左:石橋山から敗走した宗時が戦死、義時の得た幸運。 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
治承四年(1180)8月23日、
大庭景親 の三千余騎と
伊東祐親 率いる三百騎に囲まれ、
石橋山合戦(別窓)で散々に敗れた頼朝軍は南に逃げ、更に土肥の
堀口合戦(別窓)でも敗れて箱根に続く椙山に逃げ込んだ。
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ここで一行は分散し、
頼朝 と
土肥實平 らは数日逃げ回った後に舟で安房を目指した。
北條時政 と
義時 と
岡崎義實 と 近藤七国平らは別の舟で先行し、8月29日に
安房国猟島(鋸南町)(別窓)で頼朝の舟を出迎えた。
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一方で時政の嫡男
宗時 は土肥堀口合戦直後に
狩野介茂光 と共に日金山を越えて本領の北條を目指したが、これが運命の分れ道になる。茂光と宗時は翌24日に平井郷(現在の函南町)まで下った場所で伊東祐親の兵に囲まれた。肥満体のため逃げ切れないと覚悟した狩野茂光は孫の
田代信綱に介錯を命じて自刃、宗時は小平井の名主 紀六久重に射取られた。
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北條親子が分散して行動した理由については諸説あるが、これは単純に一族の全滅を避けるためと考えて良いだろう。強いて言えば、頼朝の側近に近い立場の義時を安房へ同行させたい意図があったか。
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運命の女神が誰に微笑むかは予測できないが、狩野氏の本拠である
柿木城(別窓)は直後に侵攻してきた大庭景親勢に攻め落とされているから、伊豆に逃げる方がリスクは高かったかも知れない。紀六久重は頼朝の鎌倉入り直後に行方をくらまし、後に捕まって斬首となった。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 1月6日 】.
工藤景光 が平井の紀六を生取った。去年の8月の早河合戦(この地名は間違いだろう)で北條三郎主(宗時)を殺した者である。頼朝が鎌倉に入った後に逐電し、駿河・伊豆・相模の各地に指示して探索した。相模国蓑毛(大山阿夫利神社の南・地図)の辺で工藤景光が捕えて連行し 和田義盛 に預けられた。犯行は認めているが詳細の糾明が済むまで斬ってはならない、と。 .
【 吾妻鏡 治承五年(1181) 4月9日 】.
腰越浜で平井紀六を斬首。北條宗時を射た罪は重いため拘留していた者である。
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【 吾妻鏡 建仁二年(1202) 6月1日 】 宗時に関する最後の記載。「22年後」には特に意味は無い、と思うが...
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時政が伊豆国北條に下向した。夢のお告げがあったため、死んだ息子三郎宗時の菩提を弔うためである。宗時の墳墓堂は桑原郷にある。
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右:関取場跡の碑が建つ義時大倉亭跡(西端) 画像をクリック→ 拡大表示
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案内板に曰く...天文十七年(1548)
※に(小田原)北条氏がこの場所に関所を設け、ここを通る人から徴収した通行税を荏柄天神社の修復費に充当していた。その掟書が今も荏柄天神社に保存されている。
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その中には「商人の麻・紙・布などの荷物は三文、馬を利用している参拝者は十文、往来するだけの僧や庶民からは関銭を取るべからず」と記してある(
地図)。この関取場跡から東側(六浦道沿いの右手)に幕府草創初期(
大倉幕府(別窓)の時代 ) に義時邸があった、と伝わっている。
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※天文十七年: 父信虎を追放し甲斐武田氏を統一した信玄が戦国大名の地位を確立し信濃侵攻を
進めたのが天文十年(1541)。当時の後北条氏当主は初代伊勢盛時(早雲)→二代北条氏綱を継承し「相模の獅子」と称された三代氏康。この直後には扇谷上杉氏を滅ぼし、
河越夜戦(wiki)で上杉・足利連合を駆逐して関東の主導権を握っている。
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安房・下総・上総の豪族と武蔵国の秩父平氏を見方に加えた
頼朝 は隅田川を渡り、武蔵国を経由して父祖の地・鎌倉へ。
北條時政 は使者として9月15日に
逸見山(谷戸城)(別窓)に入り伊那と飯田地方の平家与党を討伐した甲斐源氏の
武田信義 と
一條忠頼 に合流、9月24日には石和御厩に移動して軍議・調整しているため頼朝とは別行動を取っていた。
義時 は頼朝と一緒だったと思うけれど、時政に従って甲斐に派遣された可能性もある。
左:義時大倉邸跡の東端付近 画像をクリック→ 拡大表示
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画像の付近が義時邸と伝わるエリアの東端である。地番は二階堂9(
地図)、およそ名前と似合わない「草庵鎌倉」なるビル(
地図)で、一階に宗教団体「エホバの証人」が入っている、その前から撮影した。今でも同じかは判らない。裏手の300m北には荏柄天神社があるし、筋向いの大御堂橋を渡れば勝長寿院(大御堂)跡に至る。その他にも頼朝の墓や義時法華堂の跡、杉本寺など見逃せないスポットが多い。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月6日】.
頼朝 は 畠山次郎重忠 を先陣に 千葉介常胤 を従えて相模国(鎌倉)に入った。軍勢は幾千万を知らず、宿舎の準備が出来ていないため民家を取りあえずの館と定めた。 .
同年12月12日には大倉御所が完成し、それまでは十二所の
上総廣常邸(
地図)を仮御所にしていた頼朝が入御。北條時政は名越に屋敷を構え、義時は御所から500mほど東に屋敷を建て、翌年の4月には頼朝近習筆頭に義時の名が載っている。頼朝没後は源氏の血筋を断ち切り、古参御家人の粛清を断行した義時だが、頼朝に対しては忠実な部下の姿勢を守り続けていた。
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【吾妻鏡 治承五年(1181) 4月7日】.
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元久二年(1205)6月に畠山重忠が滅亡し、翌7月に時政が失脚して義時が二代執権に就任した後もここに住み、嫡子泰時の時代になって小町邸(現在の寶戒寺)が執権館となった。泰時が幕府政庁を宇都宮辻子に遷したのは嘉禄元年(1125)、
義時 と
政子 と
大江廣元 が相次いで没した後となる。
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右:八幡宮 東の鳥居前 畠山重忠鎌倉邸跡の碑 画像をクリック→ 拡大表示
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【 畠山重忠追討事件が語る吾妻鏡の虚実 】 事実を歪曲する、自民党機関紙(讀賣とは言わないけど)みたいな史書。
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二つの事件が義時の生き様を雄弁に物語る。
応保三年(1163)生まれの
北條義時 と長寛二年(1164)に生まれた
畠山重忠 は全くの同年代で、重忠は養和元年(1181)に義時の妹を正妻に迎えている。鎌倉入り以来の知人で義理の弟なのに、義時は元久二年(1205)6月に公称二万余の軍勢(実質は4~5千ほどか)を指揮して重忠主従(軽武装の130余騎)を皆殺しにした。しかも鎌倉に凱旋して時政に報告した内容が面白い。重忠が滅亡した
二股川合戦の詳細(別窓)を参照あれ。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月23日 】.
未の刻(14時前後)に相模守義時が鎌倉に帰還。時政が合戦について尋ねると、「重忠の弟や親類はそれぞれの所領におり、同行は僅か百余騎だった。従って謀反を企てたとの情報は間違いか讒訴で討伐された事になり、非常に気の毒である。確認のため本陣に届いた首を見た時には旧来の交誼を忘れられず涙を禁じえなかった。」と。時政は何も答えられなかった。
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畠山重忠の忠節と清廉潔白な性格は御家人の誰もが認めていた。だからこそ北條氏が覇権を握るために邪魔だった重忠の粛清は(同意ではなく)理解できるし、当時の「御恩と奉公」なんか利害に支えられた脆いもので、譜代の主従関係が固定化した江戸時代の「忠義」とは根本的に異質である。
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義時は狡猾で卑劣で平然と友を裏切る人物だが、それは当時の武士が所領を守り生き残る方策で、謂わば権利でもあったからね。その意味で畠山重忠は単純で真っ正直すぎた。義時は現実主義者として、重忠は信念に殉じた鎌倉武士の理想として、それぞれが歴史に名を留めることになる。
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と同時に、鎌倉時代末期(武家政権の爛熟期とでも言うべきか)に集大成された吾妻鏡の編纂者が史実の継承ではなく、恣意的な捏造を繰り返していた事も銘記する必要がある。その意味で吾妻鏡は時代を真摯に伝える史書ではなく、北條得宗家を中核とする権力者が都合良く改竄した伝聞の累積に過ぎない。まぁ安倍政権が官僚を巻き込んで捏造と隠蔽を繰り返したよりはマシだが、「吾妻鏡≒自民党の広報誌」程度に受け取るのが正解だ。
執権 北條四郎時政の失脚 左は願成就院収蔵の時政像(拡大なし) 室町時代の作だから特に意味はないが...
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重忠一族滅亡の20日後、事態は大きく動く。
政子+
義時 による 父親
時政 の追放と、
牧の方 と時政の娘婿
平賀朝雅 の殺害である。時政が若い後妻に唆されて娘婿の朝雅を将軍にしようと画策した...それが吾妻鏡の公式記録だが、事件の本質は 時政+牧の方+平賀朝雅
※ のクーデター計画ではなく、明白に義時+政子のクーデターである。
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雰囲気としては中大兄皇子(後の天智)と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺した
乙巳の変(wiki)に近い、権力闘争で窮地に置かれた側による計画的な逆転勝利である。乙巳の変と異なる部分は、倒した相手が(当時の道徳的規範に従えば)「絶対的な権限を持つ父親」だった事。その罪を隠すために「父親の謀反、つまり将軍の座を狙った事実」をでっち上げたに過ぎない。
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牧の方が産んだ唯一の男子・政範
※は16歳だった元久元年(1204)の官位は従五位下、義時も同じ年の3月6日に従五位下に叙されているが既に42歳である。義時の生母は
伊東祐親 の娘(異説あり)で、政範の生母・牧の方の実家は下級ながら貴族の血筋。時政が若い後妻に懇願されたか、それとも老いてから産まれた政範を溺愛したかは別として、北條一族嫡男の立場が義時から政範に移りつつあったのは事実である。幸か不幸か、政範は元久元年(1204)11月5日に病死したが、娘婿の平賀朝雅は健在である。
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頼家 に続いて
実朝 も廃して平賀朝雅を鎌倉将軍に据える時政の謀反計画...それは義時と政子の主張であって具体的な証拠はない。
今までの苦労は何だったのか...と義時は考え、夫の頼朝と二人三脚で築いた鎌倉の栄光を継母に奪われるとは...と政子は考えただろう。家長で執権の時政が「後継は朝雅」と決めたら、それまで。義時と政子の明るい未来は時政夫妻の存在と相容れない、排除しようと考えるのが当然の帰結だろう。
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父親を失脚させる不道徳な行動を正当化するなら、謀反の捏造がベスト。
梶原景時、
比企能員、
畠山重忠 の場合も「謀反人の討伐」で一件落着したし、将軍を手中に握れば御家人を敵に廻す危惧も要らない。武蔵守の平賀朝雅を倒せば相模国(義時は相模守)に続いて武蔵国の支配権も手に入る、と。
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※平賀朝雅: 平賀(大内)義信の二男、生母は
比企尼 の三女(
伊東祐清 室の再嫁)。
八幡太郎義家 の弟
新羅三郎義光 の四男盛義が信濃佐久平の平賀郷(
地図)
に土着して平賀を名乗り、嫡子盛義-三男義信-二男朝雅と続く由緒正しい河内源氏の末裔である。
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父の義信、兄の
大内惟義 と共に源氏門葉(一門の中枢)として高い地位にあった。血筋から考えれば確かに鎌倉将軍に据えるのは無理だとしても、朝雅と政範に幕政を委ねて北條独裁の安定化を夢見たのだろう。
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※北條政範: 三代将軍
実朝 が
坊門信清 の娘(
信子)を正室に迎える使者として上洛し元久元年(1204)11月5日に病没。吾妻鏡は淡々と事実のみ記載。
「子の刻(深夜0時前後)、従五位下左馬権助平朝臣政範(16歳、在京)が没した」、と。私が関係者だったら毒殺を疑うね。
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※坊門信清: 後鳥羽上皇
の外戚で寵臣。朝廷を主導した公卿で正二位・内大臣まで昇進し鎌倉との交渉窓口も務めた。当初の実朝正室は
足利義兼 の娘が候補
だったが実朝はこれを拒み、京からの輿入れを強く主張して認めさせている。一つには王朝文化への憧憬と、御家人の娘と結婚して勢力争いに巻き込まれた兄・頼家の悲惨な最期も考えたのではなかろうか。
右:北條時政 名越邸の推定地、弁ヶ谷 画像をクリック→ 拡大表示
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材木座四丁目の弁ヶ谷には美智子上皇后の実家正田家の別荘もあったが、相続に伴った物納で現在は分譲住宅街に姿を変えている。弁ヶ谷は千葉氏の実質的な開祖である
千葉介常胤 の屋敷があった場所で、「介」の唐名が別駕(べつが)だった事から「別駕の住む谷」→「べんがやつ」に転訛したらしい。
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時政名越邸と伝わっていた釈迦堂口切通し東側山頂の遺跡は2008年の発掘調査で13世紀末の未確認廃寺跡と確認された。元久二年(1205)に失脚して鎌倉を去った時政とは当然無関係で、最近の 地図では時政邸ではなく、大町釈迦堂口遺跡(
地図)または時政山荘跡と表示している。名越地区と釈迦堂口は1km以上離れており、ここに時政名越邸があったと考えるのは元々無理があった。
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正嘉二年(1258)5月5日の吾妻鏡に
「六代将軍 宗尊神王 が尾張前司(名越流 北條時章)の名越山荘(新善光寺辺)に入御と定める」云々の記述があり、現在は葉山町上山口に移っている
新善光寺(浄土宗のサイト)が昔は弁ヶ谷(
補陀洛寺 (wiki) の東)にあったと伝わっているため、時政の名越邸がこの辺りにあったと推定できる。長い間 釈迦堂口の上を「時政邸跡」と表示していた。専門家の怠慢が指摘される。
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【吾妻鏡 元久二年(1205) 閏※7月19日】.
牧の方が策謀を巡らした。時政邸にいる将軍 実朝(13歳、元服済み)を廃して娘婿朝雅を将軍に擁立する計画である。
尼御台所(政子)は 長沼宗政、結城朝光、三浦義村、三浦胤義、天野政景 らを派遣して将軍実朝を義時邸に移して確保し、時政が集めていた武士は全て義時邸に入って実朝警護に加わった。この日の深夜に執権 北條時政(68歳)は突然剃髪して出家、大勢が共に出家を遂げた。
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※閏月: 当時の暦による1年は354日、太陽暦より11日短い。季節とのズレ解消のため3年に一度閏月を入れて調整していた。従って重忠滅亡の6月23日から
時政失脚の閏7月19日までは通常の7月を挿むため57日、約2ヶ月となる。義時はこの間に下準備を済ませたのだろう。
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※吾妻鏡の嘘: 「重忠討伐は義時の本意ではなく牧の方の讒言が原因」と書いているのが最初の嘘、二つ目の嘘は「時政の謀反計画」だ。
前述した通り当時は主従関係よりも親子関係
※を普遍的な規範と考えており、一部の例外を除いて父親に対する反逆は見られない(保元の乱のように親子が敵味方として戦った場合は別)。「父親を失脚させた」悪行を隠蔽するため「時政謀反」を捏造した義時と、権力者に媚びて事実を歪曲した吾妻鏡の編纂者...現代の為政者・経済界とマス・メディアの関係に引き継がれているようだ。
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閑話休題、経団連の榊原会長が企業献金再開を呼びかけたニュース。実に情けない、民主主義を理解せず目先の利益のみ追求するアホな経済人の代表だ。「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」なんて言葉も知らず、電力会社と政官界と御用学者が招いた原発事故の本質も理解せず、ひょっとして政党助成金が発足した経緯も知らないんじゃないか? 東レの会長で工学修士だってさ。
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※親子関係: 普遍性の一例...死期を迎えた奥州平泉の
藤原秀衡 は正室(
藤原基成 の娘で嫡子
泰衡 の生母)を庶長子
国衡 に娶らせ、泰衡と国衡の争いを
防ごうとした。兄弟の関係を親子関係にすれば離反できない筈、と。結局は無駄な努力だったけどね。
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左:時政はここで生涯を終えたか 守山北麓、北條館跡 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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実子の反逆は完全な時政の想定外か、それとも「打ち合わせ通り」の政権交代か。時政と牧の方と朝雅の絡んだ謀反騒動は僅か二日で決着する。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月20日 】.
朝、北條時政 は伊豆北條郡に下向※、執権には 義時 が就任した。大江廣元 と 安達景盛 が義時邸に集まって評議し、使者を京都に派遣した。これは 平賀朝雅(京都守護職)の追討を在京の御家人に指示するためである。(使者は25日に入京し鎌倉の意思を在京の御家人に伝達している。) .
鎌倉幕府の執権職は頼朝の家政全般を取り仕切る「家司」として外戚筆頭の時政が政所別当と兼任したのが最初。当初は曖昧だった職責範囲が頼朝没後は現代の「首相」に近い存在に昇格した。任命権は前任者にあるが、義時は有力御家人と御台所政子の支持または合意を事前に取り付けたのだろう。実際に朝雅がどこまで謀反事件に関与していたのかは判らないが、時政失脚の一週間後には殺されてしまう。さすがに義時は手際が良い。和田合戦の際に起きた多少の不手際はきちんと修正している。
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※時政は:10年後の建保三年(1215)1月6日(西暦2月6日)に北條館で死没。牧の方は娘(朝雅の後家)が再嫁した権中納言藤原国通邸で優雅に暮らし、
嘉禄三年(1227)には京都で時政の十三回忌を営んでいる。名月記の著者
藤原定家 は、一族を引き連れて物見遊山に出掛ける彼女の豪奢な暮し振りを(嫉妬まじりに)「浅ましい」と揶揄している。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月26日 】.
平賀朝雅は 後鳥羽上皇 に拝謁した後に囲碁を楽しんでいた。小舎人童が駆け寄って討手※が来ていると伝えたが、朝雅は落ち着いたまま碁石の目を数えた後に再び拝謁し「関東の討手が来ました。逃げる場所もありませんので退出をお許し下さい」と宿舎に戻った。
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討手は五條判官有範、左衛門尉 後藤基清、源三左衛門尉親長、左衛門尉 佐々木広綱、同彌太郎高重(佐々木経高の長男)ら、朝雅は暫く戦ったが防ぎ切れず松坂付近に逃げた。金持六郎廣親と 佐々木盛綱 が追い掛け、山内持壽丸(後六郎通基。刑部大夫経俊の六男)が射止めた。
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※討手明細: 五條有範は藤原北家
一條能保(前京都守護)の家人で検非違使の武士、後藤基清は同僚で平家追討の際に無断任官し頼朝に罵倒された経歴を持つ。
源親長は村上源氏で
後白河法皇 側近の在京御家人。佐々木廣綱は古参御家人佐々木兄弟の長兄、高重は廣綱の次弟経高の嫡男。金持廣親は伯耆守護を務めた在地領主。佐々木盛綱は佐々木兄弟の三男。朝雅が逃げた松坂は天智天皇陵に近い山科区日ノ岡、御所の東約5kmだから結構遠くまで逃げた。
右:義時法華堂跡の周辺、大倉山の鳥瞰 画像をクリック→ 拡大表示
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北條義時 は元仁元年(1224)6月13日に鎌倉の私邸で死没、62歳。
大江廣元 は嘉禄元年(1225)6月10日に77歳で、二位尼
政子 は嘉禄元年(1225)7月11日に69歳で没しているから、初期の鎌倉幕府を支えた三人の中では最初に鬼籍に入ったのが義時である
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月26日 】.
辰の刻(朝8時前後)、重態のまま推移した義時の病状が危急に及び、陰陽師の国道・知輔・親職・忠業・泰貞らが招集され「大事には至らず、戌の刻(20時前後)には回復に向かうだろう」との占いを得た。念のため様々な祈祷を行ったが、時を移すに従って更に危急となった。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月13日 】.
執権義時の病が更に重篤となったため、駿河守(大内惟義)を派遣して将軍 藤原頼経 にも知らせた。許しを得て寅の刻(午前4時前後)に出家し、巳の刻(午前10時)前に没した。享年62歳、日頃から脚気を病んでいた上に霍乱※を起こした。丹後律師の勧めに従い息を引き取るまで弥陀の宝号を唱え続け、護身の印を結び数十回の念仏の後に静かに息を引き取った。午の刻(昼12時前後)に飛脚を京に派遣。後室は落飾、戒師は荘厳房律師行勇。 .
※霍乱: 漢方の古典・傷寒論によれば急に胃腸が苦しくなって激しく吐瀉し下痢を伴う。食中毒などに似た急性胃腸炎症状。
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【 義時の死にまつわる謎 伊賀氏の乱は真実か、捏造か 】.
吾妻鏡に拠れば
「日者脚氣之上。霍乱計會云々。」つまり脚気+下痢嘔吐を伴う急性胃腸炎だが、それ以前の病歴記録がないため様々な憶測が生まれた。保暦間記の
「近習の小侍に刺し殺された」とか、名月記の風聞
「後妻の 伊賀の方 が毒を盛った」※などの憶測が伝わっている。
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※後妻が毒殺: 藤原定家 の日記「名月記」が嘉禄三年(1227)の「風聞」として次の記事を載せている。
承久の乱(承久三年、1221年)で朝廷側首謀者の一人だった尊長※は芋洗(京都南部)の攻防戦で鎌倉軍に敗れて行方不明になり、6年後の嘉禄三年(1227)6月に京で捕縛された。このとき自殺に失敗した尊長は「早く首を斬れ、さもなくば義時の妻が夫に飲ませた薬で殺せ」と叫び、更に「これから死ぬ身なのに嘘など言わん」と語って現場の武士たちを驚かせた。
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※尊長: 権中納言
一條能保 の子で二位法印尊長を通称とする高位の僧。
後鳥羽上皇 の側近を務め、片腕として倒幕計画に加担した。
義時死没の直後に勃発した「伊賀の変」で将軍候補になったとされる
一条実雅(冤罪を受けた、が正しい)と尊長は異母兄弟の関係なので、義時毒殺の状況証拠に挙げる例は多いが、信用に値しない発言だと思う。尊長の言葉と伝聞内容、どちらが作為かは判らないけど。
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義時死去を知らせる飛脚は三日後の16日に在京の六波羅北方
※だった義時の嫡子
泰時 と義時の実弟で南方の
時房 に届いた。
泰時は翌17日に京を発って26日に鎌倉由比に到着、時房の到着を待って27日に義時邸に入った。少し急げば7日で着く鎌倉まで10日を要したのは多少長かったで済ませるにしても、なぜ即日鎌倉に入らなかったのか。
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※六波羅: 承久の乱を境にして従来の京都守護職を改編し、市中警備・新領を得た西国御家人紛争の簡単な決裁・朝廷の監視と調整を任務とした。
六波羅北方(上位)と南方が置かれ、鎌倉時代後半には六波羅探題の呼称となった。かつて平家一門が本拠を置いていた鴨川東岸の六波羅、現在の
六波羅蜜寺(公式サイト、
地図)の南側一帯に庁舎を構えた。
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義時の死没に伴って後継を巡る陰謀があった、と吾妻鏡は伝えている。義時の後妻(
伊賀朝光の娘・
伊賀の方)が兄の政所執事
伊賀光宗 と謀議して将軍の
藤原頼経 を廃し、義時の娘婿
一条實雅
(
一条能保の三男)を将軍に擁立し、義時の五男
北條政村 (
泰時の異母弟)を執権にして幕府の実権を握ろうとするクーデター未遂があったため、と。実雅の生母は
源義朝 の娘だから血筋に不足はない、この「計画」が実現すれば清和源氏の末裔が鎌倉将軍に返り咲く事になったのだが...実際には幕政から伊賀氏の影響力を完全に排除したい
政子 が捏造した架空の謀反計画だった。
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※義時の妻子: 概略誕生順に書くと...御所の女房だった阿波局 (
加地(佐々木)信実 の娘)が泰時(三代執権)を産み、口説き落とした恋女房の
正室・姫の前(
比企朝宗の娘) が
朝時(名越流北條氏の祖) と
重時 (極楽寺流北條氏の祖)を産み、伊佐朝政(常陸の豪族で伊達氏の祖)の娘が
北條有時 (陸奥国伊具郡(宮城県南部)を領有した伊具流北條氏の祖)を産み、今回の政争の被害者となった伊賀の方が
北條政村(七代執権・政村流北條氏の祖) と
北條實泰(金沢流北條氏の祖)を産んだ。この子沢山が北條氏の壮絶な内部抗争の原点となる。
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左:北條義時の法華堂跡と伝・義時やぐら 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月18日】 .
義時を葬送。故頼朝将軍法華堂東の山上を墳墓※とした。葬礼の差配は親職が固辞し泰貞も必要な文書の準備がないと固辞したため、知輔朝臣が取り仕切った。式部大夫・駿河守・陸奥四郎・同五郎・同六郎・三浦駿河次郎および宿老の祇侯人数名が葬列に連なった。また多くの御家人が群参して涙を流した。
.
※山上を墳墓: 原文は
「前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。」 一般的に言われている「遺言に従って」の
文字はなく、埋葬した後に法華堂を建立したと推定される。
.
葬送の49日後(8月8日)の吾妻鏡には「前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。故奥州禅室墳墓堂(新法花堂と号す)供養也。導師走湯山淨蓮房※。(加藤左衛門尉實長叔也)」とあるから、埋葬場所に法華堂を建てたのは発掘調査でも確認されている。とすると、義時やぐらは「以故右大將家法華堂東山上爲墳墓」の文言から派生した伝承に過ぎなかった。
.
※走湯山淨蓮房: 異説もあるが、
頼朝 の挙兵以来の腹心だった
加藤景廉 の弟と伝わっている。流人時代の頼朝に仏典を教えた伊豆山権現の覚淵も景廉の血縁だし、
後に鎌倉極楽寺の三世となった善願は景廉の孫を称している。善願の骨蔵器など遺物に関しては
加藤景廉の本領 牧之郷(別窓)の中段で。
.
日蓮遺文
※に拠れば、義時法華堂は弘安三年(1280)の大火で焼失したとあり、再建記録は見当たらない。更に北条九代記
※は
「延慶三年(1310)11月6日に大町安養院から出火した未曾有の大火が法華堂などを焼き尽くした」と記録しており、これは頼朝廟所を差すのだろうが、義時法華堂も(当時再建されていれば)類焼した可能性が高い。従って義時法華堂の痕跡は平成十七年(2005)の発掘調査までの約700年、地中に眠り続けたことになる。
ちなみに「法花堂」は原文通り、以後の炎上・再建・仏事の記載は全て「法華堂」なので単純な誤字か、あるいは当時の慣習だろうか。
.
※日蓮遺文: 鎌倉の僧
※から大火の報告と銭一貫文(現在のレートで10万円弱ほどか)の寄進を受けた僧
日蓮 が送った返書を差す。
当時の日蓮は甲斐の身延(
南部一族発祥の地 (別窓) を参照されたし)に逗留しており、
「10月28日に「中の下馬橋」(現在の二の鳥居左手)付近を火元にした火事が鎌倉の中心部を焼き尽くし、八幡宮や頼朝法華堂や義時の墓が灰燼に帰した。」とあり、翌年11月の元帝国+高麗連合軍の第二次侵攻(弘安の役)直前で、頼朝法華堂は再建したらしいが義時法華堂までは手が廻らなかった可能性がある。
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※鎌倉の僧: 智妙房 (素性不明) の寄進と鎌倉の近況報告に対する返状の原文。
鵞目一貫 送り給いて法華経の御宝前に申し上げ了んぬ。なによりも故右大将家の御廟 (頼朝法華堂)と故権太夫殿の御墓 (義時法華堂) との やけて候由承わりてなげき候へば 又八幡大菩薩並びに若宮 (鶴岡八幡宮) のやけさせ給う事いかんが人のなげき候らむ。」
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※北条九代記: 鎌倉年代記 (wiki) の異称。著者は不明だが鎌倉幕府の関係者と推定される。寿永二年(1183)~弘安二年(1332)に勃発した
幕府関連の事件を年代順に記録したもの。大部分は吾妻鏡や保暦間記からの転載だが一部にオリジナリティも見られる。「九代」は北條嫡流で執権職に任じた九人、①時政-②義時-③泰時-④経時-⑤時頼-⑧時宗-⑨貞時-⑩師時-⑭高時 を差す。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月26日 】.
大進僧都観基による義時二七日(14日)の法事。未の刻(14時前後)に 武州泰時 が京から下着し由比に宿泊、明日 義時邸に入る。鎌倉からの飛脚は16日に入京、泰時は17日丑の刻(深夜2時前後)に京を発った。また19日に京を出た 相州時房 と陸奥守 足利義氏 も鎌倉に到着した。 .
右:三浦市の金田湾近く、三浦義村の墓 画像をクリック→ 拡大表示
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墓石の残る岩浦山福寿寺は臨済宗建長寺派、正治二年(1200)3月建立と伝わる。本尊は
行基 の作と伝わる聖観世音菩薩、義村が使用した鞍、鐙、脇差などを寺宝としている。
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義明-
義澄-
義村 と続いた三浦氏は
泰村 の代になって滅亡するのだが、義澄の頃から棟梁の資質に疑問符が付き始めたように思う。治承四年(1180)の頼朝挙兵の直後に
畠山重忠 連合軍の攻撃を受けた三浦大介義明は「頼朝を探して再起を図れ」と厳命し、嫡子義澄は老父と側近を残して海へ逃げた。
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義明は
「共に逃げて捕まったら、命を惜しんで一族滅亡を招いたとされる」 として玉砕の道を選ぶのだが、これは父を見捨てた義澄の自己弁護っぽい。義澄は女子供まで連れて船出したのだから老父だけ残す必然性は乏しいし、当時の倫理観を考えれば父親を負け戦の場に残すのは最大の不孝だった筈。
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義村は権謀術策を弄する人物として知られたし、泰村は優柔不断で鎌倉武士の潔さが見られない。この一族は滅ぶべくして滅んだのか...義時死没後のゴタゴタを見るとそんな憶測まで生まれて来る。
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【吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月28日】.
泰時が「触穢の憚り(死の穢れを避ける事)不要である」との指示を受け、二位の尼 政子 の屋敷に入った。政子の曰く、「時房と泰時は将軍後見として軍事に関する任務を執行せよ、今までの動きは不充分である」、と。
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入道覺阿 大江廣元 は「世間が政治の安定に不安を抱かないよう早急の対処が必要である。義時の没後に噂が飛び交っている。泰時が弟らを殺すために京から下向したとの風聞で、四郎政村 の周辺が騒がしい。伊賀光宗 兄弟は政村の外戚(義時の継室 伊賀の方は光宗の妹)として執権継承について異論を持っている。
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伊賀の方は娘婿の一條實雅 卿を将軍に擁して子息の政村を後見に据え、政治を光村兄弟に委ねるよう企て、既にその相談をしている者もいる。泰時に近い者がそれを知って報告しても「不確実である」として対応していない。左衛門尉 平三郎盛時、左近将監 尾藤景綱、関左近大夫将監(實忠)、左衛門尉 安東忠家、万年右馬允、南條七郎ら (いずれも得宗被官、いわゆる御内人) だけが奔走しているのは情けない。」と。
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泰時の異母弟 政村の背後には、彼の烏帽子役を務めた御家人№2 の実力を持つ三浦義村の存在がある。これは...予断を許さない状況だ、と政子は考えた。彼女も既に68歳、元気なうちに北條嫡流泰時の将来を担保する為にはトラブルの芽となる伊賀一族を叩き潰し、三浦を強く牽制しなければ、と。
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政子 は泰時が鎌倉に入った二日後に彼を次期執権に指名し、誰よりも信頼できる異母弟の
時房 を将軍後見に任じた。更に三浦邸へ乗り込んで義村と直談判する。義村は「政村に謀反の意思はないが、伊賀宗光らの陰謀はあったかも知れない」と釈明し、その計画を防ぐ努力を約束した。
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雰囲気としては、「若くて経験の浅い泰時には周囲の手助けが必要」みたいなイメージがあるが、執権に就任した時は既に41歳だった。しかも建保六年(1218)に侍所別当、承久の乱(1221)後には六波羅北方など要職を歴任している。四代執権
経時は19歳、五代の
時頼 は21歳、六代
長時 は26歳、八代
時宗 なんか17歳で執権に就任したのを考えると、吾妻鏡などが「泰時は偉い、傑物だ」と口調を合わせているのが意図的に思えて気に入らない。元服の際に
頼朝 が
「泰時は一般御家人とは格が違う」 と宣言するなど、出生に秘密がありそうな部分が想起されてしまうのだが...。
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ただし、泰時の資質は兎も角として義時の敬称を巡るトラブルに関しては「北條一族の危機」だと思い込んだ政子の側に問題がある。結果として義村の策謀などなかったし、伊賀氏の動きも義時後の保身を願う程度だった。政子の頭には、父の時政が建仁3年(1203)に先手を打って比企一族を皆殺しにした成功例があったのだろう。
雌鶏が歌えば家が滅びる...いや別に女性蔑視ではなく、封建時代のお話として、ね。
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※執権着任年令と在任期間: 二代泰時(42歳 1205~1224年) 三代泰時(41歳 1224~1242年) 四代経時(19歳 1242~1246年)
五代時頼(21歳 1246~1256年) 六代長時(26歳 1256~1264年) 七代政村(59歳 1264~1268年)
八代時宗(17歳 1268~1284年)
左:六波羅(探題)が置かれた鴨川左岸の清盛邸跡 画像をクリック→ 拡大表示
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元々は洛東の葬送地だった鳥辺野(とりべの・清水寺の南側)
※の入口で、多くの寺が密集していたらしい。六波羅は人骨が散乱していた「どくろ原」の呼び名から転訛した説もあるが、真偽は判らない。また「探題」の呼称の初見は鎌倉時代の末期で、それまでは単に六波羅あるいは上位としての北方、従属する南方が通称。
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清盛 の祖父 平正盛が一族の供養堂を建て、嫡子の忠盛(清盛の父)が出自の伊勢や東国に向かう街道が近い六波羅に館を構えて本拠とし、清盛が継承した。平家の最盛期には一門に関わる者の家が3200余もあったが、都落ちの際に焼き払ったと伝わる。
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寿永二年(1183)の平家都落ち後の敷地は
頼朝 に与えられ、京都守護の
北條時政 が庁舎を構えて鎌倉御家人が公用で上洛する際の拠点になった。
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※鳥辺野: 徒然草が「化野(あだしの)の露、鳥辺野(とりべの)の烟」と描いた「空しい命」の代名詞。
化野(あだしの)念仏寺(
地図)や洛北の蓮台野(船岡山
※一帯・
地図)と並ぶ葬送の地である。
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※船岡山: 保元の乱で敗れた
為義 と息子の頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲が
義朝 の命令で斬首された場所。平安京は北に船岡山、南に巨椋池
※、東に鴨川、
西に山陰道を備える風水の「四神相応」の地で船岡山は玄武に相当し、500m東には
玄武神社 もある。
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※巨椋池: 京都市南部~伏見北部にあった広大な湖沼。昭和10年代の干拓で姿を消した(
地図)。承久の乱の項にも載せてある。
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六波羅 (探題) は承久の乱(1221)で鎌倉軍を指揮した
泰時 と
時房 が制圧後も京都で戦後処理に当った直轄機関が最初。幕府は西国にある朝廷側の公家・武士の所領を御家人に再分配して地頭を置き、その管理監督と朝廷の監視を行った。
六波羅蜜寺(公式サイト)の南東にあった清盛邸を改め、軍事・警察・朝廷の監視・西国の御家人統括の実務を行った。現在の東山開晴館(旧・洛東中学校)校門横に石碑が建っている。
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当初は六波羅の北館に泰時・南館に時房が駐留、後には北條一族から選ばれて任期終了後は連署・執権に昇進するケースもあったが徐々に権限が縮小、鎌倉時代終盤には決裁権の殆どを執権と評定衆が握った。鎌倉の指示を履行するだけの出先機関に変貌して出世コースの魅力を失なったらしい。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月29日 】.
寅の刻(早朝4時前後)に相州時房の長男 時盛※と武州 泰時の長男 時氏※が鎌倉から京に出発した。京で鎌倉混乱の噂を耳にした二人は鎌倉で待機すべきと考えて下向していたのだが、「世の中が騒がしい時には京の人々が最も不安になる。至急に戻って洛中の治安維持に専念せよ」との指示を受けた。時房は「政治に関する全ては泰時に従う、命令に背くことはないから鎌倉の事を一切気に掛ける必要はない」、と。 .
※時盛と時氏: 時房の家督は四男の
朝直(大仏流、生母は
足立遠元 の娘)が継承、時盛は分家して佐介流の祖となったが子孫の家勢は零落した。
泰時の長男
時氏 は四代執権就任を期待されていたが寛喜二年(1230)に28歳で病没、嫡男の
経時 が泰時死没の跡を継ぎ19歳で四代執権に就任した。経時もまた23歳で早世し、五代執権には次弟の
時頼 が就任している。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 7月5日 】.
鎌倉中が落ち着かない。伊賀光宗 兄弟が頻繁に 三浦義村邸に出入りしているため、何かの相談をしているのだろうと推察されるためである。夜になって兄弟は義時邸(継室 伊賀の方
の住居)に集まり、現在の事態を変えない約束を交わした。ある女房がこれを盗み聞きし、相談の全ては判らないまま泰時に報告した。泰時は動揺を見せず、光宗兄弟がその約束をしたのは感心であると述べた。
右:鳥辺野 関連で、嵯峨野 化野念仏寺の古い画像 画像をクリック→ 拡大表示
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化野に散乱していた無縁仏の石塔を集めて供養したのが
念仏寺(公式サイト)。毎年夏の終りには数千の無縁仏のため千灯供養を催している。私は渡月橋近くの市営駐車場から一日かけて散策したが、寄り道しながら念仏寺まで往復すると7kmを超えるから、もし歩くのが億劫なら念仏寺前の有料Pも利用すれば良い。
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同じ頃に撮影した「雪の
石塔寺 (wiki 画像)」の写真も(石塔がらみで)載せようと思ったが、どこを探しても見付からない。好きな場所だったのに。
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【吾妻鏡 貞応三年(1224) 7月17日】...さて、本題に戻って、
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近国の武士が競って鎌倉に集まり、今夕は特に騒がしい。子の刻に二位尼 政子 が駿河局のみを供にして 三浦義村 邸を訪れ、義村は深い礼を以って迎えた。
尼の曰く、「義時 が没し 泰時 が鎌倉に戻ってから世間が静まらない。北條政村 と 伊賀光宗 らが頻繁に義村邸で密談している噂は何事なのか、その意味が判らぬ。泰時を倒したいと考えているのか。承久の変で勝利を得たのは半ば天運ではあるが、半ば泰時の功績である。そもそも義時が数度の難局を戦って乗り切り平穏を得た、その跡を継ぎ関東の棟梁となるべき泰時がいなければ運も尽きてしまう。政村と義村が親子のように談合しているのは何故か。」と問い詰めた。
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義村は知らないと答えたが尼政子は納得せず、「政村に与して世を乱す企てが有るか否か、和平に尽力するか否か、すぐ返答せよ」と迫った。義村は「陸奥四郎(政村)に逆心はない、光村(安村の弟)は何か考えていても必ず制止する。」と誓ったため尼は帰還した。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 7月18日 】.
三浦義村が泰時に面会して曰く、「私は故大夫殿(義時)の懇意を頂いて政村の烏帽子親を務め、愚息 泰村 の息子を猶子に迎えてくれた、その恩を思うと貴方と政村の事について是非の云々は言えない。ただ切望するのは世の中の平穏である。光村には何か謀略があったらしいが、私が説得して従わせた。」と。
泰時は喜こびもせずまた驚きもせず、自分は政村に対して害心を持っていない、と答えた。 .
左:義時の分骨墓と時房系の墓所 巨徳山北條寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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願成就院に比べると知名度も低い上に交通の便も悪く観光客も少ないが、北條館跡から見て狩野川の対岸(直線距離で600m)の近距離にある。大男山(207m)の北東麓、鎌倉建長寺の末寺で臨済宗の古刹である。
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徒歩の場合は狩野川に沿って北に迂回し松原橋を西へ渡って伊豆長岡町へ、総計で約2kmも歩く必要があるのがちょっと辛い。参拝用の広い駐車場あり。
願成就院周辺の詳細地図を参照すると判りやすい。
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本堂左の山裾に広がる墓地から左の小道を登ると丘の上の墓地に二代執権
義時 夫妻の墓、更に奥には義時の腹心として数々の功績を挙げた弟
時房 の墓(こちらは時房流北條家累代の墓所)が見られる。樹木の隙間から狩野川を挟んで北條館の西側が眺められ、寺の400m北東には伝・義時の館跡がある。
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寺伝に拠れば治承年間(1177~1183)に義時が建てた真言宗の観音堂が最初である。これは
時政 の長男だった
宗時 が戦死して義時が嫡男となった治承四年(1180)よりも後と考えるべきだろう。
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時政が幕府の実権を握った正治二年(1200)に義時が
運慶 に依頼して阿弥陀如来像(約70cm・国の重文)を彫らせ、観世音菩薩座像(約50cm弱・県指定文化財)を本尊として巨徳山北條寺と改めた。明応九年(1499)に鎌倉建長寺の末寺となり臨済宗に改宗、伝・運慶作の阿弥陀如来像や政子寄進の牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)が寺宝で、江戸時代に伊豆八十八ヶ所霊場の十三番札所となった。
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治承四年の頼朝挙兵直前に
八重姫 が入水自殺したのは500m南の古川と狩野川の合流点だから、彼女は夫である義時の館から直線で1kmの真珠ヶ淵に身を投げたことになり、八重姫の愛人だった
頼朝 が政子と同棲していた北條館もすぐ近く、という事。男と女の間には 暗くて深い河がある...か。
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ただし一説には南北朝時代の創建で当時は宝城寺と称した、阿弥陀如来像は鎌倉時代初期慶派仏師の作ではあるが観音菩薩像は南北朝期の作である、と。義時時代の観音堂を原型として後世に再興された、のかも知れない。まぁ北條寺の名称も作為の匂いがする。江間寺なら共感できるけど。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月1日 】.
若君(三寅・四代将軍 頼経 の幼名)と二位尼 政子 が泰時邸に入り、武装した御家人が走り回った昨夜の騒ぎについて 三浦義村 に使者を派遣し、言動を慎むよう伝えた。更に二位尼は「私はいま若君を抱いて時房・泰時と共に居るから義村も参上せよ」と命じ、義村は従った。更に宿老を集め時房を介して曰く、「将軍が幼い間は家臣の謀略を防ぎ難い。各々が故頼朝将軍の恩を考え心を合わせて対処すれば誰が謀反など出来ようか」と。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月8日 】.
二位尼政子の前で協議が行われた。泰時と(召集により)老齢の入道覺阿(大江廣元)が加わり、書記は関左近大夫将監實忠が務めた。
光宗らが 一条実雅 の将軍擁立を企んだ謀反は既に露見したが、高位の公卿に罪科を問うのは憚られるため京に送って朝廷に可否を問う。義時の継室である 伊賀の方 と 光宗 は流罪が相当する。他の者は不問に済ませて良い、と。
右:泰時以後の北條執権邸跡 金龍山寶戒寺(「四」と重複)
画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
そして翌・閏月7月23日に政子の裁定が下る。一条實雅は妻(義時の娘)と離別し京を経て越前に流罪、伊賀光宗は信濃へ、義時の後妻伊賀の方は伊豆流罪。二ヶ月続いた騒乱はようやく決着した。真っ当な決着は政子の死没後になるけどね。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月23日 】.
寅の刻(早朝4時前後)に泰時邸付近が騒がしくなった。珍しい事なので人は不思議に思ったが卯の刻(朝6時前後)になって一条實雅卿が上洛のため出発し、集まっていた武士も退去した。伊賀四郎朝行・同六郎光重・式部太郎宗義・伊賀光盛らが實雅卿に従って同行、また式部大夫親行・伊具馬太郎盛重らは指示は無かったが個人の立場で同道した。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月29日 】.
謀反に関わった 伊賀光宗 の罪は重い。政所執事を解任し所領52ヶ所を没収、身柄は外叔父の隠岐入道行西(二階堂行光)が預かった。親戚の預かりは問題とも言えるが、政子から泰時を介した命令である。また籐民部大夫 二階堂行盛 が政所執事に補され、左近将監 尾藤景綱(御内人※)が泰時後見となった。執権家令による後見は初の例で、景綱は 藤原秀郷 の子孫を称している。
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※御内人: 北條得宗(嫡流)の被官で、いわゆる陪臣(家臣の家臣)、御家人に相対する言葉になる。得宗は義時の法名「徳崇」に由来し、当然ながら泰時以降に
現れた言葉だが遡って使う例もある。得宗被官による高位の公職は初例だが、承元三年(1209)11月14日の吾妻鏡に微妙な表現 (下記) が残っている。
吾妻鏡の編纂は霜月騒動(弘安八年・1285年11月)以降とされるから、この部分は事後に加筆して編纂したした可能性もある。
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相模守北條義時が、以前からの郎従(皆伊豆国の住民で主達(おもだち)と呼ぶ)の中から功績のある者を 選んで御家人に準じて扱う希望を述べていた。これについて内々(非公式)の沙汰があり、将軍家(実朝)の許しが得られず、厳しい仰せがあった。「それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕府參昇(幕政への関与)を企てるようになる。後世に問題を残す恐れ※があるから、将来も認めてはならない。」 .
※将来の危惧: 八代執権
時宗(着任は文永元年・1264年)の時代になると得宗家(北條嫡流)の権限が圧倒的に強化され、併せて得宗被官(御内人)の権限も
拡大解釈されて御家人同様に幕政に関与し始める。九代執権
貞時 の頃には更に強い権力を握った御内人筆頭の
平頼綱 が有力御家人の
安達泰盛 を
霜月騒動 (wiki) で滅ぼし、執権や得宗家の権力さえ上回るようになってしまう。実朝、先見の明ありか?
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 8月29日 】.
義時後妻の伊賀禅尼(伊賀の方)は二位尼政子の指示により伊豆北條に下向蟄居、伊賀光宗は信濃国配流となった。弟の四郎朝行と六郎光重らは相模掃部助と武蔵太郎が預り京都から直接鎮西(九州)配流の命令が下った。この両人は前の将軍 頼経 の更迭に従って上洛し在京中である。
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伊賀氏と政村の謀反計画に関して、泰時が直接コメントした記録はない。吾妻鏡は政子の言葉として謀反の計画云々を書いているが裏付けとなる根拠はなく、状況証拠として伊賀光宗兄弟と政村が会合を重ねた(らしい)との風聞を挙げているに過ぎない(身の振り方を相談した程度だろう)。
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流罪となった伊賀光宗は翌年の政子死没後に赦免され所領を回復しており、泰時が政子の存命中の復権を控えたと想像される。君子危うきに近寄らず、だ。光宗は寛元二年(1244)に幕府評定衆に就任した。旧職の執事よりワンランク上、三権を司る幕府の最高機関(トップが執権)だから、完全な復権である。
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北條政村 は長く冷遇されたが、第五代執権
時頼 の時代には完全に復権し第七代執権として
時宗 の前任を務めている。彼らが本当に「謀反の首謀者」と「背後の黒幕」だったのなら有り得ない処遇である。家督継承者の異母弟抹殺は珍しくないが、
義時 の後妻
伊賀の方 が息子 政村を心配して尽力した...そんな所が真相か。
泰時-
時房ラインの影響力低下を危惧して過剰反応した政子が伊賀氏を潰し、北條嫡流(得宗)の独裁体制を維持するために謀反を捏造したのだろう。「謀反だ」と思い込んだ可能性もあるが、他人の意見を虚心坦懐に聞くタイプじゃない。いずれにしろ「政子の最後っ屁」(笑)だ。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 9月5日 】.
義時の遺領を子女に配分する詳細を泰時と二位尼が発表した。それぞれに回覧し所存があれば申し出よ、支障がなければ将軍下文で発表する、と。全員が喜んで異議なしとした。泰時が鎌倉に入ってから内々にリストアップして二位尼に見せた際に「概ね妥当だが嫡子(泰時)の分が頗る少ないのは何故か」と。泰時は「執権の任に就く者が所領を争っても意味なし、舎弟らに分与するのが妥当」と答えた。二位尼はその言葉に感涙を流し、今日彼の思いを披露したものである。また故義時は官位を受けるのを避け偏に「前の奥州」を称していたが、没後は右京権大夫を使うよう定めた。
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義時死没の半年後、可哀そうに伊豆北條に流されていた義時後妻(伊賀氏娘)が重態になっている。死没の記事はないが、政子が念を入れて手配した毒殺に違いない。長男の政村は当時19歳だから、伊賀の方はせいぜい40歳を過ぎた程度、自然死としては早過ぎる。もう一人の可哀そうな
一條實雅 も安貞二年(1228)に流刑地の越前で変死したのは政子の遺言か。政子さんは一度思い込んだら決して反省などという女々しい行動はしないのだ。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 12月4日 】
伊豆北條から飛脚が到着。義時の後妻伊賀禅尼が去る12日から病となり昨日巳の刻(午前10時前後)から重態、と。
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左:子孫の毛利氏が築造した大江廣元の廟所 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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時政 が築いた北條氏繁栄の基礎は二代執権の
義時 と
政子 によって更に強固となった。それを見届けたかのように義時は元仁元年(1224)6月13日に61歳で没し、翌・嘉禄元年(1225)の6月10日(新暦の7月16日)には北條氏の頭脳でもあった
大江廣元 が77歳で没し、その30日後の7月11日(新暦8月16日)には泰時の権威確立を見届けたかのように尼将軍
政子が69歳で波乱の生涯を閉じた。
13ヶ月の間に初期の鎌倉幕府を支えた英傑三人が相次いで鬼籍に入った事になる。
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後事を託された
泰時 の責任は重大だが、義時と廣元と政子の三人が殆ど同時に没したので重石が外れて楽になった側面もあった、と思う。義時と廣元は比較的クールな性格で職権以外には口を挟まないタイプだけれど、政子の場合は「天上天下唯我独尊」みたいな性格の上に老齢と共に意固地さが増していたからね。あんな婆さんが家長として座っていたら心の休まる時がない。
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廣元が没する少し前から吾妻鏡には政子の病状悪化の記述が多くなり、廣元に関しては死亡記事一行が載っているだけ。廣元→ 二男の長井時広→ 泰秀→ 時秀と続く次の代の当主宗秀は九代執権
貞時の主要なブレーンで吾妻鏡編纂者の一人と推定される。そうであれば、もう少し祖先の廣元に配慮があって然るべきだろうに、と思う。功績を大袈裟に称えるとか、さ。
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【 吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 6月10日 】 原文は「前陸奥守正四位下大江朝臣廣元法師法名覺阿卒。七十八。日來煩痢病云云。」
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前陸奥守で正四位下の大江朝臣廣元法師(法名は覺阿)が没した。享年78歳、日頃から痢病(下痢を伴う病気、赤痢・疫痢の類か)を患っていた。
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廣元は幕政に尽した功績により相模国毛利荘・周防国島末荘・肥後国山本荘・伊勢国来真荘などを与えられた。それぞれ子息が分割相続している。
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長男
親廣...政所別当や京都守護を歴任した後に承久の乱で朝廷方に与して敗れ、領国の出羽に逃れて寒河江氏の祖になったと伝わる。
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二男
時廣...承久の乱では鎌倉方に与し、子孫はその後も評定衆など幕府の要職に任ぜられた。
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三男宗元...伊勢崎に土着して那波氏の祖となっている。嫡子の政茂は鎌倉幕府の引付衆として活躍した。
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四男
季光...相模国毛利荘
※を相続して毛利を名乗り、妻が
三浦泰村 の妹だった経緯
※で宝治合戦では三浦に味方し敗れて自刃した。
季光の四男経光は所領の越後にいたため罪に問われず毛利荘を継承、経光の二男時親は安芸国吉田庄を相続して毛利を名乗り、子孫が戦国大名の毛利元就へと続いている。
.
※毛利荘: 現在の厚木市街地の西部で山林が多かったため元々は「森の庄」だった。
八幡太郎義家の六男義隆が「森冠者」と称したのは「森の庄」を
領有したためと伝わる。その後は平家の所領となり、家人の毛利(藤原)景行が支配した。景行は石橋山合戦に平家側として参戦し後に降伏して頼朝御家人となったが、建保元年(1213)の和田合戦で
和田義盛 に与して滅亡、毛利荘はこの際に
大江廣元の所有になった。
.
※季光の決断: 吾妻鏡 寳治元年(1247)6月5日に次の記載がある。
巳刻(10時前後)に蔵人大夫入道西阿(毛利季光)は甲冑を着け部下を率いて御所に向かおうとしたが、妻(泰村の妹)が鎧の袖にすがり、「以前からの約束なのに泰村を見捨てて時頼勢に加わるのは武士の所業でしょうか。後の世に恥を残しますよ。」と説得した。これを聞いた季光は心を翻して泰村の陣に加わることとなった。
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ちょうどその時に隣に住んでいる甲斐前司 長井泰秀 は御所に向かう途中で毛利季光に出会ったが、 敢えて制止しなかった。これは縁戚である事と、彼の:決断を尊重し泰村と一ヶ所で戦わせてやるのが武士としての配慮と考えたからである。
右:政子の供養墓が残る大町の祇園山安養院 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 6月16日】.
辰の刻(午前8時前後)に二位の尼 政子 が意識を失い人々が参集したが暫くして回復した。しかし容態は日増しに悪化し、昨15日に新邸※に移るとの仰せに従うには日取りが悪く、陰陽道により21日に延期となった。
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※新邸: 勝長寿院の敷地内に新築した御堂御所(下記)を差すらしい。通常なら大倉御所の一角か。
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【 吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 7月11日 】.
丑の刻(午前2時前後)に 二位の尼政子 が世を去った。享年は69、最初の鎌倉将軍 頼朝 の御台所であり、次に続く二人の将軍の母である。前漢を建国した劉邦の妻で皇太后になった呂后と同じように天下を治め、神功皇后が生まれ変って国を導いたような存在であった。 .
政子の火葬骨を葬ったのは勝長寿院だが、政子には間接的に所縁のある大町の
安養院 (wiki) の、鎌倉最古とされる巨大な宝篋印塔の奥に建つ小振りの墓石も政子の供養墓である。大型の宝篋印塔には徳治三年(1308)の刻銘があり、小型の方は室町時代の造立だが、政子の法名に加えて没年である嘉禄元年(1225)の追刻銘がある。北條氏の縁者が無地の石面に追刻したのだろう。
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安養院は、政子の法名「安養院殿如実妙観大禅定尼」に由来する。死没直前の嘉禄元年(1225)に頼朝の冥福を祈って政子が建立した笹目ヶ谷の長楽寺が前身で、後に安養院と改めた。長楽寺は幕府滅亡と同時に焼失したためこの地に移転したが延宝八年(1680)に再び全焼、頼朝の近臣だった
田代信綱 が比企ヶ谷に建立した田代寺の観音堂を移築して安養院に改めた。更に蛇足を加えれば、故 黒沢明監督の四十九日法要はこの寺で催された。
左:政子を荼毘に付した大御堂寺一帯の鳥瞰 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 7月12日 】.
寅の刻(午前4時前後)に二位の尼政子の死没が発表され、民部大夫 二階堂行盛※を初めとして多くの男女が出家を遂げた。
寅の刻(午後8時前後)に御堂御所※で火葬、葬儀は前陰陽助の安倍親職※が沙汰した。但し自らは行かず、門生の宗大夫有秀を派遣した。
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※民部行盛: 13人合議制の一人で政所別当だった
二階堂行政→ 子息で政所執事 を世襲した
行光→ 子息で執事を世襲した行盛
に続く実務官僚。行光の後任には
伊賀光宗(行光の甥)が就任したが、伊賀氏謀反事件で行光が失脚し行盛が継承した。二階堂行政の母は頼朝の生母(熱田大宮司
藤原季範娘)の姉妹なので源氏との縁戚関係から鎌倉に入り文官として重用されていた。
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二階堂の姓は
頼朝 が平泉を模して建立した永福寺(二階大堂)の名に由来する。
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※安倍親職: 幕府専任の陰陽師で三代将軍実朝が病気の際も治癒祈祷を行なっている。安倍晴明の長男 吉平の子に時親と章親と奉親の名があり、係累が鎌倉に下向して
占術に任じていた可能性もあるが詳細は判らない。
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※御堂御所: 勝長寿院(南御堂・大御堂とも。別窓)域内に建てた政子邸。政子は承応元年(1222)3月から勝長寿院の奥(境内)に堂と住居を建てて4月に上棟、
御堂供養を7月16日に行なっている。御堂供養は二年後に政子が追放流罪に処した伊賀光宗が奉行しているのが面白い。
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吾妻鏡の記載は承応元年(1222)と翌 承応二年に重複記載されているため正確さは疑わしいが、承応二年の末までには移転が完了し、政子は勝長寿院で火葬し埋葬された。ここには
実朝 の胴と遺髪も葬られていたが、康元元年(1256)12月に続いて二度目・室町時代の火災で焼失し、そのまま廃寺になった。壽福寺の「やぐら」に改葬されたのは、どちらかの焼失後と推定される。
右:鎌倉五山の第三位 金剛壽福禅寺 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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源氏山の東麓に建つ古刹で山号は亀谷山(源氏山の古名)、臨済宗建長寺派に属する鎌倉五山第三位の寺である。「扇ヶ谷」の地名は鎌倉時代にはなく、亀ヶ谷の一部だった。「鶴岡(八幡宮)に向い合う亀谷」という語呂合わせだった。甲府にも「鶴舞城(甲府城)」と「遊亀公園」があった、これも鶴亀だね。
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壽福寺の一帯は
源頼義 が別邸を構えたのが最初で、後に
頼朝 の父
義朝 が東国の根拠地に利用し、一時期は庶長子の
悪源太義平 もここに住んだと伝わる。武蔵大蔵の帯刀先生
源義賢 を討った時の義平はここから出陣したのだろう。横須賀線が通る低地を中心にすると東西の平地は巾200mほど、頼朝は館(政庁)を置くには狭いと判断した。
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壽福寺の本尊は宝冠釈迦如来、正治二年(1200)に
北條政子 が頼朝の菩提を弔うため開山和尚に臨済宗の開祖
栄西 を招いて創建した。横須賀線に面した山門から中門までの参道と墓域(
大仏次郎 (wiki) などの墓あり)や裏手の「やぐら」(政子と実朝の五輪塔あり)は公開されているが、中門内側の寺域は非公開、本尊を含む仏像群も公開されていない。堂塔伽藍は数度の火災を経ており、特に正嘉二年(1258)には建物の全てを焼失した。現在の建物は殆どが江戸時代中期に再建されたもの。
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ちなみに、嘉禄元年(1225)に没した政子が葬られたのは雪ノ下の南御堂(勝長寿院)。ここには京で捜し出した義朝主従の遺骨と三代将軍実朝の遺髪も葬られていた。改葬の経緯は不明だが、三回目の火災で焼失した正中二年(1325)か、鎌倉公方の
足利成氏 (wiki) が下総の古河に移った享徳四年(1455)のどちらかだろう。頼朝の遺骨は法華堂(現在の白旗神社)へ、政子の遺骨と実朝の遺髪は壽福寺の「やぐら」に改葬されて現在に至る。義朝と家臣
鎌田正清 を葬った
勝長寿院跡(別窓)は既に廃寺となって久しく、近くには二人の慰霊墓が建てられているのみ。
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壽福寺本堂を左に迂回して墓地の中を登ると突き当りの崖下が政子と 実朝 の五輪塔が納まる「やぐら」群、墓地の途中から左に折れて小道を辿ると源氏山、更に左へ下ると銭洗弁天や佐助稲荷を経て化粧坂や亀ヶ谷坂切通しから北鎌倉に至るハイキングコースとなる。
その拾 滅びゆく古参御家人たち⑤ 宝治合戦 三浦一族の滅亡 |
右:大切岸と名越切通しに続く逗子側の法性寺山門 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓).
逗子駅の北側から名越へ向かって旧道を進むと小坪トンネルに合流する少し手前の右奥に
猿畠山法性寺(日蓮宗公式サイト)がある。寺院の裏が逗子市と鎌倉市の境界で、鎌倉時代中期に北條執権の仮想敵と目された三浦一族に対する防御用城壁(と考えられていた)大切岸(
地図)である。
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最近の研究は防御用城壁説に否定的で、平成十四年の発掘調査により複数が確認された「石切り場の跡」と結論が出た。もし軍事的な工作物なら、吾妻鏡にその旨の記載がないのは確かに不自然で、地理的には極楽寺の
忍性 が率いた石工集団が和賀江島の港湾施設造成に切り出した可能性もある、と思う。
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大切岸は自然の地形を利用して崖を垂直に切り落とした形で続いている。現在残っているのは800mほどだが、宝治合戦 (三浦の乱)直前には十二所から小坪の住吉城址(和賀江島の前)までの5000m近くも続く垂直の崖で、長い間防衛施設だろうと考えられていた(リンク先の概略地図を参照)。
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大切岸は部分的に大きく出入りした雛壇状になっており、攻め登る敵に対しては真横や頂上の平場から矢を射るなどの攻撃をしやすい構造になっている。大切岸が防衛施設だと仮定すれば、重い甲冑を着けて崖を登るのは至難の技だから堅固な要害だったのは間違いないが、本道の名越(なごえ)切通しは騎馬武者が一騎づつ通過できる程度の狭路だから、他の鎌倉七口に比べてこれほど堅固に造る必然性も、かなり乏しい。
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鎌倉時代中期以後の名越切通し周辺は共同墓地および石切り場として利用された。なかでも
曼荼羅(まんだら)堂(紹介サイト)周辺には150基以上のやぐらや推定数百の五輪塔や火葬の痕跡が集中しており、近年は大規模な発掘調査が行われている。管理者の逗子市教育委員会では2015年ごろの一般公開を目指していたらしく、時折り臨時公開しているから情報に注意すると良い。「まんだら堂」で検索すれば画像を含めた情報も豊富に確認できる。
左:四代将軍 藤原頼経の絵像 十二所
明王院(公式サイト)の寺宝 画像をクリック→ 拡大表示
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北條氏による執権体制は初代
時政→ 二代
義時→ 三代
泰時→ 四代
経時と続き、経時の弟
時頼 が五代執権を継承した翌 寛元四年(1246)3月に宝治合戦が勃発する。治承四年(1180)の頼朝挙兵に協力した老将
三浦大介義明→
義澄→
義村 と続いて繁栄した三浦一族も、
泰村の代になって嫡流滅亡の憂き目をみた。
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建久十年(1999)の
頼朝 没後に粛清された御家人は 1200年の
梶原景時、1203年の
比企能員、1205年の
畠山重忠、1213年の
和田義盛、と続いた。
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治承四年(1180)に
頼朝 と共に伊豆韮山で挙兵した時政の夢は66年後の三浦宗家滅亡によって実現し、全ての対抗勢力が排除され完全な北條独裁体制を確立するが、やがて一族内部の主導権争いを誘発することになる。得宗(惣領の家系)への権力集中に不満を持つ傍流の反発である。
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時政が初代執権の1203年に
頼家 が失脚殺害されて
実朝(当時11歳)が三代将軍を継承し、二代執権
義時 の1219年に実朝が殺され、2歳の三寅(後の
藤原頼経、五摂家
九条道家 の三男)を四代将軍に迎えた。
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義時没後に執権を継承した
泰時 は御家人の利害を巧みに調整して政権を安定させたが、仁治三年(1242)に泰時が没して四代執権を
経時
※が継承すると、北條一族の内部抗争に加えて御家人の間でも対立が起こり始めた。更に、成長した傀儡将軍だった筈の頼経も一部の御家人を糾合して幕府の実権を握ろうとする動きに出た。
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※北條経時: 泰時長男の時氏は27歳(泰時47歳の時)で早世したため、時氏の嫡子経時(当時18歳)が執権となった。
しかし経時も23歳で病没、二人の息子が幼少(4歳と1歳、直後に出家)のため弟の時頼(18歳)が五代執権となった。吾妻鏡が「時頼に禅譲したのは経時の意思」と時頼継承の正当性を強調している事、併行して経時に近かった将軍
頼経 と側近が失脚した事、経時死没の2年前から時頼が執権名代を務めていた事、などから権力志向の強かった時頼と得宗家の一部が禅譲を捏造したと考える説が根強い。
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右:出家後の北條時頼絵像 部分(鎌倉建長寺像) 画像をクリック→ 拡大表示
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執権経時は混乱した政情の収拾を図って寛元二年(1244)4月に将軍頼経の解任を断行、頼経の嫡子
頼嗣(当時6歳)を五代将軍に着任させた。更に翌年5月には妹の檜皮姫(ひわだひめ)を頼嗣に嫁がせて将軍を巡る政権内部の混乱は沈静するかに見えたが...重なる不幸が経時を襲う。
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頼経は頼嗣を補佐する名目で鎌倉に留まったまま反体制の動きを止めなかった。同年(1244年)9月には経時の正室
宇都宮泰綱 の娘が死没し、新将軍頼嗣に嫁した檜皮姫も病床に伏した。更に翌年2月には経時自身も持病の黄疸が悪化。そして寛元四年(1246)3月23日、二人の息子(経時没後に出家)がまだ幼いため執権職は弟の時頼(当時19歳)に譲って出家し、23歳で死没。早世に加えて苦悩の多い生涯だった。
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経時の病死を実権奪取の好機と見た名越流北條氏(開祖は
義時 の二男
朝時 の嫡子
北條(名越)光時 は内部抗争
※をスタートさせた。退任した前将軍の頼経を復帰させるため、頼経側近の
後藤基綱 と
千葉秀胤 と
町野(三善)康持 らを抱き込んで主導権の奪取を計画したが、その動きを察知した時頼が機先を制して武装兵を集結させ、5月25日には鎌倉七口を封鎖して市街を完全制圧した。決起する前に敗北を悟った光時は出家謹慎を余儀なくされた。
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6月1日には光時に与していた弟の
時幸 が自害、6日には去就が不明だった
三浦泰村 が代理として弟の
家村 を時頼邸に派遣し恭順の意を示したため、騒乱(宮騒動)は北條得宗
時頼 の全面勝利となった。
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謀反未遂に対する処分として、名越光時は伊豆国江間郷へ流罪、後藤基綱・千葉秀胤・三善康持らは公職を罷免され、前将軍頼経は京へ追放されて事態は収束した。安定を取り戻した時頼の北條得宗独裁は最後に残った有力御家人の三浦一族を滅ぼすべく、翌年(1247)の宝治合戦に向けて三浦泰村への圧力を強めていく。
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※内部抗争:1180年に側室の阿波局が
義時 の長男
泰時(後の三代執権、
頼朝の落胤説あり)を産んだ。一方で1192年に義時に懇願され、頼朝の仲介で
義時の正室となった姫の前
※は1193年に二男
朝時、1198年に三男
重時 を産んだ。朝時は不行跡もあって父義時との関係が円満ではなく、祖父
時政 の名越邸を相続し、分家して名越を名乗った。更には評価の高かった実弟重時に官位を追い越されるなどの冷遇もあって代々の名越流北條氏は得宗家と距離を置き、未遂を含む再三の謀反事件を起こしている。「自分たちこそ執権を継ぐべき北條嫡流」との自負があったのは間違いなく、時政が義時の後継には泰時ではなく朝時を予定していた、と考える説もある。
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※姫の前: 比企能員 の弟
朝宗 の娘で絶世の美女と称された御所女房。再三の艶書も効果がなく、最後は頼朝が仲介し「決して離縁せず」の誓詞を書いて正室に
迎えた。1203年の比企の乱に連座する形で離縁となり、上洛して源具親(従四位下、新三十六歌仙の1人)と再婚している。
ちなみに、比企朝宗は乱の死没者名簿には載っておらず、生死もその後の消息も不明。
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左:鎌倉十橋の一つ、安達泰盛が鏑矢を放った筋替橋 画像をクリック→ 拡大表示
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15年以上前、吾妻鏡の「実朝暗殺」まで読み進んだ妻(当サイトの昔の開設者)は三浦邸の場所が判らずに苦しんだらしい。
八幡宮の北東側なのは確かだが根拠が見付からない、素人では地誌など調べられない。
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28年後の宝治合戦まで読んで気が付いた、と。北條と三浦に妥協の空気も見えた頃、高野山に隠居していた大蓮房覚智(
安達景盛)が甘縄に戻り嫡男
頼景 と嫡孫
泰盛 を叱責して三浦邸攻撃を命じた部分。
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【 吾妻鏡 寛元五年(1247年 2月28日に改元して宝治元年) 6月5日 】.
景盛は時頼が合戦を避けるため使者を三浦泰村に派遣したのを知り、既に甲冑を着けていた義景と泰盛を呼んで「決着を避けたら三浦一族が更に奢り昂ぶって我が一族を侮蔑し続ける、今はただ運を天に任せて雌雄を決すべき時である」と叱咤した。これによって一族の城九郎泰盛、大曽祢長泰、武藤景朝、橘薩摩公義らが軍兵を率いて甘縄の館を出陣し、門前の道を東に進んで若宮大路(段葛)の下馬橋から北に向い、八幡宮の赤橋(現在の太鼓橋)を渡って布陣した。
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入道盛阿※の帰りを待たず神護寺の外で鬨の声を挙げ、公義五石畳紋の旗※を掲げて「筋替橋※の北に進み」鳴鏑を放った。
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※入道盛阿: 北條氏家令。時頼は早朝に三浦邸に盛阿を派遣し「自重して戦闘を避けよう」と文書で申し入れた。その一方で時頼シンパの安達一族は完全武装で
三浦邸を急襲しているのだから完全な騙し討ち...と考えるよりも、吾妻鏡の編纂者が正当性を捏造した可能性もある。
ちょうど 「二俣川合戦で重忠を滅ぼした義時には合戦の意思はなかった」 かのように弁護しているのと同じ表現だ。
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※公義五石畳紋: 画像などは
参考サイトで。家紋は平安中期に個人を表す公家の「身印」から発展し、この時期は武家の紋として定着していたらしい。
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※筋替橋: 鎌倉十橋は他に 十王堂橋(
北鎌倉)、
裁許橋 (
今小路)、
逆川橋(
大町)、
夷堂橋 (
本覚寺前)、
歌橋 (
二階堂)、
勝橋 (
壽福寺前)、
琵琶橋 (
下馬四角)、
乱橋(
材木座三丁目)、
筋替橋(
雪ノ下二丁目)、
針磨橋(
極楽寺三丁目)。青字は地図、橋の名でググると画像や来歴が確認できる。
他にも鎌倉十井とか五名水だとか、見物スポットが点在するが、いずれも徳川光圀(水戸黄門)が家臣に命じて選出し貞享二年(1685)に刊行した地誌「新編鎌倉志」に載せたのが最初。その評価は価値観に拠って見る目が違うのは勿論である。
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右:西御門跡の碑 この裏側一帯が三浦泰村邸か。 画像をクリック→ 拡大表示
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甘縄の安達邸から三浦邸までを表示した地図は
こちら、西御門跡石碑の地図は
こちらで。
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【 吾妻鏡 寛元五年・宝治元年(1247) 6月5日の続き 】 安達勢は筋替橋の北に進み鳴鏑を放った。
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御所を警護する兵も悉くこれに加わった。驚いた 三浦泰村 と郎従らが防戦し双方に負傷者が出た。 .
ここでも嘘が垣間見える。吾妻鏡は
「三浦邸に派遣した使者から「大量の弓矢と百二、三十の鎧櫃が準備されている」との報告を時頼が受けた」と書いている。三浦邸には少なくとも200人程度の武装兵が合戦の準備を整えていたと匂わせているのだが、いくら泰村が愚鈍でも合戦するかも知れない敵に準備状態を見せる筈ない。そもそも準備がそこまで整えているなら、安達勢の奇襲に驚くこともないだろう。
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三浦半島なら強力な軍団を動員できる泰村も、鎌倉で官兵と御家人連合の攻撃を撃退できるほどの兵力は確保できない。この時点で既に鎌倉七口は封鎖されているから応援も期待できない。
つまり執権
北條時頼 と
安達景盛 は鎌倉を封鎖して三浦一族を孤立させ、和平を提案して油断させてから圧倒的な兵力で殺戮を行ったのだろう。
畠山重忠 を滅ぼした二俣川合戦と同じく、勝敗の帰趨は初めから決まっていた。
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やがて風が南に変ったため、安達勢は三浦泰村邸南隣の家屋に火を放った。風に煽られた煙が館を覆い、苦しくなった泰村一党は400mほど離れた頼朝法華堂に逃げて立て籠った。泰村の弟・光村は法華堂の東500mにある永福寺※惣門内に従兵80人ほどで布陣しており、使者を兄泰村に送って「永福寺なら守りやすい、ここで安達勢を迎え討つべき」と伝えた。しかし泰村は「守りの堅い城があっても所詮運命からは逃げられぬ。故 頼朝 将軍の肖像前で最期を迎えようと思う。早くここへ合流せよ」と使者を送った。 .
※永福寺:(ようふくじ)は鶴岡八幡宮・勝長寿院と並んで頼朝が建立した大規模社寺の一つ。文治五年(1185)の奥州合戦から凱旋した頼朝は平泉で見た壮麗な
寺院の姿に感動し更に豪壮な堂塔の建設を計画、7年後の建久三年 (1192) 11月に本堂の落慶供養を催した。発掘調査で毛越寺や宇治平等院を越える
規模の遺構が確認されており、応永十二年(1405年、足利将軍義満の頃)に焼け落ちたまま廃寺になったらしい。詳細は
鎌倉市のサイト で。
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【 吾妻鏡 建久三年(1192) 11月20日 】.
永福寺造営が完了した。雲にも届くような軒の高さや月の如く華麗な本堂は比類のないもので、まさに西方浄土の荘厳さを関東の二階大堂に遷した如くである。
今日、御台所 政子 も参詣に訪れた。
左:宝治合戦の舞台 三浦邸~永福寺の鳥瞰 画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 宝治元年(1247) 6月5日】 三浦一族の最期
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泰村の伝言を聞いた 三浦光村 は永福寺を出て法華堂に向い、途中の戦闘で敵味方双方の軍兵多数が傷を負った。光村は法華堂に合流し、西阿(毛利季光 の法名。時頼の舅で毛利元就の祖)、三浦泰村、三浦光村、三浦家村(光村の弟)、資村、大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司實章、関左衛門尉政泰などと共に絵像の前に列座した。
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昔日の想い出を語り合うなど最後の述懐に及び、心得のあった西阿が浄土を祈って唱える念仏に光村も声を合わせた。安達の軍兵は石橋を駆け登って攻め込んだが三浦勢も防戦し熟練の武芸を見せ付けた。
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1時間半も続いた戦いの末に三浦勢は矢も尽き、戦う力も失ってしまった。泰村以下の主だった者276人を合わせて500人余りが自殺、幕府が氏名を確認し記録できた者だけでも260人であった。
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宝治合戦(三浦の乱)に関する吾妻鏡からの抜粋は
宝治合戦の時系列記録(別窓)で。
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【 三浦家村は合戦から逃げ延びたのか? 】 誰々が実は生きていた、そんな作り話のひとつだと思うけど...
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光村は顔が判別されないように耳や鼻まで削ぎ落としていたらしい。泰村の四男で武勇を知られた
家村 は死亡者名簿にも載っておらず、幕府側はかなり執拗に捜索したらしいが、結局見付からなかった。岐阜県の下呂温泉と山を隔てた東側の王滝村滝越の集落(
広域地図)には「三浦大夫」を名乗る人物に率いられて住み着いた落武者伝説があり、加子母村(現在の中津川市加子母、
地図)から鞍掛峠経由でこの地に入った、と伝わっている。三浦の地名や末裔を名乗る民宿もある。
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王滝村の北が御嶽山、その北側の乗鞍岳との鞍部を越えるのが飛騨と信濃を結ぶ野麦峠だ。蛇足だが、10年以上前の旅行で野麦峠を越える長距離ドライブを楽しんだ。少しだけ残る野麦峠の画像は
道の駅 飛騨たかね工房 の末尾で。信濃に向かう娘達が集合した飛騨古川市の石碑まで回遊したのだが、画像は既に行方不明、残念!
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この三浦大夫の素性について、郷土史に三つの推論がある。一つは「朝比奈義秀」とする説、一つは「三浦義明の子」とする説、一つは「三浦家村」とする説。「義明の子」説はあまり面白くないが、「朝比奈義秀」と「三浦家村」説には心を惹かれる可能性とロマンがある。
朝比奈義秀 は
和田義盛 の三男で母親は
巴御前(これは年代が符合しないから捏造) と伝わる勇猛な武将で和田の乱を戦った後に<
こちらも行方不明になった。一説に舟で安房に逃れたとも言われるが...。
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【 家村について、追記 】.
宝治合戦から逃げ延びた家村は蒙古へ渡ってフビライ・ハーンの家来となり実情を探るため日本に密航した、とか、元寇の兵士の中に家村の姿を見た、とか。竹崎季長(元寇での恩賞を求めて幕府に直訴した武士)が「蒙古の軍船り斬り込んで家村と斬り合った」と言ってる、などなど荒唐無稽な話も多い。
右:宝治合戦で滅亡した三浦一族の「やぐら」 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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治承四年(1180)の頼朝挙兵に貢献したのみならず、三浦氏は頼朝死去後の北條氏による御家人粛清に協力し、梶原・比企・畠山・和田を殺戮した全ての合戦に加わった。同族の
和田義盛※が決起した際には全面協力の起請文まで書きながら裏切り、「三浦の犬は友を喰らう」
※とまで罵られている(信憑性に欠ける古今著聞集の挿話)。
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吾妻鏡は
三浦泰村 の優柔不断と時頼の思慮深さを対照的に描いているが、将軍を抱き込み御家人の大多数を「官軍」として指揮する立場にあった北條氏と、本領から離れた鎌倉では2~300人程度の実戦部隊動員が限度だった三浦泰村では勝敗は最初から決まっていた。
三浦大介義明 と その嫡子
義澄 はそれなりに優れていたが、次の義村と泰村の親子はとても「傑物」と評価できる人物ではなかった、らしい。
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まぁ北條さんは確かに狡猾で悪質だけど、滅ぼされる側の思慮も間違いなく不足している、と思う。
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1200年に梶原一族、1203年に比企一族、1205年に畠山一族、1213年に和田一族、そして1247年に三浦一族。時政~義時~泰時~経時~時頼と執権職を世襲した北條氏は全ての政敵と政敵予備軍を滅ぼし、初代執権の時政が隠居先の伊豆韮山で没してから32年後には完璧な独裁体制を確立した。と同時に、90年後に鎌倉が陥落するまでは一族内部での愚かな抗争と粛清を繰り返すことになる。
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※和田義盛: 治承四年の衣笠で戦死した三浦義明。その長男義宗は長寛元年(1163)に安房長狭氏との合戦で死没している(享年39)。三浦の棟梁は義宗の嫡男
義盛(当時16歳)ではなく、義宗の弟義澄(当時36歳)が継承した。激動する時代を迎えていたから、壮年の義澄に一族の命運を託した選択は正しかったが義盛には「本来ならこちらが三浦本流だ」との自負があり、義村には「分家なのに態度がでかい」ほどの敵愾心があった。二人の関係は円満とは言えず、一説には和田の乱で義村が和田氏を見捨てた背景、とされている。
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※三浦の犬: 古今著聞集(鎌倉時代中期の説話集)に載っている話だから信用はできないけれど、御所で着座した義村の上座に若年の
千葉胤綱(千葉氏六代当主)が
座った。立腹した義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬ」と呟くと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返した。もちろん和田の乱で義盛を裏切った義村の品性を罵ったものである。
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左:新井城址から油壺湾を眺める 画像をクリック→ 拡大表示
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宝治合戦が勃発した時の執権は五代時頼。四代執権だった兄の経時が寛元四年(1246)閏4月1日に22歳で病死したため、若干20歳で執権を継承している。三浦との全面対決に多少の逡巡を見せつつ安達景盛らの主戦派に押し切られたような印象はあるが、所詮三浦とは共存出来ない程度の自覚はあっただろう。
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三浦側の敗因は...およそ鎌倉武士らしくない泰村の優柔不断な人柄が全てである。
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主戦派だった弟の光村は寛元四年(1246)7月に更迭された前の将軍頼経の復権を旗印にして反北條勢力の結集を策しており、当主の泰村が早めに決起すれば簡単に駆逐される惨敗は避けられた、と思うが...
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いずれにしても北條一族最期のライバルだった三浦氏本家は滅び、縁戚関係にあった
毛呂季光※や前将軍
頼経 のシンパも駆逐され、北條得宗(惣領家)の独裁体制が揺るぎないものとなった。
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宝治合戦で三浦本家を見捨てた佐原流
※の
盛時
が僅かに残った三浦領を継いで三浦本家の棟梁となったが彼らが幕政の要職に就く機会は訪れず、辛うじて家格こそ保ったが昔日の繁栄を取り戻すことはなかった。
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鎌倉で一族が滅亡してから約260年後の永正十三年(1511)、三浦氏は後北条氏(伊勢新九郎、後の早雲)
※に攻められ、現在の油壷水族館に近い新井城で頑強な抵抗を続けた三年後に食料が尽きて滅亡した。城兵の血が大量に流れこんだ海が赤黒く染まり、油が浮いた様な眺めから「油壷」と名付けられた、と伝わる。
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※三浦氏佐原流: 三浦義明の末子
十郎義連を祖とし、盛連(妻は泰時と離縁した
矢部禅尼※)-五男
盛時-六男頼盛と続き三浦姓を名乗って本家の継承を許された。
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※後北条氏: 韮山の堀越御所を滅ぼし後に関東を制覇した伊勢新九郎盛時(早雲・宗瑞)は北条姓を名乗っておらず鎌倉北條氏と血縁関係もない。
北条を名乗った最初は嫡子氏綱で、早雲の死後四年が過ぎた大永三年(1523)、早雲と同じ韮山から勢力を広げた時政に倣った、と伝わる。血筋は異なるが姓を同じくした北條(北条)氏に二度滅ぼされた三浦一族、これは歴史の皮肉だろうか。
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※毛利季光: 大江廣元 の四男。当初は北條氏に与する予定だったが妻(泰村の娘)に「兄を見捨てるのは武士として如何なのか」と責められ翻意した。
一族の大半が三浦氏と共に滅びたが越後にいた四男経光のみは争乱に関与せず、後の戦国大名安芸毛利氏へと続いていく
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※矢部禅尼: 北條泰時に嫁した三浦義村の娘。建久五年(1194)2月2日の泰時元服の際に頼朝が義村の父・義澄に
「この若者(泰時)を婿にせよ」と指示し、
義澄は
「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた経緯がある。その娘が彼女で、建仁二年(1202)8月泰時に嫁して翌年時氏(時頼の父・早世)を産み、その後離縁(理由は不明)して佐原盛連に再嫁し、光盛・盛連・時連(宝治合戦では三人とも北條側に与した)を産んだ。夫の死没後は三浦の矢部郷(
地図)に住んで矢部禅尼を称した。近くには三浦義明廟所の
満昌寺(公式サイト)がある。