加賀美遠光の長男 秋山光朝の史蹟 

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元暦二年(1185年・8月14日に改元して文治元年)の3月24日に壇ノ浦で平家一門が滅亡。その半年後には光朝が謀反の疑いを受け鎌倉で斬首された。
直接の理由は 平重盛 の娘(六女の茂子)を娶ったことで、この婚姻は平家再興を企んだものとされた。 義経 の指揮下で平家追討に転戦した武将にはあり得ない冤罪で、明らかに甲斐源氏の弱体化を狙う戦略の一環である。
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同年7月25日には武田信義 の嫡男 一條忠頼 が鎌倉で謀殺され、同年の10月には鎌倉から派遣した土佐坊昌俊が京都堀河の義経館を襲撃しているから、義経行家連合の粛清と一部甲斐源氏の追討を並行して進めたことになる。

右:南アルプス市の西部、秋山光朝の本領 鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 1月6日 】  源範頼 に宛てた頼朝書状の一部。光朝の処遇を記載。
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九州の武士への命令書を添付した。横着坊主(後白河法皇 を差す)の言葉など無視して軍務に励み、軍功を挙げるように指示してある。甲斐源氏の武将としては石和(伊澤)信光殿と加賀美遠光殿には良く配慮して大切に処遇せよ。
加賀美太郎(秋山光朝)は遠光殿の兄ではあるが、平家に付いたり 木曽義仲 に付いたり良くない行動があるので恩賞などを与える価値のない人物である。ただ遠光殿を大切に扱うべきである。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 8月4日 】
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前・備前守 源行家 は将軍 頼朝の叔父に当る。再三平家との合戦に派遣されたのに最後まで軍功がなく、頼朝も恩賞を与えなかった。また進んで鎌倉に参向する事もなかった。西国に駐屯中も関東の威を振りかざして民衆を譴責するのみならず謀反の意図を抱いているのが発覚したため、近隣の御家人を集めて追討せよとの指示書を 佐々木定綱 に宛てて本日発行した。
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一方の甲斐源氏も決して一枚岩ではない。鎌倉と距離を置いて甲斐源氏の独立性を維持しようと考えた信義らと、加賀美遠光小笠原長清石和信光 など頼朝に従属して生き残りを図るグループが互いに牽制し合う情勢だった。甲斐源氏を支配下に置きたい頼朝の思惑に屈する隙があった、という事か。
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秋山旧事記に拠れば、光朝は鎌倉から甲斐に逃れ雨鳴城(秋山郷の西2km・城山の南斜面)で自刃した。雨鳴城に籠った光朝追討に向った鎌倉軍の先鋒は実弟の小笠原長清。大手の将は大多和養成で搦手の将は 中条家長八田知家 の養子)、籠城軍は奮戦の末に水を断たれて全滅し、光朝は元暦元年(1184)10月11日に自害と記録しているが、これは後世に付け足した可能性が高く、全面的には信頼できない。この前後の吾妻鏡には義経謀反に関する記載が多く、光朝を鎌倉で殺害したか甲斐で追討したかの情報は皆無である。
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いずれにしても一族全てが滅びたのではなく、光朝の遺児らは加賀美一族の庇護を受けて生き延びたらしい。その後は甲斐武田氏を継承した石和信光の家臣となり、承久の乱(1221年)で鎌倉方に加わってやや勢力を回復、戦国時代に甲斐武田氏の武将として名を残している。
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光昌寺の1kmほど北西の広誓院(地図 は光朝の子孫・秋山紀伊守の祈願所だった。武田勝頼の侍大将8人の一人として武田一族が滅亡した 天目山(別窓)まで従い、武田一族滅亡の地・田野で討死した人物。景徳院には共に討死した勝頼の側近の位牌が多く祀られており、その中に秋山を名乗る武者が多いのも興味を惹かれる。


     

           上: 加賀美遠光の長男で秋山を名乗った太郎光朝の館跡、熊野神社。南北の小川を防御の壕とし、全体が小高い丘を形成している( 地図)。


     

           上: 社殿は近年の建造でやや風情に欠ける。もちろん遺構などはなく、北側に見られる石垣の跡はかなり後世のものと推測される。


     

           左: 開基は秋山光朝、墓地の一角に廟所がある光昌寺(創建当時は光朝寺)。慶長の頃に雪嶺和尚が中興したが、現在は無住である。
雪嶺和尚については、慶安年間(1648〜1651)に同名の臨済宗の僧が駿河で活動した記録があるが、同一人物かどうかは不明。
基礎部分の石垣と本堂が何となくアンバランスで、これは近年に立て直す前はもっと小さな堂だったような感じがする。
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           中: 果樹畑の向こうには館の跡と伝わる熊野神社。北側の高みから寺の付近まで全域が光朝の館跡だったと考えられる。
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           右: 本堂左手の廟所には小さな堂と加賀美遠光・光朝夫妻の五輪塔、周辺から集められた一族の墓石が残る。


     

           左: 廟所裏手には光朝が籠って鎌倉の討手と戦った(と伝わる)雨鳴城へ続く山並み。館を護った壕は狭い用水になって流れている。
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           中&右: 累々と並ぶ一族の五輪塔。明治初期には78基あったと伝わるが、残存は30基程度か。既に組み合せも不明、もちろん刻銘もない。


     

           左: 霊廟には秋山光朝坐像と僧形の 加賀美遠光 の坐像を収蔵。どちらも高さ48cmで享保十九年(1734・江戸中期)の銘が刻まれている。
取りあえず市の文化財紹介サイトの画像(参考・別窓)を転用した。通常は施錠、拝観は教育委員会(055-282-7269)に連絡が必要となる。
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           中: 五輪塔は形状などの特徴から左が秋山光朝(113cm)・中央が加賀美遠光(105cm)・右が光朝室(115cm)の墓と推定されている。
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           右: いづれも後世の慰霊墓で中央(遠光)は鎌倉時代初期の様式、左と右には地輪に貞治四年(1362・室町時代)の刻銘がある。
教育委員会に拠れば左が光朝・右が光朝室の墓。光朝墓の側面に貞治四年(1362年)の刻印があり、2基は同時期に建てられた物らしい。



更に、光昌寺の1km南にある大聖金剛山息障院明王寺(公式サイト)の縁起に拠れば、
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熊野権現の別当寺(神宮寺)で、小林境(昔からの地名)に祭礼場(祇園会)と角力場(相撲場)があった。頼朝 は加賀美遠光の二男小笠原長清の婚礼の
媒酌について 梶原景時を介して使者を派遣し、この使者は役目を終えた後に近隣で評判の高い明王寺相撲の見物に立ち寄った。
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ちょうど秋山光朝の家臣で剛勇で知られた神田大学為時が五人抜きの勝ち名乗りを受ける時で、力自慢の使者は飛び入りで勝負を挑んだ。連戦で疲れていた
神田為時が敗れたため見物人の不満が募って周囲から石が投げられ、怒った使者が太刀を抜いたため神田為時が彼を斬り殺した。
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後日この騒ぎを知った頼朝は秋山光朝の妻が平重盛の娘だった事に加えて平家追討への参加が遅れた事などの不興も重なって追討の軍勢を派遣、西の尾根に
築いた北山城(雨鳴城)に籠った光朝は28歳で自害した、と伝わっている。やや優柔不断の傾向がある人物だった、のかも知れない。
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明王寺に隣接する熊野神社の大祭は11月3日、御輿が渡御する際に石の祠と御輿を置く石の台がある舂米東境(字名)の相撲場跡に立ち寄る習慣がある。
舂は春ではなく日の部分が臼。「舂米」は律令制の租税に使われた言葉が転化した地名らしい。
明王寺の地図は(こちら)、相撲場跡の地図は(こちら)。明王寺の200mほど東、消防団第二分団の詰所の裏手にある。
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また、明王寺1km南西の山裾には甲斐源氏粛清の犠牲になった悲運の武将一條忠頼の墓所と伝わる 妙楽寺の痕跡(別窓)が残っている。


     

           左: 正式には大聖金剛山息障院明王寺、宝亀元年(770)、奈良時代の僧・儀丹行圓の開基による。当初は山岳信仰だったと推測される。
増穂を流れる利根川上流(儀丹の滝あり)で修行の後に不動明王の霊験を得て寺を開いた。 三論宗華厳宗、を経て現在は 真言宗(共に wiki) 。
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           中: 熊野三神を祀る熊野神社と不動明王を祀る明王寺は神仏混淆時代は一体だった。慶応四年(1868)の神仏分離令を受けて不動明王は
明王寺の庫裏に遷され、熊野権現と不動堂の建物は舂米地区に寄進された。以来は地域の氏神として現在に至っている。
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           右: 慶応四年までは明王寺の本堂(不動堂)だった熊野神社本殿。江戸時代後半に建立された不動堂に熊野三神を合祀したらしい。


     

           上: 消防団詰所の裏手、熊野神社の例大祭には御輿渡御の休み場となる祭場である。鎌倉時代初期に相撲の裁定が原因となって見物人が石を投げて
抗議し、当事者同士が斬り合う騒動を引き起こした事から「石投げ相撲場跡」と呼ばれた。梶原景時の名が出てくるのも面白い。
小さな祠と御輿を置く自然石の台座が置かれている。今回の訪問は11/2、残念ながら御輿の渡御が行われる前日だった。
「石投げ相撲場跡」の住所は南巨摩郡富士川町小林1149、地図はこちら

この頁は2022年 8月 6日に更新しました。