鎌倉時代後期の北條得宗家の執務場所は
寶戒寺(サイト内リンク・別窓)の地にあったから、200m南東の高台に「廟所」のイメージで東勝寺を建てたのではないか、と思う。寶戒寺は
後醍醐天皇の勅命を受けた
足利尊氏が鎌倉幕府滅亡2年後の建武二年(1335)に建立した、北條一族を弔うための寺だった。
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何回か行われた東勝寺跡発掘調査では三つ鱗紋(北條紋)の瓦や火災の跡・石畳などが見付かったが「腹切りやぐら」を含めたエリアから人骨は発見されず、焼け残った遺骸は新田の兵や時宗の僧らが別の場所(主として由比ヶ浜)に運んで埋葬したと推測されている。太平記は「東勝寺で死んだのは北條一門の283人と家臣など870数人、鎌倉全体では6000余人」としており、軍記物語の誇張があったにしても相当数の遺体処理が必要だった。
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浄明寺一丁目から大町に抜ける釈迦堂口切通し(現在は通行禁止)一帯の山中にあった「釈迦堂奥やぐら群」には焼けた痕跡のある多くの人骨があったらしい。焼け落ちた東勝寺から運び出した戦死者をここに葬ったとの伝説も残っていたが、昭和四十年代の宅地開発で多くの「やぐら」が破壊され遺物も失われてしまった。遺物の中には元弘三年5月28日銘(鎌倉合戦からの七日目)が彫られた五輪塔残欠もあったと伝わっている。
最後の第14代執権
北條高時(厳密には14代高時→ 15代貞顕→ 16代守時)の廟は江戸時代中期まで円覚寺塔頭の仏日庵(時宗を含む北條氏の廟所)に光堂(日光殿)として残っていた。老朽化したため現在の続燈庵(14世紀中盤の創建・山門内側は拝観不可)に建替えた際に高時の遺骸を納めた可能性(この意味が判らない)のある石郭が発見され、位牌や遺骨などは再び仏日庵の時宗廟(開基廟)に移され時宗・貞時と共に祀られたという。
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開基廟は文化八年(1811)に建て直されており、新編相模風土記は「堂の床下にはそれぞれの遺骨を納めた石櫃がある」と記述している。高時の首に関しては釈迦堂ヶ谷奥のやぐらに葬ったとの伝承や、二階堂の山に家臣が首を持って逃れ、
瑞泉寺(外部リンク)山門から延びる天園ハイキングコース途中の「北條首やぐら」に葬ったとも言われる。単なる伝承の可能性が高いが、天園の方はいつか歩きたいとは思う。
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円覚寺に伝わる供養記に拠れば、幕府滅亡10年前の元亨三年 (1323) に鎌倉三十八ヶ所の寺から2030人の僧侶を集めて九代執権
北條貞時 の十三回忌法要が行われ、東勝寺からは53人の僧が加わったとある。建長寺からは388人・円覚寺からは350人・浄智寺からは224人だから、鎌倉五山に次ぐ規模の寺だったらしい。
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一族の滅亡と共に焼け落ちた東勝寺は直後に再建されたが150年後文明十八年 (1486) に廃寺となり、永正年代(1504〜1521年・北条早雲が相模に進出した頃)に再興されたものの、元亀四年 (1573年・この年に信玄死去) 頃に再び廃寺となって再建される事はなかった。北條氏滅亡の時に東勝寺住職だった信海和尚は本尊の大日如来を焼け落ちる本堂から救い出して逗子市池子に東勝寺(後に東昌寺と改名)を建立した、と伝えられている。