義仲は亡父 義賢の館(上野国多胡館)へ南下 

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多胡館跡のある群馬県吉井町は 源義賢 の館跡としてよりもむしろ 日本三古碑 (wiki) の一つ 多胡碑 の存在で広く知られている。和銅四年(711)の刻銘が残る石碑であり、
銘文に「上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡から三百戸を分けて新しい郡とし羊に与えた。郡の名は多胡」の内容を含む。これが多胡の名が歴史に現われた最初で「羊」は
渡来系の吉井連(よしいのむらじ、新羅系帰化人)が任命した長と推定されている。
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多胡の名は「多くの胡人」を意味するとの説もあるが、胡は春秋時代(紀元前数百年)から続く姓でもあり(例えば胡錦濤ね)、どちらが真実かは判らない。
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多胡館築造の経緯は不明だが、武蔵七党の祖にあたる小野氏の系図に拠れば 「後三年の役(1083〜1087)の際に横山党は 源義家 に従い参戦したが上野国の多胡高経は
従わず、義家は児玉党の有道遠峯嫡男と児玉広行に多胡氏討伐を命じ、広行は弟の経行を代官に任じて惟宗姓(秦氏の子孫)の多胡高経を滅ぼした」
との記載がある。
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多胡碑に「和銅四年(711)に片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡から三百戸を分けて多胡郡とし羊に与えた。」 とある羊太夫の子孫が多胡氏を名乗ってここに一族の拠点を設け、
350年ほど領有していた可能性が高い。詳細は多胡碑の紹介(別窓)で。
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そして多胡碑の建立から450年が過ぎた平安時代末期、父 為義の命を受けた義賢が東国進出の拠点にしたのが多胡郷だった。為義と多胡の接点は判らないが、下野守に任じた
義家やその跡を継いで下野国に勢力を広げた :源義国 の動きにも通じる、東国への影響力拡大の一端だろう。
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平成十一年の吉井町教育委員会の発掘調査調査の際に濠の底から嘉承三年(1108)の浅間山大噴火で堆積した火山礫が出土し、この噴火以前に館と壕が存在していたと確認
された。義賢が多胡館に入ったのは久寿元年(1154)以前だから、その50年も前には既に濠と土塁を巡らした平城の様式を整えていた。
多胡郷あるいは吉井郡が辿った長い歴史から見れば、源義賢義仲の滞在は一瞬の事件に過ぎなかった。


     

           上: 元郷と呼ばれる丘陵の平坦地に一辺約110mの館跡が残っている。北面両隅に館の敷地を囲む土塁と濠の跡があり、南面中央に正門と、
北面の東寄りに裏門の痕跡が現在も確認できる。宅地化などのため敷地内の詳細は確認できないが、管理の良い歴史散策路を歩いて全体の
姿を想像できる。上信越道の吉井ICから約600m、住所は高崎市吉井町多胡36(地図)だが、少し判りにくい。
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周辺道路の痕跡などから推定すると館を中心に集落が形成されており、更には散策路横の薬師塚古墳は七世紀後半の築造(つまり多胡郡が
成立する少し前)で、石室の中まで入れるから、時間が許せばここに立寄るのも面白い。詳細は 紹介サイト がお薦めだ。


     

           左: 周辺は畑の中に人家が点在するエリアで、周辺に数m程度の起伏はあるが特に防御に重点を置いた城砦の様相は見られない。
義賢が多古に入った1150年頃は多胡氏が滅亡して100年未満だから拠点を構える下地が残っていたのだろう。
先祖の 源頼義 や義家は上野介だった 平直方 と深い接点を持っていたから、そのコネを利用したのかも知れない。
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           中&右: 良く整備された散策路は20mほどで途切れ、その先には林と藪が広がっている。史跡を見る楽しさは特に感じられない。


     

           上: 土塁や濠の痕跡らしい地形は確かに確認できるが、これが平安時代に築造したものが現在まで残っていると考えて良いのかどうか。
南北に確認できた筈の正門と裏門の痕跡も発掘した時点のもので、現在は既に埋め戻されている。要するに史跡としては見学する面白みは
乏しいのを覚悟して訪問する方が良い。

この頁は2022年 8月 7日に更新しました。