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女性も子供も平然と殺す、ナチス以下の 差別主義国家イスラエル を強く非難する。
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他人の土地を略奪し 共存の努力もしない ネタニヤフ は戦争犯罪人、虐殺を支持するユダヤ人も同罪だ。
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.市民団体が 検察審査会に 安倍派幹部の再審査を請求検察は巨悪を無視するのか
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捜査権のない国会で議論しても結局は無駄、判断を裁判所に委ねれば済むのに、検察は与党議員の起訴を見送る
最悪の総理 安倍は人事権を内閣府に集中し、「巨悪を許さない」筈の検察は 政権の顔色を窺う腰抜けに堕落した。
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自民党と公明党、企業献金の継続で大筋合意か? 金権政治と宗教団体の堕落は公明党は創価学会の「子会社」です。更に続く?
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政権与党の腐敗は、連立与党 つまり公明党の責任でもある。
給付金の支給が増えたり 減税が実現すれば「公明党が頑張ったから」
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金権政治の横行、不正腐敗、政治の右傾、夫婦別姓不同意、海外派兵、
女性天皇反対、政治と宗教の癒着、これらは「自民党の責任」らしい。
要するに 協力したけど同じ穴のムジナと思われたくない のが公明党。
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政治は結果責任だ。20年以上も政権与党として甘い汁を吸い続けて、
憲法違反の指摘は筋違いの詭弁 で誤魔化し自民党と共に立法と行政を
支配し続けてきた。国交大臣の椅子を10年以上も独占し、創価学会の
利益を擁護し続け、宗教法人の一般法人並み課税にも反対してきた。
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国交大臣 (旧建設省) 関連で教団施設建築値引きの噂 もあったし。
100年安心年金 も公明党の坂口厚生大臣の無責任な嘘だったしね。
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当然の事だが 創価学会を「カルト (セクト)」と規定したフランス では
政教分離法で宗教団体と政治の関係を厳しく制限 (Wiki) している。
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連立を解消して政治には一切関与せず、まともな宗教活動に戻れば良い。
宗教と政治が利益を分け合って国を動かす時代ではないと、悟るべきだ。



吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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フレーム表示のトップページ から、どうぞ。タグ記述を Google Crome に変更して誤字・脱字・行間も改善しました。


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~ 没後800年の平成15年(2003)7月、伊豆修禅寺が催した頼家忌。輿に載った位牌が山門を出発する。 ~

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           その壱.....滅びゆく古参御家人たち① 梶原景時の失脚と滅亡
           その弐.....滅びゆく古参御家人たち② 比企一族の滅亡と二代将軍頼家の失脚
           その参.....修禅寺物語   頼朝による範頼追討と、時政による頼家暗殺
           その四.....滅びゆく古参御家人たち③ 畠山重忠の滅亡と北條時政の失脚
           その伍.....滅びゆく古参御家人たち④ 老雄和田義盛の滅亡
           その六.....頼朝直系男子の血筋断絶  鎌倉幕府三代将軍 実朝暗殺
           その七.....承久の乱 後鳥羽上皇の追放と幕府の優位性確立
           その八.....二代執権北條義時について 出生から死没まで(北條=北条。以下、北條に統一)
           その九.....大江廣元と政子の死去 鎌倉幕府は第二世代から第三世代へ
           その拾.....滅びゆく古参御家人たち⑤ 宝治合戦 三浦一族の滅亡


レジャースポットとして訪れる人は多いけれど、平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけて伊豆の各地が中世日本史を彩る舞台になった事は余り詳しく知られていない。この紀行では1160年から1333年の間に残された歴史の跡、主として源氏の史跡を1ヶ所づつ自分の足で訪ね歩いている。平治の乱で平家に敗れた源義朝の子・頼朝が韮山の蛭ヶ小島に流されてから、鎌倉幕府が新田義貞によって滅ぼされるまでの約170年間の足跡。
史跡以外のちょっとローカルな観光スポットや自然の香りや立ち寄り温泉などの情報も織り混ぜ、デジカメによる画像も少しづつ増やそうと思っている。
   ちょっと固い話、 平安から鎌倉の時代背景も参考に。
 


 その壱 滅びゆく古参御家人たち① 梶原景時の失脚と滅亡 

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  梶原郷 御霊神社 左:梶原郷 景時一族発祥の地と坂ノ下の御霊神社      画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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梶原郷(地図)の中心部に位置する御霊(ごりょう)神社が最初に創建された場所は葛原ヶ岡(現在の源氏山)だったらしいが、これは既に伝承の域にあって確認できない。
その後に梶原郷に勧請され、更に坂ノ下の御霊神社(権五郎神社・ 地図)に分霊された。怨霊を畏怖して祀る御霊信仰と相模平氏の名門五族(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)の五霊への畏敬が結びついて御霊神社となった、と推定される。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】  堀口合戦後の頼朝 軍が土肥椙山を逃げた際の記述
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梶原平三景時 という者が 大庭景親 軍に加わっていた。頼朝主従のいる場所を知りながら情けを掛け「この山には人の入った形跡がない」と偽って景親を別の峰に誘導した。この間に頼朝は髷の中に納めていた観音像を取り出し、とある岩窟に隠し祀った。
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景時が頼朝に内通した、或いは景親を騙して頼朝主従が隠れた場所から遠ざけたのは事実だったかも知れないが、平家物語や源平盛衰記では「洞窟(朽木の洞)の中を弓で探って蜘蛛の巣を見せた」とか「蝙蝠が飛び出した」とか「勝利した際には恩賞を」とか「私を疑うのか、と景親に詰め寄った」など、大袈裟で劇的な表現になる。前夜の石橋山合戦は豪雨の中で地面は泥濘だから敗残兵の足跡は容易に辿れる筈で、大庭景親も頼朝主従の痕跡を見逃すほど間抜けじゃない、圧勝に気が緩んで搜索が徹底していなかった結果に過ぎない、と思う。
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坂ノ下 御霊神社 右: 元は坂東平氏五族を祀った坂ノ下の御霊神社    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 1月11日 】
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去年の冬に 土肥實平 を通じて降伏した 梶原平三景時 が参上。特に文筆が得手な者ではないが、話術に長じているのが 頼朝 の気に入られた。
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こうして景時は御家人に列して頼朝に重用される。過不足なく命令を処理する能力から、当初は雑務担当も多かったが、寿永二年(1183)11月の 上総廣常 暗殺、 木曽義仲 追討に関する詳細な戦果報告、一ノ谷合戦での生田口の奮戦、平重衡 捕獲などの功績により土肥實平と共に播磨(兵庫県南西部)・備前~備中~備後(岡山県)・美作(真庭市・津山市)など五ヶ国の守護に任命され、更に壇ノ浦合戦には軍監として加わり、九郎義経 の独断専横を誇張して後の失脚に結びつける詳細な報告を鎌倉に送った。
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奥州合戦が支障なく終った建久三年(1192)には 和田義盛 に交替して侍所別当に就任、無学文盲な武士が大部分だった東国御家人の中では気の利いた和歌の一つも詠める人物は頼朝にとって便利だし、更に憎まれ役を任せて直接の反発を回避できるメリットもあって意識的に重用した、そんな視点で景時の位置づけを考える歴史家も多いらしい。
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寿永三年(1184)に木曽義仲が滅び、文治元年(1185)に壇ノ浦で平家が滅び、文治五年(1189)に義経と奥州藤原氏が滅び、建久三年(1192)に 後白河法皇 が崩御した以後は特に戦乱や政争もなく、事務処理能力に長けて命令系統の掌握にも熟達した景時は頼朝にとって欠かせない存在になった。

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梶原景時の館跡 左:相模国一宮郷 梶原景時の館跡    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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梶原一族の所領は現在の高座郡寒川町一帯、寒川神社(公式サイト)の門前町である。2002年には周辺の平塚市・藤沢市・茅ヶ崎市・大磯町・二宮町と合併し「湘南市」を新設する動きもあったが、纏まらなかった。寒川町の人口は2020年現在で約4万9千、要件を満たせば単独で「最初の湘南市」という強力な名前を実現する可能性が高い。
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梶原景時 の鎌倉別邸は十二所の 明王院(公式サイト) 西側に伸びる谷戸(地図)にあった(下記、十二所参照)。明王院の南には 大江廣元 も屋敷を構えており、建久三年(1192)に侍所別当に就任した景時と文治元年(1184)から建永元年(1206)まで政所別当(当初は公文所)を務めた大江廣元、鎌倉幕府の初期を支えた重要人物二人の屋敷が至近距離にあったのは興味深い。
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ちなみに、地元では明王院北側の胡桃山頂上近くにある層塔が廣元の墓だと伝わっており、面白い伝承も残っている。詳細は 大江(中原)廣元の墓(別窓)の末尾に記載しておいた。
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御家人仲間に対しては誹謗中傷を重ね、更に 九郎義経 に関する讒訴を繰り返した事で悪役のイメージが強い梶原景時だが、北條時政 と違って鎌倉将軍(頼朝頼家)には忠義を尽くし、一切の逆心を持たなかった。義経に関してのトラブルは、義経本人の責任も半分程度あると思うけど。
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最近の研究では頼朝の代理となって自ら憎まれ役を引き受けていた事を評価する傾向さえあるのが面白い。時系列に従えば、頼朝が没した直後から急速に発言権を増した北條時政の存在を危惧し、頼家に警戒を促した唯一の御家人でもあった。景時が失脚した3年後には比企一族の討伐と頼家失脚事件が起き、その2年後には 畠山重忠 が冤罪により追討、その8年後には 和田義盛 が滅び、更に34年後には最後に残った有力御家人の三浦一族が滅亡した。結局は北條時政の存在に警鐘を鳴らした唯一の忠臣が景時だった。
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失脚して鎌倉を追われた梶原一族が正治二年(1200)に滅亡する事件の詳細は別項で扱うとして、ここでは鎌倉十二所の景時邸跡と、鎌倉追放の簡単な経緯を記述しておきたい。頼朝が死んでから僅か9ヶ月後の事件が景時滅亡の発端となる。
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【 吾妻鏡 正治元年(1199) 10月25日 】
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結城朝光が夢のお告げと称し、弥陀の称号を唱えるよう御所で御家人らに勧めた。そして曰く「忠臣は二君に仕えずと言う。大恩を受けた将軍が崩じた時に出家しなかったのが悔やまれる。最近の政情は薄氷を踏むようだ」と。側近として懐旧の思いが深いのだろうと、聞く者は涙を拭った。
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  ※結城朝光: 畠山重忠と共に鎌倉武士の代表格だった誇り高い武士だが、事件の背後には朝光を利用して景時失脚を狙う陥穽があった。元久二年(1205)6月22日の
二俣川合戦(重忠追討)には親友だった筈の結城朝光も追討軍に加わっており、既に北條氏の意向に逆らえない情勢になっていたのだろう。重忠の滅亡後は表に出ずに慎重な生き方を続け、建長六年(1254)に87歳の天寿を全うしている。重忠と同様に、正面から北條氏と対峙する覇気は持っていなかった。

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景時邸跡 右:鎌倉 十二所の梶原景時邸跡    画像をクリック→拡大表示
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鎌倉市内の場合、例えば撮影モレが見付かったりした時に気楽に行けないのが悩みの種で...混雑するのと駐車場が少なくて料金も高過ぎるのが難点の一つ。単純に高いだけじゃなく「道路と駐車はタダが当たり前」、と個人的に思っているからね。昨今の鎌倉にある「黙っていても観光客は来る」という傲慢さも不愉快だし、150年しか続かず古い神社仏閣も残っていない武家政権の跡を世界遺産に仕立てようとする商売人根性も好きになれないし。
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【 吾妻鏡 正治元年(1199) 10月27日 】
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阿波局結城朝光 に告げた。「あなたは景時の讒訴で討伐されようとしている。「忠臣は二君に仕えず」とは今の将軍を軽んじる発言で、放置しては影響があるから早く断罪すべき、と 頼家将軍に訴えている」と。驚いた朝光は旧友の 三浦義村 に面会し発言が曲解された窮状を訴えた。
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義村は「文治年間以来、景時の讒言で失脚や追討になった者は多い。先日も安達景盛が殺されかけたし、宿老と相談して何とか対処しなければ」と考え、和田義盛 と 安達盛長 を招いて相談した。両人は「景時に反感を抱く者の署名を集め、讒者一人と多数の御家人のどちらを選ぶのかを将軍に訴える、文章に長けた 中原仲業 が景時を恨んでいるから彼に書かせよう」と結論を得た。仲業も怨みを晴らせると喜んで賛成した。
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  ※阿波局: 北條時政 の娘で 政子 の同母(多分)妹、曽我物語が「政子より美人で性格は良くない」と書いたいた女(笑)。頼朝の異母弟 阿野全成 に嫁して実朝 の乳母を
務めた。建仁三年(1203)に全成が頼家に追討された後も女房(女官)として実朝に仕え、頼家と 比企能員 の会話内容を時政に報告して頼家・比企連合の失脚に関与し、更に後には時政夫妻の陰謀(義時 の関与に関する諸説あり)を義時・政子 連合に密告、また実子である阿野時元の失脚にも関与した可能性がある。
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吾妻鏡には「誰々が会話を盗み聞きして報告した」との記述が何ヶ所もある。それらの内容は北條執権の立場を正当化する内容が殆どで、その後に敵対勢力の処分を正当化する根拠にもなっている。その意味で捏造が点在する「勝者の史書」であり、為政者に寄り添った内容が多い事実を理解する必要がある。現代に置き換えれば 讀賣新聞レベルの政権与党擦り寄りと右傾化(笑)の情報源で、政権(北條氏)に名前を使われただけ、かも知れない。
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【 吾妻鏡 正治元年(1199) 10月28日 】
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中原仲業 が景時糾弾の訴状を読み上げ、八幡宮回廊に集まった御家人66人が署名した。
千葉常胤三浦義澄畠山重忠小山朝政足立遠元和田義盛比企能員葛西清重八田知重波多野忠綱渋谷高重宇都宮頼綱榛谷重朝安達盛長佐々木盛綱稲毛重成岡崎義實土屋義清、 土肥惟光、河野通信、曽我祐綱(祐信の嫡子)、 二宮友平(中村宗平 の四男で二宮郷を継承)、天野遠景工藤行光 らである。和田義盛三浦義村 が連判状を持ち、大江廣元 の屋敷に向かった。
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  ※八幡宮回廊: 治承四年(1180)に 由比若宮(別窓)から遷した八幡宮社殿は全て石段下の平場にあり、建久二年(1191)3月の全焼後は本殿などを石段上の
現在地に再建して同年11月21日に正式に遷宮した。従って景時を糾弾する御家人が集まった回廊は現在の本宮(上宮)を囲む位置で、白拍子の 静女 が舞った文治二年(1186)4月当時の回廊(石段下の平場)とは異なる。
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  ※御家人の名簿: 訴状に署名した中で知名度の高い御家人のみを記載。の付いた御家人は後に粛清・追討されている。梶原一族は翌年1月に駿河で討伐、 弾劾した御家人の
多くも滅亡への道を歩んだ。比企能員は1203年、畠山重忠稲毛重成榛谷重朝 は1205年、和田義盛渋谷高重 は1213年、三浦一族は1247年に滅亡している。
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【 吾妻鏡 正治元年(1199) 11月10日 】
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訴状を受け取った大江廣元は心を悩ました。景時が讒言を重ねたのは事実だが前の将軍頼朝の時代から共に親しく仕えた人物が罪科を問われるのが苦痛で、穏便に解決する方法はないかと考えてまだ頼家に提出していなかった。今日、御所で出会った和田義盛が訴状の反応を尋ねたため未提出だと答えると義盛は怒って「あなたは関東の参謀役として年月を送っていながら景時の権威を恐れ諸人の鬱屈を無視するのか」と。廣元は「恐れではなく景時の滅亡に心が痛む」と答えた。義盛は「提出するのか否か返答を」と迫り、廣元は提出すると述べて座を起った。
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  ※廣元の対応: 武官の義盛に比べ文官の立場を守った常識的判断をしている。但し吾妻鏡は全巻を通じて同じ雰囲気の有能な行政官として廣元を
描いており、これは廣元 ― 二男(長井)時廣 ― 嫡子 泰秀 ― 嫡子 時秀 と続いた次代の宗秀(1265~1327年、引付衆を改編した執奏職、妻は北條実時の娘)が吾妻鏡編纂者の一人と推定される事と無関係ではない、かも。誇るべき実績を挙げた先祖を疎かに描くことはできないよね。
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【 吾妻鏡 正治元年(1199) 11月11日 】
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    大江廣元が御家人連合の訴状を提出。頼家はこれを読んで景時に下げ渡し、弁明があれば陳述せよと命じた。
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【 吾妻鏡 正治元年(1199) 11月13日 】
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    景時は渡された訴状を読んでも弁明できず、一族を率いて鎌倉から相模国一宮の所領に下った。三男の 景茂 だけは暫く鎌倉に残留となった。
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  ※‎頼家の対応: 誰の言葉だか忘れたけど、京の公卿が「景時を見捨てたのは頼家最大の失策」と評していた。愚昧な君主が墓穴を掘ったという事か。
  ※弁明できず: 吾妻鏡の原文は「不能陳謝」だから「陳謝せず」ではなく「陳謝できず」になる。これは弁舌に優れた景時らしくない。



ここに追討された駿河国狐ヶ崎の明細が入る予定。

 その弐 滅びゆく古参御家人たち② 比企一族の滅亡と二代将軍頼家の失脚 

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右:頼家像(建仁寺蔵、絵師不明) 江戸時代の想像画    画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 7月20日 】    この日、頼家の発病が初めて記録に現れた。
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    将軍 頼家 が突然の発病。心身ともに苦しむ状態は只事ではない。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 8月27日 】
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将軍頼家は(20日頃から)危篤状態になり、幕府首脳が後継について協議した。関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡(11歳、後の 実朝)が差配し、関東28ヶ国の地頭職と惣守護を頼家の長男 一幡(6歳)が相続する、と。一幡の祖父 比企能員 がこの決定に憤激し、一族と共に叛逆を謀った。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 9月1日 】
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祈祷や治療を行なっても頼家の病状回復に効果がないため鎌倉中が落ち着かず、(近国の)御家人が競って集まってくる。頼家と 義時の関係が悪化し東国の安定が失われるのかも、との噂がある。
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近衛家実(摂政関白・太政大臣)が書き遺した「猪熊関白記」の9月7日には「鎌倉から届いた9月1日付けの手紙に「頼家死没」の報告あり」と書いてある。これは鎌倉から朝廷に届いた公文書に近い報告で、頼家の生存中に死亡通知を送ったことになる。幕府首脳(つまり牙を剥き始めた時政)は実朝の「鎌倉殿襲名」を既成事実として朝廷に周知させたかった。
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つまり8月の末に頼家の死は確定していた、或いは間違いなく死ぬと判断されていたことになる。これ以前の頼家の体調は、3月に数日寝込んだ他には特に問題はなく、直前の5月26日には狩猟を楽しむため伊豆へ出発し半月後の6月10日に帰還している。訴訟決裁権を制限された落ち目のトップが突然の病気で生死の淵をさ迷う...これは若くて体力のある将軍が運良く毒殺を免れた、普通なら、そう考える。更に言えば、突然の落馬から20日後に落命した 頼朝 の場合も、毒物が落馬を招いた可能性を考えるべき、なのかも。

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大室山 左:大室山の山焼き 麓には熔岩洞穴(大蛇穴)が 画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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話のついでに、少し脱線を。伊豆伊東市南部の別荘地に聳える単独峰 大室山(標高580m)の北西側裾野にある熔岩洞穴(地図)が吾妻鏡に載っている大洞、つまり建仁三年6月に2代将軍 頼家 の一行が狩猟に出掛けた場所だったと伝わっている。
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毎年2月第二日曜日に行われる壮大な 大室山の山焼き(リフト会社の紹介サイト) 当日は凄い混雑状態を呈するから、少し離れた南麓の「池地区」から眺める方が面白い。ちなみに、大室山全体は池地区(地図)の所有で、管理運営は三セクの池観光開発(株)。同社運営のリフトで登る山頂からは360度の絶景が楽しめる。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 6月1日 】  頼家の病気から三ヶ月ほど遡って...
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将軍頼家は伊豆の狩倉(仮設の宿舎)に入った。伊東崎と呼ぶ山中には大きな洞穴があり、その深さも不明である。将軍はこれを探るため 和田胤長を派遣した。胤長は10時前後に松明を持って穴に入り16時頃に戻って来て、「この穴は奥がとても深く日の光も届かない。大蛇が棲んでいて私を呑もうとしたので斬り殺した。」と報告した。
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  ※和田胤長: 和田義盛 の次弟義長の嫡男。10年後の建暦三年(1213)2月に信濃源氏の末裔泉親衡が企てた謀反に加わり、義盛の四男義直および五男義重と共に捕縛
された。義直と義重は義盛が果たした積年の功績と嘆願により許されたが胤長は許されず、屋敷の没収と岩瀬(現在の福島県天栄村)流罪の処分を受けた。この事件が同年5月の北條vs和田一族の全面対決、和田合戦の引き金になる。
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伊豆の洞窟に大蛇がいたなんて...胤長がホラ吹きなのか吾妻鏡の編纂者が捏造したのかは不明だけど、杜撰な謀反計画に加担したのを考えると思慮が浅い性格か。尤も、吾妻鏡にも杜撰な記述は少なくない。蛇足だが、、本土で最大の蛇は青大将で体長は最大2m強、もちろん人は呑めない。
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翌日になって頼家一行は伊東から富士裾野(朝霧高原や白糸の滝が近い)に狩場を移動、翌々日には人穴に狩倉を設けて今度は 仁田忠常 に洞窟探検を命じた。10年前に曽我兄弟の仇討ち事件が起きた場所であり、満11歳の頼家が初めて鹿を射て頼朝を喜ばせた(ただし、詳細を使者から聞いた 政子 は鼻で笑ったらしい) 場所の近くである。人穴は富士山信仰の起源にもなった溶岩洞穴で、富士宮市の地名にもなっている(地図)。信仰の起源など明細は富士山村観光情報 で。

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人穴 右:富士野  木花咲耶媛命らを祀る人穴浅間神社  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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史書に残る最初は、仁田忠常 が探検に入った建仁三年(1203)。永禄元年(1558)から修行を重ねた藤原角行(伝説上の開祖)が天正十年(1582)に悟りを開いて富士講の聖地となり、明治以降は浅間大菩薩を祀る浅間神社として信仰を集めた。主洞は高さ150cm×巾300cm、深さは約90mだがその奥の細い穴が江ノ島の弁天洞窟まで続いているとの伝説もある。
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Wikipedia を含む殆どの解説サイトでは「吾妻鏡には富士の巻き狩り(1193年)の際に頼朝の命令を受けた仁田四郎が」と記載されているが、実際は下記の通り建仁三年(1203)、命令者は 頼家 である。
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「その道の権威」の発言には疑義を呈さずに何度でも受け入れる...日本人にはそんな国民性がある。「原子力工学の権威」と称する御用学者が政財界と結託して原発安全神話を垂れ流し、事故が起きたら真摯な懸賞もせず「想定外の自然災害」で済ませた。
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福島原発事故の検証も被災者の生活再建も済まないのに、今度は「安全だから再稼働」だと。政府は住民の避難計画に関与せず、自治体と電力会社に丸投げ。最終的な避難計画は住民の自己責任になる。
軍民を併せて210万人以上が死んだ太平洋戦争から70年。憲法九条の重みも忘れつつある。飼い馴らされた羊の如く、権力者に従順な日本人。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 6月3日 】
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将軍頼家は伊豆から富士の狩倉に移動。富士山麓にも人穴と称する洞窟があり、頼家は重宝の剣を与え仁田四郎忠常主従六人を探検を命じたがその日は戻って来なかった。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 6月4日 】
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一昼夜後の10時頃に仁田忠常が人穴から出てきた。洞窟は狭いため全員が松明を持って前へ進むのみだった。流れを渡り蝙蝠が顔を遮る回数は限りなく、その先は大きな流れがあって渡れない。松明の火で対岸を眺めると郎従四人が忽ち命を落とし、その際に現れた霊の教える通り恩賜の剣を河に投げ入れて命を全うした、と。地元の古老によれば洞は浅間大菩薩の御在所で昔から奥を見る事はできない、今回はまことに恐ろしい結果である。
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  ※浅間大菩薩: 富士山信仰に基づく女神で大山祇命の娘、天孫の瓊瓊杵尊 (アマテラスの孫、ニニギ。天地が豊かににぎわう神) の妃らしい。要するに女神の祟り(笑)。
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頼家の乳母を務めたのは 比企能員 の妻と、比企尼 の二女(河越重頼 室)と三女(伊東祐清 室、後に 平賀義信 に再嫁)。能員は比企尼の甥で、男子が産まれなかった比企尼の養子として家督(夫の比企代官・掃部允は頼朝挙兵以前に死没)を継承している。
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  ※能員の妻: 渋河兼忠(所領は現在の群馬県渋川、比企の乱(建仁三年、1203年)で能員に与して滅亡)の娘。兼忠の所領は
北條時政 に味方した足利泰氏 の次男義顕が
継承して源姓渋河氏を名乗り、上野国に足利一族の支配圏を広げている。
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一方で実朝の乳母は政子の妹 阿波局阿野全成 の妻)、その介添えは大弐局(加賀美遠光 の娘)ら。当時の習慣では乳母夫婦は経済的にも精神的にも実子以上の愛情を乳母子に注ぎ、成長した乳母子は実の親以上に乳母夫婦を引き立て大切に扱う。
つまり、頼家が将軍でいる限り比企一族の優位は保証されており、北條時政 が幕府の実権を握るためには頼家を廃して実朝を将軍の座に就けるのが欠かせない条件となる。
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伊豆~富士野へ狩猟に出掛ける少し前に頼家は時政を牽制する先手として 阿野全成 討伐を断行した。舅の北條時政との接点を深めて頼家グループと対立する傾向にあった全成だが、頼家は次に起きる反撃に対する準備もせず虎の尾を踏んでしまった。全成を殺せば時政が萎縮するとでも思ったのか。
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大泉寺 左: 阿野全成の館跡 駿河国井出の大泉寺     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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訴訟決裁権を剥奪されて幕政から排除された 頼家 だが、この状態で事態が好転する筈はない。
武田信光宇都宮頼業 は取り敢えず頼家の命令に従って 北條時政 に立場が近い 阿野全成 の排斥に動いたし、将軍としての影響力を発揮できる御家人が多少でも残っているうちに時政追討を断行すれば勝利の可能性もあった。愚かにも激情に駆られて準備もせずに賽を投げたのは狡猾な時政の罠に嵌ったと同然である。
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【吾妻鏡 建仁三年(1203) 5月19日】
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  深夜、謀反の嫌疑で 武田信光 が阿野全成を捕え御所に連行、直ちに宇都宮頼業に身柄を預けた。
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  ※宇都宮頼業: 五代頼綱の二男で剛勇を知られた武者。本領は下野国横田郷(宇都宮市みどり野町)。初代の藤原宗円が下野国の
一之宮(二荒山神社)や天台宗石山寺(宇都宮大谷寺)の統率者として北関東の東部に勢力を伸ばして宇都宮に本拠を置いたのが最初。三十三代に亘って続いた宇都宮氏の廟所などについては 益子上大羽の地蔵院(別窓)で。
【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 5月20日 】
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頼家は比企四郎(能員)を介して 政子に伝えた。「全成が叛逆を企てたため拘留した (妻の) 阿波局を聴取するので出頭させるように」と。政子は「そんな事を女が知る筈はない、全成は二月に(所領の)駿河に戻って以後は連絡が取れず、詳細は知り得ない。」と、阿波局の引渡しを拒んだ。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 6月23日 】
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八田知家(宇都宮宗綱(宗円の子で二代当主)の四男で八田氏の祖)が将軍頼家の命令を受け下野国(多分、宇都宮)で阿野法橋全成を殺した
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  ※全成の首: 大泉寺寺伝では、首はその夜に阿野庄まで飛び松の枝に掛かったという。境内保育園の庭に複製した首掛け松の切り株と石碑が建つっている。
阿波局 が産んだ嫡子時元は母親と祖父 北條時政 の願いを容れて死罪を免れ阿野庄で隠居となり、15年後になって謀反を企てた罪で 義時 の討手に殺された。宣旨に従って兵を集めたと記録されているが、単純な粛清だろう。以下、建保七年の記録二つを参照。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 6月24日 】
江兵衛尉能範(大江か?)が頼家の使者として京に向かった。全成の長男 頼全を殺す命令が 佐々木定綱 らに下されたためである。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 7月25日 】
佐々木定綱の使者が鎌倉に到着。去る16日、在京の御家人を派遣し東山延年寺で播磨公頼全(僧籍)を殺した、と報告。
  ※延年寺: 化野(あだしの)と並ぶ葬送の地・京都鳥辺野(地図)の洛東山延仁寺。開基は最澄、浄土真宗開祖 親鸞 終焉の地としても知られている。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月15日 】  16年後、全成の遺児とその仲間を追討。
未刻(14時前後)、二品(二位) 政子 の寝所に小鳥が飛び込んできた。凶兆である。また、申斜(16時過ぎ)に駿河国からの飛脚が鎌倉に入って次の通り報告した。
阿野冠者時元(法橋 阿野全成 の子、母は遠江守 北條時政の娘 阿波局)が去る11日に多くの兵を率いて山中に城郭を設けた。宣旨に従って東国支配を企てている、と。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月22日 】
鎌倉から派遣した軍兵が駿河国阿野郡に到着して阿野次郎・同じく三郎入道を攻撃、時元およびその仲間は尽く追討された。
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  ※蛇足: 大泉寺の1km東の根方街道北に興国寺城址(沼津市のサイト・地図)がある。伊勢新九郎(後の北条早雲)は明応二年 (1493) に興国寺を出陣、伊豆堀越公方
の御所を襲い当主の茶々丸を殺した。これが戦国時代の幕開けとされている。
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トリカブト 右:毒殺未遂なら、キンポウゲ科の毒草 トリカブトか   画像をクリック→ 拡大表示
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日本では記紀の時代からある代表的な毒草で、日本武尊の殺害に使われたのもトリカブトと伝わる。根に猛毒(神経毒?)があり、
烏帽子や兜に似た花の姿から「鳥兜」の名が転訛したらしい。
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話を建仁三年 (1203) に戻して。6月10日に富士裾野の狩猟から鎌倉に戻った 頼家 の体調には何の問題もなく、23日には 八田知家 に命じて下野に拘留していた 阿野全成 を殺している。そして6月30日から7月9日まで、八幡宮の鳩が変死する事件が三回続く「不吉の前兆」が起きた。「異変が起きても、それは神意に違いない」と、吾妻鏡は事前告知をしているが、そんな事とは露知らず...頼家は7月18日に 北條時房 ・比企時員(能員 の三男)らと御所で蹴鞠に興じていた。
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【 吾妻鏡 建仁3年(1203) 7月18日 】
御所で蹴鞠が催された(今日以後は開催なし)。北條五郎時房 ・ 紀内行景(京下りの蹴鞠コーチ) ・ 富部五郎(信濃川中島の御家人) ・ 比企弥四郎(能員の三男時員) ・ 肥田八郎(宗直・函南南部の御家人) ・ 源性・義印らが参加。
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  7月23日・・・戌の刻(20時)、将軍頼家が突然に発病して苦しむ。只事ではない。
  7月24日・・・病状が深刻なので幾つもの祈祷を始めた。占いによれば霊魂の崇りである、と。
  8月 7日・・・将軍頼家の容態は悪く、かなり苦しんでいる状態である。
  8月27日・・・将軍重態のため相続を議論。関西38国の地頭職を11歳の弟千幡(後の実朝)が、関東28国の地頭職と守護職を6歳の長子 一幡 が継承すると定めた。
これに対して比企能員が憤激し、外戚の権威を以て千幡とその縁者の排除を謀ろうとした。
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この時点では幕政の主導権は頼家ではなく13人の合議制に移行している。ただし合議制とは形だけで、構成員を選定したのも筆頭格の執権に就任したのもサブに 北條義時 を指名したのも 北條時政 である。既に北條独裁体制が完成されつつあり、頼家失脚の直前に起きた 阿野全成頼朝 の異母弟で、義経の同母兄の幼名今若)追討事件と併せて時の流れを追い掛けてみると、清和源氏嫡流のカリスマ・頼朝の生存中には果たせなかった時政の夢が現実味を帯びている。これなら天下を盗れるぞ、と。
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一方の頼家は突然発病した7月23日から40日余りが過ぎた8月末には危篤に陥ったが奇跡的に回復、9月2日には愛妾若狭局の訴えを聞き比企能員と相談できる状態までになった。発病も回復も早いのは毒物の典型的な症例か。ひょっとして頼朝の時もトリカブト...などと思いたくなる。
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【 吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月2日 】
今朝、比企能員 の娘(頼家 の愛妾で 一幡 の生母 若狭局)が頼家に訴えた。「北條時政 を追討すべきである。全国の地頭職を分割すれば権威が二つに割れて争いが起き、妥当な措置のように見えても結局は国が乱れる原因になる。時政一族を放置したら全てを奪われるに違いない」と。
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驚いた頼家は比企能員を病床に呼び時政追討を命じたが、政子が障子の影でこの密談を聞き、侍女に命じて仏事のため名越邸に向っていた時政に仔細の書状を届けさせた。時政は下馬して手紙を読み、落涙して再び乗馬、馬首を廻して十二所を目指し 大江廣元 と面談した。
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  ※障子の影で: 吾妻鏡には「密談の盗み聞き」が多数ある。
頼朝清水冠者義高 追討を決めた時も女官が聞いて 大姫 に知らせたし、梶原景時 糾弾の際も 阿波局 が盗み聞き
を報告した。他人に聞かれるような状態で重要な密談を行い、それをVIPの 政子 が「たまたま」盗み聞きなんて常識的にあり得ない。これが 畠山重忠を追討した際に義時の立場を露骨に擁護した記述と同じ、「体制に阿る史書」たる所以だ。「盗み聞き」=「吾妻鏡の曲筆予告」 と考える方が良い。
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  ※時政の名越邸: 以前から名越邸と推定されていた釈迦堂口切通し東側山頂の遺跡は2008年の発掘調査で13世紀末の未確認廃寺跡と確認された。
元久二年(1205)に失脚して鎌倉を去った時政とは当然無関係で、最近の地図 では時政邸ではなく大町釈迦堂口遺跡と表示している。名越地区と釈迦堂口は1km以上離れており、ここに時政名越邸があったと考えるのは元々無理があった。
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正嘉二年(1258)5月5日の吾妻鏡に「尾張前司(名越流北條時章)の名越山荘(新善光寺辺)に入御と定める」云々の記述があり、現在は葉山に移っている新善光寺が昔は弁ヶ谷(補陀洛寺(ふだらじ)の東(地図)にあり、この辺りと考えるのが当然である。
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  ※名越流北條氏: 始祖は 北條義時の二男 朝時、時政の名越邸を相続して名越を称した。名越一族は嫡流の意識が高く、得宗家と再三のトラブルを起こしている。
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左:以前は時政の名越亭跡と推定された釈迦堂口切通し  画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月2日 時政と廣元の首脳会談 続き 】
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時政 は 「近頃の 比企能員 は権威を振りかざし諸人を蔑む様が甚だしい。いま将軍の病気を利用し命令と称して謀反を謀っている。これは先ず、能員を倒すべきと思うが」と語り、大江廣元 はそれに答えて「自分は政道を助ける立場を守るのみ、軍事行動についての是非は判断して欲しい」と述べた。
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時政は 天野遠景仁田忠常 を従えて廣元邸を辞した。莅柄社の前で再び馬を止め「能員が謀反を企てたため今日のうちに討伐する、討手を務めよ」と二人に命じた。遠景は「軍兵を派遣するまでもないから呼び出して殺そう、あんな老人など造作もない」と答えた。その後は名越邸に戻って更に手順を打ち合わせた。廣元も招いて諸事を相談し、廣元は昼頃に退出した。
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時政は使者として工藤五郎(朝光)を派遣し、能員を名越邸に招いた。「かねての宿願があり、葉上律師を導師とし尼御台所も参席して薬師如来像供養の仏事を行なう。他にも相談したい事があり、御臨席を頂きたい」と。
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  ※謀反を謀る: 主君に逆らうのが謀反の概念だが吾妻鏡は北條サイドの記述、「将軍が御家人に対して謀反を謀る」という変な理屈になる。天野も仁田も工藤も、伊豆北條の
近接エリア出身の武士で時政にとっては使い捨てる手足の様な存在、こんな人選にも時政の狡猾さが見え隠れする。
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  ※莅柄社: 頼朝の墓から300m東の 荏柄天神社(公式サイト)。廣元邸は十二所 明王院地図)の近くで、時政は騎馬で十二所の廣元邸から西へ、小町大路を経て名越を
目指したのだろう。莅柄社のある二階堂から名越方面に抜ける鎌倉時代の近道は(現在は通行止めの)釈迦堂口切通し(地図)だが、この隧道の開通に関する記録は皆無で、鎌倉時代だとしても相当の後期だろうと想像されている。
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  ※廣元も招いて: 紛争への関与を避けたい廣元は時政の招きに危険を感じたらしく、吾妻鏡には以下の記載がある。
同行を申し出た家臣には「考えがある」と言って押し止め、飯富源太宗長だけを伴って名越邸に向かい、途中で宗長に次のように語ってから名越邸に入った。「世の中の動きは著しく危険である。重要な事柄は今朝の面談で細かく評議したが、再度の呼び出しの意味するところは判らぬ。もし不慮の出来事があれば汝はまず私を殺すように。」と。面談は長い時間を費やしたがその間の宗長は廣元の近くから離れず、午刻(正午前後)に退出した。」
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  ※葉上律師: 臨済宗の開祖 栄西(ようさい)。建久九年(1198)に鎌倉に下って幕府に接近、壽福寺住職を経て京都建仁寺の開山和尚を務めた。
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金沢街道の杉本寺付近から大町・材木座方面に抜ける重要なルートが釈迦堂口切通し。開削年代は不明だが、四代執権 泰時 が父 義時の菩提を弔うため釈迦堂を建てたのが名の起りと伝わる。この切通しがないと小町へ迂回せざるを得ないため距離は約2倍になってしまう。
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現在は崩落の危険があるため通行禁止(通れるけどね)、雰囲気が如何にも鎌倉っぽい著名な切通しだが、鎌倉と外部を結んでいる訳ではないため鎌倉七口には含まれない。2005年前後に撮った画像が殆ど行方不明なので低解像度の一枚だけ。筑西市に転居したから鎌倉は遠くなったし、いつ行かれるか...
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  ※鎌倉七口: 城砦都市鎌倉の姿を如実に伝える古道の跡。交易と軍事二つの性格を持ち、南を海・残る三方を山が囲む鎌倉を外界と結んでいる。主として崖を開削して拓いた
ルートで、元弘三年(1333)の幕府滅亡に際しては各地の切通しで壮絶な死闘が展開された。
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西から時計回りに 極楽寺坂切通し(地図・腰越方向)、大仏切通し(地図・湘南深沢方向)、化粧坂切通し(地図・源氏山方向)、亀ヶ谷坂切通し(地図・北鎌倉方向)、巨福呂坂切通し(地図・北鎌倉方向)、朝比奈切通し(地図・金沢方向)、名越切通し(地図・逗子方向) の七ヶ所。

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妙本寺の山門 右: 長興山妙本寺 比企一族滅亡の跡   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月2日 】  比企能員は簡単に殺され、一族は滅亡
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(招待を伝えた時政の) 使者が帰った後に能員の子息や親族が「何が起きるか判らないから参加すべきでない、どうしても行くなら武装兵を同行させるべき」と諌めたが能員は「逆に人の疑念を招いてしまう。いま私が甲冑を着けた兵を同行させたら鎌倉中が大騒ぎになる。まず仏事に参席し他の事も話し合おう」と。
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一方の時政は甲冑を着け、弓の名手である中野四郎と市河五郎に弓矢を持たせて門の両脇に待機させた。蓮景(天野遠景の法名)と 新田忠常 は腹巻を着け、脇戸の内側に構えた。
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暫くして能員が平服の水干に葛袴の姿で黒馬に跨り、郎党二人と雑色五人を従えて到着した。門を入り沓脱を登って両開きの板戸を通り北の部屋に向かうところで蓮景と忠常が脇戸の端から能員の両腕を取って押さえつけ刺し殺した。時政は座敷を出てこれを眺めた。能員の従者は走って館に戻り事の次第を報告、比企一族と家臣たちは一幡の館(比企館)に籠った。
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午後、政子 の命令に従って比企一族追討の軍兵が派遣された。北條義時 ・ 親時(北條光時の子) ・ 武蔵守朝政小山朝政、同 (長沼)宗政、同 (結城)朝光畠山重忠榛谷重朝三浦義村和田義盛、同常盛、同景長 ・ 土肥惟光 ・後藤信康 ・ 所(伊賀)朝光 ・ 尾籐次知景 ・ 工藤行光金窪行親加藤景廉、同 景朝仁田忠常 らが討ち入った。
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館では比企三郎・同四郎・同五郎、能員の養子河原田次郎、笠原親景・中山為重・糟屋有季(この三人は能員の娘聟)が夕刻に至るまで必死に戦った。景廉・知景・景長と郎従が手傷を負って撤退し、重忠が新手の郎従を入れ替えて更に攻撃を続けた。比企一族側はついに敗れて館に火を放ち 一幡 君の前で自害、若君もこの災いから逃れる事はできなかった。能員の嫡子・余一兵衛尉は女装して逃れようとした途中で景廉に討ち取られた。
(北條側は)大岡時親(時政の後妻 牧の方の兄)を派遣して死骸を検分し、更に夜になって能員の舅である渋河刑部丞を殺した。
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比企掃部允夫妻が頼朝の乳人で養子の能員が頼家の乳人、更に能員の娘は二代将軍頼家に嫁して本来なら三代将軍となるべき男子を産んだ若狭局。源氏嫡流と深い血縁を結んだ比企一族だったが、こうしてあっけなく終焉を迎えてしまう。
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    ※蓮景: 天野遠景 は建久十年(1199)の頼朝死没に際して剃髪し蓮景を名乗っている。元暦元年(1184)には頼朝の命令で甲斐源氏の 一條忠頼 を刺し殺すなど
数々の謀殺に関与したベテランの「殺し屋」。遠景の本領(別窓)を参照されたし。
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    ※武蔵守朝政: この時点の武蔵守は時政の娘婿 平賀朝雅、この頃に朝政を名乗る著名な武士は小山朝政のみだが、つぎに姓名が載っているし武蔵守に任じた事もない。
吾妻鏡の単純な記載ミスか、編纂者の校正ミス。
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    ※追討軍の後日: 平賀朝雅、畠山重忠、榛谷重朝、三浦義村、和田義盛、新田忠常、及びその一族は後に北條氏の手で滅ぼされている。
同じ御家人が謀反の冤罪で討伐されるのを散々見ているのに「明日は我が身かも」と思わないのだろうか。新田忠常は比企氏追討直後の9月、畠山重忠と榛谷重朝は元久二年(1205)6月、平賀朝雅は同年の9月、和田義盛は建暦三年(1213)5月、三浦義村 は天寿を全うしたが嫡子の 泰村 と一族は宝治元年(1247)6月。いずれも当時の北條執権の指示によって粛清されている。
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【 吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月5日 】   落ち目の頼家、最後の抵抗を。
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将軍頼家の病状はかなり回復し危険な状態を脱したが一幡と能員が殺されたのを聞いて鬱憤がつのり、堀籐次親家 に書状を持たせて和田義盛と仁田忠常に時政追討を命じた。熟慮した義盛は熟慮の上で書状を時政に提出、時政は親家を捕らえて 工藤行光 に殺させた。頼家は更に苦悩を深めた。
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堀籐次は伊豆大仁の土豪で治承四年(1180)の頼朝挙兵の際に平兼隆館に討ち入って以来の頼朝側近。石橋山合戦・平家追討・奥州合戦などを戦いその後は建久四年(1193)の曽我兄弟仇討ち事件や元暦元年(1185)の
清水義高木曽義仲 の嫡子)追討など、吾妻鏡にも登場が散見される。頼朝の死後は頼家側近として仕えていた。鎌倉幕府草創の時代を支えた古参の武士が次第に歴史から消え去っていく。
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左:仁田忠常の館跡と墓所   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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頼家から時政追討を命じられた別の一人 仁田忠常 は能員謀殺に参加した時政のシンパなのだが、ほんの小さな行き違いで落命した。時政にとっては用済みの一人だったのかも知れない。
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富士の巻き狩りでは大猪を仕留め、狩宿に討ち入った曽我兄弟の兄 祐成 を討ち取り、頼家に従った富士野の狩猟で人穴を探検した忠常、伊豆では同郷なのだが、時政の決断に躊躇はない。
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【 吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月6日 】
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夜に入り、時政は能員追討の恩賞を与えるため仁田忠常を呼んだ。忠常が名越亭に入ったまま真っ暗になっても退出しないため従者がこれを怪しみ、馬を引いて屋敷に帰り弟の五郎と六郎に報告、兄弟は頼家が発行した時政追討命令が原因で討たれたと推量し、部下を引き連れて義時と政子のいる御所に駆けつけ矢を射掛けた。義時の家人も防戦して 波多野忠綱 が五郎を討ち取り、六郎は台所に火を放って自殺した。一方の忠常は名越亭を出て屋敷に帰る途中で事件を知り、御所に向ったところで 加藤景廉 に殺された。
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仁田氏の子孫は現在も伊豆仁田に住んでおり、一族の菩提寺でもある慶音寺に隣接した同家邸内には四郎忠常・五郎忠正・六郎忠時の墓石(供養墓か)が並んでいる。すぐ横を流れる来光川から慶音寺の一帯が昔日の仁田館で、確認できる土塁や濠の跡は後北条時代の韮山城の出城あるいは砦の跡らしい。この事件の翌七日、完全な勝利を収めた時政親子は頼家に出家を強要して伊豆修禅寺に追放、名実共に実朝傀儡政権がスタートした。
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【 頼朝の子が全て不慮の死を遂げたのは前世の祟り(笑)か 】
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頼朝の第一子 千鶴丸 は安元元年(1175)に3歳で殺され、第二子の 大姫 は建久八年(1197)に20歳で病死、第三子の頼家は元久元年(1204)に23歳で暗殺、第四子の 貞暁 だけは高野山の僧として寛喜三年(1231)に46歳で病没、第五子の 乙姫 は正治元年(1199)に14歳で早世、第六子の 実朝 は建保七年(1219)に27歳で暗殺...こうして頼朝の実子は全て死に絶えた。頼家だけが子を残したが、その血を継ぐ男子も承久二年(1220)に 禅暁(四男)が18歳で殺されたのを最後に死に絶えた。
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ここで、ただ一人残ったのが女だったため殺害を免れた 竹御所 鞠子である。彼女の母は 義朝 の末弟 為朝 の娘で、源氏累代の家臣足助重長に嫁して娘を産み、その娘が後に頼家の側妾となって 公暁 と竹御所を産んでいる。父も母も源氏の血統である彼女が貴族を代表する摂関家の九条から出た四代将軍 藤原頼経 に嫁したのだから、男子を産めば北條氏が率いる幕府の貴種として素晴らしいシンボルになる。政治的に大きな意味を持つ婚姻だったが...好事魔多し。
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【 吾妻鏡 寛喜ニ年(1230) 12月9日 】
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将軍頼経(満13歳)が婚姻。亥の刻(22時)、竹御所(同、28歳)が御家人を供に輿で小町大路を経て南門から御所に入った。華やかさを避けた内輪の儀式である。三代執権 泰時(現職)と評定衆の 北條経時(泰時の孫・後の四代執権)および連署が入口の輿寄せに出て迎えた。
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【 吾妻鏡 天福ニ年(1234) 12月9日 】
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   寅の刻(早朝4時)に将軍御台所が死産、酷く苦しみながら辰の刻(8時)に死去した。故将軍頼家の姫君である。加持祈祷は 定豪が務めた。
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     ※定豪: 実朝を殺した 公暁 の跡を継いで八幡宮別当となり後に東寺長者の三位を経て東大寺別当となった。竹御所の加持祈祷に失敗して辞職、嘉禎三年(1237)には
四条天皇の護持僧となっている。かなり野心的で権力志向の強い人物だったらしい。
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頼経と鞠子には15歳の逆差があり、当時としては母子ほどの違いで如何にも異様だった。父の頼家が失脚し暗殺された時点で出家あるいは若いうちの結婚がノーマルなのに、28歳まで独身だったのは政子&義時~泰時と続く執権が将来を見越して温存した可能性もある。
そんな境遇にも関わらず円満だった結婚生活は4年後に終局を迎える。32歳で妊娠した鞠子は死産の末に死没、辛うじて保っていた頼朝の血脈は完全に失われた。北條氏として中途半端に源氏の貴種を残すよりは死に絶えて公卿または宮家の子を将軍に迎える方を選択した結果、かも知れない。

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 その参 修禅寺物語 頼朝による範頼追討と、時政による頼家暗殺 

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左:富士山を背景に修善寺に向って走る駿豆線     画像をクリック→ 拡大表示
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単線なのに15~20分間隔で運行する、なかなか偉いローカル電車が伊豆箱根鉄道の駿豆線。地元では「いずっぱこ」の名で親しまれている、西武鉄道グループの経営である。三島・修善寺間は約30分・510円(踊り子も同じ)、中間11駅全てに停まる各駅停車でも30分(5駅に停まる踊り子は25分)で走り抜ける。
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> 休日のみ運行するデラックスな「踊り子」は駿豆線の範囲内で乗降する限り特急料金は要らない。東京駅→修善寺駅の「特急踊り子」は全席指定で4590円、約2時間を要する。19.8kmの中に11駅(始発駅と終着駅を除く)だから駅間の距離は平均して1600mでかなり短い。狩野川に沿って車窓の両側に続く田方盆地は殆ど平坦なので、韮山や伊豆長岡周辺の観光地や史跡を回遊するには自転車を利用するのも面白い。
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三島・沼津周辺なら公営の ハレノヒサイクル、韮山・伊豆長岡周辺なら 伊豆の国サイクル、修善寺駅を起点にするなら いずベロ が、それぞれ便利でお薦めできる。
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修善寺駅から古刹・修禅寺のある温泉街までの2km強は緩やかな登り道なので電動を選択...帰りは楽だけどね。
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いずれにしても駿豆線の沿線は平安時代末期から鎌倉時代にかけての史跡の宝庫で、その時代に興味がある歴史ファンなら一度は訪れてみたい。観光パンフレットには載っていない意外なスポットも点在しているから、綿密な事前調査を済ませて出掛けよう。

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右:伊豆箱根鉄道 駿豆線の終点・修善寺駅  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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駅の構内には駅弁売り場(9時~)もあるから、人気の鯵寿司(900円)や椎茸弁当(700円)を買い込んでスタートしても良い。いずれも電話0558-72-2416で予約できる。修善寺温泉口まで約10分の路線バスは概ね30分間隔で発車しているし、グループなら構内のタクシー(修禅寺まで1200円ほど)を利用しても良い。改札口近くにはトヨタと日産のレンタカーもあり、更に足を伸ばす場合には重宝する。
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車の場合は道の狭さと駐車場の判りにくさが難点。無理に門前まで行かず、600mほど手前の総合会館駐車場(地図・大きなイベント以外はフリー)を利用するか、会館から300m先を左折して橋の先にある御幸橋駐車場(500円)を利用すると良い。
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総合会館の地下には資料館を改装した無料の ジオリア(公式サイト)もあり、子供連れなら結構楽しめる。空調完備のロビーと併せて観光の基地に利用したい。修禅寺門前の手前を左折した橋の先にある有料P(400円・筥湯(立ち寄り温泉)に隣接)が最も寺に近いけれど途中の道が狭く、初めての観光客にはお薦めできない。その他は 観光協会の駐車場案内 で。
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総合会館からスタートして日枝神社~修禅寺~独鈷の湯~範頼墓~赤蛙公園~竹林~指月殿~頼家墓~虎渓橋を経由して総合会館に戻る代表的なルートを回遊すると約1時間半、道草しながら歩いても2時間予定すれば間に合うし、足湯や立ち寄り湯を楽しんでも日帰りで充分に楽しめる。
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声を大きくして薦めるほどの食事処はないが、表通りには観光客向けの蕎麦店が数軒ある。落ち着いて旨い蕎麦を食べたい客には韮山反射炉の先にある 三つ割り菊 を薦めていたのだが、2017年に閉店した。これは、とても残念!とりあえず観光客で混んでいる店でセット物を注文するのは避ける方が良い。
その他修善寺観光に関する情報はポータルサイト ようこそ修善寺 か、 観光協会のサイト がお薦めできる。

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左:修禅寺の鬼門を守る日枝神社(信功院跡)  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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文治五年(1189)の初夏、頼朝 の圧力に耐え切れなくなった 藤原泰衡 の兵に攻められた 九郎義経 が平泉の衣河館で自刃した。義経が在京していた頃に頼朝が発した義経追討命令を固辞した異母兄弟の 範頼 は建久四年(1193)5月28に起きた曽我兄弟の仇討事件後の8月17日に謀叛の嫌疑で拘束され、修禅寺に幽閉された直後に討手を向けられて自刃した。
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修善寺地区に残る伝承では、梶原景時 率いる討手500余騎を迎え信功院の庵に火を掛けて自害したと伝わる。信功院も庵も既に痕跡はなく、文政元年(1818)建立の庚申塔が残るのみ。頼朝の憎しみを受けて殺された二人目の異母兄弟である。
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修禅寺から500mほど西の斜面には昭和初期に新設した範頼の墓がぽつんと残っている。ここには昔から若宮八幡と呼ぶ石の祠があり、明治十二年(1879)には骨蔵器が掘り出された、と伝わっている。
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範頼と親しかった舅の 安達盛長 は「範頼の墓の近くに埋葬せよ」と遺言しているから、この骨蔵器の中身が盛長か範頼の遺骨だった可能性もあるのだが既に行方不明、盛長の墓石はバイパス工事のため修禅寺墓苑入口(地図)に移設された。
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工事に伴って範頼の墓石も同じ時期に失われ、現在地に再建された。現在の五輪塔は昭和七年(1932)に日本画家 安田靫彦 (wiki) のデザインにより新造されたもの。すぐ上を通っているのが二人の墓所の移転を招いたバイパス道路で、今ではこの付近に墓所があった」という伝承が残るのみ。
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義経伝説と同様に範頼にも逃亡したとの伝承があり、亀御前(正妻、盛長の娘)の生家・埼玉県北本市石戸(安達盛長領)には伝・範頼の史跡(外部サイト)も残っている。狩野宗茂宇佐美祐茂 が手勢と共に護送して「逃げました、首はありません」では討手失格だろうから、生き延びた可能性は低い。
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もしもは無意味だが、頼朝 が弟たちと協力する道を探っていれば、北條氏の台頭を抑えられ 頼家実朝 も殺されずに済んだ、かも知れない。兄弟の反目(と言うより異母弟の排斥)は 北條時政 や御家人の総意だった可能性もあるが、弟を殺した頼朝の愚かな猜疑心は結果として直系子孫の滅亡を招いてしまう。
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平家は一族を偏重して滅び、源氏は一族を殺して滅びる。なんという愚かさだろう。

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右:範頼所領の吉見 館跡と伝わる息障院  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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範頼 の生涯には不明な部分が多いが、京と東国を往来していた父の 義朝 が池田宿(天竜川東岸の宿駅で現在の磐田市池田・地図)の遊女に産ませたらしい。蒲御厨(伊勢神宮領で現在の浜松市東部)で育ったため蒲冠者とも呼ばれ、九条兼実 の家司で 後白河法皇 の近臣でもあった 藤原範季 (wiki) に養育された。九条兼実は平家と距離を置いた政治姿勢から義朝の子を養育したらしい。
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  ※藤原範季: 二男で嫡子の従三位・参議 藤原範茂後鳥羽上皇 の近臣として「承久の乱」の密議に深く関与し、指揮官として
戦場にも赴いている。敗戦後は鎌倉に連行途中の足柄山東麓での斬首を避け、自ら五体満足の水死を選んでいる。当サイトでは 藤原範茂の墓(別窓)として「鎌倉時代を歩く 四」に登場している。
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範頼は源平合戦当初には遠江(静岡県西部)を占領した甲斐源氏の 安田義定 に合流して参戦し、平家の滅亡後は奥州合戦にも従軍、武蔵国横見郡吉見を領有した。息障院が建つ一帯には御所の地名 (地図)が残っている。 また平治の乱直後から比企氏の庇護を受け、息障院から1km西の吉見観音安楽寺のある岩殿山(地図)で成長したとの伝承もある。
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【 150年も後の南北朝時代に編纂された保暦間記に拠れば... 】
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範頼が殺された。富士の巻狩りで頼朝死亡と鎌倉に伝わり、政子 が嘆き悲しんだ。鎌倉にいた範頼が「私がいる限り御代に何の心配も不要」と慰めたのを「次の代に心を傾けた」として討たれた。
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保暦間記の原文は 「範頼左て候へば御代は何事か候べき」、鎌倉に帰って 政子 からその話を聞いた 頼朝 の心に疑惑が芽生えた...広く知られているこの話は保暦間記以前に成立した吾妻鏡や曽我物語が全く触れていないため信頼に値しない。ヨタ話には迷惑するんだよね。
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平家に続いて 義経 および義経を庇護していた奥州藤原氏も滅亡し、同族の甲斐源氏も頼朝の「飴と鞭戦略」で著しく衰退した、大きな邪魔者は片付いたから次は異母弟の範頼も粛清して子孫への世襲制度を磐石にして置こうか...そんな頼朝の意図が吾妻鏡の記述に見え隠れする。

右:吉見の安楽寺(吉見観音)  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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父である 源義朝 が平治の乱(1159)に敗れて横死した時は九歳前後、平家の捜索を受けた幼い範頼は三河から武蔵国吉見に逃れて稚児となり、成長して頼朝挙兵に合流した...これは息障院に近い岩殿山安楽寺に伝わる吉見観音縁起。後に平家追討の恩賞として育った土地を与えられ、養育の恩に報いるため所領の半分を寄進して中興開基になった、と。まぁ各地各様の伝承を十把一絡げで笑い飛ばす訳にもいかないが、やや無理スジだろう。吾妻鏡による範頼追討前後の記録は下記。前述通り、範頼死没の具体的記述はない。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月3日 】  曽我兄弟の仇討ち事件の二ヶ月後
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範頼 が起請文を提出した。これは謀反を企てたとの噂について問われた返答である。
曰く、「代官として再三の戦場で忠節を尽くし、今後も同様である。疑惑は実に残念で、万が一にもこの起請文に背く事があれば神仏の罰を受けるだろう。」 参河守 源範頼
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大江廣元 を介して起請文を読んだ頼朝は「勝手に源を名乗るとは過分である、まずこの件を伝えよ」と。廣元は範頼の使者重能を呼んでそれを伝えた。重能は「範頼は故義朝さまの息子だから舎弟と考えるのは当然で、元暦元年に平家討伐軍を指揮して上洛する際は「舎弟範頼を追討使として派遣する」と御文に書き公式文書に載せた。勝手に名乗るとの非難は不当」と答え、頼朝は何も言わなかった。重能は退出して経緯を報告、範頼は狼狽した。
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頼朝発行の公文書があるのだから源氏を名乗る瑕疵はない。これで済めばピンチ回避の可能性もあったのだが、事態は思わぬ展開を見せる。いや、事態はどうあれ範頼が頼朝の信頼を取り戻す事はなかったかな...滅亡は時間の問題に過ぎなかったのかも知れない。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月10日 】
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早朝、鎌倉に騒ぎがあり甲冑の武者が幕府に駆け付けた。範頼の家人・當麻太郎が頼朝寝所の床下に忍んでいたためである。
頼朝が気配を感じて 結城朝光 らを呼び當麻を捕縛させた。朝になって尋問すると「範頼は起請文を提出した後に何の沙汰もなく頻りに嘆くため(独断で)様子を伺おうとした、決して謀反ではない。」と。範頼に問い合わせると「(當麻の行動は)知らなかった」と答えた。當麻は言葉を尽くして陳謝したが最近の範頼の態度に符合する上、當麻は勇猛で知られた武士なので疑いを深めた。更に詰問したが當麻は気落ちして言葉を発しなかった。
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「外部の武者が寝所の床下に潜入」は無理でしょ。御所の警備がそのレベルなら頼朝はとっくの昔に暗殺されていたし、潜入を防げなかった警備担当も同罪に問われる。更には潜入の実行犯を斬首ではなく流罪で済ませたのも納得できない点で、かなり仕組まれた冤罪っぽい。要するに、頼朝は範頼を殺したかった。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月17日 】
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範頼は 狩野宗茂茂光 の嫡男) と 宇佐美祐茂 らが護送して伊豆国に下向。戻る予定はなく、流罪に等しい。當麻太郎は薩摩国に流罪、本来は死罪だが 大姫 の病気平癒を祈って減刑された。範頼謀反の気配が頼朝に届き起請文を提出したが當麻の行動が許し難いための結果である。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月18日 】
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範頼家臣の橘太左衛門尉・江瀧口・梓刑部丞が武装して館に籠った情報があり、結城朝光梶原景時親子 ・ 仁田忠常を派遣して討伐した。

右:ついでに、伝・空海修行の跡 奥の院(正覚院)  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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修禅寺は伊豆随一の古刹で、鎌倉幕府開設を400年も遡る平安時代初期の創建である。
伝承に拠れば、空海 は18才の頃に伊豆の山奥で修行を重ね修禅寺を開いた。修禅寺の前を流れる桂川に沿って4kmほど西に遡った湯舟川中流には修行の跡と伝わる古刹・正覚院(奥の院)が、更に2km先の山中には空海の持っていた杖が根付いたという桂の巨樹「桂の大師」が聳えている。
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> 空海 (諡を弘法大師と) の事跡は伊豆各地は勿論のこと全国に点在しており、その大部分は史実ではない。修禅寺を創建した筈の時代には別の場所で修行または布教していた記録もまた、全国に残る。
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※諡(おくりな) : 貴人や高僧の死後に贈る呼称。従って生前の空海が弘法大師と呼ばれた事はない。
例えば第122代明治天皇以前は「天皇」の呼称も諡だった。
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空海の幼名は真魚(まお・まな)、宝亀五年 (774)6月15日に讃岐国(香川県)の屏風ヶ浦で誕生した。父親はこの地を治めた豪族の佐伯直田公、母玉依の出自は阿刀氏、叔父の阿刀大足は桓武天皇の皇子・伊予親王の儒学の侍講師という名門である。
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一族の期待を背負った真魚は京に上り大学寮(現在の人事院に相当)で 岡田牛養(外部サイト)に 春秋左氏伝(wiki)などを、直講(明経道教官)の味酒浄成に 五経(wiki)を学ぶなど高い教育を受けたが やがて仏教に傾倒し、18歳の頃から学業を離れ吉野の金峯山や四国の石鎚山に籠り苦行を積んだ。
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もちろん、この頃に伊豆や他の国を訪れて修行を重ねた公式の記録はない。延暦二十三年(804)、28歳で遣唐使の留学僧として唐に渡り、本来なら20年を費やして仏法などを学ぶべきところを僅か二年で全てを習得し帰国した、と伝わる。

 
左:幽閉場所としての修禅寺     画像をクリック→拡大表示
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共に約10km西の二つの分水嶺(地図)の金冠山(816m)近くを源流とする北又川と、達磨山(982m)近くを源流とする湯舟川が修禅寺の西で合流し、門前を通って狩野川に流れ込んでいるのが桂川。現在の修善寺駅周辺では北東から流れ込む古川と南東から流れ込む大見川と西から流れ込む桂川が合流し、天城を源流にした狩野川は川巾を大きく広げる。
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北・南・西の三方向を山に囲まれ、鎌倉時代に外界と通じているのは桂川沿いの小道だけ、しかも狩野川沿いの一帯は天野・加藤・仁田・狩野・堀・田代・大見など 頼朝 子飼い(後には北條氏の配下に零落)でもある土豪が支配する土地に囲まれており、「修禅寺に幽閉」 とは 「座して死を待て」 と同義語だった。
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建久四年(1193)8月には頼朝の命令で修善寺に幽閉された 範頼梶原景時 の討手を迎えて自刃、11年後の元久元年(1204)7月18日(旧暦の8月14日)には頼朝の嫡男で二代将軍を罷免された 頼家 が母方の祖父 北條時政 の刺客(物証なし、状況証拠は黒)に殺されている
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当時の修禅寺はまさに地の果てで、伊豆半島の西海岸へ逃げるためには30kmの急峻な山道を越えなければならない。現地を確認すれば脱出など絶対に無理だと納得できる。
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  ※範頼と頼家: 両者とも、吾妻鏡には「追討云々」の記載はなく、範頼事件の際には「残党や家臣を討ち取った」と記載し。頼家の場合には「前の将軍が修禅寺で崩じた」
修禅寺で崩じた」と記載しているのみ。これは源氏の同族を殺した事件の直截を避けているのだろうか。
範頼の場合は保暦間記と北條九代記だけが「誅殺」と書かれているのがやや異様で、これが「範頼生存説」の根拠の一つになっているらしい。

右:修善寺のシンボル 独鈷の湯    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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伝説によれば、大同二年(807)に修善寺の山奥(現在の奥の院)で修行していた 空海 (弘法大師)が桂川の冷たい水で病気の父親の体を洗っている少年を見た。少年の孝行心に打たれた空海は法具の独鈷杵(とっこしょ)で川原の石を砕いて温泉を湧出させ、併せて父親の病も癒やした、と伝わっている。
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これが修善寺温泉の起源で、川原に湧出していた源泉も近年は石組みの上に移され、更に現在は岸からの配管で給湯している(岸にも足湯あり)。桂川が大きく増水すると周辺の旅館が一階床上まで水没する例も少なくない。
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脱衣所はないし道路からも丸見えだから実体は足湯で、もちろん入浴も禁止だが、以前にはタオル1枚だけ持って入浴した若い女性がいたという「伝説」もある。その勇気は称えられるべきか(笑)。
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バブル景気全盛の頃には乱掘が原因で修善寺温泉全体の湯量も湯温も致命的に下がってしまった。旅館は温泉組合を結成し給湯を一括管理して源泉枯渇を防ぎ、何とか昔に近い状態に復旧している。
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【 参考までに・・・新しい筥(はこ)湯 】
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新しい立ち寄り温泉が 筥湯、これは二代将軍 頼家 が入浴した伝承に因んだ命名で虎渓橋のすぐ脇に建っている。0558-72-2501 12時~21時、不定休で
350円。隣接した有料駐車場(400円) を利用すると300円だが、合計700円は決して安くはない。その反対に、便利に使えるのが快適なロビーを備えた 修善寺総合会館 の駐車場と、修善寺墓苑の駐車場( 安達籐九郎の墓(別窓)を参照)。どちらも無料、中心街までは500mほど歩けば済む。ただし暫く訪問していないので詳細は事前確認が必要だ。NHK大河ドラマの影響で新しい角度のPRもある。詳細は 観光協会のサイト で。

左:伊豆修善寺の古刹、福地山修禅萬安禅寺    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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さて...ニ代将軍 頼家 は執権 北條時政 との政争に敗れて退位を余儀なくされ、弟の 実朝 に将軍職を譲った。同時に時政と主導権を争った頼家の舅 比企能員 は時政の名越邸で謀殺、一族は皆殺しになって歴史の舞台から消え去り、修禅寺に幽閉された頼家も翌年には刺客によって生涯を終えた。
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修禅寺は伊豆八十八ヶ所霊場巡りの結願の寺であり、大同ニ年(807)に空海が創建したと伝わる古刹である。開創から400年以上の間は真言宗の桂谷山寺だったが、鎌倉時代に入り宋からの渡来僧 蘭溪道隆 によって臨済宗に改宗された。蘭溪道隆は鎌倉の臨済宗 建長寺(公式サイト)の開山を務めた高僧で、元の諜者の可能性を疑われて拘束され、修禅寺に押し込められた人物である。
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宋の理宋皇帝から大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺という扁額を受けていたため中国でも知名度が高く、更に才能ある遣唐僧として名を高めた 空海 が創建したとの伝承に惹かれた中国人観光客も多い。
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室町時代の康安元年(1361)には戦乱で、応永九年(1407)には火災で堂塔は全て失われたが、伊豆韮山城主だった伊勢新九郎(後の 北条早雲 (wiki) が延徳元年(1489)に叔父の隆渓繁紹を中興開山として曹洞宗に改めた。現在の本堂は明治十六年(1883)の建造で、2006年に大規模な改修が行われた。本尊の大日如来坐像は毎年11月1日から10日間だけ特別に公開され一般拝観が可能となる(たぶん今でも変わらない、と思う)。
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    ※大同二年: 朝廷の公式記録に拠れば 空海が唐留学から帰国したのは大同元年(806)10月。20年の留学を命じらながら2年で帰国したため入京の許可を得られず
大同四年(809)まで大宰府に拘束された(大同二年以後は同所の 観世音寺 (wiki) に寄宿)。入京は太政官符による許可を得た大同四年の9月、従って大同二年に修禅寺を創建できる可能性はない。

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右:修禅寺に向き合う丘に建つ頼家の墓所  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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公然と権力掌握に向けて動き始めた老獪な 北條時政 が幽閉だけで良し、と考える筈はない。生きている限りは反北條のシンボルとして利用される恐れがある...頼家は翌年の元久元年(1204)、修禅寺門前にかかる虎渓橋際の「筥湯(はこゆ)」で入浴中に時政が差し向けた(証拠はないが)刺客に暗殺された。享年23(満21歳)。墓は桂川近くの小高い丘の中腹に残る。
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頼家殺害は時政の立案と決裁に基づく行為だろうが、これには 義時政子 も合意していたと考えるのが自然だろう。
二人の娘(大姫乙姫)を溺愛した政子は息子には冷淡で、源氏の血筋よりも北條一族の繁栄を優先させる生涯を送っている。
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頼家直系の子は比企一族と共に殺された 一幡(満5歳、母は 比企能員 の娘 若狭局)、後に実朝を殺す 公暁(19歳・生母は 足助重長の妻(為朝の娘)、後に義時殺害計画に加担した 栄実(14歳・母は 一品房昌寛 の娘)、公暁に加担した容疑で殺された 禅暁(享年不詳・栄実の同母弟)、鞠子(竹御所・享年32・藤原頼経の正室)、それぞれが悲惨な終焉を迎えることとなる。
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【 頼家暗殺について、史書の記録は 】
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    承久記.....頼朝の跡を継いだ二代頼家は行状が悪くて人にも神仏にも見放され、外祖父で後見人の北條遠江守時政に殺された。
    梅松論.....頼朝嫡子の頼家は建仁二年まで関東の将軍だったが悪事が多く、外祖父時政の命令で修禅寺に於いて23歳の若さで討たれた。
    武家年代記...元久元年7月19日に頼家が修禅寺で死んだ。平(北條)義時が殺したものである。
    愚管抄.....修禅寺で頼家入道が殺された。急所をおさえ紐で首を絞めるなどして刺し殺したらしい。勇猛でも力が及ばない場合もあるものだ。
比企(能員)は児玉党の行時(秩父行重の子・片山姓)の娘を妻にし、娘が頼家の子一万を産んだものである。
    吾妻鏡.....7月9日 酉の刻(夕刻6時)に伊豆からの飛脚が到着。昨日左金吾禅閤(頼家)が修禅寺で崩じた、23歳と。
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    ※左金吾: 宮廷を警護する左衛門府の長官・左衛門督の唐名で正五位上に相当。禅閤は仏門に入った摂政や関白。

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左:頼家の菩提を弔って政子が寄進した指月殿  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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政子頼家 の菩提所として墓所の横に堂を建てて指月殿と名付けた。「指月」が悟りを月、経典を指に喩えた教えで、「経典(指)だけではなく悟り(月)を目指せ」ほどの意味、らしい。
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政子が「月を指して子を失った身の不幸を嘆いた」と書いた 岡本綺堂 の紀行文(指月殿のページに記載)は感傷的に過ぎるし、吾妻鏡が再三の例を挙げて「頼家は鎌倉殿としての資質が欠如している」と匂わせているのも、主殺しの正当性を主張しているだけ。
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頼家が家督を相続したのが建久十年(1199)1月26日で、頼家の訴訟決裁権が剥奪され時政を筆頭とする有力御家人13人の合議制に変ったのが4月12日。この僅か70日間の吾妻鏡には頼家に関する事件らしい記載はなく、将軍の権限を縮小しなければ幕政に支障が起きる、そんな問題は起きていない。頼朝→ 頼家→ 一萬と続く鎌倉殿と比企氏の体制の奪取が目的である。
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カリスマ創業者が死んだ後に後継者に対する取締役の忠誠心が失われ、以前から実権を狙っていた大番頭の 北條時政 が二代目社長 頼家の経営能力不足を殊更に捏造して代表権を剥奪し思うように操れる三代目を担ぎ上げる...そんなところか。
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加えて、前社長の後家で専務の政子と弟の常務 義時 も結託しているのだから、経験の浅い二代目社長に勝ち目はない。北條一族が目指したのは源氏ブランドの継承ではなくブランドを利用した独裁で、母親の政子も頼家の失脚と暗殺を承認していた、と考えるべき。権力者は常に歴史を書き換える。
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指月殿は伊豆最古の木造建築で5間方形(9.09m四方・軒の出を含まず)、800年以上の風雪に晒されたとは思えないほど保存状態が良く、修禅寺本堂のように兵火にも遭わず往時の歴史を伝えている。残念ながら敷地が狭く、周囲に土産物店や民家が迫っているのがやや鬱陶しい。

右:武蔵国比企郡に残る伝承 比企禅尼と若狭局(?)  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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 【 その後の比企禅尼と若狭局 】
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平安時代末期の武蔵国比企郡(現在の東松山市を中心にしたエリア)の郡司は 藤原秀郷 の末裔を称する比企掃部允(遠宗とも)。妻が 頼朝 の乳母となり、夫も当時の習慣に従い乳母夫として頼朝(幼名・鬼武丸)の養育に尽力したと思われるが、頼朝が挙兵した治承四年(1180)には既に死没しているため史料は皆無に等しく、物心共に流人頼朝を支えた 比企禅尼 が歴史に名を残したのに比べると影が薄いどころか素性すら明確ではない。
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常識的には、比企郡司に着任したのは頼朝の乳母夫になる以前と考えられるから、比企禅尼は夫の遺領などを相続して頼朝の庇護に充てたのだろう。養子の 能員頼家 が殺された後も初代将軍の乳母として比較的穏やかな余生を送ったらしい。
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  ※頼朝の乳母: 東寺は肉親と流人の接触は禁じられており、伊豆蛭島に流された頼朝の元に生活必需品を届けていたのが長女
丹後内侍 の夫 安達籐九郎盛長)、次女の夫が 河越重頼、三女の夫が 伊東祐親 の二男 祐清。三人とも頼朝の人生前半にとって欠かせなかった存在である。比企尼は生没年ともに不詳だが、長女の丹後内侍が頼朝と同年代または少し年長らしい事から推測すれば、誕生は1120年代の半ば、従って比企一族が滅亡した1203年には80歳前後だったと思う。
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比企地方の伝承に拠れば、比企の乱後の禅尼が掃部允の所領 大谷郷に草庵を結んで余生を送ったのが現在の比企尼山。また、焼け落ちる鎌倉比企谷の館から 畠山重忠 の手で救出された頼家の側室 若狭局比企能員の娘で 一幡 の生母)が庵を結んで遺骨(位牌)を納め、頼家と一幡を弔ったのが比企尼山北側の大谷山壽昌寺だった、と伝えている。
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  ※若狭局: 吾妻鏡は 「9月2日に一幡と共に焼死」 と書いている。愚管抄には 「一幡は逃れたが11月に 北條義時 の討手が刺し殺した」 と。生存説は無理筋か。
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  ※比企尼山: 現在の宗悟寺から1km北東に位置し、寂しいハイキングコースになっている。北側の櫛引沼は半分ゴルフコースの中で途中まで車は入れるが宗悟寺側から
歩く方が無難(地図)。大谷山壽昌寺は安土桃山時代に移転して現在の扇谷山宗悟寺となり、旧跡は川越カントリークラブの中で遺構も残っていない。
比企尼山の中腹には南東5kmの吉見百穴よりも小規模な横穴式墓群(第33代推古天皇の頃に土着した渡来民族・壬生吉志氏の遺構か)が確認できる。

左:頼家八百年遠忌の風景   画像をクリック→ 画像を載せた詳細ページへ (別窓)
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2003年の7月19日、頼家の菩提寺でもある修禅寺で八百年忌が開催された。 うわぁぁぁ、あれから20年も過ぎたのか!
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独鈷の湯で行われる恒例の湯汲み祭(毎年4月21日)などと同様に観光行事の色合いが濃いのはやむを得ないが、法事そのものは曹洞宗の古式に則って粛々と行われた。何となく「十三士」を思わせる扮装も見られるが...予算が潤沢ではなかったらしく、行列参加者の一部が貧相な衣装だった(もう少し手を入れれば浄衣だが)のは伊豆温泉地の観光不況を反映しているようで少し寂しい。
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さすがに800年の記念行事だけあって、門前は黒山の見物客が溢れていた。同じ風景は何年後 (あるいは何十年後)だか判らないから、20年が過ぎてから考えれば貴重な経験なのかも知れない。行列の中には 岡本綺堂 が「修禅寺物語」で描いた架空の登場人物である面打ち師・夜叉王や娘のかつらに扮して参加した姿も見えた。
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時代行列で思い出したけど、ずっと前に見た土肥湯河原の源氏勢出陣式では 頼朝 役を当時の民主党国会議員ツルネン氏が演じていたっけ。男の扮装はある程度我慢するにしても、50歳前後の叔母さんが若い頃の 政子 役だったり、アラフォーの 静御前 が臆することなく颯爽と登場するケースがあるのは勘弁してもらいたいね。たぶん商工会や観光協会の役員夫人だろうと思うけど、見物している方が恥ずかしくなってしまう。まぁ観光地のイベントと割り切って目くじらを立てずに楽しむ姿勢があれば、それなりに面白いけど。

右:頼家を祀った狩野川西岸 横瀬八幡社     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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横瀬八幡神社は古来から横瀬地区の鎮守だったらしい。かつては200mほど東の月見ヶ丘の小さな祠だったが昭和三十六年の国道136号拡幅工事に伴って月見ヶ丘の社地が削られ、現在地に移転すると共に頼家を相殿に祀って神社の体裁を整えた。
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かつて祠のあった付近には元々修禅寺の横瀬総門があり、その門を守護していた二体の金剛力士像は指月殿の脇侍となり、現在は修禅寺山門の両袖に祀られている。本来あるべき場所に戻った、という事だろう。
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「どうせ政子が権力を利用して強引に...」と思っていたら、総門の金剛力士像二体が指月殿に遷ったのは頼家の死後数百年が過ぎて惣門が老朽化した江戸時代だったらしい。横瀬惣門と八幡神社の旧跡は正確な記録がないため確定できないが、幾つかの資料から 推定した地図(旧下田街道ルート付き)を載せておく。もっと真面目に尋ねて歩けば更なる発見がある、かも知れない。
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詳細の年代は不明だが、老朽化した総門が破損したため取り敢えず二体の像を八幡神社に移したところ、近隣の老婆の夢に現れた金剛力士像が「修禅寺に帰りたい」と訴えた。政子が頼家を弔って建立した指月殿に余裕のスペースがあり、本尊の釈迦如来像を守護する神像として両脇に安置したのだろう。
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総門があったのは多分、修善寺大橋の西詰で国道が大きくカーブする信号の辺りか。現在の橋の西詰には「愛童将軍地蔵尊」が祀られ小さな石祠がある。幽閉された頼家はこの近くで里の子供等と遊んでは鎌倉に残した自分の子らを思い、月を見ては鎌倉を偲んだという民話が伝わっている。

左:光照寺に残る頼家の面と石和信光の関わり  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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「修禅寺物語」は滅びゆく源氏の姿を背景にして、面打ち師の夜叉王と娘のかつら、そして修禅寺に幽閉されて死を待つ二代将軍 頼家 との触れ合いを描いた。修善寺温泉を訪れた 岡本綺堂 は修禅寺の寺宝である面(上記、修禅寺の項を参照)を見て作品のヒントを得た、と言われている(真偽は不明)。
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頼家は「私の面を打て」と夜叉王に命じた(木から打ち出すので「面を打つ」と表現)が、何度打っても面には死相が現れる。満足できる作品と考えた頼家はそれを強引に持ち帰るが討手に襲われ、身代わりになった娘かつら共々殺されてしまう。夜叉王は断末魔のかつらの姿を面に写しつつ、頼家の面に現れた死相は面打ちの技を極めたためだったか、と驚嘆する...概略そんな筋書き。
全文を読みたければこちら(外部サイト)で。
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一説に、頼家は入浴中の浴槽に漆(うるし)を流し込まれ、顔も体も爛れたまま死んだそうで...その崩れた顔を写したのが修禅寺に伝わる二つに割れた面だ、と強弁する向きもあるらしい。
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わざわざ高価な漆を使わなくても暗殺すれば一件落着なんだから、余り信頼できる話ではない。光照寺と信光寺の他にも複数の面があったと伝わっているし、見た感じも神楽か田楽用に使われていたように見えるのだが、これも推測の域を出ない。
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願成就院に近い光照寺(北條時政頼朝 の別邸として建てた、との伝承あり)の寺伝に拠れば...
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幽閉された頼家の近況は逐一鎌倉に報告され、写真の代わりに木彫りの面が送られていたのだ、と。各所に10数枚の面が残され、光照寺もその一枚を収蔵していた。鎌倉への報告と併せて面の搬送を担当したのが当時の伊豆守 武田信光、ある日鎌倉へ向かう途中の韮山で頼家暗殺の報に接した。無常を感じた信光はその場で出家し持っていた面を近くの寺に納めて供養した。これが信光開基と伝わる現在の信光寺だが、肝心の面は火災で失われた、と。
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頼家が失脚した頃の武田信光は当時の伊豆守。甲斐源氏の嫡流武田氏の頭領で、面の搬送如き端役に任じる武士ではないのだが...。



資料 鎌倉将軍着任から失脚までの頼家について。
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頼朝 が没したのは建久十年(1199)1月13日、吾妻鏡は死没や葬送など詳細を記録していないが、頼朝の遺跡を 頼家 が継承した旨は書き残している。頼朝生存中の頼家は一切の政務に関わっていない筈なので、「頼朝の遺跡を継いでから決裁権の剥奪に至るまで」に何が起きたかがポイントになる。
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2月4日~4月12日の70日間に何があったのかを調べてみると、幾らか関係ありそうなのは3月23日と4月1日の二ヶ所だけで、3月23日(下記)の決裁は「地頭の失職」という御家人の既得権剥奪とも受け取られる。強引な決裁が反発を招いたか、或いは強引な決裁を招く罠だったか。
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頼朝ほどの絶対的な権威もカリスマ性も持っていないのに突っ走ってしまったのかも。訴訟決裁者として適・不適に関係なく、訴訟の裁許によって御家人に影響を与える実権を頼家から剥奪する、それが目的だった可能性はある、と思う。失職した「六ヶ所の神領」の地頭が誰だったか、調べる価値はありそうだ。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 2月4日 】  頼家、17歳。この日から正式に鎌倉将軍として執務開始。
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先月の20日に頼家が左近衛中将(近衛府の高位官職)に転じた。26日の帝(第83代土御門天皇)の宣下に曰く、「前の征夷将軍頼朝の遺跡を継ぎ家人郎従をして旧来通り諸国を守護差配せよ」と。今日、宣下到着に伴って吉書始め(新将軍としての政務初め儀式)が行われた。前の将軍が崩じて20日未満だが帝の意向は大切なので、内輪の儀式として挙行した。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 3月5日 】
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後藤左衛門尉基清 に罪科があるため讃岐守護を解任し、近藤七国平(伊豆に基盤を置いた武士で頼朝挙兵当初からの郎党)に与えた。
前の将軍が決め置いた事を変更する最初である。
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   ※基清の罪科と 「三左衛門事件」について
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頼朝 死没直後の2月に勃発して朝廷の権力争いの引き金になったのが所謂「三左衛門事件」。外孫を第83代土御門天皇に据えた 源(土御門)通親‬(正二位 内大臣)は20日に突然の除目を行なって右近衛大将に就任、頼家 の左中将昇進を発表した。
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頼朝を後ろ盾にして‪院政の最前線にいた 一條能保(従二位 京都守護) が建久八年(1197)10月に死没、嫡子の 高能(参議 従三位) が建久九年(1198)9月に死没、そして 後白河法皇 の死没(建久三年・1192年)後に 大姫 の入内を夢見た頼朝は 丹後局(高階栄子)+土御門通親の連盟に接近して九条兼実 が失脚、更に頼朝も死没した事から、朝廷の実権は土御門通親が完全に掌握する結果となった。
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この臨時除目を 「頼朝に近いグループの排斥が始まる」 と受け取った後藤基清と中原政経と 小野義成 (いずれも在京して一條能保に仕えていた郎党)が通親の襲撃を計画した事件で、三人とも官職が左衛門尉だった事から「三左衛門事件」と呼ばれた。拘束された三人は鎌倉に召喚され後藤基清は讃岐守護職を解任、中原政経は失脚、小野義成は流罪後に赦免され復権を得た。
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京都では通親の政敵でもあった 西園寺公経 らが蟄居、村上源氏の貴族 源隆保(正四位下 左馬頭)が土佐に配流、頼朝が帰依していた 僧 文覚 が佐渡に配流など、幕府の協力を取り付けた通親が不満分子の一掃に成功した。処罰の対象は(文覚を除けば)全てが京都守護として頼朝の代弁者を務めた一条能保の関係者である。幕府は彼らを見捨てる代償として、朝廷との円満な互助関係の保証を得た。
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平家物語に拠れば、文覚が庇護していた六代(平維盛 の嫡子、清盛 の曾孫)も庇護者を失って処刑された(維盛の墓と六代松(別窓)を参照)。
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ただし通親が建仁二年(1202)10月に没した後に 後鳥羽上皇 による事件関係者が赦免となった。それぞれが活躍の場を得て朝廷に復帰し、承久の乱へと続く後鳥羽院政を助ける近臣の役を果たしているのはとても面白い。

右:資盛と坂額が立て籠った鳥坂城址(白鳥山)   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 3月22日 】
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佐々木盛綱 法師西念が款状(自薦の嘆願書)を提出。曰く、前将軍の頃に比べ零落してしまった。
不運を嘆き思慮にも迷う有様である、と。
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佐々木盛綱は越後国守護に任じていたが頼朝没後の内紛で罷免され所領の加持荘(新発田市)も没収、碓氷郡磯部郡(群馬県安中市)に蟄居していた。政治二年(1200)1月に 梶原景時 が滅ぼされると、景時に恩を受け懇意にしていた 城長茂 が京都で幕府に叛旗を翻し、これは間もなく鎮圧されたのだが...
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長茂決起とほぼ同時期に、長茂の甥 資盛坂額浅利与一と坂額(別窓)の末尾を参照) が決起して近隣の御家人を撃ち破り、鳥坂城(地図、鳥坂山または白鳥山)に立て籠った(建仁の乱)。直ちに磯部の盛綱に討伐の命令が下り鳥坂城は数日で陥落(5月初旬)、首謀者の資盛は逃走し女武者の坂額は負傷して捕虜となった。盛綱は所領だった加持荘の支配権を回復している。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 3月23日 】
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頼家は伊勢神宮領六ヶ所の地頭職を停止した。所領の中で謀反や犯罪が起きても神宮側で処理し、その詳細を報告するよう神官に命ずる、と。六ヶ所の一つである尾張国一楊御厨は神宮が管理者を派遣して地頭を追い出す命令を出し収量を押収したと聞いた。前将軍崩御直後の狼藉はまことに遺憾であり、調査のためこの措置を行う、と。六ヶ所の神領は遠江国蒲御厨・尾張国一楊御厨・参河国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨、である。

左:今小路の南側から見た問注所跡   画像をクリック→ 石碑の拡大画像へ
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鎌倉駅から徒歩数分、御成小学校前の信号角に問注所跡の碑(地図)が建っている。観光客に人気の段葛や八幡宮・小町通りなどに較べると華やかさには欠けるが、周辺には裁許橋(50m南)や六地蔵(更に200m南)などが点在し、低価格のコイン駐車場もあるから滑川下流沿いの史跡を探訪する根拠地として利用できる。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 改元して正治元年 4月1日 】
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(訴訟処理の)問注所三善善信 が差配し御所の外に移す旨の沙汰があった。前将軍の時は幕府庁舎で行ったため訴訟関係者双方の騒動や無礼が頻発し、内々に移転も検討していた。熊谷直實久下直光 が所領の境界で論争した際(1192年11月)に直實が返答に詰まり西の侍所で髷を切った事件以後は三善善信宅を仮の問注所に利用していたが今回は建物を新造する。
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この年の1月13日(新暦の2月9日)に頼朝死没。頼家は懸案だった問注所移転を決裁し、その10日後に訴訟決裁権を剥奪されてしまう。鎌倉時代初の多数決か。
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 ※コイン駐車場: この駐車場 は一日停めても1000円(休日は1700円)、鎌倉で最も安いと思う。狭いけど平日7時前後に入れば空いているし鎌倉駅まで約600m、
妙本寺山門まで1kmだ。私の鎌倉散策はいつもここから折り畳み自転車でスタートする。
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 ※問注所設置: 建久二年(1191)1月の吾妻鏡の吉書始に「問注所執事に中宮大夫三善康(善)信法師を任ず」とある。翌年11月には三善善信宅に
移転しているのだから「営中で騒動や無礼が頻発して」云々の記述は辻褄が合わないのだが...。
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 ※善信宅: 承久三年(1221)1月の吾妻鏡に「町大路の善信宅が焼失、保存した重要書類と訴訟関係の記録が焼けた」とある。町大路(大町大路)は
当時の鎌倉屈指の繁華街。裁許橋の南で今大路(現在の今小路)から岐れ、下馬で若宮大路を ・ 大町四角で小町大路を横切り、名越を経て三浦方面に向かうルート(地図)で、三善善信宅は安養院の付近だろうか。ちなみに、問注所執事に任じていた善信はこの年8月6日に職を辞し9日に81歳で没した。7月に承久の乱を首謀した 後鳥羽上皇 が隠岐に流され、戦後処理が一段落した時代である。
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 ※ついでに、今大路: 下に書いた問注所跡の石碑と裁許橋が残っている当時の主要道。化粧坂や亀ヶ谷坂からの街道は寿福寺の前で窟小路と接続、
裁許橋の南で大町大路と交差し、六地蔵の前で極楽寺方面に通じる車大路を横切り、由比ヶ浜まで南下していた。
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【吾妻鏡 建久十年(1199) 改元して正治元年 4月12日 】  頼家の訴訟決裁権を停止、重臣の合議制に移行。
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将軍が直接聴取しての訴訟決裁を停止する。今後全ての訴訟は 北條時政義時大江廣元三善善信中原親能(在京) ・ 三浦義澄八田知家和田義盛比企能員安達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政 が相談して決裁し、他の者は安易に訴訟に携わらないように定める。
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そして、頼家の行状は乱れ始める。17歳の若者が準備もないまま鎌倉殿に担ぎ挙げられ、更に着任二ヵ月後には一転して権限縮小を言い渡された。
この間の吾妻鏡には頼家の行状に関する記載は勿論、特に目を惹く記事も見られない。注目すべき事実は鎌倉将軍の権威が低下し始めた事、頼家をバックアップする筈の比企能員や梶原景時までが「頼家の権限縮小方針」に加わった事、そして 畠山重忠結城朝光千葉常秀 など、実力や人望のある御家人が13人の合議制に加わっていない事の三点だと思う。頼朝が頼家の将来を託した筈の重忠を合議制に加えなかった理由、そして景時や能員には「自分の首を絞める結果を招く」という危惧は無かったのだろうか。

右:鎌倉十橋の一つ 佐助川に架かる裁許橋   画像をクリック→ 拡大表示
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問注所で有罪判決を受けた罪人はこの橋を渡って六地蔵(和田塚(別窓)を参照)近くの刑場へ送られた。鎌倉時代初期には有罪=斬首だったらしいから、裁許橋を渡るか否かは生死の分れ目だった。刑場が龍ノ口に移転(中期以後か)した後も人々は跡地を「飢渇畠」と呼んで嫌悪した、と伝わっている。
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 ※龍口刑場: 文永八年(1271)9月の 日蓮 法難や、建治元年(1275)9月の元の使者5人を斬首した刑場として有名。
治承四年(1180)10月には敗軍の将 大庭景親 も片瀬付近で斬首(原文は「今日 於固瀬河邊景親梟首」)されているから、龍口~片瀬川(現在の境川)一帯は頼朝の鎌倉入り当初から刑場として利用していたらしい。
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瀧口寺に近い常立寺(地図)は刑死した罪人を弔って建立した寺で、元の使者を葬った五輪塔が残っている。ちなみに、同じ罪人として扱われた 義経 の首は実検後に由比ガ浜に捨てられ潮に乗って境川を4kmほど遡り、現在の藤沢駅に近い 白旗神社(別窓)に葬られた、ことになっている。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 4月20日 】
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梶原景時中原仲業 が奉行し政所に告知した。「小笠原長経(長清の嫡子)・比企三郎・同弥四郎・中野五郎ら将軍頼家の従者が鎌倉で狼藉を起しても敵対する者は罪に問うから姓名を報告するよう各地区に通達せよ。またその五人以外は許可のない限り将軍の前に昇るのを許さない。」と。
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  ※頼家の側近: 小笠原長経は 小笠原長清 の嫡子、比企三郎は 比企能員 の次男宗員、弥四郎は宗員の次弟時員、中野五郎能成は信濃の武将だが
実際には頼家を監視するため 北條時政が送り込んだ人物だったらしく、能員謀殺に関与した形跡や、比企の乱後に所領が安堵された記録が残っている。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 7月16日 】
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安達景盛 が室重廣(三河の地侍らしい)の違法行為を糾弾するため使者として三河国に出発した。景盛は派遣を固辞しており、これは今年の春に京から招き寄せた女と片時も離れたくないのが理由らしい。しかし三河は父の管理下にある国なので拒む理由が乏しく、命令に従って出発した。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 7月20日 】
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暁の頃に頼家が中野能成を派遣して景盛の妾女を召して小笠原長経宅に囲い、寵愛がまことに甚だしい。日頃から恋情によって艶書を送り使者を何回も派遣したが承諾の返事がなかったためこの措置となった。
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  ※御家人の妾: 当時は高位の客の饗応に妻を夜伽させる風習もあったらしい。治承四年(1180)11月10日の吾妻鏡に「頼朝 が丸子庄を 葛西清重 に与えて清重邸に
泊まった際、清重は青女(未婚の女)と称して妻を提供した」との記載がある。頼家にしてみれば「将軍の命令だぞ、女の一人や二人で不平言うな!」程度の思いだったのかも知れない。また景盛の生母 丹後内侍 には「頼朝の愛人」説があり、景盛=頼朝落胤とも言われるから、親子二代に亘って妻が将軍と...そんな面倒な関係だったのかも。ちょっと週刊誌っぽい話になったけど。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 7月26日 】
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夜に入り、景盛の妾女を召して御所北側の離れに於いて「今後はここに留まるように」と命じた。寵愛が甚だしいためである。また小笠原長経・比企三郎・和田朝盛(義盛の嫡男常盛の嫡男)・中野能成・細野四郎の五人以外は離れに近寄ってはならぬ、と命じた。
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【 吾妻鏡 同年 8月18日 】
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安達景盛が三河から帰還。数日間留まって郎従を方々に派遣し重廣の行方を捜索したが既に逃亡して所在が判明しないため帰参した、と。

左:安達邸の跡 甘縄神明神社    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 8月19日 】
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妾女の件で 景盛 が遺恨を持っているとの密告があった。 頼家 は小笠原長経・和田朝盛・比企三郎・中野五郎・細野四郎らの武士を呼び集め景盛追討を命じた。夜になって武装した小笠原長経が籐九郎入道蓮西(安達盛長) の甘縄邸に向い、鎌倉中の武士が競って集まってきた。
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尼御台所政子 は盛長邸を訪れ 二階堂行光を使者として頼家に派遣し、「前の将軍が崩じて間もなく娘(乙姫)が死んだ。そんな悲しみが重なる時に合戦を企てるのは乱世の元である。景盛は人望もあり前の将軍が目を懸けた人物、罪科を聞かせてくれれば内容次第で私が成敗する。何も聞かずに追討したら後悔するに違いない、是非にと言うなら私がまず矢を受けよう。」と。
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頼家は渋りながらも兵を止めたが、鎌倉中を恐れさせた騒動であった。大江廣元 は「このタイプの事件には前例がある。白河法皇が寵愛した祇園女御は源仲宗の妻だったが御所に召され、仲宗は隠岐国に流された。」 と語った。
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  ※祇園女御: 白河法皇晩年の寵妃。源仲宗の妻、仲宗の子息惟清の妻、御所の女房、など諸説あり。妹が産んだ 清盛 を猶子に迎えた関係から清盛の官位昇進が早かった、
とされる。猶子は「結びつきの強い後見人」程の意味、更に詳細は Wiki で。しかし廣元もつまらない罷免とをする奴だなあ。
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この事件の顛末は 時政政子 が計算した通りに展開した、と思う。頼家景盛 追討を命じた時間は判らないが、武装兵が甘縄邸に着いた夜には既に政子が待機していたのは、中野五郎あたりの報告だろう。頼家には政子の意向に逆うほどの根性はないから、頼家の権威を更に失墜させて失脚の妥当性を演出する「マッチポンプ計画」だった可能性もある。将軍の専横を制止できるのは北條一族を置いて他にない、と。
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【 吾妻鏡 建久十年(1199) 8月20日 】
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尼御台所政子 は甘縄邸に逗留し 安達景盛 を呼んで 「昨日は何とか頼家の行為を阻止したが私も既に老齢、今後の遺恨までは抑えられない。野心を持っていない起請文を頼家に提出せよ」と。景盛は直ちにこれを書いた。政子は起請文を頼家に渡し、「景盛を討伐しようとしたのは粗忽の至り。政治を軽んじて民の苦しみを知らず人の謗りを顧みない結果である。今は賢い者を近くに置かず、愚か者ばかりを重用している。源氏は故・将軍の一族であり、そして北條は私の一族である。もっと身近に召し使って優遇し何事についても思慮を巡らせれば世が乱れる事もない。」と諌めた。使者は 佐々木盛綱が務めた。
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安達邸があった甘縄神明宮から山を越えた北西300mの高徳院には鎌倉大仏が鎮座している。創建の時期や担当した工人など解明されていない部分も多いが、吾妻鏡の記載から考えて建長四年(1252)の鋳造開始とするのが定説となっている。これは三浦一族が滅びた宝治合戦(1247)の直後であり、戦闘の口火を切ったのは安達景盛だった。「安達一族と 北條時頼 が三浦氏の怨霊を鎮めるため建立に着手した」 との異説も真実味を帯びてくる。


 その四 滅びゆく古参御家人たち③ 畠山重忠の滅亡 

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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月21日 】   畠山重忠の滅亡と北條時政の失脚、二つの事件が微妙にリンクする。
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北條時政 の後室 牧の方畠山重忠 の嫡子 重保を怨んでいた。前年に娘婿(時政との間に産まれた娘の婿)である 平賀朝雅 が重保と口論して侮辱を受けたのを許せず、重忠親子を追討するよう夫の時政に強く迫っていた。
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時政は 義時時房 を呼んで重忠追討の件を相談したが、二人は「治承四年(の頼朝挙兵)以来忠義を尽くし、頼朝将軍 も子孫を守れと遺訓したほどの者である。頼家にも仕えてはいたが、比企合戦の際には当方に味方して婿(重忠の後妻で正室扱いされていたのは時政の娘)としての礼を重んじた。今になって反逆を企てる理由がないし、今までの功績を考えず軽率に追討すれば必ず後悔する。まず謀反の真偽を確認するべきだろう。」と答えた。時政もそれ以上は言えず、三人は座を立った。
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牧の方は備前守時親を使者に送って義時を呼び、「重忠の謀反は既に明白だから将軍や世の中のため夫の時政に話した。今あなたが重忠を擁護するのは継母を軽んじて讒言の輩にするつもりなのか」と詰め寄った。義時は「それでは良く考えてみます。」と答えた。
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  ※朝雅の口論: 元久元年(1204)4月、坊門信清 の娘 信子実朝 の妻に迎えるため派遣された若手御家人の一人重保と朝雅が口論になった。周囲の執り成しで
その場は収まったが、同年11月には同行の北條政範(牧の方が産んだ長男、16歳)が病死する不幸が重なる。この二重の鬱憤が「重忠憎し」の感情的な側面になり、背後に北條氏の家督相続と権益を巡る思惑があったのも見逃せない。
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当時の政範の官位は40歳だった異母兄の 義時 (後の二代執権)と同じ従五位下で、北條時政から謂わば嫡男の扱いを受けていた。このまま推移すれば成長した政範が家督を継承して執権の座に就き、時政の前妻の子である政子と義時の危機となるのは確実だった。義時にとっては運良く政範は死んだが、時政夫婦には 実朝 を廃して娘婿の 平賀朝雅 を将軍に擁立する Bプランも温めていた。
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平賀朝雅は京都守護職として 後鳥羽法皇 に重用され、朝雅が任じていた武蔵国国司は時政が代行して行政権を握っていた。秩父平氏の棟梁として武蔵国での発言力を持つ重忠と 武蔵国を完全な支配下に置きたい北條時政の利害は相反していた。
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  ※時政の娘: 重忠の正室は 足立遠元 の娘だったが、時政の娘に正室の座を奪われる形になった。筋を通す逸話の多い高潔な武者・重忠にしては筋の通らぬ堕落だと思うが。
時政の娘は夫の重忠が殺された後に 足利義純義兼 の庶長子)に再嫁し、義純が畠山の名跡と重忠の旧領を継承することになる。
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一方で、義兼(生母は北條時政の娘)から家督を継いだ 義氏(正妻は三代執権 北條泰時の娘)の庶長子・長氏は三河国吉良荘(愛知県の吉良町)の地頭職を相続し弟の義継と共に三河足利氏として繁栄した。その子孫・吉良貞義は元弘三年(1333)の 後醍醐天皇 倒幕挙兵に際して追討のため上洛する途上の 足利高氏(後の尊氏)に「天皇に与して倒幕に立ち上がるべき」と強硬に進言し、高氏に翻意させ幕府の崩壊に貢献したと伝わる。その子孫が、忠臣蔵で一躍著名な悪役となった吉良義央(吉良上野介)。
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更に詳細は「鎌倉時代を歩く その四」に記述したが、時政の娘に追い出される形で離縁となった足利義純の(元)正妻は 新田義兼 の娘。男児二人を連れて新田に戻り、それぞれが新田氏の庶流として岩松氏と田中氏の祖となった。
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そして130年後、彼らの子孫は 新田義貞 に与して鎌倉を攻め、先祖である義兼の娘が受けた屈辱を晴らす。また田中一族の末裔には明治期の足尾銅山鉱毒事件で名を馳せた 田中正造 (wiki) が足利を流れる渡良瀬川の下流を地盤に活動しているのも興味深い。
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  ※備前守時親: 牧の方 の甥・牧時親を差す。但し父親の牧宗親には牧の方の父親説と兄説があり、ここでは政子と牧の方の年齢差が10歳前後だと思われる事を根拠
にして「牧の方の兄説」を採用した。
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  ※将軍に擁立: 平賀朝雅 を将軍にする計画云々は吾妻鏡に載っているだけで信頼性は乏しい。新羅三郎義光 → 四男盛義 → 平賀義信→ 朝雅へと
続いた河内源氏の名門で、しかも 朝雅の生母は 頼朝 の乳母を務めた 比企尼 の三女だから血筋は全く問題ないのだが、彼を将軍に据えると執権時政の後継は義時以外に見当たらなくなる。個人的には、実父を追い落とした 「不孝の罪」 を誤魔化すのみならず、正当化する必要から 「時政の謀叛計画」 を大袈裟に盛った政子・義時連合の捏造だと思う。
重忠粛清計画で時政に協力し、併行して時政夫妻の追い落とし計画を練っていた...策士義時の面目躍如である。

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右:現在の、八幡宮一の鳥居 左が畠山重保の館跡   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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鎌倉駅近くから鶴岡八幡宮まで直線で続く若宮大路中央の一段高い歩道が「段葛」(当時の名は作道)。
頼朝政子 の安産祈願と共に都市計画を兼ねた防衛施設として造った土木遺産で、社寺建築の基壇上部に置く石(呼び名を葛石)を数段重ねて築いた事から後に「段葛」と呼ぶようになった。
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当初は一の鳥居の更に南(由比ヶ浜の近く)から八幡宮入口の三の鳥居まで直線で1300m以上も続いていたが、明治二十二年(1889)に開通した国鉄の大船~横須賀間の線路によって分断され、更に関東大震災(1923)による崩壊が重なって海側が撤去されたため、現在では二の鳥居から三の鳥居までの約500mを残すのみになった。
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【吾妻鏡 養和二年(1182) 3月15日】  
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鶴岡八幡宮の社頭から由比ガ浜までの道路を直線に直して参道を造成した。以前からの頼朝の願いにも関らず月日が過ぎたもので、御台所政子の安産(第二子 頼家 を妊娠中)を祈って作業を始めたものである。頼朝はみずから差配し、北條時政 以下の御家人がそれぞれ土石を運び作業を行なった。
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一の鳥居は寛文八年(1668)に徳川家綱の祖母・崇源院(二代将軍秀忠の室、浅井長政の三女、俗名「お江」)の発願により備前国犬嶋から石材を取り寄せ、檜だった鳥居を建て直した。明治三十七年(1904)に国宝に指定されたが関東大震災で倒壊、32年後の昭和十一年(1936)に犬島(地図)から追加の石材を取り寄せ、建造当時の手法で修復した。柱の直径は最も太い部分で92cm、高さは8.5mある。
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すぐ左の木立の下には 畠山重忠 の嫡男で北條氏に謀殺された六郎重保を祀った宝篋印塔や屋敷の跡、300m北には若宮大路を横切る武士が馬を下りる習慣だった下馬橋跡などがある。宝篋印塔横の細道を道なりに辿ると間もなく住宅街に囲まれた和田塚に至る。北條執権との合戦で滅びた和田一族の亡骸を葬ったとの伝承)が残っている。
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   ※下馬橋: 大町へ向かう県道311号と若宮大路が交わる「下馬四つ角」から八幡宮までは騎馬が禁止、若宮大路を横切る際も下馬と定めた。
一の鳥居に近い滑川の支流 佐助川(暗渠)に架っていた下の下馬橋(地図)、他に二の鳥居そばの扇川(上流は扇ヶ谷)に架る中の下馬橋(地図) と、源平池を渡る 上の下馬橋(現在の太鼓橋・赤橋、地図)があった。
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牧の方が義時を呼んで重忠追討を迫ったのが6月21日。翌22日には鎌倉に駐在していた重忠の嫡子・重保が殺され、「鎌倉に異変あり」の連絡を受けた重忠が翌23日に二俣川で討たれるのだから牧の方と義時の会談は吾妻鏡の真っ赤な嘘。重忠の居館(菅谷館)に飛脚を送り、重忠が即刻出発しても二俣川まで来るには飛脚の出発から三日程度が必要で、つまり義時は牧の方と話し合う前に重忠を呼び出す手配を済ませていた事になる。
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二俣川合戦で義時が率いた官軍は(吾妻鏡に拠れば)「雲霞の如き大軍で幾千万を知らず」、準備にはそれなりの日数が必要だったから計画的な騙し討ちである。まぁ騙される方も軽率だけど、北條一族の嘘と吾妻鏡の嘘が重複しているようでは史書の名に値しない。しかも重忠追討を要求したのは牧の方だ、と虚偽まで書いている。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月22日 】
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早朝に騒乱が勃発、謀反人追討の軍兵が由比ヶ浜付近を走り回った。急報を受けた畠山重保と郎従三人が合流すると 三浦義村 の郎党 佐久間太郎らが包囲して戦闘になり、衆寡敵せず殺された。また鎌倉に向っている畠山重忠の追討命令が下され、義時が大軍を率いて出発した。
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左:川本 畠山重忠の旧蹟     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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平良文 の孫・将恒が武蔵国秩父に土着して秩父平氏の祖となった。将恒嫡子の武基は嫡子の武綱と共に 源頼義 に従って前九年の役を戦い、凱旋後は秩父牧の別当として支配権を確立した。
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 ※秩父牧: 皇室に馬を献じる「勅旨牧」。延喜三年(903年・平安時代中期。この年 平将門 が生まれ、菅原道真 (wiki) が
死没)に最初の貢馬の記録があり、毎年8月13日に20頭と定めていた。 牧が点在したのは現在の秩父郡北部を中心に神川町まで含むエリア(地図)。
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武基の嫡子武綱は更に八幡太郎義家 に従って後三年役の先陣を務め、凱旋後は在庁官人として武蔵国北西部に勢力を伸ばし国守の代理職 「武蔵国留守所総検校職」として一族の繁栄に大きな足跡を残した。
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武綱を継承した重綱は更に力を蓄え秩父平氏の棟梁として武蔵国全域で勢力を拡大、後に秩父氏の家督を二男の 重隆(後妻の子か)に譲った。長男の重弘は分家して本領の秩父吉田を離れ、約30km東(荒川右岸)の平地に定住して畠山氏の祖となるのだが、この相続が後に源氏の内部抗争(頼朝 の父 義朝 vs 木曽義仲 の父・帯刀先生 源義賢 に巻き込まれると共に、秩父平氏一族の内紛を引き起こす事になる。
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秩父氏棟梁となった重隆の嫡孫 重頼 は川越氏の祖、三男重遠は高山氏の祖、四男の重継は江戸氏の祖となった。更に重綱の後妻は義朝の長男 悪源太義平 の乳母となって源氏との関係を更に深めていたが、平治の乱(平治元年・1159年)で義朝が没してから源氏の衰退が続いた約20年間の秩父平氏一族は平家に従い、頼朝が挙兵した治承四年(1180)には秩父平氏長老格の 畠山重能重忠の父) と 小山田有重の兄弟は大番役のため京に駐在し、平家の家人として転戦していた。この墓所は秩父吉田から移住した重弘が初めて畠山を名乗った館跡で、重弘の摘孫で重能の嫡子である重忠は長寛ニ年(1164)に 三浦義明 の娘を母として、この館で生まれた。
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  ※源氏の先陣: 武綱は源頼義に従って前九年の役、義家に従って後三年の役を戦った。前九年の役では頼義が陸奥守に赴任して東国を出発した永承六年(1051)に
武蔵府中で「奧先陣譜代ノ勇士」の白旗を下賜された。30年後の治承四年(1180)、頼朝挙兵の際は平家側に従っていた重忠(武綱-重綱-重弘-重能-重忠と続く)は武綱から伝わる白旗を携え、「平家は一代の恩、源氏は重代の恩」として上総から武蔵国に入る頼朝に帰伏、頼朝は頼義の故事に倣って18歳の重忠に鎌倉入りの先陣を命じている。もちろん「重代の恩」云々など建前に過ぎず、この時代の武士の大部分は「誰に従えば土地を守れるか」を判断基準としていた。
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  ※秩父氏と源氏の内紛: 重隆と重弘が同母か異母かは判らない。重弘が畠山郷を継承して相続問題は解決しかけたのだが、武蔵国全域の支配権と軍兵の招集権を伴う
名誉職である 「武蔵国留守所総検校職」 まで絡めば更に遺恨が残る。
同じ時期には頼朝の父・義朝が相模国を本拠にして武蔵国に勢力を伸ばし、更に北関東の支配を狙っていた。義朝と不仲だった父 為義 は義朝の同母弟である義賢を北関東に送り込んで義朝の勢力エリアを牽制させ、義賢は秩父重隆の娘を妻にして秩父平氏と同盟を結び大蔵館に本拠地を置いた。そして久寿二年(1155)8月、義朝は長男(頼朝の異母兄・義平)を送って大蔵館を襲撃し、秩父重隆と義賢を殺して対抗勢力を 殲滅した。詳細は 大蔵館と義賢の墓(別窓)で。
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  ※京都に駐在: 平家物語に拠れば、平家の郎党として在京していた 畠山庄司重能小山田有重宇都宮朝綱 らは源氏の縁者として拘禁され、>平家が都落ちする前に
斬る手筈になっていた。知盛清盛 の跡を継いだ兄の 宗盛 に申し出て三人を釈放し東国への帰還を許すよう説得、宗盛もそれを許した。
三人は涙を流して西国への同行を願い出たが宗盛は「心を東国に残した抜け殻を連れても意味なし」とし、三人は故郷に向かう事ができた。この事件に関連した出来事は 宇都宮一族の廟所平貞能隠棲の地 などに記述してある。
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  ※帯刀先生: 読みは「たちはき(の)せんじょう」、皇太子の家政雑務を所管する東宮舎人から武芸の試験を経て選抜され、皇居での帯刀を許されて皇太子の護衛を
任務とする武官の長に任じていたが失策を犯して解任、父為義の指示を受けて東国に下向していた。

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右:秩父吉田 秩父氏の館跡(鶴ヶ窪城)鳥瞰   画像をクリック→ 拡大表示
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葛原親王(桓武天皇の子)が臣籍に降って平を名乗り、桓武平氏がスタート。
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  → 武蔵守の平良文(葛原親王の孫)が村岡(荒川南岸・ 地図)を拓いて村岡五郎を名乗った。
  → 良文の嫡子が忠頼(武蔵押領使兼陸奥守)。子孫に秩父氏・上総氏・千葉氏・中村党などが出た。
  → 忠頼の嫡子が将恒(将常。武蔵権守)が秩父郡中村郷(地図)に定住して秩父氏を称した。
  → 将恒の嫡子が武基(秩父牧別当)、官牧の運営に従事し現地の豪族と結びついて勢力を拡大した。
  → 武基の嫡子が武綱、秩父吉田に鶴ヶ窪城を築き後三年の役で義家の白旗を授かり先陣を務めた。
  → 武綱の嫡子が重綱(秩父出羽権守・武蔵留守所総検校職)、父と共に前九年・後三年の役に参戦。
  → 重綱の長男が重弘、秩父氏棟梁は弟の重隆 が継ぎ、重弘は畠山庄司として畠山に土着。
  → 重弘の嫡子が重能 の嫡子が 重忠(後に菅谷館に移住)→ 嫡子重保、と続く。
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桓武天皇の皇子の一人が葛原親王、その子の4人(高棟王・善棟王・高見王(存在は疑問視)・高望王)がそれぞれが臣籍に降って平姓を名乗った。その中で高望王の系が最も繁栄し、長男 平国香 の子孫に 清盛熊谷直実 ・ 越後の城一族、三男良文の子孫として 秩父氏 ・ 千葉氏 ・ 三浦氏 ・ 鎌倉氏を輩出している。三男良文の子が忠頼、その子が秩父平氏の祖とされる将恒(将常とも)。左側フレームの 「坂東(秩父)平氏の系図」 を参照。
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将恒は武蔵国秩父郡中村郷(現在の秩父駅近くの中村町、秩父神社(公式サイト)の西側一帯・地図)に本拠を構え、将恒の嫡男 武基は秩父牧(秩父から北東に広がる「勅旨牧」)の別当に就任して中村郷から7kmほど北西の下吉田に本拠を移した。更に武基の嫡男 武綱は荒川が大きく蛇行する要害・鶴ヶ窪台地に館を築いて秩父氏の本拠とした。現在では吉田小学校(地図)校庭の隅に館跡の石碑が建っているだけで、遺構どころか痕跡さえも皆無である。

 
左:畠山重忠の旧蹟 菅谷館跡     画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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畠山重忠 は長寛二年(1164)に父 重能 の本拠・畠山郷の館で産まれている。
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頼朝 が挙兵した治承四年(1180)には秩父一族の長老格だった畠山重能と弟の 小山田有重 は大番役で京都に滞在していた。平治の乱(1160年)以後20年の秩父氏は平家に臣従しており、重能の嫡子で若干17歳の重忠は一族の命運を左右する決断を迫られた。頼朝挙兵直後には母方の祖父で源氏に味方した 三浦義明 を衣笠城に滅ぼして平家忠臣の姿勢を見せたのだが...頼朝が隅田川を渡って武蔵国に入ろうとした直前に、頼朝に従う方針に転換した。
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結果として、父・重能の曽祖父に当る秩父武綱が 源頼義 に従って前九年戦役に出陣(1051年)する際に下賜された白旗を再び掲げ、「平家は一旦の恩、源氏は重代の恩」として頼朝の傘下に入った。
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以後の重忠は頼朝の深い信頼を受け、建久十年(1199)に頼朝が没する際には重忠に後事を託し、嫡子 頼家 を援けて源家を守るよう遺言した、とまで伝わっている。一方で父の重能はその後の歴史に現れず、重忠に家督を譲って引退したらしい。
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川本町の畠山館跡は発掘調査などで平安末期の遺構が確認され、初めて畠山氏を名乗った重弘から嫡子の 重能 を経て初期の重忠まで本拠を構えていた事がほぼ確認されている。後半生の重忠が(と言っても享年42歳だが)本拠を菅谷に置いていたのは吾妻鏡に一行書いてあるだけで、正確な場所も移転した時期も明らかではない。
館跡と推定される現在の菅谷館跡は、山内上杉氏と扇谷上杉氏が近くの鎌倉街道(須賀谷原)で激戦を繰り広げた長享二年(1488)前後の遺構であり、重忠が生きた鎌倉時代初期の痕跡はまったく残っていない。
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断片的に残る 鎌倉街道 (wiki) の、特に戦国時代に頻繁に合戦が起きた場所が 嵐山歴史の博物館(公式サイト)の北で都幾川を渡り 源義賢の館跡(別窓)のある大蔵に南下していたのが確認されている菅谷館跡一帯である。須賀谷原古戦場は博物館の500m北東の住宅地(地図)で、周辺には鎌倉街道推定地や発掘された上杉氏当時の五輪塔を集めて覆屋に祀った小さな塚が設けられている。

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右:帷子川(右)と二俣川の合流点 重忠滅亡の地   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月22日 】  
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鎌倉に向っている重忠を途中で討伐せよとの沙汰が出た。まず 北條時政 が軍勢の中から400人の武者を選んで御所の四方を固め、次いで討伐軍が出発した。
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大手(鎌倉街道 中の道)の大将軍は 北條義時、先陣は 葛西清重 で後陣は 千葉(境)常秀千葉(大須賀)胤信千葉(国分)胤通、相馬義胤(千葉(相馬)師常 の嫡子で二代当主)、東重胤(千葉(東)胤頼 の嫡子で二代当主)、他に 足利義氏小山朝政三浦義村胤義小山(長沼)宗政小山(結城)朝光宇都宮頼綱八田(筑後。小田)朝重安達景盛中条家長、苅田義季(中条、和田義盛の養子)、 狩野介入道(宗茂)、宇佐美祐茂波多野忠綱 ・ 松田有経(波多野義常 の嫡男) ・ 土屋宗光(宗遠の嫡子)、河越重時(重頼 の次男で嫡子)と重員(その弟)、江戸忠重(重長 の嫡子)、渋河武者所 、小野寺秀通(通時 の父)、/u>下河邊行平、園田七郎、他に大井、品河、春日部、潮田、鹿嶋、小栗 、行方の武者、兒玉、 横山、金子、村山党が加わった。
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東国の有力御家人が殆ど顔を揃えている。三浦義村は重忠と同じ秩父平氏系とはいえ25年前に衣笠で祖父義明を殺された遺恨がある、かも。土屋はかなり近い同族、稲毛 ・ 榛谷は重忠の従兄弟だし、葛西は遠い親戚だけど河越 ・ 江戸は血筋が近い。肉親なのに重忠を讒言して罪を着せ、冤罪で殺した直後に殺されるのだから自業自得だし...河越重時は曽祖父の重隆が重忠の祖父に大蔵合戦で殺されているから、それを根に持っていたのかな。
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菅谷への退路を断つ関戸道(鎌倉街道の上の道)の大将軍は 北條時房和田義盛 である。軍兵は野山に満ち、昼には武蔵国二俣河で重忠一行に相対した。重忠は19日に小衾郡の菅谷館を出発し二俣川に到着していたが、弟の長野重清は信濃国、別の弟重宗は奥州にいるため同行は二男重秀と郎従本田近常と榛澤成清以下134騎のみ。鶴峯の麓に布陣し、嫡男 重保が今朝討ち取られ追討軍が押し寄せてきた事を知った。
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  ※小衾郡: 明治二十九年に大里郡と合併した男衾郡の古名か当て字。大里郡からは熊谷市と鴻巣市が分離し現在は寄居町のみ。
  ※中の道: 鎌倉~巨福呂坂~大船の常楽寺東~港南台~清水橋~永谷~鶴ヶ峰~荏田 に続く鎌倉街道。
  ※上の道: 鎌倉~化粧坂~瀬谷~本町田~関戸~府中 に続く鎌倉街道で幕府滅亡の際に 新田義貞 が進んだルート。
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  ※二男重秀: 生母は重忠の正妻だった 足立遠元 の娘。足利義純 の例と同じく、父が北條時政の娘を正室に迎えたため生母は側室待遇になった。
清廉潔白と称された重忠も(時代の趨勢とは言え)権力には比較的従順だった。
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  ※鶴峯の麓: 旭区役所を起点にすると駕籠塚のある鶴ヶ峰神社の標高は+50mほど、当時の鎌倉街道中の道(概略地図)を考えると重忠の宿営地は
鶴ヶ峰の交差点あたりか。
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近常と成清らは「討手は幾千万騎とも判らないから急いで菅谷に引き上げて迎え撃ちましょう」と進言したが重忠は答えて、「家や家族を忘れて戦うのが武将の本懐である。重保が討たれたからには家を顧みる必要もない。正治元年には 梶原景時 が一之宮館から退き、暫くの命を惜しんで(京に向かう途中で)討たれた。(菅谷に籠って)以前から謀反を企んでいたと思われるのも恥辱である。」と。
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幕府側の兵は先陣の誉れを得るべく攻めかかった。中でも 安達景盛 は野田與一 ・ 加治次郎 ・ 飽間太郎 ・ 鶴見平次 ・ 玉村太郎 ・ 與籐次らを従えて先頭に進み鏑矢を構えた。重忠は「旧知の友・景盛が先頭とは感動だ」と語り、重秀は景盛に「命を惜しまずに来い」と声をかけ戦いが始まった。
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弓と太刀の戦いは長く続き、重忠は加治宗季ら多くの武士討ち取った。 夕刻になって 愛甲三郎季隆の矢が重忠(42歳)に命中、季隆は首を獲って義時の陣に届けた。その後に庶長子の小次郎重秀(23歳)と郎従らが自殺して合戦は終わった。
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二俣川の合戦で重忠親子が死んだ翌23日、鎌倉に戻った義時は「重忠の弟も親類も同行しておらず、主従は僅かに100余人だった。これではとても反逆と判断できない」と言い出し、「讒言に騙された」と結論づけている。...おいおい、そんな事は戦闘を始める前から判っていただろうが!卑怯者め。

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左:畠山重忠 鎌倉邸跡の碑       画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月23日 】  
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昼下がりになって 北條義時 らが鎌倉に帰還し、時政 が経過を質問した。義時は「畠山重忠 の係累親戚は殆ど他所にいたため、合戦に加わったのは僅か百余人に過ぎず、これは謀反とは思えない。明らかに讒訴による討伐で、年来の友人として重忠の首と対面した時には涙が流れるのを禁じえなかった。」と報告した。時政はそれに対して何も答えられなかった。
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夜に入り、鎌倉でまた騒ぎが起きた。三浦義村 は考えた末に経師谷の入口で 榛谷重朝 と嫡子重季と二男季重らを謀殺した。稲毛入道(重成)は大河戸三郎に殺され、子息の小澤重政は宇佐美與一が殺した。
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今回の合戦の発端は稲毛重成の謀略で、平賀朝雅 が重忠を怨んでいるのを利用して謀反を捏造し、牧の方 を扇動したもの。
北條時政 が稲毛重成に真偽を問い合わせ、重成は親類の交誼を捨てて重忠宛に「鎌倉に兵乱あり」と連絡し途中で追討した。人々は重忠の死を惜しみ嘆いた。
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史実を伝えるべき吾妻鏡が見え透いた言い訳をしている。権力者に擦り寄って事実を歪めるこの姿勢は、800年が過ぎた現在も続いているのが情けない。
「集団的自衛権の使用容認」や「武器輸出三原則」の実質撤廃を支持する公明党や読売新聞や産経新聞の浅ましい姿勢がその代表格だ。
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特に、平和の実現を標榜していた創価学会 が政権与党の右傾化に擦り寄る姿は宗教者の恥、宗祖の 日蓮 を裏切る行為と言うべきだろう。
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畠山邸跡の石碑は鶴岡八幡宮 東の鳥居(流鏑馬道の東端)のすぐ前の角に建っている。
銘文には「正治元年(1199)5月に頼朝の娘 三幡(乙姫) の病気を治癒するため、著名な名医の丹波時長を京から招いた。吾妻鏡に「7日に時長が掃部頭 中原親能 の亀谷邸から畠山次郎重忠の南御門邸に移った」と書かれているのがこの場所である。」 と彫られている。病気のその後については、重忠の項目の下で述べてある。
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  ※経師谷: 大町から逗子に向う県道311号が名越の隧道に入る手前。安国論寺(wiki) のある松葉ヶ谷(日蓮法難の地)などを含めて「名越の谷」と
と呼ぶ。写経などを生業とする経師の集団が住んでいたのが地名の由来(地図)で、時政の名越邸も500m圏内付近にあったらしい。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 7月8日 】
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      畠山重忠に与した者の所領を没収して合戦で手柄を立てた武士に与えた。これは尼御台所 政子 の指示で、将軍が幼い間の措置である。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 7月20日 】
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      尼御台所に仕える女房(女官)五、六人に新たな配慮として、戦死した(畠山側の)武士の遺領を配分した。
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畠山討伐は根拠のない讒言によるもので謀反の事実はなかったけれど、没収した所領は返却せず仲間で山分け。しかも重忠の寡婦(時政の娘)は 足利義兼の申し出を受けて庶長子の 義純 に再嫁し、義純は畠山氏の所領と名跡を継承している。
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稲毛重成親子は重忠に謀反の罪を被せた張本人として 三浦義村 に討たれ、結果として北條一族は現在の埼玉県北部から多摩川の下流域までの広大な領地の支配権を得た。北條義時 は後に武蔵守に着任、いつの日か北條独裁の障害になりそうな畠山氏と稲毛氏の系累を計画的に滅ぼしたと考えるべきだろう。この計画を立案したのは老獪な北條時政か、それとも冷徹な義時(当時42歳)か。

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 その伍 滅びゆく古参御家人たち④ 老雄和田義盛の最期 

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左:和田義盛誕生の地 二階堂杉本寺 苔の石段   画像をクリック→明細にリンク
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治承四年(1180)9月17日(旧暦の8月27日)に 畠山重忠 軍の攻撃を受け衣笠城で戦死した 三浦義明 は存命中に次男の 義澄 を後継者と定めており、同腹(母は秩父重綱(重忠の曽祖父)の娘)の長男義宗は分家し六浦道に面した要衝の古刹 杉本寺(公式サイト)の裏山に居館を構えて杉本を名乗った。
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義宗が三浦氏の棟梁を継がなかったのは、病弱だった事に加えて次弟 義澄の器量が優れていたため、と伝わっている。義宗の嫡子が三浦の和田郷(地図 )を本領とした 和田小太郎義盛である。義澄を継いだ 義村 と義盛は従兄弟同士だが義盛には「本来の三浦嫡流は自分だ」との自負があり、義村には「分家なのに侍所別当に任じて態度が大きい」と見下す傾向があった。
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義村には良くない評価が多く、両者の反発が建暦三年(1213)5月に義盛が打倒北條で決起した和田合戦で義村が同族の義盛を裏切り 北條義時に味方した遠因の一つになった、とされる。
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古今著聞集に拠れば、御所の侍所で義村の上座を占めた若い千葉胤綱(千葉本家五代当主 成胤 の嫡子で後の六代当主)に「下総の犬めは寝場所を知らぬ」言われて「三浦の犬は友を食らうぞ」(義盛を見捨てた義村の裏切りを批判)と言い返した逸話が語られている(これはフィクションらしいけどね)。
その他、雪の八幡宮で三代将軍 源実朝 を切り殺した 公暁 の乳母は義村の妻であり、義村の四男駒若丸(後の 三浦光村) は公暁の仏弟子である。実朝の首を巡る因縁の物語は後段の 【 その六 実朝暗殺 】 で詳細を。
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  ※古今著聞集: 鎌倉中期に橘成季が著した説話集(建長六年・1254年成立)。広い分野の20巻・720話を収めるが全てが事実ではない。
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和田合戦の8年後に後鳥羽上皇 が引き起こした承久の乱(1221年)の際の義村は、上皇の腹心として加わった末弟の三浦胤義 から参加を打診され「日本国総追捕使に任じてくれるなら合流する」と確約しながら土壇場で胤義を裏切って義時に通報し、「尾籠(汚らわしい、愚かで汚ない)の者だから」と評されている。
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頼朝 挙兵の17年前、長寛元年(1163)に長狭常伴(長狭郡=鴨川市および周辺、地図)を支配した平家側の武士)と房総半島の所領を争っていた安西景益が三浦義明に援軍を求め、義明は義宗に兵を与えて常伴の本拠金山城(現在の鴨川市打墨・地図)を攻めさせた。外房へ迂回した三浦の水軍は上陸地点で迎撃されて敗れ、負傷して撤退した義宗は杉本城に戻った後に死亡した。当時17歳だった義盛が家督を相続し、所領の三浦郡和田郷(三浦市初声町和田)の名から、あるいは安房国和田御厨の荘官を世襲していた経緯から和田を名乗った、とされる。
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  ※杉本義宗: 父は三浦義明、母は秩父重綱の娘、正室は大庭景継(鎌倉権五郎の嫡子)の娘、弟に 三浦義澄佐原義連 ・ 多々良義春 ・ 長井義季 ・杜重行 ・
大多和義久、姉妹に 義朝 の側室 ・ 畠山重能 の室 ・ 金田頼次室・長江義景室など。
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  ※安西景益: 安房国の丸御厨(現在の南房総市丸本郷・地図)と周辺の荘園を管理していた武将。三浦氏と縁戚関係にあり、共に代々の源氏棟梁に従った経緯がある。
長狭常伴は房総では殆ど唯一平家側の武将。後に石橋山合戦に敗れて安房に逃げた 頼朝 の襲撃を企てて追討された。丸御厨は前九年の役の後に 源頼義 が恩賜を受け、孫の 義朝 が伊勢神宮に寄進した、私領に近い荘園。
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  ※和田御厨: 御厨は皇室の荘園や伊勢神宮など有力寺社が所有する神領。現在の南房総市和田町(地図)と推定できるが和田御厨の記録はなく、詳細は判らない。
石橋山で敗れた頼朝が安房へ逃げた背景には三浦一族の影響力が及ぶ範囲だった事実があり、「安房落ち」は敗戦後の「想定の範囲」かも知れない。
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右:三浦半島西岸の和田義盛本領    画像をクリック→ 拡大表示
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和田小次郎義盛 は杉本義宗の嫡男として久安三年(1147)に生まれている。誕生日までは判らないが奇しくも 頼朝 と同じ年齢で、母は大庭景継(鎌倉権五郎景政 の嫡子)の娘だった。義盛は父義宗の死没(1164年)に伴って17歳で杉本の家督を相続したが若年のため三浦宗家は叔父 義澄 が差配し、義盛は杉本城から三浦郡和田郷に居館を移して和田を名乗った。杉本城を居館として使った記録はなく、頼朝挙兵に合流するまでは三浦郡和田郷で十数年を過ごしたらしい。
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頼朝が関東を制圧して鎌倉に入った後には相当の一等地である八幡宮三の鳥居の南西(地図)に館を構えたと伝わる。伝・北條時房 邸跡(現在は タリーズコーヒーが営業、後に撤退)も至近距離にある。頼朝が挙兵した時の 三浦義澄 は頼朝勢に合流するため一族の武者と共に相模国石橋山を目指したが折からの台風で軍船が使えず、陸路での進軍を選んだ。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月22日】   現代の暦に換算すると9月13日にあたる。
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三浦次郎義澄は同族の十郎義連・太田和三郎義久・息子の義成・和田太郎義盛、同・次郎義茂、 同・三郎義實、多々良三郎重春、同・四郎明宗、筑井次郎義行らが頼朝軍に合流すべく、それぞれ精兵を率いて三浦を出発した。
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  ※三浦の一族: 義澄の本領は衣笠、佐原十郎義連 は は末弟で本領は横須賀市佐原、太田和三郎義久は義澄の次弟で本領は衣笠城の近くと葉山の鐙摺城、義茂は義盛の
次弟、三郎義實は義明の弟 岡崎義實、多々良三郎重春は義久の次弟義春の子 明宗はその弟、筑井(津久井)次郎義行は義明の弟で本領は津久井の城山。総勢は500余騎ほどと推定される。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日】 三浦勢の接近を知った大庭景親勢は悪天候の石橋山で攻撃開始、頼朝軍は分散して敗走した。
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三浦勢は23日夜に丸子河(現在の酒匂川)に到着。増水のため夜明けを待って渡河し合流を試みたが、頼朝軍が既に敗北したのを知り撤退した。その帰路の由比ガ浜で 畠山次郎重忠 の軍勢と遭遇し数時間合戦、三浦側の多々良重春と郎従石井五郎が落命し、重忠の郎従50余人が討ち取られた。重忠は退却し義澄勢も三浦に撤退、その途中で 上総廣常 の弟金田小大夫頼次が70余騎を率いて義澄勢に加わった。

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左:義盛木像(室町時代作・三浦市上松田の来福寺(菩提寺)収蔵)   拡大画像なし
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【由比ヶ浜合戦について】  平家物語や源平盛衰記による詳細。軍記物だから、もちろん誇張してるけど...
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三浦勢は相模川を渡り腰越~稲村ヶ崎から由比ガ浜を過ぎて小坪坂に来た頃には漸く夜が明けてきた。
ここで 畠山重忠 の軍勢と遭遇したため、義盛は叔父の義澄に「鐙摺城に入られよ。私はここで一戦し、場合によっては共に戦いましょう」と申し出た。義澄は了承して鐙摺に馬を進めた。
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畠山重忠率いる500余騎は(平家の)赤旗を翻らせて由比ガ浜の稲瀬河岸(地図)に布陣し、使者を派遣して義盛に「ここまで来たのは意趣遺恨ではなく、父の 重能 と叔父の 小山田別当有重 が六波羅に伺候しているためで、私の陣の前を素通りさせたとあっては言い訳が立たぬ。こちらへ来るか、それともこちらから出向こうか。」と申し入れた。
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義盛は實光を使者に同行させ「仰せの通りであるが庄司重能殿は三浦大介(義明)の娘婿、祖父に弓矢を構えるのは如何なものか。」と返答した。重忠は「父と叔父の面目を保つための出陣である。戦わず三浦へ帰り給え、私も引き上げよう」と答えて和平が成立した。
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この状況を知らない義盛の舎人が杉本城に駆け付け、立ち寄っていた義茂に「由比ヶ浜で合戦!」と報告。義茂は甲冑を着け犬懸坂を越え名越から浜を見渡すと武装した数百騎が向き合っているため、ただ一騎で叫びながら突撃した。重忠軍は「和平は嘘か、応援を待っていたのか」と迎撃し、小坪坂の義盛は「和平も知らず突っ込んでしまったか!義茂を討たせるな」と兵を叱咤して駆け付けた。
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些細な行き違いが衝突を招くのはどの時代も同じ。鐙摺の義澄は合戦が始まったと見て小坪坂を下って兵を戻した。道が狭いため数騎づつ縦長に迫って来るのを見た重忠は「三浦勢に加えて上総と下総の兵もいる、囲まれては不利だ」と防戦しつつ後退し、これに勢いを得た三浦勢は更に攻め掛かった。
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結果として義茂の奮戦などで畠山方の連太郎と郎党と子息の次郎、川口次郎大夫、秋岡四郎など屈強の武者30余人が討ち取られ多勢が負傷した。三浦方は多々良十郎と次郎、郎党二人が討死した。この合戦で著しくプライドが傷ついた重忠は翌々日の26日、従兄弟の 河越重頼 や 叔父の 江戸重長 らと共に衣笠城に攻め寄せ、母方の祖父 三浦義明 を討ち取ることになる。この詳細は 「鎌倉時代を歩く 壱」 の 石橋山合戦別窓)の後段を参照されたし。

 
右:義盛別邸跡と伝わる 鶴巻温泉「陣屋」の正面玄関 画像をクリック→ 拡大表示
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鎌倉の杉本寺や雪ノ下・三浦半島の和田・安房の和田御厨だけでなく、現在の神奈川県秦野市の小田急鶴巻温泉にあった義盛の別邸跡が 元湯 陣屋(公式サイト)。経営者は宮崎駿監督の従姉妹で、「となりのトトロ」の主人公姉妹・サツキとメイが住んでいる家の庭に繁るクスノキは幼い頃の監督が遊んだ「陣屋」の庭木がモデルらしい。それはさておき...
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相模国の中心部に和田義盛の別邸があった事が、北條義時和田義盛 が一族の命運を賭けて戦った建暦三年(1213)5月の「和田合戦」を読み解く鍵の一つとなる。北條時政 と義時親子は僅か二年前の元久二年(1205)6月に武蔵国の雄 畠山重忠 を滅ぼし、その直後には重忠の冤罪を画策した咎で同じ秩父一族の 榛谷重朝(所領は横浜市旭区一帯)と 稲毛重成(川崎市多摩区一帯)を滅ぼし、武蔵国から相模国東北部の支配権を確立した。
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義盛の生母は鎌倉党の棟梁大庭景継の娘で、側室の一人は横山党棟梁の横山時重の孫娘。嫡男の横山隆兼は娘を相模の海老名氏・波多野氏に嫁がせ、別の娘を武蔵の秩父重弘(秩父重能・小山田有重の父)に嫁がせ、末娘を梶原景清(景時 の父)に嫁がせ、二人の孫娘は和田義盛と 渋谷高重 に嫁いでいる。その他、和田一族と横山一族と中村一族(中村氏・土肥氏・土屋氏・岡崎氏・大庭氏)は網の目のような縁戚関係で結ばれ、現在の八王子から湯河原までの広いエリアを実質的に支配していた。
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  ※横山党: 武蔵七党 (wiki) の一つで発祥には数説がある。政事要略(平安後期編纂の 政務事例集、wiki) に拠れば、武蔵権守小野諸興が小野牧別当に赴任したのが
最初である。横山党系図に拠れば、その子(または孫)の孝泰が天禄三年(972)に武蔵国司として赴任し、その嫡子・武蔵権介義孝が武士化して勢力範囲を広げ、六年の任期が過ぎても京に帰らず横山(八王子市中心部)に住んで小野牧別当を継承した。
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天永四年(1113)に至り、3月4日に横山党の武士が愛甲庄を襲って荘官の愛甲平大夫を殺害した。朝廷から相模・常陸・上野・下総・上総の国司に横山党討伐の宣旨が出され、秩父重綱・三浦為次・鎌倉景政ら官軍が攻め寄せたが、横山党は仕えていた 源為義 の保護を受けて屈服せず、三年後になって愛甲氏の支配を受け入れた。
戦後に横山季隆が愛甲庄に入って 愛甲三郎季隆 を名乗り支配権を確立した。畠山重忠 を討った愛甲三郎=横山季隆とは、知らなかったなぁ...
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愛甲氏も同じ横山党に属していたが、横山庄と愛甲庄の間に位置する船木田庄(八王子市南部の中山地区)を巡る所有権争いに端を発していた。横山季隆の娘は秩父重弘に嫁して 畠山重能小山田有重 を産み、他の娘二人も海老名氏と波多野氏に嫁ぎ、更に孫娘は和田義盛と 渋谷高重 に嫁いでいる。和田合戦の背景には相模国に血縁関係のネットワークを構築した和田一族+中村一族+鎌倉党+横山党の駆逐一掃を狙う北條義時の戦略があった。

 
左:伝 和田一族滅亡の地と伝わる 和田塚(無常堂塚)  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 畠山重忠の次は和田義盛。改めて頼朝没後の御家人粛清事件を列挙すると...】
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  正治二年(1200)1月に 梶原景時 一族が鎌倉を追放され京に向う途中の駿河で追討。
  建仁三年(1203)9月に 比企能員 一族が 頼家 の嫡男 一幡 と共に比企ヶ谷の館で討伐。
  元久二年(1205)6月に 畠山重忠 一族が謀反の冤罪を受けて鎌倉に向う途中の二俣川で滅亡。
  同年の同月、重忠冤罪を画策した咎で 稲毛重成 一族と 榛谷重朝 一族が追討された。
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そして建仁三年(1213)の和田合戦を迎えるのだが、面白いことに梶原追討には比企・畠山・稲毛・榛谷・和田・三浦らが協力し、比企追討には畠山・稲毛・榛谷・和田・三浦らが協力し、畠山追討には稲毛・榛谷・和田・三浦らが協力し、稲毛と榛谷の追討には和田・三浦が協力し、和田追討には 三浦義村 が同族の義盛を裏切って協力している。
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要するに滅ぼした側の中に、間もなく滅ぼされる者がいた。次は自分かも知れないとは誰も考えず、最後に残った三浦一族の滅亡は宝治元年(1247)...頼朝 が没してから約50年を費やして、時政が夢見た(であろう)安倍独裁、じゃなかった北條一族が覇権を握る時代となる。時系列で纏めた 和田の乱に関する吾妻鏡の記録 抜き書き も参考に。
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建暦三年(1213)2月、北條義時和田義盛 を挑発して全面衝突に持ち込んだ。横山党など相模国に広がる血縁を集めた和田軍は当初の戦況を優位に進めたが、起請文まで入れて援軍を約束した三浦本家の惣領 義村 が挙兵直前に寝返って義時に味方してしまう。
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更に実直な老臣として義盛を愛していた筈の将軍 実朝 も義時の圧力に屈して「賊軍は和田一族」と布告したため、鎌倉に集結した御家人たちは雪崩の如く北條側に加わり、和田一族らは滅亡となった。早めに将軍 実朝を確保して正当性を演出した義時が一枚上だった、という事か。また不幸にして義時の挑発に乗った義盛が当初の予定より一日早く決起してしまい、横山党の鎌倉到着が間に合わなかった事も勝敗の帰趨を決した大きな要素となった。
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そもそもの発端は信濃源氏の末裔である泉公衡の嫡子 小次郎親衡 が立案した反乱未遂事件で、執権の北條義時を殺し将軍実朝を廃して前の将軍 頼家 の三男千壽丸を次の将軍に擁立しようと試みたもの。北條一族に反感を持つ御家人を糾合するため派遣した安念坊千葉成胤 に捕縛され、その自白で全容が明らかになった。謀反計画には義盛の四男 義直 と 五男の 義重 、甥の 胤長 (義長(義盛の弟)の嫡子)など多数の和田一族が加わっていたため大きな騒動に発展。義直と義重は長年の忠節を訴えた義盛に免じて許されたが胤長は流罪と決まり、面縛のまま一族の前を引き立てる屈辱を受けた。
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   ※千壽丸: 母は御家人の 一品房昌寛 の娘。父 頼家 の失脚後は尾張中務丞が養育し、乱の発覚後は出家を命じられ 栄實 を名乗って京に移った。
翌年に再び和田氏の残党に擁立され反乱を企てたが討手を向けられて自殺、享年14歳。
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   ※安念坊: 乱を首謀した泉親衡の郎党青栗七郎の弟と伝わる。
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   ※千葉成胤: 建仁三年(1203)に父の 胤正 が死没し千葉氏を相続した直後で、首謀者の泉重衡は協力の可能性ありと判断したのだろうか。
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   ※面縛: 後ろ手に縛った縄を背後から顔に回し上を向かせた状態で晒す方法。武士にとっては最大の恥辱だった。
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公収された胤長の屋敷は通例に従って親族の 義盛 に与えるとの実朝決裁にも拘わらず翌日には撤回されて義時が没収、重なる屈辱が三ヵ月後の和田義盛決起に繋がった。一方で陸奥国岩瀬郡(福島県天栄村付近)に流された胤長は和田の乱の後に首を斬られている。
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合戦が始まったのは5月2日朝。ほぼ36時間に及ぶ激しい戦いが続いた5月3日の夕刻に和田軍は追い詰められ、義盛が愛していた四男の義直(37歳)が討死。
ついに戦意を失った義盛は他の子息三人と共に浜の近くで戦死した。吾妻鏡によれば和田側の名のある戦死者は90数人、郎党や従者を含めるとその数倍程度か。残兵を掃討した指揮官の 北條時房 は本陣を下馬橋付近に置いていたから、和田一族は由比ヶ浜の近くで全滅したらしい。
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道路拡幅工事が行われた明治二十五年(1892)、工事現場から土器と埴輪の破片、人骨、馬の骨が大量に出土した。場所から考えて和田一族の戦死者を埋葬した地と推定され、以後は和田塚と呼ぶようになった。近年の研究によれば出土した遺構は無常堂塚と呼ばれる向原古墳群の一部で、鎌倉唯一の高塚式古墳らしい。どうやら和田一族とは無関係か。 古墳群の発掘調査概略地図 を参照されたし。



 その六 鎌倉幕府三代将軍 実朝暗殺 

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頼家 は建久十年(1199)1月26日に満16歳4ヶ月で二代将軍を継ぎ、同年の4月には訴訟の決裁権を剥奪され13人の宿老による合議制に移行した。この前後の吾妻鏡には習慣を無視した独断専横など「武家の棟梁として相応しくない資質」を裏付ける複数の事件が記載されているが、僅か三ヶ月での権限縮小は如何にも早過ぎる。東国の利益を具現化するには 頼朝 の独裁が不可欠だったが、幕府の覇権が確立した今となっては第二の頼朝は不要になった。
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将軍独裁から集団指導制を装った北條独裁へ...そんな 時政 の野望が動き出す。就任4年後の建仁三年(1203)9月、既に後ろ楯の比企一族を失った頼家は鎌倉から追放され、将軍職は満12歳の千幡(10月に元服して 実朝)が「鎌倉殿」を継承した。100%北條傀儡政権の誕生である。
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  ※宿老合議制: 設立時のメンバーは 足立遠元安達盛長(1200年死没) ・ 大江廣元(官僚) ・ 梶原景時(1200年追討) ・ 中原親能(官僚) ・
二階堂行政(官僚) ・ 八田知家比企能員(1203年族滅) ・ 北條時政北條義時三浦義澄(1200年死没) ・ 三善康信(官僚) ・
和田義盛(1213年族滅)の13人で、人選は北條時政が主導している。
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やがて梶原・畠山・比企・和田の滅亡に伴って合議制は崩壊し北條執権の独裁となった。その後は評定衆に姿を変えて集団指導体制の形式を保ったが、北條独裁は更に強化された。評定衆は司法・立法・行政の三権を司り、頂点の執権職は北條得宗(嫡流)の世襲となる。
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幼い頃は兎も角、成長するにつれて実朝にも当然ストレスが溜まってくる。鎌倉将軍とは名前だけで実際には形式的なシンボルに過ぎず、政治に関与する権限は何もない。
やがて実朝の興味は政治から離れて蹴鞠や和歌など享楽的な貴族社会に向い、自らの官位を上げることに執着するようになる。
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足利義兼 の娘を予定していた婚姻の相手にも公家の娘を望み、坊門信清 の娘(坊門信子)に変更させた。信清の姉は高倉天皇妃として 後鳥羽天皇 を産んだ殖子(七条院)だから、実朝は皇室の縁戚になった。和歌では 藤原定家の指導を受け、急速に貴族社会への傾斜を深めていく。

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右:光明皇后1250年大遠忌法要(2010年)の大仏殿    画像をクリック→ 拡大表示
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華厳宗大本山 東大寺(公式サイト)の原型は、神亀五年(728)、45代聖武天皇と光明皇后が早逝した皇子を弔って若草山の東に建てた僧堂が最初と伝わっている。僧堂は天平五年 (733) に金鐘寺 (こんしゅじ) として発展、天平十三年 (741) には大和国の国分寺として金光明寺と改めた。大仏鋳造が始まった天平十九年 (747) を過ぎた頃から東大寺の名が使われ始めたらしい。
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その20年ほど後の天平神護元年 (765) に、東大寺に対比する形で第48代称徳天皇 (第46代孝謙天皇の重祚) が創建したのが真言律宗の総本山 西大寺(公式サイト)、この女帝 称徳を操ったと伝わるのが 東山道 下野薬師寺跡に登場した 道鏡 (wiki) 、江戸川柳で「道教は座ると膝が三つあり」と評判の人物だ。ただし巨根説は女帝が重用した事から発生した恣意的な悪評で、実際には朝廷の権力争いに敗れた追放された被害者だったとの説が正しいという 。
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暦仁年間(1238~1240)になって荒廃した西大寺を再興した 叡尊 (wiki) と弟子の 忍性 は共に鎌倉幕府と深い接点を持つ事になlり、この物語の中では東大寺よりも遥かに重要な存在になる。既存仏教の天台宗や真言宗、武士の精神的支柱である禅宗、新興の法華宗、忍性が関わった真言律宗と念仏宗、そして非人の救済と慈善活動。忍性の生涯 (wiki) と併せて、三村山極楽廃寺箱根精進池の石仏群鎌倉極楽寺の史跡 (各、別窓)を参考に。
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閑話休題...大仏鋳造に伴う開眼は天平勝宝四年(752)、大仏殿は6年後の天平宝字二年(758)に完成した。その後は藤原氏の氏寺である 興福寺 と氏神を祀る 春日大社(各、公式サイト)と共に繁栄し、多数の大衆 (僧兵) を擁して南都を代表する大寺となり朝廷も迂闊に干渉できない規模に膨れ上がった。

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右:信濃善光寺から伝来の実朝像(甲斐善光寺蔵)  画像をクリック→ 拡大表示
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そして治承四年(1180)12月、南都の社寺が 以仁王源三位頼政 の挙兵に与したのが発端となり、平清盛 の命令を受けた 平重衡 軍の兵火が興福寺と共に堂塔の殆どを焼き払った (失火説、不可抗力説などあり) 。
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頼朝が大檀那となって成し遂げた大仏の再建は文治元年(1185)、後白河法皇頼朝政子 が列席して大仏殿落慶供養が行われたのは建久六年(1195)となる。東大寺再興勧請を主導し尽力したのが 俊乗房重源 (wiki) 、そして大仏鋳造を担当したのが南宋から渡来した工人・陳和卿である。
そして10年後、東大寺の内部抗争で失脚し行方不明になったその陳和卿が突然鎌倉に現れたから、話が面白くなる。
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【 吾妻鏡 建保四年(1216) 6月8日 】  
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東大寺大仏を鋳造した陳和卿が鎌倉に入った。かつて東大寺の再建供養に出席した頼朝が頻りに面会を申し入れたが、「合戦で多くの人を殺した罪業を負う人と面談するのは本意に非ず」として面談の固辞を貫いた人物である。
「将軍 実朝 は(宋の高僧の)生れ変りなので面会のため参上したい」との申し入れがあった。宿泊している 八田朝重 宅に 大江廣元 を派遣して仔細を確認させた。
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  ※陳和卿: 平安末期に渡来(「玉葉」に拠れば寿永元年(1182)来日)した宋の技術者。大仏殿と大仏の再建に功績を上げ播磨国(兵庫県)の荘園を
得たが、これも寄進した。後に成功を妬んだ同僚の僧による事実無根の讒訴により元久三年(1206)に失脚、以後10年の消息は不明である。
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  ※再建供養: 源氏の挙兵に協力して平家と対立した南都(奈良)の寺社は清盛の命令を受けた重衡軍により治承四年(1180)12月に攻撃を受けた。
興福寺と東大寺の堂塔ほとんど全てが焼け落ちた。平家滅亡後の建久六年(1195)3月、頼朝の寄進で再建された大仏殿落慶供養の際に頼朝が申し入れた面会を陳和卿は謝絶、その姿勢に感動した頼朝は奥州征伐で着用した甲冑・馬・金銀を寄進した。陳和卿は甲冑を造営の釘の素材として、鞍は寺に寄進するために受け取ったが、その他は全て返却した。

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左:ついでに、東大寺には欠かせない大仏(盧舎那仏像)  画像をクリック→拡大表示
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その後の大仏殿は永禄十年(1567)の兵火(松永久秀と三好三人衆の争い)で再び焼け落ちている。現在の大仏は元禄三年(1690)の再鋳造で、台座・腹部・指の一部だけが天平時代当初のものと確認されている。大仏殿は宝永六年(1709)の落慶で、どちらも約300年が過ぎているだけだから、年代の面では古さを強調するほどではない。
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ちなみに、厳密には「世界最大の木造建築」は間違いで、大きさに限れば平成九年(1997)に近代工法を駆使して竹中工務店が完成させた 大館樹海ドーム (wiki) などの方が建築物としての規模は上だが..これも閑話休題だ。
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【吾妻鏡 建保四年(1216) 6月15日】  
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実朝が陳和卿と対面した。三度拝礼の後に泣き出したので理由を尋ねると「昔、あなたは宋朝医王山の長老で私はその門弟だった」と答えた。6年前の建暦元年(1211)6月3日深夜、実朝の夢で一人の高僧が語ったのと同じ内容である。誰にも話さなかった事が陳和卿の言葉と符合すると考えた実朝は、この話を信じた。
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  ※医王山: 石川と富山の県境にある同名の「いおうぜん」が有名だが宋の医王山は鑑真が渡航する際に休息したが、これとは全く別。
浙江省寧波市鄞州区の 阿育王寺(参考サイト・地図)を差す。同じ山号を持つ寺が薬草や薬師如来などに関連している
場合が多いことから考えると、宋の場合も医薬に関連する霊山なのだろう。
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例えば佐藤忠信・継信兄弟の菩提寺として知られた飯坂の医王寺は平泉の毛越寺(共に別窓)の本尊と共に 運慶 が彫ったと伝わる薬師如来を本尊としている。
更に付記すると阿育王=アショーカ王で、彼の造って世界にバラ撒いた石塔の一つが東近江の 石塔寺 にあって、20年も前の雪の日に参拝して撮った画像が全て行方不明になった悔しさも一緒に思い出した。
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【 吾妻鏡 建保四年(1216) 9月18日 】  
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義時が大江廣元を招いて面談、「将軍実朝は若年なのに大将への着任を内々で考えている。頼朝は強運を子孫に遺すため宣下があっても官位を固辞していたが、この状況をどう考えるべきか。」と。廣元は「私も日頃からこの件で困っている。前将軍からは折に触れて下問があったが今は何も聞かれず、一人で悩む状態だ。実朝様は将軍職を継承しただけで特に勲功がある訳でもないのに、諸国を支配するのみに留まらず中納言中将にまで昇ったのは摂政関白の子でもなければあり得ない話で、背伸びをすれば必ず不幸が重なってしまう、取り急ぎその旨を伝えましょう。」と答えた。
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  ※昇進の不幸: 昇進と共に負担が増え、不幸な結果を招く「官打ち」の例を指す。不幸が自分だけなら自業自得だが道連れにされる方は救われない。
ふと 鳩山由紀夫と菅直人と菅義偉を連想してしまった。あの三人も能力以上の官位に昇ったのが(国民を含めた)不幸だった。
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官打ち(「菅直人」打ちも悪くない、「菅義偉」打ちは大賛成!)には分不相応な官位を与える「呪詛」の意味もあり、「承久記」などは実朝の死を知った 後鳥羽上皇 が鎌倉の混乱を予期して喜んだと書いている。過分な官位で破滅を狙ったとの説もあるが、実朝と後鳥羽上皇の関係は比較的円満に推移したから呪詛の根拠は乏しい。その関係に関与したのが実朝の教育係に任じていた 源仲章
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  ※源仲章: 宇多源氏の系。父は 後白河法皇 側近の源光遠、兄の仲国は高倉天皇の側近だった。当初は後鳥羽上皇に仕え、頼朝死没前後から在京の御家人として台頭し
朝廷との連絡窓口や治安維持に活動した。後に鎌倉に下り、建永元年(1206)には三代将軍に着任した実朝の教育係を務めながら鎌倉と朝廷の情報を仲介して相互の信頼を得た。
建保四年(1216)には大江廣元と並ぶ政所別当に着任、実朝との緻密な意思疎通を背景にして後鳥羽上皇と実朝の関係維持に実績を挙げた。同時に御家人からは実朝を朝廷に従属させる動きをしたとも見られ、実朝と共に殺されたのは「本当の暗殺の黒幕」が計画した通りに事が運んだ、私はそう考えている。
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【 吾妻鏡 建保四年(1216) 9月20日 】  
 
大江廣元 が御所に参上し、昇進について義時 が諌めている内容を伝えた。実朝 は「諌める意味は良く判るが、私には子がなく、(頼朝 のように)栄誉を遺しても子孫が継ぐ事はない。従って官職に就いて家名を上げるのが望みである」と答えた。廣元は重ねての意見ができず退出した。
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  ※実朝の子: 血を分けた実子はない。頼家の遺児 公暁 と 鞠子(後の 竹御所)を猶子(後見人に近い養子関係)にして、その猶子の一人に殺される。

 
右:平城遷都1300年祭に展示された遣唐使船模型    画像をクリック→ 拡大表示
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遣唐使制度は舒明二年 (630) に始まり、寛平六年 (894) に菅原道真の建議で廃止するまで10数年~20数年間隔で行われた。通算して12回~20回まで諸説がある。唐が滅亡した延喜七年 (907) 以後の日本は大陸からの交易船は受け入れたが海外に向かう船は (清盛 による交易を除くと) ごく少数だったという。
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鎌倉時代初期の日本に自前の外洋船は(少なくとも東国には)皆無だった。ちなみに、遣唐使船の推定全長は30mで巾は8m、2本の帆柱を持ち風が弱い時は櫓も併用したが無事に到着する確立はかなり低かった。
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大陸から来た交易船に便乗して医王山でも上海でも好きな所へ行けば良いのに、将軍としては御座船で颯爽と故郷(笑)に錦を飾るべき...なんて思ったのかな。世襲なんて(将軍に限らず)所詮は低レベル。
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【 吾妻鏡 建保四年(1216) 11月24日 】  
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将軍実朝は前世に住んでいた医王山参拝のため唐に渡ろうと考えて陳和卿に唐船の建造を命じた。
結城朝光 を差配に60余人の専従者を定め、義時と廣元は何度も諌めたのだが造船は開始された。
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  ※宋への渡航: 傀儡将軍実朝は陳和卿との出会いを契機にして本来の自我に目覚めたらしい。前世の地 医王山を拝するため
宋渡航を計画した。実権もなく子も持てず、現世に夢を持てない若い傀儡将軍が山師の「オレオレ詐欺」にコロっと騙された、そんな感じか。
満11歳で鎌倉将軍を継承した実朝はこの時22歳、哀れにして愚か。
まともな帝王学など受けなかった、と思う。そもそも政子実朝 を優秀な指導者に育てる意思など持っていなかったのだろう。
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【 吾妻鏡 建保五年(1217) 4月17日 】  
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唐船が完成し、御家人に命じて数百人の人夫を集めて由比ヶ浜への進水を試みた。義時も臨席し、二階堂行光 が差配した。陳和卿の指示で夕方まで全員が船を曳いたが唐船が出入りする深さではないため浮くことはなく、将軍は御所に戻った。船は空しく朽ち果てるのみだった。
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  ※唐船、浮かず: 実朝の愚かさを強調する吾妻鏡の捏造かと疑いたくなる(その可能性もある)。鋳造が専門の工人に造船を任せるのも馬鹿な話だし。
この事件以後の陳和卿の消息は判らない。殺されたか、鎌倉を追放され漂泊の果てに野垂れ死にしたか。
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【 吾妻鏡 建保五年(1217) 6月20日 】    5ヶ月後に実朝を殺す公暁が犯行現場の八幡宮別当に着任。黒幕が誰かを示す状況証拠の一つだ。
阿闍梨公暁(頼家の子)が園城寺から鎌倉入り。政子の指示で八幡宮別当に着任する。この二年は明王院僧正公胤の弟子として修行していた。
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【 吾妻鏡 建保五年(1217) 10月11日 】  
阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮別当職着任後に初めて神前に拝した。自らの望みにより以後一千日の間参籠する予定である、と。
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  ※阿闍梨: 本来は戒律を守り修法を極めて僧を指導する立場にある高僧を指す。公暁 の場合は八幡宮別当として特別に与えた僧位である。
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  ※公胤: 鎌倉と上皇の双方に信頼されていた園城寺の天台宗阿闍梨。政子 の依頼で公暁を弟子にし、後に 法然 の開いた浄土宗に帰依した。
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  ※千日参籠: 八幡宮で実朝を殺す機会を待つ決意か。「実朝は親の仇」と教え込み、実朝に接近できる八幡宮別当に任命したのは誰か。
ただしこの参籠が公暁の意思なのか、或いは実朝または政子の指示があったのか、それが良く判らない。

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左:難病平癒祈祷をする安倍晴明  (清浄華院蔵)   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 建保六年(1218) 6月27日 】  
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将軍 実朝 が大将に任じた拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣。早朝に評定衆の 二階堂行村 が拝賀予定を鎌倉に下向中の殿上人 らに触れた。将軍は夕刻に出御、文章博士の 源仲章 朝臣が御簾を上げ、まず陰陽師の安倍親職が車寄で控え、束帯の陰陽権助忠尚が廊下の邪気を払った。伊豫少将 一条實雅能保の子)が車を寄せ、南門を出て西に向かった。行列には殿上人の新蔵人時廣・一條大夫頼氏・花山院侍従能氏・一條少将能継・伊豫少将實雅・前因幡守師憲・右馬権頭頼茂朝臣・前左兵衛佐為盛朝臣・文章博士仲章朝臣・一條中将信能朝臣が続いた。
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※実朝の任官: この時期の実朝が官位の昇進を願う様子はかなり異様である。建保四年(1216)6月に権中納言に、
7月に左近衛中将を兼任、建保六年(1218)1月に権大納言、3月に左近衛大将と左馬寮御監(武士羨望の官職)を兼任、10月に内大臣を兼任、12月2日には念願の右大臣(武士では初)を拝命した。
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  ※安倍親職: 陰陽師の安倍と言えば、当然ながら安倍晴明を連想する。親職の死没は1240年、晴明の長男・吉平の子から「親」を通字にしており、彼の三代ほど
後の人物が幕府の陰陽師になったと考えられる。晴明嫡流は明治初期まで朝廷の陰陽寮を統括しているから、親職は庶流の可能性がある。画像は京都の
清浄華院(公式サイト。当初は天台宗、平安末期から浄土宗)所蔵の「泣不動縁起絵巻」の一部、難病平癒祈祷をする陰陽師 安倍晴明を描いている。
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【 吾妻鏡 建保六年(1218) 12月5日 】  
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八幡宮別当の 公暁 が宮寺に参籠を続け幾つもの祈願を行った。剃髪していないため諸人はこれを奇異に思った。
また白河義典(波多野氏傍流?)が奉幣のために伊勢神宮に向かった。本日、その他の寺社にも使者を送る旨を御所中に披露した
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  ※奉幣と使者: 下記12月20日の記述に、「去る2日に 実朝 が右大臣着任」とある。奉幣と使者の派遣は実朝の右大臣拝命に関するものだろう。
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【 吾妻鏡 建保六年(1218) 12月20日 】  
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去る2日に将軍 実朝 が右大臣に任じられてから今日が初の政所会合である。執権 北條義時 ・ 政所執事 二階堂行光源仲章朝臣 ・ 源頼茂 ・ 武蔵守 大江(源)親廣北條泰時伊豆(若槻)頼定図書(清原)清定 らが列座した。清定が筆を執り祝いの文章を書いた。義時が上覧のため御所に参上、行光が書を捧げて義時に従った。将軍実朝が出御して義時の持参した書を覧た。その後に義時は政所に帰り、行光が馬や劔を義時に献じた。
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  ※人物の詳細: 二階堂行光 は13人宿老の一人だった 行政 の子で実務官僚のトップ、源頼茂は 頼政 の二男 頼兼 の長男、親廣大江廣元 の長男、
伊豆頼定は 義家 の七男 陸奥(源)義隆 の三男頼隆の二男、伊豆守で森氏の祖)。
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【 吾妻鏡 建保六年(1218) 12月21日 】  
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将軍 実朝 が右大臣拝賀のため新年正月に鶴岡八幡宮に参詣するに当り、宮廷から下された装束や御車などの調度が到着した。
また、大納言坊門忠信らが拝賀式典に参列するため鎌倉に下向した。
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  ※坊門忠信: 後鳥羽上皇 と順徳天皇の寵臣で官位は正二位。父は従三位権大納言の 坊門信清、姉妹の 信子 は実朝の正室。

 
右:実朝暗殺の現場と御谷の二十五坊跡と三浦邸の位置  画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 1月27日 】  
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夜、積雪は2尺ほど。夕刻、将軍 実朝 は右大臣拝賀のため随兵を従え八幡宮に参詣。道々の衛兵は千騎に及んだ。八幡宮の門を入る時、義時 が体調不良のため剣役を 源仲章 に譲り、小町邸に退出した。
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夜になって拝礼の儀が終り引き上げる際に別当阿闍梨 公暁 が石段の際から現れて将軍 実朝 を殺した。
武田五郎信光 を先頭に隋兵が駆け付けたが公暁を確認できず、人が言うには八幡宮上宮の軒先で 父の仇を討ったぞ! と公暁が叫ぶのを聞いた、と。隋兵は雪ノ下にある別当の僧坊を襲い、公暁門弟の悪僧らと戦った。長尾定景と息子の景茂と胤景が悪僧を追い払ったが、公暁がいないため空しく引き上げた。
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公暁は将軍の首を持って後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の邸に入り、一服する間も首を離さなかった。
更に使者として乳母子の彌源太を三浦邸に派遣し 将軍実朝が没したから私が東国の長である、至急に会議を開け と申し入れた。
これは義村の息子駒若丸(後の 三浦光村)が公暁の門弟だった故だろう。
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義村はこれを聞いて落涙し言葉も出なかったが、迎えを送るからまず私の邸に入られよ、と申し送った。使者が出た後に事の経緯を義時に報告、義時が公暁追討を指示したため一族と更に協議した。
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公暁は勇猛だから簡単に討てないと考え、雪ノ下で悪僧と戦って戻っていた長尾定景に討手を命じた。定景は辞退できず、甲冑を着けて西国の猛者 雑賀次郎以下5人の部下を率いて備中阿闍梨邸に向かった。

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  ※体調不良: 原文は少し下の「愚管抄」下段に紹介した。病気を偽って危険を避けたと考えるのが普通だろう。更には実行者に仲章を殺させるため「剣役は義時」
と教えていた可能性を指摘する説や、同行していたのに実朝が討たれたのは武士として恥辱なので不在だった事にしよう...と吾妻鏡の編者が忖度して記録した可能性を指摘する説もあるらしい。
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  ※小町の自邸: 初期の義時邸は 岐れ道付近地図)で、後に小町邸つまり現在の 寶戒寺(別窓)の位置)に移っているどちらも目と鼻の先。
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  ※石段の際: 文脈に従えば犯行は本殿(上宮)の前、「大銀杏の蔭から公暁が現れて云々」は全くの事実無根。当時は樹齢200年程度で太くないし、そもそも
そもそも大銀杏の話は江戸期以前の文献には記載がない。事件現場について吾妻鏡の原文は 當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相(右大臣実朝) と書いている。石階(石のきざはし)之際 をどう読むかも面白いところだ。大石段は61段で高低差は約10m、駆け付ける警備兵を避ける事を考えれば「石段の上で拝殿の近く」と考えるのが妥当だろう。
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  ※長尾定景: 治承四年の石橋山合戦で 俣野景久 と共に佐奈田与一義忠を討った武士。捕虜になって義忠の父 岡崎義實 に預けられたが法華経を毎日読み続ける
姿を見て 「彼を斬れば冥土の義忠が難を受けそうに思う」頼朝 に赦免を願い出て許された。以後は三浦氏に仕えている。
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  ※北谷の邸: 八幡宮供僧の坊は八幡宮の北側一帯に集中していた。当時は円覚寺も建長寺もなく、北鎌倉方向への道は巨福呂坂か亀ヶ谷坂だった。
僧坊群(二十五坊)は北谷の奥から巨福呂坂近くまで点在していたが、備中阿闍梨坊の位置は確認できない。
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  ※追討指示: 暗殺の背後を調べ真相を明らかにするなら公暁の捕縛が必要なはず。最高権力者として追討を命じたのは調べる意思がないか、調べてはマズイから
だろう。三浦が関与した疑惑があるのなら公暁を捕えて供述させれば義村一族を謀反人として滅ぼす絶好のチャンスとなる。

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左:八幡宮の北、御谷(おやつ)周辺の鳥瞰図  画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡の記述は続く 】  
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一方の 公暁義村 からの使者が遅いため待ち切れず備中阿闍梨の邸を出て八幡宮北側の峯を越え、三浦邸に入ろうとした所で定景に出会った。すぐに雑賀次郎が組み付き、定景が太刀を振るって公暁の首を落とした。
首は三浦邸に持ち帰った後に義村が小町邸に届け、義時 が確認した。
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出立の前に 大江廣元 が「将軍頼朝の東大寺供養の際の例に倣って装束の下に腹巻の着用を」と薦めたのだが、源仲章この官位に昇る人にそのような前例はない として拒んだ。三条公氏が実朝の髪を整え、その時に記念として髪一筋を与え庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。
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  出でいなば 主なき宿と成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
       これは単純な猿真似じゃなく、菅原道真の 東風吹かば...本歌取り (wiki) 。
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南の門を出るときに鳩が頻りに鳴き、車を降りる時に雌雄対の剣の雄の方が突き折れた。これらの出来事は全て凶兆で、政子 からは 公暁に協力した者を捕らえよ との指示があり、信濃国の住人中野助能が少輔阿闍梨勝圓を捕えて義時邸に連行した。阿闍梨勝圓は公暁の仏法の師である。
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  ※禁忌の和歌:何が禁忌に当たるのか良く判らない。出掛ける前に和歌を詠むのが禁忌なのだろうか。原文は次覽庭梅 詠禁忌和歌給
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園城寺 (公式サイト、大津の三井寺)で修行していた 公暁政子 の指示で八幡宮寺別当に就任したのは建保五年(1217)6月20日、実朝暗殺の5ヶ月前である。護衛の武装兵は門外で待機中だから太刀を持つ公暁が近づく千載一遇のチャンス、この舞台を設定できたのは、政子と 義時 以外に存在しない。
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源仲章 は義時と間違えて殺されたとする説もある。愚管抄は現場を目撃した公卿の証言として、(公暁に)続いて同じような数人が現れて供の者を追い散らし、前方の仲章を義時と思って斬り倒し立ち去った と書いているが、八幡宮寺に常駐する僧が鎌倉の最高権力者・執権義時の顔を知らない筈はない。
そもそも彼らが 仲章を義時と思って の部分は単に 公卿の推定の伝聞 に過ぎない。義時め! とか言ってたのなら別だけど。

 
右:浦賀道見取絵図から、鶴岡八幡宮部分     画像をクリック→ 拡大表示
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鎌倉八幡絵図は寛政~文化年間(1810年前後)前後に徳川幕府の道中奉行所が編纂した「五海道其外分間見取延絵図」の一つ。旧郵政史料館、現在の 郵政史料館(公式サイト)が収蔵していたが国の重要文化財として東京国立博物館に移管された。全80巻。
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天台宗の座主 慈円 の著で承久二年(1220)に成立した歴史評論書「愚管抄」に 「当日同行した公卿からの伝聞記事」 が載っている。吾妻鏡と異なる切り口で史実を補完してくれる書物があるのは実に有難い。
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【 愚管抄による記述 】.
拝賀の式典には京から公卿5人が列席。大納言(坊門)忠信、中納言(西園寺)實氏、宰相中将国通、正三位光盛(平頼盛 の息子)・刑部卿三位(藤原)宗長である。
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無事に式典が終り、夜になって社殿前の石橋を下って公卿が列する前を過ぎる際に僧形の者が駆け寄り、衣裳の裾を踏んで将軍 実朝 を斬り倒し首を落とした。続いて同じような数人が現れて供の者を追い散らし、前方の 仲章義時 と思って斬り倒し立ち去った。(門外の)義時は武装兵に中門に留まれと命じた。列席の公卿らは蜘蛛の子を散らすように逃げ、光盛は鳥居から自分の牛車で帰った。
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鳥居の外に待機していた(警護の)武士は状況を把握していない。(下手人の)法師は 頼家 の子で八幡宮別当に任じていた 公暁、以前からの宿意を遂げた。最初の一太刀に 親の敵はこう討つぞ と言ったのを公卿たちは皆はっきりと聞いている。
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その後に信頼する家臣(と思われる) 三浦義村 邸へ 今は我こそ大将軍、そこへ行くぞ と伝え、義村はそれを義時に伝えた。公暁は単身で実朝の首を持ち、積雪の八幡宮裏山を越えて義村邸に向った。公暁はその途中で出会った(三浦の)討手を斬り散らして逃げたが、義村邸の塀を越えようとした所で殺された。実朝の首は八幡宮の裏山から見つかった。公暁に与した者は討伐、坊は焼き払った。この夜と翌日には7~80人が出家した。
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現場に立ち会った公卿が見聞したのは「...前方の 源仲章 を (義時と思って) 斬り倒し立ち去った」までで、それ以後は伝聞だろう。直接聞いたという公暁の言葉が事実ならば、公暁は「実朝=父頼家の仇」と考えて報復を果たした事になるが、頼家の失脚と死没の原点は 北條時政義時 だから、当時わずかに11歳だった実朝 を「父の仇」と恨むのは筋が違う、誰かが幼い公暁の心を操って「仇は実朝だ」と刷り込んだのだろう。
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「親の仇として実朝を討てば大将軍になれる」と信じ込んでいた、或いは信じ込まされていた事になる。それならば単独犯ではなく「権力者から恩賞を得られると確信した」悪僧が公暁の犯行に協力した理由も納得できる。
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吾妻鏡の原文はj「右京兆俄有心神御違例事。讓御剣於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令帰小町御亭給」、つまり「義時は体調が悪いので剣役(太刀持ち)を仲章に譲って神宮寺から退去し、行列を離れて小町邸に帰った」と書いているが、愚管抄は 「義時が武装兵は門外に留まれと命じた」としている(公卿からの伝聞)。義時は小町邸から再び戻って門外で指揮していたのか、また、なぜ直ちに武装兵を現場に派遣しなかったのか。
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【 犯行の背景 】 悪僧を巻き込んだ 公暁 の単独犯行説、三浦義村 黒幕説、北條義時 黒幕説、後鳥羽上皇 黒幕説があり、私は義時黒幕説。
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 後鳥羽上皇黒幕説
実行者の公暁と上皇には仲章を介する他に接点がない。円城寺での修行時代に教唆された可能性はあるが、いくら公暁が馬鹿でも「実朝を殺せば上皇が鎌倉将軍にしてくれる」と信じるわけがないし、仲章を通じて実朝とは比較的良い関係にあった上皇や仲章が画策するメリットは乏しい。鎌倉が混乱して弱体化する可能性トはあるが、そんなリスクを犯すよりは仲章を通じて更に実朝の京都志向を高める方が確実な成果が見込める。
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 三浦義村黒幕説
犯行後の 公暁義村 との面談を求めた理由は義村の乳母子だった事と、三浦邸が備中阿闍梨邸から最も近かった(直線で500m以内)事と、義村の息子駒若丸(後の光村)が公暁の門弟だった事、が理由として説明できる。混乱に乗じて鎌倉の実権を掌握する意図があったなら義村の行動は合理性に欠けるし、義時 に指示を仰ぐ理由もない。もし義村の関与を疑ったのなら、公暁を殺さずに義村関与の自供を引き出せば三浦追討の正当性を主張できる立場の義時が、公暁殺害を命じる筈もない。またこの時点の義村には公暁を将軍に擁して北條を駆逐する程の兵力は動員できないし、挙兵を準備した形跡もない。優柔不断な義村が公暁を扇動した後に変節した可能性はあるが、その場合も義時は公暁殺害ではなく捕獲を命じる筈だ。
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 公暁の単独犯行説
少なくとも数人の「悪僧」が協力したのは、事件が仇討ちであると共に(慈円 が公卿から聞いたように)公暁が「我こそ大将軍」として協力者を厚遇する約束があったからだろう。悪僧の立場から考えても、実朝の死没後は公暁を将軍に据える政治力の担保がなければ片棒は担げない。八幡宮に着任してから犯行までの半年間で僅か19歳の公暁が仲間を揃えられたのは、悪僧を説得できる「権力者の存在」を公暁が示したのが理由だと思う。「執権の意向である」とかね。
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 義時黒幕説
犯行現場の八幡宮別当に公暁を任命したのは政子と義時。頼家失脚に無関係の実朝が「実は親の仇だ」と若い公暁に摺り込むのが可能だったのは義時と政子。暗殺の実行直前に (薬師如来の眷属である十二神将の戌神が白い犬の姿で危険を知らせ) 体調不良を訴えて現場から退去したのは義時。取り調べなしの殺害を命じたのも義時。他者が関与できる余地はない。
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公暁を除く数人の僧が仲章を殺したのは事実だろうが、八幡宮の供僧が最高権力者の義時と実朝寵臣の仲章の顔を見誤る筈はないから 義時と思って仲彰を殺した 云々は根拠が薄弱。実朝の死によって朝廷の影響力を失わせ、ついでに窓口の仲章も殺せば義時には大きなメリットとなる。  右上は薬師十二神将の戌神、右下は薬師堂の後身・現在の覚園寺。共にクリック=拡大表示
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頼家失脚の場合と同様で、そもそも北條一族は源家に対する忠誠心など持っていないし、既に実権を掌握しているのだから実朝が死んでも傀儡に代行させれば済む。従って、義時側のデメリットはゼロに近い...などが列挙できる。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月8日 】  義時の言い訳を信じられるか?
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右京兆北條義時が大倉薬師堂 に詣でた。霊夢のお告げに依り創建した堂である。 先月27日の戌刻(20時前後)に八幡宮に供奉した時、傍らにまるで夢の様に白い犬が見えてから急に気分が悪くなり、御剣役を源仲章朝臣に譲り、伊賀四郎朝行(朝光の四男)だけを伴って退去した。 .阿闍梨公暁は義時が御剣役を務めるのを事前に知っており、剣役を狙った結果として仲章の首を斬ってしまった。ちょうどこの時間には、薬師堂の中に戌神は居なかったという。
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※大倉薬師堂: 前年 (建保六年) 7月9日の吾妻鏡に建立の詳細を義時が述べているから参照されたし。概略は以下。

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「前日の夜の夢に薬師如来に従う十二神将の戌神が現れて義時に告げた。今年の神拝は無事に済んだが、
 明年の拝賀には供奉すべきではない。」

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果たして翌年の拝賀の夜には戌神が白い犬の姿で現れて、義時に危険を知らせた。つまり、危険の予告があったのに実朝には知らせず自分だけ逃げた、この見え透いた弁解が何を意味するかは誰でも判る。もちろん戌神の存在を信じる場合はその限りではないが。
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最近の実朝は朝廷に接近する傾向が強い。源仲章 を仲介に 後鳥羽上皇 とも接点を深めている。早めに始末して源氏の血を絶ち、次の傀儡将軍を擁立しよう。飼い馴らしておいた公暁を「親の仇」と唆して実朝と仲章を殺させ、その後に謀反者として始末すればベスト...私が義時の立場なら、そう考える。
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極端な説ではあるが、実朝と源仲章の殺害を実行したのは北條の手兵で、公暁は濡れ衣を着せられて討ち取られた、と考えても不思議ではない。実朝の首を抱えて北谷の備中阿闍梨邸から義時邸へ...でも武装兵が集結する八幡宮周辺を突破し小町の義時邸(現在の宝戒寺)まで行くのは無理だ。八幡宮北側の塀を乗り越えて三浦邸に保護を求めた公暁の行動はごく自然である。まぁ混乱の中で殺されたのだから義時にはベストの結果、だろうが。

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左:浦賀道見取絵図から、八幡宮二十五坊部分    画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 建保七年(1219) 1月28日】  
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早朝、加藤判官次郎が将軍逝去を知らせる使者として上洛、行程は5日と定めた。朝、御台所(坊門姫)が落飾、戒師は 荘厳房律師行勇 が務めた。武蔵守親廣大江廣元 の長男)、左衛門大夫大江(長井)時廣、前駿河守中原季時、秋田城介景盛、隠岐守二階堂行村、大夫尉景廉 ら御家人百余名が出家した。
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20時頃、将軍実朝を勝長寿院(大御堂または南御堂)に埋葬した。御首が行方不明で五體が揃わず支障があるため、昨日公氏に与えた鬢を頭に換えて棺に納めた。
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 ※加藤判官次郎: 他に該当名がないから 加藤景廉 だろう。若い頃からの病弱なのに満63歳で上洛に5日(鎌倉~京都
約450km、1日90km)の命令は厳しかっただろうに。
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  ※実朝の首: 愚管抄は「首は裏山の雪の中」、吾妻鏡は「行方不明」と記録しているが、三浦義村の家臣武常晴が独断で波多野に運んで埋葬したのが事実らしい。
なぜ主人義村の元に持参せず秦野に運んだのか、その背景などについては後段に詳細を記述した。
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  ※勝長寿院: 頼朝の場合は遺骨を持仏堂に納め、後に豪壮な法華堂に改葬している。勝長寿院は頼朝系累の氏寺と考えて良さそうだ。
最初は文治元年(1185)9月に 義朝 の遺骨、次は元仁二年(1225)4月に 政子 の遺骨、そして今回は 実朝 の遺髪が葬られている。
勝長寿院は康元元年(1256)12月に焼失し2年後に再建、室町時代に再び焼失した後は顧みる者もなく放置された。白旗神社奥の平場にある頼朝の墓(五層の石塔)は江戸時代に墓地を造成した嶋津氏が勝長寿院に残っていた素性不明の石塔を移設したもの。
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壽福寺裏山の「やぐら」に残っている政子と実朝の五輪塔は勝長寿院焼失後に移したか、あるいはその際に新造したものと推測できる。
勝長寿院周辺鳥瞰図は こちら、義朝供養墓はこちら、壽福寺はこちら。 全て同じ窓内でのリンクなので「戻る」を利用する事。
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【 頼家の妻妾と子女について 】  
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知られている妻妾は若狭局(比企能員の娘)、一品房昌寛の娘、足助重長の娘の三人がいる。吾妻鏡は足助重長の娘を「室」と書いているが、一般的には嫡男の
一幡竹御所 を産んだ若狭局(比企能員の娘)を正室として扱う例が多い。一品房昌寛は幕府の事務官僚で、娘が頼家三男の 栄實 と四男の 禅暁 を産んでいる。御家人の足助重長は三河国の荘官で、禅暁は重長の娘が産んだ可能性もある
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頼家長男の一幡は比企の乱(1204年・5歳)の際に殺害、二男の公暁は実朝暗殺直後(1218年・享年19歳)に殺害、三男の栄實は謀反に担がれた末に殺害(1214年・享年13歳)、四男の禅暁は公暁に加担した容疑で殺害(1220年・享年19歳前後か)されている。父親の頼家と四人の男子は全て北條氏の指示で殺されているのが凄まじい。一幡を除く三人はいずれも頼家暗殺後に寺に入って出家している。公暁に「実朝は父・頼家の仇」と刷り込み、「実朝を殺した今は我こそ大将軍」と言わせたのは公暁を後見していた義時&政子か、あるいは公暁の乳母夫だった義村か。
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  ※公暁の係累: 公暁の母は足助重長(河内源氏累代の臣で墨俣川合戦後に死亡)と正妻(為朝の娘)の間に生まれた娘だから源氏の血はかなり濃い。
公暁の乳母は三浦義村の妻(土肥遠平の娘)が務めている。父の頼家が失脚した満3歳から11歳までの公暁は政子が養育し、6歳の秋には政子の配慮で実朝の猶子(後見人に近い養子)になっている。頼家の側妾だった一品房昌寛の娘は頼家の死後に義村の弟 胤義 の正室として再嫁しているが、義村と胤義の関係は不仲だった。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 1月29日 】  実朝暗殺の直後に話を戻して...
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八幡宮別当坊の悪僧に関わる嫌疑を追及した。宿老の弁法橋 定豪、安楽坊法橋重慶、頓覺坊良喜、花光坊尊念、南禅房良智らは祈祷の席から離れていないため無関係と判断された。
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  ※別当坊の僧: 法橋定豪は建久二年(1191)に八幡宮供僧となり正治元年(1199)に勝長寿院別当に任じていた。当日は祈祷に出向したのだろう。
嫌疑が晴れた後は八幡宮別当として実権を握り、宗教界と幕政に関与している。公暁の共犯か従犯だった筈の備中阿闍梨は家屋敷没収だが、当人の処分は記録にない。斬られたか、流罪か。でも公暁の従僧を含めて他の「悪僧」を処分した記録もないのは不可解だ。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 1月30日 】  
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八幡宮の供僧和泉阿闍梨重賀(公暁の従者)は無関係なので咎めなしとの義時指示があった。また義時邸に連行されていた勝圓阿闍梨も公暁の犯行と関わっていないのが判明したので許された。公暁後見人の備中阿闍梨が所有する雪ノ下の家屋敷と武蔵国の所領は没収となった。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月4日 】  
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没収された公暁の後見・備中阿闍梨の家屋敷は望みにより女官・三條の局に与えられた。留守の管理は甥の僧少納言律師観豪が受け持つ。
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  ※三條の局: 幕府の女官で頼朝の母方の従姉妹(頼朝の母は熱田神宮大宮司 藤原季範 の娘で、彼女の兄弟・法橋範智の娘が三條の局)。
縫殿(衣裳を司る役所)の別当を務め、古儀にも通じていたキャリア・ウーマンである。

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左:再掲、信濃善光寺伝来の実朝像(甲斐善光寺蔵)  画像をクリック→ 拡大表示
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鎌倉から直線で約30km西の秦野の伝承では、公暁を討った 長尾定景 に同行した武常晴が八幡宮裏山の雪の中で実朝の首を見付け、大津兵部と共に 波多野忠綱 を頼って秦野に埋葬した、とされる。公卿追討を命じた主人の 三浦義村に届けるのが本来なのに、遠く波多野まで首を運んだのは何故か。
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まず武常晴の出自をチェックしておくと...
三浦氏の庶流で三浦郡武郷(現在の横須賀市武)を領して「武(たけ)姓」を名乗った一族に属するが、系図には記載がない。事件の頃は公暁と同じ18歳前後だから、世代や所領の位置から推察すると 義明 の次弟・義行の孫である可能性がありそうだ。
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義行は三浦半島東南端の金田湾に面した津久井郷(地図)を領有し、後に相模国津久井(現在の津久井湖一帯、地図)に転じて津久井氏の祖となった人物(地名のみ同じの別人説あり)。
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息子の氏良が衣笠城と津久井郷の中間にある武郷(地図)を相続して「武」を名乗り、その庶子か二男以下の常晴が三浦棟梁の義村に仕えたのだろう。ただし系図に載る義行の子は矢部為行・津久井高行・秋葉義光の三人で氏良の名は見られず、庶子かも。
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首を埋葬した常晴は三浦に帰らずに出家し、実朝の菩提を弔って二年七ヶ月後に没している。従って武氏の家督には関係なく、波多野忠綱 の庇護を受けつつ実朝の墓を守って生涯を送った可能性が高い。実朝廟所に近い寺山地区には現在も「武姓」の家が今も40軒近くあり、その一軒の当主は二十九代目だという。実朝五輪塔(首塚)前の石灯籠(右下画像の左側)には「文政五年(1822) 大津安五郎 武善右衛門」の刻印が見られる。

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右:実朝首塚と波多野城址と金剛寺    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【三浦の家臣・武常晴が実朝の首を秦野に運んだ理由は何か?】
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公暁と実朝を挟んだ三浦氏と波多野氏、特に当主の 義村忠綱 の関係が大きな要素だが、これはなぜ波多野に運んだか ではなく、なぜ三浦義村邸ではないのか を考える方が判りやすい。
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> 霊魂が宿る首を届けるべき最優先の場所は疑いもなく、常晴を派遣した主人・義村の屋敷である。しかも首を見付けた八幡宮裏山から屋敷までは最大でも500m未満の距離しかない。では常晴が義村邸を選ばなかった、あるいは選べなかったのは何故か。
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義村の性格については狡猾・策謀・小物・決断力なし・裏切りなど、悪い評価が多く伝わっている。古今著聞集に拠れば、御所での正月の宴会で自分より上座に座った若年の千葉胤綱(六代当主)を 下総の犬めは寝場所を知らぬ と皮肉ったら、三浦の犬は友を喰らうぞ(同族の義盛を裏切った) と罵られた(ただし、この挿話の信頼性は疑問)。京都朝廷では「策謀の多い人物」と呼ばれ、承久の乱(1221)では朝廷側の総帥となった同母弟の 胤義 との約束を無視して胤義からの密書を幕府に暴露し、胤義から 尾篭の人(愚か者、汚い者) の評価を受けている。
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三浦氏は相模国譜代の大豪族として北條氏に次ぐ権勢を誇ったが、義村が才能と品性に欠けた人物だったのは疑いようもない。
三浦氏の棟梁として不適格とも言えるこの資質は嫡子の 三浦泰村 に引き継がれ、宝治合戦(1247年)で一族の滅亡を招くことになる。

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左:再掲、義盛の別邸跡 鶴巻温泉「陣屋」の正面玄関  陣屋の公式サイト も参考に。
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義盛の所領が三浦郡和田(地図)と安房国和田御厨(地図)なのは知っていたが、秦野(波多野)の近くに領地があるのは勉強不足で知らなかった。義盛の側室は相模原周辺に本拠を置いた横山時重の娘で、義盛は横山党を介して海老名氏・波多野氏・渋谷氏・小山田氏など共に和田合戦を戦った諸族と姻戚関係を結んでいたから、鶴巻温泉に所領と別邸跡があるのも理解できる。
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実朝が暗殺される6年前の建暦三年(1213)に起きた和田合戦では、義村の裏切りが要因となって義盛の一族が滅びた。
実朝は義盛の実直さを愛し、嫡孫の 朝盛常盛 の嫡子)を近習として重用していた。
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常盛は和田合戦で義盛に従って北條勢と戦い、42歳で討死した武者である。その嫡子朝盛は主君実朝に逆らえず剃髪して京を目指したが父に引き戻され、不本意ながら和田合戦を戦った後に鎌倉を落ち延び、8年後の承久の乱では義村の弟・胤義に従って幕府軍と戦い討死した武者である。
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実朝暗殺当時の武常晴は18歳、朝盛は常晴より7~8歳ほど年長だろうか。大倉御所で実朝に仕えていた朝盛を、300m西の三浦邸で義村に仕えていた同族の武常晴は兄のように思って成長した、と私は考える。乳母子の公暁を「殺せ」と命じる主人の義村よりも、武人としての 和田義盛常盛朝盛 の高潔さに惹かれていた武常晴が「義盛や朝盛が忠義を尽くした実朝の首を義村なんかに渡せるか」と決心しても不思議ではない。
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そして武常晴は三浦邸に帰らず北に30km離れた秦野を目指し、剛直で知られた 波多野忠綱(忠経とも)の庇護を得て金目川の西に実朝の首を葬った。和田合戦の際には波多野三郎(横山時兼の婿)と彌次郎・傍流の松田氏など一族の多くが義盛側に加わっており、周辺の曽我氏・中村氏・二宮氏・河村氏なども義盛と共に決起している。更に加えて5km東(現在の鶴巻温泉)には 和田義盛 の別邸(出城)もあり、武常晴には馴染み深い地だった筈だ。


 その七 吾妻鏡に見る承久の乱 後鳥羽上皇vs鎌倉幕府 

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和田義盛 の一族滅亡(1213年)から8年後、つまり将軍 実朝 暗殺(1218年)から3年後)の承久三年(1221年)、朝廷に対する幕府の優位性が確立する決定的な事件が起きた。世に言う承久の乱、最近では鎌倉時代の成立時期を承久の乱と考える説が力を得ている。やや強引すぎる気もするが...
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に強大な武力の前に惨敗した朝廷側の 後鳥羽法皇 と息子である二代の天皇(土御門と順徳)は流刑地で生涯を終え、他の皇子二人も流罪となった。法皇の近臣五人は鎌倉に連行する途上で処刑、その他上皇側に加わった御家人や公家も処分を受けて乱は終結した。
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承久の乱以後の鎌倉幕府は 北條義時 が貞応三年(1224)に死没、大江廣元 と 御台所 政子 が翌・嘉禄元年(1225)に相次いで死没した。
執権職が三代 泰時→ 四代 経時→ 五代時頼 と続く得宗支配体制の中で、最後に残った有力御家人三浦一族が滅ぼされた。外部の敵を掃討した北條一族は内部抗争を繰り返しながらも朝廷に対しては優位性を保ち、元弘三年(1333)に 後醍醐天皇足利高氏(尊氏)新田義貞 連合によって滅ぼされるまで独裁を続けることになる。取り敢えずこのコーナーでは、鎌倉時代の中で最大の事件とも言える承久の乱について、時系列で追い掛けてみたい。
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【 吾妻鏡 建保六年(1218) 4月29日 】  
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夕刻に尼御台所 政子 が熊野参詣を終えて京に戻った。南山奉幣はこれを行わなかった。~中略~
去る14日に尼御台所を従二位に叙する旨の宣下があった。出家した者の叙位は道鏡の他にはなく、女の叙位は准后に例があり、安徳天皇 の外祖母(清盛 の妻で二位の尼 時子)が該当する。また摂政関白太政大臣 藤原忠実の母も出家後の叙位である。
同15日には後鳥羽上皇から対面の意向があったが、田舎の老尼が尊顔を拝しても詮無い事と謝絶し、諸寺参拝の予定を中止して京を離れた。
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  ※南山奉幣: 高野山 金剛峰寺(公式サイト)に参詣、または使者を送り物品を供える事。南山に対して 比叡山延暦寺(公式サイト)を北嶺と呼ぶ。
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  ※准后: 元々は天皇(現在と先代と先々代)の后を指し、身分上・経済上の優遇措置を伴った。清和天皇の頃から天皇の縁戚男女まで適用範囲を拡大し、
南北朝時代には外戚以外の臣下も含まれるに至っている。優遇という既得権は際限なく拡大する。
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右:昔の熊野旅行記録から、宇陀の八咫烏像     画像をクリック→ 熊野旅行の詳細ページへ (別窓)
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外付けハードディスクの「記録倉庫」を探して奈良の宇陀から和歌山に旅した写真を引っ張り出した。画像は宇陀の
八咫烏神社 (公式サイト) で見た 三本足のカラス 、日本サッカー協会が寄進した八咫烏( wiki )像で、神武東征神話 (wiki) で神武 (神話上の天皇) を熊野から大和に導いた神で熊野のシンボル。
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熊野参詣や古道巡りを紹介するサイトは無数にあるので詳細の説明は省き、平安~鎌倉時代の上皇や女院や貴族たちが辿った代表的なルートを書いておく。政子が通ったのは紀伊路から中辺路を経由する最も一般的な順路だと思うが、記録がないので正確には判らない。
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  ※神武神話: 私は象徴天皇制を拡大解釈せず、現状維持程度が適正と考えている。もちろん神武神話なんて
全く信用していないし、過度の皇室崇敬は現状の調和を乱す原因になってしまう。
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 ①.御所から陸路又は舟で鴨川か桂川を橋本まで南下、更に舟で淀川を下り天満橋で上陸、紀州路に入る(ここまで約50km)。
かつては天満橋に近い淀川左岸 八軒家船着場の付近に、上皇も立ち寄った記録の残る 九十九王子 (wiki) で最初の 窪津王子(外部サイト) があった。
現在は摂津一之宮 坐摩神社(公式サイト) に姿を変えている。
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 ②.天満橋から紀伊路の海沿いを熊野の入口 田辺へ約170km。ここから熊野道の中辺路(なかへち)を辿り 熊野本宮大社(公式サイト)へ約60km。
ほぼ現在の国道311号に並行して進み、途中から本宮方向へ北上するルート。
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 ③.本宮から舟で熊野川を下り 新宮速玉大社(公式サイト)に参詣、約35km。再び陸路で急峻な山道を 那智大社(公式サイト)へ、約20km。
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 ④.那智から再び熊野大社へ。大雲取越を経て小口へ下り、更に桜峠を越え請川から大社に至る約30kmの山道(熊野古道)か、一度速玉大社に戻って
戻って本宮大社まで熊野川を遡上するルートの一つを選んだ。本宮からは中辺路を経て往路を逆に辿り都へ戻る。
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 ⑤.他に伊勢から熊野への伊勢路、吉野から大峰山脈縦走路の大峰奥駈道(行者道)、高野山から山を越えて南下する小辺路(こへち)などがあった。
険しい山道と言っても貴族連中は輿に乗って進むのだろうから、熊野古道を歩く現代人の方が遥かに難行苦行だ、と思うけど。

左:宇陀に残る神武東征の足跡伝説    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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古事記や神武東征を信じている訳じゃないけど、ここは昔から訪問したかった場所の一つだった。
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古事記に拠れば、日向高千穂の神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇・以下、神武と表記)は更に日本を良く統治できる地を求めて東に向かい、16年を費やして浪速の白肩津(東大阪)に着いた。ここで土豪の長髄彦(ナガスネヒコ)に襲われ、兄の五瀬命(イツセ)を失ってしまう。
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神武一行は五瀬命が遺した 「我らは日の神の子なのに東を向いて戦ったため敗れた。南に回り太陽を背にして戦おう。」 の言葉に従って紀の国へ迂回し熊野へ。ここで高御産巣日神(たかみむすびのかみ)が大和への道案内として八咫烏を派遣、一行はその案内で熊野から北上して宇陀の地に入った。
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宇陀を支配する土豪の兄宇迦斯(エウカシ)は神武らを殺そうと罠を仕掛けたが、弟宇迦斯(オトウカシ)が裏切って神武に知らせたため自分の罠で死に、宇迦斯の血が流れた場所を「血原」と呼んだ。東吉野村に近い宇陀市の菟田野(うたの)に宇賀志の地名が伝わっている。
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国道166号から2kmほど南東に入った山裾の宇賀神社は天照大神と宇賀魂神(宇迦斯(エウカシか、オトウカシか)を祭神とし、すぐ裏を流れる血原川には血原橋が架かっている。同じような神話に載っている出来事の伝承地は熊野から大和にかけて点々と続いているのが何とも面白い。
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神武はその後も多くの土豪を服従させつつ北進して大和に入り、橿原宮(橿原神宮(公式サイト)が伝承地)で初代の天皇になった...という神話である。
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時代が下って、6~7世紀の推古・天武・持統天皇の時代には狩猟や薬草摘みの地として菟田野(うだの)の名が多くの文献に現れる。更に国道370号を南へ下ると間もなく吉野川の上流となり、3人の幼子を連れて雪の中を彷徨った 常盤 の痕跡や、京を脱出して吉野に向かう 義経 一行の足跡も辿るのも良い。前回の訪問では義経橋や常盤明神を探して道に迷ってしまった。散策の根拠地として資料の完備した道の駅 宇陀路大宇陀(別窓)の存在が力になってくれる。
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3世紀半ばまで存在した邪馬台国が九州か出雲か畿内かは別にして、4世紀から5世紀前半にかけて畿内に強大な王権(大王、後の天皇家)が誕生したのは間違いない。これが土着権力の発展か畿外からの侵略者かは諸説あるが、熊野から宇陀を征服して大和(橿原か桜井か明日香か)に入った軍団が経由地に痕跡を残し、その500年後に 後白河法皇 を初めとする天皇家の面々が先祖の事跡を訪ねて熊野詣を催した、と空想するのも面白い。
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宇賀神社の地図は こちら で 地番は宇陀市菟田野(うたの)宇賀志1096(旧・宇陀郡菟田野町)、続いて 明日香村を歩き回った記録(別窓)も参考に。

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右:熊野三山を巡る主なルート    画像をクリック→ 拡大表示
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政子 が上洛した名目上の目的は従二位への叙位と熊野参詣だが、本心は跡継ぎのいない将軍 実朝 の 後継に 後鳥羽上皇 の皇子を迎える瀬踏みがあったと思われる。2月4日に 泰時 を伴って鎌倉を発ち4月29日まで畿内に滞在しているがその間の行動は記録になく、目的から考えてオフレコだったらしい。「諸寺参拝の予定を中止」したのは必要な根回しなどが済んだからで、この辺は合理主義者 政子の性格を髣髴とさせる。
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また、ほぼ同時期の2月10日に大江廣元 が波多野朝定を朝廷に派遣している。当初は右大将への任官を求めた実朝が「必ず左大将を求めよ」と命令を変更しており、その要望を朝廷に伝えるための使者である。
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  ※近衛大将: 常設武官としての最高位で、大納言よりも上位。左右に各一名が置かれ、左が正(上位)。
実朝は右大将だった父 頼朝 を越える左大将を望んだが、3月16日に「先例に倣って先ず右大将に」と決している。12月2日には九条良輔の死没に伴い武家として初となる右大臣に就任し、翌年1月27日にその昇進を神仏に謝す鶴岡八幡宮拝賀の夜を迎える。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 1月7日(4月12日 】  承久の乱と無関係だけど、ちょっと気になったので...
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戌の刻(夜8時前後)、御所近くが火災。前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)邸など40棟余が焼けた。
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  ※入道覺阿邸: 大江廣元邸は当時の大倉御所の西1.6kmの十二所(大江廣元の墓の末尾を参照)だから大倉の火災で類焼する筈はないのだが、
鎌倉時代には現在の十二所の一部までが大倉に含まれていた。厳密なエリアはいずれ調べてみたい。
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同年1月27日、三代将軍実朝が八幡宮で斬殺された(詳細は その六 実朝暗殺 で)。鎌倉将軍は不在となって世情は落ち着かず、政子は 後鳥羽上皇 の子を将軍に迎えたいと上奏する。しかし朝廷の復権と鎌倉の権威失墜を宿願とする上皇が、鎌倉の地位を高める皇子の下向を認める筈はない。
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愚管抄は 「上皇は日本国を二つに分けるような事はあり得ぬとした。周囲は摂政関白 九条道家 の息子なら頼朝の妹の孫だから適材適所だと考え、院近臣の藤原忠綱を鎌倉に派遣した」 と書いている。同時に上皇は鎌倉の混乱を好機と捉え、在京御家人を朝廷の兵力に加わるべく働きかけを始めていた。
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  ※頼朝の妹の孫: 頼朝と同じく、義朝と正妻(熱田大宮司 藤原季範娘)の間に産まれた妹(姉説あり)が坊門姫。彼女が 一条能保 に嫁して産んだ娘の一人が
九条道家 と立子(順徳天皇の中宮)を産み、もう一人の娘が 西園寺公経 に嫁して西園寺実氏と倫子を産んだ。そして九条道家と倫子 (従兄妹) が結婚して産まれたのが三寅(道家の三男、寅年・寅日・寅刻に誕生)、後の鎌倉四代将軍 藤原頼経 となる。
かなり入り組んだ血縁関係なので、「源氏の系図」の義朝の末子 義経の下部分を参照。

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左:国宝 後鳥羽院像(伝・藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)   画像をクリック→ 拡大表示
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政子上洛の三年後、承久の乱で惨敗した 後鳥羽上皇 は隠岐に流される直前に信実を呼んで御影を描かせた。
実際にモデルを見ながらの作品だから(時代の流行などによって多少のデフォルメは避けられないが)神護寺に伝わっている 頼朝絵像(別窓) や他の木像などに較べれば写実的な筈で、実像に近いと考えるべきか。
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   ※藤原信実: 鎌倉時代前期から中期の藤原北家の公家 (正四位下) で和歌と似絵 (肖像画) を得意とした。長く神護寺の
頼朝絵像の作者とされていた 藤原隆信 (wiki) の嫡男で、一項目下に載せてある随身庭騎絵巻(部分)も信実の作品である。水無瀬神宮(紹介サイト)は石清水八幡宮から見て淀川の対岸にあった 後鳥羽上皇 の離宮跡に遺勅により建てられた。後鳥羽・土御門・順徳天皇を祀っている。
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 【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月13日 】  
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寅刻(早暁4時前後)に信濃前司 二階堂行光 が上洛の途に就いた。六條宮あるいは冷泉宮が関東の将軍として下向されるのを望む二位尼 政子 の使節である。宿老御家人と連署の願状も携えている。
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    ※六條宮と冷泉宮: 共に 後鳥羽上皇 の皇子で、六條宮雅成親王(19歳)は生母が修明門院(藤原重子)だから順徳天皇の同母弟にあたる。
冷泉宮頼仁親王(18歳)の生母は内大臣 坊門信清 の娘。二人のどちらかが鎌倉将軍として下向していたら面白かったのだが...承久の乱終結後に二人の皇子は首謀者だった父・後鳥羽に連座となり、雅成親王は但馬国城崎郡高屋(兵庫県豊岡市)へ、頼仁親王は備前国児島(岡山県倉敷市の南東)に流された。ここから「南朝の忠臣 児島高徳は頼仁親王の後胤説」が発生している。
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【吾妻鏡 建保七年(1219) 閏(翌月)2月12日と13日】
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二階堂行光 の使者が鎌倉に到着。宮家から下向の件は一日に天子に届き院で協議、両宮家のどちらかを選ぶことになるだろうが時間が必要との旨が四日に下された、鎌倉に戻るべきか否かと。使者は「宮家下向の件は早急の認可を奏聞せよ」との指示を受け、翌日京に折り返した。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 3月9日 】  鎌倉の意向を確認した 後鳥羽上皇 は本格的な交渉を開始、皇子下向の交換条件を提示。
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院の近臣藤原忠綱が使者として政子邸に入り、実朝 死去について弔問。続いて 北條義時 に面会し摂津国の長江庄と倉橋庄(ともに大阪府だが正確な場所は不確定)の地頭廃止などを申し入れた。
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  ※地頭廃止など: 後鳥羽上皇 が親王下向の交換条件に提示した荘園二ヶ所は上皇の愛妾亀菊の所領で、地頭は鎌倉党の長江義景説あり。
以前から地頭とトラブルが起こしていた愛人がらみの要求で、地頭制度を一部でも撤廃させれば朝廷側の成果は大きいが、鎌倉幕府にとっては政策の根幹に関わる問題なので歩み寄りの余地はなく、義時は即座に拒否した。
忠綱は更に幕府に無断で北面の武士に任じた御家人仁科盛遠の所領没収処分の撤回を求めたが、義時はこれも拒否。両者の対立は深刻さを増し、義時は弟の 時房に千騎の兵を与え京に派遣して恫喝外交を試みるが朝廷側は屈せず、強硬に突っぱねる。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月15日 】  
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午後4時過ぎに駿河国の飛脚が報告。阿野時元が去る11日に兵を率いて深山に砦を構えた。宣旨を願い出て東国を支配する企てである、と。
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  ※阿野時元追討: 実朝暗殺直後の2月15日、北條時政 に近い存在として、建仁三年(1203)6月に 頼家 に追討された 阿野全成頼朝の異母弟)の
嫡子(四男)時元が謀反の嫌疑で鎌倉の討手を受け、23日に自殺している。実際に謀反だったとは考えにくいが、時元は 義朝の孫(母は時政の娘 阿波局)に当るため、次期将軍に担ぎ出される可能性を 義時 が排除したのだろう。
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ただし、事件が起きたタイミングから考えて(一応は源氏の直系だから)鎌倉の混乱に乗じた朝廷の働き掛けがあった可能性は考えられる。
時元が隠棲していた阿野荘についての詳細は 阿野全成の菩提寺 士詠山大泉寺 (別窓)で。
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随身庭騎絵巻
画風を表す参考資料として、藤原信実 が描いた随身庭騎絵巻(鎌倉時代)の一部(大倉集古館 蔵)を。
宝治元年(1247)の銘があるから、後鳥羽院の肖像を描いた28年後・71歳の作品になる。

騎手に比べると馬は間違いなく小柄、当時の馬体を如実に描いていたのかも知れないね。
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閑話休題。前述の通り私は「実朝暗殺の黒幕は義時+政子の合議」説で、義時は実朝を殺しても宮家を次期将軍に据えれば済むと考えたと思うが 後鳥羽上皇 が提案を拒否して挙兵を決行するとは想定外だったと思う。
後鳥羽が挙兵などせず、最後まで朝廷からの男子提供を拒否し続ければ面白かった筈だが...。
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皇族を将軍に迎える上奏を後鳥羽上皇に拒まれたため 九条道家 の息子で当時二歳の三寅が選ばれ6ヶ月後に鎌倉に入っている。三寅は嘉禄元年(1226)に8歳で元服して頼経を名乗り、翌年に宣下を受けて鎌倉幕府四代将軍に就いた。その間の都合七年間は政子が尼将軍として鎌倉殿の職務を代行している。
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どうせ親王下向は拒否して公卿の子を提示してくるだろうから、傀儡将軍に仕立て上げて幕政の北條独裁を強化しよう...そこまでが義時と政子の実朝暗殺計画に含まれていたのなら、これはかなり凄い遠謀深慮だけどね(笑)。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 7月19日 】  
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左大臣九条道家 の三男(二歳、母は西園寺公経 の娘。寅年・寅日・寅刻に産まれたため三寅)が関東に下向。政子が頼朝の功績継承のため申請し、6月3日に宣下を受けたものである。17日に院で馬や剣を賜わり25日に出発、今日の昼に鎌倉の義時邸(御所の南側に新造)に到着した。
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三寅が鎌倉に入ってから順徳天皇が譲位する承久三年(1221)4月29日までの約21ヶ月、吾妻鏡の記事は一ヶ月で平均2.3件と異様に少なく、しかも特筆するような記載は皆無である。嵐の前の静けさを意味するのか、それとも朝廷と鎌倉が互いに神経戦を展開していたのだろうか。

 
左:順徳天皇像(伝 藤原為信筆 鎌倉時代後期・宮内庁蔵)  画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 承久三年(1221) 4月29日】
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京都からの使者が大官令禅門(大江廣元)の許に到着した。去る20日に順徳天皇が突然退位し、四歳の仲恭が着位したとの報告である。
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  ※突然の譲位: 第84代 順徳天皇 (当時24歳、 wiki) は父・後鳥羽の影響を強く受けた対鎌倉主戦論者。
天皇の地位から離れ 後鳥羽上皇 が主導する倒幕運動(結果として、承久の乱)にフリーな立場で参加する下準備である。
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第83代の帝だった土御門上皇(順徳の異母兄、父は共に土御門)は温和な性格から15歳で退位(1210年末)を強いられ、13歳の順徳が着位となった。承久の乱勃発の際は後鳥羽38歳、土御門26歳、順徳24歳(満年齢)だった。
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乱の勃発は6月とされるが、後鳥羽上皇が幕府執権の 北條義時 追討の宣旨を発して在京の武士を招集した5月初旬から上皇三人が流刑となった7月中旬まで、僅か二ヶ月半の争乱だった。
【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月19日 】
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正午、在京御家人の 伊賀光季 が15日に派遣した飛脚が鎌倉に到着。報告に曰く、後鳥羽上皇 が官軍を召集し、大江(源)親廣は召しに応じて加わった。光季は 西園寺公経(鎌倉に協力的な公卿) から情報を得ていたので「支障あり」と返答したため、結果として勅勘を受けそうだ、と。
続いて未刻(14時前後)に三善長衡(行衡の子で公経の家司)が15日に派遣した飛脚が到着。公経が拘留され、伊賀光季が殺された旨を報告した。
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  ※伊賀光季: 後に謀反を計画した冤罪で残った一族が失脚・流刑の憂き目に会う。光季は 義時 の正室(後妻の 伊賀の方の兄弟。大江親廣と並んで
京都守護職だった。後鳥羽上皇が発した召集勅命を二度に亘って拒否し、高辻京極(現在の下京区恵美須之町・地図)の館を官兵に襲われ、二男の光綱と共に奮戦の末に自害した。
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  ※大江親廣: 大江廣元 の長男で生母は多田仁綱(源満仲の弟・満成の長男)の娘、妻は 北條義時 の娘。同じ京都守護職の伊賀光季は後鳥羽の勅命を拒んで
討伐され、親廣は召しに応じて官軍に加わり近江で幕府軍と戦火を交えている。
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吾妻鏡の6月14日の条に 「夜になって親廣・秀康・盛綱・胤義ら朝廷側の武士は守備陣を放棄して京に戻り三條河原で野営、親廣は関寺(逢坂の関があった大津長安寺付近・地図)の辺りに落ち延びた。」 との記載がある。
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その後は姿を隠し、父から相続した出羽国寒河江荘(出羽国村山郡(地図)の一帯、摂関家の荘園)に逃れて潜伏し、後に廣元の懇請により罪を許された。一族は親廣-廣時-政廣-元顕と続き、元顕の時代に出羽に土着して寒河江氏の祖となった。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月19日の続き 】
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朝廷は藤原光親(院の寵臣で権中納言正二位)を通じて右京兆義時追討の宣旨を下しており、関東に下った宣旨の使者を介して内容が判明した。宣旨には大監物光行(源光行)の副え状と東国武士の名簿が含まれていた。また 三浦義村 の許には 三浦胤義(義村の弟)の私書が到着、「勅命に応じて義時を追討せよ、勲功の褒賞は望み通り」とあった。義村は使者を追い返し書状を義時邸に届けた。弟の謀反に同調せず義時に忠節を尽す、と。
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  ※三浦胤義: 正室は頼家側妾だった 一品房昌寛 の娘。頼家 の四男 禅暁 の出産後に頼家が失脚・暗殺され、彼女は胤義に再嫁し胤義は禅暁の後見人となった。
三浦義村は 三代将軍 実朝 を八幡宮で殺した 公暁 の乳母夫なのに、執権義時の指示を受けて公暁殺害を命じた。
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実朝の死後に胤義と妻は頼家の遺児禅暁の四代将軍擁立を望んだが、禅暁も公暁の野望に与した嫌疑(事実無根だろう)で殺され、九条道家の子息・三寅(後の将軍 藤原頼経)が擁立される結果となった。
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胤義が鎌倉を裏切って 後鳥羽上皇 に味方したのは、これらの経緯が影響した可能性が高い。更に胤義は義村を「尾篭(おろか、不潔)の者」と呼んでいたように、当主義村も嫡子の 泰村 も一族を正しく統率できる器ではなく、26年後の宝治合戦で三浦嫡流が滅亡する最初の伏線が胤義の離反、更に古くは 和田義盛 の離反だった、とも言える。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月19日の続き 】  
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その後に陰陽師の親職・泰貞・宣賢・晴吉らを呼び、最初に飛脚が到着した正午を基準に関東の安泰を祈って卜占を行なった。
義時泰時時房大江廣元 らが居並び、集まった御家人を前にした二位尼 政子安達景盛 を介して御家人を説得し鼓舞した。
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「これは私の最期の言葉だから心を一つにして聞いて欲しい。頼朝 将軍が朝敵の平家を滅ぼし関東に政権を樹立して以降、官位に於いても所領に於いても受けた恩は山よりも高く海よりも深い。この恩に報いる志はないのか。逆臣の言葉により理屈に合わない綸旨が下された。名誉を重んじる者は 藤原秀康(院の武士で乱の首魁と目された)や 三浦胤義 を討ち三代の恩に報いよ。院に加わる者はこの場で申し出るが良い。」と。
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  ※政子の演説: 承久記や六代勝事記など多くが「心に響く大演説」と賞賛している。景盛が代読したのに「政子が御家人を説得」とするのは変だし、この時期に
東国武士団が皇室の権威を恐れて出兵を躊躇したとは考えにくい。天皇や上皇に反抗して幽閉するのは 平清盛木曽義仲 の時代に実施済み。「院に加わる」って言ったらその場で弄り殺しだろうし、「これは私の最期の言葉だから」なんて嘘、貞応三年 (1224) の 伊賀氏の変 でも被害者妄想に執りつかれて無実の御家人を流罪にしてるし。
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それは兎も角として、勅命に従って既得権を失うのか朝廷と戦って領地を守るか、二者択一を迫られたら結論は決まっている。後鳥羽上皇 が東国武士の価値観が変化した事を読み誤まったのがミスで、政子の演説の有無に関係なく挙兵は決まっていたと思う。
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出典は承久記だったかな...朝廷に兵を向けるのを躊躇う 足利義氏千葉胤綱宇都宮泰綱 ら幕府中枢の御家人を大演説で説き伏せた政子が黄金造りの太刀を与える場面があった。義氏に与えたその一振りこそ 頼朝が遺した源氏の重宝「鬚切」で、足利家の家宝として今も古刹 鑁阿寺(別窓)に保存されている、なんて噂まである。これが事実なら本当に面白いのだけれど。

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右:後白河法皇像(藤原為信筆、鎌倉時代末期 宮内庁蔵)   画像をクリック→ 拡大表示
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吾妻鏡は「朝廷に弓を引くのを躊躇う東国御家人」 と 「頼朝の実績を強調して「御恩と奉公」の価値を説く政子と義時」の対峙を表現しているが、治承三年(1179)には 清盛後白河法皇 を幽閉し39名の院近臣を解任するクーデターを決行しているし、保元&平治の兵乱でも天皇や上皇の御所を攻撃あるいは放火している。
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武士が院宣に従わず朝廷に刃向かうのは始めての事例ではないし、朝廷がそれらを鎮圧できたのは東国武士の力に依存した結果なのだから、朝廷の権威は既に半ば失われた。過去の栄光に拘泥して現実を認識できない、後鳥羽上皇の「お友達内閣」(笑)ならではの宿命である。
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承久の乱勃発の際に西面(後鳥羽が新設した直属の武家集団)の武士 庄家弘(武蔵国児玉党の武士で本庄氏の祖)は「おそらく鎌倉勢は万を越える。自分も本領に居れば義時に従った」と語って上皇を怒らせている。
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「院宣を発すれば諸国の御家人は朝敵の義時討伐に立ち上がる」と考えたのは明らかに後鳥羽の誤認で、東国では朝廷と幕府の権威が逆転しつつある現実を理解していなかった。東国の武士は平家追討と奥州合戦の功績で多くの所領を得た。
今回も、彼らは後鳥羽院とその近臣が持つ膨大な所領を「恩賞」として期待する。東国武士団は計算高くて貪欲なのだ。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月19日の続き 】
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集まった御家人はこの言葉を聞いて涙を流し、ただ命を賭して恩に報いようと思った。彼らが勅命に背く決意をした契機は「将軍頼朝が御家人の勲功に対して与えた褒賞を理由なしには変更しない」と拒んだ義時の態度にある。後鳥羽上皇 が寵姫の舞女亀菊に与えていた摂津国の長江庄と倉橋庄の地頭更迭を要求した申し入れを、義時は二度も拒否した。これも御家人の信頼を得た大きな理由だ、と。
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  ※守護と地頭: 平安時代後期の国司が治安維持に任命した守護人が原型とされる。平家滅亡の文治元年(1185)から対立を深めた 義経行家
追捕するため、各国に惣追捕使と国地頭を置くシステム(建策は大江廣元)が 後白河法皇 に許可され、官領と荘園の田一段(360坪)当り5升の米の徴収権と、在庁官人を指揮する権利が制度として定着した。
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当時の米の収量は反(段)当り一石(100升)前後らしいから5%程度に相当する。守護は国単位、地頭は荘園や官領単位ごとに任命されたが、承久の乱以前は朝廷の影響力が強く、特に西国では朝廷や寺社が干渉する例が頻発していた。承久以後は朝廷の権威低下に伴って制度が定着し、同時に地頭の専横も明らかに増加している。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月19日の続き 】
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夕暮れが近くなり、執権 北條義時 邸で武蔵守 北條泰時、相模守 北條時房、前大膳大夫入道(大江廣元)、駿河前司(三浦義村)、城介入道覺地(安達景盛) らが評議を重ねた。意見は様々で、足柄と箱根の関を固めて防衛線を構えようとの考えもあった。
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廣元は「関を守って日が過ぎれば敗北の原因になる、運を天に任せて軍兵を京に派遣すべきである」と述べた。政子は「上洛しなければ官軍を破るのは困難だ。安保刑部丞實光ら武蔵国の兵力集結を待ち速やかに上洛すべきである。」と語り、更に 「今日、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽など諸国の御家人に飛脚を送った。京から坂東を攻める情報があり、時房・泰時は兵を整えて出陣する所である、北陸道方面には式部丞(北條時章)を派遣した。御家人はそれぞれ一族を取り纏めて合流せよ。」との内容である、と。
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  ※安保實光: 秩父七党の一つ丹党に属する安保氏の祖で当時は推定80歳、歴戦の古武士。6月14日の宇治川渡河合戦で溺死している。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月21日 】  
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午の刻(正午前後)、16日に京を発った 一条頼氏信能の甥、妻は時房の娘)が鎌倉の政子邸に入った。「一条信能(院の近臣で従三位・参議、承久の乱首謀者の一人)ら多くが院に集まったが、私は旧好を忘れず鎌倉に駆け付けた。」と。
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政子は喜び、京の情勢を訊ねた。頼氏は「先月から京は落ち着きを見せず、院は14日に 大江親廣を召した。更に右幕下(鎌倉方の公家・藤原公経)父子を拘留した。15日には官軍が集結し1700余騎が高陽院殿(後鳥羽上皇院政の拠点)の門を警護、次いで土御門院・六條宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)もそれぞれ密かに高陽院殿に入った。
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同日に 大内惟信、山城守 佐々木広綱三浦胤義 ・ 佐々木高重(経高 の嫡子) らが勅命を受け、800余騎を率いて 伊賀光季 の高辻京極邸(五条大橋の北西、鍋屋町一帯)で合戦し光季と子息の寿王冠者・光綱は火を放って自害、火災は1.6km北の姉小路東洞院まで広がった(地図)。
申の刻(16時前後)上皇は摂政を従えて高陽院殿に行幸、近衛将(近衛府の長官)左右2人と公卿少々と賢所(神鏡の保管所)も同道した。」と。

 
左:京都 後鳥羽上皇が拠点を置いた高陽院   画像をクリック→ 拡大表示
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 ※高陽院殿: 読みは「かやいん」、元は関白藤原頼通(平安中期の公卿、道長の嫡男)の邸宅で内裏の東南側にあり、
約250m四方の広大な敷地だったと伝わる。頼通は高陽院殿を拠点として長期政権を続け、宇治平等院に隠居した後の所有者は転々としたが里内裏の機能を保ち続けた。
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左画像は頼通が関白太政大臣に任じていた万寿元年(1024)に第67代一条天皇(中宮は頼通の実姉 彰子)を招いて開催した「駒競行幸絵巻」(重文・鎌倉時代)の一部。
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高陽院の位置図邸内の配置図 も参考に。平安京の内裏は数回の火災を経た後に安貞元年(1227)に全焼したまま再建されなかった。現在の京都御所は南北朝時代の里内裏だった土御門東洞院殿の土地を継続転用し、安政二年(1855)に再建されたもの。
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現在は 内裏内郭回廊跡大極殿跡豊楽殿跡 などがフェンスに囲まれた空き地として残っているだけ。内裏の詳細図は 京都歴史散策(外部サイト) を参考に。

右:上京区小山町の大極殿旧蹟 小さな公園に石檀と石碑が残るのみ。 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月21日の続き 】
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鎌倉では続いて評議が行われ、本領から離れて官軍と戦い成り行きで上洛するのは如何なものかとの異議が呈された。大江廣元 は「上洛を目指す決定をしたのに日が過ぎると共に異論が出る。武蔵国の軍勢集結を待つなど愚策であり、日が過ぎれば武蔵国にも変心する輩が必ず現れる。武州 (泰時) がただ一人であっても今夜中に鞭を揚げれば(出陣すれば)将兵は雲が龍に従うように動く。」と。義時もこの言葉に納得した。
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泰時 は病床の 三善善信 を招き意見を求めた。善信は「関東の安否は今であり、論議を重ねるのは凡愚の仕儀、日を重ねるのは怠慢である。大将軍は一人でもまず出陣すべきだ」と。我が意を得た義時は 泰時に出陣を命じ、泰時は屋敷を出て藤沢清近(清親 の稲瀬河宅に宿泊した。
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  ※変心する輩: 秩父平氏は北條氏による粛清を受け続けた。文治元年(1185)の 義経 謀反に伴う河越重頼 の追討や元久二年(1205)の 畠山重忠滅亡
に伴う 榛谷重朝稲毛重成 一族の追討が代表的な例で、北條氏は武蔵国の武士団を「変心の可能性がある内部の敵」と見ていたらしい。
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国司の代理職である武蔵国留守所総検校職(本来は軍事徴兵権を伴う)の地位は河越重頼の粛清後は畠山重忠に移り、重忠以後は空席になった。重頼の嫡子重房と二男重時は承久の乱で功績を挙げて地位をやや回復したが、復活した総検校職(既に名誉職に近い)は彼らではなく三男の重員に与えられた。河越一族の分割統治政策だろう。
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  ※善信・清近: 善信は 三善康信(81歳)を差す。朝廷で太政官の書記を務めた元下級貴族で、母が 頼朝 の乳母の妹(人物は未確定)。治承四年の挙兵前から
挙兵前から京の情勢を頼朝に知らせるなど大きく貢献した。元暦元年(1184)に鎌倉に招かれ問注所執事(裁判所長官)を務め、頼朝没後は 頼家 を抑制する13人合議制の一人として幕政に参加した。承久の乱が終結した直後の8月9日に老衰で死没した 。
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藤沢清近は剛力で知られた武士。上野国芳賀郷(現在の栃木県真岡市周辺)を領有した武士。特に泰時と縁があった形跡は見られず、たまたま出陣する方向に屋敷があったという事か(泰時の進軍は東海道、ルートは極楽寺坂か、大仏切通しか)。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月21日の続き 】
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卯の刻(朝6時前後)に 北條泰時 が京に向かって出発した。従うのは18騎、子息の 北條時氏、弟の六郎 有時、北條五郎 北條實泰(義時六男)、尾藤毛綱(従者二人) その他である。義時、は彼らを屋敷に招いて兵具を与えた。続いて相州 時房、前武州 足利義氏、駿河前司 三浦義村、同次郎 泰村)らが出陣。
北條朝時(義時の二男)は北陸の大将軍として出陣した。
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  ※泰時の行動: 増鏡(南北朝時代に成立した歴史物語)は次のように書いている。
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泰時は途中で鎌倉に戻り、帝が自ら出陣した場合の対応を尋ね、義時は次のように答えた。
「帝に弓は引けぬ、武装を解除して降伏せよ。官軍が兵だけなら力の限り戦え」と指示した。

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捏造の多い吾妻鏡にさえ同様の記載は見られず、天皇家が分裂して争った南北朝時代の政情から派生した脚色と考えられる。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月23日 】
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右京兆義時、前大膳大夫入道覺阿廣元、駿河入道中原季時)、大夫屬入道三善康信、隠岐入道二階堂行村、壱 岐入道佐々木義清、筑後入道(八田知家、民部大夫二階堂行盛、加藤大夫判官入道加藤景廉、左衛門尉小山朝政、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)、隠岐左衛門入道行阿(葛西清重)、善隼人入道(三善康清)、大井入道(不明)、中條右衛門尉(中条家長) ら宿老は上洛の軍に加わらない。鎌倉に留まって祈祷や後方支援に努める、と。
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  ※八田知家: 家系図は建保六年(1218)に79歳で死没としているが筑後入道=八田知家なのは間違いないけれど吾妻鏡の正誤は判らない。鎌倉の留守役
は二階堂行盛(40歳)と宇都宮頼綱(49歳)を除くと加藤景廉の65歳~三善康信の81歳、いずれも老齢の古参御家人である。

右:東海道・東山道・北陸道の進軍ルートと国府の位置   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月25日 】
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22日から今朝までに主な御家人は悉く京に向った。義時は詳細の姓名を記録し、東海・東山・北陸の三道に別れて進むよう定めた。総勢は19万騎である。
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東海道の大将軍は相州時房、武州泰時 と嫡子の 時氏、武蔵前司足利義氏千葉介胤綱、駿河前司三浦義村 らで従兵は十万余騎。
東山道の大将軍は武田五郎信光小笠原次郎長清小山左衛門尉朝長、左衛門尉結城朝光 で従兵は五万余騎。
北陸道の大将軍は式部丞北條朝時結城七郎朝廣佐々木(加地)太郎信實盛綱の嫡男)で従兵は四万余騎。
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夕刻に泰時は駿河国に入った。義時の命令に背いてこの国に蟄居中の安東兵衛尉忠家は泰時上洛を聞き馬で駆け付けた。泰時は蟄居中の同道は妥当に非ずと言ったが忠家は「それは通常の場合で、命を捨てる覚悟で出発した以上は鎌倉に報告されても支障なし」と、遂に軍陣に加わった。
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  ※大将軍: 原文は複数の大将軍を並列に書いているため、文頭の時房や義村や信光が総指揮官という組織ではない、らしい。
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  ※武田信光: 父と兄弟を裏切って甲斐源氏の家督を得た信光は応保二年(1162)生れで既に60歳、隠居は更に18年後の延応元年(1239)。
三浦一族が滅亡した宝治合戦の翌・二年(1241)に89歳で没している。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月26日 】
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泰時は手越の駅(安倍川西岸)に到着。春日刑部三郎貞幸(信濃の名族滋野氏の傍流)が信濃国から参陣した。武田信光・小笠原長清軍に合流する命令だったが、約束があると称して泰時軍に加わった、と。夜になり、去る19日に墨俣を固めている官軍の 藤原秀澄が飛脚を京に送り報告。鎌倉軍は官軍を破るため既に上洛の途上にあり、その数は膨大で神仏の加護がなければ防げない、と。朝廷は徐々に混乱を深めた。
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  ※墨俣: 木曽三川(西から揖斐川、長良川(墨俣川)、木曽川)が4~8km間隔で南北に流れる東海道の要所。治承五年(1181)には 頼朝 の叔父である
十郎行家 と異母弟の 義円 の連合軍が 平重衡 率いる平家軍に惨敗し義円が戦死した 墨俣川合戦(別窓)や、340年後の永禄九年(1566)に木下藤吉郎が一夜城を築いた事で知られる。ただし一夜城の方は伝承に過ぎないらしい。
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  ※藤原秀澄: 藤原北家流、藤原秀郷 の子孫・藤原秀宗の三男。兄弟三人とも院に仕え、長兄の 秀康 は下野・河内・備前・能登の国司を歴任した。
三浦胤義 を計画に加えたのが長兄の秀康で、次兄の秀能は乱の終結後に出家して罪を減じられ 後鳥羽上皇 に従って隠岐に同行した。
末弟の秀澄は大将軍として墨俣に布陣していた。 軍陣に加わっていた 山田重忠は「兵を集結させ尾張国府を急襲して突破し、手薄になっている鎌倉を攻めるべし」と進言したが、既に臆病風に吹かれていた秀澄は決断できず、惨敗して京に逃げ帰った。
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武士の面目を重んじた山田重忠は手勢の300騎で児玉党の3000騎を迎撃、杭瀬川で散々に戦って100騎ほどを討ち取った後に京に退いた。後に鎌倉軍が入京した際に山田重忠は最後の一戦を交えようと御所に駆けつけたが後鳥羽上皇は門を閉ざして答えず、重忠は「臆病者に騙された」と口惜しがった、と伝わる。
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  ※山田重忠: 清和源氏満政流の末裔で出自は尾張。父重満は治承五年 (1181) 4月の墨俣川で行家軍に加わり戦死している。鎌倉幕府創設後は御家人に列し
本領の尾張国山田荘(瀬戸市周辺)の地頭職を得た。一族は代々朝廷との関わりが強く、上皇挙兵と共に参戦した。

左:旧美濃国分寺と金銀山国分寺と東山道  画像をクリック→ 拡大表示
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※杭瀬川: 美濃国府跡の5km東、美濃国分寺跡から約3km東を南下して揖斐川に合流する。
上流には60年前の平治の乱で頼朝の兄 朝長が落命した 青墓円興寺(別窓)があり、朝長の死を悲しんだ異母妹の夜叉御前(父は義朝、母は青墓長者大炊兼遠の娘延寿)が入水した川でもある。
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青墓驛の正確な範囲は確定していないが、JR美濃赤坂駅付近から国分寺までの旧街道に沿ったエリア(地図)と推定されている。特に青墓の語源となった 昼飯大塚古墳 は多くの副葬品も出土し、見応えのある施設として観光にも大きく貢献している。
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吾妻鏡が実戦を記録しているのは6月6日で、「(秀澄の逃走後も)踏み止まった山田重忠は暫く戦ってから退却、共に戦った鏡右衛門尉久綱(佐々木定綱の孫)は「臆病秀康のため思った通りの合戦が出来なかった」と口惜しがって自刃している」、と。
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380年後の慶長五年9月、杭瀬川では関が原合戦の前哨戦があった。西軍の島左近(清興)が奇襲作戦によって東軍を撃破し、西軍唯一の勝利を挙げているのが面白い(古戦場の地図)。
【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月27日 】
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鎌倉に拘留していた勅使の押松を京に送り返した。判官代隆邦が宣旨に対する上請文を書き押松に渡した。また今日重ねて祈請があった。
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吾妻鏡は、なぜか上請文の詳細を記述していない。承久記(前田家本)に書いてある27日着の義時上奏文と押松の報告は次の通り。
なお、前田家本の成立は鎌倉時代後期、最も古い慈光寺本(鎌倉時代中期の成立)が元本と推定され、成立時期だけ考えると信頼性は高い。
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私(義時)は将軍後見を務め皇位を軽んじた事はないにも関わらず尊長と胤義の讒言により突然宣旨を下しての朝敵扱いは誠に不合理です。但し上皇は合戦を好み武勇を嗜まれる由、海道の大将に弟時房と嫡子泰時、副将軍に義氏・義村・胤綱など19万8百余騎を派遣しました。
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東山道から5万余騎、北陸道から次男朝時が4万余騎で合戦を御覧に入れます。なお不足ならば三男重時を先陣に、私が大将として馳せ参じます。老齢の古参御家人は鎌倉に残して関東勢の三分の一が急ぎ出発し、残りの三分の二は今日明日に出陣いたします。

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押松は6月1日酉の刻(18時前後)に高陽院殿の中庭に辿り着いた。上皇も公卿も「押松が何も言わぬのは疲れたのか、義時の首は誰が持参するのか」と口々に問いかけた。暫くして押松が言うには「5月19日に片瀬河から鎌倉に入り三浦義村に見せたら拘束され、軍勢の出立後の27日早朝に追い出されました。義時の言葉は上奏文の通りですが本隊は21日に鎌倉を出陣し、後続を待って上洛を目指す様です。
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私は軍勢から5日遅れて鎌倉を出ましたが大変な事態なので夜も走って軍勢を追い越して参上しました。鎌倉勢は百万騎もいるでしょうか、既に近江に入っているでしょう」と報告。上皇も公卿もみな顔色を変え魂を失った。
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  ※前田本: 加賀前田家傍流のーつで徳川幕府大名 尾張前田家に伝わる写本。他に源氏物語、定家の自筆、枕草子写本などを収蔵している。
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  ※尊長: 一條能保 の四男。延暦寺の僧から 後鳥羽上皇 に引き立てられて出世し側近として倒幕計画を首謀した一人。
明月記(藤原定家の日記)に拠れば、承久の乱が終わった6年後に捕縛され殺される前に「早く殺せ、さもなくば義時の妻が義時に飲ませた薬で早く殺せ。どうせ死ぬ身だ、嘘など言わん。」と言って六波羅探題の幹部を驚かせた、と伝わる。発言の真偽は不明。

右:付録、青墓の語源となった昼飯大塚古墳の鳥瞰図 画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月28日 】
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泰時軍は遠江国の天竜川に到着。増水していれば舟が必要だが今回は水量が極めて少ないため渡渉が可能だった。
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  ※防衛軍派遣: 鎌倉の大軍に怯えつつも、最低限の対策は欠かせない。後鳥羽上皇 は北面の武士
能登守藤原秀康 を総大将に任命して各地に防衛軍を派遣した。
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承久記に拠れば 東海道には藤原秀康の率いる7,000騎、東山道には蜂屋入道父子率いる5,000騎、北陸道には伊勢前司の率いる7,000騎 が防衛拠点に派遣された。こちらは三道併せて総勢19,326騎と、端数まで省略せずに記述している。
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兵力で上回る敵と戦うには一点集中で雌雄を決するのが原則なのだが、この状況では分散の愚策を犯すのが人の常、敗北は決定的になる。まぁ身も蓋もない言い方をすれば、鎌倉が出兵を決めた時点で勝敗の帰趨は明らかだったけど。滅亡の記録は常に悲しさを伴うのだが、後鳥羽上皇の末路には全く感じない。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月29日 】
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佐々木(加地)信實(佐々木五兄弟の三男 盛綱の子)が北陸道の大将軍 北條朝時 に従って進軍する途中、越後国加地庄願文山に籠る深匂八郎家賢(乱の首謀者・藤原信成の家人)率いる60余人を追討した。京を目指す大軍の情報が届き院は上下問わず大騒ぎになった。
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  ※加地庄願文山: 現在の新発田市・旧加治川村の金山城遺跡(地図)を差す。旅行の途中で立ち寄った 道の駅 加治川(別窓)から2km弱ほど離れた山城
なのだが、訪問した当時はそんな事とは露知らず だった...今にして思えば、無念!
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加地庄は北陸道進軍ルートの北限だった越後国府から160kmも北にある。なぜ寄り道したのかと思って調べてみた。
佐々木信實は承久の乱の功績で加地庄の地頭に任じるのだが、父の 盛綱 は既に加地氏を名乗っていた(尊卑分脈)。
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盛綱は建仁元年(1201)に越後鳥坂(胎内市・加地庄の10km北)で 城資盛 の乱を鎮圧しており、この時点で加地庄を占領し、管理権を得たのだろう。従って實盛による家賢追討は私権の絡む行動だった可能性が高い。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 5月30日 】
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相州泰時率いる軍は遠江国橋本駅に到着した。夜になって60余人の武士が軍の先頭に進出した。内田四郎を派遣して確認すると、院に仕える下総前司盛綱(小野成綱の子)の近親である筑井太郎高重が上洛を狙っていると判明したため、これを追討した。
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  ※橋本駅: 現在の湖西市新居町浜名の宿駅。東海道が浜名湖を越えた西側で、養和元年(1181)には守護職の 安田義定 が平家軍対策の防衛施設を設けた。
江戸時代には新居関所(公式サイト)が設けられている。
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  ※筑井高重: 現在の三浦市津久井(地図)を領有した武士。小野成綱 の郎党で 三浦義明 の弟・津久井義行の曾孫である。
下総前司盛綱は成綱の子で 後鳥羽上皇 の 命令を受けて京都守護の 伊賀光季 を追討した人物。

右:木曽川周辺の官軍の防衛拠点と尾張国府   画像をクリック→ 拡大表示
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6月6日、木曽川と長良川に防衛線を構築した官軍は鎌倉勢と初めて本格的に衝突して惨敗した。
恩賞を約束されて意気揚がる歴戦の関東武者は官軍の10倍、東海道・東山道・北陸道の三ルートを防ぐため兵力を分散せざるを得なかった官軍に勝利の可能性はほぼ皆無である。軍事力の差に加えて後鳥羽上皇側の甘い情勢判断と対応の稚拙さが壊滅的な敗北を招いてしまう。
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するってぇと北條得宗の独裁体制は安倍晋三か。知能程度は安倍の方が格段に低いけど。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月3日 】

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泰時軍が遠江国府に入ったとの飛脚が到着したため、朝廷側では公卿による協議が行われた。防衛のため官軍を各所に派遣する決定がなされ、それぞれ早朝に出陣した。
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北陸道は宮崎左衛門尉定範と糟屋右衛門尉有久と仁科次郎盛朝、東山道大井戸の渡は大夫判官 大内惟信 と筑後左衛門尉有長と糟屋四郎左衛門尉久季(有季の四男)、鵜沼の渡は美濃目代帯刀左衛門尉と神地蔵人入道、池瀬は朝日判官代と関左衛門尉と土岐判官代と関田太郎、摩免戸は能登守 藤原秀康 と山城守廣経と下総前司 佐々木盛綱 と 平判官 三浦胤義 と 佐々木判官高重と鏡右衛門尉久綱と安藝宗内左衛門尉、食渡は山田左衛門尉と臼井太郎入道、洲俣(墨俣)は河内判官 藤原秀澄山田次郎重忠、市脇は伊勢守 加藤光員らである。
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  ※遠江国府: 現在の磐田市中心部、天竜川の東岸。平安時代初期から国府があり、鎌倉時代には国衙と守護所が置かれていた。
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  ※防衛拠点: 大井戸の渡は美濃加茂市太田本町、鵜沼渡は各務原市鵜沼、池瀬は同・鵜沼大伊木、摩免戸は各務原市前渡東町、食渡は岐南町の
下印食、市脇は羽島市市之枝(?)。6月5日に鎌倉軍本隊は一宮で軍議を行っており、本陣は数km南の尾張国府(稲沢市松下)と考えて良い、だろう。木曽川から国府までは6kmほどだから、山田重忠が建策した国府奇襲作戦が官軍唯一の勝機だったかも知れない。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月5日 】 
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辰の刻(午前8時前後)、東海道を進む鎌倉軍は尾張国一宮に到着し軍議を開いて敵の拠点を攻める部隊を決めた。 鵜沼の渡は毛利蔵人大夫入道西阿(季光)、池瀬は武蔵前司足利義氏、板橋は狩野介入道宗茂、摩免戸は武州(北條泰時)、駿河前司(三浦義村)ら、洲俣は相州(北條時房)、城介入道(安達景盛)、豊嶋、足立、江戸、河越ら。
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夜、東山道を進んだ武田五郎信光 、嫡子小五郎信政、小笠原次郎長清 (父子八人)、新左衛門尉小山朝長 らが大井戸を渡って官軍と合戦した。官軍の大将軍惟信らは逃亡、部下の糟屋有長と弟の久季は負傷した。藤原秀康佐々木広綱三浦胤義らは防衛拠点を放棄して京へ逃げた。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月6日 】  
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早朝、武蔵太郎 北條時氏 と陸奥六郎北條有時 は軍を進め、少輔判官代佐房・阿曽沼次郎親綱・小鹿嶋橘左衛門尉公成・波多野中務次郎経朝・善右衛門太郎康知・安保刑部丞實光等を率いて摩免戸を渡った。官軍は抗戦も出来ず敗走し、山田次郎重忠 だけが残って伊佐三郎行政(北條有時の母方の従兄弟、伊達氏の一族)と戦った後に逃げた。
鏡右衛門尉久綱だけは後退せず、姓名を書いた旗を高台に立てて少輔判官代と戦った。久綱は「臆病者の能登守(藤原)秀康に従ったため思い通りの合戦が出来なかったのは無念」と述べた後に自殺した。武蔵太郎時氏は筵田に進み30数騎の官軍と戦った。矢戦を続けた後に先頭を進んだ 波多野五郎義重 は右目に矢を受けながらも返し矢を射た。官軍は逃げ去り、杭瀬河・洲俣・市脇の防衛地点は全て陥落した。
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  ※鏡久綱: 頼朝 の流人時代から仕えた佐々木四兄弟(父は秀義)の長兄 定綱 の次男。兄の 広綱 と共に西面の武士として官軍に加わり、敗戦後に広綱は斬首。
捕虜になった広綱の四男で若年だった勢多加丸は罪を許されたが、鎌倉方に属していた広綱の弟 信綱は勢多加丸の身柄を預かって殺害、結果として近江の佐々木氏本領の全てを相続した。
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久綱が鏡を名乗ったのは、鞍馬山を脱出した牛若丸が元服して義経を名乗った地 鏡の里(別窓) の鏡荘を領有した経緯による。
道の駅 竜王かがみの里(別窓)の裏手には居城 井上館の痕跡(地図)も残っている。

左:垂井宿から洛南までの合戦ポイント   画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 承久三年(1221) 6月7日】  
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相州泰時 と武州時房 ら東海道の指揮官と東山道を進んだ甲斐の指揮官は野上宿と垂井宿に入って軍議を開いた。
三浦義村 が「北陸道の軍勢が上洛するより前に東の軍を進めよう。勢多は相州(北條)泰時、手山は城介入道(安達景盛)と 武田五郎信光ら、宇治は武州(北條五郎)時房、芋洗は毛利入道(季光)、淀渡は左衛門尉(結城朝広)と義村が向かおう、と提案した。
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時房はこれを承諾、他の指揮官にも特に異論はなかった。駿河次郎(三浦泰村)は本来は父の義村に従って淀に向かうべきだが、時房に従っての進軍を望んだ。
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  ※垂井宿: 中仙道の宿駅で美濃国府が置かれていた。京に向って次の宿駅が3km西の野上宿、更に3km西は
慶長五年(1600)に天下を二分した合戦の舞台となった関が原宿に続く。
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  ※攻撃目標: 勢多は琵琶湖南端の瀬田、手山は供御(くご)の瀬と呼ぶ浅瀬で瀬田から5km上流の大戸川と瀬田川の合流点、宇治は平等院がある宇治川の
渡河地点、芋洗は伏見区宇治川南東の一口、淀渡は一口の南東5kmの淀・宇治・木津川の合流点。
勢多攻め以外の鎌倉軍は南に迂回して攻め上り、北陸道経由で進軍してくる 北條朝時 が到着する前に合戦を決着させようとする。
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  ※手山
琵琶湖周辺の水産物献上のために設けた御厨の一つで、瀬田川で数少ない浅瀬(供御の瀬)があったため軍事上の要衝だった(地図)。
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  ※一口 (芋洗): 三方が巨椋池に囲まれていたので一口、と。池は昭和初期までに埋め立てられて今は存在せず、なぜ「いもあらい」なのかも不明。
京に入る水上交通の入口だったため疫病や穢れ(穢瘡・えも)を落とす意味が転訛したと考える説が多い、らしい。
巨椋池も同様に、昭和初期の干拓事業によって完全に姿を消している(検索すると資料・画像など多数あり)。
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  ※平等院: 平安末期から三度の戦の舞台になった。最初は治承四年(1180)5月に挙兵した 三位頼政 が南都へ落ちる途中で自刃した合戦。
二度目は寿永三年(1184)1月に義経 率いる鎌倉軍が木曽義仲 軍を壊滅させた合戦(源平盛衰記が 佐々木高綱梶原景季 の宇治川先陣争いを描いている)、三度目がこの承久の乱。
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頼政の合戦は 「鎌倉時代...壱」の こちら、義仲討死についてはこちら、平等院の宝物については こちらで(いずれもサイト内リンク)。
2014年3月に大改修が終った鳳凰堂(この呼び名は江戸時代以後で、本来は阿弥陀堂)は藤原道長の子頼通が父の別荘 宇治殿を永承七年(1052)に寺に改宗して平等院と命名、翌・天喜元年(1053)に極楽浄土を模した阿弥陀堂を建立した。
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この阿弥陀堂を模したのが藤原基衡 が建てた平泉の毛越寺や 秀衡 が建てた無量光院、それに感銘を受けた 頼朝 が建てたのが二階堂の永福寺。これらはいずれも既に廃寺で痕跡が残るのみだが、何度も戦火に晒された鳳凰堂が960年を経て残っているのは驚異的だ。

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右:東岸から見た供御の瀬(大戸川と瀬田川の合流点)   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月8日 】
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寅の刻(午前4時前後)、藤原秀康 と有長(糟屋有季の嫡男)が負傷して京に撤退し、去る6日の摩免戸合戦で官軍が敗れた詳細を報告した。誰もが走り回るほど御所中が大騒ぎになり 忠信、定通、有雅、藤原範茂 ら公卿に仕えていた武士は宇治、勢多、田原などに出陣せよとの命令が下った。
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後鳥羽院は直垂に腹巻(胴を守る鎧)を着して比叡山に御幸、女房らは牛車で従った。土御門院、新院(乱の勃発2ヶ月前に退位した順徳天皇。佐渡配流後は佐渡院、建長元年(1249)の崩御した後は順徳院)、六條親王・冷泉親王(共に後鳥羽の子)らも共に騎馬である。
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まず専長法印の押小路河原宅(名を泉房と)に入り防戦の軍議を開いた。夕刻後鳥羽院は内府・定輔・親兼・信成・隆親・尊長ら(甲冑を着す)を従えて比叡山に登り西坂本梶井御所に入御。両親王は十禅師(比叡山々麓の鎮守神 日吉山王七社権現の一つ)に入御し、西園寺公経 父子はまるで囚人のように扱われて同行した。
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  ※糟屋有季: 相模国糟屋荘の庄司だった武士。比企能員 の娘を妻に迎えていたため能員に味方し、愚管抄(慈円)の著した史書)に拠れば、放火された比企館
頼家 の嫡子 から一幡 を逃がすべく奮戦、彼の命を惜しんだ攻め手が勧めた投降も拒否して戦死した。子の有久・有長・久季 三兄弟は東国から逃れて 一条高能 の側室になっていた姉妹を頼って上洛し 後鳥羽上皇 に仕えていた。これは彼らから聞いた話を慈円が書き残したものである。
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  ※梶井御所: 元々は比叡山にあった古い僧坊が坂本に下り「梶井門跡、梶井御所」と呼ばれていた。その後に移転を重ね、明治四年(1871)に大原に戻って
古い阿弥陀堂(往生極楽院)を吸収合併し 三千院(公式サイト)の原型となった。三千院の名は明治初期以後の名称、それまでの正式名は「円融房」だったらしい。これは、知らなかった!
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  ※西園寺公経: 正二位 内大臣として76代近衛天皇から83代土御門天皇まで八朝に仕えた公卿 藤原実宗の子で正一位 太政大臣に昇り西園寺家の祖となった。
池禅尼の子 平頼盛 の曾孫で、更に 頼朝 の妹 坊門姫一条能保 の間に産まれた全子を妻とした事などから鎌倉幕府と親しく、外孫の 藤原頼経 を四代将軍として下向させる動きも主導していた。当然ながら後鳥羽上皇にとっては不愉快な存在である。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月8日の続き 】
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今日 北條朝時結城七郎朝光加地(佐々木)太郎信実 らは越後国小国源兵衛三郎頼継・金津蔵人資義・小野蔵人時信らを従えて京に向う途中の越中国般若野庄で宣旨を受け取り、佐々木次郎實秀(信実の二男)が軍陣でこれを読んだ。「勅旨に応じて義時を討て」との内容である。
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その後に宮崎左衛門尉・糟屋乙石左衛門尉・仁科次郎・友野右馬允らが在国の武士を従えた官軍と遭遇し合戦。結城七郎が武功を挙げ、(官軍の)乙石左衛門尉(有長)が討ち死にした。官軍は敗北し、加賀国住人林次郎・石黒三郎が降伏して李部と朝廣の陣に出頭した。この日、時房は野上に留まった。
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  ※般若野: 富山県高岡市の庄川中流。寿永二年(1183)5月に北陸を進んだ 義仲 の本隊がここで 今井兼平 の部隊と合流し倶利伽羅峠に進んだ。
義仲主従が喉を潤した名水 弓の清水(富山県のサイト)で知られている(地図)。
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この日の戌の刻(午後8時前後)に 義時 邸の風呂場に落雷があり、下男が一人死んだ。義時はひどく怯えて大官令禅門 大江廣元 を招き、「泰時 らの上洛は朝廷の乱れを糺すのが目的なのに怪異が起きた。運が衰退する兆しだろうか」と尋ねた。
廣元は「君臣の運命は天が司る。今回の行動の結果も是非も天の決断次第だから、恐れても意味が無い。更に、これは関東にとって吉兆でもある。文治五年に将軍頼朝が奥州を征した際にも軍陣に落雷があった。先例は明らかだが占うのも良いだろう。」と。親職・泰貞・宣賢らがこれを占い、同様に吉例の結果を得た。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月9日 】
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坂本の 後鳥羽院 は「ひとえに叡山の力が頼りである」と願ったが、衆徒の力では関東の軍事力に対抗し兼ねるとの上奏が届いた。高陽院殿への還御を検討中に 義時 が討たれた噂が流れ人々は暫く喜んだ。院は拘留中の 西園寺(藤原)公経 父子の斬罪を考えたが反対意見もあり、中止した。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月10日 】
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後鳥羽院と親王は牛車で高陽院殿に還御。藤原(西園寺)公経父子は勅勘を解かれた。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月12日 】
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再び官軍を各所に派遣した。三穂崎には美濃堅者観厳の一千騎(高島市安曇川の三尾崎か、北陸道を警戒したか・地図)、勢多(瀬田の唐橋・地図 には山田次郎と伊藤左衛門尉と山僧の三千余騎、食渡は前民部少輔入道(基成)と能登守(藤原 秀康)と下総前司と平判官の二千余騎、鵜飼瀬(平等院の対岸 (地図)には長瀬判官代と河内判官の一千余騎、宇治(宇治橋を差すか?)には二位兵衛督と甲斐宰相中将と右衛門権佐(朝俊)と伊勢前司(清定)と山城守と佐々木判官と小松法印の二万余騎、真木嶋(宇治橋の下流1km (地図)には足立源三左衛門尉、芋洗(上記・吾妻鏡の6月7日を参照)には一條宰相中将信能と二位法印、淀渡(高槻市南部・地図)には坊門大納言、である。
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今日、相州泰時と武州時房は野路の辺りで休息した。幸嶋四郎行時(下河邊)は小山新左衛門尉朝長ら親類と共に京を目指していたが、日頃からの希望によって野路の駅に駆け付け時房の陣に加わった。ちょうど酒宴の最中で、時房は行時を見て感激して盃を与え、太郎時氏に乗馬(黒)を引かせた。また同行した郎従や小舎童に至るまで呼び寄せて食事を与えた。この好意を見て彼らは更に勇気付けられた。

左:広重の「近江八景」から 勢多夕照   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月13日 】
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北條泰時 らは野路で分散し目標に向って進んだ。泰時がまず勢多に向かい、官軍と叡山の僧兵が橋の中央二間の板を外して楯を並べ鎌倉軍を招いたのを確認して戦闘が始まった。
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酉の刻(18時前後)、毛利入道季光と駿河前司 三浦義村 が淀手上に向かい、時房 が栗子山に布陣、足利義氏 と駿河次郎 三浦泰村 は時房に無断で宇治橋に向かい合戦を始めた。官軍は雨のように矢を放ったため鎌倉軍の多くが負傷し平等院に立て籠もった。
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夜半になり前武州足利義氏が兼仗六郎保信らを時房の陣に派遣し夜明けの開戦を指示したが武者たちは先を争って矢戦を開始、多数の兵が死傷した。
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勢多は湖東から畿内に入る唯一のルートのため、古来から合戦の舞台となった。寿永元年(1183)7月の 義仲軍vs平家、翌・寿永二年1月の鎌倉軍vs義仲軍の合戦が特に名高い。宇治川合戦で 義経 に敗れた義仲は勢多(瀬田)へ逃れ、橋を守っていた 今井 (中原) 兼平 に合流して北陸を目指したが粟津原で 武田 (一條) 忠頼 の兵に囲まれて討ち取られた。
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r> 中洲を跨いで対岸に渡る姿は今も同じだが、中世の橋は現在より約65m南(上流・地図の下側)だったらしい。背景の富士山のような絵は多分伊吹山(1377m)をデフォルメして大きく描いたのだろう。直線距離で50km以上、伊吹山はこんなに急峻な姿じゃないけど...。

右:古来から合戦の舞台となった宇治橋   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月13日の続き 】
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北條時房 は(戦闘が早まったことに)驚きつつ、豪雨の中を手勢を率いて交戦しながら宇治を目指した。この間に24人の兵が負傷、官軍は押し気味に戦いを進め、その後に時房は 尾藤左近将監景綱 に命じて橋上の戦いを中止させて兵を引き、平等院に入って休息した。
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宇治川を含む淀川水系は古来から大規模な氾濫を繰り返しており、治水対策は流域自治体の大きな課題だった。昭和28年(1953)の13号台風で宇治川堤防の決壊を含め桂川・木津川・淀川流域流域に大きな被害が発生したのを契機として宇治橋上流3kmにアーチダム建設が計画され、昭和39年(1964)に 天ヶ瀬ダム が完成した。宇治橋周辺の水量はダム完成前より遥かに減ったと推定される。
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最古の宇治橋は 大化二年 (646) の架橋 (wiki) で、現在の橋は平成八年 (1996) に完成したもの。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月14日 】
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武州 北條泰時 は宇治川を渡って戦うべきだと考え、芝田の橘六兼義を呼び浅瀬を探すよう命じた。兼義は南條七郎を連れて眞木嶋に駆け下った。
昨日の雨で水が濁っているため手間取ったが、泳いで浅瀬を確認し間違いなく渡れる旨を報告した。
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  ※眞木嶋: 宇治橋の下流約1kmに填島の地名があり、対岸に莵道稚郎陵がある。第15代応神天皇の皇子・莵道稚郎子(後の16代仁徳天皇の弟)が兄に皇位
を譲るために自殺して葬られた莵道稚郎陵(日本書紀の記載だが場所は疑問)の向い側、中洲のある付近(地図)。
合戦後の6月17日に芝田兼義と 佐々木信綱 の間で一番乗りの手柄を巡る論争が勃発する。
橘六兼義は泰時の家子(血縁関係のある郎党)と推定されるが詳細は不明。

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左:泰時軍が無策な宇治川渡河作戦を強行した眞木嶋の中洲  画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月14日の続き 】
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卯の三刻(朝6時過ぎ)に兼義と春日刑部三郎貞幸らが命令を受け宇治川伏見津の瀬を渡るため走り、左衛門尉 佐々木四郎信綱、中山次郎重継、兵衛尉安東忠家らが兼義の後に続いた。
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これを見た官軍が矢を放ち激しい戦いとなって鎌倉勢17人が溺死した。北條時房足利義氏 が 左近将監尾藤景綱 と平出彌三郎に命じて民家を壊した材木で筏を組み、98人の溺死者を出しながらも800余騎が渡河に成功した。
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武蔵国と相模国の兵が特に奮戦し、官軍の大将軍二位兵衛督藤原(源)有雅 卿・宰相中将藤原範茂卿・安達源三左衛門尉親長らは防ぎ切れずに退却した。
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筑後六郎左衛門尉知尚・佐々木太郎左衛門尉・野次郎左衛門尉成時らは右衛門佐朝俊に率いられ川岸に留まって抗戦し全員が討ち死にした。武蔵太郎は追撃して官兵を討ち取った。
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激戦の詳細は左フレームの「吾妻鏡を読む」の承久三年(1221)6月14日に全文を記載したが、無理押しに渡河作戦を強行した泰時の無策が目に付く。
「攻め手800騎のうち98騎が討ち死に」は兎も角、寡兵の守備隊との合戦で「10人のうち2~3人が戦う前に溺死」
なんて話にならない。
「生真面目で教条主義的な傾向の人物」との評価は「状況に応じて柔軟に対応する発想ができないだけの堅物」だった可能性...そんな印象が残る。折に触れて泰時を高く評価している吾妻鏡には、彼の能力の低さを隠蔽する意図があったのではないか、と。
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  ※武蔵太郎: 泰時の長男 時氏。建仁三年(1203)生れの18歳、乱の終結後は六波羅北方に任じた。安貞元年(1228)に若狭国守護となり次の四代執権
として期待されたが寛喜二年(1230)3月に発病、鎌倉に戻り同年6月に28歳で早世した。
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四代執権には時氏の長男 経時(19歳)が就任したが激務もあって四年後の寛元四年 (1246)に23歳で病没、五代執権には聡明さを期待されていた弟の 時頼(19歳)が就任、翌・宝治元年(1247)6月には三浦一族を滅ぼし、北條得宗の独裁は安定期に向かう。
ただし、時頼への権力継承には不審な噂もあり、吾妻鏡が殊更に時頼の才能を称えている事も覚えておく必要がある。

 
右:時房軍は供御の瀬から宇治を経由して京へ   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月14日の続き 】
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時房は16騎を率いて潜かに深草河原に布陣した。到着した公経の使者(長衡、西園寺公経 の家司)に南條七郎を副え公経の許に派遣、明朝の入洛を伝えた上で屋敷を警護せよと命じた。
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毛利入道季光三浦義村 は淀と芋洗を突破して高畠に宿営、時房 は使者を送って両人を深草に導いた (経路地図)。泰時 勢は勢多橋で官兵と交戦、大江親廣藤原秀康佐々木盛綱三浦胤義 は退却して京に入り三條河原に宿営、親廣は関寺付近に落ち延びた。官軍の佐々木彌太郎判官高重(経高 の長男)らはここで討ち取られた
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  ※深草河原: 伏見稲荷南西を流れる鴨川沿い。平安時代から貴族の遊興・別荘の地に利用され、江戸時代に拓かれた
竹田街道(伏見と京を結ぶ「京の七口」の一つ)が通っている。平安時代以来の歌枕として多くの和歌や物語に登場している。
          深草の さとのまがきは あれはてて 野となる露に 月ぞやどれる  藤原定家
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  ※高畠: 現在の京都駅南西1kmの南区西九条。深草河原から2~3km南は時房勢が制圧し、東側は勢多を突破した泰時勢が制圧したことになる。
自らの短慮と愚かさから招いた災厄ではあるが、後鳥羽上皇 万事窮す!
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  ※関寺: 山城 (京都) と近江 (滋賀) の国境 逢坂の関 付近 (この辺?) にあった寺院 (廃寺) (共にwiki) 。
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  ※高重の最期: 最近の研究では高重は京都では死なず、翌年に熊野に逃げる途中の岩田辺 (現在の和歌山県上富田町上岩田) で討たれた記録が発見された。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月15日 】
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寅の刻(午前4時前後)に藤原秀康三浦胤義 らが四辻殿に参上。宇治・勢多の合戦で官軍は敗北、鎌倉軍は道路を封鎖し入洛しつつある。万が一にも死を免れる術はない、と奏上した。後鳥羽院 は大夫史国宗宿禰を勅使として時房の陣に派遣、両院(土御門上皇と順徳天皇)と二人の親王は賀茂(賀茂神社?)や貴船(鞍馬寺?)などの僻地に避難した。辰の刻(午前8時前後)に国宗は樋口河原で時房に逢い子細を述べて院宣を渡した。
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時房は下馬して岡村次郎兵衛尉に院宣を読むに値する者を探させ、勅使河原小三郎の進言で武蔵国住人藤田三郎を呼び寄せた。藤田が読んだ院宣は「この度の合戦は院の叡慮ではなく、謀略を巡らす近臣の言葉から起きたものである。今は鎌倉の望みに任せて宣下するから洛中で狼藉を行わぬよう兵に命じるように。」と。その後に近臣の頼武を介して兵士が院に入らぬよう重ねて申し入れがあった。
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  ※四辻殿: 御所南の藤原重子(後鳥羽上皇の寵妃で順徳天皇の生母)の屋敷。後鳥羽上皇は高陽院殿からここに避難していたらしい。
後に順徳天皇が流刑地の佐渡で産ませて(生母不明)親王宣下した善統親王が四辻殿を相続、成長して四辻宮家(後に廃絶)となった。
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  ※謀略を巡らす近臣: 蘊蓄の深い言葉だ。さて、太平洋戦争での日本人の死者が310万人(昭和38年の閣議決定)で、旭日旗と愛国心に導かれた軍人軍属の
戦死は約212万人。専門家の推定ではその3割が餓死と戦病死とされる。その戦争責任、ネトウヨは誰に問うべきだと思っているのか。
戦争責任は...昭和天皇か、謀略を巡らした近臣か、東京裁判の戦犯か、はたまた連合国か、国民か。

左:後鳥羽上皇に見捨てられた胤義らが立て籠もった東寺   画像をクリック→ 拡大表示
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東寺(公式サイト)の創建は平安遷都(794)直後の延暦十五年(796)と伝わる。弘仁十四年(823)に第52代嵯峨天皇が空海に与えて国家鎮護の寺院とし、同時に真言密教の拠点となった。南北朝時代の文明十八年(1846)に堂宇のほぼ全てを焼失し創建当初の建物は残っていないが、収蔵する仏像のうち十数体は平安遷都当初の作である。
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宝物館の兜跋毘沙門天像(国宝)は約600m西の羅城門(地図)の楼上で都を守っていたもので、門が老朽化して倒壊した後に東寺に移された、と伝わる。京都駅から近い割に静かで落ち着けるし、京都で屈指の古刹でありながら金堂や五重塔など主要堂塔以外の寺域散策が無料なのも嬉しい。宗教施設は こうあるべきだと主張する見本みたいな存在だね!
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画像の手前から、国宝の五重塔(寛永21年(1644)再建)・国宝の金堂(慶長八年(1603)再建)・重文の講堂(延徳三年(1491)再建)・食堂(昭和九年(1934)再建)と続く。伽藍配置は平安時代初期当時のまま、らしい。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月15日の続き 】
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四辻殿を退去して東寺の門内に籠った三浦胤義らは洛中に入った三浦・佐原の兵と戦い、双方に多くの戦死者が出た。
巳の刻 (10時前後) 、泰時と時房の軍勢が六波羅に入った。申の刻 (16時前後) に胤義父子(胤連と兼義)が西山木嶋(太秦)で自殺、郎従が太秦の胤義邸に運んだ首は義村の兵が時房の館に届けた。 日暮れには官兵の宿舎数ヶ所に火を懸けて焼いた。
関東の兵は畿内・畿外に満ち溢れ、逃亡した官兵を探し出しては首を斬った。
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  ※責任転嫁: 自分が首謀した兵乱なのに 後鳥羽上皇 は「謀略を巡らす近臣」が原因だと主張している。原発事故対応に失敗した菅直人が東電幹部に対応の遅れを
押し付けてるのと同じ図式だね。平成の世は寛容で、特に「日本人は曖昧決着を許す気質を美徳」と考えているから、原発の危険を過小評価して認可した自公政権を含めて誰も責任追求されないし、何十万人が生活基盤や住み慣れた故郷を失っても平然と政治家を続けられる。承久記は、直後に「逆臣三浦胤義らを捕らえよ」との院宣を発した上皇を次のように描いている。
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藤原秀康三浦胤義、下総前司小野盛綱、少輔入道大江親廣山田重忠 は各所の合戦に敗れて京に戻った。15日卯の刻(朝6時前後)に四辻殿に来て、「最後の御供をするべく参上しました」と申し出たが、院は今後どうなるのか思い悩んでいた所に四人がやって来たものだから更に大騒ぎして、「鎌倉方の武士が来たら手を合わせて助命を懇願しようと思っているのに汝らが戦っては具合が悪い、何処へでも落ち延びよ。御所の近くに留まるべからず」と命じた。
山田重忠は門を叩き大音声で「何のために戦い何のために参上したのか。見損なったのが不覚の極みだ」と叫んだ。

右:胤義親子が自刃したと伝わる木嶋神社(蚕ノ社)   画像をクリック→ 拡大表示
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官軍の残兵は「同じ東国の武者と戦って死のう」との 三浦胤義 の言葉に従って東寺に籠り、三浦義村軍と戦った。
胤義は嫡子の胤連と二人になるまで奮戦した後に太秦の自邸を目指したが、木嶋神社地図)近くで包囲され境内で自刃、郎党が屋敷に運んだ首は義村を経て六波羅の 時房 に届けられた。
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  ※木嶋神社: 蚕ノ社の名でも知られる、木嶋坐天照御魂神社 (wiki) 、元はここで催していた神事を下賀茂神社の
糺の森に遷した経緯から「元糺の森、元糺の池」の名がある。続日本紀に拠れば大宝元年(701)以前の創建なのは間違いない、平安遷都の100年以上前から続く古社である。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月16日 】
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泰時時房 は六波羅(京都守護第)に入った。執権 義時 の耳目となり、政治を安定させて乱の残党の刑も軽くし、融和を図る計画を進めて世間の支持を受けた。院で合戦計画に関与した佐々木中務入道経蓮(経高が鷲尾(東山区北部)に逃げたとの情報を得た時房は使者を送り「鎌倉に厚免の措置を求めるから命を捨てるな」と伝えたが経蓮は自殺を図り、六波羅に運ばれて死んだ。また特に合戦に関与しなかった清水寺の住僧敬月法師も 藤原範茂 に従って宇治の合戦場に出向いたが、時房に贈った一首が心を打ち死罪を減じて遠流に処す旨を 長沼五郎宗政 に指示した。
             勅なれば 身をばすててき ものヽふの やぞうち河の せにはたゝねど
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今日、時房は飛脚を関東に送り合戦が問題なく終った旨を伝えた。
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  ※佐々木経蓮: 頼朝没後に出家した佐々木四兄弟の次男 経高。生年は不詳だが四男の 高綱が1160年生まれだから、承久の乱では70歳ほどだろうか。
嫡子高重と息子の高兼は宇治川で戦死、積年の功績から経蓮の助命を考えた時房の手紙を「自刃の勧め」と思い込んだらしい。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月17日 】
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六波羅に於いて合戦の勲功を論議した。去る14日の宇治川合戦について 佐々木信綱 と兼義が先陣の功績を争い、泰時と時房の前で対決した。信綱の主張は「先登とは敵陣に討ち入った事だ。川に乗り入れたのは芝田が少し早いが馬が射られた。私が対岸に着いた時には見えなかった」と。
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兼義は「佐々木の渡河は私が誘導したからだ、川の様子も判らず進める筈がない」と主張し結論が出ない。時房は「現場にいた春日刑部三郎貞幸の意見を添えて鎌倉に報告する、従って恩賞については鎌倉の決裁」と述べた。兼義は「たとえ恩賞を受けずとも、この件に関しては承服しない」と。
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  ※佐々木信綱: 佐々木四兄弟の長兄 定綱 の四男。長兄の 広綱 は朝廷側に属して斬首、次兄の定重は建久二年(1191)に延暦寺と争い衆徒に殺された。
すぐ上の兄で三男の定高の生涯は確認できず、四男の信綱は宇治川での功績によって本領の近江佐々木庄などの地頭となり、四人の息子は湖南・湖西で繁栄し戦国武将の大原氏、高島氏・六角氏・京極氏などに系譜を繋げている。
元暦元年(1184)に 義経 の指揮下で 木曽義仲 と戦った宇治川合戦で、名馬・生月に跨り一番乗りを果たした叔父の 盛綱 に続き、信綱は30年後に同じ場所で勲功を挙げた事になる。どうやら「浅瀬を見つけ出して軍を導いた」とする芝田兼義の主張は通らなかったらしい。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月18日 】
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時氏 秘蔵の馬が宇治の合戦で矢を受け鏃が体内に残って苦しんでいた。治療の術がなかったが、捕虜の中にいた伯楽(獣医・調教師)として名高い友野右馬允遠久を呼び出して治療させた。遠久は鏃を抜いて治療し馬の命を救って珍しい例として噂になった。
今日、中太彌三郎を飛脚とし、今回の合戦で官兵を討った者・負傷した者・戦死した者の名を確認して詳細を添えて鎌倉に報告した。14日の宇治合戦と、13日と14日の宇治橋合戦についてである。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月19日 】
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六波羅で錦織判官代を捕獲した。彼は弓と相撲の達人で、並外れた勇士である。官兵が敗北した際に院から逃亡したが逃げ切れないと思い現れた。彼と組み打ちするに足る東国の武士を選び、佐野太郎・同次郎入道・同三郎入道らを立ち合わせたが錦織も簡単には拘束されず、佐野の郎従が加勢して捕獲した。
今日、武蔵太郎時氏が去る十四日に宇治川渡河の際に同行した6人を招いて歓待した。
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  ※錦織判官代: 西暦660年に滅亡の百済から河内に逃れて定住し判官代を世襲した渡来人の末裔か。元弘の乱(1331年)で 後醍醐天皇 に従い六波羅の鎌倉勢
と戦った武将の中に見える錦織俊政(後醍醐天皇が挙兵した笠置山で討死)は子孫だろう。
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  ※佐野兄弟: 藤姓足利氏嫡流・俊綱 (平家に従って滅亡) の末弟で佐野を領有し頼朝に与した有綱の息子。長男基綱、二男広綱、三男信綱。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月20日 】
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後鳥羽上皇 は高陽院を出て四辻殿に入った。土御門院、新院(順徳天皇)、六條宮、冷泉宮はそれぞれ本所に戻り、主上(仲恭天皇・4歳)だけが高陽院に座した。夜、美濃源氏の神地蔵人頼経入道らが貴船の近くで本間兵衛尉(村上源氏の武士)を生け捕り、多田蔵人基綱を討ち取った。
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  ※多田基綱: 満仲―嫡男頼光―五男頼綱―多田明国―行国―頼盛―行綱―基綱と続く多田源氏嫡流。行綱の代に摂津多田荘の所領没収と追放処分を受けていた。
父の行綱が義経と連携した経歴、頼朝 による同族の排除、先祖の所領 多田荘を頼朝が欲しがったのが理由らしい。
基綱が後鳥羽院に味方して挙兵に加わった背景には本領回復を実現する機会と判断したから、だろう。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月23日 】
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16日に京を発った飛脚が丑の刻(午前2時前後)に鎌倉到着。合戦が滞りなく終り世の中が鎮まったのを確認して喜び合い、公卿・殿上人の罪名など洛中に関する諸事を定めた。大江廣元 は文治元年の先例(平家滅亡後の措置)を参考にして勘案し、進士判官代の橘隆邦が内容を記録した。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月24日 】
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泰時と時房が報告の内容に合わせ、合戦の責任を負うべき公卿らを六波羅に連行した。按察卿光親は 武田信光 の預り、中納言宗行卿は 小山朝長 の預り、入道二位兵衛督 源有雅 卿は 小笠原長清 の預り、宰相中将 藤原範茂 卿は式部丞 北條朝時 の預りである。寅の刻(午前4時前後)に安東新左衛門尉光成が昨日 廣元 が整理した書類を携えて京に向け出発した。京に於いて処理すべき事柄を 義時 が光成に直接指示した内容も含んでいる。

左:一遍聖絵に描かれた祖父通信の墓に詣でる光景   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月28日 】
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伊豫国の住人河野入道は同国の武士を率いて戦った一方の張本人である。時房 はその理由に従って彼を処罰する旨を、河野に与していない人々に対しても通知した。
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※河野入道: 義経 に従って伊予水軍で平家を壇ノ浦に追い詰めた 河野通信を差す。平家追討と奥州藤原氏追討の功績に
より伊予国(愛媛県)の支配権を得たが、嫡子通政は西面の武士として朝廷側で承久の乱を戦い、敗北後は所領の伊予で父と共に翌年まで抵抗した後に投降。通政は斬首、通信は幾多の勲功に免じて死罪を免れ、陸奥国江刺郡に流されて翌・承応元年(1222)5月に 国見山極楽寺(岩手県観光サイト)で没した。
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通政の弟 通広の子が時宗の開祖 一遍上人。諸国を布教に歩いた弘安三年(1280)に祖父通信の墓を訪れた様子を描いたのが国宝の一遍聖絵で、この絵が通信の墓所 「ひじり塚」(北上市稲瀬町水越54-2、地図)を発見する契機となった。
【 吾妻鏡 承久三年(1221) 6月29日 】
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子の刻(深夜0時前後)、六波羅に着いた鎌倉の使者 安東新左衛門尉光成(得宗被官)が「謀反人は断罪されるべき」と具体的に述べた。泰時と時房は鎌倉の通達を読み 駿河前司(三浦義村)、毛利入道(季光)らと考えた内容と同じ結論が出された、と受け取った。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月1日 】
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時房は合戦を主導した公卿らを断罪の宣下が出る前に彼らを関東に連行せよ、と身柄を預かった面々に指示した。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月2日 】
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西面の武士4人が斬首された。後藤検非違使従五位上行左衛門少尉藤原朝臣 後藤基清 は子息の左衛門尉 基綱 が命令を受け斬首。他の3人は五條筑後守従五位下行平朝臣有範、山城守従五位下源朝臣佐々木廣綱、江検非違使従五位下行左衛門少尉大江朝臣能範である。彼らは関東の御家人であり、鎌倉将軍の恩を受け荘園所領を与えられ、将軍 実朝 に推挙されて五位に昇った。勅命を重んじると言えども許されない、武士の道に外れる行為である。
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  ※西面の武士: 後藤基清は御家人ではあるが、従二位権中納言の 一條能保 に仕えた武士で朝廷との関係が深く、播磨国守護を務めていた。源平合戦の頃に 義経
共に無断任官し、頼朝 に罵倒された経緯がある。五条有範も後藤と同じく御家人と一条能保の家人を兼ね、後鳥羽上皇 との関係が深かった。
佐々木廣綱は佐々木四兄弟の長男 定綱 の嫡子で息子三人と共に朝廷側に属し、宇治川では弟の 信綱 らと戦った。佐々木一族は深刻な分裂状態にあり、所属の問題と共に所領の争奪問題が原因の一つになっている。大江能範は親広の係累だと思うが、出自など詳細は判らない。

 
右:信能斬首の地 美濃国遠山荘 巌邨神社   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月5日 】
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宰相中将 一條信能 は左衛門尉 遠山景朝に連行されて美濃国に到着、遠山庄(地図)で首を刎ねられた。
乱を主導した公卿は洛中で斬罪に処すのが鎌倉の指示だが、時房 は京を出てからの方が良いだろうと判断した。
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  ※一條信能: 後白河天皇 寵臣能保(1197年没)の二男。能保の正室は 頼朝 の同母妹(姉とも)の 坊門姫
信能が坊門姫の息子だったら殺されずに済んだだろうが、異腹だった。
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信能は 後鳥羽上皇 の近臣として源有雅と共に承久元年(1219)1月の鎌倉八幡宮右大臣拝賀の式典に隣席し、三代将軍 源実朝 が殺される現場を目撃した人物。
この戦乱では芋洗(伏見方面)の守備隊を指揮し、三浦義村 勢に惨敗している。
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  ※遠山景朝: 古参御家人加藤景廉の嫡男。父が勲功で得た美濃 遠山荘(恵那市~中津川市)の地頭を務め、美濃遠山氏の
祖となった。遠い子孫に遠山金四郎がいる。鎌倉時代の本拠は岩村城址の北麓の大円寺跡から富田一帯の平地(地図)にあった。
遠山荘は三州街道(三河(岡崎)~信州(塩尻)を結ぶ現在の国道153号)の平谷と中仙道を繋ぐ要衝である。
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50km東の三州街道阿智村駒場は元亀四年(1573)4月に甲斐へ撤退途中の信玄が病没した地と伝わっている。
この地を得た加藤景廉は現地に赴任せず後半生を鎌倉で過ごし、承久の乱後に景朝が土着して遠山氏を名乗ったらしい。
遠山荘の知行権(≒所有権)は近衛家だが、遠山氏が地頭請として実質的な支配権を握る事となった。
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  ※地頭請: 荘園領主(この場合は近衛家)に毎年一定額を納め、地頭が荘園の管理・支配・徴税権を得る不在地主制度。
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一條信能の斬首は吾妻鏡では7月5日、公卿補任(朝廷の歴代の職員録)では8月14日。「鎌倉に連行せよ」との命令(実際には「途中で殺せの指示」)の発行が7月1日、藤原光親の甲斐斬首が12日、最後の処刑 源有雅 の甲斐稲積庄での斬首が29日だから、京から最も近い遠山での処刑が5日でも違和感はない。わずか32歳で斬首された信能を哀れんだ遠山荘岩村相原の村人は処刑地に祠を建てて霊を弔い続け、明治十三年(1880)の明治天皇中山道巡幸を契機に岩村(正式には巌邨)神社(地図、by yahoo)、地番は恵那市岩村町若宮749。普段使っている MapFan は細かい表示に向かないのが難点だ。

 
左:当初は藤原季綱の別邸 鳥羽離宮跡の鳥瞰     画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月6日 】
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後鳥羽上皇 は四辻殿御所から牛車で鳥羽殿(地図)に遷った。大宮中納言實氏、左宰相中将信成、左衛門少尉能茂が騎馬で同行した。洛中の家は主を失って扉を閉ざし、離宮の軒には兵士が列を成して封鎖している。君臣共に後悔で断腸の思いだろう。
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鳥羽離宮(鳥羽殿)は72代白河天皇に仕えた近臣の藤原季綱が鳥羽の別邸を院に献上したのが最初。白河天皇がこれを拡張し、平安時代末期から鎌倉時代末期まで桂川を使った物流の拠点として、また院政の中心として繁栄した。
敷地面積は180万㎡だから、俗な表現をすれば東京ドーム40ヶ分に相当する。貴族の別邸などを含め都市機能も充実していたが南北朝時代の兵乱で焼失し衰退した。
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このエリアは徳川幕府の命運を決した 鳥羽伏見の戦い (wiki) の舞台でもある。徳川勢がもう少し上手に戦っていれば会津の悲劇もなかったし越後長岡藩の河井継之助も無駄死にせずに済んだし、長州の田舎侍に大きな顔をされる事もなかったし、安倍晋三ごとき道徳心の欠如した軟弱者が首相になることもなかった、と思う。私は東京生まれだが母方の先祖は福島の貧乏侍、1868年の会津戦争の恨みや福島原発事故の恨みがあるから、薩長や自公政権とは決して手など握らない (笑)。薩長の芋が主導権を握らなければもっとマシな明治維新が実現できただろうに。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月8日 】
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持明院入道(守貞親王)の院政を定め、九条道家 の摂政を解任し前関白 近衞家実 を後任とした。今日、後鳥羽上皇 が落飾、藤原親實 を呼んで似顔絵を描かせた後に鳥羽殿から還御した。    ...この時の絵像が「承久の乱」冒頭近くに掲載した藤原信実筆の 国宝 後鳥羽院像
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  ※守貞親王: 幕府は後鳥羽天皇の血統を全て排除。三歳にも満たない85代仲恭天皇は退位させ、第86代後堀河天皇 (高倉天皇の孫で 安徳帝 の異母弟 守貞親王
の子)を第86代後堀河天皇として即位させ、当時10歳だったため守貞親王を上皇(後高倉院)として院政を行わせた。承久の乱の後処理である。
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  ※後鳥羽天皇の血統: 80代高倉天皇の長男が81代安徳天皇、高倉天皇の三男が82代後鳥羽天皇。この政変で高倉天皇の二男・守貞親王の子が第86代後堀河
天皇となった。ちなみに、守貞親王が帝位を継げなかったのは廷臣の派閥争いが原因で、出家を余儀なくされていた。なお、83代土御門天皇は後鳥羽天皇の長男、84代順徳天皇は二男、85代仲恭天皇は順徳天皇の長男。

右:光照院門跡、元は持明院殿(常磐御所)   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月9日 】
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今日践祚(天子の交代)である。仲恭天皇は高陽院皇居で退位し、密かに九條院に行幸した。
戌の刻(20時前後)に新帝の後堀河天皇(持明院二宮、10歳)が持明院殿から禁裏に入った。
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  ※持明院殿: 京都御所北西に 光照院門跡(観光サイト)として残っている。通称は常磐御所、元は 藤原基頼 (wiki)
の屋敷で、彼の孫娘が守貞親王妃となり、その後は数代の上皇がここを仙洞(上皇の御所)とした。
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後に 足利高氏(尊氏)らが擁立した持明院統(89代後深草天皇の系)である光明天皇の北朝と、摂津を本拠とした大覚寺統(90代亀山天皇系)の後醍醐天皇の南朝(吉野朝廷)が皇位を巡って争う、私の好きじゃない南北朝時代になる。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月11日 】
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相州泰時 らが勲功を行なった。院に味方した反逆者の所領を功績のある者に分与する措置である。
今日、西面の武士として 後鳥羽上皇 に仕えた山城守 佐々木廣綱 の子息(13歳の勢多伽丸)が 仁和寺(公式サイト) から六波羅に呼び出された。後鳥羽上皇の子息 道助入道親王の寵童なので柴垣の上座に仍って芝築地の上座に並ばせた。眞昭(時房の三男資時)が時房に「廣綱の罪は重いがこの童は道助入道親王の門弟として長く仕えた。幼い者に罪がある筈もないから死を免じてはどうか」と。その母も六波羅で助命を懇願したため許容の雰囲気もあったが、叔父の佐々木四郎信綱 が強く不満を訴えたため、勢多伽丸は信綱に引き渡されて首を斬られた。
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  ※信綱の不満: 廣綱は敗者の側となったが、佐々木氏の嫡流は定綱 → 廣綱 → 勢多伽丸と続いている。信綱は定綱の四男だが兄の血筋を絶やして近江佐々木氏の
家督を全て我が物にしたいと願い、事実その通りになった。財産の相続に比べれば甥の命など鴻毛の重さもない。
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結果として家督は信綱の独占となり、長男重綱が大原荘(米原市東部)を相続して大原氏の祖、次男高信が田中郷(湖西の高島市)を相続して高島氏の祖、三男泰綱が惣領となり湖南の野洲と甲賀など六郡を相続して六角氏の祖、四男の氏信が湖東から湖北の六郡を相続して京極氏の祖となり、戦国時代への歴史を歩み始める。

藤原光親 左:籠坂峠の古道に残る、藤原光親斬首の地   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月12日 】
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按察卿(藤原光親、先月出家し西親)は 武田信光 が預かり、下向する途中の駿河国車返の近くで鎌倉の指示に従い加古坂で斬首、後鳥羽上皇随一の寵臣で46歳、、上皇を諌めて正しい判断に戻るよう力を尽したが及ばず、義時 追討の院宣を書かざるを得なかった。主上への諌言が届かなければ、御意に従うのが忠臣の道である。彼が書いた上皇宛の諫状数十通が御所に残っており、後日それを読んだ 北條時房 は(後悔で)心を悩ませた。
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  ※藤原光親: 父の光雅は正二位・権中納言。優れた実務能力で後白河法皇の近臣として活躍した。
文治元年(1186)に 頼朝義経 が対立した際には頼朝追討の院宣を書き、頼朝の圧力で解任された経歴を持つ(後に復権)。また祖父の光頼も正二位 権大納言で 後白河法皇 の側近として優れた才能を発揮。公正で周囲の人望も厚く、義朝と組んで平治の乱を起した甥の藤原信頼を厳しく批判していた。光朝は三代に亘り朝廷に尽した、気骨ある能吏の家柄だった。
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  ※加古坂: 国道138号が静岡県から山梨県に入る県境・籠坂峠の古名。甲斐の酒折から河口湖と西湖の間(地図)を経て、「曾我兄弟の仇討」現場で知られた
知られた井出から須走に下る古道、で後に鎌倉街道とも呼ばれ甲斐と駿河を結ぶ御坂路が通っていた。
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光親は国道から斜面を300mほど登った先(地図)で斬られ、立ち会った御殿場の真言宗 山尾山普両庵(実成山久成寺(公式サイト)の前身)の僧が庵の墓地に埋葬した。それが久成寺の大御神(おおみかみ)と呼ぶ五輪塔なのだが、「駿河国車返」は現在の沼津なので御坂路からは大きく外れるし、東海道で鎌倉に向う場合は箱根峠か足柄峠経由だから、幕府の使者がなぜ「加古坂 (籠坂) で斬れ」と指示したのか理解できない。籠坂峠で光親が斬られた事実はそのまま事実として受け止めるしかないのだけれど。
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ちなみに御殿場の地名は、元和二年(1617)に没した徳川家康の遺骸を 久能山東照宮から 日光東照宮(共に公式サイト)に移す際に安置する「仮の御殿を建てた場所=御殿場」が発祥と伝わっている。足柄峠を越えて日光を目指したらしい。
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久成寺(くじょうじ)寺伝に拠れば普両庵の創建は光親死没と同じ承久三年、光親の菩提を弔って開いたのが起源なのだろう。日蓮宗に改めたのは南北朝時代の暦応元年(1338)9月、鎌倉幕府滅亡の5年後で、日蓮 の死没から60年近くが過ぎている。改宗開山和尚は 北山本門寺(公式サイト)を開いた日興上人に師事した日済、同じ富士宮の 西山本門寺(別窓)とは同じ法華宗だが宗派を別にする巨刹である。

右:御殿場 藍澤原 藤原宗行の墓所 五卿神社   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月 14日 】
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中納言宗行は護送した 小山朝長 により、藍澤原で斬首された。享年47歳、読経を続けながら最期の時を迎えた。
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  ※藍澤原: 足柄峠の西麓一帯を差し、JR御殿場駅に近い藍沢五卿神社(地図)が処刑地と伝わる。社殿の左手に墓
の痕跡らしい小さな塚の上に石碑が建っている。五卿とは7月5日に美濃遠山荘で斬られた一条信能卿、7月12日に加古坂で斬られた藤原光親卿、7月14日に藍澤原で斬られた藤原宗行卿、7月18日に足柄東麓で入水した藤原範茂卿、7月29日に甲斐稲積庄で斬られた源有雅卿の五人である。
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これより少し前、護送途中の宗行卿は東海道の菊川駅と黄瀬河駅で漢詩と和歌を残した。歌碑や塚が残っているため一般的には菊川が処刑地と思われている。ここも、いつか立ち寄ってみたい。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月10日 】
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権中納言正三位藤原宗行が 小山朝長 に従って下向し、遠江国菊河の駅に宿したが終夜眠れず法華経を読み、宿舎の柱に書き付けを残した。
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   昔南陽縣菊水汲下流而延齢 今東海道菊河宿西岸而失命   昔南陽縣の菊水 下流を汲んで齢を延ぶ 今東海道の菊河 西岸に宿して命を失う
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  ※南陽縣の菊水: 中国河南省内郷県の白河支流・鞠水は崖上に咲く菊の露が滴り落ちた甘い水で、これを飲めば長生きできるとの伝説があった。
宗行は中国の鞠水と駿河の菊河を並べて詠み、長命と死罪を対比させたのだろう。公卿は死に際しても風雅を重んじる、か。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月13日 】  乱を首謀した上皇は都を離れ流刑地へ、一方の宗行は駿河で光親の遺骨と擦れ違う。
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後鳥羽上皇 が隠岐国へ。甲冑武者が輿の前後を囲み、供は女房3人と側近の清範入道だが途中で召し戻され、施薬院使長成入道 左衛門尉能茂入道らが交替した。
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今日、中納言藤原宗行が駿河国浮嶋原を過ぎる際に荷を背負い泣きながら歩く男に出会った。中納言が仔細を尋ねると按察卿(藤原光親)の下男で、昨日加古坂で、斬首された主人光親の遺骨を拾って帰洛する途中である、と。自分も死罪も覚悟しているが、もし命を永らえたら..などと思うのも哀れである。
黄瀬河で休息した際に近くにあった筆硯で傍らに書き付けた。   けふすぐる 身をうき嶋の 原にてぞ 露の道とは きヽさだめつる
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菊河の駅では佳句を書して人々の記憶に残し、黄瀬河では和歌を詠んで一時の悲嘆を伝えた。
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  ※浮嶋原: 阿野全成 の所領と菩提寺の 大泉寺(別窓)がある沼津市井出(阿野庄)の西隣。旧東海道(県道22号)沿いに浮島の地名が残る。
井出は甲斐源氏が駿河目代を討ち取って首を晒した地でもある。浮嶋原から黄瀬河は約14km、黄瀬河から藍澤原までは約38km。

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左:南足柄市の史跡公園に残る藤原範茂の墓  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月18日 】  
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北條朝時 が預かった甲斐宰相中将 藤原範茂 は足柄山の麓で早河の底に沈んだ
五躰不具で最期を迎えるのは(成仏に)支障ありと考え、入水する希望を述べたためである。
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  ※足柄山の麓: 現在の南足柄市怒田125の史跡公園(地図)にある宝篋印塔が範茂卿(範季次男)の墓。早河は公園の
南西を流れる現在の貝沢川、深くするために川を堰き止め袂に石を入れて入水したと伝わる。
哀れに思った朝時主従が北側の高台に葬ったらしい。
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  辞世  思いきや 苔の下水 せきとめて 月ならぬ身の やどるべきとは
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範茂は 後鳥羽上皇 の寵臣で、姉の重子(修明門院)が産んだ順徳天皇の近臣でもあった。鎌倉幕府に対して批判的な立場だった父の影響に加えて、後鳥羽と順徳が幕府打倒を計画・決起したのだから範茂(享年は37歳)が関与したのはごく自然で、懐疑的だった光親に比べるとむしろ積極的に倒幕計画に加わったらしい。
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範茂の正妻は平知盛の娘(中納言局)。治承五年(1181)生まれの彼女は寿永三年(1184)2月に一ノ谷合戦で同母兄の知章を討たれ、翌3月には壇ノ浦で父の 平知盛 を失ったが母と共に生き延びて都に戻った。承久の乱では当時16歳の嫡子範継も参加していたが、彼は 泰時 の配慮で死罪を免れた。

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右:順徳天皇の火葬骨を葬った真野御陵     画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月20日 】.
新院(新たに上皇となった第84代順徳天皇)が佐渡国に流され、花山院少将一条能氏・左兵衛佐範経・上北面左衛門大夫康光らと女房二人が従った。国母の修明門院、中宮(九条立子)、一品宮(長女の諦子内親王か)、前帝(第85代仲恭天皇、順徳の第三皇子、満2歳8ヶ月)の悲嘆は深い。一条能氏は体調不良で途中から帰京、武衛(範経)も病気で寺泊に留まり、佐渡に付き従った武士は康光一人のみである。
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  ※順徳天皇: 温和な兄・土御門天皇に比べ性格が強く、父 後鳥羽上皇(剃髪して法皇)の強い期待を受けて皇位に
着き、更に挙兵に備えて退位し上皇となっていた(挙兵当時24歳)。
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流刑地の佐渡で21年を過ごした後に仁治三年 (1242) に真輪寺の阿弥陀堂(現在の真野宮)で崩御。佐渡の伝承では「京に戻れる望みがないなら存命しても意味なし」として自殺に近い最期だったと伝えている。父の後鳥羽法皇が3年前の延応元年(1239)2月に隠岐で崩御した影響があったのかも知れない。
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亡骸は荼毘に付され、遺骨は阿弥陀堂の東に松と桜を植えて葬られた。この場所が後に真野御陵として整備され、現在は宮内庁の管理下にある。陵は佐渡市真野448(地図)。遺骨は崩御の翌年に掘り出して都に運び、大原の後鳥羽院近くに改葬された。
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  ※仁治三年: 6月15日には三代執権泰時も死没しているのだが、吾妻鏡にはこの年の記事がない。何か意味があるのか、単なる散逸・脱落か。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月24日と、25日 】
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六條宮(雅成親王)が但馬国城崎郡高屋(兵庫県豊岡市)に流された。警護の任務は 泰時時房 の指示を受けて法橋昌明が担当した。在京ながら後鳥羽の招集に応じず、恩賞で但馬国守護に任じた武士である。翌25日、冷泉宮(頼仁親王)が備前国豊岡庄児嶋に流された。佐々木(加地)信實 法師が時房の命を受け、子息等を警備に充てた。阿波宰相中将(藤原信成、坊門忠信の子)、右大弁藤原光俊も流刑地へと旅立った。
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  ※親王の消息: 雅成親王は5年後の嘉禄二年(1226)に配流地で出家、後鳥羽法皇 の崩御(1239年)後に赦免され、寛元二年(1244)には京都で生母
の修明門院と暮らしている。その二年後に 九条道家 が四代鎌倉将軍だった息子の 藤原頼経(寛元二年に退位し息子の 頼嗣 が五代将軍)と協力し、後嵯峨天皇を廃して雅成親王を次期天皇に擁立する動きがあったため、五代執権 時頼の 圧力を受けた道家は失脚、頼経は京へ送還され、雅成親王も再び但馬国に送り返されたまま建長七年(1255)に没している。
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備前国豊岡庄児嶋に流された頼仁親王(雅成親王の異母弟)は文永元年(1264)に配流地で逝去している。一説に南朝 後醍醐天皇 の忠臣 児島高徳 (wiki) は親王の子孫とされるが、信頼性は高くないようだ。
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  ※頼経の送還: 三浦一門を率いる 泰村 は四代将軍頼経と親しい関係を維持して勢力を伸ばしており、更に弟 光村 は五代将軍頼嗣との関係を深めて幕政での発言力
を増していた。頼経の送還には三浦氏の勢力拡大を抑える執権 時頼 の意図があり、これによって生まれた両者の溝は徐々に深まって宝治元年(1247)に全面衝突、三浦一族が滅亡する結果を招く。承久の乱で怨みを残しつつ死んだ胤義のタタリか?
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月26日 】    鎌倉で勲功の恩賞と、西国の守護地頭などに関しての決裁が行なわれた。
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  ※勲功と恩賞: 乱に関係した皇族と公卿はもちろん、配下で働いた武士の大部分が所領を没収され鎌倉方の将士に分配された。
皇室の権威は完全に失墜し、現代の歴史家の中には承久の乱を以て「鎌倉幕府の成立」と考える向きもある。これは強引に過ぎるが。

 
左:後鳥羽上皇の火葬骨を葬った隠岐海士町陵   画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月27日 】
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御鳥羽法皇 が出雲国大浜湊に到着して乗船。警護の武士は概ねここから帰洛した。
御歌を七條院(後鳥羽上皇の生母)と修明門院(寵妃・女院、同行は許されず)らに贈った。

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      たらちめの きえやらでまつ 露の身を 風よりさきに いかでとはまし
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      しるらめや うきめをみほの 浦千鳥 なくなくしほる 袖のけしきを
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13日に都を離れた後鳥羽上皇は14日を費やして隠岐へ向う船が出港する大浜湊に着いた。海上の距離は直線で60kmだから当時でも1日の船旅だが順風を待つため、隠岐島に到着したのは8日後である。上皇は出航前に和歌を詠み都に帰る者に託している。
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  ※大浜湊: 隠岐へ渡る風待ち港(地図)。出航を待つ上皇の御座所は美保の真言宗古刹三明院、天正年間 (織田信長の時代)
に改宗して現在は 浄土宗竜海山仏谷寺(宗派の公式サイト)となっている。
  【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月27日 】
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後鳥羽上皇は隠岐国阿摩郡刈田郷に着御した。仙宮(上皇の住まい)の様子はそれまでの翠帳紅閨(煌びやかな宮殿の比喩)が柴扉桑門(貧しい現実の住居の比喩)に変わってしまったもので、雲海と波濤の続く地である。都を離れた悲しみが上皇の心を悩ますばかりだった。
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  ※刈田郷御所: 正確な場所は不明だが火葬塚(隠岐海士町陵)のある海士町周辺(地図)と推定される。18年後の延応元年(1239)2月に没した上皇は荼毘
に付され火葬塚に葬られたが、遺骨の一部は京の大原に埋葬されている。
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また明治維新になって上皇の御霊は都に遷すべきだとなり、墓を掘り返して正式に遺灰を運んだらしい。実際には只の土だったとか、後に廃仏毀釈運動で寺を取り壊した際に墓を掘ったら三重に埋められた甕が出土し、内部にあった青磁の壷の中は明らかに周辺と異なる土、更に最下層の壷の中は確認せず埋め戻したとか、そんな話も伝わっている。
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明治政府は「上皇は大原陵に遷したのだから火葬塚などは破却せよ」と命じたが、律儀な島民は陵墓を大切に守り続けたらしい。
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当時の出雲・隠岐の守護は 佐々木義清源為義 の娘を生母にする佐々木四兄弟から見ると、渋谷重国 の娘が産んだ異母弟になる。承久の乱での功績により守護として下向し嘉禄元年(1225)に出雲守、安貞元年(1227)に隠岐守に任じている。元々は近江源氏で朝廷とも縁の深かった武士だから、御鳥羽法皇 には地獄に仏に会った様な存在だった。更に在地の土豪・村上氏が義清の意向を受けて衣食住に最大限の配慮を尽したらしい。
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もちろん愚痴を言えばきりがないし、多くの臣下が命を落とした事実を考えれば当然過ぎる帰結なのだが、贅沢三昧・我侭放題に暮らしてきた人物に彼らを思い遣る心などなく、ただ我が身の不遇を嘆くばかりである。ちなみに、この村上氏一族は後鳥羽法皇の没後に火葬塚を明治維新まで守り続けている。
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隠岐に着いた上皇の歌  われこそは 新島守よ おきの海の あらきなみ風 こころして吹け  何を偉そうに、なんて言ったら戦前じゃ不敬罪だな(笑)。
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【 吾妻鏡 暦仁二年(1239) 3月15日 】  配流から18年が過ぎ、京に戻ることなく後鳥羽法皇が隠岐島で死没。
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六波羅の使者が鎌倉に到着して報告。去る2月22日、隠岐遠島の法皇が崩御(60歳)。25日に葬り奉った、と。

右:土御門上皇の火葬骨を葬った鳴門市の陵    画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 閏10月10日 】
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土御門上皇が土佐国に遷幸、更に阿波国に移った。女房四人と少将雅具、侍従俊平が従った。
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  ※土御門上皇: 三歳で後鳥羽天皇を継いだ第83代天皇。温和な性格が不満だった後鳥羽上皇は承元四年 (1210)
に強要して14歳の異母弟 順徳天皇に譲位させた。承久の乱には全く関与していなかった土御門は処分の対象には含まれなかったが、父が隠岐遠流なのに自分だけ京で暮らすのは耐え難いと申し出て土佐国に流され、後に鎌倉幕府の配慮を受けてより都に近い阿波国(徳島県)に遷った。
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陵は現在の鳴門市大麻町大谷(地図)、火葬塚として保存された場所である。藤原光親と同様に、承久の乱で不本意な運命を辿った一人だった。
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鎌倉幕府は守護に命じて宮殿を造営させるなどの優遇措置を与えている。上皇は配流11年後の寛喜三年(1231)に配流地で崩御(35歳)。火葬塚に葬られ、後に長岡京市金ケ原の金原陵(地図)に改葬された。天福三年(1233)に生母の承明門院が法華堂を建立、その落慶供養が行われた記録があるから改葬までの期間は比較的短かった。

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左:稲積庄(甲府市小瀬町)に残る源有雅の遺蹟   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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源有雅 は宮廷歌謡を司る家柄・堂上楽家「郢曲源家」の嫡流。父は宇多源氏の通家、母は伊予守藤原信経(紫式部の従兄)の娘で崇徳天皇の中宮となった皇嘉門院(摂政藤原忠通の娘)の雑仕を務めた真木屋。
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従二位権中納言藤原範光の娘で順徳天皇の乳母を務めた憲子を娶って出世を重ね、後鳥羽上皇 の側近として建暦二年(1212)には権中納言に昇進していた。軍事経験が皆無ながら官軍を率いて宇治に出陣して惨敗、実務能力には乏しかったのだろう。吾妻鏡は「二品禅尼(政子)と聊かの因縁あり」と書いているが接点は不明である。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 7月29日 】
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入道二位兵衛督(源有雅 、先月出家・46歳)は 小笠原次郎長清が護送して甲斐国に到着。多少の縁がある二位尼(政子)に助命の嘆願書を送り、返事が来るまで処刑を猶予を懇願したのだが長清は容認せず、稲積庄小瀬村で斬首した。
しばらく後に減刑を許す旨の書状が届いたのは恨みの残ることである。
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     ※処刑の猶予: 有雅を葬った場所から200mほど南に「有雅幽閉の地(浄福廃寺跡)」と伝わる場所があり、事実であれば暫く猶予があった可能性もある。
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【吾妻鏡 承久三年(1221) 8月1日】
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坊門大納言忠信 が遠江国舞沢から帰京した。彼は合戦の大将軍なので 千葉介胤綱 が預って下向したが、妹の西八條禅尼(坊門信子)が故・右府将軍 源実朝 の正室だった縁を頼り、信子が二位尼 政子 に助命を嘆願した。結論が出るまで処刑を猶予する、と。
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  ※助命嘆願: 坊門忠信は後鳥羽上皇と順徳天皇の寵臣。承久元年(1219)1月の鎌倉八幡宮右大臣拝賀に隣席し、三代将軍 実朝 の殺害を目撃した人物である。
助命運動の結果、越後流罪に減刑。後に赦免されて京に戻り太秦に隠棲にしている。強力なコネの力はいつの世も変わらない。
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【 吾妻鏡 承久三年(1221) 8月2日 】
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大監物 土岐光行 は 清久五郎行盛が預って下向し、今日巳の刻(午前10時前後)に鎌倉の金洗沢(地図)で到着を報告。執権 義時 からはその場所で処刑せよとの指示があった。関東の恩沢に浴しながら御家人の名簿を院に提出し宣旨の副文まで書いた罪は他と違う、と。
光行の嫡男源民部大夫親行は関東で功績を積んだ者であり、これを漏れ聞いて泣きながら減刑を訴えたが許されず、更に 一条実雅(妻が義時の娘、将軍 頼経 は姉の孫に当る)に願い出て助命の許しを得た。
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  ※行光の減刑: 他の公卿らはごく簡単に斬首されているのに行光は特例の扱いを受けている。光行親子が二代の将軍(実朝と頼経)に仕えた関係か、
または「後鳥羽に味方したのは弟の光時で、兄の光行は鎌倉側に加わっていた」との異説が正しいのか、両方の影響かは判らない。
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【吾妻鏡 承久三年(1221) 8月3日】    頼朝挙兵の際に15歳で平兼隆を討った古参御家人加藤景廉が死没、56歳。
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寅の刻(午前4時前後)、検非違使従五位下行左衛門少尉藤原朝臣景廉法師(加藤次景廉、法名は覺蓮房妙法)が死没。
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【吾妻鏡 承久三年(1221) 8月6日】    挙兵の前から京の情勢を頼朝に伝えていた古参御家人で文官の 三善康信 死没、82歳
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大夫屬入道善信(三善康信)が老衰のため問註所執事を辞し、嫡子の民部大夫康俊が後任となった。
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【吾妻鏡 承久三年(1221) 8月10日】
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法橋昌明は 頼朝 将軍の時に功績を挙げた者である。今回の合戦では(在京中に)勅命を受けても意志を曲げず、関東に背く事はなかった。昌明が経緯を語るより前に但馬国守護職と荘官などが昌明の勲功を報告、その書類が今日鎌倉に到着した。これを読んだ二品禅尼(政子)が感嘆したものである。
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5月15日に洛中で合戦(官兵が院の招集を拒んだ京都守護 伊賀光季 親子を追討した事件)があってから、御所に集結せよとの宣旨を携えた使者5人が但馬の昌明邸に来た際に昌明は彼らの首を斬った。院に従う近隣の官兵の攻撃を防いでから山に籠り、時房 の上洛を知ってから合流した。
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義時 の曰く、「命令を受けてから上洛し合戦で負傷するのは当然とも言えるが、今後の推移が判らない時点で勅使を斬首するのは鎌倉を重んじている証左であり、他とは違う勲功である。」 と。
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  ※法橋昌明: 源平合戦や 行家 追討に功績を挙げた常陸坊昌明。但馬国出石郡太田荘(兵庫県豊岡市の南部)を得て太田氏を名乗った。
承久の乱の際に但馬国と出雲国の守護だった足達親長が朝廷側に与して失脚し、以後は太田氏が守護を世襲することとなった。
足達親長は元久二年(1205)に義時の命令を受け京都守護の 平賀朝雅 を追討した御家人である。

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 その八 二代執権 北條義時の生涯について 

 
左:江間小四郎義時の所領 鳥瞰   画像をクリック→ 拡大表示
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北條義時 が産まれたのは長寛元年(1163)、平治の乱に敗れた源頼朝 が伊豆蛭島に流された永暦元年(1160)の直後である。従って久安三年(1147)に生まれた頼朝とは16才の年齢差がある。
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父は伊豆北條の土豪 時政、生母は 伊東祐親の長女(異説あり)、保元二年(1157)に産まれた同母姉(後に 政子)と義時は6歳違いで、長幼の順が政子>宗時>義時か、或いは宗時>政子>義時かは不明。
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 ※政子: 固有名詞は不明で、時政女(むすめ)と伝わるのみ。建保六年(1218)上洛した際、従二位に叙され時政の一字
を名乗ったのが最初、と伝わる。頼朝が挙兵した治承四年(1180)の義時は満17歳、分家して江間四郎(または小四郎)を称している。北條家の嫡男は同母兄の三郎宗時だから、当時の習慣に従えば将来は兄の「家の子」として生涯を送る筈なのに、17歳より前(多分元服と同時)に分家して江間郷を継承している。
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これは珍しい例であると同時に北條と江間郷の両方が時政の支配下にあった事を意味しているから、時政は「伊豆の小土豪」と評するよりはもう少し実力があったのかも知れない。
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義時が領有した江間郷は北條から見ると現在の狩野川の西側(地図)に位置する。守山北西の北條邸と江間の義時邸跡(伝)との距離は直線で約1km、狩野川は現在と同じように両家の間を流れていたのか、或いは守山の東を流れていたのかは判然としない。
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国土交通省沼津(公式サイト)には現在も「鎌倉時代に守山を開削して流路を西側に移した」との記載が残っているが、根拠となる文献などを問い合わせても「出典不明」の返答が戻ってくるのみ。問い合わせた直後の国交省狩野川工事事務所は「守山開削」のキーワードで検索し、私のサイトに何度もアクセスした記録があったほどだから、多分返答に窮したのだろう。守山開削は果たして虚か、或いは実か。

 
右:千鶴丸の菩提を弔った最誓寺(旧・西成寺)    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【 曽我物語 巻二 伊藤(伊東)に御座せし事 】 には次の記載がある。
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伊東祐親 は三の娘(八重姫) と 頼朝 の間に産まれた三歳の 千鶴丸を殺し、北の御方(八重姫)を取り返して同じ国の住人 江間小四郎に娶わせた。
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【 巻二 鎌倉の家の事 】 では更に続けて、
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さて頼朝は北の御方を奪った江間小四郎を討ち、その所領を 北條四郎時政 に与え江間小四郎と名乗るのを許した。
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もちろん、支離滅裂な部分も多い曽我物語を鵜呑みにするのは無理筋だが、八重姫が無残に殺された愛児の菩提を弔って (夫に哀願して) 建立した伊東の西成寺(現・最誓寺)の寺伝などを併せると、意外な経緯が見えてくる。ただし、曽我物語を種本にして寺伝の方が草創の経緯を捏造した可能性を念頭に置かないと、迷路に踏み込んでしまう危険もある。
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【 最誓寺の開基と由緒 】
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開基は北條氏二代執権江間小四郎(北條義時を差す)とその室 八重姫 の立願による。源氏の御曹司 源頼朝 が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが、平家の寵臣たる父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる。
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千鶴丸の死没は承安三年(1173)。八重姫を江間小四郎に再嫁させたのが同じ年なら義時は満10歳だが、数年後と仮定すれば元服して江間郷を領した頃かも知れない。この江間小四郎が義時なのか、八重姫は本当に義時と再婚したのか。文献による義時の初婚は鎌倉に入ってからで、相手は大倉御所の女房姫の前(比企朝宗の娘で泰時の母)。泰時誕生の時には21歳だった義時に婚歴は無かったのか、兄の 三郎宗時に子供はいなかったのか等々、鎌倉入りする前の義時に関しては判らないことが多すぎる。更に泰時が元服した時には頼朝が烏帽子親を務め「この若者は他の御家人とは違う」と公言している。

 
左:石橋山から敗走した宗時が戦死、義時の得た幸運。  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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治承四年(1180)8月23日、大庭景親 の三千余騎と 伊東祐親 率いる三百騎に囲まれ、石橋山合戦(別窓)で散々に敗れた頼朝軍は南に逃げ、更に土肥の 堀口合戦(別窓)でも敗れて箱根に続く椙山に逃げ込んだ。
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ここで一行は分散し、頼朝土肥實平 らは数日逃げ回った後に舟で安房を目指した。北條時政義時岡崎義實 と 近藤七国平らは別の舟で先行し、8月29日に 安房国猟島(鋸南町)(別窓)で頼朝の舟を出迎えた。
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一方で時政の嫡男 宗時 は土肥堀口合戦直後に 狩野介茂光 と共に日金山を越えて本領の北條を目指したが、これが運命の分れ道になる。茂光と宗時は翌24日に平井郷(現在の函南町)まで下った場所で伊東祐親の兵に囲まれた。肥満体のため逃げ切れないと覚悟した狩野茂光は孫の 田代信綱に介錯を命じて自刃、宗時は小平井の名主 紀六久重に射取られた。
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北條親子が分散して行動した理由については諸説あるが、これは単純に一族の全滅を避けるためと考えて良いだろう。強いて言えば、頼朝の側近に近い立場の義時を安房へ同行させたい意図があったか。
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運命の女神が誰に微笑むかは予測できないが、狩野氏の本拠である 柿木城(別窓)は直後に侵攻してきた大庭景親勢に攻め落とされているから、伊豆に逃げる方がリスクは高かったかも知れない。紀六久重は頼朝の鎌倉入り直後に行方をくらまし、後に捕まって斬首となった。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 1月6日 】
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工藤景光 が平井の紀六を生取った。去年の8月の早河合戦(この地名は間違いだろう)で北條三郎主(宗時)を殺した者である。頼朝が鎌倉に入った後に逐電し、駿河・伊豆・相模の各地に指示して探索した。相模国蓑毛(大山阿夫利神社の南・地図)の辺で工藤景光が捕えて連行し 和田義盛 に預けられた。犯行は認めているが詳細の糾明が済むまで斬ってはならない、と。
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【 吾妻鏡 治承五年(1181) 4月9日 】
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腰越浜で平井紀六を斬首。北條宗時を射た罪は重いため拘留していた者である。
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【 吾妻鏡 建仁二年(1202) 6月1日 】    宗時に関する最後の記載。「22年後」には特に意味は無い、と思うが...
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時政が伊豆国北條に下向した。夢のお告げがあったため、死んだ息子三郎宗時の菩提を弔うためである。宗時の墳墓堂は桑原郷にある。

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右:関取場跡の碑が建つ義時大倉亭跡(西端)     画像をクリック→ 拡大表示
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案内板に曰く...天文十七年(1548)に(小田原)北条氏がこの場所に関所を設け、ここを通る人から徴収した通行税を荏柄天神社の修復費に充当していた。その掟書が今も荏柄天神社に保存されている。
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その中には「商人の麻・紙・布などの荷物は三文、馬を利用している参拝者は十文、往来するだけの僧や庶民からは関銭を取るべからず」と記してある(地図)。この関取場跡から東側(六浦道沿いの右手)に幕府草創初期(大倉幕府(別窓)の時代 ) に義時邸があった、と伝わっている。
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  ※天文十七年: 父信虎を追放し甲斐武田氏を統一した信玄が戦国大名の地位を確立し信濃侵攻を
進めたのが天文十年(1541)。当時の後北条氏当主は初代伊勢盛時(早雲)→二代北条氏綱を継承し「相模の獅子」と称された三代氏康。この直後には扇谷上杉氏を滅ぼし、河越夜戦(wiki)で上杉・足利連合を駆逐して関東の主導権を握っている。
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安房・下総・上総の豪族と武蔵国の秩父平氏を見方に加えた 頼朝 は隅田川を渡り、武蔵国を経由して父祖の地・鎌倉へ。北條時政 は使者として9月15日に 逸見山(谷戸城)(別窓)に入り伊那と飯田地方の平家与党を討伐した甲斐源氏の 武田信義一條忠頼 に合流、9月24日には石和御厩に移動して軍議・調整しているため頼朝とは別行動を取っていた。義時 は頼朝と一緒だったと思うけれど、時政に従って甲斐に派遣された可能性もある。

 
左:義時大倉邸跡の東端付近       画像をクリック→ 拡大表示
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画像の付近が義時邸と伝わるエリアの東端である。地番は二階堂9(地図)、およそ名前と似合わない「草庵鎌倉」なるビル(地図)で、一階に宗教団体「エホバの証人」が入っている、その前から撮影した。今でも同じかは判らない。裏手の300m北には荏柄天神社があるし、筋向いの大御堂橋を渡れば勝長寿院(大御堂)跡に至る。その他にも頼朝の墓や義時法華堂の跡、杉本寺など見逃せないスポットが多い。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月6日】
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頼朝畠山次郎重忠 を先陣に 千葉介常胤 を従えて相模国(鎌倉)に入った。軍勢は幾千万を知らず、宿舎の準備が出来ていないため民家を取りあえずの館と定めた。
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同年12月12日には大倉御所が完成し、それまでは十二所の上総廣常邸(地図)を仮御所にしていた頼朝が入御。北條時政は名越に屋敷を構え、義時は御所から500mほど東に屋敷を建て、翌年の4月には頼朝近習筆頭に義時の名が載っている。頼朝没後は源氏の血筋を断ち切り、古参御家人の粛清を断行した義時だが、頼朝に対しては忠実な部下の姿勢を守り続けていた。
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【吾妻鏡 治承五年(1181) 4月7日】
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御家人の中から弓の達人で忠義心の篤い者を選び頼朝寝所の警護役と定めた。メンバーは 江間四郎義時下河邊行平結城朝光、和田義茂(義盛の弟)、梶原景季宇佐美實政榛谷重朝葛西清重三浦義連千葉胤正八田知重 である。
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元久二年(1205)6月に畠山重忠が滅亡し、翌7月に時政が失脚して義時が二代執権に就任した後もここに住み、嫡子泰時の時代になって小町邸(現在の寶戒寺)が執権館となった。泰時が幕府政庁を宇都宮辻子に遷したのは嘉禄元年(1125)、義時政子大江廣元 が相次いで没した後となる。

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右:八幡宮 東の鳥居前 畠山重忠鎌倉邸跡の碑       画像をクリック→ 拡大表示
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【 畠山重忠追討事件が語る吾妻鏡の虚実 】  事実を歪曲する、自民党機関紙(讀賣とは言わないけど)みたいな史書。
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二つの事件が義時の生き様を雄弁に物語る。
応保三年(1163)生まれの 北條義時 と長寛二年(1164)に生まれた 畠山重忠 は全くの同年代で、重忠は養和元年(1181)に義時の妹を正妻に迎えている。鎌倉入り以来の知人で義理の弟なのに、義時は元久二年(1205)6月に公称二万余の軍勢(実質は4~5千ほどか)を指揮して重忠主従(軽武装の130余騎)を皆殺しにした。しかも鎌倉に凱旋して時政に報告した内容が面白い。重忠が滅亡した 二股川合戦の詳細(別窓)を参照あれ。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月23日 】
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未の刻(14時前後)に相模守義時が鎌倉に帰還。時政が合戦について尋ねると、「重忠の弟や親類はそれぞれの所領におり、同行は僅か百余騎だった。従って謀反を企てたとの情報は間違いか讒訴で討伐された事になり、非常に気の毒である。確認のため本陣に届いた首を見た時には旧来の交誼を忘れられず涙を禁じえなかった。」と。時政は何も答えられなかった。
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畠山重忠の忠節と清廉潔白な性格は御家人の誰もが認めていた。だからこそ北條氏が覇権を握るために邪魔だった重忠の粛清は(同意ではなく)理解できるし、当時の「御恩と奉公」なんか利害に支えられた脆いもので、譜代の主従関係が固定化した江戸時代の「忠義」とは根本的に異質である。
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義時は狡猾で卑劣で平然と友を裏切る人物だが、それは当時の武士が所領を守り生き残る方策で、謂わば権利でもあったからね。その意味で畠山重忠は単純で真っ正直すぎた。義時は現実主義者として、重忠は信念に殉じた鎌倉武士の理想として、それぞれが歴史に名を留めることになる。
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と同時に、鎌倉時代末期(武家政権の爛熟期とでも言うべきか)に集大成された吾妻鏡の編纂者が史実の継承ではなく、恣意的な捏造を繰り返していた事も銘記する必要がある。その意味で吾妻鏡は時代を真摯に伝える史書ではなく、北條得宗家を中核とする権力者が都合良く改竄した伝聞の累積に過ぎない。まぁ安倍政権が官僚を巻き込んで捏造と隠蔽を繰り返したよりはマシだが、「吾妻鏡≒自民党の広報誌」程度に受け取るのが正解だ。

 
執権 北條四郎時政の失脚   左は願成就院収蔵の時政像(拡大なし) 室町時代の作だから特に意味はないが...
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重忠一族滅亡の20日後、事態は大きく動く。政子義時 による 父親 時政 の追放と、牧の方 と時政の娘婿 平賀朝雅 の殺害である。時政が若い後妻に唆されて娘婿の朝雅を将軍にしようと画策した...それが吾妻鏡の公式記録だが、事件の本質は 時政+牧の方+平賀朝雅 のクーデター計画ではなく、明白に義時+政子のクーデターである。
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雰囲気としては中大兄皇子(後の天智)と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺した 乙巳の変(wiki)に近い、権力闘争で窮地に置かれた側による計画的な逆転勝利である。乙巳の変と異なる部分は、倒した相手が(当時の道徳的規範に従えば)「絶対的な権限を持つ父親」だった事。その罪を隠すために「父親の謀反、つまり将軍の座を狙った事実」をでっち上げたに過ぎない。
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牧の方が産んだ唯一の男子・政範は16歳だった元久元年(1204)の官位は従五位下、義時も同じ年の3月6日に従五位下に叙されているが既に42歳である。義時の生母は 伊東祐親 の娘(異説あり)で、政範の生母・牧の方の実家は下級ながら貴族の血筋。時政が若い後妻に懇願されたか、それとも老いてから産まれた政範を溺愛したかは別として、北條一族嫡男の立場が義時から政範に移りつつあったのは事実である。幸か不幸か、政範は元久元年(1204)11月5日に病死したが、娘婿の平賀朝雅は健在である。
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頼家 に続いて 実朝 も廃して平賀朝雅を鎌倉将軍に据える時政の謀反計画...それは義時と政子の主張であって具体的な証拠はない。
今までの苦労は何だったのか...と義時は考え、夫の頼朝と二人三脚で築いた鎌倉の栄光を継母に奪われるとは...と政子は考えただろう。家長で執権の時政が「後継は朝雅」と決めたら、それまで。義時と政子の明るい未来は時政夫妻の存在と相容れない、排除しようと考えるのが当然の帰結だろう。
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父親を失脚させる不道徳な行動を正当化するなら、謀反の捏造がベスト。梶原景時比企能員畠山重忠 の場合も「謀反人の討伐」で一件落着したし、将軍を手中に握れば御家人を敵に廻す危惧も要らない。武蔵守の平賀朝雅を倒せば相模国(義時は相模守)に続いて武蔵国の支配権も手に入る、と。
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  ※平賀朝雅: 平賀(大内)義信の二男、生母は 比企尼 の三女(伊東祐清 室の再嫁)。八幡太郎義家 の弟 新羅三郎義光 の四男盛義が信濃佐久平の平賀郷(地図
に土着して平賀を名乗り、嫡子盛義-三男義信-二男朝雅と続く由緒正しい河内源氏の末裔である。
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父の義信、兄の 大内惟義 と共に源氏門葉(一門の中枢)として高い地位にあった。血筋から考えれば確かに鎌倉将軍に据えるのは無理だとしても、朝雅と政範に幕政を委ねて北條独裁の安定化を夢見たのだろう。
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  ※北條政範: 三代将軍 実朝坊門信清 の娘(信子)を正室に迎える使者として上洛し元久元年(1204)11月5日に病没。吾妻鏡は淡々と事実のみ記載。
「子の刻(深夜0時前後)、従五位下左馬権助平朝臣政範(16歳、在京)が没した」、と。私が関係者だったら毒殺を疑うね。
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  ※坊門信清: 後鳥羽上皇 の外戚で寵臣。朝廷を主導した公卿で正二位・内大臣まで昇進し鎌倉との交渉窓口も務めた。当初の実朝正室は 足利義兼 の娘が候補
だったが実朝はこれを拒み、京からの輿入れを強く主張して認めさせている。一つには王朝文化への憧憬と、御家人の娘と結婚して勢力争いに巻き込まれた兄・頼家の悲惨な最期も考えたのではなかろうか。

右:北條時政 名越邸の推定地、弁ヶ谷       画像をクリック→ 拡大表示
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材木座四丁目の弁ヶ谷には美智子上皇后の実家正田家の別荘もあったが、相続に伴った物納で現在は分譲住宅街に姿を変えている。弁ヶ谷は千葉氏の実質的な開祖である 千葉介常胤 の屋敷があった場所で、「介」の唐名が別駕(べつが)だった事から「別駕の住む谷」→「べんがやつ」に転訛したらしい。
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時政名越邸と伝わっていた釈迦堂口切通し東側山頂の遺跡は2008年の発掘調査で13世紀末の未確認廃寺跡と確認された。元久二年(1205)に失脚して鎌倉を去った時政とは当然無関係で、最近の 地図では時政邸ではなく、大町釈迦堂口遺跡(地図)または時政山荘跡と表示している。名越地区と釈迦堂口は1km以上離れており、ここに時政名越邸があったと考えるのは元々無理があった。
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正嘉二年(1258)5月5日の吾妻鏡に「六代将軍 宗尊神王 が尾張前司(名越流 北條時章)の名越山荘(新善光寺辺)に入御と定める」云々の記述があり、現在は葉山町上山口に移っている 新善光寺(浄土宗のサイト)が昔は弁ヶ谷(補陀洛寺 (wiki) の東)にあったと伝わっているため、時政の名越邸がこの辺りにあったと推定できる。長い間 釈迦堂口の上を「時政邸跡」と表示していた。専門家の怠慢が指摘される。
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【吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月19日】
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牧の方が策謀を巡らした。時政邸にいる将軍 実朝(13歳、元服済み)を廃して娘婿朝雅を将軍に擁立する計画である。
尼御台所(政子)は 長沼宗政結城朝光三浦義村三浦胤義天野政景 らを派遣して将軍実朝を義時邸に移して確保し、時政が集めていた武士は全て義時邸に入って実朝警護に加わった。この日の深夜に執権 北條時政(68歳)は突然剃髪して出家、大勢が共に出家を遂げた。
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  ※閏月: 当時の暦による1年は354日、太陽暦より11日短い。季節とのズレ解消のため3年に一度閏月を入れて調整していた。従って重忠滅亡の6月23日から
時政失脚の閏7月19日までは通常の7月を挿むため57日、約2ヶ月となる。義時はこの間に下準備を済ませたのだろう。
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  ※吾妻鏡の嘘: 「重忠討伐は義時の本意ではなく牧の方の讒言が原因」と書いているのが最初の嘘、二つ目の嘘は「時政の謀反計画」だ。
前述した通り当時は主従関係よりも親子関係を普遍的な規範と考えており、一部の例外を除いて父親に対する反逆は見られない(保元の乱のように親子が敵味方として戦った場合は別)。「父親を失脚させた」悪行を隠蔽するため「時政謀反」を捏造した義時と、権力者に媚びて事実を歪曲した吾妻鏡の編纂者...現代の為政者・経済界とマス・メディアの関係に引き継がれているようだ。
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閑話休題、経団連の榊原会長が企業献金再開を呼びかけたニュース。実に情けない、民主主義を理解せず目先の利益のみ追求するアホな経済人の代表だ。「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」なんて言葉も知らず、電力会社と政官界と御用学者が招いた原発事故の本質も理解せず、ひょっとして政党助成金が発足した経緯も知らないんじゃないか? 東レの会長で工学修士だってさ。
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  ※親子関係: 普遍性の一例...死期を迎えた奥州平泉の
藤原秀衡 は正室(藤原基成 の娘で嫡子 泰衡 の生母)を庶長子 国衡 に娶らせ、泰衡と国衡の争いを
防ごうとした。兄弟の関係を親子関係にすれば離反できない筈、と。結局は無駄な努力だったけどね。

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左:時政はここで生涯を終えたか 守山北麓、北條館跡  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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実子の反逆は完全な時政の想定外か、それとも「打ち合わせ通り」の政権交代か。時政と牧の方と朝雅の絡んだ謀反騒動は僅か二日で決着する。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月20日 】
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朝、北條時政 は伊豆北條郡に下向、執権には 義時 が就任した。大江廣元安達景盛 が義時邸に集まって評議し、使者を京都に派遣した。これは 平賀朝雅(京都守護職)の追討を在京の御家人に指示するためである。(使者は25日に入京し鎌倉の意思を在京の御家人に伝達している。)
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鎌倉幕府の執権職は頼朝の家政全般を取り仕切る「家司」として外戚筆頭の時政が政所別当と兼任したのが最初。当初は曖昧だった職責範囲が頼朝没後は現代の「首相」に近い存在に昇格した。任命権は前任者にあるが、義時は有力御家人と御台所政子の支持または合意を事前に取り付けたのだろう。実際に朝雅がどこまで謀反事件に関与していたのかは判らないが、時政失脚の一週間後には殺されてしまう。さすがに義時は手際が良い。和田合戦の際に起きた多少の不手際はきちんと修正している。
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  ※時政は:10年後の建保三年(1215)1月6日(西暦2月6日)に北條館で死没。牧の方は娘(朝雅の後家)が再嫁した権中納言藤原国通邸で優雅に暮らし、
嘉禄三年(1227)には京都で時政の十三回忌を営んでいる。名月記の著者 藤原定家 は、一族を引き連れて物見遊山に出掛ける彼女の豪奢な暮し振りを(嫉妬まじりに)「浅ましい」と揶揄している。
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月26日 】
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平賀朝雅は 後鳥羽上皇 に拝謁した後に囲碁を楽しんでいた。小舎人童が駆け寄って討手が来ていると伝えたが、朝雅は落ち着いたまま碁石の目を数えた後に再び拝謁し「関東の討手が来ました。逃げる場所もありませんので退出をお許し下さい」と宿舎に戻った。
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討手は五條判官有範、左衛門尉 後藤基清、源三左衛門尉親長、左衛門尉 佐々木広綱、同彌太郎高重(佐々木経高の長男)ら、朝雅は暫く戦ったが防ぎ切れず松坂付近に逃げた。金持六郎廣親と 佐々木盛綱 が追い掛け、山内持壽丸(後六郎通基。刑部大夫経俊の六男)が射止めた。
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  ※討手明細: 五條有範は藤原北家一條能保(前京都守護)の家人で検非違使の武士、後藤基清は同僚で平家追討の際に無断任官し頼朝に罵倒された経歴を持つ。
源親長は村上源氏で 後白河法皇 側近の在京御家人。佐々木廣綱は古参御家人佐々木兄弟の長兄、高重は廣綱の次弟経高の嫡男。金持廣親は伯耆守護を務めた在地領主。佐々木盛綱は佐々木兄弟の三男。朝雅が逃げた松坂は天智天皇陵に近い山科区日ノ岡、御所の東約5kmだから結構遠くまで逃げた。

 
右:義時法華堂跡の周辺、大倉山の鳥瞰    画像をクリック→ 拡大表示
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北條義時 は元仁元年(1224)6月13日に鎌倉の私邸で死没、62歳。 大江廣元 は嘉禄元年(1225)6月10日に77歳で、二位尼政子 は嘉禄元年(1225)7月11日に69歳で没しているから、初期の鎌倉幕府を支えた三人の中では最初に鬼籍に入ったのが義時である
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【 吾妻鏡 元久二年(1205) 閏7月26日 】
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辰の刻(朝8時前後)、重態のまま推移した義時の病状が危急に及び、陰陽師の国道・知輔・親職・忠業・泰貞らが招集され「大事には至らず、戌の刻(20時前後)には回復に向かうだろう」との占いを得た。念のため様々な祈祷を行ったが、時を移すに従って更に危急となった。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月13日 】
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執権義時の病が更に重篤となったため、駿河守(大内惟義)を派遣して将軍 藤原頼経 にも知らせた。許しを得て寅の刻(午前4時前後)に出家し、巳の刻(午前10時)前に没した。享年62歳、日頃から脚気を病んでいた上に霍乱を起こした。丹後律師の勧めに従い息を引き取るまで弥陀の宝号を唱え続け、護身の印を結び数十回の念仏の後に静かに息を引き取った。午の刻(昼12時前後)に飛脚を京に派遣。後室は落飾、戒師は荘厳房律師行勇
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  ※霍乱: 漢方の古典・傷寒論によれば急に胃腸が苦しくなって激しく吐瀉し下痢を伴う。食中毒などに似た急性胃腸炎症状。
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【 義時の死にまつわる謎 伊賀氏の乱は真実か、捏造か 】
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吾妻鏡に拠れば「日者脚氣之上。霍乱計會云々。」つまり脚気+下痢嘔吐を伴う急性胃腸炎だが、それ以前の病歴記録がないため様々な憶測が生まれた。保暦間記の「近習の小侍に刺し殺された」とか、名月記の風聞「後妻の 伊賀の方 が毒を盛った」などの憶測が伝わっている。
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  ※後妻が毒殺: 藤原定家 の日記「名月記」が嘉禄三年(1227)の「風聞」として次の記事を載せている。
承久の乱(承久三年、1221年)で朝廷側首謀者の一人だった尊長は芋洗(京都南部)の攻防戦で鎌倉軍に敗れて行方不明になり、6年後の嘉禄三年(1227)6月に京で捕縛された。このとき自殺に失敗した尊長は「早く首を斬れ、さもなくば義時の妻が夫に飲ませた薬で殺せ」と叫び、更に「これから死ぬ身なのに嘘など言わん」と語って現場の武士たちを驚かせた。
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  ※尊長: 権中納言 一條能保 の子で二位法印尊長を通称とする高位の僧。後鳥羽上皇 の側近を務め、片腕として倒幕計画に加担した。
義時死没の直後に勃発した「伊賀の変」で将軍候補になったとされる一条実雅(冤罪を受けた、が正しい)と尊長は異母兄弟の関係なので、義時毒殺の状況証拠に挙げる例は多いが、信用に値しない発言だと思う。尊長の言葉と伝聞内容、どちらが作為かは判らないけど。
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義時死去を知らせる飛脚は三日後の16日に在京の六波羅北方だった義時の嫡子 泰時 と義時の実弟で南方の 時房 に届いた。
泰時は翌17日に京を発って26日に鎌倉由比に到着、時房の到着を待って27日に義時邸に入った。少し急げば7日で着く鎌倉まで10日を要したのは多少長かったで済ませるにしても、なぜ即日鎌倉に入らなかったのか。
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  ※六波羅: 承久の乱を境にして従来の京都守護職を改編し、市中警備・新領を得た西国御家人紛争の簡単な決裁・朝廷の監視と調整を任務とした。
六波羅北方(上位)と南方が置かれ、鎌倉時代後半には六波羅探題の呼称となった。かつて平家一門が本拠を置いていた鴨川東岸の六波羅、現在の 六波羅蜜寺(公式サイト、地図)の南側一帯に庁舎を構えた。
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義時の死没に伴って後継を巡る陰謀があった、と吾妻鏡は伝えている。義時の後妻(伊賀朝光の娘・伊賀の方)が兄の政所執事 伊賀光宗 と謀議して将軍の 藤原頼経 を廃し、義時の娘婿 一条實雅一条能保の三男)を将軍に擁立し、義時の五男 北條政村泰時の異母弟)を執権にして幕府の実権を握ろうとするクーデター未遂があったため、と。実雅の生母は 源義朝 の娘だから血筋に不足はない、この「計画」が実現すれば清和源氏の末裔が鎌倉将軍に返り咲く事になったのだが...実際には幕政から伊賀氏の影響力を完全に排除したい 政子 が捏造した架空の謀反計画だった。.

  ※義時の妻子: 概略誕生順に書くと...御所の女房だった阿波局 (加地(佐々木)信実 の娘)が泰時(三代執権)を産み、口説き落とした恋女房の
正室・姫の前(比企朝宗の娘) が 朝時(名越流北條氏の祖) と 重時 (極楽寺流北條氏の祖)を産み、伊佐朝政(常陸の豪族で伊達氏の祖)の娘が 北條有時 (陸奥国伊具郡(宮城県南部)を領有した伊具流北條氏の祖)を産み、今回の政争の被害者となった伊賀の方が 北條政村(七代執権・政村流北條氏の祖) と 北條實泰(金沢流北條氏の祖)を産んだ。この子沢山が北條氏の壮絶な内部抗争の原点となる。

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左:北條義時の法華堂跡と伝・義時やぐら    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月18日】  
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義時を葬送。故頼朝将軍法華堂東の山上を墳墓とした。葬礼の差配は親職が固辞し泰貞も必要な文書の準備がないと固辞したため、知輔朝臣が取り仕切った。式部大夫・駿河守・陸奥四郎・同五郎・同六郎・三浦駿河次郎および宿老の祇侯人数名が葬列に連なった。また多くの御家人が群参して涙を流した。
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 ※山上を墳墓: 原文は「前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。」 一般的に言われている「遺言に従って」の
文字はなく、埋葬した後に法華堂を建立したと推定される。
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葬送の49日後(8月8日)の吾妻鏡には「前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。故奥州禅室墳墓堂(新法花堂と号す)供養也。導師走湯山淨蓮房。(加藤左衛門尉實長叔也)」とあるから、埋葬場所に法華堂を建てたのは発掘調査でも確認されている。とすると、義時やぐらは「以故右大將家法華堂東山上爲墳墓」の文言から派生した伝承に過ぎなかった。
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  ※走湯山淨蓮房: 異説もあるが、頼朝 の挙兵以来の腹心だった 加藤景廉 の弟と伝わっている。流人時代の頼朝に仏典を教えた伊豆山権現の覚淵も景廉の血縁だし、
後に鎌倉極楽寺の三世となった善願は景廉の孫を称している。善願の骨蔵器など遺物に関しては 加藤景廉の本領 牧之郷(別窓)の中段で。
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日蓮遺文に拠れば、義時法華堂は弘安三年(1280)の大火で焼失したとあり、再建記録は見当たらない。更に北条九代記「延慶三年(1310)11月6日に大町安養院から出火した未曾有の大火が法華堂などを焼き尽くした」と記録しており、これは頼朝廟所を差すのだろうが、義時法華堂も(当時再建されていれば)類焼した可能性が高い。従って義時法華堂の痕跡は平成十七年(2005)の発掘調査までの約700年、地中に眠り続けたことになる。
ちなみに「法花堂」は原文通り、以後の炎上・再建・仏事の記載は全て「法華堂」なので単純な誤字か、あるいは当時の慣習だろうか。
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  ※日蓮遺文: 鎌倉の僧から大火の報告と銭一貫文(現在のレートで10万円弱ほどか)の寄進を受けた僧 日蓮 が送った返書を差す。
当時の日蓮は甲斐の身延( 南部一族発祥の地 (別窓) を参照されたし)に逗留しており、「10月28日に「中の下馬橋」(現在の二の鳥居左手)付近を火元にした火事が鎌倉の中心部を焼き尽くし、八幡宮や頼朝法華堂や義時の墓が灰燼に帰した。」とあり、翌年11月の元帝国+高麗連合軍の第二次侵攻(弘安の役)直前で、頼朝法華堂は再建したらしいが義時法華堂までは手が廻らなかった可能性がある。
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  ※鎌倉の僧: 智妙房 (素性不明) の寄進と鎌倉の近況報告に対する返状の原文。
鵞目一貫 送り給いて法華経の御宝前に申し上げ了んぬ。なによりも故右大将家の御廟 (頼朝法華堂)と故権太夫殿の御墓 (義時法華堂) との やけて候由承わりてなげき候へば 又八幡大菩薩並びに若宮 (鶴岡八幡宮) のやけさせ給う事いかんが人のなげき候らむ。」
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  ※北条九代記: 鎌倉年代記 (wiki) の異称。著者は不明だが鎌倉幕府の関係者と推定される。寿永二年(1183)~弘安二年(1332)に勃発した
幕府関連の事件を年代順に記録したもの。大部分は吾妻鏡や保暦間記からの転載だが一部にオリジナリティも見られる。「九代」は北條嫡流で執権職に任じた九人、①時政-②義時-③泰時-④経時-⑤時頼-⑧時宗-⑨貞時-⑩師時-⑭高時 を差す。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月26日 】
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大進僧都観基による義時二七日(14日)の法事。未の刻(14時前後)に 武州泰時 が京から下着し由比に宿泊、明日 義時邸に入る。鎌倉からの飛脚は16日に入京、泰時は17日丑の刻(深夜2時前後)に京を発った。また19日に京を出た 相州時房 と陸奥守 足利義氏 も鎌倉に到着した。

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右:三浦市の金田湾近く、三浦義村の墓       画像をクリック→ 拡大表示
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墓石の残る岩浦山福寿寺は臨済宗建長寺派、正治二年(1200)3月建立と伝わる。本尊は 行基 の作と伝わる聖観世音菩薩、義村が使用した鞍、鐙、脇差などを寺宝としている。
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義明義澄義村 と続いた三浦氏は 泰村 の代になって滅亡するのだが、義澄の頃から棟梁の資質に疑問符が付き始めたように思う。治承四年(1180)の頼朝挙兵の直後に 畠山重忠 連合軍の攻撃を受けた三浦大介義明は「頼朝を探して再起を図れ」と厳命し、嫡子義澄は老父と側近を残して海へ逃げた。
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義明は 「共に逃げて捕まったら、命を惜しんで一族滅亡を招いたとされる」 として玉砕の道を選ぶのだが、これは父を見捨てた義澄の自己弁護っぽい。義澄は女子供まで連れて船出したのだから老父だけ残す必然性は乏しいし、当時の倫理観を考えれば父親を負け戦の場に残すのは最大の不孝だった筈。
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義村は権謀術策を弄する人物として知られたし、泰村は優柔不断で鎌倉武士の潔さが見られない。この一族は滅ぶべくして滅んだのか...義時死没後のゴタゴタを見るとそんな憶測まで生まれて来る。
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【吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月28日】
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泰時が「触穢の憚り(死の穢れを避ける事)不要である」との指示を受け、二位の尼 政子 の屋敷に入った。政子の曰く、「時房と泰時は将軍後見として軍事に関する任務を執行せよ、今までの動きは不充分である」、と。
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入道覺阿 大江廣元 は「世間が政治の安定に不安を抱かないよう早急の対処が必要である。義時の没後に噂が飛び交っている。泰時が弟らを殺すために京から下向したとの風聞で、四郎政村 の周辺が騒がしい。伊賀光宗 兄弟は政村の外戚(義時の継室 伊賀の方は光宗の妹)として執権継承について異論を持っている。
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伊賀の方は娘婿の一條實雅 卿を将軍に擁して子息の政村を後見に据え、政治を光村兄弟に委ねるよう企て、既にその相談をしている者もいる。泰時に近い者がそれを知って報告しても「不確実である」として対応していない。左衛門尉 平三郎盛時、左近将監 尾藤景綱、関左近大夫将監(實忠)、左衛門尉 安東忠家、万年右馬允、南條七郎ら (いずれも得宗被官、いわゆる御内人) だけが奔走しているのは情けない。」と。
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泰時の異母弟 政村の背後には、彼の烏帽子役を務めた御家人№2 の実力を持つ三浦義村の存在がある。これは...予断を許さない状況だ、と政子は考えた。彼女も既に68歳、元気なうちに北條嫡流泰時の将来を担保する為にはトラブルの芽となる伊賀一族を叩き潰し、三浦を強く牽制しなければ、と。
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政子 は泰時が鎌倉に入った二日後に彼を次期執権に指名し、誰よりも信頼できる異母弟の 時房 を将軍後見に任じた。更に三浦邸へ乗り込んで義村と直談判する。義村は「政村に謀反の意思はないが、伊賀宗光らの陰謀はあったかも知れない」と釈明し、その計画を防ぐ努力を約束した。
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雰囲気としては、「若くて経験の浅い泰時には周囲の手助けが必要」みたいなイメージがあるが、執権に就任した時は既に41歳だった。しかも建保六年(1218)に侍所別当、承久の乱(1221)後には六波羅北方など要職を歴任している。四代執権 経時は19歳、五代の 時頼 は21歳、六代長時 は26歳、八代 時宗 なんか17歳で執権に就任したのを考えると、吾妻鏡などが「泰時は偉い、傑物だ」と口調を合わせているのが意図的に思えて気に入らない。元服の際に 頼朝「泰時は一般御家人とは格が違う」 と宣言するなど、出生に秘密がありそうな部分が想起されてしまうのだが...。
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ただし、泰時の資質は兎も角として義時の敬称を巡るトラブルに関しては「北條一族の危機」だと思い込んだ政子の側に問題がある。結果として義村の策謀などなかったし、伊賀氏の動きも義時後の保身を願う程度だった。政子の頭には、父の時政が建仁3年(1203)に先手を打って比企一族を皆殺しにした成功例があったのだろう。
雌鶏が歌えば家が滅びる...いや別に女性蔑視ではなく、封建時代のお話として、ね。
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 ※執権着任年令と在任期間: 二代泰時(42歳 1205~1224年) 三代泰時(41歳 1224~1242年) 四代経時(19歳 1242~1246年)
五代時頼(21歳 1246~1256年) 六代長時(26歳 1256~1264年) 七代政村(59歳 1264~1268年)
八代時宗(17歳 1268~1284年)

 
左:六波羅(探題)が置かれた鴨川左岸の清盛邸跡       画像をクリック→ 拡大表示
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元々は洛東の葬送地だった鳥辺野(とりべの・清水寺の南側)の入口で、多くの寺が密集していたらしい。六波羅は人骨が散乱していた「どくろ原」の呼び名から転訛した説もあるが、真偽は判らない。また「探題」の呼称の初見は鎌倉時代の末期で、それまでは単に六波羅あるいは上位としての北方、従属する南方が通称。
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清盛 の祖父 平正盛が一族の供養堂を建て、嫡子の忠盛(清盛の父)が出自の伊勢や東国に向かう街道が近い六波羅に館を構えて本拠とし、清盛が継承した。平家の最盛期には一門に関わる者の家が3200余もあったが、都落ちの際に焼き払ったと伝わる。
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寿永二年(1183)の平家都落ち後の敷地は 頼朝 に与えられ、京都守護の 北條時政 が庁舎を構えて鎌倉御家人が公用で上洛する際の拠点になった。
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  ※鳥辺野: 徒然草が「化野(あだしの)の露、鳥辺野(とりべの)の烟」と描いた「空しい命」の代名詞。
化野(あだしの)念仏寺(地図)や洛北の蓮台野(船岡山一帯・地図)と並ぶ葬送の地である。
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  ※船岡山: 保元の乱で敗れた 為義 と息子の頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲が 義朝 の命令で斬首された場所。平安京は北に船岡山、南に巨椋池、東に鴨川、
西に山陰道を備える風水の「四神相応」の地で船岡山は玄武に相当し、500m東には 玄武神社 もある。
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  ※巨椋池: 京都市南部~伏見北部にあった広大な湖沼。昭和10年代の干拓で姿を消した(地図)。承久の乱の項にも載せてある。
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六波羅 (探題) は承久の乱(1221)で鎌倉軍を指揮した 泰時時房 が制圧後も京都で戦後処理に当った直轄機関が最初。幕府は西国にある朝廷側の公家・武士の所領を御家人に再分配して地頭を置き、その管理監督と朝廷の監視を行った。六波羅蜜寺(公式サイト)の南東にあった清盛邸を改め、軍事・警察・朝廷の監視・西国の御家人統括の実務を行った。現在の東山開晴館(旧・洛東中学校)校門横に石碑が建っている。
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当初は六波羅の北館に泰時・南館に時房が駐留、後には北條一族から選ばれて任期終了後は連署・執権に昇進するケースもあったが徐々に権限が縮小、鎌倉時代終盤には決裁権の殆どを執権と評定衆が握った。鎌倉の指示を履行するだけの出先機関に変貌して出世コースの魅力を失なったらしい。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 6月29日 】
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寅の刻(早朝4時前後)に相州時房の長男 時盛と武州 泰時の長男 時氏が鎌倉から京に出発した。京で鎌倉混乱の噂を耳にした二人は鎌倉で待機すべきと考えて下向していたのだが、「世の中が騒がしい時には京の人々が最も不安になる。至急に戻って洛中の治安維持に専念せよ」との指示を受けた。時房は「政治に関する全ては泰時に従う、命令に背くことはないから鎌倉の事を一切気に掛ける必要はない」、と。
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  ※時盛と時氏: 時房の家督は四男の 朝直(大仏流、生母は 足立遠元 の娘)が継承、時盛は分家して佐介流の祖となったが子孫の家勢は零落した。
泰時の長男 時氏 は四代執権就任を期待されていたが寛喜二年(1230)に28歳で病没、嫡男の 経時 が泰時死没の跡を継ぎ19歳で四代執権に就任した。経時もまた23歳で早世し、五代執権には次弟の 時頼 が就任している。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 7月5日 】
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鎌倉中が落ち着かない。伊賀光宗 兄弟が頻繁に 三浦義村邸に出入りしているため、何かの相談をしているのだろうと推察されるためである。夜になって兄弟は義時邸(継室 伊賀の方 の住居)に集まり、現在の事態を変えない約束を交わした。ある女房がこれを盗み聞きし、相談の全ては判らないまま泰時に報告した。泰時は動揺を見せず、光宗兄弟がその約束をしたのは感心であると述べた。

 
右:鳥辺野 関連で、嵯峨野 化野念仏寺の古い画像  画像をクリック→ 拡大表示
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化野に散乱していた無縁仏の石塔を集めて供養したのが 念仏寺(公式サイト)。毎年夏の終りには数千の無縁仏のため千灯供養を催している。私は渡月橋近くの市営駐車場から一日かけて散策したが、寄り道しながら念仏寺まで往復すると7kmを超えるから、もし歩くのが億劫なら念仏寺前の有料Pも利用すれば良い。
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同じ頃に撮影した「雪の石塔寺 (wiki 画像)」の写真も(石塔がらみで)載せようと思ったが、どこを探しても見付からない。好きな場所だったのに。
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【吾妻鏡 貞応三年(1224) 7月17日】...さて、本題に戻って、
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近国の武士が競って鎌倉に集まり、今夕は特に騒がしい。子の刻に二位尼 政子 が駿河局のみを供にして 三浦義村 邸を訪れ、義村は深い礼を以って迎えた。
尼の曰く、「義時 が没し 泰時 が鎌倉に戻ってから世間が静まらない。北條政村伊賀光宗 らが頻繁に義村邸で密談している噂は何事なのか、その意味が判らぬ。泰時を倒したいと考えているのか。承久の変で勝利を得たのは半ば天運ではあるが、半ば泰時の功績である。そもそも義時が数度の難局を戦って乗り切り平穏を得た、その跡を継ぎ関東の棟梁となるべき泰時がいなければ運も尽きてしまう。政村と義村が親子のように談合しているのは何故か。」と問い詰めた。
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義村は知らないと答えたが尼政子は納得せず、「政村に与して世を乱す企てが有るか否か、和平に尽力するか否か、すぐ返答せよ」と迫った。義村は「陸奥四郎(政村)に逆心はない、光村(安村の弟)は何か考えていても必ず制止する。」と誓ったため尼は帰還した。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 7月18日 】
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三浦義村が泰時に面会して曰く、「私は故大夫殿(義時)の懇意を頂いて政村の烏帽子親を務め、愚息 泰村 の息子を猶子に迎えてくれた、その恩を思うと貴方と政村の事について是非の云々は言えない。ただ切望するのは世の中の平穏である。光村には何か謀略があったらしいが、私が説得して従わせた。」と。
泰時は喜こびもせずまた驚きもせず、自分は政村に対して害心を持っていない、と答えた。

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左:義時の分骨墓と時房系の墓所 巨徳山北條寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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願成就院に比べると知名度も低い上に交通の便も悪く観光客も少ないが、北條館跡から見て狩野川の対岸(直線距離で600m)の近距離にある。大男山(207m)の北東麓、鎌倉建長寺の末寺で臨済宗の古刹である。
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徒歩の場合は狩野川に沿って北に迂回し松原橋を西へ渡って伊豆長岡町へ、総計で約2kmも歩く必要があるのがちょっと辛い。参拝用の広い駐車場あり。願成就院周辺の詳細地図を参照すると判りやすい。
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本堂左の山裾に広がる墓地から左の小道を登ると丘の上の墓地に二代執権 義時 夫妻の墓、更に奥には義時の腹心として数々の功績を挙げた弟 時房 の墓(こちらは時房流北條家累代の墓所)が見られる。樹木の隙間から狩野川を挟んで北條館の西側が眺められ、寺の400m北東には伝・義時の館跡がある。
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寺伝に拠れば治承年間(1177~1183)に義時が建てた真言宗の観音堂が最初である。これは 時政 の長男だった 宗時 が戦死して義時が嫡男となった治承四年(1180)よりも後と考えるべきだろう。
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時政が幕府の実権を握った正治二年(1200)に義時が 運慶 に依頼して阿弥陀如来像(約70cm・国の重文)を彫らせ、観世音菩薩座像(約50cm弱・県指定文化財)を本尊として巨徳山北條寺と改めた。明応九年(1499)に鎌倉建長寺の末寺となり臨済宗に改宗、伝・運慶作の阿弥陀如来像や政子寄進の牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)が寺宝で、江戸時代に伊豆八十八ヶ所霊場の十三番札所となった。
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治承四年の頼朝挙兵直前に 八重姫 が入水自殺したのは500m南の古川と狩野川の合流点だから、彼女は夫である義時の館から直線で1kmの真珠ヶ淵に身を投げたことになり、八重姫の愛人だった 頼朝 が政子と同棲していた北條館もすぐ近く、という事。男と女の間には 暗くて深い河がある...か。
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ただし一説には南北朝時代の創建で当時は宝城寺と称した、阿弥陀如来像は鎌倉時代初期慶派仏師の作ではあるが観音菩薩像は南北朝期の作である、と。義時時代の観音堂を原型として後世に再興された、のかも知れない。まぁ北條寺の名称も作為の匂いがする。江間寺なら共感できるけど。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月1日 】
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若君(三寅・四代将軍 頼経 の幼名)と二位尼 政子 が泰時邸に入り、武装した御家人が走り回った昨夜の騒ぎについて 三浦義村 に使者を派遣し、言動を慎むよう伝えた。更に二位尼は「私はいま若君を抱いて時房・泰時と共に居るから義村も参上せよ」と命じ、義村は従った。更に宿老を集め時房を介して曰く、「将軍が幼い間は家臣の謀略を防ぎ難い。各々が故頼朝将軍の恩を考え心を合わせて対処すれば誰が謀反など出来ようか」と。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月8日 】
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二位尼政子の前で協議が行われた。泰時と(召集により)老齢の入道覺阿(大江廣元)が加わり、書記は関左近大夫将監實忠が務めた。
光宗らが 一条実雅 の将軍擁立を企んだ謀反は既に露見したが、高位の公卿に罪科を問うのは憚られるため京に送って朝廷に可否を問う。義時の継室である 伊賀の方光宗 は流罪が相当する。他の者は不問に済ませて良い、と。

 
右:泰時以後の北條執権邸跡 金龍山寶戒寺(「四」と重複)  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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そして翌・閏月7月23日に政子の裁定が下る。一条實雅は妻(義時の娘)と離別し京を経て越前に流罪、伊賀光宗は信濃へ、義時の後妻伊賀の方は伊豆流罪。二ヶ月続いた騒乱はようやく決着した。真っ当な決着は政子の死没後になるけどね。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月23日 】
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寅の刻(早朝4時前後)に泰時邸付近が騒がしくなった。珍しい事なので人は不思議に思ったが卯の刻(朝6時前後)になって一条實雅卿が上洛のため出発し、集まっていた武士も退去した。伊賀四郎朝行・同六郎光重・式部太郎宗義・伊賀光盛らが實雅卿に従って同行、また式部大夫親行・伊具馬太郎盛重らは指示は無かったが個人の立場で同道した。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月29日 】
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謀反に関わった 伊賀光宗 の罪は重い。政所執事を解任し所領52ヶ所を没収、身柄は外叔父の隠岐入道行西(二階堂行光)が預かった。親戚の預かりは問題とも言えるが、政子から泰時を介した命令である。また籐民部大夫 二階堂行盛 が政所執事に補され、左近将監 尾藤景綱(御内人)が泰時後見となった。執権家令による後見は初の例で、景綱は 藤原秀郷 の子孫を称している。
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  ※御内人: 北條得宗(嫡流)の被官で、いわゆる陪臣(家臣の家臣)、御家人に相対する言葉になる。得宗は義時の法名「徳崇」に由来し、当然ながら泰時以降に
現れた言葉だが遡って使う例もある。得宗被官による高位の公職は初例だが、承元三年(1209)11月14日の吾妻鏡に微妙な表現 (下記) が残っている。 吾妻鏡の編纂は霜月騒動(弘安八年・1285年11月)以降とされるから、この部分は事後に加筆して編纂したした可能性もある。
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相模守北條義時が、以前からの郎従(皆伊豆国の住民で主達(おもだち)と呼ぶ)の中から功績のある者を 選んで御家人に準じて扱う希望を述べていた。これについて内々(非公式)の沙汰があり、将軍家(実朝)の許しが得られず、厳しい仰せがあった。「それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕府參昇(幕政への関与)を企てるようになる。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。」
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  ※将来の危惧: 八代執権 時宗(着任は文永元年・1264年)の時代になると得宗家(北條嫡流)の権限が圧倒的に強化され、併せて得宗被官(御内人)の権限も
拡大解釈されて御家人同様に幕政に関与し始める。九代執権 貞時 の頃には更に強い権力を握った御内人筆頭の 平頼綱 が有力御家人の 安達泰盛霜月騒動 (wiki) で滅ぼし、執権や得宗家の権力さえ上回るようになってしまう。実朝、先見の明ありか?
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 8月29日 】
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義時後妻の伊賀禅尼(伊賀の方)は二位尼政子の指示により伊豆北條に下向蟄居、伊賀光宗は信濃国配流となった。弟の四郎朝行と六郎光重らは相模掃部助と武蔵太郎が預り京都から直接鎮西(九州)配流の命令が下った。この両人は前の将軍 頼経 の更迭に従って上洛し在京中である。
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伊賀氏と政村の謀反計画に関して、泰時が直接コメントした記録はない。吾妻鏡は政子の言葉として謀反の計画云々を書いているが裏付けとなる根拠はなく、状況証拠として伊賀光宗兄弟と政村が会合を重ねた(らしい)との風聞を挙げているに過ぎない(身の振り方を相談した程度だろう)。
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流罪となった伊賀光宗は翌年の政子死没後に赦免され所領を回復しており、泰時が政子の存命中の復権を控えたと想像される。君子危うきに近寄らず、だ。光宗は寛元二年(1244)に幕府評定衆に就任した。旧職の執事よりワンランク上、三権を司る幕府の最高機関(トップが執権)だから、完全な復権である。
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北條政村 は長く冷遇されたが、第五代執権 時頼 の時代には完全に復権し第七代執権として 時宗 の前任を務めている。彼らが本当に「謀反の首謀者」と「背後の黒幕」だったのなら有り得ない処遇である。家督継承者の異母弟抹殺は珍しくないが、義時 の後妻 伊賀の方 が息子 政村を心配して尽力した...そんな所が真相か。泰時時房ラインの影響力低下を危惧して過剰反応した政子が伊賀氏を潰し、北條嫡流(得宗)の独裁体制を維持するために謀反を捏造したのだろう。「謀反だ」と思い込んだ可能性もあるが、他人の意見を虚心坦懐に聞くタイプじゃない。いずれにしろ「政子の最後っ屁」(笑)だ。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 9月5日 】
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義時の遺領を子女に配分する詳細を泰時と二位尼が発表した。それぞれに回覧し所存があれば申し出よ、支障がなければ将軍下文で発表する、と。全員が喜んで異議なしとした。泰時が鎌倉に入ってから内々にリストアップして二位尼に見せた際に「概ね妥当だが嫡子(泰時)の分が頗る少ないのは何故か」と。泰時は「執権の任に就く者が所領を争っても意味なし、舎弟らに分与するのが妥当」と答えた。二位尼はその言葉に感涙を流し、今日彼の思いを披露したものである。また故義時は官位を受けるのを避け偏に「前の奥州」を称していたが、没後は右京権大夫を使うよう定めた。


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義時死没の半年後、可哀そうに伊豆北條に流されていた義時後妻(伊賀氏娘)が重態になっている。死没の記事はないが、政子が念を入れて手配した毒殺に違いない。長男の政村は当時19歳だから、伊賀の方はせいぜい40歳を過ぎた程度、自然死としては早過ぎる。もう一人の可哀そうな 一條實雅 も安貞二年(1228)に流刑地の越前で変死したのは政子の遺言か。政子さんは一度思い込んだら決して反省などという女々しい行動はしないのだ。
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【 吾妻鏡 貞応三年(1224) 12月4日 】
   伊豆北條から飛脚が到着。義時の後妻伊賀禅尼が去る12日から病となり昨日巳の刻(午前10時前後)から重態、と。


  その九 大江廣元死没、続いて政子も鬼籍へ  

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左:子孫の毛利氏が築造した大江廣元の廟所    画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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時政 が築いた北條氏繁栄の基礎は二代執権の 義時政子 によって更に強固となった。それを見届けたかのように義時は元仁元年(1224)6月13日に61歳で没し、翌・嘉禄元年(1225)の6月10日(新暦の7月16日)には北條氏の頭脳でもあった 大江廣元 が77歳で没し、その30日後の7月11日(新暦8月16日)には泰時の権威確立を見届けたかのように尼将軍 政子が69歳で波乱の生涯を閉じた。 13ヶ月の間に初期の鎌倉幕府を支えた英傑三人が相次いで鬼籍に入った事になる。
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後事を託された 泰時 の責任は重大だが、義時と廣元と政子の三人が殆ど同時に没したので重石が外れて楽になった側面もあった、と思う。義時と廣元は比較的クールな性格で職権以外には口を挟まないタイプだけれど、政子の場合は「天上天下唯我独尊」みたいな性格の上に老齢と共に意固地さが増していたからね。あんな婆さんが家長として座っていたら心の休まる時がない。
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廣元が没する少し前から吾妻鏡には政子の病状悪化の記述が多くなり、廣元に関しては死亡記事一行が載っているだけ。廣元→ 二男の長井時広→ 泰秀→ 時秀と続く次の代の当主宗秀は九代執権 貞時の主要なブレーンで吾妻鏡編纂者の一人と推定される。そうであれば、もう少し祖先の廣元に配慮があって然るべきだろうに、と思う。功績を大袈裟に称えるとか、さ。
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【 吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 6月10日 】  原文は「前陸奥守正四位下大江朝臣廣元法師法名覺阿卒。七十八。日來煩痢病云云。」
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前陸奥守で正四位下の大江朝臣廣元法師(法名は覺阿)が没した。享年78歳、日頃から痢病(下痢を伴う病気、赤痢・疫痢の類か)を患っていた。
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廣元は幕政に尽した功績により相模国毛利荘・周防国島末荘・肥後国山本荘・伊勢国来真荘などを与えられた。それぞれ子息が分割相続している。
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  長男親廣...政所別当や京都守護を歴任した後に承久の乱で朝廷方に与して敗れ、領国の出羽に逃れて寒河江氏の祖になったと伝わる。
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  二男時廣...承久の乱では鎌倉方に与し、子孫はその後も評定衆など幕府の要職に任ぜられた。
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  三男宗元...伊勢崎に土着して那波氏の祖となっている。嫡子の政茂は鎌倉幕府の引付衆として活躍した。
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  四男季光...相模国毛利荘を相続して毛利を名乗り、妻が 三浦泰村 の妹だった経緯で宝治合戦では三浦に味方し敗れて自刃した。
季光の四男経光は所領の越後にいたため罪に問われず毛利荘を継承、経光の二男時親は安芸国吉田庄を相続して毛利を名乗り、子孫が戦国大名の毛利元就へと続いている。
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   ※毛利荘: 現在の厚木市街地の西部で山林が多かったため元々は「森の庄」だった。八幡太郎義家の六男義隆が「森冠者」と称したのは「森の庄」を
領有したためと伝わる。その後は平家の所領となり、家人の毛利(藤原)景行が支配した。景行は石橋山合戦に平家側として参戦し後に降伏して頼朝御家人となったが、建保元年(1213)の和田合戦で 和田義盛 に与して滅亡、毛利荘はこの際に 大江廣元の所有になった。
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  ※季光の決断: 吾妻鏡 寳治元年(1247)6月5日に次の記載がある。
巳刻(10時前後)に蔵人大夫入道西阿(毛利季光)は甲冑を着け部下を率いて御所に向かおうとしたが、妻(泰村の妹)が鎧の袖にすがり、「以前からの約束なのに泰村を見捨てて時頼勢に加わるのは武士の所業でしょうか。後の世に恥を残しますよ。」と説得した。これを聞いた季光は心を翻して泰村の陣に加わることとなった。
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ちょうどその時に隣に住んでいる甲斐前司 長井泰秀 は御所に向かう途中で毛利季光に出会ったが、 敢えて制止しなかった。これは縁戚である事と、彼の:決断を尊重し泰村と一ヶ所で戦わせてやるのが武士としての配慮と考えたからである。

 
右:政子の供養墓が残る大町の祇園山安養院  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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【吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 6月16日】
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辰の刻(午前8時前後)に二位の尼 政子 が意識を失い人々が参集したが暫くして回復した。しかし容態は日増しに悪化し、昨15日に新邸に移るとの仰せに従うには日取りが悪く、陰陽道により21日に延期となった。
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  ※新邸: 勝長寿院の敷地内に新築した御堂御所(下記)を差すらしい。通常なら大倉御所の一角か。
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【 吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 7月11日 】
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丑の刻(午前2時前後)に 二位の尼政子 が世を去った。享年は69、最初の鎌倉将軍 頼朝 の御台所であり、次に続く二人の将軍の母である。前漢を建国した劉邦の妻で皇太后になった呂后と同じように天下を治め、神功皇后が生まれ変って国を導いたような存在であった。
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政子の火葬骨を葬ったのは勝長寿院だが、政子には間接的に所縁のある大町の 安養院 (wiki) の、鎌倉最古とされる巨大な宝篋印塔の奥に建つ小振りの墓石も政子の供養墓である。大型の宝篋印塔には徳治三年(1308)の刻銘があり、小型の方は室町時代の造立だが、政子の法名に加えて没年である嘉禄元年(1225)の追刻銘がある。北條氏の縁者が無地の石面に追刻したのだろう。
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安養院は、政子の法名「安養院殿如実妙観大禅定尼」に由来する。死没直前の嘉禄元年(1225)に頼朝の冥福を祈って政子が建立した笹目ヶ谷の長楽寺が前身で、後に安養院と改めた。長楽寺は幕府滅亡と同時に焼失したためこの地に移転したが延宝八年(1680)に再び全焼、頼朝の近臣だった 田代信綱 が比企ヶ谷に建立した田代寺の観音堂を移築して安養院に改めた。更に蛇足を加えれば、故 黒沢明監督の四十九日法要はこの寺で催された。

 
左:政子を荼毘に付した大御堂寺一帯の鳥瞰  画像をクリック→ 拡大表示
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【 吾妻鏡 嘉禄元年(1225) 7月12日 】
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寅の刻(午前4時前後)に二位の尼政子の死没が発表され、民部大夫 二階堂行盛を初めとして多くの男女が出家を遂げた。
寅の刻(午後8時前後)に御堂御所で火葬、葬儀は前陰陽助の安倍親職が沙汰した。但し自らは行かず、門生の宗大夫有秀を派遣した。
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  ※民部行盛: 13人合議制の一人で政所別当だった 二階堂行政→ 子息で政所執事 を世襲した行光→ 子息で執事を世襲した行盛
に続く実務官僚。行光の後任には 伊賀光宗(行光の甥)が就任したが、伊賀氏謀反事件で行光が失脚し行盛が継承した。二階堂行政の母は頼朝の生母(熱田大宮司 藤原季範娘)の姉妹なので源氏との縁戚関係から鎌倉に入り文官として重用されていた。
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二階堂の姓は 頼朝 が平泉を模して建立した永福寺(二階大堂)の名に由来する。
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  ※安倍親職: 幕府専任の陰陽師で三代将軍実朝が病気の際も治癒祈祷を行なっている。安倍晴明の長男 吉平の子に時親と章親と奉親の名があり、係累が鎌倉に下向して
占術に任じていた可能性もあるが詳細は判らない。
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  ※御堂御所: 勝長寿院(南御堂・大御堂とも。別窓)域内に建てた政子邸。政子は承応元年(1222)3月から勝長寿院の奥(境内)に堂と住居を建てて4月に上棟、
御堂供養を7月16日に行なっている。御堂供養は二年後に政子が追放流罪に処した伊賀光宗が奉行しているのが面白い。
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吾妻鏡の記載は承応元年(1222)と翌 承応二年に重複記載されているため正確さは疑わしいが、承応二年の末までには移転が完了し、政子は勝長寿院で火葬し埋葬された。ここには 実朝 の胴と遺髪も葬られていたが、康元元年(1256)12月に続いて二度目・室町時代の火災で焼失し、そのまま廃寺になった。壽福寺の「やぐら」に改葬されたのは、どちらかの焼失後と推定される。

 
右:鎌倉五山の第三位 金剛壽福禅寺  画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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源氏山の東麓に建つ古刹で山号は亀谷山(源氏山の古名)、臨済宗建長寺派に属する鎌倉五山第三位の寺である。「扇ヶ谷」の地名は鎌倉時代にはなく、亀ヶ谷の一部だった。「鶴岡(八幡宮)に向い合う亀谷」という語呂合わせだった。甲府にも「鶴舞城(甲府城)」と「遊亀公園」があった、これも鶴亀だね。
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壽福寺の一帯は 源頼義 が別邸を構えたのが最初で、後に 頼朝 の父 義朝 が東国の根拠地に利用し、一時期は庶長子の 悪源太義平 もここに住んだと伝わる。武蔵大蔵の帯刀先生 源義賢 を討った時の義平はここから出陣したのだろう。横須賀線が通る低地を中心にすると東西の平地は巾200mほど、頼朝は館(政庁)を置くには狭いと判断した。
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壽福寺の本尊は宝冠釈迦如来、正治二年(1200)に 北條政子 が頼朝の菩提を弔うため開山和尚に臨済宗の開祖 栄西 を招いて創建した。横須賀線に面した山門から中門までの参道と墓域(大仏次郎 (wiki) などの墓あり)や裏手の「やぐら」(政子と実朝の五輪塔あり)は公開されているが、中門内側の寺域は非公開、本尊を含む仏像群も公開されていない。堂塔伽藍は数度の火災を経ており、特に正嘉二年(1258)には建物の全てを焼失した。現在の建物は殆どが江戸時代中期に再建されたもの。
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ちなみに、嘉禄元年(1225)に没した政子が葬られたのは雪ノ下の南御堂(勝長寿院)。ここには京で捜し出した義朝主従の遺骨と三代将軍実朝の遺髪も葬られていた。改葬の経緯は不明だが、三回目の火災で焼失した正中二年(1325)か、鎌倉公方の 足利成氏 (wiki) が下総の古河に移った享徳四年(1455)のどちらかだろう。頼朝の遺骨は法華堂(現在の白旗神社)へ、政子の遺骨と実朝の遺髪は壽福寺の「やぐら」に改葬されて現在に至る。義朝と家臣 鎌田正清 を葬った 勝長寿院跡(別窓)は既に廃寺となって久しく、近くには二人の慰霊墓が建てられているのみ。
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壽福寺本堂を左に迂回して墓地の中を登ると突き当りの崖下が政子と
実朝 の五輪塔が納まる「やぐら」群、墓地の途中から左に折れて小道を辿ると源氏山、更に左へ下ると銭洗弁天や佐助稲荷を経て化粧坂や亀ヶ谷坂切通しから北鎌倉に至るハイキングコースとなる。


 その拾 滅びゆく古参御家人たち⑤ 宝治合戦 三浦一族の滅亡 

 
右:大切岸と名越切通しに続く逗子側の法性寺山門   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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逗子駅の北側から名越へ向かって旧道を進むと小坪トンネルに合流する少し手前の右奥に 猿畠山法性寺(日蓮宗公式サイト)がある。寺院の裏が逗子市と鎌倉市の境界で、鎌倉時代中期に北條執権の仮想敵と目された三浦一族に対する防御用城壁(と考えられていた)大切岸(地図)である。
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最近の研究は防御用城壁説に否定的で、平成十四年の発掘調査により複数が確認された「石切り場の跡」と結論が出た。もし軍事的な工作物なら、吾妻鏡にその旨の記載がないのは確かに不自然で、地理的には極楽寺の 忍性 が率いた石工集団が和賀江島の港湾施設造成に切り出した可能性もある、と思う。
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大切岸は自然の地形を利用して崖を垂直に切り落とした形で続いている。現在残っているのは800mほどだが、宝治合戦 (三浦の乱)直前には十二所から小坪の住吉城址(和賀江島の前)までの5000m近くも続く垂直の崖で、長い間防衛施設だろうと考えられていた(リンク先の概略地図を参照)。
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大切岸は部分的に大きく出入りした雛壇状になっており、攻め登る敵に対しては真横や頂上の平場から矢を射るなどの攻撃をしやすい構造になっている。大切岸が防衛施設だと仮定すれば、重い甲冑を着けて崖を登るのは至難の技だから堅固な要害だったのは間違いないが、本道の名越(なごえ)切通しは騎馬武者が一騎づつ通過できる程度の狭路だから、他の鎌倉七口に比べてこれほど堅固に造る必然性も、かなり乏しい。
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鎌倉時代中期以後の名越切通し周辺は共同墓地および石切り場として利用された。なかでも 曼荼羅(まんだら)堂(紹介サイト)周辺には150基以上のやぐらや推定数百の五輪塔や火葬の痕跡が集中しており、近年は大規模な発掘調査が行われている。管理者の逗子市教育委員会では2015年ごろの一般公開を目指していたらしく、時折り臨時公開しているから情報に注意すると良い。「まんだら堂」で検索すれば画像を含めた情報も豊富に確認できる。

左:四代将軍 藤原頼経の絵像   十二所 明王院(公式サイト)の寺宝  画像をクリック→ 拡大表示
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北條氏による執権体制は初代 時政→ 二代義時→ 三代泰時→ 四代経時と続き、経時の弟 時頼 が五代執権を継承した翌 寛元四年(1246)3月に宝治合戦が勃発する。治承四年(1180)の頼朝挙兵に協力した老将 三浦大介義明義澄義村 と続いて繁栄した三浦一族も、泰村の代になって嫡流滅亡の憂き目をみた。
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建久十年(1999)の 頼朝 没後に粛清された御家人は 1200年の 梶原景時、1203年の比企能員、1205年の 畠山重忠、1213年の 和田義盛、と続いた。
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治承四年(1180)に頼朝 と共に伊豆韮山で挙兵した時政の夢は66年後の三浦宗家滅亡によって実現し、全ての対抗勢力が排除され完全な北條独裁体制を確立するが、やがて一族内部の主導権争いを誘発することになる。得宗(惣領の家系)への権力集中に不満を持つ傍流の反発である。
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時政が初代執権の1203年に 頼家 が失脚殺害されて 実朝(当時11歳)が三代将軍を継承し、二代執権 義時 の1219年に実朝が殺され、2歳の三寅(後の 藤原頼経、五摂家 九条道家 の三男)を四代将軍に迎えた。
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義時没後に執権を継承した 泰時 は御家人の利害を巧みに調整して政権を安定させたが、仁治三年(1242)に泰時が没して四代執権を 経時 が継承すると、北條一族の内部抗争に加えて御家人の間でも対立が起こり始めた。更に、成長した傀儡将軍だった筈の頼経も一部の御家人を糾合して幕府の実権を握ろうとする動きに出た。
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  ※北條経時: 泰時長男の時氏は27歳(泰時47歳の時)で早世したため、時氏の嫡子経時(当時18歳)が執権となった。
しかし経時も23歳で病没、二人の息子が幼少(4歳と1歳、直後に出家)のため弟の時頼(18歳)が五代執権となった。吾妻鏡が「時頼に禅譲したのは経時の意思」と時頼継承の正当性を強調している事、併行して経時に近かった将軍 頼経 と側近が失脚した事、経時死没の2年前から時頼が執権名代を務めていた事、などから権力志向の強かった時頼と得宗家の一部が禅譲を捏造したと考える説が根強い。

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右:出家後の北條時頼絵像 部分(鎌倉建長寺像)   画像をクリック→ 拡大表示
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執権経時は混乱した政情の収拾を図って寛元二年(1244)4月に将軍頼経の解任を断行、頼経の嫡子 頼嗣(当時6歳)を五代将軍に着任させた。更に翌年5月には妹の檜皮姫(ひわだひめ)を頼嗣に嫁がせて将軍を巡る政権内部の混乱は沈静するかに見えたが...重なる不幸が経時を襲う。
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頼経は頼嗣を補佐する名目で鎌倉に留まったまま反体制の動きを止めなかった。同年(1244年)9月には経時の正室 宇都宮泰綱 の娘が死没し、新将軍頼嗣に嫁した檜皮姫も病床に伏した。更に翌年2月には経時自身も持病の黄疸が悪化。そして寛元四年(1246)3月23日、二人の息子(経時没後に出家)がまだ幼いため執権職は弟の時頼(当時19歳)に譲って出家し、23歳で死没。早世に加えて苦悩の多い生涯だった。
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経時の病死を実権奪取の好機と見た名越流北條氏(開祖は 義時 の二男 朝時 の嫡子 北條(名越)光時 は内部抗争をスタートさせた。退任した前将軍の頼経を復帰させるため、頼経側近の 後藤基綱千葉秀胤町野(三善)康持 らを抱き込んで主導権の奪取を計画したが、その動きを察知した時頼が機先を制して武装兵を集結させ、5月25日には鎌倉七口を封鎖して市街を完全制圧した。決起する前に敗北を悟った光時は出家謹慎を余儀なくされた。
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6月1日には光時に与していた弟の 時幸 が自害、6日には去就が不明だった 三浦泰村 が代理として弟の 家村 を時頼邸に派遣し恭順の意を示したため、騒乱(宮騒動)は北條得宗 時頼 の全面勝利となった。
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謀反未遂に対する処分として、名越光時は伊豆国江間郷へ流罪、後藤基綱・千葉秀胤・三善康持らは公職を罷免され、前将軍頼経は京へ追放されて事態は収束した。安定を取り戻した時頼の北條得宗独裁は最後に残った有力御家人の三浦一族を滅ぼすべく、翌年(1247)の宝治合戦に向けて三浦泰村への圧力を強めていく。
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  ※内部抗争:1180年に側室の阿波局が 義時 の長男 泰時(後の三代執権、頼朝の落胤説あり)を産んだ。一方で1192年に義時に懇願され、頼朝の仲介で
義時の正室となった姫の前は1193年に二男 朝時、1198年に三男 重時 を産んだ。朝時は不行跡もあって父義時との関係が円満ではなく、祖父 時政 の名越邸を相続し、分家して名越を名乗った。更には評価の高かった実弟重時に官位を追い越されるなどの冷遇もあって代々の名越流北條氏は得宗家と距離を置き、未遂を含む再三の謀反事件を起こしている。「自分たちこそ執権を継ぐべき北條嫡流」との自負があったのは間違いなく、時政が義時の後継には泰時ではなく朝時を予定していた、と考える説もある。
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  ※姫の前: 比企能員 の弟 朝宗 の娘で絶世の美女と称された御所女房。再三の艶書も効果がなく、最後は頼朝が仲介し「決して離縁せず」の誓詞を書いて正室に
迎えた。1203年の比企の乱に連座する形で離縁となり、上洛して源具親(従四位下、新三十六歌仙の1人)と再婚している。
ちなみに、比企朝宗は乱の死没者名簿には載っておらず、生死もその後の消息も不明。

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左:鎌倉十橋の一つ、安達泰盛が鏑矢を放った筋替橋   画像をクリック→ 拡大表示
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15年以上前、吾妻鏡の「実朝暗殺」まで読み進んだ妻(当サイトの昔の開設者)は三浦邸の場所が判らずに苦しんだらしい。
八幡宮の北東側なのは確かだが根拠が見付からない、素人では地誌など調べられない。
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28年後の宝治合戦まで読んで気が付いた、と。北條と三浦に妥協の空気も見えた頃、高野山に隠居していた大蓮房覚智(安達景盛)が甘縄に戻り嫡男 頼景 と嫡孫 泰盛 を叱責して三浦邸攻撃を命じた部分。
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【 吾妻鏡 寛元五年(1247年 2月28日に改元して宝治元年) 6月5日 】
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景盛は時頼が合戦を避けるため使者を三浦泰村に派遣したのを知り、既に甲冑を着けていた義景と泰盛を呼んで「決着を避けたら三浦一族が更に奢り昂ぶって我が一族を侮蔑し続ける、今はただ運を天に任せて雌雄を決すべき時である」と叱咤した。これによって一族の城九郎泰盛、大曽祢長泰、武藤景朝、橘薩摩公義らが軍兵を率いて甘縄の館を出陣し、門前の道を東に進んで若宮大路(段葛)の下馬橋から北に向い、八幡宮の赤橋(現在の太鼓橋)を渡って布陣した。
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入道盛阿の帰りを待たず神護寺の外で鬨の声を挙げ、公義五石畳紋の旗を掲げて「筋替橋の北に進み」鳴鏑を放った。
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  ※入道盛阿: 北條氏家令。時頼は早朝に三浦邸に盛阿を派遣し「自重して戦闘を避けよう」と文書で申し入れた。その一方で時頼シンパの安達一族は完全武装で
三浦邸を急襲しているのだから完全な騙し討ち...と考えるよりも、吾妻鏡の編纂者が正当性を捏造した可能性もある。
ちょうど 「二俣川合戦で重忠を滅ぼした義時には合戦の意思はなかった」 かのように弁護しているのと同じ表現だ。
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  ※公義五石畳紋: 画像などは参考サイトで。家紋は平安中期に個人を表す公家の「身印」から発展し、この時期は武家の紋として定着していたらしい。
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  ※筋替橋: 鎌倉十橋は他に 十王堂橋(北鎌倉)、 裁許橋 (今小路)、 逆川橋(大町)、 夷堂橋 (本覚寺前)、 歌橋 (二階堂)、 勝橋 (壽福寺前)、
琵琶橋 (下馬四角)、 乱橋(材木座三丁目)、 筋替橋(雪ノ下二丁目)、 針磨橋(極楽寺三丁目)。青字は地図、橋の名でググると画像や来歴が確認できる。
他にも鎌倉十井とか五名水だとか、見物スポットが点在するが、いずれも徳川光圀(水戸黄門)が家臣に命じて選出し貞享二年(1685)に刊行した地誌「新編鎌倉志」に載せたのが最初。その評価は価値観に拠って見る目が違うのは勿論である。

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右:西御門跡の碑 この裏側一帯が三浦泰村邸か。   画像をクリック→ 拡大表示
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甘縄の安達邸から三浦邸までを表示した地図はこちら、西御門跡石碑の地図はこちらで。
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【 吾妻鏡 寛元五年・宝治元年(1247) 6月5日の続き 】 安達勢は筋替橋の北に進み鳴鏑を放った。
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御所を警護する兵も悉くこれに加わった。驚いた 三浦泰村 と郎従らが防戦し双方に負傷者が出た。
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ここでも嘘が垣間見える。吾妻鏡は「三浦邸に派遣した使者から「大量の弓矢と百二、三十の鎧櫃が準備されている」との報告を時頼が受けた」と書いている。三浦邸には少なくとも200人程度の武装兵が合戦の準備を整えていたと匂わせているのだが、いくら泰村が愚鈍でも合戦するかも知れない敵に準備状態を見せる筈ない。そもそも準備がそこまで整えているなら、安達勢の奇襲に驚くこともないだろう。
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三浦半島なら強力な軍団を動員できる泰村も、鎌倉で官兵と御家人連合の攻撃を撃退できるほどの兵力は確保できない。この時点で既に鎌倉七口は封鎖されているから応援も期待できない。
つまり執権 北條時頼安達景盛 は鎌倉を封鎖して三浦一族を孤立させ、和平を提案して油断させてから圧倒的な兵力で殺戮を行ったのだろう。
畠山重忠 を滅ぼした二俣川合戦と同じく、勝敗の帰趨は初めから決まっていた。
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やがて風が南に変ったため、安達勢は三浦泰村邸南隣の家屋に火を放った。風に煽られた煙が館を覆い、苦しくなった泰村一党は400mほど離れた頼朝法華堂に逃げて立て籠った。泰村の弟・光村は法華堂の東500mにある永福寺惣門内に従兵80人ほどで布陣しており、使者を兄泰村に送って「永福寺なら守りやすい、ここで安達勢を迎え討つべき」と伝えた。しかし泰村は「守りの堅い城があっても所詮運命からは逃げられぬ。故 頼朝 将軍の肖像前で最期を迎えようと思う。早くここへ合流せよ」と使者を送った。
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  ※永福寺:(ようふくじ)は鶴岡八幡宮・勝長寿院と並んで頼朝が建立した大規模社寺の一つ。文治五年(1185)の奥州合戦から凱旋した頼朝は平泉で見た壮麗な
寺院の姿に感動し更に豪壮な堂塔の建設を計画、7年後の建久三年 (1192) 11月に本堂の落慶供養を催した。発掘調査で毛越寺や宇治平等院を越える
規模の遺構が確認されており、応永十二年(1405年、足利将軍義満の頃)に焼け落ちたまま廃寺になったらしい。詳細は 鎌倉市のサイト で。
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【 吾妻鏡 建久三年(1192) 11月20日 】
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永福寺造営が完了した。雲にも届くような軒の高さや月の如く華麗な本堂は比類のないもので、まさに西方浄土の荘厳さを関東の二階大堂に遷した如くである。
今日、御台所 政子 も参詣に訪れた。

 
左:宝治合戦の舞台 三浦邸~永福寺の鳥瞰     画像をクリック→ 拡大表示
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【吾妻鏡 宝治元年(1247) 6月5日】  三浦一族の最期
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泰村の伝言を聞いた 三浦光村 は永福寺を出て法華堂に向い、途中の戦闘で敵味方双方の軍兵多数が傷を負った。光村は法華堂に合流し、西阿(毛利季光 の法名。時頼の舅で毛利元就の祖)、三浦泰村、三浦光村、三浦家村(光村の弟)、資村、大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司實章、関左衛門尉政泰などと共に絵像の前に列座した。
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昔日の想い出を語り合うなど最後の述懐に及び、心得のあった西阿が浄土を祈って唱える念仏に光村も声を合わせた。安達の軍兵は石橋を駆け登って攻め込んだが三浦勢も防戦し熟練の武芸を見せ付けた。
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1時間半も続いた戦いの末に三浦勢は矢も尽き、戦う力も失ってしまった。泰村以下の主だった者276人を合わせて500人余りが自殺、幕府が氏名を確認し記録できた者だけでも260人であった。
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宝治合戦(三浦の乱)に関する吾妻鏡からの抜粋は宝治合戦の時系列記録(別窓)で。
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【 三浦家村は合戦から逃げ延びたのか? 】  誰々が実は生きていた、そんな作り話のひとつだと思うけど...
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光村は顔が判別されないように耳や鼻まで削ぎ落としていたらしい。泰村の四男で武勇を知られた 家村 は死亡者名簿にも載っておらず、幕府側はかなり執拗に捜索したらしいが、結局見付からなかった。岐阜県の下呂温泉と山を隔てた東側の王滝村滝越の集落(広域地図)には「三浦大夫」を名乗る人物に率いられて住み着いた落武者伝説があり、加子母村(現在の中津川市加子母、地図)から鞍掛峠経由でこの地に入った、と伝わっている。三浦の地名や末裔を名乗る民宿もある。
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王滝村の北が御嶽山、その北側の乗鞍岳との鞍部を越えるのが飛騨と信濃を結ぶ野麦峠だ。蛇足だが、10年以上前の旅行で野麦峠を越える長距離ドライブを楽しんだ。少しだけ残る野麦峠の画像は 道の駅 飛騨たかね工房 の末尾で。信濃に向かう娘達が集合した飛騨古川市の石碑まで回遊したのだが、画像は既に行方不明、残念!
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この三浦大夫の素性について、郷土史に三つの推論がある。一つは「朝比奈義秀」とする説、一つは「三浦義明の子」とする説、一つは「三浦家村」とする説。「義明の子」説はあまり面白くないが、「朝比奈義秀」と「三浦家村」説には心を惹かれる可能性とロマンがある。朝比奈義秀和田義盛 の三男で母親は 巴御前(これは年代が符合しないから捏造) と伝わる勇猛な武将で和田の乱を戦った後に< こちらも行方不明になった。一説に舟で安房に逃れたとも言われるが...。
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【 家村について、追記 】
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宝治合戦から逃げ延びた家村は蒙古へ渡ってフビライ・ハーンの家来となり実情を探るため日本に密航した、とか、元寇の兵士の中に家村の姿を見た、とか。竹崎季長(元寇での恩賞を求めて幕府に直訴した武士)が「蒙古の軍船り斬り込んで家村と斬り合った」と言ってる、などなど荒唐無稽な話も多い。

 
右:宝治合戦で滅亡した三浦一族の「やぐら」   画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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治承四年(1180)の頼朝挙兵に貢献したのみならず、三浦氏は頼朝死去後の北條氏による御家人粛清に協力し、梶原・比企・畠山・和田を殺戮した全ての合戦に加わった。同族の 和田義盛が決起した際には全面協力の起請文まで書きながら裏切り、「三浦の犬は友を喰らう」とまで罵られている(信憑性に欠ける古今著聞集の挿話)。
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吾妻鏡は 三浦泰村 の優柔不断と時頼の思慮深さを対照的に描いているが、将軍を抱き込み御家人の大多数を「官軍」として指揮する立場にあった北條氏と、本領から離れた鎌倉では2~300人程度の実戦部隊動員が限度だった三浦泰村では勝敗は最初から決まっていた。三浦大介義明 と その嫡子 義澄 はそれなりに優れていたが、次の義村と泰村の親子はとても「傑物」と評価できる人物ではなかった、らしい。
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まぁ北條さんは確かに狡猾で悪質だけど、滅ぼされる側の思慮も間違いなく不足している、と思う。
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1200年に梶原一族、1203年に比企一族、1205年に畠山一族、1213年に和田一族、そして1247年に三浦一族。時政~義時~泰時~経時~時頼と執権職を世襲した北條氏は全ての政敵と政敵予備軍を滅ぼし、初代執権の時政が隠居先の伊豆韮山で没してから32年後には完璧な独裁体制を確立した。と同時に、90年後に鎌倉が陥落するまでは一族内部での愚かな抗争と粛清を繰り返すことになる。
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  ※和田義盛: 治承四年の衣笠で戦死した三浦義明。その長男義宗は長寛元年(1163)に安房長狭氏との合戦で死没している(享年39)。三浦の棟梁は義宗の嫡男
義盛(当時16歳)ではなく、義宗の弟義澄(当時36歳)が継承した。激動する時代を迎えていたから、壮年の義澄に一族の命運を託した選択は正しかったが義盛には「本来ならこちらが三浦本流だ」との自負があり、義村には「分家なのに態度がでかい」ほどの敵愾心があった。二人の関係は円満とは言えず、一説には和田の乱で義村が和田氏を見捨てた背景、とされている。
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  ※三浦の犬: 古今著聞集(鎌倉時代中期の説話集)に載っている話だから信用はできないけれど、御所で着座した義村の上座に若年の千葉胤綱(千葉氏六代当主)が
座った。立腹した義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬ」と呟くと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返した。もちろん和田の乱で義盛を裏切った義村の品性を罵ったものである。

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左:新井城址から油壺湾を眺める   画像をクリック→ 拡大表示
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宝治合戦が勃発した時の執権は五代時頼。四代執権だった兄の経時が寛元四年(1246)閏4月1日に22歳で病死したため、若干20歳で執権を継承している。三浦との全面対決に多少の逡巡を見せつつ安達景盛らの主戦派に押し切られたような印象はあるが、所詮三浦とは共存出来ない程度の自覚はあっただろう。
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三浦側の敗因は...およそ鎌倉武士らしくない泰村の優柔不断な人柄が全てである。
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主戦派だった弟の光村は寛元四年(1246)7月に更迭された前の将軍頼経の復権を旗印にして反北條勢力の結集を策しており、当主の泰村が早めに決起すれば簡単に駆逐される惨敗は避けられた、と思うが...
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いずれにしても北條一族最期のライバルだった三浦氏本家は滅び、縁戚関係にあった 毛呂季光や前将軍 頼経 のシンパも駆逐され、北條得宗(惣領家)の独裁体制が揺るぎないものとなった。
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宝治合戦で三浦本家を見捨てた佐原流盛時 が僅かに残った三浦領を継いで三浦本家の棟梁となったが彼らが幕政の要職に就く機会は訪れず、辛うじて家格こそ保ったが昔日の繁栄を取り戻すことはなかった。
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鎌倉で一族が滅亡してから約260年後の永正十三年(1511)、三浦氏は後北条氏(伊勢新九郎、後の早雲)に攻められ、現在の油壷水族館に近い新井城で頑強な抵抗を続けた三年後に食料が尽きて滅亡した。城兵の血が大量に流れこんだ海が赤黒く染まり、油が浮いた様な眺めから「油壷」と名付けられた、と伝わる。
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  ※三浦氏佐原流: 三浦義明の末子 十郎義連を祖とし、盛連(妻は泰時と離縁した 矢部禅尼)-五男 盛時-六男頼盛と続き三浦姓を名乗って本家の継承を許された。
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  ※後北条氏: 韮山の堀越御所を滅ぼし後に関東を制覇した伊勢新九郎盛時(早雲・宗瑞)は北条姓を名乗っておらず鎌倉北條氏と血縁関係もない。
北条を名乗った最初は嫡子氏綱で、早雲の死後四年が過ぎた大永三年(1523)、早雲と同じ韮山から勢力を広げた時政に倣った、と伝わる。血筋は異なるが姓を同じくした北條(北条)氏に二度滅ぼされた三浦一族、これは歴史の皮肉だろうか。
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  ※毛利季光: 大江廣元 の四男。当初は北條氏に与する予定だったが妻(泰村の娘)に「兄を見捨てるのは武士として如何なのか」と責められ翻意した。
一族の大半が三浦氏と共に滅びたが越後にいた四男経光のみは争乱に関与せず、後の戦国大名安芸毛利氏へと続いていく
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  ※矢部禅尼: 北條泰時に嫁した三浦義村の娘。建久五年(1194)2月2日の泰時元服の際に頼朝が義村の父・義澄に「この若者(泰時)を婿にせよ」と指示し、
義澄は「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた経緯がある。その娘が彼女で、建仁二年(1202)8月泰時に嫁して翌年時氏(時頼の父・早世)を産み、その後離縁(理由は不明)して佐原盛連に再嫁し、光盛・盛連・時連(宝治合戦では三人とも北條側に与した)を産んだ。夫の死没後は三浦の矢部郷(地図)に住んで矢部禅尼を称した。近くには三浦義明廟所の満昌寺(公式サイト)がある。

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右:油壺 新井城址周辺の地図   画像をクリック→ 拡大表示
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執権時頼は三浦氏と縁戚関係にあった千葉氏も滅ぼし、北條一族の地位を不動のものとしている。
梶原・畠山・比企・和田・三浦・千葉、鎌倉幕府の樹立に功績のあった武家の殆どが滅び去って北條独裁が確立された。そんな時代ではあるが、ここまで血を流す必要があったのか...と考えさせられる。
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古参御家人滅亡の流れを追うと背後に明確な意志が働いているのが理解できる。頼朝の死後20年の間に源氏の血を受け継ぐ男子は全て殺された。頼朝にも北條一族にも、平治の乱後に 清盛義朝 の血筋(頼朝義経 や他の兄弟ら)に懸けたような憐憫の感情は見られない。
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いや、憐みの結果が招いた平家の滅亡を反面教師にして、将来危険になるかも知れない芽を容赦なく刈り取ったのだろう。
「娘に婿を迎えて将軍に据えよう、男は殺せ」、そんな声が聞こえてくるようだ。そして最後には冷徹な勝者だけが生き残る。
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宮崎駿の名作「風の谷のナウシカ」の一シーン。クシャナ姫の参謀に着任した平民出身のクロトワに、核レベルの最終兵器「巨神兵」を手に入れるチャンスが訪れる。ここでクロトワは「うだつの上がらぬ平民出の貧乏軍人に巡ってきた、これは天の与えた幸運かそれとも地獄へと誘う罠か」と躊躇する。成功すれば天下を取れるだろうが、失敗すれば路傍の草の露と消え去る運命。
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治承四年の 北條時政 もまた、巡ってきたチャンスに賭けたのではないか、と私は考える。狙うのは 頼朝 の「天下取り」ではなく、その後に頼朝を踏み台にして自分が「天下を盗る」賭け、だ。伊豆韮山で平家傍流の分家として平凡な生涯を終えるか、それともイチかバチかの勝負に賭けてみるか・・・と。


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