甲斐源氏が駿河国へ進出 

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平家物語に拠れば、平清盛 の命を受けた大将軍 平維盛 は治承四年(1180)9月20日に三万騎を率いて都を出発。遠江と駿河で徴兵しながら七万騎の大軍に膨れ上がり、10月18日には本陣を清見ヶ関(現在の 清見寺(公式サイト) ・ 地図)に置いた。この時点で先陣は富士川の近くに達し、最後尾は宇津ノ谷峠だったと伝わっている。その距離は約25km、明らかに戦闘意欲の低下と指揮系統の乱れを物語っている。
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吾妻鑑は同じく18日に頼朝勢20万騎が黄瀬河の本陣を入り、「同日に合流した甲斐源氏(二万騎)を謁見」した様に書いているが、甲斐源氏は 以仁王 の令旨を受けて独自に挙兵しており、この時点で 頼朝 との上下関係は発生していない。「甲斐に派遣した 北條時政 らの指示を受けた甲斐源氏が頼朝の指揮下に入った」云々は吾妻鏡編纂者の捏造と考えて良い。また公称20万騎は明らかな誇張だし、そもそも富士川合戦前後の戦いは鎌倉勢ではなく甲斐源氏が主役だった。
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甲斐源氏の 安田義定 は駿河目代を討った10月14日の鉢田合戦によって駿河を制圧、維盛の敗走に伴って遠江国府と鎌田御厨(共に磐田市周辺)を占領し、浜名湖を越えた橋本宿(地図)付近に前線基地を構えている。この時点で駿河と三河の国境まで甲斐源氏の支配下に入り、頼朝の警戒心を招く事になった。
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平家越え橋と清見ヶ関の距離は約24km、現在の富士川河口も約15km離れているから前線の陣地ではなく、現代風に言えば後方の総司令部か。清見ヶ関は現在の清水区興津にあった関所で、現在の清見寺がその跡に建っている。富士山や三保の松原を望み、「駿河国」の歌枕にも使われた観月の名所である。
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      さすらふる 心に身をもまかせずは 清見が関の 月を見ましや  行意 詠  新後撰和歌集
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富士川合戦から20年後の事件となるが...頼朝が没して一年が過ぎた正治二年(1200)正月、御家人連合による糾弾を受けた 梶原景時 は相模国寒川の 一宮館(別窓)を放棄して、一族と共に京を目指した。吾妻鏡は「甲斐源氏の 武田信義以仁王 の子・有義を将軍に擁立して謀反を企てた」としているが、これは信頼性に乏しい。京都に人脈を持つ景時は頼朝没後に御家人と反目し、更には 将軍 頼家 の庇護も不足したため意欲を失い、縁を辿って朝廷に仕えようと試みたらしい。
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信義の陰謀加担云々を幕府にチクッた弟の 井沢(石和)信光一條忠頼 以下の兄弟を次々に陥れて破滅に追い込み、四男ながら武田一族の棟梁となった人物。信義の失脚も含めた甲斐源氏の衰退は頼朝と信光が手を組んだ計画的な冤罪である。信光が甲斐源氏棟梁の座を握る代償として一族は御家人の座を甘受し、再びの台頭は340年後の信玄出現を待つことになる。信光から数えて19代後の子孫である。
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【吾妻鏡 正治二年(1200) 1月28日】
夜、伊澤五郎信光が甲斐から参上。「武田(逸見)有義 は景時と打ち合わせ密かに上洛を覗うとの知らせを得て彼の館を訪ねた。噂を否定するかと思ったが既に逃げ去って行方不明、家人も見当たらなかった。ただ一通の手紙が残っていたので改めると景時からの書状で、「もちろん同意する」と書いてあった。
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そもそも景時は二代に亘って将軍の寵愛を得て傍若無人に振舞ったため御家人に背を向けられ、朝廷に近づき鎮西(九州)の武士と語らって鎌倉に反逆を企てた者である。兼ねて懇意だった甲斐源氏の武田意義を将軍に擁立しようとした、その為に送った手紙を落としたのだろう」と。
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さて、清見関まで来た景時一行は在地の武士団から襲撃され、清見関から5km南東の狐崎(きつねがさき)で嫡子の 景季 ・ 次男の 景高 ・ 三男の 景茂 が討ち取られた。景時は更に3km西の山で自害、現在は 梶原山公園(外部サイト)として整備されている。親子四人は山頂で自刃したとも伝わり、全滅した一族郎党33人を供養した「梶原塚」や自刃する前に景時が乱れた髪を整えた「びん水」などもある。
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                   景時(享年61歳)の辞世  もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ
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一族の供養塔は33人の首が晒されたと伝わる 高源寺(公式サイト・地図)。

A:宇津ノ谷峠 B:梶原山 C:清見ヶ関 D:平家越え橋 E:鉢田合戦(更に北の可能性あり) F:井出
 
G:黄瀬河 H:酒折宮  I:武居 J:鳥坂峠 K:大石峠 L:長浜 M:足和田 N:人穴 O:白糸の滝




この頁は2019年 7月26日に更新しました。