与一所縁の那須神社と、一族の菩提寺・須峯山玄性寺 

 
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那須神田城 左:与一誕生の地と伝わる那須城(神田城)  画像をクリック→拡大表示
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地元の史料に拠れば、那須与一 の曽祖父に当る須藤資家が天治二年(1125)に神田城を築き、ここで与一が誕生した事になっているが異説もあり、詳細は判らない。高さ2〜3mの土塁(東西80m×南北150m)に囲まれ一部に水濠もある、城よりも平安期の典型的な土豪の館跡と表現するべきか(地図)。
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国道沿いにトイレを備えた駐車場を備えている。簡単城址を起点にして4km北に 那須官衙遺跡、5km北に なかがわ水遊園、那珂川の対岸6kmに ゆりがねの湯、7km北に水戸黄門が発掘保存を指揮した 上侍塚古墳、更に1q北に三古碑の一つ 那須国造碑、15km北に 那須神社、那須一族の菩提寺である玄性寺は約10km北西にある。見学や遊びのスポットなど、時間があれば周辺に点在する 下野東山道周辺の史跡群(別窓)を巡るのも面白い。
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同時代の史料に那須与一の名は見えず、屋島で扇の的を射た逸話も含めて吾妻鏡にも記載されていない。平家物語や源平盛衰記などの軍記物だけに見られる人物であるため、実在を疑問視する説もある。那須氏の系図にも信憑性に欠ける部分が多い。
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複数の人物に関する情報を集積して作り上げた人物像が与一、その可能性もある。
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伝承などを繋ぎ合わせれば、関白藤原道長の曾孫資家(生母は源頼信(河内源氏の祖)の娘)が奥州白河の賊を討伐し恩賞として得た下野国那須郡に土着、「那須の藤原」を意味する須藤を名乗ったのが那須一族の始まりとされる。資家の嫡子が那須武者所(院を警護する武士)の須藤宗資、その末子(十一男・若い頃の名乗りは宗隆)が那須氏当主を継承して父の名・資隆を継いだ那須与一、と推測はできる。

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即成院の与一墓 右:京都東山 即成院の那須与一墓     たぶん供養の墓だと思うけど...
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源平合戦では長兄の光隆から九男の朝隆までが平家側に加わったため失脚し、源氏側だった十男為隆も戦場で義経の命令に背いたため逃亡、結果として与一が 繰り上げ当選 (笑)して家督を継いだ、らしい。
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  ※十男為隆:信濃国戸福寺に隠れ、後に許されて千本城(地図)を築いた。当初は戸福寺、後に須藤(那須の藤原)を名乗り那須千本氏の祖
となった。ただし千本氏の名乗りは後世で、千本城のある国道294号周辺では千本と須藤の地名が混在している。観光牧場として有名な千本松牧場 は地縁か血縁かも知れない。
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那須七党は那須氏の他に、同族の蘆野氏・伊王野氏・千本氏・福原氏、家臣の大関氏・大田原氏がある。それぞれ独立性が強く、緩い連衡と時には離反を繰り返しつつ江戸時代には旗本として徳川氏に仕えている。
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与一の晩年については、山城国伏見で没して即成院に葬ったと伝わっている。墓石は現京都東山区の 光明山即成院(wiki)にあるが、これは後世の供養墓らしい。後白河法皇 の第六皇女 覲子内親王(宣陽門院・1181〜1252)が 「即成院を中興して所領の下野国那須庄を寄進した」 との史料があり、幼い頃の彼女が与一と何らかの接点があったか、あるいは娘時代に平家物語を呼んで感動した、とかの可能性はある。
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ただし創建当初は伏見にあった即成院は安土桃山時代を筆頭に数度の移転を繰り返しており、石塔の詳細な由来は確認できていないが、「目指す的を確実に射抜く」ことから広い信仰を集めているらしい。
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那須玄性寺の寺伝に拠れば、与一の兄で二代那須氏当主を継承した兄の資之が那須に功照院を建て分骨を埋葬したと伝わる。功照院は永正十一年(1514)に廃寺になり、天正十八年(1590)に那須資景(那須藩1万4千石初代藩主)が玄性寺(曹洞宗)と改め一族の菩提寺として再建した。那須氏はもちろん即成院ではなく玄性寺を本墓としている。京都東山の泉涌寺や三十三間堂にも近い観光地にある即成院と違って玄性寺のある福原は那須でも特に辺鄙なエリア、訪れる観光客も多いとは言えない。

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              宇都宮氏と那須氏が交差する藤原北家の略系図

藤原(中臣)鎌足─┬─武智麻呂(南家の祖)──子孫に工藤氏・狩野氏・伊東氏・二階堂氏・相良氏・吉川氏・天野氏 など
        │
        └─不比等(北家の祖)───房前───真楯───内麻呂───冬嗣───長良───基経───忠平───師輔─┐
                                                            │
┌───────────────────────────────────────────────────────────┘
│                    ↓兼房の五男(異説あり)
│  ↓摂関(藤原北家) ↓摂関(道長の兄) ↓宇都宮氏祖 ↓二代    ↓三代        ↓四代    ↓五代
└──藤原兼家─┬─兼隆───兼房───宗円─┬─八田宗綱──┬─朝綱─┬─業綱──┬─頼綱
        │              │       │    │
        │              └─中原宗房  │    ├─公頼(氏家氏)─
        │                      │    │
        │                      │    └─頼資(那須氏の養子へ)───
        │                      │
        │                      ├─知家─┬─知重(小田氏)─ 
        │                      │    │
        │                      │    ├─知基(茂木氏)─ 
        │                      │    │ 
        │                      │    ├─時家(高野氏)─ 
        │                      │    │ 
        │                      │    ├─家政(宍戸氏)─
        │                      │    │
        │                      │    └─家長(中条氏)─
        │                      │
        │                      └─寒河尼(小山政光室・結城朝光の母・頼朝の乳母)
        │
        │ ↓摂関(道兼の弟)           ↓那須に土着し須藤を名乗る  ↓那須氏初代
        └─道長───長家───道家───資家(貞信)───宗資───資隆──┬─光隆
                                          │
                                          ├─泰隆
                                          │
                                          ├─幹隆
                                          │
                                          ├─久隆(福原氏)────資広
                                          │
                                          ├─資之(三代当主)─┬─資広(久隆の養子へ)
                                          │         │ ↓宇都宮朝綱の子または資隆の庶子を婿養子に迎えた
                                          ├─実隆      └─頼資(四代当主)─┬─光資────┬─資村
                                          │                   │
                                          ├─満隆                ├─資長(伊王野氏)─
                                          │                   │
                                          ├─義隆                ├─朝資(荏原氏)─
                                          │                   │
                                          ├─朝隆                ├─広資(味岡氏)─
                                          │                   │
                                          ├─為隆(須藤氏→千本氏)        ├─資家(稲沢氏)─
                                          │                   │
                                          └─資隆(与一・二代当主)        ├─資氏(河田氏)─
                                             (初名は宗隆、妻は新田義重娘)   │
                                                              ├─治資(矢田氏)─
                                                              │
                                                              ├─治資(矢田氏)─
                                                              │
                                                              └─小栗頼重室
                                                
     

           左: 国道から拝殿まで真っ直ぐ300mの参道が続く那須神社(地図)。左側は道の駅 那須与一の郷(別窓)に隣接しており、駐車や休憩・飲食の
不便を感じることなく参拝できる。創建は第十六代仁徳天皇(在位:313〜399年)の頃、概ね神話の世界だ。
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更に延暦年間(782〜806)には征夷大将軍の 坂上田村麻呂 が誉田別尊(第十五代応神天皇)を祀って八幡宮(=応神天皇)に改めたという。 これは陸奥国に於ける蝦夷の抵抗が最も激しかった時代で、延暦八年(789)には征東大将軍に任じた紀古佐美の官軍が 阿弖流為(アテルイ)
の軍勢に惨敗を喫している。交代した征討使の田村麻呂が陸奥に向う途中で宇佐八幡宮を勧請したのだろうか。
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           中: 東山道は那須神社の約2km東、那珂川に沿って北上していた。坂上田村麻呂が遠征の途上に立ち寄り延暦二十一年(802)6月には投降した
蝦夷の指導者アテルイとモレを連行して都に向ったのもこの東山道である。田村麻呂は助命を願ったが、朝廷は「野性獣心、反復して定まりなし」 として二人を斬首した(日本紀略・平安期の歴史書に拠る)。
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           右: 杉並木左手の賑やかな道の駅と対照的に静寂な参道を神門へ。秋の例大祭が敬老の日(9月15日)なのは旧暦からの習慣か。
春の例大祭(3月15日)には獅子舞・神楽・流鏑馬なども奉納される。


     

           左: 石橋から楼門(神門)へ。那須氏没落後に黒羽城に入って那須一帯を支配した大関氏は那須神社を氏神と崇め、天正五年(1577)には楼門
および拝殿と本殿を再建して寄進した。例大祭には城主自らの臨席が習慣となったと伝わる。
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※黒羽城: 城址公園として整備され奥の細道を辿る芭蕉が城下に14日間逗留したのを記念した 芭蕉の館(観光協会サイト・ 地図)や市営の
立ち寄り温泉 五峰の湯 なども併設している。黒羽観光の中心地だ。
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           中&右: 神門の両袖には壮年時代の与一像(左)と老年の白髪姿になった与一像が祀ってある。同じ弓の名手浅利余一義成を祀った山梨中央市の
諏訪神社随身門にも同様に老若の像二体が飾ってあったっけ。浅利輿一義成の本領と坂額について(別窓)を参考に。


     

           左&中: 時代を戻して..平安末期にはこの地に土着した那須一族の守護神社となり、屋島の渚での与一は那須神社の八幡大菩薩に祈って扇の的を
射落とした。その加護に感謝して凱旋後に土佐杉で社殿を再建し、天正五年の黒羽城主も同じく土佐杉を用いたと伝わっている。
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創建当初に金瓊(黄金の玉)を埋めて塚を築いた経緯から金丸八幡宮と呼んだ社名を明治六年に那須神社に改めた。平成二十六年には本殿
(中央画像) と楼門が国の重要文化財に指定されている。拝殿はやや様式が違って見えるので建造年代が異なるのかも知れない。
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           右: 参道の途中から東側、田植えの終った水田越しに黒羽の方向を撮影。農道の延長線に少し濃くみえる部分が黒羽城の付近だろうか。


     

           左: 大田原市福原の山裾に建つ曹洞宗玄性寺(地図
)、フルネームは須峯山瑠璃光院玄性寺で、薬師如来を本尊とする。那珂川支流の箒川南岸に
あり、那珂川に沿った道を南東に5kmほど進むと那須官衙遺跡があり、なす風土記の丘資料館(公式サイト)がある。
家族連れなら国道294号で箒川を渡った右手にある淡水魚飼育や水遊びをテーマにしたなかがわ水遊館(公式サイト)も楽しめる。
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           中: 本堂に向き合って山裾の高みにある稲積稲荷社への参道があり、那須家墓所は参道右手奥を登った墓地の一角に設けられている。
これは多分、典型的な神仏習合時代の名残りだろう。参道入口の右側には官衙遺跡近くの福原城跡から移したと伝わる矢剪石(意味不明、
矢竹を切り揃える台石か?)などが展示してある。特に撮影の必要なしと判断して素通りした。
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           右: 玄性寺は那須一族の菩提寺で、三代当主の資之(与一の兄)が京都東山の即成院に埋葬された弟の与一宗隆(後の資隆)の分骨を受けて建立した
功照院が始まりと伝わる。功照院は永正十一年(1514)に廃寺となり、五歳で那須家を継承した資景が天正十八年(1590)に玄性寺と
改めて再建した。資景の院号が須峯で嫡男資重の院号が玄性、資景は早世した息子の菩提を弔って須峯山玄性寺を建立したらしい。


     

           左: 墓所の正面は二基の宝篋印塔で右側は那須藩の初代藩主資景(明暦二年(1656年)没)、左側は正室の小山氏娘(没年不詳)。
この形からも墓所の主役が与一ではなく資景夫妻だと判断できる。その意味でも与一の墓石が分骨を埋葬した当初のものかは疑問だ。
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           中&右: 墓石は左から見てF那須資興の嫡子(詳しく調べないと該当者が誰か不明だが、実父は丹後宮津藩主の本荘宗秀と伝わっている)・
E那須資隆(那須氏初代)・D那須宗隆(二代与一)・C那須資景室・B那須資景(江戸時代の那須藩初代藩主)・A那須家歴代の合祀・
@那須資重(33歳で早世した資景の嫡子)。資重に家督を譲って父の資景が隠居した後に資重が子のないまま早世したため那須氏は
無嗣断絶になる筈だったが...幕府は与一以来の名家が廃絶するのを惜しみ特例として隠居した資重の復帰を許し、所領1万9千石の
一部5千石を継承させた。
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いずれにしても墓所の設置は江戸時代初頭であり、その後に死没した人物もここに葬られている事実を考えると素直に那須与一の墓所
とは考えにくい。二代与一と初代資隆の墓石も平安末期から鎌倉初期のスタイルではないように見える。

この頁は2022年 8月 8日に更新しました。