旧制八戸中学校から旧制弘前高校へ進み、後に仙台で振東塾を開いた。昭和28年(1953)の参議院議員選挙青森選挙区(定数2・改選1)に立候補し次点(59,657票)で落選している。45歳、無所属、職業は船用金具商。ちなみに当選者は緑風会の佐藤尚武(70歳・294,422票)。
当時は珍しくなかった事だが大久保弥三郎氏は妾を囲うなどで家庭内は円満ではなかった。
息子の武道はそんな父親に反発しつつ、その保護を受けている自分にも不満だったらしい。武道の性格が自己中心的で行動が強引だった面は否めず、例えば慧生が他の男子学生と立ち話をした程度で相手に決闘を申し込んだり、慧生に拳銃を突きつけて「一緒に死んでくれ」と迫ったなどの事例もあった。その辺が合意の心中だったのか、或いは嵯峨侯爵家が主張するように「武道による無理心中」の色合いが濃かったのか、評価の分かれる部分なのだろう。
横浜市港北区日吉町459嵯峨公元さん方の慧生さんの家に、悲劇の知らせが入ったのは午前11時ちょっと前。母浩さんは先月末からカゼで寝たり起きたりしていたが、こんどのことで寝ついてしまい面会は謝絶、まだ死亡も知らせていないという。叔父公元さんと叔母町田幹子さんの2人は、大急ぎで現地に向かった。慧生さんの妹さん(学習院大文学部)は何も知らずにいつものように大学にいった。
昼ごろから慧生さんの大学の友人たちがいきせききってかけつけ、慧生さんの思い出を語り合っていた。嵯峨家に20年もつとめてきた高梨フミさん(50)は「慧生さんが家を出られた日の朝、8時ごろいつもと変らずほがらかな態度で、明るいあいさつをしてくださった。ほんとにおやさしい人でした。こちらには便りがまったくありませんでした。大久保さんは一年ぐらい前、2回ほど見えましたがお2人の間のことはまったく知りませんでした」と語っていた。
※その後:敗戦した2日後の1945年8月18日に溥儀は満州国皇帝退位を宣言し溥傑と共に日本への逃亡を試みたが捕らわれ1950年までソ連に抑留。
その後は二人とも中国で戦犯の再教育を受けた。溥傑はその後復権し日中友好に尽力した。妻の浩は1987年に、溥傑は1994年にそれぞれ北京で病死。溥傑と浩と慧生の遺骨は分骨され、一部は浩の曽祖父が祀られている下関市の中山神社に納骨、一部は中国の妙峰山上空で散骨された。元皇帝の溥儀も同様に中国政府の要職に就いた後に文化大革命さなかの1967年に北京の病院で没した。
大久保武道の遺骨は多分父親が引き取って故郷に埋葬したと思うが、記録が残っていない。