世良田義季が開いた長楽寺と家康所縁の東照宮 

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    長楽寺境内地図
右:長楽寺と世良田東照宮の境内地図     画像をクリック→拡大表示
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偉そうに言うと、利害が絡む情報を排して物証プラス状況証拠から流れを読む...それが歴史に向き合う基本姿勢だと私は考えるが、もし私が徳川さんのお陰で繁盛している東照宮や長楽寺の立場だったら「徳川氏の系図捏造疑惑」なんて書かないかもしれない(笑)。堕落の報酬は大きいのだ。
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とりあえず、政府の補助金を生活の糧にして「原発安全説」や「歴史の捏造」に尽力している御用学者の家系に生まれなかったのを感謝しつつ、渇しても盗泉の水を?まないで過ごそう。ともあれ、長楽寺の一帯は新田荘の中でも最も見応えのあるエリアで、古刹の趣きと武家の館とピクニック向きの芝生広場と歴史資料館と小学校が約400m四方の中に混在している姿が実に面白い。
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広い駐車場を備えているから散策の根拠地としての利用価値も高いし、新田荘の最も南に位置する世良田〜得川〜岩松にかけてが利根川に沿って拓けた肥沃な土地なのを実感できる場所でもある。浅間山の噴火で火山灰に埋もれた耕作放棄地だったなんて、これっぼっちも感じない。
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長楽寺の正式名称は 世良田山真言院長楽寺(公式サイト)で開基は 新田義重夫妻の愛情を一身に受けた 世良田義季 (幼名 頼王御前)。本尊は釈迦如来。承久三年 (1221) に臨済宗の開祖 栄西 の 高弟 栄朝を招いて開いた。正和元年(1312)の大火で焼失したが鎌倉幕府滅亡直前の元弘二年(1332)に新田一族の寄進をベースにして再建、寛永十六年(1639)に家康の命を受けた天海僧正が天台宗に改めて荒廃した堂塔を整備し、同二十一年(1644)に日光東照宮の一部を遷宮、末寺700を数える大寺として長く繁栄した。
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明治初年の神仏判然令を受けて同八年(1875)に長楽寺と東照宮に分離している。境内の散策は無料。
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隣接する世良田東照宮(公式サイト)の祭神は当然 神君徳川家康で例大祭は4月17日。東照宮社殿の一部のみ拝観料は300円。
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最も南側に位置する 新田荘歴史資料館(公式サイト、地図)は9時半〜17時、年末年始と月曜(祭日の場合は翌日)休館、200円。
個人的に魅力を覚えたのは義重置文(複製)だが、今ではネット上で確認できるから有難味は乏しくなった。


     

              左: 長楽寺勅使門。東照宮の正門として勅使または幕府の正式な使者が到着した時だけ開かれるのが通例で、明治初年の神仏判然令に伴って長楽寺に移管
された。建造は17世紀中盤と推定され、元文元年(1736)の修理棟札には「勅使門」、宝暦十三年(1763)以後の修理棟札には「上使門」と
書かれている。当初は勅使のみに開かれた門が幕府の権威確立に従って将軍からの上使も通るようになったのだろう。
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              中&右: そして敷地の北側隅にあるのが長楽寺の山門、つまり東照宮の権威は別当寺の長楽寺を凌いでこの近くまで及んでいたらしい。
ただし構造は重厚で世良田山の扁額も趣が深い。建立年代は判らないが、ここからが長楽寺の正式な参道となる。


     

              左: 山門を抜けて小道を左に辿ると心字池(上に載せた地図では蓮池と表示)、発掘調査により当初は素堀りの護岸と確認されている。
承久三年(1221)の創建当初には渡月橋を挟んで北の池には白い蓮・南の池には紅の蓮が咲き誇っていた、と伝わる。創建当初の姿を伝える池だが、
最も古い記録は住持の義哲西堂が残した日記・永禄八年(1565年・室町時代末期)の条である。
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新田義重が「置き文」を書いたのが仁安三年(1168)、頼王御前が当時5歳と仮定し成長して 世良田義季 を名乗ったと考えれば60歳前後か。
やがて義季は隠居し(生没年不詳)長男の頼有は東隣の得川郷を継承、次男の 頼氏 が本領の世良田と惣領職を継承して更に富を蓄え、世良田一族の
繁栄はピークを迎える。
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              中: 小道は渡月橋から更に庭園の奥へ向う。左に 心字池、右側の点を表す小島が見える。心字池には竜宮に繋がっているとの伝説がある、らしい。
本文の次に続く「円福寺」の項で述べる通り、寛元二年(1244)には新田宗家の惣領 新田政義 が幕府の公務を放棄して失脚する事件が勃発し、
一族の実力者である世良田頼氏と岩松時兼が「半分惣領」として新田荘の実権を握るのだが...
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文永九年(1272)に二月騒動が勃発、連座した頼氏は流刑地の佐渡で死没した。この後の世良田氏は零落し、南北朝時代には新田を離れた
地で辛うじて命脈を保つ程に零落する。
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              右: 渡月橋を渡って振り返った突き当りが勅使門。本来の長楽寺勅使門を徳川幕府が東照宮の勅使門に変えた可能性が高い。東照宮造営は寛永二十一年
(1644) で長楽寺が開いた承久三年(1221)の420年後、学僧500を越えた程の大寺に勅使門がなかった筈はない。
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              ※二月騒動: 八代執権の 北條時宗 が六波羅探題南方別当の異母兄 時輔、名越流北條家当主で評定衆の 時章、その弟 教時 らを謀反の罪で粛清した事件。
当時は蒙古襲来の危機や 日蓮 の立正安国論など幕府を揺るがす政情不安が続いており、時宗は得宗支配強化のために政権内部の不満分子を
強権で弾圧する道を選んだ。頼氏が謀反に加担したレベルは判らないが、正室が教時の姉妹だったため粛清の対象となったらしい。


     

              左: 渡月橋から進んだ突き当りが三仏堂。長楽寺の中心的な建物だが鎌倉時代ではなく慶安四年(1651)に徳川三代将軍家光が再建したもの。
その後数回の修復を経ているため創建当初の姿は判らない。間口5間×奥行4間、昭和59年(1984)に解体修理を行っている。
内陣の須弥壇には(右から)過去を表す釈迦如来(220cm)、現在を表す阿弥陀如来(253cm)、未来を表す弥勒菩薩(224cm)の
坐像三体を祀っている。釈迦如来胎内の造立銘には「寛文十年(1671) 大仏師民部法橋」の記載がある。
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              中: 扁額の「顕」は釈迦如来が衆生を教化するため内容を明らかにして説く教え。「密」は大日如来が説いた教えで奥深い真理を含むため容易に明らかに
出来ない教え。「禅」の教えは遥か後世の発生だが、「顕・密との一体性」を表現したのだろう。
ちなみに 空海(弘法大師)は顕教の経典=華厳経、法華経、般若経、涅槃経など、密教の経典=大日経、金剛頂経、理趣経など、と位置づけている。
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              右: 三仏堂から道路を挟んで裏手(西)に建つ太鼓門。同様に江戸時代初期の建造と推定されている。楼上の太鼓で行事の告知に利用したもの。


     

              上: 石段下の柱には「徳川義季公累代墓」と刻まれている。つまり世良田一族の廟所、を意味するのだが、それぞれが誰の墓石かは判らない。
昭和六年(1931)に廟所を整備した際に石塔基部の「建治二年(1276) 第三代住持比丘院豪 云々」銘を確認、24年間住職を務め、
弘安四年(1282)に長楽寺で没した院豪(朝廷からの諡(おくりな)は円明仏演禅師)の造立と判明した。その他、開基である義季らの墓石は
不明。全てを調べれば判るんじゃないかと思うが、墓地を史跡としてドライに扱うのは無理か。
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右画像の中央奥に見えるのが基部から銘文が見付かった石塔、木立の先に見える屋根は開山堂。


     

              左: 更に奥に建つ開山堂。長楽寺を開いた世良田義季(徳川義季公と掲示)を祀り、厨子の中に木像を安置している(これは確認しなかった)。
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              中&右: 開山堂の裏手には覆い屋で保護した古い供養塔、それに並んで歴代住職の無縫塔(卵塔)や墓石が並んでいる。表示が無いので誰の墓標かは
全く判らないが、いずれにしてもここが長楽寺の最も奥(西側)で、墓所右手の小道を辿って空堀を保存している芝生広場に抜けられる。
右手に残っている土塁の痕跡もついでに確認したい。藪が深くてとても入れないけどね。


     

              上: 墓所の小道を抜けて空堀の残る芝生広場を撮影。左画像は南側の駐車場寄りから、中央画像はそのまま北へ移動して、右画像は広場の北側から南に
向って撮影したもの。空堀は巾3mほどで深さは1m弱、危険防止のため多少埋め戻しているのだろう。
陽差しを遮る樹陰もあるし駐車場の横にはトイレも整備されているかせ、散策の途中で休憩するには絶好のスポットだ。


     

              左: ついでと書いては失礼だが、こちらは後世の主役 世良田東照宮(公式サイト)。江戸時代には興味がないのでサラッと済ませた。
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              中: 境内の南西隅、歴史資料館に近い道路沿いの「法照禅師月船深(王偏)海塔所と普光庵跡」。ここだけは鎌倉末期の史跡・墓所である。
説明が長くなるので案内表示をコピペしてお茶を濁すことにした。興味のある向きは 解説画像 で。
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              右: 同じく東照宮境内の真言院井戸。密教の儀式に使われた井戸で、当然ながら天台宗に改めた江戸初期よりも古く、ここに長楽寺別院の真言院があった
らしい。寛永十九年(1642)に天海僧正が作り替えた、と伝わっている。詳細は普光庵跡と同じく く解説画像 で。

この頁は2022年 9月 3日に更新しました。