文治元年(1185)に完成した勝長寿院には本尊の金色阿弥陀仏像をはじめとして大仏師
運慶が彫った五大尊像などが並び、阿弥陀堂・五仏堂・法華堂・三重の塔などを備える巨大な寺だったと伝わる。この寺は康元元年(1256)12月に焼失したが、正嘉ニ年(1258)になって五代執権
北條時頼が再建、その後は室町時代になって再び火災で失われ、建て直される事もなく廃寺となった。現在ではドブ川の岸に石碑と五輪塔があるだけで、華やかだった往時の面影はない。
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無秩序な開発を逃れたため発掘調査が完了した二階堂の永福寺跡(鎌倉宮の北側)と違って、周辺は既に住宅密集地となっている。元々ここにあった主従の墓と伝わる古い五輪塔は開発と共に失われ、昭和59年になって住民有志によって再建された慰霊墓と石碑のみが空しく残っている。
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【吾妻鏡 建長八年(1256年・10月5日に改元して康元元年) 12月11日】.
亥の刻(夜10時頃)に 頼朝の法華堂(持仏堂・現在の白旗神社の位置)の前が火事となった。北風が激しく吹き勝長寿院と弥勒堂・五仏堂の塔などが全て焼け落ちてしまった。本尊と一切経のみ、辛うじて持ち出すことができた。
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【吾妻鏡 正嘉ニ年(1258) 6月4日】.
勝長寿院の再建落成供養が行われた。大阿闍梨は松殿法印良基、任に当たる僧は30人。
権大僧都定宗・権少僧都寛位・権少僧都聖尊・権少僧都定憲・権少僧都慈暁・権少僧都浄禅・権少僧都印教・権律師尋快・権律師成遍・権律師頼承・権律師良明・権律師浄宴・権律師圓審・権律師禅遍・権律師定寶・権律師信成・権律師頼承・権律師良顕・権律師定撰・権律師慶尊・法橋宗信・已講能海・阿闍梨尊審・阿闍梨行秀・阿闍梨禅信・阿闍梨禅尊・大法師定宣・阿闍梨源重・大法師圓全・大法師定融。
巳の刻(午前10時頃)将軍(第六代の 宗尊親王)※が御束帯・紫袍・御帯劔の姿で臨席。 .
※鎌倉幕府の歴代将軍 初代頼朝から九代守邦親王まで。.
頼朝−
頼家
(頼朝長男)−
実朝 (頼朝二男)−
藤原頼経 (九条家)−
藤原頼嗣(九条家)−宗尊親王(後嵯峨天皇皇子)−惟康親王(宗尊親王長男)−久明親王(後深草天皇の第六皇子)−守邦親王(惟康親王の娘の子)