右:義国が建立したと伝わる冠(かんむり)稲荷神社 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
冠稲荷神社 は創建が奈良時代まで遡る古社で、天治二年(1125)に
源義国 の館(約2km北の青蓮寺の一帯)から見て丑寅(北東の鬼門)にあった古い社で一族の繁栄を祈り、河内源氏の守護神である
石清水八幡宮を勧請したと伝わる。幼稚園を併設しており、少し騒々しい。元弘三年(1333)に
新田義貞 が挙兵した際に社前で兜(冠)の中に神霊を招き入れて必勝祈願した故事から「冠稲荷」と呼ぶようになった。祭神は宇迦之御魂大神(穀物を司る女神で、
伏見稲荷大社(公式サイト)の主祭神でもある)、例大祭は3月の第三日曜日に開催される。 冠稲荷神社の住所は太田市細谷町360(
地図、無料駐車場あり 拝観無料
.
頼信嫡男の頼義が河内源氏の棟梁を継承し更に武名の高い
八幡太郎義家 に続き、義家の後継を巡るトラブルを経て二男義親→
為義→
義朝→
頼朝 と受け継がれていく。義家の末弟
義光 の長男義業が佐竹を名乗って常陸源氏の祖に、三男の
義清 が甲斐に移って武田氏の祖に、四男盛義が義信→朝雅と続く平賀氏の祖になった。他に二男実光、五男親義、六男祐義、七男覚義 (甲斐市河荘に土着) がいるが 特に述べる程の記録はない。
.
一方で義家から河内源氏棟梁を継承した義親の次弟に当る
義国 は気性の荒さなどが影響して河内源氏の後継者からは外れたが、父義家の所領だった下野国足利に土着して歴史に大きな足跡を残した。義国の二男
義康が足利荘を相続して源姓足利氏の祖となり、庶長子(異説あり)の義重が父と共に西に隣接する渡良瀬川と利根川挟まれた広大なエリアを開拓して新田氏の祖となった。厳密には両家とも初代は義国である。康治元年(1142)10月に義国は所領足利を鳥羽上皇が創建した安楽寿院
※に寄進して立荘、下司職(実務担当の荘官)として運営管理権を確保した。
.
その後に義国は足利荘を次男の義康(生母は正室の源有房娘)
※に譲り、庶長子の義重(生母は側妾の藤原敦基娘)と共に新田に移って利根川北部の荒地を開発、保元二年(1157)には開発した私領を藤原忠雅
※に寄進、下司職として実権を握り義重に継承させた。
.
※安楽寿院: 鳥羽上皇が退位後の住居として建てた鳥羽離宮東殿の仏堂が原点。多くの荘園寄進を受け娘の八条院暲子が継承して八条院領となり、大覚寺統(90代亀山天皇系の
皇室。左フレームの「天皇家の系図」を参照)の財政的な基盤となった。
.
※義康と義重: 源有房は正四位下左中将、藤原敦基も正四位下の文章博士。当時の風習では母親の出自が嫡子を決める主要な条件だが、二人の女性には特に身分の優劣はないらしい。
「義国は本来の所領である足利を二男の 義康 に譲り、庶長子の 義重を伴って新田を開墾、新田で没した」との記録には通常の相続から逸脱した愛憎が見え隠れする。
.
※藤原忠雅: 花山院流の公卿で従一位太政大臣。政略と婚姻で平家政権下で昇進を重ね娘の一人は後の関白太政大臣
松殿基房 の側室。道長-長男頼通(平等院鳳凰堂を造営)-六男
師実と続いた藤原北家系で師実の二男家忠を祖とし、彼の邸宅花王院から命名された。
南北朝時代に末裔の女性が第100代後小松天皇の寵を受けて誕生したのが一休禅師されている。
左:新田荘の総鎮守として栄えた岩松八幡宮 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
祭神は第15代応神天皇(誉田別尊、在位270~310年)。
生品神社 (wiki) 、
鹿田 赤城神社 (参考サイト) と並び新田三社とされる古社。
.
社伝に拠れば 第79代六條天皇の仁安年中 (1166~1168) 、
新田義重 が大番役で在京した際に山城国久世郡の
男山 (石清水) 八幡宮(公式サイト)に参拝して松の実(松の苗、とも)を拾い新田に持ち帰って蒔いたところ芽が出て活着した。
義重はそれまで犬間(猪沼とも。読みは「いぬま」)郷と呼んでいた本領を岩松郷と改め、男山八幡宮を勧請して崇敬したと伝わる。
.
当時の犬間郷は岩松、押切、備前島、阿久津などを含む地域で、その住人である源、平、紀、橘、藤原の各氏子は一族の氏神または郷社として崇敬、岩松家代々の少年はここで元服の儀式を挙げた。
下って室町時代の金山城主 岩松尚純の嫡男 夜叉王丸(七歳)がここで元服し、昌純と名乗った記録
※も残る。
.
祭神の応神天皇像は秘神として公開せず、境内には尾島町で唯一の
新田義貞 を祭神とする摂社新田神社と、隣接して小さな公園を設けてある。
南北朝時代になって新田荘の実権が新田宗家から岩松氏に移ってからは新田荘総鎮守として栄えたが、岩松氏の滅亡と共に衰退した。
現在は無住で境内地も狭く、長い歴史を感じる雰囲気は失われている。住所は太田市岩松町251-1(
地図)、無料駐車場あり 拝観無料
.
※元服の記録: 世良田長楽寺の住僧松蔭西堂が書いた「松蔭私語」による。昌純は文明十七年(1485)生れ、新田宗家を継承した岩松家嫡子の元服だから岩松八幡宮への崇敬は
地域では別格だったらしい。この時に元服した昌純は後に家臣の横瀬泰繁に叛かれて自刃、泰繁の子成繁の代になって岩松氏は居館の
金山城(大田市のサイト)を奪われ横瀬氏(後の由良氏)に滅ぼされた。宗家の新田氏も宗家を継いだ岩松氏も、中世以後の歴史に然したる名を残してはいないが、南朝を正統と認めた明治政府が忠臣
新田義貞 の子孫である岩松俊純氏の新田姓を認め男爵に叙した。鎌倉幕府滅亡の際に勝敗の分岐点となった分倍河原の合戦場跡の碑に嫡子・新田忠純男爵が碑文を揮毫している。
右:新田荘を潤した重殿(じゅうどの)水源 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
現在では工場(三国製作所)の脇で石垣とコンクリートに囲まれた小さな溜池に見えるが、透明な水に鯉が泳ぐ一級河川・大川の源流である。湧水としての歴史は古く、矢太神水源の項でも触れた正木文書の「関東裁許状」に拠れば、元亨二年(1322)には新田の支族である大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」(重殿水源を差す)からの取水権を巡って争った記録が残っている。
.
岩松領の田嶋郷ではこの水を農耕に利用していたが、大館宗氏
※が堀を塞いだため訴訟となり、執権の
北條高時 は宗氏に対して旧に復せとの裁決
※を下した。これは重殿水源が下流にある岩松氏の所領各郷の灌漑用水で、確保のためには訴訟も辞さないほど貴重な存在だった。前回訪問した2005年には水位がかなり低く湧水量の減少が気に掛かったが、その後は復旧したらしい。
.
右岸には水神の石祠が三基祀られており、近世に至るまで周辺住民の生活には欠かせない貴重な水源だった。地番は太田市大根町253(
地図)、路駐可 拝観は無料
.
※大館宗氏: 愚行で失脚した新田宗家四代目惣領
新田政義 の二男で新田荘大館郷を領して大館氏の祖となった武士。
鎌倉幕府が滅亡した際の合戦では極楽寺坂の海辺側を突破して由比ヶ浜近くまで進んだが深入りして後続部隊から孤立し、本間山城左衛門部隊の斬り込みを受けて主従11人が全滅した。最後の地は長谷二丁目の大太刀稻荷神社(御嶽神社・
地図)付近と伝わっている。この頁の
その四 に記述してある。
.
※関東裁許状(正木文書) 新田下野太郎入道道定代尭海(岩松政経)申す上野国新田庄田嶋郷用水の事
.
右件の用水は新田二郎(大館)宗氏の所領一井郷
※沼水を受け田嶋郷
※を耕作せしむるの条往古の例なり。而して宗氏彼の用水堀を打ち塞ぐの由申すのところ、宗氏陳状の如くんば、打ち塞ぐの所見何事や、宗氏全く違乱せずと云々、向後のために御下知を成し給うべきの旨尭海これを申す、此上は異儀に及ばす、先例に任せて引き通すべきの状、鎌倉殿仰によって下知件のごとし。 元亨二年(1322)10月27日 相模守平朝臣(
北條高時) 修理権大夫平朝臣(金澤貞顕)
.
※一井郷: 生品神社に近い現在の市野井町一帯(地図)、田嶋郷はその水路を南へ約5km辿った現在の田島町一帯(地図)を差す。
左:世良田地区を潤した矢太神(やだいじん)水源 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
新田荘の北北西20kmには赤城山(1828m)・北東30kmには地蔵岳(1275m)があり南に向って下る扇状地を形成しているため、標高60m前後を中心に流れる多くの地下水脈が灌漑に利用された。中でも特に水量豊富なのが矢太神水源の湧水で、現在も水底から砂を巻き上げる自噴現象を見ることができる。矢太神水源は太田市新田大根町1000(
地図、広い無料駐車場あり(ほたるの里公園内)。
.
仁安三年(1168)の新田義重置文
※(長楽寺収蔵)には
「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)などの郷を頼王御前(義重の四男 世良田義季 の幼名、または生母(義重の孫娘))の生母に譲る」旨の記載があり、これらの郷すべてが矢太神を水源として利根川に流れ下る石田川流域にある事から、文字通り新田地域南部の新田(しんでん)開発に重要な役目を果した水源だったと判断される。
周辺では縄文時代の集落跡も確認され、現在は公園としての整備が進み初夏には蛍の群舞も楽しめる。
.
※義重置文: 置文は現代の遺書に近い文書、一族の将来まで触れた内容が多い。長楽寺には下記画像の他に徳川八代将軍吉宗が寄進した義重
の置文が一通あり、これは当時は浪人だった正木新五左衛門が先祖伝来の家宝を献上したもの(徳川氏が新田源氏の子孫を名乗った関係か)。
簡略な文面は概ね同じ内容で、現在は群馬県立歴史博物館が収蔵する。国重要文化財指定、いわゆる「正木文書」の一枚。
右:新田義重置文 長楽寺文書 画像をクリック→ 拡大表示
.
下 (花押)
.
こまたあれど、らいわうこせのハハのことをおもへハ、にたのみさう(新田御荘)ハゆつりたるなり、ハハの事らいわうこせんをろかにあるへからす、それにとりてもこかんとてハ、らいわうこせんかハハにみなゆつるなり、ハハかためニおろかニあるへからす
こかんのかす、おうなつか、えたかみしも、たなか、おおたち、かすかわ、こすみ、をしきり、いてつか、せらた、みつき、かみいまい、しもいまい、かみひらつか、しもひらつか、きさき、丁ふくし、たこう、やきぬま、このこうこうしたいにゆつりわたす、たのさまたけあるへからす、あなかしこかしこ、 仁安三年(1168)六月二十日 (花押)
.
義重置文は三人の異母兄
※(
山名義範 と里見義俊(
義成 の父)と
新田義兼 がいるにも拘らず、「頼王御前と生母」に本領の多くを遺した。19郷の名を具体的に書き連ね、最後尾に
「このように譲り渡すから他の妨げ有るべからず、あなかしこ」 と締め括る。
知恵と力で戦乱の世を生き抜いた武将が年老いて産まれた(曾孫か孫か子か)頼王御前とその生母
※を溺愛し、確実に財産を分与したいと考えた、と読める。
ただし仁安三年の義重は54歳、まだ老境ではない。ひょっとして健康に不安を感じて置き文の必要を感じたか。実際には当建仁二年に89歳の天寿を全うしている。
.
「他の妨げ有るべからず」と書いたのは、明文化しないと相続にクレームが出る恐れがある...つまり頼王御前とその母(来王姫)が「常識的な相続人ではない」立場だった事、あるいは老いた義重が母親と幼児を盲目的に溺愛していた事を示しており、頼王御前には母 (ハハ) とは別に6郷を与える置文を書いている。頼王を義兼(1139年生れ)の異母弟と考える説もあるが、それでは来王姫と二人の男児の存在が浮いてしまうから
足利義純 に離縁された孫娘が連れ帰った男児と考えれば物語は決着するのだが...。
.
※頼王生母: 義兼は保延五年(1139)の誕生だから、彼の孫が29年後の置文(1168年)に相続人として載るのは無理(子供なら可能)。また頼王の父親である足利義純の
誕生は安元々年 (1175) だから、彼が産ませた子が1168年発行の置文に載るのもあり得ない。つまり 「頼王の生母は義兼の娘ではない、という事。
.
相続人の「らいわうこせん」=溺愛する孫娘の来王姫と考えると一部の辻褄は合うのだが「らいわうこせのハハ」は変だし「二人の男児は足利義純の子ではない」の問題が解消しない。また「庶長子の義純が新田荘で義重に養育された」との記録も少し気になる部分だ。腰を据えて考えないと変な結論に到ってしまうかも。
.
ただし、義範・義俊・義兼の生母※が源親弘 (対馬守→ 下野権守→ 下野守) の娘なのは確実で、雷王の生母ではない事はほぼ間違いない。
.
話は変わって。寿永元年(1182)7月の吾妻鏡に拠れば、68歳になった
新田義重 は娘の祥寿姫(
悪源太義平 の後家、既に出家して妙満尼)を妾女に望んだ頼朝の要求に従わず、還俗させて師六郎(素性は不明)に嫁がせている。40歳前後になっている異母兄の妻に執心した
頼朝 の感覚も理解できないが、「らいわう」とその生母を溺愛した置文と併せて考えると義重の心の襞が窺えるようで、面白い。
.
【 吾妻鏡 寿永元年(1182) 7月14日 (5月27日に養和二年を改元)】 頼朝が鎌倉に入り東国を平定した後の、
政子 が
頼家 を出産する直前。
.
新田義重が頼朝の勘気を受けた。義重の娘は悪源太義平(頼朝の兄)の後家で、頼朝は 伏見廣綱 を介して艶書を送ったのに良い返事が得られず、直接義重に申し入れた。義重は御台所 政子 の思惑などを考えた末に急遽彼女を師六郎に嫁がせてしまったためである。 .
義重の子女は上から順に
山名義範、
里見義俊 (wiki) 、
新田義兼、
世良田義季、
額戸経義 (wiki) 、祥寿姫(義平室)、他。
さて頼王と「らいわうこせ」とは? 現在では 世良田義季説が主流なのだけれど、100%確実とも言えないのが面白い。
左:義国の庶長子で新田の始祖 義重夫妻の墓 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
新田義重(永久2年~建仁2年・1114~1202)は新田氏の祖とされている。父の
源義国 は自ら開いた足利荘を次男(嫡男)の
義康 に譲って長男の義重と共に渡良瀬川の南に移り、新田を開墾した。
.
保元二年(1157)には平家に近い公卿・政治家の藤原忠雅を領家として正式に新田を立荘したが、この地は利根川を隔てて源氏の
帯刀先生義賢(
義朝 の異母弟)の本拠地・大蔵や秩父平氏の領域に接していたため、頻繁に武力衝突を起こしていた。そして久寿二年(1155)の8月、同じ秩父平氏の畠山氏や義朝と協力して義賢と秩父氏の棟梁
重隆 を倒し、北関東の支配権を確立させている。
.
早くから頼朝旗揚げに加わった足利一族と違って新田一族は合流が遅れたため頼朝の不興を買ったが、これは源氏本流
※としてのプライド、領家の藤原忠雅が平家に近い立場だった事、北関東を実力で支配していた自負などが影響していた、とされる。
.
また頼朝が義重の娘(
義平の寡婦)を妾として望んだのを拒むなどもあり、鎌倉とは円満な関係を保てなかった。これが足利と新田の処遇の差となって尾を引き、一族の没落を経て最終的には新田義貞が幕府打倒に立ち上がる遺恨遠因を作った、とも言える。
.
※源氏の本流: 河内源氏嫡流は
頼義-
義家-
義親 (wiki) -
為義-
義朝 と続くのだが、四男で嫡男となった為義はやや異質な存在だった。
他の兄弟に比べて官位も低く疎外された様子から庶子と推定する説もある。武将としての能力も低く、嫡子の義朝も父親に敬意を払っていたとは言い難い。そんな背景が義重の意識に影響していたのかも知れない。
.
義重は次男(四男とも)の義季(後に世良田を名乗る)を特に愛した。得川・女塚・押切・世良田・平塚・三ツ木など新田荘南部の広大な地域を相続させ、晩年には夫人と共にこの地で暮らし、死後は邸内に葬られた。館跡などの遺構は残っていないが最も大きな石塔は高さ約140cm、割れた天蓋部分は切断面を整えられ鉄の帯(天保八年・1838年の銘)で補修されている。
.
昭和45年(1970)に墓地を整備した際には3基の石塔下から火葬骨の入った灰釉陶器の骨壷が出土した。遺骨は元通りに埋葬され、骨壷はすぐ近くの
満徳寺(公式サイト) に収蔵されている(私自身は確認していない)。徳川家の系図は世良田義季を遠祖としているが真実味は乏しく、徳川幕府による清和源氏系図の捏造と判断される。義季は得川郷の領主ではあるが正式には世良田の地頭であり、吾妻鏡に得川郷の領主として記載のある「徳河義秀」とは別人と判断される事、などによる。
.
廟所の住所は太田市徳川町396(
地図、専用駐車場はないが満徳寺と徳川会館(公民館)が利用可 拝観は無料
右:「泣き不動」を祀る妙満院大慶寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
.
「新田の三不動」とは、明王院が収蔵する「触れ不動」(山伏姿で
義貞 の挙兵を越後などの新田支族に連絡した)と、「御影不動」(盾に乗って軍勢を指揮した義重の像が一夜で不動明王に変じた)と 残る一つが大慶寺が祀っている「泣き不動」である。大慶寺は新田義重の娘(悪源太義平の妻)が獄門に架けられた夫の首を盗み出して(現在の)
清泉寺 に埋葬し妙満尼と名乗って菩提を弔った、その庵が起源と伝わっている。
.
後に新田庶流の綿打氏が庵の跡に館を建て、明徳五年(1394)に足利の鶏足寺から招いた空覚上人を開山和尚として建立された。
.
本堂西側の不動堂に納められているのが平安時代に彫られた「新田の守り不動(泣き不動)」で、正安三年(1338)に義貞戦死の報が新田に届いた際に涙を流した、と伝わっている。この不動明王は妙満尼が晩年に彫った像で、父義重の姿を模していたが一夜のうちに不動明王に変身したため「御影不動」とも呼ばれる。明王院が収蔵している「御影不動」(盾に乗った義重の姿が変じた)とは同名だが異物である。
.
大慶寺は「牡丹の寺」としても知られており、花期(5月前後)には3000株が花を咲かせ、この時期のみ参拝は有料(300円)となる。本堂の裏手には新田一族の綿打刑部郷太郎為氏の墓があり、庭園の各所には土塁の跡などがかなり鮮明に残されている。
.
新田義重の嫡男が義兼、その嫡男が義房、その嫡男が政義、その次男が大館を名乗った家氏、その長男が為氏。為氏は綿打太郎を名乗り、大慶寺のある綿打郷を領有して綿打氏の祖となった人物。土佐国古城略史にも「新田綿打入道」として記録されている。
「綿打入道は大平記に新田の一族綿打刑部少輔、蓋是の人也」、と。
.
南北朝時代に入ると綿打氏の子孫も義貞に従って各地を転戦していた。 大慶寺の住所は太田市新田大根町1000(
地図、広い無料駐車場あり 拝観は無料
左:世良田義季が開いた長楽寺と家康所縁の東照宮 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
一般的には、
義重 の四男
※とされる頼王は成長して
世良田義季 を名乗り、世良田郷の地頭を併せて相続する。
ただし系図にある義季の名は吾妻鏡には見えず、出生の曖昧さもあって確実な結論を出すことができない。義季=長男の頼有説など、諸説に加えて徳川が絡むから更に複雑化する。
.
義重の長男(庶長子)義俊は碓氷郡里見郷(現在の高崎市)に分家して里見を名乗り、二男の義範(庶子)は多胡郡山名郷に分家して山名氏の祖となった。本領の新田荘中心部は嫡子の義兼が相続して新田氏と岩松氏が継承し、義季が継承した世良田と繁栄を競う形になる。
.
そして義季の二男頼氏は世良田を相続して一族の実力者となり、その長男 頼有は世良田の東に隣接する得川郷を相続して得川を名乗った。この「得川」に着目した徳川氏が系図を捏造して「新田源氏の子孫」を僭称し、更に世良田に東照宮まで建造する暴挙に至る。
.
※義重の子女: 長男は義俊(里見)、二男は義範(山名)、三男は義兼(新田惣領)、四男は義季(世良田)、五男は糠田経義。
は不詳だが結婚相手を誕生と書くと
武田信義
(1128年) 室、
源義平 (1140) 室の祥寿姫、
足利義純(1175年) 室、
那須与一(1160年前後?)室(伝)。
.
時は流れ、織田信長と同盟を結んだ松平家康(24歳)は永禄九年(1567)に徳川姓を名乗り始める。ただし公認(勅許)は得られず、藤原氏や豊臣氏を称した後の秀吉死後になって(つまり権力の座に登ると共に)改姓が認められ、晴れて源氏の末裔となった。権力を握ると出自まで変えたくなる典型的な例だ。
.
要するに、家康の遠祖は世良田義季であり徳川氏の始祖は得川頼有という主張で、明らかな系図の捏造である。「征夷大将軍に任ずる要件として源氏の系図を必要とした」などは俗説に過ぎないが、権力を握った次に欲しがるのが家柄と出自なのは洋の東西を問わない。いや別に三代程度しか遡れない自分の系図を僻むのじゃなく (笑) 。そんなことに興味がないだけ。
.
閑話休題...承久三年(1221)、世良田義季は日本臨済宗の開祖
栄西 の弟子で上野国出身の栄朝を招いて開山和尚とし、邸内に長楽寺を開いた。
室町時代には関東十刹に挙げられ、数百の塔頭が並ぶほど隆盛したが後に衰退し、江戸時代初期になって徳川氏の帰依(もちろん系図絡みの優遇)を受け天海僧正を住職に迎えて天台宗に改め、末寺700を超える巨刹となった。
.
三代将軍 家光は家康の遺言に従い日光東照宮の一部を長楽寺に移設して世良田東照宮に改め、長楽寺を別当寺として庇護管理に当らせた。補助金など様々な恩恵を受けた地元としては「新田は徳川氏の先祖である」との新説を受け入ざるを得なかったらしい。ただし、観光協会などが現在も唯々諾々と「徳川氏発祥の地」とPRしているのは実にみっともない。
館跡の敷地に併設した
太田市立 新田荘歴史資料館 の紹介文には徳川の先祖云々の文言はなかったから、歴史の捏造に与しない程度のプライドは維持しているらしい。
右:新田氏四代目の政義が開いた円福寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
.
新田義重 は更に周辺の開発に力を注ぎ、嘉応二年 (1170) の目録に拠れば南北20km・東西13kmの面積を占める広大な荘園となった。本領の新田荘中心部は嫡子の
義兼 が相続し、周辺の所領は他の男子が受け継いで更に勢力を広げた。
.
この経緯は
源義清 と
武田(逸見)清光 父子が常陸から甲斐に移って勢力を扶植した姿に良く似ているが、幾つかの事件が重なって鎌倉幕府では足利氏の風下に甘んじる結果となる。
.
治承四年(1180)の
頼朝 挙兵に際しては足利の当主
足利義兼 は早くから参陣したが新田義重は合流が遅れて不興を買った。
足利義兼の場合は生母が頼朝の従姉妹だった事、
以仁王 の養母
八條院 に近かった事、京で鳥羽上皇に仕えていた事、平氏に近い藤姓足利氏と足利南西部の支配権を巡って争っていた事、などから選択肢は頼朝と行動を共にするのが妥当な選択だったが、義重の場合は少し事情が違う。
.
頼朝が覇権を握った後も新田義重の立場は弱く、足利氏に比べて処遇の差も歴然としていた。ただし源氏の血筋では最も
八幡太郎義家 に近い最長老だったためそれなりの敬意は払われていた。一方の足利氏は正治元年(1199)に頼朝が没した以後も北條氏との縁戚関係を更に深め、幕府での揺るぎない地位を確保し続けた。誠実だったと言うべきか、狡猾だったと評価すべきか、北條独裁に耐え続けて、最後に裏切った。
.
新田の惣領は義重-義兼-義房-
政義 と続き、政義の代になって致命的なトラブルが発生した。仁治3年(1242)に幕府から預かった囚人に逃げられ、怠慢を問われて罰金3000疋を課せられ、更に寛元二年(1244)には大番役を勤めた京都朝廷で、幕府の定法に背く昇殿と検非違使任官を求めて拒否された。いったい何を考えていたのか...政義は許可なく出家して大番役を放棄したのみならず、幕府への出頭も拒み新田に帰ってしまった。
.
普通なら只では済まない行為だが、妻が
足利義氏 の娘(義氏の妻は
畠山重忠 の寡婦で義氏に再嫁した
時子(
北條時政 の娘で
政子 の妹)だから罪科の減免もあったらしい。我侭勝手の代償として政義は所領の一部を公収され、新田宗家の惣領権(代表権だね)を失い、円福寺を建てての隠居で許されたと伝わる。
惣領権は義重の四男である世良田義季と頼氏父子および岩松時兼が継承して「半分惣領」となり、新田宗家は一族の支配権を喪失した。政義の愚昧の結果として、四代後の義貞が幕府を倒すまでの約90年間、新田本家は長い不遇の時代を過ごすことになる。
.
政義の四代後の
新田義貞 による鎌倉攻めの発端は
後醍醐天皇 の呼び掛けだが、長年の冷遇に対する積もり積もった恨みがあったらしい。政義の場合は自業自得だから幕府を怨むのは筋違いなのだが、義貞の時代の新田本家の領地は新田荘60郷のうち数ヶ所のみで当主の義貞も無位無官、要するに貧乏で末席の待遇だった。
.
そして...鎌倉幕府を倒した合戦で主役を演じた新田一族は味方した南朝の衰退によって恵まれた境遇を得られず、江戸時代まで低い処遇のまま過ごしている。辛うじて明治時代になってから子孫の岩松氏が新田の嫡流と認められ、朝廷に尽した忠臣の子孫として男爵の地位を得ているのが多少の幸運と言えるだろうか。
円福寺の住所は太田市別所町400(
地図)、参詣用の無料駐車場あり 拝観は無料。
左:義貞と弟の義助の生誕地と伝わる台源氏館跡 画像をクリック→ 拡大表示
.
隠居後に政義が一門の氏寺として円福寺を建て、東側の由良郷(北之庄)台地に館を建てたのが経緯で台源氏と呼ばれた、と伝わる。政義が剃髪後に建立した円福寺から400mほどの距離。彼の屋敷だったのは確実らしいが、隠居した政義の跡を継いだ嫡子 朝氏がここに住んだと確認できる資料は見当たらない。ちなみに、新田宗家の系譜は政義-政氏-基氏-朝氏-義貞と続いている。
.
通説では防衛用の濠に引き込む水の便が悪いという軍事上の理由か、あるいは全体が手狭で使い勝手が悪いなどの理由で
反町館 (
地図)に移ったのではないか、と考えられている。昭和十三年(1938)になって農地に残っていた土塁の一部を利用して石碑を建立したが、これは皇国思想が主流の時代だから発掘調査なども杜撰だったと思うし地権者などの思惑が大きく作用した可能性が高い。
.
周辺は半分宅地化しつつある畑地で鎌倉時代の面影はなく、二基の石碑が当時を想わせるだけ。足を伸ばす値打ちは乏しいが、円福寺参詣のついでと思えば特に失望する事もない。台源氏史跡は太田市別所町1599横
地図、円福寺の駐車場から歩くと良い。拝観は無料。
.
義貞生誕地には反町館説や世良田(総持寺)説や榛名の里見郷
※説などがあるが、いずれも伝承である。
.
※里見郷: 義重の庶長子で里見の氏祖義俊の本領。義俊の嫡子
義成 が里見城(高崎市下里見、
地図)を築き、義俊から四代後の義胤が義貞の挙兵に加わって鎌倉に攻め込んでいる。
嘉吉元年(1441)には十一代目の里見義実が安房国白浜 (南房総市) に移り、江戸時代後期に
滝沢馬琴 が描いた壮大な活劇
南総里見八犬伝(勿論フィクション)の舞台へと続く (共に wiki) 。 以下、勾当内侍の墓と脇屋義助の墓と児島高徳の墓は鎌倉幕府滅亡後の話。新田荘のついで、という事で...
.
右:義貞の愛妾 勾当内侍の墓(伝・義貞の墓、とも) 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
建武三年(1336)2月に
後醍醐天皇 の親政から離脱した
足利高氏(尊氏) の軍勢と
新田義貞 軍が衝突し(摂津豊島河原(大阪府箕面市)の合戦)、敗れた尊氏が九州へ逃げる事件が起きた。このとき義貞は勾当内侍との別れを惜しんで寝過ごしたため尊氏を追撃する好機を失い、結果として九州で勢力を回復した尊氏に滅ぼされる遠因を作った。そんな経緯から、
勾当内侍 には「義貞を滅ぼした悪女」の評価もある。
.
「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」...そんな感じだったのかな。
.
その年の4月末になって義貞は勢力を回復した尊氏軍に追われ、尊良親王(後 醍醐天皇の皇子)を奉じて北陸へ逃げる際に琵琶湖西岸の今堅田に勾当内侍を残した。その後の義貞は足利尊氏に敗れて北陸の越前藤島で戦死し獄門に掛けられたが、勾当内侍は義貞の首を盗み出して新田の館に持ち帰り、落飾して菩提を弔った、と伝わる。この部分は義重の娘 祥寿姫が夫
源義平 の首を盗んで
清泉寺 に埋葬した話と良く似ている。
.
新田の南部を流れる利根川の支流早川に近い花見塚神社の横には内侍の墓と並んで義貞の伝・首塚が残る。義貞はここに内侍の館を建てて各地から集めたツツジを植え、花見塚の語源になった。周辺には江戸時代の初期まで花が咲き乱れていた、と。
.
勾当内侍 とは女官の官職名で、内侍司
※の女官(掌侍)の筆頭職。「勾当」とは「事に当たる、事を処理する」を意味し、帝の秘書的な存在として学問や礼儀作法に熟達した女性が任命される例が多かった。他の掌侍の俸禄が100石だったのに対して倍の200石を与えられ、正五位下の待遇を受けていた事から考えると才色兼備、現代なら上級専門職クラス、か。勾と匂は字も違うし、「香の匂いを当てる」調香師みたいな職業ではないのは無論のこと。
.
※内侍司: 帝の近くで経理・総務・人事・礼式などを担当した女性だけの組織だったらしい。八咫鏡を模した神鏡を内侍所の温明殿に安置した経緯から神鏡の代名詞にもなった。
元々は尚侍・典侍・掌侍(内侍)・女孺の四等官に準ずる職位があったが鎌倉時代になると尚侍は有名無実、典侍(従四位)は公卿の娘がメインの名誉職となった。定員6名で実務を取り仕切った掌侍の筆頭職が勾当内侍(こうとうのないし)。 勾当内侍の墓は太田市阿久津町209(
地図)。小さな公園の駐車場あり 拝観は無料
.
左:琵琶湖に入水した勾当内侍を葬った野神神社 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
ここに載せたのは
後醍醐天皇 の近くに仕えて寵愛を受けた固有名詞としての
勾当内侍 で、元弘三年(1333)に鎌倉を攻め落とした恩賞として
新田義貞 に下賜された女性を指す。太平記に拠れば、彼女は世尊寺家(藤原北家系の書道に秀でた家柄で室町末期に断絶)の出身で、世尊寺経尹の娘(一条経尹または一条行尹または一条行房の娘)あるいは妹とされる。義貞の妻の一人として描かれているが、裏付けの資料がごく少ないため存在そのものをフィクションとする説もある。
.
ちなみに新田義貞の正妻には諸説あり、常陸小田城(つくば市・
地図)の城主小田真知の娘、抜鉾神社(上野一之宮
貫前神社(公式サイト)を差す)の神主 天野時宣の娘、安東氏(秋田氏の祖で
安倍貞任 の末裔を称する津軽の豪族)の娘、など。ひょっとすると勾当内侍を含む全員が妻妾だった可能性もある。羨ましいと思うか、神経の休まる事がないから嫌だ、と危惧する男性もいる、か。
.
晩年の
勾当内侍 は嵯峨野の庵で義貞の菩提を弔った、或いは近江堅田で入水自殺したなどの伝承があり、どちらにしても京の近くで没したと考えるのが自然だろう。幾つかある勾当内侍の墓として最もポピュラーなのが今堅田の野神神社、義貞を死なせてしまった勾当内侍の、狂気にも似た悲しみを模したという 「きちがい祭り」 の俗称でも知られた社である。
.
延元三年(1338)の8月、義貞が越前の藤島で戦死(7月2日)したのを知った内侍は今堅田の琴が浜で入水自殺、哀れに思った村人は岸辺に塚を築いた。明応六年(1497)の150年忌に塚の場所に社を建てたのが野神神社である、と。
道の駅・びわ湖大橋米プラザ(別窓)から徒歩200m、神社横にも路駐できる無住の社で拝観は無料(
地図)。
1.6km南には
堅田の浮御堂(市のサイト)もある。
.
右:討死した新田義貞の首を葬った太平山善昌寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
南朝の指揮官だった
新田義貞 は反撃に転じた延元二年(1337)に越前国府を落として南朝勢力を糾合し、更に奥州から参戦した
北畠顕家 (wiki) と連携して京都進撃を計画した。しかし美濃国青野原で北朝軍を破った北畠顕家は義貞が制圧した北陸ではなく伊勢に向けて進軍する。
.
北陸に合流しなかった理由には諸説あるのだが、取り敢えず青野原では勝利した北畠顕家軍も連戦の疲労が重なり、勢力を立て直した北朝軍に5月22日の石津合戦(堺市一帯)で惨敗して戦死、翌年7月には新田義貞も越前国藤島(福井市)の
灯明寺畷 (wiki) で斯波軍に囲まれ討ち取られた。鎌倉を攻め落としてから僅か4年後である。
.
太平記は「意味のない軽率な行動が原因で名もない兵の矢を受け落命」、また北畠親房の神皇正統記も「上洛を躊躇して時を逸し、むなしく戦死」と描いている。後世の歴史家が行動の是非を論じるのだから当事者の心の襞には踏み込めないが、「部下を見殺しにできない指揮官」だった可能性がある。義貞の首は京に送られ、朝敵として都大路を引き回されて獄門に懸けられた。
.
脇屋義助(
義貞 の実弟)をはじめとする南朝の残存勢力はその後も抵抗を続けたが既に勝敗の帰趨は明らかで、鎌倉幕府を滅ぼした際に得た源氏の重宝
鬼切丸(別窓)も足利氏の手に渡った、と伝わる。善昌寺の伝承では、新田家執事を任じていた舟田善昌が
勾当内侍 の侍女 丹の局の手を借りて六条河原に晒されていた義貞の首を盗み出し館の裏山に葬った、と。
.
左:脇屋義助の遺髪を葬ったと伝わる脇屋山正法寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
寺伝に拠れば、
経基王 (源経基) が開基となり京都
醍醐寺 (公式サイト) の開山和尚である聖宝を迎えて延喜年間 (901~922) に創建した真言宗の古刹で、当初は山号を萬明山聖徳院聖宝寺と称した。その後は荒廃したが、元暦年間 (1184~1105) に
新田義重 が修復して中興、元弘年間 (1331~1334) には脇屋義助が寺領として由良郷の脇屋村と大般若経600巻を寄進している。
.
康永元年(南朝の年号は暦応三年・1342)に伊予国府で病没した義助は鳥取倉吉市の
大蓮寺 (wiki) に葬られた(なぜ山陰鳥取なのかは判らない)。義助の死を看取った児島高徳
※が遺髪を新田に持ち帰りこの寺に葬っている。その後は義助の法名「正法寺殿傑山宗栄大居士」にちなんで正法寺と改め菩提寺となった。本尊は鎌倉時代初期の作である聖観音、12年毎に一度開帳する秘仏である。
.
元々の正宝寺は南東約1kmにあった脇屋義助の館(詳細は後述の「太平記に見る北條vs新田の攻防戦と鎌倉の陥落」に記載)近くだったらしい。ここの字名を転用した観音免遺跡からは板碑・五輪塔・層塔などが出土し、層塔は本堂左奥の義助遺髪塚横に遷して祀ってある。
正法寺の住所は太田市脇屋町562(
地図)、参詣者用駐車場あり 拝観は無料
.
※児島高徳: 太平記だけに載る人物で実在は疑わしい。桜の幹を削って
後醍醐天皇 に忠誠を誓い零落の身を励ます
漢詩(コトバンク)を
を記した逸話から、戦前は忠臣の鏡とされた。太平記の編者で実在する小島法師がモデル、または彼こそがモデルと考える説もある。備前国児島郡(倉敷市周辺)出身の武士で、後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵した際から参戦し数々の功績を挙げた...とされているのだが、論功行賞の記録には高徳の名前が載っていない。
.
右:児島高徳が没した、と伝わる高徳寺。画像は尾形月耕の「桜の詩」 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
児島高徳はその後も義助の子・義治を助けて北朝側と戦ったが利あらず、建徳二年(1371)に新田荘に近い佐貫荘古海(大泉町)の古海太郎広房を頼って定住、剃髪して備後三郎入道志純義晴と名乗り、弘和二年(1382)に医王山延命院高徳寺(群馬県大泉町古海2209(
地図)に隠棲し72歳で没したと伝わる。高徳寺の200mほど南の利根川近くに墓が残されているが全国には墓所も多数あり、真偽は定かではない。
.
【 児島高徳公と高徳寺(参道の表示) 】.
この高徳寺は後醍醐・御村上・長慶天皇の南朝三代の帝に仕えた児島高徳(剃髪して志純義晴)を開祖として開かれました。児島高徳は延慶四年(1311)備前国(岡山)児島の尊瀧院で生まれ、元弘二年(1332)に後醍醐天皇が隠岐に流される時、院ノ庄の御館の庭で「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず)の詩を書いて自ら范蠡を以って任ずる意を奏上しました。
.
その後は 新田義貞 の傘下で戦い、義貞の死後は弟の脇屋儀助に従って四国征伐に赴き、義助の死後はその子・義治を擁し京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年(1372年・南朝年号)摂津の天王寺に行宮せられた後村上天皇に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命を受けて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協力で兵一万騎を京都に向わせるなど、新田氏との深い関係を保ちました。
.
建徳二年(1371)、上野国新田荘に御滞在中の宗良親王の許へ使いしたのを契機としてこの地古海に隠棲し軍中守護神だった摩担利尊像を安置し宗良親王に仕えたり南朝の再建にも苦慮した。永徳二年(1382年・南朝年号)11月24日享年72歳でこの寺で永眠されました。