天野遠景 は
藤原南家 (wiki) の系で狩野一族の遠縁にあたるが家系には諸説があり、詳細は明らかでない。
現在の伊豆長岡北部の狩野川西岸、天野郷を領有した土豪である。幕府の確立後は韮山挙兵以来の数々の武勲によって九州惣追捕使に任命され、平家残存勢力の掃討と九州の治安維持に功績を挙げたが強引な手法による失敗もあり、10年後には解任されて鎌倉に戻っている。行政手腕よりも殺人に秀でた、いわゆる武闘派の御家人である。
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1.吾妻鏡の初見は治承四年8月20日、韮山から相模国土肥郷(現在の湯河原)に進軍する頼朝軍勢の中に遠景と弟の光家の名が見える。
2.同じく10月19日、駿河の平家軍に合流するため伊豆国鯉名(現在の小稲)から船出しようとした
伊東祐親 を捕えて連行した。
3.元暦元年(1184)6月16日、甲斐源氏
武田信義 の嫡子
一条忠頼 を鎌倉の酒宴で謀殺。駿河での勢力拡大を恐れた
頼朝の命令による。
4.建仁三年(1203)9月2日、北條時政邸(名越)で
比企能員 を謀殺。二代将軍
頼家 の重病に際し、比企一族排斥を企てた
北條時政 の指示。
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【 北條九代記 寿永二年(1183) 12月20日 】.
上総介廣常 を(謀反を企んだ罪で)誅殺。双六を楽しんでいた広常を 梶原景時 と天野遠景が殺したものである。同席の子息能常は自害。
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翌年1月17日には上総一宮の神官が頼朝の元に廣常奉納の兜を持参。高紐には頼朝の大願成就と東国泰平を祈る廣常の願書が付けられ、謀反の意思がない事が判明している。
頼朝は一応後悔の様子を見せて連座した廣常一族の罪を許すが、既に廣常の広大な領地は三浦氏と千葉氏に分け与えられており、旧に復する処置はなかった。誅殺から願書の発見まで全てが予定通り、房総に巨大な軍事力を持っていた上総廣常一族の粛清と考えるべきだろう。
右:狩野茂光の娘婿・天野遠景の墓所と菩提寺 画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月 16日 】 一條忠頼暗殺の記述
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頼朝は「一條忠頼には威勢を振りかざして勝手な振る舞いが多い」と考え、御所で殺害した。夕刻に忠頼を招いて対座し御家人の列する中で酒宴を行った。討手役の 工藤祐経 が銚子を持って進み出たが、相手は名だたる武将なので躊躇して顔色が変った。
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それを見た 小山田有重 が「酌などは老人の役目」と言って座を立ち、祐経から銚子を受け取った。子息の 稲毛重成 と 榛谷重朝 が肴を持って忠頼の前に進み出た。有重は「膳を勧めるには故実に従ってこのように」と子息に教えて袴の裾を括った時に天野遠景が忠頼の左から近寄って刺し殺した。
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頼朝は背後の障子から奥に入り、庭に控えた忠頼の供侍は太刀を抜いて多勢に傷を負わせたが討ち取られた。従者の一人・山村小太郎は遠景を狙ったが俎板を投げつけて昏倒させ、郎従が首を獲った。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 9月 2日 】 比企能員暗殺の記述
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時政は日頃から信心している薬師如来像供養の名目で能員を自邸に招いた。能員 の家人は怪しんで武装した兵を伴うよう進言したが能員は「疑念を招いたり世間を騒がせたりするから」と言って受け付けなかった。一方の時政は甲冑を着けた弓の名手二人を門に立たせ、更に腹巻を着けた天野遠景と 仁田忠常 を西南の板戸の陰に待機させた。やがて平服の能員が郎党2人と雑色5人を従えて到着し廊下から北側の座敷に向った。そこへ遠景と忠常が能員の両腕を掴んで押え付け、庭の竹薮に引きずり込んで刺し殺した。
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嫡男の政景(母は狩野茂光の娘)は承久の乱(1221)の功績によって武蔵・上野・遠江・美濃など各地に所領を得ているが伊豆に引退した遠景の方は晩年が不遇だったらしい。出身地の山裾に真言密教の智源法師を迎えて薬師堂を建て、共に修羅場を生き抜いた持仏の薬師如来像を祀って読経しつつ余生を送ったという。建永ニ年(1207年・10月に改元して建元)には挙兵以来の功績11条を挙げ幕府に恩賞を願い出ている。幾つかの史料を併読すると、死没したのはこの年らしい。合戦で誰々を討ち取ったなどの具体的な功績の記録がなく、暗殺場面と不遇な晩年に名を残しているのが人柄を表しているようで...後味が悪い。
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【 吾妻鏡 建永ニ年(1207) 6月2日 】 天野遠景の請願
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天野民部入道蓮景(俗名を遠景)が恩賞を求める願状を執権の 義時 に提出した。治承四年8月の山木合戦から後の様々な勲功を11ヶ状の述懐にしてあり、大江廣元がこれを受け取った。 .
面白い事に、天野遠景の子孫が
新田義貞 の鎌倉攻めに加わり、極楽寺坂で戦った記録が軍忠状に残っている。100年後に北條氏への遺恨を晴らした、か。
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【 天野経顕 軍忠状※ 天野周防七郎左衛門経顕の申請 子息三郎経政関東合戦の事 】
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去る元弘三年5月18日に経顕と経政は稲村ヶ崎の敵陣を突破して稲瀬川前浜の鳥居脇で合戦、若党の犬居左衛門五郎茂宗・小河彦七安重・中間孫五郎・藤次らが討死した、云々。
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※軍忠状: 合戦で軍功を挙げた事実を申請する書類。本領を安堵したり新たな領地を得るために本人の主人名で発行された。
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蛇足だが、400年後の子孫康景は徳川家康に仕えて駿河興国寺城主として大名となったが、家臣が盗みを働いた天領の民を殺した事件が原因で駿河の代官である井出正次とトラブルになり、最後にはその家臣を庇って大名の身分を棄てた有名な逸話を残している。