天城山心中 新聞報道、他 

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昭和32年(1957)12月10日 朝日新聞夕刊より抜粋 黒文字は原文通り(の部分と画像は筆者が加工・追加)
 
     慧生さんと大久保君の死体発見 天城でピストル心中 家出した4日後に <湯が島発>

武道と慧生 【左:大久保武道と愛親覚羅慧生】
 
去る4日夕方、伊豆半島天城山で姿を消した元満州国皇帝溥儀氏のメイ、学習院大二年生愛親覚羅慧生さん(19)と級友の大久保武道君(20)の二人は一週間目の10日午前9時半ごろ、天城山中八丁池南側の寒天橋、向峠間の森林の中でピストル心中死体となっているのを捜索隊の静岡県賀茂郡上河津村消防団員が発見した。
現場は天城山頂上のトンネル入口から八丁池へ登るコースでトンネルから約1500mほど登った右手の向峠の雑木林で、普通のハイキングコースから15mほど入ったところ。下田、大仁両警察署の検証によると、大久保君が先に慧生さんの右コメカミに銃口をつけて射ったのち、自分も右手で同じ右コメカミを射って心中したもの。大型ピストルは大久保君の右手に握られていた。
 
二人の最期の足取りは4日午後6時半ごろ修善寺駅から乗ったハイヤーを天城峠八丁池入り口で乗り捨てたところでぷっつり切れ、家人の届け出で5日から9日まで警察署、消防団、同級生、家族などによる大掛りな天城山一帯の捜索もむなしく、2、3の遺品がみつかっただけで、9日夜一応捜索が打ち切られていた。一時は4日夜遅く伊東市の旅館に泊まった2人連れが慧生さんたちらしいと家族の望みもかけられたが、9日夜になって伊東の2人連れは別人とわかり10日朝再び捜索を始めたところ死体を発見したもの。
 
十四式軍用拳銃 【右:心中に使われた旧日本軍の十四式制式拳銃】
 
  ※拳銃:終戦の時に軍人だった大久保武道の父弥三郎氏が八戸の実家に保管していた軍用拳銃。
 
  ※世相:53年前の新聞代の頃1ヶ月330円・朝刊7円・夕刊5円、まさに隔世の感がある。
同年1月には群馬県相馬が原の演習場で薬莢拾いの農婦が米兵に射殺されたジラード事件、翌・昭和33年には18歳の在日朝鮮人二世が女子高生を殺した小松川女高生殺人事件、その翌・昭和34年には国外へ逃げたカトリックの牧師ベルメルシュが犯人と推定されたスチュワーデス怪死事件、その翌・昭和35年には浅沼社会党委員長刺殺事件など、殺伐としたニュースが続いた。
明るいニュースは昭和34年4月10日の皇太子と美智子さんの御成婚。海外では「粉屋の娘のシンデレラ」と報道された。正田家は日清製粉のオーナーである。
 
御幸歩道周辺 左:天城隋道と御幸歩道の周辺ハイキングコース    画像をクリック→拡大表示へ
 
二人は去る4日夕方、天城トンネルから天城峠に登り、その夜心中したものと両警察署ではみている。服装は慧生さんは空色のセーターにオーバーを着、茶のクツ、スカートは黒と白の混じった紺色、武道君は紺の背広に同色のオーバーを着、黒短グツをはいていた。二人の傍に男物旅行カバンと女物ボストンバッグがおかれてあった。心中後の雨で血が洗い落とされ、二人はこざっぱりとした様子だった。遺体は新しい肌着に着替えて百日紅の根元に並び、慧生は武道の左腕を枕にしていた。落ち葉の下からは二人の遺髪と爪が入った紙包みが発見された。
 
天城隧道(天城トンネル)の入口で若い男女を降ろしたタクシーの運転手は「待ちましょうか」と聞いたが客は「帰ってよい」と答え、懐中電灯を持って山道に入って行った。心中でもする気じゃないかと感じた運転手は湯ヶ島の警察に事情を届け出た。警視庁に出された捜索願と静岡県警の情報が結びついて湯ヶ島温泉で現在も営業している「たつた旅館」に捜索本部が置かれた。
 
  ※たつた旅館:現在も湯ヶ島温泉で営業している。(参考サイト)
 
  ※余計なこと:失踪から発見までの4日間どこにいたのか、肉体関係があったかなどの情報は皆無。「新しい肌着」が少し気に掛かる。

 
溥儀 【右:慧生の叔父にあたる 元満州国皇帝溥儀】
 
<悩む大久保君に同情? 慧生さん、不幸な「名門」にも反発>
愛親覚羅慧生さんは元満州国皇帝溥儀氏の実弟・溥傑氏の長女。母浩さんは嵯峨公勝侯爵の孫、12年4月に溥傑氏と結婚、13年2月に慧生さんが生まれたときは「日満親善の申し子」ともいわれた。
大久保武道君は、青森県南部鉄道常務大久保弥三郎氏の長男。2人とも学習院大文学部国文科の2年生で、大学入学当時から親しかったという。去る4日、登校するといって慧生さんは横浜市日吉の嵯峨家を、大久保君は東京都文京区森川町の新星学寮を出たまま一緒に姿を消していた。
 
  大久保弥三郎氏は地元の八戸市小中野ではかなり著名な人物だった。
旧制八戸中学校から旧制弘前高校へ進み、後に仙台で振東塾を開いた。昭和28年(1953)の参議院議員選挙青森選挙区(定数2・改選1)に立候補し次点(59,657票)で落選している。45歳、無所属、職業は船用金具商。ちなみに当選者は緑風会の佐藤尚武(70歳・294,422票)。
 
2人が死をともにした原因について学習院大の関係者、友人、新星学寮の人たちは次のようにみている。
家出後に、4日付で慧生さんが大久保君の下宿先にあてた手紙には「人生について武道さんが悩み、生きる勝ちがないとまで思いつめている。私はその考えをひるがえさせようとしたが、結局、武道さんの考えに一致しました。私は「2人の問題」でこうした行動に出るのではなく、武道さんに引きずられたわけでもありません」という意味のことがあった。友人たちの話しでは大久保君は真面目な勉強家だが、激しい気性の持ち主で、思いきったことをやるタイプ。最近父親の生き方に反発していたようだったという。ピストルは大久保君が予め手に入れておいたものだった。嵯峨家では交際を認められず出入りは禁じられていた。

溥儀と浩 【左:愛親覚羅溥傑と嵯峨公勝侯爵の孫・浩の婚礼写真】
 
一方慧生さんは名門の人らしい気品、気位を持った聡明な人柄だったが、やはり悩みがあったようだ。 溥傑氏、浩さんの結婚は当時、日満一帯の花のようにいわれたものだったが、「政略結婚」のニオイがあった。慧生さんは親しい女性の友人に「お母さんのように、他人の意志に動かされて結婚したくない」ともらしたことがあった。 「同じ運命を辿りたくない。住みなれた日本を離れたくない。20才になれば自分一人で行動できるから・・・」ともいっていたという。ある学習院の関係者は「2人とも良家の出だが、恵まれた生活の条件もすこしバランスが崩れると大きな障害になったようだ」といっていた。
 
  ※武道の性格:当時は珍しくなかった事だが大久保弥三郎氏は妾を囲うなどで家庭内は円満ではなかった。
息子の武道はそんな父親に反発しつつ、その保護を受けている自分にも不満だったらしい。武道の性格が自己中心的で行動が強引だった面は否めず、例えば慧生が他の男子学生と立ち話をした程度で相手に決闘を申し込んだり、慧生に拳銃を突きつけて「一緒に死んでくれ」と迫ったなどの事例もあった。その辺が合意の心中だったのか、或いは嵯峨侯爵家が主張するように「武道による無理心中」の色合いが濃かったのか、評価の分かれる部分なのだろう。
 
横浜市港北区日吉町459嵯峨公元さん方の慧生さんの家に、悲劇の知らせが入ったのは午前11時ちょっと前。母浩さんは先月末からカゼで寝たり起きたりしていたが、こんどのことで寝ついてしまい面会は謝絶、まだ死亡も知らせていないという。叔父公元さんと叔母町田幹子さんの2人は、大急ぎで現地に向かった。慧生さんの妹さん(学習院大文学部)は何も知らずにいつものように大学にいった。 昼ごろから慧生さんの大学の友人たちがいきせききってかけつけ、慧生さんの思い出を語り合っていた。嵯峨家に20年もつとめてきた高梨フミさん(50)は「慧生さんが家を出られた日の朝、8時ごろいつもと変らずほがらかな態度で、明るいあいさつをしてくださった。ほんとにおやさしい人でした。こちらには便りがまったくありませんでした。大久保さんは一年ぐらい前、2回ほど見えましたがお2人の間のことはまったく知りませんでした」と語っていた。
 
  ※その後:敗戦した2日後の1945年8月18日に溥儀は満州国皇帝退位を宣言し溥傑と共に日本への逃亡を試みたが捕らわれ1950年までソ連に抑留。
その後は二人とも中国で戦犯の再教育を受けた。溥傑はその後復権し日中友好に尽力した。妻の浩は1987年に、溥傑は1994年にそれぞれ北京で病死。溥傑と浩と慧生の遺骨は分骨され、一部は浩の曽祖父が祀られている下関市の中山神社に納骨、一部は中国の妙峰山上空で散骨された。元皇帝の溥儀も同様に中国政府の要職に就いた後に文化大革命さなかの1967年に北京の病院で没した。
大久保武道の遺骨は多分父親が引き取って故郷に埋葬したと思うが、記録が残っていない。