六波羅合戦に敗れた
源義朝一行はわずか30数騎となって琵琶湖畔の堅田の浦へ。舟で対岸に渡ろうとしたが風が強いためやむなく引き返して勢多(瀬田)を目指し、目立たぬようにと考えて同行の
波多野義通、
三浦荒次郎義澄、
斎藤別当實盛、
岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、
熊谷次郎直実、平山武者所季重、
足立右馬允遠元、金子十郎家忠、
上総介八郎広常ら20数名に暇を与えた。残ったのは
悪源太義平・
中宮大夫進朝長・
右兵衛佐頼朝の三兄弟と佐渡式部大輔重成、
平賀義宣(義信)、郎党の
鎌田政家 、従僕の
金王丸のわずか八騎となった。
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勢多を過ぎ、野路(草津市)の辺りで頼朝が遅れて脱落し落人狩りと斬り合うなどの事件もあったが、野洲河原(野洲市)で何とか追い付き合流。やがて鏡の里(竜王町)を過ぎ、平家方が固めている筈の不破の関(関ヶ原町)を避け北へ迂回した。馬と武具を捨て伊吹山麓の雪の中を歩き、小関(関ヶ原町北部)を経て青墓宿(吾妻鏡には青波賀)に入った。
青墓の長者大炊は古くから義朝の縁者で、大炊の娘・延寿は義朝の寵愛を受け夜叉御前(当時10歳)を産んでいる。
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頼朝は小関の手前・伊吹山麓の辺りで脱落、道に迷った挙句小関とは反対方向の北浅井で老夫婦に匿われ、数日の後に青墓にたどり着いた。しかしこの頃には義朝は青墓を出立し知多の野間で殺されている。平治物語に拠れば、頼朝は青墓を出て1ヶ月ほど後に関ヶ原で捕縛され六波羅に送られた。