古都足利のシンボル、足利学校と鑁阿寺 

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現在の鑁阿寺(ばんなじ)は「大日さま」と呼ばれ親しまれている真言宗大日派の本山だが、本来は源姓足利氏の舘を兼ねた氏寺であり、源姓足利氏初代の 義兼が築いた屋敷を最初とする。宗派は真言宗大日派で正式名称は「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」。館の周囲には堀と土塁が回され、典型的な鎌倉期の姿を残す武士の館として国の史跡に指定されている。
  ※源姓足利氏 源義家 の三男で下野国南部に勢力を築いた 源義国 を祖としている。
 
平治の乱で源氏が衰退した後の10数年は源姓足利氏の支配を離れ、平重盛 に臣従した藤姓足利氏藤原秀郷 の後裔)の所領となったが、治承四年(1180)の頼朝挙兵に参加した後に義兼親子が旧領を回復し、建久七年(1196)には義兼が邸内に持仏堂などを建立した。
   ※藤姓足利氏 は佐野の唐沢山(別窓)に築城したと伝わる 藤原秀郷 を祖とする。源姓足利氏は足利南部を、藤姓足利氏は北・中部を勢力範囲とした。
 
文暦元年(1234)には嫡男の 義氏 が伽藍を整備して氏寺とした。藤姓足利氏当主の 俊綱忠綱 親子は頼朝指揮下に入った小山氏や源姓足利氏に対抗して平家側に属し、宇治川合戦では 三位頼政 と戦って功績を挙げたが、寿永二年(1183)2月の野木宮合戦(現在の下都賀郡野木町)で鎌倉連合軍に敗れて滅亡した。
 
義兼が持仏堂を建てた建久七年には義兼の正室 時子政子 の妹) が没しており、蛭子堂の由来や開かずの井戸の存在、そして時子の死因と法玄寺の縁起に纏わる奇妙な符合が実に面白い。詳細は法玄寺(別窓)を参照されたし。
 
隣接する足利学校の創設時期は明確にされておらず、@奈良時代に国府と併設されていたとする説、A平安時代初期に官人で学者の小野篁(たかむら・小野妹子の子孫)が開いたとする説、B鎌倉時代初期に足利義兼が鑁阿寺の原点である持仏堂と共に建てたとする説、C室町時代後期に足利の領主となった上杉憲実(金沢文庫を再興した人物)が開いたとする説などがあるが、いずれも決定的な資料や根拠に乏しい。現在ではAあるいはBの説が比較的有力視されている。
 
足利学校と鑁阿寺の見学にはすぐ近くの太平記館(観光協会を兼ねる)の無料駐車場地図を利用するのがベスト。観光シーズンの休日以外なら余裕で停められるし歩道橋を渡ればすぐ足利学校、鑁阿寺山門までは徒歩300m弱の至近距離だ。
 
足利学校の詳細については wiki を、観光を含めた案内は 公式サイト を参考に。足利学校の拝観料は400円、鑁阿寺境内の散策は無料(9〜16時)だが、本堂と経堂内部のみ一人400円(団体のみ)が必要。日祭日には経堂内部のみ個人でも拝観できる(400円)。


     

           左: 撮影の定番アングル・歩道橋から見渡す足利学校の敷地と建物群。ただし、ほとんどの施設は近年になって整備復元されたもの。
 
           中: 最初の入口は「入徳門」。創建は寛文八年(1668)だが火災などにより明治中期なって別の場所の通用門を移設している。
 
           右: 次の「学校門」から先は有料となる。この門は寛文八年の創建で、補修を重ねて現在に至っている。本日は時間外のため、ここまで。


     

           左: 画像は横長に調整してあるが実際は一辺約200mの正方形に近い。四方に門を構え敷地中央に大御堂(大日堂)を置く伽藍配置だ。
 
           中: 南側の参道から屋根付き太鼓橋へ。周辺は「太平記の里」として整備されている。正式名称は金剛山仁王院法華坊鑁阿寺、真言宗。
 
           右: 堀と山門と屋根付きの太鼓橋が入るアングルが鑁阿寺撮影の定番ポイント。足利家は 二つ引両紋(画像)なので横幕の五七桐は寺とは無関係。


     

           左: 水堀と土塁は足利氏初代義康の嫡子義兼が館を建てた頃からの姿だろう。以後は南北朝時代にも再三の修復整備を受けている。
 
           中: 山門の内側を撮影。土塁の高さは約2m、巾5mの堀と共に防御施設は良く整い、鎌倉期の豪壮な武家屋敷の面影が強く残っている。
 
           右: 境内から撮影した山門は建久七年(1196)に義兼が建て、永禄7年(1564)に足利義輝が再建した。太鼓橋は栃木県の重要文化財に指定
に指定され、山門の両側に鎌倉時代作(詳細は未確認)の巨大な金剛力士像を納めている。


     

           左: 山門を背に石畳を大御堂へ。鑁阿寺全体が国の史跡指定を受けており、本堂(通称を大御堂)は重要文化財を経て、平成25年には国宝の指定を受けた。
昭和八年に解体修理を行なった源氏相伝の大日如来像を本尊として祀る。
 
           中: 大御堂は建久七年(1196)に東大寺で出家して真言宗に帰依した義兼が邸内に持仏堂(堀内御堂と称す)を建てたのが創建の最初。一説には義兼の父
義康(足利氏の初代)が建てた持仏堂だったとも言われるが、出典も含めてこの真偽は判らない。
 
源平合戦当初から頼朝に従った義兼は正治元年(1199年3月8日・頼朝死没(1月13日)の直後)に没し、35年後の文暦元年(1234)に
嫡子義氏が義兼供養のため大御堂に改めた。建立の際は頼朝が父義朝を葬った勝長寿院(南御堂・1184年建立)を模した、と伝わる。
 
従って開基は義兼、寺名は義兼の法名である鑁阿(高野聖の名で梵語(サンスクリットのvana。鑁は金剛界大日如来、阿は胎蔵界大日如来の種子)を
当て嵌めたもの)とした。開山和尚は義兼の護持僧(祈祷僧)だった伊豆走湯権現の高僧・理真阿闍梨が勤めた。
 
更に義氏は義兼の遺志に従って仁治二年(1241)に「一山十二坊」を称する大伽藍に改めている。一山とは金剛山(鑁阿寺大御堂)を指す意味で、
十二坊(塔頭・寺院)とは東の東光院・普賢院・不動院・六字院、西の千手院(学頭・宗門の学問を統轄)・金剛乗院・龍福院・安養院、北の浄土院・
宝珠院・威徳院・延命院 を差す。六寺院に分かれて法会を開催したらしい。
 
           右: 本堂回廊から東門の方向を撮影。現在の大御堂は当時ではなく、約百年が過ぎた正安元年(1299)に建造されたもの。施主は初代義兼から六代目の
貞氏(高氏(後に尊氏と改名)の父)が務めている。1400年代初頭(室町初期・三代将軍義満〜四代義持の頃)には構造体の交換まで含む大規模な
改築工事を受けており、この時点で現在形に完成したと考えて良い。柱間は間口・奥行とも5スパン(柱6本)、屋根の広さは概寸で23m四方。


     

           左: 大御堂の回廊から山門の方向を撮影。周濠を含めた寺域の面積は12,300坪、最盛期の面積は周辺の僧坊を含めて2倍程度だったらしい。
 
           中&右: 鑁阿寺境内には二ヶ所の古井戸が残っており、これは水屋横のもの。詳細の記録はないが本堂と不動堂の間にある古井戸(右画像)と共に
800年前から使われた名残と伝わっている。ひょっとすると北條時子(義兼正室)の菩提寺・法玄寺の伝承にある「侍女が生きた蛭の
入ったまま時子に飲ませた野水」だったのかも知れないね(笑)。


     

           左: 建久七年(1196)義兼建立の鐘楼は国の重要文化財(昭和26年まで国宝だった)。現存する堂宇の中では最古と確認された建造物の一つ。
袴板を持つ独特の構造で、現在までに数回の解体修理を受けている。梵鐘は元禄時代に再鋳されたもの。
 
           中: 多宝塔は県指定の文化財。創建は開基の義兼、寛永六年(1629)に徳川家光寄進により再建。平成八年に解体修理された。
 
           右: 推定樹齢550年以上、高さ約32mの大銀杏。大御堂の前に聳えるため避雷針の役目を果たし、落雷による被害を防いだとされる。


     

           左: 中御堂(不動堂)は義兼の創建、修復(再建か)は文禄元年(1592)の古河公方足利国朝。本尊は成田山より勧請した不動明王。
右隣の本堂は明治四十一年(1908)に最初の国宝指定を受け(その後に解除)、それまでは不動堂と回廊で続く護摩法の道場だった。
 
           中: 国の重要文化財・経堂。義兼が妻(時子)の供養に建てた修行場が原型で、応永14年(1407)に関東管領足利満兼が再建した。
 
           右: 御霊屋(赤御堂)。源氏の祖と足利十五代の将軍像を祀る。建物は徳川十一代将軍家斉寄進で裏に足利の始祖義国の墓所が残る。
徳川氏は新田源氏の子孫を僭称している経緯から鑁阿寺を庇護したのだろう。


     

           上: 赤御堂裏の源義国(義家二男)墓所。台座を失った左端の巨大な笠が義国五輪塔だろうか。義国の墓は終焉の地・新田荘にもある。
鑁阿寺の正式名は金剛山仁王院法華坊、高野山真言宗で大日如来を本尊としている。
 
義兼は密教文字で「根源」を表す鑁と阿を法号(鑁阿房義称)とした事から通名が鑁阿寺となったらしい。高野山に倣って堂塔を丹朱に塗ったため
赤御堂とも呼ばれ、これは義兼の廟所である樺崎寺の通名にもなっている。


     

           左: 校倉は宝庫・大黒堂とも呼ぶ。永享四年(1432)再建と言われるが実際は宝暦二年(1752)再修か。当初は宝物殿に利用していた。
近世になって宝物を他に移し足利家伝来の大黒天を祀ったという。昭和55年に半解体修理し市の重要文化財に指定されている。
 
           中: 甲冑姿の尊氏が祀られていた大酉堂。皇国史観で逆賊となった尊氏像を本坊に移し武家の信仰を受けた大酉大権現を本尊とした。
 
           右: 蛭子堂(ひるこ)、時姫堂とも呼ぶ。建築年代は不詳だが義兼の妻で政子の妹時子を祀っている。安産の霊験あらたか、らしい。


     

           左: 西門は切り妻の四脚門で県指定の文化財。伝義兼創建、永享四年(1432)公文所奉行による再修、昭和32年に解体修理された。
 
           中: 東門は西門と対をなしており、その構造や創建・修理も同様。正和年間(1310年代)の伽藍配置図にも東西の両門が描かれている。
 
           右: 北門(薬医門)。堀の外、現在の足利幼稚園の地にあった十二支院筆頭千手院の門で、弘化二年(1845)にここへ移設再建された。


     

左= 南東の角から西を撮影         中央= 北東の角から西を撮影         右= 北東の角から南を撮影
外周に巡らされた堀は南側がやや広く、東西と北はほぼ同じ巾。四方の門以外に出入り口は設けられていない。


     

カルガモの親子が大きな鯉と同居している。周辺にはカラスや野良猫も多く、無事に育つのを祈るのみ。



伝・平重盛の供養塔が残る 善徳寺

観光施設「太平記館」駐車場の隣地にある東光山善徳寺(臨済宗)は室町幕府初代将軍の 足利尊氏が一門の仏満禅師に命じて開いた寺院が母体と伝わっている。
尊氏10回忌の応安元年(1368)に孫の義光が善徳寺に改め堂宇を整備した。建武元年(1334)の室町幕府樹立後は尊氏も義満も京都に本拠を置いているから、累代の地・足利の中心部で始祖義兼の館跡近くに寺を建てて先祖を弔った、というのが経緯だろう。
 
善徳寺には足利尊氏の位牌と衣冠束帯姿の木製坐像が収蔵されており、手入れの行き届いた庭の奥には平重盛の供養墓も遺されている。治承三年(1179)に重盛を葬った場所は不明だが、平家一門は寿永二年(1184)6月に都を放棄した。その直後に鎮西から京に戻った譜代の郎党平貞能が「主君の墓が源氏の馬蹄に掛かるのを防ぐため墓の遺骨を掘り起こし周辺の土を鴨川に流して」京を脱出しているから、六波羅小松第から鴨川の周辺なのは間違いない。貞能と重盛の詳細については平貞能隠棲の地 安善寺(別窓)の項を参照されたし。
 
貞能は後に茨城の白雲山小松寺(別窓)に重盛の遺骨を葬っているから(他にも数ヶ所の伝・重盛の墓はあるが)小松寺が最も信憑性が高い。善徳寺の伝・重盛の墓は当初からあったものではなく、明治初年の神仏分離令の際に廃寺となった万徳寺(旧地は不明)から移されたものらしい。貞能と同様に平家に仕え重盛とも強い接点を持っていた籘姓足利氏の棟梁俊綱が建てた供養墓と考えるのが(物証はないが)最も自然である。
 
元々の善徳寺は2kmほど南の渡良瀬川北岸の岩井町にあり、慶長年間(1596〜1615年)に現在地に移転。天保二年(1831)には鑁阿寺別院・安養院の火災で足利学校の一部と共に本堂を焼失し、元冶元年(1864)に再建している。2014年11月に両崖山に登った下山の際に道を間違えて東側の本城一丁目に下ったら同じ名前の善徳寺( 地図)があった。足利市内に善徳寺が二つとは...と考えて調べてみたら本城一丁目の方は墓苑で、昭和20年の道路拡張のため(墓苑のみ)移転したらしい。つまり、善徳寺境内と足利学校の敷地の間にあった墓苑が現在は道路になっているんだね。
 
2002年〜2003年には大規模な本堂解体修理が実施され、同時に本尊の薬師如来像・脇侍の日光&月光菩薩像の修理や山門の新設も行われた。以前は味のある築地塀だったが現在は改築されて歳月を経た重さを失ってしまったのが少し残念。ともあれ、駐車場の目の前なので素通りせずに参拝を済ませた。案内や解説の類は全く設けられていないので、とりあえず右側の通用門から入らせて頂く。


     

              左: 太平記館の前から善徳寺を撮影。以前は瓦を練りこんだ風情のある土塀が特徴だったが改修されて煌びやかになってしまった。
 
              中: 本堂の木造部分は以前のままで残されている。屋根瓦と金色の飾り金具がややバランスを欠くが、創建当時の姿なのかも知れない。
 
              右: 伝・重盛の墓。庭に置かれた自然石に囲まれ、墓というよりも一種のオブジェかモニュメントに化している。もちろん、案内表示なし。



源姓足利氏 発祥の地を称する 下野国一社八幡宮

社伝に拠れば、納税を怠り朝廷に叛旗を翻した安倍頼時・貞任親子を討つため天喜四年(1056)に陸奥国に向った八幡太郎義家がこの地に宿営し、戦勝を祈って石清水(男山)八幡宮を勧請したのが最初とされる。厳密に考えると源頼義(義家の父)が陸奥守として多賀城に赴任したのは永承六年(1051)で、本格的な前九年の役が始まったのは天喜四年(1056)。同年11月には頼義・義家が率いる官軍は黄海(きのみ)の合戦で惨敗しているから、足利に宿営できる筈はない。年代は別にして、前九年(1051〜1062)と後三年(1083〜1084)の二つの戦役で京と陸奥を往復した義家が足利に立ち寄ったのは事実と考えて良い。
 
藤原秀郷流の系図は 秀郷─千常─文脩─兼光─頼行─兼行─成行と続く。上野国淵名(伊勢崎)を本拠にしていた成行が天喜二年(1054)に両崖山城を築き周辺を開墾して足利を名乗った(籘姓足利氏)。義家が足利に立ち寄り、足利成行との間にも何らかの関係が生まれたのもこの頃だろう。
 
家綱の代になって安楽寿院(鳥羽上皇系の寺院)領足利荘が立券され家綱が管理を担当する下司職、源義国(義家の二男)が下司職の上位に相当する預所に任じて利益を分配しているが徐々に源氏の圧力が強まる。籘姓足利氏は平家に接近してとりあえずの勢力を保ち、最終的には 頼朝・源姓足利氏( 源義国の子孫)・新田氏連合に駆逐される。家綱が伊勢神宮内宮領として成立させた足利南部の簗田御厨も義国に奪われ、開発に協力していた新田荘の権益も失う結果となった。

 
       

           左: 古くは足利荘八幡宮、下野国一社八幡宮(下野国第一の八幡宮の意味)を称する。北側の八幡山は円墳が点在するハイキングコースに
なっている。西側の東武線山辺駅寄り徒歩5分にショッピングタウンがあり、車の場合はここに駐車すると良い(地図)。
 
           中&右: 大通りに面した鳥居を潜るとすぐに「源姓足利氏発祥の地」の石碑がある。本当は籘姓足利氏の方が古いし所有権も正当なのに...
なんて愚痴を言う筋合いでもないし無意味でもあるが、呆気なく滅亡した足利俊綱や忠綱の方が個人的には好きなのだ。足利尊氏が樹立した
室町幕府は十五代将軍義昭で崩壊し、その血筋もほぼ絶えてしまう(喜連川龍光寺 の項を参照)。
 
その一方で籘姓足利氏の子孫は桐生氏・大胡氏・佐野氏などが受け継ぎ、長く血脈を保っている。平家を滅ぼした源氏は滅び、源氏の血筋を
断絶させた北條氏が滅び、その後は坂東平氏の子孫が長く繁栄した。栄枯盛衰は何度も何度も繰り返される。


     

           上: 拝殿と本殿の画像。八幡宮は源姓足利氏→長尾氏→徳川氏の保護を受け、江戸時代には御朱印20石の神領を給されている。
本殿は文化十一年(1814)の再建で妻と扉部分には見事な彫刻が施されているが覆屋がないためやや劣化が見られる惜しい。
 
ちなみに長尾氏は坂東八平氏の一つ・鎌倉氏( 権五郎景政梶原景時 などがいる)の子孫で鎌倉郡長尾庄が出自の地。建保七年(1219)1月に
八幡宮で三代将軍実朝を殺した公暁を討ち取った新六定景もその一族だが宝治合戦(1247)で三浦氏に味方してほぼ族滅、僅かな生き残りが
上杉氏に仕えて筆頭家臣となり長尾景虎(上杉謙信)から要衝の館林を与えられた。足利八幡宮を庇護したのはこの頃か。
 
徳川氏による保護は家康が新田源氏の子孫を詐称した関係から。足利と新田の各所には多くの寄進を行っている。鑁阿寺境内にある「赤御堂」や
新田荘にある 長楽寺と東照宮(別窓)などが顕著な例となる。金と権力を握ると名誉が欲しくなる、それが世の常らしい。