ただし、
畠山重忠 滅亡の項でも述べたように吾妻鏡は基本的に北條サイドで物事を評価し記述している。特に二代執権
義時・・五代執権
時頼・八代執権
時宗 に関しては知略と勇気
に富む人格者として描いており、相対的に北條氏のライバルに対しては評価基準が厳しくなっている。
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戦端を開いたのは(吾妻鏡が)穏健な立場と評した執権時頼ではなく、北條氏と二人三脚で幕府中枢を生き抜いた安達一族である。出家していた先代当主の
安達景盛 (覚地入道) は
高野山から鎌倉に駆け付け 嫡男
義景 らの優柔不断を叱咤して三浦邸を急襲させた。激しい抵抗はあったが封鎖された鎌倉で孤立無援の謀反人となった三浦一族に勝ち目はない。
泰村は 「北條の事は恨まない」 の言葉を残し、頼朝の廟である法華堂に籠って一族500余名と共に自決した。
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戦死者の屍は頼朝の墓の裏手、大蔵山中腹の「やぐら」に葬られたと伝わるが、すぐ前の平場には
北條時頼 の祖父で貞応三年(1224)に没した二代執権
義時 の
法華堂(別窓)
が建っていたし約150m西には頼朝の法華堂もある、近くの洞穴に多数の死骸を納めたとは考えにくい。実際には由比ヶ浜一帯に集団で埋葬したのだろう。
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建長二年(1250)12月29日の吾妻鏡に以下の記録がある。この頃の実朝と政子の墳墓堂は勝長寿院にあったが数度の火災を経て西暦1500年代に放棄され廃墟となった。
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北條九代記
※に拠れば、この法華堂は弘安三年(1280)に焼失した後に再建され、延慶三年(1310)11月6日の大火で再び焼失した後は再建の有無が記録から消えた。
やぐらの周辺には気のせいか、鎧と刃の擦れ合う音が聞こえてくるような、冷たい空気が漂っている。
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※北條九代記: 鎌倉幕府の末期前後に書かれた歴史書で成立は幕府が滅亡した元弘三年(1333)、著者は不明。