大津の打出ヶ浜で
今井兼平と合流。残る300騎を率いて甲斐源氏
一條忠頼 の6000騎と最期の死闘を繰り広げ、粟津の松原で自刃しようと
したが馬が深田に入って動けなくなった。ここで三浦の石田為久
※の矢に内兜を射られ(平家物語)、首のない死体が埋葬された。
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六条河原に晒された義仲首級の正確な情報はないが、慰霊墓の他に数ヶ所の首塚あり、その一つ京都の
高台寺(外部リンク)を紹介しておく。
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今井兼平の墓は膳所から4kmほど南東のJR石山駅近く(
地図)にあるが、江戸時代の膳所藩二代藩主本多俊次が建てた慰霊墓を今井家の
子孫が再建したもの。胴塚としては離れすぎている。また兼平が開基と伝わる川中島の切勝寺そばの今井神社(
地図)にも兼平塚がある。
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※石田為久: 三浦義継三男の葦名為清(
三浦義明 の弟で
岡崎義實 の兄)の嫡子為景の子で、相模国石田郷(現在の伊勢原市)を本拠とした。
義仲を討った恩賞として近江国石田村を得て土着、石田三成が子孫を称している。
平家物語と吾妻鏡は石田為久が討ち取った、愚管抄は義経郎党の
伊勢義盛 が討ち取った、と書いている。
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【 吾妻鏡 元暦元年1月20日 】.
蒲冠者 範頼 と 九郎義経 が 頼朝 の代官として義仲追討のため数万騎を率いて上洛。範頼は勢多から、義経は宇治から攻め上った。
義仲は 志田義廣(義朝の弟)や今井兼平らと防戦したが敗北した。範頼と義経は 河越重頼 と嫡男重房 ・ 佐々木高綱 ・ 畠山重忠 ・
渋谷重国 らを伴い御所を警護、一條忠頼 らが前線に向かい、近江国粟津で相模国の住人石田次郎が義仲を討ち取った。
錦織義広(近江源氏山本義経の子)らは行方不明になった。 伝承に拠れば、義仲討死の数年後に美しい尼僧が義仲の墓近くに庵を結んで供養を続けた。里人が由縁を尋ねると「無名の女」と答えるだけ
だったが、実は落飾した義仲愛妾の
巴御前だった。庵は「無名庵」と呼ばれ、尼の死後に巴寺→ 木曽寺→ 木曽塚→ 義仲寺と名を変えた。
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ちなみに巴の名が現れたのは平家物語が最初で、源平盛衰記などに載っている記事は全て平家物語に脚色を加えたフィクションに過ぎない。