流人頼朝が蛭島付近に定住したのは多分 5~6年間、ひょっとするともっと短かったかも知れない。
17~18歳前後には伊東に移って伊豆最大の勢力を有する平家の豪族
伊東祐親 の庇護 (監視) 下に入ったと思われる。
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また、頼朝の乳母の一人で流人時代の頼朝を物心両面で支えていた
比企の尼 に縁がある函南の
高源寺 (別窓) 周辺にも短期間ながら住んでいたとする説もあるが、これは既に伝承だけの情報する手段はない。
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律令制度下の流刑者は現地で一年間の労役に従事し、翌年からは一定面積の土地を与えられて納税義務を負うのが原則だが、平安時代末期までその規則が生きていたか否かは判らない。身分の上下や親類縁者による援助の有無や財力による待遇差は全ての時代を通じて存在するのが当り前だ。頼朝挙兵の血祭りに挙げられた山木判官
平兼隆 も、都での乱暴狼藉の末に父親に訴えられた挙句に伊豆遠流となった人物である。流人の身分にも関わらず平家一門の権威を利用して目代 (代官) を称していた、そんな例さえもある。
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いずれにしろ頼朝も流人ではあったが伊豆には源氏の縁者も多く、当時の国守が源氏の長老
三位頼政 (後にその嫡子
仲綱 が継承) だった経緯もあり、比較的自由な生活をしていたらしい。乳母の比企の尼が娘婿の
安達盛長 を通じて衣食の便宜を図り、愛妾 亀の前
※による内助もあった。
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※亀の前: 吾妻鏡には「良橋入道の娘で伊豆流人時代からの愛人」とあるが素性も以後の消息も不明。良橋入道とは誰か、幾ら探しても判らない。
頼朝は鎌倉入り後も彼女を呼び寄せており、ちょうど
政子 が
頼家 を出産する直前で、週刊誌に載るような「男女関係の修羅場」を引き起こしてしまう。
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【 吾妻鏡 養和二年 (1182) 6月1日 】 もちろん頼朝が鎌倉に入り、東国を平定し掌握してからの事件。
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頼朝は寵愛の妾女亀前を小坪の 中原小中太光家 宅に住まわせた。外聞を憚ったと共に、浜に出掛ける際に立ち寄れる便宜を考えたためである。
彼女は良橋太郎入道の娘で伊豆流人時代からの関係である。容貌が優しいのみならず心も柔和な女性でこの春先から寵愛が一段と深まっていた。 .
出産後の政子が亀の前の住居を打ち壊した件と事後対応に追われる惨めな将軍の姿については、稿を改めて述べようと思う。吾妻鏡の編纂者が初代将軍の醜聞を殊更に記載した理由は好意からか悪意からか、ジャーナリスト精神 (笑) の発露か、少し気になる部分ではある。
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京都の
神護寺 (公式サイト) には頼朝絵像の他に
平重盛 と藤原光能 (平安末期の公卿で正三位、参議) の絵像も保存しているが、諸説があって真贋は明らかではない。寺伝では平安末期の画家で歌人だった正四位下の藤原隆信 (1142~1205、
藤原定家 の異腹の兄) だが近年の研究では否定され、1205年以後の作とされている。隆信の父は従五位上で歌人の藤原為経 (後に
法然 に帰依して出家し寂超を名乗る) 。
神護寺絵像の詳細 (Wiki) を参考に。個人的にはこの絵像=頼朝説を支持したいけれど、頼朝説と足利直義説の双方とも決定的な証拠はなく、所有者の意向もあって簡単には科学的な調査も出来ないらしい。
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頼朝の容貌についての軍記物語の描写は
「年齢よりも大人っぽい」 (平治物語) 、
「顔が大きく美しい容貌」 (源平盛衰記) 、
「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語分明なり」 (平家物語) だが、いずれの資料も (少なくとも) 50年以上が過ぎた時代の伝聞だから、全面的な信頼は置けない。
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頼朝が上洛した際に面談した
九条兼実 は日記
玉葉 (Wiki) に
「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」 と記載している。
大山祇神社(別窓)に奉納した甲冑で判断すると身長は 165cm前後、当時の平均よりもやや大柄だった。
第二十九代欽明天皇 (在位:539~571年)の十三年 (552年) 、百済の二十六代君主 聖明王が金銅の釈迦像と経典を蘇我稲目 (→ 馬子→
蝦夷→
入鹿と続く渡来系の大臣) に贈った。これが公式の仏教伝来
※とされるが、仏像や仏典を伴わない単に宗教としての伝来は更に時代を遡ると考えられている。
仏像を贈られた欽明天皇は 「渡来の神を崇めるリスク」 を案じて処遇を臣下に問うたが結論が出ず、稲目 (娘 2人が天皇妃) に命じて仏像を拝んでみるように命じた。
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稲目は仏像を小墾田の家
※に安置して (向原の家を清めて、とも) 寺とし崇拝した。しかし疫病が流行して多数の死者が出たため、廃仏派の大連 (大臣と並ぶ最高官) の物部尾興や神官の中臣鎌子 (後の藤原鎌足) らは仏教崇拝による祟りと考えて天皇に進言し、許可を得て仏像を難波の堀江
※に捨てて寺を焼いた。すると突然天皇の宮殿である磯城島の金刺宮(桜井市金屋、向原の寺から北東 5km) でも火災が発生したという。
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※小墾田の家: 明日香村の雷丘近くにあった推古女帝の小墾田宮 (おはりだのみや) 跡付近と伝わっている。稲目の私邸だろうか。
豊浦宮 (とゆらのみや) で即位した推古女帝の新居が小墾田宮とされる。共に下の地図を参考に。
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※仏教の伝来: 正確な年代は未確定。二十八代宣化天皇 (在位:536~539年 ) の三年 (538年) 説が有力だが、明日香で新しい史料が見付かるかも。
私は明日香村の甘樫丘麓にキャンピングカーを停めて二日間歩き回ったけれど、少なくともあと二日は必要だった。
かなり駆け足で散策した記録は
こちら (別窓)、いつか見落とした部分を撮影しに行こうと思う。
豊浦宮→ 豊浦寺→ 向原寺と呼称が変遷している
地図) 。境内の難波池が昔日の「難波の堀江」と推定され、もし「寺を焼いて仏像を池に捨てた」のが事実なら伝説との辻褄は合う。
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それと別に「難波の堀江」は十六代仁徳天皇 (在位:313~399年) が治水や物流の目的で難波に造った水路で大阪にある三ヶ所の推定地 (三津寺、天満橋、高麗橋などの付近) のどれかと考える説もある。
推古天皇の八年 (600年) 、難波の堀江に沈んでいた阿弥陀如来は偶然 (商用だろう) 通りかかった信州麻績里 (現在の飯田市座光寺) の住人 本多善光が掬い上げて (別の伝承では仏像が自ら背中に飛び乗った、とも) 信濃に運び、屋敷の中で最も清浄な床の間の臼の上に置かれて 41年間も深い信仰を受けた。
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三十五代皇極天皇 (在位:642~645年、重祚して斉明天皇 (在位:655~661年)となる) の時代に霊夢があり、
「芋井の里 (現在の長野市) に移りたい。ただし一ヶ月の半分はこの地に戻る。」との啓示を受けた。
本多善光は勅命を得て芋井の里に堂を建て、善光寺と名付けて阿弥陀如来三尊を安置した。
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この 「芋井に移った」 のが現在の 信濃善光寺で、ここだけに参拝して飯田の
元善光寺 (共に公式サイト ) に詣でないことを 「片詣り」 とする由縁である。
仏が現れたのは天皇の夢とも、善光の夢とも伝わる。長野市の善光寺縁起にも同様の記載があるから、この経緯に関しての記述には強い説得力がある。