右:旧奥州街道から400mも続く野木神社の見事な参道、 画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月23日 の続き 】 実際には寿永二年(1183)2月の事件を差す
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更に 足利(藤姓)忠綱 は味方に加わるよう 小山四郎朝政に持ち掛けた。朝政の父 政光 は御所警護に任じて郎従の多くと共に在京しており朝政の手勢は少なかったが、志は頼朝の側にある。義廣を討ち取ろうと考え、老臣の言葉を容れて味方に加わると嘘を吐き義廣を誘い出した。
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朝政は義廣一行が野木宮まで来た時に登々呂木澤※と地獄谷※で待ち伏せし多くの敵を討ち取った後に馬を射られて落馬、更に徒歩で奮闘を続けた。傷を負った馬は主人から離れ登々呂木澤で嘶いた。
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そこへ鎌倉から小山を目指して進軍していた五郎宗政(20歳)がこの馬を見て朝政討死と判断し義廣の陣へ突入、立ち塞がった義廣の乳母子・多和利山七太を討ち取った。義廣は少し退いて野木宮の西南に布陣し、小山四郎朝政と五郎宗政は東から攻め寄せた。
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この時に東南の方向から突風が吹いて土埃を巻き上げ、義廣勢は視界を失って統率が取れず多くが討ち取られて地獄谷と登々呂木澤※に死骸を晒した。また
下河辺庄司行平 と弟の 四郎政義 が古我(現在の古河)と高野の渡※を封鎖し、敗走する兵を討ち取った。足利七郎有綱※と嫡男の 佐野太郎基綱、四男の阿曽沼四郎廣綱、五男の木村五郎信綱、大田小権守行朝らは小手差原※に陣取って戦った。他にも 八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄らが朝政勢に加わった。蒲冠者範頼 も同様に駆け付けた。
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※地獄谷と登々呂木澤: 野木神社西側、渡良瀬川まで広がる湿地帯。野木神社とは15~20mほどの高低差がある。
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※足利有綱: 藤姓足利氏(
藤原秀郷 の子孫)の中で志田義廣に味方したのが嫡流の
俊綱 と
忠綱 の親子、俊綱の末弟で庶流の足利七郎有綱と嫡子の佐野基綱兄弟は鎌倉方に与して
いる。本来は足利地域に最初に土着していた藤姓足利氏は野木宮合戦での敗北によって失脚零落し、以後は庶流の佐野一族が辛うじて命脈を保つ結果となった。
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※古我と高野の渡: 古我は野木から南に逃げて渡良瀬川を渡る地点、高野は北に逃げて思川上流を渡り現在の栃木市方面に向かうルート、小手差原は利根川の古流路(現在の
権現堂川)を渡って南西に逃げるルートか。要するに壊滅して統率を失いバラバラに落ち延びたのだろう。
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野木宮合戦前後の吾妻鏡の記事はリンク先に掲載してあるが、嘘っぽい描写が多くて好きになれない。そもそも公称三万騎を率いていた義廣が寡兵の朝政にベタ負けするのは理屈に合わないし、吾妻鏡の書いた
「兵を登々呂木澤地獄谷の樹に登らせ大声を挙げて大軍に思わせた」なんて不合理だし、全く同じ描写を金砂城攻防戦
※でも使っている。「ちょうど弟の五郎宗政が鎌倉から来た」のも偶然が過ぎるし、頼朝に臣従している小山一族の立場は判り切っているのに朝政に協力を持ち掛けるのも全く理屈に合わない。下川邊行平から範頼まで源氏の武将が揃っている記録も、充分な事前の準備があった事実を物語る。
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野木神社の地図は
こちら、旧奥州街道から真っ直ぐに約400mの参道が延びている。地獄谷と登々呂木澤は神社の西に渡良瀬川まで続く湿地帯だったが現在は河川敷を除いて水田に姿を変えている。
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※金砂城攻防戦: 治承四年(1180)の富士川合戦直後に常陸の
佐竹秀義 が籠った金砂城(
地図)の戦い。要害の金砂城を攻めあぐねた鎌倉軍は
上総廣常 の提案で秀義の叔父
佐竹蔵人義季を篭絡し城の裏手から大声で城兵を驚かし攻め落としたと、吾妻鏡は記述している。下手な嘘は簡単にバレるね。
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右:伝・経基王の館跡(鴻巣) 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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異説は多々あるが、一応通説に従って...
第五十六代
清和天皇 の第六皇子
貞順親王 が源能有の娘に産ませた六孫王が臣籍に下って
源経基 を名乗り清和源氏の初代となった。源能有は第五十五代文徳天皇の皇子で清和天皇の異母兄。皇統を継げる立場だったが生母の出自が低く、早くに皇籍を離れていた。
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JR高崎線の鴻巣駅から1kmほど西の鴻巣高校グラウンドの南隅、東西95m×南北89mの一角が「ふるさとの森」として保存されており、ここが源経基の館跡と伝わっている。
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承平八年(938)、経基は武蔵介(四等官(守・介・掾・目)の二番目)として同じく権守の興世王と共に赴任し、在地の豪族・武蔵武芝とトラブルを起こす。興世王は
平将門 の仲介を受け入れたが経基は兵を率いて比企郡狭服山
※に籠った末に京へ逃げ、将門と武芝と興世王が結託して謀反した、と訴えた。結果として関東5ヶ国国府の証明書を提出した将門らの抗弁が認められ経基は誣告の罪で拘禁されたのだが...
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※比企郡狭服山: 当時の武蔵国府は府中市大國魂神社一帯 (
地図) だった。ここを起点に「山」を推定すると、将門伝説が残る飯能市前ヶ貫の
大蓮寺裏山 (
地図) か、個人的には
鎌倉街道が通っていた狭山市の智光山公園 (
地図) だといいな、などと思っている。この根拠は皆無、単純に若い頃の些細な思い出があるだけなのだが (笑) 。
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翌・天慶二年(939)11月に将門が実際に乱を起こしたため罪を解かれて昇進し、更に天慶四年(941)には
藤原純友 の乱鎮圧(単なる戦後処理)にも関わって鎮守府将軍にまで登り詰めた。合戦を指揮した経験もなく、軍人としては間違いなく凡庸以下だったのに。似たようなタイプ、結構いるんだよね。
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鴻巣に経基の館があったとする根拠は薄弱で、城郭の痕跡は平安末期ではなく戦国時代以降のものと考える方が妥当だろう。高崎線に沿って北へ伸びる中山道は埼玉県北部で京と奥州を結ぶ東山道と交差する要路であり、慶長八年(1600)には関が原に向う徳川秀忠軍もこのルートを通過している。
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土塁や濠はかなり本格的な構造だが、後世の出城あるいは砦と思われる。経基の館跡を利用して軍事拠点に整備した可能性も皆無ではないが、武蔵国に僅か一年弱の滞在だった経基の館跡が残っている筈もない。今回は周辺を素通りするだけで済ませたが、いずれもっと詳しく公園の中を歩いてみたいとは思う。
左:羽曳野 通法寺に残る源氏三代の墓所 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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経基王(源経基)の嫡子
満仲 は摂津国多田(現在の兵庫県川西市多田)に源氏子飼いの武士団を形成し、更に満仲の息子らは各地に所領を得て新たな源氏の諸家を興した。
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嫡子の
頼光 は多田を継承して摂津源氏(多田源氏)の祖となった。本来ならば清和源氏嫡流である頼光の家系は頼光→ 頼綱→ 明国(多田)と続き、明国の弟・仲政の嫡子だった
三位頼政、その後は養子を経て末裔には大田道灌が現れる。満仲の二男
頼親 は大和国(奈良県)に拠点を置いて勢力を伸ばしたが、数代後には中央政権との関わりを維持できず、地方豪族として歴史の中に埋没した。
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そして、満仲の三男
頼信 は第68代後一条天皇の寛仁四年 (1020) に河内守に任じ、河内国古市郡壷井 (大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰
※の山裾に館を構えた。館の敷地は現在の通法寺跡から壺井八幡宮を経て2km北の駒ヶ谷付近まで含んだ、と伝わる (
地図)。
館の南側に氏寺の通法寺があり、そこから南の丘陵に頼信・頼義・義家の墓所を設けた。河内源氏の聖地だね。
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河内源氏は
頼義→
義家→ 義親→
為義→
義朝 に続き、150年後には
頼朝 が鎌倉幕府を創設する。頼朝の血筋は息子
頼家 と
実朝
の代で絶えるが、義家の弟
義光 は所領だった常陸と甲斐に勢力を拡大し、常陸の所領は長男の佐竹義業(
秀義 の曽祖父)が継承して常陸源氏となる。
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甲斐の所領は二男の
義清 が継承、父と共に甲斐に土着した義清の嫡子
清光 は甲斐国各地の所領を息子たちに与え、嫡流武田氏を始め加賀美氏、浅利氏、小笠原氏などの甲斐源氏として長く歴史に名を留める。更に富士川中流域の偏狭な南部郷(
地図)を継いだ南部氏庶流は奥州合戦で得た恩賞の地に移住し東北屈指の名家として嫡流を越える繁栄を得た。
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羽曳野壺井の通法寺は河内源氏の菩提寺で、河内国司に任じた
頼信 が長久四年(1034)に山中にあった千手観音像を祀る小堂を建てたのが最初。その後、前九年の役から凱旋して浄土宗に帰依した嫡男の
頼義 が阿弥陀如来を本尊として河内源氏の氏寺に改め、これが壷井八幡宮の別当寺となった。
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通法寺は源氏の隆盛と共に繁栄したが戦国時代には再三の兵火で焼失、元禄十三年(1700)に源氏の末裔・多田義直の申請を受けた五代将軍綱吉が再建し寺領として200石が与えられた。明治初期には神仏判然令に伴う廃仏毀釈運動で廃寺となり、現在では本堂の礎石と江戸時代建立の山門と鐘楼が残っているだけで、河内源氏三代(頼信・頼義・義家)の墓所が周辺に点在している。
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大きな疑問として残るのは、二度上洛した頼朝が先祖の墳墓である通法寺を訪れた記録が残っていない事だ。京都からは約70kmだが文治元年(1185)8月の東大寺盧遮那仏開眼供養のついでなら片道40km、僅か一泊の道程なのに、一族の聖地を訪れなかったのは何故か。
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※香炉峰: 唐代の詩人 白居易(772~846)は46歳の時に中央から江州(現在の江西省九江市)に左遷され、廬山の香炉峰麓に居を構えた。
ここで簾を上げ、雪の香炉峰を見ながら落魄の我が身を省みた七言律詩を詠んだ。壺井の香炉峰はこの山の名を転用したのだろう。
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日高睡足猶慵起 小閣重衾不怕寒 遺愛寺鐘欹枕聽 香爐峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地 司馬仍爲送老官 心泰身寧是歸處 故郷何獨在長安
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陽が高く昇り睡眠は充分だが、気力が起きぬ。狭い庵に夜具を重ね寒くはない。遺愛寺の鐘に枕に凭れたまま耳を傾け、簾を撥ね上げて香爐峰の雪を眺める。
匡廬こそ 煩わしい名誉から逃れた地、司馬こそは老後の官職として不足は感じない。心身ともに落ち着けるのが 私が依るべき場所、長安だけが私の故郷ではない。
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時代は下って枕草子第二百八十段。ある寒い雪の日、中宮定子(第66代 一条天皇皇后)の女官たちは炭櫃で暖を取りながら世間話に花を咲かせた。
その時に定子は「少納言よ、香炉峰の雪はどうだろうか」と話しかける。他の女官は意味が判らず、清少納言は近くの女官に御簾を巻き上げさせ、雪景色を見せて喜ばせた。
清少納言の知識と機転、香炉峰の語源を物語る、990年代後半の逸話である。
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雪のいと高う降りたるを 例ならず御格子まゐりて 炭櫃に火おこして 物語などして集りさぶらふに
「少納言よ 香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば 御格子上げさせて御簾を高く上げたれば 笑はせ給ふ
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白居易が詠んだのが718年、彼の詩は180年後の宮中で既にメジャーになっていたらしい。
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右:頼義が創建した壺井八幡宮 画像をクリック→
壺井八幡宮の公式サイトへ (別窓)
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河内名所図会に拠れば、前九年の役(1051~1062)で飲料水の不足に苦しんだとき頼義が弓の先で崖を崩して冷泉を得た。凱旋する際この水を壺に入れて持ち帰り、香炉峰の南麓に井戸を掘って壺の水を注いだ、これが「壺井」の語源になった、と伝わっている。
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凱旋した頼義は康平七年(1064)に清和源氏の守護神である京都男山の
石清水八幡宮 を勧請して壺井八幡宮を創建しているから、井戸の伝承と八幡宮の創建は相互に始まりを補完するもの、だろう。
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頼義の嫡男義家は石清水八幡宮で元服して八幡太郎を名乗り、次男の義綱は京都市北部の賀茂神社(
上賀茂神社 と
下賀茂神社の総称)で元服して賀茂次郎を名乗り、三男義光は近江国三井寺(園城寺)守護神の
新羅明神 で元服して新羅三郎を名乗った。(青字はそれぞれ公式サイト)
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兄の義宗が早世したため
頼義 を継いで河内源氏の棟梁となった
義家 は優れた武将として多くの伝説を残したが、私戦と判断された奥州合戦(後三年の役)の後は公私とも恵まれなかった。長男義親は略奪と官吏殺害の罪で討伐され、二男
義国 は気性の荒さから後継を外され、更に常陸国に土着した後に騒乱が元で勅勘を受けた後に下野に流されて(結果的に)足利と新田の祖となった。
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この頃から源氏の宿命とも言える同族の殺し合いが頻発する。三男で嫡子となった義忠は河内源氏棟梁を狙った叔父
義光 の策謀で暗殺され、義親の子為義(義家の七男説あり)が河内源氏棟梁を継承した。
為義 から源氏棟梁を継承した
義朝 は保元の乱(1156)で敵方に与して敗北し捕虜となった父為義と弟5人(頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲)を洛北の船岡山で斬首している。義親の気性を継いだのだろうか、良知には最後まで血の匂いが付き纏っていた。
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そして鎌倉時代の建保七年(1219)1月には雪の鎌倉八幡宮で
頼家 の遺児
公暁 が叔父の将軍
実朝 を殺し、身内の殺し合いによって河内源氏の男系男子が絶えてしまうのだから、
「あまりに多くの人命を奪った祟り」との言葉も無視できなくなる。
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右:大津市 新羅三郎義光の墓所 画像をクリック→ 拡大表示
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義光は兄の
義家 と並ぶ優れた武将で笙の名手、兄が奥州で苦戦していた後三年の役では官職を辞して応援に駆け付けた美談も残る。文武両道を極めた人物なのだが...同族の殺し合いが多かった源氏の中でも飛び抜けた策士で冷徹な殺人者でもあった。
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嘉承元年 (1106) 夏に長兄の義家が68歳で死没し、義家四男の義忠(母は
平直方 の娘)が河内源氏棟梁を継承。この時から義家の6歳年下(当時62歳)の義光は河内源氏棟梁の座を狙い、次兄の義綱と棟梁になった義忠の二人を殺す計画を立てる。
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まず義光は配下の藤原季方を兄 義綱の三男義明の郎党として送り込み、次に同じく配下の平直幹(義光の長男義業の妻の兄)を義忠の郎党として送り込んで殺害の機会を狙った。
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義家死没三年後の天仁二年(1109)春、藤原季方に義明の太刀を盗ませて平直幹に与え、その太刀を使って義忠を殺させ更に太刀を現場に残させた。この事件は義綱・義明父子の犯行と判断され、義綱の一族郎党は追討された。つまり義光は棟梁である甥の義忠を殺して実兄の義綱親子に罪を着せ、二人の邪魔者を一挙に抹殺するという完全犯罪を成し遂げた、かに見えたのだが。
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更に異母兄の快誉(園城寺(三井寺)の住僧、義家より三歳上なので庶長子か)に命じて暗殺実行者の藤原季方と平直幹を殺し、犯行の発覚を防いだ。結果として快誉の自白から事件の全てが明らかになってしまう。義光は勢力圏の常陸国に逃亡し、肉親殺しの物語は次の「武田氏発祥の原点 常陸国武田郷」に続くことになる。
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70年後、義光の直系子孫は再び同族の争いを始めてしまう。
義光→
義清→
清光→
信義 と続いた次の代、棟梁の座を狙った信義三男の
石和信光 は 甲斐源氏の弱体化を望む
頼朝 と手を結び、信義を継いだ長兄
一條忠頼 を頼朝に謀殺させ、更に父の信義と次兄の
逸見有義 を讒訴して失脚させた。この事件で甲斐源氏は急速に衰退するのだが、その代償として信光は十六代後の信玄に続く武田一族の覇権を握った。これらの詳細についても次項で述べようと思う。
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右:武田氏発祥の原点 常陸国武田郷 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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武田姓の始まりは河内源氏初代頼信の嫡男
頼義 の三男(
八幡太郎義家 の弟)である
新羅三郎義光 の次男
義清 が常陸国吉田郡武田郷(ひたちなか市武田 )に本拠を置いて武田冠者を名乗った事に始まる。
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義清の兄 義業は常陸平氏の有力者吉田清幹の娘を妻にして常陸国北部の佐竹郷に勢力を扶植して佐竹姓を名乗っていた。義清は那珂川北岸の台地に館を構えて常陸国南部での勢力拡大を目指したが、以前からこの周辺を所領にした常陸平氏の大掾氏とトラブルを起こし訴えられた末に勅勘を受け天承元年 (1131) 甲斐流罪となった。
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ただし、甲斐国は頼信(甲斐守)以来の河内源氏の地盤なので実質は配置転換程度の軽い処分に過ぎなかった。土着した市河荘では既に叔父の覚義阿闍梨が御崎明神の婿として地盤を築いており、義清一族の運命はこの甲斐移封によって大きく開けた。
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義清を継いだ
黒源太清光 は長男の
光長 に逸見郷を、次男の
信義 に武田郷を、三男の
遠光 に加賀美郷を、四男の
義定 に安田郷を、五男の清隆に平井郷を、六男の長義に河内郷を、七男の厳尊に曽根郷を、八男の
義成 に浅利郷を、九男の信清に八代郷を、それぞれ分与して各氏族の祖とし甲斐全土を制圧、紆余曲折を重ねつつ、義清から19代後の勝頼 (信玄の嫡子) が天目山で自刃するまで450年間も繁栄を続けた事になる。
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義清が館を置いた常陸武田郷の台地には湫尾(ぬまお)神社が建ち、館を模した裏手の資料館「武田の郷」には一族の由来を物語る資料が展示されている。見るべきものが多いとは言えないが、甲斐国の代名詞と言える武田氏がここからスタートしたのを考えると素通りも出来かねる。
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地図は
こちら、南の那珂川や東の常磐線側は道が狭いから、セブンイレブン方向から左折し住宅街を抜けて湫尾神社を目指すと良い。
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左:義光伝説が残る、甲斐若神子の正覚寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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義光は甲斐守在任中に若神子城を築き拠点にしたと伝わるが、この確証は得られていない。若神子エリア(
地図)はむしろ、武田信玄が信濃国攻略の補給基地として使った事の方が知られている。
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若神子(わかみこ)は諏訪へ抜ける道(現在の国道20号)と佐久へ続く道(現在の国道141号)の分岐点に近く、釜無川と須玉川に挟まれた天然の要害である。後世の武田信玄が最短の軍用道路として整備した「棒道」の基点に近く、ここには当時の高速通信ネットワークである狼煙台も置かれていた。
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平安時代の遺構はもちろん残っていない。城址に関する詳細は
wiki の資料 で 、棒道と狼煙(烽火
※)台については
北杜市観光協会 と
津金学校(旧・須玉歴史資料館)の公式サイトが判りやすい。
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若神子の名は東征の際に甲斐国に入った日本武尊(ヤマトタケル)の「御子」を表したとも、室町時代に使われた地名の記録が残っている「若巫郷」が原典とも言われるが、詳細は不明。桜で有名な韮崎の「王仁塚(わにつか)」は日本武尊の王子・武田王の墓だとの伝承もあるから、甲斐の各地に残るヤマトタケル伝説の一つかも。
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※烽火: 唐帝国を揺るがした胡人・安禄山の乱を嘆いた杜甫の五言律詩 「春望」にも載っている。「戦いの烽火(狼煙)は三ヶ月も続き...」と。
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国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻更短 渾欲上勝簪
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常陸介~甲斐守を歴任した新羅三郎義光も、親族暗殺の犯行が露見した後は京を離れ、在任中に影響力を広げた常陸国への逃亡を余儀なくされた。義忠殺害の冤罪を受けた義綱一族が追討されたのに、兄弟殺害がバレた真犯人の義光が追討令を受けなかったのは何故か、その理由は判らない。いずれにしても、義光の遺領と影響力が常陸源氏佐竹氏と甲斐源氏の諸族に受け継がれ繁栄することになる。
10月に大津三井寺で没した。享年83歳で病死、或いは義忠の遺児河内経国に殺された、とも。
三井寺の新羅善神堂で元服した義光は暗殺事件から16年が過ぎた大治二年 (1127) 10月に大津三井寺で没した。享年83歳で病死、墓所は善神堂の裏手にある。
右:甲斐 平安~鎌倉期の勢力分布と著名な史蹟 画像をクリック→拡大表示
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甲斐源氏の系図は
清和天皇 →
貞順親王→
源経基→
満仲→
頼信→
頼義→
新羅三郎義光→ 三男
逸見義清→ 嫡男
清光と続き、清光の子は甲斐国全土に勢力を蓄え、武田・加賀美・小笠原・浅利・南部・於曽として源氏の血脈を受け継いでいく。甲斐源氏の詳細系図は左フレーム「清和源氏の系図」の中段を参照されたし。
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第56代
清和天皇 の第六皇子
貞純親王 の子・経基王が源姓を下賜され臣籍降下して清和源氏の祖となった。ただし、
陽成天皇の子・元平親王説もあり、陽成の悪名を避けて清和を祖としたと考える説もある。
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陽成は殺人を好み、側近を矢で射殺したり女官を溺死させたりの奇行が多く、更に乳兄弟まで撲殺した...それが「狂気」の原点なのだが、陽成の即位は7歳で退位は満15歳。主たる退位の原因は母方の伯父で摂政を務めた
藤原基経 (wiki) が意の侭に動かぬ陽成を排除して従順な光孝に58代を継がせるため仕組んだとの説も評価が高い。陽退位した成が80歳の長寿を全うしたのも面白い。
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長元二年 (1029) に経基の嫡孫
頼信 が甲斐守として赴任し、その孫の義光も短期間甲斐の若神子館に住んだとされるが、この確証は得られていない。後に常陸国へ移って勢力を広げた経緯から、義光は甲斐源氏と常陸源氏の祖とされている。
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義光の嫡男義業は常陸の久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に土着して常陸源氏の祖となり、嫡男の隆義が佐竹氏の二代目を継承した。義光次男の義清は甲斐に土着して繁栄、義清の嫡男清光は北東部の逸見(現在の甲斐大泉)に拠点を置いて多くの男子をもうけ、各地の所領を継承させた。
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長男
光長 は逸見城の南に深草館を置いて逸見を名乗り、二男
信義 は釜無川の西に本拠を置いて武田を名乗り、三男
遠光 は釜無川と笛吹川の合流点近くに本拠を置いて加賀美を名乗り、四男
義定 は甲斐盆地の北東部に本拠を置いて安田を名乗り、五男清隆と六男長義は石和に本拠を置いてそれぞれ平井と河内を名乗り、七男の厳尊は笛吹川を隔てた南東部の御坂に本拠を置いて曽根を名乗り、八男
義成(与一) は曽根の下流に本拠を置いて浅利を名乗り、九男信清は更に東の山間部に入って八代を名乗った。
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甲斐源氏の実質的な祖である清光の子孫についての概略は下記の通り。光長と信義は一卵性双生児と伝わる(異母兄弟説あり)。
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● 長男
光長は逸見氏の祖となったが、その後の一族には不明な点が多い。庶流が甲斐に、直系子孫は摂津・美濃・若狭などに移ったと伝わる。
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● 二男
信義 が武田を名乗るが嫡子
(一條)忠頼 は鎌倉で謀殺され信義も失脚。親族を裏切って頼朝に協力した三男
信光 が武田宗家を継承。
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● 三男
遠光は加賀美氏の祖となった。遠光長男の秋山光朝は妻が
平重盛 の娘だったため失脚し、四男光経が加賀美を継いだ。
遠光の二男
光行が南部氏、三男の
長清(妻は
上総廣常の娘)が小笠原氏、五男の経行が於祖氏の祖となった。
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● 四男
義定 は安田を名乗ったが幕府樹立後の建久四年に嫡男
義資 の冤罪に連座して失脚、翌年に追討され一族が滅亡した。
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● 五男清隆は平井を、六男長義は河内を、七男厳尊は曽根を、九男信清は八代を名乗ってそれぞれ甲斐に土着したが詳細は省く。
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● 八男
義成 (与一) は浅利を名乗って甲府盆地南東部(中央市豊富地区)を領有した弓馬四天王の一人。越後城氏の娘
板額を妻(後妻?)とした。
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清光を共通の祖とするこの諸族は更に多くの支流に分岐し、様々な離合集散を繰り返す。そして400年近くが過ぎた1540年代に信玄の下に集結して緩い主従関係を構成し、武田信玄の跡を継承した勝頼の時代には多くが離反して武田氏の滅亡を招くことになる。甲斐の諸族には元々の主従関係がなく、長幼の差からスタートした言わば対等に近い集合体で独立の気風からは脱し切れなかったのだろう。
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左:義清と清光は甲斐市河荘へ 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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蛇足...数百年の後、甲斐を統一した武田信玄と常陸の雄・佐竹義重は小田原北条氏を牽制するために同盟を結び、その際に書状の遣り取りがあった。信玄側では
義光 から伝わった盾無の鎧や御旗を根拠にして嫡流を主張した。義重側は、佐竹の祖義業は義光の嫡男である。武田の祖
義清 の兄だから、嫡子庶子の順は明らかだ、と主張した。この論争の結末がどうなったかは判らない。
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市河荘の荘園領主は京都の真言宗法勝院(創建は藤原北家で摂政の藤原良房)、釜無川と笛吹川が合流する現在の市川三郷町平塩岡(
地図)を中心に広いエリアを占めていた。
義清 と
清光 の親子は平塩岡に館を構えて本拠地とし、荘官として甲斐盆地に影響力を広げた。平塩岡は後に甲斐を席巻する武田一族が印した第一歩であり、甲斐源氏にとっての原点である。
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この時の義清は56歳前後で清光は20歳前後、かつては常陸介だった義光が没した大治二年(1127)の三年後、常陸国で起こした「清光濫行」で配流となった甲斐国で運命が大きく開けた。当時の常陸国司だった藤原盛輔や在地豪族にとってはトラブルの種だったから、結果的には双方にとって円満な解決、という事になる。
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義清親子は約10km北(現在のJR身延線国母駅付近)にも館を構え(本拠は平塩岡ではなく国母との説あり)、更に清光は40km北の逸見荘に進出して逸見冠者
※を名乗り、2km北の高台に谷戸城(別名を逸見城)を築いて詰めの城とした。義清は20年後の久安五年(1149)に死没、玄(くろ)源太と呼ばれた嫡子の荒武者清光は保元の乱(1156年)にも平治の乱(1159)にも参戦せず、ひたすら甲斐国での勢力拡大に専念している。
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※武田系図などによると.
河内源氏
源義清 は白河院の承保二年(1075)4月16日に近江志賀館(大津?)で生まれた(同、元年・1074説あり)。
母は常陸国の住人鹿島清幹女、幼名は文殊丸または音光丸。堀川院の寛治元年(1087)に伯父
義家 を烏帽子親に13歳で元服し、刑部三郎を号した。
義光 にとっての三男だが兄弟よりも資質が高かったため嘉承元年(1106)に家嫡と定め、 (父祖伝来の家宝) 御旗と盾無の甲冑を譲り受けた。
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甲斐国市河庄に配流(常陸を経た経緯は系図に載っていない)された後に伊豆・甲斐・信濃・遠江などの受領職(現地に赴任する長官、遙任の対語)を歴任、甲斐判官と号し従五位下に叙された。鳥羽院の保安四年(1106)1月16日に49歳で剃髪、近衛院の久安五年(1149)7月23日に75歳で死没、墳墓は甲斐市河荘に在り。
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逸見冠者
黒源太清光 は堀河院の天文元年(1110)6月9日、市河館で誕生、幼名は徳光丸。崇徳院大治元年(1126)1月11日に15歳で元服、烏帽子親は
足利(加賀介)源義国、武田源太を号す。顔が著しく黒かったため世間では黒源太と呼んだ。伊豆・甲斐・信濃・遠江などの受領職を歴任、六条院の仁安三年(1168)7月8日59歳で没、墳墓は甲斐逸見郷に在り。
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「六位で無官の者」とか能狂言の「太郎冠者」とか様々な使い方がされるので厳密な意味が不明だが、清光のように地名を冠した場合は単純に「逸見を支配する者」とか「逸見に本拠を置く者」の意味が強いんじゃないかな、とふと思った。裏付ける根拠も知識もないけれど。
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右:甲府盆地・西条の義清神社と義清塚 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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ここは
義清(武田冠者)が平塩岡から進出して拠点を設けた地、あるいは久安五年(1149)に没した後に「義清大明神」として祀った社殿の跡とも言われる。更には逸見荘に移って老齢を迎えた頃に棟梁を
清光 に譲り余生を過ごした、とも。
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義清塚と呼ぶ墳墓は境内から道路を隔てて西側のアパート裏にあり、高さ3mほどの円墳は別名を「おこんこん山」、昔は狐が出没したために付いた名前らしい(
地図)。
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確かに鳥居前の堀や境内の僅かな土塁の痕跡は居館の雰囲気を残しているが、昭和六十年(1985)に行われた境内と墳墓の発掘調査でも義清館の存在を裏付ける資料は見つからなかった。創建当時の円墳は裾が現在よりも広かった事、別な場所から運び込んだ砂を積み上げた構造である事が判った程度で、出土した陶器や古銭も義清伝説を裏付けるレベルではなかった、との記録が残っている。
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甲府市と市川三郷町は乏しい資料を駆使して互いに甲斐源氏発祥の本家を主張しているのも、面白い。
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義清が74歳で没した時の嫡子清光は40歳で嫡孫の光長と信義(双子)は21歳。既に一族の勢力は甲斐全土に及びつつあり、義清が住み慣れた市河荘あるいは西条に戻って隠居した、と考えても不思議ではない。初期の甲斐源氏が武士団を形成する過程で置いた根拠地の一つと考えるべきだろう。
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義清を産んだ平清幹の娘の兄弟に平成幹(吉田成幹・鹿島三郎)がいるのが興味深い。成幹は義清の父・義光の家臣で、義光の命令を受け河内源氏四代目棟梁の義忠(義光の実兄
義家の三男)を暗殺した人物である。義光は源氏棟梁の地位を狙い(兄義綱の三男義明の刀で)義忠を殺させ義綱親子に罪を着せて滅ぼし、更に実行者の成幹は実弟の快誉(園城寺の僧)に殺させて犯行の隠滅を図った。この悪辣な手口が(たぶん成幹の書き残した文書から)露見し、義光は勢力圏の常陸に逃亡を余儀なくされた。
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義忠は当時の新興勢力だった伊勢平氏との共存を図って平正盛(忠盛の父、つまり
清盛の祖父)の娘を娶り、忠盛の烏帽子親を務めるなど政局の安定に尽力した人物。もしも義光が我欲に駆られて義忠を殺さなければ平家との確執も起こらず、保元・平治の乱や壇ノ浦の悲劇も起きなかった、かも知れない。
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左:義清の嫡男 源太清光の拠点・谷戸(逸見)城址 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
富士川合戦より前の甲斐源氏の動向に関する資料は多くないが、吾妻鏡に数ヶ所が載っている。
甲斐源氏の拠点の一つとして逸見山が現れるのは治承四年(1180)9月15日のみ、
頼朝 が安房を出て上総国に入り
千葉常胤 と会った直後である。北杜市大泉町の谷戸城址(
地図) が逸見山に比定されている。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 9月8日】.
北條時政 が使節として甲斐国に出発。甲斐源氏を伴って(原文は「相伴彼國源氏等」)信濃国に向かい、降伏する者はこれを従え、驕り逆らう者は討伐せよとの厳命を受けている。 .
これは吾妻鏡の粉飾。頼朝が千葉常胤と面談して応援の確約を得たのは9月17日で、遅参した
上総廣常 を待たず安房を出て上総を目指したのが9月13日。この時点の頼朝直属の兵力さえ「精兵300騎」なのに、その5日前に安房を出た北條時政が甲斐源氏の一翼を担えるほどの兵力を伴ったとは考えられない。
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安房を発って甲斐を目指すためには大庭の勢力圏である相模を通るか、まだ旗色を鮮明にしていない秩父平氏(畠山・河越・江戸・豊島の諸氏)の勢力圏・武蔵を通る必要がある。時政の派遣は援軍を求めるための、少人数による隠密行動だった筈だ。
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そもそもこの時点の頼朝が動員できる戦力は、甲斐全域と信濃東部を平定した甲斐源氏に対して、が指示命令できるほど優位ではなく同格以下。甲斐源氏の側にも同様の意識はあったと思う。例えば頼朝の軍勢は8月23日の石橋山合戦で敗北したが、
安田義定 を主力とする甲斐源氏は同月25日の波志田山合戦で
俣野景久(
大庭景親の弟)と駿河目代の連合軍を撃ち破っている。更に富士川合戦から逃げる
平維盛 軍を追撃し、単独で駿河・遠江の支配権を手中にしているから、10月21日の吾妻鏡が
「安田義定を遠江守護に、武田信義を駿河に」と書いたのは「任命」ではなく「実績の追認」に過ぎない。
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ただし、俣野景久が
佐奈田義忠 (与一) 組み合った石橋山合戦の翌・8月24日には土肥郷(現在の湯河原)周辺で大庭景親軍による追跡・掃討戦が行われているから、その翌日に景久が約80km離れた波志田山(河口湖近く)まで進出して合戦するのは少し無理がある。日程の誤記か、石橋山と堀口の合戦で勝利した景親が頼朝の再起を見誤り、俣野景久を駿河に派遣して維盛軍の到着前に甲斐源氏の殲滅を図ったのかも知れない。
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右:逸見山~諏訪大社~大田切郷の地図 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月10日 】.
甲斐源氏の 武田信義 と 嫡子の 一條忠頼 らは石橋山合戦を知って 頼朝 との合流を考えたが、とりあえず平家に味方する近くの敵を倒すため信濃に向かい、諏訪上社(茅野市)庵澤※に宿営した。
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深夜になって当宮大祝※篤光の妻を名乗る若い女が夫の使いとして陣を訪れ「参籠中に梶葉文(表裏とも萌葱色)の直垂を着て葦毛(白の混じる毛色)の馬に乗った源氏の武者が西を指して鞭を揚げる夢を見た」旨を伝えた。忠頼は妻女に剣一振と腹巻一領を与えて出陣し、平家方の伊那郡大田切郷(現在の駒ヶ根市)を襲撃、城を守る菅冠者は館に放火し自殺した。これは諏訪明神の神託と思われるので両社に田を寄進した※。上宮には平出と宮所の両郷、下宮には龍市郷である。
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ところが寄進状の筆者が間違って(龍市郷に)岡仁谷郷(岡谷市の一部)を書き加えた。この郷名は誰も知らなかったが、古老に尋ねると実際にある場所だと言う。これは両宮を等しく扱わせる神慮であり源氏強運の徴であるから頼朝に報告しようと相談がまとまった。 .
※上社庵澤: 諏訪上社前の宮川を3km南東に遡った付近に「いもりさわ」の古名が伝わる(
地図)。
※当宮大祝: 諏訪大社(上宮)の神官。平安中期から武士と神官を兼ねた家系で諏訪氏の祖。後に信玄と敵対して滅亡した。
※田を寄進: 平出(
地図) ・ 宮所
(地図) ・ 龍市は全て現 辰野町。岡仁谷郷(岡野屋 ・
地図)は平安末期に成立していた、「誰も知らぬ」筈はない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月15日 】.
武田信義と忠頼の軍勢は信濃の敵を滅ぼし、昨晩甲斐国に戻って逸見山※に宿泊。また本日 北條時政 が到着し頼朝の意向を伝えた。 .
※逸見山: 谷戸(逸見)城が該当する。清光は仁安三年(1168)に死没し、嫡流は
逸見光長(信義の双子の兄)が継承していた。
居館は約1km南にあった光長の本拠 深草館の可能性もあり、その場合の逸見(谷戸)城は詰めの城だろうか。
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谷戸城は標高860m(南側駐車場からの高低差は約40m)の単独丘陵・城山(じょうやま)を利用している。東西・南北ともに約300mの城山全体が城跡で、東衣川と西衣川が天然の濠を形成し、山頂には八幡神社を祀っている。直径約50mの山頂平場に主郭を設け、周囲に2m前後の土塁を数重に巡らした。
主郭の他にもに数ヶ所の郭があり、石積みの痕跡が少し残っている。清光は八ヶ岳南麓を開拓して逸見郷(古名は「へみ」)に本拠を構えたと伝わる。
現在見られる遺構はもちろん清光時代ではなく、武田氏の滅亡後に入城して徳川氏と対峙した小田原北条氏が改築したもの。
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左:八ヶ岳南麓の清光寺と八幡大神社 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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清光寺は仁平元年(1151)に生前の
逸見清光 が創建した天台宗信立寺が原点で、清光の没後に清光寺(せいこうじ)と改め、更に文明七年(1475)に至って興因寺
※の二世・悦堂宗穆(そうぼく)が曹洞宗に改めた。
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宗穆は京都
大徳寺 や
妙心寺(共に公式サイト)など名刹を住持した高僧で、各所の天台宗寺院を折伏して曹洞宗に改宗させたらしい。創建時のポリシーに配慮しない改宗は嫌いなんだけどね、個人的に。
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寺伝に拠れば清光は谷戸城から朝日を拝して武運長久を祈り、その経緯から東南約20kmに位置する信立寺を朝陽山と号した、と伝わるが...正確に方位を測ると谷戸城から見て清光寺は真南に近い南南西に位置するから、朝日が清光寺の方向から昇る事は100%あり得ない。
谷戸城・清光寺・茅ヶ岳・信光寺などをマークした地図(別窓) を参考に。
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但し清光寺から谷戸城は直線で2km強、その中間には清光の嫡男
逸見光長 の深草館があり、更に5km南東には
義光 についての伝承の残る若神子城址がある。義光の父
頼信 が勧請した大八幡神社の存在を併せて考えると、平塩岡から北進した甲斐源氏がここで大きく勢力を拡大したと推測できる。町村合併に伴う現在の住所は北杜市長坂町大八田6600(
地図)。
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※興因寺: 甲府市 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)の北1km、要害温泉手前の静かな古刹で、一見の価値あり。本尊は釈迦如来、新羅三郎義光の長男 義業(佐竹氏の祖)が開いた
当初は天台宗、文明ニ年(1470)に武田信虎が中興して曹洞宗に改めた。末寺32を有する大寺だったが、寛政六年(1794)に堂宇を全て焼失し現在は伊豆の曹洞宗最勝院の末寺となっている。画像などは
山梨観光紹介サイト で。
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右:清光嫡男・逸見光長の深草館跡 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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清光 の長男
逸見光長 は現在の北杜市長坂の深草館(
地図)を本拠とし、嫡子の基義(元義)から10代に亘って住んだと伝わる。
清光が本拠を置いた上記の谷戸城跡から南へ1100m、少し手前には良く知られた国指定の
金生 (きんせい) 遺跡 (wiki) がある。
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館の跡は南に向って緩やかに下る斜面の田圃に囲まれた雑木林の中にあり、谷戸城の麓(駐車場を基点)と比べると約60m低い。川を利用した濠や土塁、郭の痕跡などもはっきりと残っているが、これは平安末期ではなく室町時代以後の城砦遺構である。
この項のテーマからは外れるし面倒臭いため、今回は敷地内部には入らなかった。興味がある向きは
参考サイト で詳細を。
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谷戸城の西側には
谷戸城ふるさと歴史館(以前は無料、現在は入館料200円、正直言うと費用対効果は低い)もあり、金生遺跡と併せて見学できる。館跡周辺は道路が狭く駐車スペースもないから、谷戸城址から歩くのが面倒なら遺蹟の駐車場も利用できる。
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光長は逸見冠者清光の嫡男だが、双子の弟
信義 が武田氏の祖として多くの子孫を残し繁栄したのに比べると地味で記録も乏しい。
吾妻鏡には甲斐源氏の駿河攻めの項目に載っているのみ。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月13日 】.
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※大石驛: 河口湖の西岸から鳴沢を経て南下する若彦路(概ね現在の県道71号)と、国道358号で右左口峠を越えて精進湖の東で国道159号で南下、中道往還が人穴で
合流する。大石駅は合流点から約7km南にあった宿駅で、日蓮正宗の総本山
大石寺(公式サイト)のある富士宮市上条が定説だが、吾妻鏡が記載した行軍ルートは「①大石驛に止宿→ ②富士北麓若彦路を越え→ ③神野(≒上条)と春田路を経て→ ④正午に鉢田付近に着いて合戦」である。若彦路を基準にすると①と②は逆だし、神野は大石の5km北なのでUターンした事になる。やや疑問の残る部分で、この不明点を除けば鉢田(波志田)合戦は「富士宮周辺で決着できるのだが。
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左:甲斐源氏嫡流 武田氏興隆の跡を歩く 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 画像は武田の郷のシンボル・王仁塚の桜 】.
花季には「カメラ爺い」の群れで異様な混雑を見せるのが王仁塚の桜。残雪の八ヶ岳を背景に樹齢300年の桜が聳える絶好の撮影スポットだから爺さんたちの気持ちも判らない訳じゃないけれど、通行人まで邪魔者扱いにする神経には辟易させられる。長い人生を送り分別もそれなりに備えた筈の爺さん連中が「こらぁ!どけぇ!」などと怒鳴っているのを見ると、情けなくて涙が出る。
「王仁塚 桜」で検索するとプロが撮影した遥かに素晴らしい写真が沢山あるんだけどねぇ...。
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閑話休題...清光 の長男
逸見光長 は谷戸城のある逸見一帯を継承し、双子の弟
信義は谷戸城から15kmほど南の釜無川西岸(現在の韮崎市神山町武田)を継承して本拠を構え、北側の武川町南部から南側に広がる
加賀美遠光領の境界 御勅使(みだい)川
※までを支配下に置いて甲斐源氏武田氏の嫡流となった。
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しかし鎌倉幕府が安定期に向うと共に甲斐源氏は
頼朝の「懐柔と排斥の二面作戦」により分断され、信義の弟・加賀美遠光系と信義の三男
信光など頼朝御家人の地位に甘んじた者が一族の主流を占めていく。
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※御勅使川: 芦安温泉近くから19km・高低差700mを流れ下り釜無川に合流する。古来から続いた氾濫で堆積した砂礫層がまた氾濫や旱魃を引き起す、そんな負の循環
を繰り返した。天長二年(825)の大洪水の際に国司の要請に応じて勅使が派遣され川の名に転じたと伝わる。
信玄が水流を弱めるために設けた堤防
将棋頭(画像)や釜無川に合流する地点の堤を保護した
聖牛(参考サイト)でも知られている。
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現在では武田八幡宮を中心にした釜無川西岸一帯は甲斐源氏歴代の聖地となり、初めて武田を名乗った信義から始まって直系子孫の信玄・勝頼に至る史蹟の数々が「武田の郷」として整備されている。でも厳密に考えると、義清が足跡を残した常陸国吉田郡武田郷が「武田」の地名の最初なんだろうね。
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右:悲運の武将 一條忠頼の墓所 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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一條忠頼は本来なら甲斐源氏の嫡流、武田の棟梁として一族を指揮する立場の武将だった。
新羅義光→ 次男
武田冠者義清→ 嫡男
逸見冠者清光→ 二男
武田太郎信義(双子の弟・甲斐武田の祖)→ 長男
一條次郎忠頼と続いた武田氏正統で甲斐国一條郷(現在の甲府市一帯)の一條小山(現在の甲府城址)を本拠とした。頼朝挙兵に呼応した信義に従って信濃の平家を攻めたのが吾妻鏡に記載された最初である。
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治承四年には甲斐源氏も頼朝と同様に
以仁王 の令旨を受けて挙兵しており、置かれた立場も血統も戦力も優劣なしに対等である。
源平合戦の初期には駿河国に於ける鉢田合戦や富士川合戦などに源氏側の主力として参戦し勝利に貢献、その後も各地を転戦して功績を挙げ、鎌倉政権の樹立に大きく寄与した。
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寿永二年(1182)の半ばに
義仲 が入京する前後まで、頼朝と義仲と甲斐源氏の三者は対等に近い鼎立状態にあった。義仲が失脚した後に共通の敵だった平家が滅亡すると朝廷の政略は源氏の勢力分断に重点が置かれ、更に甲斐源氏の勢力拡大を警戒した
頼朝 の政策や甲斐源氏内部での対立によって忠頼は謀殺され、父の
信義 は2年後の文治二年(1186)に失意の中で病没する。
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平家物語は忠頼謀殺を4月26日、吾妻鏡は6月16日としている。3月27日に忠頼が武蔵守に補任→ 忠頼謀殺→ 6月に
源広綱 が駿河守、
平賀義信が武蔵守補任の流れとなった。既に忠頼が守護に任じていた駿河国と朝廷が新たに支配権を得た武蔵国、この両国を支配する実権を剥奪する意図を頼朝が持っていたのは間違いない。
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甲斐源氏の棟梁相続を交換条件にして
頼朝 の甲斐源氏弱体化政策に協力したのが忠頼の実弟
石和信光で、暗殺の実行者は殺し屋
天野遠景。名門一條の家督は信光四男の信長(嫡子信政の次弟)が継承している。血縁を裏切って殺し合うのは
新羅三郎義光 以来の源氏の宿業である。
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策謀を駆使した信光は望み通りに甲斐源氏の棟梁となり頼朝は甲斐源氏の弱体化を得たが、14代後には傑物・信玄が再び甲斐を統一して覇権を握る直前まで勢力を拡大する。好きになれない人物の筆頭が信光だけど、詳しく取り上げる必要はある。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月16日 】 一条忠頼 謀殺.
一條次郎忠頼 には武威を振りかざし世を乱す気配があると頼朝は受け取り、今日御所で討ち取ろうと決めた。夜になって西の侍所に出御して招かれた忠頼と対座し、古参の御家人数名が列座した。献杯の儀があり、討手に任じた 工藤祐経 が銚子を持って御前に進んだが、名だたる武将との対決という大事に躊躇し顔色が変わった。
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この様子を見た 小山田有重※が席を立ち「酌をするのは老人の役目」と称して祐経の銚子を取り、更に子息の 稲毛重成 と弟の 榛谷重朝 が杯と肴を捧げて忠頼の前に進んだ。
有重は「酒席の故実は袴の裾紐を上結びにする」と息子に教えて銚子を置き紐を結び直した。その時に別の指示を受けていた 天野遠景 が太刀を抜いて左から忠頼を刺し殺し、頼朝は背後の障子を開いて奥に入った。
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忠頼に従っていた新平太と甥の武藤與一と山村小太郎が主人の惨劇を見て庭から部屋に駆け上がり、多くの武士を傷つけ寝殿近くに迫った。重成と重朝と 結城朝光 が新平太と與一を討ち取り、遠景を狙った山村は一間離れた所から大俎板を打ち付けられて縁下に昏倒、遠景の郎従が首を獲った。
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※小山田有重: 子孫は南北朝時代に所領の小山田(町田市西部)を失なって四散し、一族の一部は甲斐に逃れて武田信玄に仕えたらしい。
武田の嫡男を殺した男の子孫が武田の末裔に臣従したのは歴史の皮肉か、因果は巡る糸ぐるま、か。
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左:各地に残る石和信光の旧蹟 画像(北杜市の信光寺)をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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石和信光 の初見は治承四年、
以仁王 の令旨を受けた甲斐源氏が頼朝に呼応して挙兵した10月である。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月14日 】 鉢田の合戦
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昼前後、甲斐源氏の武田・安田一族が神野から春田路を経て南下する途中の鉢田で駿河目代の橘遠茂が率いる甲斐攻略の軍勢に遭遇した。石和信光は 加藤景廉 を伴って攻めかかり、防御線を突破して長田入道とその子息2人の首を獲り遠茂を捕虜にした。駿河勢の死傷者多数、後続の兵は矢を射る事ができず敗走した。夕刻には遠茂の首を斬って富士野の伊堤に晒した。 .
治承四年に挙兵した甲斐源氏の棟梁は
武田信義(52歳)で嫡男は
一條忠頼(30歳前後か)、信義の弟
加賀美遠光(37歳)や
安田義定(36歳)など勇猛で知られる武将が主力だった。信義の末子で17歳の信光は本来なら脇役だが、記載したのは後に甲斐源氏を継承した信光に対する吾妻鏡編纂者の配慮だろう。東国での幕政安定に反比例して甲斐源氏の団結は分割統治政策で瓦解していく。粛清や排除により衰退するか、臣従して御家人に甘んじるか、二者択一である。
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治承五年(1181)3月7日には駿河駐屯中の武田信義が
「後白河法皇から頼朝追討令を受けた」 との嫌疑で鎌倉に召還され、
「子孫に至るまで叛逆の意思なし」 との誓詞を書かされた。元暦元年(1184)6月には信義嫡男の一條忠頼が鎌倉で暗殺、文治二年(1186)には甲斐源氏の棟梁だった信義が失意のまま病没、文治四年(1188)には三男の
逸見(武田)有義 が頼朝に面罵され失脚、建久元年(1190)には次男の
板垣兼信 が隠岐に流罪、建久四年(1193)には信義の弟
安田義定 の嫡子
義資 が御所の女官に艶書を届けた罪で斬首、翌年には義定も謀反の嫌疑で追討を受けた。
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三人の兄(一條忠頼と板垣兼信と逸見有義)の粛清・失脚の全てに末弟の石和信光が関与し、甲斐源氏の棟梁に繰り上げ当選(笑)となる。
.
更に
木曽(源)義仲 が頼朝と対立する一因を作ったのも信光だったらしい。義仲と信光は元々交流があり、義仲の嫡子
清水義高 に娘を嫁がせる意思があったが信濃国南部の支配権を巡ってトラブルがあり、これを恨んだ信光が讒訴して義仲追討令の発行に至った、と伝わっている。
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郷土史家の中には
「頼朝に臣従したのは甲斐源氏の滅亡を防ぐための苦渋の選択」 と評価する声もある、らしい。公明党が集団的自衛権行使の閣議決定を容認する時に
「閣内に留まってこそ右傾化を阻止できる」 なんて発言したのと同じ。
暴力を容認しても言い訳すれば済む、と考えるエセ宗教者。
.
【 吾妻鏡 文治四年(1188) 3月15日 】 甲斐源氏の棟梁・武田有義の失脚
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鶴岡八幡宮で梶原景時 宿願の大般若経供養が行われ、頼朝も仏縁を結ぶため出席した。退出に際して 武田有義 を呼び剣役(太刀持ち)を命じた際に有義が渋る態度を見せたため頼朝は機嫌を搊ね、「かつて平重盛 の剣役を務めて都の評判になったのは源氏の恥ではないのか。重盛は平家で私は源氏の棟梁、釣り合いが取れないのか」 と面罵した。直ちに 小山(結城)朝光を呼んで剣役を務めさせたため、有義は同行も許されずに退去した。 .
建久十年(1199)1月に頼朝が死没、
頼家 が鎌倉殿を継承した三ヶ月後には訴訟の決裁権が停止され、実権は重臣13人の合議制を指導する
北條時政 に移りつつあった。同年10月には梶原景時が失脚して翌年の1月に謀反の嫌疑で追討、景時に連座する形になった有義の名前は以後の史料には現れない。逆に、それまでは「伊澤または石和」と表記していた信光の姓は「武田信」に一本化され、名実ともに甲斐源氏・武田氏棟梁の座を得た、と考えられる。景時一族の滅亡にまで関与しているから恐ろしい。
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【 吾妻鏡 正治二年(1200) 1月28日 】 信光、更に有義を陥れる
.
夜になって石和信光が甲斐国から参上して報告。「武田有義は梶原景時と打ち合わせて京へ向かうという噂を聞き、詳細を確かめるために館に行ったら逃げた後で行方が判らない。一通の封書があったので開いてみたら景時からの書状だった、彼らが打ち合わせて行動しているのは明白である。
.
景時は二代の将軍に重用されて傍若無人の振る舞いがあった。長年の悪行が自分に降り懸り諸人が背反したため反逆を思い立ち、まず朝廷に奏上し鎮西(九州)の武士を引き込むため上洛しようとした。兼ねて親しかった有義を大将軍に立てるために送る手紙を有義の館に落としたのだろう。」と。
右:加賀美遠光の長男 秋山光朝の史蹟 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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秋山光朝は
加賀美遠光 の長男で、弟に小笠原氏の祖となった
長清、南部氏の祖となった長行、後に加賀美氏を継承した光経らと共に
平知盛 に仕えていたが頼朝の挙兵を知り、母の病気を偽って甲斐に戻った。
.
光朝が遠光から相続したのは甲府盆地南部・釜無川の西岸の秋山郷、弟の長清が領有した小笠原郷の南に隣接している。現在の南アルプス市秋山の一帯である(
地図)。
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ここには光朝館の跡と伝わる小山に熊野神社が建ち、すぐ南の光昌寺(古名は光朝寺、光朝開基)には父加賀美遠光の五輪塔(供養墓)と秋山光朝夫妻の五輪塔およびその他一族の五輪塔が並んでいる。五輪塔は明治初期には78基あったと記録されているが、現在は30基ほどしかない。霊廟には鎌倉初期の作と推定される加賀美遠光の坐像と、享保十九年(1734)作の光朝の木像(市の文化財)が納められている。
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平治物語に拠れば富士川合戦の前哨戦で、
「甲斐源氏の武田信義 ・ 一條忠頼・小笠原長清・逸見光長・板垣兼信・加賀美遠光・秋山光朝・浅利義成・石和信光らが駿河目代(代官)広政(橘遠茂※)を討った」とあり、以仁王の令旨を受けて独自に挙兵したのだろう。血縁関係で結ばれた甲斐源氏は鎌倉軍を凌ぐ精強な兵を揃えていた。
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※橘遠茂(蛇足): 富士川合戦の項で述べた駿河国目代は系図上では結構名門の人物。確か清少納言が遠茂の祖父の子を産んでるんだよね。
遠茂は異腹だから直接は関係ないけど、興味があれば経緯を調べるのも面白い。
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ただし、平治物語からは清光長男の光長・二男の信義・三男の遠光を記載しているのに、四男
安田義定 の名が抜け落ちている。三男以下は省略したのかと思えば八男の
浅利義成が載っているし、信義の子3人(忠頼 ・ 信光 ・ 兼信)と遠光の子2人(光朝・長清)も載っている。忠頼や光朝や兼信が載っているから、同じように謀反の咎で追討された義定を除外する必然性も乏しい。これは筆者の意図的な無視か、それとも記述が杜撰なのか。
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光朝は父の加賀美遠光に従って棟梁の武田信義が率いる甲斐源氏の武将として戦い、その後は
九郎義経 の指揮下で一の谷・屋島・壇ノ浦を転戦した。その途中で
平重盛※(頼朝挙兵の一年前に死没)の娘を娶ったが、この婚姻がやがて光朝の不運を招いてしまう。
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※重盛と東国武士: 嘉応元年(1169)に
平清盛 が出家に伴って政治の一線から距離を置きはじめ、
平貞能 や
藤原(伊藤・平)忠清 など、伊勢平氏譜代の郎党が重盛に
仕え始めた。生前の重盛は源氏との関係が深かった東国武士との関係も重視し、貞能や忠清を通じたり独自の接点を介したりして
足利俊綱
や
宇都宮朝綱
や
工藤祐経
や
武田有義
や
伊東祐親
や
畠山重能
や 秋山光朝や、相馬御厨を継承した下総守藤原親盛 らを支配下に収めていた。
頼朝としては看過出来ない不愉快な部分だったと思う。
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源平合戦の当初は源氏軍の主力として重要な役割を果たした甲斐源氏も、支配体制の整備が進むにつれて或る者は粛清・追討され、或る者は頼朝に臣従する御家人として生き残る道を選ぶ必要に迫られてくる。
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文治元年(1185)、秋山光朝が死没。鎌倉で処刑、あるいは本領秋山郷西側の詰め城・雨鳴山で追討軍と戦い籠城の後に自刃した、とも。追討軍の指揮官が
梶原景時 と
加藤景廉なのは当然だとしても、攻撃の先鋒を務めたのが実弟の
小笠原長清 だったのは何とも酷な話である。後に小笠原氏は武士道を極めた名門として、礼節だとか武芸の精神だとかを云々する小笠原流として名を残していくのは実に笑止である。
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左:安田義定自刃の地と伝わる、牧丘の小田野山 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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富士川合戦が終わって数年間の出来事は改めて述べるとして。元暦元年(1184)6月には甲斐源氏棟梁を継承した
一條忠頼 が鎌倉で謀殺され、建久四年(1193)8月には頼朝の異母弟の
蒲冠者範頼 が謀反の疑いで追討され、同年11月には
安田義定 の嫡男
義資 が艶書事件で斬罪、同時に義定も駿河守護を解任され翌年8月には謀反の嫌疑で追討された。
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義定終焉の地には諸説あり、鎌倉大草紙
※は「
梶原景時 と
加藤景廉 の率いる討手を受け、法光寺(恵林寺の北、徒歩圏内にある放光寺。2項下に詳細を記載した)で自刃」と書き、尊卑分脈や甲斐国史
※は「馬木(牧)庄の大井窪大御堂で自刃」と書いている。
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大井窪大御堂とは、
「滅却心頭火自涼」で有名な
恵林寺と共に戦火で焼失した
放光寺 阿弥陀堂の可能性が高く、また山梨市の
大井俣窪八幡神社(三ヶ所とも公式サイト)と推定する説もある。
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更に放光寺の西3kmの牧丘町鼓川流域の伝承に拠れば、義定の終焉は詰め城の小田野山だったと伝えており、山裾には自刃した義定を弔った「腹切り地蔵」や一族を弔った「石塚」と呼ぶ宝篋印塔が残っている。安田義定が吾妻鏡に現れた初見は頼朝が石橋山合戦で惨敗した翌々日、甲斐源氏が平家に味方する
俣野景久 軍と刃を交えた波志太山(鉢田)合戦である。
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※鎌倉大草紙: 戦国時代初頭の1500年前後編纂の軍記物語っぽい歴史書。描いた背景は康暦二年(1380)から文明十一年(1479)の百年間だが、過去の事例を引用
する形で安田義定討伐について記述している。
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※甲斐国史: 文化十一年(1814)に編纂された地誌で編者は甲府勤番の松平定能。全般に真摯な記述に満ちており、史料として超一流の価値を持つ。
ただし武田氏の興亡については天正年間(1570年代)に成立した甲陽軍鑑(軍記物語の色彩が濃い)の影響を強く受けている。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月25日 】.
大庭景親 は
頼朝 の逃げ道を塞ぐため軍兵を各所に派遣し要所を固めた。(弟の)俣野景久は甲斐源氏の 武田信義 と 一條忠頼 を討つため駿河国目代の橘遠茂の軍勢と共に甲斐に向い富士北麓に宿営したが、百張り以上の弓弦を鼠に食い切られた。狼狽しているところに石橋山合戦の情報を得て出陣した 安田義定 ・ 工藤景光 ※、同 行光 ・市河行房※らが波志太山※で遭遇、合戦は数刻に及んだ。景久勢は弓が使えないため太刀を取って戦ったが甲斐源氏の矢を防げず敗走した。
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個人的に偶然なんか信じない主義なので、「俣野勢の弓弦を鼠が食い切った」のは捏造だと思う。物見遊山じゃあるまいし、多少の損害があってもスペアは携帯している筈だ。「数刻に及んだ」激戦の末に敗退したのは何か裏の事件を隠蔽している可能性もある。少し気色の悪い記事だ。
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※工藤景光: 石橋山合戦後に自刃した
狩野茂光 の三男行光と同一人物と推定される。一族滅亡に近い損害を受けた狩野家が存続し得たのは甲斐に分家していた工藤景任の曽孫
を養子に迎えたから、と考える説である。詳細は伊東氏の系図を参照されたし。
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※波志太山: 駿河(国府は静岡市付近)目代と落ち合って富士北麓に宿営し、
若彦路 (wiki) を進んだのだろう。駿河側から見ると、現在の鳴沢村から大田和を経て南下した
足和田山の東麓を想定する説よりも、富士宮市周辺と考える方が妥当。吾妻鏡の編纂者が「及昏黒之間宿富士北麓之處...」と書いたのがそもそものミスリードで、編纂者は土地勘ゼロだったらしい。この部分以外の傍証は全て「富士西麓」を差している。
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※市河行房: 新羅三郎義光 の末子で元は
帯刀先生義賢 の大蔵館に寄宿していた覚義が義賢の滅亡により父の所領の一部
市河荘(別窓)に土着したのが市河氏の最初。
天承元年(1131)には
(武田)義清 親子が常陸から同地に移住して甲斐源氏の基盤を作り上げた。代々の市河氏は御家人として活躍した後に
新田義貞 の挙兵に参加、鎌倉幕府滅亡後は
足利高氏(尊氏) に与力している。
右:安田義定の墓所 下井尻の雲光寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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武田 (逸見) 清光 の長男 光長は逸見郷(北杜市)を継承して逸見太郎を、双子の弟
信義(
一條忠頼 の父)は甲斐源氏の棟梁と武田郷を継承して武田太郎を、三男
遠光 は加賀美郷(南アルプス市)を継承して加賀美を名乗り、逸見郷で生まれた四男
義定 は安田郷(現在の山梨市役所付近以北)を本拠に安田を名乗り甲府盆地北東部を支配した。館は笛吹川東岸の山梨市役所一帯の南北1km×東西2kmの範囲内にあったとされる。
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義定は更に5km北の小田野山(牧丘町)に城砦を構え、保元三年(1158)には館の鬼門(北東)にあたる井尻(現在の山梨市下井尻)に一族菩提寺の雲光寺(開山和尚は常陸の真言僧都了寿阿闍梨)を建立した。本堂東の仏庵跡には巨大な五輪塔を含む墓域が保存されている。
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文治五年(1189)に奥州藤原氏が滅んで
頼朝が全国の覇権を握り、翌 建久元年(1190)に安田義定は朝廷の命令で禁裏守護番に任じた。内裏守護の源頼兼(
三位頼政の子)を補佐する役職だが、幕府の統制から離れて朝廷と結ぶ可能性もあるため、頼朝から見れば好ましい官職就任ではない。
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更に建久二年(1191)には
後白河法皇 に命じられていた伏見稲荷と祇園稲荷の修理を完成させた義定は従五位に任ぜられ、左遷されていた下総守から遠江守に復職した。頼朝は甲斐源氏の動向に対して警戒を深めたが、これは鎌倉幕府と甲斐源氏の溝を深めて源氏内部の対立を煽る後白河法皇一流の策謀がそれなりの効果を挙げた、と考えるべきか。結果としては案に相違して頼朝一強体制を招いてしまうのだが...
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頼朝が征夷大将軍に任じた翌年の建久四年(1193)11月、
梶原景時から
「義定嫡男の 義資 が大倉御所の女官に艶書を送った」との報告が入った。悪くても謹慎程度の些細な事件
※だったが、頼朝は即日に義資の首を刎ね義定の遠江守を剥奪した。失意の義定は本領の甲斐安田荘に蟄居を余儀なくされる。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 11月28日 】.
夕刻、越後守義資 が女事の理由で 加藤景廉 により斬首された。父の遠江守 安田義定 もその件に関連して頼朝の機嫌を損ねた。これは昨日永福寺法要の際に義資が御所の女官に艶書を送り、当人は黙していたが 梶原景季の妾がこれを夫に語り、父の 梶原景時 を経て頼朝に報告が届いた。事件の真偽を糾明したところ関係者の言葉が符合したため、この措置となった。 .
【 吾妻鏡 建久四年(1193) 12月5日 】.
遠江守義定の所領・浅羽庄(現在の袋井市)を没収、地頭職は加藤景廉が補任する旨の下文を発行した。
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※艶書事件: 建久三年(1192)には美貌の女官(
比企朝宗(
能員の弟)の娘・姫の前)に執心した
北條義時 が一年余り艶書を送り続けた事件があった。
この時は頼朝が仲を取り持ち、義時が「決して離縁しない」と起請文を書いて婚姻しているから、義資の艶書事件は義定一族を滅ぼす口実であり、露骨なダブル・スタンダードだ。ちなみに、姫の前は
朝時(名越流の祖)と
重時(極楽寺流の祖)を産んだ後の建久三年(1203)に離別し、源具親(公家・歌人)に再嫁している。婚姻して約10年後の離縁は、同年9月に勃発した比企の乱に伴う措置だろう。
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左:安田義定の廟所がある甲斐の高橋山放光寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
そして翌・建久五年(1194)8月には再び
梶原景時 が「
安田義定 に謀反の企てあり」と讒言。景時を利用して謀反計画を捏造した疑いが強い。
頼朝 は
大江廣元 と
三善康信 の諌めを聞かず追討に踏み切った。
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吾妻鏡に従えば鎌倉での死没だが、鎌倉大草紙では追討使に任じた梶原景時と
加藤景廉 が率いる軍勢を甲斐に派遣した、と書いている。義定の本領数ヶ所に墓所や供養塔があるのを考慮すると甲斐で死没と考えたくなるが、義定の郎党5人は翌日名越で斬られている。矢張り鎌倉での事件だろうか。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月19日 】.
安田義定を梟首。嫡子の義資が斬首となり所領を没収されて以降しきりに世を嘆き、親しい者と図って反逆を企てたのが発覚したためである。源朝臣義定(61歳)、安田冠者義清の四男。寿永二年(1183)8月10日に遠江守従五位上に叙す。
文治六年(1190)1月26日下総守、建久二年(1191)3月6日遠江守に還任、同年従五位上に叙す。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月20日 】.
前の瀧口榎下重兼・前右馬允宮道遠式・麻生平太胤国・柴籐三郎・武籐五郎ら安田義定の臣5人※を名越で斬首。和田義盛がこれを差配した。
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※義定の臣5人: 武藤五郎は武藤を名乗った最初と伝わる頼平(藤原北家の子孫で「武者所の藤原」あるいは「武蔵の藤原」)の三男か。長兄は頼忠、次兄は頼朝御家人で
九州少貮氏の祖となった
武藤資頼、三男の五郎は義定に仕えて遠江守一宮領の目代を務めていた。
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一宮領は袋井市の北、森の石松で知られる「遠州森」や頼朝の異母兄
朝長の廟所
積雲院(別窓)の近くで、武藤氏代々の墓が残る曹洞宗の
鹿苑山香勝寺(公式サイト)一帯が屋敷跡。天文年間(1532~1555年・織田信長の頃)までの約350年、この地を支配した。
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香勝寺の寺伝は「次兄の頼資(資頼)は元寇の乱で奪戦した」と伝えているが、名越で斬られた武藤五郎が18歳だったと仮定しても、その兄なら文永の役(1274)当時は100歳前後、この話の信頼性はかなり乏しい。
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右:加賀美遠光の館跡と伝わる 法善寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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宗派は高野山真言宗、本来は武田八幡宮の別当寺
※で、正式には
加賀美山法善護国寺(公式サイト)。
現在の寺域が始祖
加賀美遠光 の館跡(
地図)と伝わっている。
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※別当寺: 神仏習合時代に神社を管理した寺。境内に僧坊が置かれ別当の僧(寺務管理者)が神官の上位となった。現在でも神社
と寺の建物が昔のまま同じ敷地にある例は少なくない。明治維新まではそれが常態だった。
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例えば享保十七年(1732)の
鶴岡八幡宮境内図(八幡宮蔵・徳川二代将軍秀忠造営の資料)には多宝塔のような建物が描かれている。創建当初は五重塔だった可能性もあり、仏堂と神殿が境内に同居していた。吾妻鏡も何ら違和感なしに同居している様子を記載している。
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遠光は
義清 の三男だが、長兄
清光 の養子になったとの説もある。母は常陸源氏の祖となった佐竹義業(
の長男で義清の兄)の娘、つまり両親とも由緒正しい源氏の血筋である。佐竹氏は家業の孫
隆義(昌義の子)が
頼朝に逆らって富士川合戦直後に追討を受け、辛うじて一族の滅亡は免れたが常陸国の所領は没収の処分を受けた。
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加賀美遠光はニ男の
小笠原長清(母は
和田義盛 の娘)と共に治承・寿永の合戦に従軍して
頼朝 の深い信任を受け、平家滅亡後の文治元年(1185)には源氏門葉の一人として信濃守に任じられている。甲斐源氏の中では早い時期から頼朝に服従する姿勢を明確にした事が生き残る幸運を招いた。
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頼朝の覇権が確立した後の甲斐源氏を取り巻く環境は厳しいもので、甲斐源氏嫡流の逸見を継承した義清長子の
光長 一族は徐々に衰退し、次兄の
信義 は嫡男
忠頼 を殺された後に失脚、弟の
安田義定 は謀反の嫌疑で追討を受け自害、遠光の嫡男秋山光朝も
平重盛 の娘を妻にして参戦が遅れ追討を受けている。甲斐源氏が零落する中で加賀美遠光は頼朝の信任を失わず、御家人として天寿を全うした。時代を見通した傑物か、保身に長けていただけの俗物か。
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遠光は寛喜二年(1230)4月に87歳の天寿を全うして死没。加賀美の名跡は四男の光経が継ぎ、二男の長清が小笠原氏・三男の光行が南部氏・五男の経行が於曽氏の祖として長く繁栄した。娘の一人は大倉御所に召され、大弐局として
頼家 と
実朝 の養育係を務め、和田合戦(1213年)には
義盛 の遺領である出羽国由利郡(現在の由利本荘市&にかほ市の全て+秋田市の南部(
エリア地図)の地頭職を得るまでの栄華を極めた。
現在は金沢文庫駅に近い
称名寺 (wiki) に伝わる
運慶 作の
大威徳明王像(別窓・高さ約21cm)を発注するほどの私財を蓄えたことでも知られている。
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そして弘安八年(1285)11月、安達一族が概ね滅亡に近い損害を受ける霜月騒動が勃発。甲斐に在地していた小笠原氏・秋山氏・南部氏は連座して没落し、分家して信濃国佐久郡大井荘の地頭として土着していた長清の七男朝光が武田大井氏として甲斐武田の本流となった。
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左:加賀美遠光廟所 遠光(おんこう)寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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遠光寺の建立は建保二年(1214)。開基は
加賀美遠光 、開山和尚は京都建仁寺の開祖でもある
明庵栄西(諡号を千光国師)の弟子である宗明阿闍梨、真言宗(臨済宗説あり)の感応山遠光寺(
地図)を称した。
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仏教に深く帰依していた遠光は開山和尚として高名な栄西を招いたが、永治元年(1141)に生まれた栄西は既に73歳の高齢のため宗明を派遣した、と伝わる。若い頃に
比叡山延暦寺(公式サイト)で得度した栄西は天台宗の僧だったが南宋に留学して臨済宗を学び、日本での開祖になった人物。
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開基の遠光は元仁元年(1224)に死没、法名を遠光院殿長本大功深誉大居士として霊廟が建てられた。開山和尚の宗明は文永年間(1264~1274・八代執権
北條時宗 の頃)に
身延山久遠寺(公式サイト)で
日蓮 と宗教論争を交わして論破され、日蓮に帰依して日宗と改名し、感応山を日蓮宗の宝塔山遠光寺と改めた。
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師弟二代が続けて改宗するのは少々納得できない部分が残るけれど、伊東を筆頭とする伊豆の各地や身延の周辺など日蓮が法難を受けた土地に矢鱈と日蓮宗が多いのは、日蓮の持つ抗し難いカリスマ性の影響からだろう。
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一方で栄西には時代の政治権力に追従して利益や栄誉を求める傾向があり、天台座主の
慈円 は著書・愚管抄の中で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。遠光寺には駐車場もあるが、400m北の遊亀公園(一蓮寺の隣)からのんびり歩いても良い。
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幕末の安政元年(1854・黒船来航の前年)に至り、遠光廟所は子孫の奥州南部氏によって経年の破損が修復された。これは奥州に新領を得た遠光の次男で富士川中流域を本拠とした
南部光行 の後裔である陸奥国盛岡藩の十四代藩主
南部利剛 (wiki) による寄進と推定される。
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当初の遠光寺は現在地から5kmほど南で荒川と笛吹川が合流する小曲(
S)に建っていたが、度重なる水害のため蓬沢(
①)に移転、更なる水害で天文年間(1532~1554年、今川義元全盛の頃)に現在地(
G)に移転した(
ルート地図を参照)。その後は昭和20年の空襲で伽藍を焼失し、昭和45年になって現在のコンクリート製本堂が再建された。古刹としては違和感のあるデザインだが、
法隆寺夢殿 (wiki) を模して設計されたらしい(そう言われればそんな気がしないこともない)。二度の移転と数度の修復・再建を経ているため、甲斐源氏の史蹟らしくない外観がすこしだけ残念だ。
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右:小笠原長清 明野町と櫛形町の史蹟 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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甲斐国志に拠れば、
小笠原長清 の館跡は南アルプス市役所の北西、小笠原字御所庭(地名)の小笠原小学校(
地図)一帯と伝わり、東300mの「的場」にある笠屋神社は小笠原氏の家紋
三階菱(参考サイト)を使っている。4月の第一日曜の例大祭には神輿が小笠原長清館跡の「御所庭」で饗応の式を行うのが通例だった。館跡の一帯は既に人家が密集し校庭に建つ石碑が当時を物語るのみだが、長清所縁の史跡は周辺に点在している。
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館跡から20kmほど北にある明野町小笠原の一帯は古来から官牧のあった地で、中央道東側の山裾には貞観年間(859~877年、
清和天皇の時代)に建立の福性院(
地図)があり、長清から4代後に室町幕府の信濃守護を務めた小笠原政康が中興して先祖の供養に寄進した等身大の薬師如来坐像を本尊とする。
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福性院から200mほど北側の突き当たりに建つ無住の長清寺には小笠原長清の供養墓と伝わる五輪塔が残っており、この一帯も小笠原一族所縁の地だった事を明確に伝えている。加賀美遠光は元暦二年(1185)に信濃守となり、小笠原長清はそれを継承して信濃に土着して勢力を広げていく。室町時代以降は礼典や武芸についての豊富な知識を生かして武家社会に有職故実を伝える存在となり、小笠原流として重用され今に至っている。
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長清の祖父・清光が本拠としたのは長清寺から更に20kmほど北にある
谷戸城(逸見城)(別窓)であり、南アルプス市のある甲府盆地から八ヶ岳南麓を経て信濃に勢力を拡大する甲斐源氏を象徴しているようだ。
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左:南部一族発祥の地と波木井の遺蹟 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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加賀美遠光は現在の南アルプス市一帯を領有し、長男の光朝は所領の西側(富士川町増穂付近)を継承して秋山を名乗り、二男長清は秋山の北側を継承して小笠原を名乗り、三男光行は富士川中流域の狭小な山峡・南部郷を継承し、四男光経は本領を継承して加賀美氏嫡流となり、五男経行は甲府盆地北東部(現在の塩山一帯)を継承して於曽を名乗った。
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南部光行 が奥州合戦の恩賞として陸奥国糠部の五郡(北郡・三戸郡・九戸郡・岩手郡・鹿角郡)を得たのは史実だが、経緯の詳細や一族が定住した時期は判らない。文治五年(1189)説、建久二年(1191)説、建久六年(1195)説、承久元年(1219)説など、そのいずれかとは考えられるが。
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文政五年(1822)に成立した史料集 聞老遺事
※は
「建久六年10月に南部郷を出た一族74人が由比ガ浜で6隻の船に乗り12月29日に糠部郡三戸に入った」としており、文政五年以外の年代と書いた他の史料も日付は概ね共通している。共通の情報をベースにしたと考えられるが旧暦の12月29日は太陽暦の1月30日、厳冬である。時期と経路に関しては鵜呑みにはできない。
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南部氏系図に拠れば本領の南部郷は二男の実光が継ぎ、長男(庶子)行朝は一戸氏・三男実長の嫡男実継は八戸氏・四男の朝清は七戸氏・五男の宗清は四戸氏・六男の行連は九戸氏の祖として、それぞれ陸奥国に土着している。単純に光行+五人の男子+家族を連れて六隻の船に分乗したと考えると辻褄は合うが、所帯道具や奴婢・下人や武装や食料などを含めれば簡単な移動ではない。少なくとも雪の季節と台風の季節は避けるのが常道である。
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※聞老遺事: 南部家の始祖 (加賀美遠光の三男 三郎光行) から29代重信までの事績を集めた南部藩士 梅内祐訓の著書。
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本領を継いだ実光は五代執権
北條時頼 に接近し、御内人(得宗(北條嫡流)家臣)として幕府での地位を確保し続けた。実光と同じく甲斐に残った三男の実長は波木井・御牧・南部を継承し波木井氏を称して地頭職を務め、文永六年(1269)前後に日興の仲介で
日蓮 に帰依している。実長は領内の身延山に草庵を建て久遠寺(
現在の公式サイト)と名付けて日蓮に寄進し、自らも出家して日円を法名とした。
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波木井一族は正平十六年 (1361) に八代後の政光が八戸に移住 (南朝側で戦った関連か) するまでの200年間、この地を支配したと伝わる。身延山麓の梅平にある子院の鏡円房(
久遠寺を含めた地図)は実長の二男(実光?)の屋敷跡であり、墓地に残る巨大な五輪塔が実長の墓石とされている。
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右:躑躅ヶ崎 武田氏の館跡と信玄夫妻の墓所 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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石和 (武田) 信光 が甲斐源氏棟梁を継承して約340年が過ぎた天文十年(1541)、父の信虎を駿河に追放した晴信 (信玄) は甲斐国の覇権を握り、武田氏十九代(新羅義光を初代として)の当主となった。
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駿河の今川氏・相模の後北条氏・越後の上杉氏などとの関係が複雑化した戦乱の時代ではあったが、甲陽軍艦に拠れば晴信が父信虎を追放した最大の理由は、父の寵愛が同腹の弟信繁に移り晴信を遠ざけるようになったため、としている。嫡子の座を失う前にクーデターを決行したと考えるのが一般的、らしい。まだ晴信と名乗っていた信玄、この時20歳。
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信虎時代の仮想敵は小田原北条氏のみで、駿河の今川氏・上野の上杉氏・信濃の諏訪氏とは同盟関係にあったが、晴信は諏訪・高遠・依田・上伊那を制圧し、一方で敵対していた後北条氏と和睦し今川氏と北条氏の争いを仲裁した。こうして東と南の憂いを消した晴信は信濃制圧に専念し、天文二十二年(1553)には上杉謙信の勢力下にあった北信を除く信濃全域の支配権を掌握する。
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数回の川中島合戦を経た信玄は永禄十一年(1568)に謙信と同盟し、更に元亀二年(1571)には北条氏政との甲相同盟を復活させた。そして同年2月、信長と対立した足利将軍義昭の意思を奉じた信玄は信長と同盟していた徳川家康討伐の兵を挙げ三河・遠江に侵攻、二ヶ月で小山城(榛原郡吉田町)、足助城(豊田市足助町)、田峯城(愛知県設楽町田峯)、野田城(愛知県新城市豊島)、二連木城(愛知県豊橋市仁連木町)を落としたが、喀血して甲斐に退いた。
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そして元亀三年(1572)10月に再び信長討伐と上洛を目指して出兵。三方ヶ原で家康軍を撃破したが北近江から連携する筈の朝倉義景が動かず、信玄は軍勢を三河に留めて越年。再び喀血して長篠城(
地図)で療養したが回復せず、甲斐に撤兵する途中の三河街道駒場(下伊那郡阿智村)で病没した。巨星、落つ。
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左:武田勝頼 終焉の地 天目山 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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平安末期の
武田信義 から16代目が武田信玄(若い頃は晴信、ここでは信玄に統一)、その嫡男が甲斐源氏最後の棟梁となった勝頼。
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天文十年(1541)、信玄は有力家臣団の後盾を得て父の信虎を駿河へ追放し、武田家十九代(信義から三代遡って
八幡太郎義家 の弟
新羅三郎義光 を初代とする)の家督継承を宣言した。
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信虎は甲斐を統一した勇将だが一説には信玄の同母弟・信繁(後の信玄副将)を溺愛して嫡男扱いし、戦費捻出のため領内に苛酷な政策を布いていた、と伝わっている。戦国時代の甲斐源氏もまた、信義の時代と同じく一枚岩ではなかった。
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信玄は各地を転戦し天文二十二年(1553)には北部を除く信濃を征服、越後の上杉謙信と数度に亘って死闘を繰り返した川中島の戦いや駿河の今川・相模の北条との合戦を経て勢力を拡大し、元亀ニ年(1571年・信玄50歳の頃)には信濃・駿河・上野(群馬)の西部・遠江・三河・飛騨・越中を領有する巨大勢力を作り上げた。
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そして翌・元亀三年10月、信玄は二度目の遠征を決行する。信長と不仲になった室町幕府最後の将軍・第15代足利義昭の求めに応じ総勢三万の大軍を率いて天下統一を目指し、京に向けて進軍を開始した。この時点では覇権を握る可能性に満ちていたのだが...
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11月に三方が原の戦いで家康軍を撃破した信玄は朝倉義景(信長軍牽制のため北近江に布陣していた)の撤兵を知り、三河で進軍を停止。病(結核だったとも)を得た信玄は喀血のため4月まで長篠で療養するが病状は好転せず、撤退途上の三河街道で病死した。嫡子である勝頼は信玄の遺言「三年間は自分の死を隠せ」に従って、躑躅ヶ崎館東の
円光院(躑躅ヶ崎の項を参照)近くに仮埋葬、三年後に掘り起こして火葬し恵林寺で葬儀を営んだ。
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勝頼は元亀四年(1573)に家督を継ぎ、天正三年(1575)には更なる勢力拡大を目指して遠江の徳川領に兵を進めたが、長篠の設楽ヶ原で惨敗。天正十年(1582)には織田・徳川の連合軍に攻められて甲斐盆地を追われ、名門甲斐源氏の宗家武田氏は天目山で最後の時を刻む。
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左:墨俣川合戦の惨敗と義圓の討死 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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頼朝の異母弟
義圓※ が頼朝に合流した時期は治承四年(1180)10月20日の富士川合戦前後と推定される。
十郎行家 の援軍として墨俣川に進出したのだが、なぜか吾妻鏡は墨俣川の合戦について全く記録に残しておらず、概略は平家物語と玉葉の記述を参考にするしかない。能力を疑問視していた頼朝としては記録に残す必要もない、と判断したのだろう。
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※義圓: 常盤 が産んだ二男で
義朝の八男、幼名を乙若丸。
義経 にとってすぐ上の同母兄に当たる。
平治二年(1160)1月に父の義朝が知多で敗死し6歳で圓城寺(三井寺)で出家、圓成を名乗った。常磐が再婚した養父の大蔵卿
一条長成 の縁故で
後白河法皇 の皇子・円恵法親王に近仕した。
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円恵法親王は圓城寺長吏(最高位の管理者)だった治承四年5月に挙兵した以仁王が圓城寺に逃げ込んだ際に協力を疑われ、兼任の四天王寺検校職を停止されていた。これが義圓の行動に影響した可能性がある。円恵法親王は寿永二年(1184)1月の法住寺合戦の際に法皇の近くにいて戦う羽目になり、
義仲 の軍兵の矢を受けて没した。
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翌・治承五年(7月14日に改元して養和元年・1181)の2月4日に平家の棟梁
清盛 が熱病で死没し、遺言に従って編成された頼朝追討軍が4月初旬に出陣した。総大将には清盛の五男
重衡 が任じ、
維盛
・
通盛
・
忠度
・ 知度(清盛七男) ・
平盛綱
・ 盛久(清盛の側近)の率いる7000騎は揖斐川を渡り墨俣川(長良川)の右岸(西岸)に布陣した。一方で近江・美濃・尾張の武士を集めた
十郎行家(義朝の末弟、頼朝の叔父)は千余騎
※で墨俣川を挟んだ対岸の羽島市側、背後に木曽川が流れる湿地帯に布陣した。
これが富士川合戦半年後の4月25日に源平が激突した墨俣川合戦である。富士川では戦う前に平家軍が撤退して小規模な衝突に終ったが、墨俣川では本格的な合戦になった。
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※千余騎: 平家物語は源氏六千騎vs平家三万騎、玉葉は源氏五千騎と記録している。兵力差は大きいが実数は不明、八割引き程度に考える、か。
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頼朝は義圓を大将とする部隊(戦力は不詳)を後詰めの援軍として送っていた。実戦経験のない26歳の義圓は「鎌倉から遠征して来たのに行家に先を越されては頼朝に会わせる顔がない」と考え、一方の行家には独自の勢力として平家を破り頼朝に恩を売って処遇を得たい思惑があった。
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行家軍と義圓軍は合流も連携もせずに離れて布陣。4月25日深夜に義圓は手勢を率いて墨俣川を渡り夜明けと共に先駆けを図ったが、濡れている甲冑を見咎めた平家軍に包囲され何の戦果も挙げられず侍大将の平盛綱に討ち取られた。義圓の終焉と伝わる地(
地図)には墓石や地蔵堂などが空しく残っている。一説に、先駆けを図って渡河したのは行家軍とも言われる。失態を犯した指揮官は功を焦った義圓か、鎌倉に恩を売りたかった行家か。
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右:墨俣川古戦場周辺の鳥瞰図 画像をクリック→ 拡大表示
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どちらが原因だったにせよ、実戦経験が皆無に近かった二人の采配が大敗を招いたのは事実で、しかも主力部隊を湿地帯に布陣させ退路を確保しなかった。この合戦で大将の
義圓 ・尾張源氏の山田重光・大和源氏の頼元と頼康などの侍大将クラスの多数が討死、
十郎行家 の二男行頼は平家の捕虜となった。馬鹿な指揮官に率いられた部隊の悲劇と評価するしかない。
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勢いに乗った平家軍は墨俣川を渡って攻め込み、湿地で逃げ場を失った源氏軍の700名近くが討死した。吉記(
頼朝 に近い立場の公家
吉田経房(最終官位は正二位権大納言)の日記)に拠れば390の首級が都に運ばれた。頼朝が義圓に与えた兵力は不明だが、捨て駒と考えていた可能性もある。
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そもそも行家の実力など期待できないし、平家の出方を偵察する程度の合戦に主力部隊は派遣できない。もし本格的に対決する意図を持っていたなら、遠江国(静岡西部)を制圧していた甲斐源氏の
安田義定 と駿河の
一條忠頼 の派遣を考えただろう。
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果たして惨敗した行家は40km南の熱田まで退却し体勢を立て直そうとしたが、更に追撃を受けて30km南東の矢作へ逃げ、再び敗れて鎌倉まで引き上げた。しかも敗戦の責任者だったのに頼朝に恩賞を求めて拒否され、鎌倉を去って常陸の
信太 (源) 義憲 の許に合流した。一方で平家軍の
重衡 は更なる追撃も考えたが、
知盛 の病気に加えて鎌倉の大軍が東海道を進んでいるとの噂があったため兵を引き、京都に凱旋した。
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墨俣川合戦以後の平家は東征をせずに美濃・尾張以西の防衛に専念し、鎌倉の頼朝も敢えて京を目指さないで東国の平定に力を注いだ。奥州の
藤原秀衡 と 東国の頼朝・義仲 と 西国の平家一門が鼎立するかに見えた墨俣川合戦のニケ月後、「玉葉」が興味深い記事を載せている。
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【 玉葉 治承五年(1181) 5月25日 7月14日に改元して養和元年 】.
源頼朝 が 後白河法皇 に 「私に謀反の心はなく、ただ朝廷の敵を征伐したいのみ。もし平家を滅せないなら昔の様に源平を共に召し使い、東国を源氏・西国を平氏に任せて朝廷が国政を行えば何の問題もない」と内密に奏上した。これを 宗盛(この時の平家頭領)に伝えると「全くその通りだが父の 清盛 は「一族最後の一人になっても墓前に頼朝の死骸を晒せ」と遺言した。勅命でも従えない」と答えた。これは兵部少輔尹明が内密に語った事である。 .
兵部少輔尹明は藤原南家の血筋で清盛に近かった公家。これが頼朝の真意だったか、単なる謀略か、或いは僅かな和平の可能性を探ったのか、宗盛が和平の機会を逃したのか、真相は判らない。しかし直後の6月には
木曽義仲 が千曲川の横田河原で越後の
城助職(長茂・資職) が率いる平家軍を壊滅させ、更に北陸道へ兵を進めたため情勢は大きく動き始め、宗盛の返答と無関係に和平は消し飛んでしまった。かくも停戦はむづかしい。
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翌・寿永二年(1183)2月、頼朝から離反した二人の叔父 志田義広と十郎行家が義仲勢に加わり、やがて鎌倉と義仲の関係が険悪の度を深めていく。
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左:駒王丸を救った實盛の本領長井庄、歓喜院も近い。 画像をクリック→明細にリンク
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斎藤實盛 は越前国南井郷(福井県鯖江市)の河合則盛(藤原北家の末を名乗る)の子として生まれ、13歳の時に武蔵国長井庄(平家領、現在の熊谷市妻沼)の庄司斎藤實直の養子となって定住し、實盛を名乗った。
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實直は父の代から源氏の郎党を務めており、實盛まで三代に亘って仕えている。實盛も
義朝 の郎党として平治の乱(1159)を戦ったが、義朝の敗死後は
平宗盛 の所領となった長井庄に戻り、荘園管理の実績と能力を認められて引き続き20年間も別当 (管理運営のトップ) を務めた。その間に受けた恩に報いるため治承四年(1180)10月の富士川合戦では落日の平家軍に加わり、更には北陸で
平維盛 の率いる義仲追討軍に加わって倶利伽羅峠の合戦などを戦っている。
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斎藤實盛が邸内に先祖伝来の聖天像(歓喜天)を祀ったのが歓喜院の起源。左画像は長井荘の中心部を流れて田畑を潤していた福川で、聖天院境内には鎌倉時代の板碑や髪を染めている實盛の銅像などもあるが、本堂(聖天堂)が国宝指定になった平成24年春以降は混雑が激しくなった。暫くは休日を避けて平日の訪問をお勧めしたい。日差しの強い季節には嬉しい林間の参拝用無料Pを備えている。
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寿永二年(1183)5月の
倶利伽羅峠合戦(別窓)で平家軍は惨敗、続いて退却途中の篠原で義仲軍の追撃を受け、斎藤實盛は
俣野景久 や
伊東祐清 ら 滅びゆく平家に忠節を尽くす東国の武者と共に討死した。平家物語は平家に殉じた實盛の誇り高い最期を美しく描いている。
平家滅亡後の長井庄は
大江廣元 の二男
時廣 が領有して長井氏を名乗り、實盛の子息
※も下司職としてこの地に土着したとの伝承も残っている。
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※實盛の子: 伝承は實途・實長としているが裏付ける史料はない。妻沼には荘官の館跡が長井陣屋の名で残っており、空堀の跡も確認できる
(
地図)。
また伊豆山の
伝・密厳院の跡 には子息の五郎と六郎が實盛の遺髪を葬った伝わる五輪塔があり、沼津には惟盛の嫡子六代との関係を物語る伝承も残っている。
六代については
惟盛の墓と六代松(共に別窓)を参照されたし。
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取り敢えずは義仲幼少の頃に戻って...保元の乱では義朝に従って参戦した實盛だが、彼が別当に任じていた長井庄は上野国(群馬県)南西部から武蔵国北部に進出して来た帯刀先生
源義賢 と秩父氏連合の勢力圏に近かったため義賢との接点を深めざるを得なかった。義賢が本拠を置いた武蔵大蔵は長井庄から南へ直線で15kmの鎌倉街道沿いで、「鎌倉時代..壱」に記載した
大蔵舘跡、義仲の生誕地
班渓寺と鎌形八幡(共に別窓)を参照されたし。
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右:義仲が育った木曽谷 画像は中原氏菩提寺 法泉山林昌寺
クリック→ 詳細ページへ (別窓).
木曽(当時の呼称は吉祖庄)に勢力を張った中原氏の先祖は第三代安寧天皇の第三皇子・磯城津彦命の末を称する貴族。
もちろん神話の世界だから信憑性は乏しく、
中原兼遠 が
源義賢 の子の乳母夫となった経緯や当時の兼遠の立場なども諸説がある。
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中原兼遠の名乗りは平家物語では木曽中三(きそのなかさん・ちゅうぞう)、源平盛衰記では木曽中三権頭と表示している。中三は中原氏の三男を意味する、らしい。
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平安時代末期に鳥羽上皇の命令で信西が編纂した歴史書
本朝世紀 (wiki) に拠れば、
「康治二年(1143)正月二十七日、大隈守従五位下、中原兼遠、史第六文章生」、或いは
「久安六年(1150)十一月二十六日、大原野祭右小史中原兼遠等参行之」、或いは
「同月十九日、今夕新嘗祭右小史中原兼遠参仕」、などの記載があり、幼い駒王丸(後の
義仲)を保護した久寿二年(1153)から義仲が挙兵した治承四年(1180)までの約27年間、下級貴族出身の実務官僚として信濃権守に任じていた。
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中原一族は中山道(概ね国道19号に近い)と伊那から高山へ抜ける街道(現在の国道361号)が交差する要衝(
地図)の木曽谷に本拠を置き、半径10km圏内ほどを支配下に置いた。周辺には菩提寺の林昌寺や中原氏屋敷跡など、この地で成長した義仲に関わる史跡が(虚実様々に)点在している。
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中原氏の遠い血縁には
頼朝 の側近として活躍した文官の
中原親能 と、その弟で政所別当として鎌倉幕府の基礎を築いた
大江廣元 が出ている。
義仲の生涯は多くの伝承や逸話があって史実の範囲は決め難いが、中原兼遠の子には義仲側近の武将として運命を共にした
樋口兼光 や
今井兼平 がいる。更には伝説の女武者
巴 や、嫡男
志水義高 を産んだ
山吹 も兼遠の娘、とされている(山吹は兼遠の兄・兼保の娘とする説あり)。
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左:義仲挙兵の地 海野宿と白鳥神社 クリック→ 詳細ページへ (別窓)
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北国街道 (正式には北国脇往還) の
海野宿(観光協会サイト) は江戸時代初期に約1.5km東の田中宿の合宿(サブ宿場) だった。
北国街道は追分宿(現在の軽井沢) で中山道から分岐し越後国府のあった上越市で北陸道に繋がる、別名善光寺街道の宿驛である。
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田中宿は寛保二年(1742)に起きた千曲川の氾濫
戌の満水(wiki)で大きな被害を受け、更に復興後の慶応三年(1867)には大火で被災したため徐々に衰退し、その後の本宿としての繁栄は海野宿移った。町並みは見事に保存されており、例えば中山道の馬籠・妻籠・奈良井宿などに比べるとやや地味で華やかさには乏しいが、観光地化に伴う煩わしさが少ないのは好ましい。
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北国街道も中山道も奈良時代から利用された官道ルートだった。正倉院には信濃国小県郡海野郷戸主爪工部君調(はたくみべ きみみつぎ)と墨書した麻織物の一部(推定700年代初頭)の存在が確認されており、点在する五世紀後半の古墳などから考えると、この地域にはかなり古くからレベルの高い技能者集団が定住していたらしい。
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頼朝 の挙兵から20日後の治承四年(1180)9月7日、
木曽義仲 は信濃国小県郡海野郷の白鳥神社 (
地図)で兵を挙げた。最大兵力で義仲を支えた四天王の一人が佐久の
根井行親。彼は
清和天皇 の末を名乗る信濃の名族 滋野氏
※流で、保元の乱では300騎を率いて義朝軍に加わっている。
海野郷を領した海野一族
※の幸親(
小太郎幸氏の父)と根井行親
※は同一人物と考える説もあり、挙兵当初の義仲軍は海野勢が主力を占めていた。
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滋野氏: 系譜に拠れば五十六代
清和天皇 の第四皇子貞保親王 (
陽成天皇 の実弟)が海野荘(海野宿の千曲川対岸) に土着し、延喜五年 (905) に孫の善淵王が第六十代醍醐
天皇から滋野姓を下賜され滋野善淵を名乗ったのが最初とされる。ただし明確な根拠はなく、紀氏(大和朝廷に仕えた武門の家)の子孫あるいは国牧を管理した大伴氏の子孫説もある。善淵から四代後の重道が海野を名乗り、更に重道の子が望月氏・禰津氏として分家し信濃全域と上野国に広く定着した。海野氏・望月氏・禰津氏は滋野氏三家として嫡流または準嫡流である。
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海野氏: 清和天皇の末を称するが根拠は乏しい。滋野氏の庶流あるいは滋野氏と縁のある在地の豪族が摂関家所領の海野荘に依拠して平安時代末期から信濃国東部に勢力を広げ
海野を名乗ったのが始まり。幸親は義仲の侍大将として戦死するが、三男の幸氏は義仲の嫡男
清水 (木曽・源) 義高 に従って鎌倉に入った後に主人への忠勤を賞賛され
頼朝 の御家人として信濃の所領を継承、その子孫は真田氏にも繋がっている。
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根井行親: 佐久平南部の根々井を本拠に牧を運営し東信濃最大の軍事・経済力を築いた豪族。正法寺一帯(
地図)に館の遺構や行親の供養塔がある。
義仲 四天王の一人で滋野
氏嫡流の海野(滋野)幸親と同一人物説もあり、宇治川合戦で
義経 の軍勢と戦い討死したと推定される。
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承久記(承久の乱(1221年)前後に成立した軍記物語)に拠れば、後白河の御所に集結した義朝配下の信濃武者に
宇野・望月・諏訪・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎などの名前が見える。根井大矢太が行親と思われるが、宇野=海野と考えるのが普通なので両者が別人である可能性も高い。
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右:義仲が初めて史料に現われた善光寺裏(市原)合戦 クリック→ 詳細ページへ (別窓).
治承四年の夏には源氏蜂起の情報が知れ渡っており、信濃でも平家側と源氏側の武士が互いに兵を整え合戦に備えていた。
木曽義仲 の挙兵を知った平家側の笠原平五頼直
※も義仲討伐軍を率いて南下し、進軍の途中で信濃源氏の村山七郎義直
※と戸隠別院栗田寺の別当大法師範覚
※の連合軍と激しい矢戦となった。吾妻鏡は合戦の場所を市原としているが、栗田の本拠地に近い北国街道の市村の渡し(市村郷・
地図)の記載ミスと考えられている。
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戦闘は長引いて決着が遅れ、夕刻を迎えて矢が尽きた信濃源氏側義仲に救援を求めた。史料に義仲の名が初めて現れた犀川沿いの市原合戦 (善光寺浦合戦) である。後世になって犀川を渡る丹波嶋の渡しと呼ばれた北国街道の要所で、約400年後に上杉謙信と武田信玄が数度の合戦を繰り広げた川中島古戦場の約5km北に位置する。
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笠原頼直率いる義仲討伐軍の目標が木曽だったのか、或いは海野だったのかは判らないが、笠原軍に対する義仲の対応が早かった事を考えると、この時点で義仲が海野郷にいたのは間違いない。当初は信濃源氏勢に対して優勢だった笠原頼直も義仲勢の接近を知って接触を避け、越後平氏 城一族の元に逃げた。翌年6月に城長茂は一万の大軍で信濃に進出、横田河原で義仲軍と衝突する。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月7日 】.
木曽冠者義仲は帯刀先生 源義賢 の二男。義賢が久寿二年8月に武蔵国大倉(大蔵)館で 悪源太義平 に討たれた時は3歳で、乳母夫の 中原兼遠 が抱いて木曽に逃れ養育した。成人となった今では平家を滅ぼして家を興そうと考え、石橋山合戦の情報を得て平家討伐の兵を挙げた。平家に味方する笠原頼直が軍兵を率いて義仲を攻めるため南下したところ、義仲に味方する村山義直と栗田寺別当範覚がこれを聞いて準備を整えて市原で合戦に及んだ。日暮れになっても決着しなかったが、義直軍の矢が尽きたため義仲に使者を送って援軍を求め、それに応えた義仲の大軍が迫るのを見た頼直は退却し、越後の 城長茂 の元に逃げ込んだ。 .
※笠原頼直: 笠原郷は現在の中野市間長瀬の笠原地区(
地図)。また伊那郡笠原郷にも拠点を持つ勇猛な武者だったとも伝わっている。
諏訪大社の神官大祝の系で出自は伊那郡笠原郷(
地図)とも。親族の一部は頼朝に従って旧領を安堵されたらしい。
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※村山義直: 村山郷は長野市と須坂市の中間(
地図)。
経基王(源経基)の五男で
源満仲 の異母弟に当る満快の子孫が信濃に土着した一族。
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※栗田一族: 栗田郷(現在の長野駅南側・
地図)を本拠にした清和源氏村上氏傍流。鎌倉幕府成立後は
戸隠山 と
善光寺(共に公式サイト)の別当職を兼任して繁栄した。
後に頼朝が大旦那を務めるなど善光寺との縁を深め再興に尽力した最初の接点が範覚だった。
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左:木曽義仲の行動地図 倶利伽羅峠の項とダブるけど。 画像をクリック→ 拡大表示
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海野の白鳥河原から市原合戦場までは約30km、白鳥河原で
根井行親 勢と合流した
義仲 は直ちに犀川と千曲川が合流する市原の近くまで進出して笠原頼直に圧力を加えた。
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善光寺から現在の千曲市にかけての千曲川流域は翌年の横田河原合戦や後世の信玄vs謙信の川中島合戦の舞台となった、信濃と越後を結ぶ北国街道の要所である。
甲斐善光寺と飯田の元善光寺(別窓)でも書いた通り、兵火による焼失を危惧した信玄は善光寺本尊の釈迦三尊像などを甲府に避難させた例もある。現代の地図上では、上信越道の信州中野ICから南下した平家軍と東部湯の丸ICから北上した義仲軍が長野IC付近で衝突した、と考えると判りやすい。
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以仁王 の令旨を
頼朝 が受け取ったのは5月10日、使者の
十郎行家は常陸を経て甲斐から信濃・木曽を巡回しているから5月20日前後には挙兵を求める以仁王の令旨は義仲の元にも届いている。
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頼朝挙兵が8月17日、義仲が市原近くに進出したのが9月7日なのを考えると、頼朝挙兵を知ってから僅か20日間で準備を済ませ150km(木曽~海野~市原)を移動できるとは思えない。異腹の兄
仲家 は養父の
三位頼政 と共に宇治で戦死(5月26日)しているから報復戦の意味合いもある。令旨を受けて挙兵の準備を始めたとの情報を得た笠原頼直らが討伐軍を組織したのだろう。
.
この図式は
大庭景親 が頼朝挙兵の動きを察知して追討軍を組織した経緯に類似しているから、源平盛衰記の描写が的を射ているのかも知れない。
.
【 源平盛衰記 巻第二十六 兼遠起請 の一部 】 平家物語(延慶本)にも同様の記載があるが吾妻鏡にはない。幕府成立に無関係と見たか?
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義仲謀叛の情報に驚いた 平宗盛 は中三権頭(中原兼遠)を都に呼び、直ちに義仲を捕縛して連行せよと命じた。兼遠が「時間を頂いて木曽に戻り連れて参ります」と答えると、「その旨の起請文を提出せよ、さもなくば家人に命じて義仲を捕縛し連行する」 と迫られ、やむを得ず起請文を差し入れた。
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木曽に戻った兼遠は起請文にも叛かず義仲の将来にも役立つ方法を思案した末に、同国の住人 根井 (滋野) 行親 を招き、息子達と共に義仲の身柄を託した。
根井行親は周辺諸国に呼びかけて軍兵を集め、帯刀先生 源義賢 との誼みから上野国の武士や藤姓足利氏一族が次々に加わった。 .
右:義仲は亡父 義賢の旧蹟多胡館へ 画像(多胡館跡入口)をクリック→詳細ページへ.
治承四年9月7日に市原(市村)まで進出した
義仲 は笠原勢の退却を知って海野郷へ引き返し、10月中旬には父親の
義賢(
為義 の二男で
義朝 の異母弟)が住んだ旧蹟である上野国多胡荘(
地図)に入った。
.
義賢は保延五年(1139)から帯刀先生(皇太子時代の天皇を警護する部隊の長)として勤務したが翌年に失策を犯して職を解かれ、更に仁平三年(1153)には管理を任されていた能登の荘園から年貢未納を理由に罷免されている。源氏の中で時々現れる出来の悪い(例えば為義みたいな)タイプだったのかも。
.
一方で義朝は順調に出世を重ねて同年には下野守に任じており、義朝と不仲だった為義は鎌倉を拠点に北関東へ勢力を伸ばす義朝に対抗して義賢を多胡荘に下向させた。鎌倉は古くから源氏所縁の土地であると同時に東海道経由の東国ルート、多胡荘は東山道経由で東国に入るルートに位置している。
.
義賢は更に
秩父重隆 と結んで武蔵国大蔵館に本拠を移し、久寿二年(1155)8月には義朝の指示を受けた長男の
悪源太義平 に殺されているから、義賢が多胡荘と大蔵館に住んだのは併せて二年程度だ。
.
義賢の人物像は良く判らないが為義の意志には従順だった。為義は...軍事的才能も政治的手腕も凡庸以下で、結局は保元の乱で
崇徳天皇 に味方して五人の息子(頼賢・賴仲・為宗・為成・為仲)と共に船岡山(「保元物語では七条朱雀)で斬首。優れた武人だった義朝への嫉妬が見え隠れする生き様だった。生き残った息子は
後白河法皇 に味方した義朝、常陸の
源(志田)義憲、武芸を惜しまれ大島流罪となった
鎮西八郎為朝、末子の
十郎行家 のみ。
.
【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月13日 】 注・足利俊綱は秀郷の子孫を名乗る藤姓足利氏で平家側、源姓足利氏の対抗勢力。
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木曽冠者義仲 は亡父義賢の旧蹟を訪ね信濃国を出て上野国に入った。住民には 足利俊綱 を恐れる必要はないから私に従うよう命令を下した。 .
上野国多胡荘はここに定住した新羅系の帰化人・吉井連(よしいのむらじ)の子孫と考えられ、史料には多胡を名乗る武士も度々登場している。源平盛衰記には義仲に従って転戦した多胡次郎家包の名が載っているし、吾妻鏡の文治元年(1185)10月24日の勝長寿院供養と建久六年(1195)3月9日の東大寺再建供養の随兵リストの中には多胡宗太の名前が見える。いずれも多胡荘出身者の係累だろう。
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左:義仲は信濃に戻り、拠点の依田城で戦力を整備 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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10月13日に父の旧蹟多胡荘に入った
義仲 は間もなく信濃に戻り、挙兵した海野郷(白鳥河原)から約6km南西の依田城(
地図)に入って戦備を整えている。
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短期間で多胡から退去したのは藤姓
足利俊綱 との衝突を避けた、或いは関東南部を掌握した
頼朝 に配慮したとも言われるが実情は判らない。頼朝の場合は鎌倉入りの直後で、しかも富士川合戦(10月20日)の直前だから、北関東に関与する状態ではなかった筈だ。
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依田城を本拠にしていた依田次郎実信は義仲の挙兵に全面協力し、拠点として居城を提供したと伝わる。
依田一族がこの地に土着したのは依田氏の祖である父・為実の時代だが、遠祖は
経基王(源経基)の五男で
満仲の弟・源満快。右衛門尉・検非違使・相模介・下野守を歴任した従五位下で没した人物。
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満快の息子三人も中級官人として受領
※などに任じ、その子孫が信濃源氏の傍流として依田に土着していた為実だったらしい。為実の母は
帯刀先生義賢 の娘だったと伝わるから義仲と為実は従兄弟同士、その経緯もあって源氏再興の夢を義仲に託したのだろう。
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※受領: 国司四等官(守・介・掾・目)の中で「現地に着任する守と介」を差す(親王任国の上野・常陸・上総は守(親王)が赴任せず、次官の介と権介が受領に該当する)。
受領ではない介と掾と目の呼称は任用、任国に赴任せず官職の給付のみを受け取る国司は遙任と呼ぶ。
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依田一族も海野氏や滋野氏系の武士と共に義仲に従って北陸を転戦し京に入ったが、義仲が頼朝に攻め滅ぼされると共に没落し本領の依田を失った。一族は各地に分散し、南北朝時代になって飛騨に土着した子孫の依田義胤が
足利尊氏 に与して本領を回復した、とも言われる。
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戦国時代には武田信玄に従って戦功を挙げ、甲斐国誌に拠れば東河内領宮木(現在の身延町の一部)に所領を得た。武田氏の駿河進出と共に江尻城(現在の静岡市清水区・
地図)の防衛に任じたが、天正十年(1580)の武田氏滅亡に伴って西伊豆に隠棲し、その子孫は松崎で「大沢温泉ホテル 依田之庄」(2017年に倒産・閉鎖)を経営していた。
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道の駅 花の三聖苑松崎そばの静かな宿、ローカルな一軒宿は生き残りにくい時代だ。すぐ近くに併設していた人気の高い美人の湯
山の家露天風呂も多分、閉鎖しただろうね。
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右:義仲が武名を轟かせた横田河原の合戦 画像をクリック→ 合戦の詳細ページへ(別窓).
画像は旧流路近くに建つ雨宮の渡し石碑。源平合戦ではなく信玄vs謙信合戦の記念碑である。
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挙兵翌年の治承五年(1181)閏2月に
平清盛 が病死、跡を継いだ
宗盛 は越後平氏の
城資永※ に義仲追討を命じた。越後全域を支配下に置いていた城資永は
「甲斐国と信濃国で起きた謀反は他人を加えず私だけで平定します」 と申し出て宗盛を喜ばせた。
(玉葉 治承四年12月3日)。資永は越後・会津・出羽の軍兵一万で出陣した2月24日に脳卒中を発症、25日には没してしまう。
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【 平家物語 巻第六 嗄 (しゃがれ) 声 】 資永死没の顛末。お互い血圧には注意しましょうね。
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越後國の住人城太郎助長(資永)は越後守に任じた平家の恩に報いるため木曽義仲を追討しようと三万余騎を集めた。6月15日に兵を整え、16日の卯の刻(朝6時前後)に出陣を予定したが夜半に大風と豪雨が吹き荒れ雷が鳴り響いた。
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天気が回復すると雲の間から大きな嗄れ声で「金銅十六丈の盧舎那仏※を焼き滅ぼした平家の与党がここにいる、召し捕れや」と三声叫んで通り過ぎた。城太郎をはじめこれを聞いた者は身の毛がよだち、郎党らは「これ程恐ろしい天のお告げ、出陣は見合わせ給え」と言上したが「武者は弓矢にこそ頼るもの」と答えて予定通りに出陣した。
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わずかに十町ほど進んだ所で黒雲が湧き上がり、助長に覆いかぶさると共に身を竦ませて落馬、輿で館に運び込んだが数時間後に死んでしまった。この顛末を飛脚で都に伝えると平家の人々は大騒ぎになった。
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※城資永: 越後に土着した桓武平氏系豪族で平家の忠臣。義仲対策のため急遽越後守に任じた。弟に
助職、妹に甲斐源氏
浅利与一 の妻として甲斐に下った女武者
坂額、
嫡子には叔母の坂額と共に建仁元年(1201)の鳥坂城で鎌倉勢相手に戦った
資盛(落城後の消息は不明)がいる。
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城氏の家系は
高見王
→ 嫡子
平国香
→ 繁盛→ 維茂(信濃守・秋田城介・鎮守府将軍)→ 繁成(鬼切部で安倍頼良と合戦)→ 貞成→ 資国→ 資永と続く。貞成は
清原真衡 が常陸岩城氏(現在の福島県浜通りを支配していた海道平氏)から養子に迎えた平成衛と考える説もある(後三年の役の発端となった
吉彦秀武vs真衡のトラブル)が、海道(常陸平氏)だから別人だろう。
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資永の母は
清原武衡(後三年の役の敗者)で、義仲に敗れて藍津(会津)に逃げた城氏を
藤原秀衡 が攻撃したのは後三年以来の遺恨だった可能性がある、かも。横田河原から越後国府(上越市)まで70km+本拠地の一つ越後白河荘の白川御館(阿賀野市)まで130km+更に藍津(会津)80km、合計で280kmとはずいぶん遠くまで逃げたものだ。
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※焼き滅ぼした盧舎那仏: 平家物語は半年前の治承四年(1180)12月に南都を攻めた
平重衡 の兵火で焼け落ちた東大寺大仏の怨念を指す。
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左:城氏が本拠を置いた越後国府 直江津(上越市) 画像をクリック→ 拡大表示
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古代の一時期を除いて、越後国府は現在の上越市国府地区にあったと考えられている。承元元年(1207)に京を追放された
親鸞 が流罪に処され、恵信尼と暮らした地としても知られる。
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そして市原合戦から9ヶ月後の治承五年(1181)6月、資永(助長)の弟
城長茂
(資職・助職) 率いる官兵が越後から信濃に進出するが、彼が短慮で無能な指揮官だった事が義仲には幸いした。
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長茂の率いる越後軍9000余騎は雨宮の渡しから2km北の横田城で軍陣を整えて築磨河(千曲川)の北岸に押し出し、南岸に展開した義仲軍3000余騎と矢戦を開始した。ここで義仲軍の別働隊を率いた井上光盛
※は平家の赤旗を掲げて東の妻女山へ迂回し、築磨河を渡ってから源氏の白旗を掲げて背後から奇襲を仕掛けた。
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長旅の疲れもあって惨敗した助職軍は国府からも追われ本領の阿賀野へ、敗走しつつ完全に崩壊した。
380年後の永禄四年(1561)8月、武田信玄と上杉謙信がここで数度の死闘を繰り返した、いわゆる川中島合戦の舞台である。
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※井上光盛: 信濃に土着した清和源氏庶流。
多田 (源) 満仲 の三男が
源頼信、その二男頼季が嫡子の満実と共に高井郡井上(須坂市井上、
地図)に住んだのが最初と伝わる。
寿永三年(1184)7月10日の吾妻鏡に
「駿河国蒲原駅で吉香船越の輩が兼ねての命令に従って京から下向する途中の井上太郎光盛を討ち取った。武田 (一條) 忠頼 に与しているとの情報があったためである。」との記載がある。
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【 吾妻鏡 寿永元年(1182) 10月9日 】 編纂の間違い
※で、実際には養和元年(1181)
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越後の住人城四郎永用(助職、資職)→ 長茂(永茂、永用と改名、兄の資永も資長・助永・資元など改名が多い)は国守である兄資元の跡を継いで源氏を攻めようとした。木曽冠者義仲は北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)の付近で合戦し、夕刻になって永用は敗走した。
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※合戦の月日: 玉葉は治承五年(1181)6月、吾妻鏡は寿永元年(1182)10月、平家物語は同年9月としている。城氏一族の棟梁だった兄の資永が急死
して弟の助職(長茂とも)が家督を継いだのが治承五年2月、間もなく越後から信濃に出兵しているので、ここでは玉葉の記述に従った。
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【 玉葉 治承五年(1181) 7月1日 7月14日に改元して養和元年 】.
兼光※の言葉によると、越後国の城太郎助永の弟助職(白川御館※)は故禅門(清盛)と前の幕下(宗盛)に従って信濃国の反乱を追討するため、六月十三日と十四日に信濃に進軍したが殆ど抵抗は見られず、降伏する者が多かった。勝ちに乗じて進んだところ、信濃の源氏勢は三手※(木曽党・さこ党・甲斐武田党)に分れて攻め掛ったため難路を進んで疲弊した越後の軍勢は抵抗できず惨敗した。大将軍の助職は三ヶ所に疵を受けて甲冑を脱ぎ武器を捨て、万を越える軍勢も僅か300騎になって本国へ逃げ帰った。
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残る九千人余りは討ち死に、あるいは崖から落ちて落命したり山林に逃げ込むなどして戦力は壊滅した。本国の越後でも反乱が起きたため藍津 (会津) の城で籠城を試みたが秀平(藤原秀衡)の手勢に攻められ、僅か4~50人で佐渡へ逃げ去ったという。これは越後を知行している前の治部卿光隆卿が未確認情報として院で語った内容である。 .
※藤原兼光: 平家に近かった立場の公家。
安徳帝 の蔵人頭を務めたが都落ちには同行せず、次帝
後鳥羽天皇
の蔵人頭に任じた。学識・実務・和歌に秀でた官人として平家政権
と
後白河院政の両方で重用され、建久六年(1195)には従二位まで昇進している。
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※白川御館: 白河荘(摂関家領、現在の阿賀野市全域と隣接する新潟市一部)に本拠を置いた城氏の尊称。東の会津を支配した奥州藤原氏は奥御館と尊称され、両者は北の覇権
を競った関係だったと伝わる。横田河原の合戦によって城一族の運命は暗転するが...その9年後には奥州藤原氏も栄華の幕を降ろすことになり、鎌倉時代の白河荘には
頼朝 挙兵以来の御家人だった大見氏が地頭に補任される。
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※信濃源氏三手: 木曽党は
義仲 に従う
中原兼遠 一族、さこ党は佐久の
根井行親一族、甲斐武田党は上野国武士団の間違いと考えられている。
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左:国宝 平家納経(観普賢経)の見返し部分 画像をクリック→ 経典の拡大画像にリンク
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保元の乱(1156)で
為義 を滅ぼし、続く平治の乱(1159)で
義朝 グループを倒して源氏を壊滅させた平家の棟梁
清盛 は仁安二年(1167)に武士として初めて関白太政大臣に昇進し政治の実権を掌握した。一門の繁栄を願って
厳島神社(公式サイト)に
平家納経(wiki 画像)を終えたのもこの年である。平家納経の10年ほど前に奥州藤原氏の初代
藤原清衡 が納めた
中尊寺経 と併せて見るのも趣がある。
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保元と平治の重なる大乱で実務を司る多くの公卿が失脚した影響もあって、平家一門の知行国(支配権の及ぶ国)は実に日本全国の半分を越えた。繁栄はまさに絶頂期を迎えたが、奢れる者は久しからず。安元三年(1177)には
鹿ケ谷の陰謀事件 (wiki) が発生するなど、政権内部での軋轢が激しくなった。鹿ヶ谷事件の真相には諸説あり、政敵を蹴落とす清盛の捏造と主張する説もあるから判断はむづかしい。
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この頃から清盛の政権運営には更なる強引さと崩壊の兆しが見え始め、治承三年(1179)には
後白河法皇を幽閉し、第80代高倉天皇(中宮徳子は清盛の娘、後の
建礼門院)に強請して三歳の外孫を
安徳天皇 として即位(治承四年(1180)4月)させ、清盛は家臣として最高位である帝の外祖父にまで昇り詰めた。
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ここで不満を爆発させたのが
後白河天皇 の子
以仁王※。源氏唯一の殿上人だった
三位頼政 と挙兵を計画し、治承四年(1180)4月9日に平家追討の令旨
※を発行した。この令旨を各地の源氏と寺社宛に届ける任に当ったのが
源為義 の十男で、平治の乱の後は熊野に隠れていた
新宮義盛 (
義朝 の末弟、同母姉が後に十九代熊野別当となる行範の妻・
鳥居禅尼)。義盛は行家と改名して令旨を携え全国を廻ったのだが...一ヵ月後の5月初めに令旨の内容が平家に漏れてしまう
※。
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5月15日に平家は以仁王を臣籍降下処分にして源以光とした。土佐配流のため検非違使が三条高倉邸へ捕縛に向うが以仁王は園城寺(三井寺)に脱出、21日には交戦を避けた頼政と合流して南都(奈良)への脱出を図った。以後の推移は「鎌倉時代を歩く 壱」の「頼政挙兵」のコーナーで。
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5月26日に頼政一族が宇治川で敗死してクーデターは収束したが、この時点の
頼朝 にはまだ明確な挙兵の意思がなかった、と思うが、令旨が出回って危機感を募らせた清盛が全国の平家与党に
源氏追討令 を発行、これか相模国の有力家人
大庭景親 にも届いたから頼朝も
「しばらく様子を見よう」では済まない状態に追い詰められた。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 6月19日 】.
散位 三善康信 の使者(弟の康清)が北條に到着、頼朝 は静かな部屋で面会した。使者の曰く、「先月26日の以仁王事件の後、「令旨を受け取った源氏らを全て追討せよ」との命令が出ました。頼朝様は嫡流ですから特に危険で、至急奥州へ遁れるようお勧めします。」 と。
康信は母親が頼朝乳母の妹なので源氏に志があり、毎月三回使者を送って京の情勢を知らせていた人物である。
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右:10年前、大内宿のスナップ。左の鳥居が高倉神社参道 画像をクリック→ 拡大表示
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二匹の犬が元気だった頃の画像。
疲れを知らない子供のように 時が二人を追い越していく♫ (溜息)
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公式記録では、以仁王は宇治から南都(奈良)へ逃げる途中の山城国相楽郡(木津川市山城町神ノ木)で討たれた事になっているが、各地(特に東北・信越地方)に生存伝説が多く、萱葺き屋根宿駅で有名な
大内宿(観光サイト)の中央西側にある高倉神社もその一つ。もし生きていれば半年後に頼朝が東国を制圧した時点で名乗り出る筈で、生存伝説も絵像も本物ではあり得ない。ともあれ、大内宿観光の際は忘れずに立ち寄ろう。
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※以仁王の不満: 彼は
後白河天皇 の第二皇子で、異母兄が皇位を継いだ高倉天皇。その生母建春門院 (後白河后) は
清盛の後妻
(二位尼
時子)の妹だから、まごうことなき最高権力者の閨閥である。
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側妾の加賀大納言藤原季成娘・成子が産んだ
以仁王 は建春門院の激しい妬みを受け、29歳になっても親王宣下(天皇による認知ね)も受けられず、不満が鬱積していた。更に治承三年(1179)11月の
後白河法皇 幽閉に伴って以仁王の常興寺領
※を没収された事が決起の引き金となった。屋敷が三条高倉(
地図)にあったため、高倉宮あるいは三条宮とも称される。
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※常興寺領: 以仁王の仏法の師・最雲(73代堀河天皇の子で49代延暦寺座主)が遺贈した常興寺と付属の荘園。これが没収され、同じ最雲の弟子だった明雲(高倉天皇・
後白河法皇・清盛との関係が深く、後に55代座主となった)に与えられた。荘園の明細は判らない。
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※令旨について: 皇太子と太皇太后・皇太后・皇后が下す命令書。範囲を広げて親王まで含む場合もあるが、第47代淳仁天皇(在位758~764)以後は天皇の子女でも
親王宣下を受けなければ親王・内親王を名乗れなかった。以仁王は親王宣下を受けておらず、従って令旨を下す権限はない。(明治以降の天皇の子女は皇室典範により自動的に親王・内親王として認められる。)
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※計画の漏洩: 平家物語に拠れば、令旨の内容を密告したのは21代熊野別当の
湛増。挙兵を促す令旨を巡って熊野三山に発生した争乱を鎮めるために通報した、と。
湛増は
弁慶の父親との伝承があり、速玉神社には弁慶の木像もあるが信憑性は乏しい。父は18代別当の湛快、生母は
為義の娘
鳥居禅尼、保元の乱から逃げた為義の末子
義盛(行家) が熊野に20年間潜んだ裏には実姉鳥居禅尼の庇護があった。
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左:高倉宮以仁王の絵像 大内宿の高倉神社蔵 画像をクリック→拡大表示
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以仁王が発行し十郎行家が各地に運んだ「平家追討の令旨」に応じて
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常陸では、
志田(信田)義広(
源為義の三男、義憲とも)が挙兵をせずに独自の勢力を保ち、寿永二年(1183)に頼朝に対抗して敗れた後に行家と共に義仲に合流した。
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甲斐では、
源 (武田) 清光 の次男で甲斐源氏棟梁の
武田信義 と清光の四男
安田義定 が9月初旬に挙兵し伊那などを制圧して駿河に進軍。
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尾張では、清和源氏・満政流の木田重長と、同じく浦野重遠らが挙兵。
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近江では、近江源氏の山本義経とその弟の
山本 (柏木) 義兼 が挙兵。
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伊豆では、義朝の嫡男(三男)
頼朝 が8月に挙兵し、後に2人の異母弟・遠江国蒲御厨(浜松市)から
範頼、奥州平泉から
義経 が合流した。
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そして同年の9月に
木曽義仲 が挙兵し、討伐に南下して来た越後の
城資職 の大軍を横田河原の合戦で撃破、破竹の勢いで信濃全土を制圧した。その後は父の義賢旧蹟である上野国多胡(群馬県吉井町)に入ったが、既に関東を制圧していた頼朝の恫喝に屈して信濃に退去し北陸への勢力拡大に専念、嫡男
義高を人質として(立場上は
大姫 の婿)鎌倉へ送って争う意思がないことを示した。
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その間に態勢を立て直した
清盛 は京に近い近江や土佐で蜂起した源氏を次々に制圧し、残るは北陸の義仲勢と甲斐源氏を含む関東の頼朝勢となったが...翌治承五年(1181)の2月、清盛は熱病に倒れてその生涯を終えた。「供養は要らぬ、ただ頼朝の首を墓前に供えよ」と遺言した、と伝わっている。
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左:清盛の墓? 画像は住吉神社の十三重の石塔 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月5日 】.
戌の刻(20時前後)に九條河原の盛国(側近の侍大将)邸で入道相国(清盛)が没した。去る25日から病床に伏していたらしい。遺言に曰く 「三日が過ぎたら葬儀をせよ。遺骨は播磨国山田法華堂に納め、毎日ではなく七日ごとに通例に従って法事を行い、京で追善供養をしてはならない。残った一門の者はただ偏に東国の平定を目指せ」 と。
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【 平家物語 巻六「入道死去」に拠れば 】.
富士川合戦で敗れた平家は養和元年(1181)になって軍勢を再編成し、2月23日に会議が開かれた。
後白河法皇 の命を受けて 宗盛 を大将軍とし、関東の賊軍を討伐するため2月27日に出発する旨の決定があったのだが、突然清盛が熱病に陥ったため延期となった。
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余りの熱で傍にも近寄れず水を張った浴槽に入れてもすぐ湯になるほどの始末だった。容態はますます悪化し、やがて枕元に控えていた妻の 時子(二位尼)に向って 「保元・平治の乱を通じて敵を討伐し多くの功績を得て太政大臣まで進んだ。一門の栄華も子孫にまで及んでいる。もう思い残すことはない。」 更に言葉を続けて「ただし、伊豆の流人頼朝の首を見られなかったのが無念だ。私が死んでも堂塔や供養は要らぬ、頼朝の首を刎ねて墓の前に懸けるのが何よりの供養である。」
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そして二日後の閏2月4日、もがき苦しんだ末に64歳で没した。天皇が没してもこれ程の弔問はないと言われるほどだった。2月7日に愛宕(おたぎ)※で荼毘に付され、円実法眼(左大臣藤原実能の子)が遺骨を首に掛けて摂津国に下り、経の島※に遺骨を埋葬した。 .
※愛宕: 当時は愛宕寺と呼んだ
六道珍皇寺(六波羅の北、公式サイト)か洛東の鳥辺野らしい。鳥辺野は古来から葬送の地で清水寺の南から洛東霊園に至るエリア、
阿弥陀ヶ峰西麓(
両方の地図 を差す。京都女子大あたりは亡霊の巣だったかも知れないね。
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※経の島: 日宋貿易のため清盛が拡大・整備した大輪田泊の埋め立て島。兵庫区北逆瀬川町の
能福寺(公式サイト ・
地図)の寺域にあった支院の八棟寺に埋葬したらしい。
八棟寺は一ノ谷合戦に続く平家滅亡により焼け落ちたまま廃寺となり清盛の墓の跡も廃墟と化した。
住吉神社の交差点角に建っている十三重の塔は弘安九年(1286)になって鎌倉幕府九代執権の
北條貞時 が寄進したもので、元は更に20mほど能福寺寄りにあり、大正12年(1923)の道路工事で現在地に移転している。ただし吾妻鏡の治承五年(1181)閏2月4日には以下の記載がある。
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三日が過ぎた後に葬儀をすること、遺骨は播磨の山田法華寺※に納めて七日ごとに通常の法事を営むこと、毎日の法事はしないこと、
京都で追善の法事は営まぬこと、一族の者はただ東国平定の努力をすること。 .
※山田法華寺: 関連する史料は見当たらないが、清盛の別邸が播磨国明石郡山田村(現在の神戸市垂水区西舞子町 ・
地図)にあった事は幾つかの文書に散見される。
平家物語巻第四 「還御」に
「後白河法皇 が厳島の帰路に播磨国山田の浦に船を着け輿を召して福原に入った」、との記述がある。
瀬戸内海と淡路島を一望する緩い南傾斜に別邸があり、その法華堂での永眠を願っても不思議ではないが...。
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以下に続く「義仲のコーナー」は再構築中です。
治承三年(1179)閏7月 .....
平重盛 が病死。挽回の好機と見た
後白河 は越前を没収、国司
平通盛 を解任。11月の清盛クーデターで通盛は復帰。
治承五年(1181)3月......墨俣川合戦。
重衡軍が美濃・尾張に勢力を築き始めた
源行家 &
義圓 連合軍を撃破。
治承五年(1181)6月......白鳥河原から
木曽義仲 出陣、横田河原合戦で
城助職を破り北陸道を進軍。
養和元年(1181)8月......北陸平定のため
平通盛・平経正を追討使として派遣。
養和元年(1181)9月6日 ....義仲軍が越前国府を占領、更に水津(現在の杉津)で
根井行親 に敗れた通盛軍は津留賀城も失ない敗走(
ルート地図)。
若狭にいた従兄の平経正は情勢判断を誤って応援せず。
養和元年(1181)11月2日 ...敗戦の将 通盛帰洛。
養和二年(1182)........大飢饉が深刻化、出兵なし。
寿永元年(1182)........以仁王の遺児北陸宮と合流、北陸に勢力を広げる。
寿永二年(1183)2月 ......
志田(信田)義広 と
源行家 が
義仲 に合流。翌3月に頼朝との衝突寸前に義高を人質に出して和議。
寿永二年(1183)4月 ......義仲追討軍出陣。26日からの越前国燧城の戦いで勝利。
寿永二年(1183)5月9日....般若野(
地図)の合戦。平氏軍の先遣隊平盛俊を
今井(中原)兼平 軍が奇襲
寿永二年(1183)5月10日...六動寺(
地図)に宿営していた義仲軍本隊は兼平と合流
寿永二年(1183)5月11日...倶利伽羅峠(
地図)の合戦で平家軍惨敗。
寿永二年(1183)5月12日...志保山(
地図)の合戦で平家軍惨敗。
寿永二年(1183)6月1日....篠原(
地図)の合戦で平家軍惨敗。
【 大切な幕府黎明期の記録が脱落している吾妻鏡 】.
吾妻鏡には寿永二年(1183)の記載がない。直前の記載は寿永元年(1182)12月30日で直後の記載は寿永三年(1184)1月1日だから、一年分がr^全て抜け落ちている。元々の吾妻鏡は巻1から巻52(巻45欠)まで揃って伝わったのではなく、各所に伝わっていた写本を室町時代から江戸時代にかけて寄せ集めた史料だから、
散逸と考えるのが自然なのだが、「編纂者が故意に抜いた」とする説があるから面白い。要するに寿永二年には(幕府として)公式記録に残したくない事件が続いた、一部分だけ載せないと作為が目立つから一年分を消してしまえ...そう考えたのだ、と。
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しかし実際には編纂ミスのため、寿永二年2月の記事九ヶ所が治承五年(1181)に紛れ込んで閏2月10日~閏2月28日として載っているから、一年分の脱落ではない。更に後世の
畠山重忠 追討の条では露骨な曲筆を行なっているのだから、「改竄」で済ませず「抹消」せざるを得ないような大事件が寿永二年に起きたとも考えにくい。
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志田義廣 の乱、義廣と
十郎行家 が
義仲 に合流、清水義高の鎌倉入り、義仲入京と平家都落ち、義仲の凋落、
上総廣常 謀殺、程度が主な事件だからね。強弁すれば12月の廣常殺害だが、翌年には「誤解による謀殺」と書いているから、隠す意図があったとは考えにくい。
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【 平家物語 巻第七 清水冠者 】.
寿永ニ年(1183)三月上旬に 頼朝 と義仲の関係が悪化し、頼朝は義仲追討のため十万余騎の軍勢を率いて鎌倉を出陣し信濃に向った。それを知った義仲は依田城を出て信濃と越後の国境に近い熊坂山※に布陣、頼朝軍は善光寺に陣を構えた。義仲は乳母子の 今井兼平を使者として派遣し、「どんな理由で義仲を討とうとするのか。貴方は東国を平定して東海道から攻め上り平家を倒そうとする、義仲は東山道と北陸道を従えて一日も早く平家を倒そうとする。仲違いは平家を喜ばせるだけだ。十郎蔵人(行家)は貴方を恨んで義仲の元に来たが、これは冷淡に扱うのも如何かと考えたため軍勢に加えただけの事、義仲は貴方に対しては全く意趣を抱いていない。」と申し述べた。.
※熊坂山: 現在の長野県中野市穴田(旧豊田村・
地図)で、愛唱歌「ふるさと」を作詞した高野辰之の故郷、立派な
記念館(市のサイト)もある。
「兎追いし かの山」 は熊坂トンネルのある山など、「小鮒釣りし かの川」 は千曲川支流の斑川。善光寺まで、約25km。
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頼朝は「今になってそのように述べても、頼朝を倒すため謀反の企てがあるとの報告が届いている」として土肥・梶原を先陣に討手を向ける旨を答えた。
義仲は意趣を持たない約束として嫡子の 清水冠者義高(11歳)に海野・望月・諏訪・藤沢など名高い武士を添えて頼朝の元に預けた。頼朝は「それでは言葉を信じよう、私には男子がいないから我が子にしよう。」と答えて鎌倉に連れ帰った。
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【 平家物語 巻第七 北国下向 】.
やがて義仲は東山道と北陸道を平定し、五万余騎で京に攻め上るとの情報が届いた。平家は前年から「来年の春には合戦」と告げていたため山陰・山陽・南海・西海の大軍が京に集結した。東山道からは近江・美濃・飛騨の兵は加わったが遠江から東の兵は加わらず、北陸道の若狭から北の兵も一人として加わらなかった。
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まず義仲を討った後に頼朝を追討するのが平家の計画で、北陸道の大将軍には小松三位中将 平維盛 と 越前三位 平通盛 、更に 但馬守経正(清盛の甥で敦盛の兄)、 薩摩守平忠度、三河守知度(清盛の七男)、淡路守清房(清盛の八男)、侍大将には越中前司盛俊 、上総大夫判官中綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清 を筆頭に著名な武士340余人、総勢十万余騎が寿永二年(1183)4月17日の朝に都を発ち北陸道に軍を進めた。
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往路の戦費は沿道からの徴発自由の許可があったため、逢坂の関から先は権門(権威のある門閥)の税物も官の収蔵品も見境なく没収し、志賀・唐崎・三河尻・真野・高島・塩津・貝津の道沿いを奪い取って進軍したため住民はみな山野に逃げ去った。 .
左:北信と越後を制圧した義仲、倶利伽羅峠へ 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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倶利伽羅峠で
木曽義仲 が「火牛の計」を採用し、数百頭の牛の角に縛り付けた松明に火をつけて敵陣に突進させ大勝利を得るのだが、これは中国の古い逸話(斉の武将・田単(紀元前三世紀)の戦法)を転用した軍記物の捏造とするのが現在の定説である。
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① 多くの牛をすぐには集められないし、最初から連れて行けば義仲本来の機動性が失われる。
② 角の松明に火が点いたら牛の群れは怯えて進まない。
③ 倶利伽羅峠は多数の兵士が牛の大群によって谷に落とされるような急峻な崖ではない。
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これらは全くその通りなのだろう、と思う。いずれにしろ北陸の合戦は義仲軍の圧倒的勝利で幕を閉じ、
伊東祐親 のニ男で流人時代の頼朝と親しかった
九郎祐清 や幼い義仲の助命に尽力した
斎藤實盛 や最後まで頼朝に屈服しなかった
俣野景久 が戦死したのも倶利伽羅峠か、撤退中の加賀篠原の合戦(現在の加賀市篠原町)と推定される。そして同年7月25日、平家一門は京に迫る義仲軍との決戦を避けて都を放棄し、再び戻ることのない旅へと突き進む。
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2006年の春、倶利伽羅峠を駆け足で散策し少々のスナップを残した。ここは、もう一度訪問したい場所の一つだし、時間の都合で篠原の古戦場を素通りしたのも悔いが残る思い出である。いつ再訪できることやら...
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右:膳所の義仲寺 疾風の如く生きた義仲、大津で戦死 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
挙兵の翌年、義仲は越後から越前へと兵を進め、平家の討伐軍1万騎を3千の兵で破って北陸道を勢力下に置いた。寿永ニ年(1183)6月2日には
平維盛 率いる7万の平家軍を倶利伽羅峠(越中国栃波山の合戦)で壊滅させ、7月24日に平家一門を都から追い落として同月28日に都に入った。
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しかし間もなく朝廷との関係が悪化し更に京都の治安も乱れたため、
後白河法皇 は厄介払いを兼ねて西へ逃れた平家の追討を命じた。9月20日に播磨に向って出陣した義仲軍は
備中水島の合戦 (wiki) で平家の水軍に惨敗し、京都に敗走した。
朝廷との関係は決裂し、法皇は落ち目の義仲を見捨てて
頼朝 への接近を図った。後白河の考えには、勢いを取り戻した平家が都に戻ってくるかも知れない恐怖が影響していたらしい。
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義仲は法皇を幽閉し公卿49人を解官して頼朝追討の院宣を書かせ、翌寿永三年(1184)1月10日には強引に征夷大将軍に着任した。やがて頼朝が派遣した鎌倉の大軍が京に迫り、義仲は残兵を各地に派遣し最後の抵抗を試みる。
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【平家物語が描いた戦況】.
宇治川で義仲軍と義経軍が戦った。義仲の兵力は1000騎余り、今井兼平 が500騎で瀬田を守り、根井行親 と 楯親忠 が300騎で宇治へ、義仲 は残る100騎で院の御所に布陣した。攻め手の鎌倉軍は、範頼 が3万騎で瀬田を、義経 が2万5千騎で宇治を攻めた。この時に生月に跨る 佐々木高綱 と磨墨に跨る 梶原景季が先陣を争って渡河している。間もなく義経軍は宇治川の防衛線を突破して院御所へ迫り、義仲は 後白河法皇 の帯同を断念して瀬田へ走った。
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義仲は今井兼平と合流して北陸へ逃げ延びようと試みたのだが、範頼の率いる甲斐源氏 一條忠頼 の軍に行く手を阻まれた。義仲と甲斐源氏は甲斐国北部の支配権を巡って何回か戦火を交えた関係だったらしい。 .
【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月20日】.
頼朝が義仲追討のため派遣した 蒲冠者範頼 が勢田から、九郎義経 が宇治から数万騎を率いて京に入った。
義仲は 志田義廣 と 今井四郎兼平 らを派遣して防いだが敗れ、防衛線を突破された。両将は 河越重頼 ・ 同重房 ・ 佐々木高綱 ・ 畠山重忠 ・ 渋谷重国 ・ 梶原景季 と共に六条殿に入り院の御所を警護した。この間に一條忠頼率いる兵が義仲軍を追い詰め、相模国の住人石田次郎が近江国粟津で義仲を討ち取った。
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義仲は瀬田から退却した今井兼平と粟津(瀬田から5km京都寄り)で合流し土地勘のある北陸へ逃れようと試みていたが目指すルートは既に範頼軍に封鎖され、義仲に従っていた兵は次々と討ち死にして粟津の周辺は甲斐源氏の
一條忠頼 軍に囲まれてしまった。逃げ道を失った義仲は琵琶湖に面した粟津ヶ原で討死、直前まで付き従った今井兼平もその直後に自害した、と伝わる。
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左:今井兼平像 木曽 徳音寺蔵 作者などは不明 画像をクリック→ 拡大表示
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【平家物語 下巻 木曽殿最期】.
従う家臣は次々に討たれて主従五騎になったが、巴 はまだ残っていた。義仲は「最期の合戦が女連れと言われたくないから落ち延びよ」と繰り返し命じた。ついに義仲を見送った巴が最後の合戦をしよう馬を止めていると、武蔵国でも大力の武者と知られた御田師重が30騎程で迫った。
馬で駆け入った巴は組み付いて引き落とし、鞍の前輪に首を押し付けて捻り切った。そして甲冑を脱ぎ捨てて東方向へ落ち延びていった。
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手塚光盛 は討死し、別当(手塚別当・光盛の父または叔父)は何処へともなく落ち延びたらしく、義仲は 今井兼平 と二騎だけになった。
義仲が「普段は何とも感じないのに鎧が重い」と言うと兼平は「体も馬も弱っていません、味方を失ったため気弱になっただけです。私一人でも他の武者千騎と同じです」と答えた。
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新手の騎馬武者が50騎ほど現れたので「防ぎ矢をします、あそこに見える松原に入って自害を」と言うと義仲は「都で死なずにここまで落ちて来たのはお前と同じ場所で死ぬためだ」と轡を並べて走ろうとした。
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兼平は飛び降りて義仲の馬をおさえ「どんなに軍功を挙げても最期次第で不名誉となります。既に味方はなく、名もない武士に討たれたら悔やまれますから、あの松原へ入って下さい」と。義仲はそれに従った。
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兼平は名乗りを挙げて敵を引きつけ、突入して散々に戦った。義仲は粟津の松原に走り込んだが深い泥田に馬を乗り入れて身動きできず、兼平を気遣って振り返った兜の内側を三浦の石田為久の矢に射抜かれ、郎党二人に首を取られた。石田為久は太刀先に首を刺して「三浦の石田次郎為久が木曽殿を討ち取った」と名乗りを挙げた。
それを聞いた今井兼平は「もう守るべき人はいないぞ。関東の殿ばら、強者の最後を見よ」と太刀先を咥えて馬から飛び降り自害して果てた。
右:樋口次郎兼光像 木曽 徳音寺 作者などは不明 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月21日】.
九郎義経が義仲の首を獲った旨を朝廷に奏上。夜、義経の家臣が義仲腹心の家臣 樋口兼光 を生け捕った。義仲の命令で河内の石川判官代を攻めたが逃げられたため帰還し、八幡大渡※で義仲の討死を知ったのだが、強引に京に入って義経の家来と戦い捕われたものである。 .
※八幡大渡: 御所の南西10kmの桂川・宇治川・木津川の合流点(
地図)。兼光は京都南部から攻め込む鎌倉勢に追尾されたのだろう。
建武二年(1335)に
新田義貞 軍が
足利高氏 (尊氏) の軍勢に敗れた古戦場だ。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月26日】.
今朝、検非違使らが七條河原で伊予守義仲・高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を受け取り獄門の樹に架けた。囚人として連行されていた樋口兼光も検非違使に引き渡された。
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平家物語に拠れば、兼光と縁があった武蔵国児玉党
※の武士が自分らの功績に替えても助命を嘆願すると約束して、樋口兼光を投降させた。範頼や義経も助命嘆願に同調し一度は許されたが、公卿や女官らが法住寺殿襲撃の際の放火や殺人を深く怨んで反対し、法皇もそれを無視できず「四天王の一人を許せば憂いを残す」と斬首を決定した。義仲らの首が都大路を引き回される際には懇願の末に非人姿での随伴を許され、その翌日に斬られたという。
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※児玉党: 武蔵七党最大の勢力で、現在の埼玉北部から群馬南部までを勢力範囲とした。樋口兼光の本領は現在の長野県辰野町樋口一帯でほぼ100km圏にあり、両者の間
両にあった何らかの交流が助命嘆願に繋がったと考えられる。
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※徳音寺: 臨済宗妙心寺派、山号は日照山。中山道の宮ノ越宿にあり、仁安三年(1168)に母の小枝御前を弔って義仲が建立した柏原寺が最初で、後に
大夫坊覚明※が
寺名を改めて義仲一族の菩提寺とした。義仲の守り本尊(兜観世音菩薩)などを収蔵し、境内には義仲・小枝御前・今井兼平・樋口兼光・巴御前らの慰霊墓もある。
徳音寺の名は義仲の戒名「徳音院殿義山宣公大居士」が元で、墓石前面に彫ってある「徳音寺殿・・・」との違いは義仲の死没と建立年代のギャップが原因か。
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寺伝に拠れば二度の木曽川洪水で流され、現在地に移ったのは正徳四年(1714)。近くには観光施設
義仲館 もある義仲フリーク必見の地なのだが...後付けの捏造史跡も多いうえに全体が観光スポット化しているので、個人的にあまり好きになれないエリアだ。
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※大夫坊覚明: 比叡山の住僧→ 奈良興福寺の僧→ 義仲祐筆→ 箱根権現の僧など生き様をを転々とした人物だが謎も多く、その波乱の生涯については検索を。
以仁王 の令旨を受けた南都(奈良)で返書を起草し「清盛は平氏の糟糠(酒かす、粗末な食物の意味)、武家の塵芥」と罵倒した文章が広く知られている。
後に箱根権現に定住して「箱根山縁起」や「曽我物語」の成立に関与した可能性かある事などは、個人的に最も興味がある。
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箱根神社で起居した時期は曽我兄弟の仇討ち事件と完全に重複するし、弟の
時致 が稚児として箱根権現社に預けられた時期や兄の
祐成 の愛人・虎が兄弟の死後に馬を寄進した時期とも一致する。平安時代末期を駆け抜けた、魅力のある人物の一人だ。後に義仲残党の経歴が鎌倉に露見して放逐されたらしいが。
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【やや蛇足気味ではあるけれども...】.
樋口兼光は斬首されたが、その子孫は11代後に伊那郡樋口村(辰野町樋口)から上野国多胡郡馬庭村(現在の高崎市吉井町馬庭)に移り、17代目の定次が父祖伝来の兵法・念流の道場を開いた。これが古武道の馬庭念流の始まりと伝わる。多胡郡は児玉党の勢力範囲だから、兼光と児玉党それぞれの子孫に何らかの交流が続き、500年を隔てて旧交を温め移住の端緒になったのかも知れないね。
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右:湊山小学校の石井橋側、雪見御所跡の碑 画像をクリック→ 碑の拡大表示
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仁安三年(1168)、重病からの回復を契機に50歳で出家した
清盛 は政治の実権を握りつつ表舞台を離れ、福原(神戸市中央区)に別邸の雪見御所
※を建てて日宋貿易拡大の拠点とした。更に大輪田泊
※(現在の神戸港西部)の一部を埋め立てて港湾機能を強化し、並行して
厳島神社(公式サイト)を現在の姿に整備した。
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平家納経 (wiki) を完成させたのもこの頃で、NHK大河ドラマ風に言えば「清盛は福原に遷都し宋との経済的な交流を更に拡大して貿易を軸とする海洋国家(この表現は笑える)の樹立を目指した」のだろう。
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※雪見御所: 仁安二年(1167)に太政大臣を辞して出家した清盛(法名浄海)は死没までの約10年間を主にこの別邸で過ごした。
京都から離れたの隠遁を体裁を装ったが、近接して
宗盛 邸や
重衡 邸、福原遷都に伴って
安徳天皇 が半年を過ごした御所も北側にあったと伝わる。
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明治時代に大型建物の礎石や陶磁器片が出土したが、昭和53年(1978)の校舎建替に伴う発掘調査では雪見御所の遺物と断定できる発見はなかったらしい。画像の石碑は明治39年に湊山小学校の校庭から出土した礎石または庭石の一部を加工したもので当初は校庭に置かれ、現在は一般公開に資するよう道路沿いに移設されている(
地図)。
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しかし治承元年(1177)には政治的に清盛に近かった院の近臣が加担した
鹿ケ谷の陰謀事件 (wiki) が勃発、更に治承三年(1179)6月に摂関家の家長となっていた盛子(清盛の娘)が死没、更に7月に将来を嘱望されていた長男
重盛 が死没したのを契機として
後白河法皇 が公然とアンチ清盛に動き始めた。
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激怒した清盛は11月にクーデターを決行し、法皇を鳥羽離宮に幽閉して近臣39人を全て解任、平家に従う公家による独裁体制を敷いたが、強引過ぎた結果として平家への反発を強めてしまう。翌年5月、関白
松殿基房 の追放に絡んで所領の常興寺領を没収された
以仁王 が
三位頼政 を巻き込んで挙兵に走ったのもこの背景が影響している。
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左:神戸港の原点 大輪田泊の石椋 画像をクリック→ 石椋の拡大表示
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※大輪田泊: 南の和田岬が風波を防ぐ天然の良港で奈良時代から瀬戸内海の物流に利用されていた。延喜十四年(914)の記録は行基が築いた
播磨五泊の一つである、と伝えている。
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清盛の父・忠盛が肥前国の院領神埼荘(現在の佐賀県神埼市)を利用して宋との交易を始め、応保二年(1162)に摂津国八部荘(灘・東灘を除く神戸市の海側大部分)を手に入れた清盛が本格的な改修に取り掛かり、嘉応二年(1170)には宋の大型船が初めて入港する規模までになった。
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築島水門近くの新川運河沿い(
地図)に置かれた大石は昭和27年(1952)の運河浚渫工事に伴って杭丸太などと一緒に出土した石椋(いわくら・防波堤の基礎)で重量は推定4トン、港の入口に3~4段積み重ねられていたと推定される。
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一ノ谷合戦の際に平家が軍船を置いて万一の撤退に備えたのもこの大輪田泊である。
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治承四年(1180)6月、奈良の
興福寺 や
東大寺、京都から至近距離の
圓城寺 (三井寺) や
比叡山延暦寺(いずれも公式サイト)が平家に抵抗する動きを見せ始める。清盛は周囲を有力寺社に囲まれて地理的に不利な京都を捨てて福原遷都を決行するが...
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8月に伊豆の
頼朝が、9月に信濃の
義仲が、10月に甲斐源氏が挙兵し、11月には近江源氏
※が園城寺や延暦寺の応援を得て上洛を窺うまでになった。清盛は福原から京に戻り園城寺を焼き払って近江源氏を討伐、続いて
重衡 に大軍を与えて興福寺と東大寺を焼き払った。ただし、これは意図した行為ではなく合戦に伴う偶発的な結果とする説もある。
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※近江源氏: 頼朝が挙兵した当初から参戦した近江源氏の佐々木一族は第59代宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏。近江で蜂起した義経は
新羅三郎義光 から二代
後の常陸源氏佐竹昌義の弟・義定の嫡男。山本山城(長浜市湖北町・
地図)を本拠にし、延暦寺・園城寺と協力して六波羅を夜討ちしたが撃退され、山本山の落城後に逃亡してからの消息は明確でない。一説には義仲軍に加わって滅びた、とも伝わる。
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右:一ノ谷の高台、安徳帝の内裏跡伝承地 画像をクリック→ 拡大表示
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清盛の別邸・雪見御所があった(現在の)兵庫区湊山から直線で8km以上離れているため信頼性には乏しいが、ここが安徳帝の御座所だったとの伝承が残っている。都落ちした平家一門は須磨浦から海路で一時的に四国の屋島に渡っているから、その途中に何かの拍子でここに留まった可能性が皆無とも言えないけれど、やはり単なる伝承として捉えるべきかも知れない。急な坂を登った一ノ谷公園一角の鳥居奥に安徳宮として祀られている(一ノ谷町2-55-7、
地図)。
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治承五年(1181)閏2月、平家一門を支えた
清盛 が死去、長男の
重盛 と次男基盛が早世していたため三男の
宗盛(清盛継室の二位の尼
時子 の長男、
安徳帝 を産んだ
建礼門院徳子 の同母兄)が跡を継いだ。
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同母弟の
知盛 が棟梁を継いでいたら情勢が違った可能性もあるのだが、宗盛は続発する反乱や飢饉による混乱に対処し切れず、寿永二年(1183)7月には北陸道から迫った義仲軍に追われて都を捨て、一ノ谷を経て讃岐の屋島に本拠を移した。清盛が手塩に掛けた福原は義仲軍の手で焼き払われた。
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そして前項で述べたように
義仲 が失脚・追討され、対立の構図は頼朝vs平家に集約された。寿永二年(1183)閏10月に備中水島で義仲軍を破った平家軍は京の奪還を目指して福原に再上陸、翌年2月に頼朝が派遣した
範頼 ・
義経 の連合軍と最初の全面衝突、一ノ谷合戦を迎えることになる。
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左:淡路島方向から見た一ノ谷の鳥瞰 左側が塩屋口 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月4日】.
平家は西海と山陰の軍兵数万騎を集めて摂津国と播磨国の境にある一ノ谷に布陣した。
本日は 相国禅門(清盛)の一回忌※を迎えて仏事を行う計画である。 .
※清盛一回忌: 死没は治承五年(1181)閏2月4日なので、この一回忌は現代の三周忌を意味するらしい。吾妻鏡や平家物語が
描いた福原一帯の源平合戦は「一ノ谷合戦」の呼称が定着しているが、実際の激しい戦闘は大手の生田口および搦手の塩屋口と夢野口の防衛拠点で行なわれており、一ノ谷は塩屋口の一角に過ぎない事実に留意が必要だ。
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福原の大輪田泊に上陸した平家が布陣したのは一ノ谷西端・鉢伏山麓の塩屋口(守将は
平忠度)から、生田川西岸の生田口(守将は
知盛 と
重衡)まで、東西約13kmのエリア。
宗盛 は大輪田泊(JR兵庫駅の南)に本陣を置いて
安徳天皇 や女官を守ると共に軍船の碇泊場とした。宗盛の本陣から2kmほど北西の夢野口(鵯越の南)には
通盛 と
教経 が率いる一万騎を配置して北の鵯越から攻撃してくる敵に備え、予備の兵力を夢野口の東1kmの雪見御所(現在の雪御所町)に置いて夢野口と生田口の双方に対応できる配置とした。
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右:塩屋口から一ノ谷へと続く現在の国道2号線 画像をクリック→ 拡大表示
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前哨戦の三草山で資盛軍を撃破した搦手の義経軍は三木まで南下して二手に分かれた。義経は増援部隊(公称9千騎)を率いて山道を夢野口へ、土肥實平の率いる部隊は更に南下して早朝には塩屋口に到着した。これは塩屋口が狭いため大軍で押し寄せる必要がないと判断したのだと思う。当時の正確な姿は推定するしかないが、巾100mに満たない平地が500mほど続く現在の地形と大きく違わなかっただろう。
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※矢合せ: 合戦の決め事として最初に軍使(相互が安全を保証する)を交換し、場所と日時を取り決める。定刻に双方の代表者が
名乗りを挙げ、味方の正当性と過去の功績などを主張し相手の不義を罵り合う。次に鏑矢を射ち合って鬨の声を挙げ、騎馬武者が進み出て矢戦→ 乱戦に突入するのが順序。このステップを踏まないと「武士の恥・卑怯者」とされた。
義経が局地戦で何度も優れた実績を挙げたのは合戦の決め事を無視したのが要因の一つだった、らしい。
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「武士の恥」を重んじるか、「勝てば官軍」と割り切るか、その選択によって戦果は大きな変わる。通常の局地戦ではルールを守らない側が勝つのだが、それが最終的な勝利を招くとは限らない。真珠湾で勝っても太平洋戦争では完膚なき敗北を喫したのもその一例だ。
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本来は憲法改定の手順を踏むべきなのを判っていながら「解釈変更の閣議決定」で誤魔化した安倍晋三と自公政権の未来は暗い、と思うよ。これ、明らかに正義じゃないもの。夫婦で国費を盗んだ事実と合わせて、いづれの日か歴史の審判を受けるだろうさ。.
一部が平安時代末期に成立したと推定される「奥州後三年記」に拠れば、金澤柵の合戦の条に次の記述がある。
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清原家衡 の乳母夫が櫓に立ち、大声で 八幡太郎義家 を罵った。「汝の父 頼義 は 安倍貞任 を討伐できず、清原武貞 将軍に懇請し臣下の礼を尽して貞任を討つ事ができた。今はその恩も忘れて家臣にも拘らず重恩の主君を攻める。天罰が下るだろう」と。 .
従って、少なくとも口上の交換に関しては後三年の役(1083年~)前後までは守られていた。この美風(笑)は保元の乱(1156)や平治の乱(1160)頃には乱れ始め、倶利伽羅峠の合戦(1183)では有名無実になった。平家軍は乱戦の経験が少なく、夜討ちや奇襲を:警戒する習慣に欠けていた可能性もある。
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ちなみに、治承の兵乱で最初の本格的衝突だった石橋山合戦(1180)は豪雨の中での予期せぬ遭遇が発端だった、とも言う。また
頼朝 が挙兵した緒戦の山木合戦の場合は、100%完全な不意打ちだった。
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右:一ノ谷合戦跡 須磨浦公園の記念碑 画像をクリック→ 風景の拡大表示へ
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【 一の谷合戦についての誤解と先入観などについて 】.
合戦場は東南東の山陽新幹線・新神戸駅に近い生田川から、鉢伏山が海に迫る須磨浦公園西側まで約13kmの海岸沿いである。その西端が一ノ谷で、激戦があったのは事実だがそれは鵯越(ひよどりごえ)と同様に須磨~福原一帯で行われた合戦のごく一部、本来なら「塩屋口の合戦」とでも呼ぶべきだろう。
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更に付け加えれば、一ノ谷と鵯越は9kmも離れているのだから
「義経
が一ノ谷背後の鵯越から奇襲」 なんてできる筈はないし、
畠山重忠
は範頼に従って東端の生田口を攻撃しているのだから、
「馬の前足を担いで鵯越を下った」 のも只のヨタ話だ。
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2月5日に一ノ谷の北50kmの三草山(
地図)で資盛軍を撃破
※した義経軍は三木まで南下して二手に分かれ、熊谷直實・平山季重らは塩屋口へ、義経は鵯越のある夢野口に向った。最近では地元の郷土史家が「義経は夢野口に向かう途中で更に二手に分かれ、精鋭を率いた義経が一ノ谷裏手の崖を攻め下った」と主張しているが、地元を愛する故の「まさに判官贔屓」と言わざるを得ない。平家物語も吾妻鏡も現地を確認せず伝聞をベースに記述しており、それが架空の物語 「鵯越の逆落とし」を生んでしまった。
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※三草山: 京から篠山を経て明石へ下る主要道沿い(現在の国道372号→175号)。ここに平家の荘園があり、資盛は義経が京都から須磨を目指す進軍ルートの
進軍ルートの三草山麓で迎撃する計画で布陣。平家物語は
「 義経 が 土肥實平 に「夜討ちか明日の合戦か」と訊ね、田代信綱 が「明朝には敵の軍勢が増えるから夜襲が有利」と進言し義経も同意した」 と書いている。矢合せの約定を無視した義経が夜討ちを決行したため武装を解いて休息していた資盛軍は簡単に壊滅、一方で義経側の損害は皆無に近かった。
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左:渚の敦盛を呼び戻す熊谷直實の像 須磨寺の庭園 画像をクリック→ 拡大表示
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箭(矢)合せと定めた七日卯の刻(朝6時)、
熊谷直實 親子らの塩屋口先駆けに続いて
土肥實平 らが攻め込み、木戸を開いて迎え討った守備隊の
平忠度軍と激しい白兵戦となった。この戦いでは平家側が劣勢となり、沖の軍船に逃げようとした
平教盛 が熊谷直實に討たれたのが須磨一ノ谷の浜辺、と伝わっている。
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【平家物語 第九巻の十六 敦盛】.
こうして一ノ谷合戦で平家は敗れ、武蔵国の住人熊谷次郎直實は「平家の公達(若者)が舟に乗るため渚に落ちて行くだろう、名のある大将軍に組めれば良いが」と思い渚に向う小道を進んでいると、練り貫きの布に鶴を刺繍した直垂に萌黄色の鎧を着け、鍬形を打った兜の緒を締め黄金造りの太刀を佩き、24本の切斑の矢を負って滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて跨った一騎の武者が沖の舟を目指して海に乗り入れ五、六段(60mほど)沖で馬を泳がせているのが見えた。
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恩賞を目指して東国から転戦している直實が、「葱を背負って歩いている鴨」の様な姿を見逃す筈がない。渚に駆け付けた直實は「逃げるのは卑怯」と呼び掛け、それに応じて引き返した武者を組み伏せて首を掻こうと兜を押し上げると年の頃なら十六・七歳か、我が子の小次郎と同年代の美しい若武者である。
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早朝の一ノ谷合戦で小次郎が浅い傷を負っただけでも辛い思いをした直實は、「この若者を助けても合戦の帰趨が変わる筈もない」と考えて逃がそうとしたのだが...後を振り返ると、すでに
土肥實平 と
梶原景時 ら50騎ほどの味方が迫っていた。
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ちなみに、敦盛は
知盛 の従兄弟(父の経盛が
清盛 の弟)で、直實は頼朝挙兵直前の数年間を知盛の郎党として仕えている。敦盛とは顔見知りだった筈で、平家物語が初対面の如くに描いているのは演出が足りない。兜を押し上げ顔を見て「アッと驚く熊谷直実!」の方が臨場感があるのに。
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右:同じく、須磨寺に残る敦盛の首塚 画像をクリック→ 拡大表示
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首実検を済ませた敦盛の首級は
義経 が京へ運び、他の平家の首と共に都大路を引き廻しているのだから、須磨寺に敦盛の首塚があるのは根本的に不合理なのだが、そんな事は考えず...平家物語は続く。
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「御覧ください、何とかしようと思いましたが既に味方の軍兵が集まって来てとても助けられません。私がお討ちして後の御供養を致しましょう。」と言うと「いいから早く首を取れ」と答えた。直實は切なくて何処を刺せば良いかも判らず前後不覚の有様だったが、そうもしておられず泣く泣く首を斬った。
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首を包もうと鎧直垂を解いて見ると錦の袋に入れた笛が腰に挿してあった。「東国勢数万騎の中でも戦場に笛を携える者はいないだろう、風流なものだ。」と持ち帰って大将軍の御覧に入れたところ、見る人は皆涙を流した。後で調べると平修理大夫経盛※の息子で十七歳の大夫敦盛だった。
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これ以後の直實には仏心が生まれ、出家する気持ちが強くなった。件の笛の銘は小枝、叔父の忠盛(清盛と経盛の父だから実際には祖父)が笛の名手だったため鳥羽上皇が下賜した笛を経盛が相伝し、笛の名手敦盛が持っていたらしい。
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※平経盛: 清盛 の異母弟(生母は村上源氏・源信雅娘)で歌人としても名高い。平家一門と共に都落ちし一ノ谷で3人の息子 (経正・経俊・敦盛) を失い、当人も壇ノ浦で
異母弟の
教盛 と共に入水した。その下の異母弟
頼盛(生母は
池禅尼)は京に残り、生母が平治の乱に敗れた
頼朝 の助命に尽力した関係から鎌倉で厚遇され、所領の荘園33ヶ所の返還を受けている。
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そもそも、恩賞目当てに目をギラギラさせて獲物を狙う東国武者が組み伏せた敵の若者に温情を掛けるなど、あり得ない。
熊谷直實 が出家して仏門に入ったのは史実だが、それは敦盛を殺した寿永三年(1184)2月の一ノ谷合戦から8年半後の建久三年(1192)で、敦盛と直接の関係がある筈はない。下に書いた様に、出家の契機は美しくも何ともない、所領の境界を争う裁判で上手く説明できなかったため癇癪を起したのがで発端だった。
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また平家物語は「後に迫った土肥實平と梶原景時」と書いている。熊谷直實・土肥實平の部隊は共に塩屋口で戦っており、梶原親子は早朝の塩屋口攻撃を担当、先駆けした末に深入りし辛うじて生き延びている。平家物語が描いた「梶原の二度駆け」
※で、平家物語の通りに読めば前線を突破して西に進み、塩屋口を突破して東に進んだ土肥實平部隊と合流したことになる。
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※梶原の二度駆け: 梶原景時
親子は500余騎で生田の森の逆茂木を越え攻め込んだ。次男の 平次景高 が前に進み過ぎ、使者を送って撤退させた。
景高は暫く留まった後に再び突撃。景時は「景高を討たすな」と叫び、嫡子
景季 と三男景家と共に敵陣を駆け回って奮戦してから引き上げた。しかし今度は景季の姿が見えず、郎党も「深入りし過ぎたのかも」と言うため「先駆けをするのも子供のためだ。景季を討たせて自分が生き残っても意味はない、引き返すぞ。」と、大声で名乗りつつ敵陣に突っ込んだ。
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取り囲む敵を斬り伏せて探し回ると景季は馬を射られ、崖を背に郎党二人を従えて五人の敵兵と戦っていた。親子は力を合わせて三人を討ち取り二人を負傷させて危機を逃れ一緒に陣に戻った。これが「梶原の二度駆け」である。(平家物語 巻九の十一 「二度の懸け」)
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右:直實と所領を争った久下直光の館跡 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【吾妻鏡 建久三年(1192) 11月26日】.
所領の境界について、熊谷直實 と叔父の 久下直光 が 頼朝 の前で決裁を仰いだ。直實は歴戦の猛者だが弁舌の才に乏しく、主張が曖昧なので頼朝から再三の質問を受けた。
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直實は「これは 梶原景時 が久下直光を贔屓して事前に打ち合わせたため私だけが質問を受けるのだろう。どうせ直光に有利な裁決が出るのだから証拠書類も何も無駄だ。」と怒鳴って文書を投げ捨て、西の侍所に退去して髷を切り落とし南門から走り出て自宅にも帰らず行方不明になった。
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頼朝は非常に驚き、人を送って行く手を遮り出家を止めさせよと命じた。人の話では西に馬を走らせた、京を目指したかも知れない、と。直光は直實の義理の叔父で、直實が叔父の代理の大番役で上洛していた際、同郷の朋輩が代官を理由に馬鹿にした。直實はその鬱憤を晴らすため故郷に戻らず 平知盛 に仕えて年を過ごし、関東に戻ってからは石橋山で平家軍に加わって戦い、後に源氏に仕えて勲功を挙げた。「直光の代官」という制約を放棄して知盛の家人になって以来の因縁が境界争いの遠因である。
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幼い頃に両親を亡くした直實は元々熊谷郷を領有していた外叔父 (姉の夫) の直光に養われ、成人した後に頼朝御家人として挙げた武勲の恩賞に、直光が所有する熊谷郷の一部または隣接する新領を得たらしい。直光から見た境界争いは「一人立ちするまで直實に預けていた熊谷郷を奪われた」意味合いだった、と。
直實がかなり意固地で思い込みの激しい人物だったのは確かで、吾妻鏡はもう一つ、そんなエピソードを伝えている。
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左:熊谷直實の菩提寺 蓮生山熊谷寺 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 文治三年(1187) 8月4日】.
今年は鶴岡八幡宮で初めて放生会を催すため奉納する流鏑馬の射手と的立て役を割り当てた。上手の的を立てる役を 熊谷次郎直實 に命じたところ直實は怒り、「御家人は皆同輩なのに射手が騎馬で的立て役が徒歩とは優劣を付けているものだ、命令されても私は従えない」と拒んだ。頼朝は重ねて「優劣ではなく分に応じているのだ。そもそも新日吉社祭礼には領主の家臣が的を立てるのだから低い役目ではない、指示に従え」と説得したのに直實が拒否し続けたため、罪科として所領の一部を没収した。 .
直實は出奔した翌・建久四年頃に深く帰依した
法然上人 の弟子となって出家した。法力房蓮生と名乗って各地に多くの寺院を建立し、建久六年(1195)には鎌倉を訪れて
頼朝 と面談している。老齢になって本領の熊谷郷に戻り建永二年(1207)9月に66歳で死没、最後の数年を過ごした庵の跡が浄土宗の
熊谷寺(公式サイト)として現在に伝わっている。出家した武士と言えば
文覚 か
西行 だが、直實には文覚の持つ複雑な側面や西行の鋭い感性も見られない。法然の宗教的理念も理解できずに念仏宗に突き進んだ単細胞、と評したら失礼だが。
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残念ながら、この熊谷寺は墓参するにも山門が閉鎖されてて何時も入れないんだよね。宗教上の理由で不特定多数の観光客を拒否するのなら良いけど、えてして「対応が面倒だから締め出す」のが一般的な例だ。熊谷寺(浄土宗)は「念仏道場」を称しているが本音は同様、だと思う。いつも開放している久下直光の菩提寺・東竹院(曹洞宗)の方が偉い!
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【吾妻鏡 建久六年(1195) 8月10日】.
熊谷次郎直實法師が京都から参向した。かつての武士を辞してからは一心に仏の道を歩んでいる。建久三年の頼朝上洛には思う処があって参向せず、今回は涙で再会を喜び、御前で仏の教えと共に兵法や合戦の故実などを説いた。姿は僧体ではあるが心は宗教心と世俗が同居していると語って周囲の者を感嘆させた。この日のうちに熊谷郷へ下向すると言うので頼朝は引き止めたが、後日また参向すると称して退出した。 .
右:話を戻して、生田川河口付近から激戦の生田口方向を 画像をクリック→拡大表示
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須磨の東側の戦線では
範頼 の率いる源氏の主力(5万6千騎)が生田口で
知盛 ・
重衡 率いる守備軍と激戦を繰り広げた。
梶原景時 親子と
畠山重忠 らが先陣として生田川に構築した壕と逆茂木で固めた防衛線に対して戦況を押し気味に進めた。jまた夢野口では甲斐源氏の
安田義定 軍が一進一退の戦闘を続けた。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月7日】.
寅の刻(16時前後)に 義経 は精鋭70余騎を選び一ノ谷背後の山(鵯越)に進出、熊谷直實・平山季重らは卯の刻(朝6時前後)に一ノ谷西の海辺から名乗りを挙げて攻撃を開始した。これに対して平家側は伊勢平氏の藤原景綱・越中盛次・上総忠光・悪七兵衛藤原景清 らは木戸口を開いて迎え討ち、熊谷直家が負傷し季重の郎従が落命した。
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その後に範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の武士が突撃して混戦となった。義経が 三浦 (佐原) 義連 らを引き連れて鵯越から急襲したため平家軍は混乱に陥り、ある者は騎馬で逃亡し ある者は舟で四国に逃れた。
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三位通盛は湊河で源三俊綱に討ち取られ、薩摩守忠度 ・ 若狭守経俊 ・ 武蔵守知章 ・ 敦盛 ・ 業盛 ・ 越中前司盛俊ら七人は、範頼・義経らの軍勢に討ち取られた。但馬前司経正 ・ 能登守教経 ・ 備中守師盛は遠江守 安田義定 の部隊に討ち取られた。 .
塩屋口を突破した
土肥實平 軍と、別行動をとった義経が率いる増援部隊(公称9千騎)が夢野口攻撃に加わって戦力差が大きくなったため、守将の通盛と教経は防衛線の維持が困難になった。夢野口が危ないと見た生田口の副将
重衡 が応援に向かい、残った
知盛軍は総攻撃を開始した
範頼 の軍勢を支え切れず、生田口が突破された。西の塩屋口と東の生田口に続いて北の夢野口も突破され、平家軍は東・西・北の三方から挟撃される形になった。
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戦意を失った平家の兵は先を争って唯一敵のいない海に逃げて溺死者多数を出し、総大将の
宗盛 は残存兵力を纏め、辛うじて船で屋島に逃れた。
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左:岡部忠澄の本領と忠度遺髪を葬った清心寺 画像をクリック→ 忠度と岡部忠澄の項へ (別窓)
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【平家一門の著名な戦死者】.
忠度 (清盛の異母弟) 、清房 (清盛の八男) 、清貞 (清盛の養子) 、経正 (清盛の異母弟経盛の子) 、経俊 (経正の弟) 、敦盛 (経俊の弟) 、知章 (知盛の長男) 、通盛 (清盛の異母弟教盛の嫡男) 、教経 (通盛の弟、平家物語は壇ノ浦で入水した と) 、業盛 (教経の弟)、盛俊(清盛側近盛国の子) らが討ち死に。その他に
重衡 (清盛の五男) が捕虜となった。
後白河法皇 は重衡に命じて手紙を書かせ、屋島に逃れた
宗盛 に三種の神器と重衡の交換を提案して拒絶された。
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清盛の異母弟
薩摩守忠度 は乱戦の中で
岡部六弥太忠澄 と組み合って討ち取ろうとしたが、忠澄の郎党に右腕を斬り落とされた。剛力で知られた忠度は左手だけで忠澄を投げ飛ばしたが、奮戦もむなしく討ち取られた。
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神戸の長田区には忠度の右腕を葬った腕塚神社(
別窓画像 と
地図)が、少し南の地方裁判所には亡骸を葬った忠度塚(
別窓画像 と
地図)がある。
更に同じ長田区には別の腕塚 (
別窓画像 と
地図 と
胴塚(
別窓画像 と
地図 が、もう一ヶ所づつある。
また、平家の滅亡後に故郷の岡部郷に凱旋した忠澄は所領の中で最も景色の良い地に五輪塔を建てて忠度の菩提を弔った。これが深谷市にある清心寺で、少し西の普済寺が忠澄の館跡、その近くには岡部忠澄一族の墓所や土塁などが残っている。
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都を引き回された忠度の首を何処に葬ったかは不明だが、首級と腕と胴と遺髪は別の場所に葬られた。こんな例も実に珍しい、と思う。
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右:清盛の五男 三位中将重衡の絵像 (柏原市の安福寺収蔵) 画像をクリック→ 拡大表示
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【平家物語 第十巻 八島の院宣 より】.
後白河法皇 の使者として蔵人定長が拘留中の 重衡 に意向を伝えるため六條堀河邸に入った。「平家一門に申し入れて三種の神器を朝廷に返却すれば一門への合流を許す」 と。重衡は 「重宝の神器を重衡の命と交換しようとは棟梁の 宗盛 も一門の者も承諾するはずはないが院宣に対して何もせず返すのは憚られる、伝えるだけは致しましょう」と答えた。重衡の使者・右衛門尉重国が院宣を携えて屋島に向った。院宣の内容を要約すると...
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「安徳帝 は都を離れ三種の神器は南海西海に遷って数年を経ている。これは朝廷の嘆きであり国を滅ぼす元にもなる。東大寺を焼いた逆臣の重衡は頼朝の申請に沿い死罪に処すべきだが、同族と離れているのも哀れだから、三種の神器を返却すれば罪を許すべきと考える。 元暦元年二月十四日」
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捕虜になった重衡は鎌倉に送られて
頼朝 と面談し、堂々とした態度が感銘を与えた。頼朝は助命も考慮したが、治承四年12月(1181年1月)に重衡が指揮する平家軍が南都堂塔の大部分を焼き払い、ここで多くの死者を出した興福寺と東大寺が強硬に身柄の引き渡しを要求。平家一門は元暦二年(1185)3月に壇ノ浦で滅亡したが、南都衆徒との対立を避けたい頼朝は同年6月に引渡しに応じた。安福寺本尊の阿弥陀如来像は木津川河原で斬首された重衡が最後に拝んだ引導仏と伝わる。
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【 平家の敗因は何だったのか。もちろん戦力差もあったが、その他に 】.
1.下に記載した「後白河の休戦命令」を守ったこと。宗盛は合戦の後に
後白河法皇に「法皇の命令に従ったら源氏に襲われ多数の一門が殺された」と抗議している。
相変わらずの後白河の策略を見抜けず、加えて
義経 が「矢合せの約定」を守るような指揮官ではなかった事も平家の不運だった。
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2.防衛拠点の選択ミス。福原を守るには源氏の攻撃が想定される数ヶ所への兵力分散を強いられた。攻める源氏側は劣勢になっても退却して体勢を立て直せば済むが、
福原全体が包囲されている平家側は局地戦で勝っても敵を追撃して防衛拠点から離れる事はできない。劣勢になって一ヶ所でも突破されたら、他の部隊も背後を挟撃されるリスクが発生するし、実際にその通りになった。規模は異なるが後の鎌倉防衛戦と同じ。一ノ谷で戦力を失う前に地の利に配慮した総力戦を挑むべきだった。
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左:天子摂関御影に載っている宗盛の絵像 画像をクリック→ 拡大表示
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「天子摂関御影」は鎌倉時代中期以降に完成した肖像集。もちろん実物を見て描いたものではないから、例えば承久の乱直後に描かれた
後鳥羽上皇の肖像 などに較べると資料的価値は乏しい。
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宗盛 の人柄に関しては芳しくない挿話が多く伝わっている。壇ノ浦では子息の清宗と共に入水後に死に切れず泳ぎ回って捕虜となり、鎌倉に連行されてからも卑屈な態度に終始して「これでも
清盛 の子か」と嘲笑された、と伝わっている。
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死期を迎えた清盛はなぜ
「天下の事、偏に前幕下の最なり(すべて宗盛に任せる)。異論あるべからず」と言い残したのだろうか。知勇に優れた傑物と伝わる四男の
知盛 や、鎌倉に連行されても落ち着いた態度を崩さず、頼朝に助命まで検討させた五男の
重衡 を選ばなかったのは何故か、やや気になる部分ではある。時代は緊迫しており、危機を乗り切れる素質の有無で後継を選んでいたら平家の命運も変わっていたか知れなかったのに...清盛の晩年も秀吉と同様に正常な判断力を失っていたのかも。
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ちなみに、早世した長男
重盛の生母はかなり身分の低い正六位高階基章の娘だったが、宗盛(1147年誕生)・知盛(1152年誕生)・重衡(1157年誕生)は三人とも
平時子(二位尼、堂上平氏の中級貴族・平時信の娘)が産んでいる。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月20日】 宗盛が
後白河に申し入れたクレーム文書
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去る15日に使者を四国(屋島)に派遣し勅定の意向(安徳帝と三種の神器の返還)を宗盛に伝えた。その返書が(院に)届き、閲覧に及んだ。曰く、
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15日の書状は本日(21日)に到着し、蔵人右衛門佐の書状と共に内容を理解しました。安徳帝 と国母(建礼門院)の京還御の件も承りました。去年の7月西海に向った際に還御せよとの院宣を受け、備中国下津井から船出しましたが洛中不穏の噂があるため延期し、去年の10月に鎮西(九州)を出御し還御に向ったところ、閏10月1日に院宣を称した 義仲が千艘の軍船を率いて備中水島で安徳帝の還御を妨害しました。これは兵を以って義仲軍を打ち破り、讃岐国屋島に着御して現在に至っております
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さて、先月26日に再び出航して摂津(一ノ谷)に遷幸し、院宣に従って京都近くまで行幸しました。去る4日は亡父清盛の三回忌でしたが法事のために上陸する事も出来ずに輪田の沿岸を巡っていると去る六日に修理権大夫の書状が届き、「和平交渉の使者として8日に京を出て下向する。安徳帝の勅答を頂いて京に戻るまでは合戦をしないよう関東の武者には伝えてあるから、平家軍にもその旨を徹底させよ。」との事でした。
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この仰せを守り、元より戦う意思もないので院使者の到着を待っていると7日になって関東の軍勢が御座船の停泊する一ノ谷に攻め込みました。我々が院宣を守って撤退したのに関東の軍勢は勝ちに乗って攻め掛かり、多くの将兵が殺されました。これは何事なのでしょうか。関東の軍には院宣を待てと言わなかったのか、あるいは関東の武士がそれを承諾しなかったのか、あるいは平家を油断させるため策略を巡らしたのでしょうか。 .
右:清盛の四男 権中納言従二位 知盛の絵像 画像をクリック→ 拡大表示
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優柔不断の傾向があった兄の重盛・宗盛に較べて優れた資質があるため清盛は大きな期待を懸けたらしい。
九条兼実 が日記の玉葉に
「入道相国(清盛)の最も愛でた息子」と書いたほどだが、後継はなぜか宗盛だった。絵像は赤間無神宮収蔵、狩野元信
※の筆と伝わるが確認には至っていない。
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※狩野元信: 画壇を席巻した狩野派初代正信の子で二代目を継承し1500年代前半(室町時代)に活躍した。
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【それはそれとして、吾妻鏡は更に宗盛書状の内容を続ける】.
京に向うたびに関東の武士が妨害するのではとても還御は実現せず、それは平家の責任ではありません。
和平は重要ですが双方に対して公平でなければ実現する筈もありません、この事態を報告するより先に院宣で還御と神器の返還を命じるのは理屈に合わない事であります。
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長い間忠義を尽くし御恩を得てきたのに不忠の疑いや叛徒の扱いを受けるのは何事でしょうか。西国に向ったのは義仲入洛に驚いたからではなく、法皇が平家を捨てて比叡山に逃げたため結果として反逆者扱いされたに過ぎません。更に源氏は院宣を称して西国を侵し度々の合戦を仕掛けたため、我々は防衛に当っただけです。
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そもそも平家も源氏も互いに意趣はなく、平治の乱で信頼卿が叛いた時も院宣によって仲間の義朝らを追討したのも自然の成り行きで、宣旨・院宣に従ったのは怨恨ではないため合戦する理由もありません。長期間の合戦で世情も荒れ飢饉も深刻になり、安徳帝還御の行く手を源氏が妨げる状態が二年も続いています。今は早く合戦を停止して善政を行い、和平と還御について公平な院宣を願います。 二月二十三日
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返書の内容は平家物語と吾妻鏡の間に大きな差異は見られない。宗盛の返事は少し愚痴っぽいし政治家としては正直に過ぎるけれど、言い分は一応の理に適っている。
後白河 が
宗盛 宛に「取り敢えずの停戦を命じた」のは幾つかの伝聞情報を総合すると事実で、平家側は6日以降の数日間は停戦と理解し概ね武装解除(つまり甲冑を脱ぎ弓の弦を外した)状態で源氏の攻撃を受けたらしい。その割には、良く戦った、と思う。
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鎌倉に留まっている
頼朝 の関与は物理的にあり得ないし、
義経 や
範頼 にそれだけの策を弄する能力があるとも思えない、やはり計画したのは後白河だろう。
後白河、
後鳥羽、
後醍醐...「後」の付く天皇・上皇は歴史を歪めた人物が多いようで(笑)。まあ必ずしも「後」だけじゃないけどね。
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いずれにしろ指揮官と侍大将クラスの多くを失った平家軍の戦力は著しく低下し、一族の命運は一ノ谷合戦で決まったと言える。
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左:教盛の二男 従五位下 能登守教経の絵像 (赤間神宮収蔵) 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月8日】.
範頼 と 義経 が摂津国から京に飛脚を派遣。昨日一ノ谷で合戦し、大将軍九人の首を獲り数千人を討ち取った、と。 .
【吾妻鏡 同年 2月9日】.
義経が少数の兵を率いて本隊より先に入洛。これは平家諸将の首を都大路引き回しの許可を得るため急いだ、と。
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【玉葉 寿永三年(1184) 2月10日】.
院宣は首の引き回しに否定的な内容である。義経と範頼は「義仲の首を引き回して平氏の首を引き回さないのは理屈に合わない」と申し立てた。返答は、罪状が義仲と同じではなく帝の外戚として公卿あるいは近臣の身分に昇った、討伐はされたが首を引き回すほどの理由はない。かつて信頼の首を引き回さなかったのと同様である、と。 .
【吾妻鏡 同年 2月13日】.
平氏諸将の首(通盛・忠度・経正・教経※・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊)は義経の六條室町邸に集められ、八條河原に向った。
大夫判官仲頼らがこれを受け取ってそれぞれ長鉾の先に付け、名を記した赤札を付けて獄門に向かい樹に懸けた。見物する者が市をなした、と。
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※能登守教経: 清盛の異母弟
教盛 の次男(
通盛 の弟)。平家物語は剛勇を強調しているが吾妻鏡に同様の記載は見られず、一ノ谷合戦の2月7日には夢野口の防衛に任じて
安田義定 の兵に討たれたと書いている。平家物語などでは屋島の合戦で義経を庇った
佐藤継信 を強弓で射殺し、更に壇ノ浦では義経を追い回した末に三人の敵兵を道連れに入水した、としている。教経に関する情報は平家物語の脚色っぽい。
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一ノ谷では清盛の末弟忠度が討死、七男の知度と八男の清房も討死、五男の重衡が捕虜、清盛の嫡孫や甥の多くが討死している。将官クラスでさえ逃げ切れなかった程だから、吾妻鏡の「数千人を殺した」を割り引いても相当に悲惨な負け戦だった。宗盛と知盛は残兵を軍船に収容して大輪田泊を脱出し屋島に逃れた。寿永二年(1183)7月に義仲に追われて都落ちした際には九州大宰府を経て屋島に落ち着き、内裏を構えて本拠としていた地である。
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それまでの平家は彦島(壇ノ浦の西側・
地図)にも拠点を置き、強力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握るまで勢力を回復していたのだが...義経は摂津渡辺党の水軍と熊野別当率いる熊野水軍および
河野通信 率いる伊予水軍を傘下に加え、渡辺津(旧淀川の河口近く)に集結して屋島攻撃の準備を整えた。
その拾弐 屋島の合戦 平家は九郎義経の奇襲を受けて再び敗北 |
右:文覚上人絵像 (神護寺蔵 伝・藤原隆信筆) 画像をクリック→ 拡大表示
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作者の藤原隆信は歌人
藤原定家 の異父兄(父は藤原為経)で母が再婚した藤原俊成に育てられた公卿。和歌と絵の名手として知られている。神護寺の頼朝絵像の作者されていたが、近年はその通説「モデルが頼朝か否か、作者が隆信か否か」に疑義が呈されており、結論はまだ先になりそうだ。文覚絵像には特に問題なし、かな。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 3月2日】.
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 3月10日】.
頼朝 の指示を受けた 梶原景時 が三位中将重衡卿を伴って京から関東に向った。また同日、頼朝が因幡国の住人長田實経(後日廣経に改名)を呼び出して書面を与えた。曰く、平家に味方した事実は罰せられるべきだが、私が伊豆流罪※になって代々の家人さえ付き従う者もなかった時に、實経の父・高庭介資経が家人の籐七資家を副えて送ってくれた恩は忘れ難い。よって本領を安堵しよう、と。 .
※流罪の経路: 平治物語などに拠れば永暦元年(1160)3月11日に検非違使の三善友忠が連行し粟田口
※から船で近江~伊勢へ下り
阿濃津
※から伊豆に向った。従うのは乳母夫の比企掃部充夫妻(妻は後の
比企尼)と、叔父(熱田大宮司
藤原季範 の子で頼朝の生母・由良御前の弟)が派遣した郎従だけで余りに惨めだったため、平家の家人高庭介資経が配慮を加えた、と伝えている。
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阿濃津を出航した頼朝が上陸したのは沼津あたりか、或いは奥津(興津)か別の港か、記録には残っていない。
承安三年(1173)に伊豆流罪となった
文覚上人 は西伊豆の八木沢村に上陸と伝わっているから、ここから山越えして韮山に落ち着いた可能性もある。
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平治物語の記述では、駿河国香貫(沼津市の狩野川河口)で頼朝の同母弟(後の
希義、頼朝の5歳下)を母の兄・藤原範忠(後の熱田大宮司)が捕らえて朝廷に送り、頼朝の伊豆流罪と同日に土佐流罪とした。従って頼朝は弟と逆のルートを辿った事になる。
.
※粟田口: 東海・東山道と結ぶ京都七口の一つで三条口・大津口とも。現在の三条大橋から蹴上(
地図)まで。粟田郷を抜けて通じていたのが語源。
.
※阿濃津: 三重県津市の阿漕塚
※(
地図)付近にあった港で、京と東国を結ぶ海路の拠点として繁栄した。室町時代の明応七年(1498)のM8.6クラス
の明応大地震に伴う津波で壊滅し、その後の港湾機能は現在の松阪港周辺に移ったらしい。
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※阿漕塚: 病身の母に食べさせるため伊勢神宮に納める魚を獲る禁漁区に網を入れ、罰として簀巻きにされた漁師の塚「あこぎづか」がある。
「同じ事を何度も繰り返す、しつっこい」を表す「あこぎ」の語源になった、とされているけど...本当かな。
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左: 京の七口 プラス アルファ 京都に出入りする代表的な街道口 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 3月17日】.
板垣兼信 の飛脚が鎌倉に着き、藤原(判官代)邦通が内容を報告。曰く、命令に従い8日に京から山陽道に向った。
門葉※の一人として追討使を受け賜り目的を達成するべきなのに、従軍する土肥實平 が特命を受けたと称して打合せに応じず、自分が決めると言って私の関与を受け付けない。兼信が上司である旨を徹底させて頂きたい、と。
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頼朝 はこの求めを許さず、「門葉か家人かは問わず。實平の忠義心は衆に抜きん出ているから西国の差配を委ねている。兼信程度の者は命を捨てて戦うのが分相応で、申し出は僭越である」と答えた。使者は空しく走り帰った。
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【吾妻鏡 同年 3月28日】.
捕虜の 平重衡 が鎌倉に到着、頼朝は廊下に招いて面会した。頼朝は「後白河法皇 の怒りを慰め、父の恥辱を雪ぐため石橋山で合戦し平家を討伐したのは周知の通り、名誉の回復である。槐門(右大臣宗盛 を差す)とも、この様に面会するだろう。」と。
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重衡は「源平は共に天下を警護した立場で、結果として平家だけが朝廷を守る立場になった。官職を得たのは80余名、繁栄は20数年だが今は運命が縮み捕虜として此処にいるのだから言う事はない。これは武者としての恥辱に非ず、早く斬罪に処すればよろしい。」と答えた。
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聞いていた者はその動じる様子のない態度に感銘を受け、身柄は狩野介宗茂※に預けられた。その後、院からの指示があり「(平家の)武士は是非を問わず成敗せよ。何らかの理屈があれば成敗の後に奏上せよ」 との内容である。 .
※源氏門葉: 頼朝の血縁として、他の御家人と別格に処遇された一門の家系を差す。血縁の濃淡に関係なく忠誠心の高い清和源氏が指定された。
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右:山桜(左側)とソメイヨシノ(右側) 葉と花がほぼ同時に開くのが山桜の特徴
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 4月4日】.
御所の桜※が見事に開いたので一條能保卿を招き、前の少将 平時家(時忠の次男。父の指示で上総流罪になっていた)も共に加わって終日花見の宴を催し、併せて音曲を楽しんだ。
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※桜の開花: 寿永三年4月4日は西暦の5月15日に当る。当時は殆どが山桜の筈だから:現在の鎌倉より一ヶ月弱遅い。
それだけ気候が温暖化したと考えるべきなのだろうか。
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【吾妻鏡 同年 4月6日】 この年 4月16日に改元。寿永三年を改め、元暦元年とした。
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朝廷が平家から没収した前の大納言 平頼盛 夫妻の所領は頼朝に与えられた。頼朝は 池禅尼 の恩に報いるため頼盛の勅勘撤回を願い、所領34ヶ所を頼盛が元通りに知行出来るように自分の所有から外した。その中に含まれていた信濃国諏訪社は伊賀国六箇山と差し替えた。
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池大納言の所領
走井庄(河内) 長田庄(伊賀) 野俣道庄と木造庄(伊勢) 石田庄(播磨) 建田庄(播磨) 由良庄(淡路) 弓削庄(美作) 佐伯庄(備前)
山口庄(但馬) 矢野領(伊予) 小島庄(阿波) 大岡庄(駿河) 香椎社(筑前) 安富領(筑前) 三原庄(筑後) 球磨臼間野庄(肥後)
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池大納言家の所領
布施庄(播磨) 龍門庄(近江) 安摩庄(安芸) 稲木庄(尾張) 乃辺長原庄(大和) 兵庫三ヶ庄と石作庄(摂津) 六人部庄(丹波)
熊坂庄(加賀) 宗像の社と三ヶ庄(筑前) 真清田庄(尾張) 服織庄(駿河) 国富庄(日向) 麻生大和田領(河内)
諏訪社(伊勢神宮領の伊賀六箇山と交換)
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左: 「コスモスの寺」、奈良坂の法性山般若寺 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 4月20日】.
頼朝 の許しを得て 重衡 が沐浴の儀で体を清めた。その後に頼朝は捕虜生活の重衡慰安のため 籐判官代邦通 と 工藤祐経および官女(千手の前)を酒肴と共に派遣、重衡はこの配慮を受けて宴を楽しんだ。祐経が鼓を打って今様を歌い、女房が琵琶を弾き重衡が横笛で和して時を過ごした。
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宴から戻った邦通は「重衡の態度は言葉も芸能も甚だ優美だった」と頼朝に報告、頼朝は世の評判を憚って同席できなかった事を悔やみ、千手の前と夜具一組を重衡に届け、祐経を介して「田舎の女もまた趣あり、鎌倉にいる間は近くに置くように」と伝えた。
祐経は 重盛 に仕えた頃には重衡にも近かったため旧交を忘れず、しきりに今の境遇を憐れんだ。 .
貴公子然とした重衡と千手の前は美男美女のカップルっぽいイメージだが、二人の暮しが長く続く筈もない。
平家一門が壇ノ浦で滅亡した元暦二年(1185)3月24日から二ヶ月後の6月9日、南都の社寺(興福寺+春日大社、と東大寺+手向山八幡宮)と険悪な関係に陥るのを避けたい頼朝は東大寺らの要求を容れて重衡を引き渡した。
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頼朝や
義仲 が挙兵を成功させた直後の治承四年(1180)12月28日、
清盛 の命令を受けた平家軍がアンチ平家の動きを続ける南都の僧徒集団を攻めて東大寺と興福寺の殆どを焼き払い、戦火を避けて境内に避難した民衆を含めて数千人が焼け死んだ。この
南都焼き討ち(鳥瞰図・別窓)を指揮していたのが重衡で、特に法華堂・二月堂・転害門・正倉院を除く大部分の堂宇を焼かれた東大寺と多数の死者を出した興福寺の激しい憎しみを受けていたためである。
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右:京街道沿いの公園に残る重衡の塚 画像をクリック→ 拡大表示
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衆徒に引き渡された重衡は真言律宗の
般若寺(公式サイト・
地図 の門前で斬られた。東大寺から1kmほど北、京都の山城と奈良を結ぶ京街道に面しており南都焼き討ちの際には類焼した、と伝わっている。
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創建は第34代舒明天皇の頃(600年代初頭)とされるが確証はない。戦国時代の兵火に耐えた文永四年(1267)建造の
楼門 (画像)は国宝、重要文化財指定の
文殊菩薩(画像)を本尊としている。
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平家物語に拠れば、
三位頼政 の次男・伊豆蔵人
源頼兼 の護送で鎌倉を出た
重衡 は上洛を許されず、山科から醍醐を経て衆徒に引き渡され同月23日に木津川の畔で斬首、奈良坂の般若寺門前に首を晒された。
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河原に放置された遺骸は大納言典侍が引き取り、重衡の正妻 (壇ノ浦で入水後に捕獲) が隠棲していた
法界寺 (日野薬師) で荼毘に付し貰い受けた首と共に埋葬した。京街道に面した小さな公園の塚(
地図)が重衡を葬った場所で、一部を失った五輪塔が墓石らしい。
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一方の千手の前にも、三年後に不幸な最期が待ち受けていた。吾妻鏡に拠れば、千手の前は手越宿(静岡市の安倍川西岸・
地図)の長者の娘。南都に引き渡された重衡の死後は剃髪し墨染めの衣で信濃善光寺に入り、仏道の修行をしつつ重衡の菩提を弔った、と伝わっている。
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左:千手前が庵を結んだ白拍子村の墓所 画像をクリック→ 拡大表示
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参考として: 木曽義仲 の嫡子
清水冠者義高 が4月21日に鎌倉を脱出、武蔵国入間川で追手に殺される事件が勃発している。
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【吾妻鏡 文治四年(1188) 4月22日】.
夜になり 御台所政子 に仕える女官(千手前)が御前で気を失い、間もなく息を吹き返した。普段は特に病気をしていない者だが、夜明けに仰せを受けて御所を退出し自宅に戻った。 .
【吾妻鏡 文治四年(1188) 4月25日】.
明け方に千手の前(24歳)が死没。穏やかな性格の女だったため人々は突然の死を惜しんだ。前中将重衡卿が鎌倉に抑留されていた際には命じられて身辺の世話を続け、重衡卿が鎌倉を離れた後は恋慕の思いが積み重なり、これが病気の元なのだろうと人々には感じられた。
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遠江国中泉(現在の磐田市)で活動した江戸時代初期(1657~1738 )の医師・山下煕庵は著書「古老物語」の中で
「千手の前は駿河国手越の長者の娘である。長じて鎌倉に出仕して重衡に仕え、重衡が刑死した後は尼となって蟄居したことからこの地を白拍子村と呼び、葬った墓の印に松を植えたため人々は傾城の松と呼ぶようになった」と書いている。墓石には「?松樹傾信女」(?の偏は帝、旁は成)と刻まれているらしいが、鎌倉幕府の女房を白拍子や傾城と同列に扱うのだから、史実から派生した伝承に過ぎないだろう。
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 5月19日】 重衡が去り、頼朝は都人の二人と京都回帰の夢を見たか。
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頼朝は 池大納言頼盛 と 一條能保 を誘って海辺を逍遥。由比ガ浜から乗船し御家人の舟を従えて杜戸の海岸(葉山)に上陸し小笠懸を行なった。 .
右:頼盛の妻が我が子を失ったと伝わる親不知 画像をクリック→ 拡大表示
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富山との県境に近い新潟県の伝承に拠れば...
源平合戦に敗れた
平頼盛 は所領のあった越後蒲原郡(所領のリストにある三原庄か?)に逃れて隠れ住んだ。これを知った頼盛室は幼い我が子と共に京を出発し北陸道を経て蒲原に向ったが、崖下の波打ち際を通る難所で我が子を波に奪われてしまった。この時に詠んだ歌から「親不知」の名称が定着した、と伝わる。
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「親知らず 子はこの浦の波枕 越し路の磯の 泡と消えゆく」 .
実際には頼盛は寿永二年(1183)5月の平家都落ちに同行せず、同年10月には頼朝の招きに応じて鎌倉に亡命している。従って蒲原郡に潜んではいないし奥方が彼を訪ねた記録もないから、頼盛夫妻と何氏を連想した単なる伝承に過ぎない。
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ただし「親知らず」が北陸道で屈指の難所だったのは確かで、2008年の冬に通った時には凄絶な雪景色だった。画像左隅のカーブ突端に数台の駐車スペースがあり、展望台から崖下の磯を眺められる。この波打ち際を通るのはかなり恐ろしい。
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更に詳細は
道の駅 親知らずピアパーク および
道の駅 市振の関(共に別窓)のレポートも参考に。
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【吾妻鏡 同年 6月1日】.
頼朝は近日中に京へ帰る 平頼盛を招き別離の宴を催した。一條能保 と 平時家(時忠の子)も同席し盃を重ねながら雑談に興じた。小山朝政・三浦義澄・結城朝光・下川辺庄司行平・畠山重忠・橘右馬允公長・足立遠元・八田知家・後藤基清らが庭先に控えた。いずれも京にいた事のある者である。
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次に引出物の儀、まず時家を介して鍍金仕上の太刀一振、次に 大江廣元
を介して砂金一袋、次に鞍を付けた馬を10頭、次に頼盛の供にもそれぞれ引出物を与えた。更に(引出物を与えるため)弥平左衛門尉宗清(季宗の子)※を呼んだが、彼は鎌倉には来ていなかった。
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平治の乱の際に頼朝助命に貢献した者なのだが、京から鎌倉に向う頼盛に命じられても同行せず、「戦場に向うなら先陣を承りますが、鎌倉の招きは助命の恩に報いるためでしょう。平家が零落した今になって参向するのは武士としての恥です。」と言って屋島の宗盛軍に加わった、という。 .
※左衛門尉宗清: 伊勢平氏一門で頼盛の家人。平治の乱後に頼朝を美濃で捕えて六波羅に連行したが、
池禅尼 による助命運動に協力したらしい。
鎌倉に赴いた頼盛には従わず、元暦元年(1184)7月に勃発した伊勢平氏の乱に加わり本拠の大和国に近い伊勢で戦死している。
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【吾妻鏡 同年 6月5日】.
池大納言頼盛卿が帰洛。頼朝は (自分の所有となった) 荘園を譲渡し、鎌倉逗留中は宴を重ね金銀や衣服を贈って歓待を尽していた。
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参考として: 同じ時期の6月16日、甲斐源氏の棟梁
武田信義の嫡男
一條忠頼 が頼朝と対面中の
御所で謀殺(別窓)された。実行者は
天野遠景。
文治元年(1185)の秋山光朝(
加賀美遠光 の嫡男)追討(
事件の経過・別窓)、建久元年(1190)の板垣兼信(忠頼の次弟)失脚流罪、
建久五年(1194)の
安田義定(武田信義の弟)の追討(
事件の経緯・別窓)と続く甲斐源氏粛清計画が平家追討・奥州征伐と並行して進んでいる。
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上:瀬戸内海東部の五泊(ごとまり) 行基上人 が開いた伝説が残る。
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左から、室生泊(たつの市御津) 韓泊(姫路市的形町) 魚住泊(明石市魚住町) 大輪田泊(神戸市兵庫区) 河尻泊(尼崎市神崎町)
【玉葉 元暦元年(1184) 6月16日】.
平家の一党が備後国(広島県東部)で頼朝郎従の土肥二郎實衡(實平)と早川太郎(嫡子 遠平)を追い散らしたとの情報があり、そのため播磨国に駐屯していた 梶原景時 が備前国(岡山県南東部)に向かい、手薄になった室泊(兵庫県たつの市御津町・地図)が平家軍に焼き払われた。京都に駐在する武士を派遣してこれに対応する、と。
大将軍は不在、対策も後手に回っているのではどうしようもない。 .
奈良時代から利用されている「五泊」は明石海峡を東西に流れる瀬戸内海独特の潮流
※を利用していた。五つの津(港)が航程ほぼ一日の間隔で設置されており、
平清盛 も宋との交易に活用していた物流の要所である。中世には防波堤(石椋・いしくら)を維持管理する名目で勝載料(停泊料)が徴収されていた。
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元暦元年(1184)には最も西側の室生泊が平家の急襲を受けて占領され、物流の停滞による戦局を打開するため
は冷遇していた
九郎義経 を再び前線に戻す事になる。
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※瀬戸内海の潮流: 太平洋の干満により山陽道沿いの瀬戸内海には西向きに2回・東向きに2回の潮流(時速10~20km)が逆行する。巾の狭い鳴門海峡と関門海峡周辺
では特に激しい。風上に航行できない和船にとって潮流の利用が最も合理的で、五泊の港は「潮待ち」には欠かせない存在だった。
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左:1940~70年代に活躍した美人女優 久我美子 拡大表示なし
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月20日】.
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※光盛と保業: 共に頼盛の子で、庶長子保業は後に従三位に昇った。嫡子の六男光盛(嫡子)は従四位となり、建保六年 (1218)
には三代鎌倉将軍
実朝 の右大臣拝賀に派遣され八幡宮での実朝殺害を目撃した。河内守となった五男の保業は鎌倉に留まり、御家人としてそのまま幕府に仕えた。
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父の池大納言頼盛は平家一門が壇ノ浦で滅亡(1185年)した2ヶ月後に出家し、その後は表舞台に現れないまま翌・文治二年(1186)6月に54歳で死没。清盛との不仲に始まった離反ではあったが、不本意な形で一族を見捨てた心の傷が残った。一門にも朝廷にも鎌倉にも安寧な場所が見い出せず、孤独な余生だったと推測される。
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余談...池大納言領を相続した頼盛の孫娘は村上源氏の嫡流 久我 (こが) 通忠 (正二位・大納言、村上天皇の皇子具平親王から九代目) の後妻となり、相続した池大納言家の財産を
使って没落寸前の名門久我家再興を成し遂げた。そして、具平親王から数えて40代目の子孫 久我通顕の長女が往年の美人女優
久我美子 (wiki) 。
彼女は映画女優として人気を博し、敗戦後に華族待遇を失って経済的に破産状態に近かった久我家の窮状を救った。
既に生活の基盤を失っていたにも関わらず、当主の通顕は「女優という卑しい職業」には大反対していた、と伝わっている。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月21日 】
頼朝は範頼・義信・廣綱等を召し集めて勧盃の儀を行った。次いで除目を告知し、それぞれを喜ばせた。(無官のまま) 京都守護職に任じている 九郎義経 は頻りに推挙を望んだが頼朝は許容せず、まず蒲冠者 (範頼) を推挙したため特に悦ばれた。 .
【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 7月3日 】.
頼朝は 宗盛 の率いる平家を追討するため九郎義経を山陽道に派遣する旨を院の御所に報告した。 .
右:平貞能を葬ったと伝わる益子の安善寺 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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平貞能 は
重盛 の忠臣として平家物語にも登場する武士で、誇り高い激動の生涯を送っている。生母は宇都宮氏の娘とされるが系図上の確証は取れない。重盛の次男資盛の補佐役として九州方面の治安維持に任じ、頻発する反乱を抑えきれず6月に都に戻っている。
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義仲入京が迫る中で平家一門は協議を重ね、議論は「都落ちして大宰府を目指す」方向に収束しつつあった。鎮西の情勢が厳しい事を現地で熟知していた貞能は都での決戦を主張するが容れられず、混乱の中で貞能は
後白河法皇 の直属部隊として命令を受け宇治田原の防衛に出動、7月25日夕刻に帰洛するのだが...同日早朝(寿永二年(1183)10月25日)に平家一門は京都を放棄し、既に都落ちを決行していた。
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義仲 の入京は3日後の7月28日。主人重盛の墓が義仲の軍勢に踏み荒らされるのを危惧した貞能は重盛の遺骨を掘り出して周辺の土を鴨川に流してから京都を脱出し、遺骨を高野山に納めた後に一門を追って合流した。
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鎮西の武士は既に大部分が平家を見捨てており、貞能が主張した通り平家一門が安住できる場所ではなかった。豊後(大分)の臼杵氏と肥後(熊本)の菊池氏は情勢を見極めるため動こうとせず、後白河の命令を受けた緒方惟栄(元・重盛の家人)までが平家との合戦に備えていた。
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貞能と資盛が説得を試みるが交渉は纏まらず、平家一門は10月には再び船で九州を脱出することになる。ここで貞能は出家して一門に別れを告げ、重盛の側室だった得律禅尼(堂上平氏時信の娘)と妙雲禅尼(重盛の妹)を伴って姿を消してしまう。主家に最後の奉公を尽くす心づもりである。
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左:那須塩原の妙雲寺 重盛の妹 妙雲禅尼の墓所 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓).
壇ノ浦で平家が滅亡した三ヶ月後の文治元年(1185)6月、
平貞能 は旧主
重盛 の姉と妻の赦免と保護を求めて
宇都宮朝綱 の屋敷に現れた。かつて朝綱らが平家に仕えて京にいた時に
頼朝 挙兵の報を聞いて関東に帰ろうとした彼らの助命に尽力し、東国への帰還に便宜を図った事が、逃亡に行きづまって保護を求めた経緯がある。
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貞盛を伴って鎌倉に出頭した朝綱は
「もしも貞能が叛くようなことがあれば、我が一族の子孫を殺して下さい」と願って許された、と伝わっている。北関東の各所に重盛の供養塔が点在するのは貞能あるいは籘姓足利氏らによる供養の一環であり、滅亡した後も主家を裏切ろうとしなかった誇り高い武士の生き様の痕跡でもある。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 7月7日 】 貞能が鎌倉に出頭
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前筑後守の平貞能は平家の一族で、故清盛入道腹心の郎党である。平家一門が西海で滅びる前に行方不明となっていたが、突然宇都宮朝綱の元に出頭した。一門の命運が尽きるのを知って出家し滅亡の難を避けた。今は鎌倉の許しを得て静かに暮らしたいと願う、と。
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朝綱がその旨を申し出ると
頼朝 は「彼は平家屈指の家人であり、その申し出には疑いもある」と不機嫌な態度で許す気配を見せなかった。
朝綱は更に続けて「平家に従って在京していた時に挙兵の情報を聞き加わろうと思いましたが、
宗盛 が許しませんでした。その際に貞能が説得してくれたため、私は
畠山重能 や
小山田有重 と共に頼朝旗下に加わり、平家を滅ぼす事ができました。これは私の問題だけでなく源家にとっての功績でもあります。もし彼が反逆を企てたら私の子孫を絶っても結構です。」と願った。今日この件が許され、貞能の身柄は朝綱に預けられた。
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平家物語には更に劇的な展開が書かれている。(以下、概略)
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平貞能は義仲勢に一矢を報いるため手勢30騎ほどを率いて都に戻った。西八条の屋敷の焼け跡で野営して後続の軍勢を待ったが、誰一人戻らず、翌朝にて貞能は主人だった亡き重盛の墓所へと走った。遺骨を掘り起こして周辺の土を賀茂川に流し、遺骨を高野山に納めてから東国へと落ちた。
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寿永三年(1184)、貞能は 重盛 の念持仏・釈迦如来立像(1.2m)を背負い重盛の妹・妙雲禅尼を伴って宇都宮朝綱を訪ねて保護を求めた。
平家都落ちに伴って東国武士の朝綱らは斬られる筈だったが知盛に助命された経緯があり、その時に尽力したのが貞能である。放免された朝綱らは鎭西への従軍を申し出たが、知盛は「汝らの心は既に東国にある。抜け殻を従えて西国へ落ちるべきではない」といて拒んだ、と。 .
栃木~茨城の伝承に拠れば、貞能は重盛の叔母・妙雲禅尼と重盛の妻・得律禅尼を伴い、朝綱の家臣・塩原家忠の配慮を受けて草庵を結び定住した。建久五年(1194)に妙雲禅尼が没すると塩原の谷あいに甘露山妙雲寺(
地図)を建立、九重塔を建てて弔い重盛の念持仏を納めて供養を営んだ。その後に塩原を離れ現在の益子町大平に移住した。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 7月5日 】 貞能が出頭した前年の夏、伊勢平氏の残党による大規模な反乱
※が勃発。
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大内惟義 の飛脚が鎌倉に到着、去る七日に伊賀国で平家一党の襲撃※があり多数の家人が殺されたと報告、鎌倉中が騒がしくなった。 .
※伊勢平氏の乱: 平家物語が「三日平氏の乱」 と書いた蜂起。平家の都落ち後も出自の地である伊賀国と伊勢国(三重県+愛知と岐阜の一部を含む)には残存勢力があり、
伊賀では
平家継(平家一の郎党
平家貞 の長男で
貞能の兄)が、伊勢では平信兼(
山木兼隆の父)が蜂起して、これらを完全に鎮圧・討伐するまでに約一ヶ月を要した。京都に近いため、平家の勢力復活を恐れた朝廷は大混乱に陥った、と伝わる。
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【 玉葉 元暦元年(1184) 7月8日 】.
伊賀国と伊勢国で謀反の情報あり。伊賀は 大内惟義 の知行国で郎従の多くが居住しており、昨日の辰の刻(朝8時前後)に家継法師(平家郎従 平田入道と称す)を大将軍として大内の郎従を悉く討ち取った。伊勢国では元・和泉守信兼が鈴鹿山を封鎖して同じく反乱、このため院は大騒ぎになった。 .
【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月2日 】.
大内惟義の飛脚第二便が到着。去る19日酉の刻(18時前後)に平家残党と合戦し討ち破った※。討ち取った者は90余人で、そのうち首謀者は富田進士家助・前兵衛尉家能・家清入道・平田太郎家継入道らである。前出羽守信兼(頼朝が緒戦で討った 山木判官兼隆 の父親)の息子らと 忠清法師 らは山に逃げ込んだ。佐々木源三秀能(秀義) と 五郎義清 も共に戦ったが、秀能は平家に討ち取られた。惟義は前回敗れた恥辱を雪いだ、恩賞に値するのではないか、と言っている。 .
※乱の鎮圧: 7月19日に近江大原荘 (長浜市) で勝利。源氏も数百騎を失い
佐々木秀義 が討死。
義経 は8月10日に信兼の息子三人を六条室町亭に呼び集めて殺し (謀殺か)
その後に伊勢国滝野(松阪市飯高町)で残党100騎を追討した。この中に信兼もいたと推測される。
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左:白雲山普明院小松寺 重盛夫妻の墓所 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 平家物語 巻第七 聖主臨幸の一部 】.
畠山庄司重能(重忠の父) と 小山田別当有重(重能の弟) と 宇都宮左衛門尉朝綱(八田知家 の兄)は頼朝が挙兵した治承四年から平家一門が都落ちした現在まで幽閉されていた。本来であればこの時に斬られる筈だったが、新中納言平知盛 が棟梁の 宗盛に申し出た。
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「彼らの百人千人の首を斬っても運が尽きれば昔の繁栄を取り戻すことはできません。故郷に残した妻子や家の子郎党を悲しませるだけですから是非とも放免してやって下さい。もし平家の運勢が好転して都に戻れたら助命した事が情け深い行為として残るでしょう。」
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そう言われた宗盛も「それならば許す、すぐ東国へ去れ」と命じた。三人は涙を流して喜び、「生きる値打ちもない命を救って頂いた、これからは野の果てや山奥までもお供して忠義を尽くします」と申し出た。
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宗盛は「お前らの魂は既に東国にある。抜け殻だけを西国に伴っても無意味だから急いで東国へ下れ」と命じた。20年以上も仕えた主人なので別離の涙は抑えられないものだった。
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平貞能 は
清盛 と
重盛 の二代に仕えた平家の忠臣。父の家貞は忠盛と清盛の二代に仕えて「平家一の郎党」(愚管抄)と称された武者で、伊賀国鞆田荘
※を本領とした。家貞は平家最盛期の仁安二年(1167年・清盛50歳の頃)に死没、嫡子の家貞と二男貞能は伊賀を本拠として勢力を蓄え清盛に仕えた。
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九州鎮圧から戻った貞能は京都での抗戦を主張するが容れられず、重盛の墓を掘り起こして周辺の土を鴨川に流し遺骨を高野山に納め、同年10月に平家一門が九州から追われるまで行動を共にした後に戦線を離脱し行方不明となった。その後は宇都宮氏の保護を受けて那須塩原に住み、妙雲禅尼の死去後に常陸国(現在の城里町)の寺に重盛夫妻の遺骨を納め、隣接する益子の安善寺で余生を送った、という次第である。
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※伊賀国鞆田荘: 現在の伊賀市友田地区(
地図)。当初は湯船荘(西側の湯舟地区)と共に東大寺領だったが平家が進出して長く争いになり、平家の都落ちに伴って
後白河院 の裁定を受け東大寺領に戻ったという経緯がある。
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右:貞能関連で、安善寺に近い宇都宮一族の廟所 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓).
一方で寿永二年(1183)7月の義仲入京に際して貞能の兄
家継 は都落ちに同行せず、元暦元年(1184)7月に平家残党を糾合して大規模な決起(伊勢平氏の乱、三日平氏の乱とも)を起こし、奮戦の後に敗死した。
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なぜか同じ名前で呼ばれている「三日平氏の乱」は元久元年(1204)にも勃発しているが、組織的な合戦としては元暦元年 (1184) の事件が平家一門として最後の蜂起となった。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月3日 】.
大内惟義 の使者を呼び詳細の手紙を与えた。その内容は、逆徒を討ったのは褒められるが恩賞の求めは慮外である。守護に任じた者は反乱を鎮圧するのも業務であり、先日は逆徒に家人を殺された。これは然るべき準備をしなかった落ち度に起因する。
賞罰に関して口を出す筋合いではない、と。
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また使者の 安達新三郎※を京の 九郎義経 に向けて派遣し、今回の兵乱は信兼親子が首魁だから早く探し出して殺せと命じた。
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※安達新三郎: 名は清常、頼朝の雑色(下級家臣)。徐々に頭角を現して幕府の官吏として働いた。二年後の文治二年(1186)7月29日には頼朝の命令を受け
白拍子 静 が産んだ男子(義経の子)を奪い由比ガ浜に沈めて殺す任務を実行している。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月6日 】.
頼朝は 源範頼 と 足利義兼 と 武田有義 と 千葉常胤 ら主だった御家人を招集した。平家討伐のため西国に向かう出陣の宴である。終了の際、各自に駿馬を一頭づつ与えた。中でも範頼が受け取ったのは秘蔵の名馬で、甲冑一領も添えられた。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月8日 】.
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※小具足: 甲冑や袖具を除いた防具で喉輪・籠手・腰刀・脛当てなどの総称。
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※北條義時: 軍勢の冒頭に義時を書くのは権力者に媚びる吾妻鏡の本質を物語る。義時は若干21歳だが他は全て歴戦の武将で、最も若い武田有義が
推定30歳、足利義兼は47歳・三浦義澄は57歳・千葉常胤に至っては66歳の老将で、本来なら彼らが先に挙げるべき人物だ。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 8月17日 】.
九郎義経の使者が到着。去る6日に左衛門少尉への任官と検非違使を務めよ※との宣旨を受けた。所望したのではなく、数々の勲功を放置できぬとの事で固辞できなかった、との報告である。これは著しく頼朝の機嫌を搊ねた※。範頼や義信らの任官は頼朝の推挙に拠るものであり、九郎義経の任官については妥当性を疑う意見があったため推薦しなかったのに勝手に所望したのではないか、指示に叛くのは今回に限らない、と考えた。これによって平家追討使への任命を見送る結果となった。
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※検非違使任官: 従来は義経の勝手な所望によると考えられていたが、現在は伊勢平氏の乱に危機感を強めた朝廷が検非違使に任じて京の治安維持に専念させる思惑があった、
と考える説が有力。翌年2月26日に院の近臣・大蔵卿藤原泰経が渡辺津まで出向き、屋島に向けて出陣する義経の制止を試みたのもその流れだろう。結果として頼朝との溝が深まったし、瑣末な事件に猜疑心を強めた頼朝が文治五年(1189)に義経を、嘉応二年(1193)に範頼を殺す事によって子孫を庇護してくれる筈の近親者を失なった側面もある。
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※頼朝の機嫌: 義経が富士川合戦後の黄瀬川で頼朝に合流した一年後の養和元年(1181)7月20日、八幡宮社殿の上棟式で「大工の棟梁に与える馬の手綱を引け」と
命じた頼朝の言葉に義経が「身分の低い者の仕事」との言葉を返した事件が最初のトラブルだった。
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頼朝には(当時の通念として)弟でもも家臣に過ぎないと徹底させる意図があり、義経にはそれを忖度する能力がなかった。頼朝の強い口調に怯えた義経が服従して事態は落ち着いたが、義経はこの教訓を活かさなかった。弟は処遇に不満を持ち、兄は弟の態度に不満を募らせる。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 9月12日 】.
範頼の使者が到着。先月27日に入洛、29日に追討使の官符を受け9月1日に西海へ出陣する、と。
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右:平泉の金鶏山麓に残る伝・郷御前母子の墓石 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 9月14日 】 突然ですが、同じ頃に頼朝の意向で義経が婚姻。
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河越重頼の娘※が 義経 に嫁すため上洛した。これは兼ねてから 頼朝 の意向に従って約束していた婚姻で、上洛には家の子※2人と郎従30余人が従った。
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※河越重頼の娘: 義経の正室とされる郷御前(17歳、京姫とも)。後に女子を産み、平泉で悲劇を迎える。
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※家の子と郎従: 平安時代末期~鎌倉時代初期の「家の子」は嫡子の弟や庶子を含む血縁者、郎従と郎党はその他の家臣。
東国武家社会での嫡子はほぼ絶対的な存在で、嫡子以外は当主に許されて分家するか、家臣として嫡男に従うのが通例である。
文治元年 (1185) 11月には頼朝と義経の関係が険悪になり、義経の舅である河越重頼と嫡子の重房までが追討されてしまう。
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本領の河越荘は後家(
比企の尼 の二女で
頼家の乳母の一人)が継承した。同様に重頼の娘を妻にしていた
下河辺政義 まで失脚(こちらは後に復権)するほどだったから頼朝の (八つ当たりじみた) 憎しみはかなり激しかった。
秩父一族の棟梁を表す河越重頼の名誉職「武蔵国留守所総検校職」を継承した
畠山重忠 も元久二年(1205)6月に謀反の冤罪で討伐され、関連して
榛谷重朝 と
稲毛重成 も粛清、更に
北條時政 夫妻も失脚して武蔵国の支配権は国司となった
北條義時 の独占となる。
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【 玉葉 元暦元年(1184) 10月13日 】 これは誤報だと思うけど...
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情報に拠れば長門国の源氏軍が平家に追い落とされ、平家の軍船5、6百隻が淡路に入った、と。
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左:佐々木盛綱が強行渡渉した倉敷市東粒浦の藤戸の瀬 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 12月7日 】 .
平家の左馬頭行盛は500余騎の軍兵を従えて備前兒島に布陣した。佐々木盛綱 が攻め落とそうとしたが波が高く、砂浜で待機した。行盛が挑発して招くため勇を奮って乗馬のまま郎従六騎(志賀九郎・熊谷四郎・高山三郎・與野太郎・橘三・橘五)を従え藤戸の瀬(300m余)※に乗り入れて渡り切り行盛を追い落とした、と。 .
※藤戸の瀬: 現在の倉敷市東粒浦(
地図)で、当時の海岸線は現在の倉敷川河口から10kmも内陸側で、広大なエリアが湿地帯、
または入江の形状だった。源氏軍は約2km北の
法輪寺(紹介サイト・
地図)に本陣を置き、平家は水辺から1km南の田槌神社付近(
地図)に布陣した。
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地元の伝承に拠れば、盛綱は漁師を探して渡渉できる浅瀬を聞き出し、それが平家軍に漏れるのを警戒して漁師を殺した、と伝わる。
盛綱が渡渉する途中の中州で突き刺した鞭が根付いて大樹になったという「鞭木跡」、一番乗りが平家の陣に斬り込んだ「先陣庵」、戦勝後の盛綱が死者を弔って建立したと伝わる「藤戸寺」など、見所も点在する。行盛軍は殆ど抵抗せず、船で屋島に逃れた。屋島の平家本陣までは海路30kmほどだから藤戸エリアで本格的な合戦をする意図はなかったのかも知れない。現地の史跡については画像も含めて
こちらのサイト に詳細が載っている。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月6日 】.
平家追討のため西海に進んだ鎌倉軍は軍船も兵糧の供給も途絶えたため戦えないとの情報が届き、船を用意して兵糧米を送るよう東国の各地に命令が下った。西国の軍にその旨を知らせる使者が出発する時に、去年9月2日に京を出て西海に入った 範頼 からの飛脚が到着した。兵糧がなくなって兵が団結心を失い大半が故郷に帰ろうとしている、と。他にも馬が足りない事と九州の情勢に関して報告があった。情勢が少し判明したので数名の使者に詳細の命令書を与えて派遣した。内容は次の通り。 .
1.九州の武士に配慮して問題を起さず、降伏した者は丁重に扱え。 2.馬の不足は認めるが上洛を狙う平家に奪われる恐れがあるので送らない。
3.八嶋の
安徳帝 や
二位尼の安全にはくれぐれも慎重に配慮せよ。 4.
宗盛は臆病な性格なので自害はしないから京へ連行せよ。
5.平家軍は既に弱体化しているが侮って油断してはならない。 6.東国の船は2月10日頃の出発予定で準備している。
7.鎌倉御家人に通達。代官として九州に参河守範頼・四国に九郎義経を派遣している。院宣を守り範頼に従って賊軍を追討し勲功の賞を全うせよ。
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右:平家の退路を遮断した範頼軍の動き 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月12日 】.
範頼 は周防国(山口県東南部)を経て赤間関(下関)に到着。彦島の平家攻撃のため渡海を計画したが食料も船もなく、数日の逗留を余儀なくされた。東国の兵は退屈して故郷を恋しがり、侍所別当の 和田義盛 さえ密かに鎌倉に帰ろうとする程だから他の御家人の状態もかなり酷い。しかし源氏に味方する豊後国(大分県)の住人臼杵次郎惟隆と弟の 緒方三郎惟栄 が提供する船で豊後国に渡り、南に迂回して博多の津を攻める協議がまとまり、範頼は今日周防国に帰陣した。 .
範頼軍は現在の下関市一帯を含む長門国(山口県)近くまで制圧していたのだから敢えて九州に渡らず、南西の(陸続きに近い)彦島に拠点を構えている知盛軍を攻撃すれば早いと思うのだが...
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強力な水軍を擁する平家側の動きに不安があった事と、平家が九州の武士と提携する恐れがあった事、そして補給に不安があったため自重したのだろう。結果として3月24日の壇ノ浦合戦は義経軍と平家軍の正面対決となり、周防国と豊後国を押さえ退路を塞いだ範頼軍が平家を滅亡に導く側面援助を果たすことになる。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月26日 】.
惟隆兄弟らは範頼の指示に従い82艘の軍船を提供、また周防国宇佐郡の住人木上七遠隆が兵糧米を献上し、これにより範頼は船で豊後国に渡った。
共に渡海した者...北條義時・足利義兼・小山朝政 と 長沼宗政と結城朝光・武田有義・齋院(官職)次官中原親能・千葉秀胤 と 境常秀・下河辺行平 と 政能、浅沼廣綱・三浦義澄 と 義村・八田知家 と 知重・葛西清重・渋谷重国 と 高重・比企朝宗 と 能員・和田義盛と宗實と義胤・大多和義成・安西景益と明景・大河戸廣行と中條三郎家長・加藤景廉・工藤祐経 と 宇佐美祐茂・天野遠景・一品房昌寛・土左房昌俊・小野寺道綱。
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中でも 千葉常胤 は老齢(満67歳)をものともせず風波に耐えて進み渡り、加藤景廉も病身を忘れ従った。下河辺行平は食料が尽きたため甲冑を売って小舟を買い真っ先に漕ぎ出した。人は「甲冑を着け大将軍と共に戦場に向うべき」と言ったが行平は「元より命は惜しくないから甲冑はなくても自由に動ける舟で一番乗りを目指す」と。範頼は「周防国は西に大宰府と接し東は京に近い。ここを拠点にして京と関東に連絡しつつ戦略を立てよとの命令である。従って精兵に周防国を守らせたいが適任は誰か」と。千葉常胤が「三浦義澄が強い兵を多くを従えている」と答えたため義澄にその旨を指示したが、義澄は「ここに留まっては功績を挙げられない」と渋った。勇敢な部隊を選んでの頼みであると説得した結果、義澄は承諾して軍陣を砂州に構えた。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月1日 】.
範頼が北條義時・下河辺行平・渋谷重国・品河三郎らを先頭にして豊後国に渡った。今日、筑前の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町一帯
(地図)で太宰少貳種直と息子の賀摩兵衛尉らの軍と遭遇し合戦となった。重国が駆け回って彼らを射殺し、行平が美気三郎敦種を討ち取った。 .
【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月13日 】.
石和信光 の書状が伊豆狩野に滞在※している頼朝の元に届いて曰く、平家追討のため長門国に入ったが深刻な飢饉のため兵糧が確保できず、安芸(広島)への撤退を検討中、舟がないため九州への進軍もできない」と。頼朝は「大切な時期だから撤退は許さぬ、九州を攻める必要はないから、まず四国に渡って平家を攻撃せよ」と命じた。 .
※伊豆狩野に滞在: 吾妻鏡に拠れば、頼朝は「新たに建造する伽藍の用材検分のため12日に鎌倉を出発し狩野山に赴いた」と書いている。
伊豆狩野川流域は古来から材木の供給地で、川を塞き止めてから一気に丸太を流す運搬方法も頻繁に行われ、山の中に「筏端」などの地名も残っている。
狩野山とは特定の山を差すのではなく「狩野川中流域から上流域の山地」を意味している。
前年の11月26日には
勝長寿院(別窓)の地曳始(地鎮祭)を行っており、この用材の調達を確認する目的か。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月14日 】.
周防国に居た時の 範頼 に対して 頼朝 が「土肥實平 および 梶原景時 と打ち合わせて、九州の武士を味方に加えよ。彼らが従うようなら九州へ入り、情勢が悪ければ九州勢と戦う必要はないから四国の平家を攻めよ。」との指示を行なっていた。今日1月6日付の範頼書状が届き、苦しい状況を告げてきた。
頼朝は視察中の伊豆狩野から返信を送り、「今撤退したらこれまでの苦労が無駄になる、食料は送るから到着を待て。平家の方は故郷を離れてもなお戦う意欲を保っているのに追討使が志を失ってはならない。」と叱咤した。 .
左:義経は荒天の渡辺津から阿波椿浦を経て屋島へ 画像をクリック→ 詳細ページへ
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月16日 】.
関東の軍兵は平家追討のため讃岐国を目指して出航する。九郎義経 が出陣する様子を見るため、昨日から義経の宿舎に留まっていた大蔵卿藤原泰経※が義経に面会し「私に兵法は判らないが、大将軍は先陣を競わず最初に次将を派遣するのではないか」と諌めた。
義経は「思うところがあり、常に先陣で命を捨てようと考えている」と答えた。
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平家は 宗盛 が讃岐国屋嶋に本陣を置き、二ヶ所に軍勢を配置している。知盛 は九州の兵を従えて門司関を固め、彦島に本営を構えて源氏を待ち構えている。
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今日の 頼朝 は藍澤原※で 範頼 宛に追加の書状を送った。同時に 北條義時 ・ 中原親能 ・ 比企能員 らにも「平家を征するまで心を合せよ」と書き送った。 .
寿永三年(1184)2月7日に一ノ谷合戦で惨敗した平家軍は陣容を整え、強力な水軍を整備して讃岐国屋島(高松市)に築いた内裏を本拠とし、長門国(山口県)最西端の彦島に知盛の軍を配して瀬戸内海の制海権を握っていた。平家の軍事力は一ノ谷合戦以前よりは衰退したが、鎌倉勢は水軍を持たなかったため屋島と彦島を攻めきれず、膠着状態が約一年続いた。翌・寿永四年(1185)2月になって渡辺党の水軍と熊野別当の率いる熊野水軍と
河野通信 の率いる伊予水軍を加えて戦力が充実した義経は渡辺津(淀川河口)に兵を集結させ屋島攻略をスタートさせた。
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※藤原泰経: 義経を訪問したのは平家の逆襲を恐れた
後白河法皇 の意を汲んだもの。伊勢平氏の乱(元暦元年(1184)7月)の勃発にショックを受けた後白河は直ちに
後白河は直ちに義経を左衛門少尉・検非違使に任じる宣旨を発行し京都防衛を命じた。範頼に対する頼朝の指示は「安徳帝と三種の神器の確保を優先して長期戦に備えよ」だったが平家の反攻を恐れた後白河が屋島攻撃を求め、更に藤原泰経の思惑も加わって状況が錯綜し、結果として鎌倉の思惑に反した義経の屋島攻撃となった。独断の任官+勝手な出撃+景時の誹謗中傷=頼朝が激怒した、との図式だ。
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※藍澤原: この地名は数ヶ所あるが二日前の頼朝が狩野川にいたのを考えると
藍沢五卿神社のある
足柄峠(共に別窓)の西麓と考えるのが妥当か。
36年後の承久三年(1221)7月に承久の乱首謀者の一人中納言藤原宗行が
小山朝長(
朝政 の嫡子)に斬首されている。
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右:建礼門院徳子の画像 京都
長楽寺(公式サイト)収蔵 画像をクリック→ 拡大表示
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黄台山長楽寺は延暦24年(805)に桓武天皇の勅命を受けた伝教大師
最澄 が開いた古刹で、歴代天皇の帰依を受け天台宗の勅願寺として繁栄した。鎌倉時代初期に浄土宗、室町時代に時宗(開祖は
一遍上人)に改めている。
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壇ノ浦での入水後に救い上げられた
建礼門院徳子 は縁の深い長楽寺に入り5月1日に出家、と伝わっている。死没は建保元年 (1214) だが肖像は「源氏の目を憚って墨で塗り潰した」状態で、出家してから描くまでの年月が短かかった事を物語っている。
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剃髪後の建礼門院は大原の寂光院に入り、
安徳天皇 と平家一門の菩提を弔って生涯を送っている。長楽寺の建礼門院画像は不定期公開だが、今回は絵葉書から転載しておいた。
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※筆者より: 大原に隠棲してからの建礼門院についても書こうと思っていたが、冗長になる危惧があるため割愛する。
皆様には古文と現代語を対比させたテキストをお薦めしたい。私は
平家物語 原文・現代語訳・解説・朗読 を利用させて頂いている。例えば、朗読を聞きながら資料の整理などができるのは本当にありがたい。
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※肩が凝ったら: 息抜きには
壇ノ浦夜合戦記 を。頼山陽の著と言われるが、ほんとかな?
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【 玉葉 元暦二年(1185) 2月16日 】.
聞くところに拠れば、藤原泰経卿が使者として渡辺津※に向った。これは洛中警護の武士が不在になるため義経の出陣を制止する目的だったが、義経は申し入れを拒否した。泰経はすでに公卿の立場、こんな小事のためにわざわざ義経の元に向うなど見苦しい事である。
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※渡辺津: 淀川河口の重要な港湾施設で渡辺党(綱、渡など代々摂津源氏の郎党)がこの地域を本拠にした。
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【 平家物語 第十一巻の一 逆櫓 】.
都を落ちてから月日は矢の様に流れて既に三年が過ぎた。一ノ谷を逃れ讃岐国屋島に渡った後も東国の軍勢数万騎が都から屋島に攻め寄せる、或いは鎮西の臼杵、杵築、松浦党などが加わって攻め寄せるなどの噂も聞こえる。そのたびに心を痛め落ち着くことがない。
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女院(安徳帝生母の建礼門院徳子)、北の政所(清盛の六女で近衛基通正室)、二位の尼(清盛正室の 時子)らの女房も次はどんな悪い噂を聞くのか、辛い目に遭うのかと、顔を合わせては慰めあう有様である。新中納言 知盛 卿も「長く恩顧を受けた筈の東国・北国の武士も約定を破り、頼朝や義仲に寝返った。西国は離反せずと考え都で決戦をと思ったが私だけでは決められず、結局は都を捨て今の状況に陥ったのは何とも口惜しい事だ」と嘆いた。
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義経 は2月3日に都を出発し、摂津国渡辺と福島(渡辺津の5km下流)の両方で軍船を揃え屋島を攻めようとした。兄の 範頼 も同じ日に都を出て摂津神埼(淀川西岸の河尻泊)で軍船を集め、山陽道に向かう予定である。義経は2月10日に戦勝祈願のため伊勢神宮と石清水八幡宮に官幣使を派遣し、安徳天皇と三種の神器が無事に都に戻るように祈願せよ、と伝えた。軍勢は16日の出発を予定したが激しい北風による船の被害を修理の必要があり、この日の出発はできなかった。 .
左:義経軍は椿浦に上陸して阿波国衙の田口成良を駆逐 画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の一 逆櫓 の続き 】.
渡辺津では諸将が集まり「我ら東国の武士は船の戦に慣れていない、どうするべきか」と話し合った。
梶原景時 が進み出て「軍船に逆櫓※を備えるべき」と提案、義経 が「逆櫓とは何か」と訊ねた。「馬は自在に操れるが船は無理だ、船尾(艫櫓)に加えて舷側に脇舵を付ければ進退が自在になる」と答えた。
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義経は「合戦次第では退却も有り得るが、最初から逃げる算段をするのは出陣にとって不吉である。他の船に備えるのは勝手だが私の船には不要だ。」とした。景時は重ねて「優れた指揮官は進退を見極めながら戦って敵を滅ぼすもの、あなたの様に一方だけ見るのは猪武者の謗りを受ける」と。
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義経は「猪や鹿は知らず。戦とはひたすらに攻めて勝利を得るのが本来だ。」と反論して一触即発の雰囲気になったが、暫くしてやや落ち着いた。
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※逆櫓論争: 平家物語は逆櫓論争が景時の抱いた遺恨の一因と描いているが、対立を強調する創作だろう。逆櫓は壇ノ浦の様な混戦の場合は効果的だが、阿波への渡航は海戦を
伴わない軍船の単純な移動なので景時が逆櫓の装着を強く提案する必然性は乏しい。
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【 平家物語 第十一巻の一 逆櫓 の続き 】.
義経は武具や兵糧や馬を積み込み出発を命じた。船頭が「順風ですが強過ぎます、沖は更に激しいでしょう」と躊躇ったため「風が強くて海に出られないとは何事か。武士が野山に屍を晒し海川に溺れるのは前世の定め、向い風なら無理もないが順風なのに船を出さないなら射殺すぞ」と命じた。
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伊勢三郎義盛・佐藤三郎継信・同じく四郎忠信・江田源三※ ・熊井太郎※・武蔵坊弁慶 にも「従わなければ殺す」と脅されたため、200艘のうち義経の船と田代冠者信綱 の船、後藤兵衛尉実基※の船、金子兄弟※の船、淀忠利(船奉行)の5艘が出帆した。義経は「他の船が続かずとも気にするな、風波が荒い今こそ敵が油断している。わが船の艫の篝火だけを見て進め」と命じ、普通は三日の航程をわずか6時間で渡り切った。
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※渡航の所要時間: 吾妻鏡も平家物語も三日の航程を約4~6時間で渡ったと書いているが出発日か到着日の記載を一日間違えたとする説が有力。
直線で約100kmの距離を6時間で渡るのは物理的に不可能、24時間+4時間=28時間を要したのだろう、と。
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※江田源三: 名は広基、義経記と源平盛衰記には現れるが吾妻鏡には記載がない。相模国荏田郷(現在の横浜市青葉区)出身で弓の名手だったとの伝承がある。
この年の10月17日に起きた土佐坊昌俊の堀河夜討ちの際に討死している。
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※熊井太郎: 名は忠基、武蔵国比企郡熊井郷(現在の比企郡鳩山町)の出身で義経に従って奥州に逃げた後に鎌倉勢と戦って死んだと伝承がある。ただし出典の「清悦物語」は
義経殺害を公開した頼朝が梶原景時親子を斬首するという滅茶苦茶な筋立てなので全く信頼に値しない。
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※後藤実基: 元は
源義朝 の郎党で、平治の乱では長男
義平 に従って戦った
藤原秀郷 流北面の武士。義朝の没後は頼朝の同母妹・坊門姫(成長して
一条能保室。
三代将軍
実朝 の正室
坊門信子 とは別人)を養育した。頼朝挙兵後に養子の
基清 と共に参戦、屋島合戦では平家が軍船で海に逃げた後に館を焼き払い、(平家物語に拠れば)義経の問いに答え扇の的を射る適任者として
那須与一 を推挙している。
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※金子兄弟: 家忠と親範は武蔵国入間郡の武士で武蔵七党の一つ 村山党金子氏の一族。保元・平治の合戦を通じて源氏代々の郎党として転戦。頼朝挙兵直後は
畠山重忠 軍に
加わって三浦攻めに参加し、後に頼朝に従い鎌倉御家人として各地に所領を得た。
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右:徳島市国府町の光耀山観音寺(八十八霊場の十六番) 画像をクリック→ 拡大表示
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桓武天皇 の勅願により天平十三年(741)に創建。
空海(諡を弘法大師)が安置した千手観音を本尊とする。この一帯に阿波国衙があり、義経が攻めた桜庭介良遠の館はこの付近(
地図)と推定されている。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月18日 】.
九郎義経 は昨日渡辺津から出航しようとしたが、暴風雨のため船の多くが破損した。兵は一艘も船を出さなかったため義経は「朝敵と戦う追討使が少しでも遅れてはならない、風波の危険など考えるな」と命じ、丑の刻(午前2時前後)にまず5艘の船を出し、卯の刻(午前6時前後)に阿波国椿浦(徳島県阿南市)に到着し(通常は三日の航程※)、150騎を率いて上陸した。
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地元の武士近藤七親家に案内させて屋嶋(屋島)を目指し、途中の桂浦で桜庭介良遠(散位成良の弟)※を攻撃、良遠は館を捨てて逃げ去った。この夜、頼朝は伊豆から鎌倉に戻った。 .
※桜庭介良遠: 四国の有力豪族・田口散位成良の弟。近縁の桜間外記大夫良連の養子となって阿波の国衙(
地図)に近い桜間郷の一帯を支配した。
つまり勝浦は、義経が攻撃した良遠の館「桂浦」(吉野川の渡船場か?)を指しており国府跡の北側には今も桜間の地名が残っている。
.
※田口成良: 別称を阿波民部大夫重能、阿波と讃岐を支配して早くから
清盛 に臣従し、大輪田泊の築港奉行を務め日宋貿易にも貢献したと伝わる。
一ノ谷および屋島では平家に与して戦ったが、壇ノ浦合戦の最中に軍船300艘で源氏に寝返り、勝敗の帰趨に決定的な役割を演じた。
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【 平家物語 第十一巻の二 勝浦合戦 】.
夜明けの渚には平家の赤旗が少しあるだけだった。義経は「浜に近づいてから馬を降ろすと射掛けられるから早めに泳がせて足が立つ深さになったら跨れ」と命じ50余騎が突撃、200騎ほどの敵兵は耐えきれず200mほど退却した。義経は 伊勢義盛 に敵兵一人の捕獲を命じ、捕らえた近藤六親家から近くの柵を阿波民部重能の弟桜間介能遠が守兵と聞き出した。近藤六親家の兵から30騎程を選び味方に加えて能遠の陣に攻め寄せ、敵兵は少々の抗戦を見せただけで能遠は逃亡、緒戦は縁起の良い勝ち戦となった。 .
一ノ谷合戦から壇ノ浦での平家滅亡までの記述は吾妻鏡と平家物語の間に微妙な差があって面白い。原文を正確に読み比べればどちらが元本なのか判断できるかも知れないが、残念ながら古文(平家物語)にも漢文(吾妻鏡)にも読解力が不足してるので、今更ながら研鑽の必要性を痛感している。
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左:義経の進軍ルート 大坂越え~屋島まで 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月19日 】.
九郎義経は夜を徹して阿波と讃岐の国境の中山(大坂越え)を過ぎ、辰の刻(午前8時)に屋嶋に構えた内裏対岸に着いて民家を焼き払った。これを見た は 安徳帝 と一族を率いて船に逃れた。義経は 田代信綱 ・金子家忠と余一則・ 伊勢義盛(義盛)らを率いて渚に駆け付け、船上の平家と矢戦を交わした。
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この間に 佐藤継信 と 忠信・後藤實基と 基清 らが内裏と宗盛の宿舎などに放火して焼き払った。
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これに対して平家側の越中盛継・上総忠光 らが下船して布陣し、義経の家臣 佐藤継信
が射殺された。義経はとても悲しみ、一人の僧を招いて千株松の根元に葬り院から拝領し戦場で跨っていた名馬(名は大夫黒)を僧に与えて菩提を弔わせた。これは部下を思う美談として人の噂となった。
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吾妻鏡による屋島合戦の描写は2月19日の短い文章だけで何とも物足りないが、一ノ谷合戦に較べれば実際にはそれ程の激戦ではなかった、と思われる。屋島までのルートを確認すると...上陸地点の椿浦~52km~阿波国府の桂浦(勝浦)~22km~阿波讃岐の国境大坂越え~10km~引田~5km~白鳥~6km~丹生~22km~屋島となる。
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全体の距離は120kmほど、正確な所要時間は判らないが国府の占領まで一日、屋島到着までプラス二日程度だろうか。引田から屋島までは33kmだから、引田で4時(平家物語)に休憩して屋島に8時(平家物語)到着という経過は理屈に合っている。
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【 平家物語 第十一巻の三 大坂越え 】.
義経はまた近藤六親家を呼んで屋島の防御体制を尋ねた。親家は「四国の各地に50~100騎を配置し、更に(主力の)阿波民部重能の嫡子田内教能(田口成良)は伊予の 河野四郎通信( を討つため3000余騎で出陣しています」と答えた。
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絶好の機会と考えた義経は屋島まで二日の距離を確認し、休憩を挟みつつ阿波と讃岐の国境大坂越えを徹夜で行軍。その夜に都の女房から屋島の大臣(宗盛)宛の書状を持つ使者を捕らえて「九郎義経は勇猛機敏だから風雨を衝いて出陣するかも知れません、充分ご注意を」との内容を確認した。
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翌18日寅の刻(早朝4時前後)に讃岐国引田で休憩し、白鳥・丹生屋を経て屋島を目指し、再び親家を呼んで「引き潮の屋島と陸地の間は浅瀬となり、馬の腹を濡らす深さもありません」と確認した。義経は奇襲と決め、大軍の襲撃と偽るため高松の民家※に放火し屋島の平家陣に攻め込んだ。 .
※高松の民家: 現在の高松市街ではなく、入り江奥の現在の高松町、「義経鞍掛け松」から「菜切り地蔵」(下記の史跡地図を参照)一帯だろう。
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右:屋島の源平合戦場の鳥瞰 画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の三 大坂越え の続き 】.
一方で伊予に向った田内教能は 河野通信 に逃げられたため敵兵150人ほどを殺し首を持ち帰った。「内裏での首実検は不可」とされたため大臣(宗盛)の宿舎で実施中に高松での火災報告があった。
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これは大軍が攻め寄せたのだろうと考え、急いで総門前に係留していた軍船に乗り込み、女院・北の政所・二位尼や女房の御座船と共に沖に逃れた。攻め寄せた源氏軍7、80騎は引き潮となっていた総門前の渚に乗り入れ、大軍に見せるために数騎づつ駆け込んで波しぶきを立てた。 .
平家物語にある通り当時の屋島は入り江と相引川で陸地と切り離され「干潮なら馬の腹を濡らさない1m未満」の深さだった。義経軍は南側の最も浅い地点を渡河し、平家軍は防戦しつつ船で逃れた。点在する史跡は史実と創作が混在し、冷静な分別が必要となる。
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【 平家物語 第十一巻の四 継信最期 】.
渚に押し寄せた 九郎義経 ・ 田代信綱 ・ 金子家忠と親範 ・ 伊勢義盛 ・ 後藤実基と 基清 ・ 佐藤継信 と 忠信 ・ 江田源三 ・ 熊井太郎 ・ 武蔵坊弁慶 らが次々と名乗りを挙げた。平家は船から遠矢を射るなどしたが損害を与える程ではない。古参の後藤実基は渚の戦いを避け内裏に放火して焼き払った。
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寄せ手が寡兵なのを知った 宗盛 は 能登守教経 に反撃を命じ、これに応じて越中盛継を先頭に500余人が小舟を焼け落ちた総門前の渚に乗り付けて布陣、互いに罵り合った末に金子与一親範が十二束の矢で越中盛継の胸板を貫き、本格的な戦いとなった。
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能登守教経は船の舳先に立ち、都で随一と噂の高い強弓で義経を狙ったが、側近が馬を並べて塞ぐため狙いが定まらない。やむを得ず源氏の鎧武者十騎ほどを射落とし、中でも先頭にいた奥州の佐藤継信が左肩から右脇に射抜かれて落馬した。教経の近習童で剛力の菊王丸が首を獲ろうと駆け寄ったのを弟の忠信が射倒し、教経は左手に弓を持ち右手で菊王丸を舟に投げ込んだが深手のため絶命、教経はこれを哀れに思って合戦を切り上げた。
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落馬した継信の最期を看取った義経の方も悲しみは深かった。近隣で探し出した僧に継信の後生を弔うよう依頼して大夫黒という名の名馬を寄進した。これは一の谷裏手の鵯越を共に駆け下った馬である。継信の弟忠信をはじめ多くの武者は「この殿のためなら命も惜しくない」と語り合い、涙を流した。 .
左:屋島の史跡&伝承地の地図 画像をクリック→ 拡大表示
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吾妻鏡は
能登守教経 を「一ノ谷合戦で討死」と書いており、都大路を引き廻された平家諸将の首級の中に含んでいる。ただし京では教経の首は偽者との噂があり(損傷が激しかったか)、これが教経生存→ 屋島で奮戦→ 壇ノ浦で義経を追い回し壮絶な最期を遂げた挿話に繋がったのだろう。一ノ谷合戦の戦死と捕虜は以下の通り。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月7日から一部を抜粋】.
薩摩守忠度・若狭守経俊・武蔵守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の七人は範頼と義経の軍勢が、但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は遠江守安田義定の軍勢が討ち取った。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月13日】.
平氏諸将の首(通盛・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊)は義経の六條室町邸に集められ、八條河原に向った。大夫判官仲頼らがこれを受け取ってそれぞれ長鉾の先に付け、名を記した赤札を付けて獄門の樹に懸け、見物する者が市をなした、と。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月15日】.
範頼と義経の飛脚が鎌倉に到着し合戦の報告を提出。去る7日一ノ谷合戦で平家の多くが命を落した。宗盛は船で四国に逃げ延びたが三位中将重衡を捕らえ、通盛・忠度・経俊・師盛・教経・敦盛・知章・業盛・盛俊を討ち取り1000余人を梟首した、と。 .
右:入り江の奥、州崎寺の佐藤継信慰霊墓 画像をクリック→ 拡大表示
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屋島の史跡は平家物語から推量した後付けの物が多いため著しく信頼性に欠けるし、実際に信じられるのは安徳天皇社・総門跡・瓜生が丘・六万寺など数ヶ所だろう。史跡地図を追って北西から並べてみた。
それぞれのスポットをクリックすると豊富な画像が閲覧できる。
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● 佐藤継信碑・・・彼を武士道の鑑と考えた初代高松藩主松平頼重が屋島寺遍路道に碑を建立した。
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● 安徳天皇社・・・一ノ谷から屋島に逃げた宗盛が安徳帝の仮御所として造営した行宮の跡と伝わる。
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● 菊王丸の墓・・・忠信に射殺された菊王丸の死を哀れんだ教経が亡骸をこの地に葬った。
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● 赤牛崎・・・敵陣に攻め込む源氏軍が浅瀬を確認するために数十頭の牛を川に追い込んだ場所。
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● 義経鞍掛け松・・・義経が軍を整え、外した鞍をこの松に掛けて休息したと伝わる。
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● 菜切り地蔵・・・合戦の間に弁慶が地蔵を俎板にして野菜を切って汁を作った。刀傷があるという。
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● 長刀泉・・・海辺が近いため水質が悪く、野営の際に弁慶が長刀で井戸を掘り清潔な水を得た。
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● 瓜生が丘・・・源氏が本陣を置いた場所。宇龍ヶ岡の別名がある。
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● 継信の墓・・・義経が建立した墓。菩提を弔った志度寺の覚阿上人に与えた大夫黒の墓が隣接する。
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● 総門跡・・・安徳帝が約1km東の六万寺を行在所にしていた頃に平家が設置した海辺の防御拠点。
● 射落畑・・・義経を庇って教経の矢を受けた佐藤継信が落馬し息を引き取った場所。
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● 六万寺・・・一ノ谷から逃れて来た平家が新たに安徳天皇の内裏を建造するまでの間、この寺を仮の行在所とした。
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● 義経弓流し跡・・・持っていた弓を海に落した義経が弓の弱さを敵に知られるのを恥じて拾い上げたという、有名なエピソードが残る。
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● 洲崎寺・・・源氏が合戦の負傷者を収容した寺で、継信の菩提寺でもある。継信の遺骸はこの寺の門板で本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれた。
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● 景清錣引・・・平家一の強豪悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が組み合い、景清が逃げる十郎の錣(首を覆う兜の裾)をら掴み素手で引きちぎった。
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● 祈り岩・・・命令を受けて扇の的に相対した那須与一は足場を定めてからこの岩に向い、八幡大菩薩の加護を祈った。
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● 駒立岩・・・那須与一が扇を射る時に海中のこの岩に馬を止めて足場を安定させたと伝わる。
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左:屋島の合戦 扇を射抜く那須与一 (平家物語絵巻) 画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の五 那須与一 】.
阿波と讃岐では源氏に寝返る武士が増えて義経勢は300騎ほどになった。日暮れ近付いたため両軍が兵を引いた所へ沖から小舟が漕ぎ寄せ、渚から七、八段(80mほど)まで漕ぎ寄せて横に向いた。
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船には18、9歳の着飾った女房が日の出を描いた扇を船の横板に挟んで手招きをしている。義経 が後藤実基に訊ねると「これを射て見せよ、との意味なのでしょう」と答えた。
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手練れは誰かと問うと、下野国の住人那須太郎資高の末子・与一宗高が適任と答えたため早速に呼び寄せて扇を射落とす命令を下した。与一は暫く躊躇った末に10mほど海に乗り入れ、神仏に祈った後に見事に射落とした。敵も味方も感動してどよめいた。 .
ここまでは兎も角...平家の舟では50歳ほどの鎧武者が白柄の薙刀を持って舞い始めた。与一の見事な弓射に感動したのだろうが義経はこれを侮辱と受け取lり、
伊勢三郎義盛 を介して「仕留めよ」と命じた。射られた武者は舟底に転げ落ちて絶命、一瞬の静寂を経て両軍の乱戦を招いてしまう。
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那須与一(妻は
新田義重 の娘)が父の資隆から那須氏の二代当主を継承して同名の資隆を名乗り、「飛び立った山鳥を三回に二回は射止める」ほどの弓の名手として名を馳せたのは事実らしいのだが、吾妻鏡には与一の名が一言も載っていないのが面白い。
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10人の兄のうち十男の為隆を除く9人は平家に味方し、残った為隆も罪人になったため十一男ながら家督を継承した、と伝わる。源平合戦の勲功によって五ヶ国に領地(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)を得た。そして逃亡していた兄の赦免を願い所領を分与して一族を繁栄に導いたと伝わるが、この勲功が扇の的を射落とした事と関係があるか否かも確認できない。70mの距離で20cmほどの的を一発で射抜くのが和弓で可能か、或いは平家物語の創作なのか、それも含めて、与一と扇の的に関しては余りにも疑問が多すぎる。
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右:一族を守護する那須神社と、大田原市福原の玄性寺 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓).
曹洞宗・須峯山玄性寺(
地図)は那須一族の菩提寺で、棟梁は初代の資隆から末子の
那須与一(宗隆・後に父と同名の資隆に改名)が継承した。兄の全員が平家に味方して失脚したためで、与一は子がないまま出家し兄(五男)の資之が三代目を継承した。更に資之の息子は既に他家の養子に入っていたため後継者がなく、資之は
宇都宮朝綱 の二男頼資を養子に迎え娘と娶わせて家を継がせていた。
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資之は京都東山の
即成院(公式サイト)に葬られていた与一の遺骨を分骨して功照院を建立したが永正十一年(1514)に廃寺となり、天正十八年に那須藩主となった那須資景が玄性寺の名で再建した。資景は早世した息子資重の法名・玄性を転用したらしい。
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与一の墓は玄性寺と即成院の他に所領の備中荏原荘(井原市西江原町)や病死の地とされる神戸市須磨区の北向八幡宮(与一の守護神)西側にも残る。有名人の常か(笑)。
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その後の平家物語は、的を掲げた船で舞い始めた武者(与一の腕前を賞賛した)を与一が射殺したり、上陸した平家の豪傑
悪七兵衛景清 と美尾屋十郎の組み打ちや源氏騎馬武者の攻撃や
義経 の弓流しの描写などが続く。これは全てフィクションと考えて良い。
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やがて平家の軍船は沖に去り、不眠不休の三日を過ごした源氏の兵も8mほどの高みに設けた本陣
※に引き上げて休息した。昨日は阿波上陸の直後に勝浦で合戦して夜通しの行軍を続け、今日もまた一日中の合戦で疲れ切っていた
※。義経と伊勢義盛の二人は徹夜で警戒していたが、平家軍が夜討ちを決行したら源氏の惨敗となったのに、平家の越中次郎兵衛
※と海老次郎が先陣争いをしている間に夜明けとなって勝機を失ってしまった、と書いている。
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左:参考に、安徳帝の一時的な行在所となった六萬寺 画像をクリック→ 拡大表示
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一ノ谷で敗れて屋島に落ち延びた
宗盛 は直ちに内裏の建設に着手しただろうから、
安徳天皇 母子と女官たちが三種の神器と共に
六萬寺(公式サイト)で暮したのは数ヶ月程度に過ぎない。天平二年(730)に聖武天皇の意向を受けて讃岐国主が建立した古刹にもかかわらず長く無住が続いて荒廃していた寺で、収蔵する寺宝の大部分は
香川県立ミュージアム(公式サイト)に寄託している。
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こうして屋島での源平合戦は幕を閉じ、平家は内裏を捨てて船に乗り海上に逃れた。義経の奇襲を受けた割には死傷者も少なく、主力の水軍もまだ温存されている。歴史に「もしも」は無意味だけれど、渡辺津から遅れて出航した源氏の軍船200艘が連携していたら逃げ場のない平家軍は壇ノ浦以前に滅亡した可能性が高い。
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吾妻鏡は
「7日後の22日に 梶原景時 ら東国の兵が140艘で屋嶋の磯に到着」と書き、平家物語は
「後続の200艘が屋島の磯に到着したのは22日辰の刻(朝8時前後)、今ごろ到着して何の役に立つか、と嘲笑を受けた」と書いている。
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※源氏の本陣: 小規模な衝突があった渚から約1km東の瓜生が丘(
地図)と推定されている。標高は4~5mほど。
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※越中次郎兵衛: 一ノ谷で猪俣範綱に騙し討ちされた平盛俊の次男盛嗣。父と同じく平家に忠節を尽し、水島合戦では
木曽義仲軍に加わった足利義清 (
足利義兼 の異母兄) を
討つなど各地を転戦、壇ノ浦合戦を逃れ9年後の建久五年(1194)に捕縛され由比ガ浜で斬首となった。
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※記述の信憑性: 朝6時に阿波椿浦に上陸、地元の平家側豪族と小競り合いした後に50km北上して敵将桜庭介良遠の館を落した。
それから徹夜で行軍し、翌朝8時に良遠館から120km西の屋島南側に布陣した事になる。数度の合戦をしながら約26時間で170km離れた屋島に着き本格的な合戦...物理的に無理だと思うけど。
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右:続く志度合戦の舞台となった補陀洛山清浄光院志度寺 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月21日 】.
平家の残兵が讃岐国の志度寺(公式サイト・地図)に籠ったため義経は80騎で攻撃、田内左衛門尉は降伏した。また 河野通信 が軍船30艘を整えて軍陣に加わった。熊野別当の 湛増が源氏に加わるため出航との噂が京に届いたため、義経は(打ち合わせのため)阿波国に移動した。
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【 平家物語 第十一巻の七 志度合戦 】.
屋島の沖に停泊した平家の軍船は夜明けと共に東側の志度浦へと船を進めた。九郎義経 の率いる80余騎が陸上を追尾しているのを見た平家軍は源氏の兵が思ったよりも少ないと知って1000人ほどが上陸し取り囲んで討ち取ろうと考えた。そこへ屋島に残っていた200余騎が遅れて駆け付けたため、大軍が合流すると勘違いした平家軍は包囲されるのを恐れて全員が船に戻った。こうして平家の一行が風に揺られ潮に流されて西(彦島・壇ノ浦の方向)に漂っていくのは何とも哀れである。 .
義経は志度寺で首実検を済ませ、
伊勢義盛 を使者として派遣し、伊予遠征から帰還した平家方の田口左衛門教能に
「安徳帝は海上に逃げ宗盛は捕虜、主な将士は全て討ち取った。あなたの叔父桜間の介は桂浦で討ち取り、父の阿波民部重能も降伏して身柄を確保している。これ以上の抵抗は無意味だから降伏するべき」と騙して手勢3000騎と共に降伏させた。平家累代の臣である阿波民部重能が平家を見捨て、壇ノ浦合戦で300艘の軍船と共に源氏に寝返ったのは息子の教能を義経が確保していたのが伏線だった、と伝わっている。
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志度寺は四国八十八ヶ所霊場の86番、推古天皇三十三年(625)創建の四国でも屈指の古刹である。
海人族(wiki)の凡園子が霊木を刻んで十一面観音像を彫り修行の場としたのが最初で、藤原鎌足の息子不比等が妻の墓を建立し志度道場とした。
平賀源内(wiki)が産まれた地としても名高い。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月29日 】.
加藤景員入道 が御所に参上、一通の書状を御前に置き涙を流した。息子の 景廉が範頼に従って九州に転戦している。先月周防国から舟で豊後国に渡る際には病に耐えて従った、と伝えてきたのがこの書状である。主君のため戦場で死の危険に耐え、今また病に侵されて命を落とそうとしている。もう逢えないかと思うと老いた自分には生きる甲斐がない、と。頼朝も涙を拭いながら書状に目を通し、「側近として私の近くに控えるよう厳命したのに天下の大事だからと従軍した。例え病気で命を落としても戦った末の討死として扱おう。」と語った。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月8日 】.
西国から 義経 の飛脚が到着して曰く。先月17日に僅か150騎を率いて暴風の中を渡辺津から船出して翌日卯の刻に阿波国に着き合戦を遂げた。平家の兵は討死あるいは逃亡し、義経は19日に屋嶋に向かった。使者はその結果を待たずに出発したが、播磨国(兵庫県)まで来て振り返ると屋嶋の方角で黒煙が空を覆っていたので、合戦が終り内裏などが焼き払われたに違いない、と。
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左:西側の高松港から見た屋島の全景 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月9日 】.
範頼 が西海からの書状で報告。平家の拠点が近いため警戒しながら豊後国に着くと住民が悉く離散して兵糧が確保できず、和田義盛 兄弟 ・大多和義久 ・ 工藤祐経 らが関東へ帰ろうとするのを無理に制して共に海を渡った。
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再度命令を徹底させて欲しい。また熊野別当 湛増 が九郎義経に誘われ追討使に加わって讃岐国に入り、今また九州へ向うとの情報がある。四国は義経で九州は範頼が指揮する筈なのに、これでは面目を失い恥辱を受ける事になる、と。 .
一ノ谷合戦で敗れた後に平家は軍勢を二つに分け、棟梁の
宗盛 が
安徳天皇 を擁して屋島に防御の柵を構えた。弟の
知盛 は長門国(山口県西部)最南端の彦島を拠点に関門海峡を固め、範頼軍の侵攻を阻止していた。指導者としての資質に欠けた宗盛ではなく知盛が指揮官だったら平家の運命も...とも思うが、義仲に都を追われた時点で滅亡への道を歩み始めていたのだろう。
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ともあれ、屋島を放棄した宗盛は残った水軍を再編成し、安徳天皇と三種の神器を奉じて彦島の知盛軍に合流した。一方の義経軍は
河野通信 率いる伊予水軍を傘下に収め戦力を強化して彦島を目指し、範頼軍は補給の不足に苦しみながらも九州の東部一帯を確保して平家の退路を遮断した。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月11日 】.
頼朝 が 範頼 への返書を発送。湛増が九州に向かう事実はない旨を記載して、関東の御家人を労わり配慮せよと命じた。千葉常胤 は老骨に鞭打って遠征に耐えているのは殊勝だから特に配慮せよ、常胤には生涯を掛けて報いるほどの恩義がある、と。
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また 北條義時・小山朝政 と 宗政・中原親能 ・ 葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂 ・ 天野遠景・仁田忠常・比企朝宗 と 能員 の12人には特に慇懃に労う書状を送った。それぞれが西海で功績を挙げているためである。心を合わせて豊後国に渡ったのは立派であり、伊豆と駿河などの御家人も皆この趣旨を理解するように、と。
右:厳島神社を含む島全体が神域とされる安芸の宮島 画像をクリック→ 拡大表示
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讃岐国屋島と長門国彦島の距離は海路で約400km、ほぼ中間の宮島に
厳島神社(公式サイト)がある。
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創建は明日香に都があった時代の推古天皇元年(593)、仁安三年(1168)には
清盛 が社殿を造営して現在の規模と概ね同程度に整備した。宮島全体が神域とされる、平家一門の守護神社である。
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平家が滅びた後も源氏を含む権力者の崇敬を受けたが、建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度に亘って焼失した。現在残っている社殿は清盛が整備した時代ではなく鎌倉時代中期の仁治年間(1240~1243)以後に建立されたもの。
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宗盛 の軍船は彦島(
地図)の
知盛 軍と合流するルートを辿っており、玉葉も
「屋島を逃れた宗盛一行の船が厳島に入った」 と書いているから、厳島神社で一門の復権を祈願したのだろう。伊予水軍と熊野水軍の影と山陽道を占領している源氏軍の姿に怯えながらの逃避行で、繁栄の頂点を極めた10年前には想像も出来なかった姿は何とも哀れ、ではある。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月12日 】.
平家討伐軍補給のため伊豆の鯉名(小稲・地図)と妻良(地図) の船32艘に兵糧米を積み込んだ※。
頼朝 から至急に出航せよとの命令を受けた藤原俊兼(筑後権守、初期の頼朝祐筆)がこれを奉行した。 .
※西国の補給: 以前から
範頼 軍の窮状を把握していたのに、壇ノ浦決戦の10日前に補給船の出航とは如何にも遅い。当時の航海技術では早くても一ヶ月、兵は空腹のまま
殺し合う。平家の滅亡は確定的で、既に頼朝の関心は
義経 の処遇と
勝長寿院(別窓、元暦元年(1184)11月着工、翌五年10月竣工)の建立にあった。権力確立に伴って不遇の時代を忘れ他者への配慮を忘れるのは世の常か。
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【 玉葉 元暦二年(1185) 3月16日 】.
伝わる処に拠れば、讃岐国に留まっていた平家は九郎義経の襲撃を受け、戦わずに撤退して安芸国厳島に入った。総勢は僅かに100艘ほど、(屋島で敗れたにも拘らず)神鏡と劔璽※は都に戻っていないため、近日中に(無事に戻るよう)祈祷が行われる。
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※神鏡と劔璽: 神話の
天孫降臨 (wiki) 時代から天皇家の継承と伝わる三種の神器である。八咫鏡 (神鏡) 、天叢雲剣と八尺瓊勾玉 (二つで劔璽) で、即位の際に引き継ぐ事が
正統を証する要件となる。従って退位していない
安徳天皇 と神器が都にない状態で
後白河法皇 が強引に着位させた
後鳥羽天皇 は正しい手順を経ておらず、万世一系とは言えない。どのみち天叢雲剣は壇ノ浦で失われてしまうのだけれど、それ以上に後鳥羽には「正当な手順を踏まずに着位した帝」のトラウマを抱えたままの後半生になる。
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後日の話。後鳥羽上皇が抱いていた正統性についてのコンプレックスが権威の強化を急ぐ願望を招き、結果として承久の乱(1221)を引き起こすに至った、と考える説がある。これは、有り得るだろうね。特に官軍が崩壊した際には部下を見捨てて助命を願った癖に、処分が隠岐島流罪に決まった途端に元気を取り戻して、
我こそは 新じまもりよ 沖の海の あらき浪かぜ 心してふけ と詠んでいる。
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「新じま守」は新しい島の神、「沖の海」は隠岐の海を差す。軽薄で愚かな帝だが、「波と風よ、新しい島守を優しく迎えてくれ」と哀願する歌、と考える説もある。いずれにしろ鎌倉時代前後では
後白河 ・
後鳥羽 ・
後醍醐 が歴史に汚点を刻んだ帝、だ。だろう。
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左:「壇ノ浦古戦場跡」から関門橋を。左側は門司市 画像をクリック→ 拡大表示
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【 玉葉 元暦二年(1185) 3月17日 】.
伝わる処に拠れば、平家は備前小島(児島半島沖・地図)あるいは伊予五々島(松山市沖・地図) に留まっていると。九州勢300艘が合流したとも言うが真偽は不明である。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月21日 】.
九郎義経 は平家を攻めるため壇ノ浦に出発しようとしたが雨のため延期した。周防国の在庁官人で舟船奉行の船所五郎正利が数十艘を提供し、義経は所領を安堵し鎌倉御家人に列すると指示した。
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平家物語に拠れば
「3月27日の卯の刻(朝6時前後)に豊前国田ノ浦(田野浦沖)・門司の関・長門国壇ノ浦赤間関で矢合せ (開戦)」と定めた。源氏の軍船は3000余艘で平家は1000余艘、増え続ける源氏の兵力に対して平家の勢いは衰退が止まらなかった。
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一方で源氏の軍陣では九郎義経と
梶原景時 が先陣を巡って激しい口論を交わし、双方の郎党が太刀に手を掛けて睨み合って
三浦義澄 と
土肥實平 が制止しなければ斬り合いも辞さない有様に発展した。この時から二人の関係は更に悪化し、後に景時が頼朝に讒言を繰り返す状態になり、義経が失脚・殺害される結果を招いた。」と書いている。
吾妻鏡に拠れば、矢合せは3月24日である。
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【 平家物語 第十一巻の八 壇ノ浦合戦 】.
屋島で勝った義経は周防(山口県東部)に進出して兄の 三河守範頼と合流した。平家は長門国の彦島に本陣を置き、源氏は同国の追津(満珠島)に布陣した。また平家に重恩を受けた熊野別当の 湛増 は平家と源氏のどちらに味方するか迷った末に熊野新宮に七日間参籠し、「白旗に従え」との神託を得た。更に迷って神前で白い鶏と赤い鶏各七羽を戦わせると全て白い鶏が勝ち、源氏に味方しようと決めた。湛増は200余艘の軍船に一門2000余人を載せて壇ノ浦に漕ぎ寄せ、更に伊予国の 河野通信 も150艘に兵を乗せて源氏側に味方したため、平家の落胆は激しかった。 .
2月21日の志度合戦から3月中旬までの義経の動向は記録にないが、平家側豪族の切り崩しを図っていたらしく、周防の大内盛房(周防権介、本拠は防府市)と長門の厚東武光(長門守護、本拠は棚井(宇部市))などが立場を「平家軍に参加する」から「源氏を消極的に支援する」に変えている。
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加えて四国随一の平家郎党・阿波民部大夫重能も(志度合戦で捕虜になった息子の影響で)軍船300艘と共に源氏に寝返っており
※、趨勢は明らかに源氏優位に展開していた。平家は軍船を田野浦の沖に、源氏は約5km北東の千珠島と萬珠島の付近に集めて定刻に矢戦を交わし、 (公称で) 軍船1,300艘+軍兵10.000人が狭い海峡で殺し合う。
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※民部重能の裏切り: 平家物語に拠れば、重能の態度を怪しんだ
知盛 が斬ろうとしたが、
宗盛 は彼を信じて斬るのを許さなかった、と書いている。
重能の大型軍船(唐船)に雑人を乗せて高位の武者を装い、これを狙って集まった源氏の武者を取り囲んで討ち取る作戦を立てていたのだが、重能の裏切りによって計画が漏れてしまった、助命を悔やんでも取り返せないことである。
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右:源平合戦の舞台となった彦島から満珠島まで 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月22日 】.
義経 は数十艘を従えて壇ノ浦を目指し出航。昨日から全船を調べて軍兵の配置などを確認した。
これを聞いた 三浦義澄 は駐屯していた大島津※から義経の本隊に合流、義経は門司海峡を通った経験のある義澄に案内を務めよと命じ、壇ノ浦の奥津付近(平家の陣から約3km)に進出した。
これを確認した平家は彦島※を出航して赤間関を過ぎ、田ノ浦の沖に船を進めた。 .
※大島津: 山口県大島町小松の港で源氏が集結した萬珠島の東約80km。
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※彦島: 瀬戸内の制海権を握って宋との交易を進めた
清盛 が西の拠点とし、
知盛 も一門最後の拠点にした。源平時代の史跡は
ほぼ皆無で、僅かに合戦前に砦を築いたと伝わる場所や知盛が父のために建てたと伝わる
清盛塚
(関連サイト・
地図)が残る。車両は不可。
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平家の大将軍知盛は軍船を三つに分けて山鹿勢500艘を先陣に、松浦勢300艘を中堅に、
安徳天皇や平家一門の非戦闘員を載せた200艘を後詰めとして田野浦から源氏の船団に迫った。平家物語は開戦を卯の刻(朝6時前後)、「玉葉」は
「午の正刻(正午)に始まり申の刻(16時前後)に終った」とする。
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一般的には「東に流れる潮に乗った平家の軍船が攻め掛かり、やがて潮流が西向きに変ったため源氏が有利になった
※」としているが、元暦二年3月27日(西暦の4月28日)は小潮で、正午から16時の潮流は0.2~0.6ノット(1ノットの時速は約1.8km)、多数の舟による乱戦に影響するレベルではない。
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そもそも潮流の向きなどに関係なく、主な敗因は阿波民部大夫らの裏切りによる戦力の差と戦闘意欲の差、そして女子供を含む非戦闘員を戦場に帯同した平家軍の機動力欠如、などだろう。平家の中でも歴戦の武者は既に死を覚悟して合戦に臨んでいた、そんな様子も見て取れる。特に一ノ谷で多くの侍大将クラスを失ったのが致命的だ。
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※潮流影響説: 大正八年(1919)に東大の黒板勝美教授が独自の研究に基づき「早い潮流が源氏有利に働いた」とする説を発表したのが最初。
現代ではコンピュータを活用した計算により「当日は流速の遅い小潮説」が主流になっているらしい。
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左:長府漁港に近い豊功神社から見る千珠島と萬珠島 画像をクリック→ 拡大表示
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やがて潮が変わって西向きに流れ、戦いの修羅場は田野浦から壇ノ浦へと移り始めた。一説には「平家側の漕ぎ手に矢を浴びせた
※」
義経 の作戦勝ちとされるが、真偽を裏付ける資料は存在しない。周防と豊後の海岸を源氏に制圧されている平家軍は劣勢になっても陸に逃げられず、絶望的な抵抗を続けるのみ。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月24日 】.
長門国赤間関の壇ノ浦海上の約300mを隔てて源平が相対した。平家は500余艘を三手に分け山峨兵籐次秀遠※と松浦党※らを大将軍にして開戦、午刻(正午前後)になって平家の敗色が濃くなった。
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藤重の御衣を纏った 二品禅尼(清盛室・時子)は宝劔(天叢雲剣)を持ち、女官の按察局は安徳帝(八歳)を抱いて入水し海底に沈んだ。入水した 建礼門院(安徳帝の生母・清盛の娘徳子)と按察局は渡辺党の源五馬允が熊手で救い上げたが、安徳帝と二品禅尼はついに浮かび上がらなかった。 .
若宮(土御門天皇の異母兄)は存命、前中納言
教盛 は入水、前参議経盛は成仏を願い陸で出家後に船に戻り入水、三位中将資盛と前少将有盛も海に没した。
宗盛
と清宗親子は
伊勢三郎能盛が捕えた。
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※漕ぎ手を射る: 当時の合戦では馬や非戦闘員を故意に狙うのは卑劣で恥とされた。確かに義経なら躊躇せず採用しそうな戦法だけど...。
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※山峨秀遠: 一般的には「山鹿」を用いている。筑前国遠賀郡(福岡県北東部)を支配していた武士で平家物語は「九州一の精兵」としている。
義仲に追われて都落ちした平家一門も一時期は山鹿城(
地図)に入り、周辺の情勢が落ち着かないため再び海に逃れている。
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※松浦党: 摂津源氏一族として
頼政に従った渡辺党から分れ、肥前松浦(長崎県松浦郡)に勢力を広げた一族。元は平家の郎党だったが、壇ノ浦では多くが源氏に味方して
功績を挙げ、一部が平家に加わったらしい。戦後は鎌倉御家人とて遇されたが深い信頼は受けられず、頼朝が送り込んだ少弐氏・島津氏・大友氏らの支配下に組み込まれた。鎌倉時代末期の元寇では蒙古軍に蹂躙され最も多くの犠牲を出した一族、と伝わる。
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【 平家物語 第十一巻の十 先帝身投げ 】 もう狂気の世界...安徳天皇まで殺す必要はなかったのに。
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勝敗が明らかになるにつれて源氏の兵士が平家の軍船に乗り込み漕ぎ手を殺したため船は潮のまま流されるようになった。知盛 は小舟を御座船に漕ぎ寄せて「合戦は終わろうとしています、見苦しい物は海に投げ込みなさい」と命じて自分でも片付け始めた。女房たちが合戦の様子を尋ねると「まもなく珍しい東男を見ることになるでしょう」と笑って答えたため女房らは嘆き騒いだ。
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既に覚悟を決めた 二位尼時子 は神璽を脇に挟んで宝剣を腰に差し 安徳帝 を抱いて「敵の手に落ちず帝のお供をします、同じ思いの者は続きなさい」と船端に歩いた。八歳の帝が「尼よ、私をどこへ連れて行くのか」と訊ねると落涙し「前世の善行で帝に産まれましたが悪縁が重なり御運が尽きました、東に向いて伊勢神宮にお暇してから西に向いて西方浄土のお迎えを願ってお念仏を。」と語り掛け、「波の底にも都がございます」と慰めて海に沈んだ。 .
右:壇ノ浦史跡公園 義経八艘飛びの銅像 画像をクリック→ 詳細ページへ
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【平家物語 第十一巻の十一 能登殿最期】.
女院 (建礼門院徳子) は帝の入水を見て硯や焼き石(暖房用)を懐に入れ海に身を投げた。渡辺源五右馬允昵が小舟を漕ぎ寄せ、髪を熊手に掛けて引き上げた。一緒にいた大納言典侍局(重衡 の妻で安徳帝の乳母)は内侍所(三種の神器の一つ・神鏡)の唐櫃を抱えて入水しようとしたが取り押さえられた。
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中納言 教盛 と修理太夫経盛の兄弟は手を組み合せ鎧の上から碇を背負って海に飛び込み、三位中将資盛と弟の中将有盛と従兄弟の左馬頭行盛も同様に飛び込んだ。
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右大臣宗盛 と嫡子の右衛門督清宗は入水する様子も見せず、船縁で周囲を見回すだけだった。平家の武士は情けなく思って背後を走り抜けざま海に突き落とし、清宗も続いたのだが二人とも泳ぎの名手、泳ぎ回っているうちに 伊勢三郎義盛 が熊手に掛けて引き上げた。これを見た乳母子の飛騨三郎景経が義盛を討とうと近付き近習の童を殺したが逆に討ち取られてしまった。この無惨な有様を見た臆病な宗盛は何を思ったか。 .
※名簿、他: 資盛と有盛は
重盛 の息子、行盛は重盛の弟で早世した基盛の息子。渡辺源五昵は渡辺党、この一族は一条戻り橋(
地図、
晴明神社の近く)で鬼の腕を斬り落した綱や宇治川で
頼政 を介錯した唱など、一字の名前が特徴だ。
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渡辺昵が建礼門院徳子を救い上げたと書いた平家物語は 「灌頂 巻四 六道之沙汰」 では、大原の庵を訪ねた法皇と面談した徳子は次の様に語っている。
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壇ノ浦で二位尼は次のように言い残しました。「縁者が生き残っても私の後生を弔うとも思えない。合戦では女を殺さない決まりだから貴女は生き延びて
安徳帝と私たちの後生を弔うように」、と。
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「先帝身投げ」が正しいのか、「六道之沙汰」」が正しいのかは不明だが、「六道之沙汰」は「死に切れなかった言い訳」に聞こえるね。二位尼がそんな言葉を残せるほど冷静だったら、安徳帝を道連れに入水などしなかっただろうが、壇ノ浦の建礼門院を揶揄する傾向は昔からあったらしい。明治維新以前には「不敬罪」なんて誰も考えなかったからね。代表的なのは
壇ノ浦夜合戦記、古典春本の一つで 「頼山陽の著」というのは嘘らしいが、興味のある方はどうぞ。
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壇ノ浦史跡公園の銅像は組み討ちを迫る平家の猛者
教経 から逃げる
義経 の姿を模しているが、吾妻鏡は「教経は一ノ谷で討死」と記録し、都大路を引き回した平家の首級リストにも加筆されている。義経は小柄だが五条大橋で
鬼の弁慶 を翻弄するほど敏捷、次々と近くの舟に飛び移って教経を振り切った...屋島の「弓流し」挿話と同じく軍記物語の筆は留まるところを知らない。
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能登守教経は今日を限りと奮戦を続け多くの武者を倒した。矢が尽きると両手に黒漆の大太刀と白柄の長刀を持って敵兵をなぎ倒し続けた。知盛が使者を送って「罪作りをなさるな、それとも良き敵にでも出会ったか」と訊ねたため「雑兵を殺さず大将と組み合えという意味だな」と散々に探し回り、遂に九郎義経の船を見付けて接近した。すぐに飛び掛かったが、義経は敵わないと思ったのか長刀を抱えて二丈(6m)ほど離れた味方の船に飛び移った。
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無念これまでかと思った教経は太刀と長刀を海に投げ、兜や鎧の袖も捨てて仁王立ちになり「我と思わん者は組め、鎌倉の 頼朝 に言う事がある」と叫んだ。余りの強さに誰も近付かなかったが、土佐の住人で安芸郷を領有する安芸実康の子・実光という剛勇の武士が弟と郎党の三人で飛び掛かった。教経はまず郎党を海に投げ込み、太郎実光を左脇に弟の次郎を右脇に抱えて「汝ら、死出の旅路の供をせよ」と海に飛び込んだ。生年26歳である。
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左:壇ノ浦史跡公園 歌舞伎が描いた碇知盛の像 画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の十二 内侍所都入 】 内侍所は神鏡を置く場所、転じて神鏡を差す。
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中納言知盛 は「見るべき程のことは見た、今はただ自害を」と乳母子の伊賀平内左衛門を呼び、話し合っていた通り互いに二領の鎧を着け共に入水した。死骸を晒さない武者の心得である。
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知盛に従っていた20人の武者も続いて入水し、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛らは戦場を離れて落ち延びた。海には平家の赤旗などが散乱して嵐が吹き散らした紅葉のように見え、浜の白波まで薄紅色に染染まっている。乗り手を失った舟は潮と風に流され漂う様が何とも哀れである。
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捕虜となったのは内大臣 宗盛 と清宗と8歳になる能宗(兵部少輔雅明)の親子、大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐中将時実、僧侶は二位僧都專親、法勝寺執行能園、中能言律師忠快、経誦坊阿闍梨融園、武者は源太夫判官季貞、摂津判官盛澄、藤内左衛門尉信康、橘内左衛門尉季康、阿波民部重能父子ら38人、他に菊池次郎高直、原田太夫種直は合戦の前に武装を解いて降伏していた。捕らえられた女房は女院(建礼門院)、北の政所※・大納言典侍殿、師典侍殿、冶部卿局ら43人だった。 .
4月3日、九郎義経 は 源八広綱 を通じて院の御所に「去る3月24日卯の刻に豊前国の田ノ浦・門司関・長門国・壇ノ浦赤間が関で平家を滅ぼしました。内侍所と神璽を恙無く都にお戻しします」と報告した。後白河法皇 はとても喜び、広綱を近くに召して合戦の様子を詳しく尋ね、感激して広綱を左兵衛に任じた。更に5日には内侍所と神璽を確認させるため判官信盛に院の馬を与えて西国に派遣した。
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義経は捕虜の男女を引き連れて都を目指し、17日には播磨国明石に着いた。女房たちが「都落ちの際にここを通った時はこんな境遇になろうとは夢にも思わなかった」と嘆き、九郎義経は勇猛な武士ではあるが女房の嘆く姿を見るのは何とも哀れに思われた。
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25日に内侍所と神璽が鳥羽に着き、内裏から中納言吉田経房、検非違使別当左衛門督実家、高倉宰相中将泰通、伊豆蔵人大夫源頼兼
、左衛門尉源有綱 らが迎えに出向き、子刻に太政官庁舎に運び入れた。宝剣は 安徳天皇 と共に沈んだが、海に浮かんだ神璽は片岡太郎経春が拾い上げていた。
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※北の政所: 清盛の六女完子(寛子)。摂関家
近衛基通 の正室となったが基通は平家都落ちに同行を拒み、後白河法皇の元に逃げていた。
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右:安徳天皇と平家一門の墓所 赤間神宮 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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赤間神宮(公式サイト)の由来に着いては諸説あり曖昧な部分も多いのだが、伝承に拠れば貞観元年(859)創建の浄土宗阿弥陀寺が原型らしい。敷地には宇佐八幡宮を勧請した神社も建ち、壇ノ浦合戦後に
安徳天皇 の遺体を紅石山の麓(赤間神宮の裏山)に葬っていた、という(遺体は発見できていないけどね)。
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建久二年(1191)12月14日に
後鳥羽天皇 の勅命を受けて陵墓の場所に御影堂
※を建立し、
建礼門院 の乳母を務めた女の娘が剃髪して命阿尼を名乗って堂を守ったと伝わる。
その後は福原に残っていた安徳帝の十一面観音像、建礼門院の弥陀三尊、
清盛 の弥陀三尊、
重盛 の釈迦像などの持仏を遷して祀り勅願寺として大いに繁栄、江戸時代には真言宗に改め長府藩の扶持を受けて近隣随一の巨刹となった。
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※御影堂: 寺を開いた人物や宗派の祖などの姿を祀る堂。本願寺の
親鸞 、知恩院の
法然 などが著名。
日蓮宗では祖師堂と称している。
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明治の神仏分離令を受けて阿弥陀寺は廃寺となったが、御影堂解体の際に床下に埋もれていた五輪塔が確認され、これが明治二十二年(1889)の「擬陵」(正式な御陵に順ずる意味か)認定の根拠となったらしい。このときに阿弥陀寺は「天皇社」となり、更に明治八年(1875)10月になって「赤間宮」に改称、昭和十五年(1940)には「赤間神宮」に改称して現在に至るという、いろいろ複雑な歴史を辿っている。
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折に触れ全く個人的に考えるのは、平家は(少なくとも
知盛 は)彦島を出航する時点で滅亡を覚悟していた、と思う。安徳帝や女房を彦島に残せば機動性も増すし非戦闘員を危険に晒す心配もない。運良く勝利すれば凱旋できるし、全滅しても彦島に残った非戦闘員が殺戮に会う危惧はない...にも拘わらず、そうしなかった。
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壇ノ浦合戦は覚悟の滅亡だったのか、四面楚歌にも拘らず勝利を幻想していたのか、それとも狂気の為せる結果か。平家物語は
二位尼時子 と
安徳天皇 の入水を恰も「滅びの美学」のように描いているが、幼い安徳帝と神器(その権威に関する議論は別として)を道連れにするのはまさに狂気の果て、だろう。
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左:平家の捕虜は小八葉の車で都大路の引き廻しへ。 画像をクリック→ 拡大表示
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【 平家物語 第十一巻の十四 一門大路渡 】.
平家に捕われ壇ノ浦で救出された守貞親王(高倉天皇の第二子で後の後高倉院)が迎えの車で都に戻った。嘆いていた生母の七條院藤原殖子や乳母の持明院宰相は大層な喜びようだった。
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平家の捕虜は26日に鳥羽に着き、その日に都大路を引き廻しとなった。前後の簾を巻き上げ左右の物見(窓)も開け放った小八葉の車※である。
宗盛 は白色無紋の浄衣で潮風のためか痩せて顔色が悪く、誰も判別できない有様で四方を見渡し、物思いに耽る感じはなかった。息子の清宗は白い直垂を着て次の車に乗り、涙を流し顔も上げられない程だった。
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大納言時忠 卿の車もそれに続いたが、同様に引き廻す筈の讃岐中将 時日 卿は病気で加わらず、負傷していた内蔵頭信基は間道から都に入った。
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都大路引き廻しを見ようと大勢の見物人が集まった。下賎の男女も代々平家の恩を受けながら命を惜しんで源氏に味方した者も涙を流し、袖を顔に当て目を上げられない人も多かった。後白河法皇 は六条東に車を停めて眺め、付き従う公卿も車を停めて同じように眺めた。引き廻されているのは近くに召し使っていた人々であり、昔日の繁栄を思うと法皇も哀れに思う心を止められなかった。
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壇ノ浦で捕虜になった20数人の武士は全員が白い直垂を着て鞍の前輪に縛られて通り過ぎた。六条大路を河原まで進み、そこから引き返して六条堀河の九郎義経の宿舎に拘禁され厳しい監視下に置かれた。宗盛は供された食事に箸をつけることも出来ず夜には衣服の片袖を敷いて休み、子息の清宗に浄衣の袖を着せ掛けた。今更どうにもならないのだが身分の上下に関係なく、せめてもの親心であろうか。
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※小八葉の車: 花弁が八つある「八葉蓮華」の紋を付けた牛車。大型の紋は上位の公卿が、小型紋を付けた「小八葉」には下級貴族が乗る習慣だった。
上の画像は平治物語絵巻に載っている小八葉の車。
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元暦二年(1185)5月6日、宗盛・清宗の親子を鎌倉に連行する旨の指示があり、宗盛が愛していた次男の能宗(幼名を副将丸、7歳か8歳)が斬られた。平家物語は刑場の六条河原へ向かう車を宗盛が涙で見送った、と書いている。
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産後7日で死没した母親が「決して手元から離さないで」と言い残し、宗盛が「将来朝敵を討伐する事があれば清宗を大将、この子を副将に」と願って副将丸と名付け乳母にも預けず育てた子。処刑後には乳母の一人が副将丸の首を、もう一人が亡骸を抱いて桂川に身を投げた、と平家物語は伝えている。
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主だった捕虜の処分・・・
大納言時忠は能登流罪、内蔵頭信基は備後流罪、讃岐中将時実は上総流罪、二位僧都專親は阿波流罪、法勝寺執行能園は備後流罪、中納言律師忠快は武蔵流罪、源太夫判官季貞は赦免、摂津判官盛澄は不明。翌7日、宗盛親子は九郎義経に連行され粟田口を経て鎌倉に向かった。
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能登の山奥に残る
伝・時忠卿の墓(別窓)、関連して富士宮に近い芝川の山裾に残る
伝・維盛の墓(別窓)も参考に。
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白拍子 静 に関するエピソードは、吾妻鏡の数ヶ所に載っている以外は全てが義経記(室町時代編纂)に書かれたもので、彼女が生きた時代の史料(例えば、公卿の日記など)には存在の記録が皆無である。従って義経記と吾妻鏡を照合しながら伝承で隙間を埋める作業を強いられるので、かなり手間が掛かる。
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寿永二年(1183)10月に
後白河法皇 が
頼朝 の東国支配を認める宣旨
※を発行した。実質的に京を支配下に置いていた
木曽義仲 がこれに反発、義仲と頼朝の対立が決定的になった。頼朝は閏10月5日(太陽暦の11月28日)に大軍を率いて鎌倉を出陣するが京都の混乱状態を聞いて上洛を中止し、代官の
九郎義経 に兵を与え、
中原親能(京の事情に詳しい御家人・文官)を添えて義仲討伐を命じた。「玉葉」が11月初旬に伝え聞いた噂を載せている。
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頼朝は先月の5日に鎌倉を出発して京を目指し、その途中で 頼盛 と落ち合って3日間過ごし、京の食糧事情が悪いのを知って鎌倉に引き返した。代官として弟の九郎に五千騎を与えて京を目指すらしいが、これは未確認である。
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※東国支配を認める宣旨: 頼朝が征夷大将軍に任じたのが建久三年(1192)7月から「いい国作ろう」と覚えた鎌倉幕府の創設は、最近の教科書では後白河法皇に守護と
地頭の設置を認めさせた「いい箱作ろう」(1185年・文治元年)になっているらしい。それなら東国支配を認める宣旨が発せられた「いいはみ(笑)」(1183)の方が妥当だと思うが...考えてみればどうでも良い事なんだよ、ね。歴史を読む本質は日付なんかじゃないから。
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実際に義経が率いていた兵力は玉葉の記載より遥かに少なかったらしい。義経軍はすぐには都に入らず、2ヶ月ほど援軍を待って兵力を増強した。翌年1月末には鎌倉から到着した
範頼 の軍勢が合流して攻撃を開始、瀬田と宇治で寡兵となった義仲軍を撃破し、近江の粟津ヶ原で義仲を討ち果たした。
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寿永三年(1184)2月7日には福原(神戸市長田区と須磨区)に布陣した平家軍を一ノ谷合戦
※で撃破し、屋島(高松市)に敗走させた。平家一門は翌年2月19日の屋島合戦と2月21日の志度合戦を経て長門国彦島(下関市・
地図)に逃げ延びて本拠を置き、寿永四年(1185)3月24日の壇ノ浦で一族滅亡の時を迎えた。横暴だろうが腐敗だろうが、一門の滅亡は常に悲しみを伴う。
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※一ノ谷合戦の虚実: 合戦前日の2月6日、平家一門は清盛の三回忌法要を福原で営んだ。更に数日前には後白河法皇の勅使が平家の軍陣に到着、和平実現のためと称して
取り敢えずの停戦を命じ、平家側はこれを信じて警戒を緩めて結果的に侍大将クラスの多くを失う大敗を招いた。「武装解除に近い状態」と推測する説もあり、後白河が故意に流した虚偽情報と指摘する歴史家が多い。義経にはそれ程の悪智恵は働かないし鎌倉は遠すぎる、後白河の策謀だろう。
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宗盛は屋島から法皇に送った書状で 「休戦命令に従ったら奇襲されて多くの一門が殺された」 と抗議している。一ノ谷合戦後に後白河法皇が三種の神器返還を求めて平家側に派遣した使者が顔に焼印を捺されて追い返された(平家物語と山槐記の記述)のを考えると、宗盛の怒りが理解できる。
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左:義経が白拍子の静を見初めた神泉苑 画像をクリック→ 拡大表示
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一ノ谷合戦(1184年2月7日)と屋島合戦(1185年2月19日)の間には一年の膠着期間がある。
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平家が温存した水軍の主力に対して源氏側には水軍の備えが不足しており、屋島を攻めるには
河野通信 が率いる伊予水軍や熊野別当
湛増 が率いる熊野水軍を味方に引き込む準備期間が必要だった。義経は戦略の立案に秀でた側面も持っていたのが面白い。
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調略が成功して屋島攻撃に向かう一年前の寿永三年(1184)夏。長く日照りが続いたため、
後白河法皇 は神泉苑
※に百人の僧を集めて祈祷させたが効果がなく、次に百人の美しい白拍子の舞で降雨を祈った。
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99人が舞い終わるまで澄み切った空には何の変化も起きず、最後に
静女 が舞い始めた途端に黒雲が湧き起こり三日間も雨が続いた、と伝わる。後白河法皇は「かの者は神の子か?」と深く感嘆し、褒美として蛙蟆龍(あまりょう)
※の御衣を与えた。
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一説には後白河が与えた御衣で舞った、とも言われるが、いずれにしろ平家物語や義経記の記述だから鵜呑みにはできない。しかしその後の静の生き様を見ると「ひょっとすると...」なんて思えてくるから面白い。
静女は生まれながらに水を司る龍神と心を通わせる能力を持っていた娘なのかも知れない、なんてね。
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※神泉苑: 御所の南西、現在の二条城(慶長八年(1603)築)の東半分を含む禁苑(宮中の庭園)で平安遷都と同じ時期の延暦十三年(794)に完成している。
当時は南北500m×東西240m(
現在の地図)で主として宮廷の宴遊に利用され、天長元年(824)には西寺の守敏と東寺の
空海 が雨乞いを競って、空海が勝ったとされているが、これは後世の「弘法大師神話」らしい。東寺と西寺は祈雨を争うような存在ではないのだが西寺は天福元年 (1233) の火災で焼失して再建されず、東寺は密教の修行道場として隆盛を続け現在に至っている。それが「西寺が敗れて零落した」との説話になった、と。
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それは兎も角として、後白河が催した寿永三年の祈祷会はこの例に倣ったのだろう。敷地は狭くなったが神泉苑は今も真言宗寺院、南北100m×東西60mに広がる池と花が美しい京都の隠れた名所である。更に詳細は
公式サイト で。
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※蛙蟆龍の御衣: 古代中国の想像上の動物で雨を司る幼い龍、あるいは最下位の龍とも言う。後白河が与えた「蛙蟆龍の御衣」は後に利根川近くの寺で没した静の遺品として
茨城県古河市の光了寺に残っている。一度訪問して拝観を頼んだが、寺の都合で断られてしまった。
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いずれにしろ撮影禁止だから、参考として流域の名所旧跡を紹介した安政二年(1855)編纂の利根川図誌の画像を後段の「栗橋の項」に掲載した。
このまま読み進んでも良いし、
静の慰霊墓と遺品(別窓)を先読みしても問題ない。
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後白河法皇の求めで神泉苑の行事に参列した義経は白拍子・静(しず)の美しさが忘れられず、その夜に催した六条堀川館の宴に静を呼んだ。静の母は大和国磯野(大和高田市磯野)あるいは北白川あるいは讃岐国小磯(東かがわ市)出身の磯禅師。生業は同じ白拍子で、女たちの派遣業も営んでいたらしい(出典は
貴嶺問答(外部リンク)。一説には法皇の寵愛を受けた女性だとも言われるが、そこまで盛っちゃうと捏造っぽくなる。
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後白河法皇は有り余る金と暇に任せて
梁塵秘抄 (wiki) を編纂した程の趣味人だから、白拍子と縁が深かったのも事実だろう。27歳の義経と15歳の白拍子・静の物語は雪の吉野山で別れるまで僅かに三年間、歴史に残る恋物語のスタートである。
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右:六条堀河館 名水・左女牛井(さめがい)の跡 画像をクリック→ 拡大表示
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一ノ谷で平家に大損害を与えた源氏は深追いせずに撤退、
範頼 は鎌倉に凱旋し
義経 は京に駐屯して堀川館
※に本拠を置き、
頼朝 の指示通り検非違使として神社仏閣の保護と治安維持に専念した。
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半年後の9月には頼朝の仲介を受けて婚約していた
河越重頼 の娘・郷御前(京姫)を正室に迎えており、白拍子の静と出会ったのはその2~3ヶ月前だった、らしい。
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六条堀川館: 伝承に従えば、
頼義 がここに住んで東に若宮(左女牛八幡宮・
地図)を勧請したのが最初。
少し北側には頼義が前九年の役で殺した敵から切り取った片耳を乾燥させ、革籠に入れ持ち帰って埋葬した「耳能堂」があった(
古事談・wiki による)。これは現在の簑和堂(
地図)を差している、らしい。
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この館では
八幡太郎義家 が産まれも保元の乱では
為義 が、平治の乱では
義朝 がこの館から出陣した。頼朝の生誕地は熱田大宮司
藤原季範 の屋敷(京都)と
熱田神宮(別窓)に近い別邸の二説あって完全に確定はできないが、幼少期から平治の乱に出陣した14歳までは堀河館で暮らしていた。
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義朝が死んで河内源氏が衰退した25年後には再び河内源氏の
九郎義経 が住み、文治元年(1185)秋にはここで土佐坊昌俊率いる討手の襲撃を受けた。
ただし吾妻鏡は「六条室町邸」と書いており、堀河館とは別に室町邸があった可能性も捨てきれない。単純に考えると600mほど離れているのかなぁ...六条室町が襲撃されたのなら「堀河夜討ち」と呼ぶのは変だし。
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名水で名高い西隣の左女牛井(さめがい・
跡地の地図)が堀川館に引き込まれていたと伝わるから、堀河館は左女牛井から若宮周辺の一帯にあったのは間違いない。ちなみに、平家一門の本拠は清盛邸のあった六波羅、鴨川の東・五条から七条にかけてのエリア(
地図)。
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【 九郎義経の女性関係について 】.
義経記
※に拠れば、壇ノ浦で平家一門を滅ぼし都に凱旋して六条堀河館に住んだ頃の妻妾は何と24人で、
頼朝 の討手を避けて摂津国大物浦(現在の尼崎市)から出航した船には6人の女房(女官)と5人の白拍子が乗っていたとか、京から逃げる途中では脱落する女性の各々には金品を与え身の振り方まで助言した、とか書いてある。軍記物が盛っているのを割り引いても、かなり貞操観念が乏しくてマメな男だったのが想像できる。
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正妻の
河越重頼娘 郷御前、
平時忠の娘 蕨姫
※、白拍子の静。この三人は知られているが残りの詳細は判らない。義経を女性に好かれるタイプに描いた上に周囲に多くの女性を配したのは義経記による捏造の可能性が非常に高く、我々が先入観で描いているプロフィルそのものを疑う必要がある。出典は忘れたが「小男で反っ歯で薄毛」という評価もあったし...いや、モテ男に対する妬みとか、そういう気持ちじゃなくて、さ(笑)。
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義経に関する史料は非常に少なく、信頼に足る記録があるのは僅かに治承四年(1180)10月の黄瀬河参陣から元暦二年(1185)11月の京都脱出までの5年間に過ぎない。その史料に依拠する限り、無分別の謗りを免れない義経よりは誇り高い生き方を貫いた静に惹かれるのだが...。
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※義経記: 成立は義経の死から220年後の室町時代の初期。義経が誕生した平治の乱前後から奥州平泉の陥落までの活躍を描いている。
基本的には平家物語などをベースにしたフィクションで、読み物としては面白いが史料価値は低い。更には義経と
建礼門院徳子 の夜を無責任に描いた「壇ノ浦夜合戦記」(著者は頼山陽?塙保己一?)も派生している。興味がある向きは
こちら、もちろん(笑)外部サイトだよ。
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※平時忠: 清盛 の正室(後妻)
時子 の同母弟で文官。壇ノ浦から京に連行され、検非違使の義経に娘を嫁がせて何とか庇護を得ようと考えたらしい。能登配流の決定後も
流刑地への出立が遅れ、義経に対する頼朝の不信を助長する結果となった。蕨姫は流罪に同行しなかったと思われるが、その後の消息は不明。
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左:河越氏の本拠と重頼の墓所 養壽院 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 義経の正妻郷御前と彼女の係累について 】.
義経の正妻は郷御前(京に嫁したので京姫とも)。頼朝の仲介で以前から婚約し、義経と静が出会う少し前に嫁している。武蔵国の古参御家人
河越重頼の娘で、頼朝の乳母の一人
比企尼 の孫娘。嫁した当時は17歳、抜きん出た美女たった、と伝わっている。
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【 吾妻鏡 寿永三年(1184) 9月14日 】.
頼朝の意向で義経と婚約中の河越重頼息女が血縁の家臣2人・郎党30余人と上洛した。.
一方の義経は埼玉の田舎娘より都会の女の華やかで洗練された物腰に心惹かれ(「木綿のハンカチーフ」っぽい、良くあるパターン)、重頼息女が上洛したのは新暦の10月20日だから、まさに1~2ヶ月前に白拍子静を側室に迎えたことになる。当時は既に数人の側室を持ち、その他にも京の女性との関わりを深めていたと義経記は語っているから、女癖が悪いのに女運が良かった、実に不愉快な男である。
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郷御前との婚約が成立した際には「御家人の娘を娶らなくても公卿の娘が選べるだろうに」との声や「鎌倉が送り込むスパイじゃないか」と疑って彼女を警戒する意見があった。もちろん従者の中に鎌倉と通じる者がいた可能性はあるが郷御前に二心はなく、追われる立場になった義経が彼女を離縁して関東に帰そうとした時も別離を拒み、結局は義経や愛娘と共に平泉で落命する運命を受け入れた。彼女との婚姻は頼朝が送った「無条件に私に従え」のサインだったかも知れない,ね。
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父の河越重頼は寿永元年(1182)の
頼家誕生に際しては妻(
比企尼の次女)を乳母として勤めさせ、頼朝との縁を更に深めていた。伊豆に流されていた20年間、比企尼は三人の娘に命じて頼朝を庇護し生活を援助した。長女は
安達盛長、二女は河越重頼、三女は
伊東祐清 に嫁して家族全員が忠節を尽くし、更に長女と二女は頼家の乳母を務めている。
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それなのに、義経失脚後の河越重頼は文治元年(1185)11月に義経の縁者という理由で所領没収のうえ長男の重房と共に殺され、義経と同じく河越氏の娘婿のだった
下河邊政義 まで連座して所領を没収されている。
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吾妻鏡は
「河越重頼所領等被収公。是依爲義經縁者也。」(義経の縁者であるため所領を没収)としか書いていない。武蔵国の支配権が河越重頼の粛清を経て畠山氏に移り、元久二年(1205)の
畠山重忠 滅亡に伴って
北條義時 が武蔵守になった、その流れのベースかも知れない。或いは記録に載らない理由が他にあったか、それとも独裁者に芽生えた猜疑心が狂気に変り始めた兆候なのだろうか。
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川越市役所の駐車場は平日の短時間なら無料(窓口で駐車券にスタンプ)、休日は1時間200円の観光用となる。市の中心部には無料で利用できる駐車場は皆無に近い。裏技としては、市役所から600mほど東の
本丸御殿(博物館・本丸御殿・美術館・資料館・川越まつり会館の共通入館券=650円で終日駐車可)の駐車場(
地図)か、更に200m先のJA直売所
あぐれっしゅ川越 の駐車場(
地図・無料だけど買物をしよう)の利用を。
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川越の人気が高い割には余り面白い街ではないけれね(個人的感想)。 各スポットの地図は右記で。
養壽院
川越市役所 河越氏館跡 を参考に。
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奥州で
藤原秀衡 の庇護を受けていた頃の義経が最初に結婚して産まれた娘(年齢が符合しないため養女と思われる)の婿となった源有綱も、吉野山で義経と別れた後に
北條時定 の兵に追われ宇陀で自害に追い込まれた。有綱は
源三位頼政 の孫(
伊豆守仲綱 の二男)であり、頼朝挙兵当初から参戦して平家追討にも功績のあった武士だが、頼朝は義経と縁があった者を誰一人見逃がさない。平家一門は同族を引き立て地位を独占した末に滅び、頼朝は同族を次々に殺して三代で滅びる...なんという空しい結末だろう。
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右:八幡宮上棟 ここでの教訓を生かせなかった義経の迂闊 画像をクリック→ 拡大表示
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遡って、頼朝挙兵の一年後。東国の支配者となった頼朝が義経に発した最初のメッセージが鶴岡八幡宮の本殿上棟式である。義経は腹違いの弟に対する頼朝の発言が持つ重要性を理解できなかった。吾妻鏡の小さな記事が二人の間に起きた諍いの芽を記録している。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 7月14日に改元して養和元年 7月20日 】.
鶴岡若宮の宝殿(本殿)の上棟式である。東の仮屋に 頼朝 が着座し、御家人がその前に控えた。
大工の棟梁に褒美の馬を与えるため 九郎義経 にその手綱を引くように命じたが義経は「私が上の手綱を引けば、下の手綱を引く(身分に相応しい立場の)者がいません」と答えた。
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頼朝は「(御家人の)畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役目と考えて拒むか」 と言葉を続け、義経は甚だ恐怖して即座に起ち上がり馬を引いた。畠山重忠、佐貫広綱、土肥實平、工藤景光、仁田忠常、佐野忠家、宇佐美(大見)實政らが続いて馬を引いた。 .
頼朝 は守護神社の上棟式という公式の場で、
「腹違いの弟であっても他の御家人と同様に命令に従う家臣の立場だ」 と宣言している。この指示は当時の風習として理に叶っており、別腹の異母弟である
範頼 や義経の同母兄
阿野全成 は上下関係を理解していたらしいのに、奥州で
秀衡 の庇護を受けていた義経には人間関係のむづかしさや機微が判らなかった、のかも知れない。その後の源平合戦に於ける独断専行や御家人に対する専横、平家滅亡後の無届け任官などの事件を経て、頼朝と義経の間に生まれた溝は次第に亀裂を深めていく。
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さて...寿永三年(1184年、4月16日に改元して元暦元年)1月には宇治川合戦に続く粟津で
義仲 を滅ぼし、同年2月には一ノ谷で平家に壊滅的な打撃を与え、翌元暦二年(1185年、8月に改元して文治元年)2月には讃岐屋島から駆逐し、3月24日には彦島に逃げた平家軍を壇ノ浦で滅ぼした。
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西から攻めた範頼は九州で戦後処理に任じ、義経は捕虜を従えて意気揚々と京に凱旋した。ここで
後白河法皇 の歓迎を受け白拍子の静とも出会うのだが、幾つかの事件が勃発する。一つは義経を含めた御家人が許可なく任官した事、一つは軍監の
梶原景時 が義経の専横を頼朝に訴えた事である。
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まず、頼朝の推挙なしに衛府(宮廷の警備職)や所司(官庁の役人)を拝任した在京の御家人に対して、4月15日に下文を発行しボロクソに罵った。お前らは官職に就いたのだから関東に戻って来るな、もし墨俣より東に立ち入れば所領を没収し斬罪に処するから覚悟しろと、かなり感情的に怒っている。計算づくの対応ではなく、プライドを傷つけられて憤怒が抑えられない感じだ。
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「鎌倉殿に従っていたら落人になる、と言ったな!」とか「イタチ以下だ」とか「猫にも劣る奴だ」とか「ふわふわ顔でみっともない」とか「駄馬が道草を喰ってるようなものだ」とか...名指しで罵倒されたのは兵衛尉義廉(出自不詳)・兵衛尉
佐藤忠信・渋谷馬允(
渋谷重国 の末子)など20数名。まだ義経の名は載っていないが、6日後に届いた景時の書状とその後の報告(平家物語)によって亀裂は深刻の度合いを増す。
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ここで少し面白いのは
「本領を少し返してやったのに、分不相応に任官などしやがって」と罵倒されている兵衛尉忠綱で、これは治承五年(1185)閏2月23日の
野木宮合戦(別窓)に敗れて逐電した
(藤姓)足利忠綱 に間違いない、だろう。彼は結局降伏して本領を一部返却され御家人に列していたんだね。
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左:そして兄弟の断絶へ...鎌倉腰越の満福寺 画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185年・8月14日に改元して文治元年) 4月21日 】.
梶原景時 の飛脚が書状を届けた。前半は合戦の報告、後半で義経の非を訴えている。
報告に曰く、今回の勝利は義経一人の手柄ではなく頼朝のために働く鎌倉御家人の協力による。義経が専横・強圧的なので兵士は仕方なく従っているし早く帰国したいと思っている。和田義盛 と梶原景時は侍所別当と所司(次官)であり、それ故に 範頼 には義盛を・ 義経 には景時を副えて軍監の役に任じた。
範頼は相談して物事を進めるが義経はただ独善的なので、景時のみならず全員が反感を覚えている、と。 .
吾妻鏡より前に成立(50年前ほどか?)したらしい平家物語に拠れば景時の讒言内容は更に激しく、真っ赤な嘘も混じっている。讒言で時代を生き抜いた景時だが頼朝の信頼は篤い。頼朝は独裁に対する反感のガス抜きに景時を利用したと考える説もあり猜疑心が強すぎる傾向はあるが、義経の行動も明らかに思慮に欠ける。
まあ、頼朝に従って奥州征伐途上の白河の関で息子の
景季 が詠んだ和歌で、この親子の人柄を推測しよう。
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秋風に 草木の露を 払はせて 君が進めば 関守もなし.
さて、義経よりも一足先に鎌倉に戻った景時の報告は、もちろん頼朝と義経を離反させる(正確には義経をダシにして自分の存在価値を高める)意図があってのこと。頼朝は御家人と義経の無断任官などでカリカリしている上に都での義経人気も面白くないタイミングだから、火に油を注いで更に風を送るような結果になる。中国語なら「将油倒入火中」だね。ただし、景時の性格を更に盛って面白く描いた軍記物の傾向にも要注意、だ。
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義経殿の専横は酷いもので、これから後は鎌倉の敵になるでしょう。一ノ谷合戦で中将 重衡 を捕虜にし範頼陣屋に連行した時には立腹して、「私の奇襲(鵯越)が無ければ勝てなかった。敵の捕虜や首級はまず私に見せるべきで、連れて来なければ私が出向く」と。私と 土肥實平 が協力して重衡を確保しなかったら危うく味方同士が戦うところでした。(平家物語)
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 5月15日 】 義経、鎌倉入りを許されず
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九郎義経の使者 工藤景光 が到着。前の内府(宗盛)親子を連行、去る7日に京を出て今夜酒匂の駅に到着し明日鎌倉に入る予定、と。小山(結城)朝光 が使者として出向き「北條時政 が牧宗親と 工藤行光 を伴って酒匂に出向き宗盛親子を受け取るから九郎義経は許可なく鎌倉に入るべからず。暫く酒匂付近に留まり沙汰を待つように」と命じた。 .
結果として義経は鎌倉入りを許されず、思いを綴った腰越状も無視されたため
「この恨みは昔の(平家への)恨みより深い」と言い残して京に引き返す。頼朝の方は「
「鎌倉殿に怨みがある者は義経に従え」などと暴言を吐いたのは許せない。」と激怒し、義経に与えていた所領24ヶ所を没収した。義経一行は京を目指し、琵琶湖が近づいた大篠原(現在の野洲町)で連行していた宗盛親子を処刑してから六条堀河の館に入った。
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右:平家終焉の地・篠原 この項は「壱」と重複。 画像をクリック→ 拡大表示
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