鎌倉駅を基点にすると鶴岡八幡宮のほぼ正反対の位置(
地図)にあるため、訪れる人は格段に少ない。
頼朝 が鎌倉に入った治承四年(1180)10月6日を更に117年も遡る康平六年(1063)に建立された鎌倉八幡神信仰の原点なのだが、覇権を目指した源氏の本拠地として鎌倉を考えた場合には位置が悪すぎる。
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頼朝は北に山を背負った小林郷(現在の鶴ヶ岡)に八幡宮を遷して氏神とし、その近くに政庁を置く計画を実行していく。翌年には政子の安産祈願を兼ねて由比ヶ浜から八幡宮社頭まで一段高い参道(段葛)を造り、東西の山裾に建つ御家人の住居からの排水などで悪化した環境の整備に着手した。
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ところで...頼朝の祖父の祖父
頼義は陸奥追討に従軍して功績を挙げた為通(村岡五郎(
平良文)の嫡男)に三浦郷を与え、彼が三浦氏の祖となった。また桓武平氏末裔の平景成と嫡子の景政は現在の藤沢市周辺を開発し伊勢神宮に寄進して大庭御厨を立荘、鎌倉氏を名乗っている。
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鎌倉権五郎景政 は後三年の戦役で功績を挙げ、鎌倉の北・大船または由比ヶ浜近くに居宅を構えたと伝わるが、当時の鎌倉を領有したのは誰なのかが良く判らない。鎌倉氏の系か、直方の娘婿になった頼義の所有権が河内源氏に継承されていたか、あるいは平家に臣従した
大庭景親の支配圏にあったのだろうか。