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女性も子供も平然と殺す、ナチス以下の 差別主義国家イスラエル を強く非難する。
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他人の土地を略奪し 共存の努力もしない ネタニヤフ は戦争犯罪人、虐殺を支持するユダヤ人も同罪だ。
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.市民団体が 検察審査会に 安倍派幹部の再審査を請求検察は巨悪を無視するのか
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捜査権のない国会で議論しても結局は無駄、判断を裁判所に委ねれば済むのに、検察は与党議員の起訴を見送る
最悪の総理 安倍は人事権を内閣府に集中し、「巨悪を許さない」筈の検察は 政権の顔色を窺う腰抜けに堕落した。
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自民党と公明党、企業献金の継続で大筋合意か? 金権政治と宗教団体の堕落は公明党は創価学会の「子会社」です。更に続く?
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政権与党の腐敗は、連立与党 つまり公明党の責任でもある。
給付金の支給が増えたり 減税が実現すれば「公明党が頑張ったから」
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金権政治の横行、不正腐敗、政治の右傾、夫婦別姓不同意、海外派兵、
女性天皇反対、政治と宗教の癒着、これらは「自民党の責任」らしい。
要するに 協力したけど同じ穴のムジナと思われたくない のが公明党。
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政治は結果責任だ。20年以上も政権与党として甘い汁を吸い続けて、
憲法違反の指摘は筋違いの詭弁 で誤魔化し自民党と共に立法と行政を
支配し続けてきた。国交大臣の椅子を10年以上も独占し、創価学会の
利益を擁護し続け、宗教法人の一般法人並み課税にも反対してきた。
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国交大臣 (旧建設省) 関連で教団施設建築値引きの噂 もあったし。
100年安心年金 も公明党の坂口厚生大臣の無責任な嘘だったしね。
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当然の事だが 創価学会を「カルト (セクト)」と規定したフランス では
政教分離法で宗教団体と政治の関係を厳しく制限 (Wiki) している。
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連立を解消して政治には一切関与せず、まともな宗教活動に戻れば良い。
宗教と政治が利益を分け合って国を動かす時代ではないと、悟るべきだ。



吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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フレーム表示のトップページ から、どうぞ。タグ記述をGoogle Crome に変更して誤字・脱字・行間も改善しました。


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~ 韮山城址から、頼朝流刑地と伝わる蛭ヶ小島(中央左の木立)を。 正面の守山北麓には北條氏の館跡がある。 ~
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         その壱.....源氏の没落、そして頼朝流刑の地となった韮山の蛭ヶ小島
         その弐.....頼朝挙兵前夜の様々な事件と源氏の重宝について
         その参.....鎌倉時代が胎動する伊豆韮山と北條一族の出自など
         その四.....話を戻して保元・平治の乱と三位頼政の挙兵
         その伍.....韮山の隣で箱根(函根、筥根)の南・函南を訪ねる
         その六.....花の町 河津、そして小田原から酒匂川を越えて曽我荘へ
         その七.....もう一度伊東へ、曽我物語の原点となる奥野の巻き狩り
         その八.....18年も抱き続けた遺恨、曽我兄弟の仇討ち事件が勃発
         その九.....再び伊東へ、曽我物語の原点を更に遡って
         その拾.....頼朝は伊東を脱出、伊豆山を経て北條へ逃げる
         その拾壱 ... 伊東一族と日蓮ににかかわる史蹟を歩く

レジャースポットとして訪れる人は多いけれど、平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけて伊豆の各地が中世日本史を彩る舞台になった事は余り詳しく知られていない。
この紀行では、1160年から1333年の間に残された歴史の跡、主として源氏の史跡を1ヶ所づつ自分の足で訪ね歩いて記録している。平治の乱で 清盛 勢に惨敗した
源義朝 の嫡男 頼朝 が韮山の蛭ヶ小島 (伝承) に流されてから、鎌倉幕府が 新田義貞 率いる討幕軍に滅ぼされるまでの約170年間の足跡。
史跡以外のちょっとローカルな観光スポットや自然の香りや立ち寄り温泉などの情報も織り混ぜ、デジカメによる画像も少しづつ増やそうと思っている。
   ちょっと固い話、 平安から鎌倉の時代背景 も参考に。



 その壱 源氏の没落、そして韮山の蛭ヶ小島 


拡大画像へ 左:伊豆半島の田方盆地を航空写真で    画像をクリック→拡大表示
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狩野川上流(写真の下側)から順に、修善寺・牧之郷・大仁・田京・伊豆長岡・韮山・原木 各駅をマークした。画像の上(北方向)が沼津・三島市街。現在の狩野川は写真の伊豆長岡駅の左上、単独峰の守山と葛城山の間を流れ下っているが、鎌倉時代以前には頻繁に氾濫して流路を変えており、一時期には守山の東側を流れていたと考える説にもそれなりの説得力がある。
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興味深いことに、鎌倉時代の歴史には頻繁に出てくる相模川も富士川も、当時の流路は現在よりも数km東だった。800年の間に東国全域に地殻変動が起きたと仮定するならば、狩野川も東に移動した可能性は、無視できない。
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また狩野川を管理する国土交通省は公式サイトで「鎌倉時代に守山の西を開削して流路を遷した」と記載している。この記事の出典あるいは根拠を何回か問い合せた結果、「明確な根拠または出典を提示できない」との返答を得た。地質学上の調査では、守山の東に広がる田方盆地を「恒常的に流れていた痕跡」は確認できない、らしい。
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鎌倉時代の史書吾妻鏡に拠れば、頼朝 配下の武士団第一陣は 山木兼隆 の館を襲う際に「蛭島を通る道(真っ直ぐ山木へ向う道)は騎馬に適していないから北へ迂回せよ」との指示を頼朝から受けている。命令通りに火の手が挙がらないため、援軍として送った第二陣の加藤次景廉佐々木盛綱堀籐次親家らは「馬には乗らず徒歩で蛭島通の堤を奔(はし)り山木舘へ向った」とある。山木兼隆追討の兵が(往路も復路も)狩野川を渡渉した記述はない。やはり東側にあったのは本流ではなく、支流の湿地帯程度だったと考えるべきか。
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狩野川は伊豆半島を南北に分けている天城連山に端を発する本谷川を源流とし下田街道に沿って北へ流れ下る。天城湯ヶ島で猫越川、月ヶ瀬で吉奈川、狩野で船原川と柿木川(狩野氏の本拠)、修善寺で大見川と桂川と古川、大仁で山田川と深沢川、韮山で柿沢川、函南で大場川と来光川、沼津近辺で柿田川と黄瀬川を合流し、流程46kmで駿河湾に流れ込む。昭和三十三年(1958)の狩野川台風で流域全体に壊滅的な被害を引き起した暴れ川である。河口から15km上流の伊豆長岡から増水した水を駿河湾に逃がす狩野川放水路 (着工は昭和26年・1951年、完工は昭和40年・1965年) を含む大規模工事が完成するまで、台風による氾濫が珍しくなかった。
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韮山駅の右手が頼朝流罪の地と伝わる蛭ヶ小島、守山の北側山裾が
北條時政 の本領である。田方盆地の史跡を丹念に辿ると2~3日が必要だが、ほぼ平地だから駅前のレンタサイクルを使えば車よりも手軽に動き回ることが出来る。(北條=北条。以下、史料に従って北條に統一)

右:武家政治前夜、鎌倉時代が動き出す..蛭ヶ小島   画像をクリック→ 詳細ページ(別窓)
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紀行の出発点は・・・伊豆箱根鉄道・韮山駅の東500mにある蛭ヶ小島。韮山一帯は狩野川の東側に広がる、伊豆半島では珍しい広い盆地(田方平野)で、北は富士山の手前の三島まで概ねフラットである。南に下ると(狩野川の流れを基準にすれば「遡る」が正しい)修善寺付近から天城山系が始まり、西に5kmほど進むと駿河湾。東には天城から箱根まで続く山並みが伊豆半島を東西に隔てている。現在の蛭ヶ小島は狩野川本流から1kmも離れた水田の中にある。
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源頼朝が父の 義朝 に従って戦った平治の乱(1159年)に敗れて伊豆流罪となった14才の頃は、狩野川が氾濫した跡の湿地帯に点在した中州の跡で、文字通り蛭(ひる)の棲むような場所だったらしい。豆州志稿(江戸期に編纂された風土記)は「頼朝は最初大蛭島に住んだが余りにも蛭が多く、願い出て小蛭島に移った」と書いている。狩野川治水前の蛭島一帯は少し雨が続けば氾濫を繰り返して水没し、一ヶ所に定住できる環境ではなかったとする説が一般的だ。
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「頼朝を伊豆蛭島へ流罪にした」と書いたのは平家物語が最初で、それ以後の文書は全てこの記述を転用している。周辺には現在も蛭島・東土手・西土手・土手和田・五ッ島などの呼称が残っている。地名としての「蛭ヶ小島」は存在しないが、頼朝の流刑地がこの付近にあって、、狩野川流路の一部が(恒常的ではなく、増水した際には)ここを流れていた事までは疑義を挿む理由がない。

左:鶴岡八幡宮が収蔵する伝・頼朝坐像   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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流人頼朝が蛭島付近に定住したのは多分5~6年間、ひょっとするともっと短かったかも知れない。
17~18歳前後には伊東に移って伊豆最大の勢力を有する豪族 伊東祐親 の庇護(監視)下に入ったと思われる。また、頼朝の乳母の一人で流人時代の頼朝を物心両面で支えていた 比企の尼 に縁がある函南の 高源寺(別窓)周辺にも短期間ながら住んでいたとする説もあるが、これは既に伝承だけの情報で確認はできない。
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律令制度下の流刑者は現地で1年間の労役に従事し、翌年からは一定面積の土地を与えられて納税義務を負うのが原則だが、平安時代末期までその規則が生きていたか否かは判らない。身分の上下や親類縁者による援助の有無や財力による待遇差は全ての時代を通じて存在するのが当り前だ。頼朝挙兵の血祭りに挙げられた山木判官 平兼隆 も、都での乱暴狼藉の末に父親に訴えられて伊豆遠流になった人物。流人の身分にも関わらず一門の権威を利用して目代(代官)を称していた、そんな例さえもある。
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いずれにしろ頼朝も流人ではあったが伊豆には源氏の縁者も多く、当時の国守が源氏の長老 三位頼政(後にその嫡子 仲綱 が継承)だった経緯もあり、頼朝は比較的自由な生活をしていた。乳母の比企の尼が娘婿の 安達盛長 を通じて衣食の便宜を図り、愛妾亀の前による内助もあった。
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  ※亀の前: 吾妻鏡には「良橋入道の娘で伊豆流人時代からの愛人」とあるが素性も以後の消息も不明。良橋入道とは誰か、いくら探しても判らない。
頼朝は鎌倉入り後も彼女を呼び寄せており、ちょうど 政子頼家 を出産する直前で、週刊誌に載るような「男女関係の修羅場」を引き起こしてしまう。
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【 吾妻鏡 養和二年(1182) 6月1日 】  もちろん頼朝が鎌倉に入り、東国を平定・掌握してからの事件。
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頼朝は寵愛の妾女亀前を小坪の 中原小中太光家 宅に住まわせた。外聞を憚ったと共に、浜に出掛ける際に立ち寄れる便宜を考えたためである。彼女は良橋太郎入道の娘で伊豆流人時代からの関係である。容貌が優しいのみならず心も柔和な女性でこの春先から寵愛が一段と深まっていた。
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出産後の政子が亀の前の住居を打ち壊した件と、事後対応に追われる惨めな将軍の姿については、稿を改めて述べようと思う。吾妻鏡の編纂者が初代将軍の醜聞を殊更に記載した理由は好意からか悪意からか、ジャーナリスト精神(笑)の発露か、少し気になる部分ではある。
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京都の 神護寺(公式サイト)には頼朝絵像の他に 平重盛 と藤原光能(平安末期の公卿で正三位・参議)の絵像も保存しているが、諸説があって真贋は明らかではない。寺伝では平安末期の画家・歌人で正四位下の藤原隆信 (1142~1205、藤原定家 の異腹の兄)だが近年の研究では否定され、1205年以後の作とされている。隆信の父は従五位上で歌人の藤原為経 (後に 法然 に帰依して出家し寂超を名乗る)。神護寺絵像の詳細 (wiki) を参考に。個人的にはこの絵像=頼朝説を支持したいけれど、頼朝説と足利直義説の双方とも決定的な証拠はなく、所有者の意向もあって簡単には科学的な調査も出来ないらしい。
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頼朝の容貌についての軍記物語の描写は 「年齢よりも大人っぽい」(平治物語)・「顔が大きく美しい容貌」(源平盛衰記)・「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語分明なり」(平家物語)だが、いずれの資料も (少なくとも) 50年以上が過ぎた時代の伝聞だから全面的な信頼は置けない。
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頼朝が上洛した際に面談した 九条兼実 は日記・玉葉に 「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」 と記載している。大山祇神社(別窓)に奉納した甲冑で判断すると身長は165cm前後、当時の平均よりもやや大柄だった。

右:頼朝木像を収蔵する甲斐善光寺と、飯田の元善光寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【甲斐善光寺の縁起 奈良・明日香との関係】    甲斐善光寺の公式サイト も参照されたし。
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第二十九代欽明天皇(在位:539~571年)の十三年(552)、百済の二十六代君主 聖明王が金銅の釈迦像と経典を蘇我稲目(→ 馬子→ 蝦夷入鹿と続く渡来系の大臣)に贈った。これが公式の仏教伝来とされるが、仏像や仏典を伴わない単に宗教としての伝来は更に時代を遡ると考えられている。仏像を贈られた欽明天皇は「渡来の神を崇めるリスク」を案じて処遇を臣下に問うたが結論が出ず、稲目(娘2人が天皇妃)に命じて仏像を拝んでみるように命じた。
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稲目は仏像を小墾田の家に安置して(向原の家を清めて、とも)寺とし崇拝した。しかし疫病が流行して多数の死者が出たため、廃仏派の大連(大臣と並ぶ最高官)の物部尾興や神官の中臣鎌子(後の藤原鎌足)らは仏教崇拝による祟りと考えて天皇に進言し、許可を得て仏像を難波の堀江に捨てて寺を焼いた。すると突然天皇の宮殿である磯城島の金刺宮(桜井市金屋、向原の寺から北東5km)でも火災が発生したという。
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  ※小墾田の家: 明日香村の雷丘近くにあった推古女帝の小墾田宮(おはりだのみや)跡付近と伝わっている。稲目の私邸だろうか。
豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝の新居が小墾田宮とされる。共に下の地図を参考に。
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  ※仏教の伝来: 正確な年代は未確定。二十八代宣化天皇(在位:536~539年)の三年(538)説が有力だが、明日香で新しい史料が見付かるかも。

左:仏教伝来の逸話が残る明日香村 甘樫の丘北麓   画像をクリック→拡大表示
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※難波の堀江: 向原の家は明日香村甘樫の丘北西の 向原寺 (wiki) と推定されている。豊浦寺→三十三代推古天皇の豊浦宮→豊浦寺
→向原寺と呼称が変遷している(地図)。境内の難波池が昔日の「難波の堀江」と推定され、もし「寺を焼いて仏像を池に捨てた」のが事実なら伝説との辻褄は合う。
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それと別に「難波の堀江」は十六代仁徳天皇(在位:313~399年)が治水や物流の目的で難波に造った水路で大阪にある三ヶ所の推定地(三津寺・天満橋・高麗橋などの付近)のどれかと考える説もある。
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推古天皇の八年(600年)、難波の堀江に沈んでいた阿弥陀如来は偶然(たぶん商用だね)通りかかった信州麻績里(現在の飯田市座光寺)の人・本多善光が掬い上げて(別の伝承では仏像が自ら背中に飛び乗った、とも)信濃に運び、屋敷の中で最も清浄な床の間の臼の上に置かれて41年間も深い信仰を受けた。
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三十五代皇極天皇(在位:642~645年、重祚して斉明天皇(在位:655~661年)となる)の時代に霊夢があり、「芋井の里(現在の長野市)に移りたい。ただし一ヶ月の半分はこの地に戻る。」との啓示を受けた。本多善光は勅命を得て芋井の里に堂を建て、善光寺と名付けて阿弥陀如来三尊を安置した。
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この「芋井に移った」のが現在の信濃善光寺であり、信濃善光寺だけに参拝して飯田の
元善光寺(公式サイト)に詣でないことを「片詣り」とする由縁である。仏が現れたのは天皇の夢とも、善光の夢とも伝わる。長野市の善光寺縁起にも同様の記載があるから、この経緯に関しての記述には強い説得力がある。

右:伊東駅の北、松月院 北の小御所はこの辺か。  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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曽我物語や伊東の伝承に拠れば、頼朝 は20歳を少し過ぎた頃の仁安二年(1167)には当時の庇護者で監督者も兼ねていた伊東祐親が建てた通称「北の小御所」に定住した。伊東に移って数年後の仁安四年(1169)には祐親の娘 八重姫 に手を出して男子を産ませ、激怒した祐親に討手を向けられている。
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北の小御所の位置は既に不明だが、伊東の中心部である現在の竹之内(館の内の転訛)にあったと伝わる祐親の居館を基準にして北の筈。ここから近からず遠からずの場所と考えれば伊東駅の裏手、現在の松月院や伊東公園から駅の周辺にかけての山裾付近と推定される。館が現在の葛見神社付近だったとしても、全体の配置に大きな差はない。
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  ※祐親館: 通説は市役所の建つ物見ヶ丘山裾と言われるが、祐親親子の没後に 工藤祐経 の嫡子 祐時 または嫡孫の祐光が
館を構えたのが確認されるだけで、祐親が本拠を置いたのが竹之内か本郷か、正確な場所は判らない。
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もちろん竹之内一帯の可能性もあるが、伊東一族の聖域だった 葛見神社 や東光廃寺跡(東林寺の項に記載)や 東林寺 のある本郷(馬場町の地名もある)周辺も否定できない。ここは祐親の祖父狩野祐隆が狩野川沿いの所領を四男の 茂光 に譲って長男の祐家と共に伊豆の東海岸・玖須美(葛見・伊東)に移り、最初に住んだ場所とも考えられている。
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伊東駅前にあるマックスバリュ駐車場ビル (今もあるかな?) の屋上は意外に見晴らしが良く、物見ヶ丘のある市役所周辺や大室山や相模湾はもちろん、天城連峰西端の矢筈山(通称ゲンコツ山)もかすかに遠望できるほどだった。残念ながら現在は新しく建てられた15階建てマンションによって西側の展望がほとんど失われてしまった。2013年11月にはセイフーもイオンに吸収合併されて兼用駐車場ビルとなった。
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現在のJR伊東駅から祐親館の推定エリアまでは松川を挟んで1km前後、伊東の伝承に拠れば川沿いに広がる音無しの森が若い頼朝と八重姫のデート場所だった。
現在の 音無神社 から日暮(ひぐらし)神社 にかけての一帯である。やがて八重姫は妊娠して男子を産み、曽我物語は頼朝が純粋に喜んでいる姿を伝えている。この頃の頼朝は打倒平家ではなく、「平家に願い出て源家を再興したい」と考えていた、と。
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【曽我物語 巻二 若君の御事】   この話は後段の「伊東に残る史蹟と伝承」へと続く。
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頼朝は男子が産まれたのを喜んで 千鶴御前 と名付けた。振り返れば勅勘を蒙って都を追われ辺鄙な地に暮らしながらもこの嬉しさ、千鶴御前が15歳になったら三浦・鎌倉・小山・宇都宮などと相談のうえ平家に願い出て自分と共に処遇して貰おう、などと考えて育てた。

左:伊東市街と海を見渡す花の寺 桃源山松月院  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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松月院は伊東市街を見下ろす北の高台にあり、美しい庭と季節の花で知られている。寿永二年(1183)に僧銀秀により真言宗の寺として開創、慶長十二年(1613)に曹洞宗に改めた。寛文十一年(1671年・徳川四代将軍家綱の頃)8月27日に「亥の満水」と呼ばれる大洪水で流失し、宝永三年(1706)に至って鶴峰亀丹が現在地に移転し再興した、と伝わる。残念ながら銀秀も鶴峰亀丹も、人物の詳細は全く判らない。こんど松月院に行ったら聞いてみようか、とも思うけれど、多分無駄だろうな。
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旧跡は無論不明だが松原村(現在の伊東駅西南)のどこか、だったらしい。そして「亥の満水」の規模は...120年後の寛政三年(1791)4月に発生した第二の「亥の満水」では狩野川と周辺河川が約7m増水したと記録されているから同程度の災害だったと推測できる。
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松月院が最初に創建された寿永二年は富士川合戦で 惟盛 が敗走し、伊豆鯉名(現在の小稲)で捕まった 伊東祐親 が鎌倉で自刃した翌年、つまり 頼朝 の関東支配がほぼ確立した年に当る。この年の頼朝はまだ若い36歳、かつて愛人だった八重姫と最初の子・千鶴丸を想い、僧銀秀に命じて北の小御所跡に一宇を寄進した...そんな想像も可能、か。
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さて、保元の乱と平治の乱を経て覇権を握った平家一門は栄え、源氏の勢力は一気に衰えた。源氏一族の中では同族の
義朝 を見捨てて 清盛 に味方した 源三位頼政 だけが異例の厚遇を受けたのみ。頼政は頼朝と同じく 清和天皇 を祖とする清和源氏の一族だが、清和天皇→ 貞純親王経基王満仲 と続く次の代に別系に分かれ、満仲の嫡男 頼光 の子孫が頼政の系へ、弟の 頼信 の子孫が義朝→ 頼朝へと繋がっている。つまり 頼政の方が清和源氏嫡流に近いんだね。

右:熱田神宮と頼朝生誕の地と伝わる誓願寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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頼朝の異母兄弟のうち長兄は 悪源太義平(平治の乱後に捕らえられ斬罪)、次兄は 朝長(逃亡途中で自害または父義朝が殺害)、他に前述通り 常盤 が産んだ異母弟三人がいた。頼朝の同母弟は 義門希義。当時は生母の出自によって嫡男を決める習慣があり、藤原氏系統で熱田神宮大宮司だった 藤原季範 の娘・由良御前が産んだ頼朝が嫡男扱いを受け京都で成長した。
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長男・義平の母は京都橋本宿の遊女または 三浦義明 の娘とも言われ、京には上らず本拠を鎌倉に置いて妻(新田義重 の娘)の生家・新田荘や三浦や鎌倉など、主として東国で成長している。
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誓願寺は亨禄二年(1529)に藤原季範の別邸跡に建てられた尼寺で、熱田神宮西門の筋向いにある門に「頼朝生誕の地」の石碑がある。第二次大戦末期の空襲で焼失するまでは頼朝が産湯に使った池が残っていたらしいが、現在は戦後に再建した井戸があるのみ。頼朝が実際に育ったのは京都に本拠を置く大宮司邸で、通常業務は権宮司家の尾張氏が任じているため 熱田神宮(公式サイト)には常駐していない。
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  ※大宮司家: 藤原季範は熱田周辺に広大な荘園を所有し、一族の多くが朝廷警護職の北面武士に任じるなど朝廷に人脈を広げ貴族社会の 一員だった。
後半生の頼朝に「京都回帰指向」が見られたのは元服してから伊豆に流されるまで京で過ごした記憶が尾を引いていたのだろう、そう考える説は多い。
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平治物語は鎌倉幕府の成立後に書かれたため、時の権力者である 頼朝 あるいは鎌倉幕府に阿る傾向が強い。「本来の嫡男は義平だが将来は源氏の総大将になる器の頼朝」などの記述が散見されるのは、当然ながら頼朝が総大将になった以後の記載だろう。「もしも」は歴史上の禁句だが、朝長などの兄弟が生き延びていたら誰が源氏の嫡流となったかは微妙だ。なにしろ血で血を洗う同族の殺し合いを続けた源氏一族である。
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頼朝は保元三年(1158)に数え12歳で元服して当初の官職・皇后宮少進となり、翌年早々には右近衛将監となって 後白河法皇 の姉である 上西門院 の蔵人、いわゆる北面の武士に転じた。この直後に生母の由良御前が病没し、服喪後の6月には二条天皇の蔵人に転じている。そして12月の平治の乱勃発と共に従五位下・右兵衛権佐 (後に頼朝を兵衛佐と呼んだ原点) となり敗北、宮廷での華やかな暮らしも僅か二年弱で暗転した。
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尊卑分脈によれば、義平の官位は正七位相当・左衛門少尉、朝長は従六位相当・中宮少進と伝わるため、官位から考えると年令とは真逆の 頼朝>朝長>義平の順になっているし、平治物語(だったかな)は「義平は無官」と記載している。ただし、裏側ではそれなりの後継争いがあった。頼朝の兄・朝長の生母(乳母説あり)は相模の豪族で義朝に臣従した 波多野義通 の妹。頼朝が嫡男の扱いとなり官位も兄の朝長を越えたため波多野義通は義朝への忠誠心を失い、所領の相模国波多野郷(秦野市)に帰って定住してしまった。
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20年後、義通嫡男の 義常 は頼朝挙兵の招集に応じなかった上に使者の 安達盛長 に暴言を吐き(嫡男争いの怨恨か)、鎌倉に入って関東を制圧した頼朝に滅ぼされてしまう。
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  【 平治物語に見る頼朝兄弟の姿 】
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長男である悪源太義平は19歳、練色の魚綾の直垂と八龍の鎧を着て高角の兜の緒を締め、石切という太刀を帯び石打の矢 (珍重される鷲・鷹の外側の尾羽根) を背負い滋籐の弓を持って、はやり立つ鹿毛の馬に鏡鞍を置いて父の馬と同じ向きに引いておいた。次男中宮大夫進朝長は16歳、朽葉色の直垂に澤潟(おもだか)威にした代々伝わる鎧に星白の兜をかぶり、薄緑という太刀を帯びて白箆(しらの・素の篠竹)に白鳥の羽で作った矢を背負い、所籐の弓を持って葦毛の馬に白覆輪の鞍を置き、兄の馬に添えて引いておいた。
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三男右兵衛佐頼朝は13歳、紺の直垂に「源太が産衣」という鎧に星白の兜の緒を締め、髭切という太刀を帯び12本さした染羽の矢を背負い滋籐の弓を持ち、栗毛の馬に柏と木菟(みみずく)を摺った鞍を置いて(兄たちと)一緒に引いておいた。

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平治物語が書かれた年代は1240年よりも前、平家物語より古い可能性も推測されている。詳細は こちら(外部サイト)の現代語訳がお奨めだ。

左:義家着用 赤糸威大鎧(復元・福島県立博物館所蔵)    画像をクリック→拡大表示
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福島県棚倉町の馬場都々古別神社(伝・奥州一の宮)に保存されていた残片(重文)をベースに復元された大鎧。後三年の役(1083年~)で奥州征討に向う途中の 八幡太郎義家が奉納したと伝わる。更に平治物語は続く。
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この産衣と髭切は源氏に代々伝わる武具の中でも特に秘蔵の重宝である。八幡殿(源義家)の幼名を源太と申した。二歳のとき「院に参上せよ、源太を見たい」との仰せを受け、わざわざ鎧を縅し源太を鎧の袖に置いてご覧に入れた。それから以後、この鎧は「源太の産衣」と名づけられた。
胸板には天照大神、正八幡大菩薩を鋳つけて、左右の袖には咲きかかる藤の花の模様を縅している。
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そして髭切とは、八幡殿が 安倍貞任 と宗任を攻められた時に生け捕った者千人の首を打つと、みな髭も一緒に切れたので「髭切」と名づけた。奥州の住人 文寿 という鍛冶の作である。昔から嫡男たちに相伝されてきたので悪源太にお伝えになるべきなのに、三男であっても頼朝が授かったのは最後には源氏の大将となられる徴である。
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兵衛佐(頼朝)は父の 義朝 と兄の 義平 の方を見回して「平家が、もう向かっていますでしょう。他人に先手をとられるより、まず六波羅へ攻め寄せましょう。」と申されたのは、ご立派なことだ。鳳凰は卵の中にいる時も境を超すほどの勢いがあり、龍の子は小さいといっても、雨を降らすことができるというのはこういう事を申すのであろう・・・
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髭切と文寿については後段の【 源氏の家宝・銘刀髭切 余聞 】を参考に。足利の鑁阿寺に収蔵との噂もある。ちなみに、保元の乱は保元元年(1156)7月に、平治の乱は平治元年(1160)12月に勃発している。打倒平家の蜂起は平治の乱から丁度20年後の治承四年(1180)にスタートする。
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【 大鎧について 】 
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平安末期から鎌倉期にかけての武将の戦闘は基本的に騎射による攻防であり、敵を左に見て馬上から弓を引くのを前提にして防具(大鎧)の構造が考えられている。もちろん乱戦になれば徒歩による打ち物(太刀や長刀など)の戦闘もあるが、総重量が30kg近い大鎧を着用して長い時間を戦う事は想定していない。なにしろ武具の重さを加えれば18リットル入った灯油缶を2個背負った状態である。名乗り合って組み合う戦いもあったが、それは短時間での決着が前提だろう。
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馬上で弓を引きやすく、さらに敵の矢によるダメージを如何にして防げるか、それが大鎧設計のコンセプトである。合戦の基本形は火縄銃が渡来した安土桃山時代の初期まで変らず、従って大鎧の構造にも大きな変化はない。大鎧については こちら (外部サイト)に詳細の説明がある。
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【 源氏八領 について 】    右は甲斐源氏に伝わった盾無(菅田天神社収蔵)のレプリカ画像
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源氏の重宝とされた八種類の鎧で、現存して素性も確認されているのは「盾無」のみ。所蔵している甲州市の菅田天神社 (Wiki)はこの鎧を公開していない。再三の補修を繰り返したため威した時代の原形は僅かに残るだけだが、平安末期の大鎧の様式は確認できるらしい。甲府市の 武田神社(公式サイト)の宝物館がレプリカのみを展示している。
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保元物語には、合戦の前に最高指揮官の 崇徳上皇 に召された源為義が次のように語る場面が描かれている。
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   「源氏には相伝の月数・日数・源太産衣(うぶぎぬ)・八龍・澤潟(おもだか)・薄金・盾無・膝丸の八領の鎧あり」
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70歳を過ぎた為義はこれが生涯最後の合戦と考えて薄金を着用、残る相伝の五領を5人の男子に着用させ、代々の嫡男が受け継ぐ「源太が産衣」と「澤潟」は従者に持たせて敵方となった嫡男 義朝 に届けた。八男の 鎮西八郎為朝 は体格が大きいため「八龍」に似せて威した鎧を着用した。
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【 五人の子 について 】
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三男の 義憲(義広)、四男の頼賢、五男の頼仲、六男の為宗、七男の為成、九男の為仲を差す。長男義朝は 後白河 側で、二男 義賢 は5年前の久寿二年(1155)に義朝の長男義平により、武蔵大蔵で殺されている。また三男 義憲(義広)は保元・平治の乱を通じて常陸に土着して勢力の扶植に努め、合戦には加わっていない。つまり、合戦後に武勇を惜しまれて死罪を逃れ腕の筋を抜かれ大島流罪となった為朝と、不参加だった義憲以外は、父の為義も含めた崇徳上皇方の全員が斬罪となった。決裁したのは勝者の後白河天皇、親兄弟の斬首実行を差配したのは義朝である。
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   ①盾無・・・源義光(頼義三男で義家の弟)以来甲斐源氏相伝の家宝で国宝に指定されている。
   ②月数・・・四男の頼賢着用。朽葉色と唐綾威と伝わる。行方不明。
   ③日数・・・五男の頼仲着用。若草色に威したと伝わる。行方不明。
   ④源太が産衣・・・為義から義朝に渡った鎧。平治の乱で頼朝が着用した。行方不明。
   ⑤八龍・・・六男の為宗着用。黒糸で脅し前立に龍を打ったと伝わる。行方不明。
   ⑥澤潟・・・為義から義朝に渡った鎧。平治の乱で朝長(頼朝の兄)が着用した。東へ落ちる途中の雪の伊吹山麓で脱ぎ捨てた、と。
   ⑦薄金・・・保元の乱で為義が着用後に義朝に譲った。源氏総大将が着用する習慣と伝わる。逃亡途中に雪の伊吹山麓で脱ぎ捨てた、と。
   ⑧膝丸・・・三男の義憲着用。千頭の牛の膝皮を使って頑丈に威したと伝わる。行方不明。

【 画像は左側が澤潟(おもだか・国宝)、右側が薄金(うすがね・重文) 】
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澤潟は大山祇神社の収蔵だが、この呼び名が威した様式を差すのか、鎧の固有名を差すのか判らない。正倉院に伝わる鎧にも見られる古い作風で、天慶二年(939年)に起きた 藤原純友 の乱を鎮圧した越智押領使好方が用いた鎧とも伝わる。
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薄金は愛知県の 猿投神社 (wiki) 収蔵、同社の古文書には「後三年合戦絵巻の詞書」として、
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伴次郎傔仗助兼といふ者あり。際なき兵(つわもの)なり。常に軍の先に立つ。将軍(義家)之を感じて薄金といふ鎧をなん着せたりける。 とある。 また唐櫃の蓋裏に 「神の物也、人の物に不可、長禄二年(1458)二月吉日 との墨書がある事から源氏八領の一つだろう、と推定している。
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ただし、この「薄金」説には信憑性が乏しいとの説があることも付記しておく。
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結論として着用者が判らないのは「盾無」のみ。正式には「小桜韋威鎧兜大袖付」、敵が放った矢を防ぐのに盾が要らないほど頑丈に造られたことから「盾無」と呼ばれた。甲斐守に任じた源頼義 が第七十代後冷泉天皇(在位:1045~1068年)から下賜され、御旗と共に三男の 新羅三郎義光 に伝わった国宝である。劣化が激しいため本体は公開しておらず、レプリカを鑑賞できるのみ。
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※甲斐守頼義: 収蔵する菅田天神社の記録だが頼義が甲斐守に任じた記録はない。甲斐守に任じていた三男義光との誤記か。
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※御旗: 盾無と並ぶ武田の重宝。後冷泉天皇が下賜した最古の日の丸の旗と伝わる。「御旗盾無も御照覧あれ」が武田軍団の団結を象徴的する言葉で「これ以上の議論は
無用、棟梁に従おう」を意味していた。現在は甲州市の 雲峰寺(公式サイト)が収蔵している。
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為義は当初は「薄金」を着けて出陣したが、敗色が濃くなった時に「源氏の総大将着用の習いであるから」として、敵方の嫡男 義朝に送ったらしい。
七男の為成と九男の為仲が何を着用したかは不明。為義と5人の兄弟(義憲を除く)は全員が保元の乱終結後に義朝の命令で斬首されており、もしも「重宝の鎧」が保元物語の創作ではないと仮定すれば、この時点で義朝が持っていた「薄金」と「源太の産衣」と「澤潟」以外の五領は行方不明になってしまった。敗北の時点で平家軍の手に渡り、その後に続く戦乱で失われたと考えるのが妥当、か。
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義朝の手に渡った残る三領も、その後に起こった平治の乱による敗戦で逃げる途中に脱ぎ捨てられ、行方不明になった。「源太の産衣」は着用していた頼朝と共に京都へ送られた可能性が高いと思うが、その後の記録には現れていない。もしも何処かに残っていたら国宝扱いになるか。
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辛うじて現存している「盾無」が甲斐源氏に伝わった経緯は判らない。当初は義光が持っていたのなら、常陸に逃れた
義光 義清清光信義信光と伝わるのが筋で、実際に武田勝頼は一族滅亡の直前まで御旗と共に携え、勝頼没後は甲斐源氏庶流の於曾氏が管理していたと推測できる。義光の兄 義家 から 為義 に続く河内源氏の重宝ではない筈だから、為義云々の話は保元物語や平治物語による捏造の可能性も高い。軍記物語は結構適当な辻褄合わせをするからねぇ。自公連立政権みたいなもの、だ。

右:大三島の大山祇(おおやまづみ)神社  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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中世日本の武具については、 大山祇神社 (公式サイト) が収蔵する宝物に触れる必要がある。神武天皇(紀元前660年即位)東征の先駆として大山積大神の子孫 小千命が四国に渡り、瀬戸内海を治めていた時に大三島を神地と定めたのが最初と伝わる、要するに神話の世界。
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瀬戸内の制海権を握っていた河野水軍がここを守護神にしたのも良く知られている。代々大宮司を務める大祝家は瀬戸内の制海権を握り海運を支配した伊予水軍の子孫で、河野一族はここを氏神と定めていた。
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平安時代以降には瀬戸内海を往来した幾多の武将が大山祇神社に参詣して武運長久を祈願し、勝ち戦の御礼として鎧や太刀など数々の武具を奉納した。宝物館が収蔵している国宝は8点・重要文化財は75点だが、国宝と重要文化財に指定されている甲冑・刀剣の実に8割がここの宝物殿にある、と言われている。
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未整理のまま通路の片隅に積み重ねてある甲冑を見れば収蔵品の量が推測できる。詳細の説明は 愛媛観光のサイト も参考に。
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【 Wikipediaによれば 】
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この地に鎮座した由来として、大山祇神の子孫の乎千命(おちのみこと)がこの地に築いたとする説、伊豆国の三嶋大社(現、静岡県)から分霊を招いたとする説、朝鮮半島から渡来した神であるとする説など諸説があるが、摂津国の三島江(現在の大阪府)からこの地に移されたとするのが一般的である。
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いずれにしても、かなり古い時代から存在した神社であることは確かで、平安時代には朝廷から日本総鎮守の号を下賜されている。また、全国に一万社余りある山祇神社、三島神社の総本社とされるが主に東国の三島神社には静岡県の三嶋大社の分社もある。また、三嶋大社自体を大山祇神社の分社とする説や、逆に大山祇神社の方が三嶋大社の分社とする説もあり、完全に別の神社とする説もある。

左:平治の乱に敗れた義朝親子は洛北から堅田へ敗走  画像をクリック→拡大表示
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平治元年(1159)の12月、平清盛 が熊野に参詣している軍事的空白を狙って藤原信頼& 源義朝 グループがクーデターを決行。同月14日には二条天皇と 後白河上皇 を確保して官軍の体裁を整え、義朝は播磨守に 頼朝 は右兵衛権佐に着任した。右兵衛府は皇居中心部を警護職で佐(すけ)は四等官の上から二番目、権はその副官である。後の頼朝が「すけどの」と呼ばれたのは、この時の任官が由来している。
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紀伊国でクーデター勃発を知った清盛は大陸との交易で地盤を持つ九州に逃れて兵力を整えようかと迷った末に紀伊・熊野・伊勢・伊賀の兵力を集め17日に帰京、六波羅の屋敷で軍陣を整えた。手勢を率いて父・義朝の元に馳せ参じた 悪源太義平 は入京前に清盛を討ち取るよう主張したが、嫡子の信親が清盛の娘と婚姻関係にあった信頼は 「本格的な合戦の前に清盛が服従するだろう」と判断して襲撃を許さなかった。
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義朝はクーデター計画の露見を防ぐため小規模の軍勢で隠密裏に行動しており、清盛が多くの兵を率いて京に入った時点で両者の軍事的バランスは逆転した。更に25日の深夜に後白河上皇が信頼勢の制圧していた 仁和寺 (公式サイト)から脱出、続いて二条天皇も軟禁中の内裏から女房姿で清盛の六波羅邸に逃れ、直ちに信頼・義朝の追討宣旨を発布、義朝勢は一夜にして「軍事力の劣る賊軍」という悲惨な立場に転落した。
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源頼政 は元々美福門院(鳥羽上皇の寵妃で近衛天皇を産んだ藤原得子)の家人なので信頼や義朝に従う立場ではなく、源氏の一族ながら清盛勢に加わっている。六波羅を出陣した平家軍は一旦は内裏を囲んで戦火を交え、平治物語は義平が寄せ手の大将 重盛 を追い掛け回すなど華々しい合戦の様子を延々と描いているが、これは割愛するとして...
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戦火による内裏の焼失を回避したい平家軍は退却を装って義朝勢を御所から引き離し、両軍は六波羅の近くで本格的に衝突するのだが多勢に無勢、義朝勢は六条河原で惨敗を喫してしまう。平治物語は「義平は六波羅邸の門内まで攻め込んだ後に 鎌田政家 に制止されて退却し義朝と共に六条河原から三条河原に逃れ、郎党の防戦に助けられ辛うじて大原を目指して落ち延びた。」と描いている。
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更に比叡山僧兵の襲撃は 斎藤實盛 が必死に防ぎ、堅田に下る龍下越では 朝長 が深い矢傷を負った上に義朝の叔父 陸奥義隆(毛利冠者)が戦死。 堅田の浜まで逃れたところで同行していた 波多野義通三浦義澄 と 斎藤實盛 と 猪俣範綱 と 熊谷直實平山季重足立遠元 と 金子家忠 と 上総廣常 ら20数名が別行動を指示され、それぞれ東国へと落ち延びた。義朝と同行したのは悪源太義平・朝長・頼朝の三兄弟と佐渡重成 と 平賀義宣(義信) と 鎌田政家 と 金王丸 の八騎のみ。
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    ※波多野義通: 熱田神宮の項に書いたが、妹が産んだ朝長を嫡男から外された義通は保元三年(1158)4月に本領の波多野郷(秦野市)に帰国した。
これは「嫡流を巡る義朝と義通の不和」と判断されているのだが、1年半後の平治の乱では京都で義朝に従って戦っている。従って「一時的に臍を曲げて離反したけど間もなく戻って来た」、あるいは「他の事情があって一旦帰国した」程度だった可能性が高く、事情を明確に説明する史料は見当たらない。

右:義朝は青波賀(青墓)を経て終焉の地・野間へ。   画像をクリック→拡大表示
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平治の乱(平治元年・1159年12月9日~)に敗れた 源義朝 は追撃を逃れ再起を期して東国へ落ちようと図った。総勢30人ほどで京を脱出し琵琶湖畔の堅田で家臣団と別れ、僅か八騎で東を目指した。
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  ※八騎落ち: 後に石橋山合戦で敗れた 頼朝 は主従八人が小舟で安房に逃げる際に平治の乱の惨敗を思い出し「八騎とは
縁起が悪い、誰か一人海に飛び込め」と命じたらしい。自発的に降りようとした 土肥實平 を遮った息子の 遠平 が入水し、後続した 和田義盛 の舟に救われたというのが能「七騎落ち」の一席。嘘だか本当だか判らないが、源氏にとって「八」は忌み嫌う数字なのだ。
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12月27日の夜に頼朝は疲労のため馬上で眠り、野路(草津市野路町)近くで一行とはぐれてしまう。急いで跡を追う途中で落人狩りに襲われるが何とか逃げ切り、野洲河原(現在の野洲市)近くで追い付いた。この時に引き返して探し出してくれたのが 鎌田政家 で、頼朝はこの時の恩を深く心に刻んだ。政家(正家・政清とも)の母は義朝の乳母だから乳兄弟であり、股肱の郎党でもある。
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鏡の里を過ぎ、警備の厳しさが予想される不破の関を避けて北へ迂回し、吹雪の伊吹山麓を抜けた義朝一行は落ち武者狩りの一段に遭遇、ここで付き従っていた美濃源氏の一人佐渡重成が戦死。平治物語は自分の顔を削り義朝を名乗って自決した、と書いている。
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もう一人の同行者 平賀義宣(義信)(父は 新羅三郎義光 の四男盛義)も別行動をとり、地盤のある信濃へと落ち延びた。残ったのは義朝・義平・朝長・鎌田政家・金王丸の五人、苦労の末に何とか青波賀(青墓)宿の長者大炊の屋敷まで辿り着いた。大炊の娘・延寿は関東と京を往来する義朝の寵愛を受け、夜叉御前(当時10歳)を産んだ仲である。一方の頼朝は雪の中で再び脱落し、道に迷って離れ離れになってしまった。
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大炊の屋敷に入った義朝は義平に「飛騨(岐阜北部)に落ちて兵を集めよ」と指示した。一方で信濃に向かえと命じた二男朝長は堅田へと下る龍下越で受けた左足の矢傷が重く、途中で断念して青墓に引き返した。その夜に敵に捕われるのを危惧した義朝が首を落した、あるいは朝長が死を願った、あるいは自刃したとも伝わっている。翌朝になって義朝は家臣の鎌田政家・金王丸の三人で小舟に乗り知多半島沿いに南下、野間の長田庄司忠致‬を頼って落ち延びて行った。
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  ※不破の関: 現在の関ヶ原町松尾(地図)、近くに不破の関資料館(公式サイト)がある。東海道・鈴鹿関(地図)・北陸道・愛発関(あらちのせき・地図)と 共に畿内
防衛を目的とする三関の一つ。この三関から東を関東または東国と呼んだ。
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一方で道に迷った頼朝は浅井の北まで歩き回った末に何とか青波賀に辿りつき、大炊の館で体を休めた後に父の跡を追って東国を目指したが、関ヶ原の近くで捕縛され京に護送された。平治物語に拠れば頼朝は出立の前に佩刀の髭切を大炊に預けており、これ以後の太刀の所在は記録にも残っていない。
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  ※疑問点が: 浅井は長政の小谷城がある近く、約30㌔東の青波賀は大垣市郊外の東山道宿駅、でも関ヶ原では10kmも西に戻ることになる。

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左:平治物語絵巻より 敗走する義朝主従(右が頼朝)  画像をクリック→拡大表示
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【 頼朝の捕縛と助命の経緯について 】
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頼朝 の容姿が若くして病没した我が子の家盛の面影に似ていたため、清盛 の継母 池禅尼 が清盛の嫡男である 重盛 と共に助命を嘆願した、そして将来を危惧する清盛を説き伏せて流罪に減刑...それがごく一般的な筋書きとされているが、実際にはもっと現実的な駆け引きがあった。
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頼朝が仕えていた 上西門院や、娘たちが待賢門院や上西門院の女房として仕えていた熱田神宮大宮司の 藤原季範 らの働きかけが池禅尼や重盛を経由して実現したのだろう。
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季範の娘で義朝に嫁した由良御前(頼朝の生母)も上西門院の女房だった。池禅尼の正確な没年は不明だが、頼朝は幕府の樹立後も池禅尼の息子 平頼盛 を厚遇し、没収した荘園も全て返還している。
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※平家盛: 清盛の異母弟で年令差は5歳前後か。久安五年(1149)2月の鳥羽法皇熊野御幸に随行し帰路に25歳前後で
病没した。この2年前には清盛の郎党が祇園社(八坂神社)の神人と闘乱事件を起し主人の清盛も窮地に陥った。もしも早世していなければ、朝廷で重んじられ始めていた家盛が平家一門の棟梁を継いだ可能性もあり、更には保元の乱で平家が分裂して争う状態になっていたかも知れない。歴史を眺めるのに「イフ」は無意味だけどね。
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清盛の生母は白河法皇に仕えた女房(諸説あり)で家盛の生母は忠盛正室(継室)の藤原宗子(後の池禅尼)、家柄から考えても家盛が嫡男になった可能性が高い。
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上西門院: 74代鳥羽天皇の皇女で兄が崇徳天皇 で弟が後白河天皇 。元服した頼朝(13歳)は皇后宮少進(職位)・蔵人(蔵人所職員)として在籍した。
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待賢門院: 鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇・後白河天皇・上西門院の母。
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【 吾妻鏡 寿永3年(1184) 4月6日 】
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没収されていた池(前の)大納言(平頼盛)の旧領34ヶ所を返還する沙汰が下った。池禅尼に受けた恩に報いるためである。
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【 平家物語に拠れば 】    ここで初めて「伊豆蛭島」の地名が現れる。
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頼朝は尾張で捕らえられ、年号が変わった平治元年の翌・栄暦元年(1160)2月9日に六波羅に連行された。当然処刑される立場だったが13歳の命に同情した清盛の継母である池禅尼の願いを聞いた重盛(清盛の嫡男)が助命を進言した。清盛は「源氏の嫡男を生かしておけば後に災いとなる」として助命を拒んだが池禅尼は「亡き忠盛公(清盛の父・禅尼の夫)なら、死んだ父の菩提を弔いたいという子供の望みを拒むことはなかったでしょう」と嘆いたため、やむを得ず伊豆蛭島へ遠流し、伊豆の坂東平氏流である 北條時政 に監督させることにした。
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※伊豆遠流: 同じく平家物語巻五・文覚 被流に「伊勢国阿濃津から舟で下り遠江国天龍灘で暴風」との記載があり、これが伊豆流罪の定番ルートだったらしい。
阿濃津は津市柳山津興(地図)付近で繁栄した主要港で、明応七年(1498)の地震と津波で壊滅し廃墟となった。到着地は伊豆国府のあった三島に近い沼津(安倍郡(静岡市一帯)に移る前の駿河国府)か。西伊豆の伝承では大久保平(現在の伊豆市の恋人岬近く・地図)の景観を愛した文覚が(毘沙門堂 (別窓)に移って頼朝と面談する前の)一時期定住した、と伝えている。大聖寺 (別窓)の項を参照されたし。
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【 平治物語に拠れば 】
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栄暦元年(1160)2月9日、頼朝は平頼盛(平忠盛の五男で家盛の同母弟、母は藤原宗兼の娘・池禅尼宗子)の部下が捕えて六波羅に連行、朝長の首も共に届けられた。頼盛家人の弥平兵衛宗清が不破の関近くの関が原で身分の高そうな若侍が隠れたのを捕えて青墓の大炊の屋敷に連行したところ裏庭に新しい墓があり、掘り返すと若者の首と胴が合せて埋めてあったので大炊に詳細を白状させ、首と共に頼朝を連行したものである。
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とりあえず身柄を預かった宗清が頼朝に話しかけると「保元の合戦で多くの親戚を失い、また今度の合戦で父や兄弟を亡くしてしまった。この後は出家して皆の菩提を弔いたいと思うので命は惜しい」と嘆いた。それを池禅尼に伝え、池禅尼と重盛が時間をかけて清盛を説き伏せて伊豆流罪に罪を減じた。
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※弥平兵衛宗清: 主人の頼盛は宗盛の連絡不手際などで元暦元年(1184)6月の一門都落ちに同行できず、宗清も頼盛に従い都に残った。
後に頼朝は池禅尼の息子・頼盛を朝廷とのパイプ役として厚遇し家人の宗清も鎌倉に招いたが、宗清は敵の恩を受けるのは武士の恥と考え、病気を称して応じず屋島の平家軍に加わった。その後の消息は不明だが、嫡子の家清が同年7月に起きた伊勢平氏の乱で戦死しているから、いずれかの合戦で落命したのだろう。

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右:朝長最期の地、青墓の円興寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓) 地図
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青墓の古名は青波賀、更に前は「おおはか」だった。赤坂宿との間地図には岐阜県最大の 昼飯大塚古墳 (大垣市公式サイト) があり、王墓→大墓が転訛して青墓になったと言われる。
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【 更に、平治物語に拠れば 】
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都から落ち延びた 源義朝 一行は青墓の長者大炊(女性)の屋敷に着いた。大炊の娘・延寿は義朝の寵愛を受けて娘の夜叉御前 (この時10歳) を産んだ関係である。かねて懇意の宿なので少し落ち着く事が出来た。
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そこで義朝は「 義平 は東山道を攻め上れ、朝長 は甲斐信濃の源氏を集め上洛を図れ、私は東海道から攻め上る」と命じた。義平はすぐに飛騨国へ出立したが、朝長は途中の伊吹山裾野の深い雪に阻まれて腿の矢傷が悪化し戻って来た。
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義朝が「頼朝ならば年少であるがこうはなるまい、では暫くここに留まれ」と言うと「ここに居れば敵に捕らわれるでしょう、お手に懸けて安心されて下さい。」と朝長が答えた。「不覚者と思っていたが流石に義朝の子だ、念仏を申せ」と太刀を抜いた。しかし大炊と延寿が泣いて説得したので「臆していたので勇気付けたのだ」と太刀を納め寝所へ入った。夜になって義朝が「朝長はどうしている」と問うと「お待ちしております」と答えて手を合わせ念仏を唱えるので胸を三度刺して殺し、首を切って体に繋げ衣類を掛けた。

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※夜叉御前: 江口腹の娘(遊女が産んだ娘)として後世の異本には載っているが成立年代の古い平治物語に記載がなく、捏造らしい。
軍記物語の記述内容から推定された成立年代を書くと、保元物語は1180年(保元の乱から24年経過)以降、平治物語は1199年(平治の乱から39年経過)以降(平治の乱は1160年)、平家物語は1200年以降(根拠は1186年の大原御幸を記載していること、その他)。これらは専門家も諸説紛々だが、いずれも事件から相当の年月が過ぎており、フィクションの比率が高まっているのが実態だ。
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※東山道を: 都を基点に近江(滋賀)~美濃(岐阜県南部)~信濃(長野県南部)~上野 (群馬県) ~下野 (栃木県)~陸奥 (東北) を結ぶ官道で現在の中山道に近いルート 。
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※腿の矢傷: 原本の「腿」は下腿・大腿の両方を意味する。私的に受けたイメージは太股だが、もちろん確定は出来ない。
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※頼朝ならば: 軍記物を含む日本文学には権力者への忖度が珍しくない。平治物語の成立時期には頼朝が天下を手中にしている。
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※大原御幸: 壇ノ浦の平家一門滅亡後に生き残って剃髪し大原に隠棲した 建礼門院(平徳子) 後白河法皇 が秘かに訪問し、心を開いて語り合ったと伝える故事。
更に詳細は 京都新聞の紹介記事 で。
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青墓の円興寺は天台宗で山号は篠尾山、延暦九年(790)に大炊氏の懇請を受けて 最澄 が開いたと伝わる。天正二年(1574)に信長の兵火で全焼、万治元年(1658年・徳川四代将軍家綱の頃)に現在地に再建された。頼朝は上洛(1190年と1196年)の際に青墓青波賀)に立ち寄っている。
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【 吾妻鏡 建久三年(1190) 10月29日 】
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青波賀の駅で長者(延壽)の娘を召し出して贈物を与えた。故左典厩(義朝)は東国と京を往復する度に延壽の娘を寵愛した、その旧交を重んじたためである。また祖父六條廷尉禅門(為義)最後の愛妾は大炊長者の姉で、乙若ら四人の男子(保元の乱後に死没)を産んでいる。、この女性と、保元の乱で死没した内記平太政遠と、義朝の知多への逃亡を助けた平三真遠、青墓長者(延壽)の四人は連枝(兄弟姉妹)、つまり内記大夫行遠の子である。
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保元物語に拠れば、義朝の父為義および義朝の弟五人(頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲)は全て船岡山 (
地図) で斬られている。それだけではなく為義と延壽の姉の間に産まれた幼子四人(13歳の乙若・11歳の亀若・9歳の鶴若・7歳の天王)も全員斬られ乳母は自害、延壽の姉も五条近くの桂川で入水自殺している。つまり大炊の一族は保元の乱で大人二人と幼子四人を死なせている、源氏とは深い因縁を共有した一族だっだ。


左:元円興寺周辺の略図       画像をクリック→拡大表示
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朝長 死没の経緯は既に確かめようもない。負傷して動きが取れなくなった朝長が自刃したか、あるいは自ら死を願いそれに応えた義朝が殺したか、足手纏いになった我が子を早めに見捨てて殺したのか。血の繋がった親子でも互いを手に掛けるのが珍しくなかったし、自分の命も他者の命も軽んじた時代である。朝長や頼朝の従姉妹に当る夜叉御前は朝長の死を悲しむあまり、杭瀬川に入水して命を絶ったと伝わる。
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  ※杭瀬川: 青墓宿の3kmほど東。付近には照手姫の伝説が多く、検索するのも面白い。
ここでは1221年の承久の乱の合戦や1600年の関が原合戦の前哨戦も行われている。
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現在の円興寺は元円興寺(跡)西側の山裾、大谷川沿いの低地を挟んで約1km離れている。2km南の美濃国分寺跡の前を北東から南西に通っていた東山道(後の中仙道)沿いが中世まで宿駅として賑わった青墓の中心部。
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伝承では「青墓の長者・大炊氏」の屋敷は国分寺から1.5kmほど東の浄土宗 如来寺(善光寺会のサイト)付近地図)とも言われるが、確証は得られていない。
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その後の青墓宿は鎌倉幕府滅亡から間がない延元三年(1338)に北畠顕家(南朝)vs土岐頼遠(北朝)の合戦による兵火などで荒廃し、宿場の機能は東の赤坂宿と西の垂井宿に移ったらしい。
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※美濃国分寺跡: 史跡公園や資料館を併設している。史跡北側には元和元年(1615)に再興された高野山真言宗の金銀山瑠璃光院美濃国分寺(正式名)がある。
史跡の詳細は 大垣市のサイト で。
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青墓宿には遊女が多かった関係から、彼女らが歌った今様の中心地でもあった。後白河法皇 は今様を集めて 梁塵秘抄 (wiki) を編纂した際に 青墓の乙前 (wiki) という当時のトップ・シンガーを青墓から呼び寄せた、と伝わっている。大炊一族の墓や朝長の墓がある元円興寺は、現在の円興寺が建つ麓からは500mも奥の斜面で、北へ抜ける円興寺峠のルートからも少し離れた、「マムシに注意」なんて立て札がある湿地に沿って遡った山奥だ。
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なぜこんな場所に36の僧坊と125の末寺を持つほどの巨大な寺院があり、豪壮な金堂・講堂・多宝塔・鐘楼などが建ち並んでいたのか、全く理解に苦しむような立地である。もちろん車で入ることはできないが、当時に想いを馳せながら歩く方が遥かに楽しい。現在では2ルートの遊歩道と少し離れた円興寺峠を辿る東海遊歩道が整備され、訪れるハイカーも多い。
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  ※今様: 簡単に表現すると「当代の流行歌」。七+五を4回繰り返して一節、この歌詞に曲を付けたのが最初で、越天楽や黒田節のパターン。
さけはのめのめ のむならば ひのもといちの このやりを のみとるほどに のむならば...の感じ。

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右:頼朝の次兄・朝長の首が葬られた積雲院  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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落ち延びる途中で 義朝 らと離れてしまった 頼朝 は関ヶ原で捕まり京都六波羅へ。頼朝が着用していた「源太が産衣」はこの時から行方不明、佩刀「鬚切」も青波賀の長者大炊が預かり、同様に消息不明になってしまう。
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朝長 は矢傷と疲労で動けなくなった。平治物語は父・義朝が「足手纏いである」として首を討った、謡本は雑兵の手に掛かるのを嫌って自刃した、と表現している。朝長の遺骸は青波賀の長者屋敷の裏庭に葬られたが、頼朝を捕獲した平家の兵が新しい土饅頭を掘り返し、首と胴をつなげた遺骸を見付けて長者を問い詰め詳細を白状させた。京に運ばれ首実検の後に四条河原に晒してあった首は朝長の守役だった大谷忠太が盗み出し、自分の故郷である袋井三川に持ち帰って葬ったという。一説に、葬ったのは首ではなく遺髪だとも伝わる。
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従って朝長の胴は青波賀の大炊家菩提寺の円興寺に、首は駿河の積雲院に葬られたことになる。積雲院の寺伝に拠れば 建立されたのは文治元年(1185)、頼朝が朝長の菩提を弔って建立した後は長く隆盛したが、明治初期の廃仏毀釈運動の影響を受けて多くの堂宇伽藍と寺宝を失った。
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建久六年(1195)の東大寺再建供養に上洛する頼朝が立ち寄って法要を営んだ伝承もあるが、これは吾妻鏡などの史料には残っていない。建久元年(1190)10月に鎌倉を出発して年末に帰着した際の記録は途中の行程がかなり省略してあり、青波賀への立ち寄りが確認できるのみ。まぁ青墓と違って頼朝に直接関係する場所ではないし、朝長の首云々も単なる伝承の可能性もあるし、所詮は異母弟の墓に過ぎないし。積雲院の地図は
こちら 、地名の友永は朝長の転訛だと思う。

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左:義朝主従が謀殺された野間大坊(大御堂寺)  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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明けて平治二年(1160)1月3日、青波賀を出発した 義朝一行は川舟に乗り杭瀬川~大谷川~牧田川~長良川~揖斐川と下って海へ出た。揖斐川河口から源氏とは縁の深かった 熱田神宮(別窓)までは約20km。
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ここを目指さずに知多半島を30km南下して野間に向ったのは、既に平家軍が固めた恐れがある熱田を避けて手薄な南を目指したのか、或いは疲労で眠り込み折からの引き潮で流されたとも考えられるし、知多半島を南下して三河湾を渡り駿河方面へのルートを狙ったのかも知れない (地図
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いずれにしろ同行していた従者 鎌田政家(政清、正家とも)の舅である野間内海荘荘司の 長田忠致 を頼ったのだが、これが運命の岐路となった。長田忠致は桓武平氏の末流で平治年間には源氏に従っていた人物である。
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長田屋敷に入った義朝は忠致と嫡子景致の饗応を受けた後に風呂を勧められ、忠致の郎党3人(橘七郎・弥七兵衛・浜田三郎)に襲われて裸のまま絶命した。危機を逃げ切った安堵と疲労が油断を生んだ、か。
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武器を持たない義朝は「せめて木太刀でもあればみすみす殺されはしないのに・・・」と嘆いたと伝わる。この言葉から「木太刀を奉納すれば願いが叶う」との伝説が生まれ、廟所の周囲には太刀を模した木の板が無数に積み上げられている。義朝と共に近臣の鎌田政家も討ち取られ、妻である忠致の娘も夫を追って自殺した。怒りに燃えて奮戦し襲撃者3人を斬り殺した義朝近習の 金王丸 は無念にも長田親子を討ち果たせず、修羅場を脱出していずこかへ失踪してしまう。
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長田一族の祖・平致頼の父は平良正、平高望(高望王)の五男で清盛の祖である 国香 の末弟である。将門の乱に連座して東国の地盤を失った致頼一族は伊勢と尾張に移り、後に国香の孫・維衡と伊勢の支配権を巡って争ったが敗訴して隠岐に配流された。後に復権して四代後の行致が河内の門真に住み、子の忠致は知多半島の野間を開拓して荘司となった。源氏には従っていたらしいが累代の臣と言うほどではなく、「主君を裏切って殺した逆臣」という評価は頼朝が権力を掌握した事による結果論だ。敵役として余りにも有名になり過ぎたから、ね。
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野間大坊は正式には鶴林山無量寿院大御堂寺。天武天皇(在位673~686)の頃に 役小角(役の行者)が創設し、聖武天皇(在位723~749)の代に 行基 が再興して阿弥陀寺とした。その後、白河天皇の承暦年間(1077~1081)に勅願を受け大御堂寺と命名された。
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また建久元年(1190)には頼朝が守本尊の開運延命地蔵菩薩を奉納している。この地蔵菩薩の当初の持ち主は嘆願により頼朝の命を救った池禅尼平清盛 の継母)。彼女はこの地蔵菩薩を14歳の頼朝に与え、20年後に父の廟に参拝した頼朝がその地蔵菩薩像を当寺に納めたもの、とされている。建久元年(1190)には頼朝が上洛途中の10月25日に立ち寄って法要を営み、更に29日には青墓を訪れている。その後の長田親子については様々な情報が錯綜している。
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【 平治物語に拠れば... 】
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長田親子は義朝の首を持ち京に上って平家に恩賞を求め、忠致は壱岐守・景致は左衛門尉の官職を得たが、さらに尾張国の下賜を執拗に求めたため「主と婿を殺した大罪人であり、場合によっては死罪に問う」と脅かされ、尾張に逃げ帰った。
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その後頼朝が関東で勢力を確立した頃になって自分たちの罪を悔い改め、赦免を願い出た。頼朝から「今後の合戦で軍功を挙げれば罪は許す。働き次第では美濃と尾張も与える」とされた。喜んだ長田親子は平家追討の戦いで必死に働き功績を挙げたが、平家滅亡の後に野間の義朝墓前で磔の刑にされた。美濃・尾張は「みのおわり」、即ち身の終りだった...
と。この出来すぎた話はもちろん軍記物の捏造だけど、面白いから座布団をあげよう!
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ついでに、長田忠致の辞世を。これも、たぶん嘘だな。     長らへて 命ばかりは 壱岐守 美濃尾張をば 今ぞたまはる
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【保暦間記には...】
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「忠致は後に捕縛され、建久元年(1190)10月の頼朝上洛の際に美濃青墓で斬首された」 とあるが、もちろん確証などない。また吾妻鏡の治承四年10月13日と14日に駿河目代 橘遠茂と共に長田入道と子息二人の記載(下記)があり、これが長田忠致親子だった可能性はかなり高い。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月 】
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甲斐の源氏勢が攻め入る噂が駿河に伝わり、駿河目代の橘遠茂は遠江と駿河の兵を動員して奥津(興津)に集結した。(1日)
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甲斐源氏と北條親子は駿河へ進軍。駿河目代が長田入道の策により富士野を迂回し甲斐を攻める情報を得て途中を襲う計画である。(13日)
甲斐源氏は神野・春田路を経て鉢田(富士宮)に至り駿河目代率いる軍勢と遭遇、合戦の末に長田入道と子息二人を討ち取り目代の橘遠茂を捕えた。夕刻に至り彼らの首を富士山裾の伊堤に梟した。(14日)
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伊堤は沼津市浮島の井出(地図)か?ここは旧東海道の脇街道で、富士川合戦に赴く頼朝勢が通ったルートでもあり首を晒すメリットは大きい。合戦場所の鉢田山=愛鷹山の古名説(波志田→ 鉢田→ 足高→ 愛鷹と変わった)に従えば、愛鷹山のある裾野市から井出までなら至近距離になる。また鉢田山=足和田山(地図)説もあり、この場合は河口湖と西湖の間にあった古道近くで、駿河ではなく甲斐になる。いずれにしろ平治の乱から20年が過ぎた事件で、平家の命運を決めた富士川合戦(10月20日)の前哨戦だった。

 
右:鎌倉 雪ノ下の勝長寿院(南御堂)跡  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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そして平家が壇ノ浦で滅亡した文治元年(1185)初秋、頼朝義朝鎌田政家 の遺骨を勝長寿院に葬り、10月末には勝長寿院の落慶法会を行っている。伊豆流人時代の頼朝は父義朝供養のため千回、郎党鎌田正家のため百回、毎朝の読経を欠かさなかったと伝わっている。惨殺された父を供養すると共に、伊吹山麓の雪道で迷った自分を捜し出してくれた鎌田正清への思いが忘れ難かったのだろう。またこの寺(既に廃寺)には後に三代将軍 実朝政子 も埋葬されたと考えられている(勝長寿院の焼失後に壽福寺に改葬している)。
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  ※勝長寿院に埋葬: 仏堂を建てたのか五輪塔か層塔かは記録に残っていない。勝長寿院の谷は比較的早くから開発された
住宅密集地で、山側の一部を除いて発掘調査さえ行われていない。
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勝長寿院は大蔵政庁の南に位置したため南御堂、また巨大な建物なので大御堂とも呼ばれた。頼朝が建造した三つの巨大な寺社の一つで、古い順に挙げると現存する鶴岡八幡宮、勝長寿院(廃寺)、永福寺(応永12年・1405に焼失、廃寺)が該当する。永福寺(ようふくじ)は奥州征討の際に見た平泉の文化に感銘を受け、関山 中尊寺(別窓)の二階大堂(大長寿院)を模して建久三年(1192)に建設したもの。ここに屋敷を構えた工藤行政が二階堂を名乗った、一族発祥の地である。
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鎌倉時代中期以後の勝長寿院は何度か焼失して徐々に衰退し、西暦1600年頃(室町以降か?)に廃寺となったと推定されている。創建当時は七塔伽藍を備えた壮大な規模で本尊は奈良仏師の成朝が彫った金箔の阿弥陀仏、藤原為久の描いた浄土瑞相二十五菩薩像を飾り、五仏堂には 運慶作の五大尊像を納めていた。現在の大御堂橋の南から雪ノ下4丁目の谷津の奥まで寺域だった(地図)と伝わっている。峰を越えた西側には約150年後の元弘三年(1333)の鎌倉幕府滅亡と共に北條一族が自刃した 東勝寺跡(高時の腹切りやぐら・別窓)があるが、私有地があるため直接往来はできない。横の尾根にはハイキングコースが通ってるんだけどね。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185) 4月11日】
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未の刻(午後2時頃)に南御堂の柱立て(上棟式)が行われ頼朝も出席した。この時に 義経 からの飛脚が到着し平家の滅亡を報告した。先月24日、長門国赤間関の海上で840余艘の兵船で平氏の500余艘と合戦し午の刻(正午)に終結、先帝(安徳天皇)は海底に没した、と。

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左:北側から、勝長寿院(大御堂・南御堂)の谷津を。  画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 文治元年(1185) 9月3日】
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子の刻(深夜)故左典厩(義朝)の遺骨が正清の首と共に南御堂に葬られた。頼朝は喪服で参列。御家人多数が供をしたが全て外にとどめられ、平賀(大内)義信毛利(陸奥)頼隆・惟義(義信の子)のみが立会いを許された。義信は平治の乱の際に義朝の供をしており、頼隆は父の毛利冠者義隆が身替わりとなって討たれ義朝を逃がした経緯があるため召されたものである。
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  ※義信と頼隆: 平治物語などに拠れば義信は17歳で平治の乱に従軍し、敗残の義朝を平家の追撃から守って三条河原に踏み
止まり奮戦。この後に義朝主従30騎は北へ逃げ、東山~八瀬~大原から途中峠(龍華越)を南東に下って琵琶湖畔~勢多~東近江に落ちるのだが、龍華越(地図)で遭遇した比叡山横川(よがわ)の僧兵と矢戦になった。
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ここで義隆(義家の六男、義朝の叔父)が首に矢を受け絶命、義朝の次男 朝長が左太股に深い矢傷を負った。これは致命傷にこそならなかったが以後の行動が制約され、結果的には青墓で命を落とすことになる。
朝長が自決したのか、義朝が足手まといの我が子を殺したのかは定かではない。
【 吾妻鏡 同年 10月24日】
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南御堂(勝長寿院)に於いて落成供養が行われた。朝9時に御家人等の中でも優れた者が要所を警護し、宮内大輔重頼が全体の奉行を行なった。堂の左右には仮屋を造り左側に頼朝の座、右は御台所政子一条能保の室(頼朝の同母姉妹)らの聴聞所(受付)とし、他にも北條殿室(牧御方)や然るべき御家人等の妻が聴聞所を設けた。
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午前10時に将軍が御束帯の装いで、徒歩で臨席。行列は先ず随兵が14人、畠山重忠千葉胤正三浦義澄佐貫廣綱葛西清重八田朝重榛谷重朝加藤次景廉籐九郎盛長大井實春渋谷重国武田信光北條義時小山朝政小山宗政 が劔を、佐々木高綱 が鎧を、愛甲季隆 が調度(弓箭)を持つ。
以下 五位六位が32人、隋兵16人、隋兵60人が東西に並び、引出物と馬30匹が続いた。

左:遺言に従って清和天皇を葬った水尾山陵    画像をクリック→拡大表示
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【 平家物語 巻十二 紺掻之沙汰】
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文治元年(1185)8月22日、高雄の 文覚上人 が頼朝卿の父・左馬頭 義朝 の遺骨を首に懸け、鎌田兵衛(鎌田政家)の遺骨を弟子の首に懸けて鎌倉に入った。去る治承四年(1180)の頃に見せた首は本物ではなく、挙兵を勧めるために古い頭骨を白布に包んで見せたもの。獄門に架けられ弔う者もいなかったが以前の従僕が検非違使に願い出て義朝の首を貰い受け東山の円覚寺に納めていた。
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頼朝は庭にかしこまって首を受け取り、居並ぶ者たちは涙を流した。左大弁兼忠が勅使として義朝に内大臣正二位を贈位した。頼朝の武勇によって亡父が名誉を得たのは目出度いことである。
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後半の「河津」の項で詳細を述べるが、頼朝は前年8月には義朝の首を京で確保していた記録があり、探し出したのが東の獄門なのか円覚寺なのかを含めてやや曖昧な部分が残る。一年後に鎌倉に運んで葬ったのは10月22日に行われる巨刹・勝長寿院の落慶供養直前に父の葬礼を行う劇的な効果を狙った演出で、吾妻鏡がそれに合せて日付を調節しているのが面白い。
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  ※円覚寺: 清和天皇 は貞観十八年(876)11月29日に 陽成天皇 に譲位し、元慶四年(880)3月に終焉の地と定めた水尾山寺(地図)に入った。
その後に病を得て粟田口の円覚寺に移り、12月4日に30歳の若さで崩御した。後継の57代陽成天皇は「狂気の帝」の汚名(捏造の可能性あり)を受けて15歳で退位し、こちらは80歳の長寿を全うしている。従僕が義朝の首をここに納めたのは源氏の祖である清和天皇を葬った所縁だろう。
ちなみに、この円覚寺は応永二十七年(1420)に焼失して廃寺となり、名跡は水尾山寺が継承した。清和天皇陵墓は水尾山陵として寺の裏山に位置する。陽成天皇の陵墓は左京区浄土寺真如町の神楽岡東陵、平安神宮の北東に位置する(地図)。

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左:頼朝の長兄・悪源太義平の首は新田荘へ  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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頼朝の異母兄4で長兄でもある 悪源太 義平 は青墓から飛騨へ落ち延びたが、義朝死亡の噂を聞いた従者が逃亡したため単身で都に入り、清盛暗殺を狙って三条烏丸に隠れていた。その後に追討兵の襲撃を受け一旦は逃れたが、石山寺の近くで難波三郎経房の郎党に捕縛され六条河原で斬られた。義平の首は妻の 新田義重 の娘が菩提を弔うため新田荘に持ち帰ったという。彼女は剃髪して妙満尼を名乗り、清泉寺を建立して首を葬ったと伝わる(地図)。
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【 難波三郎経房と兄の次郎経遠について 】  平家物語や源平盛衰記にはこの兄弟が再三現れる。
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嘉応二年(1170)7月3日に摂政藤原基房の牛車が御所から退出した際に三条京極で下車の礼を怠った 清盛の孫(重盛 の子)越前守資盛を咎め、郎党を打ち据える事件があった。その報復に清盛の命令を受けて難波経遠と妹尾兼康が基房の牛車を襲い散々の狼藉を働いている。これには重盛黒幕説もあり、平家物語は重盛を思慮深い道徳家で清盛を短気な欲深者として描いていたため筋書きを変更したか...真実は判らない。
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新田義重は八幡太郎義家の孫。父の 義国 が立荘し嫡子 義康 が継承した足利荘を離れ新田荘を築いた人物。義賢・秩父党・藤姓足利党とは緊張関係、義朝や畠山一族とは協力関係にあった。秩父足利合戦で勝利した後は北関東の覇権を確立している。
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【 秩父足利合戦とは・・・ 】
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伏線として、為義 と嫡男 義朝 の反目がある。在京していた義朝は長男の悪源太義平を動かして北関東進出を狙い、河内源氏の棟梁だった父の為義はその動きに対抗して次男 義賢 を上野国多胡郡(現在の吉井町)に派遣し、北側から南関東への進出を狙った。義平は新田義重の娘を妻にし、義賢は秩父平氏の家督を継承した 秩父重隆 の娘を妻としており、重隆は利根川を越えて足利荘や新田荘との小規模な衝突を繰り返していた。
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結果として重隆は義賢と共に武蔵大蔵で義平に殺され、為義と義朝の関東に於ける代理戦争は義朝・新田連合の勝利となり為義側は駆逐された。しかし平治の乱で義朝が没した後は平家の全盛時代となり、畠山重忠 の父・重能 など秩父平氏一族は平家に臣従して勢力を保つことになる。

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右:太田市徳川町(新田荘)に残る新田義重夫妻の墓    画像をクリック→拡大表示
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新田一族は基本的に平家と蜜月関係にあった。早くから 頼朝 の陣営に加わった 足利義兼 に較べると、平宗盛 の郎党として仕えていた 新田義重 は参加が遅れ、更に頼朝打倒の兵を集める (と誤解される) 動きまで見せた。
このため平家との合戦や後日の奥州藤原氏追討の戦役でも活躍の場を与えられず、更には頼朝が義重の娘(義平の寡婦・妙満尼)に艶書を送り側妾に望んだ際もこれに応じず一層の不興を買ったと伝わる。
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北條氏とも縁戚関係を結んで栄えた足利一門に比べて新田一族の処遇には大きな差がついて零落を続け、これが元弘三年(1333)5月の 新田義貞挙兵の伏線ともなった。鎌倉幕府の滅亡後に、義兼の直系子孫である 足利尊氏と 義重の直系子孫である新田義貞が北朝と南朝に分かれて戦いを繰り返したのも面白い。
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  ※足利の動向: 頼朝挙兵前の足利は 藤原秀郷 の末裔である藤姓足利氏(当主は足利俊綱)が 平重盛 の郎党として支配権を
ほぼ掌握していた。義兼が頼朝に味方したのは源氏一門だったのが大きな理由だが、平家の威光を背景にした藤姓足利氏を排除するためには関東をほぼ制圧した頼朝の軍事力を後ろ盾にする必要があった。
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つまり、源氏 vs 平家の戦いであると同時に 源姓足利氏 vs 藤姓足利氏という、地域の支配権を巡る代理戦争の色彩が濃い。義重の参戦が遅れたのは新田荘の領家である藤原忠雅が 清盛 の後ろ盾を得た太政大臣だった事などによって義重の支配体制が安定していた側面が大きい。
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  ※頼朝の不興: 父親として当然の拒絶だろう。鎌倉は義平夫婦に縁の深い地だが嫉妬深さで評判の政子がいる、頼朝の側妾になれば娘の不幸は避けられそうもない。
そんな訳で、義重は妙満尼を還俗させ家臣の妻にしてしまう。
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  ※新田の立荘: 保元二年(1157)に藤原北家の正三位忠雅に開発所領を寄進して義重が下司職となり上野国新田荘が成立している。清和源氏は藤原北家を主君に仰ぐ
伝統があり、この頃から 以仁王 が挙兵する治承四年までの20数年間、新田一族は平和な繁栄を続けていた。
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【 吾妻鏡 養和二年(1182) 7月14日】
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新田義重が頼朝の勘気を受けた。義重の娘は故・悪源太義平の寡婦で、過日頼朝は 伏見廣綱 を通じて艶書を送り、一向に良い返事が得られないため義重に意向を伝えたのだが義重は思慮を巡らした末に、彼女を師(そち)六郎と娶わせてしまったためである。
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悪源太義平は永暦元年(1160)に20歳で斬首されている。その時に彼女が16歳だと仮定しても、頼朝が艶書を送った養和二年(1182)には38歳になっている。頼朝の恋慕と勘気は気まぐれか、熟女好みか(笑)、それとも新田にプレッシャーを与える意図があったのだろうか。

 その弐 頼朝の挙兵前夜と源氏の重宝について 


左:衛府(えふ)の太刀        画像をクリック→明細にリンク
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衛府とは天皇や皇族の身辺警護・治安維持などを主な任務とした軍事組織で、平安中期以降は近衛府・衛門府・兵衛府(それぞれ左右の2府)を置いた。督・佐・尉・志の四等官の下に数百人の武装兵が従っている。平治の乱で敗れるまでの 頼朝 は兵衛府の佐で、兵衛佐あるいは佐殿と呼ばれる元になった。彼らが公式に帯びたのが衛府の太刀、この時代に定着した古式の日本刀を差す。
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広く知られている鍛冶師の 文寿 は平安時代中期(平将門 が活躍した頃)に奥州一関周辺で作刀を続けた舞草(もくさ・まいくさ)鍛冶の一人。舞草鍛冶は最も古い日本刀鍛冶集団の一つであり、その作刀は「衛府の太刀」として、古い物語などにもたびたび登場する。平安時代の中期、両刃の直刀から片刃の湾刀(所謂日本刀の形)へ移行し定着した時代である。
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舞草鍛冶集団の祖は承平年間(930年代)に奥州で作刀を始めた刀工・安房(やすふさ)で、文寿はその弟子らしい。安房の息子・森房は源家の刀工も務めた、と伝わっている。奥州藤原氏の滅亡に伴って刀工の多くが鎌倉など東国に移住し、やがて鎌倉時代末期の相州鍛冶・新藤五国光や南北朝時代の五郎入道正宗などを輩出する流れとなる。
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舞草の刀工としては、朝廷に刀3000本を献じた光長、髭切の作者文寿、古備前正恒の父安正などが古伝書に名を残している。現存する最古の古伝書・観智院本の中の「銘尽」の条には「神代より当代まで上手之事」とされた42名の刀工の中に、舞草鍛冶であろうと推定される者が8人も含まれていると言う。奥州の作刀技術は大陸から樺太経由で伝わったなど諸説あるが、製鉄技術が確立した頃から作刀の主流は奥州の鍛冶集団だった。
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右:日本刀発展の過程  古代刀と鉄の科学(雄山閣)より引用  上から順に、
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蕨手刀・・・狩猟と戦闘を兼用する造り。刀身と柄が一体鍛造で握りの先端を蕨形に曲げてある。片手で扱いやすい構造で、
この頃から毛抜透蕨手刀に移行する時代にかけて硬鉄を使った刃の部分を炭素含有量の異なる軟鉄で巻いて鍛造する作刀法が定着し始めた。 古墳時代終期、6~8世紀の東北で多く作刀され副葬品として散見される。
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毛抜透蕨手刀・・・刀身と柄は一体鍛造、更に柄の中央を毛抜き形に抜いて重量バランスを調整すると共に手に伝わる斬撃を
柔らげる効果を付加している。平安時代初期に陸奥の胆沢地域(現在の奥州市)を拠点とする蝦夷が作り始めた、 アテルイ の時代だね。
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毛抜形刀・・・刀身と柄を一体鍛造にして握り部分の角度を強くし、「斬る機能」を高めている。直刀→ 曲刀に向かう初期
の日本刀の原型で、蝦夷の抵抗が鎮圧され陸奥が朝廷の支配下に入った平安時代初期、800年代初頭か。
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毛抜形太刀・・・いわゆる衛府の太刀の初期型。刀身と握りは共柄で毛抜き状に抜かれ、斬撃を柔らげる実戦的な構造を継承している。
後に毛抜き部分が目釘の穴へと変化し、古式日本刀の様式が概ね完成する。


左:一関 舞草神社(舞には人偏 が付く)  画像をクリック→拡大表示
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平泉から北上川を隔てて東側に一関市舞草地区があり、観音山の中腹にある舞草神社の周辺から北西の白山岳(別称・鉄落山)にかけての一帯に作刀の工房があったと伝わっている。
既にその痕跡は失われ、辛うじて鍛冶遺跡の残骸(炉の跡など)が草の中に確認できる程度らしい。
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社伝では大同二年(807)に 坂上田村麻呂 の創建とされるが、史料では彼の蝦夷討伐遠征は延暦二十二年(803)に終っており、社伝とは合致せず、当初は吉祥山東城寺と称する神仏習合の寺院だった。
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発掘調査ではタタラ(溶鉱炉)の跡や大量の製鉄残滓が発見されているが、当時の刀は現存しない。一関市博物館収蔵の一振り(鎌倉時代後期の作)に舞草の銘が切られており、現存する舞草刀の中ではこれが最古の作例である。同博物館の刀剣収蔵品は こちら(公式サイト) 、館蔵品→ 舞草刀と刀剣 を参照。
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春夏は蛇が怖いし熊はもっと怖い。雪の季節は大変だし、辛うじて車が通れる未舗装道路(東参道)が通じているのが救いか。ちなみに正しくは「人偏が付く舞」、PCでは表示できない。(神社周辺の地図)。
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【 源氏の家宝・銘刀髭切 余聞 】
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臣籍に下った 経基王 の嫡子 源満仲(912~997年)が兵庫に荘園を拓いて強力な武士団を結成し、摂津源氏の祖となった。満仲が奥州の鍛冶師 文寿 に鍛えさせた二振りの一つが「髭切丸」、罪人で試し斬りをすると首と一緒に鬚まで斬れたため髭切と命名した、と伝わる。
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ちなみにもう一振りは膝丸で、こちらは一太刀で敵兵の両膝を切断したほどの切れ味だった。平家物語に拠れば、源頼光 から数人の手を経て 義経 に渡り薄緑と名を変えた。義経死後は 頼朝 に渡り、そこで再び髭切と一緒になったとされているが真偽は疑わしい。単なる物語と受け取るべきか。

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右:源頼光佩刀の童子切安綱 東京国立博物館蔵     画像をクリック→拡大表示
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さて...髭切丸は源満仲(延喜12年・912~長徳3年・997)から嫡子の頼光(天暦2年・948~治安元年・1021)に伝わり、頼光四天王の一人・渡辺綱がこの太刀で一条戻橋(地図)に出没する鬼の腕を斬り落とした経緯から「鬼切丸」と改名。一条戻橋は京都御所西の一条通堀川で古くからの刑場があった経緯から現世と来世の境界と噂され、当然ながら地獄の卒である鬼も闊歩していたらしい。
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現在の橋はもちろん立派なコンクリート製だが、古い橋(と言っても2~3代前)の欄干を使った「戻橋」が100mほど北にある 晴明神社(公式サイト)の参道に再現されている(画像)。
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その後の鬼切丸は源氏の棟梁が代々相続し「獅子の子」から「友切」に改名したと伝わる。平治の乱で敗北した 源義朝 の夢に八幡大菩薩が現れ、「鬚切と膝丸の名を何回も変えたから力が失せた、元に戻せば力も戻る」と教示した。そして「鬚切」の名に戻した太刀を持つ 頼朝 が武門の棟梁として天下を統一したのだ、と。この伝説に拠れば「髭切」はそのまま頼朝の手元に残った事になるのだが...
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現在の「鬼切丸」は東京国立博物館が収蔵している。この経緯は残念ながら確認していないが、足利将軍家→ 秀吉→ 家康→ 秀忠→ 松平忠直(越前北ノ庄藩主)→ 越後高田藩(松平家)→ 津山藩(岡山松平家)→ 明治維新の廃藩置県に伴って松平家所有→ 戦後に手離して個人所有→ 文化財保護委員会買取(1962年) → 国立博物館、の経緯。
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【 続・源氏の家宝 鬼切丸 余聞 】
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鬼切丸=髭切で刀工が文寿だとすると、多くの矛盾が生まれる。未確認ながら足利の鑁阿寺に「髭切」が伝わっているとの説があり、国立博物館収蔵の事実と相容れない。
鑁阿寺が髭切の管理を委託している可能性もあるが、平治物語が正しければ銘は文寿か舞草なのに、安鋼と刻まれている。
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さらに興味深い伝承としては...元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡して 後醍醐天皇 による建武の新政がスタートするが、足利高氏(尊氏)が叛いて南北朝の動乱に突入。このとき斯波兼頼は父の家兼とともに叔父斯波高経の本拠地北陸へ移り、越前で南朝の 新田義貞 勢と戦って高経の部下・氏家重国が義貞の首級を挙げた。この時に義貞が佩いていたのが鬼切と鬼丸の二振りで、重国はこれを高経に献上。その一振りが兼頼に渡り最上家の家宝になった、と。さらに最上家は後日に菅原道真を祀る京都の北野天満宮に「鬼切」を寄贈、現在は同所の 宝物殿(公式サイト)で拝観できる。
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鬼切は国の重要文化財で 刻まれた銘は國綱、2尺7寸9分2厘(85.4cm)。斯波兼頼の詳細はこちら (Wiki) を参照すると判りやすい。さらに、もう一振りの「鬼丸」は北條家の重宝で 北條高時→ 新田義貞→ 足利家家宝→ 足利義昭→ 信長→ 秀吉→ 本阿弥家→ 後水尾天皇家→ 再び本阿弥家→ 徳川吉宗→ 天皇家→ 現在は宮内庁所蔵...という事になっている。要するに、この刀に纏わる話には捏造っぽい匂いも漂っている。
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話のついでに...広く知られた五振の日本刀「天下五剣」は次の通り。伝承などが含まれるため、純粋に刀剣として優れているか否かは諸説あり。

 名称 
 指定・他   刃長(cm)   反り(cm)   刻銘    作刀者 
 時代・地域・管理者 
 童子切   国宝    79.5    2.7   安綱   安綱   平安時代中期 伯耆国(鳥取県) 東京国立博物館蔵 
 鬼丸   皇室御物    78.2    3.2   國綱   國綱   鎌倉時代初期 山城国(京都南部) 宮内庁蔵 
 三日月宗近   国宝    80.0    2.7   三条   宗近   平安時代末期 山城国(京都南部) 東京国立博物館蔵 
 大典太   国宝    65.8    2.7   光世   光世   平安時代末期 筑後国(熊本南部) 旧加賀藩・前田育徳会蔵 
 数珠丸   重文    81.1    3.0   恒次   青江恒次   鎌倉時代初期 備中国(広島) 尼崎市本興寺蔵 日蓮の護持刀 


左:古都足利の鑁阿寺(ばんなじ)  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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源頼信頼義→ 義親→ 為義義朝と続く河内源氏嫡流は 頼朝頼家実朝 と続いて断絶したが、義親の弟 義国 の系は更に長く繁栄した。その義国嫡流である足利氏の氏寺・鑁阿寺(足利市)に「髭切」と伝わる太刀が所蔵されているとの噂。上記した通り所蔵の真偽だとか、そんな太刀が実在する事さえ不明なのだが...
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平治の乱から約60年後の承久三年(1221)に 後鳥羽上皇 が鎌倉幕府(二代執権北條義時)の打倒を計って承久の乱が勃発、朝廷に兵を向けるのを躊躇う足利義氏千葉胤綱宇都宮泰綱ら幕府中枢の御家人を政子が説き伏せ、黄金造りの太刀を与える場面を吾妻鏡や承久記が描いている。
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その際に義氏に与えた一振りが頼朝が遺した源氏の重宝「鬚切」で、それが足利家の家宝として今に伝わり鑁阿寺が秘蔵しているとしたら...確かに話の筋は通るけど、鑁阿寺の坊主に聞いても判らないだろうな。
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ちなみに承久の乱は鎌倉方の圧倒的勝利。首謀者の後鳥羽上皇は流刑地の隠岐で崩御、順徳上皇は佐渡で自殺、倒幕計画に反対だった土御門上皇も阿波の流刑地で崩御、院の近臣も悉く処刑されて幕を閉じた。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221)5月19日】   たぶん捏造だろうけど、政子による御家人の叱咤激励
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尼御台所政子 は御家人らを御簾の前に招き、秋田城介 安達景盛 を介して語った。
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「誰もが心を一つにし、私の最期の言葉と思って聞くように。故 頼朝将軍 が朝敵を倒し関東に幕府を樹立してから官位も俸禄も山より高く海より深い恩を蒙ったのは周知の事実である。しかしいま、逆臣の讒言によって理の通らない綸旨が下された。名誉を重んじる一族は一刻も早く 藤原(足利)秀康三浦胤義 らを討ち取り、歴代将軍が遺した偉業を全うせよ。ただし、院に従うのを願う者はすぐに申し出るが良い。」
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集まった御家人は悉くこの言葉に応じ、涙を流す者も少なくなかった。ただ命を惜しまず恩に報いようと考えた。
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八幡太郎義家 の四男で河内源氏三代目の 源義国 は相伝領の足利を安楽寿院(鳥羽上皇系)に寄進し荘園として成立させ、義国三男の義康(大治ニ年・1127~保元ニ年・1157)が相続して 足利義康 を名乗ったのが源姓足利氏のスタート。ただし義康は31歳で病没したため三男の 義兼 が惣領を継承し、鎌倉幕府の運営に協力して一族発展の基礎を築いている。
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  ※源姓足利氏: 源氏の子孫だから源姓。他に
藤原秀郷(俵藤太)の子孫を名乗る藤姓足利氏が平家の家臣として地域の覇権を争っていた。平家全盛の頃は藤姓足利氏が遥かに
有利だったが、頼朝が東国を平定すると共に藤姓足利氏は滅亡、挙兵当初から協力した源姓足利氏が下野南部の支配権を掌握した。一種の武蔵・下総・相模で多発した代理戦争である。藤姓足利氏の詳細は後段の「籘姓足利氏の史跡」の項に掲載してある。

右:鑁阿寺と足利学校と観光協会駐車場     画像をクリック→拡大表示
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足利荘を義康に相続させた 義国 は長男の 義重(義康の異母兄)と共に足利南西部に進出、渡良瀬川と利根川に挟まれた荒地を開墾して19郷を支配し更に37郷を開発、保元二年(1157)にはその私領を藤原忠雅(清盛 に近い公卿で従一位・太政大臣)に寄進、下司職(実務担当の荘官)として実権を握り、嫡子の 義兼 がこれを継承した。
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義重は更に周辺の開発に力を注ぎ、嘉応二年(1170)の目録に拠れば南北20km・東西13kmの広大な荘園となった。本領は三男の嫡子義兼が相続し、周辺に広げた所領は長男の義俊(里見)・二男の 義範(山名)・四男の 義季(世良田)・五男の経義(糠田)などの男子が受け継いで更に勢力を広げていく。
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義国が没したのは久寿二年(1155)つまり平家が実権を握り始めた頃。義重が活躍したのも平家が傾き始める前だから頼朝挙兵に呼応しなかったのは必ずしも新田源氏の情勢判断ミスではない。
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立荘の際に平家との関係を深めていた事、甲斐源氏棟梁の 武田信義 と親しく交わっていた事、北関東を支配下に置いて新興勢力の 頼朝 を格下に見ていた事などが起因して鎌倉勢への合流が遅れ、早々に(要するに、生き残りのため)参陣した足利氏との間に大きな処遇の差が生まれてしまう。
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建久七年(1196)、足利氏二代目の義兼が自分の邸内に持仏堂を建て、守り本尊の大日如来を祀ったのが鑁阿寺の始まりである。
義兼を相続した三代 義氏 が父の菩提を弔うため天福二年(1234)に大御堂(現在の本堂)を建て、堂塔伽藍を整えて一門の氏寺とした。更に四代 泰氏 は南を除く鑁阿寺の三方(北東西)に各四寺を開き、西側の千手院を学問の中枢とし、高野山や 根来寺(公式サイト)の学僧を招聘したと伝わる。
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土塁と堀に囲まれた鑁阿寺の寺域は概ね正方形で、約1万3千坪。鎌倉時代の武家館の面影を見事に残し、大正11年に国史跡に指定された。すぐ横には日本最古の大学とされる足利学校がある。義氏は53歳で出家し建長六年(1254)に66歳で死没、墳墓は本城3丁目の 法楽寺(別窓)に残る。
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  ※足利学校: 正確な起源は諸説があって確定できない。古い順に並べると ①小野篁が承和年間(840年頃)に創建、 ②下毛野国が成立した八世紀、
③12世紀末に足利義兼が創建 ④13世紀初頭に上杉憲實が創建、などがある。平安時代の創建で義兼が修復、だろうか。

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左:法界寺(樺崎寺)と運慶作の大日如来像  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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多少時代が前後するが、文治五年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした 頼朝 は遠征の際に 中尊寺(別窓)の大長寿院(二階大堂)を見て深い感銘を受け、鎌倉凱旋後に巨大な永福寺(ようふくじ・既に廃寺)建立に着手した。当時の鎌倉の常識には「二階建ての巨大建造物」という概念がなかったらしい。
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藤原氏初代の 藤原(清原)清衡 は奥州の蝦夷を含む全ての人々や禽獣までが長く続いた戦乱に苦しめられた悲劇に思いを馳せ、深い信仰心から中尊寺を造営したのだが...その本質を理解していない頼朝は二階大堂の姿だけを模倣したに過ぎない。
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堂塔群の中心に大長寿院を模した大御堂を造った故に地名が二階堂となり、その近くに居館を構えた工藤氏の庶流が二階堂氏を名乗った。藤原南家の子孫で狩野氏の縁戚に当る 工藤(二階堂)行政 が二階堂氏の祖とされている。
永福寺跡は発掘調査で壮大な規模が明らかになった。その詳細は こちら(参考サイト)で確認できる。
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頼朝に率いられて遠征した鎌倉御家人たちもまた、頼朝と共に奥州平泉文化に感銘を受け、自分の所領にも競ってミニ大長寿院と浄土庭園を造成した。建久五年(1194)に益子の山裾に阿弥陀堂を建てた 宇都宮朝綱 も同様で、時代の推移に従って阿弥陀堂→ 地蔵堂→ 地蔵院に変り、宇都宮一族累代の廟所(別窓)を併設して現在に伝わっている。
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下野の 足利義兼 も所領の郊外に法界寺(後に地名から通名を樺崎寺)を建て、山裾に浄土庭園を造った。開山和尚は伊豆走湯山の理真朗安、義氏 に家督を譲り引退した後の義兼はここに隠棲して生涯を終えている。正治元年(1199)年3月8日に没した後は法界寺を廟所として葬られ、死後三年を喪に服した嫡男義氏が廟所の鎮護として勧進したのが現在の樺崎八幡宮。義兼が残した血の遺書に倣って赤く塗られていたため赤御堂と呼ばれた、とも伝わる。
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 ※血の遺書: 予成神可為此寺鎮守 将開一眼 閉一眼 開一眼者為見 此寺之繁昌 閉一眼者 為上見此寺之衰徴也 此寺之繁昌者 則子孫之繁昌 
此寺衰徴者 子孫深愼而巳  義兼が自らの血で記した遺書の内容とは、
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予は神になり寺を守る。一眼は寺の繁栄を見るため開き、一眼は寺の衰微を見ぬため閉じる。寺の繁栄は即ち子孫の繁栄、力を合せよ。
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本来の呼称は樺崎寺ではなく法界寺。真言密教での鑁は金剛界、阿が胎蔵界を表す。鑁阿寺の「大御堂」に対応して通称は下御堂、複雑な真言密教の教理に従って法界寺と名付けた。これは義康が妻の 時子 を弔って法玄寺を、義兼の庶長子・義氏が法楽寺を(共に下段)建立した事と密接に関係している。
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建久四年(1193)には「法界寺仏事次第」の記録が残っているが、地名を冠したのは文和三年(1354)に現われる「樺崎寺別当」が最初となる。また応永二十八年(1421)には四代鎌倉公方の足利持氏が父(三代満兼)の十三回忌供養を「椛崎(樺崎)法界寺道場」で営んだ記録があり、室町時代までは正式名称として法界寺が使われていた。

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右:足利義氏の菩提寺 法楽寺 (少し時代が下る)  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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足利義氏義兼 の三男で、母は 北條時政 の娘 時子。長兄で庶子の 義純畠山重忠 の寡婦(時政の娘、政子の別の妹)を娶って畠山の名跡を継ぎ、更に次兄の義助が承久の乱(1221年)で戦死したため、残った義氏が家督を継承した、との次第となった。
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実質的な初代だった父の義兼が40歳で出家し家督を義氏に譲ったのも、義兼の軍事的才能を警戒して排斥に走る可能性のある 頼朝 への恭順を表した結果とされる。頼朝による排除粛清は肉親の 義経範頼 に留まらず甲斐源氏や新田一族まで及ぶ中で、生き残りを図る手段を講じる必要に迫られたのだろう。
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家督を継いだ義氏もまた警戒心を保ち、頼朝の没後は母の実家である北條一族に全面協力して二代執権 義時 と三代執権 泰時 を支え、更には泰時の娘を正妻に迎えて北條氏寄りの立場を守り続け、源氏の同族や古参御家人が零落する中で姻戚関係を生かしつつ北條氏の強権による粛清から一族を守った。もちろん「いつかは覇権を」の夢を抱きつつ、忍従の150年を過ごしたことになる。
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義氏は仁治三年(1241)に出家し、61歳の建長元年(1249)に法玄寺北の山裾に浄土庭園を造って法楽寺を建立した。当時の堂宇は江戸幕末の万延元年(1860)に山門を残して焼失したため明治元年(1868)に再建し、更に昭和五十八年(1983)に銀閣寺を模して再建したもので、確かに良く似ている。銀閣寺を建てた室町幕府八代将軍の義政も、足利氏にとっては偉大な先祖の一人である。
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ちなみに、長兄の義純は父の従兄弟である
新田義兼(足利義兼と同名)の娘と既に婚姻し二人の息子(時兼と時朝)もいたのだが、妻子と離縁して畠山の名跡を継いだ。足利と北條の双方が縁戚による協力体制を重視した事になる。
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90年後には義兼から七代後の 新田義貞 が、足利義氏から六代後の 高氏(尊氏)らと協力して北條一族を滅ぼし、鎌倉幕府の歴史に終止符を打つとは露とも知らず...更には足利氏と新田氏が南北朝に分かれて雌雄を争う結果になろうとは想像もしなかっただろう。

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左:足利義兼室 時子(政子の妹)の菩提寺・法玄寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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浄土宗の 法玄寺(公式サイト)は足利一族の菩提寺である鑁阿寺から500mほど西の山裾に位置する。北側の頂には 織姫神社(公式サイト)、さらに駐車場を経て高台に登ると展望の開けた織姫公園へ、尾根道を辿れば藤姓足利氏が砦を置いた両崖山に至る。頂上には 機神山山頂古墳(はたがみやま・外部サイト)があり、本来は立ち入り禁止なのだが夜景が見事なので若者たちのデートスポットになり、特に花火大会(8月第一週)の夜にはラッシュになる。
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法玄寺の起源は足利義兼が妻時子の菩提を弔って邸内に仏堂を建てたのが最初である。彼女は北條時政の娘で、頼朝の妻 政子と、阿野全成(頼朝の異母弟)の妻 阿波局保子の妹に当る。
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治承五年(1181)2月に足利義兼に嫁し、文治五年(1189)に嫡男の義氏を産んでいる。法玄寺には時子の自害に関する幾つかの伝承が残っており、これが鑁阿寺の起源にも関係しているのが実に興味深い(地図)。
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筋向いの狭い駐車場に停めるよりも法楽寺の横から道なりに織姫神社の駐車場に登り、長い石段を下って法玄寺山門に至るルートに趣がある。鑁阿寺西門から法玄寺山門までは約500mだから、歩くのが嫌でなければ足利駅寄りの観光用駐車場地図を基点にして周遊するのも面白い。
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足利を立荘した
源義国義家 の三男で 足利義康新田義重 の父)は晩年に長男義重と共に新田を開拓し広大な荘園を築いた。元弘三年 (1333)には義重から七代後の 義貞 が鎌倉幕府と北條一族を滅ぼすのだが、この詳細と新田荘に残る史跡のレポートは 【 鎌倉時代を歩く 四 】に記述してある。

 
右:秀郷所縁の唐沢山城址と伝・秀郷の墳墓、他  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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足利から10kmほど離れた佐野市郊外には 藤原秀郷 が本拠地を構え、後に関東七名城のひとつと言われた唐沢山城址がある。秀郷の出自は不明な点が多く、藤原北家魚名流(藤原房前の五男・魚名が始祖)とする説や下野の土豪出身説、母方の姓である藤原を名乗った、などの説がある。
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唐沢山築城は延長五年(927)、秀郷が在庁官人として勢力を広げ下野国押領使に任ぜられた前後と推定されている。
秀郷は幼い頃に京都の田原に住んだ経歴から別名を俵藤太(田原出身の藤原の長男)と呼ばれ、大百足退治の逸話で名高い。
記録によれば、関東を制圧して新皇を僭称した 平将門平貞盛 と力を合わせ天慶三年(940)2月に討伐して従四位下に叙され、下野守・武蔵守・鎮守府将軍などを兼任している。
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本領の下野一帯には秀郷所縁の伝承や史跡が多く残っており、足利市郊外の鶏足寺にも秀郷が将門調伏を依頼した経緯が伝わっている。「秀郷の墳墓」の末尾を参照されたし。
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唐沢山の頂上一帯に現在も残っている城の遺構は石垣の一部に秀郷時代の痕跡を残しているが、大部分は秀吉の家臣だった佐野房綱が配下の武将・富田左近将監の次男信吉を養子にして旧領の3万5千石を安堵された時代の遺構だろう。慶長六年(1601)閏11月の江戸大火(全域が焼失と伝わる)に際して、唐沢山からの遠望で大火を知り真っ先に火事見舞いに駆けつけたのに...「将軍の座す江戸を見下ろすのは無礼」と家康を激怒させ信吉は信濃に流罪、唐沢山城は廃城となった。実際の目的は外様大名の移封であり、関東有数の堅城としてアンチ徳川の拠点になる可能性、その排除である。

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左:籘姓足利氏の史跡 福厳寺と両崖山城址と御厨神社  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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鑁阿寺の2km西、臨済宗建長寺派の多宝山福厳寺(地図)。創建は寿永元年(1182)、頼朝 が鎌倉に段葛を造成した年である。開基は 足利忠綱(藤姓足利氏当主 俊綱 の嫡男)、開山和尚は鑁阿寺と同じく伊豆山権現般若院の理真上人が務めている。鎌倉に於ける頼朝の動きと下野国でも覇権争いが微妙に連動する。
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忠綱が父母の菩提と供養のため創建したと伝わり、源姓足利氏の当主義兼と正室の時子(時政の娘で政子の同母妹)の持仏である観音像を祀っており、源姓と藤姓の両足利氏と北條氏が同居しているのが面白い。
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また足利市の中心部から少し南寄りにある華厳寺(臨済宗建長寺派・地図)の山門には何故か三つ鱗紋(北條紋)が付いていた。この時は何となく通り過ぎてしまったが、足利氏の引両紋が主流の町で三つ鱗紋の存在は気になるので次回は関係を調べたいと思う。
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概略を調べた限りでは、平安時代の中期には 藤原秀郷 を祖とする籘姓足利氏と 八幡太郎義家 を祖として足利に土着した 源義国 は足利エリアを棲み分けて共存していた。やがて源平の争いが激しくなると共に新田・足利・小山連合は籘姓足利氏の領域を侵食し、総合戦力に劣る籘姓足利氏は駆逐されていく...まぁ個人的に敗者の歴史の方に惹かれるので、足利義兼から尊氏に続く家系だけが歴史の表舞台を駆け抜けた、とは思わない。何しろ現状では籘姓と源姓の勢力範囲さえ不明確なのだから。



右:少し脱線、佐野源左衛門の墓所と「鉢の木」について  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【謡曲「鉢の木」について  右画像は佐野市ではなく、群馬県高崎市の常世神社の表示】
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鎌倉幕府の第五代執権 北條時頼 は職責を赤橋流の長時に継がせ、全国の守護地頭に不正や悪逆がないか見廻るべく旅の僧の姿で諸国行脚の旅に出た。その途中の上野国佐野庄で雪に道を阻まれたため粗末な家に一晩の宿を頼んだが、主の佐野源左衛門は貧困を恥じて一度は断ってしまう。しかし妻の言葉もあって思い直し、囲炉裏で燃す薪もないため大切にしていた鉢の木(盆栽)を折って火をつけ、時頼を饗応した。
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  ※執権の継承: 時頼の嫡子 時宗 が6歳だったため二代の執権を挟み、18歳になって第八代執権に任じた。従って執権着任は
五代時頼→ 六代 長時→ 七代 政村→ 八代時宗の順となる。
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  ※上野国佐野庄: 佐野は下野国に含まれる(上野国は現在の群馬県)から、佐野市の主張は少し苦しい。
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佐野源左衛門は元々はこの地の旧家だったが親戚のために土地財産を奪われた事、今は貧しい暮らしであるが「いざ鎌倉」となれば真っ先に駆けつける気概を失っていない事などを時頼に語った。もちろん、時頼が幕府の重臣なのは知らずに...。
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後に鎌倉に異変が起こり、時頼が全国の武士に召集を掛けたときに佐野源左衛門は痩せこけた馬で真っ先に駆けつけた、という。感動した時頼は源左衛門の旧領を安堵し、更に「鉢の木」を燃した礼として木の種類にちなんだ加賀の田・越中の井・上野の井田の三ヶ荘を与えたという、わざとらしい話。

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左:鞍馬寺から貴船に続く木の根道   画像をクリック→ 拡大表示
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義経記に拠れば、将来の出家を前提に鞍馬寺に預けられた幼い牛若丸(後の 九郎義経)が天狗(実は源氏の郎党)を相手に武芸を修行し、ここから貴船へ抜ける峠を越えて奥州へ逃れた、と。
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しかし木の根道は 鞍馬寺(公式サイト)本堂から奥の院を経て 貴船神社(公式サイト)側の西門へ続く山道(地図)である。奥州へ向うのならば鞍馬寺から東に下り、堅田(現在の琵琶湖大橋付近)で舟を調達して東岸に渡って東山道(現在の国道8号)に合流する方が遥かに早く危険も少ない。
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実際に牛若丸は東山道に沿った鏡の里(現在は道の駅 竜王 鏡の里(別窓) がある)で自ら元服し九郎義経を名乗っているのだから、逆方向の木の根道を通るのは不合理なのだが...それはさておき、‬
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平治の乱に敗れて捕らえられた頼朝は死罪と思われたが、池禅尼(平忠盛の正室宗子、清盛の継母)の強い願いがあって極刑を免れ伊豆流罪となった。頼朝の容貌が早世した我が子の家盛に似ていたためとされるが、頼朝が仕えた 上西門院(統子内親王、後白河天皇の同母姉で絶世の美貌、と)や母親の実家 熱田大神宮家の助命工作が影響したのだろう。
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反乱軍の指揮官である 義朝 の嫡男で、しかも実際に戦闘に参加した頼朝の処分を伊豆流罪に減じた以上、その弟たちを処刑する法的な根拠(笑)は乏しい。頼朝と同母の弟 義門 は平治の乱で消息不明(戦死か)なので罪科の沙汰はなく、もう一人の同母弟 希義 は土佐国に流罪、牛若丸と同母の兄・今若(7歳、後の 阿野全成)は伏見の 醍醐寺(公式サイト)で出家、同じく乙若(3歳、後の 義円)は大津の 園城寺(三井寺・公式サイト)で出家、牛若丸(数え年2歳、後の 義経)は将来仏門に入る約束で母の 常磐 に預けられ、7歳で洛北鞍馬寺の稚児となった。
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義経の生涯については大部分が軍記物によるフィクションであり、史料で確認できるのは黄瀬川(沼津)で 頼朝 と対面した治承四年(1180)10月21日から平泉の高舘で自決 (フィクション) した文治五年(1189)6月15日までの僅か9年間。14歳(16歳とも)で鞍馬を出奔してから黄瀬川で参陣するまでの6~7年間はごく僅かな史料をベースに描かれた信憑性の低い(つまり殆ど信用に値しない)物語に過ぎない。もちろん、「京の五条の橋の上、大の男の 弁慶 が♪」も含めて。
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  ※軍記物: 古い順に、平家物語の成立は1230年前後、平治物語の成立は1250年前後、源平盛衰記は平家物語を脚色した軍記物語。
それらをベースにして書かれた義経記の成立は1300年代後半の室町時代...が定説(年代はいずれも概略)。
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平家物語に拠れば、義朝の愛妾で義経の生母常盤は夫の死後に 清盛 の妾となり、寝物語に子供三人(今若・乙若・牛若)の助命を懇願して許された、と。やがて清盛との間に女子(廊の方)を生み、その後には公家の 一条長成 に与えられて後妻になった。この時代、戦勝者が敗者の妻や側室を戦利品として扱うのは当り前で、夫を殺した敵に抱かれて子供を産む、その是非を現代人の感覚で評価するのはナンセンスだろう。時と場所を異にしてなお普遍性のある倫理や価値感など存在する筈もない。
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ただし、子供の助命決定と清盛の囲われ者になった時期のどちらが先か、更には史実か否かにも諸説があり詳細は不明。いずれにしろ、この一条長成が奥州の 藤原秀衡 の縁に繋がる人物だったから、牛若丸の運命を大きく変えることになる。
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平治物語に拠れば、常盤は近衛天皇中宮の九条院(藤原呈子)が女官を採用する際に千人の美女から十人を選び、更にそこから一人を選んだ絶世の美女。でもねぇ、院の雑色女(下働きの下級女官)を千人の美女から選ぶとは、少し誇張が過ぎるでしょ。まぁ美女が生き抜くのもそれなりに厳しい時代だったのは間違いないし、夫を失った女たちの全てが悲嘆に暮れたまま残りの人生を送ったわけではなく、新しい道を見出して力強く生き抜いたケースも少なくはない。

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右:牛若丸が元服して義経を名乗った竜王かがみの里  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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義朝 の九男として産まれた 常磐 の三男が牛若丸。将来の出家を約束した鞍馬寺では遮那王を名乗ったが、承安四年(1174)3月3日・14歳の春に京都を脱出、従うのは 武蔵坊弁慶 を含めて数人の郎党のみ。
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奥州平泉を目指す途中の東山道の琵琶湖南岸・鏡の里(現在の滋賀県竜王町)で烏帽子親もなく自ら烏帽子を着け九郎義経を名乗った。稚児姿での旅が人目に付くのを警戒する意味もあったのだろう。
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数え14歳で鞍馬寺を出たのなら、五条大橋で弁慶と立ち回りを演じたのは満年齢だと小学校六年か中学一年の計算になる。独り立ちが早い時代とはいえ「鬼の弁慶を打ち負かす」のは無理だろうね。
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竜王町の鏡神社周辺には義経が前髪を剃り落とすのに使った池や宿泊した旅籠の跡、鏡神社に参詣した際に烏帽子を掛けた松の残骸などが残っている。義経が元服する時に使った盥(「たらい)の底板は白木屋の沢弥傳家が代々の家宝としていたが、昭和五年に家系が絶えたため現在は鏡神社で保管している。
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日本書紀に拠れば、鏡の里は第十一代垂仁天皇(在位は紀元前29~紀元後70年・神話の世界)の頃に帰化した新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)の従者が定住して陶芸や金工を生業とし祖神として王子を祀ったのが最初。後に近江源氏系・佐々木氏支族の鏡氏が崇敬しこれを守った、と。
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近江国蒲生郡は義朝に臣従した
佐々木秀義 の本領だったが平治の乱で敗れて関東に逃れ、鏡の里で牛若が元服した承安四年(1174)3月には相模国で 渋谷重国 の食客だった。6年後には息子4人( 定綱経高盛綱高綱、生母は 源為義 の娘)が頼朝に従って挙兵し、幕府の樹立に貢献している。渋谷重国の娘が産んだ末子 義清大庭景親 に従ったが許されて御家人に加わった。後に兄弟は承久の乱(1221年)で敵味方として殺しあうのだが。

左:鏡の里つながりで、平家終焉の地・篠原    画像をクリック→ 拡大表示
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また、元服の池から500mほど西の野洲町大篠原の雑木林が平家終焉の地とされている。
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壇ノ浦合戦で死に切れず捕らえられた平家の棟梁 宗盛(38歳、清盛 の三男で 時子 にとっては長男)と嫡男の清宗(15歳)が鎌倉に護送されて頼朝との面会を済ませ、京に送還される途中の篠原で義経の命令により斬首された故事に基づく。異母兄の 重盛 と基盛が早世したため清盛の跡を継いだのが宗盛、従って生き残った宗盛と嫡子の清宗が平家一門嫡流の最後となった。清宗の弟でわずか七歳の能宗は既に六条河原で斬られているから、篠原はまさしく「平家(嫡流)終焉の地」( 地図)という事になる。
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義経は自分が元服した鏡の地を血で穢すのを避けたのだろうか、宗盛親子を京に連行する途中の篠原で斬首した。親子は少し離れた場所で斬られたが、せめての配慮で同じ穴に埋葬したと伝わる。
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頼朝は合戦の前に「宗盛卿は臆病な性格だから自決は出来ない、捕えて鎌倉に連行せよ」との指示を出しているし、鎌倉で頼朝に面会した際にも助命嘆願を続けたり食事も摂れないほどの醜態を晒して「それでも清盛の子か」と嘲られた。
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平家物語に拠れば、壇ノ浦での敗戦が決定的になり一門が次々と入水自殺を遂げる中で逃げ回り、ついには味方の手で海に突き落とされたが泳ぎの名手だったため溺死せず、挙句の果てに源氏の兵に熊手で引き上げられた。嫡子清宗も同様に肥満で浮きやすかったらしい。肥満=浮くという発想もデブに対する偏見だけど...。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185)6月21日】
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卯の刻(朝6時頃)に義経は篠原宿に着き、橘馬允公長(元は平知盛の家臣で平家を見限り義経麾下で戦った)が前の内府・平宗盛を斬首した。次に野路宿で嫡男の前の右金吾・清宗も 堀彌太郎景光 が斬首。大原法成寺の本性上人が来て両人を教化し落ち着いて最後を迎えた、と。
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【 吾妻鏡 同、6月23日】
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宗盛と清宗の首が義経の家人によって六条河原に届けられた。検非違使らが首を受け取り、獄門の前の樹に架けた。
同じ日、前の三位中将 平重衡(清盛五男)が南都(奈良)の僧に引き渡され木津川で首を斬られた。壇ノ浦で捕虜となり鎌倉に連行された時も誇り高い態度を貫いた人物だったが、治承四年の 以仁王源頼政 の挙兵に伴って反平家の拠点となった興福寺と東大寺を攻め、大仏殿を焼いた恨みを受けたものである。首は奈良坂に晒された後に大納言典侍が伏見の日野で火葬、同所に塚を築いて墓とし火葬骨は高野山に納めた。

吉次の墓 右:奥州街道沿いの壬生町に残る伝・金売り吉次の墓  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 参考までに。その後の常盤御前、絶世の美女の運命は・・・ 】
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常磐 は長男の今若(後の 阿野全成)を 醍醐寺(公式サイト)へ、二男の乙若(後の 義円)を 園城寺(三井寺・公式サイト)に預け、末子の牛若(後の 義経)だけを手元に置いた。将来は出家させる約束である。
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彼女は六波羅の近くに邸を得て清盛が通う生活が続き、清盛の娘を産んだ後に 一条大蔵卿(藤原)長成 の後妻になった。
大蔵郷長成は奥州の 藤原秀衡 とも縁戚の家柄である。
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  ※清盛の娘: 常磐が清盛の子(廓御方)を産んだ事を裏付ける資料はない。吾妻鏡には一行のみ(後述)で玉葉には記載が
なく、大部分が平家物語や源平盛衰記の記述だけで信憑性は低い。清盛と常盤の関係も作り話の可能性があり、平家物語での廓御方は平家都落ちに同行して壇ノ浦で捕獲され義経が京に護送した、と述べている。
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その後は前大納言藤原兼雅家の女房として廓御方または三条局を名乗り側妾として女子を産んだ、と。藤原兼雅は従一位左大臣、清盛の娘(廓御方か)を妻にして昇進を重ね、平家滅亡後も 後白河法皇 に信任され政界のトップに復帰した。和歌や今様に通じた才人。
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  ※長成と秀衡: 長成の母の従兄弟が平忠盛(清盛の父)と交流のあった従三位の藤原忠隆(鳥羽上皇の近臣)、その長男が陸奥守 鎮守府将軍として奥州平泉に赴任した
藤原基成。彼は奥州藤原氏二代棟梁の 基衡 と親交を結んで娘を嫡男の秀衡に嫁がせ、重任した任期が終っても都に帰らず平泉に留まった。
その後は朝廷と平泉のパイプ役を兼ねた政治顧問として秀衡と泰衡を補佐し、藤原氏滅亡まで衣河北岸の館に定住した。
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後に 頼朝 と不仲になって平泉に逃れた義経は藤原基成館に同居していた。自刃したのは高舘ではなく中尊寺のある関山北麓の藤原基成館と考えるのが妥当で、個人的には多分それが正しいと思う。詳細は「鎌倉時代を歩く弐」の、奥州平泉の項を参照されたし。
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牛若丸は11歳まで長成の邸で育った後に 鞍馬寺(公式サイト)に入り、14歳(16歳とも)で奥州へ脱出した。この時に陸奥守鎮守府将軍として平泉に在任していたのは長成の親族であり秀衡の舅(正妻の父)である藤原基成。平治物語には 「金売り吉次が段取りをつけ、下総の深栖三郎光重の子・陵助頼重と吉次を伴って旅立った」 とあるが、牛若丸を奥州へ逃がしたのは長成を経由して常盤の意思が働いた、と考えるべきだろう。
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そして、平家が滅亡した直後には頼朝と義経の亀裂が決定的に深まり、義経が都を脱出した承安四年(1174)3月から2年後の記録を最後に常磐の消息は途絶えた。一説には関が原に近い不破の関付近で山賊に襲われ死んだ、とも。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 6月13日】
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雑色の宗廉が京都から鎌倉に到着した。同月6日に一條河崎観音堂の近くで義経母(常磐)および妹(素性などの記載なし)を捕縛した。鎌倉へ連行すべきか否か、を問い合わせている。
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  ※不破の関: 東海道の鈴鹿関(地図)、北陸道の愛発関(あらちのせき・地図)と並び、治安が不安定な東国から畿内を守るため設けた三関の一つ。
この三関の東が関東または東国と呼ばれた。不破の関の地図はこちら、詳細説明は関ヶ原観光ウェブで。
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  ※一條河崎観音堂: 長成邸は一條通(ほぼ現在の今出川通)の南面、観音堂とは至近距離にあった。文治二年には既に長成は死没している。
常盤は鎌倉勢の追求を避けて信仰していた観音堂(賀茂大橋の南西付近、地図)に隠れていたのだろう。観音堂は別名を感応寺、貞観年間(859~877年)の創建だが享禄四年(1531)の兵火で失われた。
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  ※蛇足: 母親を弄んでいるのは父を殺した憎い敵。加えて鞍馬寺の稚児だった数年は男色の相手を余儀なくされたはず。母親との安穏な生活から屈辱の日々へ、だろう。
壇ノ浦から連行した捕虜の市中引き回しを朝廷に強要したのはその恨みを少しでも晴らしたかったから...だと思う。
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吾妻鏡にはその後の処置が記載されていないため、常磐 と娘は釈放されたと推測される。義経の親族ではあるが正四位下・大蔵卿の正妻を「生け捕り」と書いているのだから、夫の長成は既に死没していたのだろう。義経の親族については、翌年7月29日に鎌倉に拘留されていた 静御前 が義経の子(常磐にとっての孫)を産み、男子だったため即日殺されたとの記録も残る。
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【 更に余聞、土佐坊昌俊について 】
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平家滅亡の後に義経と不仲になった 頼朝 は文治元年(1185)10月に京都六条堀川の義経館に夜討ちの兵を向けた。この時の指揮官は土佐坊昌俊、平治の乱の後に知多半島の野間で入浴中の義朝を殺した敵数人を討ち取ってから行方知れずとなった 源義朝 の郎党・金王丸 の25年後の姿である(平家物語(八坂・如白・南都本)に拠る)。後に頼朝に仕えた昌俊は、誰もが嫌がった義経暗殺の役目を自ら志願したらしい。何故か。
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昌俊は暗殺に失敗して捕らえられ六条河原で斬首された。金王丸にとって常磐は主人の愛妾であり勿論旧知の間柄、夫・義朝の郎党が頼朝の命令を受けて異母弟の義経暗殺を企て、捕縛されて斬首釣れる...常盤はどんな気持ちでこの皮肉な巡り合わせを受け止めたのだろう。
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一条長成常磐の間に生まれた能成はこの当時23歳、義経の側近として行動を共にしている。義経失脚後の一時期は不遇だったが、義経が死んだ19年後の建保六年(1218)には政界に復帰し、父長成の果たせなかった従三位(公卿)に昇進しているのも興味深い。

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左:金王丸=渋谷一族=土佐坊昌俊か    画像をクリック→ 拡大表示
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金王丸は坂東八平氏の一つ秩父氏から分かれた渋谷一族の出身、と金王八幡宮は伝えている。
渋谷氏の系図は数多くあり主張している系譜の流れも様々だが、秩父重綱( 畠山重忠 の祖父)の弟・基家と嫡子の重家が現在の川崎市一帯を領有して河崎を名乗り、重家の子・重国が勢力を広げ豊嶋郡谷盛(現在の渋谷区~港区)も領有して渋谷荘司を名乗った、と。ここまでは史実と概ね合致している。 左は18才の金王丸が自ら刻んだと伝わる木像(金王八幡宮蔵)
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渋谷駅東口にある 金王八幡宮(公式サイト)に残る記録によれば、金王丸は重家の子(つまり重国の兄弟)だが、重国の二男としている系図もあり、実在するか否かも含めて渋谷氏と金王丸の関係も不確実らしい。従って土佐坊昌俊=金王丸の真偽も金王八幡宮の由緒もどこまで信じて良いのか判らない。渋谷重国 の実子と伝わっているのは光重・高重・時国・重助・重近だし、結局のところ渋谷重国・金王丸・土佐坊昌俊に関しては謎とするしかない。
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しかし...渋谷重国の本領が東京の渋谷から鎌倉の北10km一帯にあった相模国高座郡渋谷荘までというのは凄い。直線距離にして30kmもの範囲を領有したことになるけど、まさかねぇ。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185) 10月17日 】
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土左房昌俊は水尾谷十郎ら60余騎を率いて 判官義経 の六条室町亭を襲った。義経の家臣の多くは留守だったが残っていた 佐藤忠信 らが門を開いて防戦し、続いて 十郎行家 らも応援に駆け付けて撃退した。義経の家臣が上皇の御所に出向き無事を報告した(昌俊は後に鞍馬で捕えられ、26日に六條河原で斬首)。
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平家物語は 「夜襲に失敗した昌俊は鞍馬山の奥に逃げたが僧が捕えて義経に引き渡し、尋問の後に六条河原で駿河次郎清重が斬った」 と書いている。義経記に拠れば、宗盛の嫡子清宗を六条河原で斬ったのが駿河清重(吾妻鏡では野洲の篠原で堀景光が斬った)。清重は黄瀬川で頼朝と対面した頃から義経の雑色として従った駿河の猟師出身、らしい。
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襲撃を察知した白拍子 がとっさの機転で腹巻(鎧の胴)を義経に投げ渡し危機を脱したなど色々な話が伝わっているが実際の展開は不明である。一説には頼朝の意を受けた大番役の鎌倉武士が襲撃したとか、そもそも襲撃は鎌倉側の挑発なので昌俊が失敗しても義経謀反が成立するとか、諸説がある。
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実際に頼朝は大御堂で24日に催した義朝供養に集まった軍勢を翌早朝に京都に発たせ、自身も29日には京都に出発した。一方の義経は18日に 後白河法皇に頼朝追討の宣旨を強要して戦う姿勢を見せるが...結果として兵を集められず、対決を避けて11月3日に300騎で九州へ。この詳細はいずれ、項を改めて。

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右:記録に残る伊豆遠流の第一号かも  役の行者像  熱海の澤田政廣記念館所蔵   画像をクリック→ 拡大表示
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【 続日本紀、文武天皇三年(699) 5月の記述 】
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役君小角(役の行者)が伊豆島に流された。小角は初めは大和葛城山に住み呪術を使うことで知られた人物である。呪術の弟子として小角に師事していた従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)「小角は妖術を使って人々を惑わしている」 と讒言したため遠処(伊豆大島)に流された。小角は良く鬼神を使役し水を汲ま薪を取ったりさせていた。命令に従わないと呪術で縛ったりして自在に操っていた、と。
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※韓国連広足: 呪術を業とし葛城山一帯を支配した豪族。祈祷の役職に関する宮廷の既得権争いに関与した、か?
広足が師を讒言したとするのは、後世に続日本紀を読み解いた際の誤りだろうと考えられている。
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役小角(wiki)は昨今人気の陰陽師 安倍晴明 (wiki) から300年も前、飛鳥時代末期から奈良時代初期に活躍した人物。呪術をよく操るため本来なら到底捕らえることなど出来ないのだが、母親を人質にして何とか捕縛し伊豆大島へ流罪にした。
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流罪になった役小角は大島から阿多美(熱海)の日金山に五色の瑞雲を眺め、夜には海上を飛んで富士山で修行をした。大宝元年(701)に無罪が判明し許されて都に戻ったが、同年6月7日に箕面の天井ヶ岳で死没、68歳と伝わっている。
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見ている前で天に昇った、母を鉄鉢に乗せ海を渡って唐に入ったなどの伝説も残っている。平治の乱で敗れた 頼朝 が伊豆流罪となり、日金山伊豆山権現(共に別窓)と接点を持った鎌倉時代の黎明期よりも470年ほど昔である。山岳信仰が仏教と融合して神仏習合時代を迎え、興隆と共に修験道の先達として崇められ数々の伝説が作られたが、呪術や祈祷を生業とし何らかの罪に問われ大島流罪となった実在の人物らしい。
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これが史書に記録された最古の流罪(遠流)で、空を飛んだなど能力を誇張する逸話も多い。そして、続日本紀は更なる伊豆遠流の記録を残している。

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左:熱海埋立地から和田浜の都松方面を遠望   画像をクリック→拡大表示
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平安時代中期の寛平八年(896)、 京都東光寺(公式サイト、廃寺・江戸期に復興)の僧善祐が密通の罪で阿多美郷(熱海)に遠流となった。密通の相手は狂気の帝と呼ばれた57代 陽成天皇 の生母 藤原高子 (wiki) 、故・56代 清和天皇 の女御である。
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東光寺を発願・建立した高子は密通事件当時は既に50歳を越えており、その東光寺の座主を務めていた善祐は10歳年下の40歳前後だった。善祐は流罪となった阿多美郷で生涯を終えた。
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高子の方は皇太后の尊号を剥奪されたが、没後30年を過ぎた天慶六年(943)に復位を認められている。これは冤罪が判明したからではなく、まぁぼちぼち時効にしてやっても宜しかろう程度の措置だったと思う。
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哀れな善祐は現在の熱海市(阿多美)和田浜の辺りに住んで庭に松を植え、伸びた枝を西の方角に曲げて遠い都を偲んだと伝わる。
海岸近くには都松の地名が残っており、熱海温泉の老舗・古屋旅館の敷地にある神社の裏手には善祐の墓と伝わる石室が残っている。
和田浜一帯は明治時代の中期にも常に熱泥が噴出しているほど劣悪な環境で、都人には地獄の様相に見えただろうね。
伊豆山や頼朝一杯水を含む 熱海中心部の鳥瞰図 を参考に。
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    ※東光寺: 延暦13年(794)の平安遷都の際に第50代 桓武天皇 の勅願を受け国家鎮護のため都の四方に創建した社の一つ 天王社の境内にあった。現在の左京区
黒谷の南麓 岡崎神社地図)が跡地である。天王社は元は600m西の平安神宮蒼竜楼北東の西天王塚辺りにあったが弘仁年間(810~824)に焼失し、貞観十一年(869)に清和天皇が岡崎神社の地に再建した。元慶二年(878)に高子が建立した東光寺鎮守として共に繁栄したが応仁元年(1467)に兵火で焼け、天王社のみが類焼を免れて慶応年間(1467~1477)に岡崎神社と改称した(下記鳥瞰図参照)。
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清和天皇は貞観元年(859)に9歳で即位、7年後の貞観元年(859)に元服して藤原高子(842~910)を女御とした。彼女は帝より8歳年上の入内で、伊勢物語に拠れば名高いプレイボーイ在原業平の昔の恋人である。高子が18歳で在原業平が35歳前後、二人は高子の入内直前に恋の逃避行を試みたが...藤原家の追手に捕らえれ、叶わぬ恋に終わった。

右:東光廃寺の位置と西天王塚の鳥瞰図  画像をクリック→拡大表示
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【 狂気の帝とは? 清和源氏か、それとも陽成源氏か 】
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第57代 陽成天皇 は殺人を好み、縛った囚人を矢で殺したり女官を池に投げ込み水死させたりの奇行があった、と伝わる。
ただし即位が満2歳で、当時の摂政関白太政大臣の藤原基経と対立して退位したのが満15歳。藤原基経が自分の意向に従う次の天皇に譲位させるため退位を強要、更に自分の行為を正当化するために暴君説を捏造した疑いが濃い。ただし、901年成立の史書「三代実録」は元慶七年(883)に乳母の息子を殴殺して退位させられた、と記録しているから本当の姿は判らない。
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陽成天皇は貞観十年(869)生れで没年は天暦三年(949)だから三代実録が編纂された時には32歳、再び権力を握るのを警戒してダメ押しの噂を捏造した、そう考える説も少なくない。百人一首には結構美しい響きの歌が載っている。
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    つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける
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     「つくばねの峰」は常陸国の筑波山、「みなの川」は男女川で筑波の男体山と女体山から流れ下る二本の川。
      春と秋には麓に男女が集まって恋の歌を交わしつつ自由なセックスを楽しんだ。川は合流して淵 (霞ヶ浦) となる、と。

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臣籍降下して最初に源姓を名乗った 経基王(源経基)の出自については、大別して二つの説が立てられている。清和天皇の第6皇子貞順親王の子であるとする説と、陽成天皇の皇子元平親王の子であるとする説である。最近では貞順親王の子説が主流だが決定的ではなく、源氏の家系編纂者が狂気の帝の評価が定着した陽成系を避け、一代前の清和を先祖にしたとする考えも相当の支持を得ているようだ。
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【 高子と業平 それぞれの墓所について 】
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高子の墓所は明確ではない。鎌倉中期の正元元年(1260)に崩御した第89代後深草天皇の深草北陵(地図)の地にあった、とも。もしここが高子の墓なら、彼女が没した350年後に墓を潰して後深草天皇陵を設けた事になる。陽成天皇陵は奇しくも彼が再建した天皇社(現・岡崎神社)の約500m北西にある神楽岡東陵(地図)である。
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在原業平の墓所として知られているのは三ヶ所。西京区大原野の十輪寺裏山にある宝篋印塔(地図)と、西京区大原野の民家裏の五輪塔(西方寺横・地図)と、琵琶湖西岸から敦賀に向かう国道161号の追坂峠に近い在原地区の宝篋印塔(地図)。それぞれに伝承がある。

 
左:熱海の古屋旅館に残る伝・善祐の墓       画像をクリック→拡大表示
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熱海温泉の老舗 古屋旅館(公式サイト)の豪奢な門を入って突き当たりの石段を登ると天満宮がある。伝承に拠れば、昌泰四年(901)に大宰府に左遷された菅原道真(延喜三年・903年に死没)が自分の姿を模した七つの木像を海に流した。そのうちの一つが熱海に流れ着き、御神体として祀ったのがこの天満宮だと伝わる。
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木像の高さは63cm、膝や背中には貝殻が付いている、らしい。この社の裏手に善祐の墓と称する石室が保存されている。笠石は後世の追加っぽいが、本体は何となく本物らしい風格を備えている。
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【 遠流(おんる)の地・伊豆 】
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平安時代の流刑には三つのレベルがあり、死罪に次ぐ重罪は遠流(えんる・おんる、都から1500里)と定めた。遠流の地とは伊豆・安房(千葉)・常陸(茨城)・佐渡・隠岐・土佐など都から一番の遠隔地で、中流(ちゅうる・560里・信濃や伊予など)や近流(こんる・300里・越前や安芸など)も都からの距離を基準にした。通常は妻妾も連座して同行し、他の家族は希望者のみ同行を許されたという。
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配流地では現地の戸籍に編入されて1年間は労役を課せられる。その後は耕作地(口分田・約24アール=50m四方)を与えられ相当する租(税)を徴収される...のが建前だが、実際には縁故などによって処遇に大きな差があった。伊豆に遠流となった 頼朝 も源氏の縁につながる人々や乳母たち、そして生母の実家・熱田大神宮家の援助を受けて流人としては比較的余裕のある暮しをしていたらしい。
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まして当時の伊豆守は摂津源氏の棟梁 源三位頼政 の嫡男 仲綱、一説には頼朝を伊豆へ連行したのは頼政配下の渡辺党だから、粗略な扱いは受けなかっただろう。ちなみに頼朝同母の末弟 希義 は土佐国に遠流となった。彼は後に治承四年の頼朝挙兵を聞いて決起し、運に恵まれず殺されてしまう。
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  ※流罪の距離: 当時の距離単位は1里≒560m。従って近流は170km・中流は320km・遠流は840kmとなる。
京都から韮山までは実測380km、規定より短いのだが実際には伊豆・安房・佐渡・隠岐・土佐などが遠流の地だったらしい。
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  ※渡辺党: 頼光四天王の一人で一条戻り橋に出没した鬼の腕を斬り落した伝承で名高い渡辺綱が祖。攝津国渡辺(大阪市中央区)を本拠とした。

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右:話のついでに、中世から伝わる熱海七湯  画像をクリック→明細にリンク
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熱海温泉の草創は古墳時代の第24代仁賢天皇(在位488~498年)の御代に海底火山の熱湯で多くの魚が焼け死んだため熱い海、熱海と呼んだのが最初と伝わる。天平宝字(757~765年)には箱根の山岳信仰を統合して九頭竜社(現在の 箱根神社、公式サイト)を開いた萬巻上人が祈祷によって海中の噴出源を陸地に移し、不漁に苦しんだ漁民を救った旨の伝承が残る。
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同じ熱海市内の伊豆山温泉は開湯1300年を謳っており、西暦700年代の伊豆半島周辺に頻発していた地震や噴火の記録とも時代が合致しているのは興味深い。萬巻上人の様々な事跡に関しては、 箱根神社の詳細 および 桑原薬師堂 を、伊豆山神社の周辺については 伊豆山走湯大権現 を参照されたし(各、別窓)。
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古くからの源泉は「熱海七湯」として保存されているが全て観光用に整備したもので、熱海温泉の湯量は確実に減少し、既に自噴泉は皆無である。山沿いには昔通りの硫酸塩泉が多いが海岸近くは相次ぐボーリングのため湯脈に海水が混入して泉質が変り塩化物泉が増えた。政治家と同様に、悪貨は良貨を駆逐する。
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また源泉を使った共同湯も失われ、(小規模のジモ専を除けば)現在では伊豆山の国道近くにある
浜浴場(外部サイト)だけになり、料金も350円に改定されている。旅館やホテルの立ち寄り入浴は全般に料金が高く、小規模旅館の小さな浴槽でも500円以上、大規模旅館だと2000円以上も珍しくない。その意味では伊東温泉の方が魅力的だし、南伊豆まで足を伸ばせば更に効能の高い湯を楽しむ事ができる。



 その参 鎌倉時代の胎動、伊豆韮山 

右:守山から見た韮山一帯   画像をクリック→拡大表示  他の景色は こちら
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当時14歳だった 頼朝 の伊豆配流は永暦元年(1160)3月、護送には摂津源氏の棟梁 頼政 と頼朝の関係から前述した渡辺党の武者が任じた。永暦元年は 伊東二郎祐親(それまでの名乗りは河津二郎)が自分の本領だった河津郷を嫡男の 三郎祐泰 に任せて久須美(伊東)に移り、伊豆東海岸一帯を強引に占有した年である。
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承安二年(1172)7月~治承元年(1178)まで、国司任命権や官物収得権を持つ伊豆知行国主は 源三位頼政 で国司は嫡男の 仲綱。 平治の乱では同族の 義朝 を見限って 清盛 と共に 後白河法皇 に味方し、保元と平治の戦乱で全滅に近いダメージを受けた源氏の中で只一人、宮廷での高位を保っていた。粗暴な義朝を嫌った、と伝わる。
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長治元年(1104)生れの頼政は平治の乱では56歳、平家一門が栄華を極める中で正四位下の官位から三位への昇進を願い、仲綱に家督を譲るべき老境になっても隠居しなかった。従三位から上が所謂公卿で、待遇には格段の差がある。
頼政はステップを一つ登り、何とか殿上人として生涯を終えたかったらしい。
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  ※待遇の差: 例外もあるが、朝廷の秩序として三位以上は昇殿を許される、所謂 殿上人。時代の推移により殿上人は30~80人程、承徳二年(1098)に
八幡太郎義家 が内裏へ昇殿を、保安元年(1120)に 清盛 の父 平忠盛が院への昇殿を許されているのが武士に関する最初の記録である。
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清盛の推挙を得て従三位に昇ったのが頼政74歳の治承ニ年(1178)。九条兼實 が日記(玉葉)に「特筆すべき珍事」と書いた程に異例の昇進だったらしい。
そう言われれば義家や忠盛の事績に比べて「功績って何だよ、和歌が得意なだけだろ?」みたいな疑問は確かに残る。
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つい最近まで 嘘吐きの安倍が総理で馬鹿の代名詞みたいな麻生太郎が副総理 だから 財閥や政治家の息子に生まれるのも一つの「才能」かも知れない。嫌な世の中だ。
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頼政は翌年11月に出家し家督を仲綱に譲って一線を退いた。嫡子仲綱は大治元年(1126)生れ、52歳まで相続を待たされた挙句に治承四年(1180)5月には父と 以仁王 の挙兵に従って敗れ宇治川で自刃。仲綱が摂津源氏棟梁の座を得たのは僅かに1年半だから運に恵まれない一生だった。

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左:修善寺の南に残る狩野一族の本領跡  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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治承四年(1180)に 頼朝 が挙兵した当時の伊豆中央部・狩野川沿いの一帯で最も有力だったのは狩野荘(後白河法皇領)の在庁官人で伊豆介(国の次官)だった 狩野茂光。狩野川中流域左岸の元柿木に館を構え、伊豆最大の牧草地・牧之郷を支配して多くの良馬を産出し、勢力を拡大していた。
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茂光の父・狩野四郎太夫祐隆(家継・家次・工藤祐隆とも)は1085年前後に伊豆東海岸を開拓して宇佐美・伊東・河津を領有し、後に狩野の棟梁を茂光に譲って本拠を移し伊東氏および伊豆工藤氏の祖となった。
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茂光は保元の乱(1156)後に伊豆大島に流された 為朝為義 の八男)の監視役を務め、為朝が伊豆大島で狼藉を繰り返した嘉応二年(1170)には院宣を受けて討伐軍を指揮した実力者である。
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保元物語に拠れば、茂光は伊東・北條・宇佐美の兵500騎と軍船20隻で伊豆大島に攻め寄せた。当時の伊豆には伊東氏や工藤氏などを含む狩野一族系以外に抜きん出た力を持つ豪族は無く、狭い地域に大勢の弱小土豪が勢力を競う状態で、茂光は名実ともに彼らを束ねる存在だった。狩野氏の子孫の一人が室町時代から江戸時代にかけて日本画壇の重鎮となった 狩野政信(wiki)である。
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修善寺温泉と船原温泉に挟まれた柿木川沿いに史跡・狩野城址があり、郭・土塁・空堀のある中世の連郭式山城の典型的な形(現在の遺構は室町以後か)が残る。両側に険しい崖が続く尾根道を15分ほど歩くと本郭のある頂上に至る。初代藤原維景から五代茂光まで狩野川流域に居館を構えて伊豆有数の豪族となり、頼朝挙兵に参加して敗走途中の函南で戦死。大庭景親 率いる平家軍は更に柿木まで兵を進め、狩野館を攻め落とした、と伝わる。



流人・頼朝は伊豆守だった同族の頼政や伊豆介を務めた狩野茂光の庇護を受け、更に母親の実家である熱田大神宮家や乳母の 比企の尼(武蔵比企郡少領掃部允の妻)の援助を受けて暮していた、と思われる。武蔵国比企郡を本拠とする比企一族は 義朝 の時代から源氏との縁が深く、比企の尼は娘婿の 安達盛長 に指示して武蔵国から定期的に食料などを運ばせていた。肉親は流刑地に近づくのを禁じられていたためである。
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比企の尼は男子に恵まれなかったが、三人の娘(養女または姪の説もあり)がいた。長女の婿は伊豆流人時代から頼朝側近として信任の厚かった安達籐九郎盛長(1135~1200)、二女は 河越重頼 に嫁して 義経 の正室となった郷御前を産んだ。三女は 伊東祐親 の次男 祐清 に嫁し、祐清の没後は 平賀義信新羅三郎義光 の孫)に嫁して 大内惟義平賀朝雅(後に北條時政の娘婿)を産んでいる(二女と三女は共に二代将軍 頼家 の乳母でもある)。
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当時の乳母夫婦は家臣や一族の中から最も信頼できる者が選ばれ、単に乳を与えるだけでなく成人後の人生にも深く関わるのが通例だった。比企の尼としては長女夫婦を側近として乳母子頼朝の近くに置き、三女が嫁いでいる伊東家に頼朝への配慮を頼めば安心できる、と考えたのだろう。もちろん、乳母として養育した男子が出世すれば相応の待遇が保証される、利権が伴う関係でもある。

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右:頼朝の墓に残る島津紋の理由    話が飛ぶけど丹後内侍と頼朝御落胤の関係で..
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  【 比企の尼について、追補 】
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武蔵国比企郡司(現在の埼玉県比企郡)を務め 藤原秀郷 の末裔を名乗った比企掃部允の妻で、源義朝に従って京都に上り頼朝の乳母となった女性。平治の乱後に頼朝が伊豆に流されると夫と共に比企郡に移り物心両面で頼朝を援助、後に関東を制覇した頼朝から鎌倉に屋敷(現在の大町一丁目の 妙本寺(別窓)の地)を与えられ、比企谷殿と呼ばれた。男子は産まれず、同族(甥と推定)の 能員 を養子として比企氏継承させた。
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長女の 丹後内侍(頼朝とは男女の関係だった、らしい)は二条天皇に仕えた時に惟宗広言との間に男子 (後の嶋津忠久) を産み、母と共に関東へ移ってから 安達盛長 に嫁して 源範頼 の室や 伊東祐清 の室などを産んだ。惟宗広言は 後白河法皇 に仕えた文官だが、島津の系図編纂者は 「丹後内侍を妊娠させたのは実は頼朝、従って島津=清和源氏の末である」と主張している (笑)。
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このヨタ話は17世紀の前半に薩摩藩で出版された軍記物語「薩琉軍談」が最初で、藩主の家久か光久(共に暴虐・愚昧)あたりが喜々として悪乗りしたのだろう。鎌倉大倉山にある頼朝の墓は子孫を名乗る薩摩藩八代藩主の島津重豪が安永八年(1779)に建てたもの。供物台には「丸に十字」の島津紋が入っているが系譜には何の裏付けもなく、清和源氏の家系を僭称したに過ぎない。「征夷大将軍は源氏が任じる」との単なる通例に合わせるため源姓を欲しがったもの。
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【 更に蛇足を加えれば 】
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建久十年(1199)1月13日に没した頼朝を葬ったのは大倉御所の北側に新造した法華堂(現在の白旗神社の地)である。和田合戦が勃発した建暦三年(1213)5月2日の吾妻鏡には 朝比奈義秀が御所に攻め込んで防衛する御家人を攻撃し火を放ったため、将軍 実朝 は頼朝の法華堂に避難した。」と記載されている。島津重豪は頼朝死没の580年後に(既に廃墟と化していた)法華堂裏手の斜面を整備して石段を造り、同じく廃墟になっていた勝長寿院跡に残っていた五層の石塔を移設して頼朝の墓とした。その多層塔が現在の頼朝の墓石と推定されるが、確証されていない。
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頼朝法華堂は鎌倉時代にも数度の焼失と再建を繰り返した末に廃寺となって白旗神社に改められた。ここは三浦一族滅亡の地でもあり、宝治元年(1247)6月5日に鶴岡八幡宮の北東にあった屋敷を北條のシンパ
安達景盛 率いる軍勢が急襲した。周囲の民家に火を懸けられた 三浦泰村 らは煙に追われ法華堂に籠って自刃、死者数は500名を越えたと伝わる。この宝治合戦の詳細は項を改めて、後日に。


左:修善寺と厚木(二ヶ所)に残る籐九郎盛長の墓  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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修禅寺手前のB&B(ベッド&ブレックファスト)の五葉館前を右折して虹の郷に向かう坂の途中を「奥の院方向」の標識に従って左折するとすぐ桂谷トンネル、通り抜けた右下に数台の駐車スペースがある。
本来は修禅寺墓苑に立ち寄る檀家のための駐車場だが空いている時は一般客も駐車できるし、徒歩5分ほどで修禅寺境内まで下れるから(下りも登りも息が切れる急坂)利用価値は高い。なにしろ無料だからね。
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伊豆流人時代の初期から 賴朝 の側近を務めた 安達盛長 の墓は駐車場から数m奥に数基の墓石と共に置かれている。これは昭和の末期に移されたもので、本来の墓は300mほど西の道路下に続く斜面にある 範頼の廟所近くにあった。しかし範頼の廟所も移転して旧地は不明、現在の五輪塔は近世の再建であり、当時の墓石すら行方不明になっている。
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範頼は籐九郎の娘婿でもあり、互いに親しく交わっていたと伝わる。正治二年(1200)の没した籐九郎の遺骨は遺言に従って範頼の墓近くに葬られていたのだが、昭和五十八年(1983)のバイパス工事に伴って修禅寺墓苑の近くに移され、肝心の範頼廟所も移転してしまった。更に詳細は 範頼幽閉の跡 日枝神社の信功院と慰霊墓(別窓)を参照されたし。
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安達盛長の墓石は一部が所領の埼玉県鴻巣市郊外にある安達一族の菩提寺・放光寺(明細は下記)に寄贈されており、「暫定的に設けられた墓所」の印象は否めない。その他、慰霊の宝篋印塔は所領のあった厚木市三田地区の十軒村バス停近く(地図)、同じく厚木市の飯山観音に近い金剛寺大師堂横(地図)にも残っている。両方とも訪問して画像を末尾にアップしておいた。
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【 男と女の裏話 】
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比企掃部允夫妻の長女で籐九郎に嫁した 丹後内侍 は頼朝と男女関係にあり、乳姉弟として幼少から共に過した関係についてはは嫉妬深い 政子 も黙認していた、と。
籐九郎は政子の妹に渡す筈だった流人 頼朝 が託した艶書を政子に届けて二人の仲を取り持ち、政子は終生その恩義に報いた...曽我物語はそう語っている。
北條一族と安達一族はその後も深い互助関係を維持し続け、約100年後の弘安八年(1285)11月に霜月騒動に関わった安達一族が滅びるまで共に助け合った。その原点が頼朝と丹後内侍と政子と籐九郎の関係にあった、と。
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【 曽我物語が描いた頼朝艶書の詳細】
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あるとき政子の妹(後の 阿野全成 の妻 阿波局 か)が太陽と月を一緒に掴む不思議な夢を見た。姉に話すと政子は「それは災厄をもたらす夢、難を逃れるため私が買ってあげよう」と小袖を与えて夢を買い取った。不吉な夢を売れば難を逃れるという言い伝えがあったらしいが、もちろん政子は妹の見た夢が並外れた吉兆なのを承知の上で買い取ると提案した訳で...その直後、伊東を追われ伊豆山を経て韮山に戻った 頼朝 が北條の娘に艶書を送った(政子宛ではなく、美人と噂される妹宛)。
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届けるのを命じられた籐九郎盛長が政子に艶書を渡したため結果として頼朝と結ばれ、後には征夷大将軍の妻として従二位まで登り詰めた。盛長が妹に渡す筈の艶書を政子に渡したのは故意だったのか偶然だったのか...この経緯があって政子は生涯を通じて安達一族を厚遇し続けた、と伝わる。
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この時に盛長はそれなりに考えたらしい。「伊東では祐親の後妻が産んだ末娘に子供を産ませて殺されかけた。北條の三人娘の若い方の二人も後妻の娘だ。ここで同じトラブルを起こしたら住む場所まで失うことになるだろう。美人と噂の妹よりも婚期を逃した長女に渡すのが間違いない。」と考えた、曽我物語はそう伝えている。
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【 更に、曽我物語に拠れば② 】
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政子の名は従ニ位(従三位以上が公卿(上級貴族)で四位以下との待遇差は大きい)に叙された建保六年(1218)に父時政の一字を取って名乗ったもので当時61歳、それまでは御台所・尼御前と称されたが、若い頃の正式な名称は時政女(むすめ)だろう。通名は伝わっていない。
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【 更に、曽我物語に拠れば③ 】
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曽我物語の本筋は 伊東祐親 の嫡男 河津三郎祐泰 が参加しその後に横死した奥野の巻き狩りに始まり、17年後に父の仇を討った遺児(曽我兄弟)の兄 十郎祐成 の愛人だった虎御前の死で幕を閉じる。虎御前が兄弟の生い立ちと仇討ちの仔細を語り継ぎ、更に箱根や伊豆山権現の僧や諸国をさすらう瞽女(ごぜ・盲目の旅芸人)が語り広めたのが始まりと言われ、因果応報・勧善懲悪などが民衆の強い支持を受けた。
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書物としては漢文の真名本が鎌倉時代末期に、平易な仮名本が室町中期に成立したと考えられている。江戸時代になって歌舞伎などに取り上げられ、更に脚色されてメジャーな存在になった。吾妻鏡が記録した治承四年(1180)以前の記述を多く含み、実に貴重で面白い物語だ。

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右:鴻巣市郊外の放光寺所蔵の盛長木像  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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韮山挙兵以来の功績により各地に得た所領の一つ・埼玉県鴻巣郊外の放光寺には一族の墓所と共に盛長の木像が残されている。寄木造りの玉眼入りの僧形で、これは頼朝死没直後に出家した正治元年(1199)1月から保延元年(1200)4月に死ぬまでの姿を模したもの。
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見るからに古武士の面影を残すと評され、南北朝時代の作と推定されているが、作者など詳細は明らかになっていない。個人的には 藤九郎盛長 が古武士と言える程の気骨を持っていた人物だったとは思わないが。
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ちなみに、捏造の指摘も多かったNHKの「大河ドラマ 北條時宗」で柳葉敏郎の演じた 安達泰盛 は盛長の曾孫にあたる。血の粛清を繰り返した北條得宗家と密接な縁戚関係を保ちつつ、多少の浮沈に耐えて幕府の中枢を生き抜いた安達一族は、鎌倉御家人の中では極めてまれな存在と言えよう。
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【 頼朝側近No.1、安達籐九郎盛長について 】
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幕府創設後は上野奉行職や三河の守護などを歴任、頼朝の死後は老臣として二代将軍頼家に仕え、更に13人の合議制にも加わって幕政に貢献した。北條一族の信頼は深く、政子は盛長の嫡男景盛(?~1248)に対しても我が子以上に気を使い、引き立てた。後に 安達景盛 は五代執権 時頼 の宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で三浦一族の滅亡に直接手を下した。皆殺しにされた三浦の怨霊を鎮めるため、鎌倉の自邸(現在の 甘縄神社(別窓)一帯)の北山に大仏を建立した、と考える説もある。終生官位を受けなかったのも盛長らしい地味な生き方だった。
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【 その後の安達一族  霜月騒動について 】
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鎌倉幕府の権力構造は数回に亘って変化している。頼朝 時代の将軍独裁 → 頼家実朝 時代の重臣合議制 → 北條義時以後の執権職に権力集中 → 得宗家(北條嫡流)による支配 → 御内方(得宗家の家臣)が権力を握る という流れになった。これに不満を募らせた古参御家人の子孫たちが 安達泰盛 を中心に結集し、御内方を指揮する 平頼綱 と戦って敗北・滅亡した弘安八年(1285)11月の霜月騒動である。
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八代執権 時宗 の死後は得宗家(北條嫡流)の家臣として急速に権力を握った平頼綱(平兼隆 の異母兄弟の子孫説あり)と対立が深まり全面武力衝突を引き起こした。 泰盛と嫡子の宗景が謀反を問われて殺され、幕府創設以来の権力の中枢にあった安達一族はあっけなく滅亡してしまう。
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直接のきっかけは宗景が「私の曽祖父景盛は頼朝の落胤だから私は源氏を名乗る」 と言い出したから。このチャンスを利用した頼経は「源氏を名乗るとは、安達に謀反の心あり」と執権 貞時 に訴えて即座に追討軍を送り、敗れた安達一族は滅亡した。得宗とは二代執権 義時 の法名が原典で、北條嫡流を意味する。頼綱は霜月騒動後に厳しい専制政治を敷いたが、正応六年(1293)4月になって成長した貞時に討伐された。




左:挙兵当時からの側近 堀籐次親家の本領     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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安達籐九郎盛長と同じく、堀籐次親家 も頼朝挙兵に従った側近の一人だった。守山の本陣から 加藤景廉 と共に第二陣として山木判官 平兼隆 館に斬り込んだのがこの男。
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菩提寺は修善寺駅から亀石峠に向かう途中の大野地区・定林寺(じょうりんじ)で、参道に後世の慰霊墓がある。
出自の跡は更に東へ進んだ、籐次屋敷と呼ぶ一帯の山裾に地元の有志による石碑が建っている。
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貧しい山村でロクな所領も持たず、不満を抱きながら暮らしていた闘争心だけが取り柄の乱暴者、貧乏暮らしから抜け出すため頼朝に従って一旗挙げようと考えた...本領の籐次屋敷周辺を歩いてみるとそんな印象を受ける。
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【 吾妻鏡 治承四年(1185) 8月17日 】
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(いつまでも兼隆館から火の手が上がらないため) 頼朝 は宿直の 加藤次景廉佐々木三郎盛綱堀籐次親家 を呼び、急いで山木を襲い合戦を終わらせるように命じた。長刀を景廉に与え兼隆を討ち取って首を持ち帰れ、と。討手はそれぞれ馬に乗らず蛭島通の堤を徒歩で走って山木館に討ち入り、景廉が兼隆の首を挙げた。抵抗する家臣も殺して館に放火し明け方に帰還した。疲労した武士たちは庭に列座し、頼朝は縁に出て兼隆主従の首級を確認した。
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八年後の建久四年(1193) 5月28日深夜、富士の裾野で巻き狩りを催した頼朝の宿舎近くで曽我兄弟の仇討ち事件が勃発した。父 河津三郎祐泰 の仇 工藤祐経 を殺した兄弟は頼朝の狩宿を目指して雨の中を走る。事件に気付いた御家人が立ち塞がり、兄の 十郎祐成 は激闘の末に 仁田忠常 に討ち取られたが、弟の 五郎時致 は更に進んで多数の御家人を傷つけた。吾妻鏡は淡々と事件を伝え、一方で曽我物語には思いがけず堀籐次親家の名が現れる。
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【吾妻鏡 治承四年(1185) 8月17日の続き
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まず武蔵国の住人大楽平右馬助が立ち向かい逃げ出して斬られ、次に 愛甲三郎 が左腕を斬り落とされ、三番目に駿河国の住人岡部彌三郎が左手中指を斬り落とされて退き、 四番目に遠江国の住人原小次郎が横鬢を斬られて退き、五番目に御所の黒彌五が横鬢を斬られて退き、六番目に伊勢国の住人加藤彌太郎が二の腕を斬り落とされて退き、七番目に駿河国の住人船越八郎が太股を斬られて退き、八番目に信濃国の住人 海野小太郎行氏 が膝を斬られて倒れ、九番目に伊豆国の住人宇田小四郎が首を落とされ、十番目に日向国の住人臼杵八郎が正面から顔面を斬られて死んだ。
堀籐次は五郎の勢いに恐れをなして頼朝の宿舎へ、追い掛ける五郎から逃れて本陣の幕を跳ね上げ侍所に逃げ込んだ。

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※河津三郎: 父の伊東祐家から河津郷を相続した祐親が河津二郎を名乗り、後に久須美荘 (伊東と宇佐美と河津) を強引に占有して伊東二郎祐親を名乗った。
長男の祐泰が改めて河津を相続して河津三郎を名乗り、異母弟の祐茂が宇佐美を相続して宇佐美二郎を名乗った、という事。
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ただし、祐親が伊東を占有した経緯は非常に複雑で、曽我物語と伊東の伝承によれば、祖父の祐隆の嫡男祐家 (祐親の父) が早世した後に、祐隆が息子祐家の後妻 (または後妻の連れ娘) に手を出して産ませたのが「仇討ちで殺された工藤祐経」だとしている。曽我物語には祐親が「息子の妾の連れ子に産ませた子供に久須美の所領を奪われ...」 と悔しがる場面が描かれている。
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ずっと以前、日向伊東氏 (wiki) の子孫を名乗る方から工藤祐経の出自について問い合わせを頂いた事があった。私は公式の系譜と共に上記した「曽我物語と伊東の伝承」を併記して返信したのだが、それっきり連絡が途絶えてしまった。「息子の妾の連れ子に産ませた子供云々」が腹に据えかねたらしい。個人的には、祐経の出自は公式と俗説の真偽は五分五分だと考えているのだが、子孫としては承服しかねる愚説に思われたのだろうね。
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かなり複雑な話なので、興味があれば この【鎌倉時代を歩く 壱】の「その七 もう一度伊東へ、曽我物語の原点」を精読されたし。
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平右馬允・愛甲三郎・吉香小次郎・加藤太・海野小太郎(幸氏)・岡部彌三郎・原三郎・堀籐太・臼杵八郎・宇田五郎らが負傷したり殺されたりしたのは吾妻鏡にも記録されているのに、堀籐次(親家)が逃げた云々は見当たらない。これは話を面白くするために曽我物語が捏造した濡れ衣だろうな。
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【 その他の武士について 】
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愛甲季隆 は武蔵七党の一つ横山党から愛甲に入った武士。現在の小田急線愛甲石田周辺を本領とした弓の名手で、13年後の元久二年(1205)6月には二俣川で 畠山重忠 を射殺して首を獲っている。1193年に「左腕を斬り落とされてた」愛甲さんは、12年後に弓を引けるのかね。
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吉香(原)小次郎は正治二年(1200)1月に
梶原景時 一族を狐ヶ崎(現在の静岡市清水区)で討伐した駿河国有度郡吉香郷の武士、加藤太は 加藤次景廉 の兄 光員海野小太郎行氏(幸氏) (下段、畠山重忠の項を参照) は鎌倉脱出の際に 清水(木曽・源)義高 の身代わりに残った信濃の滋野氏庶流の若者、岡部彌三郎は駿河国岡部郷の地頭となった藤原南家工藤氏一族の武士だが誰に該当するか不明、原三郎は後に遠江国原田庄細谷郷(現在の掛川市細谷)の地頭となった原忠益か、堀籐太は堀親家の近親者か、臼杵八郎は大神氏の支流で豊後国(大分県)海部郡臼杵荘を本拠にした臼杵氏の一族か。宇田五郎は不明。

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右:嵐山町 菅谷館跡に立つ畠山重忠像     画像をクリック→拡大表示
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堀籐次親家の名前が出たついでに海野行氏の名前が出て、さらに関連で志水義高、その義高が鎌倉を脱出して向った先が生母 小枝御前が待つ武蔵国鎌形、ここは畠山重忠館のある菅谷に近い。
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頼朝 が挙兵し東国の覇権を握ってから三年後、挙兵して信濃を制圧していた 木曽(源)義仲 は鎌倉の圧力に屈して上野国(群馬県)進出を諦め、反転して北陸を目指した。寿永二年(1183)2月の 野木宮合戦(別窓)に敗れて東国から逐電した 志田義憲 と 平家軍に敗れた墨俣川合戦の恩賞を拒否された 十郎行家 は二人とも 義朝 の弟で頼朝の叔父に当たるのだが、義仲に合流して庇護を受けた事が原因の一つとなって義仲と鎌倉との関係が険悪になった。
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実際には信濃から 義仲 の駆逐を狙った甲斐源氏の 石和(武田)信光 が志田義憲や行家の件 (頼朝に排除された二人を義仲が庇護した) に因縁をつけて隣国から退去させる必要性を強調し、鎌倉 vs 義仲の戦略的チキンレースは情勢判断力に優れた頼朝に軍配が挙がる。義憲も行家も自ら招いた窮状なのだが、情に篤いのが義仲の美点で決定でもある。
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  ※義仲を駆逐: 当初は義仲との関係が良好で娘と義高の婚姻まで考えていた信光は南信濃の支配権を巡り義仲と対立して鎌倉に讒訴、ただでさえ猜疑心の強い頼朝を
刺激し義仲との対立を煽った。甲斐源氏棟梁の座を握るために平然と父や兄弟を裏切った策士・信光の面目躍如、である。
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【 平家物語 巻七 北国下向の事 】
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寿永二年(1183)3月に義仲と頼朝の不和が噂となり、頼朝は10万余騎の軍勢を率いて信濃国に進出した。一方の義仲は3千余騎を率いて 依田城(別窓)から信越国境近くの熊坂山(関山)に布陣、頼朝は信濃善光寺に布陣して対峙した。
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義仲は乳母子今井(中原)兼平 を使者に送り、「あなたは東国を平定し東海道から平家追討に向かうと聞いた。私は東山道を制圧し北陸道から京に攻め上ろうとしているのに仲違いして平家の嘲笑を受ける謂れがあろうか。あなたを恨んで私の元へ来た新宮十郎行家は粗略に扱う事もならずに庇護しているが、私はあなたに意趣を持っている訳ではない。」と。
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頼朝は「私を討伐する企てがあると知らせた者がいる、信用できぬ」と答えて 土肥實平梶原景時 に数万の兵を与えて差し向けた。義仲は恫喝に屈し、敵対する意思がない証として11歳の嫡子 清水冠者義高 に海野・望月・諏訪・藤沢など著名な武士を添え人質として差し出した。頼朝は「それならば信じよう。私にはまだ元服した男子がいないから我が子にしよう」と答えた。天野遠景岡崎義實 らが義高を請け取り、頼朝は鎌倉に撤退した。
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  ※熊坂山 (関山): 黒姫に近い信濃町の北国街道沿いに古間の地名あり(善光寺から北へ約20km、地図)ここを差すらしい。
乳母子は乳母の実子で、実の兄弟以上の強い絆で結ばれていた。
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【 吾妻鏡 同じく 3月(末か) 】  治承四年(1180)12月24日の記述だが、編纂ミスと推定される。
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木曽義仲は上野国進出を止めて信濃国へ引き上げた。東国に勢力を築くため亡父 帯刀先生義賢 の遺跡である 多古庄(別窓)入部を図ったのだが既に頼朝の権威が確立していたため (北に) 退去する結果となった。
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多古庄まで南下すれば亡父義賢が
悪源太義平 に討たれた 大蔵館の跡(別窓)まで約50km。義仲さん、訪れたかっただろう。義仲は平家一門を京から駆逐した後の寿永三年(1184)1月20日に、近江の粟津で 九郎義経蒲冠者範頼 の連合軍に滅ぼされた (最期に包囲したのは甲斐源氏の一條忠頼の軍勢か) 。
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木曽の山奥育ちの無教養で直情径行タイプ、悪く言えば単純だけど策を弄さず約束を交わした相手は死を賭しても守る、この心意気と潔さこそ江戸時代の俳聖 松尾芭蕉「私が死んだら義仲の墓の横に埋葬を」 と言い残すほど深く愛された 木曽義仲 の美点なんだよね。彼の最期は膳所の義仲寺 及び本文を参照されたし。

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左:入間川の近く、志水冠者を祀った清水八幡     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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北信濃で頼朝と対峙した4年後に義仲は大津で討死する。彼の生涯は【 鎌倉時代を歩く 弐 】の「その拾」に詳しく記述してあるから、ここでは鎌倉に入った嫡子の義高についてに限定して語ろうと思う。時系列が逆になってしまうけど。
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さて...義仲 は滅ぼしたが、大姫 の許婚として鎌倉に留め置いている 清水冠者義高 の処遇をどうするか。既に東国の支配権を完全掌握した頼朝にとって、数人の側近が仕えているだけの義高は少しも危険な存在ではない。
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しかし将来は、頼朝 追討の旗印として担ぎ出される可能性がある。それは頼朝の次の世代かも知れないが災厄は芽のうちに刈り取るべきだ。平治の乱で殺される筈の身が助命され20年後に勝者の平家を滅ぼした、実体験を経た頼朝だからこその発想である。
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頼朝はすでに叔父の 志田義憲 らを殺し、平家を滅ぼした後は同じく叔父の 十郎行家 や弟の 義経範頼 も殺すことになる。血縁同士が殺し合うのは代々の源氏が背負う宿業なのだが、義高を殺す意志を固めた頼朝の動きは侍女を介して 大姫 に伝わってしまう。身の危険を知った義高は馬の脚に布を巻いて蹄の音を消し、大姫主従の手助けで鎌倉を脱出した。
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生母(義仲の側室 山吹) と合流すべく武蔵国鎌形(埼玉県嵐山町)を目指したが、埼玉の入間川で討手に追いつかれて首を落された。鎌倉→ 鎌形は約100kmで入間川は約80km地点。あと20km逃げれば、せめて生母との再会は果たせたのだが(逃走の概略ルート地図)...。
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この時12歳だった義高を殺して鎌倉に首を持ち帰ったのが 堀籐次親家 の郎党 籐内光澄。武蔵国鎌形は父・義仲の生まれ故郷であり、悪源太義平 に討たれた祖父 源義賢 が本拠を置いた終焉の地 大蔵館(大蔵館跡と源義賢の墓所 ・別窓を参照 )も近く、更には鎌倉武士の典型と称された 畠山重忠 の菅谷館も指呼の距離にある。義高母子は重忠の庇護に一縷の望みを託した、そんな可能性もあったか。
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他の著名な武将と同様に、重忠の人格についてもフィクションが一人歩きしている部分が多い。謡曲にも
工藤祐経 の讒言で 河津三郎祐泰 の幼い息子兄弟が由比ガ浜で斬首を命じられたが重忠らの諫言で中止となり、馬を飛ばして駆けつけた云々の場面があった。
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しかし 梶原景時 追討や、頼家 の失脚・追放や比企一族追討などに於ける重忠は、北條側として積極的な役割を演じている。果たして頼朝が期待した「源家への忠誠心」や中長期的なビジョンを持った人物だったのかは疑わしい。個人的には、武弁(勇敢に戦う事)だけが取り柄の人物だったと思う。

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右:岩舟地蔵堂の周辺、扇ヶ谷・亀ヶ谷の鳥瞰図      画像をクリック→拡大表示
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  【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 4月21日 】
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昨夜から鎌倉に騒ぎが起きた。 義仲 は既に勅勘を受け討たれた者で、その子の 清水冠者義高 は婿ではあるが殺さなければならない、 頼朝 はその旨を周囲の御家人に言い含めた。それを女房(女官)が漏れ聞いて大姫に報告、義高は女装して女房に紛れ馬の蹄を布で巻いて音を殺し鎌倉を脱出した。
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同じ年齢の側近 海野小太郎幸氏 が義高を装って双六で遊ぶなどして普段通りに振舞って時間を稼いだため、今夜になって露見したものである。志水冠者逃亡の事情を知った頼朝は激怒し、軍兵を方々に送って討ち取るよう 堀籐次親家 に命じた。大姫は狼狽して魂を消すような有様だった。
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ちなみに、義高の身代わりになって鎌倉に残った海野小太郎幸氏は信濃の名族 滋野氏(wiki)の嫡流・海野一族の棟梁を継承し、義高の死没後は頼朝の御家人となった。弓の名手として吾妻鏡にも再三登場し、曽我の仇討ちの際にも頼朝の側近として 曽我五郎時致 と戦って負傷したメンバーに中に名前が載っている。
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幸氏の出自については諸説あるが、義仲四天王の一人・海野幸親(または行親、滋野とも名乗っている)の息子と考えるのが一般的だ。
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  【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 4月26日 】
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堀籐次親家 の郎党・籐内光澄が鎌倉に戻り入間河原で志水冠者を殺したと報告した。これは秘密にしたのだが、大姫が漏れ聞いて愁歎の余り食事もしない状態になってしまった。御台所(政子)も娘の心を察して深く哀れみ、周囲の男女も悲しみに沈んだ。

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左:大姫の護持仏を祀ったと伝わる岩船地蔵堂     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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大姫の嘆きと憔悴、そして娘を溺愛していた政子の怒り。政子に責められた頼朝は理不尽にも籐内光澄を斬首してしまう。
いくら何でも主人の命令で追討したのに斬首されるなんて筋が通らない。「そんな馬鹿な!」と籐内光澄が嘆いたかどうか。一応歴史には名前が残ったが、それで済む問題でもなかろう。
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【 吾妻鏡 元暦元年(1185) 6月27日 】
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去る4月に志水冠者を討ち取った堀籐次親家の郎党(籐内光澄)が梟首された。事件の後に大姫は病床で日ごと憔悴する状態になった。命令であっても内々に大姫側に知らせるのが当然である、と。御台所の怒りは激しく、頼朝も言い逃れできずに斬罪に処したものである。
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吾妻鏡は頼朝の発した理不尽な命令や、政子の嫉妬や怒りに振り回される頼朝の姿を再三描いている。権力側が編纂に関与した史書としては興味深いが、北條得宗(義時以後の嫡流)に関しては批判じみた表現は見当たらない。
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これは編纂が北條氏の一強独裁時代だったのと無関係ではあるまい。頼朝や頼家や実朝に関する記述の中に散在する多少の「好意的な記述」は「私は良心に従って記述しています。この文書は権力に媚びた史書ではありません」と装った意地汚いポーズに見える。
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歴史は繰り返す。第二次大戦前は無論のこと、安倍一強政権下の「忖度」なんて吾妻鏡より遥かに異様だ。そもそも、権力を批判する姿勢が不可欠のメディアや
ジャーナリストが政治権力に尻尾を振るなんて...職業意識どころか、道徳心まで失ったのだろう。
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北鎌倉から建長寺の近くまで登り、巨福呂坂隧道の手前で 足利高氏(尊氏)の供養墓がある 長寿寺 (別窓)に沿って右に入ると扇ヶ谷に下る亀ヶ谷坂、横須賀線の線路に突き当たる手前に小さな地蔵堂がある。史料に拠れば元禄三年(1690)の建立で平成十三年に建て直す前は既に320年以上が過ぎ、屋根を保護していたトタン屋根も朽ち果てる寸前だったが、今では古都に相応しくないと感じるほどピッカピカになってしまった。
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地蔵堂を管理している 扇谷山海蔵寺(別窓、建長五年(1253)建立)の縁起に拠れば、頼朝息女の没後に持仏だった岩舟地蔵を本尊として建立され、その旨を記した銘札 「大日本国相模鎌倉扇谷村乃地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公息女乃守本尊也」 が地蔵菩薩胎内から見つかっているらしい。
ただし、この文面だけから創建の年代を確定するにはかなりの無理がある、と思う。
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岩舟地蔵は舟に乗った姿、又は岩で彫った舟形の光背を持つ姿で、「頼朝息女」が19歳で没した
大姫 か 14歳で没した二女 乙姫 か、定かではない。
更には絶対秘仏のため実際の姿も確認できず、辛うじて小さな穴から前立仏を拝観する。同様の像は栃木県の岩舟など各地に散在している。

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右:扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂切通し    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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亀ヶ谷坂は横須賀線が走っている現在の扇ヶ谷から登って山ノ内へ下る坂道である。 八幡宮側から見ると平家池の南西端の筋向い、鎌倉十井の一つ 鉄(くろがね)の井 (画像。詳細は下の壽福寺で)の前から古道・窟屋小路を通り抜け 壽福禅寺(別窓)の門前を北に折れると扇ヶ谷となる。
ここから400m北上して西に登ると化粧坂を経て源氏山に至り、北東に登ると「亀ヶ谷坂切通し」に至る。
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建長寺(公式サイト)の大覚池に棲む亀が登ろうとして引き返したとか、亀でさえひっくり返るほどの急勾配なので亀ヶ谷(かめがやつ)と呼び始めたとか伝わるが、時代が下るに従って少しづつ切り下げられ現在では緩やかな傾斜の舗装道路となって往古の面影を失なっている。
鎌倉時代には尾根の近くを少しだけ切り下げた程度の峠道で、鎌倉と外界を結ぶ道の中でも屈指の難路だった。
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鎌倉時代の初期に武蔵国方面に向う主な街道は八幡宮の北から現在の隋道の上(当時は隧道のないただの峠)を越えて山ノ内に下る巨福呂坂がメインで、少し遠回りして梶原方面に下る化粧坂も併用されていた。扇ヶ谷エリアから山ノ内へ向う場合には亀ヶ谷坂の方が短距離になるが、巨福呂坂に比べると利用頻度は低かったと思う。
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鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱(1333年)を描いた太平記の中には亀ヶ谷坂での合戦記録がない。南東に600m離れた巨福呂坂の激戦(執権赤橋守時 vs 新田軍の将 堀口貞満)が詳しく書き残されているのは亀ヶ谷坂が軍勢が進入しにくいルートで、更に推測すれば鎌倉七口の中では東の巨福呂坂と西の化粧坂に挟まれた中間にあり、比較的利用頻度の低い存在だったから、だろうか。
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  ※鎌倉七口: 外部と鎌倉を結ぶ亀ヶ谷坂・朝夷奈・巨福呂坂・化粧坂・大仏・名越・極楽寺坂の七ヶ所の「切り通し」を差す。
峠の前後を切り下げて道を通したため「七切通し」と混同したり、釈迦堂口切通し(実際にはトンネルで、現在は通行禁止)を含む例もあるが、これは二階堂方面と大町方面を結ぶバイパスで、外部とは繋がっていないため「七口」には含まない。

 
左:今は廃道となった巨福呂坂切通し     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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この切通しが最初に開削された時代は明らかではないが、吾妻鏡の数ヶ所に巨福呂坂切通しと推測できる記述があり、従来利用していた化粧坂や亀ヶ谷坂に続いて鎌倉時代の中期に整備が進んだと考えられる。
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亀ヶ谷坂も巨福呂坂も「山ノ内に通じる道」なので吾妻鏡がどちらを差しているか確定し難い。鎌倉中心部からは遠回りになる亀ヶ谷坂のショートカットとして新たに巨福呂坂を開削した可能性が高い、と思う。
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小袋坂(巨福呂坂)の名称が初めて吾妻鏡に現れるのは、疱瘡の流行を恐れた四代将軍 藤原頼経 が祭祀を行なった旨の記述で、鎌倉四境の一つとして重要視されていたことを窺わせる。
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【吾妻鏡 嘉禎元年(1235) 12月20日】
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御所の南庭に陰陽師を集め、七座の泰山府君祭(陰陽道の祭祀)を催した。担当は忠尚と親職と晴賢と資俊と廣資と国継と泰秀、黄昏には四角四境祭(国の四隅と四方向で疫神の災厄を払う陰陽道の祭祀)。御所の北東は晴茂、東南は晴秀、南西は経昌、北西は清貞、小袋坂は泰房、小壺(小坪)は親貞、六浦は以平、固瀬河(片瀬)は文方の担当である。
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  【 吾妻鏡 仁治元年(1240) 10月10日 】
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前の武州(執権 泰時 )邸での決裁で、山ノ内に通じる道路を造るよう指示があった。工事を差配する奉行は安東籐内左衛門尉(光成)である。
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  【 吾妻鏡 同年 10月19日 】
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(前段略)執権 泰時 の沙汰として山ノ内に通じる道の造成が始まった。険しいルートなので(現状のままでは)往還に難儀するためである。
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  【 吾妻鏡 建長二年(1250) 6月3日 】
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山ノ内および六浦へ通じる道は先年に険しい部分を改修したが、(崩落した)土石が村里を埋める状態になったため復旧の指示が出された。

 
右:義高の塚を移設したと伝わる粟船山常楽寺     画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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大姫頼朝政子 の間に産まれた最初の女子。わずか6才で 木曽義仲 の嫡男 義高 と政略で婚約するが義仲は頼朝と戦って討たれ、大姫の婿を兼ねた人質として鎌倉に滞在していた義高も将来を危ぶむ頼朝の命令で殺された。その後の大姫は心を閉ざし、全ての縁談を拒んで独身を貫き悲劇の一生を過ごしてしまう。
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病弱の大姫を不憫に思った頼朝は後に 後鳥羽天皇(当時15歳)の后として入内させる画策をするが、彼女はその直前の建久八年(1197)に満19才で病死。頼朝が不慮の死を遂げる18ヶ月前の事で、大姫入内工作に伴って頼朝と朝廷の接近に危惧を覚えた東国武士の反発が頼朝を謀殺した、と推定する説もある。
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大姫入内の画策は娘が不憫だったからか、または全盛期の 平清盛 の様に天皇の外戚になる夢を見たのかも知れない。もし14歳まで過ごした京都の貴族社会への回帰願望が出発点なら、頼朝の事故死と三代将軍 実朝 の死因には共通の背景がある。
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多くの合戦を経て(一所懸命で)勝ち取った権益を守りたい東国武士団が企んだ、あるいは頼朝以後の覇権を夢見た 北條時政 が頼朝を暗殺した...そんな仮説も数限りなくある。かなり乱暴だが、それぞれがそれなりの説得力を持つから面白い。
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さて...入間川で殺された義高の首は大船の鎌倉街道沿いに塚を設けて埋葬した、と伝わる。塚は後に粟船山常楽寺に移されて木曽塚となり、その傍らには大姫の墓と伝わる祠が残っているが、後者は根拠の乏しい伝承に過ぎない。常楽寺は建長五年(1253)に開いた同じ臨済宗の建長寺から更に18年も遡る嘉禎三年(1237)。古刹ではあるが、義高の死後50年以上過ぎての建立だから義高との接点はない。仏殿の背後に三代執権 北條泰時 を葬った五輪塔があることでも知られている。
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大船地区も鎌倉市に含まれるが、巨福呂坂隧道を抜けて北鎌倉を過ぎてしまうと古都の雰囲気は殆ど見られない。辛うじて落ち着いた茅葺きを見せる常楽寺の姿を見せる山門周囲は住宅密集地でJR大船駅からは約1km、参道入口の150m東を鎌倉街道(古道)が通っている。建立された当時には武蔵国方面の領国と鎌倉を行き交うする御家人で賑わい、北條一族が滅亡した弘安三年(1333)には 新田義貞 率いる大軍が鎌倉中枢部を目指して進軍したルートでもあった。
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義高事件当時の大姫は7才、娘盛りの19才で病没する彼女にとって義高事件が悲劇のスタートとなった。一方で義高を殺した籐内光澄の主人 堀籐次親家は、建仁三年(1203)に勃発した比企の乱の後に、頼家失脚に伴うトラブルが原因で北條時政の兵に討たれている。
籐次屋敷(別窓、館跡の地名)に建つ石碑には「北條氏を憚って長く供養もできなかった」と刻まれている。堀籐次親家の死の経緯は少し前の項で記述した。

 
左:義仲の父・源義賢の墓所と大蔵館跡   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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河内源氏棟梁の 為義 と長男の義朝 が不仲だった原因は定かではないが、為義は政治的にも軍事的にもやや凡庸な人物だった。
不仲の末の仁平三年(1153)に、本拠の南関東から北関東に勢力を伸ばしつつあった長男の義朝に対抗して、嫡男扱いしていた二男 義賢 を北関東に派遣し 東国に影響力を確保する拠点にしようと図った。
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当初の義賢は上野国の多胡郡(現在の吉井町)の 多胡館(別窓)に拠点を置き、秩父氏嫡流の 秩父重隆 の娘を娶って(重隆の養い君として)武蔵国比企郡大蔵に住み、義朝の地盤である南関東と相模を侵す動きを見せた。
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ここで、京都に本拠を置いた義朝の指示を受け鎌倉に駐在していた長男の 義平 が久寿二年(1155)8月に秩父重隆の甥である 畠山重能重忠の父)や 斎藤別当實盛 らを従えて大蔵館を急襲し、義賢と共に重隆まで殺してしまう。
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この事件で17歳の義平は鎌倉の悪源太 (勇猛な源氏の長男) として武名を馳せたが、平治の乱で敗れた後に捕縛され六条河原で斬首となる。義平の正室だった 新田義重 の娘・祥寿姫は義平の首を盗んで新田に帰り、草庵を建て落飾して菩提を弔った。これが現在の 清泉寺(別窓)。13年後の寿永二年(1182)、頼朝は既に40歳前後の彼女に艶書を送って側妾に望んでいる。
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大蔵合戦は源氏の内紛であると同時に秩父平氏の内紛であり、更には領地を巡る秩父重隆 vs 藤姓足利氏(藤原秀郷 の子孫)や新田一族の棟梁 義重 らが入り乱れた支配圏争奪戦でもあった。重隆の異母兄ありながら、継母の妨害で秩父氏の家督を相続できなかった 重能 は秩父から東へ進出し現在の川本に土着して畠山を名乗った。重能は悪源太義平の指揮下に入り、藤姓足利氏+新田義重と連合して秩父重隆+義賢連合を滅ぼした。首謀者の義朝は5年後の平治の乱(1160)で敗死するが、八幡太郎義家 の時代から東国に根を下ろしていた河内源氏の影響力は20年後の頼朝挙兵の際に大きく実を結ぶ結果になる。一族が団結すれば源氏の覇権が長く続いたかも知れなかったのに...。
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【 河内源氏が同族で殺しあった代表的な事件 】
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    嘉承元年(1106)に河内源氏の棟梁 義家 が死没、跡を継いだ四男義忠が参年後に暗殺され、義家の実弟 義綱(義光 の兄)が首謀者として佐渡流罪となった。
義綱の長男義弘・二男義俊・三男義明・四男義仲・五男義範・六男義公は謀反人として討死または自刃し、23年後には追討軍を迎えた義綱も自刃した。
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事件の真犯人は棟梁の座を狙った義光。郎党の鹿島三郎に義忠を襲撃させ、更に園城寺の僧快誉(出家していた義光の弟)を使って口封じのため鹿島三郎も殺すという悪辣な策謀だったが後に真相が全て明らかになり、義光は領国の常陸に逃亡を余儀なくされた。この一連の事件で 為義 と義家が二代で築き上げた源氏の勢力は衰え、結果として平家一門の台頭を招いてしまう。
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    常陸に定住した義光の長男家業は佐竹氏の祖となったが、二男 義清 は常陸の豪族大掾氏と争って嫡子の 清光 と共に甲斐流罪(配置転換程度の処分か)となった。
義清親子が甲斐に定住して甲府盆地一帯を制圧し、清光の二男 信義 が武田の棟梁を継承したまでは順調だったが、彼の三男 信光 は家督継承のため 頼朝 と結託、長兄の 一條忠頼 を暗殺させ、次兄の 逸見有義を追放、更に弟の 板垣兼信 を隠岐流罪へと追い込んだ。信光の野望は成功したが、同時に頼朝の目論見通りに甲斐源氏の勢力は著しく衰退した。この経緯と詳細は「鎌倉時代を歩く 弐」の 甲斐源氏の興亡 に詳しく述べてある。
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    保元元年(1156)に起きた保元の乱で敗れた 崇徳上皇 側の 源為義(義朝の父)は義朝の館で斬られた。同様に義朝の弟五人、頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲
らは全て京の船岡山(大徳寺そばの船岡山公園、地図)で斬首された。義朝は「父と兄弟の助命を願っても許されなかった」語っているが、為義五男の頼仲は 「義朝は心が狭いから自分一人だけ生き残る工夫をしている。いずれは後悔するだろう」と 笑いながら斬られたという。
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特に悲惨なのは
義仲の一族で...父の義賢は義朝の命令を受けた義平に殺され、その嫡男 義仲は頼朝に討伐され、義仲の嫡男 志水冠者義高も頼朝に殺された。三代に亘って同族の頼朝親子に殺されるとは、何とも凄まじい。特に義朝の場合は東国での覇権争いから次弟の義賢を殺し、保元の乱で実父の為義と兄弟5人を殺し、平治の乱で実子の朝長を殺しているから、知多で惨殺されたのも 「因果はめぐる糸車」 とでも言うべきか。平氏は同族を重用した末に滅び、源氏は同族を殺し続けた末に滅び...己の命も他者の命もここまで軽んじる必要があったのか、もう少しスマートな生き方は出来なかったのか、とつくづく思う。

 
右:山吹が開いた班渓寺と、義仲生誕の鎌形八幡   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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源為義 の指示に従って東国に下向し上野国多胡の所領に入った 義賢 は武蔵国最大勢力の豪族・秩父重隆の娘を娶り、重隆の養君(やしないぎみ・「身分の高い養子」と解するべきか)として大蔵館に入った。
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更に大蔵館から2kmほど西の鎌形に下屋敷を設けて小枝御前(出自は不明、尊卑分脈は遊女としている)を囲い、久寿元年 (1154年) にここで駒王丸(後の義仲)が産まれた。この下屋敷は班渓寺の裏手(西)にあったと考えられている。
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大蔵館で義賢と秩父重隆を殺した 義平畠山重能重忠の父)と共に襲撃に加わった 斎藤實盛 に駒王丸母子の殺害を命じたが、哀れに思った二人は母子を木曽に逃し、土豪の 中原兼遠に養育を委ねた。
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小枝御前のその後の消息は明らかではないが、後に義仲一族の菩提寺となった木曽街道 宮ノ越宿の 徳音寺(木曽観光紹介のサイト)は義仲が母の小枝を弔って建立した柏原寺が前身と伝わっているから、たぶん彼女は木曽に逃れ義仲を育てつつ生涯を終えたのだろう。
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 ※中原兼遠: 駒王丸(義仲)・義賢・重隆と兼遠の関係は良く判らない。兼遠の父兼経は正六位下・右馬少允として佐久郡の牧長に任じた、又は兼経の長男(兼遠の兄)
:源為義 に従って保元の乱を戦った などの記録もあるから、源氏との主従関係もあったらしい。
また兼遠と實盛が母子を木曽に連れて行ったのか、實盛が二人を連れて木曽に赴き、信濃権守に任じていた兼遠に母子を託したのかも不明。源平盛衰記の「木曽謀反附兼遠起請の事」はその後の顛末を次のように述べている。
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義仲謀反を知った平宗盛 は中原兼遠を呼び「義仲を連行せねば首を刎ねる」と迫った。兼遠は「謀反は噂に過ぎませんが取り敢えず帰国して捕えます」と答えた。宗盛は更に「ならば義仲を捕らえる起請文を差し出すか、 誰かに義仲を捕らえさせ連行すれば帰国を許す」と迫った。
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兼遠はやむなく「連行する」との起請文を入れて木曽に帰り、懇意にしていた佐久の 根井(根々井)行親 に義仲を預けて後事を託した。行親は各地に廻状を送って軍兵を集め、義賢の時代からの友誼で馳せ参じた上野国の武士や足利の一族らが集結して平家を滅ぼすため挙兵するに至った。
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義賢の正妻は藤原宗季(造宮職の下級貴族?)の娘で、義賢が討たれた久寿二年(1155)には息子(事件後に 三位頼政 の養子になった 仲家)と共に在京して難を逃れている。義仲の妻妾については諸説があり、更に平家物語や源平盛衰記など軍記物語の脚色が入り混じって複雑な様相を呈している。
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①木曽に残した妻 ②便女 ③同じく 山吹 ④同じく葵 ⑤正妻とされる藤原伊子 が知られているが、巴と山吹と葵の三人は同一人・或いは一部が同一人と考える説もあり、混然としている。従って 志水冠者義高の生母が山吹あるいは葵だった可能性は高いが確証はない...程度に考えるのが自然だ。巴も山吹も中原兼遠の娘とされるのが一般的だが、山吹は兼遠の兄・兼保の娘とする説もある。巴御前の活躍を鬱陶しいほど数多く描いている平家物語が山吹に触れているのは只の一ヶ所、一行だけ。
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【 平家物語 巻九 木曽最期 】
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信濃での挙兵以来、義仲は常に二人の便女を伴って転戦していた。その一人である山吹は病気のため今回の出陣(鎌倉軍との戦い)には同行せずに都に残っていた。もう一人の便女 巴は色白で髪が長く、都でも噂になるほどの美女でありながら男勝りの強弓を引き、太刀を持たせれば一騎当千の戦いを見せる女武者である。義仲は巴に優れた甲冑を着せて一方の大将として従軍させていた。
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  ※便女とは: 要するに、身の回りの世話をする便利な女・召使いを意味する。もちろん出陣中には妻の代理も務めたのが普通。
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  ※藤原伊子: 京を占領した義仲が政権末期に 後白河法皇 と争い、武力で実権を握った際に娶った元関白 藤原基房 の娘。義仲は一ヶ月後に粟津で戦死するから束の間の
結婚生活だった。ただしこの婚姻を記載しているのは平家物語だけなので、事実を疑問視する説もある。
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そして...義仲が鎌形下屋敷で産まれた29年後の元暦元年(1184)4月、母の 山吹 と落ち合うため鎌倉を脱出した義高は道半ばの入間川で討たれた。山吹は下屋敷の近くに班渓寺を建てて落飾し、義仲と義高の菩提を弔いつつ建久元年(1190)11月22日に没した、と伝わっている。

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左:巴御前のついでに、浅利与一と坂額の旧蹟   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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の活躍は物語としては面白いが、武者の首を捻じ切るほど腕力の強い美女など存在する筈はない。
吾妻鏡には巴に関する記載は全く見られず、その一方で越後城氏の乱における別の女武者 坂額(板額とも) の奮闘を描いている。
平家物語に載っている女武者・巴の「斬り合いや馬上の組討ち」ではなく、半弓の名手として。
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強い女性の代名詞、「いずれが巴、坂額か」 の語源になった女性。彼女は負傷して鎌倉に送られ甲斐源氏 浅利与一 の妻となった。
甲斐中央市の旧・豊富村周辺には与一の墓所や菩提寺と共に坂額のその後を物語る旧蹟が点々と残っている。
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【 吾妻鏡 建仁元年(1201) 5月14日 】
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越後国鳥坂の城郭に籠った反乱軍の 城資盛 らは雨のように矢石を飛ばし、味方の多くが傷つき落命した。資盛の叔母坂額御前は女ながら百発百中の弓の技を見せた。髪を束ね腹巻(胴を守る鎧)を付けて攻め寄せる味方を矢倉の上から弓射し、射られた者の多くが落命命した。後に信濃国の住人 藤澤清親 が城の裏山から射た矢が坂額の股を射抜き、郎従が生け捕りにした。
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※鳥坂の城郭: 現在の胎内市にある(地図)。当時の城郭は柵と櫓を使った防衛施設で、中世以降の居住の機能を持つ城とは異なる。
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※藤澤清親: 諏訪大社(公式サイト) の神職 神氏の庶流。清親は保元・平治の乱で源氏方に加わって転戦、治承の兵乱では木曽義仲に従った。
寿永二年(1183)に人質の義高に従って鎌倉に入り、義高の死後は頼朝の御家人となった。吾妻鏡には弓の名手として再三登場する。
奥州遠征の主戦場となった 阿津賀志山合戦(別窓)にも名前が見える(リンク先の吾妻鏡 8月9日の項を参照)。
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【 吾妻鏡 建仁元年(1201) 6月28日 】
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藤澤清親が捕虜の資盛叔母 坂額を伴い参上。傷は完治していないが頼家の求めにより介助されての面談である。畠山重忠宇都宮朝綱和田義盛比企能員三浦義村ら多くの御家人が列する中を臆せず諂う(へつらう)気配もなく御前に進んだ。勇敢さは男に並び、美しさも比類ない女である。
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【 吾妻鏡 建仁元年(1201) 6月29日 】
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安佐利與一義遠(浅利与一義成)が女官を通じて越後の捕虜(坂額)の処分が決まっていなければ拝領したいと願い出た。頼家が 「朝敵を欲しがる所存は何か」と問うと安佐利は、「妻にして強い男子を産ませ朝廷を護り源家を援けるため」 と答えた。頼家は 「この女は美しいが猛々しい心を持っている。普通なら義遠の様には思わないものだ」と笑った後に望みを許した。安佐利は坂額を連れて甲斐国に下った。



 その四 話を戻して、保元・平治の乱と三位頼政の挙兵 


左:京都 若一神社の平清盛(相国)石像
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【 保元の乱(1156)とは 】
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鳥羽法皇 (wiki) は永治元年(1141)に 藤原璋子(待賢門院、父は正二位 権大納言藤原公実)が産んだ第一皇子の第75代 崇徳天皇 を23歳で退位させて上皇とし、自身が譲位した後の寵妃である藤原得子(美福門院・父は権中納言藤原長實)が産んだ崇徳の異母弟 (第九皇子) を第76代近衛天皇として即位させた。久寿二年(1155)に近衛天皇が15歳で崩御すると、次は側近の信西(俗名 藤原通憲)らの意見を容れて崇徳の実弟 (第四皇子) を第77代 後白河天皇 とした。崇徳はこの仕打ちを深く恨んだ。
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  天皇と上皇と法皇: 現役の皇位はもちろん天皇、退位して皇位を譲った場合は上皇となる。法皇は出家して仏門に入った上皇を差す。
上皇・法皇は実質的に政治を司ったため「治天の君」と呼ばれ、天皇は皇太子レベルの実権しか持たなかった。
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平安中期以後は上皇と法皇が実権を強めて院政を行い、長く定着していた従来の摂関政治が変化していく。院政の最初は第72代白河天皇 (延久四年 (1073)即位~応徳三年 (1086) 堀河天皇に譲位) 、以後大治四年 (1129 ) の崩御まで44年間の院政を敷いた。
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ちなみに、平成天皇が生前退位の意向を持たれた際に「前例がない」とゴネた所謂知識人がいたが、これは嘘。前例は数えきれないほどあるし、終身天皇制を定めた法律も皇室典範の条文も存在しない。
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更に加えれば「男系男子による皇位継承」は「複数の妻妾」が許された時代だから支えられてきた制度である。「天皇の第一子女の皇位継承」を認めない限り、:現在の天皇制を維持できる可能性は限りなく小さい。天皇直系ではなく男系男子 (皇位継承権第二位の悠仁親王) による継承は、皇室の正当性を明らかに棄損する。
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摂関家(摂政・関白を輩出する公家の頂点の藤原氏嫡流)でも同様に、関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が権力を争い、忠通は後白河天皇側に、頼長は崇徳上皇側を支援して各々が兵を集め始めた。崇徳上皇側の主力は 源為義 を中心に 源頼賢鎮西八郎為朝ら屈強な息子達と源頼憲(多田)・平忠正・他、近衛天皇側には 源義朝平清盛源頼政足利義康 ら歴戦の実力者が加わった。そして保元元年(1156)の7月2日に鳥羽法皇が没すると間もなく双方の武力行使が始まる。
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7月11日早朝に近衛天皇軍は清盛300騎・義朝200騎・義康100騎が先手を打ち崇徳上皇の白河北殿を奇襲、激戦の後に隣家に放火されて陣容を乱した上皇方の敗北に終わった。そして決着後の上皇方への処罰が過酷を極める結果となる。

 
右:保元の乱にかかわる京都中心部の鳥瞰図    画像をクリック→拡大表示
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まず 平清盛 が叔父の平忠正とその子3人(長盛・忠綱・正綱)を六条河原で斬首、足利義康 が伊勢平氏傍流である上皇の側近・平家弘の一族計6人を大江山で斬首、源義朝 が父の 源為義 とその子5人、つまり父親および実弟の頼賢・頼仲・為成・為宗・為仲を船岡で斬首した。崇徳天皇 は隠岐流罪、武勇を惜しまれた為朝は腕の筋を抜かれ伊豆大島に流された。
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もともと清盛と叔父の忠正(父・忠盛の弟)は仲が悪かったため先手を打って彼を斬罪に処し、義朝が父と弟を殺さざるを得ない立場に追い込んだ、とも言われている。
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新羅三郎義光 の時代から始まって頼朝が死没するまで肉親が互に殺し合うのが源氏の業とは言っても、敵方になった実父と5人の弟を殺すとは...合戦の習いではあるが、ここまでの苛烈な処分は異様である。
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  ※船岡山: 船形の小山で標高112m (地図) 、平安京は船岡山を北の基点にして朱雀大路を通し、北を守る玄武の依り
代としてして船岡に妙見社 (玄武を御す守護神) を置いた。清少納言が枕草子で「丘は 船岡。片岡。鞆岡は、笹の生ひたるが...。」と詠んだように、平安時代中期までは貴族が散策や出会いを楽しむ場所で、平安中期以後は葬送の地となった。
山腹に残る石仏も当時の名残りで、為義らを斬ったのはこの山の麓らしい。応仁の乱では西軍(大内氏や土岐氏)の陣が置かれ、以後は西陣と呼ばれ始めた。
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  ※大江山: 保元物語に正確な記述はないが山陰道に向かう亀岡の手前、老ノ坂(地図)だろうと思う。一説に、酒呑童子の大江山もここだろう、と。
誰が何処で斬られたのか記憶が曖昧なので正確に読み直す必要があるのだけど、古文に触れる意欲が沸かない。ハハ...
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保元の乱の結果は...それまでの貴族層に替って武士である平家一門が政治の実権を握った事、3年後に勃発する平治の乱の伏線になった事、そして関東に武士の政権が誕生する鎌倉時代の黎明期に向った事。歴史の転換点となるこの3点が見逃せない。朝廷に従って従順に働いてきた武士階級が武力によって政治に関与できる自覚を得た。

 
左:信西の首を持つ光保(摂津源氏傍流)の郎党  平治物語絵巻  クリック→拡大
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【 そして平治の乱(1159年12月)へ 】
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保元の乱によって混迷した国政を立て直し天皇親政を強めようとした 美福門院(鳥羽上皇の妃・wiki・別窓)グループは 信西(wiki)を起用して政治を主導し、基本的には平家の武力に依存する政策を進め、更に 後白河天皇 から二条天皇への譲位を実現させた結果、今度は後白河院政派と二条天皇親政派の対立が激化した。
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後白河上皇源義朝 と繋がりを持つ藤原信頼を抜擢して信西との対立を深め、二条天皇派vs後白河上皇派、信西派vs清盛派の4グループが入り乱れて並存する形となった。上皇派と天皇派は激しく対立していたが信西の排除という点では一致しており、平治元年(1159)の12月に 清盛 が熊野参詣に向かった軍事的空白を利用して、上皇派の反信西グループが(天皇派も暗黙の同意)クーデターを起こす。
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9日の深夜に藤原信頼と源義朝の軍勢が御所を襲って後白河上皇を確保、逃亡した信西は山城国田原(現在の宇治田原町)で自殺したが遺体は追跡した源光保の兵が掘り起こして首を京に運び西の獄門に懸けた。
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当初の清盛は勢力圏である九州への逃亡も検討したが、17日には本拠である伊勢周辺の兵力を集めて六波羅邸に入った。クーデターのために急遽召集した義朝の兵力は明らかに劣っており、この時点で軍事バランスはやや清盛優位に傾いている。
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  ※六波羅: 鴨川の東、四条通から七条通の間で六波羅蜜寺や豊国神社の一帯。六條河原の刑場に近いため多くの髑髏が放置され「どくろ原」が転じて六波羅になったと
するもあるが、本当は六つの修行を経て波羅蜜 (悟りの世界) に入る事、らしい。六波羅蜜寺 (公式サイト) は国宝に指定されている 十一面観音立像(平安時代・12年に一度開帳する秘仏)と共に 清盛坐像(重要文化財・鎌倉時代)も保存している。傲慢な独裁者の顔を持つ清盛の、これは一門の繁栄を祈り朱の中へ血を点じて写経し厳島神社に納経した太政大臣の頃。信仰の世界に生きる側面を見せている。

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右:六波羅邸を出陣する清盛  平治物語絵巻   画像をクリック→拡大表示
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事件勃発の直後に手兵を率いて 源義朝 に合流した長男の 悪源太義平 は的確に情勢を判断して清盛の陣容が整わないうちに討ち入りを決行するよう具申。義朝も同様の提案を行ったが信頼は信西を排除すれば清盛が協力するだろうと考え、主戦派の意見を容れず日和見に徹する態度を取った。しかし二条天皇派にとっては、信西を倒せば後白河上皇派など用済みである。天皇派と清盛は二条天皇を内裏から六波羅の清盛邸に脱出させ義朝軍を引き寄せて決戦に持込み、兵力に勝る平家側の全面勝利となった。
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そして前述の通り敗残の義朝は京都を逃れた後に尾張の知多半島で謀殺され、潜伏して清盛を狙った長男の義平は捕らえられて京都で斬首、二男の 朝長 は岐阜青墓で推定自殺、三男ながら嫡子とされた 頼朝 は伊豆配流、四男の 義門 は戦死(推定)、五男の 希義 は土佐配流、側妾の 常盤 が産んだ今若(後の 阿野全成)と乙若(後の義圓)は出家、幼い牛若(後の 義経)は後日の出家を前提として常盤が預かった後に鞍馬寺に入った。
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頼朝の助命は...勝利者の二条天皇を擁立した 上西門院 近臣の熱田大神宮家(頼朝生母の実家)が 待賢門院(上西門院の母)の近臣と共に 池禅尼 を経由して清盛に助命を嘆願した、それも前述した通り。
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平治の乱では二条天皇に味方した摂津源氏の
源三位頼政 だけが辛うじて源氏の命脈を保ち、この後は老齢の頼政が決起する治承四年(1180)までの20年間、源氏は冬の時代を過ごすことになる。後白河上皇派の首謀者信頼は斬首、関係者は全て処罰され後白河上皇派は事実上壊滅しただけではなく、実務を司っていた貴族の多くが失脚して人材も枯渇したため平家一門が治安維持や荘園の管理など行政部門を独占し、軍事・行政・経済部門で圧倒的な力を蓄えると共に権力の偏在によって行政が停滞し不満が鬱積することとなった。この辺は安倍一強体制による政治の劣化と同じパターン。権力を握っても馬鹿は馬鹿、泥棒は泥棒根性を持ち続ける。
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  ※平治物語絵巻: 平治物語の成立は記載内容から推定すると正治元年 (1199) から寛元四年 (1246) の範囲内、絵巻 (正確には平治物語絵詞) の成立は1250年
前後と推定されている。作者は不明、保元物語との共通点も多いが文体などの相違点から別人説が有力らしい。

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左:能登の珠洲市に残る大納言時忠の廟所   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 驕れる人も久しからず  崩れ始める独裁政権 】
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頼朝が伊豆蛭島に流されてから20年が過ぎ、政敵を滅ぼして実権を握った平家一門はまさに栄華の頂点にあった。元々は武士団でありながら、朝廷の勢力争いで失脚した貴族の官位を独占して貴族階級化し、一門の 平時忠「平氏にあらざれば人にあらず」と語るほど。清盛は武家として初めて太政大臣(最高の官位)に登り、娘の 徳子 は高倉天皇の中宮として入内し第81代の 安徳天皇 を産んだ。
天皇の祖父に登り詰めた清盛と平家一門は権勢を極め官位を独占、500ヶ所以上の荘園を所有したという。
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※平氏にあらざれば...
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これは頼山陽が漢文で著した日本外史 (wiki) を概ね口語体に編纂した言葉。原典の平家物語は 「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」 と書いており、「和文に近い和漢混淆文」である。両者には微妙な表現の違いがあり、もちろん意味は通じるができるだけ原典に近い資料を参考にするのを薦めたい。
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【 平家物語 巻三 我身栄花 】
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我身の栄花を極むるのみならず、一門ともに繁昌して(嫡子 重盛から嫡孫 維盛 までの官位を列挙してある。詳細は下記)、全て一門の公卿16人、殿上人30余人、諸国の受領・衛府・諸司、都合60余人なり。世には又人なくぞ見えられける。  ~中略~
日本秋津島は僅かに66ヶ国で平家知行の国は30余ヶ国、既に半国をこえたり。その外、庄園田畠、いくらといふ数を知らず。
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  一門の官位: 清盛(従一位・太政大臣)、長男重盛(正二位・内大臣)、二男基盛(従四位下・薩摩守・早世)三男宗盛(従一位・内大臣)、
四男知盛(従二位・権中納言)、五男重衡(正三位・左近衛権中将)、六男清貞(従五位下・尾張守)、七男知度(従五位上・三河守)、
八男清房(猶子・従五位下・淡路守)、九男清国(猶子・従四位下・丹波守)、孫維盛(正三位・右中将)、孫資盛(正三位・右中将)、
孫清経(正四位下・左中将)、孫清宗(正三位・右衛門督)、弟頼盛(正二位・権大納言)、弟教盛(正二位・中納言)、
弟経盛(従三位・参議)、弟忠度(正四位下・薩摩守)、甥通盛(従三位・中宮亮)、甥保盛(正三位)、甥教経(正五位下・能登守)、
甥経正(従四位下・但馬守)、義弟時忠(正二位・権大納言)

 
右:歌舞伎十八番・勧進帳は作り話か..安宅の関    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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吾妻鏡は「時忠は文治五年(1189)2月24日に流刑地能登で死んだ」と書いているが、時忠従者の末裔が墓所を守り続けた珠洲市大谷町則貞地区の伝承では「海岸近くに滞在後、平家の守護神であるカラスに導かれて川を遡り、上流の則貞に住んで源氏の監視を避けつつ元久元年(1204)4月24日に没した」と伝えている。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 3月5日 】
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前の大納言である 平時忠卿が先月24日の午後に能登の配流地で死んだとの連絡が鎌倉に届いた。頼朝は「優れた官僚として先帝の下で平家の政治を補佐しており、朝廷にとっても惜しい人物だった」と語った。享年62。
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奇しくもこの年4月には時忠の娘婿でもあった 義経 が奥州平泉の衣河舘で 泰衡 の兵に攻められ妻子を殺して自害している。
死んだのは正妻の 河越重頼 の娘で、側妾となった時忠の娘が奥州に入った記録はない。義経都落ちの時に実家に戻り父親の能登配流に同行したと考えるのがノーマルだが、彼女の消息は能登にも残っていない。
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文治三年(1187)頃に義経と室(時忠の娘蕨姫)を含む一行が通ったという「安宅の関伝説」がある。義経が頼朝の探索を逃れて奥州に向ったのは文治三年(1187)2月、勧進帳で知られた安宅の関も北陸道ルートだから一応は符合するけれど、義経主従が安宅の関を通った物語は義経記をベースにして室町時代に成立したフィクション。
安宅の関が存在した事さえも史実としては疑問視されているほどだから、関守の富樫泰家も架空の人物なのだろうね。
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時忠は一門の棟梁である忠盛を継いだ 清盛 系統・伊勢平氏ではなく、同族ではあるが高棟流堂上平氏に属している。彼が残した「平家にあらずんば...」は「平家一門の栄耀栄華」ではなく、単に自分の一家の隆盛を誇っただけ、との説もある。 「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」の言葉はどちらの意味だろうね。
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流罪になった時忠が、波に洗われる岩間の松に我が身を例えて詠んだ歌   白波の 打ち驚かす 岩の上に 寝らえで松の 幾世経ぬらん
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  ※高棟流堂上平氏: 簡単に書くと桓武天皇の皇子葛原親王の第一王子高棟王が臣籍降下し昇殿資格を持つ公卿(堂上人)となった家系。
一方で高棟王の弟高望王が臣籍降下し、国香→ 貞盛→ 四男維衡・・・忠盛→ 清盛と続いた庶流が伊勢平氏(平氏系図参照)。

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左:なぜか富士宮郊外に残る伝・平惟盛(維盛)の墓    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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時忠の墓のついでに、伝・惟盛(維盛)の墓(地図)を。惟盛は 重盛 の嫡子で、清盛 の嫡孫にあたる。光源氏の再来と称えられた美貌の貴公子だが父 重盛の早世や軍事的才能の欠如なども影響して一門では孤立した存在だった。大将軍として出陣した富士川の合戦では甲斐源氏にコケにされて逃げ帰り、木曽義仲 と戦った倶利伽羅峠の合戦では壊滅的な敗北、さらに敗走中を追撃された加賀篠原の合戦では見る影もない惨敗を喫した。ここでは 斎藤實盛伊東祐清俣野景久 など多くの東国武士も滅びゆく平家に殉じて討死している。
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平家物語は一門が都落ちした文治元年(1185)に戦場を離れ那智の沖で入水自殺としているが、一度京都へ戻り捕縛されて鎌倉に向かう途中の相模で病没、或いは紀伊に土着して戦国大名 色川氏の祖となった、などの伝承も残る。富士宮市の西に位置する芝川町稲子の山間にある伝 惟盛墓は古い塚を天保十一年(1840)に再建したもの。惟盛は一門の再起を期して那智の沖で死んだと偽装して清水某と改名、治承四年(1180)秋の富士川合戦から落ち延びて土着していた郎党の佐野主殿を頼り、そのまま稲子に土着して死没した、と。
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稲子は富士川中流域の山間僻地、富士川古戦場の 平家越え(別窓)から約26km、国道469号の桜峠を越えた富士宮市の柚野山延命寺(地図)は 平重盛 の開基と伝わるし、稲子から富士宮市上柚野一帯は重盛の所領だった。更に寺紋は平家の 蝶紋(参考サイト)、荒唐無稽とも言えないが...このタイプの捏造は全国各地にゴロゴロ転がっているからねぇ。
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墓所の所有者は佐野主殿の末裔・佐野弘氏、毎年8月1日の命日には法事を欠かさないという。墓石正面に覚正院殿如山道誉法師位、左側面に中将惟盛、他に文治元年卒・三月朔日と彫ってあり、位牌は栄泉寺にあると伝わっているのだが、肝心の寺の場所が判らない。また南に下った沼津の千本松原には惟盛の嫡子・六代を記念した石碑もある。伝承などは文末で。近くの町営温泉施設 ユー・トリオ(富士宮市のサイト)を経て東の日蓮宗総本山 大石寺 (wiki) 方向に向かう国道469号の桜峠は惟盛の杖が根付いたのが由来と伝わる。
まぁ5kmほど南東(地図)の 西山本門寺(別窓)には伝・信長の墓もあるため、現実離れした伝承の多い地域なのかも知れない。



右:歌川国芳が描いた妖怪 鵺(ぬえ)     画像をクリック→拡大表示
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源氏一族の落魄が続く中で、保元の乱と平治の乱を通じて平家の勝利に貢献した 三位頼政 だけが源氏の中では別格の待遇を受けて伊豆の知行国主に、国司として嫡男の 伊豆守仲綱 が任命された。本来なら一介の流人に過ぎない 頼朝 が伊豆各地で遊び回れたのも、彼らのバックアップが理由の一つだろう。仲綱も在京の遙任だからも現地で管理に任じた目代は 狩野茂光 の筈だが、これは裏付ける史料が見つからない。
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治承四年(1180)4月に頼政が挙兵して敗死 → 知行国主が 平時忠 になり → 平(山木判官)兼隆 が目代に任じた(正式な任命ではない、勝手な僭称説もある)。以仁王 と頼政が火を付けた反平家運動の連鎖が全国に広がるのを恐れた 清盛 が源氏追討令を発布し、この強行策が頼朝を追い詰めたため、結果的に一族の滅亡を早めてしまう。
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頼政は弓の名手でありながら歌人としても名を馳せた文武兼備の武士。白河法皇に認められて判官となり、保延年間(1135~1140)に蔵人従五位下、久寿二年(1155)に兵庫頭、保元三年(1158)の二条天皇即位の日に禁裏に侵入した狂人を捕らえた功績で院への昇殿を許され、順調な出世を続けていた。
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平家物語に拠れば、仁平年間(1151~1154)に近衛院の御殿に潜み院を悩ました鵺(ぬえ・頭が猿、胴体が狸、尾は蛇、足は虎)を退治して近衛天皇から宝剣獅子王(画像・東京国立博物館蔵)を下賜された。実際には奇怪な声で鳴く鳥 (トラツグミ) だ、との説もある。
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仁安元年(1166)には正五位下、2年後には従四位となって伊豆国を嫡男仲綱に任せ、やがて三位に昇進して丹波五ヶ庄(現在の京丹波町)と若狭の東宮(福井県小浜市)を治めた。頼朝挙兵の前年・治承三年(1179)に出家引退し、嫡男の仲綱が家督を相続している。
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頼政は武蔵国の大蔵合戦で 悪源太義平 に殺された帯刀先生 源義賢 の長男(義仲の異腹の兄、母(藤原宗季女)と京にいて生き延びた)を養子として育て、元服後は 仲家 を名乗らせた。 父 義朝 の意向に従って大蔵を制圧し義賢を殺した義平は 「駒王丸(当時2歳の義仲)も共に殺せ」 と命じたのだが、駒王丸は 畠山重能重忠の父)や 齋藤實盛 の尽力で乳母夫の 中原兼遠 が庇護し本領の木曽へ逃れた。京都にいて災難を逃れた兄の仲家と大蔵で殺される筈だった異母弟の義仲が共に幼児期の危機を逃れ、源平動乱の中で二人とも落命したのは乱世とは言え、悲しい運命だった。

 
左:伊豆長岡 あやめ祭りの風景    頼政が愛した女 あやめ御前
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天治元年(1124)のこと、ある殿上人が罪を問われて古奈郷(現在の伊豆長岡・源氏山の東麓)に流された。彼は地元の女と暮らして娘を産ませ、後に赦免を受け七歳の娘を伴って都に帰った。娘は16歳で鳥羽院に仕える官女となり、やがて宮中第一の美女と評された。彼女が後に 源頼政 の妻(継室)となった菖蒲である。
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頼政の正室は清和源氏満政流(経基 の子、満仲 の弟・満政の系)で駿河守源忠隆の嫡男・源斉頼の娘、生没年は不明。彼女が産んだ嫡男の 仲綱 は大治元年(1126)前後の生れだから、仲綱と継母の菖蒲は概ね同年代になる。
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正室が永治元年(1141)頃に産んだ 二条院讃岐 (wiki) は女房三十六歌仙の一人、歌の才能が高く、頼政から相続した所領に関わる訴えで建永二年(1207)には70歳近い年齢で鎌倉に旅している。百人一首に載る歌、
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     わか袖は 塩干に見えぬ 沖の石の 人こそしらね かはくまもなし
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  ※源斉頼: 前九年の役で苦戦する 源頼義 応援のため出羽守として赴任したが無能で非協力的だった。渡来人から秘技を継承した優秀な鷹匠としても知られる。
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それは兎も角として、もし正室が存命していれば35歳前後、むろん頼政は初婚ではないが史料には正室の記録が全く見られず、既に死没し菖蒲が後妻に入った可能性が高い。頼政との年齢差は推定で二回り。17歳と40歳のカップルは、この後は40年以上も満ち足りた暮らしを過ごす事になるのだが...。
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頼政の息子の詳細は(生年順に)...嫡男仲綱の母は斉頼の娘、仲家(義仲の異母兄)は養子で実父は源義賢、国政も養子で実父は源国直、兼綱も養子で実父は源頼行、頼兼は頼政の次男(兼綱の子の説あり)、広綱は頼政の三男または次男、政綱も養子で実父は頼政の弟頼行。衰退した源氏の幼子を引き取っているため養子が多くてかなり複雑だ。その中で頼兼と広綱の生母が多分菖蒲御前だろう。伊豆長岡(2005年に大仁町・韮山町と合併して現在は伊豆の国市)では毎年7月の第一週に「あやめ祭り」が開かれている。数年前までは武者行列も結構大規模に実施していたが昨今は経費削減などでやや貧相なイベントになった。町の花を問えば、もちろん菖蒲」の答えが返ってくる。

 
右:現在も右近衛屋敷と呼ばれている付近     画像をクリック→拡大表示
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父親の殿上人と その娘 菖蒲について、判る範囲で身辺調査を。
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菖蒲が院の女房(女官)として宮中に入ったのは康治年間の1143年前後で当時16歳、死没は89歳の高齢だったと伝わる。従って保安五年(1124)前後に生まれ、 和田義盛 一族が滅亡した建暦三年(1214)前後まで生きた女性、となる。
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流罪の父親が住んだ場所は伊豆長岡 古奈の右近衛屋敷(現在の長岡南小学校近くにこの地名が残る)と伝わっているから、父親は 「保安年間の初期に伊豆に流され、大治年間(1126~1131年)に赦免された官位が右近衛の人物」 が必要条件なのだが、これが幾ら調べても判らない。誰か、教えておくれ!
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右近衛府は内裏(天皇の住まい)を囲む宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側の警備を担当する職種で、行幸などの護衛や皇族の警護も行う。名誉職の大将・中将・少将・現場指揮官の将監(平治の乱直前の頼朝の官位)の四等官だけで最大20名前後、史料に詳しい専門家なら突き止められるかも知れないけれど、そんな気の利いた知人なんか幾ら探したって見つかる筈がない。
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頼政 は3年間も和歌に託して菖蒲に想いを伝え、ついに鳥羽院の勅許を得て妻に迎えた。源平盛衰記に拠れば、鳥羽院は薄暗くなった夕暮れを選んで菖蒲前を含め良く似た女房たちに同じ衣装を着せ、頼政が見分けられるか試したという。困惑した頼政はとっさに得意の和歌で応えた。
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  五月雨に 沼の石垣 水こえて いづれかあやめ 引きぞわづらう  ・・・五月雨で増えた水が石垣を越え、どれが菖蒲か判らなくなってしまった...と。
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当意即妙の和歌に心を打たれた鳥羽院は即座に菖蒲の手を取って頼政に与えた、と伝わる。多数の美女を表すいづれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた) という言葉は頼政の詠んだこの和歌が原点で、更に古典に詳しい(と自称する)友人が次の様に教えてくれた。
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「あやめ」は単純に花の菖蒲や女房の名を差すだけではなく、糸の模様である「綾目」も意味している。あやめに通じる糸はどれを引いたら良いか躊躇う..それを「引きぞわづらう」で表現しているのだよ。」   突然のピンチに当意即妙の和歌に託して想いを届ける、頼政さんのセンスは素晴らしい。
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【 全国の源氏に決起を呼び掛けた檄文、以仁王の令旨 原文と意訳 】 を、取り敢えず掲載しておく。緑色の部分が以仁王の勅の本文と略。
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下  東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事    右。前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉
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最勝王勅○(文字表示)。淸盛法師并宗盛等以威勢起凶徒亡國家。惱乱百官万民。虜掠五畿七道。幽閉 皇院。流罪公臣。断命流身。沈淵込樓。盜財領國。奪官授職。無功許賞。非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧。禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米。相具謀叛粮米。断百王之跡。切一人之頭。違逆 帝皇。破滅佛法。絶古代者也。干時天地悉悲。臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀。追討 王位推取之輩。訪上宮太子古跡。打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆。偏所仰天道之扶也。因之。如有 帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人。藤氏之人。兼三道諸國之間堪勇士者。同令与力追討。若於上同心者。准淸盛法師從類。可行死流追禁之罪過。若於有勝功者。先預諸國之使節。御即位之後。必随乞可賜勸賞也。諸國宣承知依宣行之。        治承四年四月九日   前伊豆守正五位下源朝臣 仲綱
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東海・東山・北陸の三道諸国の源氏と群兵らに下す。清盛法師と叛逆の一族追討に即応せよ。 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が奉る。
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最勝王(以仁王)の勅を奉ず。清盛法師ならびに宗盛らは権勢によって国を滅ぼす兇徒である。百官万民を悩まし五畿七道を掠奪し天皇と上皇を幽閉し朝廷の臣を流罪にし国の財産と官職を奪い、功績のない者に賞を与え過ちのない者を罰している。諸寺の高僧を拘束し学僧を獄に繋ぎ、比叡山の絹米を謀反の糧米として掠奪している。先祖の遺蹟を滅ぼし摂関家の首を切り天皇に背き仏法を滅ぼし伝統を顧みない。天は悲しみ民は愁いに沈んでいる。
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私は後白河法皇の第二皇子だから天武天皇の旧習に従って王位を簒奪する輩を追討し上宮太子(聖徳太子)の古跡に倣い仏法に逆らう者を討ち滅ぼす。人力に頼るのみならず天道の援けを頼むものである。帝王に三宝(三種の神器)と神明の加護があれば必ず志のある者が諸国に現れるだろう。
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源氏と藤原氏と諸国の勇士はこの追討令に与力せよ。同心しない者は清盛法師の一味と看做し死罪または流罪の刑に処す。勝利に功績を挙げた者は即位後に諸国の責任者を介して望むままの恩賞を与える。この旨を承知し宣旨に従って行動せよ。
          治承四年四月九日       前伊豆守正五位下源朝臣 仲綱

 
左:以仁王と頼政が挙兵 京を脱出し園城寺から南都を目指す  画像をクリック→拡大表示
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宮中では二度の大乱を経験しても懲りることなく、相変わらずの権力争いが続く。高倉宮以仁王後白河法皇 の第二皇子で当時の高倉上皇の弟。母親は加賀大納言藤原季成の娘・成子。身分は特に高くはないが、法皇の寵愛を受け以仁王の他に守覚法親王や、歌人として名高い式子(しょくし)内親王を産んでいる。百人一首に載っている式子内親王の恋の歌は美しく、激しい。
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    玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
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      数珠の糸(私の命)よ、 切れるなら切れてしまえ 生き永らえれば 秘めた恋に耐え忍ぶ心も弱ってしまう。
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当時は天皇の子であっても母親の身分による序列が重んじられたため、以仁王 も30歳ながら政治的には恵まれない立場だった。清盛の妻 時子 の異母妹で法皇の后・建春門院(滋子)の産んだ高倉天皇が皇位を継承し、側妾の産んだ以仁王は建春門院の妬みを受けた、とも思われる。
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  ※以仁王決起: 伏線は処遇の不満、直接は治承三年に勃発した 清盛のクーデターが発端である。6月に盛子 (清盛の次女。徳子 の異母妹
で実質的な摂関家の家長の妻) が没し、7月には続いて 重盛 が没したため平家の衰退をチャンスと見た 後白河法皇 が両者の荘園と知行国を没収するなどの強硬手段に出た。これに激昂した清盛は11月14日に後白河の院政を停止し、平家に対立した公卿たちを配流と大量解官に処した。続いて二男の 宗盛 が後白河近臣を処分し併せて以仁王の所領も没収、怒った以仁王が頼政を抱き込んで挙兵に走ったのが経緯である。
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治承四年 (1180) 4月、77歳の頼政は後白河天皇の第三皇子 (平家物語では兄の守覚法親王出家により第二皇子としている) 高倉宮以仁王と密談して打倒清盛を旗印に結束した。以仁王は4月9日に最勝親王を称して打倒平家の令旨 (りょうじ) を発行、源 (新宮) 義盛義朝 の末弟で 頼朝 の叔父、改名して行家)がその令旨を全国の源氏と有力寺社に届けるため京都を出発、同月27日には伊豆韮山の北條館で頼朝に令旨を渡し仔細を伝えている。
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  ※新宮義盛: 平治の乱では兄義朝と共に敗北。熊野新宮別当嫡流行範の妻だった同母姉 鳥居禅尼 を頼って熊野に逃れ20年間潜伏した。
行範は後に19代熊野別当を継ぎ、壇ノ浦合戦で熊野水軍を率いて義経に味方した21代熊野別当 湛増弁慶の父との噂あり)は鳥居禅尼の娘婿に当る (20代は行範の弟・範智) 。
愚弟の代名詞みたいな行家に比べて女ながら傑物だった鳥居禅尼はその後も長く幕府の厚遇を受けている。
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ただし以仁王は親王宣下(現代風に言えば、天皇による正式な認知)を受けておらず、「最勝親王」を称する資格はない。また令旨は皇太子・太皇太后・皇太后・皇后の他は発行できない決まりだから、明らかな越権行為ではある。
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平家物語に拠れば、頼政の嫡男 仲綱 が秘蔵の名馬「木の下」を清盛の子 宗盛 に貸したところ、宗盛はこの馬に仲綱という焼印を捺して返すなどの侮辱をしたのが直接の原因としている。しかし保元の乱では同族の義朝を見捨ててまで清盛に協力し地位を確保した頼政らしくない暴挙だったのも確かで、2年前の治承二年(1178)には清盛の推挙を受けて念願の従三位(異例とも言える抜擢らしい)に昇進している。清盛は頼政が長く四位に留まっているのを忘れていたらしく、頼政の詠んだ和歌で気が付いて昇進させたという。頼政は和歌で美人妻・菖蒲を手に入れ、また和歌で三位に昇叙した。持つべきは即興で和歌を詠める才能か。
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     昇進の契機となった頼政の和歌  のぼるべき たよりなき身は 木の下に 椎(四位)をひろひて 世をわたるかな

 
右:宇治平等院 頼政の墓  画像をクリック→拡大表示   収蔵する国宝などの画像(別窓)も参考に。
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京都での動員力に劣る 頼政 は令旨を受けた各地の源氏が決起して戦線が広がり兵力が増強されるのを期待したが、5月の初旬に挙兵計画が熊野別当湛増(一説に拠れば弁慶の父)の密告で平家側に漏れてしまう。
平家は 以仁王 の公式名を源以光に変えて臣籍に降し(以仁王死後の処置説あり)、300騎の武者を率いた平時忠が捕縛に出向いたが以仁王は辛うじて大津の園城寺(三井寺)に逃げ僧兵の保護を受けたため膠着状態となった。
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21日になって平家方は園城寺攻撃の準備を整えたが、まさか以仁王の仲間だとは考えてもいなかった頼政が50数騎を率いて園城寺側に合流したため平家側もやや混乱していた。頼政は出陣の前に二人の家臣を呼び、妻の菖蒲の前・仲綱の妻笛竹・仲綱の子綱若丸 (彼の子孫は伊豆姓を名乗っているらしい) ・下賜された獅子王の剣・系譜などを託し「万一の際は落ち延びて血脈を保て」と言い残して出陣した。
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25日夜、園城寺も平家の恫喝と懐柔工作を受けて危険になったため、以仁王と頼政は千騎を率いて大津を脱出、南都の僧兵と合流するため興福寺を目指した。平知盛重衡 の軍勢がこれを追撃、頼政勢は三井寺~山科~宇治と進んだが遠征に不慣れな以仁王の疲労が激しく、20km弱の行軍中に6回も落馬する有様となった。
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頼政は宇治川を渡ってから唐橋の橋板を落として時間を稼ぎ、小休止してから防戦しつつ南都興福寺を目指そうと考えたが、平家軍の追撃が想定していたよりも早く、寡兵で大軍を迎え撃つ戦闘となった。川を挟んだ矢戦の後に平家軍が渡河を開始、 頼政側は橋を捨てて平等院に退却し、以仁王を逃がすために討死覚悟の防戦を試みる。
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激戦の末に嫡男仲綱は重傷を負って自害、養子の兼綱も討ち取られ頼政は平等院に入って自害した。側近の渡辺唱が首を落として包囲網を強行突破し、敵に渡さぬよう石を括り付けて宇治川の深みに沈めた、と平家物語は伝える。源義賢 の嫡子で 義仲 の異母兄にあたる養子の 仲家 も奮戦の後に討死を遂げた。
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     頼政の辞世   埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果ては 哀れなりけり
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  ※摂津渡辺党: 摂津国渡辺津(淀川河口左岸)を本拠にした武士団。満仲 の嫡子頼光に仕えた四天王の一人・渡辺綱(嵯峨源氏庶流)を祖とした摂津源氏の郎党である。
鬼の腕を斬り落した綱や省・競・唱など一文字の名前が特徴。僧の 文覚 も元は渡辺党の武者で、上西門院 に仕えていた時に横恋慕して殺してしまった袈裟御前の夫・渡辺渡も同じ渡辺党、しかも文覚の従兄弟だったという複雑な関係。平家物語の記述だけだから真偽は不明だけど、話としては面白い。
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【 平家物語に書かれた、宗盛と馬についての遺恨 】  ひょっとしたら宗盛は薄毛かハゲで悩んでいたのかも。
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頼政への合流が遅れてしまった渡辺競は宗盛に投降し、従う振りをして宗盛の愛馬「何両」を奪って頼政の陣に馳せ加わった。宗盛が愛馬「木の下」の件で主人の仲綱を侮辱した報復として「何両」の鬣(たてがみ)と尾の毛を剃り落とし、馬の尻に「昔は何両、今は平宗盛入道」の焼印を押して六波羅に送り返した。果たして激怒した宗盛は「なぶり殺しにするから必ず競を生け捕れ」と部下に命じたが、元より覚悟の競は宇治平等院で奮戦の末に自害した。

 
左:南都焼き討ち 東大寺堂塔の鳥瞰      画像をクリック→拡大表示
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以仁王 に協力した 園城寺興福寺(共に公式サイト)は取りあえず処分は免れたが、その後も反平家の動きを続けたため12月末になって清盛 の命を受けた 平重衡が南都を攻め、合戦の末に焼き討ちとなった。
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夜戦の際に民家に放った火が興福寺と 東大寺 に燃え移ったとか、夜戦に備えて灯火の準備を命じられた兵士が誤解して放火したとか様々な話はあるが、焼き討ちが当初の計画だった可能性も一概に否定できない。
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天下を手中にした晩年の清盛は(400年後の秀吉が狂乱の中で死んだと同様に)冷静な判断力を失っていた、そんな可能性もある。戦争って最前線の些細な誤解や恐怖心や功名心が引き金になる例が多い。現代では補給作業や兵站や機雷の除去も、当然ながら戦闘行為に含まれる。戦争の狂気も知らず「補給作業だから安全、後方の基地だからイラク軍の攻撃は受けない」と語る安倍晋三、なんと愚かな宰相だろう。
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東大寺の場合も金堂(大仏殿)を含めて殆どの建物を類焼させる結果となったのだが、翌・治承五年 (1181) 2月には平家側の立場だった高倉上皇が逝去、続いて3月には清盛も原因不明の熱病で死んでしまったため人々は南都焼き討ちの仏罰だと噂した。清盛から政権を継承した 宗盛 は清盛死没の直後に以仁王挙兵に与した諸寺への処分を撤回したが、堂宇を焼き払われ多くの僧俗が死んだ南都大衆の憎悪は鎮まらない。使者を皆殺しにして猿沢の池の周囲に並べるなど、僧兵の蛮行なんかケロっと忘れている。
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   ※南都焼き討ち: 清盛と南都の関係は険悪ではなかったが、治承四年の以仁王挙兵に協力した園城寺は鎮圧後に罷免や寺領没収など厳しい処分を受けた。
同年11月17日には近江源氏が頼朝挙兵に呼応して決起、この軍勢に園城寺と興福寺の大衆 (僧兵) が加わっていたため平重衡が園城寺を攻めて堂宇を焼き払った。
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12月中旬、清盛は穏便な解決を模索して股肱の臣・妹尾兼康に軽装備の兵500人を付けて南都に派遣したが、興福寺の大衆は60余人の兵を殺し首を猿沢の池岸に並べた。激怒した清盛は重衡と 通盛に4万の兵を与え南都を攻撃、7千の僧兵と三日間の攻防を経て大火災に至った、と伝わる。
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東大寺はやや離れた法華堂や二月堂などを除く主要な堂宇を焼失し、興福寺も主要な38余の堂塔を失ってしまった。まぁこの頃の南都や延暦寺や園城寺は宗教者とは程遠い暴力集団の傾向が強かったから (文化財の焼失を除けば) 少しも残念ではないが。
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当時の寺社も中身は創価学会レベルの劣悪さ。愚かな宗教団体または政治家が物理的な力 (軽沿い力を含む) を得たらどうなるかは、2019年初夏の日本とアメリカ合衆国の状況を確認すれば理解できる筈だ。

 
右:2006年頃の大内宿、数少ないスナップの一枚。  画像をクリック→拡大表示
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すぐ左の筋向いに見える鳥居が高倉神社の参道になる。犬は用水で遊んだためズブ濡れ。
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本題に戻って。以仁王は更に南へ逃げたが、山城国相楽郡光明山鳥居(地図の前で藤原景高と藤原忠綱率いる追討軍の矢を横腹に受けて落馬し討ち取られた。平等院から約14km南の木津川市山城町神ノ木の 高倉神社(市のサイト)近くに墓所があり、陪塚(伝・三井寺の僧兵筒井浄妙の墓)と共に宮内庁が管理している。
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ただし追討軍の誰もが以仁王の顔を知らなかったため生存説も多く、東国をはじめ各地に以仁王所縁を称する地が点在し、逃避行伝承は新潟県三条市から阿賀野川沿いに密度濃く残っている。半年後には以仁王の令旨を受けて挙兵した頼朝が実権を握ったのだから、もし当人が生きていれば隠棲する必要は皆無なのだが、それを言っては生存伝説の立場がなくなってしまう(笑)。
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興味があれば「尾瀬大納言」や「新潟 以仁王」で検索して様々な伝承に触れてみよう。
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古い宿場の姿を留める風情で有名な観光地大内宿(南会津郡下郷町、地図にも以仁王伝承が残っており、信濃から上野国沼田に抜け桧枝岐を経て大内に住み着いた、と伝わっている。「大内 高倉神社」で検索すると面白い。ここを訪問した頃は高倉神社と以仁王の関係など全く知らなかったから参拝もしなかったのが少し心残りではある。
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  ※大内宿: かつての日光街道(栃木県側からは会津西街道、現在の県道131号)の旧道に残る宿場町。江戸時代には幹線道路として賑わっていた。
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【 蛇足・・・頼政をテーマにした川柳 】  思いのほか渋い味わいのある江戸時代の川柳が残っている。  「 椎の木を 祝う頼政 恨む曽我 」
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頼政が「椎」と「四位」をかけた和歌を契機にして、三位に昇進した祝い事と伊豆赤沢の「椎の木三本」(河津三郎の血塚(別窓)からの遠矢で 工藤祐経 の郎党に父の 河津祐泰 を殺された曽我兄弟の恨み事を重ねたもの。平家物語と曽我物語の筋立て両方を理解する必要はあるが、こういうセンスに出会えるのって、ほんと楽しいね。

 
左:菖蒲御前が住み着いた古奈・菖蒲田の風景    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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以仁王 の挙兵事件に当初の平家側はかなり混乱した。以仁王追討の指揮官を頼政に命じるなどの紆余曲折を経て最終的には圧倒的な兵力で鎮圧に成功したが、平家隆盛の前途には暗い陰リが見え始めた。
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頼朝 に宛てた令旨は5月15日に韮山の北條館に届き、清盛が発布した源氏追討令を知って追い詰められた頼朝が「窮鼠猫を噛む」決心で8月に挙兵、続いて9月には 木曽義仲信州海野宿で挙兵し(別窓、半ば工事中)公卿の政治から武家の政治へ、歴史は大きな転換点に向かう。
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さて...平等院での 頼政 敗死を知った菖蒲の前は頼政所領の一ヶ所・丹波五ヶ荘(現在の京都府南丹市日吉地区)を目指したが、平家の厳しい追及が予想されるため菖蒲の生まれ故郷である伊豆に目的地を変更、伊豆蔵人頼季(仲綱 の末子)など縁者を頼って弥勒山(伊豆長岡・源氏山の旧名)東麓の草庵に落ち着いた。現在の古奈温泉郷西琳寺の南、古くから菖蒲田と呼ばれている付近である。
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広島県にも菖蒲御前の伝承が残されているらしい。共に逃げた3歳の幼子を病で亡くした後に東広島市東子の福成寺に住んだと伝わっている。寺には幼子の墓と菖蒲御前手植えの杉と御前の墓が残り、さして遠くない西条町御蘭宇の 観現寺(公式サイト)には従者の墓などが保存されている。いつか近くを通ったら寄っても良いなとは思うが...この伝承は少し無理がありそうだ。菖蒲の前が頼政に嫁いだのが1145年前後・16歳頃と考えれば都から脱出した治承四年(1180)には若くても50歳、連れていたのが菖蒲の子で3歳なら相当の高齢出産で、疑わしい。やはり幾分の土地勘がある上に仲綱の次男有綱(当時18歳前後か)が残っていた伊豆に逃げたと考えるのが自然だろう。

 
右:空海作の仏像を祀る源氏山の弥勒堂と美女桜  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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その後の菖蒲は弥勒山(現在の源氏山)中腹の弥勒堂下に草庵を建てて 頼政 の菩提を弔いつつ89歳で生涯を終えた。庵の跡に残る桜の老木は墨染めの桜の故事にちなんで彼女が植えた桜の六代目で、村人は美女桜と名づけて愛しんだという。樹勢が衰えているのが気にかかる。
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  ※墨染めの桜の故事: 平安初期の寛平三年 (891) 、悪名高い関白 藤原基経(wiki)の死を嘆いた親しい歌人の上野岑雄が
詠み古今和歌集に収録した和歌が原典。墨染桜は京都京阪電車の墨染駅近くにある墨染寺 (ぼくせんじ) に三代目が残っている。    深草の野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け
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そして桜は...弔意を表して毎年の春に薄墨色の花を開いた、らしい。菖蒲御前は290年前の故事に悲しみを重ねて歌心を形にした。同じ趣味や共通の価値観を持つ羨ましい夫婦だったと考えよう。
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藤原基経は天皇を越えるほどの権勢を誇った政治家で、意に沿わぬ行動のあった 陽成天皇 に逆らって半年間も政務を放棄した事件が知られている。藤原氏の力が天皇を超えていた典型的な例、である。   京都伏見の墨染寺と桜についての詳細は こちら(外部サイト)で。
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【蛇足...薄墨(淡墨)桜】: 岐阜本巣市の根尾谷にも第26代継体天皇(在位450~531年・有史の実質初代天皇、と)の植樹と伝わる淡墨桜がある。
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更に上流にある道の駅 うすずみ桜の里 ねお(別窓)に寄った時に通ったが、残念ながら桜の季節ではなかった。花期には周辺での宴会を禁止するなど、保護には力を入れている。画像と由緒などは こちら(外部サイト)が詳しい。

 
左:弥勒堂の山裾に建つ弥勒山西琳寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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元々の西琳寺は弘仁ニ年(811)に空海が開いたと伝わる古刹である。伊豆には 空海(弘法大師)が開いたと主張する寺 (有名な修禅寺も同様) が矢鱈に多く、修禅寺奥の院(別窓)には修行を重ねて魔物を調伏した窟もあるのだが...空海が伊豆を訪れた史実は確認できない。全国各地に散在する弘法大師伝説の一つだろう。昔の西琳寺は西琳山弥勒寺と称し、空海が弟子の海心に住持させていたと伝わる。永正七年(1510)に 頼政 の子孫・稲垣頼忠が 蓮如上人 (wiki) に帰依し了正と号してこの寺に入った。この時から寺名を弥勒山西琳寺と改め、現在は東本願寺の末寺として浄土真宗大谷派に属している。本尊は阿弥陀如来。
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西琳寺と菖蒲の前には特に関係はないのだが、観光協会は彼女が庵を結んだ弥勒堂から最も近い寺に慰霊墓を建てた、らしい。彼女が没したのは古奈なのか禅長寺(内浦・沼津市木負)なのかも不明だし、葬った墓所も定かではない。
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頼朝 が挙兵した北條邸は西琳寺から直線で僅か1kmほどの距離に過ぎない。源三位頼政の敗死から4ヶ月後、古奈に逃れていた菖蒲御前も緒戦の山木合戦に勝利して石橋山に向かう頼朝の軍勢を複雑な思いで見送ったことだろう。
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頼政敗死後の伊豆知行国主は 平時忠 (清盛 の正室 時子 の弟) 、前述した「平家にあらずんば」と発言し、後に流刑地能登で没した人物。時忠は従兄弟の信国が養子に迎えた時兼(1168~1249・従三位・当時12歳。清盛の武将で伊勢平氏 平信兼の子)を国司・伊豆守に任命していた。国主も国司も現地に赴任せず、通常は目代(代理として所領の経営に当る)を置くのが通例で、その伊豆目代に就いたのが頼朝挙兵の緒戦で血祭りに挙がった 山木判官平兼隆、一説には平家の威を利用して目代を僭称した、とも。

 
右:菖蒲御前の伝承が残る西伊豆木負の禅長寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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由緒のある古刹なのに MapFan にもゼンリンにも記載がないが、辛うじて Google Map やカーナビなら正確な場所を確認できる。禅長寺の位置は こちら、西浦河内川の河口近くからミカン畑が点在する坂道を「市民の森」の道標に従って約2km、地番は沼津市西浦河内397。
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10kmも離れた古奈で生れた菖蒲の前が 頼政 と嫡子 仲綱 の遺骨を抱いて西浦河内に落ち延び余生を送ったという伝説の根拠は不明。彼女の夫を弔う頼政堂が建てられたのが発祥か。山号は九華山で臨済宗円覚寺派、 空海 (弘法大師) の開創である。更に上流部にあった青龍寺が原型で、建仁の頃 (1201~1203) に西妙尼 (菖蒲の法名) が庵を結んで蓮華寺とした。
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その様に伝わるのだが、建仁年間なら菖蒲の前は推定で70歳前後。果たしてその高齢で生まれ故郷の古奈から転居する必然性があるのか? また別の伝承に拠れば「菖蒲は一旦は古奈に落ち着いたが平家の追及が厳しいため、 頼政と仲綱の遺骨を携え更に山奥の河内(古名は田方郡棄妾郷)に隠れて庵を結んだ」、と。
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でもねぇ... 頼政敗死は治承四年(1180)の5月末だから、女子供を伴った逃避行で400km離れた伊豆長岡に到着するのは早くても6月中旬以降だ。その2ヶ月後の8月17日には頼朝が挙兵し、9月には義仲や甲斐源氏が一斉に蜂起、10月初旬には頼朝が伊豆を含む関東と東海全域を支配下に置いている。山奥に逃げ隠れる必要はないし、もし逃げていたとしても9月には胸を張って古奈に帰れるのにね、と思う。

 
左:東から見た伊豆長岡 古奈温泉周辺の鳥瞰図     画像をクリック→拡大表示
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伝承を全て統合すると、
 
  弘法大師が開いた青龍寺跡近くに頼政・仲綱の遺骨と菖蒲が隠棲した伝承が生まれた。
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  菖蒲の前が隠棲した伝承をベースにして村人が頼政堂を建てた。
  建武年間(1334~1336)に 頼政の子孫を名乗る多田詮頼が頼政堂を修築した。
  寛永年間(1624~1643)に雪厳和尚が禅宗に改めた。開基は倉地半頭松月禅長大居士の法名から禅長寺とした。
  三河の武士・大河内氏の子孫で家康に仕えた松平輝貞が元禄十一年(1698)に寺領と頼政堂の修復費用を寄進した。
  たぶんこの頃に現存する頼政と菖蒲の墓が造られ、堂内を整備し以前からあった二人の木像を納め菖蒲塚を建立した。
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これが全体の流れらしい。鎌倉大草紙には禅長寺と頼政堂の由来を裏付ける記事も見える。鎌倉大草紙は戦国時代(西暦1500年の前後50年)に成立したらしい軍記物で、禅長寺に関する記載は以下(現代語に変換)。
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伊豆は昔から源氏重代の土地で、頼政と仲綱以来の子孫が代々の守護である。但し二位禅尼( 政子)の頃に 武田信光も伊豆を支配して10年ほど住み、その後は再び頼政子孫の所領となって多田治部少輔から三代に亘り相続した。この頃(鎌倉幕府滅亡後の1333年前後)に建立した中花山禅長寺なる寺に頼政以来の木像がある。河内という所で、山の堂・頼政堂とも言い伝わっている。 足利高氏(尊氏)の代(1350年頃)に、畠山国清とその子が二代に亘り関東の執事として伊豆守護を務めた時に建立した瑞龍山吉祥寺があり、今も木像を収蔵する。
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大河内氏は三河の武士で、系譜に拠れば宇治平等院で討死した源兼綱 (頼政の弟頼行の子で頼政の養子)の子・顕綱が母と共に三河国額田郡大河内郷(岡崎市)に逃れたのが始まり。後に
足利義氏 が承久の乱(1221)の軍功で三河国守護となり、顕綱は大河内を姓として家臣になった。その後は足利氏一門の吉良氏に従い、後に家康に従った。家康に仕えた信綱が松平姓を与えられて伊豆守信綱(知恵伊豆で有名)、孫の輝貞が初代高崎藩主(八万二千石)。ただし大河内氏=兼綱の末裔については異論が多く、かなり系図を捏造した匂いがする。

 
右:韮山に残る江戸時代の溶鉱炉・反射炉   画像をクリック→拡大表示
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江戸末期、黒船来航に危機感を募らせた幕府が江戸湾防衛に配備する大砲を鋳造を鋳造するため建設したのが当時の最新鋭施設・反射炉である。韮山の世襲代官江川太郎左衛門英龍(36代坦庵)が1854年に着工し、更に佐賀藩の技術援助を得て安政四年(1857)に嫡男の英敏が完成させた。
反射炉の高さは約16m、徳川幕府が崩壊するまでにカノン砲数百門を製造したと伝わる。
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数回の補修工事を受けているが精密さは現代の溶鉱炉に匹敵し、完全な形で残る日本唯一の物、らしい。入場料100円は安いが、正直なところ見学しても面白くはない。反射炉の詳細は こちら(伊豆の国市のサイト)を参考に。
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  ※カノン砲: 反射炉の横にも 24ポンド砲のレプリカ(参考サイト)を展示してある。
約11kgの砲弾を発射できたが砲身が長くて重いため、用途は要塞砲に限定されたらしい。
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今も続く江川家の当主は41代目、系図による始祖は 清和天皇 の孫と称している。臣籍降下して源姓を称した経基王 (源経基) の孫の一人 源頼親頼光 の弟で大和源氏の祖)の後裔を称するのが江川一族で、28代目の江川英長から現在に至るまで、代々の当主は江川太郎左衛門を名乗る。
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ただし、江川氏の系図は最も古いものでも寛永年間 (1624~1643) の成立で、源頼親と江川家を結びつける史料は存在しない。伊豆屈指の旧家なのだが江戸時代に入ってから改竄した系図を意図的に流布させたらしい。無理して系図を捏造・詐称しても本質的な価値は変らないのに...せいぜい曽祖父までしか遡れない私の僻みか (笑)。
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江川代官屋敷の詳細は こちら (wiki) 。母屋は約400年前の建築で、NHKの大河ドラマ・篤姫の撮影などにも使われた国の重要文化財だから、それなりの見応えはある。無料駐車場完備、7月と8月の水曜休館・9~16時半、入場料300円(すぐ横の郷土史料館 (廃止か?) との共通券は400円)。
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反射炉隣の蔵屋鳴沢 (公式サイト) での地ビールや焼肉、2km北の蛭ヶ小島周辺では1月~5月の いちご狩り (JAのサイト) も。この一帯は伊豆メインの観光コースで史跡は勿論、季節の花や豊かな自然も楽しめる。伝・山木判官兼隆邸跡 や 江川氏の菩提寺 本立寺も近い (共に別窓)。


 その伍 韮山の隣、函南を訪ねる 

 
函南町は三島・沼津のベッドタウンとして人口が急増し、伊豆中央道の開通によって更なる発展も期待される。東側には
函南原生の森(函南町サイト)など豊かな自然も残され、別荘地や酪農地帯としても知られている。三島側は幹線道路(旧・下田街道)に沿って商業施設が集中し、緑地が多いながらも便利なショッピングタウンになった。個人的には定住してもいいな、と感じる場所の一つ(傾斜地が大部分で車がないと暮らせない別荘地を除く)。
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JR函南駅の東に広がる丹那盆地から北端の田代盆地を経て十国峠(日金山)を越える旧熱海街道(日金道)は平安時代以前から地域の主要道だった。平将門 が通った伝説もあり、韮山で挙兵した頼朝の軍勢数百騎(騎馬武者は100騎程度か)がこの道を土肥郷(湯河原)に下り、石橋山を目指している。ただし田代盆地を過ぎて登りが始まる軽井沢付近から先の峠道は既に失われ、痕跡を辿るのもかなり困難だ。それらしい岐れ道は幾つかあるんだけどね。
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曽我物語に拠れば、伊豆の目代 平兼隆 との婚姻を嫌った 政子 が婚礼の夜に風雨の中を伊豆山権現の 頼朝 の元に逃げた道とも言われている(この話は大部分が捏造)。
田代盆地は頼朝の御家人で 狩野茂光 の孫にあたる 田代冠者信綱 が恩賞で得た土地で、縄文時代以前からの集落跡も確認されている。


熱函道路から   南アルプス遠景   伊豆スカイラインから
 
~画像をクリック→拡大表示~
 
        左: 熱海から函南に向う熱函道路の鷹ノ巣山トンネルを抜けた地点 地図から丹那盆地を。遠く徳倉山と香貫山、背景には駿河湾。
JR東海道線と新幹線は撮影場所の地下深くから盆地中央のオラッチェと牛乳工場を結ぶ線の直下を通過する丹那トンネルを通っている。
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        中: 西丹那駐車場から。手前は沼津市街地、その後は愛鷹山麓、微かに見えるのは雪を戴いた南アルプスの山並み。
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        右: 伊豆スカイライン 池の向パーキング
地図から見る丹那盆地と冠雪の富士山。スカイラインでの展望はここと滝知山園地駐車場 (地図) がベスト。
玄岳料金所を出た駐車場から山道を30分で玄岳山頂(799m)、亀石峠IC先の巣雲山駐車場 (地図) からは10分で巣雲山頂(581m)に登れる。
この2地点とも相模湾と駿河湾の眺望を同じ場所から楽しめるスポット、分水嶺だ。

 
右:日金(ひがね)道の高みに残る軽井沢の駒形堂    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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熱海峠から県道11号を丹那盆地へ下ると約1.5km左側に城山、更に下ると右手の田代盆地(丹那盆地北端)の火雷神社近くに田代城址が残る。この旧熱海街道は三島や韮山などの伊豆半島西側から日金山を経て湯河原(土肥)や伊豆山の走湯権現に下る要路であり、韮山を出陣した頼朝軍が味方の主力と考えた三浦党と合流するため、石橋山合戦場を目差したルートでもある。
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治承の兵乱で勲功を挙げた 田代信綱狩野茂光 の外孫)が恩賞として得たこの地で要路を防御する砦を構えたのが 田代城址(別窓)。従って修善寺と大見の境界にある田代地区とは領主も地名も共通だった。
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街道を更に下ると軽井沢の集落に至る。頼朝がここを通った際に湧き水を飲んで「軽き水である」と言ったのが地名の語源で、口当たりの良い水だ、程の意味か。左側の泉龍寺横の高台にある駒形堂は 平将門 または 頼朝 の縁に繋がる石碑を保存している。
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伝承では、平安の昔にこの地を通った平将門の乗馬が急病になり、小さな祠で祈ったところ無事に回復、喜んだ将門は乗馬姿の石像を寄進した。将門伝説が広まるにつれて「駒形堂の馬頭観世音」として広く信仰を集めたという。
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一方でこの像は愛馬・生月に跨る頼朝の姿とも言われ、昔は城山尾根道の弦巻山中腹(旧街道沿い)から泉龍寺境内近くに移した、と伝わる。
寿永三年(1184)1月の宇治川合戦(木曽義仲 vs 範頼義経連合軍)に赴く 佐々木高綱佐々木秀義の四男)には池月を、梶原景季景時の嫡男)には麿墨を与え、宇治川渡河の先陣争いには高綱の乗る池月が一番乗りを果たした。後に年老いて現役を退いた池月はこの生まれ故郷に戻って死に、村人は頼朝が烏帽子姿で池月に乗る姿を写した碑を建てた、と。かつての丹那盆地は都に良馬の供給した地で、馬に関する多くの伝説が残っている。

 
左:丹那盆地の水源池<まきば>    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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明治14年に丹那の名主・川口秋平が「伊豆畜産馬会社」を設立して乳牛を飼い始めたのが丹那酪農のスタートであり、地名「まきば」の始まりだとか。「まきばの池」地図から下って行くとオラッチェの手前左側の白いガードレールに囲まれた高みが「川口の森」という牧場の跡。既に伐採され森じゃなくなったけどね。「まきば」の一帯は昔から水量が豊かな地域で、この池は近隣の生活用水や農業用として欠かせない。現在は池だけでなく地域を表す言葉として使われている。
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【 丹那盆地に残る<池月の伝承> 】
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頼朝 が駒形堂に参詣したとき、森の奥からいななきが聞こえて1頭の駿馬が姿を見せた。寺洞(まきば北側の字)の円通寺で飼われていたのだが、手に負えず森に放された暴れ馬である。頼朝は家臣に命じて捕え「池月」の名で愛馬とした。後に宇治川の合戦で 佐々木高綱 を乗せ先陣し勇名を馳せたのが、この「円通寺の暴れ馬」である。
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丹那の旧家・川口家(当代は既に転居している)には池月の轡(クツワ)が家宝として伝わっていた。円通寺は遠い昔に廃寺となり跡地も既に不明だが、平安時代の丹那盆地は各地に点在した官牧(兵部省に属した国有牧場)の一つだった。池月と磨墨の伝説は群馬県の桐生、栃木県の佐野、千葉県の松戸、山口県の下関、長野県の木曽(開田高原)、阿波徳島、宮城県大崎市など全国各地に残されている。池月(または生月・生咬)が気性の荒い癇馬だったという点を含めて、どの場所の伝承も大同小異である。

 
右:北伊豆地震の痕跡 直下を東海道新幹線が通る。    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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昭和五年(1930)11月26日早朝、マグニチュード7.3の直下型烈震「北伊豆地震」が発生した。震源地に近い丹那盆地に記された爪痕は国の天然記念物に指定され、80年が過ぎた今でも鮮明に確認できる。
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東大地震研究所による3回の発掘調査によれば丹那断層は700~1000年周期で活動を繰り返し、過去7000年の間に小さな移動を含めて9回に及ぶズレが発生している。50万年前から計算すると累計のズレは1kmに及び、断層の西側は100m隆起している、と。次回の大移動は600~900年後か。
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かつての丹那盆地は古い姿を残す典型的な農山村で、黒澤明が監督し志村喬や三船敏郎らが出演した「七人の侍」(昭和29年・1954)のロケ現場の一つだった。地下に活断層を抱えながら懐かしい故郷の雰囲気を残す...そんな姿を紹介する興味深いホームページは こちら。 ←このサイト、失くなってしまったね。残念!
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【 丹那トンネル開通の余波 】
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函南の東側地域、丹那盆地直下を通る東海道線の丹那トンネルは67人の尊い犠牲者を出す難工事の末に、16年を費やして昭和9年(1934)に完成した。断層の存在による地盤の悪さと、通常のトンネル工事に比べ100倍を超える湧水が難工事の主原因だった。本トンネルの下に水抜き用のトンネル(延長は本トンネルの2倍)を掘って水を抜き工事を進めたのだが...盆地地下の水脈は工事の影響で破壊され、盆地を潤していた清流も枯渇して稲作に壊滅的な打撃を与えてしまった。
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水田地帯だった丹那は補償金によって畑作と酪農へと転換し辛うじて生き残ったが、かつてはヤマメが泳ぎワサビ田が点在していた丹那から川の姿は消え、昔日の面影は失われた。その中で唯一健在だったのが「まきば」の水源で、これは熱海と函南を隔てる分水嶺・玄岳(くろたけ・799m)からの水脈である。
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熱海側のトンネル開口部の標高が66mで函南側が93mだから盆地中央部でのトンネルの標高は推定で85m前後、オラッチェの標高は237m。従って東海道線(新幹線も並列)はオラッチェの直下150mを通っていることになる
地図。畦道に耳を付ければ新幹線が通過する音と振動が感じられる(嘘ですからね)。

 
左:酪農王国 オラッチェの風景    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【ちょっと道草...酪農王国オラッチェ】
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函南の丹那盆地の中央に位置する観光酪農施設が「オラッチェ」。新鮮な乳製品や濃厚な味のソフトクリームもあるし、幼児の遊具や休憩施設・レストランも備えている。チーズやアイスクリームを作る酪農体験もできるので家族連れがのんびりと休日を楽しむにはピッタリ。近隣に店舗などは皆無だが駐車場は広いし、休日には地元農家の野菜市も開かれ、山羊やロバなどと触れ合える家畜動物園もある。少し前には癒し系の犬園(ヒーリング・ドッグって言うのかな)もあったけど、残念ながら撤退してしまった。
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  ※野菜市: 我が家にとって産直野菜購入の穴場なので秘密にしたいのだけど、間違いなく安い。
2014年1月末の買物ではLサイズの大根とキャベツ各100円、Lサイズの白菜150~200円、などを仕入れた。近隣農家の直売だから新鮮で品質も良い。朝は9時から、量も品種も豊富だけど売り切れてたらごめんね(土日祭日のみ営業)。
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丹那地域の太古は広大な湿原だった。長い年月を経て樹林帯となり、更に火山灰や倒木や流れ込む土砂が堆積して盆地が出来上がった、その歴史を感じながら散策するのも面白い。すぐ近くには玄岳(くろたけ)近くから飛び立ったパラグライダーが舞い降りる着陸地点もある。
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オラッチェ公式サイト函南町役場丹那牛乳観光協会伊豆スカイライン玄岳紹介サイトなどを参考に丹那盆地を楽しむ計画を立ててみよう。
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【 もう一つ道草...函南の温泉郷 】
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右:山岳信仰の聖地 日金山(十国峠)   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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熱海の市街地を抜けて梅園を過ぎ、熱函道路が始まる笹尻交差点で函南方面に左折せず直進して姫の沢公園を過ぎ、急な坂道を登り切ると十国峠(熱海峠)に至る。ここを右折すれば国道1号の箱根峠に続く県道20号、直進すれば田代から函南へ下る旧街道(熱海街道)となる( 地図)。芦ノ湖方面からは 道の駅「箱根峠」(別窓)を過ぎ東海道を登り切って箱根峠信号を左折し県道20号へ、9km強で熱海峠だ。
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さて、(熱海方面から)熱海峠の広い分岐を右折し、200m先で伊豆スカイライン方向へ右折し150m先(スカイライン入口手前)を左折して急傾斜を登ると日金山霊園。霊園の駐車場か、少し手前のトイレ前駐車場を利用しても歩く距離は変わらない。
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舗装道路を真っ直ぐに歩けば伊豆で最も古い寺の一つ 日金山東光寺(公式サイト)、手前の遊歩道から猪が掘り返した跡が点在する広い草原を通って十国峠の頂上に至る。ここは伊豆半島両側の海(相模湾と駿河湾)が見える数少ないスポットで、ケーブルカーに乗るよりこのルートの方が遥かに楽しめる。
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十国峠(右画像)頂上の一帯は奈良時代から続く山岳信仰の聖地だった。東光寺の本尊は延命地蔵菩薩像(伝 頼朝 寄進)で、伊豆山権現から日金山東光寺を経て函南から三島に下る旧街道沿いには幾つもの史跡が残っている。また県道20号の南斜面にある 富士箱根ランド(公式サイト)南斜面の別荘地奥に駐車して「不伐の森・函南原生林」を歩くのも面白い。本来は立入禁止だが、マナーを守る限り平日少人数のハイキング程度は規制していない。
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寺の草創が縁起の通りに応神天皇の頃(271年)まで遡るか否かは兎も角として、日金山は伊豆で没して来世へと向かう死者の霊魂が集まる地とされる。死者はまず脱衣婆(だつえば)によって衣類を剥がされ身も心も裸になる。その後に閻魔王(えんま)の裁きを受け罪深い者は地獄へ送られるのだが、この時に霊魂を救済する仕事を担うのが延命地蔵菩薩である。東光寺本尊の地蔵菩薩像は平家追討の大願を成就した頼朝が寄進したもの、またはそのコピーと伝わっている。
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鎌倉幕府の樹立後は将軍の二所詣ルート、即ち鎌倉~伊豆山権現~日金山~三嶋神社~箱根権現を辿る道(二所は伊豆山と箱根権現、後の経路には三嶋大社も含めた)として使われた。文治六年(1190)1月にこの順路で参拝した際に石橋山の合戦場跡に立寄った頼朝は討死した 佐奈田与一 や 与一の郎党 豊三らの墓で涙を流し、縁起が良くないとの理由で以後の二所詣では逆の順路で参拝する習慣になった、と伝わっている。ちなみに当時の小田原と箱根を結んでいたのは現代の東海道ルートではなく、山越えの湯坂路だった。西側の三島から鎌倉に戻る場合は芦ノ湖から鷹巣山~浅間山~湯坂山へ続く尾根を辿る険峻な道である。

 
左:旧街道に残る歴史のキーポイント 高源寺    画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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高源寺の山号は賽船山で現在の宗派は曹洞宗、元々は伊豆山権現や日金山東光寺・更には土肥(湯河原)の五所神社などと同じく箱根権現を囲む山岳宗教の拠点で、古名は空海(弘法大師)が創建したと伝わる真言宗の長久寺だった。
建久元年(1190)に起きた大規模な山火事で堂宇を焼失したが、頼朝が資金を提供し「源」の一字を与えて再興した。源氏所縁の寺として本堂の軒には笹竜胆紋 Google 画像
)を掲げている。
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比企の尼頼朝 の乳母を務めた一人で、 藤原秀郷 の子孫を名乗る武蔵国比企郡の代官だった比企掃部允遠宗の妻。一族は早くから頼朝を支え、伊豆流罪の後も物心両面での庇護を続けていた。
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高源寺がある函南舟山地区の伝承に拠れば、頼朝と 僧・文覚 は高源寺で挙兵の軍議を練り、治承四年(1180)8月に韮山で 平兼隆 を攻めた際には出陣の勢揃いをすると共に合戦後の集合場所に定めた、としている。これは吾妻鏡の記述と食い違うし、兼隆邸から約10kmも離れているから、奇襲である山木攻めの出発地にした信頼性はかなり乏しい。
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佐々木高綱 に与えられ宇治川合戦で一番乗りを果たした頼朝の愛馬池月(いけづき)の轡(くつわ)が函南の旧家に伝わっている事は前述したが、高源寺では鞍を寺宝として保存している。これは現役の軍馬から退いた池月の遺品か、それとも頼朝が寄進に関与したものか、判然としない。
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  ※笹竜胆紋: この紋を頼朝が使った事を証する史料は存在せず、源氏一門で使ったのは 八幡太郎義家 の五男義時を始祖とする石川源氏の一部だけ。
一般的に言われる源氏の代表的な紋の根拠なしなんて、調べないと判らないものだ。
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鎌倉幕府創設以後の比企一族は挙兵以前からの古参御家人として政治に深く関与し、頼朝の死没(1199年1月)後は二代将軍 頼家 の外戚として幕政の主導権を掌握する直前まで勢力を伸ばすが、正治二年(1200)1月の梶原一族に続き、建仁三年(1203)9月には 北條時政 の手で悲惨な一族滅亡を迎える。
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青春時代を韮山と伊東で過ごし、安元元年(1175)に韮山の北條館に入った頼朝は流人であっても源氏の嫡流、様々な人物が韮山を訪れて打倒平家の決起を促している。平家物語に拠れば、後白河法皇 に神護寺再興の勧進を強要したため伊豆に流された真言宗の僧 文覚 もその一人で、頼朝の乳母・比企の尼の計らいにより函南の宝船山高源寺で頼朝に面会し、源氏再興を進言したと伝わる。樹々に囲まれた山門近くには 比企の尼 を慰霊する宝篋印塔が苔むして残っている。
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なお、平家物語では同様の会合を毘沙門堂(下記)で行なった、と書いている。
参道を歩かず右手に迂回すれば駐車場に入れるためか、私が訪問したときは立て札も壊れたままで少々荒れていた。併設された霊園への参拝者は別にして、この史跡を訪れる人は多くない。高源寺から更に北へ進みゴルフ場の横を廻って東へ抜けると田代盆地を経由して酪農施設オラッチェに至る。少し判りにくいが、バイパスの熱函道路へ戻るよりも近く、酪農を営む静かな集落を抜ける雰囲気の良いルートである。

 
右:那古谷の奥、文覚上人所縁の毘沙門堂   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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平家物語に拠れば、僧・文覚 は韮山と高源寺の中間・奈古谷の国清寺奥にある奈古谷寺の毘沙門堂近くで挙兵の成功を祈る護摩を焚き、また白い布に包んだ頭蓋骨を取り出して、「これは 故 義朝 殿の首で、平治の乱の後に手に入れ20年間弔い続けてきたもの。」などと頼朝を扇動、さらに福原の新都にいる 後白河法皇 から平家追討の院宣を受けたとも語るが、これらは全て真実ではない。(文覚が嘘を吐いたのか平家物語が出鱈目を書いたのか不明)。義朝の頭蓋骨は文治元年(1185)に法皇に依頼して探し出し、鎌倉勝長寿院で法要を営む際に文覚が京都から持ち込んでいる。
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【吾妻鏡 元暦二年(1185) 8月30日(9月9日に改元して文治元年)】
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頼朝は平治の乱で父・義朝が死んでから法華経の転読などで追悼していたが未だ孝を尽くしておらず、大寺を建造して廟所を設けようと考えた。それを聞いた法皇は判官に義朝首級の探索を命じ、東の獄門近くで見つけ出した。
共に討たれた 鎌田正清 の首を添えて勅使を鎌倉に送り、頼朝は稲瀬川(由比ヶ浜)に出向いて文覚の門弟僧が首に懸けた遺骨を自ら受け取った。
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平家物語に拠れば、毘沙門堂で文覚と面談した頃から頼朝に挙兵の意思が兆しはじめた、とか。文覚は鎌倉幕府樹立後も幾つかのシーンに登場し、罪を問われて流されたり幕府に重用されて政治に関わったりしている。頼朝の没後には庇護者を失い、後鳥羽上皇 に嫌われて流刑地の佐渡で没した。この文覚もまた、伊豆半島に幾つもの足跡を残している。毘沙門堂(地図)は相当の山奥で、ましてや800年前は想像もできないほどの僻地だっただろう。
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ただし毘沙門堂は授福寺(別名を那古谷寺、遠い昔に廃寺)の鬼門(北東方向)を守った施設に過ぎず、更に遡れば授福寺の原型は慈覚大師が開いた安養浄土院である。現在の参道と山門は毘沙門堂のためではなく、護摩石のある場所に建っていた授福寺に参詣するためだった事実を忘れてはならない。

 
左:関東十刹の一つ、那古谷の国清寺   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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頼朝 が鎌倉に入った治承四年 (1180) から150年後の元弘三年 (1333) に鎌倉が陥落、建武五年 (1338) には足利高氏 (尊氏) が征夷大将軍となり、京都室町に政庁を置いた室町時代がスタートする。
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この時代は、天皇家が分裂して互いに正統を主張し併立した南北朝時代(1336年の南朝設立から1392年の皇室統合まで)の60年間と、応仁の乱 (1467~1477) などを経て織田信長が15代将軍足利義昭を追放した元亀四年 (1573) までの180年間に分かれる。那古谷 (函南町) に国清寺が建立されたのは室町時代の初期、長い騒乱の時代がスタートした頃である。
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 ※国清寺: 室町時代に関東十刹の一つとして隆盛を極めた名刹 (地図)。鎌倉大草紙 (wiki) にも書かれている通り上杉憲顕
父の憲房(建武三年・1336年に他界)を供養するため暦応年間(1338~1342)に古い律宗寺院を改修して禅宗に改め、仏光派の無礙妙謙を開山に国清寺とした。
仏真禅師を開基として畠山国清が建立し後に上杉憲顕が改修したとの説もあり、江戸時代には寺領二十石の御朱印を得て権威を誇った。境内には国清と憲顕の墓と伝えられる墓石が残っている。
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  ※関東十刹: 室町時代に鎌倉五山(建長寺・円覚寺・壽福寺・浄智寺・浄妙寺)に次ぐ寺格とされた臨済宗の巨刹を差す。
瑞泉寺(鎌倉二階堂、公式サイト)・禅興寺(原型は 北條時頼 が開いた鎌倉山ノ内の最明寺。廃寺後は塔頭の一つ名月院が継承)・東勝寺(鎌倉小町三丁目、廃寺、別窓)・万壽寺(鎌倉長谷一丁目、廃寺)・大慶寺(鎌倉 寺脇一丁目、参考サイト)・善福寺(鎌倉由比、廃寺)・長楽寺(新田荘、別窓)・興聖寺(鎌倉名月院の原型)・東漸寺(横浜磯子区)・法泉寺(鎌倉扇ガ谷、廃寺)
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  ※畠山国清: 生年不詳~貞治元年(1362)没。南北朝から室町時代に生きた武将で父は畠山家国、法名は道誓。姉妹に畠山義深や足利基氏に嫁した清渓尼などがあり、
息子に畠山義晴がいる。足利尊氏に従って鎌倉幕府を倒し、建武の新政から離反した後のに南朝との戦いを経て紀伊国の守護となった。
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足利家の内紛から発展した観応の争乱では尊氏の弟である足利直義に属し、政争に敗れた直義が京都を脱出して吉野の南朝に属すると国清も従うが、後に尊氏方に付くと共に尊氏が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏を補佐する立場の関東管領となる。1359年に二代将軍足利義詮からの援軍要請の陣中で仁木義長と対立し、やがて義長を政治から失脚させる。鎌倉では基氏宛に国清の罷免嘆願が出て伊豆国へ追われ、1362年に死去。
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  ※上杉憲顕: 徳治元年(1306)~応安元年(1368)、鎌倉末期から南北朝初期の武将。上杉憲房の子で 足利高氏(尊氏)・足利直義兄弟の従兄弟。息子に上杉能憲がいる。
早くから尊氏に仕え、1335年に尊氏が後醍醐天皇に叛くと直義の傘下に加わって戦功を挙げた。尊氏が九州に落ちると石見国で再挙を助け、1336年に父の憲房が京都で戦死した後は家督を継いで当主となった。その後も尊氏に従って戦功を挙げ上野国守護職に任じた。これが山内上杉氏の始まりとなる。
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1340年、尊氏の命で鎌倉府の執事に任じられ、高師冬と共に関東各地を転戦した。鎌倉公方として尊氏の子・足利基氏が下向してくると補佐役を務め、その功績により越後国の守護に任じられた。1350年に観応の争乱が起こると師冬との対抗上から、養子の上杉能憲と共に直義側に与して尊氏と敵対した。そして1351年には師冬を自害させ更に直義を鎌倉に招こうとして尊氏の怒りを受け上野・越後における守護職を剥奪された。
翌1352年、直義が死去して観応の争乱が終結すると尊氏に攻められて信濃国に追放され、剃髪して道昌と号している。
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尊氏の死後は基氏の招聘を受けて鎌倉に迎えられ、1362年には上野・越後の守護に任じ基氏を補佐する関東管領にも任じられた。1368年、足利義満が将軍に就任するとそれを祝うために上洛、同年に新田義宗(義貞三男)や脇屋義治(義助の息子)などの南朝勢力が関東で勢力を盛り返したため鎮圧に当たったが、老齢のために9月19日に足利の陣中で死去した。法号は国清寺桂山道昌。

 
右:重文 毘沙門天像 木像彩色 久寿元年(1154)造立(京都 峰定寺 (wiki) 収蔵)  画像をクリック→拡大表示
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  【 毘沙門堂の由来は... 】
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毘沙門天(多聞天)は夜叉を従えて北東の方角に当たる守護神で四天王の一人。暗黒界の長であり鬼門・艮(うしとら・北東をさす)を守護する。室町時代までは四天王中で最強の存在とされ、室町以後は現世利益・財宝授与の神として広く信仰された。
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非常にリッチな神様で、毎日3回全ての財宝を焼き捨てたと言われる。ただし、父母・国土・衆生・菩提のいずれかを目指すような生き方をしないと功徳はない、と諭している。大きな寺の北東には必ず祀ってあるのが毘沙門天。この地にも昔は奈古谷寺(慈覚大師が開いた安養浄土院、後に授福寺と改称、南北朝時代には既に廃寺)があり、鬼門を守ったのが毘沙門堂である。
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ところで、その肝心の奈古谷寺跡はどこなのか、南西にあった寺とは何を差すのか...西200mの参道入口近くに観音菩薩を祀った小さな寺はあるがこれは伊豆八十八ヶ所の15番・高岩院(国清寺の隣)別院の菩薩林。噂の痕跡すら見当たらないと思っていたら、護摩石のある平場が廃寺跡だった。現在も残っている参道や山門は毘沙門堂のためにあったのではなく授福寺の付帯施設で、護摩石は堂塔の一部を支えていた礎石だったと考えられている。
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奈古谷寺は 頼朝僧・文覚 に命じて再興し、後に瑞龍山授福寺に改めた。廃寺となって本堂などが失われた後も毘沙門堂には本尊の毘沙門天像が伝わり、本開帳は何と50年に一度で、中開帳は25年に一度。次の本開帳は2025年らしい。いくら拝観したくても概ね一生に一度か運が良くても二度のチャンスしかない訳だね。
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  ※四天王とは: 頂に帝釈天(仏教の守護神)が住む須弥山中腹で眷属を率いて仏法を守る四神、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)を差す。
京都 浄瑠璃寺(wiki)が収蔵する 国宝 四天王像を参考に。

 
左:文覚、伊豆国へ流罪  西伊豆 大聖寺   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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大聖寺(地図)は臨済宗円覚寺派国清寺の末寺。西伊豆安良里の古刹で現在は伊豆八十八ヶ所霊場の八十五番札所。伝承に拠れば元は山の上にあったが本尊の不動明王像の霊力が強すぎて漁船に影響を与えたため海が少しだけ見える現在の場所に移された、と。
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寺伝の詳細は下記の通り
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大聖寺の開基である泰庵阿闍梨は 後醍醐天皇(在位1318~1339)の頃、つまり鎌倉幕府が滅亡した頃に安良里に住み、浜川上流の神洞滝にあった不動明王像を寺域に移して真言宗の堂を建てた。この不動明王は聖徳太子の作で、元は 文覚上人の護持仏である。治承三年(1179)の伊豆配流の途中、彼を護送する船が遠州灘で暴風雨に遭遇し難破しかけた時に文覚が持仏に一心に祈り、その加護によって伊豆に到着できたという由来を持つ。
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 ※不動明王: 密教の根本仏大日如来の化身。右手に剣・左手に羂索を持ち、仏法に敵する者を恐ろしい姿で教え諭し従わぬ者は
縛り上げて正しい道に戻す役目を果す。温和な如来も仏法を護り衆生を導くには鬼の覚悟を持つ姿を示す。
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平家物語に拠れば文覚の伊豆流罪は承安三年 (1173) 。伊勢から船出して西伊豆に上陸、大久保平 (現在の伊豆市、恋人岬近く) の風景を愛して安良里の草庵に住んだ。
治承二年(1178)に中宮 建礼門院徳子 の皇子出産(後の 安徳天皇)により恩赦を受けたが、その後数年の消息は確認されていない。
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吾妻鏡には頼朝と文覚がこの頃に接触した記録はないが、同時代の愚管抄 (慈円 (天台座主) が著した歴史評論) は「同じ伊豆で四年も共に過ごし色々と情報交換したらしい」と書いている。文覚は赦免されて京に戻る際に持仏の不動明王像を安良里に残し、天文八年 (1539) になって臨済宗の高僧が宗派を改め授宝山大聖寺と号したと伝わる。


 その六 花の町 河津へ。曽我物語が成立した経緯について 

 
右:天城峠方向から見る河津ループ橋     画像をクリック→拡大画像にリンク
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河津ループ橋は天城峠方面から河津へ、時計回りに2回転して高低差45mを一気に下る。他の地域で見られるループ橋よりも円の直径が小さい(80m)ため、実際に運転して走ってみると不思議な感覚を味わえる。
  昭和53年(1978)の伊豆大島近海地震により、それまで山肌にへばり付く様に曲がりくねって通じていた国道413号が崩れ落ち、利便性の回復と地震対策を目指し3年の歳月をかけて完成したもの。
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すぐ下を流れる河津川上流の 初景の滝(参考サイト)前では毎年11月末に「滝祭り」が開催され、猪鍋と日本酒が観光客に振る舞われる。可愛らしいミス踊り子(もちろんお世辞にも可愛いとは言えない娘や、概ね中年で娘と呼ぶにはムリがあるケースもある)が彩りを添え、演芸大会なども開催している。天城特有の冷気と観光客の混雑に耐える覚悟が必要だが、七滝を巡るハイキングコースも整備されている。隣町・河津の寒桜見物などを含めた詳細は 観光協会のサイトで。
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【伊豆の踊り子と湯ヶ野温泉】
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伊豆旅行から8年後の大正15年(1926)、27歳の川端康成は「伊豆の踊り子」を発表、1968年にはノーベル文学賞を受けた。当時は学生の川端康成が泊まったのは今も営業する老舗旅館の 福田屋、踊り子一行は共同浴場を兼ねた河津川対岸の木賃宿。初景の滝から3km下流の湯ヶ野温泉での出来事を次の様に書いている。
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ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸して何か叫んでいる。手拭いもない真っ裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びでまっ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。
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この共同浴場のモデルになったのが現在は旅館(湯元館)の一階にある湯ヶ野区共同浴場(地元専用)。外来も入れるとか無料とか有料とか諸説あったので現地に電話確認したら、「地元民と組合に加入する旅館の宿泊者のみ入浴可、無料」、いわゆる「じも専」だ。そのうち撮影に行ってみようと思う。

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左:河津川沿いの小鍋神社と湯が野温泉   画像をクリック→ 拡大表示
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かなり昔、小鍋神社を見学したついでに少し手前の河津川沿いに建つ「国民宿舎かわづ」(昭和27年に閉鎖。慢性的な赤字経営だったらしい)で立ち寄り湯を楽しんだ。建物は相当の年季ものだったが湯温が高めで悪くはなかったけれど、内湯と狭い露天が同じ棟なのに20mほど離れているのには参った。まさか館内を裸で移動はできないし、服を着たり脱いだりも面倒だし。
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踊り子一行のその後に関する地元などの情報は 修善寺 横瀬八幡(別窓)の末尾にも記載したので参考に。川端康成は特に好きじゃないけど、一座を率いていた兄や踊り子の消息については何となく惹きつけられる。ちょっと松本清張の「天城越え」を髣髴とさせるような人生の哀感があって。下層階級の汚れた生活や惨めさなんてノーベル賞作家が理解できる世界ではないからね。
私の中では天城山心中や、実際の踊り子一行のその後や、能登の寒空や、石川さゆりの歌などが混然と蠢いている。
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あれ? なんでこんな話になったのか と言うと、河津町に残る義朝山の伝説と頼朝主従来訪に関する大鍋・小鍋・鍋失の伝説があるから。まるで根拠のないヨタ話なんだけど結構面白いし無視もできない。落語の「義朝が子供の頃の頭骨」も面白いけど。
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 【 平家物語 巻十二 「福原院宣の段」に拠れば 】
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文覚上人は荒廃した高尾の神護寺再建の勧進を 後白河法皇 に強請して怒りに触れ、伊豆遠流に処された。そして韮山の那古谷で頼朝と会い、「これは獄舎前の苔に埋もれ弔う人もなかった義朝殿の髑髏」と白骨を見せて挙兵を勧めた。頼朝は半信半疑ながら涙を流し、打ち解けて話し合った。
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 【 平家物語 巻十二 紺掻之沙汰 】
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文治元年(1185)8月22日、高雄の文覚上人が 頼朝 卿の父・左馬頭 義朝 の遺骨を首に懸け、鎌田正清 の遺骨を弟子の首に懸けて鎌倉に入った。
去る治承四年(1180)の頃に見せた首は本物ではなく、挙兵を勧めるために古い頭骨を白布に包んで見せたもの。本物は獄門に架けられ弔う者もいなかったが以前の従僕が検非違使に願い出て義朝の首を貰いうけ、東山の円覚寺に納めていた。頼朝は庭にかしこまって首を受け取り、居並ぶ者たちは涙を流した。左大弁兼忠が勅使として義朝に内大臣正二位を贈位した。頼朝の武勇によって亡父が名誉を得たのは目出度いことである。
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  ※円覚寺:
清和天皇 は貞観十八年(876)11月29日に 陽成天皇 に譲位した。元慶四年(880)3月に終焉の地と定めた水尾山寺(地図)に入った後に病を得て
粟田口の円覚寺に移り、12月4日に30歳の若さで崩御した。後継は「狂気の帝」の汚名(捏造の可能性あり)を受けた57代陽成天皇で、15歳で退位しながらも80歳の長寿を全うしている。従僕が 義朝 の首をここに納めたのは、源氏の祖である清和天皇を葬った所縁だろう。ちなみに、円覚寺は応永二十七年(1420)に焼失して廃寺となり名跡は水尾山寺が継承した。清和天皇陵墓は水尾山寺の裏山、陽明天皇陵は平安神宮北側の神楽岡町にある。

 
右:麓に小鍋神社が建つ、義朝山の伝承   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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小鍋に伝わる民話に拠れば 文覚 は後に 義朝 の頭骨を河津の山麓に埋葬、以後この山は義朝山と呼ばれた (今は通称 小鍋山)。
遠い昔に小鍋部落の西に義朝山神宮寺(廃寺)があり、小鍋神社はその梵天宮(仏教を守護する神 梵天を祀る)だった、と。
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当然この髑髏は偽物。頼朝は文治元年 (1185) に 後白河法皇 に願って獄門に架けられた義朝の遺骨を探し出し、南御堂 (勝長寿院) に葬って盛大な法要を営んだ。この時に京から義朝主従の頭骨を運んできたのも、文覚である。結局は那古谷で頼朝に髑髏を見せたのも捏造 (文覚の嘘か、平家物語のフィクション) だったし、河津の話もただの伝承に過ぎなかった訳だ。
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義朝の首を探し出した経緯は良く判らない。平家物語は「文覚が京で探し出した」と書いているし、元暦元年 (1184) の「玉葉」 (九条兼実 の日記) 8月18日と21日、「山槐記」(平安末期の公卿中山忠親の日記) 8月21日には、この時点で 「義朝の首は獄中 (獄門か獄舎) にあった」 と記述し、更に「首が獄にあると知っていた 頼朝 が文覚に確保を命じた」と書いている。
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つまり頼朝は既に京で義朝の首を確保していたにも拘わらず、勝長寿院 (南御堂) 落慶の文治元年 (1185) 10月24日の直前に鎌倉に運ばせ埋葬したことになる。吾妻鏡の記述 (8月30日) とは一年のギャップがあり、勝長寿院の完成が間近に迫った劇的なタイミングを狙って頼朝が演出し、吾妻鏡がそれに歩調をあわせて日付を調整したのだろう。
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【 吾妻鏡 文治元年(1185)  8月30日 】
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頼朝は日頃から孝養を心がけ、平治の乱で没した義朝の菩提を弔うため毎日の読経を欠かさなかった。後白河法皇はこの願いに応えるため判官に命じて東の獄門付近から義朝の首を探し出し、鎌田正清の首を添えて勅使の公朝を介して下賜した。今日公朝が到着し、頼朝は自ら稲瀬河に出迎えた。遺骨は文覚上人の門弟が首に懸けており、頼朝は衣服を改めてこれを受け取った。
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【吾妻鏡 文治元年(1185)  9月3日】
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深夜に義朝の遺骨を(正清の首と共に)南御堂に葬った。担当する僧は恵眼房と専光房ら、遺骨は輿に載せて 平賀義信毛利(陸奥)頼隆 が担った。他の御家人は全て寺域の外に止められ、義信・頼隆・惟義らのみ同行を許された。義信は平治の乱の際に義朝に付き従い、頼隆は父の義隆が義朝の身代りになって討ち取られた、その経緯があったためである。
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  ※大内惟義:
新羅義光→ 四男(平賀)盛義→ 嫡男義信→ 嫡男惟義と続く源氏門葉の一人。誕生は平治の乱前後だから門葉嫡子として参列か。
同腹の弟には 北條時政 の娘婿となり時政失脚に伴って殺された 朝雅 がいる(生母は 比企の尼 の三女で、伊東祐清 の寡婦が再嫁した)。

 
左:頼朝伝説が残る国道414号の鍋失トンネル   画像をクリック→拡大表示
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【 河津に残る変な地名 】
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修善寺方向からは通常なら新天城トンネルを抜けて(少し遠回りして旧道の天城トンネルを抜けてもOK)河津町に向って2kmほど下ると「鍋失(なべうし)トンネル」があり、更に下って川端康成の「伊豆の踊り子」で広く知られた湯が野温泉の近くに「小鍋」や「大鍋」や「鍋失」の地名がある。
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遠い昔に 頼朝 さんが大勢の家来を連れて突然やって来た。人数分の食事を用意するのが大変だ、大急ぎで調理道具をかき集めて...大きな鍋を出した村が「大鍋」で小さな鍋を出した村が「小鍋」の地名になり、頼朝さん一行が帰った後に洗った鍋を川へ流してしまった所が「鍋失」の地名になった。頼朝は宿を提供した農家が長く栄えるようにと「千萬歳」の名を与えた。
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河津では今もその屋号が続いていると言うから、作り話にしても辻褄を合わせる努力の跡が見えるから更に面白い。
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小鍋集落は湯ヶ野温泉の西側で、大鍋集落は義朝山の北を流れる大鍋川の中流域。旧下田街道は河津川西岸の小鍋集落~大鍋集落の近くを北上して現在の天城トンネルから3kmほど西の二本杉峠を越え天城湯ヶ島に下っていた。大鍋や小鍋や鍋失は こちらの地図 で確認できる。
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【 話のついでに...】
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石橋山合戦で敗れ、小舟に乗って安房の竜島(千葉県鋸南町)に上陸した頼朝は地元民に歓待された。喜んだ頼朝が「天下を取ったら安房一国を与える」と言ったのに、住民は「粟一石」と勘違い。「粟は裏の畑でも採れますだ、姓を下せえ」と願った。頼朝は笑って「そうか、馬鹿な奴だ」とつぶやいた。これを聞いた住民は喜々として「左右加」と「馬賀」を姓とした。この手の民話は実に多く、笑い話も民話の数に比例して残っているようだ。

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右:河津川の北東から見た三郎祐泰の館跡一帯    画像をクリック→拡大表示
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平安時代末期、伊豆東海岸を掌握した 伊東祐親 の長男が河津の始祖とされる 三郎祐泰。応徳二年 (1085年、陸奥後三年戦役の頃) 前後に祐親の祖父祐隆 (工藤・狩野) が伊豆半島中央部の狩野川流域から東海岸に移り、宇佐美・久須美 (葛見、伊東) ・河津を支配したのが伊東氏の最初である。祐隆の嫡男祐家が早世したため祐隆の指示に従って遺領相続が行われた。
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所領の中で最も広く豊かだった伊東エリアは二男の祐継が相続、祐家の長男で祐隆にとって嫡孫にあたる祐親には南の河津を与えた。本領の伊東は嫡男だった故祐家の嫡男で既に元服していた祐親の相続が筋道で、ここから領地を巡る遺恨から同族が殺しあう曽我物語がスタートする。
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後に高齢だった祐継はまだ幼い嫡子 金石(後の祐経) の後見を祐親に依頼した。しかし祐親には久須美の所有権を取り返したい意趣があり、祐継の頼みを受諾しつつ所領の独占を計画していた。曽我物語は 「叔父の祐継が所領を奪ったと考えた祐親が箱根権現の僧に呪詛を依頼した」 とまで書いている。
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果たして呪詛を受けた祐継は病没し、後見人の祐親は金石を京の 平重盛 に仕えさせ、その間に所領を重盛に寄進して久須美庄を立荘した。永暦元年 (1160) 前後には河津から伊東に移って実質的な支配権を確立し、河津二郎を改めて伊東二郎を名乗った。河津は祐親の長男が継承して河津三郎祐泰を名乗ることになる。
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祐親はこの頃40歳を過ぎた男盛りで金石は元服前の10~12歳ほど。建久四年 (1193) に勃発した曽我兄弟の仇討ち事件は次章の 「その七 もう一度伊東へ、曽我物語の原点」 に詳細を述べるとして、この河津の項目では三郎祐泰が殺された安元二年 (1176) 直後のあれこれを。
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【 曽我物語 河津が討たれし事 】 の続き。 前段は 河津三郎の血塚(別窓)で。
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殺された河津三郎には二人の息子がいた。兄の一満は五歳、弟の箱王は三歳である。思い詰めた母親は二人を抱き寄せ髪をなでつつ「お腹の子にも母の言葉を聞かせよう、お前たちが15歳13歳になったら父の仇の首を切って幼い子に見せよ」と涙で語った。幼い弟は訳も知らず遊び、兄は死んだ父の顔を見つめて涙を抑え「大人になったら敵の首を切って人々に見せよう」と泣いた。その様子を見て事情を知らない者までもが貰い泣いた。
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名残は尽きず三日が過ぎ、黄泉へ旅立ったら二度と帰らぬのが運命、涙で送り出し夕べの煙となった。女房は死のうと考えたが祐親が「力及ばず別離となるのは誰でも辛いが、子が死に夫が死ぬたびに後を追ってはどうにもならぬ。時が過ぎれば心も癒える、生き永らえて菩提を弔え」と慰めた。「その通りですが涙が乾く間もありません。幼子を放ってもおけず、尼になろうにも身重の体では侭にならず、死ぬのも罪が深すぎる」と悩みながら35日が過ぎた。
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祐親は息子の菩提を弔うため剃髪し、36本の卒塔婆を建てて供養を続けた。多くの男女が弔問に訪れ、一満は墓に供えた父愛用の鞭を持ち出した。母が呼んで「亡き人の物を持ってはいけないから捨てよ、父は仏になって極楽浄土に座している。お前もいつの日か行く場所ぞ」と言うと一満は喜んで「仏とは何か、極楽とは何処にあるか、急いで行こう」とねだった。困った母は墓地のほうを指差し、一満は箱王の手を引いて「父の許へ行くよ」と急いだ。幼い箱王が遅れるのを打ち捨てて墓地を走り巡った末に母の膝に倒れ込み「父さんはいない」と泣いた。こうして49日を迎え、祐親は仏塔を建てて供養を行った。

 
左:花の町に残る悲劇の原点 曽我物語と河津八幡神社   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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河津町の谷津地区には「館の内」や「館跡」の地名があり、八幡神社付近が河津氏の館跡と伝わっている。元々は祐親の居館で、祐親が伊東の支配権を掌握して転居した後に三郎祐泰が住んだ。祐泰没後の妻子は伊豆を去り、河津は再び伊東祐親の管理下に入ったらしい。この館では後に 頼朝 の妻となる 政子 の生母や、三郎祐泰の子で後に曽我物語の主人公となる一萬(十郎祐成)と箱王(五郎時致)の兄弟が生まれている。
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三郎祐泰が暗殺された後に、祐親は嫡孫の一満・箱王兄弟と母の満江を河津に残さなかったのは何故か。この時の 満劫狩野親光 の三女が通説だが横山時重の娘説あり)は第三子の出産が近かったのに祐親の指示で箱王を箱根権現に預け、一満を連れて 曽我祐信 に再嫁した。
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当時の 伊東祐親 は伊豆では抜きん出た規模の荘園の管理権を有する富豪であり、祐泰の遺児に河津を相続させ祐親あるいは近親の者が後見に任じても支障はなかった筈なのだが嫁を再婚させ、後継となり得る嫡孫を手放したのはなぜだろうか。
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14年後の治承四年(1180)に 頼朝 が挙兵した時の曽我祐信は平家側で、石橋山合戦では 大庭景親 軍に加わっている。満江が再嫁した時には既に嫡子(先妻の子 祐綱)があり、兄弟の生活は恵まれたものではなかった。仇討ち後の取り調べで祐信は 「所領も狭く、後妻の連れ子に分割相続させるほどの余裕はなかった」 と弁解しているけれど、館の遺構などからは貧しさなどは見えず只のケチおやじだった可能性が高い。
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結局 祐信は弟・箱王の元服費用を出さず、親戚の 北條時政(祐親の長女(つまり祐泰の姉)が時政に嫁して 政子義時 を産んだ) が烏帽子親を務めて北條の通字「時」を与えた。兄の「祐」は伊東氏の通字であると共に曽我氏の通字でもある。兄は曽我氏として元服させ、弟は母の意向に従って箱根権現での稚児となり将来の出家を約束した、そんな経緯である。
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  ※横山時重: 厚木市中部を本拠に相模国に勢力を広げた横山党の武士。同族には 二俣川合戦(別窓)で 畠山重忠 を討った 愛甲三郎季隆 がいる。時重の娘の一人は 和田義盛
嫁して緊密な縁戚関係を結んでおり、建暦三年(1213)5月の 和田合戦(別窓)での横山党は義盛側に味方し、敗北に伴って一族は滅亡している。
祐信と妻は曽我兄弟の仇討ち後に出家し、祐信の家督は先妻の子で嫡子の祐綱が継承した。
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  ※祐信に再嫁: 三郎祐泰が死んでから80日、御坊(第三子)が産まれて30日が過ぎた。夫の百日後には尼になるため法衣を用意していると聞いた祐親は「子供は誰が育てる
のか、年老いた祖父母を頼るつもりなのか。三人の子を三郎の形見と思いなさい。私にも所縁のある相模国の曽我太郎は先般妻を亡くして嘆いていると聞いたから再婚してはどうか、私の血縁だから分け隔てはしないだろう。」と言い付け、厳しく見張らせたため尼になる隙もなかった。祐親の手紙を読んだ祐信は大いに喜んで伊東に出向き、子供らと共に曽我へ連れ帰った。満江は「こんな筈ではなかった、返す返すも口惜しい」と嘆き恨みながらも月日を過ごした。
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河津八幡の境内には河津三郎主従が鍛練に使った大きな手玉石が残っている。館の遺構は裏山の崩落で何度も流され痕跡もないが、出土した数多い手玉石の一部を展示している。祭神は三郎祐泰と曽我兄弟で、例大祭の11月14~15日には子供相撲大会を催している。河津三郎は相撲の強者で四十八手の一つ・河津掛けの考案者とされる。社殿左手の三郎夫妻の墓は分骨墓か供養塔で、三郎の墓は伊東の 東林寺、兄弟の生母 満劫 は再嫁先の 曽我 法蓮寺に眠っている。

 
右:河津町 谷津の南禅寺(なぜんじ)  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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河津三郎祐泰 は戦乱や飢饉で身寄りを失った女たちのために40以上の尼寺を建て、敵味方の区別なく庇護した心優しい領主と伝わっている。しかし平安末期の伊豆東海岸に大きな戦役は記録されていない。
河津二郎だった伊東祐親 が久須美 (伊東) を押領し、嫡男祐泰が河津を継承して「河津三郎」を名乗ったのが永暦元年(1160)で、伊東赤沢での横死が安元二年 (1176) 。尼寺建立の件は祐泰の存在を美化した伝承、と考えるべきか。
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ただし、当時の河津が伊豆海運の中継点「津」として繁栄したのは事実らしい。河口にある津(港)だから河津だ、と。今では港の繁栄も尼寺の痕跡も見当たらず、河津の西に位置する谷津温泉の奥に無住の東泉山南禅寺(真言宗)が残っているのみ。
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平安中期の康和元年(1099)に実道法師が仙洞山那蘭陀寺を創建し東伊豆最大の寺院として栄えたが、二度に及ぶ山崩れで堂宇伽藍の全てを失った。更に室町時代の応永29年(1422)に勃発した堂山の崩落によって那蘭陀寺は壊滅し廃寺となった。周辺には堂山の他にも地獄谷・仏谷・大門・弥勒など古い地名が残っており、南禅寺または那蘭陀寺が伊豆東海岸屈指の大寺として栄えた夢の跡を物語っている。
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100年後の天文十年(1541)秋、河津を訪れた鎌倉正光院の南禅和尚は温泉療養と布教を目的に僧坊を営み、併せてうどんや蕎麦の製法を教えた。村人は寺を南禅坊と呼び、現在に続く寺名の始まりと伝わっている。収蔵する仏像群は山裾の「仏谷」から掘り出されたもので国宝級という評価もあり、谷の土中には更に多数の遺物が埋没しているという。現在はすぐ近くに完成した立派な美術館が仏像を保存・展示している。
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いずれにしろ、これだけの仏像が残されているのは那蘭陀寺が稀に見る巨刹だった証明でもある。那蘭陀寺も南禅寺も遠い昔に廃寺となり、詳細を伝える文献資料は全く残っていない。現在の南禅寺は文化十一年(1814)に住民の浄財で再建されたもの。那蘭陀寺と南禅寺は同じ寺とも別の寺とも言われるが詳細は不明(地図)。
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  ※那蘭陀寺: 祇園精舎などと共に仏教の「五精舎」又は「五山」の一つで 釈迦の死後に建てられたマガダ国の寺を基にして命名したもの。五精舎とは竹林精舎・祇園精舎・
大林精舎・誓多林精舎・那蘭陀寺を指す場合があるが、一般的には 竹林精舎・祇園精舎・大林精舎・霊鷲精舎・菴羅樹園精舎とされる。鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺、別格上位として京都南禅寺)や京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、別格として南禅寺)の原典である。

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左:南禅寺仏像の詳細と伝承について  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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行基 は奈良時代初期の和銅元年(707年)前後から畿内を中心にして全国布教を始めた法相宗の開祖。伊豆とは特に縁が深く、南禅寺の仏像群も行基の作と考える説がある。
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河津川沿いから南禅寺に向う途中の谷津温泉は行基が入浴した伝承から始まっているし、下田の連台寺温泉は行基による開湯、天城湯ヶ島に近い吉奈温泉は行基が善名寺(地図)を開いた時に湧き出したと伝わり、韮山の願成就院の阿弥陀如来像も 運慶 ではなく行基の作とする学者もいる。ただし 空海(弘法大師)と同じく行基の全国行脚伝説は広範囲に広がっており、どこまで事実かは微妙。
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南禅寺の本尊・薬師如来坐像は昭和48年に盗まれた経歴を持っている。盗人は堂の前の立ち木から山裾までロープを張り薬師如来像を吊り下げて運んだらしい。2年後に発見回収されたのは幸運で、現在も昔のままに地区の自治会で管理されている(と思う)。無住のため拝観には事前の連絡が必要。駐車場はないが山裾に路駐可。観光協会は0558-34-0864、拝観料は300円。
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その後の仏像展示: 南禅寺 明細頁に記載した通り 2013年春に「伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館」がオープンした。
入館料300円、館内の写真撮影は禁止している。詳細は 河津町観光協会の公式サイト で。
このページは以前の状態を記録しているため、変更せずにこのまま残しておく。

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 その七 もう一度伊東へ、曽我物語の原点 


 
奥野の相撲場跡   八代田の岐れ道   松川の氾濫

          左: ダムの完成で水没した奥野相撲場跡の古い写真。祐親主催の巻き狩りの後に余興の相撲大会を開催した場所と伝わる。
画像をクリック→ダム湖が完成する前の古い画像を拡大表示する。
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          中: 昭和60年(1985)の八代田トンネル完成までは八代田橋が奥野(修善寺方向)と萩(おぎ・伊豆高原方向)の分岐だった。
この写真は八代田橋(正式には八代田橋)の左岸地図。左:荻・十足、右:奥の坊・史跡角力場跡 などの表示が見える。
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          右: 昭和33年の狩野川台風は伊東市にも大きな打撃を与えた。死者42名、被害総額は27億円に達したと記録されている。



 
右:広重の曽我物語図絵 奥野の巻き狩り  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 曽我物語に描かれた奥野の相撲大会 】    浮世絵の詳細画像は こちら で。
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発起人は相模の 大庭景親、流人ではあるが清和源氏嫡流である 源頼朝 を主賓に迎えて 伊東祐親 が主催した奥野の巻き狩りと酒宴は三日三晩続いた。駿河国から関東一円までの著名な武将が集まった宴の余興として最終日に催した相撲大会では、東国無双の剛力と謳われた 俣野五郎景久(大庭景親の弟)が向かうところ敵なし、21連勝と勝ち続けた。
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でもこの俣野さんは所謂「嫌な奴」で、汚い技なども使ったらしい。更に見物していた湯河原の 土肥實平 爺さんが 「強いなぁ、わしが15歳も若かったら出るのだが」 と呟いたのを聞き咎め、「相撲は年で取るものでもなかろう、出たら如何だ?」と絡んだ、と曽我物語は伝えている。
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それを耳にした
河津三郎祐泰 が父祐親の許しを得て臨時に出場、土肥実平が彼の烏帽子親だった関係もあったらしい。1番目は一気に押し出し、2番目は片手で投げ飛ばしたが...俣野五郎は 「木の根に躓いたから」 と再戦を要求、3番目は「かわづ掛け」で叩きつけられ、暫く立ち上がれなかったそうな。「奥野の巻き狩り」の開催は安元二年(1176)の10月。当時の相撲は禁じ手なしの格闘で、武士にとっては生死を分ける一騎討ちの模擬勝負だった。正面から相手と向き合い、組み伏せて鎧の隙間から急所を狙い刺し殺して首を取る訓練。何よりも実戦での強さが求められた時代だが、相撲上手では名を馳せた三郎祐泰は実戦の経験が乏しく、武名は特に高くはない。相撲四十八手の「かわづ掛け」には名を留めたけれど。

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さて、伊東祐親と工藤祐経が憎みあったそもそもの経緯とは...  長文だけど「所領争い」と「曽我の仇討ち」の重要なポイントになる。
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【 曽我物語に拠れば、単純な所領争いではなく相続を巡る複雑な事情があった。 】
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伊豆の伊東・河津・宇佐美を併せた葛見荘の領主は工藤大夫祐隆、出家して葛見入道寂心と名乗っていた。多くの男子を得た子福者だったが、皆早世して血筋が絶えそうになったため継女の子を嫡子として伊東を譲り、武者所に出向させて工藤武者祐継と名乗らせた。また嫡孫(早世した長男・祐家の嫡子)を二男と扱って河津を譲り、河津二郎祐親 と名乗らせた。
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   ※宇佐美: 最も北に位置する宇佐美は金石(祐経)の弟 宇佐美三郎祐茂 (宇佐美氏の祖) が相続、彼は頼朝の配下だが祐親とも円満な関係を保っていた。
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   ※継女の子: 「後妻の連れ子」が本来の意味だろうか。他に「早世した息子(祐継)の後妻に産ませた子、又は後妻の連れ子に産ませた子」ともされる。
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   ※武者所: 帝の御所である内裏や院の御所を警備する組織。ここに勤務するから 工藤 武者 祐経
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寂心の死没後に祐親は「嫡々である私を差し置いて継女の子が本家を相続するとは神慮に背き子孫に害をなす行為である。」と異議を呈したが認められず、引き下がるしかなかったが、後に祐親は箱根権現の別当を招き、酒宴の後に本心を打ち明けた。「御存知のとおり嫡々の私を差し置いて継女の子が重代の墓所と所領を横領した事が許しがたく、伊東武者祐継の命が絶えるよう調伏(呪い殺す事)して頂きたい。」と申し出た。別当は様々に道理を説いて祐親を諌め思い止まるよう説得したがその後も執拗に申し入れがあり、檀那の意向を無視できないまま壇を整えて調伏を始めたのは誠に恐ろしい成り行きである。
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   ※箱根の別当: 祐親と親しい関係にあった 土肥實平 は箱根権現と縁が深く、寄進などによる影響力が深かったらしい。
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さて調伏を初めて七日目の寅の半ば(午前4時前後)、五大明王の剣が伊東武者祐継の首を貫いて壇に落ちる姿が現れ、威験が現れたと感じて別当は壇を降りた。伊東武者はそんな事は夢にも知らず、射手を揃え勢子を集めて奥野の狩りに出掛けた途中で体調を崩して引き返し、そのまま病の床に付した。病状が次第に深刻となったため9歳になる金石(祐経の幼名)を枕元に呼んで手を取り「幼いお前を残して逝くのは無念だが運命からは逃げられない。これからのお前を誰が守ってくれるのだろうか」と泣き、幼い金石も共に泣くしか術はなかった。
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   ※奥野の狩り: 伊東館からの距離は5km余り、山が連なる絶好の猟場だった。今でも鹿や猪が当り前のように出没する。
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「世の定めとは言えせめて金石が15歳になるまでは...」と嘆くばかりである。そこに河津二郎が見舞いに訪れこの有様を見て近くに寄り「心配せずに菩薩に後生を願い給え。私が金石殿を後見し真心を以て疎略には扱わぬから安心されよ」と語り掛けた。河津の悪心を知らない祐継は深く喜んで肩に縋って祐親を拝み、「その言葉は何とも嬉しい限りだ、甥ではあるが今後は実子と思って万刧御前(祐親の娘)を娶せ、15歳になったら小松殿(平重盛)に見参し恙無く伊東を知行させてくれ」と権利証などの書類を取り出して金石の生母に預け、安心して43歳の生涯を閉じた。
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河津二郎祐親は嘆く姿の裏で喜悦の眉を開き箱根別棟の方角を伏し拝んだ。間もなく河津を出て伊東に入り三回忌までは諸善の忠節を尽くし、金石には良い乳母を付けて十五歳で元服させ、工藤祐経と名乗らせた。やがて娘の万刧を妻とさせ、二人を連れ上洛して小松殿に見参させて京都に駐在させ、自らは伊東に戻って所領の管理に専念した。祐経は精勤を励み立派な武者としての心得を磨いて和歌の道にも熟達した若武者に成長していった。
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   ※重盛に見参: この時点で祐親は 平重盛 に葛見(久須美)荘(伊東)を寄進し、重盛は蓮華王院に寄進した。重盛は手数料を、祐親は管理権の保証を得た。
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   ※蓮華王院: 後白河法皇 の離宮・法住寺殿の一角に建てた仏堂で三十三間堂の前身。平清盛 に資材の提供を命じ、長寛二年(1165)12月に完成した。
五重塔なども備えた大寺だったが建長元年(1249)に焼失、本堂のみが再建されて現在の三十三間堂となった。後白河の没後は宣陽門院覲子(後白河の第六皇女)が継承した。
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祐経が25歳になった時に生母が死没し、形見として父が残した譲状(遺言証書)を揃えて祐経の元に送り届けた。祐経はこれを見て「伊豆の伊東は祖父の入道寂心から父の伊東武者祐継まで三代の所領なのに何の根拠もなく叔父の河津二郎が相続して8年間も知行しているとは。是正させねばならぬ。」と辞任と帰国を願い出たが許されず、やむを得ず代官を派遣して祐親に是正の催促を申し入れた。祐親は「私以外の地頭は存在しない」と言って代官を追放、祐経は帰国して直接の談判も考えたが、醜い争論になるのを避けて検非違使に申告し、祐親を京に呼び寄せて裁判に持ち込む方策を選んだ。

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   ※裁判に: 一般的には実効支配をしている方に勝ち目があるし、検非違使なんて財力と権力に弱い存在だし。祐経の主張は理に叶っていたが祐親は言を左右にして
非を認めず、更に金品を使って検非違使を引き込み朝廷の有識者を証人に仕立てて抗弁した。しかも祐親は祐経の叔父であり、舅であり、烏帽子親であり、また一族の長老でもある。
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祐親は様々な方策で所領の半分 (河津の全てと伊東の半分) を得る決裁となったため大いに喜んだが、祐経は伊東に戻ったとしても身の置き所もない。京都に住んでいても遺恨は消えず、密かに都を抜け出して駿河の高橋に下り兵を集めて祐親討伐も考えたが祐親の守りが万全で手出しができない。更に祐親は祐経の妻 万刧を強引に離縁させ、相模国の住人 土肥二郎實平 の嫡子 弥太郎遠平 に再嫁させてしまったから、祐経の遺恨は遂に頂点へ。
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   ※祐親の娘 万刧: 後に祐経の嫡男として伊東荘を継いだ 伊東祐時 は土肥遠平の娘を妻に迎えた。彼女が万刧の娘なのか孫娘なのかは確認できないが、鎌倉幕府の
実権を握っていた北條氏は、彼女が産んだ祐朝の相続を許さず六男(?)祐光を嫡子とし、祐時の伊東氏継承を認可した。
北條氏が (系図上での) 祐経の孫が祐経の孫娘と婚姻する事態を忌避した可能性は指摘できる、と思う。
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   ※祐経の敗訴: 全面敗訴という結果でもなかったらしいが、祐親が実質的な管理権を握ってしまったという事で、北方四島みたいな状態か。
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   ※駿河国高橋: 現在の清水区に高橋の地名が残る。工藤氏の本貫地は元々駿河で、工藤氏の縁戚も多く居住していた。祐経は密かに伊豆に下って大見庄に居住し、
昔からの郎党である 大見小藤太成家 と八幡三郎行氏を呼んで「この仕打ちには我慢できず、せめて一矢を報いたいのだが人に知られた顔なので叶わぬのが無念だ」と嘆いた。二人の郎党は「弓矢を取る侍として見逃せない事であります。面目に換えても忠義を尽くします」と席を立った。そんな事情を祐親が知る術もない。
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   ※大見庄: 祐経との関係は明確ではないが大見に隣接する狩野は工藤氏の同族、影響力が深かったと思われる。伊東氏も狩野氏も工藤氏の同族だが、平家の郎党と
して所領安堵を得た伊東祐親以外は大部分が頼朝に協力して源平合戦の時代を迎えることになる。

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左:祐経生母の出身地か? 八田屋敷の風景  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 中伊豆の伝承から見た伊東の領地争い 】
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大見郷の土豪 大見平三家政 には玉枝という娘があり、同じ大見郷の西部を本領にした八田八郎宗基に嫁して女子を産んだ。その後に宗基と死別し実家に戻った玉枝は娘を連れて伊東の領主祐隆に再嫁した。祐隆の嫡男だった祐家 (死別した前妻との子)は既に早世し、本来なら既に成人していた祐家の嫡男・祐親が葛見庄(宇佐美・久須美・河津)を相続するのが当然だったのだが...
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祐隆は死んだ息子の後妻 玉枝の連れ子である若い娘に手を出して産ませた男子・金石(後の 工藤祐経)に久須美を与えた。嫡孫の 祐親 には河津を与えて河津ニ郎を名乗らせ、この時点で宇佐美を祐経の弟 祐茂、広くて裕福な久須美(葛見・伊東)を祐経に与えるという、将来に禍根を残す選択をした。家長が絶対的な権力を持った時代である。
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八田八郎宗基の父は四郎知家、宇都宮宗綱の四男(義朝の末子説あり)で常陸宍戸氏や小田氏の祖と伝わる八田知家(宇都宮宗綱の四男)と同姓同名なので単なる伝承の可能性はあるが...大見川の近くには住居跡と伝わる「八田屋敷」の地名と、墓所とされる一画が残っている。
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祖父祐隆が死ぬと祐親は直ちに箱根の別当に祐継調伏 (祈り殺す事)を依頼、やがて病を得て死期が近付いたと知った祐継は病床に祐親を招き「御身は河津庄を差配せよ、金石は若年なので御身が後見して伊東庄を知行させてくれ」と言い残して没した。
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この機会を捉えた祐親は河津庄を嫡男 祐泰 に任せ、後見の立場を利用して伊東に入り所領支配の実績を作った。更に元服した金石(祐経)を娘の万劫と結婚させて単身で京に赴任させ小松内府(平重盛)に仕えさせると同時に伊東庄を重盛に寄進して支配権を確立した。今で言うところの「実効支配」である。
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そして祐経が25才の時、死期を迎えた実母(大見の伝承に従えば、大見家政の娘の連れ子)は祐親に伊東庄を渡す意志がないのを悟り、祐継の遺言などの証拠を添えて詳細を京都六波羅の祐経に送った。祐親に申し入れた交渉を拒否された祐経は検非違使に訴え出たのだが...
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判決は伊東庄の2分割に決定。その後に祐親は祐経の謀叛を訴えるなど様々な策を弄して、結局伊東庄を独占してしまう。祐親は平重盛に伊東庄を寄進(簡単に書けば、重盛を名義上の所有者にして手数料を払い、実質的な所有権を確保すること)した経緯もあって有利な裁定を得た。更に祐経に嫁していた万劫を離縁させ、縁戚である土肥郷(湯河原)の
土肥實平 の嫡男 遠平 に再嫁させるという強硬手段に及んだため憤激した祐経は郎党として仕えていた 大見小藤太成家 と八幡三郎行氏に我が身の不運を嘆いて聞かせた。
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二人の郎党は憤激して「主人のためなら命も惜しくはない」と祐親を討ち取る意思を固める。この当時は既に惣領相続制が定着していたため、祐隆の措置は強引ではあったが当主に絶対的な権限があったのも事実。現代の感覚で安易に理非の判断は出来ない。「若い娘に手を出して産ませた子を溺愛し...」なんて昨今も特に珍しくない話だし。

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右:旧下田街道に残る河津三郎血塚と椎の木三本  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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伊東庄の所有権争いが原因で、工藤祐経 は所領を独占した叔父の 伊東祐親 を深く恨んだ。祐経の意思を受けた二人の郎党は奥野の巻き狩りにも加わって祐親を狙ったが機会を掴めず、奥野から酒宴の席を設けた河津に向かって東浦路 (伊豆半島の東海岸を南北に結ぶ古道) を河津へと下る伊東祐親の一行を、街道を見下ろす赤沢の「椎の木三本」で待ち伏せした。二人の放った遠矢は祐親に手傷を負わせ、同行していた 河津三郎祐泰 を殺してしまった。
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嫡男の死を悲しんだ祐親は剃髪して寂心を名乗り、三郎祐泰を伊東の 東林寺 (別窓) に埋葬して仏事を済ませ、翌年2月には次男の 祐清 に80騎を与えて暗殺者の追討を命じた。祐清は祐経の郎党・大見小藤太と八幡三郎を殺すべく奥野道を抜けて大見郷へ。80騎はこの地域としては大軍だが、あわよくば祐経も討ち取ろうという祐親の意図を含んでいたのだろう。
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ただし大見には「むかし大きな戦があり、敗れた武者が来宮神社の奥に隠れたが馬が嘶いたのを聞いた敵に討ち取られた、云々」(数段下の八幡三郎行氏の館跡とも伝わる来宮神社の項目を参照) の伝承があり、これが該当する可能性は捨てきれない。
いずれにしろ河津三郎祐泰は伊東一族の将来を担う期待の嫡子だったが、祐親と祐経の所領争いが彼の死を招き、更に数多くの不幸を引き起こす。
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暗殺事件の頃には工藤祐経は京から伊豆に戻って大見郷または狩野荘に寄寓していた、と推定される。大見小藤太は大見平三家政の息子(嫡男ではない)か近親者だったと思われるが、なぜか大見や狩野を巻き込んだ衝突には発展しなかった。80騎を派遣した祐親の軍事力もこの地域では群を抜いているが、領地に攻め込まれ親族を殺されても抵抗が見られなかった大見一族側の対応には疑問が残る。
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伊東祐清の武装兵が 大見小藤太 らを討ったのは安元三年(1177)2月で 頼朝 の韮山挙兵は治承四年(1180)8月、その間は3年半に過ぎない。中伊豆に勢力を張る狩野一族と大見一族と工藤祐経は源氏側で頼朝に近く、東伊豆の伊東祐経や相模の大庭氏・鎌倉氏・曽我氏らは平家側。すでに明確な立場と勢力区分がありながらも源平が衝突する機は未だ熟さず、狭いエリアの縁戚同士が対決するリスクを暗黙のうちに避けたのかも知れない。
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この「奥野の巻き狩り」から数ヶ月前には工藤祐経が母方の縁戚(駿河)の援軍を得て伊東を攻める噂があり、伊東祐親は長男祐泰と次男祐清に数百の兵を二手に分けて与え、伊東と中伊豆を結ぶ要路である奥野口と柏峠(現在の冷川峠)に配備する事件も起きていた。現在では奥野と大見を結ぶ中伊豆バイパスが1993年に開通し、更に2008年に無料化されたため冷川峠を越える車は減って廃道っぽくなった。奥野ダム湖の中央付近と冷川峠方面を結ぶ道も整備されている。

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左:大見川と冷川に囲まれた大見一族の館跡 實成寺  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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大見川は中伊豆を東から北に流れ下る。狩野川との合流点に近い右岸は 加藤景廉 一族の本貫地、左岸は 田代信綱 が砦を守る狩野荘との境界。曽我物語は「大見小藤太成家は狩野境まで逃げて討たれた」と伝える。地図に表記すると多分 この辺 だろう、と思う。
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大見一族と狩野一族に縁戚関係はないが、平安中期に遠江権守に任じた 藤原為憲 (wiki) は母方の従兄 平貞盛 配下として 平将門 討伐に勲功を挙げ、従五位・木工助(宮廷造営などに任じる木工寮次官)として伊豆・駿河・甲斐・遠江の権守を歴任した。
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為憲は木工に関わる藤原氏として工藤姓を名乗り、駿河国一帯に勢力を広げた。五代後の工藤茂光が伊豆中部の狩野川流域に土着して 狩野茂光 を名乗り、その兄弟が伊豆東海岸を開拓して伊東祐継を名乗り、地元の女に金石(後に元服して工藤祐経)を産ませたという経緯は既に述べた。
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大見氏は、伊豆では有力だった豪族狩野氏と伊東氏の勢力圏に挟まれた弱小な土豪だったらしい。河津三郎を討った大見成家と八幡三郎行氏は主筋の祐経の指示に従ったのだろうが河津三郎には不幸な巡りあわせで、討手の二人を卑劣と攻めることもできない
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韮山挙兵当時から頼朝に従って転戦した大見一族の系譜は宇佐美一族と複雑に錯綜し、更に加えて名まで変っているため正確さは期し難く、多少の独断で推定せざるを得ない。
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平将門 を討伐した 平貞盛 は一族から多くの養子を迎えた。貞盛の弟 繁盛の子(又は孫)の維繁も貞盛の養子になり、維繁の三代後の永基が越後に土着して城氏の祖となり、城資国-資永 と続いた。資国の弟・康篤(詳細は不明)の子か孫が伊豆の大見に土着して 城(あるいは大見)家政 を名乗り、その嫡子が城政光(大見政光、後に宇佐美平太政光)として大見の地頭となり、次子の 實政 は奥州合戦の功績により津軽の総地頭として赴任、建久五年(1194)2月に起きた大河兼任の乱で討死している。( 大見・城地区(別窓)の項も参照)。
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家政は大見古城址西麓の通称大見畑と呼ばれる付近に館を構えた。ここには「城の井戸」の遺構や「垣宇土(屋敷の囲いの意)」の地名が残っており、現在は實成寺境内に移設された家政の墓(大見塚・だいけんづか)があった一帯、いわゆる大見古城址(別窓)である。そして家政の嫡子・政光は城地区に移って城砦を構え(白山神社付近)、實政は古城址の南(現在の實成寺一帯・柳瀬地区)に移って裏手の山に設けた柵 大見城(別窓)を詰めの城とした、と考えられている。

右:八幡野と大見郷を結ぶ主要な古道、鹿路庭峠   画像をクリック→詳細にリンク
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伊豆スカイラインの冷川IC近くから徳永川の西岸を南に向って登る細道を約1kmで「頼朝石」に至る。徳永川はスカイラインの天城高原IC近くから冷川→ 大見川→ 狩野川の順に合流する流れの源流部で、頼朝石の更に上流部で徳永川に流れ込む木場川沿いに山道が続いている。
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これが昭和初期まで鹿路庭峠(544m)に通じていた古道の跡で、現在では頼朝石から1kmほど先の大幡野手前のゴルフ場(中伊豆ゴルフクラブ)で車両通行止めになる。大幡野の先に登る山道もあり、単独行ではいささか躊躇うレベルではあるが、地図ではゴルフ場の東側を抜けて県道12号に合流できる表示になっている。鹿路庭峠の古道は現在の峠から500mほど東で、県道12号の屈曲部には古道の入口らしい部分も確認できた(概略地図を確認されたし)。
これが東浦古道の「椎の木三本」で河津三郎祐泰を遠矢に懸けた大見小藤太らが大見郷に逃げ帰ったルートだろう。
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鹿が多かったので鹿路庭、あるいは、峠の茶屋を開いていたのが六郎婆だったとも伝わる。登り詰めた峠から天城高原に向う遠笠山道路では(運が良ければ)現在でも野生の鹿の群れを見る事ができる。突き当たりの天城高原GCに駐車して万二郎岳~万三郎岳を辿る、展望の良くない暗くて急峻なハイキングコースになる。2000年頃だったかなぁ...妻と二人で犬を連れて万二郎から万三郎を縦走して、天気の崩れを気にしながら3時間ほど歩いた。下り道はかなりの悪路だったがヒメシャラの群生が美しく、花季を逃した悔しさを今でも鮮明に覚えている。

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左:大見から鹿路場峠へ向かう古道跡の頼朝石  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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徳永川東岸の県道12号を登ると途中で伊東に下る中伊豆バイパスの入り口(現在は無料、平成20年まで360円だった)を過ぎ、狭い屈曲路を約4kmで峠に至る。地形から考えると、伊東奥野と鹿路庭峠に向かう道(県道12号)を結んでいた古道・奥野道も、ダム湖 (当時は松川が流れる谷川) の北側を辿る、県道12号に準じるルートを辿っていたのだろう、と思う。
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さて...冷川インターそばの県道12号徳永から狭い舗装道路に入って 東向寺 (松月院の後半に記載)(別窓)の前を過ぎて1km弱登ると、ガードレールの手前で農道が左の低地に分岐する。ここを左に下ると頼朝石のすぐ下側を通り、冷川を渡渉して伊東に通じていた奥野道に合流する。平安末期に流人頼朝が韮山と伊東を往来する際に辿った道を、当時に想いを馳せつつ歩いてみよう。
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農道に入らず舗装道路を更に20mほど進むと「頼朝石入り口の表示」があり、この奥には鹿路庭古道から分岐して奥野に通じていた古道の一部が昔日の面影を残している。更に奥には頼朝が雨宿りをしたと伝わる烏帽子石(高さ12mと7mの石が抱き合っている)もあるが、正確な位置が不明。古い地図から推し計ると この辺 か。伊豆スカイラインの路肩から歩ける、かも。

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右:大見・實成寺に隣接する大見城址   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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實成寺の項で紹介した古い石垣(平安末期の遺構らしい)前の標高が140m、すぐ南の大見城址の最高地点が約210m、標高差は70m。当時は城郭など存在せず、館から山頂に移動し堀切や柵を盾にして防衛戦を展開するための、典型的な山城である。
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大見氏は桓武平氏の末を名乗っているが、系図が不明確な上に途中から宇佐美氏系図と交錯しているため詳細は明らかになっていない。一族の祖は 平将門 を討伐して名を挙げた 平貞盛、貞盛の孫の繁成(別説には貞盛の弟・繁盛の孫)が秋田城介(任地の実務官僚の長)となり、繁成の子・貞成が越後に土着して城一族(子孫に資国や坂額)の祖となり、その五代後の子孫家信が中伊豆の大見伊豆に土着して大見平太を名乗った、と伝わるが真偽の程は判らない。
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要するに平太家信が大見を名乗った最初の人物であり、その子が平次家秀→ 平三家政(=家秀の説あり)→ 實景→ 行定と続く、らしい。そこまでは推測できるが、吾妻鏡に多くの記載がある 大見平次實政(宇佐美實政と同一人物とされる)が系図のどこに位置するのか、そして 伊東祐親 の嫡男 河津三郎 を遠矢に懸けて殺し、曽我物語の発端となった 大見小藤太成家 は誰の子なのか、などの疑問は解消されないまま残る。平安末期~鎌倉時代初期の史料で判断できるのは下記程度だ。
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狩野介茂光 が大見家秀や 加藤景員 らを率いて大島の 源為朝 を討伐した。・・・保元物語 史実は嘉応二年(1170)4月。
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伊豆から相模に向う頼朝軍の中に宇佐美三郎助茂、宇佐美平太政光、同平次實政の名がある。・・・治承四年(1180)8月20日。
相模国府で最初の論功があった。本領安堵や新領を得た者の中に實政・家秀・家義の名がある。・・・治承四年(1180)10月23日。

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左:城一族の領地 城地区周辺の風景  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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城地区は大見一族の惣領・平太政光の本領とされる。政光の弟は平次實政、この二人の名は 源頼朝 に従って伊豆から相模に向かう軍兵として、治承四年8月20日の吾妻鏡には宇佐美の姓で記載されている。宇佐美氏と大見氏の系譜は錯綜しているのが悩みの種だ。政光が記録に載るのはこの一度だけだが、實政の方は20回ほど吾妻鏡にその名が見えるのが面白い。
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實政は奥州藤原氏滅亡(文治五年・1189年)の後に津軽の総地頭となり治安の維持を兼ねて現地に駐在したが、建久五年(1194)2月2日に 藤原泰衡 の旧臣 大河兼任の乱で討死している。
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大見氏の子孫は柿崎氏・水原氏に継承され、宇佐美氏の子孫も恩賞を得て各地(特に越後)で栄えており、その頃には城の姓は使われなくなっている。越後の柿崎家系図には城平太(大見政光=宇佐美政光)は大見家信の名で登場しており、7~8代後に上杉謙信の有力部将である柿崎和泉守景家を出している。この辺りが比較的信頼できる部分だろうか。
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伊豆大見に於ける城平太政光の館は現在の白山神社付近と推定されている(大見の地図を参照)。屋敷の跡や平太の名が転じた「平」の地名が残るらしいが、これはまだ確認していない。神社の北側の山頂には古い塚があり、中腹に造成された平地に物見台が置かれて危急の際には法螺貝を吹いたため貝吹山と名付けられた、とされる。あまり深く追い掛けると郷土史の分野に入り込んで大見に定住(笑)する恐れがある。
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    ※大河兼任の乱: 鎌倉軍に追われ平泉から北に逃れた 藤原泰衡 は津軽十三湊の総督府奉行を務めていた叔父の大河兼任(父親が 秀衡 の弟)に合流する途中で家臣の
河田次郎に殺された。頼朝による戦後処理政策に従って 宇佐美實政 が津軽の総地頭に任命されたが、秀衡の旧臣兼任が総督府の部下や泰衡の残党を集めて叛旗を翻した。しばらくは善戦したが間もなく敗退、建久六年(1195)の3月には兼任も土民に殺されて反乱は鎮圧された。

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右:河津三郎を殺した大見小藤太成家の墓  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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大見川の支流・冷川を渡る馬場沢橋の東にある廃業した製材所敷地(現在は解体業者の作業場)の片隅に太平洋戦争従軍兵の顕彰碑があり、河津三郎を殺した大見小藤太成家 の墓標はその脇にある。かつては頼朝が寺社の建設に際して巡覧し伐採を命じた伊豆の林業も、今では不採算事業なのだろう。
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元々は 實成寺(別窓)に近い冷川沿い(大見一族の馬場)にあった塚 (たぶん小藤太の胴を葬ったのだろう) だったが、昭和20年代の顕彰碑建立に伴ってその横に移設された。笠と台は鎌倉期のもの、中央の四角い石は明和年間(江戸中期の1765年前後・徳川10代将軍家治の頃)の銘がある。何らかの理由で中央部分を失なって補修したか。正面には「南無妙法蓮華経・・・(日蓮?)大聖人」、詳しく観察すれば内容は理解できそうだ。
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豆州志稿に拠れば、成家と共に祐親を狙った八幡三郎行氏は暗殺の現場に近い伊東八幡野の住人で、昭和20年代までは墓や館跡と伝わる場所があったらしいが既に失われた。土地の古老に尋ねても70年以上前じゃムダだろう。
個人的には八幡野ではなく、大見の伝承にある「大見郷八幡(はつま)の武士」と考えたい。祐経の郎党で祐親殺害計画に加わっていたのだから。
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曽我物語に拠れば、「討手を受けた八幡行氏と仲間たちは「主人のために死ぬのは覚悟の上だ」と散々に戦った末に自刃した。大見成家は元より心の卑しい男なので合戦の場から逃げ出し、伊東祐清 の討手は狩野境まで追い詰めて捕獲し馬場沢川で首を刎ねた」としている。これが史実だったのか、あるいは曽我物語の敵役だった成家を貶める脚色で、物語をさらに面白く編纂した可能性も考えられる。大見地区の地誌には「主人のために働いた地元の偉人」と紹介していたっけ。
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    ※狩野境: 狩野茂光 の孫 田代信綱狩野領の砦(別窓、地図)を構えていたエリアだろう。
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小藤太成家と八幡三郎行氏はいずれも曽我物語に登場しているだけで、後世に書かれたものを除いた他の文献や系図などには記録が見当たらない。成家が大見一族なのは間違いないにしても、後世に編纂された大見氏系図にも載っていないのだから少なくとも本家あるいは嫡流の人物ではない。討たれたのは安元二年(1176)の10月、年齢は判らないし同族の家政や家秀なども記録にあるのは没年だけだから血筋を辿るのも無理、平次實政(後に宇佐美を名乗る家秀と同人)の子か、庶子あたりと考えるべきか。

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左:中伊豆 大見家政の本拠地と古城址  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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桓武平氏 平貞盛 の子孫が伊豆に土着した最初の地である(大見の地図を参照)。吾妻神社の鳥居がある山裾と中伊豆中学校の間にある平地、大見畑と呼ばれた一帯が(大見實政 や 政光の父 大見家政(家秀)の)館跡で、「城の井戸」の遺構や「垣宇土(屋敷の囲いの意)」の地名が残っている。現在は實成寺にある伝・家政の墓も、元々は大見畑の大見塚(だいけんづか)から移されたもの。本来の大見塚は中学校の校庭拡張工事に伴って撤去され、正確な位置も調査記録も残っていない。
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古城跡である小山はかなり急峻で、大見川の支流冷川を天然の防衛ラインとした要害の地である。時間と根性の不足で途中で引き返したが、頂上には吾妻神社があり、以前は東の下り口に崩れた石垣の跡が残っていたらしい。これも、既に確認はできない。
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大見實政館跡の 實成寺、防衛拠点の 大見城址、實政の兄政光の本拠地で 工藤祐経 の生母の初婚先とも伝わる 八田屋敷の風景、曽我物語の敵役で河津三郎を遠矢で殺した 大見小藤太成家の墓(各 別窓)などと併せて大見を探るのも面白い。
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ただし、祐経の出自および生母の出自については明確な史料に基づくものではなく、複数の伝承と曽我物語の記述から導き出した推論である。「早世した息子の後妻に手を出して産ませたのが祐経云々」と書いた部分が日向伊東氏関係者の逆鱗に触れて抗議のメールを頂戴した事があった。このサイトでの私論は基本的に可能性の指摘である事を書き添えておく。800年以上昔の出来事に目くじらを立てたいなら、改竄の多いNHKの大河ドラマを糾弾されたし。

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右:八幡三郎行氏の館跡とも伝わる来宮神社  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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大見郷には来宮神社が二ヶ所あり、この伝承の舞台は鳥居杉で知られた八幡(はつま)の来宮神社。古くは木宮明神と呼ばれた大見16ヶ村の総鎮守で、貞和年間(1345~1349)に藤原祐義が創建した、と伝わる。近隣に残る五輪塔残欠などを考えれば、元々あった古社を藤原祐義が補修または新築したと考えるべきか。
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  ※藤原祐義: 諏訪伊藤氏の系図に祐義の名が見える。
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伊東氏も工藤氏も藤原南家の末裔である。家紋は丸に木瓜、丸に横木瓜、木瓜、庵木瓜、上り藤、花澤潟、角菱など。工藤氏の出身で、鎌足の十一代為憲の孫・時信のときに伊豆伊東を領有し姓とした。その孫の維永、その子駿河守維景、その子維職(伊豆工藤の祖)、その子工藤太夫家継、その子祐家に至ってニ家に分れ、一つを 伊東次郎祐親 と称し後に入道、その子は 伊東九郎祐清 と称し、木曽義仲 に従って功を挙げた。家記に、当伊藤家は祐清の子清長より出たとある。
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伊藤九八郎清長-祐義-伊藤久左衛門祐信-伊藤八郎左衛門祐朝-伊藤八十郎祐重-伊藤主計祐政-伊藤八左衛門祐時と続き、代々武田家に仕えた。祐時は信虎と信玄の二代に仕えて功を挙げた。祐時の子伊藤八郎祐行は勝頼に仕えた。武田滅亡の後は浪人し小坂の里に潜んで帰農した。その子は重隆八郎左衛門、敬神の志が深かったと伝わる。
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  ※義仲に従って: 「義仲と戦って北陸で討死」の間違いだが筆系図編纂者のミスか脚色か不明。まぁ全体に詐称が多いから引用の値打ちもないが。
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木宮明神は、一説に伊東の赤沢山で 伊東祐親 の嫡男 河津三郎祐泰 を遠矢で射殺した八幡三郎行氏(大見小藤太 の相棒)の館跡、とされる。武士の館跡が寺社になる例は多いから、安元二年(1176)の秋に追討された三郎行氏の館跡が170年後に来宮神社に変った可能性は否定できない。
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ただし、豆州誌稿にも「八幡三郎行氏の館跡は八幡野」と書かれている。館跡の痕跡は既に不明、八幡野は暗殺実行現場の「赤沢の谷」を含む地名だから、地の利を心得て先回りした「八幡(はつま)」の行氏が 河津三郎血塚(別窓)を眼下に見る「椎の木三本」で待ち伏せたと考えても違和感はないが、確認する術は失われた。
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いずれにしろ二人の暗殺者は「椎の木三本」から池の部落(大室山の南)を抜けて鹿路庭(ろくろば)峠を越え、徳永川に沿って大幡野を通る旧道を下って大見郷に逃れた、と推定される。蛇足だが伊東屈指の観光名所 大室山 の所有と管理権は池地区(地図)が設立した法人に帰属している。
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一方で伊東に引き返した祐親は次男の 祐清 に80騎を与えて下手人追討を命じ、祐清は柏峠(現在の冷川峠)か奥野道を経て大見に入り、小藤太成家と八幡三郎を討ち取って首を伊東に持ち帰っている。祐親は首を確認した後に網代小忠太に命じて大見の最勝院(下記、当時は真言宗の西勝院と称した)に届けて供養させた、と伝わっている。祐清による大見討ち入りの詳細は 大見小藤太成家の墓(別窓)で。

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左:中伊豆の名刹 最勝院  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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最勝院(公式サイト)の寺伝に拠れば、第百二代花園天皇(在位:正長元年(1428)~寛正五年(1564))の頃に上杉憲清(宅間上杉家の祖重兼の孫)が祖父のため開いたとしているが、実際には関東管領の上杉憲実が祖父憲栄の追善供養のため開いた寺院である。例大祭は4月24日の火防尊と8月1日の施餓鬼。大見川に沿った県道から緩やかな坂を登ると山門手前に広い駐車場がある(地図)。
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  ※上杉憲実: 応永17年(1410)~文正元年(1466)、室町中期の武将で越後守護上杉房方の三男。
鎌倉公方の足利持氏に仕えて関東管領、上野・武蔵・伊豆守護などを務めた。優れた人物だったが室町幕府六代将軍義教と持氏の融和に苦しみ、結果として持氏を追討することになる。荒廃していた足利学校や金沢文庫を再興・整備した文化人としても知られる。
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永享五年(1433)に憲実は鎮守ヶ島にあった真言宗の西勝廃寺跡に堂宇を建て、寺領として七百貫匁を寄付し宗燦(そうさん)を開山和尚とした。本尊は室町時代の胎内釈迦牟尼仏、脇仏として文殊菩薩を祀っている。
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戦前までは三町歩(約3ヘクタール)の農地を所有した大寺だった。開山和尚の吾宝禅師宗燦は鎌倉時代中期・後深草天皇の末で、第89代後深草天皇-久明親王-煕明親王(深草宮)-富明王(祥益)-宗燦(さん)と続く家系、と主張しているが裏付ける史料は見当たらない。
最勝院から国士峠に向って大見川の支流 地蔵堂川に沿いに遡ると貴僧坊という字に至る。ここにも死者に纏わる民話が伝わっている (詳細は最勝院) の項で。

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 その八 18年も抱き続けた遺恨、曽我兄弟の仇討ち事件 

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          曽我兄弟が幼い時を過ごした河津の環境は
その六 花の町 河津へ。曽我物語が成立した経緯について から、
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          兄弟の父 河津三郎祐泰が殺害された経緯は その七 もう一度伊東へ、曽我物語の原点 から読み下しを。

右:曽我祐信の館跡、城前寺とその周辺   画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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桓武天皇 の孫(曾孫?)として平姓を下賜され臣籍降下した高望王(平高望)の庶子が武蔵国熊谷郷・相模国鎌倉郡・下野国結城郡・香取郡などを拠点に村岡五郎を名乗った平良文、曽我氏はその末裔を称する。
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その系図に従えば、良文の子忠類(経明)が986年前後に陸奥守として常陸に勢力を広げ、その子の忠常が安房に勢力を伸ばして千葉氏を名乗った。忠常の弟 胤宗の子が野与党の祖となった元宗。元宗の支流が曽我氏で、元宗-恒永-恒信と続き、次代の祐家が相模国足柄郡曽我庄に土着して曽我大夫を称した。系図の信頼性は乏しいが、これが曽我氏の初代と伝わっている。
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  ※野与党: 武蔵国埼玉郡(現在の加須市付近)の野与庄を拠点にした武士団で、武蔵七党の一つ。
武蔵七党は 横山党・児玉党・猪俣党・村山党・野与党・丹党・西党を指す。
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祐家の子 祐信 は平家の武士として 大庭景親 の軍に加わり、頼朝石橋山合戦(別窓)を戦ったがその後の勢力逆転に伴って降伏し、敵対を許されて御家人に列している。
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相模国中部から西部を本拠にした曽我氏・中村氏・大庭氏らはいずれも桓武平氏の系統であり、同族として 伊東祐親 と交流があったのみならず「祐」の通字を使っていることから考えて血縁関係もあったと想像できる。河津三郎祐泰 の後家と二人の子供を河津に残さず曽我に送ったのは、将来の安穏を図ったのみならず相互に勢力を維持する打算が働いていた可能性は高い。

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左:駒ケ岳山頂に鎮座する箱根元宮  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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曽我兄弟の弟・筥王が稚児として預けられたのが箱根権現(現在の箱根神社)。
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神話に基づけば、天照大神の意思を受けて日向(宮崎)の高千穂峰に降った天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と、日本全国の山を統括する大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が婚姻し、彦火火出見尊神(ひこほほでみのみこと)が誕生した。
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瓊瓊杵尊は
霧島神宮 の祭神、木花咲耶姫命は 浅間神社 の祭神、彦火火出見尊神は 鹿児島神宮(共にwiki)の祭神で、箱根神社はこの三柱を祭神とする「箱根大神」。太古から箱根駒ケ岳の主峰 神山(1438m)を御神体とする山岳信仰が行われており、社伝に拠れば第五代考昭天皇(在位:紀元前475~393)の頃に聖占仙人が神山を神体として祀り、山岳信仰の霊場として定着した。
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天平宝宇元年(757)に至り、萬巻上人(万を越える経典を読破しマスターして修験道を極めた箱根権現の祖)が神山に三年間籠って修行した末に神託を受け、上記した三神を併せて山麓の現在の社地に里宮を創建したのが始まりである。
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この時から本地垂迹説(神仏習合思想の理論)に基づいて神と仏を同体として祀るようになった。元宮は駒ケ岳の山頂に、神山はロープウェイの大涌谷駅と駒ケ岳頂上駅の中間にあり、積雪期以外なら比較的楽なハイキングができる。コースの紹介(別窓)を参考に。

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右:富士宮の狩宿 井出の地図と曽我兄弟の足跡   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月28日 】
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子刻(深夜0時前後)、故 伊東次郎祐親法師の孫である 曽我十郎祐成 と同 五郎時致 が富士野の神野に設けた狩宿(地図)に推参し、左衛門尉 工藤祐経 を殺した。
また、祐経の宿舎に同宿していた備前国の住人で 吉備津宮(公式サイト)の王籐内も殺された。
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同宿していた遊女 手越の少将と黄瀬河の亀鶴らが泣き叫び、祐成兄弟が大声で父の敵を討ったと名乗ったため周辺は大騒ぎになった。子細が判らないままに宿泊していた多数の侍が飛び出して暗闇の中を走り回り、祐成兄弟によって多くの者が負傷した。平子野平右馬允・愛甲三郎・吉香小次郎・加藤太・海野小太郎・岡部彌三郎・原三郎・堀籐太・臼杵八郎が疵を負い、宇田五郎が落命した。
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十郎祐成は 新田忠常 と斬り合って落命、五郎時致は頼朝の宿舎を目指して走った。頼朝は剣を取り立ち向かおうとしたが、左近将監 大友(古庄)能直 が制した。この間に小舎人童の 五郎丸 が曽我五郎を捕獲し、大見小平次に召し預けられて騒ぎが鎮まった。和田義盛梶原景時 が頼朝の指示を受けて祐経の死骸を検分、左衛門尉藤原朝臣祐経、工藤瀧口祐継の息子である。
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兄弟がなぜ頼朝の宿舎を目指したのかは仇討事件の謎とされる部分で、五郎が供述した通り頼朝に積年の恨みを告げたかったのか、仇敵の祐経を寵臣として厚遇していた頼朝を討つ意思があったのか、また 北條時政 が兄弟を唆(そそのか)して頼朝暗殺を図ったと考える説もあって判然としない。
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いづれの理由があったにせよ弟の 五郎時致 は更に頼朝の狩宿を目指し、潤井川に沿った下り傾斜を突き進んだ。祐経の宿舎から狩宿までは約1400m、周辺はハイキングを楽しむ環境が整っている。昔に比べると人気の停滞が見られる白糸の滝から狩宿の跡までのんびりと歩いても一時間弱、兄弟の慰霊墓や遺品を収蔵していたと伝わる曽我八幡宮など、見所も点在している。
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   ※王籐内: 平家の家人瀬尾太郎兼保(備前国で 木曽義仲 軍と激戦を繰り返し討死)に与した嫌疑で拘留されていた武士で、吉備津宮の神官でもある。
祐経の証言で嫌疑が晴れ、去る20日に没収されていた本領の返還を得たため仮宿に立ち寄り謝礼を兼ねた酒宴の後に同宿していた。
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   ※黄瀬河の亀鶴: 沼津の黄瀬川には亀鶴の後日談が残っている。真偽は不明だが、黄瀬川の風景(別窓)の末尾に詳細を載せておいた。

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左:曽我の下屋敷跡と、兄弟の生母・満江御前の墓所  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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千葉山(せんようざん)法蓮寺は慶長十九年(1614)の創建で、大乗院日相大徳を開山和尚とする日蓮宗。元々は周辺の寺の多くと同じく天台宗だった。
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本堂北側の墓所には曽我祐信の継室として嫁した 満江(満劫、河津三郎 の寡婦)の墓石(自然石)があり、墓石の横には「管理者 別所字坊田 武藤家」の標柱がある。満劫が曽我に嫁した時に河津から同行して土着した従者が武藤と安池だったと伝わり、その末裔が墓守を続けているのだから、これが満劫の墓である信憑性は高い。
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河津の知人を介して両姓の存在を調べて貰ったところ、現存しないとの事。既に廃絶したか、或いは一族の全てが曽我に移住した可能性も考えられる。
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法蓮寺の300m北に別所公民館があり、皇国地誌残稿(明治中期に政府が編纂した地誌。関東大震災で大部分が焼失した残りの資料)には別所の字 防田(ぼうだ)に溜池と大屋敷(痕跡)があったと記録されており、その大屋敷が曽我氏下屋敷と推測され、現在の公民館がその位置に該当する。「曽我物語」に拠れば、兄弟はここで母親に涙の別れを告げ、形見の小袖を貰い受けて富士の裾野を目指したことになっている。敷地の横には大屋敷(祐信下屋敷の意味か)の前にあった溜池の岸に祀ってあった水神の碑が保存されている。

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右:音止めの滝から狩宿へ続く曽我兄弟の足跡  画像をクリック→ 詳細ページへ(別窓)
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【 曽我物語 巻四 箱王、曽我へ下りし事 】
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年月が過ぎて、箱王は17歳になった。ある日別当が箱王を呼び、「そろそろ上洛して受戒するべきなので垂髪のままではいけない、髪を下ろして行くべきだろう」と語った。箱王は内心は別にありながら「仰る通りに」と答えたので触れを出して出家の支度を整え、その旨を母にも知らせたのだが...
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しかし箱王は出家の前夜に箱根を抜け出して 曽我の里(別窓)に下った。乳母の家に入って兄の祐成を呼び出し色々と話し合い悩んだ結果、母や箱根権現別当の心には沿わないが、工藤祐経 への怨みは忘れがたいとして、夜明けを待って曽我を出発し、二騎で(烏帽子親である)北條時政邸を目指した。
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そして 北條時政 の援助を受け元服して 五郎時致 を名乗る(北條四郎時政が烏帽子親だから、五郎時致と)。兄弟の父 河津三郎祐泰 の姉が時政の先妻(宗時と政子と義時?の生母)だから比較的近い縁戚に当る。
相模には祖父 伊東祐親 の係累も多く、兄弟と曽我物語の登場人物の血縁関係は網の目のように交差している。

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下:歌舞伎や浮世絵の好材料だった曽我の仇討ち、歌川広重の浮世絵で。   画像をクリック→ 拡大表示

     
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    「祐経を討つ曽我兄弟」  「十郎祐成の討死」              「曽我十番斬りの図」           「五郎時致と鎌倉五郎丸」
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曽我物語に拠る「曽我十番斬り」とは...
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まず武蔵国の住人大楽の平右馬助が十郎祐成と斬り合って逃げ出すのを背中から肩口を切られ、二番目に横山党の愛甲三郎が五郎時致に左腕を斬り落とされ、三番目に駿河国の住人岡部弥三郎が十郎祐成に左手の中指など2本を落とされて逃げ、四番目に遠江国の住人原小次郎が斬られて退散、五番目に立ち向かった御所黒弥五が十郎祐成に小鬢を斬られて倒れ、六番目に伊勢国の住人加藤弥太郎が五郎時致の太刀を受けきれず二の腕を斬り落とされ、七番目に駿河国の住人船越八郎が十郎祐成に高股を斬られて退却、八番目に信濃国の住人海野小太郎行氏が五郎と渡り合い暫く戦った末に膝を割られて俯せに倒れ、九番目に伊豆国の住人宇田小四郎が十郎祐成と打ち合った末に首を落とされ27歳で死没、十番目に日向国の住人臼杵八郎が五郎時致と戦って正面に太刀を受けて死没...などなど。
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ちなみに、愛甲三郎(季隆) は12年後の元久二年(1205)6月の二俣川合戦で 畠山重忠 を得意の弓で射殺しているし(片腕で弓を引いたのか?)、海野小太郎行氏(幸氏) も弓の名手で、建暦三年(1213)5月の和田合戦や承久の乱(1221)にも参戦の記録が残っている。講釈師、見てきたような嘘をつき(笑)。
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折からの豪雨に加えて深夜の乱戦、曽我兄弟の方は武装を整えているが頼朝御家人の方は飲酒して寝込んだ醜態、同士討ちも含めて相当の死傷者が出たのが事実らしい。悪役の工藤祐経も文官に近い御家人で、吾妻鏡を読む限り「それほど肝の据わった人物」とは言えなかった。
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【吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月16日】 甲斐源氏の嫡流 一條忠頼暗殺に同席した工藤祐経を描いている。
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一條次郎忠頼> には権勢を高めて世を乱す意図が見えるため、頼朝 は彼の誅殺を決心した。忠頼を御所に招いて対座し、宿老の御家人も列席して献杯の儀が行われた。討手の役を担う 工藤祐経 が銚子を持って進み出たが、名だたる武将が相手なので逡巡し顔色が変った。
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それを見た 小山田有重 が座を立ち、「酌をするのは老人の役目」と言って銚子を取った。子息の 稲毛重成 と弟の 榛谷重朝 が酒肴を持って忠頼の前に進み出た。有重が「陪膳の故実はこのように...」と話して袴を膝下で括り、その時に 天野遠景 が忠頼の左から近付いて刺し殺した。
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頼朝は後の障子から奥に入った。忠頼供侍の新平太と甥の武藤與一と山村小太郎らは軒先から駆け登って斬り込み、大勢を負傷させた。
重成と重朝と 結城朝光 が新平太と與一を討ち取った。山村は遠景を狙ったが、遠景は俎板を投げつけて昏倒させ郎従が首を獲った。

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左:兄弟の継父・曽我祐信の供養塔(伝)と曽我の風景  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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曽我別所(地図)からみかん畑を縫って急傾斜で登る農道の高みに建つ、伝 曽我祐信 の供養塔。路駐のスペースはあるが、周辺の道が極端に狭いから六本松峠の空き地に車を停めて約700mの下り道をのんびりと歩く方が間違いない。
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供養塔(宝篋印塔)の保存状態は良好で、表面の装飾などは箱根や鎌倉に残っている宝篋印塔と比べると簡素で見劣りするが、この地域としては特筆できる。鎌倉時代の六本松峠は二宮地区や相模国府のあった大磯と曽我を結ぶ貴重な間道で、兄弟の兄 十郎祐成 が愛人の「大磯の遊女 虎」と歩いた痕跡(伝承)が残っているのも面白い。
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ちなみに徳治三年(1308)銘のある鎌倉 安養院(別窓)の宝篋印塔(335cm)は関東様式として最古、浄土宗名越派の開祖尊観上人の墓とされる。作者の心阿は 忍性 が率いた西大寺流の石工で、箱根精進池にある石仏群(別窓)の通称 多田満仲 の墓にも銘があり、類似性がある。安養院石塔の左奥は開基 北條政子 の供養塔だが、彼女の没年で 嘉禄元年(1225)の銘は追刻で、実際は室町時代の作と推定されている。
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本題に戻って...【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月29日 】
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辰刻(朝八時前後)に曽我五郎を狩宿前の庭に引き出し 頼朝 が出御した。幔幕二間を引き上げ、主だった御家人10数人が列座した。
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(中略)まず、狩野介宗茂 と新田荒次郎を介して夜討ちの本意を尋ねさせたが、五郎は「祖父 伊東祐親 が殺されてから子孫は零落したが、最後の所存を申し述べるのに汝らを介する必要はない。直接言上するから早く退け」と怒った。将軍家は思う所があって言い分を直接聞くことにした。
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五郎の曰く、「祐経を討ったのは父が殺された恨みを雪ぐためで、ついに志を遂げることができた。祐成が九歳で私(時致)が七歳の時から片時も仇討ちの思いを忘れず、遂に宿願を果たした。その後に御前を目指したのは祐経が寵臣であるのみならず、祖父の祐親を排斥した事などの恨みを言上してから自殺するためである。」と。聞いていた者は舌を鳴らして感動した。
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次に 新田四郎忠常 が祐成の首を運んで五郎に見せ、兄に間違いないと認めた。五郎の勇気に感動した頼朝は赦免も考えたが、祐経の幼息(犬房丸・後に伊東家を継いだ 祐時)が泣いて願い出たため五郎(20歳)を引き渡し、鎮西中太郎なる者が首を斬った。
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この兄弟は 河津三郎祐泰(祐親法師の嫡子)の息子である。祐泰は去る安元二年(1176)10月の頃に伊豆奥野の狩場で郎党の矢に当り落命した。祐成が五歳で時致が三歳、成人して祐経の指示だったと知り恨みを晴らした。狩りを催す度に従者の中に紛れ込み、まるで影のように祐経の隙を覗っていた、と。
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また、手越の少将らを召し出して前夜の子細を尋ねた。祐成兄弟の所為であり、見聞したことを全て申し述べた。

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※感動: 一所懸命(wiki)が物語るように、当時の御家人や土豪階級は農地の既得権維持が最優先で、利害を無視した曽我兄弟の行動は常識から外れている。
東国武士の大部分が平家の支配体制に組み込まれ利害関係を共有していたのに平家が零落したら平然と頼朝に寝返ったし、親兄弟を頼朝勢に討たれても降伏して御家人に列した武士の方が遥かに多い。時代を超えて共有する倫理観などない...と思うと少し寂しい気もするけど。

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右:曽我五郎時致を捕らえた御所五郎丸の墓  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月28日 】
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子の刻(深夜12時頃)に、故 伊東次郎祐親法師 の孫である 曽我十郎祐成五郎時致 が富士の狩宿で 工藤祐経 を殺害した。備前国の住人吉備津宮神官の王籐内も討ち取られた。王籐内は平家の家臣である瀬尾兼保に与した疑いで留置されていた者である。去る20日に祐経の証言で本領を安堵され帰国の途に着いたが、祐経の好意に謝するため途中で引き返し、酒を呑み歓談して同宿して殺害された。 ~ 中略 ~ 
この間に小舎人童の五郎丸が曽我五郎を捕獲し、大見小平次に召し預けられて騒ぎが鎮まった。
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最も古い曽我物語の真名本(まなぼん)や吾妻鏡に書かれた五郎丸に関する記述はこれだけだが、異本の殆どは 「女の着物を羽織り油断させた五郎丸が後から組み付いて」 と書いている。更には 「女装した事は武士にあるまじき卑劣な行為とされ甲斐に流された」、と。これは明らかに後世軍記物語の脚色だが...
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南アルプス市の野牛島(やごしま)には「鎌倉御所 五郎丸の墓」と彼の護持仏 観音菩薩像(実際には地蔵菩薩らしい)を祀った観音堂が建っている。江戸期の書物「扁額規範」には 「五郎丸は京都比叡山の稚児だった、師匠の仇を殺して都を離れ 一條忠頼 を頼って甘利荘(現在の韮崎)に住んだが、忠頼が頼朝に殺されたためその後は頼朝に仕えた。75人力の猛者」、としている。
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という経緯で、流された場所が昔の主人一条忠頼の本領だった現在の南アルプス市・野牛島。歌舞伎や浮世絵の「曽我もの」に欠かせない脇役・五郎丸はここに土着して一生を送ったと伝わる。面白いことには横浜市西区の御所山町にも五郎丸を供養した五輪塔があり、伝承では 「曽我兄弟に祐経の宿舎を教えて仇討ちに協力したのが御所五郎丸だ」、としている。一条忠頼謀殺には祐経も関係しているけど、話が酷く支離滅裂でダイナミックになってるなぁ...。

左:富士市内に残る曽我兄弟の事跡  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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曽我寺(鷹岳山福泉寺、地図)の宗派は曹洞宗、曽我兄弟の墓所・菩提寺として名高い。兄弟が仇討ちを成し遂げた井出の狩宿から15kmほど南、JR身延線の入山瀬から300mほどに位置する。すぐ裏手を流れる凡夫川は1kmほど南西で仇討ち現場の井出から流れ下って来た潤井川と合流する。
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凡夫川の対岸で兄弟の供養をしていた福泉寺が元の姿で、600年ほど前の南北朝時代に発生した大洪水で流失した後に現在地に再建された。天明(1781~1788)の頃に曽我寺と改名し現在に至っている。
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流失以前の位置は明らかではないが、500mほど上流の低地で小さな河川が合流する付近、「五郎の首洗い井戸」と伝わる場所に近い辺りかと想像される。ここが五郎斬首の場所だと伝わっているから、菩提寺もその近くだったと考えられる。
現在の凡夫川西岸にある一乗寺(日蓮宗)付近かと想像するのだが、いずれ曽我寺で聞いてみようと思っている。当時の記憶か伝承が伝わっているかどうか。
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曽我寺の寺伝に拠れば兄弟の遺骸は鷹岡の地で荼毘に付され、一周忌法要を箱根権現で済ませた後に養父の曽我祐信・生母の満江と叔父の 三浦義澄(父 河津三郎の妹の夫)と 和田義盛(遠い従兄弟) の手で鷹岡に埋葬されたという。凡夫川の下流、現在のJR身延線入山瀬駅南に鷹岡の地名(地図)が残っている。ただし、別説として二人の首は鄭重に清めた後に宇佐美禅師が曽我へ持ち帰って埋葬した、とも言われている。.
また、時代は不明なのだが、曽我祐信の館跡から若い男性の骨を納めた骨壷(もちろん兄弟の遺骨である確証なない)が見付かり、それを曽我の城前寺にある土塁に埋葬したという話もあるから、どちらをどこまで鵜呑みにして良いのか判断は出来かねる。

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右:信濃善光寺の近くにある虎ヶ塚。これも真偽は不明...   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 6月18日 】
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曽我十郎祐成 の愛人 大磯の虎は剃髪はせず墨染の袈裟を着している。祐成三七日の忌日を迎えて箱根山の別当行實の坊で法事を営み、仮名文字の諷誦文(死者を追善する文)を奉じた。読経の布施は生前に祐成が与えた葦毛の馬一疋。今日出家を遂げ信濃国 善光寺(公式サイト)に向かった
このときの虎女は19歳、のちに曽我兄弟の話を聞いた者は緇素(僧も俗人も)の誰もが涙を流した。
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  ※別当行實: 石橋山で敗れた頼朝を匿った箱根権現の僧。頼朝は 土肥實平 から「世が落ち着いたら行實を箱根の別当に」
と薦められ、その約束を守った。治承四年(1180)8月24日の条を参照。
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  ※善光寺に: 吾妻鏡に記述があって「虎が塚」もあるから、彼女(大磯の虎)の行動は史実と考えて良い。
ただし、工藤祐経と同宿していた遊女の「手越の少将」か「黄瀬河の亀鶴」が祐経の菩提を弔うため虎女に同行したとか、彼女も自殺したとか、信濃に同行したのは生母の 満劫 だとか、週刊誌並みの情報が飛び交っていた、と。煩わしい話だ。
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  ※仇討ちの話: 吾妻鏡が編纂された頃(1290年以後)には事件の詳細は全国に広がっていたはず。「この時の虎女は..」の先は史料の転記ではなく物語の作者が
時代の世相を斟酌して追記したものだろう。虎女が語った兄弟の生涯は箱根権現の僧や布教の遊行僧や瞽女などの口伝により全国に広まるのだが、これは鎌倉時代の後期以後を待つ必要がある。

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左:越後の国上寺で修行中の末弟・禅司房の自殺  画像をクリック→ 国上寺の詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 6月1日 】  左は国上寺の五合庵(良寛修業の地)。
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曽我十郎祐成 の愛人大磯の遊女(名は虎)を呼び出して調べたが、特に罪に問うような疑いはなかった。
五郎には父の 河津祐泰 が死んだ5日後に生まれた弟がおり、九郎祐清(祐泰の弟)の妻が養育していた。
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平家軍に加わった祐清が北陸道の合戦で討死した後に妻は幼児を連れて武蔵守 平賀義信 に再嫁し、武蔵国府に居住している。祐経の妻子が曾我兄弟と共謀の疑惑を訴えたため、出頭を命じた。
兄弟の養父 曾我太郎祐信 は連座に問われるのを酷く恐れていたが共謀の事実なしと判明した。
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曽我兄弟の姿に感動した頼朝は曽我祐信に対して御家人としての義務を免除し、更に曽我荘の年貢も免除して兄弟の菩提を弔う費用にせよ、と命じている。祐信と満劫の夫婦は家督を嫡男の小太郎祐綱に譲って隠居したと伝わっている。兄弟を養子として迎えながら元服の費用さえケチった祐信にも多少の罪を問うべきだと思うね。
なお禅司房は鎌倉から約350km離れた越後の国上寺(現在の燕市)で修業中なので鎌倉到着は一ヶ月後の7月2日になる。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 7月2日 】
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武蔵守 平賀義信 が呼び出した養子の僧(僧位は律師)が昨夜鎌倉に到着した。彼は 曽我十郎祐成 の弟で、日頃は越後国久我窮山(現在の 国上寺、公式サイト)で修行していたため到着が遅れたのだが、斬首に処されるとの噂を聞き甘縄の付近で念仏を唱えた末に自殺してしまった。梶原景時 がこの旨を報告し、頼朝はこの結果を悔やんだ。元より斬首の意図などなく、ただ兄と同じ意志を持っていたか否かを確認しようと考えたに過ぎなかったのに。
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  ※ 律師: 律令制に基づいて定めた僧尼の官位。上から列記すると下記の通り。
法印大和尚位(大僧正 ・ 僧正 ・ 権僧正)、法眼和尚位(大僧都 ・権大僧都 ・少僧都 ・権少僧都)、法橋上人位(大律師 ・ 律師 ・ 権律師)

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右: 曽我兄弟の墓 (伝承) もある、箱根 精進池の石仏群  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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延暦二十一年(802)に富士山が噴火し流れ出した熔岩や土砂が足柄道(現在のJR御殿場線に近いルート)を塞いだ。一説にはそれ程大きな被害ではなかったとも言われるが、いずれにしても官道は鎌倉幕府の将軍頼朝が二所詣の順路と定めた湯坂道に変更になった。
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  ※二所詣: 当初は挙兵前に仏法の講義を受けていた 走湯権現(伊豆山神社) と、緒戦の石橋山で惨敗した後に匿って
貰った 箱根権現 の順に廻る文字通りのニ所だったが、最初の催行の際に伊豆山を目指す途中の石橋山で合戦の苦しさを思い出した頼朝が落涙したため、先達の意見に従って箱根→ 走湯に変更。更に挙兵の成功を祈って奉幣した三嶋大明神(各、別窓)を加えて実質的に三社となった。当初は宗教的な趣が強かったが、その後は主従も神社側も飲食遊興を楽しむ旅に変貌している。
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駒ケ岳(1356m)と上二上山(1091m)に挟まれた精進池北側の鞍部(874m)は箱根駅伝でも知られた国道1号の最高地点で、当時の湯坂道でも最大の難所だった。特に精進池の周辺には冬の厳しい寒さに加えて箱根火山群噴火の痕跡を含む荒涼たる風景が広がり、京都から鎌倉を目指して箱根を越える旅人は地獄の入口や賽の河原の有様を連想したのだろう。
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鎌倉時代が半ばを過ぎた頃になると、地獄に堕ちる罪人をも救済する地蔵菩薩信仰の隆盛と共に、地蔵講で縁を結んだ民衆が極楽浄土への救済を願って次々と磨崖仏や石塔を寄進した。それが精進池の周辺に石造物群が並ぶ最初となり、鎌倉を極楽、精進池を地獄に重ね合わせる風習が定着した。以前は全体に荒廃していたが近年になって復旧保存の努力が実り、今では静かなハイキングコースが続いている。
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この石造物群は鎌倉幕府と律宗の高僧 忍性 の関係を抜きにして考える事は出来ない。幕府の安定期である建長四年(1252年・五代執権時頼の頃)、忍性は律宗布教のため奈良西大寺から関東に下り、その際に率いた石工集団の大蔵派(宋から渡来した石工の子孫・伊派の流れを汲む)は鎌倉で様々な石工・土木作業に携わった。律宗集団は土木・建築・教育・福祉・医療などを幕府に委託され、律宗の布教活動と並行てして行政の仕事を代行した専門家は集団、と考えられている。
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   ※律宗: 仏教の戒律を極め、その実践を目的とする宗派。 中国で東晋代(317~420年)に戒律の詳細が翻訳され、唐代(618年~)に南山律宗の開祖 道宣が
成立させた。 後に 鑑真(wiki)が日本に伝えて南都(奈良)を中心とする日本仏教の一つとなった。
戒律と戒壇および関連する宗派の争いについては、下野国庁跡と下野国分寺 (別窓)の後段に概略を載せておいた。

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左:兄弟の異父姉が建てた二宮・知足寺の墓所  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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中村荘から吾妻山を隔てた南東の二宮郷を継承したのが 中村宗平 四男の四郎友平で、この所領は嫡男の二宮朝忠(友忠とも)へと継承した。宗平の長女は大住郡(現在の平塚市岡崎)の 岡崎義實三浦義明の弟)に嫁して 佐奈田与一義忠 を産み、次女は 伊東祐親 に嫁して 河津三郎祐泰(曽我兄弟の父)を産んだ。
二宮友平の館跡と伝わる知足寺に 曽我兄弟 の供養墓がある所以は何か...
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河津祐泰室(つまり曽我兄弟の生母)の 満江御前狩野茂光 の四男 狩野親光(狩野介)の三女。最初は伊豆目代の源仲成(頼政の嫡男 仲綱 の乳母子)に嫁して一男一女を産み、後に離縁して(経緯は「人名辞典」満劫の項で)河津祐泰に再嫁した。
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最初の夫との間に産まれた娘が成長して二宮朝忠に嫁し、朝忠の没後に吾妻山東麓の館を寺に改め花月院とした。彼女は剃髪して花月尼を名乗り、異父弟である曽我兄弟と夫・朝忠の菩提を弔ったのが縁起である。
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ちなみに、彼女の兄弟は 範頼 に仕えた源信俊(別名を京の小次郎)、謀反冤罪事件に連座して頼朝の追討を受け殺されている。建久四年(1193)8月20日の吾妻鏡を参照されたし。
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二宮郷から当時の鎌倉街道(山道)を西へ進むと3kmほどで六本松峠、ここから更に西に下ると曽我兄弟が育った曽我郷に至る。同じ母から産まれた姉と弟が至近に住みながら異なった道を辿り、若くして没した異父兄弟を残った姉が弔った...これもまた運命か。花月院知足寺は浄土宗の総本山 知恩院(公式サイト)の末寺で鎌倉時代末期には衰退したが、室町時代の亨録年間(1528~1531)に然誉恵公(人物の詳細は不明)が復興して現在に至る。


 その九 再び伊東へ、曽我物語の原点を更に遡って 

 


伊東市街地と主な史跡の位置(画像をクリック→ 拡大表示)。

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左:松川(伊東大川)の河口から上流をのぞむ。  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊東漁港の横から曽我物語の一シーンにもなった頼朝と八重姫が愛を語った音無の森まで、松川に沿って静かな遊歩道が500mほど続いている。松川上流は清流と呼べるレベルだが河口付近はヘドロが堆積してかなり汚いのが少し残念。犬を泳がせると川底が掻き回されて黒雲の様にヘドロが浮き上がってくる。
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松川右岸 (上流に向かって左側) の石畳を辿って上流に足を伸ばせば、伊東家の守護神社だった葛見(久須美)神社や 伊東祐親 の嫡男 河津三郎 を葬った現在の伊東家菩提寺 東林寺、鎌倉時代の初期まで伊東氏の菩提寺として繁栄した「東光寺の跡」(下記、東林寺の中段に記載)などがあり、平安時代末期の歴史を辿るルートとしても人気が高い。
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個人的には、祐親の時代までの本拠は東光寺周辺で、伊東氏の嫡流が二男の 九郎祐清 を最後に途絶えた後は 工藤祐経 の遺児 祐時 が伊東氏を継承すると共に本拠を仏現寺(市役所に隣接)近くに移した、と推測される。祐経が殺された際に、残された曽我兄弟の弟 五郎時致の死罪を願った少年 犬房丸が後の祐時である。
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遊歩道に沿って、若き日の 頼朝八重姫 のデートスポットだった音無神社や頼朝が日暮れまで八重姫を待ったと伝わる日暮神社、頼朝と彼女の間に産まれた初の愛児 千鶴丸 を弔って八重姫が建立した最誓寺(旧名を西成寺)などが点在する。
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季節には早咲きの桜も楽しめるし、伊東出身の才人 木下杢太郎 の描いたレリーフや 室生犀星(共にwiki)の詩碑なども点在している。河口の左側には市営の有料P、右側の観光会館別館の裏には伊東漁港に沿って無料の駐車場(ここはかなり混むのが難点)も備わっている。

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右:開発領主としての伊東氏を守護した葛見神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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葛見神社の主祭神は葛見神。大国主命の息子である事代主命、あるいはその一族とも言われるが詳細は良く判らない。元々の土地の神と狩野(工藤)一族の守護神が融合したのだろう、と思う。
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相殿には狩野祐隆(祐親 および 工藤祐経 の祖父)が京の伏見稲荷から勧請した倉稲魂命(穀物を司る神・稲荷神)を祀っている。江戸末期の地誌・豆州志稿には「古楠木の下に稲荷の神あり」と載っており、伊東一族の始祖である工藤(狩野)祐隆が崇敬した例に倣って全国の伊東氏末裔にも稲荷神を祀るケースが多、らしい。
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祐隆は中伊豆の狩野川流域の本領を四男 茂光 に継承させて東海岸に移住し、伊東を中心とした東海岸一帯を開発して領有した。本拠の近くに社殿を整備して葛見神社とし、東光寺(既に廃寺)を創建して菩提所を兼ねた別当寺とした。この時点で一族菩提寺としての東光寺+守護神社としての葛見神社+本拠の邸宅がこの谷津の入口周辺に建ち並び、伊東氏の聖地が完成した。
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そして月日は興亡を重ね...伊東氏の移封などで最大の檀家を失った東光寺が江戸時代中期に廃寺になり、その後の明治維新までは 河津三郎祐泰 を葬った東林寺が葛見神社別当寺を兼ねた菩提寺として続いたのだが、東林寺もまた廃仏毀釈運動を伴った神仏判然令の影響を受けて廃寺となった。その後は当時の別当僧が還俗して朝日氏を名乗り、代々の世襲神官として現在に至っているという。東林寺は暫くして再建されたが、それまでの伊東氏累代の墓石は八重姫の縁を頼って取り敢えず西成寺(現在の最誓寺)に移され、東光寺→ 東林寺→ 最誓寺を転々とした移動によって墓石の多くが失われてしまった。

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右:伊東家の菩提寺として興亡を繰り返した東林寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊豆半島中央部の狩野川沿いから移住した伊東一族の始祖・工藤維職が本拠を置いたと伝わるのが「本郷」の一帯、伊東の領有権を継承した 伊東祐時 が本拠とした現在の竹の内(「館の内」の転化)から南側の台地を西に迂回し、かつては清流だった本郷川(今はコンクリートに囲まれたドブ川)を溯った奥が葛見神社と東林寺。北に向かって口を開いた谷の入口である(一帯の鳥瞰図)。
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東林寺は後に復興したが、現在の住宅密集地にあった東光寺は無住になったまま廃墟と化した。葛見神社の北西150mほどにある本郷公園から更に北西の月決め駐車場一帯が東光廃寺跡とされている。
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最盛期には一族の菩提寺としての東光寺と祐泰供養の寺としての東林寺と一族の守護神として葛見神社、この三つが一体となった神仏習合の霊地だったと思う。東光寺の痕跡でも現存すれば素晴らしいのだが...。
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松川の近くには馬場町の地名があり、実際に歩いてみると山裾を少し迂回した谷あいに伊東氏累代の氏寺があった位置関係は違和感なしに理解できる。祐時が現在の竹之内地区(市役所北の山裾、旧・館之内)に本拠を移す前、曽祖父・工藤維職または祖父・狩野祐隆が伊東に土着し、祐親が全盛期の繁栄を享受した拠点だった。
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東林寺本堂の一角には伊東一族のコーナーが設けられ、初代の祐隆 ・ 祐親三郎祐泰 ・曽我兄弟の 十郎祐成五郎時致工藤祐経 の位牌、八重姫千鶴丸 の小さな木像などが祀られている。境内左手の小山頂上には河津三郎祐泰の墓所と曽我兄弟の慰霊墓があり、本郷川の谷を隔てて東側の入道坂を登った高台には鎌倉で自刃した祐親の墓所(後日に建てた慰霊墓の可能性が高い)、更に足を伸ばせば箱物行政の権化みたいな市役所の建つ物見ヶ丘に至る。

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左:伊東祐親の墓所と、物見ヶ丘に立つ祐親騎馬像  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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複数の横顔を見せながら動乱の平安時代末期を生きた武将である。工藤祐経が相続する筈だった伊豆半島東部を強奪し、その恨みから嫡男の 祐泰 を殺されて結果的に曽我の仇討ちを招いた人物。伊豆半島では抜群の軍事力を持ち、娘婿として頼朝に味方していれば覇権を握る可能性さえあった武将、伊東祐親。
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曽我兄弟北條政子の祖父 北條時政三浦義澄佐原義連 など相模の実力者にとっての舅であり、流人時代の 頼朝 が愛した最初の妻 八重姫の父であり、若き日の頼朝と親しかった 伊東九郎祐清 の父であり、平重盛に仕えて滅びゆく平家に殉じた忠臣、でもあった。同じ平家傍流として平家に仕えながら、同族の主人を見捨てて敵方の源氏に与した時政と、絵に描いたような「一所懸命」を貫いた祐親...頼朝を縦糸にして、横糸となった時政と祐親が全く違った二つの生き方を見せていたのだが、仇討ちの顛末を描いた「曽我物語」が祐親=強欲な悪人として描いているのも面白い。
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【 曽我物語 伊東が斬らるる事 】
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さても不忠を振舞ひし伊東の入道は、生捕られて聟の三浦介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして召し出だし、よろいすると言ふ所にて首をはねられける。最後の十念にも及ばず西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領伊東と河津の方を見遣りて執心深げに思ひ遣るこそ、無慙なれ。
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  ※よろいする: ここの「鎧摺」は「鐙摺(あぶずり)」の間違い。葉山港東の旗立山(地図)を差す。 麓との標高差は 20mにも満たず、頼朝が三浦を周遊した際に
騎馬で登った小山が馬の鐙(あぶみ)を摺るほど急峻だったため名前が付いた。曽我物語の編者は愚かにも元本の「鐙(あぶみ)」を「鎧(よろい)」と誤読して「よろいする」と書いてしまった。ベースは漢文の元本か別の書物か不明、山頂近くに祐親の供養墓と伝わる質素な五輪塔がある。

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左:頼朝が愛人の八重姫を「ひぐらし」待った、日暮神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊豆に流された 頼朝 が源氏再興を夢見て暮らしていた、との話はかなり疑わしいようで...。
曽我物語は、この時代の頼朝の姿を次のように描いている。
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【 頼朝が伊藤(伊東)に滞在していた時のこと 】
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兵衛佐殿(頼朝)は「伊東と北條の優劣は付け難い」と考えたが結果として北條は繁栄し伊東は断絶した。詳しく述べれば、頼朝は13歳で伊豆に流されてこの二人を頼りに年月を送っていた。
伊東次郎(祐親)には四人の娘があり、一の娘は相模国の住人 三浦介義澄 の妻、二の娘は 工藤祐経 に嫁したのを離縁させて 土肥弥太郎遠平 に再嫁させ、三と四の娘は未婚のまま手元に置いていた。
中でも三の娘は美女の噂が高く、頼朝は忍び逢いを繰り返し褥を交わした末に若君が産まれ 千鶴御前 と名付けて溺愛した。十五になったら秩父や足利の人々や三浦・鎌倉・小山・宇都宮などと相談し、平家に願い出て私と共に処遇して貰おうと考えた。
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永暦元年(1160)に父の 義朝 に従って挙兵した平治の乱で敗れ伊豆に流されてから7年、21歳の頼朝は伊豆の土豪 祐親 の庇護を受け、あろう事か祐親が大番役で京都駐在中に娘の八重姫に手を出して男児(千鶴丸)を産ませた。打倒平家どころか安穏な生活が頼朝の本音だったと曽我物語は書いている。当時の頼朝が住んでいたのは庇護者の祐親が建ててくれた「北の小御所」で、その位置など詳細はこのページの 冒頭近く に記載してある。
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そもそもの流刑地だった伊豆蛭島を管理していた 北條時政 の舅が祐親だった関係から、伊東での頼朝の生活を補佐する任を委ねられたのだろう。当時の頼朝が八重姫を待っていた「ひぐらしの森」の面影は既に失われ、今では小さな神社が残っているだけ(地図)。
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この時の伊東祐親は3年間の大番役(京都守護の兵役)に従事しており、帰ってきた時には孫に当る千鶴丸は3歳(数え年)だったと言うから、祐親が留守になった途端に娘に手を出した計算になる。後に韮山に戻って 時政の娘 を口説き落とした時も父親の時政は大番役...どうも頼朝さんには父親が留守の娘に手を出す傾向があるらしい。頼朝は満年齢22歳前後、その頃の自分が何をしてたか考えたら 頼朝の態度があ~だ こ~だなんて言えないけど、ね(笑)。

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右:頼朝と八重姫のデートスポット、音無神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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音無神社では毎年11月10日に 尻つみ祭り (市のサイト)が催される。全国各地にある暗闇祭りの一種で、灯火を全て消し暗闇の中で神事が行われる。隣席にお神酒の盃を渡すときには暗くて見えないので尻をつまんで合図する、それが「尻つみ」の語源とされている。神聖であるべき神事が下品な観光イベントに化しているのが少し寂しい。
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祭神は豊玉姫命(神武天皇の祖母)。この近くで急に産気づき産殿に入った時に「吾が生まむとするを見る事なかれ」と言ったと伝わる、実に紀元前750年頃の神話である。「豊玉姫命の従者たちは灯を消し息を殺して音を立てずに出産を待ち、体を触れ合って意思を通わせた」とか。出産が無事に済んだことから安産を祈る信仰が生まれ、出産後には安産の御礼として「底の抜けた柄杓」を納める習慣が定着した。
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  ※豊玉姫命: 古事記と日本書紀には出産・呪術・異民族との交流に関する記述がある。 wikiを参考に。
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八重姫 とのデートの時に 頼朝「川の音がうるさいなあ」 と言ったら暫く音が止んだ、だから音無神社と。いずれにしろ、永暦元年(1160)3月に13歳で伊豆に流された頼朝が仁安二年(1167)に20歳で伊豆東海岸に移り、伊東祐親の庇護下にありながら娘に手を出して23歳の承安元年(1170)に子を産ませた、と曽我物語が伝える。若い二人が愛を交した場所だったらしい(満年齢に換算)。江戸時代に発行された「伊東誌」は暗闇祭りに関して次のように記載している。
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村内はすべて音曲を停止する静かなる祭りで、当夜は近郷近在の未婚の男女が灯を持たないで大勢参詣する。境内の木陰で交わる男女も多数見られるが、昔からの習慣なので当然の事と思われている。ただし中級の格式以上の家の娘は親が許さないため参詣するのは身分の低い家の娘だけ、誠に珍しい祭りである。

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左:祖父の祐親に殺された千鶴丸、所縁の鎌田神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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さて...頼朝 が満26または27歳の承安三年(1173)、三年間の大番役を終えて伊東に戻った 祐親 は、屋敷の庭で乳母に抱かれて遊ぶ見知らぬ幼児の姿を見た。曽我物語は悲劇の始まりを次のように伝えている。
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祐親は「お前は誰か」と問いかけたが幼児は返事もせずに逃げ隠れた。不思議に思って部屋に入り、「三歳ほどの子供が庭で遊んでおり「誰か」と聞いても答えず逃げ去った。あれは何者か」と妻(八重姫の生母ではなく後妻)に尋ねた。
彼女は得たりとばかりに「あなたの上洛中、私が諌めるのも聞かずに姫君が産んだ公達、あなたにとっては目出度い孫御前ですよ」と言いつのった。
祐親が「父親の知らぬ婿などあるものか、相手は何者だ」と怒鳴ると、かねて八重姫を妬んでいた後妻は喜んで「あなたを頼って滞在している流人、兵衛佐(頼朝)の若君」と嘲笑った。
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祐親は更に怒り「乞食や非人の方がマシだ、源氏の流人を婿にして平家に咎められたら飛んでもない事になる」と郎党を呼び、「松川の奥へ連れて行き、轟ヶ淵で柴漬け(柴で包んで縛り水没)にして殺せ」と命令した。
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郎党は松川沿いを歩いて轟ヶ淵を目指し、途中で泣き出した千鶴丸をあやすため火牟須比神社(鎌田神社)の社殿前にあった橘の枝を握らせて先を急いだ。
祐親邸と仮定した葛見神社近くから蒲田神社を経て轟ヶ淵(現在は通称を稚児ヶ淵)までの 古道のルート地図 を参考に。約4kmの散策が楽しめる。

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右:伊東松川の上流 稚児ヶ淵、別名を轟ヶ淵  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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鎌田神社から南伊東の市街地を背にして500mほど進むと八代田トンネル(昭和60年(1985)開通)に至る。旧道は松川に沿って右に迂回し、300m先の八代田橋でトンネルを抜けてきた新道に合流する。この分岐点が奥野から大見を経て修禅寺に至る街道と、荻地区を経て大室山方面に向かう古道の「岐れ道」である。
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この先の旧道は橋の手前を右へ登り、稚児ヶ渕を経て松川ダム(奥野ダム)近くで再び新道に合流する旧・修禅寺街道。「奥野の巻き狩り」の舞台となったダム湖の流れ込み部分(標高140m)から蒲田神社(標高20m)jまでの約4kmは松川の上・中流域では最も高低差が大きく、城山の山裾が落ち込む谷もかなり深い(約4kmで120mの高低差)。稚児ヶ渕は舗装道路から荒れた細道を20mほど下る。
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稚児ヶ渕を過ぎた修善寺街道は中伊豆バイパス(2008年から無料開放)に合流して奥野の山並みを越え、中伊豆の大見に下る。850年の昔に関東と伊豆と駿河の武者を集めて巻き狩りが行われた一帯であり、頼朝 が伊東と北條を往来した旧道(奥野道)のルートにも近い。八代田橋の西側から城山に登るハイキングルートもあり、20年も前にかなり荒れた山道を登ったことがあった。再び通るような道ではないから、撮影した画像が行方不明になったのが少し悔やまれる。

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左:千鶴丸の死骸は松川を流れ下って富戸の浜へ  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 良くできた伝承だと思うが...富戸の浜辺に残る産着岩の碑文 】
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永暦元年(1160)伊豆に流された 源頼朝 伊東祐親 の三女 八重姫 と人目を忍ぶ仲となり男子が生まれた。 千鶴丸 と名付けたが平家管領である祐親は「 清盛 に知られては一大事」と千鶴丸を八重姫から奪い、郎党に命じ伊東八代田の川で千鶴丸の腰に石を付け沈めて殺した(後に稚児渕と云う)。
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沈められた千鶴丸の腰の石がとれて川を下り海に出て富戸の海岸に着き、釣をしていた甚之右衛門が見付け引揚げると高価な着物を身につけており、これは高貴な御子であると丁重に扱い遺体をこの石の上に安置し着物を乾かして懇ろに葬った。
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これによりこの石を産衣石と云うようになった。千鶴丸は若宮八幡の氏神として、ここの三島神社の御祭神三島大明神の相殿として祀られ、御例祭には鹿島踊りが奉納され村人の平穏無事と五殻豊穣大漁が祈願される。三島大明神と共に二年に一度神興の渡御があり、御旅所として此の石に据え暫時の御休憩をし、千鶴丸にも祈りが捧げられる。
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又甚之右衛門は千鶴丸がにぎっていた橘の枝が余りにも見ごとであったのでこれを三島神社の社殿の前に挿した処、千鶴丸の怨念で根付いたが数年にして枯れたので同じ物を植えたのが現在に至り毎年香り高い花を咲かせ当時を偲ばせてくれる。千鶴丸が握っていた橘は千鶴丸が稚児渕に連れて行かれる途中の鎌田神社境内にあった香り高い橘の枝をせめてもの慰めにと家来が持たせたと云う。
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後にこれを知った頼朝は甚之右衛門を呼び出して賞賛の言葉と生川(うぶかわ)の姓と立派な茶器を授与されたと云う。生川(うぶかわ)の姓は今では生川(なまかわ)と云う屋号で、甚之右衛門の生家は現在の三好伍郎家である。       平成七年十二月吉日 富戸城ヶ崎観光会

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右:伊東新井の広誓寺 千鶴丸の生存伝説  画像をクリック→ 拡大表示
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誰々が実は生きていた、そんな伝説が頻繁に残っているのが歴史物語の通例、この事件で  千鶴丸 の命を救ったのは  武蔵国長井荘(別窓)の別当を務めていた 斎藤実盛 の息子・五郎と六郎だった、と伝わる。
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保元の乱(1156年)で源氏が惨敗して以後の長井荘を所有していたのは 平宗盛、頼朝や伊東氏と直接の接点を持っていない筈の五郎と六郎が、ましてや父の本領を離れて登場する理由は不明なのだが...熱海の伊豆山神社近くに別当寺だった 密厳院の跡(別窓)とされる墓石群の中に「実盛の墓」と伝わる巨大な五輪塔がある事を考えると、私の知識では判らない何らかの関わりがあった、のかも知れない。
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要するに、五郎と六郎は伊東祐親 の指示を受けて計画的に千鶴丸を奥州和賀郡を本拠とした和賀氏に預け、養子として処遇された千鶴丸は息子の代になってから和賀氏の跡を相続した、という流れらしい。
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父親の頼朝は幕府の樹立後に生存を知って優遇したとか。でも祐親が合意の上で逃がしたのに、父親と母親は何も知らなかったのは不思議だ。また和賀氏の由来に関しては頼朝御家人の中条義勝(横山党の武士で本領は長井荘に隣接)や 和田義盛 の名前まで出てくるから眉唾だろう。そういえば妻の実家の栃木県佐野市には 木曽義仲 の嫡男 清水義高 佐野綱基 の元で生き延びた云々の話もあったっけ。
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誰々が実は生きていた...との話は非常に多いが99%は捏造だ。真剣に受け取る側にも問題あり、かも知れない。

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左:祐親は頼朝に討手を向けたのはフェイクか? 真実か?  画像をクリック→ 拡大表示
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【 曽我物語 頼朝 伊東を出で給ふ事 】
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伊東祐親頼朝 を夜討ちにするべく郎党を集めた。
ここで祐親の二男である 九郎祐清 が急遽頼朝が住む小御所に参上して「親ではありますが祐親は狂気に取り憑かれた如くあなたを討ち取ろうとしています。急いで逃れる方がよろしいでしょう」と申し出た。
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頼朝はこれを聞いて「親が討手を向けるのを子が知らせるとは合点がいかぬ」と怪しみ、「逃げる道もなく自害もできない、名もない郎党の手に懸かるよりは汝が首を取って父の祐親に見せよ」と答えた。祐清は「御疑いは当然ですが、もしも嘘なら二所大明神の神罰を受け御前で命を落とすでしょう」と訴えた。
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頼朝は大いに喜んで「そこまでの志ならば言葉に従おう、良い様にはからえ」と命じた。祐清は「(側近の) 藤九郎盛長 と弥三郎成綱は暫く小御所に控えさせ、あなたは大鹿毛(馬)に乗り鬼武(下人)だけ連れて逃げられよ、私は討手を少しでも引き延ばします」と答えて御前を退いた。
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 ※弥三郎成綱:「綱」は宇都宮氏の通字、弥三郎は 頼綱の通名だが誕生は承安二年(1172)、承安三年(1173)の事件には
登場できない。可能性は保元元年(1156)誕生の父・成綱(業綱)だが証拠はない、残念。
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ここで曽我物語の記述に大きな疑問が現れる。左上の地図(クリック→ 拡大表示)に落とし込んだ伊東館の位置は概ね確実だが、北の小御所は推定。祐親が当主だった頃の館が葛見神社近くの本郷公園近辺だったのは既に定説だし、頼朝の「北の小御所」が伊東館を基点にして「北」にあったのも多分間違いない(推定位置は2km弱)。これより近くては祐清の通報が間に合わないし、平家を憚った祐親が館の至近距離に源氏の直系男子を置くのも考えにくい。となると...
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北の小御所から北條に逃げるには修禅寺街道で鎌田~稚児ヶ淵~奥野~大見を経由する。敢えて伊東館近くを通って討手と鉢合わせする危険を冒し、更に奥野にある城山にある砦(哨所)の直下を通る危険を覚悟せねばならない。これは常識的にあり得ず、北條ではなく伊豆山権現に逃げたと考えるのが妥当となる。
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また吾妻鏡の養和二年(1182)2月15日の伊東祐親自刃の条にも以下の記載がある。ここは、曽我物語の負け!
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頼朝が伊豆に住んだ安元元年の9月に祐親が討手を向け頼朝を殺そうとしたが、祐清の急報があったため辛うじて伊豆山へと逃がれられた、その功績を忘れなかったのだが、祐清の孝心はこんな結果になってしまった。  吾妻鏡 原文は下記
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武衛御座豆州之時者 安元々年九月之此 祐親法師欲奉誅武衛 九郎聞此事潜告申間 武衛逃走湯山給 不忘其功給之處 有孝之志如此 云々

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 その拾 頼朝は伊東を脱出、伊豆山を経て北條へ逃げる。 
 

右:宇佐美から網代の津へ、頼朝の伊東脱出ルート   画像をクリック→詳細にリンク
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   【 曽我物語 頼朝 北條へ出で給ふ事 】
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こうして8月の下旬、頼朝 は密かに伊東を脱出した。露の降りた草葉を吹き抜ける風の音が寂しく野辺の虫の声も哀れである。月も出ていない闇夜を何処とも知らず道を変え田畑を伝い草を分け、「南無八幡大菩薩、この乱世に源氏の正統として生まれた私に、栄華を開き家を再興し敵を倒す力を与え給え」と祈りつつ無事に 北條四郎時政 の元に到着し、彼を頼って年月を過ごす事となった。
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伊豆山へ逃げた傍証として、伊東から熱海伊豆山まで頼朝の足跡とされる伝承や資料が点在しているのが面白い。現在の国道135号はほぼ海岸線に近い崖の上を走っているが、宇佐美と熱海を結ぶ東浦古道は内陸部の峠を越え、現在の別荘地を経由してJR網代駅近くに下るルートだった。
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頼朝主従は比波預天神社の先から本道の東浦路を避けて東に入り山道を長谷観音方向へ下ったと考えられる。海岸線にも多少の頼朝伝説が残っており、昭和の末までは網代駅近くに「頼朝笠懸けの松」が残っていた(既に痕跡なし)、という。宇佐美からスタートして頼朝の足跡を辿ってみよう。
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【 ところで 八重姫 はどうなったの? と言うと...】
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伊東および中伊豆一帯の伝承では、事の顛末に怒った祐親は八重姫を無理やり再婚させた、しかもその相手は 北條義時(当時は江間小四郎、推定で10~11歳)。八重姫は若く見積もっても17~18歳程度でかなり年の差婚だけど、男の通い婚がメインの当時としては有り得ない話ではない。
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また江間小四郎は全くの別人で、後に覇権を握った頼朝に追討された、とも。詳細は「鎌倉時代を歩く 弐」の「弐・頼朝と政子の出会い」に載せてあるが、少し鬱屈した暗い性格のイメージがある義時が早婚の妻を異様な事件で失ったトラウマを抱えていた...そう考えるのも週刊誌みたいで面白い。

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左:宇佐美氏発祥の地・城山と累代の墓所  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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宇佐美氏の初代 祐茂 は工藤祐継の息子で 工藤祐経 の実弟とされているが、宇佐美氏の系図は大見氏と相当部分の錯綜・混在が見られ、祐茂以後の構成は全面的な信頼を置き難い。
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祐茂は祐経と同様に古くから頼朝の御家人として活動しており、伊東祐親とは一線を画していた気配が見られるのも 源頼朝 の逃亡ルートを援助したと考えても違和感はない。結局、伊豆の国で最後まで平家と運命を共にしたのは祐親一人だけで、既得権を守るために主家である平氏を見捨てた例が多かった。
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伊東 つまり葛見(久須美)荘が松川の氾濫に悩まされたのと同様に宇佐美は再三の津波被害を受けており、その度に流失した一族の墓石類は回収して城山の南中腹に集めて保存されていた。
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また、城山を開発してマンションなどを建設する計画が以前からあり、戦前には頂上に一高(東大の母体)の寮があったため、鎌倉時代の遺構などは全く確認できない。国道135号が北側の山と峯続きだった岬部分を開削する形で横切っており、古い時代の山城の姿は失われている。
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烏川沿いに建つ石碑の横から舗装された駐車場に登るとすぐ上は国道135号、草むらを左へ下ると斜面を切り取った平場に五輪塔が並ぶ伝・宇佐美氏累代の墓所に突き当たる。その先にはもう道はなく、雑草と潅木に覆われた急な斜面だけ。ずっと以前にここから強引に直登して擦り剥き傷だらけになったが、頂上には100m四方ほどの平地の隅に小さな祠があるだけで案内の表示もない、知る人ぞ知る...雰囲気で来るのは物好きだけらしいのも少し悲しい。

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右:宇佐美城山の麓、 行蓮寺に残る津波の痕跡  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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記録によれば、関東大震災に伴って伊豆東海岸を襲った津波の高さと津波による死者は、高さ12mだった熱海で88人・高さ8mだった伊東で95人・寄せ波の高さ6mだった鎌倉で約300人(推定)。家屋流失が伊東で294戸、宇佐美で111戸だったが高さ7mの宇佐美は一人の死者も出さなかった。
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これは元禄地震(1730年)の津波で多くの死者を出した教訓による、と伝わっている。実は寛永小田原地震(1633)の津波の場合は強い引き波で始まり、暫く過ぎてから津波が襲ってきた。元禄地震(1703)の際は「今回も同じだろう」と考えて対応が遅れ、380人もの死者を出した。その経験から「地震→ すぐ高台へ」が徹底していたらしい。
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更に住民の転入・転出が比較的多い温泉地の熱海や伊東と違って漁業と農業従事者が大部分だった宇佐美では、親から子や孫に津波の恐ろしさと対処法を伝える意識が徹底していた部分も特筆される。
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太平洋戦争によって数百万の同胞を無為に死なせた日本人が戦争の悲惨さを語り伝える努力を怠り、ジャーナリストさえ右傾化の危険や一強体制が招く不条理を指摘しなくなった。愚かな人間は一世代の寿命+アルファ、つまり概ね100年周期で愚行を繰り返す、という事か。
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せめて、平安時代の貞観地震(869年)、鎌倉時代の宝治地震(1247年)・室町時代の明応地震(1498年)・江戸時代の慶長三陸地震(1611年)・寛永小田原地震(1633)・宝永地震(1707年)・明治三陸地震(1869年)・関東大震災(1923年)など、南海トラフが50~200年周期で巨大な地震を引き起こしてきた事実は頭に刻んでおこう。

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左:宇佐美最古の神社と、東浦古道の頼朝逃走ルート  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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源頼朝 が伊東を脱出したのは安元元年の9月、翌二年の10月に 伊東祐親 は相模と伊豆と駿河の豪族多数を招待し、奥野で壮大な巻き狩りを開催した。開催のメイン・テーマは「流人頼朝の接待」だから、どうも判断に苦しむ。愛児を殺され妻(八重姫)を奪われた頼朝に遺恨がなかったとは言えないし、少なくとも祐親とは円満な関係ではなかった筈なのに。
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遺恨は遺恨、利害関係とは無関係の事件と割り切っているのだろうか。河津に帰る途中の八幡野で 河津三郎 が遠矢で殺されたのは間違いなく奥野の巻き狩り(安元二年(1176年)10月)の直後だし、吾妻鏡の治承四年(1180)10月19日には以下の記載があるから、事件が起きた年に間違いない。
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去る承安三年(1173)に祐親が頼朝に討手を向け、祐親二男の 祐清(吾妻鏡では祐泰)が急を知らせて難を逃れた。その功績に報いる恩賞として呼び出したが、祐清は「父の祐親は既に罪人である。その子が恩賞を受ける謂れはない」として釈放を願い、平家軍に加わるべく上洛した。信義を重んじる美談である。
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祐清は平家軍と共に 倶利伽羅峠の合戦(別窓)で義仲軍に敗れ、都に撤退する途中の加賀篠原の合戦で戦死したと思われる。斎藤別当実盛俣野五郎景久 など、落日の平家を見捨てて源氏に味方する如き生き方を潔しとしなかった東国武士たちも運命を共にしている。
まぁそれは兎も角として、この時点の 宇佐美祐茂工藤祐経 と共に頼朝に臣従し祐親とは距離を置いていたから、頼朝の逃走に便宜を図ったのだろう。
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ちなみに、比波預神社祭神の加理波夜須多祁比波預命はこの浜辺に上陸した際に<「なんと美しい砂浜だろうか」と感動した神話から「うさみ」と呼ぶようになった、そうな。下田の白浜や爪木崎ほどではないが、熱海や網代の海に比べると宇佐美海岸の砂は白っぽく、海は美しい青色を保っている。

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右:東光廃寺跡か? 伝・宇佐美祐茂の墓とも。  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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宇佐美一族の本家である駿河工藤氏が伊豆中央部に進出して狩野氏を名乗り、狩野氏の一部が伊豆東海岸を開拓して伊東氏を名乗り、本拠の近くに一族の菩提寺として東光寺(既に廃寺)を建立した。東光寺を称する寺院は多いが、血を分けた同族が隣接した所領に同名の寺を建てたのだから、これは偶然とは考えられない。同じ先祖を祀ったと考えるべきだろう( 地図)。
現在は無住で、永平寺の末寺・円應寺(500mほど南)が管理しているから、多分曹洞宗。
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津波で散逸した宇佐美一族の墓石を回収して祀ったとされているが、一説には東光寺の創建は室町時代の長享三年(1489)、伊豆守護職となった宇佐美祐孝が戦死した子の菩提を弔って建立した、とも。足利幕府八代将軍義政が三代義満の建てた舎利殿(金閣寺)に倣って銀閣寺を建てた前後である。
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祐孝は宇佐美初代・祐茂から8代後(祐茂-祐政-祐泰-祐明-祐清-祐辻-祐茂-祐時-祐孝、と続く)の傍流に当る。この中にある祐泰・祐明・祐清・祐茂・祐時の名は伊東氏系図の中で重複しており、宇佐美氏を含む伊東一族の通字である「祐」もここまで長く続くと種切れになる、らしい。残念ながらこの墓所と宇佐美氏との接点は不明で、墓石だけが宇佐美一族との関係を匂わせる、という事。
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いずれの日にか、管理を担っている円應寺で尋ねてみたいと思うけれど、たぶん判らないだろうね。

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左:行基伝説の残る熱海網代の長谷観音  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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網代長谷観音では「 行基 が海岸の流木から三体の仏像を彫った、奈良・鎌倉・網代に残る観音像は一体」と伝えるが、この「一木同体の像」説は(悲しいことに)大和の 長谷寺 と鎌倉の 長谷寺(共に公式サイト)の双方が否定しているから捏造らしい。まぁ 安倍晋三の嘘(田原総一朗の寄稿)に比べたら罪は軽いが。
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網代の善修院開山・大祝和尚が大永元年(1521)に開いた観音堂が原型で、海の安全を祈る漁民の観音信仰と行基伝説が結合した、或いは大祝和尚が強引に結びつけた、と考えられる。
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伊東から伊豆山へ逃げた 頼朝宇佐美郷(別窓)を経て山を越えて通ったのも、曽我物語による 「臼月道(樵夫の道)を辿り」 までは正しいだろうが「根拵道(長谷観音への参詣道)を下った」の部分は単純に「網代の津(別窓)に下る道を選んだ」と判断する方が自然だろう。(東浦古道を参照)。もちろん、その時点で行基伝説に無関係の観音信仰が網代にあった可能性までは否定できない。
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網代は古来から漁業を含む港として繁栄し経済的に豊かな地域だったため、熱海市との合併(昭和32年)の際にも反対意見が多かったと伝わる。ちなみに、明治22年(1889)に熱海村・伊豆山村・泉村(湯河原iに隣接)・初島村が合併して熱海村になり、昭和12年(1937)には多賀村と合併して熱海市となった。長谷寺は伊豆八十八ヶ所霊場の第26番札所で、境内には石仏や寛政三年(1791)の刻銘がある供養塔などが散在する。

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右:網代小忠太家信の館跡 南熱海の朝日山と教安寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 曽我物語に拠れば...】
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安元二年(1176)、伊豆東海岸の所領に関わる相続争いが原因で同族の 伊東祐親工藤祐経 が激しく争った。伊東と河津を実力で占拠した祐親を怨んだ祐経の指図により、郎党の 大見小藤太成家 と八幡三郎行氏が河津へ向う祐親一行を伊豆赤沢で襲撃、祐親を狙って 椎の木三本(別窓)から放った遠矢が同行していた祐親の嫡男 河津三郎祐泰 を殺してしまう。これが歌舞伎などで名高い「曽我の仇討ち」の発端である。
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祐泰を弔った祐親は次男の 祐清 に80騎を与えて二人が逃げ込んだ大見郷を襲撃した。八幡三郎は踏み止まって奮戦した後に衆寡敵せず自刃、小藤太成家は狩野領の境まで逃げたのを捕えて首を刎ねた。
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二人の首級は伊東で待つ祐親が首実検を済ませた後に大見に送り届けさせたが、この使者を命じられたのが網代小忠太家信である。大見の 最勝院(別窓)に葬ったと伝わるが、現在の最勝院は天文元年(1433)の中興だから、これは最勝院の前身か又は何かの記録違いだろう。
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この事件から一年前の安元々年には頼朝も網代を通っている。祐親が大番役(朝廷守護の兵役・三年間)で伊東を離れていた時、頼朝は四女の八重姫と懇ろになり千鶴丸を産ませた。曽我物語には「千鶴丸は数え年三歳で殺された」とあるから誕生は1173年、頼朝23歳前後の恋である。
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京から戻った祐親は平家の思惑を憚って千鶴丸を殺し、頼朝の住む 北の小御所(推定場所、)に討手を向けた。親しかった祐清の通報で危機を知った頼朝は辛うじて宇佐美に逃れ、阿多美郷(熱海)へ通じる本街道の網代峠を避けて海沿いの臼月道(樵夫の道)から根拵道(長谷観音の参詣道)を下って網代の津へ逃げた。ここから小舟で対岸の 赤根崎 へ、再び山越えで 頼朝一杯水 の残る梅の木沢から阿多美郷へ。その途中にあった小祠(現在の 今宮神社、共に別窓)で武運を祈り、そして蛭ヶ小島にいた頃から縁が深く学問の師でもあった僧・覚淵の房がある 伊豆山権現 に逃げ込んで庇護を受けた。(項目名は全て別窓)
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網代小忠太家信のその後の消息は不明。祐親が滅び行く平家に殉じたように家信も祐親に従って行動したのなら、石橋山合戦で祐親が率いた300騎の中に加わっていたのかも知れないし、頼朝の御家人となった祐親の同族 宇佐美祐茂 の指揮下に入って転戦した可能性も残る。
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    蛇足...網代家信が石橋山合戦にも加わった頼朝挙兵当初からの家臣とする説もあるが 小中太(中原)光家 との混同で、全くの別人。

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左:国道135号に沿って並ぶ網代の干物店  画像をクリック→ 網代漁港から見た赤根崎へ
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網代漁港は漁協が運営する魚市場を挟んで東西に分かれている。私、JR網代駅の裏手約800mの山沿いに、2020年の秋まで20年間も住んでいたんだよ、懐かしい!
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東側は昔ながらの港町で狭い道路に漁師の家が立ち並び、昔は汚らしい佇まいだったが漁港の整備が進むに従って観光客も気軽に散策できるようになった。灯台のある防波堤周辺が絶好の釣りポイントになっており、休日には竿が並んでいる。
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魚市場に隣接した西側(JR網代駅側)は釣り船の停泊場所で国道には干物の売店が並び、近くにはコンビニもある。こちらにも駐車場完備、漁協直営の売店や「海の釣り堀」などが観光客向けのスポットになっている。すぐ沖には定置網や大型の生簀もあり、市場と情報交換しながら伊東や小田原に水揚げしたり生簀に入れて相場を確かめたりしているらしい。
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数年前までは市場で扱わないレベルの半端な量の魚を売る軽トラの親父がいて結構楽しい買い物(例えば20cmほどのカマスが10匹で300円とか、目刺しにするような小イワシがビニール袋一杯で100円とか)ができたのだが、いつの間にか見えなくなってしまった。こちらに転入した頃には自家製の干物を作っていた妻も最近では完全に飽きて、スーパーでの購入がメインとなった。沼津あたりでは海外で加工した干物をメインに扱っているが網代では今でも大部分が地物らしい。

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右:阿多美郷近くでホッと一息、頼朝一杯水       画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伊東祐親 の討手を逃れた 頼朝 主従は 宇佐美(別窓)から 網代の津 へ下り、小舟をチャーターして 赤根崎 へ、従者の先導に従って赤根崎から梅の木沢の険しい山道を登り一休みした、と伝わっている。
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尾根筋にあった湧水は長い晴天で渇れていたが、座り込んだ頼朝の太刀の鞘が当たった部分に微かな湿気が...急いで掘った場所から清水が湧き出してきた。今に伝わる「頼朝の一杯水」である。
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かつては網代の津と阿多美郷(現在の熱海)を結ぶ本街道が通っていたらしいが、その真偽は判らない。現在の海沿いルート(国道135号)は錦浦の横を通って断崖絶壁とトンネルが続く難路だから、平安末期の本道は山を越える 東浦道 の痕跡も宇佐美~網代までは確認できるが、網代~熱海は幾つかのスポット以外は既に不明。「頼朝ライン」と近かった可能性はある。
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今も一杯水が湧き出している苑地は樹木が茂る急傾斜の窪地だが、すぐ横の小さな山に登るとやや展望が広がり眼の下に相模湾と初島が見える。谷を挟んで南側には古くから拓けた自然郷の別荘地。
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JR伊豆多賀駅から近いの長浜海岸は整備が進み、休憩施設や広い駐車場を備えた 長浜海浜公園 になった。噂では伊東の道の駅 マリンタウン(別窓)に対抗して「道の駅」の登録申請をするとかしないとか、そんな動きもあったらしい。

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左:逃げる頼朝は一杯水から阿多美郷(熱海)へ  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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若い日の 頼朝伊東祐親 の討手を避け、宇佐美長谷観音網代赤根崎→ 梅の木沢を経て伊豆山権現→ へ逃げる途中の「一杯水」で喉の渇きを癒した。ここまで来ればもう大丈夫、山を下った頼朝は麓に楠の大木を見つけ、その下の小さな祠に参拝して武運を祈った。
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この名残が今宮神社(祭神は事代主神と大国主神)で、由来は不明だが仁徳天皇(在位:313~399年)の頃の創建と伝わり、背後の山の中腹を走る「頼朝ライン」沿いには史蹟「頼朝一杯水」が残っている(地図)。
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今宮神社本殿の裏手に聳える楠は樹齢4~500年程度だが...平安末期に大木だった楠が ひこばえ(参考・外部リンク)として命をつないできた、そう思うことにしよう。
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今宮神社が建つ和田地区は熱海温泉街の南寄りを流れる和田川の流域で、阿多見聖範の孫の時方が聖範の本拠伊豆山から阿多見の和田に移って和田四郎大夫を名乗り、時方の子・時家の代になって韮山の北條に移り地名の北條を姓にした、と伝わる。時政以前の北條氏系図は捏造が多くて信頼できないが、頼朝と北條が思わぬ場所で接していた可能性はある。

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右:千鶴丸と頼朝を失った八重姫のその後は?  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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ここで「曽我物語」は複雑な成り行きを簡単に記述している。
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祐親は 北の御方をも取り返し、同じき国の住人江間の小四郎にめ合はせけり。名残惜しかりつる衾の下を出で給ひて、思はぬ新枕、かなしく袖に移り変はりし御涙、さこそと思ひ遣られたり。是も、祐親が、平家へ恐れ奉ると思へども、・・・(中略)・・・さて佐殿(頼朝)、北の御方(八重姫)を取り奉りし江間の小四郎も打たれけり。跡を北条の四郎時政に賜はり、さてこそ江間の小四郎とも申しけれ。(下線部分が良く判らん!)
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念のため、部分的に別の段から補填して現代語に置き換えると...
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祐親は北の御方(八重姫)を拘束し、同じ伊豆の住人である江間小四郎に再嫁させた。哀れ八重姫は頼朝と過ごした名残惜しい褥(ベッド、ね)を離れて涙ながらに新しい夫を迎えた。 ・・・(中略)・・・
やがて関東を平定した頼朝は江間小四郎を滅ぼし、彼の所領と江間小四郎の名を北條四郎時政に与えた。
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江間は韮山から狩野川を挟んだ西側地区(地図)で、言わずと知れた北條義時(江間四郎、江間小四郎)の若年時代からの本領である。この記述と伊豆に残る伝承などから、祐親は義時を婿として(通い婚)処遇したとの話が成り立ってくる。数え年三歳の 千鶴丸 を失った八重姫は推定20歳前後で長寛元年(1163)生まれの義時は満12歳前後、相当の無理スジではあるが(婚姻に関しては)絶対に有り得ぬ筋書きではない。
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取り敢えず、この話を鵜呑みにして物語を展開させると...八重姫は夫の義時に懇願して千鶴丸の菩提を弔うため、頼朝と愛を重ねた音無の森に西成寺(西方浄土で成仏しておくれ、の意味ね。後に最誓寺と改称)を建立。そして治承四年(1180)の頼朝挙兵の直前に夫の義時を捨てて北條館の頼朝の元に走り、政子に冷たく拒絶されて入水自殺...凄惨な結末になる。「その弐」で詳細を述べてある通り、義時は17~18歳頃に妻の八重が頼朝の元に奔った末に死んだ、そのトラウマがやや粘着質で暗い性格の原点になった...と考えられない事もない、かな? 個人的には、「やがて関東を平定した云々...」以下を除いて信用している。

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 その拾壱 伊東一族と日蓮にかかわる史蹟を。 

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左:日蓮法難の地 俎岩山(そがんさん)蓮着寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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弘長元年(1261)5月12日、辻説法などで幕府への批判を繰り返した 日蓮 は伊豆国伊東に流刑となった。いわゆる「伊豆法難」だが、日蓮がこの事件に触れたのは「報恩抄」の一行のみ。建治二年(1276)に55歳で滞在中の身延山(久遠寺、公式サイト)で口述筆記し、安房国 清澄寺公式サイトの弟子に送った、謂わば回想録である。
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    ※報恩抄 去る弘長元年5月12日に(六代執権 北條長時)の勘気を受け伊豆国伊東に流された。
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実際には建長六年(1254)から鎌倉での布教を始めていたのだが既存の宗派(念仏宗・時宗・律宗・禅宗など)との軋轢が大きくなったため幕府も無視できなくなっていた。ただし吾妻鏡にも他の資料にも関連する記載は皆無に近く、日蓮伝説の大部分は各宗派が長い年月を費やして膨大な伝説を作り上げた、その一端である。
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日蓮が類希な影響力とカリスマ性を備えていたのは事実だろうが、極論すれば教祖と詐欺師は紙一重。一線を越えて失敗すれば麻原彰晃になるし、時流に乗って組織を拡大し権力に癒着と手を握れば創価学会になる。ここで正義と倫理を守れば更に高みを目指せるのに、権力の味を覚えて堕落するのが世の常なんだね。
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蛇足...各地に点在する「日蓮聖蹟」を法華宗(日蓮宗)の各宗派が共通して認めている訳ではないのが面白い。
特定の宗派に属する寺が「聖蹟」と認定されると、「聖蹟ではない」と言い出す宗派が現れて自分たちこそが唯一無二の真実だと主張する。政治の世界と宗教の世界なら金欲と色欲と権力欲、更に愚かさと醜さまで(笑)口先三寸で手に入る。こんな職業、滅多にないだろう。
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何の理念も持たず、「奥さん 今回は大変なのよ、投票お願いね」を繰り返す学会婦人部の女たちを眺めて笑ってやろう。
宗教者が憲法の解釈変更・海外派兵・カジノ招致に賛成し、嘘と隠蔽に全面協力する姿を眺めて、仏罰を受けるよう祈ってやろう。

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右:地頭の伊東一族と日蓮に所縁の海光山佛現寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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立正安国論の建白が原因で伊豆に流された 日蓮 に帰依した地頭の伊東八郎左衛門朝高が邸内の毘沙門堂を住居として提供したのが起源と伝わる、日蓮聖蹟のひとつである。
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寺宝として日蓮自筆の曼陀羅(真贋ついては疑わしい)、海中出現釈迦立像(これは寺伝の内容が次項の佛光寺と重複する)、訳の判らない 天狗の詫証文(wikiによる紹介)などがある。
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日蓮の流罪、救出の経緯、海から現れた釈迦仏、日蓮の草庵など寺伝の殆どが隣接する海上山佛光寺(伝・伊東の地頭館跡)と重複しているのが面白い。日蓮が去った後は祖師堂を置いて宗祖を祀ったが明治初期に焼失、昭和27年に再建した。日蓮が暮らした草庵の跡を宗門の聖地として寺にしたのが佛現寺、との経緯になる。「海から光る仏像が現れた」、何とも簡潔で風情のない山号と寺名である。
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ちなみに、日蓮は政治に法華経の教えを導入する事を求め続け、幕府と結託した既存宗教(念仏宗・時宗・禅宗)による弾圧を受け挫折の中で世を去る(享年60)。その影響もあって「政治権力との癒着を避けよ」が遺訓の一つなのだが...公明党候補者を応援して「奥さん 今回は大変なのよ、投票お願いね」を繰り返す無知な女たちは、「法華経による魂の救済」が法華宗の本質だなんて、知らないのだろうね、たぶん。
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伊東に流された日蓮を拘束し管理(むしろ帰依して保護した、と表現する方が正しい)したのが当時の地頭である伊東祐光(祐高とも)、曽我兄弟に討たれた 工藤祐経 を継いだ嫡男 祐時 (幼名を犬房丸)の六男で、一族の子孫で最も繁栄したとされる日向伊東家の祖である。

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左:地頭の伊東氏の館跡と伝わる海上山佛光寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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佛現寺の裏手に日蓮幽閉の痕跡があるのは佛現寺の項で詳細を述べたが、当時の地頭邸は多分佛現寺の山裾から佛光寺に至るエリアにあったと推定されている。佛光寺もまた海から拾い上げた光る仏像を起源としているのだが、かなり詳細に状況を記録しているのが面白い。
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また文永九年(1272)に勃発した 二月騒動(wiki)の際に 北條時宗 が政敵の 北條(名越)時章 を粛清した際に討手となった一人が伊東朝光で、その際に受けた傷の後遺症で没した、と寺伝が記録している。
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関東御教書などの遺文によれば、時宗は御内人(北條得宗家の陪臣)に時章殺害を命じ、実行後には「時章誤殺に関わった御内人5人の斬首」を指示しており、伊東祐光(祐高)がその中の一人だった可能性はある。
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寳治元年(1247)6月の寳治合戦で当主の 泰村 が率いる三浦一族が滅亡したのを最後に北條家に敵対する有力な御家人は皆無となった。以後の北條氏は、主として得宗家(嫡流)と傍流が主導権を巡って殺し合うことになる。それだけなら単純な抗争だが、将来の政敵になる可能性を持つ自分の兄弟まで抹殺しようとするから始末が悪い。
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代々執権の中で最も熾烈な粛清を繰り返したのが五代執権 時頼 と八代執権の 時宗。 時宗の評価は「元寇から日本を守った英雄」が一般的だが、現在では問答無用の無思慮な対応で文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の元寇を招いた、との否定的な見方が定着しつつある。その結果、和平の可能性を無視した独裁が内政の停滞を招き、幕府と北條氏の滅亡を早める導火線になった、と。

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右:川奈の舩守山蓮慶寺 伝・弥三郎屋敷跡  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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北朝鮮の国策ビデオを見るまでもなく、独裁国家では隣席の「同志」たちより少しでも強く拍手し、喜びに溢れた表情で首長の業績を称える事が出世に繋がり、生き残りを保証して粛清を免れる重要な要素となる。
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野蛮な後進国家なら嘲笑して済ませるのも可能だが、文明国家の日本でも(宗教の世界も政治の世界も)より強いインパクトを与える挿話を作り上げる例が結構多い。
そのうち幼少時代の安倍晋三が如何に優れた頭脳を持っていたか、証明する輩が現れるかも知れない(笑)。
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「日蓮を伊豆流罪に処した」、それだけの史実から「日蓮を一ヶ月以上も匿って保護した漁師の一族」まで現れ、更にそれが「聖蹟」になるんだから...信仰ってほんとに無敵だね。
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しかし...宗祖の日蓮が権力との癒着を再三戒めていたにも拘らず、まるで 安倍に残飯を投げて貰う駄犬のごとく卑屈な態度で右傾化と国家予算の浪費を黙認し続ける創価学会と公明党の腐敗が理解できない。
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数百万の同胞を死に追いやった大戦の経験から「平和を目指す」と定めたのが池田大作の理念じゃなかったのか...なぜ自衛隊の海外派兵まで支持するようになったのか。連立を組むって、宗教者が理想を放棄するほどの価値があるのだろうか。

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