【 太平記 高時と北條一門らが東勝寺で自害した事 】.
高重は(東勝寺を)走り回り「私がまず手本を見せますから各々も早く御自害されよ」と胴の部分だけ残った鎧を脱ぎ捨て、高時入道の前に置いた盃を持って弟の新右衛門に酌をさせた。三杯を飲み干して摂津刑部太夫入道々準の前に置き「お飲みください、肴はこれに」と左脇腹に刀を突き立て右脇腹まで切り裂き、腸を引き出して道準の前に倒れた。
.
東勝寺の正確な創建時期は判らない。嘉禄元年(1225)に
義時 が死去し、三代執権として幕政を継承した
北條泰時 が
栄西 の弟子
退耕行勇 を開山に菩提寺として建立したとも言われるが、これは出典が確認できない。また仁治三年(1242)に没した泰時本人は大船東部の
粟船山常楽寺(別窓)に葬られて墓石があるし、一周忌と十三回忌を執り行った記録も残っている。従って東勝寺を菩提寺と考えるのは理屈に合わない。嘉禎三年(1237)開基説もあるが、吾妻鏡に拠ればこの年に開かれたのは常楽寺なので、これも信頼性に欠ける。
.
【 吾妻鏡 嘉禎三年(1237) 12月13日 】.
泰時は母※の追福を祈るため墓の傍らに寺※を建立、本日が落成供養である。導師は荘厳房律師(退耕)行勇、匠作と遠江守※が説教に耳を傾けた。
.
※泰時の母: 武蔵七党の一つ・丹党に属する安保實定の娘。寺とは大船の常楽寺(
泰時 の墓と
志水 (木曽) 義高の首塚 (伝承) がある)を差す。
.
※匠作と遠江守: 匠作は修理職の唐名で
義時 の弟
時房 を、遠江守は
泰時 の弟
朝時 を差す。
.
【 更に太平記は続く 】.
道準は盃を取り「見事な肴だ、如何なる下戸でも飲まぬ訳にはいかぬな」と戯れ、盃を半分干して諏訪入道の前に置き腹を切った。諏訪入道直性はその盃を取り心静かに三度傾け相模入道高時の前に置いて「若い連中は随分と達者な芸を見せてくれる。老人もまた、後に続く人々のために肴を残そうか」と腹を切り、その刀を抜いて高時入道の前に置いた。
.
長崎入道円喜は高時入道が気懸かりでまだ自刃していなかったが、15歳になる孫の長崎新右衛門が祖父の前に畏まり「父祖の名を高めるのが子孫の孝行ですから神仏も許して頂けるでしょう」と年老いた祖父円喜の肘の付け根を二度刺し、その刀で自分の腹を切り祖父に乗りかかって共に体を刺し貫いた。この若者に武者のあるべき姿を教えられた高時入道も腹を切り、続いて城入道や本堂に列座していた北條一門また他家の人々も白い肌を曝して腹を切ったり自ら首を切り落としたりして思い思いの最期を遂げたのは立派な姿だった。
.
鎌倉幕府を滅亡に導いた悪役扱いされているのが政治的に無能の評価が定着している十四代執権
北條高時 と、幕府の侍所所司として軍事権を掌握すると共に得宗家執事として北條家の実権を握った長崎円喜・高資の親子。ただし高時に関しては、「闘犬と田楽が趣味」などを含む後世の恣意的な評価(太平記も同様)が多く、病弱だったこと以外の実像は判っていない。長崎円喜の場合は親子で組織の実権を握った場合の弊害を絵に描いた様なケースで、庶長子の高貞を含めた三人に殆ど全ての権限が集中し、まさに体制が崩壊しつつある独裁国家の姿を描くようなエンディングだった。
.
【 更に更に、太平記は続く 】.
金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・
伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・
桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・
同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、加えて名越一族の34人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々46人、総じて一門に繋がる283人が次々と自刃して館に火を懸け、猛火と黒煙が天を焦がした。
.
.
庭先や門前に居並んでこれを見ていた兵も腹を切って炎に飛び込み、また肉親と刺し違えて命を絶った。鮮血は川のように流れ、道には屍が累々と並ぶ有様だった。焼け跡の死骸は判別できないほどだったが詳細を調べた結果、東勝寺一帯での死者は870数人だった。他に一門の者・恩顧のある者・僧俗男女を問わず恩顧を受けて殉死した者など、遠国は不明だが鎌倉だけで6000余人である。元弘三年(1333)5月20日は九代続いた平家(北條)の繁栄が一日で滅亡し、長く鬱積していた源氏の不満が一挙に解決した日となった。.
※戦死者数: 昭和28年(1953)に簡易裁判所の敷地(
地図)で900体以上の人骨が出土、殆どが外傷を受けた成人男子だったため鎌倉陥落に伴なう幕府側の戦死者を集団埋葬
したうちの一ヶ所の可能性が指摘されている。
鎌倉(特に由比ガ浜周辺)には集団埋葬の跡が40ヶ所以上あり、最も多いケースでは1000体を越える人骨が確認された。昭和三十一年(1956)に調査した材木座遺跡では頭蓋骨283のうち191例に刀創が確認され、すぐ近くの静養館遺跡(
地図)では頭蓋骨が完全に切断されたような刀創が91例中に6例確認された。集団埋葬の場合は疫病などの死者も含まれているし、合戦での致命傷は頭蓋骨の刀創だけではないから、実際の姿は謎に包まれている。 合掌
.
※ 義貞挙兵から鎌倉陥落までの太平記現代語訳は終りました。これから場所・人名の注釈と現地の画像を添付していきます。
ここから下は工事中の古いメモです。整理が終わっていないため残してあります。
そして翌・閏月7月23日に政子の裁定が下る。
一条實雅は妻(義時の娘)と離別し京を経て越前に流罪、伊賀光宗は信濃へ、義時の後妻伊賀の方は伊豆流罪。二ヶ月続いた騒乱はようやく決着した。
【吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月23日】
寅の刻(早朝4時前後)に泰時邸付近が騒がしくなった。珍しい事なので人は不思議に思ったが卯の刻(朝6時前後)になって一条實雅卿が上洛のため出発し、集まっていた武士も退去した。伊賀四郎朝行・同六郎光重・式部太郎宗義・伊賀光盛らが實雅卿に従って同行、また式部大夫親行・伊具馬太郎盛重らは指示は無かったが個人の立場で同道した。
【吾妻鏡 同じく、 閏7月29日】
謀反に関わった伊賀光宗の罪は重い。政所執事を解任し所領52ヶ所を没収、身柄は外叔父の隠岐入道行西が預かった。親戚の担当には問題ありとも言えるが政子の指示で泰時が下した命令である。また籐民部大夫行盛が政所執事に補され、尾藤左近将監景綱(北條得宗の家臣)が泰時の後見となった。執権家令による後見は初の例で、景綱は藤原秀郷の子孫を称している。
【吾妻鏡 同じく、 8月29日】
義時後妻の伊賀禅尼は二位尼政子の指示により伊豆北條に下向蟄居、また伊賀光宗は信濃国配流となった。弟の四郎朝行と六郎光重らは相模掃部助・武蔵太郎が預り京都から直接鎮西(九州)に配流の命令が下った。この両人は前の将軍頼経の更迭に従って在京したままである。
伊賀氏と政村謀反計画に関して泰時が直接述べた記録はない。吾妻鏡は政子の言葉として謀反の計画云々を書いているが裏付けとなる根拠はなく、状況証拠として伊賀光宗兄弟と政村が会合を重ねた(らしい)との風聞を挙げているに過ぎない。
伊賀光宗は翌年の政子死没後に赦免され所領を回復した。泰時としても政子存命中は復権を控えたのだろう。光宗は寛元二年(1244)に幕府評定衆に就任した。旧職の執事よりワンランク上、三権を司る幕府の最高機関(トップが執権)だから、完全な復権である。北條政村は長く冷遇されたが第五代執権時頼の時代に復権し、第七代執権として時宗の前任を務めている。彼らが本当に「謀反の首謀者」と「背後の黒幕」だったのなら有り得ない処遇である。
家督継承者の異母弟が殺されるのは珍しくない。義時後妻の伊賀の方が息子政村を心配して尽力した...そんな所が真相か。泰時-時房ラインの影響力低下を危惧して過剰反応した政子が伊賀氏を潰し、北條嫡流(得宗)の独裁体制を維持するために謀反を捏造したのだろう。もちろん政子が「これは間違いなく謀反だ」と思い込んだ可能性もあるが、他人の意見を虚心坦懐に聞くようなタイプじゃないからね。いずれにしても「政子の最後っ屁」だ(笑)。
【吾妻鏡 貞応三年(1224) 9月5日】
義時の遺領を子女に配分する詳細を泰時と二位尼が発表した。それぞれに回覧し所存があれば申し出よ、支障がなければ将軍下文で発表する、と。全員が喜んで異議なしとした。泰時が鎌倉に入ってから内々にリストアップして二位尼に見せた際に「概ね妥当だが嫡子(泰時)の分が頗る少ないのは何故か」と。泰時は「執権の任に就く者が所領を争っても意味なし、舎弟らに分与するのが妥当」と答えた。二位尼はその言葉に感涙を流し、今日彼の思いを披露したものである。また故義時は官位を受けるのを避け偏に「前の奥州」を称していたが、没後は右京権大夫を使うよう定めた。
義時死没の半年後、伊豆北條に流されていた義時後妻(伊賀氏娘)が重態になっている。死没の記事はないが、政子が念を入れて手配した毒殺に違いない。長男の政村は当時19歳だから、伊賀の方はせいぜい40歳を過ぎた程度、自然死には早過ぎる。
【吾妻鏡 同じく、 12月24日】 伊豆北條から飛脚が到着。義時の後妻伊賀禅尼が去る12日から病となり昨日巳の刻(午前10時前後)から重態、と。
以下は手付かずの工事中。しばしのご容赦を。
弘長元年(1261年)4月に安達義景の娘の堀内殿と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。
文永元年(1264年)7月、6代執権北条長時が出家、北条政村が7代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年(1266年)に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行った。
クビライ・カーンがモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、第8代執権となる。
元寇への対応から晩年 [編集]
時宗は政村や北条実時・安達泰盛・平頼綱らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、大田文の作成、御家人の所領譲渡制限、異国警固体制の強化や、降伏の祈祷など行わせる。モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず、朝廷が作成した返牒案も採用せず、黙殺を続けた。三別抄からの援助要請も黙殺した。文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、異国警固番役を設置している。
また、得宗家の権力を磐石なものとするため、文永9年(1272年)には六波羅探題の南方の別当で弟の時宗が執権になった事に不満を持ち、朝廷に接近するようになっていた兄の時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺し、世良田頼氏を佐渡へ配流している(二月騒動)。文永11年(1274年)、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流した。
文永11年(1274年)、モンゴル軍が日本に襲来した。いわゆる元寇である。この時の日本軍は元軍の集団戦法や新兵器などに苦戦したが、暴風雨の到来によるとも指揮官たちの方針の分裂が原因とも言われるモンゴル軍の撤退で全面的戦闘は回避された。翌年、降伏を勧める使節杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、連署の北条義政の反対を押し切って処刑する。建治3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家するが、弘安6年(1283年)に北条業時が連署就任するまで連署は空席となった。弘安2年(1279年)に来日した周福ら使節団も、大宰府で処刑させた。これらの処刑には元への示威行動の意図もあった。時宗はじめ幕府の首脳陣は高麗出兵を一時命じたが、軍事費などを勘案した末、結局中止となり、異国警固番役を拡充し、長門探題を新たに設置し、文永の役を教訓として博多湾岸に今でも残る石塁を構築するなどして国防強化に専念した。特に石塁や異国警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも、兵や兵糧の調達を実施し、鎌倉幕府の西国における支配権が拡大された。六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与えるなど機能を強化させた。また、北条一族を九州などの守護に相次いで任命して現地にも下向させ、時宗自身も小山氏の播磨守護を免じて、自身が就任した。また寄合衆には、平頼綱ら御内人の参加を広げ、将軍権力であった御恩沙汰などを行うなど得宗専制が強化された。その方針は時宗没後に具体化された弘安徳政にも反映されることになる。
以仁王と源三位頼政が打倒清盛の兵を挙げた治承四年(1180)4月9日に始まった吾妻鏡は、86年が過ぎた文永三年(1266)7月20日の記述が最後となる。第六代鎌倉将軍の宗尊親王が更迭され、三歳の嫡男惟康親王が第七代将軍に着任、臣籍降下して征夷大将軍源惟康となった。九年には二月騒動
文永五年1月にはモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハーンから服従を求める国書が届き、
【吾妻鑑 文永三年(1266) 7月20日】
戌の刻(20時前後)に前の将軍(第六代宗尊親王)が京に到着、左近大夫将監朝茂朝臣の六波羅亭に入った。
右:北條一族最後の地 東勝寺 画像をクリック→詳細ページにリンク
1266年(文永3年)7月20日に第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を退位するところで終わる。
太平記によれば、歴代の北條執権の治世は繁栄の時代、と賞賛しているが、最後の執権高時についてはかなり厳しい評価を下している。あたかも、「滅びる
のは自業自得」と言うかのような・・・北條時政が江ノ島で参籠して授かった神託「道に外れれば、一族滅亡」が実現したのだろうか、八幡宮の東南方向約500mの
累代の菩提寺東勝寺では追い詰められた北條一族とその家臣 570余名(一説には800余名)が自決。こうして頼朝が幕府を開いた140年後に、鎌倉時代が終りを告げた。
一族の屍は裏山に葬られ「北條高時腹切りやぐら」の名で残っているが、東勝寺はただの草原として残っているだけで、往時の姿は想像するしかない。
元弘三年(1333・改元して正慶二年) 旧暦の7月4日、北條高時は迫る新田軍を避けて千余騎とともに父祖の墓地である東勝寺に移動した。幕府軍は鎌倉の各所で敗れ、
すでに勝敗の帰趨は明らか。ここで時間をかせぎ静かに自刃しよう考えたのだろう。この戦乱の様子は太平記にかなり詳細に述べられている。双方の死者は多分、
万を越えたと思われ、鎌倉時代最後のそして最大の戦いだった。
昭和28年、一の鳥居近くから簡易裁判所にかけて膨大な量の人骨が発見されている。刀創などが残る物が多いためこの合戦の戦死者と推定されたが巻き添えになった
庶民も多かったことだろう。勝利者の新田義貞も建武三年(1336)に材木座に九品寺を建てて死者の霊を弔っている。
北條高時の「腹切りやぐら」の中には卒塔婆や石塔が沢山あり、周辺はいわゆる「鎌倉の高級住宅地」だが・・・比企一族が北条軍により皆殺しになった妙本寺から
それほど離れていないのも怨念だろうか。
小町大路との間に流れる滑川にかかる東勝寺橋の辺りも血で血を洗う死闘が展開された場所である。橋から川面を覗くと累々と重なる屍が見えてくるような...
<参考までに・・・私の好きなお寺>
北鎌倉の東慶寺のそばに
鎌倉五山 の第四位
浄智寺 があります。北鎌倉の混雑から少し離れた、心が洗われるような静かなお寺です。
鎌倉で最も古く創建された
杉本寺 は坂東観音札所の一番でもある。
観音堂前の苔むした階段は、保護のため通行禁止になっている。
左:伊豆の踊り子の舞台、旧天城トンネル
ここは河津側の出口で、反対側には峠の茶屋があった。この石造りのトンネルは明治38年に工期13年をかけて完成している。
全長446m、巾は約4mです。
昔の本街道は更に西側の「二本杉峠」を越える道で、下田に上陸したハリス総領事もここを通っている。現在はこの峠は良く整備された
ハイキングコースになっている。
ちなみに「伊豆の踊り子」の時代設定は大正7年で、今では新天城トンネルの開通によって旧道となり、観光ポイントとなって
いる(車の通行は可能)。
これは「歴史の裏話」と言えるのか、どうか…。
九郎判官義経が軍人として優れていた理由は彼の価値観にある。当時の戦いは互に名乗り合って正々堂々と一騎討ちから
スタートした。名乗られて逃げるのは(たとえ相手が強くても)卑怯、武士の恥とされたのだが、この「常識」は義経には通じない。そもそも義経は小男で、甲冑を着けての戦いは大の苦手。
勝てそうもなければサッサと逃げ、それどころか当時はタブーだった非戦闘員への攻撃(例えば相手の船の漕ぎ手への攻撃)や騙まし討ちなども、戦いに勝つためなら当然と考えていた
ようだ。
ちなみに当時の合戦の基本的なルールは
騎馬武者は徒歩の敵を攻撃してはならない、徒歩の武者は騎馬武者を攻撃できる、馬を傷つけてはならない、非戦闘員を攻撃してはならない...などが決め事だったらしい。その他の
ルールもいずれ書いてみたいと思っている。
高木彬光の歴史推理小説「成吉思汗の秘密」の中では、蒙古帝国の創設者ジンギスカン=義経のその後の姿であると推理した。義経の死は1189年・31才。
モンゴルでジンギスカンが帝位に就いたのは1206年で、もし彼が義経であれば働き盛りの46才。衣川を落ち延びた後15年かけてモンゴルに王国を築いたことになる。平泉から北海道
北部へは義経の逃走経路を示す伝承が点々と続いているが、逆に若い頃のジンギスカンに関する記録は、ほとんどないらしい。
左:天城山心中の記事 画像をクリック→詳細ページにリンク
主人公の名探偵・神津恭介が膨大な資料を分析して、ジンギスカン義経説を推理し終わった時、天城山心中(1957年12/4)が発生。日本にいた愛親覚羅溥傑氏
(満州国皇帝・愛親覚羅溥儀の弟)の長女で当時19才の慧生と日本人の大学生・大久保武道君(父親は青森の南部鉄道常務)が、交際を反対されたのをきっかけに
天城山で心中を遂げた。二人の遺体は自殺した一週間後の12/10朝、旧天城トンネル入口から八丁池へ登る道の、トンネルから約1500mの地点で発見
されている。
①寒天橋から寒天林道を1500m進んだ地点、右側雑木林に約15m入った場所
②トンネルから上り御幸歩道を1500m進んだ地点、右側雑木林に約15m入った場所
・・・のどちらかが、二人が死を選んだ場所。
この付近は天城屈指のハイキングコースで、天城トンネル付近から八丁池に向かうには「寒天林道」と「上り御幸歩道」の2ルートがある。当時の新聞の記載
は不明確だが二人が選んだのは多分「上り御幸歩道」と推測される。いつか歩いてみたい道である。
左:行楽シーズンには八丁池方向へのバスも通る、秋の寒天林道
定期運行のバス以外の車両は通行禁止。終点までは歩いても約1時間で到着する。一番素敵な季節は秋であろう。山好きは厳冬が最高だと言うが、ちょっとハードだ。
愛親覚羅慧生は清王朝・ジンギスカンの末裔。大学生の身元を更に調べると、衣川から落ち延び北へ向かう義経が陸奥の国で恋を
した、その相手の娘の血を引く家柄だと判明した、という筋だったような。娘は鎌倉の追手に討たれ、死んだ場所「椿山」は娘の
血で染まったためこの山の椿の花は全て赤いのだとか・・・。そして天城山は、源氏終焉の地修善寺から遠くない場所。
天城山心中は、義経と陸奥の娘の「輪廻転生」であった。愛し合いながら異郷の地に離れて死んだ二人の魂が800年の歳月を
越えて生まれ変り、源氏ゆかりの地から再び悠久の時の流れに帰ったのだと神津恭介の謎解きは終わっている。
右:初夏の天城山系・万二郎岳近くのブナの古木
天城には手付かずの自然が豊富に残されている。ブナ、石楠花、馬酔木、姫シャラなどの群生も魅力的で、四季それぞれに楽し
ませてくれる。車が入れず、徒歩以外に行かれない場所が多いのも自然が守られている理由の一つなのだろう。
しかし神津恭介の描いた結末は少し強引で・・・静御前の献身的な愛はどうなったのだろうか?権力者頼朝を前にして義経を慕う心を隠さなかった
毅然とした態度を考えると(浮気者の義経はともかくとして)静御前の人気が高いのもよく理解できる。
愛親覚羅慧生がジンギスカンの子孫(=義経の子孫)だと仮定して、もしも大久保武道が静御前の血を引いていれば「天城山心中」は明らかに輪廻転生であり、鳥肌が立つほどの説得力があるが...静御前が奥州の地を訪れた記録はない。辛うじて新潟県の栃尾に墓と伝わる史跡が残るのみで、彼女は義経を慕って平泉を目指し六十里越の峠(現在の国道252号)を前にして息絶えた、と伝わっている。
・・・ 終 ・・・