熱海 長谷観音近くの網代港から赤根崎の遠望 

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平安末期の安元元年 (1175) 、 伊東祐親 の四女 八重姫 に男子(千鶴丸)を産ませたことから祐親に討手を向けられた 頼朝 は祐親の二男 祐清 の急報を受け、
辛うじて伊東から宇佐美に脱出、阿多美郷(熱海)へ通じる本街道の網代峠を避けて海沿いの臼月道(樵夫の道)から根拵道(長谷観音 の参詣道)を下って網代
の津へ逃げた。ここから小舟で対岸の赤根崎へ、再び山越えで頼朝一杯水の残る梅の木沢から阿多美郷、そして以前から縁の深かった 伊豆山権現 の庇護下に入った。
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曽我物語には千鶴丸は「数え年三歳で殺された」とあるから誕生したのは1173年、頼朝23〜25歳前後の恋である (網代周辺の地図) を参考に。
もっとも三年後の治承ニ年(1178)には再び流刑地だった伊豆韮山に戻 り北條時政 の娘 政子 に女子(後の大姫)を産ませている。この時の時政も伊東祐親と
同様に大番役で京に詰めており、頼朝は数年間隔で同じトラブルを繰り返した...学習能力が乏しかったのか、天性の女好きだったのか、ブレーキの効かない年代
だったのか。土豪の時政を舅にして立場の強化を狙った側面もあっただろう。
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もちろん八重姫を介した伊東祐親の抱きこみに失敗して政子・時政親子に乗り換えた可能性もあり得るが...そこまで狡賢い性格でもない、か。
伊東祐親の長女は北條時政に嫁し、長男宗時・長女政子・二男義時(確証なし)を産んだ後に死没した女性。従って頼朝は祐親の四女・八重に男子を産ませた数年後
に祐親の外孫・政子に女子を産ませた、つまり叔母と姪を5、6年間隔で妊娠させたという事になる。好き者め!
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曽我物語では頼朝は「伊東から北條へ逃げた」としているが、伊豆山権現を経て北條に移ったのだと思う。そのルートのスポットは下記、全て別窓で表示する。
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 北の小御所宇佐美の城山東浦古道長谷観音網代小忠太の館跡赤根崎の風景(この頁) → 頼朝一杯水今宮神社伊豆山権現


     

           左:魚市場北側の防波堤から漁港を撮影。山並みが右に途切れた先に 坂道の登り口 があり、5分ほど歩くと 東浦古道の入口 になる。
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           中:同じく防波堤から網代温泉の中心部を。中央やや右の白い建物がマリンホール、その先の鞍部が山伏峠を経て大仁に続く。
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           右:中央右側・山の先端が赤根崎、頼朝一行はその左手の梅の木沢を遡上し一杯水を経て阿多美郷の今宮神社に下った。

この頁は2022年 7月15日に更新しました。