行基伝説の残る熱海網代の長谷観音 

 
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全国に点在する 行基 の事跡の多くは 空海 (弘法大師) の事跡と同様に、後世になって作られた伝説と考えられている。例えば同じ時期に全く別の場所で布教していたりするのは
珍しくない。弘法大師の場合などは、遣唐使の留学僧として唐に滞在した延暦二十三年(804)から帰国して入京を許可された大同四年(809)の5年間にさえ、東国で布教
し仏像を彫っていた「伝承」が残っている。偉大な僧への帰依が生み出した民間信仰の発露と考えるべき、だろう。
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右:行基伝説が残る網代津の長谷観音と東浦古道  画像をクリック→拡大表示
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網代長谷観音では「行基が海岸の流木から三体の仏像を彫った、奈良・鎌倉・網代に残る観音像である」と伝えているが、この「一木三体の像」説は(悲しいことに)大和の長谷寺と鎌倉の長谷寺(共に公式サイト)の双方で否定されているから、観音像の由来は捏造らしい。まぁ 安倍晋三の嘘(AWRA)に比べたら罪は軽いが。
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網代の善修院開山・大祝和尚が大永元年(1521)に開いた観音堂が原型で、海の安全を祈る漁民の観音信仰と行基伝説が結合した、或いは大祝和尚が強引に結びつけた、と考えられる。
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伊東から伊豆山へ逃げた 頼朝宇佐美郷(別窓)を経て山を越えて通ったのも、曽我物語による「臼月道(樵夫の道)を辿り」までは正しいだろうが「根拵道(長谷観音への参詣道)を下った」の部分は単純に「網代の津(別窓)に下る道を選んだ」と判断する方が自然だろう。(東浦古道を参照)。もちろん、その時点で行基伝説に無関係の観音信仰が網代にあった可能性までは否定できないが。
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網代は古来から漁業を含む港として繁栄し経済的に豊かな地域だったため、熱海市との合併(昭和32年)の際にも反対意見が多かったと伝わる。
ちなみに、明治22年(1889)に熱海村・伊豆山村・泉村(湯河原側)・初島村が合併して熱海村になり、昭和12年(1937)に多賀村と合併して熱海市となった。
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長谷寺は伊豆八十八ヶ所霊場の第26番札所で、境内右手に並ぶ石仏や寛政三年(1791)の刻銘がある供養塔などが安置されている。

     

           左: 国道沿いの狭い進入路を入ると竹林に囲まれた山門へと登る石段が延びる。石畳は静寂に包まれた寺域へ続いている。
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           中: 右手へ曲がると細い歩道が造られており、朝日山に続く遊歩道に至る。ここは吾妻鏡にも記載がある網代小忠太家信の本拠だった。
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           右: 正面の観音堂、本尊は行基作と伝わる観音像。厨子に納められて拝観できないが4月の第2日曜の定例法要にのみ公開される。
本格的な大開帳は33年に一度、前回は1996年だったから次回は2029年になる。


     

           左:境内の石仏群は網代が津(港)として繁栄した江戸期に観音信仰の地元民が建立寄進したもの。寛政・嘉永(1850年頃)の刻銘がある。
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           中:網代灯台直下の崖が行基が観音像を納めた洞窟がある屏風岩。漁民はここを信仰の対象として崇め、観音崎と呼んでいたそうだ。
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           右:1932年に網代隧道が完成するまでは灯台前の細道が国道だった。その隧道も2005年に廃止されバイパスのトンネルが開通している。

この頁は2022年 7月15日に更新しました。