養に出席、帰路の八的が原で今までに殺した 源(志田)義憲義経行家 らの亡霊と目を合せた。これを過ぎた稲村ヶ崎で海上に十歳ほどの童が現れ「汝を見付けたぞ、我は西海に沈んだ 安徳天皇 である」と語って消えた。鎌倉に入った頼朝は病に伏した。
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● 神皇正統記 (南北朝時代に公卿の北畠親房が1339年頃に著した歴史書)
稲毛重成入道が亡妻(北條時政 の娘)追善のため架けた相模河橋供養に頼朝が出席。式典が終わって帰る際に落馬し、そのまま病床に伏した。
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  ※八的が原: JR辻堂駅南東。鎌倉時代に的を8ヶ置いた弓の練習場があり、松が多いので八的→八松ヶ原に変ったらしい。四辻に不動堂(現在の宝珠寺)があった
事から、辻堂の名が派生した。頼朝の開基と伝わる宝泉寺一帯には「八松」の地名(地図)が残っている。
ここは橋供養の橋脚史跡から約7km鎌倉寄りで、付近には郷土史家が建てた「頼朝落馬の地」の看板があるから笑える。まるで見ていたような。

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左:頼朝を驚かせた? 義経の怨霊を祀る御霊神社     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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茅ヶ崎の鶴峰八幡宮裏手にある龍前院には頼朝落馬の責めを負って自刃した護衛の武士10人の墓と伝わる五輪塔があったっけ。その後の調査で創建年代が一致せず、頼朝とは無関係なのが判明したらしいが、ここを訪問した暑い日に犬の飲む水を貰おうと境内の蛇口を勝手に開いて坊主に怒られた。
まぁこちらも悪かったけど、何も大声で怒鳴るほどの問題じゃないだろ。曹洞宗のクソ坊主め、喝!
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クソ坊主の話はさておき...橋脚の史跡から1kmほど南東のJR東海道線沿いに浄土宗の御霊山西運寺(ごりょうさんさいうんじ)と御霊(ごりょう)神社が隣り合って建っている。元々は神仏習合の宗教施設だった、と思う。
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全国各地に点在する御霊神社の起源は様々だが、総じて怨みを持ったまま死んだり非業の死を遂げた人の怨霊が天変地異や疫病を引き起こすと信じる「御霊(ごりょう)信仰」に根差している、らしい。
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茅ヶ崎の御霊神社の場合は頼朝死亡の原因になった落馬は義経の怨みが原因だから怨霊を鎮めなければという事で、鎌倉権五郎景政 の霊を祀った毘沙門堂に義経を合祀した。更に、500mほど離れた鶴嶺神社一の鳥居近くには義経と切り離せない忠臣 武蔵坊弁慶 を祀った塚も残っている。
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【12月の落馬事故に続いて、建久十年(1199)1月の頼朝死没に関する史料】
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● 承久記(承久記は1183年~1332年の幕府関連の出来事を漢文で記録した書で作者不明、成立は1333年。)
半月のあいだ病床に臥して心も弱り命も終わると見えたため孟光政子を呼び、「あなたと契りを結び長年を共に暮らしたが、別れの時が来た」として嫡子の 頼家を招じ「私の運命も尽きた。この後は諸国が乱れる事のないよう 畠山重忠 を頼りにして国を鎮護せよ」と遺言した。
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    ※孟光: 古代中国の説話に出てくる女性。容貌は誉められないが(笑)理想的な良妻だったらしい。でも政子さんには失礼だよね。
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● 猪熊関白記(鎌倉と円満な関係を保った関白太政大臣・近衛(藤原)家実の日記)
頼朝は飲水の重病が悪化し11日に出家して13日に没した。
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    ※飲水の病: 古来から糖尿病とされているが、合併症などが起きた場合を除き発病して20日ほどで死ぬ事例は稀、だという。
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● 愚管抄(天台座主 慈円 が著した史書で成立は鎌倉時代初期の1220年頃)
将軍頼朝の病状が良くないとの噂があったが、11日に出家して13日に没したらしい。

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右:吾妻鏡 第六巻の写本の写本 国立公文書館収蔵   画像をクリック→ 拡大表示
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鎌倉幕府の「正史」ではないが、ほぼ唯一の公式っぽい史書である吾妻鏡は建久六年(1195)12月22日で途切れ、建久十年(1199)の2月4日に再開するまで37ヶ月の記載が欠落している。将軍 頼朝 は即死ではなく、発病から死没まで20日もあったのに本来ならあるべき遺言の記録も残っていない。
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吾妻鏡の欠落が何らかの事故で失われたのか、あるいは意図的な削除か。もし意図的な削除なら記録に残せない事件があった事になるし、事件の内容が欠落の理由を読み解く鍵になる。もちろん、頼朝が死んだ直後に記録が再開している事実にも必然性を認めるべき、なのかも知れない。
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【 吾妻鏡 建久六年(1195) 12月22日 】  この日「以後」が脱落している。
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将軍頼朝は 安達盛長甘縄邸(別窓)に入り、今夜は宿泊する。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 2月4日 】  この日「以前」が脱落している。
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羽林(頼家)は先月20日に左中将に転じた。26日の宣下(天皇は土御門・上皇は 後鳥羽)に 「頼朝の業績を継ぎ家臣を統率して諸国差配をせよ」とあり、その到着前に初の吉書があった。北條時政大江廣元源光行(政所初代別当) ・ 三善康信三浦義澄八田知家和田義盛比企能員梶原景時二階堂行光(政所執事) ・ 平盛時(頼朝祐筆)・中原仲業(京下りの官吏) ・ 三善宣衡(文章専任)らが政所に到着、善信が吉書の稿を起し仲業が清書した。武蔵国海月郡(保土ヶ谷辺りか)に関する件で、廣元が持参して頼家に見せた。将軍が崩御して20日も過ぎていないが、天皇の命令を守る意味で行われた。
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  ※吉書: 年始や改元などの際に最初に発行する公文書。同じように天皇に宛てる文書の意味もあるが、この場合は前者かな。
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頼朝の死因について吾妻鏡に記載されたのは13年後で、しかも直接の記述ではなく「昔にこのような事例があった」との引用として書かれており(下記)、それも多くの憶測を生みだす要因となった。頼朝の将軍職を継承し後に暗殺された頼家についても、また甥の 公暁 に討たれた三代将軍 実朝 についても、死没の経緯などの明細を記載しているのに、初代将軍の死没記録がないのはやはり何かの原因で「失われた」と考えるべき、なのかも知れない。
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【 吾妻鏡 建暦二年(1212) 2月28日 】
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相模河に架かる橋の数ヶ所が朽ちたため修理を要する旨を 三浦義村 が報告、執権の 北條義時大江廣元三善康信 らが協議した。去る建久九年(1999)に重成法師(稲毛重成)が新造した橋である。落成供養の式典に将軍 頼朝 が出席し 帰路に落馬して その後に崩御、更に重成も死没した。縁起が悪いから今更架け直すこともあるまい、と。 実朝 は「頼朝将軍の崩御は権勢を執って20年が過ぎ官位を極めた後である。また重成は不義によって天誅を受けたもので架橋には関係がない。二所詣での要路でもあり庶民の通行にも貴重だから崩壊する前に修理せよ。」と命じた。
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【 事故の内容と死因についての紛々たる諸説 】
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  1.雷鳴か何かに怯えた馬が暴走して相模川に飛び込み大量の水を呑んだのが原因。馬が入ったから相模川の別名が馬入川。
  2.帰路に安徳天皇や義経の亡霊を見て落馬したのが原因。茅ヶ崎から藤沢は義経首塚などの伝承が多い。怨霊の崇りに違いない。
  3.この頃の頼朝は大姫入内を図るなど京都回帰志向が顕著だった。これを危険視した東国御家人連合が協議して暗殺した。
  4.落馬は事実だが直接の原因は脳溢血・脚気・糖尿病などが考えられる。落馬が合併症を誘発したと考えるのが自然だ。
  5.女装して夜這いに行き、誰何に答えず警備の侍に斬られた。外聞を憚り橋供養での落馬事故を捏造した(原典は歌舞伎か?)。
  6.頼朝の死で利益を得た者を疑うべき。北條一族が三代続けて将軍を殺し実権を掌握した。頼朝と頼家には毒物を使った(私論)。

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左:初代の鎌倉将軍 源頼朝の廟所     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)

結局のところ事故の詳細も判らず、更に肝心の吾妻鏡には葬儀に関する記述さえも見られない。3月2日の条に「故将軍四十九日の御仏事あり、導師は大学法眼行慈」(行慈は真言宗の僧で 文覚 の弟子)とあるから没したのは1月13日に間違いない。事故の詳細を書けない事情があったとしても、四十九日法要を記録するのならば、順序としては葬儀の様子を書くべきだろうと思うのだが...それを書けない事情でもあったのかな。
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保暦間記の「志田義廣義経 の亡霊に会い、更には稲村ヶ崎で 安徳天皇 の怨霊に会って落馬」は、軍記物特有の脚色だろう。冷酷に殺戮を重ねた歴戦の武将が怨霊に怯えたのなら神経を病んだ可能性もあるが、それほど繊細な性格でもないだろう。所詮は想像を巡らすだけ、建久七年(1196)~同九年(1198)に鎌倉で何があったのかは判らない。
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【 白旗神社 由緒記 】  祭神は源頼朝公 例祭日は1月13日<
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この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山合戦の際には髷の中に入れて戦った小さな観音像が安置され、頼朝公の篤い信仰受けた。正治元年(1199)1月13日に頼朝公が没してここに葬り、法華堂として毎年の正月命日には代々の将軍が参詣し、仏事を執り行って多くの武士も参列した。その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け、明治維新の際に寺は白旗神社と改めて頼朝公を祭神とし今日に至っている。現在の社殿は明治維新百年を記念して源頼朝公報恩会の篤志により造営された。
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頼朝の父 義朝 が殺された知多の大御堂寺(野間大坊)には、建久元年(1190)の上洛の途中で立ち寄った頼朝が大門(現存する)を寄進し、石橋山合戦の際に髷の中に入れていた守り本尊の地蔵菩薩像(助命を嘆願してくれた 池の禅尼平清盛 の継母)から貰った像)を納めた事になっている。吾妻鏡の石橋山合戦記録は「頼朝三歳の時に乳母が清水寺に参詣して将来を祈り、夢のお告げによって得た2寸の銀の観音像」としている。
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【 法華堂跡の碑文 】  鎌倉町青年団が大正十三年(1924)に建立(原文通り)。
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堂は頼朝の持仏を祀る所にして頼朝の薨後其の廟所となる 建保五年(1217)五月 和田義盛 叛して火を幕府に放てる時 将軍 実朝 の難を避けたるは此処なり 宝治元年(1247)六月五日 三浦泰村 )此に篭りて北条軍を邀へ 刀折れ矢尽きて 一族郎党五百余人と供に自尽 満庭朱殷に染めし処とす
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頼朝の墓は子孫を称する島津氏による江戸時代の建立で、香台や墓石には丸に十字の島津紋が刻まれている。島津氏の論拠は、
  1.頼朝が伊東祐親の娘八重に生ませた千鶴丸は実は生きていて、後日に頼朝と対面を果たし島津家の始祖になった(風説)。
  2.安達藤九郎盛長の妻丹後内侍は頼朝と通じており、子の惟宗忠久は実は頼朝の子。この忠久が島津氏の祖となった(系図の主張)。
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典型的な経歴詐称は笑い飛ばして...頼朝の亡骸は貴人を葬る習慣に従って大倉の持仏堂に葬られ、正治二年(1200)以降は法華堂となった。想像されるような墓石は元々存在しないし、父の義朝や正妻の政子や実朝を葬った 勝長寿院 (別窓。大御堂寺また南御堂、源氏氏寺の色彩が濃い)ではなく大倉に葬ったのは何故なのか判らないけれど、安永八年(1779)に頼朝の子孫を称する島津重豪が五層の石塔(現在の墓石)を設置、法華堂は明治初期の神仏分離に伴う廃仏毀釈運動で破壊され、その跡地に白旗神社が建てられた...という経緯になる。
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  ※五層の石塔:
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安永年間(1772~1780年・徳川十代将軍家治の頃)に荘厳院の僧が勝長寿院跡から層塔や石塔を運んだ、と伝わる。荘厳院は 鶴岡八幡宮寺25坊 の一つ。
勝長寿院は室町時代の享徳四年(1455年・足利将軍義政の頃)前後に廃寺となっているから、荒廃した跡地に残っていた石塔(もちろん誰かの墓石だろうが)を移した可能性はある。廃寺になってから300年以上も過ぎれば記録が残っている筈もない。


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