安元二年(1176)、伊豆東海岸の所領に関わる相続争いが原因で
伊東祐親 と同族の
工藤祐経が激しく争った。
伊東と河津を実力で占拠した祐親を怨んだ祐経の指図により、郎党の
大見小藤太成家と八幡三郎行氏が河津へ向う祐親一行を伊豆赤沢で待ち伏せした。
祐親を狙って
椎の木三本(別窓)から放った遠矢で同行の祐親嫡男
河津三郎祐泰が横死。これが歌舞伎などで名高い「曽我の仇討ち」の発端となった。
.
祐泰を弔った祐親は二男
祐清 に80騎を与えて二人が逃げ帰った大見郷を襲撃した。八幡三郎は踏み止まって奮戦した後に衆寡敵せず自刃、小藤太成家は
狩野領の境界近くまで逃げたが捕まって首を刎ねられた。二人の首級は伊東で待つ祐親が首実検を済ませた後に大見に送り届けさせた、
.
この使者を命じられたのが網代小忠太家信である。首級は大見の
最勝院(別窓)に葬ったと伝わるが、最勝院は上杉憲実が永享四年 (天文元年・1433年)
に真言宗の西勝廃寺跡に上杉憲実が創建したと伝わっているから 、首を葬ったのは西勝院と考えられる。
.
この事件から一年前の安元元年には頼朝も網代を通っている。祐親が大番役 (朝廷守護の兵役・三年間) で在京していた時、頼朝は四女の
八重姫と懇ろになり
千鶴丸を産ませた。曽我物語には
「千鶴丸は数え年三歳で殺された」とあるから誕生は1173年、頼朝23歳前後の恋である。
.
京から戻った祐親は平家の思惑を憚って千鶴丸を殺し、頼朝の住む
北の小御所 (推定場所) に討手を向けた。親しかった祐清の通報を受けた頼朝は辛うじて
宇佐美へ、阿多美郷 (熱海) に通じる本街道 (東浦古道) を避けて海沿いの臼月道(樵夫の道)から根拵道(長谷観音の参詣道)を下って網代の津へ逃げた。
.
ここから小舟で対岸の
赤根崎(別窓)へ、再び山越えで
頼朝一杯水(別窓)のある梅の木沢から阿多美郷へ。途中の小祠 (現在の
今宮神社)で武運を祈り、
そして蛭ヶ小島の頃から仏典の師でもあった僧・覚淵 (
加藤景廉 の異母兄) の房がある
伊豆山権現(別窓)に逃げ込んで庇護を受けた。
.
網代小忠太家信のその後の消息は不明。祐親が滅び行く平家に殉じたように家信も祐親に従って行動したのなら、石橋山合戦で祐親が率いた300騎の中に
加わっていたのかも知れないし、頼朝の御家人となった祐親の同族
宇佐美祐茂 の指揮下に入って転戦した可能性も残る。
.
蛇足...網代家信が石橋山合戦にも加わった頼朝挙兵当初からの家臣とする説もあるが、これは
小中太(中原)光家 との混同で、全くの別人。